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【日胤-園城寺律静房-】【円城寺氏】
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(????-1181)
園城寺から見た琵琶湖 |
父は千葉介常胤。母は不明。律静房(『吾妻鏡』)、律上房(『玉葉』)、律成房(『覚一別本平家物語』)と号し、阿闍梨位を有した近江国の園城寺僧である。『吾妻鏡』によれば源頼朝の御祈祷師。なお、後世千葉氏の宿老となった円城寺氏の祖とされているが、実際は関係ない。
日胤の前半生はまったく不明で、どのような経緯で近江国の園城寺(三井寺)に入山したのかもわからない。また師僧の名もわからず、いつ伝法灌頂を受けたのかも不明である。
治承4(1180)年、頼朝が挙兵する以前からすでにその祈祷師としての活動をしており、かなり以前からの結びつきと考えられる。また、後述の通り、日胤は高倉宮以仁王の護持僧であった可能性があり、治承4(1180)年5月26日、以仁王の乱で討死を遂げている(『吾妻鏡』治承五年五月八日条)。
日胤が護持僧となったと思われる高倉宮以仁王は、後白河院の第三皇子(三宮)で、母は内侍典侍藤原成子(高倉三位。後白河院生母・待賢門院璋子の姪)。二条院の准母「八条女院御猶子」である(『玉葉』治承四年五月十五日条)。仁平元(1151)年に誕生した。母・藤原成子は白河院以来の外戚家である閑院藤原家出身で、実姉には殷富門院亮子内親王(安徳天皇准母)、歌人として名高い式子内親王、一歳上の実兄二宮はのちに仁和寺六世を継いだ守覚法親王である。
藤原公実――+―藤原璋子
(権大納言) |(待賢門院)
| ∥―――――+―顕仁親王―――――重仁親王
| ∥ |(崇徳天皇)
| 宗仁親王 |
|(鳥羽天皇) +―統子内親王====姝子内親王===尊恵大僧都
| |(上西門院) (中宮・高松院)(一宮)
| | ∥
| | ∥ 源光保娘
| | ∥ ∥
| | ∥ ∥―――――尊恵大僧都
| +―雅仁親王 ∥ ∥
| (後白河天皇) ∥ ∥
| ∥ ∥――――――守仁親王
+―藤原公子 ∥ ∥ (二条天皇)
| ∥ ∥ ∥
| ∥―――――――――藤原懿子 +―亮子内親王
| ∥ ∥(皇太后) |(殷富門院)
| ∥ ∥ |
| 藤原経実 ∥――――――+―式子内親王
|(大納言) ∥ |
| ∥ |
| ∥ +―守覚法親王
| ∥ |(六代御室)
| ∥ |
+―藤原季成――――藤原成子 +―以仁王
(権大納言) (典侍) (高倉宮)
三宮(以降以仁王)も当初は兄の「若宮(守覚)」と同様、幼少にして仏門に入り、「往年為故天台座主最雲親王弟子」となっていた(『山槐記』治承三年十一月廿五日条)。「天台座主最雲親王」は堀河天皇の皇子で、久寿3(1156)年3月30日に天台座主(同日任権僧正)となっている(『天台座主記』)。以仁王がいつ大叔父・最雲の弟子となったかは不詳だが、実兄「若宮(守覚)」が仁和寺門に初めて渡御したのが四歳の仁平3(1153)年2月23日であり(千草聡『守覚法親王略年譜:和歌活動の面を中心に』筑波大学平家部会論集1992)、すぐ下の弟・以仁王が辿った道もおそらく同様であっただろうと考えると、守覚とさほど変わらない時期に大叔父・円融房権僧正最雲と対面し、その門下に付されたと思われる。
以仁王は「故天台座主最雲親王」から「常興寺在九條、太政大臣信長所建立」を「被付属」されていたが、この常興寺領は藤原信長後家から白河院に寄進され、白河院が天台座主仁源大僧正へ付して以来、梨下正統(円融坊、梶井円徳院主)が継承し、その後、この梨下正統から天台座主が輩出されていることから、以仁王は梶井門跡を経て天台座主となるべく最雲に付けられた皇子であったと推測される。
ところが、守覚が永暦元(1160)年2月17日に十一歳で出家し、その後も仏門に帰依し続けたのに対し、以仁王は「座主入滅之後加元服」(『山槐記』治承三年十一月廿五日条)とある通り、応保2(1162)年2月16日の最雲親王の遷化(『天台座主記』)後、元服を果たしたという。最雲遷化当時、以仁王(十二歳)はいまだ出家していなかったと思われるが、最雲遷化後は兄弟子・権僧正快修(藤原忠成子)の手元に引き取られた可能性がある。後の事だが、以仁王と快修の姪・上西門院高倉局との子・真性僧正(城興寺僧正)は、伯父・昌雲大僧正に入室している。
足立遠元――――女子 【治承三年十一月解官】
(左衛門尉) ∥――――――――藤原知光
∥ (紀伊守)
∥
源季忠――――女子 【治承三年十一月解官】
(大宮亮) ∥―――――――藤原光能
∥ (蔵人頭)
∥
藤原俊忠―+―藤原忠成――+―昌雲大僧正
(権中納言)|(少納言) |(妙法院)
| |
| +―重慶
| |(法橋)
| |
| +―女子
| | ∥
| | ∥
| | 藤原公能
| |(右大臣)
| |
| +―女子
| (上西門院高倉局)
| ∥――――――――真性僧正
| ∥ (天台座主)
| 以仁王
| (高倉宮)
|
+―藤原俊成――――藤原定家
|(皇太后宮大夫)(権中納言)
|
+―快修大僧正
|(天台座主)
|
+―法印禅智
|(権大僧都)
|
+―藤原豪子 +―藤原実定
∥ |(左大臣)
∥ |
∥―――――+―藤原多子
藤原公能 (太皇太后)
(右大臣) ∥
二条天皇
快修は応保2(1162)年5月30日に五十二世座主となるが、長寛2(1164)年10月5日、中堂衆を禁獄したことで大衆によって山門寺務を追却されて事実上更迭され、翌閏10月13日、左大臣源俊房の子・権僧正俊円(美福門院叔父)が座主となる(『天台座主記』)。その後、俊円は体調が勝れなかったのか、俊円薨去後の天台座主をめぐって競望が起こっていたようで、永万元(1165)年8月10日、後白河院は「座主職期死闕」しての競望を「永可停止」せよとの院宣を下している(『天台座主記』)。
以仁王の元服時期は「永万元年十二月六日、御年十五と申しゝに皇太后宮(太皇太后宮)の近衛河原の御所にて忍びて御元服有りし」(『延慶本平家物語』)とあるように、永万元(1165)年12月6日であったとされる(『長門本平家物語』では12月16日)。これは、7月28日の異母兄・二条院崩御からわずか四か月後というタイミングであった。以仁王が元服した「近衛河原の御所」の主「皇太后宮(太皇太后宮)」は、近衛・二条の二世の皇后となった藤原多子(藤原公能娘で以仁王の又従姉)である。
二条院は父・後白河院の院政を否定して親政を展開しており、後白河院は雌伏を余儀なくされていたが、二条院崩御後、幼少の六条天皇のもとで復権。旧二条院派を排除し、平清盛と協調して絶大な権限を以て院政を展開することとなる。二条院と繋がりの深かった人々は逆に雌伏を余儀なくされるが、彼らの拠り所となったのが、おそらく八条院であろう。以仁王の元服は二条院に近かった人々が密かに支援していたと思われ、後白河院の寵妃・平滋子所生の七宮(憲仁、のちの高倉天皇)の皇位継承を阻止するべく動いていたと思われる。そして、元服の場を提供した太皇太后も協力者だったことは明らかであろう。そしてこのとき授けられた「以仁」の御名は、二条院の御名字勘考の際に「守仁」とともに最終候補となったものであった(『兵範記』久寿二年九月廿三日条)。この「以仁」の名を撰ぶに当たっては、二条天皇准母にして以仁王の養母となった八条院の介入があった可能性が高いだろう。二条院崩御から五か月あまりでの以仁王の元服は、以仁王養母・八条院、太皇太后多子らが二条院派の人々とともに画策した、六条天皇皇嗣としての擁立計画だったのではなかろうか。
なお、太皇太后多子の女房・小侍従は「待宵の小侍従」として謳われた歌人であるが、以仁王はこの小侍従から和琴の相伝を受けている(「和琴血脈」『続群書類従』 一九輯上)ことから、予てより以仁王と太皇太后の間には交流があったことが窺える。
このような中、永万元(1165)年12月15日、兄弟子にあたる明雲法印が六条天皇の「護持僧」となる(『梶井門跡略系譜』)。明雲法印は平氏と親密な関係にあった人物で最雲親王の資であり、二条院の正統後継者たる六条天皇を後白河院、平清盛側が取り込んだ結果とみられ、背景には以仁王の元服の影響もあったのかもしれない。
藤原忠通――――藤原聖子====躰仁親王
(関白) (皇嘉門院) (近衛天皇)
∥
藤原公実――+―藤原璋子 ∥
(権大納言) |(待賢門院) ∥
| ∥―――――+―顕仁親王――――重仁親王
| ∥ |(崇徳天皇)
| ∥ |
| ∥ +―統子内親王===姝子内親王===尊恵大僧都
| ∥ |(上西門院) (中宮・高松院)(一宮)
| ∥ | ∥
| ∥ | 藤原懿子 ∥ 源光保娘
| ∥ | ∥ ∥ ∥
| ∥ | ∥ ∥ ∥―ー―――尊恵大僧都
| ∥ | ∥ ∥ ∥
| ∥ | ∥―――――――守仁親王【永万元(1165)年7月27日崩御】
| ∥ | ∥ (二条天皇)
| ∥ +―雅仁親王
| ∥ (後白河天皇)
| ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ ∥ +―守覚法親王
| ∥ ∥ ∥ |(六代御室)
| ∥ ∥ ∥ |
| ∥ ∥ ∥―――+―以仁王【永万元(1165)年12月16日元服】
| ∥ ∥ ∥ (高倉宮)
| ∥ ∥ 藤原成子
| ∥ ∥(典侍)
| ∥ ∥
| 宗仁親王 ∥―――――――憲仁親王【永万元(1165)年12月25日親王宣下】
|(鳥羽天皇) ∥ (高倉天皇)
| ∥ ∥ ∥
| ∥ 平時信―+―平滋子 ∥
| ∥ |(建春門院) ∥
| ∥ | ∥
| ∥ +―平時忠 ∥
| ∥ |(検非違使別当) ∥
| ∥ | ∥
| ∥ +―平時子 ∥
| ∥ (二位尼) ∥
| ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥―――――――平徳子
| ∥ ∥ (建礼門院)
| ∥ 平清盛
| ∥ (前相国禅門)
| ∥
| ∥―――――+―暲子内親王―+=守仁親王
| ∥ |(八条院) |(二条天皇)
| ∥ | |
| ∥ | +=守覚法親王
| ∥ | |(六代御室)
| ∥ | |
| ∥ | +=以仁王
| ∥ | (高倉宮)
| ∥ |
| ∥ +―――――――――姝子内親王
| ∥ | (高松院)
| ∥ | ∥
| ∥ +―躰仁親王 ∥
| ∥ (近衛天皇) ∥
| ∥ ∥
| 藤原得子――+=========守仁親王――――順仁親王【永万元(1165)年7月25日践祚】
|(美福門院) | (二条天皇) (六条天皇)
| | ∥ ↓
| +=重仁親王 +―藤原育子====順仁親王
| |(中宮) (六条天皇)
| |
| | 顕仁親王――――重仁親王
| |(崇徳天皇)
| | ∥
| | ∥
| +―藤原忠通――+―藤原聖子====躰仁親王
| |(太政大臣) (皇嘉門院) (近衛天皇)
| | ∥
| 藤原忠実――+―藤原頼長 ∥
|(関白) (左大臣) ∥
| ∥ ∥
+―藤原実能――+―藤原幸子============藤原多子
|(左大臣) |(北政所) (太皇太后)
| | ↑
| +―藤原公能――――――――――――藤原多子
| (右大臣) (太皇太后)
+―藤原公子 ∥
