継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
(975?-1031)
生没年 | 天延3(975)年9月13日?~長元4(1031)年6月6日 |
別名 | 忠経(『正六位上平朝臣常胤寄進状』) |
父 | 平経明(陸奥介平忠頼?) |
母 | 左京大夫藤原教宗娘(伝) 平将門娘(伝) |
官位 | 不明 |
官職 | 上総介(『百練抄』『日本紀略』) 下総権介(『応徳元年皇代記』) 武蔵押領使 |
所在地 | 下総国(『日本紀略』『左経記』) |
法号 | 常安 |
良文流平氏四代当主。平経明の子(系譜では陸奥介平忠頼の子)。母は左京大夫藤原教宗娘とも平将門娘とも。官途は上総介、武蔵押領使。天延3(975)年9月13日に生まれたと伝わる。
父は一般には「平忠頼」とされるが、平安時代後期に子孫の千葉介常胤が相馬郡を伊勢内外二宮に寄進した久安2(1146)年の寄進状である久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状』と、相馬郡をめぐる左兵衛少尉源義宗との争いの中で、自家が相馬郡を正当に継承してきたことを伊勢神宮に訴えた永暦2(1161)年の永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解案』には、
「是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而自経兼五郎弟常晴相承之当初、為国役不輸之地…」
とあり、平安時代後期には、千葉氏の祖は「忠頼」ではなく「経明」と認識されていたことになる。 これを系譜に直すと、以下のようになる。
平良文―経明―忠経―経政―経長―+―経兼―常重
|
+―常晴
「平忠頼」は寛和2(986)年ごろ、「忠光」とともに、平繁盛(平国香の子で陸奥守貞盛の弟)の使者を武蔵国で追い払っている。寛和3(987)年正月24日の太政官符によれば、繁盛は忠頼・忠光を「旧敵」と呼んでおり、両者の間には何らかの確執があったことがわかる。忠頼と忠光の関係は『続左丞抄』に記載はないが、平安時代末期成立の『掌中歴』『懐中歴』をベースとする『二中歴』によれば「陸奥介忠依、駿河介忠光忠依弟」とあり、兄弟であることがわかる。
「陸奥介平忠頼、忠光等、移住武蔵国、引率伴類、運上際可致事煩之由、普告隣国連日不絶」(寛和三年正月廿四日『続左丞抄』:『国史大系』)
一方、「忠経(平忠常)」は、凡そ長保2(1000)年頃にはすでに両総に勢力を広げており、常陸介源頼信と合戦して家人となっていることから、寛和3(987)年に活躍していた忠頼・忠光との活動時期はほぼ同一とみてよいだろう。世代的なことや「忠頼」「忠光」「忠常」の通字(当時の通字は兄弟で共通を用いる傾向にあった)を考えると、忠頼・忠光・忠常は兄弟であり、忠頼は陸奥国、忠光は駿河国から武蔵国へ移り、忠常は父祖の下総国に残っていたと考えることもできよう。
また、忠常の父は平良兼流「平致経」とされるものも存在し、奥州千葉氏や新渡戸氏、郡上東氏の一部の系譜に認められる。ただし、「平致経」は伊勢の住人で忠常と同時期に伊勢で同族の平正輔と闘争して朝廷からの譴責を受けていることから、史実ではないだろう。
平高望―+―平良兼―+―平公雅―――+―平致利 +―平致経――?―平忠常
(上総介)|(下総介)|(上総掾) |(出羽守) |(左衛門大尉)(上総介)
| | | |
| | +―平致成 +―平公親――――平公経
| | |(出羽守) |(内匠允)
| | | |
| | +―平致頼―――+―平公致
| | |(備中守)
| | |
| | +―平致光
| | |(大宰大監)
| | |
| +―平公連 +―平致遠
| (下総権少掾)
|
+―平良文―――平経明―――+―平忠頼===?=平忠経
(五郎) |(陸奥介) (上総介)
|
+―平忠光
|(駿河介)
|
+―平忠経―――――平経政――――平経長
(上総介)
●桓武平氏の活躍時期と世代(野口実氏『中世東国武士団の研究』を参考に作成)
初代 | ニ代 | 三代 | 四代 | 五代 |
国香 ・935没 |
貞盛 ・940頃活躍 ・947鎮守将軍 ・972丹波守叙任 ・974陸奥守 ・976馬を貢進 |
維敏 ・982検非違使尉に推薦 ・990頃、肥前守 ・994没 |
||
維将 ・973左衛門尉 ・994肥前守 |
維時 ・988右兵衛尉在任 ・1016常陸介在任 ・1029上総介叙任 ・1028上総介辞任 |
直方 ・1028忠常追討使 ・1028追討使更迭 |
||
維叙 ・973右衛門少尉在任 ・996前陸奥守 ・999常陸介在任 ・1012上野介在任 ・1015上野介辞任 |
維輔 ・1005検非違使任 |
|||
維衡 ・974左衛門尉在任 ・998伊勢で致頼と合戦 ・1006伊勢守→上野介 ・1020常陸介 ・1028郎従が伊勢で濫妨 |
正輔 ・1019伊勢で致経と合戦 ・1030安房守 |
|||
繁盛 ・940頃活躍 ・986忠頼らと紛争 |
維幹 ・1016左衛門尉在任 |
為幹 ・1020常陸で濫妨 |
||
兼忠 ・980出羽介→秋田城介 ・1012以前没 |
維茂 ・1012鎮守将軍 ・1017以前没 |
|||
維良 ・1003下総国衙焼討 ・1012頃鎮守将軍 ・1018陸奥国司と乱闘 ・1022没 |
