継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1136-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
(975?-1031)
生没年 | 天延3(975)年9月13日?~長元4(1031)年6月6日 |
別名 | 忠経(『正六位上平朝臣常胤寄進状』) |
父 | 平経明(陸奥介平忠頼?) |
母 | 左京大夫藤原教宗女(伝) 平将門女(伝) |
官位 | 不明 |
官職 | 上総介(『百練抄』『日本紀略』) 下総権介(『応徳元年皇代記』) 武蔵押領使 |
所在地 | 下総国(『日本紀略』、『左経記』) |
法号 | 常安 |
良文流平氏四代当主。平経明の子(系譜では陸奥介平忠頼の子)。母は左京大夫藤原教宗女とも平将門女とも(左京大夫教宗の実在は確認できない)。官途は上総介(『百練抄』『日本紀略』)、下総権介(『応徳元年皇代記』)。
父は一般には「平忠頼」とされるが、平安時代後期に子孫の千葉介常胤が相馬郡を伊勢内外二宮に寄進した久安2(1146)年の寄進状である久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状』と、相馬郡をめぐる左兵衛少尉源義宗との争いの中で、自家が相馬郡を正当に継承してきたことを伊勢神宮に訴えた永暦2(1161)年の永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解案』には、
とあり、平安時代後期には、千葉氏の祖は「忠頼」ではなく「経明」と認識されていたことになる。 これを系譜に直すと、以下のようになる。
平良文―経明―忠経―経政―経長―+―経兼―常重
|
+―常晴
「平忠頼」は寛和2(986)年ごろ、「忠光」とともに、平繁盛(平国香の子で陸奥守貞盛の弟)の使者を武蔵国で追い払っている。寛和3(987)年正月24日の太政官符によれば、繁盛は忠頼・忠光を「旧敵」と呼んでおり、両者の間には何らかの確執があったことがわかる。忠頼と忠光の関係は『続左丞抄』に記載はないが、平安時代末期成立の『掌中歴』『懐中歴』をベースとする『二中歴』によれば「陸奥介忠依、駿河介忠光忠依弟」とあり、兄弟であることがわかる。
一方、「忠経(平忠常)」は、凡そ長保2(1000)年頃にはすでに両総に勢力を広げており、常陸介源頼信と合戦して家人となっていることから、寛和3(987)年に活躍していた忠頼・忠光との活動時期はほぼ同一とみてよいだろう。世代的なことや「忠頼」「忠光」「忠常」の通字(当時の通字は兄弟で共通字を用いる傾向にあった)を考えると、忠頼・忠光・忠常は兄弟であり、忠頼は陸奥国、忠光は駿河国から武蔵国へ移り、忠常は父祖の下総国に残っていたと考えることもできよう。
また、忠常の父は平良兼流「平致経」とされるものも存在し、奥州千葉氏や新渡戸氏、郡上東氏の一部の系譜に認められる。ただし、「平致経」は伊勢の住人で忠常と同時期に伊勢で同族の平正輔と闘争して朝廷からの譴責を受けていることから、史実ではないだろう。
平高望―+―平良兼―+―平公雅―――+―平致利 +―平致経――?―平忠常
(上総介)|(下総介)|(上総掾) |(出羽守) |(左衛門大尉)(上総介)
| | | |
| | +―平致成 +―平公親――――平公経
| | |(出羽守) |(内匠允)
| | | |
| | +―平致頼―――+―平公致
| | (左衛門尉) |
| | |
| | +―平致光
| | (大宰大監)
| |
| +―平公連
| (下総権少掾)
|
+―平良文―――平経明―――+―平忠頼===?=平忠経
(五郎) |(陸奥介) (上総介)
|
+―平忠光
|(駿河介)
|
+―平忠経―――――平経政――――平経長
(上総介)
●桓武平氏の活躍時期と世代(野口実氏『中世東国武士団の研究』を参考に一部改変して作成)
初代 | ニ代 | 三代 | 四代 | 五代 |
国香 ・935没 |
貞盛 ・940頃活躍 ・947鎮守将軍 ・972丹波守叙任 ・974陸奥守 ・976馬を貢進 |
維敏 ・982検非違使尉に推薦 ・990頃、肥前守 ・994没 |
||
維将 ・973左衛門尉 ・994肥前守 |
維時 ・988右兵衛尉在任 ・1016常陸介在任 ・1029上総介叙任 ・1028上総介辞任 |
直方 ・1028忠常追討使 ・1028追討使更迭 |
||
維叙 ・973右衛門少尉在任 ・996前陸奥守 ・999常陸介在任(維幹の誤) ・1000頃常陸介 ・1012上野介在任 ・1015上野介辞任 |
維輔 ・1005検非違使任 |
|||
維衡 ・974左衛門尉在任 ・998伊勢で致頼と合戦 ・1006伊勢守→上野介 ・1020常陸介 ・1028郎従が伊勢で濫妨 |
正輔 ・1019伊勢で致経と合戦 ・1030安房守 |
|||
繁盛 ・940頃活躍 ・986忠頼らと紛争 |
維幹 ・999常陸介在任 ・1016左衛門尉在任 |
為幹 ・1020常陸で濫妨 |
||
兼忠 ・980出羽介→秋田城介 ・1012以前没 |
維茂 ・1012鎮守将軍 ・1017以前没 |
|||
維良(維吉) ・1003下総国衙焼討 ・1012頃鎮守将軍 ・1018陸奥国司と乱闘 ・1022没 |
||||
良兼 ・931将門と紛争 ・939没 |
公雅 ・940上総掾 ・942武蔵守 |
致頼 ・998伊勢で維衡と合戦 ・1011没 |
致経 ・1019伊勢で正輔と合戦 |
|
公連 ・940押領使 ・940下総権少掾 |
||||
良持 ・? |
将門 ・935国香討つ ・939没 |
|||
良文 ・? |
経明(系譜未載) | 忠頼(系譜上は良文男) ・986陸奥介在任 |
||
忠光 ・986駿河介? |
||||
忠常(系譜上は忠頼男) ・1000~1012源頼信家人 ・1027安房国司を焼殺 ・1028以前上総介辞 ・1031没 |
常昌 ・1031降伏 |
|||
常近 ・1031降伏 |
忠常の前半生はまったく知られていないが、後述のように、源頼信が常陸介として下向していた時期の長保2(1000)年頃から寛弘9(1012)年頃には、忠常は「下総国住人」として下総国を本拠に上総国にも影響力を持つほどの勢力を持っていた。また、忠常は常陸国の「左衛門大夫平惟基」と予てから敵対関係にあり「惟基ハ先祖ノ敵」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)と述べている。どのような対立関係かは不明。平忠常の父・平経明は下総国相馬郡を私領とし(永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解案』)、このほか子孫の分布をみると大須賀保や印東庄、橘庄など香取郡の内海に面した土地にも私領を有したとみられるため、内海を通じた対立関係が続いていた可能性もある。忠常は源頼信が常陸介だった当時、その追捕を受けているが、その際には常陸国側の内海の舟を隠しており、常陸国の内海までその勢力下にあったということになる。
10世紀末、忠常がどこにいたのかは不明だが、忠常は下総国を本拠に勢力を伸ばし、長和元(1012)年以前に上総国まで勢力を広げた。また、忠常は公家の日記や『日本紀略』等の朝廷の記録に「前上総介」とあることや、同族の平維時や平兼忠が上総介に、平正輔が長元3(1030)年3月29日に「安房守」にそれぞれ補されている(『日本紀略』)ことからも、忠常も同様に除目による「上総介」補任であることは間違いないだろう。ただし、その時期は不明(時期の考察)。
■桓武平氏略系図(太字は貞盛の子、および養子になったと思われる人物)
平高望―+―平国香―――+―平貞盛――――+―平維敏
|(常陸大掾) |(鎮守府将軍) |(肥前守)
| | |
| | +―平維将――――平維時―――平直方
| | |(肥前守) (上総介) (右衛門少尉)
| | |
| | +=平維叙――――平維輔
| | |(常陸介) (左衛門尉)
| | |
| | +=平維衡―――………………―平清盛
| | |(伊勢守)
| | |
| | +=平維幹
| | |(常陸介)
| | |
| | +=平維忠
| | |(出羽守)
| | |
| | +=平維時
| | |(上総介)
| | |
| | +=平維輔
| | |(左衛門尉)
| | |
| | +=平維茂
| | |(鎮守府将軍)
| | |
| | +=平維良
| | (鎮守府将軍)
| |
| +―平繁盛――――+―平維幹―――………………―常陸大掾家
| (武蔵権守) |(常陸大掾)
| |
| +―平維忠
| |(出羽守)
| |
| +―平兼忠――+―平維茂
| (上総介) |(鎮守府将軍)
| |
| +―平維良(維吉)
| (鎮守府将軍)
|
+―平良持―――――平将門――――――娘
|(鎮守府将軍)(小次郎) (忠頼妻?)
|
+―平良文―――――平経明――――――平忠常
(陸奥守) (上総介)
『今昔物語集』には、河内源氏の源頼信が「常陸守(常陸介)」のときに忠常と下総国に戦い、降伏した話が伝わっている(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)。
●『今昔物語集』巻廿五 第九「源頼信朝臣責平忠恒語」
『今昔物語集』にみられる忠常が「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べる「左衛門大夫平惟基」は、通説では上記の平維幹と同一人物とされている。
平維幹は長保元(999)年12月9日当時、「常陸介」(『小右記』長保元年十二月十一日条)だったが、『今昔物語集』にみられる維幹は「左衛門大夫平惟基」とあり、五位の左衛門尉である。当時、国司を経て左衛門尉へ任官する例はなく、維幹が「左衛門大夫」であったとするならば、当然常陸介就任前である。つまり、平維幹=左衛門大夫平惟基であるならば、頼信と忠常の戦いは、維幹が常陸介在任中の長保元(999)年以前となる。しかし、長保元年以前の頼信は「上野介」であり、常陸介に補任される前なのである。
ただし、この矛盾については『今昔物語集』は伝承を後世に説話集としてまとめたもので、「左衛門大夫平惟基」については一般的に流布伝承されていた通称が用いられた可能性もある(頼信については「河内守源頼信朝臣」が「頼信常陸守ニ成テ其国ニ下リ有ケル間」が事件の時期の前提であるため、伝承と記述は同じである)。
●十一世紀初頭の常陸介の予想任期
名前 | 補任 | 離任 ※離任日不明のため、離任直近除目日 |
備考 |
平維幹 | 不明 | 長保2(1000)年 正月22日? |
長保元(999)年12月9日 「常陸介維幹朝臣、先年所申給、崋山院御給爵料不足料絹廿六疋及維幹名簿等送之、以維幹可預栄爵者、維幹余僕也、進馬三疋毛付、以院判官代為元令奉絹及維幹名簿等」 (『小右記』長保元年十二月十一日条) ――――――――――――――――――――――同(寛仁)4(1020)年7月3日 「常陸介惟通妻子為維幹息被取事於任国卒去時」 (『小記目録』) ―――――――――――――――――――――― 寛仁4(1020)年閏12月13日 「漏聞召為幹朝臣之使貞光密々来云、為幹入京、可令候之處事、示遣史奉親朝臣所、未仰左右、仍密々預前常陸介維時朝臣、明曉罷向随身為幹、借小人宅令候、可待宣旨者、是余指示也、彼奪取命婦、太皇太后御使相共同入京者」 (『小右記』寛仁四年閏十二月十三日条) |
平維敍 | 長保2(1000)年 正月22日? |
長保6(1004)年 正月22日? |
実右大将済時卿男か。 小一条院敦明親王の叔父 正暦6(995)年に陸奥守離任か ※その三、四年後に常陸介(『今昔物語集』) 長徳2(996)年5月当時、「陸奥の国の前守維敍」 (『栄花物語』) |
某 | 寛弘4(1007)年 正月26日? |
※長和2(1013)年正月20日、「入夜、前常陸介師長密語云、蔵人登任初可着綾、可用左三位中将蘇芳下襲、無頼殊甚、万計難施者、有歎息気、仍興未着之桜色下襲、感悦将去」(『小右記』長和二年正月廿日条) | |
源頼信 | 寛弘4(1007)年 正月26日? |
寛弘8(1011)年 2月2日 |