| ∥―――――+―藤原経宗 ∥
| ∥ |(左大臣) ∥
| ∥ | ∥
| 藤原経実 +―藤原懿子 ∥
|(大納言) (皇太后) ∥
| ∥―――――――――――――――守仁親王
| ∥ (二条天皇)
| 雅仁親王
| (後白河天皇)
| ∥―――――――以仁王
| ∥ (高倉宮)
+―藤原季成――――藤原成子
|(権大納言) (典侍)
|
+―藤原実行――――藤原公教――――藤原実房
(太政大臣) (内大臣) (内大臣)
当時の後白河院は兵部卿平清盛と協調政治を展開しており、二条院に近い以仁王の存在を認めることはなく、その元服についてはかなり神経をとがらせたと考えられる。その結果、永万元(1165)年12月25日、後白河院は寵妃平滋子所生の憲仁(五歳)に親王宣下し(『百錬抄第七』永万元年十二月廿五日条、『兵範記』仁安元年十月十日条)、兵部卿平清盛をその勅別当に任じた。以仁王の元服からわずか二十日後というタイミングで、しかもわずか五歳という幼児に対しての親王宣下は、憲仁親王を皇嗣と定めたことを公にしたものであろう。後白河院が太皇太后や八条院、旧二条院派の支援による以仁王の元服を知り、平清盛と共謀して急ぎ憲仁に親王宣下し、以仁王の優位性を阻止したものだろう。この当時の太皇太后宮亮は清盛の義弟・平経盛であり、以仁王元服の情報は経盛から齎された可能性もある。
仁安元(1166)年10月10日、摂関家本邸(邸主は北政所盛子)である東三条殿で憲仁親王を立太子させた(『兵範記』仁安元年十月十日条、『玉葉』仁安元年十月十日条)。摂政松殿基房はなぜか「遅参」しているが、平盛子が摂関家領を継承したことへの反発であろう。憲仁立太子に際しては、清盛が春宮大夫に就任。以下、清盛側近の五条邦綱が春宮権大夫、春宮亮は平教盛、春宮権亮は右中将藤原実守、大進の一人に平知盛が就くなど(『玉葉』仁安元年十月十日条)、春宮職は非常に平氏色の強い人選となっており、次の天皇は官位と武力を併せ持つ平氏が支えることが示された。
後白河院は清盛との連携のもとで院政を推し進めていたが、仁安3(1168)年2月2日、清盛は「寸白」のため六波羅邸で床に伏し、7日には「頗以減気」という病態を示していた。ようやく8日から「又増気」となるも「事外六借云々、天下大事歟」という状況に変わりはなかったようである(『玉葉』仁安三年二月九日条)。九条兼実は「猶々前大相国所労、天下大事只在此事也、此人夭亡之後、弥以衰弊歟」(『玉葉』仁安三年二月十一日条)と清盛亡き後の政治的混乱を予想している。
当時後白河院は熊野詣のため京都を留守にしており、16日に帰京の予定であったが、「相国危急」を聞いて予定を繰り上げて15日に帰京し、「即密幸六波羅第」して清盛を見舞い(『玉葉』仁安三年二月十五日条)、翌16日には六条天皇の譲位を閑院において行うことを「俄」に決定(『玉葉』仁安三年二月十六日、十七日条)した。九条兼実はこの譲位について、「上皇有思食事、御出家事歟」、「因之令急給、又前大相国入道所悩已危急、雖不増日比、更非有減気、且彼人夭亡之後、天下可乱」ということを院が「頗急思食事歟」と予想している。「天下可乱」は皇位継承に発する騒乱であろうから、旧二条院派による復権行動、具体的には以仁王を擁した皇位要求運動と考えられよう。この動きは後白河院の以仁王への警戒を強め、結果として親王宣下といった皇位継承に直接結びつく行為は行われず、以仁王は三条高倉御所で雌伏の時を過ごすこととなる。
こうした動きを阻止するべく、2月19日、六条天皇を譲位させて憲仁親王を践祚(高倉天皇)させた。清盛は病態が回復したのちは福原へ遷り、嘉応元(1169)年6月17日、後白河院とともに出家(『玉葉』嘉応元年六月十七日条)。その後は後白河院とともに政務を後見することとなる。嘉応3(1171)年12月2日には清盛入道の娘・平徳子が院御所・法住寺殿で後白河院猶子として高倉天皇に入内する((『玉葉』嘉応三年十一月廿八日条、十二月十四日条)ほどの協力関係を構築した。
ところが、安元2(1176)年6月、建春門院滋子が「二禁(腫瘍)」のために病床に伏すようになる(『玉葉』安元二年六月十一日条)。「胸幷脇下二禁」とあることから、乳及び脇下リンパ節の腫瘍と思われる。この頃は「不及大事」と楽観的な見方もあったが、実際の病状は芳しくなかった。また、13日には後白河院鍾愛の異母妹高松院姝子内親王(八条院実妹、尊恵大僧都養母)が崩御するという災難が後白河院に降りかかっている。
その後、建春門院は様々な療治の甲斐なく、7月8日に三十五歳の若さで薨じた(『百錬抄』安元二年七月八日条)。これがきっかけとなり、後白河院と平清盛入道の関係は次第に悪化していくことになる。
建春門院薨去から四か月後、高倉天皇に猶子が選ばれた。これは中宮徳子に皇子が誕生しないための措置であるが、安元2(1176)年10月23日には「少将隆房」が「法皇々子仁操法印外孫、仁和寺宮弟子」を抱いて参内(『玉葉』安元二年十月廿三日条)、11月2日には平時忠が「法皇々子遊女腹」の「座主弟子宮親宗朝臣養君」に随って参内し(『玉葉』安元二年十一月二日条)、いずれも高倉天皇の猶子となった。平時忠は姉・時子を通じて清盛一門と深い接点を持っていたが、もともと公卿の家柄である堂上平氏であり、清盛一門からは独立していた人物である。時忠は弟で後白河院近臣・平親宗が養君とした「座主弟子宮」を推したであろうし、時忠・親宗は建春門院の実弟であることから、九条兼実も彼が皇嗣の有力者とみているが、実母が遊女ということもあってか「儲弐」の器かと疑いもしている(『玉葉』安元二年十月廿九日条)。いずれも後白河院が院政を敷くために、高倉天皇の皇嗣候補を送り込んだ謀略と思われる。
さらに12月5日、蔵人頭に院近臣の左中将定能、右中将光能が任じられた。この除目は正式なものであるが、これは蔵人の上臈で「入道相国最愛之息子、当時無双之権勢」があった平知盛を飛び越えた人事であり、後白河院の意向を受けたものであることは間違いなく、清盛入道への徴発とも取れるものであった(『玉葉』安元二年十二月五日条)。後白河院は清盛入道との協調政治からの離脱を積極的に進めていたのであった。
ところがこのような中、安元2(1176)年に起こった「加賀目代師恒」による白山領焼払い事件に対し、延暦寺大衆が蜂起する噂が都に伝わった(『玉葉』安元三年三月廿一日条)。目代師恒は後白河院近臣・西光の子で、加賀守は師恒の兄・師高が務めていた。3月30日、延暦寺僧の訴えにより、後白河院はやむなく師恒を備後国への配流に処すが(『玉葉』安元三年四月二日条)、4月12日夜半から延暦寺大衆は神輿を押し立てて参洛。祇陀林寺に集まると、後白河院の命を受けた左大将重盛の官兵と合戦に及び、神輿を路上に置き捨てて東西に散った。しかしこのとき、神輿に矢が突き刺さるという事態が発生。大衆の勢いを恐れ、翌14日、高倉天皇は法住寺殿へと逃れている。このとき「大衆送書状於相国入道云、為致訟訴、猶可参公門、早可被致用心也」という延暦寺大衆から清盛入道への書状が送られたとある(『玉葉』安元三年四月十四日条)。清盛入道は延暦寺とは比較的友好的な関係にあり、清盛入道への書状が認められているのは、こうした関係の上からに他ならない。
15日明け方、後白河院は院宣を下して僧剛等を比叡山に上らせて事態の鎮静化を図るが、大衆によって追い返されてしまうという事態となり、やむなく院は延暦寺大衆の要求を呑んで「加賀守師高配流、奉射神輿之者可禁獄」という判断を下すこととなった。そして20日、師高を解官の上、尾張国へ配流、神輿を射た重盛郎従の平次利家、平五家兼、田使難五郎俊行、加藤太通久、早尾十郎成直、新次郎光景の五名を禁獄に処した(『玉葉』安元三年四月廿日条)。
しかし、延暦寺へ譲歩を余儀なくされた後白河院の怒りは収まらず、強訴の張本として5月5日、「天台座主法務僧正明雲」を解任し、職掌の停止の宣旨を出させた(『玉葉』安元三年五月五日条)。大衆はこれに猛反発するも5月11日、院七宮・覚快を天台座主とする宣命が出され、前座主明雲の罪名勘考が行われた(『玉葉』安元三年五月十一日条)。その結果、明雲は伊豆国へ配流が決定し、明雲は執行まで謹慎が命じられ、13日には「検非違使兼隆、為守護被加遣之、其譴責之体、如切焼」というような激しい拷問も行われたようである(『玉葉』安元三年五月十五日条)。なお、このとき遣わされた検非違使兼隆は、この三年後に伊豆目代として頼朝に討たれた山木判官兼隆である。
5月21日夜、明雲は伊豆国へ出立する(『玉葉』安元三年五月廿一日条)。ところが、23日、明雲の護送使一行が近江国勢田あたりまで来たとき、「山大衆二千人許遮近江国々分寺中路」と道をふさいで明雲の奪取を図った。このとき「座主、頻雖被固辞」するも、強要して比叡山へと連れ帰ってしまった(『顕広王記』安元三年五月廿三日条)。
激怒した後白河院はすぐさま兵士に追わせるも、すでに大衆は比叡山に登っており、空しく引き返したという(『百錬抄』)。度重なる延暦寺の行為についに激発した後白河院は「此上堅東西坂下、可被攻叡山」と比叡山攻めを決定するに至った(『玉葉』安元三年五月廿三日条)。そして24日、「召居両大将、可固坂本之由有」と、左近衛大将・平重盛、右近衛大将・平宗盛の両大将を召して比叡山攻めの院宣を下すが、彼らは前代未聞のことに即答せず、「先可仰入道、随其左右」と清盛入道の意見に随うことを申し遁れた(『顕広王記』安元三年五月廿四日条)。これを受けて、後白河院は直ちに「平内左衛門」を福原に飛ばして清盛入道を召還する。
翌25日、清盛入道は返事を曖昧にしながら、「申時入道被入洛」という返事をしている(『顕広王記』安元三年五月廿五日条)。しかし、実際に清盛入道が入洛したのは27日夜であった(『玉葉』安元三年五月廿七日条)。その二日の間に何があったのかは不明だが、福原と六波羅の間では頻繁に使者が往復し、その後の対応が練られたのであろう。
そして、翌28日、「禅門相国参院、有御対面云々、大略堅東西之坂、可責台山之議、一定了云々、然而入道内心不悦云々」と、清盛入道は法住寺殿に参じて後白河院と対面した。清盛入道は延暦寺攻めを押し止めんとしたと見られるが、後白河院の逆鱗は収まらず、さすがの清盛入道も説得を諦め、「一定了」と比叡山攻めを了承したことが窺える。しかし、清盛入道の「内心不悦」が伝わるほど、清盛入道は不満を隠さず法住寺殿を退出したのだろう(『玉葉』安元三年五月廿九日条)。
明雲の奪取以降、後白河院は延暦寺の末寺、荘園を諸国の国司に注進させており、延暦寺領の収公などの処置を考えていたとみられる。さらに近江、美濃、越前三か国の国司に対して国内武士の注進が命じられており、延暦寺を粟田口と坂本の東西両面から攻める軍備を進めたことがうかがえる。そして、後白河院は5月28日と29日の二回にわたって僧綱等を山に登らせ「可進明雲」「被問謀叛之意趣」を命じており、これが事実上の最後通牒であったのだろう。しかし、これにも「不申大衆返事」と無視を決め込む態度をとった(『玉葉』安元三年五月廿九日条、『顕広王記』安元三年五月廿八日条)。
ただ、延暦寺大衆がここまで強行に後白河院に対する無礼、無視ができたのも、何らかの担保があったからではなかろうか。延暦寺は以前より平氏とは比較的親密な関係を続けており、「大衆送書状於相国入道」とあるように(『玉葉』安元三年四月十四日条)、清盛入道と延暦寺大衆の間では連絡が取り合われていたのかもしれない。後白河院の延暦寺攻めの中止説得に失敗した清盛入道は、翌29日の夜、後白河院への対応を一変させる。