||||
良兼 ・931将門と紛争 ・939没 |
公雅 ・940上総掾 ・942武蔵守 |
致頼 ・998伊勢で維衡と合戦 ・1011没 |
致経 ・1019伊勢で正輔と合戦 |
|
公連 ・940押領使 ・940下総権少掾 |
||||
良持 ・? |
将門 ・935国香討つ ・939没 |
|||
良文 ・? |
忠頼 ・986陸奥介在任 【活動時期が一世代後】 |
忠常 ・1000~1012源頼信家人 ・1027安房国司を焼殺 ・1028以前上総介辞 ・1031没 【活動時期が一世代後】 |
常昌 ・1031降伏 【活動時期が一世代後】 |
|
常近 ・1031降伏 【活動時期が一世代後】 |
||||
忠光 ・986駿河介? |
忠常の前半生はまったく知られていないが、先述のように陸奥介平忠頼の弟の可能性もあろう。
十一世紀初頭に、河内源氏の源頼信が「常陸介」のときに戦い、降伏した話が伝わっている(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)。
「下総国に平忠恒ト云フ兵有ケリ、私ノ勢力極テ大キニシテ、上総下総ヲ皆我マゝニ進退シテ、公事ヲモ事ニモ不為リケリ」と、
このころ忠常はすでに下総国を本拠にして、両総に大きな影響力を持っていた様子がうかがえる。また、忠常は常陸国の「左衛門大夫平惟基」と兼ねてから敵対関係にあったようで、忠常は「惟基ハ先祖ノ敵」としている。どのような対立関係が続いていたのかは不明であるが、おそらく私領をめぐっての諍いであろう。平忠常の父・平経明は下総国相馬郡を私領とし、香取郡立花庄にも私領があったと思われることから、内海(のちの香取海)を経ての対立があったとも考えられよう。
源頼信が「常陸介」だった期間は記録が残されていないが、長保元(999)年9月2日に「上野介」として藤原道長に馬を献じており、それ以降、長和元(1012)年閏10月23日に「前常陸介」とある(『御堂関白記』)までの間が「常陸介」だったのだろう。
10世紀末、忠常がどこにいたのかは不明だが、忠常は「下総国住人」として下総国を本拠に勢力を伸ばし、長和元(1012)年以前に上総国まで勢力を広げた。また、忠常は公家の日記や『日本紀略』等の朝廷の記録に「前上総介」とあることや、同族の平維時(上総介)が上総へ下向したり、平正輔(平貞盛の孫)が長元3(1030)年3月29日に「安房守」の除目を受けている(『日本紀略』)ことなどから、忠常も除目による「上総介」補任であろうことは間違いないだろう。ただし、その時期は不明。11世紀初頭、平兼忠が上総介であったことから、忠常はそのあとに「上総介」に補されて受領となり、任期満了後も本拠である下総国から上総国にかけて影響力を持ち続けたのだろう。
■桓武平氏略系図(太字は貞盛の子、および養子になったと思われる人物)
平高望―+―国香―――+―貞盛――――+―維敏
|(常陸大掾)|(鎮守府将軍)|(肥前守)
| | |
| | +―維将――――維時―――直方
| | |(肥前守) (上総介)(右衛門少尉)
| | |
| | +―維叙――――維輔
| | |(常陸介) (左衛門尉)
| | |
| | +―維衡―――………―清盛
| | (伊勢守)
| |
| +―繁盛――――+―維幹―――………―常陸大掾家
| (武蔵権守) |(常陸大掾)
| |
| +―維忠
| |(出羽守)
| |
| +―兼忠――+―維茂
| (上総介)|(鎮守府将軍)
| |
| +―維良
| (鎮守府将軍)
|
+―良持―――――将門――――――娘
|(鎮守府将軍)(小次郎) (忠頼妻?)
|
+―良文―――――経明――――――忠常
(陸奥守) (上総介)
忠常と頼信・惟基(平維幹)の争いの原因は、忠常が常陸・下総国境を越えて常陸国へ侵入していたことによるものであった。越境について頼信は忠常に苦情を伝えたが、忠常は「常陸守ノ仰スル事ヲモ、事ニ触レテ忽諸ニシケリ」と、頼信を無視していたようだ。このため頼信は、
「下総ニ超テ忠恒ヲ責メム」
と逸ったが、これを聞いた「左衛門大夫平惟基」は、
「彼ノ忠恒ハ勢有ル者也、亦其ノ栖、輙ク人ノ可寄キ所ニ非ズ、然レバ少々ニテハ世ニ被責不侍ラ、軍ヲ多ク儲テコソ超サセ給ハメ」
と大軍を以って攻めることが肝要と説いた。こうして「惟基」は三千騎の軍勢を整えて鹿島宮の社前に集結。また頼信も「舘ノ者共国ノ兵共」二千人ばかりを集めて「鹿島ノ郡ノ西ノ浜辺」に集まった。
忠常の当時の本拠は、「…衣河ノ尻ヤガテ海ノ如シ、鹿島梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ顔不見エ程也、而ニ彼ノ忠恒ガ栖ハ、内海ニ遥ニ入リタル向ヒニ有ル也、然レバ責寄ニ、此入海ヲ廻テ寄ナラバ七日許可廻シ、直グニ海ヲ渡ラバ、今日ノ内ニ被責ヌベケレバ…」(『今昔物語集』)という位置にあった。
「衣河(キヌガワ)」とは現在の小貝川(こかいがわ)のことで、この「衣河ノ尻」つまり小貝川から香取海(内海)にそそぐ河口部分は、現在の龍ヶ崎市から利根町のあたりにあり、幾重にも分かれた小川が蛇のように複雑に流れる(蛟蛧)湿地帯であった。忠常の所在地はこの「内海」の「遥」か内陸に入った「向ヒ」にあったとされている。「良文朝臣」以来忠常も私有し、のちに千葉常重・常胤や源義宗が伊勢神宮に寄進した相馬御厨の東限は「須渡河江口(龍ヶ崎市須藤堀町周辺)」で、まさに「内海ニ遥ニ入リタル向ヒ」に相当する。このことから、忠常の居住地は、香取郡大友よりも相馬郡のほうが妥当であろう。そもそも香取郡内であれば、「海ヲ廻テナラバ七日許可廻シ」もかからない。そのほか、