寛弘9(1012)年閏10月23日 「入夜前常陸守頼信、献馬十疋」 (『御堂関白記』寛弘九年閏十月廿三日条) とある。しかし、常陸介退任後の受領功過定において、 長和5(1016)年正月12日 「依相府被示、余召受領功過文書相定、相模守孝義有事、亦常陸介頼信状帳、填交替欠事不明、仍令召税帳又神社事不修一社」(『小右記』長和五年正月十二日条)など、在任中の官物貢納の不備や神社不修のため、その後数年は受領になれなかった(検非違使だった)。そして寛仁3(1019)年正月22日の受領功過定(二日目)において、「前常陸介頼信不与状、神社数事年来有疑無一定、後々司実録言上、依彼帳可有定之由、頼信所申」(『小右記』寛仁三年正月廿二日条)との主張が左中弁経通を通じて摂政に伝えられた。結果としては陣定で主張は容れられたようで、頼信は翌23日の除目で受領に推されることとなる。この際、私君頼通の引級で遠江守に補されると大方の予想だったが、実際に遠江守に補されたのは藤原兼成だった(予想では任石見守)。これは頼通が実資の助言を受けた結果で、頼通は家人の頼信を「若以頼信任遠江、必可有謗難歟者」として、実資に感謝を述べている。結果、頼信は石見守となり、同年7月8日「石見守頼信、触明日向任国之由、呼前給禄」と、実資は頼信を邸に招いて禄を与えた。実資は「頼信入道、殿近習者也」(『小右記』寛仁三年七月八日条)と記しており、頼信は頼通の近習だったことがわかる。 頼信の父満仲と平維幹は従兄弟(『系図纂要』)。 子の頼義は小一条院敦明親王判官代 |
藤原通経 | 寛弘8(1011)年 2月2日「常陸守」(『小右記』) |
長和4(1015)年? |
紫式部の従兄弟 |
平維時 | 長和4(1015)年 | 寛仁3(1019)年 正月21日? |
紫式部の従兄弟 |
藤原惟通 | 寛仁3(1019)年 7月13日 「任常陸、敍一階若然歟」(『小右記』) |
紫式部の弟 |
光孝天皇―――宇多天皇
∥
∥――――――醍醐天皇―――村上天皇―+―冷泉天皇―+―花山天皇
∥ | |
∥ | |
∥ | +―三条天皇
∥ | ∥――――――敦明親王
∥ | ∥ (小一条院)
∥ | 藤原済時―+―藤原娍子
∥ |(右大将) |
∥ | |
∥ | +―平維敍
∥ | (常陸介)
∥ |
+―藤原高藤―+―藤原胤子 藤原忠幹―――女子 +―円融天皇―――一条天皇―――後朱雀天皇――後三条天皇
|(内大臣) | (筑前守) ∥
| | ∥――――――藤原通経―――藤原章祐
| | ∥ (常陸介) (上総介)
| +―藤原定方―+―女子 +―藤原為長
| (右大臣) | ∥ |(陸奥守)
| | ∥ |
| | ∥――――+―藤原為時―+―藤原惟規
| | ∥ (越後守) |(散位)
| | ∥ |
| | ∥ +―藤原惟通
| | ∥ |(常陸介)
| | ∥ |
| | ∥ +―女子
| | ∥ (紫式部)
| | ∥ ∥――――――女子
| | ∥ ∥ (大弐三位)
| +―∥――――――藤原為輔―――藤原宣孝
| ∥ (権中納言) (右衛門佐)
| ∥
| ∥ +―藤原為頼
| ∥ |(太井皇太后宮大夫)
| ∥ |
藤原良門―+―藤原利基―――藤原兼輔―――藤原雅正―+―女子
(内舎人) (右中将) (中納言) (豊前守) ∥――――――平維時――――平直方
∥ (上総介) (上野介)
平国香――+―平貞盛――+―平維将
|(陸奥守) |(上総介)
| |
| +―平維時
| |(上総介)
| |
| +―平維幹
| |(常陸介)
| |
| +=平維敍
| (常陸介)
|
+―平繁盛
(常陸大掾)
∥――――+―平維幹
∥ |(常陸介)
∥ |
清和天皇―――貞純親王―+―女子 +―平兼忠――+―平維吉
(中務卿) | (上総介) |(鎮守府将軍)
| |
| +―女子
| ∥
| 藤原正雅―――藤原師長―――藤原登任
|(伊予守) (常陸介) (陸奥守)
|
+―源経基――――源満仲――――源頼信
(武蔵介) (陸奥守) (常陸介)
『今昔物語集』の説話を見る限りでは、当時の忠常は頼信自身に対して敵対行為をしていたわけではなく、ましてや平維良(「故兼忠朝臣男維吉」(『御堂関白記』寛弘九年閏十月十六日條)と同一人物だろう)のように、長保5(1003)年正月頃、下総国府を攻めて「燃亡府館、掠虜官物」(『百錬抄』長保五年二月八日条)し、「蒙追捕官符」(『小右記』長和三年二月七日条)るような叛乱も起こしてもいない。ところが、頼信はなぜか任国ではない「下総国」の住人忠常に対して「常陸守ノ仰」を伝えているのである。
忠常は「上総下総ヲ皆我マゝニ進退シテ、公事ヲモ事ニモ不為リケリ」とあるように、上総国、下総国における「公事」を怠っていたというが、頼信はこの事についてはおそらく不介入であった。他国の内政に関与することは当然越権行為である以前に、説話上のこの文意は、あくまでも忠常の非道ぶりを記している形容的なものだからである。頼信が問題視したのは次の話題である「亦、常陸守ノ仰ヌル事ヲモ、事ニ触レテ忽緒ニシケリ」という部分であろう。ただ、この「常陸守ノ仰ヌル事」が具体的に何を指すのか、残念ながら『今昔物語集』には記されていない。しかし、頼信が「大キニ此レヲ咎メテ、下総ニ超テ忠恒ヲ責メム」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)と、越権行為である他国に越境してまで攻めようとしたのは、常陸国に関する何らかの侵害があったと考えるのが妥当であろう。推測するに、それは忠常が「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べる「左衛門大夫平惟基」との対立と関係があろう。のち頼信が下総国へ越境するにあたり、忠常は「其ノ渡ノ船ヲ皆取リ隠シテケリ、然ルハ可渡キ様モ無ク」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)と、あるように、常陸国内海にも強い影響力を持っていた様子をうかがわせる。頼信は忠常の常陸国における何らかの行為を咎めて、その停止を「仰ヌル事ヲモ」、忠常は「事ニ触レテ忽緒ニシ」たため、頼信は激怒したと考えられる。
なお、他国への犯罪者の対応としては、当該国の「押領使」が他国に越境して、他国に逃亡した犯罪人の捕縛を認める規定もあった。これは長保5(1003)年正月頃の平維良の叛乱を受けて設けられたものかもしれない。平維良の叛乱から二年後の寛弘2(1005)年4月14日、上野介橘忠範はこの規定についての意見として「被載許雑事三箇条事」を申請している(「寛弘二年四月十四日条事定文写」『平安遺文』439)。
この二条目で、凶賊追捕のために「下野、武蔵、上総、下総、常陸等国」に「押領使」の補任を申請している。押領使については「当国押領使及随兵等、任前例可被裁許歟」と見えることから、これまでと同様に国司等の兼帯での押領使官符となろう。また一方で、三条目にあるように凶党が隣国から移り住んできた際に、「隣国々司并隨兵郎等、恣越来残滅所部」ことを停止してほしい旨も伝えているように、押領使たる隣国国司はその追捕のために、本来管轄外の国へ「恣越来、残滅所部」というように、村落などに壊滅的な被害を与えることも少なくなかった。陣定では「隣国凶党、若有越住当境者、待国司之移蝶、慥可糺行」ことを追認しているように、他国に逃げ込んだ凶党を引き続き追捕することは認めるが、「待国司之移蝶」という条件が付けられ、且つ「恣以越来、残滅所部」は認めず「早可給制符歟」としている。それでも「若不憚制止、猶有越来之者」については「言上解文之日、隨其状迹可定行歟」とし、他国押領使等の侵攻による村落被害は罪過に問われる可能性を示唆する。
『今昔物語集』の頼信による下総越境事件は、上記の例のように、常陸国の「押領使(記録はない)」として下総国の忠常を追捕した、という構図が想定される。
頼信が下総国に忠常を攻めるという話を聞いた「左衛門大夫平惟基」は、
と大軍を以って攻めることが肝要と説いた。こうして「惟基」は三千騎の軍勢を整えて鹿島宮の社前に集結。また頼信も「舘ノ者共国ノ兵共」二千人ばかりを集めて「鹿島ノ郡ノ西ノ浜辺」に集まった(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)。
忠常の当時の本拠は、
という位置にあった。
「衣河(キヌガワ)」とは現在の小貝川(こかいがわ)のことで、この「衣河ノ尻」つまり小貝川から香取海(内海)にそそぐ河口部分は、現在の竜ケ崎市から利根町のあたりにあり、幾重にも分かれた小川が蛇のように複雑に流れる(蛟蛧)湿地帯であった。忠常の所在地はこの「内海」の「遥」か奥の「向ヒ」にあったとされている。「良文朝臣」以来忠常も私有し、のちに千葉常重・常胤や源義宗が伊勢神宮に寄進した相馬御厨の東限は「須渡河江口(竜ケ崎市須藤堀町周辺)」で、まさに「内海ニ遥ニ入リタル向ヒ」に相当する。このことから、忠常の居住地は、香取郡大友よりも相馬郡のほうが妥当であろう。そもそも大友であれば、鹿嶋社から陸路銚子を経て向かったとしても「海ヲ廻テナラバ七日許可廻シ」もかからない。そのほか、
(1)相馬郡は大友に比べて下総国府(市川市)・上総国府(市原市)ともに近い。
(2)相馬郡の内海沿いには陸の官道や駅、郡衙が存在し、東西の水運・軍事・流通の要であった。
(3)両総平氏は相馬郡を「平良文朝臣」以来の私領として大変に尊重している。
といった理由が上げられ、この点においても香取郡大友とは地理的な重要性にかなりの差が見られる。
●房総平氏と相馬氏●
⇒平常長―――+―千葉介常兼―千葉介常重―――――千葉介常胤―+―千葉介胤正
(上総権介) |(下総権介)(下総権介) (下総権介) |(千葉介)
| ↑ ↑ ↑ |
| | | | +―相馬師常
| 相馬郡譲渡 対 立 (次郎)
| ↑ |
| | ↓
相馬郡継承⇒+―相馬常晴―――――平常澄――+―平広常
(上総権介) (上総権介)|(上総権介)
|
+―相馬常清
(九郎)
さて、鹿島宮の西の浜辺に滞陣した頼信・惟基の軍勢だが、「其ノ渡ノ船ヲ皆取リ隠シテケリ、然ルハ可渡キ様モ無クテ、浜辺ニ皆打立テ、可廻キニコソ有ヌレナト」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)と、舟はすでに忠常に奪取されており、内海を渡る術がなかった。内海の舟を忠常は内海の権益に影響力を及ぼしていた様子がうかがえる。このため、頼信は常陸国衙在庁と思われる「大中臣成平」を召し、彼を使者として忠常のもとに派遣し、
と最後通牒を送り、不戦で降伏させようと試みた。その後、忠常のもとから戻った成平は、
と、頼信を尊重しているが、その麾下にいる先祖の敵・惟基の前に跪くことはできないと、降伏を断った。そこで頼信は内海の縁を廻って攻めるべきだとする軍兵の反対を押し切り、忠常の裏をかいて、今日中に海を渡って進発することを命じた。舟の無い中で海を押し渡ることについて頼信は、
と、浅瀬を渡って対岸へ向かうことを提案。ここに「真髪ノ高文」という人物が名乗りをあげ、浅瀬を案内した。二度ばかり泳ぐ箇所があったものの、頼信は軍勢のうち五、六百人あまりとともに下総国へ上陸した。このとき忠常は、頼信らには舟がないため、陸路を廻ってくるものとして策を立てていたが、郎従らがあわてて忠常のもとへ飛び込み、
常陸殿ハ此海ノ中ニ浅キ道ノ有ケルヨリ、若干ノ軍ヲ引具シテ既ニ渡リ御スルハ、何カセサセ給ハム
と狼狽して言うと、忠常も計画が水泡に帰したことを悟り、
今ハ術無術無進テム
と降伏を決意。「名符」と「怠状」を具し、郎従に持たせて小舟で頼信の陣所へ遣わした。頼信も「不戦ト思ハバ速ニ参来」という考えであり、降伏したのちは「強チニ責メ可罰キニ非ズ、速ニ此ヲ取テ可返キ也」と言って、軍勢を常陸へ返したという(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)。「名符=名簿」を差し出すことは臣従の意味合いがあり、忠常は頼信の家人となった。
この『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」の説話はいつの事なのだろうか。
説話では源頼信が常陸介だった時期の出来事であるが、源頼信が「常陸守(常陸介)」だった期間の頼信に関する記録は残念ながら遺されていない。
●源頼信の官途
源頼信の史料上の初見は、寛和3(987)年2月19日の慧心院造堂の成功による叙位で、当時左兵衛尉であった(『小右記』寛和三年二月十九日条)。永承3(1048)年9月1日、七十五歳で卒去(『系図纂要』)とすると、十四歳のときである。
正暦5(994)年3月6日、朝廷は「召武勇人源満正朝臣、平惟時朝臣、源頼親、同頼信等、差遣出々、令捜盗人」(『日本紀略』)とあるように、叔父満政や兄の頼親らとともに武勇の人として認識されていた。当時二十一歳である。この後、上野介に補任されており、長保元(999)年9月2日には「上野守(上野介)」として藤原道長に馬を献じている(『御堂関白記』長保元年九月二日条)。頼信は受領として上野国に赴任しており、『今昔物語集』にその記述がみられる。
●「藤原親孝為盗人被捕質依頼信言免」(『今昔物語集』語第十一)
その後、頼信は常陸介に転任している。補任時期は明確ではないが、
(1)「左衛門大夫惟基(平維幹)」よりも後に常陸介に補任