安元3(1177)年5月29日夜半、清盛入道は後白河院の近臣で今回の比叡山大衆強訴の根本を作った加賀国目代・師恒の父・「師光法師法名西光、法皇第一近臣也、加賀守師高父」を捕縛(『顕広王記』安元三年五月廿九日条)し、翌6月1日早朝、八条亭に召し込めて「秘問年来之間所積之凶悪事」(『玉葉』安元三年六月一日条)、「西光交足拷問」(『顕広王記』安元三年六月一日条)と拷問を加え、耐え切れなかった西光法師は「可危入道相国之、法皇及近臣等令謀議之由承服」と、後白河院とその近臣らによる清盛入道殺害計画があったとして、参画した人々の名を述べ、清盛入道は「可捕搦之輩太多」と、多数の人々を逮捕した(『玉葉』安元三年六月二日条)。さらに「招寄成親卿」(『玉葉』安元三年六月一日条)と、院の第一の近臣で嫡子・重盛の舅でもある「新大納言成親卿」を召喚して禁獄に処し、「殆及面縛」とこちらにも拷問を加えている。そのほか院近臣十二人を捕らえては拷問を加えた。そして西光は斬首に処し、成親卿は備前国へ流すことを決定する。なおこのとき、成親は「於路可失之由」であったが、左大将重盛が清盛入道に助命を働きかけたため、配流途次での殺害は回避されたが、備前国の配所で殺害されたという。
この「可危入道相国」の謀議を行った場所が「東山辺ニ鹿谷ト云所ニ静賢法印」が造った山荘(『愚管抄』)であったことから、「鹿ケ谷事件」ともいわれる。静賢法印は少納言入道信西の遺子で、蓮華王院執行という院近臣であり、この日も院が鹿ケ谷に行幸している。しかし、この静賢法印の山荘で実際に清盛入道殺害の謀議に行われたとすれば、当然静賢法印も謀議に参画したはずだが、静賢法印が清盛入道と親密であることは後白河院も熟知していたであろうから、「鹿ケ谷」で清盛入道殺害の謀議がなされたのは考えにくい。また、こうした最高機密の会合であれば、法住寺殿など院御所で行われるであろうから、この山荘で行われたのはまったく別の目的のものであった可能性はないだろうか。事実、6月1日の西光法師を捕縛した日の夕方、延暦寺大衆は「垂松辺(左京区一乗寺花ノ木町周辺)」まで下り、清盛入道に使者を使わして「令伐敵給之条、喜悦不少、若有可罷入之事者、承仰可支一方云々」と院近臣の捕縛を行った清盛入道に対して感謝し、清盛入道に何らかの事があればその指示を受けて味方する旨を申し述べたという(『玉葉』安元三年六月三日条)。ここから、延暦寺攻めを直前で回避させるべく計画された、清盛入道が静賢法印にも働きかけた謀略だったのかもしれない。6月18日、静賢法印は謀議に参画して罷免された俊寛僧都に代わり「補法勝寺執行」(『玉葉』安元三年六月十八日条)されていることから、この謀計に対する行賞の可能性が高いだろう。西光法師は拷問によって院近臣を一掃するための口実を強要されたのであろう。なお、『平家物語』では多田蔵人行綱が謀議を密告したとされている。
6月3日、清盛入道の怒りを恐れた院出仕の人々が誰も参内せず「院中無参入之人」という有様だった(『玉葉』安元三年六月三日条)。そして夜には院近臣の「法勝寺執行僧都俊寛、基仲法師、山城守中原基兼、検非違使左衛門尉惟宗信房、同平佐行、同平康頼」が捕縛されて八条亭に送られ、中原基兼、平佐行、平康頼、惟宗信房は解官されている(『玉葉』安元三年六月四日条)。
6月5日には後白河院に解任されていた前座主明雲が「座主還着、諸官如元」とされ、後白河院の怒りに任せた座主人事は取り消されることとなり、11日、「去六日可召返前座主之由、被宣下、其次俊寛僧都停任」と、明雲は正式に座主に還任し、法勝寺執行の俊寛僧都は解任となった(『玉葉』安元三年六月十一日条)。
6月18日、権大納言成親、左少将尾張守盛頼、右少将丹波守成経、越後守親実の四名が解官され、俊寛僧都に代わって故信西の子・静賢法印が新たな法勝寺執行に就任した(『玉葉』安元三年六月十八日条)。こうして、後白河院の有力な近臣は排除され、後白河院の威信は一気に低下することとなった。なお、権大納言成親は清盛入道の嫡子・内大臣重盛の妻の兄であり、娘は重盛の嫡男・春宮権亮維盛と三男・左近衛権少将清経の妻となるなど重盛一門とは関りが深く、この一件は後白河院と比較的親密な関係にあった重盛一門の立場を悪化させる一因ともなった。
+―――――――――女子
| (新大納言局)
| ∥
藤原家成―+―藤原成親―+―女子 ∥
(中納言) |(権大納言) ∥ ∥
| ∥ ∥
+―藤原経子 ∥ ∥
|(典侍) ∥ ∥
| ∥――――――平清経 ∥
| ∥ (左近衛権少将) ∥
| ∥ ∥
| 平重盛――――――――――――平維盛
|(内大臣) (春宮権亮)
|
+―女子
| ∥
| 藤原信頼
|(右衛門督)
|
+―女子
∥
源資賢
(権大納言)
後白河院は有力な近臣勢力が排除されたことで雌伏を余儀なくされるが、年が明けて治承2(1178)年3月1日、院が「於薗城寺可伝受秘密灌頂於公顕僧正」(『玉葉』治承二年正月廿日条)と、延暦寺を差し置いて、園城寺の公顕権僧正を師僧として「為大阿闍梨令伝法灌頂」(『山槐記』治承二年正月廿日条)を受ける計画が発覚する。これを知った延暦寺衆徒は「可令受天台灌頂給者、於延暦寺可有御灌頂也、又於寺被遂其事者、彼寺自往昔宿意也」(『山槐記』治承二年正月廿日条)と、このことを妬み、「其事、彼日以前可焼三井寺」「速可焼払薗城寺」と、三井寺攻めを計画するに至った(『玉葉』治承二年正月廿日条、『山槐記』治承二年正月廿日条)。この風聞を見にした院は「事已火急」と考え、右大将宗盛を福原に遣わして対策するとともに、正月20日、院は勅命を以て僧綱を比叡山に上らせて制止を図るも、「王化如鴻毛、豈従勅命」として撤回。清盛入道と延暦寺との関係から清盛入道を勅勘したが清盛入道はまったく動ぜず、いっそう延暦寺を勢いづかせていた(『玉葉』治承二年正月廿日条)。結局、21日に山に登った僧綱は衆徒の説得に失敗して帰参することとなる。結局、「御幸必定停止云々」と予想される状況となり(『玉葉』治承二年二月廿一日条)、実際に3月25日、「来月一日寺御幸遂依山大衆欝停止」されることとなる(『山槐記』治承二年二月廿五日条)。
院はこれら延暦寺の行為に激怒。「抑留御灌頂事、奇恠思食之故」に、報復として5月17日からの恒例の最勝講に延暦寺学徒を召さず園城寺、興福寺、東大寺僧を以て執り行った(『玉葉』治承二年五月十七日条、『山槐記』治承二年五月十八日条)。院の延暦寺に対する宿意意識はより一層園城寺および南都への肩入れとなって表れていく。
このような中、11月12日に清盛入道が待ちに待った中宮平徳子の「皇子降誕」が告げられた。のちの安徳天皇である。「未二點」であったという(『山槐記』治承三年十一月十二日条)。清盛入道は三夜の儀が終わったのち福原へと下向するが、11月26日に再び上洛。中宮大夫時忠に対して、一宮の立太子を年内にするよう後白河院と折衝するよう命じたとみられ、11月27日夜、参院した時忠が後白河院に奏達している。公的には二歳、三歳の立坊が「不快」であるとの理由であるが、平氏血統の皇太子冊立による今後の平氏政権の安定と後白河院の権限縮小ならびに、以仁王の皇嗣候補からの排除、そして何より高倉天皇の「内女房」ですでに臨月に近い「修理大夫信隆女」が皇子を出産した場合に備えての政敵予防であろう。
平氏に敵対的な関白松殿基房も、院の命を受けた蔵人頭定能の諮問に対し「二三歳共不吉、被待四歳頗似延怠、歳内頗率爾、何不被遂行哉、然者今年何事候哉」として年内立太子については肯定している。二歳または三歳の立太子の「不快」「不吉」は、二歳、三歳で立坊したものの即位することなく薨じた保明親王や実仁親王、慶頼王の例が忌諱されたと考えられる(『玉葉』治承二年十二月十五日条)。
12月8日、若宮に親王宣旨が下され、御名字の勘考がなされた。案は「知仁」「言仁」の二つが挙げられ、結果「言仁」が選ばれた(『玉葉』治承二年十二月十日条)。また、親王家の勅別当や家司等が選任され、家政機関が平氏一門の強い影響下に置かれた事がわかる。
●言仁親王家職
勅別当 | 右近衛大将平宗盛 | ||
家司 | 左馬頭平重衡 | 内蔵頭藤原経房 | 侍従平資盛 |
職事 | 左近衛少将平清経 | 蔵人右少弁光雅 | 左衛門権佐藤原光長 |
12月15日早旦、「立太子事」が冊命され、立坊の儀が六波羅の東宮御所にて執り行われた。本来後白河院は三条烏丸宮での挙行を主張したが、清盛入道が六波羅邸での開催を強行している(『玉葉』慈性に年十二月十五日条)。また同時に東宮職および春宮坊の除目が行われ、後白河院近臣の重鎮である高階泰経の子・経仲が入選しているが、権大進に抑えられ、全体的に平氏の関与を強めて後白河院の影響力を排除する人事となっている。
なお、九条兼実は東宮傳経宗の人選について「面縛人、任傳、未曾有事」「流刑之者、猶嫌之、況面縛之人哉、学士、亮等猶撰人、況於傳哉」と、左大臣経宗に対して、「面縛」の恥辱を受けた人物が傳に任じられるなど未曾有のことだと痛烈に批判している。
●東宮職および春宮坊
東宮職 | 名 | 官位 | 官職 | 親王家職 | 備考 |
東宮傳 | 藤原経宗 | 従一位 | 左大臣 | 故二条院の実伯父で後白河院と対立するも、この頃は院の信頼を得ている | |
東宮学士 | 藤原光範 | 従四位上 | 文章博士 | ||
東宮学士 | 藤原親経 | 従五位上 | 宮内権少輔 | ||
春宮坊 | 名 | 官位 | 官職 | 親王家職 | 備考 |
春宮大夫 | 平宗盛 | 正二位 | 右近衛大将 大納言 |
親王家勅別当 | 言仁親王伯父(清盛入道三男) 翌治承3年正月19日辞任し、後任は藤原兼雅 |
春宮権大夫 | 藤原兼雅 | 従二位 | 中納言 | 言仁親王義伯父(清盛入道女婿) 治承3年正月19日、春宮大夫に転ず 東宮権大夫の後任は同日付で従三位右兵衛督平知盛が就任 |
|
春宮亮 | 平重衡 | 正四位下 | 左馬頭 | 親王家家司 | 言仁親王伯父(清盛入道五男) |
春宮権亮 | 平維盛 | 従四位上 | 右近衛少将 | 言仁親王従兄(清盛入道長子・重盛嫡男) | |
春宮大進 | 藤原光長 | 正五位下 | 左衛門権佐 | 親王家職事 | 言仁親王家家司経房弟で嫡子は経房猶子。 |
春宮権大進 | 高階経仲 | 従五位上 | 右衛門佐 | 院近臣高階泰経の子 | |
春宮少進 | 平時兼 | 正六位上 | 言仁親王義又伯父(言仁親王大叔父時忠の養子:時忠の従弟) | ||
春宮権少進 | 闕 | ||||
春宮大属 | 中原成挙 | 正六位上 | 左大史 | ||
春宮少属 | 安倍資成 | 正六位上 | 検非違使 左衛門尉 |
||
春宮少属 | 安倍資元 | 正六位上 | |||
主膳監 | 藤原盛光 | 正六位上 | |||
主殿首 | 惟宗章資 | 正六位上 | |||
主馬首 | 平盛綱 | 正六位上 |
余談だが、治承3(1179)年2月14日、「前山城守信家配流伊豆国」とある(『玉葉』治承三年二月十四日条)。どのような罪で遠流に処されたのかは不明だが、信憑性に疑問が大きい『尊卑分脈』の足立氏周辺の系譜を見ると、足立右馬允遠元の弟に山城守信家が見える(『尊卑分脈』)。遠元の娘が嫁いだという後白河院近臣・藤原光能には以仁王の妻女となった姉妹がいるが、この流刑の後も以仁王の話は取り上げられていないことや単独の流刑であることから、以仁王はこの信家配流の一件に関与しているとは考えにくく、信家自身が何らかの罪を犯したものだろう。