(1)相馬郡は大友に比べて下総国府(市川市)・上総国府(市原市)ともに近い。
(2)相馬郡の内海沿いには陸の官道や駅、郡衙が存在し、東西の水運・軍事・流通の要であった。
(3)両総平氏は相馬郡を「平良文朝臣」以来の私領として大変に尊重している。
といった理由が上げられ、この点においても香取郡大友とは地理的な重要性にかなりの差が見られる。
●房総平氏と相馬氏●
⇒平常長―――+―千葉介常兼―千葉介常重――――千葉介常胤―+―千葉介胤正
(上総権介) |(下総権介)(下総権介) (下総権介) |(千葉介)
| ↑ ↑ ↑ |
| | | | +―相馬師常
| 相馬郡譲渡 対 立 (次郎)
| ↑ |
| | ↓
相馬郡継承⇒+―相馬常晴―――平常澄―――+―平広常
(上総権介) (上総権介) |(上総権介)
|
+―相馬常清
(九郎)
さて、鹿島宮の西の浜辺に滞陣した頼信・惟基の軍勢だが、すでに忠常によって舟が隠されており、内海を渡る術がなかった。このことから、忠常は内海の権益にまで影響力を及ぼしていた様子がうかがえる。このため、頼信は常陸国衙在庁と思われる「大中臣成平」を召し、彼を使者として忠常のもとに派遣し、
「不戦ト思ハバ速ニ参来、其レヲ尚不用バ否返リ不敢、只船ヲ下様ニ趣ケヨ、其ヲ見テ渡ラム」
と最後通牒を送り、不戦で降伏させようと試みた。その後、忠常のもとから戻った成平は、
「守殿止事無ク御座ス君也、須ク可参シト云トモ、惟基ハ先祖ノ敵也、其カ候ハム前ニ下リ跪キテナム否不候マジ」
と、頼信を尊重しているが、その麾下にいる先祖の敵・惟基の前に跪くことはできないと、降伏を断った。そこで頼信は内海の縁を廻って攻めるべきだとする軍兵の反対を押し切り、忠常の裏をかいて、今日中に海を渡って進発することを命じた。舟の無い中で海を押し渡ることについて頼信は、
「此海ニハ浅キ道堤ノ如クニテ、広サ一丈許ニテ直ク渡リケリ、深サ馬ノ太腹ニナム立ツルナル、其ノ道ハ定メテ此程ニコソ渡ラメ、此軍ノ中ニ論無ク其ノ道知タル者有ラム、然ラハ前ニ打テ渡レ、頼信其ニ付テ渡ラム」
と、浅瀬を渡って対岸へ向かうことを提案。ここに「真髪ノ高文」という人物が名乗りをあげ、浅瀬を案内した。二度ばかり泳ぐ箇所があったものの、頼信は軍勢のうち五、六百人あまりとともに下総国へ上陸した。このとき忠常は、頼信らには舟がないため、陸路を廻ってくるものとして策を立てていたが、郎従らがあわてて忠常のもとへ飛び込み、
「常陸殿ハ此海ノ中ニ浅キ道ノ有ケルヨリ、若干ノ軍ヲ引具シテ既ニ渡リ御スルハ、何カセサセ給ハム」
と狼狽して言うと、忠常も計画が水泡に帰したことを悟り、
「今ハ術無術無進テム」
と降伏を決意。「名符」と「怠状」を具し、郎従に持たせて小舟で頼信の陣所へ遣わした。頼信も「不戦ト思ハバ速ニ参来」という考えであり、降伏したのちは「強チニ責メ可罰キニ非ズ、速ニ此ヲ取テ可返キ也」と言って、軍勢を常陸へ返したという(『今昔物語集』)。「名符=名簿」を差し出すことは臣従の意味合いがあり、忠常はこののち頼信の家人となった。そしてその後、摂関家の藤原教通の家人となったようで、教通の家人になったのち、忠常は一時期在京したとみられ、長元2(1029)年6月13日「遣検非違使、捜求平忠常郎等住宅」(『日本紀略』)とあることから、忠常が上総国へ戻ったのちも忠常の郎等の中には留京または上洛し住宅を持っていた人物がいたようである。また、子息の一人が出家して上京しているが、これは頼信の家人になった際に随身したものであろう。
万寿4(1027)年12月、朝廷の実力者であった藤原道長が死去したこととほぼ時を同じくして、「下総権介忠常」は「安房守惟忠」を焼殺したという(『応徳元年皇代記』)。この年から始まる反乱を「長元の乱」という。忠常の次男・平常近は「安房押領使」ともされ(『松羅館本千葉系図』)、もしも彼の「安房押領使」が事実で忠常叛乱以前に就任していたとすれば、常近と安房国府焼打には何らかの関係性があるのかもしれない。
京都に忠常の安房国府襲撃の報が伝わると、朝廷は忠常追討の詮議を行い、万寿5(1028)年2月21日、検非違使・平直方(右衛門少尉)を「前上総介忠常」の追討使に任じた(『百練抄』)。
高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――――直方――――+―維方―――――盛方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介) (左衛門少尉)|(蔵人雑色) (左衛門尉)
| | |
| +=維時 +―女子
| (常陸介) ∥――――――源義家
| ∥ (陸奥守)
| 源頼義
| (伊予守)
|
+―良文――――経明――――忠常――――常将―――――常長
(陸奥守) (上総介) (武蔵押領使)(武蔵押領使)
しかし2月に決定された追討は6月まで実行されず、6月5日になって初めて「平忠常并男常昌」追討の審議が行われた(『小記目録』)。そして6月21日、ようやく右大臣藤原実資、内大臣藤原教通ほか武官公卿ら十一名が内裏近衛府陣座に列し、「下総国住人前上総介平忠常」について二度目の詮議が行われ、正式に検非違使の右衛門少尉平直方、左衛門少志中原成道を追討使に決定。東海道・東山道諸国に忠常追討に関する太政官符を発給することとなった(『日本紀略』『左経記』)。