(2)維幹から頼信までは、少なくとも平維敍、藤原師長の二名が常陸介に補任されている
(3)寛弘9(1012)年閏10月23日当時、頼信は「前常陸守」(『御堂関白記』寛弘九年閏十月廿三日条)
ということから考えると、頼信の常陸介任官期間は、寛弘4(1007)年正月26日の縣召除目(『権記』寛弘四年正月廿六日条)から寛弘8(1011)年2月2日の除目以前までと推測される。
●平維幹の官途
「左衛門大夫平惟基」こと平維幹は、出羽守繁盛の子で伯父の陸奥守貞盛の養子になった人物。常陸大掾家の祖であるが、奥州伊達家の祖でもあろう。
平国香――――平繁盛 +―平為幹―――…―大掾家 +―伊佐為宗
(鎮守府将軍)(出羽守) |(散位) |(皇后宮大進)
∥ | |
∥―――――平維幹――+―平為賢―――………――――――――――常陸入道――+―伊達為家
∥ (陸奥守) (散位) (西念) |(右衛門尉)
∥ |
貞純親王―+―女子 +―大進局
| ∥
+―源経基―+―源満仲――+―源頼光 ∥
(武蔵介)|(陸奥守) |(摂津守) ∥
| | ∥
+―源満政 +―源頼親 ∥
(陸奥守) |(大和守) ∥
| ∥
+―源頼信――源頼義――源義家――源為義――――源義朝――源頼朝
(河内守)(陸奥守)(陸奥守)(左衛門大尉)(下野守)(権大納言)
長保元(999)年12月9日、「常陸介維幹朝臣、先年所申給、崋山院御給爵料不足料絹廿六疋及維幹名簿等送之、以維幹可預栄爵者、維幹余僕也、進馬三疋毛付、以院判官代為元令奉絹及維幹名簿等」(『小右記』長保元年十二月十一日条)と見えるように、維幹は長保元(999)年当時、常陸介であった。このとき、維幹は私君である中納言実資に先年「崋山院恩給」による昇進を依頼していたが、爵料が不足しており叶わなかった。そこで維幹は「不足料絹廿六疋」と「維幹名簿」を実資に馬三疋とともに送付した。これを受けた実資は花山院判官代為元を通じて花山院に奉献し、御給による維幹の昇進を依頼している。この願いは二日後の12月11日、「為元朝臣来、院仰云、常陸介維敍(維幹)朝臣進絹令納給了、但以明年御給栄爵可給維幹之由可仰遣者」(『小右記』長保元年十二月十一日条)と、明年正月除目により、維幹の「御給栄爵」が決定された旨が実資に伝えられている。これにより翌長保2(1000)年正月22日の「除目儀」(『権記』長保二年正月廿二日条)の「院宮御給」で「以上今日可給、又任国公事究済旧吏一束」とある通り、常陸介維幹が常陸国の公事を究済していた場合は、この御給によって叙爵(従五位下)したと思われる。
その後の維幹の官途は伝わっていないが、維幹は常陸介が秩満後も帰洛せずに常陸国に在国して在国領主化し、下総国の平忠常との間に何らかの紛争があった可能性がある。
なお、同日条の「常陸介維敍」(『尊卑分脈』の註では「実右大将(済)時卿男」と見える)は、文意から見ても「常陸介維幹」の誤記であることは間違いない。維敍が常陸介になったのは、後述の通り維幹の後である。
●平維敍の官途
平維幹の後任常陸介である平維敍の官途は、永観元(983)年8月の除目で「任肥前国守(当時従五位下)」(『類聚譜宣抄』八 任符事)、次いで正暦2(991)年正月の除目で陸奥守に補任されたとみられ、正暦元(990)年時点の陸奥守(『本朝世紀』)藤原国用の秩満後、「陸奥守維敍」として陸奥国に「著任」(『北山抄』吏途指南)している。
その後、陸奥守として四年の任期を全うし、正暦6(995)年正月13日の縣召除目で左近衛中将実方が陸奥守に補任(『中古歌仙三十六人伝』)されるまで陸奥国に在国。秩満後は帰京し、それから三、四年後に「常陸ノ守」に補任されたという(『今昔物語集』卅二「陸奥国神報平維叙語」)。藤原隆家らが花山院を射た罪で邸を囲まれた長徳2(996)年5月当時、内裏は「内には陣に陸奥の国の前守維敍、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親など云ふ人々」が護衛した(『栄花物語』)とあるが、その記述に矛盾はない。
『今昔物語集』の通り、陸奥国から帰洛後三、四年後に常陸介に補任されたとすれば、維敍の常陸介任官期間は、維幹の常陸介在任が確認できる長保元(999)年12月以降から長保6(1004)年正月までと推測されるため、維幹の後任常陸介が維敍となろう。
その後十年余りの間、維敍の名は史料から見えなくなるが、長和元(1012)年閏10月17日には「上野守維敍、献馬十疋」(『御堂関白記』長和元年閏十月十七日条)と見え、この時期には上野介在任中であったことがわかる。その後、長和4(1015)年8月27日に任期途中で「上野守維敍辞退、仍被任弾正小弼定輔」と上野介を辞退した(『御堂関白記』長和四年八月廿七日条)。病のためと思われる。
翌長和5(1016)年5月15日に「前上野介維敍、今日可出家之由、昨日令申摂政殿云々、仍差忠時問遣、即帰来云、近日所労更発、未死前、今朝遂本意了者、重令労問」(『小右記』長和五年五月十五日条)とあり、重病に陥ったために出家した。その後一時的に快復したようで、翌寛仁元(1017)年9月17日、「維敍法師、献馬一疋」(『御堂関白記』寛仁元年九月十七日条)している。ただ、それからわずか一月後の寛仁元(1017)年10月16日に亡くなったという(『系図纂要』)。
寛弘9(1012)年閏10月23日当時、頼信は「入夜前常陸守頼信、献馬十疋」(『御堂関白記』寛弘九年閏十月廿三日条)とあるように、これ以前の頃、忠常は「下総国」に住む強勢の「兵」であり、いまだ官途に就いたことのない人物であったろう。それが万寿5(1028)年当時には「前上総介」(『百錬抄』)とあるように、国司「上総介」に就いた形跡があることは、おそらく藤原道長五男の藤原教通の家人として、「上総下総ヲ皆我マゝニ進退」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)していた蓄財を教通に献じることで、私君教通に上総介補任の申状を提出し、その吹挙を受けて「上総介」に補任していたのではあるまいか。
●十一世紀初期の上総介の予想任期
名前 | 上総介以前の 前の官歴 |
上総介補任 | 離任 | 備考 |
藤原長能 | 天元5(982)年右近将監 永観元(983)年左近将監 永観2(984)年蔵人 寛和2(986)年近江少掾 永延2(988)年図書頭 |
正暦2(991)年 4月26日 |
正暦6(995)年 正月13日? |
藤原長能者、讃岐権助惟岳孫、伊勢守倫寧二男、…正暦二年四月廿六日、任上総介、寛弘二年正月廿七日、叙従五位上治国賞、同六年正月廿八日、任伊賀守(『長能集』) ―――――――――――――――――――――― 長保三(1001)年七月廿一日「前上総介長能」 (『権記』長保三年七月廿一日条) ―――――――――――――――――――――― 寛弘二(1005)年正月廿二日「前上総介長能朝臣」 (『小右記』寛弘二年正月廿二日条) |
平兼忠 | 天元3(980)年出羽介 | 不明 | 不明 |
(参考)
左中将藤原実方の陸奥守任期である 長徳元(995)年正月十三日(『公卿補任』)から 長徳四(999)十一十三日於任所薨(『尊卑分脈』) の間に、奥州で子息余五将軍維茂と藤原諸任の合戦があった。その将軍維茂は陸奥国在住中に兼忠の上総介就任を聞いて上総国を訪問している(『今昔物語集』) 寛弘九(1012)年閏十月十六日には「故兼忠朝臣男維吉、献馬六疋、二疋兼忠申置」(『御堂関白記』寛弘九年閏十月十六日条)とあり、兼忠子息の維吉(維良)が兼忠遺言も含めた献馬を行っており、兼忠はこの頃亡くなったとみられる。 |
平忠常? | 不明 | 不明 |
源頼信が常陸介であったであろう寛弘4(1007)年~寛弘8(1011)年は無位無官の下総国の「兵」。頼信の家人として上洛。さらに藤原教通の家人となり、私財を献じることで教通の引給を以て上総介となったか。 ●藤原教通(『公卿補任』) 寛弘7(1010)年11月28日従三位 寛弘8(1011)年8月11日正三位 長和2(1013)年9月16日従二位 長和4(1015)年10月21日正二位 |
|
菅原孝標 | 長保2(1000)年 蔵人右衛門尉 検非違使尉 |
長和6(1017)年 正月24日 |
寛仁5(1021)年 正月 |
寛仁元年正月廿四日任上総介 四十五 五年正月得替 四十九(『更級日記』) |
平輔忠 | 寛仁5(1021)年 正月 |
寛仁5(1021)年 2月28日卒 |
治安元年二月廿八日、上総介輔忠、阿闍梨固縁、日如、已講法修等卒事(小記目録) | |
藤原為章 | 長保元(999)年前伊豆守 長保4(1002)年散位 長和2(1013)年任伊勢守 |
寛仁5(1021)年 2月 |
万寿2(1025)年 2月25日 |
「今年得替国司上総介為章、若狭守遠理、淡路守信成等、入已官物不済公事出家、終無其弁、以財物可令弁進、若無其弁、可令子孫弁済者、仰左中弁経頼了」(『小右記』万寿二年二月廿五日条) |
縣犬養為政 | 長徳4(998)年任左志 検非違使志 寛弘元(1004)年右衛門大志 寛弘2(1005)伝尉 寛弘4(1008)年左衛門少尉 寛弘5(1009)年左衛門大尉 |
万寿2(1025)年 3月9日 |
長元2(1029)年 正月22日か |
「上総介為政宿祢、申任符使禄、令給疋絹」 (『小右記』万寿二年三月九日条) ―――――――――――――――――――――― 「入夜厩舎人申云、□□従上総罷上、介為政朝臣貢馬、□□、馬二疋、手作布百四端、鴨頭草、□□、鮑等、馬頗宜、令立厩」 (『小右記』長元元年七月十三日条) ―――――――――――――――――――――― 「上総介為政妻子、近日申可令上道由、而依件事国人弥不聞国司事歟、国司在忠常之掌握、生死被任彼心、濫吹事逐日不断、忠常従者入乱館内、打縛国司従類之由、厩舎人友成所申、最可歟、可指弾、可殊労上」 (『小右記』長元元年七月十五日条) |
平維時 | 永延2(988)年右兵衛尉 正暦5(994)年散位 長徳2(996)年左衛門尉 長和5(1016)年常陸介 寛仁2(1018)年常陸介 治安3(1023)年前常陸介 |
長元2(1029)年 正月23日 (首途) |
長元4(1031)年 6月27日 |
長元二年正月廿三日 「上総介維時申、明日首途事」 (『小右記』長元二年正月廿二日条) ――――――――――――――――――――――長元四年六月廿七日 「上総介維時朝臣辞書」 (『左経記』長元四年六月廿七日条)――――――――――――――――――――――長元四年六月廿七日 「上総介維時朝臣申、被停所帯職事、如申状、年齢衰老之上、病痾頻犯、不堪分憂之任者、依請被停止、以可然者可被任歟」 (『左経記』長元四年六月廿七日条) |
長元2(1029)年6月13日「遣検非違使、捜求平忠常郎等住宅」(『日本紀略』)とあることから、忠常が上総国へ戻ったのちも忠常の郎等の中には留京または上洛し住宅を持っていた人物がいたようである(仮住まいの場所であった可能性もある)。また、子息の一人が出家して在京していたが、これは頼信の家人になった際に随身したものか。
万寿4(1027)年12月4日、朝廷の実力者であった藤原道長が死去しておよそ五か月後の万寿5(1028)年5月頃、下総国の平忠常の軍勢が安房国司館を攻めて「安房守惟忠、為下総権介平忠常被焼死了」(『編年残篇』)という。「長元の乱」である。忠常の次男・平常近(恒親)は「安房押領使」とされ(『松羅館本千葉系図』)、もしも彼の「安房押領使」が事実で忠常叛乱以前に就任していたとすれば、常近と安房国司館の焼打には何らかの関係があるのかもしれない。
高望王―+―平国香―――平貞盛―+―平維将――――平維時――――平直方―+―平維方――――平盛方
(上総介)|(常陸大掾)(陸奥守)|(肥前守) (上総介) (上野介)|(蔵人雑色) (左衛門尉)
| | |
| +=平維時 +―女子
| |(常陸介) ∥――――――源義家―――源為義
| | ∥ (陸奥守) (左衛門大尉)
| +=平維衡――+―平正輔 源頼信―――源頼義
| (常陸介) |(安房守) (甲斐守) (伊予守)
| |
| +―平正度――――平正衡―――平正盛――――平忠盛―――平清盛
| (常陸介) (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)
|
+―平良兼―――平公雅―+―平致頼――+―平致経
|(上総介) (武蔵守)|(平五大夫)|(右兵衛尉)
| | |
| | +―平公親
| | |(内匠允)
| | |
| | +―平公致
| | |
| | |
| | +―平致光
| | (大宰権大監)
| |
| +―平致秋 ……平致方
| |(左衛門尉) (武蔵守)
| |
| +―入禅
| (比叡山僧)
|
+―平良文―――平経明―――平忠常――+―平常昌――――平常長
(陸奥守) (上総介) |(武蔵押領使)(武蔵押領使)