2月28日、五条坊門北大宮西大宮面の大舎人頭兼盛の屋敷で「修理大夫信隆女内女房也、母故大蔵卿通基朝臣女、生皇子」、高倉天皇二宮が誕生した。のちの後堀河天皇の父・後高倉院(守貞親王)である。皇子は生まれると同時に「右兵衛督知盛卿」が乳父と定められた(『山槐記』治承三年二月廿八日条)。これは皇太子言仁親王の地位を脅かす可能性のある存在を平氏の監視下に置く措置であろう。6月10日、この「当今二宮」の御百日の儀が西八条邸で挙行された。
平清盛
(前太政大臣)
∥―――――――――――――平徳子
∥ (中宮)
+―平時子 ∥
|(二位尼) ∥――――――――言仁親王
| ∥ (安徳天皇)
+―平滋子 ∥
(建春門院) ∥
∥―――――――――――――高倉天皇 +―守貞親王――――茂仁王
∥ ∥ |(後高倉院) (後堀河天皇)
∥ ∥ |
後白河天皇 ∥――――――+―尊成親王
∥ (後鳥羽天皇)
藤原信隆 ∥
(修理大夫) ∥
∥――――――藤原殖子
∥ (典侍)
藤原通基―――藤原休子
(大蔵卿)
3月11日、内大臣平重盛は病によって「内大臣重献辞表」(『玉葉』治承三年三月十一日条)、「今日其儀不可候」と内大臣を辞した(『山槐記』治承三年三月十一日条)。以前から体調の悪化と、清盛入道と後白河院との協調関係の悪化から、ついに辞任の意思を固めたのだろう。
さらにこうした中、6月17日夜半子刻、清盛入道の娘で故摂政基実の北政所「従三位平朝臣盛子(白河准后、白河北政所)」が白川御所で薨去した(『玉葉』治承三年六月十七日条、『山槐記』治承三年六月十七日条)。二十四歳だった。
北政所盛子は保元元(1156)年に平清盛の娘として生まれた。初名は不詳。仁安2(1167)年11月18日、「准三宮」ならびに無位から「従三位」へ昇叙し、11月3日に注進された「専子」「盛子」から選ばれた「盛子」の名字を賜う(『兵範記』仁安二年十一月十八日条)。『尊卑分脈』には「高倉院准母」とあることから、高倉天皇即位後に准母に定められたとみられ、母は姉・徳子と同様、平時子であろう。
長寛2(1164)年4月10日に九歳にして摂政基実と婚姻(『愚管抄』)したものの、仁安元(1166)年7月26日に十一歳で基実(二十四歳)と死別。「普賢寺殿幼少之間、暫有沙汰」(「近衛家所領目録」『近衛家文書』)と、基実嫡子の基通が六歳の幼児であったため、基通には叔父に当たる松殿基房(二十三歳)が新摂政に就任し、「藤氏長者」を継承した。基房は「法性寺忠通公之有職、松殿基房公親面授」とある通り、幼少から父・忠通に付いてその薫陶を受けており、以降十数年にわたり摂関の要職を厳格に冷徹にそして傲岸に務めた自他に厳しい名相である。また、その儀式における所作は辛口の異母弟・九条兼実をして「優美」と言わしめた。兼実は基房を「此人年来之間無会釈事甚多」など、対立・批判することも多かったが、様々な儀式において基房に教えを請い忠実にこれを守り、心の中では基房を畏怖、尊敬していた。このとき兼実が学び取った有職故実は伝書に纏められ、九条家に伝わっている(『玉葉』巻第三十三末)。
+――――――――――平寛子
| (北政所)
平清盛――――――+―平盛子 ∥
(太政大臣) (白川殿) ∥
∥ ∥
源国信――+―源信子 ∥ ∥
(権中納言)| ∥――――――――――藤原基実 ∥
| ∥ (六条摂政) ∥
| ∥ ∥――――――――藤原基通
| ∥ 藤原忠隆――+―女子 (普賢寺関白)
| ∥ (大蔵卿) | ∥―――――――藤原家実
| ∥ | ∥ (猪隈関白)
| ∥ | 源顕信――――――源顕子
| ∥ |(治部卿)
| ∥ |
| ∥ +―藤原基成―――――女子
| ∥ |(民部少輔) ∥―――――――藤原泰衡
| ∥ | ∥ (太郎)
| 藤原忠通 +―藤原信頼 藤原秀衡
|(法性寺関白) (右衛門督) (陸奥守)
| ∥ ∥
| ∥ ∥ 一条保能―――――女子
| ∥ ∥ (権中納言) ∥―――――――藤原道家
| ∥ ∥ ∥ (光明峯寺関白)
| ∥ ∥―――――+―藤原兼実―――――藤原良経
| ∥ ∥ |(月輪関白) (中御門摂政)
| ∥ 加賀局 | ∥
| ∥ +―藤原兼房 ∥―――――――藤原基家
| ∥ |(太政大臣) ∥ (九条内大臣)
| ∥ | ∥
| ∥ +―慈円権大僧正 ∥
| ∥ (天台座主) ∥
| ∥ ∥
| ∥ 藤原忠雅――――藤原忠子 +―藤原寿子
| ∥ (太政大臣) ∥ |(北政所)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥――――――+―藤原師家
| ∥――――――――――藤原基房 (松殿摂政)
| ∥ (松殿関白)
+―源俊子
基房は藤氏長者、摂政という地位を手に入れるが、摂関家嫡子は基実の嫡子・基通とみなされ、義母盛子が「大方ノ家領、鎮西ノシマヅ以下、鴨居殿ノ代々ノ日記宝物、東三條ノ御所ニイタルマデ」(『愚管抄』)を一時継承したことから、基房は「興福寺、法成寺、平等院、勧学院、又鹿田、方上ナド云所バカリ」(『愚管抄』)とある通り、藤氏長者付帯の殿下渡領ほか、氏寺及び氏院の管轄権のみ継承されたため、基房は激しく反発。以降平氏と激しく対立することとなる。
この盛子の「一所資財庄園、皆為件人領」(『玉葉』治承三年六月十八日条)は、「以彼後家可属禅門之由、被下院宣」とある通り、清盛が盛子の後見となることが院宣を以て保証され(『玉葉』治承三年六月十八日条)、清盛が摂関家私領を預領ながら実質支配することが公的に認められたことになった。清盛はこれについて、自分は辞退を考えたが、先年、賀茂大明神から藤の花が咲く宝山を賜った夢見から「辞退還以可有恐、仍愗受取、暫所守護也、為主之人可受継者、定其期至歟、以人意輙不能進退之由、禅門被密語云々、此事雖伝語、真実之説也」とし、やむなく暫く守護することになったが、これは人意では逆らえないものだと語ったという(『玉葉』治承三年六月十八日条)。実際にこうした夢見があったのかは定かではないが、清盛は摂関家領管理の根拠を、院宣だけではなく神意であると「密」かに喧伝していたことになる。
当時は平清盛と後白河院の協調政治が強力に推し進められていた政治体制にあっては、基通が成人するまでは、義母である北政所盛子が当主代としてその所領を一時預かって管理するという理屈は正当化され、実質的に清盛が管理し、院宣を以て担保するという措置が行われたのであった。
しかし、盛子の死後は、預領の継承について明確な取り決めはなく、清盛入道、後白河院それぞれが恣意的に継承権を想定することとなる。清盛は摂関家私領であるならば盛子の義子・基通が正統な継承権者だと訴え、後白河院は盛子が天皇准母であるという立場から天皇管理下に置かれるべきであるとしたのだろう。清盛入道の目論見は、基実・盛子の例と同様、基通の室とした娘(のち准三后平完子)を通じた摂関家領の掌握と摂関家外戚としての権力の継承であり、後白河院の目的は平氏に繋がる摂関家の排除と摂関家私領の院領付替であったろう。
これらの主張に対し、兼実は盛子の摂関家領継承が「以暫字案之」であり、「仮伝領之人已以亡没」した後は、「為宗之所可被付氏長者、其外所々、任理尤可被配分也、理之地当、未処分之地也、故摂政、男女子息有其数、尤可被配分、二品亜相、已為成人之息、為宗文書庄園、可被伝領之仁也」であると主張した(『玉葉』治承三年六月十八日条)。「二品亜相」は基通を指すとみられるが、彼に「宗文書庄園」を相伝すべきであると主張している(ただし、基房の氏長者と殿下渡領等は基房の継承であるとする)。
しかし、九条兼実はこの基通への家領継承は、「而此事更不可叶歟、如公家被伝預歟、是以、万事沙汰之趣、所愚推也」(『玉葉』治承三年六月十八日条)と、おそらく天皇への伝預となり、藤氏に戻ってくることはないと推測している。これは故准后盛子が高倉天皇准母であったことからの継承権の主張(後白河院が主導)であって、兼実はこれを早くから察していたとみられる。そして20日、兼実の推測通り、「白川殿所領已下事、悉皆可為内御沙汰云々、愚推相叶了、可悲々々、但春日大明神、定有御計歟」と、白川殿所領は後白河院の要求通りに高倉天皇沙汰(内御沙汰)とされた。そして、その管理は前大舎人頭藤原兼盛(白河院寵臣藤原盛重の孫)が「被補白川殿倉預」として行われることとなった(『玉葉』治承三年十一月十七日条)。
兼盛は高倉天皇の廷臣として忠実に仕えてその信任も得ていた人物とみられ、2月28日に生まれた二宮(守貞親王、のちの後高倉院、後堀河天皇父)は「五条坊門北大宮西大宮面」の「大舎人頭兼盛宅」での出生である(『山槐記』治承三年二月廿八日条)。ところが、兼盛はまた後白河院の近臣でもあったことから、公的には「内御沙汰」であるが、実質的に「白川殿庄園、法皇又有御沙汰」(『山槐記』治承三年十一月十七日条)と、後白河院の沙汰と認識された。しかし、兼盛の「白川殿倉預」拝任は後白河院の強い推薦によるものであろうが、「内御沙汰」である以上、天皇による親任であったことは間違いない。清盛入道は激怒したと思われるが、後白河院のこの策謀を正当な理由で覆すことは不可能であったろう。
さらに、それから間もない7月29日早朝、清盛入道の長男・内府入道重盛が薨去した(『玉葉』治承三年七月廿九日条)。清盛入道と後白河院の紐帯ともいうべき重盛の死は、その後の清盛入道と後白河院の関係悪化を食い止める術を失った形となり、両者の破局は加速していくこととなる。清盛入道にとっては、盛子の死による摂関家領喪失の危機に続く大きなダメージとなった。
その重盛の死を契機として、「法皇収公越前国、故入道内大臣知行国、維盛朝臣伝之」(『玉葉』治承三年十一月十四日条)、「故内大臣所賜之越前国法皇召取之」(『山槐記』治承三年十一月十四日条)とあるように、院は重盛の知行国であった越前国を没収したという。ただし、越前国が重盛知行国であった記録は、ほぼ同様の内容が同日の複数の公家の日記に記載されていることから、清盛入道が朝廷に提出した意見書の主張がそのまま記録されたものと考えられる。なお、正月11日時点の越前国は「平宰相教盛知行」(『山槐記』治承三年正月十一日条)であって重盛ではなく、教盛の子・通盛が越前守であった。そして正月から7月までの間に通盛の退任や重任はないため、越前知行国主は7月時点においても変わらず教盛であったと推測される。ここから、越前国が重盛知行国だったとの主張自体が清盛入道の詐称であった可能性が高い。ただし、通盛は10月9日にやはり父・教盛が知行国を務める能登国の国司に迂り、後任の越前守には讃岐守から「元讃岐院分」として院近臣藤原季能が転じており(『公卿補任』)、長年平氏の知行国であった越前国が院分国とされたことは確かであった。
なお、教盛は平氏一門の中でも清盛入道とはもっとも親密であったが、後白河院とも関係が近く、母は摂関庶流という人物であった。また、重盛義弟・藤原成経(重盛舅成親の子)は教盛の女婿であり、重盛との関係も深かったと思われる。
女子
∥―――――――平清盛――――平重盛
∥ (前太政大臣)(内大臣)
∥ ∥
∥ ∥
平忠盛 藤原成親―+―藤原経子
(刑部卿) (権大納言)|
∥ |
∥ +―藤原成経