●万寿5(1028)年6月21日仗座公卿●
名前 | 官位 | 官途 | 年齢 | 人物 |
藤原実資 | 正二位 | 右大臣 | 72 | 右近衛大将。藤原斉敏(従三位・右衛門督)の子。『小右記』作者。 |
藤原教通 | 正二位 | 内大臣 | 33 | 左近衛大将。藤原道長の子。 |
藤原斉信 | 正二位 | 中宮大夫 | 62 | 大納言・民部卿。藤原為光の子。 |
藤原能信 | 正二位 | 権大納言 | 34 | 中宮権大夫。藤原道長の次男で頼通・教通とは異母兄弟。 |
藤原兼隆 | 正二位 | 左衛門督 | 44 | 左衛門督。二条関白道兼の嫡男で、祖父・兼家の養子。 |
源道方 | 従二位 | 権中納言 | 61 | 宮内卿。道長正室・源倫子の従弟(源重信五男)。 |
源師房 | 従三位 | 春宮権大夫 | 19 | 権中納言。村上天皇皇子・具平親王の子。村上源氏の祖。 |
藤原経通 | 正三位 | 左兵衛督 | 46 | 参議・治部卿。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子。 |
源朝任 | 正四位下 | 右兵衛督 | 40 | 参議。従二位・権大納言・源時中(道長正室・源倫子兄)の子。 |
藤原資平 | 正三位 | 左近衛中将 | 43 | 参議。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子で、叔父・実資の養嗣子。 |
藤原公成 | 正四位下 | 権大納言 | 30 | 参議・近江権守。権中納言・藤原実成の子。 |
しかし、朝廷が2月の追討決定から6月までの四か月もの間、軍事行動を起こさなかったことや、犯人追捕を主目的とする検非違使を「追討使」としていることから、百年前の承平天慶の乱と比べて(参議藤原忠文が征東大将軍として将門追討に派遣されている)朝廷の危機感が薄かったことがうかがえる。また、中原成道は本来の明法家としての職分から得ることができる伝聞から、叛乱の規模を知っていたと思われ、九箇条の申文を提出した上で関白頼通の下向をも訴えたが、右大臣藤原実資は、
「於関白下向有何事乎、若有可申請事等、於途中若事発所国言上事由、更何事之有也」
としており、関白下向などは必要はなく、もし戦陣で何事かあるようならばその国から事柄を言上すればよいだけのことである、それほどの事があるとも思えない、と却下している(『小右記』)。さらに朝廷では忌日や日の良し悪し、そのほか手続きで追討使の派遣を延期しつづけており、この事からも朝廷の危機意識がいかほど欠如していたかがわかる。
7月13日、忠常に追放された上総介縣犬養為政から、馬二疋と手作布四百反が藤原実資のもとへ届けられ、15日には上総国衙の厩舎人伴友成が実資に為政の妻子が近日中に上洛することを報告する一方、国人らは国司に従わず、すべての権力を忠常が握って、生死も彼の心のままになっていること、さらに忠常の郎等が国司館(市原市惣社か)に乱入して国司の郎党に乱暴をはたらいた報告がなされた(『小右記』)。
一方、中原成道は、先日提出した九箇条の申文のうち、わずか三箇条のみしか取り上げられなかったことに不満を持ったようで、7月25日、「小瘡」として出仕せず、検非違使別当・藤原経通(左兵衛督)から「令見気色似遁追討使節」と譴責された。成道は東国下向に否定的になっていたことがうかがえる。
8月1日、「忠経従者」(『左経記』)が京都に侵入したという内大臣教通からの情報に基づいて、検非違使別当藤原経通は別当宣を以って検非違使を発遣し、その男を捕縛した。実資が手にした「別当報書」によれば、その男に「忠常有様」を尋問するが、彼は実は「忠常従者」ではなく「忠常郎等之従者」であって「不知子細」であった(『左経記』『小右記』)。また、「忠常郎等之従者(脚力の一人)」から聞き出した情報によれば、「実忠常脚力二人也」と、忠常から派遣された「脚力(使者)」はもう一人いることがわかった。忠常脚力はそれぞれ「運勢法師」「明通朝臣」のもとに滞在していたことも判明する(『小右記』)。続けて「運勢廻謀略令捕也」とあることから、最初に捕らえられた脚力は「明通朝臣」のもとにいた人物であろう。「明通朝臣」については、検非違使を務めた左衛門少尉藤原明通と思われるが、彼は従姉妹に教通の実姉・上東門院(藤原彰子)に仕えた女房(紫式部)がおり、自身も教通の実妹・藤原威子(後一条天皇中宮)の中宮少進を務めていたとみられることから、教通にかなり近い家人だったと思われる。
この事件について、右府実資は「件事従内府被申者、頗傾思侍、乍置実忠常脚力、郎等之従者在所を被尋申、頗孫本文也物」と、教通は忠常郎等従者(脚力)二人の所在地をすでに把握しているのに、わざわざ別当宣まで出させて「郎等之従者在所」を捜索させたのかと訝しむ表記をしている(『小右記』)。忠常が教通の家人であることを実資が把握していたことがうかがえる。また、「運勢法師」「明通朝臣」のもとに滞在していることを事前に教通が把握していたことを前提として日記を認めていることから、「運勢法師」も「明通朝臣」も教通の家人であったと思われる。
●藤原明通周辺系図
藤原長良――+―藤原国経――藤原忠幹――――藤原文信―――藤原惟風―――藤原惟経