|
+―平常近
(安房押領使)
忠常は「上総介」当時は上総国府付近の国司館(市原市村上付近歟)に居住していたであろう。同時に国司の職責としての国内社拝に伴うものとして、上総一宮の玉前神社(長生郡一宮町一宮)周辺にも公権所や公館はあっただろう(のちに忠常が夷隅山に籠った例や、子孫の一宮館居住もまたその名残といえよう)。
忠常は、上総介を辞した後は帰洛することなく本貫の下総国に戻ったのだろう。長元の乱は、忠常がかつて「上総下総ヲ皆我マゝニ進退シ」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)という旧勢力範囲で起こした叛乱ではあるが、当時の忠常は「下総権介平忠常」(『応徳元年皇代記』千鳥家本、『編年残篇』)とあり、これが事実とすれば、忠常は下総国に土着して私営田領主化しながら、国衙の在庁官人として「権介」の地位にあったと推測される。忠常のように、旧国司による地方領主化は、忠常から百年以上遡る頃には常態化しており、関東では上総介として延喜19(919)年5月上旬頃に武蔵国で濫行した「前権介源仕」(『扶桑略記』二十四)、承平5(935)年2月以前に常陸大掾で筑波山西麓に地盤を築いた「前掾源護」(『将門記』)などがみられる。忠常もこうした私営田領主として勢力を伸ばしたものと思われる。
●『扶桑略記』(二十四 裏書)
忠常の下総国における居住地は、子孫の動向をみると千葉郡、相馬郡辺りと推測され、国府に近い水運に適する地と思われる。とくに相馬郡は、子孫の千葉介常胤が「是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経…」と「先祖相伝領地」と述べる地であり、「天治元年六月所譲与彼郡也、隨即可令知行務郡務之由、同年十月賜国判之後…」(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鏑矢伊勢宮方記』:『千葉県史料』中世編))とあるように、相馬郡司職も相伝していたこともうかがえ、それは私営田領主として忠常も相馬郡司となっていた可能性もあろう。
■久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鎌倉遺文』櫟木文書)
下総国に根拠を持つ忠常が、みずから上総国や安房国に出張して兵乱を起こすことは、常識的に考えにくいのではなかろうか。よって、この乱は忠常自身の挙兵ではなく、上総国または安房国の在地勢力が起こした兵乱だった可能性も考えられる。当初より忠常が京都との連絡を試みたり、追討使直方に贈物を送ったり、私君教通に書状を送ったりしているのは、叛乱が忠常自身の想定していない部分で生じたものだった、とも考えられるだろう。
ただ、追討の対象が「平忠常并男常昌等可追討宣旨事」(『小記目録』十七 臨時七)とあるように、京都には兵乱の首謀者は忠常と常昌(常将)であると報告されていたのは確実である。なお、挙兵の原因は同族平氏との対立があるともされるが、忠常と同族平氏で対立関係があったと確認できる記録は『今昔物語集』にみられる「平左衛門大夫惟基(平維幹とされる)」以外はない。
この安房国司惟忠焼殺の直後、忠常郎等は上総国司館にも乱入し、国司の「上総介為政(縣犬養為政)」を拘禁しており、上総国と安房国は忠常勢の行動範囲だったことがわかる。ただ忠常の本貫である下総国の国府が攻められたという報告は京都には伝わっておらず、下総国府の状況は不明。ただ、同年下総守として下総国に下向した「下総守為頼」は、任国下向後程なくしてこの叛乱に遭遇し、「相営追討忠常事之間、人物共已弊」(『左経記』長元四年六月廿七日条)と見えるため、兵を繰り出して忠常勢と戦った様子がうかがえる。
忠常の乱以前の下総守は藤原如信で、万寿4(1027)年8月8日、香取社が「以守如信、令造立御社雑舍玉垣等、被延四个年任事」(『小右記』万寿四年八月八日條)という解文を朝廷に送達しているように、この年は式年遷宮の年に当たり(『香取社造営次第案』より逆算:『香取文書』)、如信はその大役を担い香取社からも四年重任の願いが出されたのである。この解文は実資から頭弁重尹に付しており、この重任が認められていれば、忠常が叛乱を起こしたときの下総守は藤原如信となったが、長元4(1032)年3月1日時点で「下総守為頼、申被重任」(『小右記』長元四年三月一日條)していることから、「(藤原歟)為頼」が長元元(1029)年より下総守となったことがわかり、藤原如信の重任が認められなかったことがわかる。
●『小右記』(万寿四年八月八日條)
藤原宇合――藤原綱手――藤原菅継――藤原真野麿――藤原豊仲―――藤原真常――藤原時範――藤原雅量――藤原為輔――藤原如信
(式部卿) (内舎人) (周防守) (右近衞少将)(上野介) (式部丞) (左少弁) (甲斐守) (下総守)
●『小右記』(長元四年三月一日條)
藤原良門――藤原利基――藤原兼輔――藤原為頼――藤原伊祐――藤原公輔――藤原頼長――藤原為頼――藤原為能――藤原能盛
(内舎人) (右中将) (中納言) (丹波守) (讃岐守) (出雲権守)(民部丞) (武蔵権守)(左衛門尉)
長元の乱は、具体的な月日は不明ながら、万寿5(1028)年5月頃、「安房守惟忠、為下総権介平忠常被焼死了」(『皇代記』後一条)という事件により発生する。この報告は5月末には京都に伝えられている。
安房国司焼殺の件につき、6月5日、朝廷は「平忠常并男常昌等可追討宣旨事」(『小記目録』十七 臨時七)と決定し、6月18日には「被定忠常追討使事」(『小記目録』十七 臨時七)られた。これを受けて6月21日に宮中での陣定において「居住下野平忠常」の追討使が選定されることとなる。
●『左経記』(万寿五年六月廿一日條)
●万寿5(1028)年6月21日仗座公卿●
記録 | 名前 | 官位 | 官途 | 年齢 | 人物 |
右大臣 | 藤原実資 | 正二位 | 右大臣 | 72 | 右近衛大将。藤原斉敏(従三位・右衛門督)の子。『小右記』作者。 |
内大臣 | 藤原教通 | 正二位 | 内大臣 | 33 | 左近衛大将。藤原道長の子。 |
中宮両大夫 | 藤原斉信 | 正二位 | 中宮大夫 | 62 | 大納言・民部卿。藤原為光の子。 |
中宮両大夫 | 藤原能信 | 正二位 | 中宮権大夫 | 34 | 藤原道長の次男で頼通・教通とは異母兄弟。 |
権大納言 | 藤原長家 | 正二位 | 権大納言 | 23 | 藤原道長の六男で御子左家祖。 |
左衛門督 | 藤原兼隆 | 正二位 | 左衛門督 | 44 | 左衛門督。二条関白道兼の嫡男で、祖父・兼家の養子。 |
源中納言 | 源道方 | 従二位 | 権中納言 | 61 | 宮内卿。道長正室・源倫子の従弟(源重信五男)。 |
春宮権大夫 | 源師房 | 従三位 | 春宮権大夫 | 19 | 権中納言。村上天皇皇子・具平親王の子。村上源氏の祖。 |
左右兵衛督 | 藤原経通 | 正三位 | 左兵衛督 | 46 | 参議・治部卿。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子。 |
左右兵衛督 | 源朝任 | 正四位下 | 右兵衛督 | 40 | 参議。従二位・権大納言・源時中(道長正室・源倫子兄)の子。 |
左宰相中将 | 藤原資平 | 正三位 | 左近衛中将 | 43 | 参議。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子で、叔父・実資の養嗣子。 |
新宰相 | 藤原公成 | 正四位下 | 参議 | 30 | 近江権守。権中納言・藤原実成の子。 |
追討使は「頼信、正輔、直方、成通等」(『小記目録』十七 臨時七)の四名が候補として挙げられ、出席公卿らは「伊勢前守頼信朝臣」こそ適任であると推薦した(『左経記』万寿五年六月廿一日條)。この候補順は官位順に記されており、頼信は当時正五位上(翌年従四位下に昇叙)、次の正輔は翌年安房守となっており従五位下または従五位上であろう。直方は右衛門少尉で正六位上であろう。
案 | 名前 | 官途 | 私君 | 備考 |
頼信 | 源頼信 | 伊勢前守 | 藤原頼通 | 源満仲の子。当時は散位か。 寛仁3(1019)年7月8日、実資は「頼信入道、殿近習者也」(『小右記』寛仁三年七月八日条)と記しており、頼信は頼通の近習だったことがわかる。 |
正輔 | 平正輔 | 不明 | 藤原実資 | 平維衡の子。当時の官途は不明。 父の維衡は寛仁4(1020)年12月3日当時、実資の「家人」(『小右記』寛仁四年十二月三日條)であり、治安3(1023)年11月22日、「常陸介維衡息正輔朝臣」が実資邸を訪れて、常陸国の交替使問題について切々と述べている(『小右記』治安三年十一月廿ニ日條)。正輔が父維衡と実資の主従関係を継続したかは不明だが、正輔もまた実資家人だった可能性があろう。 ~常陸介平氏(貞盛子息)と藤原実資の関係~ 平維幹:常陸介。寛仁4年閏12月13日当時「前常陸守」であり、さらに実資の「僕」(『小右記』長保元年十二月九日條)だった。 平維敍:常陸介。実資家人。 平維時:常陸介。子の直方とともに実資邸に頻繁に通う。維時は関東下向に際しても実資邸を訪れているように実資の家人であった可能性が高い。 貞盛流平氏は常陸国との関わりが深く、貞盛の子維衡、維幹、維時、維敍の兄弟は実資家人であり、藤原実資は常陸国に権益を持っていた可能性がある。 |
直方 | 平直方 | 右衛門少尉 | 藤原頼通 藤原実資 |
平維時の子。当時は検非違使。父の維時とともに実資邸を頻繁に訪問する。 |
成通 | 中原成通 | 右衛門少志 | 不明 | 父は不明。当時は検非違使。 |
前述のとおり、当初は頼信を追討使とすることが公卿一同の意見であったが(以前に常陸介として忠常を従えた実績を買われたものか)、その後の協議の中で、頼信、正輔を差し置いて「右衛門尉平朝(臣)直方、志中原成道等」が追討使に選出された(『左経記』万寿五年六月廿一日條)。なぜ、当初の頼信から直方へと追討使の人選が変わったのであろうか。
この人選に当たっては頼信・正輔が外されていることから、官途の上下は関係なかったことがわかる。また、直方が東国(とくに相模国)に地盤を持っていたからその軍事力を期待して追討使に選ばれた等の説もあるが、到底不可である(そもそも父維時は常陸国に何らかの基盤があった可能性は否定できないが、他の貞盛流平氏同様に相模国との関わりは一切見られず、しかも当時の直方は受領経験もない一介の検非違使尉に過ぎない。このような不可解な説は到底不可である。また、相模国と鎌倉と直方の関係としては、平直方が源頼義を女婿とし「八幡太郎義家出生し給ひしかば、鎌倉を譲り給ひし」(『詞林采葉抄』)という説話があるが、この説話は南北朝期の著者由阿が十四世紀当時に蒐集した伝承を取り入れたものであり、史料的信憑性はない)。
陣定での協議の詳細は残されていないが、後日の傍証から見る限り、陣定の結果、忠常の「追討」は形式上は追討使の派遣だが、実態は検非違使による追捕での対応可能と判断されたのだろう。その結果、四人の候補者から検非違使の直方、成通が忠常追討使に選ばれたのであろう。直方らに下された官符は「当初猶可搦捕之由、重可給官符歟」(『小右記』長元三年六月廿三日條)とあるように「搦捕」が主目的だったのだろう。この人選に実資ものちに「件事、只差遣検非違使、所被追捕也、異給節刀之使」(『小右記』万寿五年七月十五日条)とあるように、検非違使での追捕を妥当と理解していたことがわかる。そしてほかの出席公卿一同もまた納得の結論であったと推測される。
忠常の叛乱は、百年前の「承平の乱」と比べて朝廷の危機感は低かった(承平の乱では坂東九国が将門の手中に帰すほどの大乱であり、参議藤原忠文が節刀され征東大将軍として関東に派遣された)。今回の叛乱は、安房国館の襲撃と国司殺害のみ報告されており(この時点では上総国司館が襲撃された報告はない)、承平の乱のように燎原の火にはならないと想定されたのだろう。一方で、東海道・東山道諸国には、忠常追討に関する太政官符を発給することもまた決定された(『日本紀略』万寿五年六月廿一日条、『左経記』万寿五年六月廿一日条)。兵士供出と兵站の支援であろう。そして、追討使首途の日は7月21日と定められた。
ところが7月8日、実資のもとを訪れた大外記清原頼隆は、「追討使成通持来■公家雑事九箇条申文、件事等更不可■■」(『小右記』万寿五年七月八日條)と、中原成通は「件事等更不可」という九箇条の申文草案を清原頼隆へ渡したことを述べている。「件事」とは忠常追討に付随する事項と考えられるが、具体的な内容は不明である。ただ、第二條に「追討事、不可被行下弦血忌日等事」(『小右記』万寿五年七月十日條)があり、第二條は忠常追討首途日に関する反対意見である。なお、この申文は実資から養子・宰相中将資平に届けられ、資平も意見を表しているが「追討史(ママ)申請事九ヶ条文中、中将伝見、是成通所進、但以使部可為証人事、頗無便宜、仰此由了、自余條々有可止事等、然而不仰子細(追討使申請の九ヶ条を中将資平が伝え見た。この申文草案は成通が著したものだが、検非違使の使部を使者とすべきだという点は大変不都合という。その他の条々も申状に載せるべきではないこともあると言っているが、それぞれの詳細は述べなかった)」といい、申文の何條かに「以使部可為証人事」があったこともわかる。