∥ (参議)
∥ ∥
平貞経――――女子 ∥―――――――平教盛――+―女子
∥――――――――――藤原家隆―――女子 (参議) |
∥ (左京大夫) |
∥ ∥ +―平通盛
∥ ∥ (越前守)
∥ ∥
∥ ∥――――――藤原成隆
∥ 藤原盛実――+―女子 (皇后宮権亮)
∥ (治部卿) | ↓
源師房――――源麗子 ∥ | 【家司】 二条天皇
(右大臣) ∥――――――藤原師通 +―女子 ↓ ∥
∥ (関白) ∥ ↓ ∥
藤原道長―+―藤原頼通―――藤原師実 ∥ ∥――――――藤原頼長====藤原多子
(関白) |(関白) (関白) ∥ ∥ (左大臣) (太皇太后宮)
| ∥――――――――――藤原忠実 ∥
| ∥ (関白) ∥―――――――藤原師長
| ∥ ∥ (太政大臣)
+―藤原頼宗―――藤原俊家―――藤原全子 ∥
|(右大臣) (右大臣) ∥
| ∥
| 藤原伊綱―――女子 +―源信雅―――――――――――――+―女子
| ∥ |(陸奥守) |
| ∥ | |
+―藤原尊子 ∥ | +―女子
∥ ∥ | | ∥
∥ ∥ | | ∥―――――――平経盛
∥ ∥ | | ∥ (太皇太后宮大夫)
∥ ∥――――+―源顕雅 | 平忠盛
∥ ∥ (権大納言) |(刑部卿)
∥ ∥ |
∥ ∥ +―源成雅
∥ ∥ (左近衛中将)
∥ ∥
∥――――+―源顕房――+―源国信―――――――――――――+―源信子
∥ |(右大臣) |(権中納言) | ∥
∥ | | | ∥
具平親王―――源師房 +―源麗子 +――――――――――――源師子 | ∥―――――――藤原基実
(右大臣) | ∥ ∥ | ∥ (摂政)
∥ | ∥ ∥ | ∥
∥ | ∥――――――藤原師通 ∥――――――藤原忠通
∥ | ∥ (関白) ∥ |(関白)
∥ | ∥ ∥ ∥ | ∥
∥ | 藤原師実 ∥――――――――――藤原忠実 | ∥―――――――藤原基房
∥ |(関白) ∥ (関白) | ∥ (関白)
∥ | ∥ | ∥
∥ | 藤原俊家―――藤原全子 +―源俊子
∥ |(右大臣)
∥ |
∥ +―源俊房――――源方子
∥ (左大臣) ∥
∥ ∥―――――――藤原得子
∥ ∥ (美福門院)
∥ 藤原長実 ∥
∥ (権中納言) ∥―――――――+―近衛天皇 +=二条天皇
∥ ∥ | |
∥――――+―源顕通――――明雲 ∥ | |
∥ |(権大納言) (天台座主) ∥ +―暲子内親王―+=以仁王
∥ | ∥ (八条院)
源隆俊――――源隆子 +―源賢子 ∥
(権中納言) ∥ ∥ +―崇徳天皇
∥ ∥ |
後三条天皇 ∥――――――堀河天皇 ∥ | 源懿子
∥ ∥ ∥ ∥ |(藤原経実実子)
∥――――――白河天皇 ∥―――――――鳥羽天皇 | ∥
∥ ∥ ∥ | ∥―――――――二条天皇
∥ ∥ ∥ | ∥
∥ ∥ ∥―――――――+―後白河天皇
∥ ∥ ∥ ∥
+―藤原茂子 +―藤原苡子 +―藤原璋子 ∥―――――――以仁王
| | |(待賢門院) ∥
| | | ∥
藤原公成―+―藤原実季――――――――+―藤原公実――+―藤原季成――――+―藤原成子
(中納言) (大納言) (権大納言) |(権大納言) |(典侍)
| |
| +―藤原公光
| (権中納言)
|
+―藤原実能――――――藤原公能
|(左大臣) (右大臣)
|
+―藤原実行
|(太政大臣)
|
+―藤原通季
(権中納言)
そのような中で、10月7日、清盛入道と対立する関白基房の子・中将師家が直衣始を行って家司、職事が定められ、10月8日夕には八歳にして従三位に叙される(『山槐記』治承三年十月八日条)。なお、このときの師家家司に補されたうちの上位四名は、もと盛子の家司だった人々であり、盛子の家政機構は、基通ではなく師家に転用されたことがわかる。そこには多分に後白河院の意思が働いていたと考えられよう。
●中将師家の新補家職(『山槐記』治承三年十月七日条)
名 | 官位 | 官職 | 白川殿家司 | 中宮職 | |
家司 | 藤原光長 | 正五位下 | 左衛門権佐 春宮大進 |
本家司:中宮大進光長 (『兵範記』仁安二年十一月廿六日条) |
中宮大進光長 (『兵範記』仁安三年八月十日条) |
藤原兼光 | 正五位下 | 蔵人左少弁 | 東宮学士兼光 (『兵範記』仁安二年十一月廿六日条) |
||
平信国 | 正五位下 | 少納言兼侍従 | 中宮権大進信国 (『兵範記』仁安二年八月六日条、十一月廿六日条) ※摂関家家司家の兵部卿信範の子。 |
中宮権大進信国 (『兵範記』仁安二年十一月廿六日条) |
|
藤原光綱 | 正五位下 | 中宮権大進 | 兵部少輔光綱〔新補〕 (『兵範記』仁安二年十一月廿六日条) |
||
藤原親経 | 正五位下 | 宮内少輔 東宮学士 |
|||
職事 | 源長経 | 前皇后宮大進 | ※摂政基実家司 (『山槐記』永万元年七月十八日条) |
||
源仲盛 | 前皇后宮少進 | ||||
源貞光 | 散位 | ||||
高階仲資 | 散位 | ||||
高階業国 | 散位 |
この叙位は俄かに行われたもので、九条兼実も「今夜俄被行叙位、従三位藤師家、只一人也」と記録し、「明日叙書、可補中納言云々、生年八歳」(『玉葉』治承三年十月八日条)、「当時執政之息、雖此左右事、年齢八歳、古今無例」と、わずか八歳での従三位は前例のない事として批判している(『玉葉』治承三年十月八日条)。9日の権中納言補任についても、右近衛権中将に権中納言を兼ねるのは先例から摂関家嫡子の扱いに他ならず、二十歳の従二位右近衛権中将である藤原基通(盛子の義子)を超越した人事であった。さらに、師家は従三位叙位から間もない21日に正三位に昇叙され、基通は摂関家嫡子としての地位を完全に失うこととなった。これについては、九条兼実は兄・関白基房へ意見している(『玉葉』治承三年十月廿三日条)。
この師家の急激な任官と昇進は、当然ながら関白基房だけの希望で成し得るものではなく、明らかに後白河院の強い意向が反映されたものであろう。このことは基通を女婿(娘の平寛子が正室)としていた清盛入道による実権掌握を阻止する目的が強かったと思われる。すでに高倉天皇の外戚、東宮言仁親王の外祖父という地位にあった清盛入道が、さらに摂関家をも支配することになれば、院政の基盤ひいては王家による政体そのものの崩壊が危惧されることとなる。後白河院はその危険因子を一掃するための契機をうかがい、盛子の死をきっかけに一気に行動に移したのであろう。
なお、10月25日には師家の正三位昇叙等に関する拝賀が行われたが、これに扈従した前駈のうち二十一名は、白川殿盛子の家司や職事に補任されていた人や、盛子の参内に際して前駈を命じられた人々が加わっており、盛子の薨去後、後白河院の意思によって、摂関「家」に仕える氏家司は師家への移転とともに、盛子に供奉していた摂関家奉仕の人々も関白基房に移されたとみられる。なお、源雅経、菅原定康の両名は「非殿御家人、被申請本所」とあることから、彼ら以外は基房家人の立場にあったのだろう。
●中将師家の拝賀前駈(『山槐記』治承三年十月廿五日条)
名 | 官職 | 師家家職 A(『山槐記』治承三年十月七日条) B(『山槐記』治承三年十月廿五日条) |
白川殿奉仕 A(『山槐記』治承三年二月十日条) |
藤原資泰 | 前河内守 | 前駆諸大夫(A) | |
藤原高佐 | 前下総守 | 家司 | |
橘以政 | 前筑前守 | 前駆諸大夫(A) | |
藤原盛業 | 壱岐守 | 前駆諸大夫(A) | |
源季広 | 前皇后宮権大進 | 前駆諸大夫(A) | |
源長経 | 前皇后宮権大進 | 職事(A) | 前駆諸大夫(A) |
藤原頼高 | 上野介 | 前駆諸大夫(A) | |
藤原季佐 | 前左馬助 | 職事(A) 前駆諸大夫(A) |
|
源惟頼 | 隠岐守 非職 | ||
藤原家輔 | 散位 | ||
藤原能業 | 前豊前守 | 前駆諸大夫(A) | |
源仲盛 | 前皇后宮少進 | 職事(A) | 前駆諸大夫(A) |
源貞光 | 散位 | 職事(A) | 前駆諸大夫(A) |
藤原親光 | 対馬守 | 前駆諸大夫(A) | |
源長俊 | 但馬権守 | ||
高階仲資 | 散位 | 職事(A) | 前駆諸大夫(A) |
高階業国 | 散位 | 職事(A) | 前駆諸大夫(A) |
源雅経 | 太皇太后宮権少進 | (非殿御家人、被申請本所)(B) | |
菅原定康 | 皇嘉門院蔵人 | (非殿御家人、被申請本所)(B) | |
高階重行 | 殿勾当(B) | ||
源有資 | 同(殿勾当)依可勤今度前駈被補之(B) |
そして盛子が有した摂関家領の王家預は、盛子の家政機関が師家に移されたことからも、その後関白基房へ付すことを考えていたのではなかろうか。そして、基房への白川殿領付与については、さらに大きな後白河院の陰謀(高倉天皇の退位)への布石であったとみられ、こうした院の動きを知った清盛入道の子・前右大将宗盛は、11月11日、厳島神社参詣と称して福原へ向かい、清盛入道に報告。これを受けた清盛入道は、わずか三日後の11月14日、多くの兵士を率いて、電撃的な軍事行動を起こすことになる。
治承3(1179)年11月14日夜、宮中では豊明節会が予定されていたが、同日夕刻、不意に清盛入道は「武士数千」を率いて福原から入洛した。このため洛中には武士が溢れて「凡京中騒動無双」という騒ぎとなっていた。人々は「人不知何事」とその原因がわからずに困惑しているが、九条兼実は節会のために「今夜出仕雖非無所恐、為勤公事出仕、不可有横災之由、深存忠、仍令企参仕」と武士の狼藉に注意しつつ出仕している。この混乱を「乱世之至」と表現し、突如として騒乱の体を見せ始めた京中の状況を嘆いている(『玉葉』治承三年十一月十四日条)。
西八条邸に入った清盛入道は、関白人事案と意見書を作成して「自今旦、右将軍及若州等、数遍往還」と、前右大将宗盛を通じて「若州等」と数度に渡り交渉させ、関白人事案を「内々議定」させた(『玉葉』治承三年十一月十五日条)。清盛入道の武威に恐れをなした朝廷は「忽遣勅使、被仰此儀可被行之状」を発し、上卿を源中納言雅頼として「詔書宣命等」を認めた。九条兼実は予め「詔書宣命等」に係る下記の人事内容を史大夫隆基から得ている。
清盛入道は絶対的武力を背景に、11月15日、松殿基房の関白を停止して藤氏長者を剥奪。基房嫡子・師家の権中納言ならびに右近衛権中将も停止させ、自身の女婿で非参議に捨て置かれていた右近衛権中将藤原基通を藤氏長者に付けるとともに、関白宣下と内大臣補任を朝廷に認めさせた。
・藤原基通:関白宣下および内大臣補任、藤氏長者の就任
・藤原基房:関白の停止(藤氏長者剥奪)
・藤原師家:権中納言ならびに右近衛権中将の停止
しかしこの基通への関白宣下の評判は芳しいものではなかった。関白は執政の重職にあるため、実務経験が必要不可欠であり、納言、参議など議政官を経験する先例であった。ところが基通は長らく非参議に置かれ、ここから直に関白および内大臣へと就任することになった。十数年にわたって反平氏思想の関白基房が朝廷を取りまとめる中で、平氏と近い存在の基通を議政官に就けないという基房の策謀であったのかもしれない。