(権中納言) |(大納言) (勘解由長官) (鎮守府将軍)(中宮亮) (太皇太后宮大進)
| ∥
+―藤原基経 ∥――――――藤原棟綱
|(太政大臣:叔父良房養嗣子) ∥ (相模守)
| 平直方――+―女
| (上野介) |
| |
| +―女
| | ∥
| | ∥―――――――――――藤原朝憲
| | ∥ (陸奥守)
| | 藤原憲輔 ∥
| |(宮内卿) ∥――――藤原説定
| | ∥ (駿河守)
| | +―源頼清――源兼宗――女
| | |(陸奥守)(上野介)
| | |
| | +―源頼義
| | (陸奥守)
| | ∥
| | ∥――――源義家
| | ∥ (陸奥守)
| +―――女
|
+―藤原遠経―+―藤原良範―――藤原純友 藤原為時
|(右大弁) |(太宰大弐) (伊予掾) (越後守)
| | ∥――――――上東門院女房
| +―藤原尚範 +―娘 (紫式部)
| (上野介) |
| |
+―藤原清経―――藤原元名―――藤原文範―――藤原為信―+―藤原理明―――藤原明通
(右衛門督) (宮内大輔) (権中納言) (右近衛少将)(筑後守) (中宮少進)
∥
∥――――――藤原元範
∥ (式部少輔)
源致明――+―娘 ∥
(和泉守) | ∥
| ∥
+―娘 ∥――――藤原国綱
∥ ∥ (刑部大輔)
∥ ∥
藤原伊周 ∥
(内大臣) ∥
∥
藤原為時―+―藤原惟通―――娘
(越後守) |(常陸介)
|
+―上東門院女房
(紫式部)
8月4日、「運勢」が「廻謀略令捕」たもう一人の郎等従者(脚力)は、検非違使の粟田豊道、生江定澄に引き渡され、「将参関白第」た。そして、関白頼通は運勢法師のもとで捕らえられた脚力が持っていた書状を右兵衛督源頼任に読ませた。そこには忠常の「聞可被追討之由可申所々事等云々」とあり、追討が不当なものであることが理由も添えて記されていたと思われる。書状は他に「奉内府」「上書新中納言殿」「無上書」の三通があり、これらは披かれることなく検非違使へ返された(『小右記』)。忠常がなぜ「新中納言殿(権中納言師房)」へ「上書」したのかは不明。師房が私君教通の実妹聟であったことが理由か。
■夷隅郡(内の・が国府台) |
忠常がなぜ内府らへ書状を託そうとしたのか、右府藤原実資は興味があったらしく、取調べを総括している甥の検非違使別当藤原経通に子細を尋ねている(『小右記』)。経通によれば、かの郎党は忠常が派遣した「使者」で、書状(解文)は見ていないが、聞いたところによれば、もし内府から返答の使者を送るようであれば、「伊志み」の山辺まで来るべし、との内容であったという(『小右記』)。忠常はこの書状で内大臣・新中納言へ意見(追討の不当性を訴えたと思われる)を出していたとみられる(『小右記』)。
「伊志み」は忠常が「随人二三十騎」で籠っていたと報告された場所であるが、のちに追討使ほか周辺国が忠常の在所を探し当てることができなかったことや、のちに忠常が「欲行向上総」とあることから(『左経記』)、「伊志み」は彼の勢力下ではあったが、本拠地は「住下野(下総)」(『左経記』)であったのだろう。また、わずか「随人二三十騎」のみでこの地に来るとあることから、私君である内府教通の使いであれば降伏するという意思表示であった可能性が高い。ちなみに「伊志み」とは、『和名抄』に見える「伊志美」であると考えられ、上総国夷隅郡(いすみ市)にあたる。いすみ市には「国府台」と呼ばれる渓谷を眼前に控えた要害地(地図)がある。
しかし、忠常の望みも空しく、8月5日午の刻、追討使の検非違使平直方・中原成道は二百余人という寡兵で出京して東へ向かった。ところが追討使は遅々として進まず、数日経ってもまだ美濃国におり、成道はここで「八十歳になる母親が病を患っている」と京都に使者を出したため、軍勢は美濃国で滞陣することとなる。成道の使者は8月16日に京都に到着。報告を聞いた検非違使別当・藤原経通は「成道は以前から直方と不和であり、これが故障の原因ではないか」と疑っている。経通は翌17日、成道の母は小康状態になったことを美濃の成道のもとへ伝えた。成道は仮病や故障を訴えるなど追討に否定的な人物であったことがわかる。
その後、忠常追討使に関する資料はしばらくなくなるため、追討使が関東に到着した日時は不明。そして、長元2(1029)年2月1日、右大臣藤原実資は東海道・東山道・北陸道諸国、追討使平直方へ下す忠常追討の太政官符の草案を披見し、2月5日、朝廷は「各道諸国は互いに協力して忠常を追討すべき旨の太政官符」が発給された(『小右記』)。さらに追討使直方の支援のためか、直方の父・平維時が上総介に任じられ、2月23日、維時は関東へ向かった。しかし、その後も追討使に戦功はなく、6月8日、朝廷では追討使を別人に代えるべきか否かの詮議が行われた。また、13日には、「遣検非違使、捜求平忠常郎等住宅」(『日本紀略』)とあり、京都にあった忠常郎等の住宅を検非違使が家宅捜索している。ところが、その後もまったく忠常追討に進展はなく、業を煮やした右大臣藤原実資は、7月1、2日の両日行われる石清水奉幣の宣命に忠常調伏を載せるべきであると天皇(後一条天皇)に奏上している(『小右記』)。
追討使が派遣されて1年4か月が過ぎた12月5日、追討使平直方とその父・上総介平維時から、状況を記した解文が京都に届けられたが、一貫して追討に否定的だった中原成道は何の報告もせず、12月7日、追討使・検非違使を罷免され京都へ召還が決定した(『小右記』)。そして8日、追討使直方のことについての陣定が開かれている(『小記目録』)。