この成通の申文以降、首途日の吉凶により、陰陽道の人々の見解の差異などがあり、実際の追討使出立の日取りが決定できない事態に陥っていく。
7月10日早朝、「維時朝臣持来追討使申請申文九ヶ条」(『小右記』万寿五年七月十日條)と、平維時(追討使直方の父)もまた成道が著した追討使申文九ヶ条を実資のもとに持参した。この申文を見た実資は、
「九ヶ条太多、又有不可申請事等、三ヶ條許宜歟、第二條事追討事、不可被行下弦血忌日等事、可入條右状中、是一日所見文也、成通筆作者、内々覧関白、可進(九か条は多すぎる上に、申請すべきではない事柄もある。三か条程度が適当であろう。第二条にある、追討の事は下弦と血忌日は行ってはならない事、という項目は申文に含めるべきだ。この申状は前日とおなじものであり、内々に関白の内覧に供してから持参するよう)」(『小右記』万寿五年七月十日條)
と維時に伝えた。
維時・直方はおそらく成通から九ヶ条の申文を渡され、21は忌日である旨の説明も受けていたと思われる。そのため、維時は実資に「問進発日」たが、実資は追討使下向日と勘申されている7月21日について、
「廿一日者、件日公損、亦血忌日、下絃日、若如何(七月二十一日は、朝廷の悪日、また血忌日でもある。下弦の日でもあり、どうかと考えている)」(『小右記』万寿五年七月十日條)
と答えている。すると維時も、
「示気色、公損字有事忌、又血忌日、暦序云、不可行刑戮者、亦下絃字読頗劣也(懸念を示し、『公損』の字義は行動を忌むと。また血忌日は『暦序』によれば刑の執行を行うべきではない日とされます。さらに『下絃』の字も「頗劣」と読みます)」(『小右記』万寿五年七月十日條)
と答えて懸念を伝え、首途日の変更を求めたのだろう。維時は追討使ではないが、子息の追討使直方が何らかの事由で実資のもとへ来ることができなかったため、その代理で訪問したものだろう。おそらく維時も維幹、維敍らほかの兄弟と同様に実資家人であったのだろう。
実資は大外記頼隆に21日の忌日について質問すると、頼隆は、
「三ヶ難尤優也、可忌避也、後日問勘日時之人、守道朝臣所勘也(公損、血忌、下弦の三難がとりわけ重なっており、忌避すべきです。後日、二十一日を勘申した人を問うたところ、賀茂守道朝臣でした)」(『小右記』万寿五年七月十日條)という。さらに、
「帰宿勘見、公損日、易卦深可忌刑殺事、多不記耳(外記局保管の宿曜勘文の先例を見たところ、公損日は刑罰、殺生を深く慎むべき日でした。ただ、多くは記されていませんでした)」(『小右記』万寿五年七月十日條)
と述べた。後日、頼隆は『損卦林(卦の凶に関する例集か)』に書いてあるものとして、
(1)是剋損已身、以益他人之卦、是有所費損事(自身を損ない、他人を利する卦であり、これは費用・損失を伴うであろう)
(2)出軍不利(出征は利あらず)
(3)攻伐不得(攻伐も結果は出ない)
(4)追亡有相剋不成(匪賊を追亡しようと思っても、内部対立で成功しない)
(3)凶咎(禍が降りかかる)
という調査報告を実資に報告。実資も「追討使不可用此日也、譬如土用事日不可犯土、損卦用事日、不可行征討也(追討使を二十一日に派遣することはできない。例えば土用には土関係の行事は不可であるように、「損卦」が出た日に征討は不可なのだ)」(『小右記』万寿五年七月十日條)との考えを記している。
7月13日夜、実資に厩舎人(伴友成)から「■■(為政家人だろう)、従上総罷上、介為政朝臣貢馬進御馬、雑物、馬二疋、手作布百四端、鴨頭革■■■■鮑等」(『小右記』長元元年七月十三日条)が届けられた報告があった。為政家人がこれら貢物を実資邸に運んできたのだろう。実資がみると「馬頗宜」ので「令厩立」た。おそらく上総介縣犬養為政は実資家人とみられる。同日条には見られないが厩舎人伴友成と為政家人はおそらく顔見知りであり、上総国の状況を伝え聞いている。
7月15日夕刻、平直方は「師光」に実資に「令申追討雑事」たが、「迺呼前聞所陳之旨、廿三日、有種々忌由有所伝承(先日の忌日の件ですが、「二十三日も様々に忌むべきことがある」と伝え聞きます)」(『小右記』長元元年七月十五日条)ことを伝えた。これを聞いた実資は「即乍驚罷向守道朝臣許、触此由(驚いて賀茂守道朝臣のもとへ行き、二十三日も忌日と聞いたが本当かと確認をした)」ると、守道は「殊無所申(とくに申す事はありません)」と答え、さらに「彼日不宜者、廿六日吉日、而主上御衰日、廿五日宜日也、彼廿五日夜半首途可宜者(二十三日が不吉であれば、二十六日が吉日となります。ただ、その日は主上の凶日で二十五日は吉日です。ですから二十五日夜半に首途すればよいでしょう)」(『小右記』長元元年七月十五日条)という。
また、直方の言として「申請条々事、以前日含父維時之趣、申関白了、被仰可然之由、即返遣草案文于成道所、未申左右、又関白曰、早詣右府申承件事等可進止者(九ヶ条の申請の件は、先日、父維時の意向も含めて関白に申し上げ、関白からは「もっともだ」との仰せを受けております。そこですぐに申文の草案文を成通のもとへ返送して再作成を願いましたが、未だ何ら連絡はありません。また、関白は「早々に右大臣(実資)のもとへ参上し、この件の判断を仰ぎなさい」と言われております)」(『小右記』長元元年七月十五日条)と実資に伝えられた。
実資は「申請事々甚多々、三箇条可宜由先日所示也、成通確執不改止条々事等者、亦申事由、於関白下向有何事乎、若有可申請事等、於途中若事発所国言上事由、更何事之有也(申請された事柄は非常に多く、三ヶ条にまとめるのがよいと先日成通に指示したが、成通は頑なに改めず、止めるべき条々も主張しているという。また、成通の主張を関白に報告したところで何の意味があるのだ。もし申請すべきことがあるのであれば、東下途次にその国から報告すればよいことで、それ以上何があろうか)」(『小右記』長元元年七月十五日条)と答えている。実資はこのほかにも返答したようだが、「其外事等不記子細」と記録に残さなかった。
またこの日、「厩舎人友成」は実資に「上総介為政妻子、近日申可令上道由、而依件事、国人弥不聞国司事歟、国司在忠常之掌握、生死被任彼心、濫吹事逐日不断、忠常従者入乱館内、打縛国司従類之由(上総介為政の妻子が、近日上洛するとのことです。忠常反乱により、国人はますます国司の命令を聞かなくなったようです。国司為政は忠常に囚われ、その生死は忠常の心次第です。好き勝手な命令が毎日出され、忠常の従者たちは国司館に乱入して国司の従者たちを縛り上げているという話です)」(『小右記』長元元年七月十五日条)を伝えている。これは伴友成が上総国から貢物を運んだ為政従者から聞いた情報なのだろう。
このとき実資ははじめて家人の上総介為政が国司館を占領されて囚われの身であることを知ったのだろう。実資は「最可歎、可指弾、可殊労止之由(これ以上なく嘆かわしく非難すべきことだ、とくに為政妻子等を救済するように)」事を追討使の直方に伝えるべく、厩舎人友成を直方邸に返答の使者として遣わした。友成は「可令守上為政朝臣妻子等之事、同仰直方朝臣了」し、直方も「申可労止之由訖」(『小右記』長元元年七月十五日条)した。
このほか実資が友成に言い含めたのは「抑首途日、可避有指忌之日許、強不可択優吉日、件事、只差遣検非違使所被追捕也、異給節刀之使、至尋常、遠近追捕、不撰善悪日、奉宣旨馳向之例也、事可同彼意、然而程在遼遠、仍猶可撰吉日也、此由等具相含了(そもそも首途の日は、忌むべき日だけを避ければよく、強いて吉日を選ぶ必要はない。もともとこの件は、ただ検非違使を遣わして追捕するというだけの案件であり、節刀を給わる追討使とは根本的に異なる。遠近を問わず追捕については善悪日を撰ばず、ただ宣旨を奉じて馳せ向かうのが通例である。したがって、本件もその考えに準ずべきである。ただ、叛乱の地が遙かに遠いため、やはり吉日を選ぶべきだ。これらの事を詳細に言い含めた)」(『小右記』長元元年七月十五日条)というものだった。そして「若求優吉日、旬月相移、賊徒廻謀歟、甘心退去、夜中可申関白者(もし吉日を求めれば、月日が過ぎて賊徒が謀略を巡らせて退散することも考えられる。この旨を夜のうちに関白へ申上げよ)」(『小右記』長元元年七月十五日条)と伝えた。
実資は、今回の忠常追討は節刀を給わる追討使(征夷大将軍、征東大将軍等)ではなく、ただ検非違使を差し遣わして追捕するだけのもので、吉日にこだわる必要はないという認識であった。前述のとおり、忠常追討使を検非違使に選んだのは、陣定での認識が単発で国府を攻めるような地方紛争の一つ(たとえば平維良による下総国府攻め、)大きな叛乱ではないという軽い認識が共有されたため、天皇まで動かす大仰な追討使ではなく、検非違使に東海東山諸国を協力させて捕えることになったためであろう。関白頼通も報告を受けた際にこうした認識のもとで決定されたと思われる。
ところが7月15日深夜、陰陽頭惟宗文高は実資邸を訪ね、門外に師重(実資家人の陰陽師か)を招いて言うには「廿三日追討忠常之使発遣之由、伝所承也、須件日陰陽寮勘申也、而不被仰下也、守道朝臣勘申云々、廿三日最悪日也、以此由可申公家、然而有所思不令奏、只為触下官参也、能可撰申之日也、天下大事只在斯者、不聞返事逐電退去(『二十三日に忠常追討使が発遣されると伝え聞いた。本来は発遣日は陰陽寮が勘して申し上げるべきことだが、今回はそのような仰せはない。二十三日の事は守道朝臣が勘したというが、二十三日は最悪の日だ。この理由を奏聞すべきだが、思うところあってあえて奏しなかった。ただ私として命令を受けたので参じただけである。改めて吉日を選び直して申し上げるのがよいだろう。天下の大事はまさにここである』と言い、返答も聞かずに急ぎ退去した)」(『小右記』長元元年七月十五日条)とのことだった。23日の追討使下向日も実資が守道の意見を聞いて評議に諮ったとみられ、陰陽寮を統べる陰陽頭惟宗文高はこれを懸念して、「須件日陰陽寮勘申也、而不被仰下也」(『小右記』長元元年七月十五日条)と伝えたのだろう。
7月16日夜、「直方朝臣」が実資のもとにきて何かを「申請」している(『小右記』長元元年七月十六日条)。詳しい内容は擦消しているため不明だが、「已有許容、是下官指示之趣而已」といい、おそらく直方のもとに「即返遣草案文于成道所、未申左右」(『小右記』長元元年七月十五日条)の修正後申文草案が成通から直方に届けられたのだろう。その修正案は実資から指示された通り三ヶ条に修正されていたものだった。直方はその草案を了承したか。
二日後の7月18日深夜、「■■(直方?)朝臣来■■■事、首途日来月五日」(『小右記』長元元年七月十八日条)と、平直方が実資を訪問して首途の日の報告をした。ただ直方は「卯日向卯方如何、是心中所思」と、「方位注」の悪日で内心思うところがあるとして、8月5日の出立の懸念を伝えている。また「申請事、如余示仰、注三ヶ条者」という申文と、「■申駅鈴者」という駅鈴下賜を求めている(『小右記』長元元年七月十八日条)。
7月23日、実資のもとに頭弁重尹が「追討使申請三箇条文、不可奏■■、頃之来、下給追討使文、乍三ヶ条依請■■宣旨之由、可追下国々司事、不可載宣旨■■、使部可追下也(追討使が申請した三か条の文書については、■■のため奏聞できませんでした。 このたび追討使文が下されましたが、三か条の申請により■■■ながら宣旨の内容を諸国司に伝えるべき事を宣旨に載せるべきではありません。使部を以って伝えるべきです)」(『小右記』長元元年七月廿三日条)との報告に訪れた。
また、「上総介為政宿禰妻子、無方上道之由、付厩舎人友成所申、就中追討忠常之間、州民弥無相送之心歟、仍仰追討使直方、亦仰遣路次国々、即以友成為其使、友成申云、直方朝臣書付遣所々(上総介為政宿禰の妻子が上洛に際して方角もわからず困惑しているとの事を、厩舎人友成が申し出てきた。 とりわけ忠常追討につき、上総国の民もいよいよ彼らを送ろうという気持ちはないのだろう。そこで、追討使直方や官道諸国に上総介為政妻子の保護・護送を命じ、友成をその使者としたが、友成が申すには、「直方朝臣が書状を各所に遣わした」という)」という。