この先例にない関白兼内大臣の補任を、叔父の兼実は「自非参議任大臣、幷無摂録事今度始之」と評している(『山槐記』治承三年十一月十六日条)。いまだ二十歳の若者で、父基実の早世により有職故実を学ぶ機会を逸していた基通は、執務や典礼について戸惑うことが多く、叔父兼実に逐一質問しながら儀式を行っている(『玉葉』治承三年十二月八日条)。これを裏付けるように、兼実のもとを訪れた基通家司の「兵部卿入道信蓮(平信範)」は数刻談話しているが「多是新博陸、未練之間事歎申」て、とくに「日頃籠居人、俄居重任、毎事惘然、無術之由被命」(『玉葉』治承三年十二月十日条)と、基通自身から「籠居していた人が俄かに関白となってしまい、やることなすことわからない事ばかりでどうしようもない」と告げられたことを兼実に伝えている。基通自身、欲して関白になったのではないことが明白であり、彼もまた清盛入道と後白河院の対立の犠牲者であった。11月28日には新関白基通の家司職事が定められたが、新補の家司らは平氏関係者で占められており、平氏は名実ともに摂関家を支配下に収めたことになった。
●関白基通の家司職事(『山槐記』治承三年十一月廿八日条、■は平氏関係者)
名 | 官位 | 官職 | 続柄 | 備考 | 殿下渡領預 | |
家司 (本補) |
藤原重方 | 右大弁 | ||||
藤原敦綱 | (散位) | |||||
藤原光長 | 左衛門権佐 | 【摂関家家司家】 | ||||
平棟範 | 宮内権少輔 | 【摂関家家司家】 | ||||
家司 (新補) |
平重衡 | 正四位下 | 左近衛権中将 春宮亮 |
平清盛入道四男 (母は平知信女・平時子) |
基通正室平完子の兄 年預家司 |
鹿田庄 |
平信基 | 従四位上 | 左馬権頭 修理権大夫 |
平知信子・平信範長男 | 【摂関家家司家】 父・平信範は『兵範記』著者 |
||
平経正 | 従四位上 | 皇太后宮亮 但馬守 |
平経盛長男 | 父・平経盛は清盛入道異母弟 | ||
藤原親雅 | 正五位下 | 右衛門権佐 | 藤原親隆子 (妻は平知信女) |
【摂関家家司家】 兼下厩別当 |
||
中原師尚 | 正五位下 | 大外記 大炊頭 |
大外記師元長男 | 【摂関家家司家】 弟は清盛養子・尾張守平清貞 |
||
中原頼継 | 従五位下 | (散位) | ||||
藤原季隆 | 家司親雅子 | 【摂関家家司家】 | ||||
職事 (家司より補任) |
藤原光雅 | 権右中弁 | 藤原光頼子 (母は藤原親雅姉妹) |
【摂関家家司家】 | 方上庄 佐保庄 |
|
執事(新補) | 平信清 | 従五位下 | (散位) | 兵部卿平信範子 | 【摂関家家司家】 新補家司信基弟 |
|
高階仲資 | 従五位下 | (散位) | 【摂関家家司家】 | |||
高階清定 | 従五位下 | (散位) | 高階清章子 | 【摂関家家司家】 | ||
上厩別当 | 平知度 | 従五位下 | 三河守 | 平清盛入道七男 | 厩別当は「上下之間、藤氏必可補也」 という(『葉黄記』寛元四年正月条) 知度は下厩別当よりも位階が低く、 平氏の意向によるものか |
|
下厩別当 | 藤原親雅 | 正五位下 | 右衛門権佐 | 【摂関家家司家】 | ||
勧学院別当 (氏院別当) |
藤原兼光 | 右中弁 | 【摂関家家司家】 |
清盛入道は、さらに、後白河院の勢力を一掃するため、11月17日、院近臣ら三十九人の公家を解官させ、後白河院自身も法住寺殿から鳥羽殿へ「御幸(事実上の追放処分)」させた。
●治承三年十一月の解官および任官の人々、■は平氏関係者
官職 | 解官 | 任官 |
関白 | 藤原基房 | 藤原基通 |
太政大臣 | 藤原師長 | |
内大臣 | 藤原基通 | |
権大納言・按察使 | 源資賢 | |
春宮大夫 | 藤原兼雅 | 藤原忠親 |
太宰帥 | 藤原隆季 | |
太宰権帥 | 藤原基房(関白) | |
右近衛大将 | 藤原良通 | |
権中納言 | 藤原師家 | 藤原良通(右近衛大将) |
権中納言 | 藤原実綱 | |
右近衛中将 | 藤原師家(権中納言) | |
右近衛権中将 | 藤原隆忠 | 藤原隆房 |
右近衛権中将 | 藤原定能 | |
右衛門督 | 平頼盛 | 藤原実家 |
大蔵卿 | 高階泰経 | 藤原雅隆 |
右近衛少将 | 源雅賢 | |
右近衛権少将 | 源資時 | |
右近衛権少将 | 平時家 | |
右近衛権少将 | 藤原顕家 | |
右兵衛督(参議) | 藤原光能 | 藤原家通 |
皇太后宮大夫 | 藤原光能(右兵衛督) | |
右京大夫 | 高階泰経(大蔵卿、右京大夫) | 藤原基家 |
太宰大弐 | 藤原親信 | |
主殿頭 | 藤原家綱(辞退) | 高階為清 |
右中弁 | 平親宗 | 藤原兼光 |
式部権大輔 | 藤原範季 | |
左衛門佐 | 高階経仲 | |
右衛門佐 | 平業房 | |
右馬頭 | 藤原定輔 | |
左馬権頭 | 平業忠 | |
修理大夫 | 平経盛 | |
大膳大夫 | 平信業 | 藤原済綱 |
権右中弁 | 藤原光雅 | |
左少弁 | 藤原行隆 | |
右少弁(蔵人) | 平基親 | 源兼忠 |
中宮大進 | 平基親(右少弁(蔵人)) | |
春宮権大進 | 藤原時光 | |
伊予守 | 高階泰経(大蔵卿、右京大夫) | 藤原隆成 |
伯耆守 | 平時家(右近衛権少将) | 平忠度 |
三河守 | 藤原顕家(右近衛権少将) | 平知度 |
上総介 | 藤原為保 | 藤原忠清 |
越前守 | 藤原季能 | 平通盛 |
備中守 | 藤原光憲 | 平師盛 |
陸奥守 | 藤原範季(式部権大輔) | |
常陸介 | 高階経仲(左衛門佐) | 平宗実 |
相模守 | 平業房(右衛門佐) | 藤原範能 |
能登守 | 平教経 | |
若狭守 | 平経俊 | |
美濃守 | 藤原定経 | 源則清 |
加賀守 | 平親国 | 藤原保家 |
伊勢守 | 大中臣忠清(停任) | 藤原清綱 |
土佐守 | 藤原成定 | |
讃岐守 | 平惟時 | |
尾張守 | 平時宗 | |
出羽守 | 藤原顕経 | |
阿波守 | 藤原孝貞 | 平宗親 |
河内守 | 源光遠 | |
淡路守 | 藤原知光 | 平清房 |
周防守 | 藤原能盛 | 平範経 |
但馬守 | 源信賢 | 平経正 |
甲斐守 | 藤原為明 | |
大蔵大輔 | 中原宗家 | |
佐渡守 | 中原尚家 | |
左衛門尉(検非違使) | 大江遠業(松殿基房家人) | 藤原景高 |
左衛門尉(検非違使) | 平扶行 | 藤原忠綱 |
右衛門尉(検非違使) | 源光長 | |
(検非違使) | 藤原信盛(院近臣・藤原顕盛流) | |
右兵衛尉(検非違使) | 藤原基能 | 藤原基能(還任) |
(検非違使) | 藤原友実 | |
左衛門少志(検非違使) | 中原清重 | |
右衛門志(検非違使) | 中原重成 | |
右衛門府生(検非違使) | 安倍久忠 |
清盛入道による後白河院と院近臣への報復人事は、単に摂関家にまつわる対立だけではないだろう。後白河院が清盛入道を排斥せんとする意思は、反平氏の関白基房の子・師家に摂関家嫡子の待遇を与えたことからもうかがえるが、それよりも高い次元である高倉天皇と東宮言仁親王という、平氏血縁の王統の否定を想定していたと思われる。摂関家から平氏の影響力を排除しただけでは、東宮言仁親王外戚の清盛入道の権力を削ぐことはできないからである。高倉天皇の一宮にして清盛入道を外祖父とする東宮言仁親王の即位は、即ち後白河院政の終焉と、高倉院政を利用した清盛入道による政治の壟断が想定されるのである。後白河院はみずからの院政継続のために、自身の唯一の俗世の皇子である以仁王を持ち出すことは十分想定できるものであった。そして、その以仁王の危険性をその元服以来十年にわたって認識し続けていたのが、清盛入道である。
政変から数日後の11月25日、清盛入道は以仁王が座主最雲親王の付弟であった当時から「知行之常興寺在九條、太政大臣信長所建立」を取り上げ、天台座主明雲に付した。
常興寺領はかつて白河院から天台座主仁源へ付されたのち、仁豪、仁実ら梶井円徳院の付領として最雲親王へと伝領されてきたものであり、梶井門正統の明雲が常興寺領を継承するのは「而当座主為彼最雲親王弟子、仍被付法家歟」という正当な理由もあった。以仁王から没収した公的な理由は「座主入滅之後、加元服猶知行彼寺、有庄園等」であり、梶井円徳院円融房(梨下正統)を継ぐ者への伝領であって、そこから外れた以仁王は伝領の資格はないという理論である。後白河院を幽閉し、以仁王擁立の可能性はなくなったにもかかわらず、長い間以仁王が継承していた所領を反論のできない「正当な理由」で収公する事は、清盛入道が彼の影響力の強さを極度に警戒していた現れであろう。
しかし、清盛入道が行った治承三年十一月の強引な関白人事、院近臣の解官、後白河院の鳥羽殿御幸は、平氏に反発する勢力をより勢いづかせ、その後に清盛入道の行った独断的な行為が、結果的に反平氏勢力を糾合し、数年後、平氏一門を滅ぼす大きな原因となるのである。
治承三年十一月政変から三か月後の治承4(1180)年2月21日、高倉天皇は二十歳にして東宮言仁親王に譲位して上皇となり、言仁親王はわずか三歳で践祚(安徳天皇)した。
ところが、高倉上皇の初行幸が先例に反して清盛禅門の強い希望で厳島とされたことから、激しく反発した「薗城寺大衆発起、相語延暦寺及南都衆徒」が「参法皇及上皇宮、可奉盗出両主」を企てた。ただ、延暦寺でこの呼びかけに応じたのは専光房阿闍梨珍慶のみで(『山槐記』治承四年三月十七日条)、もともと平氏との関係は悪くなかった延暦寺では「延暦寺総大衆不成此議」と、園城寺とは異なり全山挙げて謀議に加わったわけではないようだ。
この両院奪取計画は、「法皇令告前右大将給、其後帥大納言隆季被告大将」と、後白河院と太宰帥隆季から平宗盛へ情報が齎されており(『山槐記』治承四年三月十七日条)、事前に清盛側に漏れたことで、高倉院の厳島行幸は19日に延引、後白河院は警衛のために多くの兵士に囲まれて鳥羽殿から「五条大宮之辺家為行家云々」「五条南大宮東前備後守為行宅」へと遷御するため移動するが、途中の「四墓(四塚)」で再び鳥羽殿へと戻っている。
こうした平氏方の動きによって大衆の両院奪取の計画は失敗に帰すこととなる。しかし、園城寺や興福寺の平氏政権に対する不信感は拭われることなく、平氏と園城寺・興福寺衆徒の対立は激化することとなり、高倉宮以仁王の騒動へと繋がっていくこととなる。
三条高倉御所跡 |
『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年4月9日の夜、「入道源三位頼政卿」が子息の前伊豆守仲綱らを率いて密かに以仁王の坐す三條高倉御所を訪れ、「前右兵衛佐頼朝已下」の源氏を催して平氏を討ち、「可令執天下給之由」を告げたとある(『吾妻鏡』治承四年四月九日条)。そして、これを受けた以仁王は「散位宗信」に指示して「令旨(最勝王宣旨)」を下したとされる。
ただし、清盛入道に対する頼政の敵意については疑問である。頼政が悲願としていた従三位に昇叙したのは「入道相国奏請」によるものであり、彼に対しては恩義を感じこそすれ、敵愾心を持つ余地はないだろう。また、たとえ清盛入道の後白河院幽閉や院近臣粛清、独断的な関白人事など常軌を逸した治承三年十一月の政変に怒りを感じたとしても、頼政と院、前関白基房との関わりの希薄さから考えて、自ら進んで反平氏の先頭に立つことは想定しづらい。逆に頼政は政変から十一日後、以仁王が城興寺領を収公された三日後の11月28日(『公卿補任』)、突如出家遁世しており、七十六歳という年齢に加えて「煩赤痢病、及獲麟」(『玉葉』治承三年正月十二日条)という病状に加え、動乱の世の中に嫌気がさしていたこともあったのではなかろうか。