こうしている間にも忠常の威勢は房総を覆い、長元3(1030)年3月27日には安房守藤原光業が忠常に追われ、国府の印を庁府に残したまま京都へ戻ってきた。このため朝廷は29日、上総介平維時の従兄弟にあたる平正輔を新たに安房守としたが、正輔は忠常を追討するには金がかかるとして国衙の「不動米穀」を「毎国」五百石活用することを要求。朝廷はこれを断るが正輔も引かず、頼通も正輔の要求を認めざるをえなかった(『小右記』)。
高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――――直方――――+―維方―――――盛方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介) (左衛門少尉)|(蔵人雑色) (左衛門尉)
| | |
| +=維時 +―女
| |(常陸介) |(陸奥守源義家母)
| | |
| +―維衡――+―正輔 +―女
| (常陸介)|(安房守) (相模守藤原棟綱母)
| |
| +―正度―――――正衡――――――正盛―――――忠盛―――――清盛
| (常陸介) (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)
|
+―良兼――――公雅――――致頼――+―致経
|(上総介) (武蔵守) (散位) |(左衛門尉)
| |
| +―致方
| (武蔵守)
|
+―良文――――経明――――忠常――+―常将―――――常長
(陸奥守) (上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)
|
+―恒親―――――恒仲――――――頼任
(安房押領使) (村上貫主)
一方、5月20日に京都に到着した直方の解文には、忠常が突如出家をとげて「常安」と号したことが記載されていた(『小右記』)。また、直方が解文で要請していた「各国の協力を得る太政官符の発給」については、「籠伊志見山并随兵減少由所推量」とあって、官符の発給には及ばないとして聞き入れられなかった(『小右記』)。
しかし6月23日、右大弁源経頼のもとへ届けられた「追討使直方并上総武蔵国司言上解文」によれば、追討使平直方、上総介平維時、武蔵守平致方らは「忠常如言上不知在所者」であって(『小右記』)、いまだ忠常の所在をつかむことができていない状態であることが判明。「又可令兼光申忠常在所歟、直方解文云、忠常志直方之雑物兼光伝送、仍可知彼在所者」(『小右記』)とあり、直方の解文によれば忠常は直方への「雑物」を「兼光」に送っていることから、この「兼光」なる人物が「可知彼在所」として、「可令兼光申忠常在所」と「此間諸卿相共可定申者」という勅命が下っている。
9月2日、直方は「無勲功」として追討使を解任・召還され(『日本紀略』『小記目録』)、11月に空しく帰京した(『応徳元年皇大記』)。直方の子「維方 使 上総介 従五上」(『尊卑分脈』『桓武平氏諸流系図』)の子に「盛方 左衛門尉」が見えるが、彼は権大納言源俊房の「年来家人」(『水左記』承暦四年閏八月十日条)であり、直方以来三代にわたって京官として続いている。盛方の生年は長元6(1033)年であり、直方が京都へ戻ったのちにうまれた孫で、従弟の陸奥守義家とは五歳違いとなる。「左衛門尉盛方」は承暦3(1079)年4月13日の「平野賀茂供競馬」(『十三代要略』)で「舞人」の年長者となり、「右衛門尉平兼衡、平正衡、左衛門尉藤季光、右衛門尉平宗盛、高階盛業、同成定、平兼季已上不謂左右年歯立次第」(『為房卿記』承暦三年四月十三日条、『参軍要略抄』承暦三年四月十三日条)を伴い神前に舞を披露した。しかし、翌承暦4(1080)年閏8月10日、四十八歳で亡くなっており(『水左記』承暦四年閏八月十日条)、主人の権大納言俊房はその死去を聞いて「可憐ゝゝ」と述べる。なお、『桓武平氏諸流系図』には盛方の兄弟に「聖範 阿多美禅師」が見えるが、彼が伊豆北條家の祖となった人物とされる。盛方は長元6(1033)年であることから、北條四郎時政の生まれた保延4(1138)年までおよそ百年の開きがある。単純計算で四代程となり、系譜上の矛盾はない。
『桓武平氏諸流系図』(『中條家文書』)
平直方―――平維方―+―平盛方――――平俊範――――平実俊
(右衛門尉)(上総介)|(右衛門尉) (玄蕃助大夫)
|
+―聖範―――――平時家――+―平時綱
(阿多美禅師)(北條四郎)|(北條三郎)
|
+―平時兼―――――北條時政
(北條四郎大夫)(北條四郎)
平直方に代わって、新たに追討使に任じられたのが、かつて忠常を降伏させ家人とした甲斐守源頼信であった。頼信の起用は、忠常追討の実績を買われたものであろう。こうして「甲斐守源頼信并坂東諸国司等」に忠常追討令が発給され、9月6日、朝廷は改めて「甲斐守頼信」に忠常追討を命じた(『小右記』)。頼信は関東下向の折、京都にいた「忠常子法師」を伴っており、忠常の家人という契約は残っていたと思われる。