こうした中で7月25日、実資のもとに検非違使別当経通が訪れて語ったところでは、「今日可有赦令、可被免軽犯者歟、定有宣旨歟、可令道官人勘申」と考えたが、麾下の「為長遭喪、成通煩小瘡、不出仕」と、明法道の豊原為長、中原成通ともに出仕していなかった。経通は忌中ではない「煩小瘡」の成通に「縦雖未参仰、可進軽犯者勘文」と指示するが、成通は「目并手腫、不能勘申」という。経通は「令見気色似遁追討使節、勘文事為之如何者(成通は追討使から遁げたいという気持ちが見える。勘文の事はどうしたらよいだろう)」と悩み、実資に相談に来たのだった。これに実資は「軽犯勘文、雖非道官人勘申歟、別当宣佐奉之例也、別当参議時称内侍宣(軽罪人に関する勘文は、明法道の官人でなくてもよい。これは別当宣を補佐する先例である。別当が参議だった時は、これを「内侍宣」と称した)」と述べている。経通は「無道官人之由、至今不可申関白、成道依此事為致披露歟(明法道の官人がいないことを、これまで関白に申し上げていなかったが、成道はこの件について報告したのだろうか)」と述べている。
また同日、改元の元号勘申があり、下記の案の中から「長元」が選ばれた。
勘申 | 元号案 |
為政 | 天祐、長元、長育 |
通直 | 玄通 |
挙周 | 延世、延祚、政善 |
8月1日夕刻、左中弁経頼は関白邸(高陽院か)に参じた(『左経記』長元元年八月一日條)。経頼は関白頼通の従兄で日頃から深く交流していた。
藤原冬嗣―+―藤原良門―――藤原高藤―――藤原胤子 +―醍醐天皇―――村上天皇―――円融天皇
(左大臣) |(内舎人) (内大臣) ∥ | ∥――――――――――――一条天皇
| ∥ | ∥ ∥
| ∥ | 藤原兼家―+―藤原詮子 ∥
| ∥ | (関白) | ∥
| ∥ | | ∥
| ∥――――+――――――――敦実親王 +――――――――藤原道長 ∥
| 仁明天皇―+―光孝天皇―――宇多天皇 (式部卿) (関白) ∥
| | ∥ ∥ ∥
| | ∥ ∥―――+―藤原彰子
| | ∥ ∥ |
| | ∥ ∥ |
| | ∥ +―源倫子 +―藤原頼通
| | ∥ | |(関白)
| | ∥ | |
| | ∥――――+―源雅信――+―源時中 +―藤原教通
| | ∥ |(左大臣) |(大納言) (内大臣)
| | ∥ | |
| +―人康親王―――女子 +―女子 +―源重信 +―源扶義―――源経頼
| (弾正尹) ∥ | (左大臣) (参議) (参議)
| ∥ |
| ∥――――+―藤原時平―+―女子
| ∥ |(左大臣) ∥―――――藤原斉敏
| ∥ | ∥ (参議)
+―藤原良房==========藤原基経 +―藤原忠平―+―藤原実頼 ∥――――+―藤原懐平―――藤原資平
|(摂政) (関白) (関白) |(関白) ∥ |(権中納言) (大納言)
| | ∥ |
+―藤原長良―――藤原基経 | 藤原尹文――女子 +―藤原実資===藤原資平
(権中納言) (関白) |(播磨守) (右大臣) (大納言)
|
+―藤原師輔――藤原兼家―――藤原道長―――藤原頼通
(右大臣) (関白) (関白) (関白)
ちょうどこのとき邸内では懐妊中の頼通室祇子の「犬産礼」が行われていたようで、経頼は殿中を憚り南庭の階段下に伺候して、頼通から雑事を承っていたところ、信濃前司維任が「左衛門志豊道等申、忠経従者依有入京聞、依別当宣尋捕持参者(検非違使志の粟田豊道等が、忠常従者が入京したという情報を受けて、別当宣により忠常従者を捕えて連行してまいりました)」と頼通へ報告に上がった。頼通はすぐに「可令問忠経有様者(その男から忠常の情報を聞き出すように)」(『左経記』長元元年八月一日条)と指示している。
●『左経記』(長元元年八月一日条)
夜になって、大外記清原頼隆が実資邸を訪れ、夕方の「検非違使捕得忠常従者」(『小右記』長元元年八月一日条)の事件を報告している。
翌8月2日朝、実資甥の検非違使別当藤原経通が、昨日の男は尋問結果から忠常従者ではなく郎等従者だったことが伝えられ、「後聞、忠常郎等従者」(『小右記』長元元年八月一日条)と『小右記』に追記訂正されている。
翌8月2日朝、実資は検非違使別当藤原経通から昨日の忠常従者捕縛の情報が伝えられた。その書状には「忠常脚力、夜部令搦奉関白殿了、則被問、申云、件男忠常郎等之従者、不知子細、実忠常脚力二人也、一人在運勢許、一人在通朝臣許之由、証申了(忠常の脚力を夜中に捕らえ、関白殿に奉りました。すぐに尋問したところ、この男は忠常郎等の従者であり、詳細は知らないとのことです。実際に入京している忠常の脚力は二人いて、一人は運勢法師のところにおり、もう一人は在通朝臣のところにいるという旨の言質が取れました)」とあった。
この捕物騒ぎについて、忠常の私君である「内府(藤原教通)」は「頗傾思侍、乍置実忠常脚力、郎等之従者在所ヲ被尋申、頗孫本文也者(はなはだ疑問である。実際の忠常の脚力を放置して、郎等の従者の所在に踏み込むとは、はなはだ本末転倒である)」と述べている。
●『小右記』(長元元年八月一日、二日条)
検非違使に捕縛された「忠常郎等之従者」は、当然「不知子細」(『小右記』長元元年八月一日条)であった。また、「実忠常脚力二人也」とあるように、忠常の「脚力(使者)」は二名入京し、それぞれ「運勢法師」「明通朝臣」のもとに滞在していることも判明する(『小右記』長元元年八月一日条)。「運勢法師」は由来不明ながら平時には忠常とも関わりがあった人物であろう。「明通朝臣」については、検非違使を務めた左衛門少尉藤原明通で、従姉妹に教通実姉・上東門院(藤原彰子)に仕えた女房(紫式部)がおり、自身も教通実妹・藤原威子(後一条天皇中宮)の中宮少進を務めていたことから、藤原明通は教通の家人であり、忠常とは知己の人物だったと推測される。
●藤原明通周辺系図
藤原長良――+―藤原国経――藤原忠幹――――藤原文信―――藤原惟風―――藤原惟経
(権中納言) |(大納言) (勘解由長官) (鎮守府将軍)(中宮亮) (太皇太后宮大進)
| ∥
+―藤原基経 ∥――――――藤原棟綱
|(太政大臣:叔父良房養嗣子) ∥ (相模守)
| 平直方――+―女
| (上野介) |
| +―女
| | ∥―――――――――――藤原朝憲
| | ∥ (陸奥守)
| | 藤原憲輔 ∥
| |(宮内卿) ∥―――――藤原説定
| | ∥ (駿河守)
| | +―源頼清――源兼宗――女
| | |(陸奥守)(上野介)
| | |
| | +―源頼義
| | (陸奥守)
| | ∥――――源義家
| | ∥ (陸奥守)
| +―――女
|
|
+―藤原高経―――藤原惟岳―――藤原倫寧―――藤原理能―――藤原為祐
|(右兵衛督) (左馬頭) (常陸介) (肥前守) (駿河守)
|
+―藤原遠経―+―藤原良範―――藤原純友 藤原為時
|(右大弁) |(太宰大弐) (伊予掾) (越後守)
| | ∥――――――上東門院女房
| +―藤原尚範 +―娘 (紫式部)
| (上野介) |
| |
+―藤原清経―――藤原元名―――藤原文範―――藤原為信―+―藤原理明―――藤原明通
(右衛門督) (宮内大輔) (権中納言) (右近衛少将)(筑後守) (中宮少進)
∥
∥――――――藤原元範
∥ (式部少輔)
源致明――+―娘 ∥
(和泉守) | ∥
| ∥
+―娘 ∥――――藤原国綱
∥ ∥ (刑部大輔)
∥ ∥
藤原伊周 ∥
(内大臣) ∥
∥
藤原為時―+―藤原惟通―――娘
(越後守) |(常陸介)
|
+―上東門院女房
(紫式部)
8月3日夜、実資邸に「直方朝臣来、言雑事、明後日必可首途者(直方朝臣が来訪していろいろな用件について話し、明後日には必ず出発できると思います)」(『小右記』長元元年八月三日条)と語っている。
8月4日、時折小雨の降る中、朝から左中弁源経頼は関白邸の高陽院へ参じ、頼通から用件の指示を受けていると、平直方が「為祐朝臣(上記系譜の高経末孫か)」に取次を依頼し、頼通に「明日寅刻欲進発、主税頭守道称忌日不返閉、為之如何者(明日の寅刻に東下の首途をしたいのですが、主税頭賀茂守道が「忌日」と言って返閉を拒んでおり、どうすればよいでしょうか)」(『左経記』長元元年八月四日條)と問合せてきた。
●『左経記』(長元元年八月四日条)
これに関白頼通は「称忌日、強不可被催、如惟宗如文高可令行也(忌日を理由にしている者を無理に催促することはできない。惟宗文高に返閉を行わせよ)」と指示し、直方は惟宗文高のもとへ赴いて返閉の約束を取り付けており、午刻、実資邸に「直方、令申文高有約束之由」を伝えている(『小右記』長元元年八月四日条)。この際、実資は直方に「前日、成道問駅鈴可請哉否之由、其事如何(昨日、中原成通から「駅鈴を請うことができるか」と質問されたが、その件はどうなったのか)」と問うている。これに直方は「尋問人々不可請者、不申請(人々に問い尋ねると、請うべきではないとのことでしたので、申請しませんでした)」と答えており、追討使として平直方と中原成通は連携して進発の準備を行っていたことがうかがえる。
夕方、允が実資邸を訪れて告げるには、「忠常従者随身消息文等、来著運勢房奉内府文云々、運勢密々令申事由於関白殿、仰検非違使令捕(忠常従者が書状を携えて運勢房のもとに来て、忠常私君の内府(教通)への文を奉ったとのことです。運勢がその事情を秘かに関白邸に伝えたことで、関白頼通は検非違使に命じて捕えさせよと命じました)」とのことだった(『小右記』長元元年八月四日条)。
こうして「運勢」が「廻謀略令捕」た郎等従者(脚力)は、検非違使志の粟田豊道、生江定澄に引き渡され、「将参関白第」た(『小右記』長元元年八月四日条)。この脚力は四通の書状を持っており、関白頼通は右兵衛督頼任にそのうちの一通を読ませている。内容は「聞可被追討之由、可申所々事等」(『小右記』長元元年八月四日条)とあるように、自分が追討対象となったことを聞き、忠常がこのような事になった理由を主張を累々記したものであった。残りの三通は未開封で、一通は内府教通、一通は新中納言師房、一通は宛名がないもので、すべて未開封のまま検非違使に返却された。
●『小右記』(長元元年八月四日条)
亥時追討忠常之使、首途反閉陰陽頭惟宗文高朝臣者、是随身信武所申、罷彼出立所見之者、亦見物車有数云々、
午後出立由云々、見物上下、馳馬飛車会集如雲、臨暗少々分散云々、先日白昼首途可無便之由示含惟時朝臣并直方朝臣等已了、若信其事歟、先年忠義朝臣為追討阿波海賊之使、夜半首途云々
「亥の時刻(午後9時頃から11時頃)に忠常追討の使者が出発したが、首途(出発の儀式)が取りやめになったのは、陰陽頭惟宗文高朝臣によるものである。これは随身の信武が申し出たことで、その出発の場所に行って見た者によると、また見物の車も数多くあったという。
午後に出発するということで、見物の身分の高い者も低い者も、馬を駆り車を飛ばして雲のように集まってきた。夕暮れ時になって少しずつ散らばったという。先日、白昼の首途は都合が悪い旨を惟時朝臣および直方朝臣らに既に伝えてあったが、もしかするとその件を信じたのだろうか。先年、忠義朝臣が阿波の海賊追討の使者となった時は、夜半に首途したということである。」
八日、庚午、問遣忠常脚力事於検非違使別当、報書云、先脚力ハ是忠常郎等従者、不知子細、但於内者所申ハ相具精兵之由ヲ申者、是云々説云々、彼脚力ハ実忠常使也、所申子細不相具、至于忠常随身二、三十騎許可罷入夷隅山、若有内府解文御返事可来彼山辺之由ヲ申侍りしとそ申侍る、是実正歟、
「八日、庚午。忠常の脚力(使者)のことについて検非違使別当に問い合わせたところ、返事の書状に云く、先の脚力はこれは忠常の郎等(家来)の従者であり、詳細は分からない。ただし、内の者が申したところによれば、精兵を連れ具している旨を申す者がいる、これこれしかじかと説明したという。
その脚力は実際に忠常の使者である。申したところの詳細は一致しないが、忠常の随身二、三十騎ほどが夷隅山に入ることができるだろう。もし内府(内大臣)の解文(公文書)の御返事があれば、その山のあたりに来るという旨を申しておりましたと申している。これは本当のことだろうか。」
関白頼通は運勢法師のもとで捕らえられた脚力が持っていた書状を右兵衛督源頼任に読ませた。そこには忠常の「聞可被追討之由可申所々事等云々」とあり、追討が不当なものであることが理由も添えて記されていたと思われる。書状は他に「奉内府」「上書新中納言殿」「無上書」の三通があり、これらは披かれることなく検非違使へ返された(『小右記』長元元年八月四日条)。忠常がなぜ「新中納言殿(権中納言師房)」へ「上書」したのかは不明。師房が私君教通の実妹聟であったことが理由か。
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■夷隅郡(内の・が国府台) |
忠常がなぜ内府らへ書状を託そうとしたのか、右府藤原実資は興味があったらしく、取調べを総括している甥の別当経通に子細を尋ねている(『小右記』長元元年八月四日条)。経通によれば、かの郎党は忠常が派遣した「使者」で、書状(解文)は見ていないが、聞いたところによれば、もし内府から返答の使者を送るようであれば、「伊志み」の山辺まで来るべし、との内容であったという(『小右記』長元元年八月四日条)。忠常はこの書状で内大臣・新中納言へ意見(追討の不当性を訴えたと思われる)を出していたとみられる(『小右記』長元元年八月四日条)。