では、なぜ遁世したはずの頼政入道が、出家から五か月の間に、一転友好関係にあったはずの清盛入道を討つべく4月9日の「最勝王宣」を主導する立場へと変化したのであろうか。
おそらく頼政入道の本心は、和歌の道に執心することを望み、以前と変わらず清盛入道に対抗する意思はなかったであろう。しかし、主である八条院や太皇太后宮ら美福門院、二条院ゆかりの王統による人々が、武門源氏の最上位にある頼政入道を説得し、その影響力を以て諸国源氏へ挙兵を促す謀略に加担させたのだろう。そして、頼政入道も主筋の要請を拒むことはできなかったのだろう。
頼政入道の屋敷は鴨川の東、六勝寺のある白河に北接した近衛河原にあり、太皇太后宮御所と近接していた。そして頼政入道はこの大宮御所に仕える女房・小侍従(待宵の小侍従)とは二十年来、和歌を通じて親密な関係にあった。
■『源三位頼政集』より
小侍従は治承3(1179)年に出家するが、上記は自分よりも前に尼となったことに驚いた頼政が小侍従に遣わした歌で、小侍従の息の合った掛け合いの返歌が届けられており、両者の深い交流がうかがえる(『源三位頼政集』)。そして、前述の通りこの小侍従の和琴の弟子が「三條宮(以仁王)」であった(『和琴血脈』)。
治承4(1180)年4月9日夜、頼政入道は子息仲綱らを伴って三條高倉御所を訪れた(『吾妻鏡』治承四年四月九日条)。これは八条院からの要請によるものと思われ、それを受けたのはおそらく頼政入道の家督を継承していた「前伊豆守正五位下源朝臣仲綱」であろう。仲綱は守仁親王(二条天皇)立太子時の蔵人三﨟(『山槐記』久寿二年九月廿三日条)で、伊豆守時代には流人・前右兵衛権佐源頼朝と接点もあったとみられる。仲綱は旧二条親政派の一人であり、以仁王とは深く関わっていたのであろう。
4月9日夜が選ばれたのは、新帝(安徳天皇)が五条東洞院の摂政家司・藤原邦綱邸から初めて大内裏に入る儀式の日であったためと思われる(『玉葉』治承四年四月九日条)。一連の儀式は夕刻から深更に及ぶものであり、さらに同日夜には厳島御幸から高倉上皇の遷幸が予定され、黄昏時から夜にかけて道々に警衛の武官、検非違使らのほか、多くの車や役人らの往来があったことで、頼政入道の車もそれらに紛れたことで、警備の目の厳しいはずの三條高倉邸へ入ることができたのではなかろうか。
三條高倉邸に入った仲綱は以仁王を奉じて「最勝王宣」を宣した(『吾妻鏡』治承四年四月廿七日条)。この「宣」文は、治承4(1180)年9月5日に下された「源頼朝等追討官宣旨」(『山槐記』治承四年九月五日条)や承久3(1221)年5月15日に下された「平義時追討官宣旨案」(『大日本史料』)と様式が酷似しており、当然ながら右弁官が「正式」に参画したものではないが、弁官の経験のない仲綱がしたためることができるものではなく、右弁官経験者の協力があったことがうかがえる。治承三年十一月の政変では、後白河院近臣の右大弁平親宗、右少弁平基親がそれぞれ解官されており、彼らの協力があった可能性も十分考えられる。その場合、以仁王の挙兵には八条院や太皇太后宮ばかりか後白河院も背後にいたことがうかがえる。「最勝王宣」にみる清盛入道の罪科として真っ先に挙げられているものが「幽閉 皇院」であることや、後白河院が治承三年十一月政変によって院分国を奪われたことへの恨み、平氏を姻戚とする王統、摂関家の確立への危機感から、実子である以仁王の擁立に動くことは容易に想定できる。さらに、この「最勝王宣」で以仁王が強調したのが「吾為一院第二皇子」であることからも、後白河院の影響(後白河院政復活の容認)と同時に長兄二条院流の正統後継者として、平氏の擁立した高倉院政を否定する意思が見て取れる。
この「宣」を認めるに際して、以仁王は清盛入道に対し、父・後白河院の幽閉(幽閉 皇院)、関白松殿基房ほか院近臣に対する恣意的解官および流罪、殺害(流罪公臣、断命流身、沈淵込樓)、白川殿領の押領ならびに院分国の平氏領への付替(盜財領國、奪官授軄、無功許賞)、王位を簒奪し、仏法を破壊する者(違逆 帝皇、破滅佛法、絶古代者也)と糾弾した。そして、自分は「一院第二皇子」として「尋天武天皇旧儀、追討 王位推取之輩、訪上宮太子跡、打亡仏法破滅之類」と、壬申の乱で大友皇子=弘文天皇(王位推取之輩)を討った天武天皇、物部守屋(仏法破滅之類)を倒した上宮太子に準え、「最勝王」として「諸国源氏幷群兵」「源家之人藤氏之人」へ「清盛法師幷宗盛等」の追討を命じ、彼らを追討したのちは「御即位」を公言した。「最勝王」とは、毎年5月に内裏で行われていた「金光明最勝王経」を南都北嶺の僧侶が講じる国家鎮護のための最勝講からの仮託であろうか。以仁王は5月中の諸国源氏らの挙兵を目論んだうえで、最勝講を講じる園城寺や興福寺、延暦寺、東大寺衆徒を束ね、その庇護のもと「淸盛法師幷從類叛逆輩」を追討する計画であったのかもしれない。
なお、この「最勝王宣」を頼朝は「一院第三親王宣」(『玉葉』治承四年十一月廿ニ日条)、「最勝親王之命」(『明月記』九月条)とし、以仁王を親王と主張している。しかし、以仁王は親王宣下されておらず、「最勝王宣」においても親王を称していないことから、頼朝の主張する「親王宣」は誇張である。
仲綱は「最勝王宣」を宣すると、故六条判官為義の十男・新宮十郎義盛を諸国源氏への使者とするが、彼はこの使者となるにあたって、八条院蔵人に補されており(このとき行家と改む)、「最勝王宣」についても八条院が深く関与していた事がわかる。こののち「最勝王宣」は源行家が東国へ齎すことになるが、4月27日に伊豆国の流人源頼朝のもとに届き、頼朝は「欲挙義兵」と決意したという(『吾妻鏡』治承四年四月廿七日条)。これとほぼ時を同じくして、八条院領・下総国下河辺庄の庄司藤原行平に「入道三品頼政用意事」が伝えられているが(『吾妻鏡』治承四年五月十日条)、これも八条院庁からの通達または軍勢催促を命じたものと思われ、八条院の積極的な関与がわかる。そして下河辺庄司行平からの「入道三品頼政用意事」を伝える使者が5月10日に源頼朝のもとに着いている。
園城寺 |
頼朝は「去年五月」に「自伊豆国遥被付御願書日胤給之」とある通り(『吾妻鏡』治承五年五月八日条)、治承4(1180)年5月、伊豆国から園城寺の日胤へ「御願書」を送り、何らかの祈祷を依頼したという。これを受けた日胤は、「一千日、令参篭石清水宮寺」と、石清水八幡宮へ登り、御願成就を期して千日行を誓ったが、「無言而令見読大般若経六百箇日之夜」に「自宝殿、賜金甲之由」の霊夢があり、「潜成所願成就思」っていたところ、翌朝、「高倉宮」が三井寺に入ったという風聞に接した。そのため、弟子僧である帥公日慧に御願書の後事を託して以仁王のもとへ奔ったという。そして、日慧は先師日胤の「千日所願」の遺命を守って成就させ、治承5(1181)年5月8日、頼朝のもとへ参着している(『吾妻鏡』治承五年五月八日条)。日胤が頼朝の「御願成就」の祈祷よりも以仁王の挙兵への参画を優先していることから、日胤は頼朝の祈祷僧である以前に、以仁王の護持僧であったのだろう。律静房日胤は、以仁王を支える「張本」の園城寺「律上房、尊上房」として高倉院に報告されており、相当以前から以仁王と繋がっていたと考えられる。父・千葉介常胤の本領である千葉庄は「八条院庁分」であり、領主の猶子・以仁王の護持僧となることは十分考えられることである。
なお、これらの記述は頼朝が「最勝王宣」を受けて平氏追討を祈願した記述であるが、これについては、大般若経見読六百日のときに以仁王が園城寺に入山した一報を受けたとすれば、治承4(1180)年5月の1年4か月程前から参籠していたことになる。これを信じるとすれば日胤が石清水に入ったのは治承3(1179)年正月ごろとなる。ところがこれでは「去年五月」の依頼とはまったく合わない。さらに治承3(1179)年正月ごろから千日では、治承5(1181)年10月ごろとなることから、これもまったく記述と符合しない。治承3(1179)年ごろに頼朝が積極的に挙兵を画策していた事実は認められず、「千日」「六百箇日」は実際の日数ではないのであろう。
治承4(1180)年5月10日早朝、清盛入道は俄に福原から入洛し「武士満洛中、世間又物忩」となった(『玉葉』治承四年五月十日条)。ただし、翌日には「禅門下向了」と、わずか一日で福原へと戻っている(『玉葉』治承四年五月十二日条)。この清盛入道の動きは不可解であるが、二日前の8日夜「左兵衛督知盛所労、万死一生、頗物狂」という報告がなされたことから、表向きはその見舞いのための入洛であろう。ただし、大量の兵士も従って入洛していることから、何らかの理由で清盛入道へ漏れた以仁王の謀反計画への対処も行われたとみられる。
清盛入道帰福から四日後の15日、「臨昏之間京中鼓騒」があった(『玉葉』治承四年五月十五日条)。これは、以仁王捕縛のための検非違使の動きであり、朝廷は「今夜三条高倉宮院第二子、配流」と定め(『玉葉』治承四年五月十五日条)、三條高倉御所へ検非違使が差し向けられた。事前に左大臣兼実も知らされない、隠密で進められた計画であったことがわかる。おそらく清盛入道の入洛時に事実上、彼の指示による罪状勘問が行われ、別当宣による公的な捕縛へと繋がったのだろう。
このとき捕縛のために派遣された検非違使は「兼綱大夫尉、光長」の両名で(『山槐記』治承四年五月十五日条)、いずれも頼政入道の同族であり、とくに兼綱は頼政猶子であった。彼らは「三条北高倉西亭」の御所を取り囲み、光長が高倉小路に面した小門から踏み込んだところ、以仁王の家人「左兵衛尉信連」が応射して三名が負傷した(『山槐記』治承四年五月十五日条)。「光長郎等四人死去」(『百錬抄』)とも伝わる。さらに「長兵衛尉信連取太刀相戦、光長郎等五六輩為之被疵」という合戦があったという(『吾妻鏡』治承四年五月十五日条)。ただし、「如八幡太郎」という弓術の妙士・兼綱の働きが伝わっておらず、積極的に動いていない可能性が高い。その後、信連は捕縛され、以仁王の家司一人と女房三名も捕らえられた(『吾妻鏡』治承四年五月十五日条)。
しかし、「宮不御坐、早以令遁出給畢云々」という状況で(『山槐記』治承四年五月十五日条)、「検非違使未向其家以前、竊逃去向三井寺、彼寺衆徒守護、可奉登天台山、両寺大衆可企謀叛云々」と、園城寺に逃れ、延暦寺とも結んで反乱を企てているという風聞が流れた(『玉葉』治承四年五月十六日条)。以仁王が事前に逃れ得たのは、「先之、得入道三品之告」(『吾妻鏡』治承四年五月十五日条)であったというが、不明。情報は錯綜し、「宮乗張藍摺之輿、令持幣、如物詣人令向寺給云々、或云、着浄衣御騎馬給、又乗馬者有二人、御共人凡四五人云々」と(『山槐記』治承四年五月十五日条)、非常に緊迫した状況の中で、人々が混乱していた様子がうかがえる。
以仁王の罪状は不明だが、「最勝王宣」が発覚したものではない。発覚していたとすれば「最勝王宣」を宣した源仲綱の義弟・兼綱や同族の光長を以仁王の捕縛に遣わすことは考えにくいためである。つまり、清盛入道は「最勝王宣」の存在を知らなかったのである。