長元4(1031)年正月6日、任国甲斐に在国中の甲斐守頼信からの請願を受けて、この日頼信を従四位下に叙した(『小右記』)。こうした中で、頼信は忠常に対して水面下で降伏勧告を進めていたと思われ、3月中旬ごろには忠常は「欲行向上総」と、おそらく住国の下総国(相馬郡か?)から上総国(夷隅郡か?)へ向かっていたものの、「随身子二人郎等三人進来了」(『左経記』)と、二人の子(常昌・常近であろう)と郎等三人を随えて頼信のもとに出頭。頼信は京都の「権僧正」を通じて関白頼通に「随身来月間可参上」という書状を送っている。4月28日に参議源経頼がその報告を受けている(『左経記』)。
●忠常出頭の理由(想像)
(1)従属関係にある頼信の出兵
(2)みずからの病の悪化
ただし、これは「降状」を提出しての正式な降伏ではなく「出頭」であったようで、おそらく常陸介の履歴のあった頼信は、先例と同様に忠常追討の拠点を常陸国内に移し、忠常に降伏勧告していたのだろう。4月下旬ごろ、ようやく忠常は「降状」を常陸国府に提出したとみられ、5月20日、「常陸介兼資」から朝廷に「忠常帰降」の書状が届き、右大臣実資が確認したようだ(『小記目録』)。ただし、「忠常男常昌常近不進降状」(『左経記』)と、忠常の子「常昌常近」は降状を提出しなかったようで、その後追討の対象として議論されることとなる。
常陸国府へ降伏した忠常は、追討使頼信とともに上洛の途につくが、すでに忠常は病魔に侵されていたとみられ、6月7日に朝廷に届けられた頼信の申文(美濃国大野郡発)によれば、忠常は5月28日より病が悪化して「日来辛苦、已万死一生也」であるとし、頼信は忠常を扶けながら道を進むことが伝えられている。しかし、忠常はこの申文が京都へ届く一日前の6月6日、「美濃国野上と云所」において病死したという(『左経記』)。没年齢不詳。法号は常安。
死亡した場所については、「美濃国野上と云所」(『左経記』)、「美濃国山縣」(『百錬抄』『扶桑略記』)、「美濃国蜂屋庄」(『千葉大系図』)とまちまちである。彼らの上洛ルートは中山道と推測されることから、頼信が忠常辛苦の申文を発したのは現在の瑞穂市美江寺(旧大野郡)あたりと思われる。なお厚見郡や山県郡はこれよりも東に位置していることから、病死地としては誤伝である。おそらく美江寺周辺で危篤に陥った忠常は、その後、約十三キロ西にあった美濃国府(不破郡垂井町)までの道中で亡くなったのだろう。「野上」は国府と隣接する中山道の地であることから、ここで美濃国司による検死が行われたと思われる。現在、「しゃもじ塚」と呼ばれる伝忠常墓が野上(関ケ原町大字野上382-1)に祀られている。
没地 | 現在地 | 資料 |
美濃国厚見郡 | 岐阜市の一部 | 『左経記』 |
美濃国野上 | 不破郡関ヶ原町野上 | 『左経記』 |
美濃国山縣 | 山県市、岐阜市・関市の一部 | 『百錬抄』『扶桑略記』 |
美濃国蜂屋庄 | 美濃加茂市蜂屋町 | 『千葉大系図』 |
なお、忠常の死から百六十年ほどのちの建久6(1195)年12月12日、千葉介常胤が「老命、後栄を期し難し」として「警夜巡昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潜かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり」と、恩賞を求める「款状」を頼朝に提出した(『吾妻鏡』)。この中で常胤は「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいるが、常胤が伝えたこの「由緒」こそ、平忠常の実際の葬地のことであった可能性が高いだろう。結局、蜂屋庄は「故院の御時、仰せに依りて地頭職を停止」した荘園であり、頼朝も如何ともしがたい土地である旨を伝え、「便宜の地を以ちて、必ず御計らい有るべきの旨」を記載した書状を遣わしている。
6月11日、朝廷に忠常死去の報が届いたようで、右大臣藤原実資がその報告を受けている(『小記目録』)。6月12日には頼信からの美濃国司が忠常死亡の実検をしたのち、忠常の首を斬りおとした旨の書状と、美濃国司の返牒が右大弁藤原経任のもとへ届けられた。翌6月13日、忠常から直方への雑物を受け取った「兼光」が「兼光出家事有与忠常同意之聞」と見えるように(『小記目録』)、忠常とのつながりを疑われて出家した。これは忠常の死が朝廷に伝わった直後の出家であることから、当時在京の人物とみられる。彼は平直方とともに東国に下向して忠常と戦った人物と思われ、長元3(1030)年11月に直方とともに京都へ戻ったと思われる。姓を欠いており出自は不明。
6月14日、朝廷は忠常首を梟首すべきかどうかを審議しているが、その二日後の16日、頼信が忠常の首を持って入京したのち、忠常が神妙に降伏したことが考慮されたのか、梟首されることなく首は忠常の「従類」へ返却された。
『左経記』には、忠常の子の常昌・常近(常将・常親)は「忠常男常昌常近不進降状」「於男常昌等者未降来」というように、忠常降伏の後も従おうとしなかった様子が見えるが、実際は常昌・常近が「降状」を提出していなかったことで彼らはまだ服従していないと受け取られ、朝廷では右大臣藤原実資を中心に兄弟の追討について詮議がなされたものだった。
『左経記』の著者としても知られる右大弁・源経頼は追討主張派で、「常昌・常近は許されるべき者ではなく追討すべきであるが、忠常追討では坂東諸国の軍勢が参加したにもかかわらず敗れ、諸国は荒廃してしまった。そこに重ねて常昌・常近追討使を派遣すれば、ますます国は荒れてしまうことが予想され、しばらくは国力を回復させるほうに力を注ぎ、国力が戻ったときに彼らを討てばよい」と主張した。