「伊志み」は忠常が「随人二三十騎」で籠っていたと報告された場所であるが、のちに追討使ほか周辺国が忠常の在所を探し当てることができなかったことや、のちに忠常が「欲行向上総」とあることから(『左経記』)、「伊志み」は彼の勢力下ではあったが、本拠地は「住下野(下総)」(『左経記』)であったのだろう。また、わずか「随人二三十騎」のみでこの地に来るとあることから、私君である内府教通の使いであれば降伏するという意思表示であった可能性が高い。ちなみに「伊志み」とは、『和名抄』に見える「伊志美」であると考えられ、上総国夷隅郡(いすみ市)にあたる。いすみ市には「国府台」と呼ばれる渓谷を眼前に控えた要害地(地図)がある。
しかし、忠常の望みも空しく朝廷は8月5日午刻、検非違使平直方・中原成道を追討使として派遣した。付随するのは二百余人という寡勢で、検非違使の下僚であろう。ところが追討使の進軍速度は鈍く、数日経ってもまだ美濃国におり、成道はここで「八十歳になる母親が病を患っている」と京都に使者を出したため、軍勢は美濃国で滞陣することとなる。成道の使者は8月16日に京都に到着。報告を聞いた検非違使別当・藤原経通は「成道は以前から直方と不和であり、これが故障の原因ではないか」と疑っている。経通は翌17日、成道の母は小康状態になったことを美濃の成道のもとへ伝えた。成道は仮病や故障を訴えるなど追討に否定的な人物であったことがわかる。
その後、忠常追討使に関する資料はしばらくなくなるため、追討使が関東に到着した日時は不明。そして、長元2(1029)年2月1日、右大臣藤原実資は東海道・東山道・北陸道諸国、追討使平直方へ下す忠常追討の太政官符の草案を披見し、2月5日、朝廷は「諸国相共可追討忠常之官符請印」が発給された(『小右記』長元二年二月五日条)。さらに追討使直方の支援のためか、直方の父・平維時が上総介に任じられ、2月23日、維時は関東へ向かった。しかし、その後も追討使に戦功はなく、6月8日、朝廷では追討使を別人に代えるべきか否かの詮議が行われた。また、13日には、「遣検非違使、捜求平忠常郎等住宅」(『日本紀略』)とあり、京都にあった忠常郎等の住宅を検非違使が家宅捜索している。ところが、その後もまったく忠常追討に進展はなく、業を煮やした右大臣藤原実資は、7月1、2日の両日行われる石清水奉幣の宣命に忠常調伏を載せるべきであると天皇(後一条天皇)に奏上している(『小右記』)。
追討使が派遣されて1年4か月が過ぎた12月5日、追討使平直方とその父・上総介平維時から、戦況を記した解文が京都に届けられたが、一貫して追討に否定的だった中原成道は何の報告もせず、12月7日、追討使・検非違使を更迭され召還が決定した(『小右記』)。そして12月8日、追討使直方のことについての陣定が開かれている(『小記目録』)。
長元3(1030)年3月27日、安房守藤原光業が突如上洛した(『日本紀略』長元三年三月廿七日条)。これは「依忠常乱逆、棄印鑰上洛」といい、忠常の叛乱の影響は安房国にも及んでいたことがわかる。ただし、このとき安房国が襲撃を受けたとは考えにくく、ただ安房国府の印を国衙に置いて京都に逃げ帰ったのだろう。このため朝廷は3月29日、当初、追討使の候補に挙げられた平正輔を「安房守」に任じたが(『日本紀略』長元三年三月廿九日条)、正輔は忠常追討には費用が嵩むとして、国衙の「不動米穀」を「毎国」五百石活用することを要求。朝廷はこれを断るが正輔も引かず、頼通も正輔の要求を認めざるをえなかった(『小右記』)。
高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――――直方――――+―維方―――――盛方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介) (左衛門少尉)|(蔵人雑色) (左衛門尉)
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| +=維時 +―女
| |(常陸介) |(陸奥守源義家母)
| | |
| +―維衡――+―正輔 +―女
| (常陸介)|(安房守) (相模守藤原棟綱母)
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| +―正度―――――正衡――――――正盛―――――忠盛―――――清盛
| (常陸介) (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)
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+―良兼――――公雅――――致頼――+―致経
|(上総介) (武蔵守) (散位) |(左衛門尉)
| |
| +―致方
| (武蔵守)
|
+―良文――――経明――――忠常――+―常将―――――常長
(陸奥守) (上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)
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+―恒親―――――恒仲――――――頼任
(安房押領使) (村上貫主)
一方、5月20日に京都に到着した直方の解文には、忠常が突如出家をとげて「常安」と号したことが記載されていた(『小右記』)。また、直方が解文で要請していた「各国の協力を得る太政官符の発給」については、「籠伊志見山并随兵減少由所推量」とあって、官符の発給には及ばないとして聞き入れられなかった(『小右記』)。
しかし6月23日深更、右大弁源経頼が実資のもとに「追討使直方并上総武蔵国司言上解文」を届けてきた。それによれば、追討使平直方、上総介平維時、武蔵守平致方は「忠常如言上不知在所者」であって、いまだ忠常の所在をつかむことができていない状態であることが判明する。実資は忠常追討について再考すべきかとして、三案を想起している。
(1)坂東国々依追討事■(歟) | 坂東諸国に命じて追討に当たらせるべきか |
(2)召■直方付国々可令勤追討事歟 | 直方に国々の兵を付けさせて追討に当たらせるべきか |
(3)当初猶可搦捕之由、重可給官符歟 | 当初の忠常捕縛の官符を、直方にそのまま再度給うべきか |
忠常の在所については、実資は「可令兼光申忠常在所歟(兼光に忠常の所在を申し立てさせるべきか)」と考えている。それは直方の解文に「忠常、志直方之雑物兼光伝送、仍可知彼在所者(忠常が直方への贈物の雑物を、兼光へ伝送している。よって、兼光は彼の所在を知っているはずである)」(『小右記』長元三年六月廿三日条)とあったためで、実資はこの件については「此間、諸卿相共可定申者(陣定で諸卿らとの評議の上で申し上げるべきだ)」と述べ、朝になってこれを奏上。「直方并維時、致方解文等返給」は返却された。
●『小右記』(長元三年六月廿三日條)
こうした状況の中、直方や上総介維時、武蔵守致方の忠常捕縛は遅々として進まなかったようで、ついに9月2日、直方は「無勲功」として追討使を解任の上召還され(『日本紀略』『小記目録』)、長元3(1030)年11月に空しく帰京した(『応徳元年皇大記』)。
直方の子「維方 使 上総介 従五上」(『尊卑分脈』『桓武平氏諸流系図』)の子に「盛方 左衛門尉」が見えるが、彼は権大納言源俊房の「年来家人」(『水左記』承暦四年閏八月十日条)であり、直方以来三代にわたって京官として続いている。盛方の生年は長元6(1033)年であり、直方が京都へ戻ったのちにうまれた孫で、従弟の陸奥守義家とは五歳違いとなる。「左衛門尉盛方」は承暦3(1079)年4月13日の「平野賀茂供競馬」(『十三代要略』)で「舞人」の年長者となり、「右衛門尉平兼衡、平正衡、左衛門尉藤季光、右衛門尉平宗盛、高階盛業、同成定、平兼季已上不謂左右年歯立次第」(『為房卿記』承暦三年四月十三日条、『参軍要略抄』承暦三年四月十三日条)を伴い神前に舞を披露した。しかし、翌承暦4(1080)年閏8月10日、四十八歳で亡くなっており(『水左記』承暦四年閏八月十日条)、主人の権大納言俊房はその死去を聞いて「可憐ゝゝ」と述べる。なお、『桓武平氏諸流系図』には盛方の兄弟に「聖範 阿多美禅師」が見えるが、彼が伊豆北條家の祖となった人物とされる。盛方は長元6(1033)年であることから、北條四郎時政の生まれた保延4(1138)年までおよそ百年の開きがある。単純計算で四代程となり、系譜上の矛盾はない。
●『桓武平氏諸流系図』(『中條家文書』)
平直方―――平維方―+―平盛方――――平俊範――――平実俊
(右衛門尉)(上総介)|(右衛門尉) (玄蕃助大夫)
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+―聖範―――――平時家――+―平時綱
(阿多美禅師)(北條四郎)|(北條三郎)
|
+―平時兼―――――北條時政
(北條四郎大夫)(北條四郎)
平直方に代わって、新たに追討使に任じられたのが、かつて忠常を降伏させ家人とした甲斐守源頼信であった。
長元3(1030)年9月2日、「仰甲斐守源頼信并坂東諸国司等、可追討平忠常状、依右衛門尉平直方無勲功、召還之」(『日本紀略』長元三年九月二日條)と、頼信に平忠常追討が指示されると同時に、追討使だった右衛門尉平直方には召還の命が下されたという。具体的な宣旨が下されたのは9月6日で、「頭弁(蔵人頭源経頼)」が右大臣実資へ「甲斐守頼信、殊給官符国々相倶可追討忠常事」等五通の宣旨(及び宣旨目録)を持参している(『小右記』長元三年九月六日條)。
9月11日、「甲斐守頼信」は実資に「絲十絢、紅花二十斤」を志した(『小右記』長元三年九月十一日條)。忠常追討使への起用に対する礼か。翌9月12日、実資は右大弁源経頼が「持来給甲斐守頼信官符」等の案を関白頼通に覧せ、「可清書之由」の指示を受けている(『小右記』長元三年九月十二日條)。
9月23日、実資は頭弁経頼が持参した「給甲斐守頼信、追討忠宗(ママ)之官符草」を検見して返し、清書するよう指示を出した(『小右記』長元三年九月廿三日條)。
長元4(1031)年正月6日、任国甲斐に在国中の甲斐守頼信は「申治国加階事、可令外記勘申者」として「今日入眼請印」し、宣旨が下されて、頼信は「従四位下」に叙された(『小右記』長元四年正月六日条)。こうした中で、頼信は忠常に対して水面下で交渉していたと思われ、4月25日、「甲斐守頼信、申上忠常将参由事」(『日本紀略』長元四年廿五日條)と見え、忠常が頼信のもとに参じた一報が京都に参着している。その後、頼信が「権僧正(尋円)」へ送った書状が関白頼通に披露されたのだろう。4月28日、関白頼通は参内の際、同道した右大弁源経頼に「甲斐守頼信、送権僧正許書」を見せている(『左経記』長元四年四月廿八日條)。
●『権僧正書状』(『左経記』長元四年四月廿八日條)
5月20日には「常陸介兼資」からも忠常帰降の報が右大臣実資に届けられている(『小記目録』長元四年五月廿日条)。
藤原中正―+―藤原安親―+―藤原為盛――――藤原親国――――藤原親子
(摂津守) |(参議) |(越前守) (大舎人頭) (白河院御乳母)
| | ∥
| | ∥――――――――藤原顕季
| | 藤原隆経 (修理大夫)
| | (美濃守)
| |
| +―藤原守仁――――藤原尚賢――――藤原兼資
| (山城守) (越後守) (常陸介)
|
+―藤原時姫 +―藤原頼通
∥ |(関白)
∥ |
∥――――+―藤原道長――+―藤原彰子 +―後一条天皇
藤原兼家 |(関白) ∥ |
(関白) | ∥ |
| 円融天皇 ∥―――――+―後朱雀天皇
| ∥ ∥
| ∥―――――――一条天皇
| ∥ ∥
+―藤原詮子 ∥
|(東三条院) ∥
| ∥
+―藤原道隆――+―藤原定子
|(関白) |(皇后宮)
| |
+―藤原道兼 +―藤原伊周
(関白) |(内大臣)
|
+―藤原隆家
(中納言)
ただし、忠常の出頭に際しては「降順状」はなかったようで、6月6日か7日頃に右大弁経頼のもとに届けられた「自甲斐守送忠常帰降之由申文」は「而依不副忠常降順状」であり、6月7日、経頼は頼信に「早可上之由示送了」と指示を下すとともに、甲斐国解も「副彼状可付奏者也」とした(『左経記』長元四年六月七日条)。頼信の申文は「自美乃国大野郡送之由」とあり、この時点で「兼又忠常従去月廿八日爰重病、日来辛苦、已万死一生也、雖然相扶漸以上道」(『左経記』長元四年六月七日条)とあるように、忠常は5月28日から重病に陥っており、瀕死の状態ながら頼信が扶助しながらなんとか美濃国大野郡まで到達した旨が記されていた。