しかし、左大弁・藤原重尹は経頼の主張とは異なり、「忠常は首となってすでに帰降し、事実、常昌らもこれに従っており、追討する必要はない」とし、さらに左兵衛督藤原公成も「忠常入道常安は帰降しており、その息子達も帰降する気持ちであったが、忠常は上洛の途中で死去してしまった。罪人でも父母の死の際には暇が出るのに、父の忠常が死んで間もなく、未だ罪人でもない常昌らの罪状を問うのはどうか」と追討に否定的な意見を述べた。なぜ朝廷が謀反人とされた忠常一族にここまで寛容になっているのか不明だが、忠常が内大臣藤原教通の家人であったことが関係しているのかもしれない。
朝廷での詮議の結果、常昌・常近は追討されることはなく、常昌(常将)は「武蔵押領使」となり、弟・常近(恒親)は「安房押領使」になったと『松羅館本千葉系図』に掲載されている。系譜で常近の孫にあたる頼任は「村上貫主」とされており、上総国村上郷(市原市村上)に住し、北東1.5キロにある上総国分寺(市原市惣社)の貫主になっていたとも考えられる。
◆良文流平氏系譜(想像)
+―忠頼――――将恒―――――秩父武基――――武綱――――――重綱――――重隆
|(陸奥介) (武蔵権守) (秩父別当大夫)(秩父武者十郎)(出羽権守)(留守所惣検校職)
|
平良文―――経明―?―+―忠光――――為通―――――三浦為継――――義継――――――義明――――義澄
(陸奥守) |(駿河介) (平太夫) (平太郎) (三浦庄司) (三浦大介)(三浦介)
|
+―忠通――――章名―――――鎌倉景成――――景正――――――景継――――長江義景
|(小五郎) (甲斐権守 (権守) (権五郎) (小太夫) (太郎)
|
+―忠常――+―常将―――――常長――――+―千葉常兼――――常重――――常胤
(上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)|(下総権介) (下総権介)(下総権介)
| |
| +―平常晴―――――常澄――――広常
| (上総権介) (上総権介)(上総権介)
|
+―恒親―――――恒仲――――――頼任
(安房押領使) (村上貫主)
忠常の兄(甥?)である将恒(武蔵権大掾)は、おそらく父・忠頼が移住した武蔵国秩父郡の牧を受け継いで秩父を支配したと思われる。将恒の嫡流惣領家・河越氏は「武蔵国留守所惣検校職」として、秩父党一族を支配した。秩父党のうち、特に有名な鎌倉武士としては畠山重忠、源義経の舅・河越重頼などがある。
長元の乱以前の上総国には、二万二千九百八十余町の公定田があったが、乱後の長元7(1034)年、上総介藤原辰時のときには、十八余町にまで激減したと報告されている。
忠常が「上総介」であったことは間違いないが、上総介を辞した後は下総国に移り住んだようである。また、他の古文書に見えない記述として『応徳元年皇代記』には忠常は「下総権介」でったと記されている。
●忠常について伝える史書
史書 | 忠常について | 住居 |
『百練抄』 | 前上総介忠常 | |
『小記目録』 | 平忠常并男常昌等 | |
『日本紀略』 | 前上総介平忠常 | 下総国住人 |
前上総介平忠常 | 下総国 | |
『左経記』 | 平忠経 | 住下野(下総の誤りか) |
『応徳元年皇代記』 | 下総権介平忠常 |
●忠常の所在
古代の房総地図(想像) |
下総に移ってのちの忠常の所在についての伝は、一般的には立花庄大友(香取郡東庄町大友)だったとされており、同地には「良文貝塚」や忠常の子・常将が建立したという平山寺が残されている。しかし、忠常以前に良文、忠頼(または経明)が下総にいたことを示す傍証はない。彼らは武蔵国内での動向が記録に残されていることから、武蔵の軍事貴族であったと考えられる。ただし、子孫の千葉常胤が相馬御厨下司をめぐる相論の中で記した文書によれば(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、下総国相馬郡について、
「……右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而経兼五郎弟常晴、相承之当初為国役不輸之地……」
とあることから、千葉介常胤(当時29歳)は相馬郡が良文、経明、忠経(忠常)…と相伝してきた所領と認識していたことがわかる。しかし、立花庄については由来が記述されず、下総平氏がいつ頃から関わりを持つようになったのか不明である。同地には前述のとおり、忠常の子・常将が建立したと伝わる「平山寺」があり、常将による立庄の可能性もあるか。いずれにせよ、立花郷(立花庄)が房総平氏と関わるのは相馬郷よりも後のことであろう。
立花郷と相馬郷は保延2(1136)年11月13日、国司・藤原親通によって平常重・常胤父子の手から奪われたが、立花郷については取り返すことに執着していないにもかかわらず、相馬郷については相当に執着しており、両総平氏にとって相馬郡は立花郷とは比較にならない重要な由緒があったとみられる。これは相馬郷が良文以来の所領で、遠祖・忠常の下総での住居が相馬郷にあった可能性があったためか。
●『千葉大系図』忠常の項●
忠常 上総介。武蔵押領使。天延三年九月十三日誕生。居上総国大椎城。長元元年戊辰、依浮説而征討使下向、相闘有年。既而同四年辛未四月、服源頼信之言、棒名符怠状。赴洛途中罹病、同五月十五日、死于美濃国蜂屋庄。年五十六。故嫡子常将蒙勅免矣。