ところが6月11日、経頼のもとに「修理進忠節」が訪れた(『左経記』長元四年六月十一日条)。忠節のもとに「忠常子法師、去年相従甲斐守頼信朝臣、下向彼国」が「而只今京上」して報告するには、「忠常、去六日、於美濃国野上と云所死去了、仍触在国司、令見知并注日記、斬首令持彼従者上道者、又且注此由、可被申事由」(『左経記』長元四年六月十一日条)という。忠常が6月7日に美濃国野上で病死したため、頼信は国衙の在国司に命じてこれを見知ならびに日記に注させた上で斬首し、その首を忠常従者に持たせて上洛させる(実際は16日に頼信が携えて入京する)、という報告である。これを聞いた経頼は「驚此告」き、「以前日、所送之忠常帰降之由申文、付頭弁令奏、是死去之由、不申以前可急也」と、忠常死去により「降順状」が副えられるか流動的となったためか、「忠常帰降之由申文」のみを急ぎ「頭弁(藤原経任)」に付して奏上させている。この情報は右大臣実資も共有しており「降人忠常死去事」(『小記目録』長元四年六月十一日条)と書き残している。
死亡した場所については、直接具体的な情報を得ている源経頼が「美濃国野上と云所」(『左経記』長元四年六月十一日條)と記している以上、現在の関ケ原町野上であろう。現在「しゃもじ塚」と呼ばれる伝忠常墓が野上(関ケ原町大字野上382-1)に祀られている。頼信が忠常辛苦の申文を発した「大野郡」は、墨俣宿を越えた現在の瑞穂市犀川あたりと推測される。おそらく墨俣辺で危篤に陥った忠常は、その後、急行して美濃国府(不破郡垂井町府中1912)を越え、野上まで来たところで亡くなったのだろう。「野上」は国府に隣接する中山道の地であることから、ここで美濃国司による検死が行われたと思われる。没年齢不詳。法号は常安。
このほか歿地として「於美濃国厚見郡死去」(『左経記』長元四年六月十二日條)、「美濃国山縣」(『百錬抄』『扶桑略記』)、「美濃国蜂屋庄」(『千葉大系図』)ともある。いずれも『左経記』長元四年六月七日条が示す「大野郡」より東に位置しており、歿地としては誤伝である。なお、源経頼は6月11日には歿地を「野上」としていたのを、翌12日には「厚見郡」としている。
没地 | 現在地 | 資料 |
美濃国野上 | 不破郡関ヶ原町野上 | 『左経記』長元四年六月十一日條 |
美濃国厚見郡 | 岐阜市の一部 | 『左経記』長元四年六月十二日條 |
美濃国山縣 | 山県市、岐阜市・関市の一部 | 『百錬抄』『扶桑略記』 |
美濃国蜂屋庄 | 美濃加茂市蜂屋町 | 『千葉大系図』 |
なお、忠常の死から百六十年ほどのちの建久6(1195)年12月12日、千葉介常胤が「老命、後栄を期し難し」として「警夜巡昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潜かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり」と、恩賞を求める「款状」を頼朝に提出した(『吾妻鏡』)。この中で常胤は「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいるが、常胤が伝えたこの「由緒」こそ、平忠常の実際の葬地のことであった可能性が高いだろう。結局、蜂屋庄は「故院の御時、仰せに依りて地頭職を停止」した荘園であり、頼朝も如何ともしがたい土地である旨を伝え、「便宜の地を以ちて、必ず御計らい有るべきの旨」を記載した書状を遣わしている。
6月11日、朝廷に忠常死去の報が届いたようで、右大臣藤原実資がその報告を受けている(『小記目録』)。6月12日には頼信からの美濃国司が忠常死亡の実検をしたのち、忠常の首を斬りおとした旨の書状と、美濃国司の返牒が右大弁藤原経任のもとへ届けられた。翌6月13日、忠常から直方への贈物の雑物を受け取った「兼光」が「兼光出家事有与忠常同意之聞」と見えるように(『小記目録』)、忠常とのつながりを疑われて出家した。これは忠常の死が朝廷に伝わった直後の出家であることから、当時在京の人物とみられる。彼は平直方とともに東国に下向して忠常と戦った人物と思われ、長元3(1030)年11月に直方とともに京都へ戻ったと思われる。姓を欠いており出自は不明。
6月14日、朝廷は忠常首を梟首すべきかどうかを審議しているが、その二日後の16日、頼信が忠常の首を持って入京したのち、忠常が神妙に降伏したことが考慮されたのか、梟首されることなく首は忠常の「従類」へ返却された。
『左経記』には、忠常の子の常昌・常近(常将・常親)は「忠常男常昌常近不進降状」「於男常昌等者未降来」というように、忠常降伏の後も従おうとしなかった様子が見えるが、実際は常昌・常近が「降状」を提出していなかったことで彼らはまだ服従していないと受け取られ、朝廷では右大臣藤原実資を中心に兄弟の追討について詮議がなされたものだった。
『左経記』の著者としても知られる右大弁・源経頼は追討主張派で、「常昌・常近は許されるべき者ではなく追討すべきであるが、忠常追討では坂東諸国の軍勢が参加したにもかかわらず敗れ、諸国は荒廃してしまった。そこに重ねて常昌・常近追討使を派遣すれば、ますます国は荒れてしまうことが予想され、しばらくは国力を回復させるほうに力を注ぎ、国力が戻ったときに彼らを討てばよい」と主張した。
しかし、左大弁・藤原重尹は経頼の主張とは異なり、「忠常は首となってすでに帰降し、事実、常昌らもこれに従っており、追討する必要はない」とし、さらに左兵衛督藤原公成も「忠常入道常安は帰降しており、その息子達も帰降する気持ちであったが、忠常は上洛の途中で死去してしまった。罪人でも父母の死の際には暇が出るのに、父の忠常が死んで間もなく、未だ罪人でもない常昌らの罪状を問うのはどうか」と追討に否定的な意見を述べた。なぜ朝廷が謀反人とされた忠常一族にここまで寛容になっているのか不明だが、忠常が内大臣藤原教通の家人であったことが関係しているのかもしれない。
朝廷での詮議の結果、常昌・常近は追討されることはなく、常昌(常将)は「武蔵押領使」となり、弟・常近(恒親)は「安房押領使」になったと『松羅館本千葉系図』に掲載されている。系譜で常近の孫にあたる頼任は「村上貫主」とされており、上総国村上郷(市原市村上)に住し、北東1.5キロにある上総国分寺(市原市惣社)の貫主になっていたとも考えられる。
◆良文流平氏系譜(想像)
+―忠頼――――将恒―――――秩父武基――――武綱――――――重綱――――重隆
|(陸奥介) (武蔵権守) (秩父別当大夫)(秩父武者十郎)(出羽権守)(留守所惣検校職)
|
平良文―――経明―?―+―忠光――――為通―――――三浦為継――――義継――――――義明――――義澄
(陸奥守) |(駿河介) (平太夫) (平太郎) (三浦庄司) (三浦大介)(三浦介)
|
+―忠通――――章名―――――鎌倉景成――――景正――――――景継――――長江義景
|(小五郎) (甲斐権守 (権守) (権五郎) (小太夫) (太郎)
|
+―忠常――+―常将―――――常長――――+―千葉常兼――――常重――――常胤
(上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)|(下総権介) (下総権介)(下総権介)
| |
| +―平常晴―――――常澄――――広常
| (上総権介) (上総権介)(上総権介)
|
+―恒親―――――恒仲――――――頼任
(安房押領使) (村上貫主)
忠常の兄(甥?)である将恒(武蔵権大掾)は、おそらく父・忠頼が移住した武蔵国秩父郡の牧を受け継いで秩父を支配したと思われる。将恒の嫡流惣領家・河越氏は「武蔵国留守所惣検校職」として、秩父党一族を支配した。秩父党のうち、特に有名な鎌倉武士としては畠山重忠、源義経の舅・河越重頼などがある。
長元の乱以前の上総国には、二万二千九百八十余町の公定田があったが、乱後の長元7(1034)年、上総介藤原辰時のときには、十八余町にまで激減したと報告されている。また、下総国も激しく荒廃した様子がうかがえ、長元4(1031)年3月1日の朝議において「諸国事」につき、関白頼通から「下総守為頼申被重任■■逃散民勧農業者■給申文」についての「御消息」があった。それによれば「(忠常追)討之間、有勧之由云々、若可有裁許哉何如」とのことだった。これに右大臣実資は「(下総)国依追討忠常之事、亡幣殊甚云々、為頼云、■■貯可及飢餓、亦妻并女去年憂死道路、依無辜、京中之人見歎之由云々、先被優二箇年任、若(為頼)良吏之聞、臨彼時可被延今二箇年歟、抑安(房、上総)下総已亡国也、被加公力、令期興復尤佳」と報告している(『小右記』長元四年三月一日条)。実資は為頼についてはまず二年の重任を認め、彼が良吏であるとの報告があれば、さらに二年の延長を認めてはどうかという内容である。また、忠常の影響により安房・上総・下総三か国はすでに大きく荒廃しており、朝廷からの支援により復興させることが重要であると述べている。
6月27日の朝議に提出された「下総守頼重(ママ)任八箇年間、啓四年公事預勧賞申文」(『左経記』長元四年六月廿七日条)につき、右大弁経頼は「下総守為頼申、重任八箇年之中、啓四箇年公事、預勧賞事、如申状者、罷下之後不幾程、相営追討忠常事之間、人物共已弊、忽難興復、若無裁許何済公事云々、所申可然、依請可被免歟」(『左経記』長元四年六月廿七日条)と意見を述べた。為頼が下総国下向後程なくして忠常追討の事があり、下総国は戦場となり国兵の提供や兵粮供出などがあったのだろう。「人物共已弊」じており下総国の再興には援助が必要であるという為頼の申状は尤もであると意見したのである。なお、申状の「下総守頼重」は「下総守為頼」の誤記である。
忠常がどういった伝手を以て、選りによって律令大国「上総国」の国司となることができたのか。当時国司となるには下記の『枕草子』に見るように、相当な努力を必要とした。忠常は藤原教通の家人であるため、かつて上洛して教通に仕えていたことがきっかけである可能性もあるが、どういった経緯で受領となるに至ったのかは謎である。
●『枕草子』第三段「正月一日は」
●『枕草子』第廿三段「すさまじきもの」
忠常が「上総介」であったことは間違いないが、上総介を辞した後は下総国に移り住んだようである。また、他の古文書に見えない記述として『応徳元年皇代記』には忠常は「下総権介」だったと記されている。
●忠常について伝える史書
史書 | 忠常について | 住居 | 成立 |
『百練抄』 | 前上総介忠常 | 13c末 | |
『小記目録』 | 平忠常并男常昌等 | ||
『日本紀略』 | 前上総介平忠常 | 下総国住人 | 長元9(1036)年まで |
前上総介平忠常 | 下総国 | ||
『左経記』 | 平忠経 | 住下野(下総の誤りか) | 長元8(1035)年まで |
『応徳元年皇代記』 (春日若宮千鳥家本) |
下総権介平忠常 | 12c半 |
●忠常の所在
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古代の房総地図(想像) |
下総に移ってのちの忠常の所在についての伝は、一般的には立花庄大友(香取郡東庄町大友)だったとされており、同地には「良文貝塚」や忠常の子・常将が建立したという平山寺が残されている。しかし、忠常以前に良文、忠頼(または経明)が下総にいたことを示す傍証はない。彼らは武蔵国内での動向が記録に残されていることから、武蔵の軍事貴族であったと考えられる。ただし、子孫の千葉常胤が相馬御厨下司をめぐる相論の中で記した文書によれば(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、下総国相馬郡について、
「……右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而経兼五郎弟常晴、相承之当初為国役不輸之地……」
とあることから、千葉介常胤(当時29歳)は相馬郡が良文、経明、忠経(忠常)…と相伝してきた所領と認識していたことがわかる。しかし、立花庄については由来が記述されず、下総平氏がいつ頃から関わりを持つようになったのか不明である。同地には前述のとおり、忠常の子・常将が建立したと伝わる「平山寺」があり、常将による立庄の可能性もあるか。いずれにせよ、立花郷(立花庄)が房総平氏と関わるのは相馬郷よりも後のことであろう。
立花郷と相馬郷は保延2(1136)年11月13日、国司・藤原親通によって平常重・常胤父子の手から奪われたが、立花郷については取り返すことに執着していないにもかかわらず、相馬郷については相当に執着しており、両総平氏にとって相馬郡は立花郷とは比較にならない重要な由緒があったとみられる。これは相馬郷が良文以来の所領で、遠祖・忠常の下総での住居が相馬郷にあった可能性があったためか。
●『千葉大系図』忠常の項●
忠常 上総介。武蔵押領使。天延三年九月十三日誕生。居上総国大椎城。長元元年戊辰、依浮説而征討使下向、相闘有年。既而同四年辛未四月、服源頼信之言、棒名符怠状。赴洛途中罹病、同五月十五日、死于美濃国蜂屋庄。年五十六。故嫡子常将蒙勅免矣。