その罪を推測すると、のちに以仁王の協力者として捕縛された「相少納言宗綱入道」は、王に「必可受国之由奉相」と告げたとされ、九条兼実は彼が「如此之乱逆、根源在此相歟」と批判(『玉葉』治承四年六月十日条)、王の挙兵の根本的な責任は彼にあると主張しており、以仁王が幼少の新天皇(安徳天皇)に代わって「受国」を企てたことが、以仁王追捕の罪状とみられる。なお、「相少納言宗綱入道」は白河院に仕えた雅楽人・左少将藤原季通の長男で「相人世云相少納言」という人物(『尊卑分脈』)である。舅は院近臣の最重鎮・源資賢であることから、院近臣として後白河院と以仁王を結んでいた人物が宗綱とみられ、後白河院も以仁王を支援する勢力であったと考えられる。また、以仁王の配流については、なぜか官符も作られず、上卿も定められないという異例のものであった(『玉葉』治承四年五月十六日条)。
以仁王は、はじめは王号を保持したまま「維光王」として土佐国へ流される予定であったが(『玉葉』治承四年五月十六日条)、急遽「而仁字有憚之由有沙汰、改仁字、為光字被仰下」た上に(『山槐記』治承四年五月十五日条)、「忽賜姓改名」(『玉葉』治承四年五月十六日条)というより重い処分に変更されている。「維光王」としての流罪が撤回され、源姓賜与の上での流罪に改められたのは、皇位継承権の剥奪とともに、王家には禁忌である追討・処断の対象とすることを可能にしたものだろう。
●以仁王配流の状(『玉葉』治承四年六月十六日条)
三條高倉御所から以仁王が逐電したことから、おそらく前大将平宗盛の指示を受けた「平納言頼盛」(『山槐記』治承四年五月十六日条)、「頼盛卿父子」(『玉葉』治承四年五月十六日条)が八条院の八条東洞院御所に踏み込んで、八条院が養育していた以仁王「若宮」を捕らえた(『玉葉』治承四年五月十六日条)。この「若宮」は「被奉寺宮、一院御子也」て「即出家」させられている(『山槐記』治承四年五月十六日条)。若宮は「孫王」(『明月記』治承四年五月十六日条)とも称され、捕縛ののち「納言相具向白川宮」って出家させたとあり(『明月記』治承四年五月十六日条)、「白川宮」すなわち「寺宮」とも称された後白河院皇子のもとに頼盛が護送したことがわかる。この「白川宮」「寺宮」は白河の園城寺派寺院(聖護院)にいた宮であろうことから、おそらく後白河院八宮の静恵であろう。彼に付けられた「若宮」が誰なのかは不明。
円満院門跡 |
翌16日午前中、園城寺長吏「八条宮円恵法親王」のもとから平宗盛・平時忠へ使者が参着し、「高倉宮所御坐三井寺平等院也」と、園城寺平等院(現在の円満院門跡)に以仁王がいるとの情報が齎されている。
この知らせを受けた時忠は以仁王の「御迎」のための別当使・内匠助某(検非違使であろう)を平等院へ派遣することを決定。宗盛はこれに「武士五十騎許」を副え、さらに八条宮に仕える下法師三人を相具した。園城寺中の平等院に使者が到着したのは深夜子の刻であったが、八条宮付の下法師が「御迎状」を寺中に示すと、寺側は「(王は)今日日没以前、大衆卅人許相率、渡御京御所畢」との返答で、下法師らは「早可被帰」と促される始末であった(『玉葉』治承四年五月十七日条)。
誑かされたと感じて急ぎ都へ戻った別当使と武士らは、その足で八条宮の御所へ参じ、顛末を報告して詰ったのであろう。八条宮は「可被出洛之由、衆徒相議所申也、而忽思変、已凶徒等切我房了、其儀無隠、於今者非力之所及、自上任法可有沙汰」と弁明し、時忠、宗盛もそれ以上の追及を断念する。なお、源義朝八男で源義経の実兄「八条の卿公圓済」「卿坊圓済」(『平治物語』下)は「八條の宮に候て卿公えんさいと名乗りて坊官法師」(『平治物語』下 京都大学所蔵)とあるように、軍記物『平治物語』の記述ではあるが、八條宮円恵法親王のもとで坊官法師となっていた可能性があり、以仁王挙兵の挙兵当時もおそらく八條宮のもとにあったのだろう。円済(義円とも)が「以仁王令旨」を得たかは定かではないが、直接的に以仁王と接点があったかは不明である。
王は比叡山東塔の無動寺にいるという風聞も流れたが、無動寺検校の覚快法親王(鳥羽院七宮)を通じて虚実が確認され、住侶からその実なき旨の請文が進上されている(『玉葉』治承四年五月十七日条)。結局、王は園城寺に匿われており、翌17日夜、園城寺大衆へ王を差し出すよう説得するため、「園城寺僧綱十人、前大僧正覚讃、僧正房覚、権僧正覚智、前権大僧正公顕、法印実慶、権大僧都行案、権少僧都真円、法眼寛忠、[不明二人]」が招集され(『山槐記』治承四年五月十七日条)、翌18日、僧綱らは「依新院仰向専寺、可奉出高倉宮之由触衆徒」と、園城寺へと派遣されたが、実際は房覚僧正一人が遣わされ「他僧綱等不出京」であったようだ。
その日の夜、房覚僧正は帰洛し、高倉院へ「彼宮猶不可奉出之由、大衆申切了、凶徒七十人許、其中、律上房、尊上房、此両人為張本」と奏上しているが(『玉葉』治承四年五月十九日条)、張本とされたうちの一人「律上房」が日胤である。延暦寺は加担を否定するが、「東光房珍慶一類」は王に加担(『玉葉』治承四年五月十九日条)。また、園城寺は興福寺に牒を送ったという風説も流れ、園城寺と興福寺の平氏政権への激しい敵意は消えることはなかったようである。
源顕房――源信雅―――+―房覚
(右大臣)(左近衛少将)|(権僧正)
|
+―女子
| ∥――――――藤原師長
| ∥ (太政大臣)
| 藤原頼長
|(右大臣)
|
+―女子
∥――――――平経盛
∥ (太皇太后宮亮)
平忠盛
(刑部卿)
ところが、19日、留守の僧綱らの説得が功を奏し、園城寺の「衆徒各可奉出宮之由承諾」という状況となったことから、園城寺長吏たる八条宮が再度以仁王「御迎」のための検非違使庁使に房官を副えて園城寺へと派遣し、王に出御を願ったところ、王は激怒して「汝欲搦我、更不可懸手」と言うや、武装した悪僧七、八人が出てきて使者を散々に追い散らしたという(『玉葉』治承四年五月廿日条)。もはや「事躰不可叶僧綱等之制止」であり、王と園城寺衆徒らが結びついての入洛が想定されたか、京都の武士たちは「在京武士等、懼悚無極」という混乱状態に陥ってしまったのであった(『玉葉』治承四年五月廿日条)。
八条院、太皇太后宮、そして後白河院の密かな支持のもと、平氏を外戚とする新天皇(安徳天皇)を廃し「受国」を企てている以仁王と、それを支える園城寺衆徒の結びつきをこれ以上放置できなかった清盛入道は、5月21日、園城寺攻めの武士を招集し、23日の園城寺攻めを決定した。その陣容は「前大将宗盛卿已下十人、所謂大将、頼盛、教盛、経盛、知盛等卿、維盛、資盛、清経等朝臣、重衡朝臣、頼政入道等」で構成された平氏が主力となっている軍であった。
■園城寺攻めの陣容(『玉葉』治承四年五月二十一日条)
将 | 年齢 | 官位 | 官職 |
平宗盛 | 三十四 | 正二位 | 前右近衛大将 |
平頼盛 | 四十八 | 従二位 | 権中納言 |
平教盛 | 五十三 | 正三位 | 参議 |
平経盛 | 五十七 | 正三位 | 大宮権大夫、修理大夫 |
平知盛 | 二十九 | 正三位 | 左兵衛督、丹波権守、新院別当、御厩別当 |
平維盛 | 二十一 | 正四位下 | 右近衛権少将 |
平資盛 | 二十 | 従四位上 | 右近衛権少将 |
平清経 | 十八 | 従四位上 | 左近衛権少将 |
平重衡 | 二十四 | 正四位下 | 蔵人頭 |
源頼政入道 | 七十七 | 従三位 | 散位 |
ただし、この園城寺攻めは平氏の私戦ではなく、あくまで官兵を動員した、謀反人・源以光に加担する園城寺大衆への攻撃であり、謀反人を討つ先例に則り源氏平氏の両氏を起用したものであろう。平氏だけではなく「頼政入道」が加えられていることもそれを物語る。頼政入道が動員されていることは、4月9日に宣した「最勝王宣」がこの時点でもいまだ発覚していないことがわかる。この園城寺攻撃の事実上の戦闘部隊の大将は左兵衛督知盛であり、蔵人頭重衡、近衛少将らの参陣があることから、兵衛府や近衛府の新天皇親衛の官兵を中心とする軍勢であったことがうかがえる。
ところが、園城寺攻めの陣容が固まった21日夜、思いもかけない事態が勃発する。園城寺攻めの将軍の一人「頼政入道」が俄に「引率子息等正綱、宗頼不相伴、参籠三井寺」と、園城寺へと奔ったのであった(『玉葉』治承四年五月廿二日条)。実際に園城寺へ奔ったのは22日早暁であったようで、「源三位入道頼政、率男伊豆守仲綱以下五十余騎向三井寺、参高倉宮」(『山槐記』治承四年五月廿二日条)と、頼政入道は子の伊豆守仲綱を率いて園城寺へ向かった。九条兼実はこの頼政入道離反を知ると「天下大事歟」と仰天し、延暦寺の大衆三百余が以仁王に協力したという延暦寺僧からの知らせを受けたり、「奈良大衆蜂起、已欲上洛」という奈良からの報告を得たりして、京都の武士たちも恐怖で混乱し逃げ惑い「彼一門、其運滅尽之期歟」とまで言っている(『玉葉』治承四年五月廿二日条)。
頼政入道の離反を受け、22日夕方、平氏は俄に新帝と高倉院に行幸を願い、新帝は「自大内行幸八條坊門櫛笥二品亭」(『山槐記』治承四年五月廿二日条)し、高倉院は「可移御大宮面方」(『山槐記』治承四年五月廿二日条)、「遷御于東第」(『明月記』治承四年五月廿二日条)、「渡御八條御所」(『玉葉』治承四年五月廿二日条)した。いずれも平氏の本拠であった西八條界隈であり、以仁王、頼政入道による新帝、新院の拉致を極度に警戒した対応であった。
頼政入道は新帝、新院の行幸が行われている最中、長年住み続けた「近衛南、河原東」の河原家に放火させており、その火焔は西八条亭から「東北方有火」(『山槐記』治承四年五月廿二日条)として見えるほどであったという。さらに23日の夜中には自邸同様「菩提寿院堂放火」させている(『山槐記』治承四年五月廿四日条)。この「菩提寿院堂」とは、「頼政卿東山堂雑舎等焼之」(『明月記』治承四年五月廿四日条)ともあることから、東山の後一条天皇の御陵を祀る菩提樹院とみられる。この寺院は近衛河原亭のすぐ東に位置しており、おそらく頼政入道一族の菩提堂舎が建立されていたのだろう。
紫線は以仁王の逃走ルート(推定) 青線は検非違使の追撃ルート(推定) |
諸国の源氏や藤氏が反平氏の兵を挙げるよりも早く、以仁王による王家転覆の謀反計画が発覚してしまったことで、園城寺や興福寺、延暦寺との連携体制も整わないままに官軍の攻撃を受けることとなり、頼政入道も自邸と菩提所を焼き払うことは、挙兵当初からすでに決死の覚悟であったことがうかがえる。甥で猶子の正綱、宗頼を同道しなかったのも、頼政入道の計らいであろう。
また、23日には「官兵引率洛中諸人、可下向福原之由」という報告があり、「南都大衆来廿六日可入京之由風聞」が齎された(『玉葉』治承四年五月廿三日条)。京都は混乱の極みであった。このような中、25日には「禅門明日可上洛之由」という一報が伝わり、清盛入道自らの上洛がある報告がなされた。
そして興福寺大衆が入洛するという26日となったが、この大衆入洛はなく「坐三井寺宮、頼政入道相共、去夜半許逃去向南都」(『玉葉』治承四年五月廿六日条)と、25日の夜、以仁王は頼政入道らとともに南都興福寺へ向けて密かに出立していたのだった。これは園城寺衆徒と延暦寺衆徒の連携が「昨朝座主僧正明雲登山制止此事、一同承伏」したことで崩れ、「聞此旨忽被向南都」となったという(『山槐記』治承四年五月廿六日条)。一行は「夜中過山階」(『明月記』治承四年五月廿六日条)とある通り、山科を経て直線に南下したことがわかる。ところが一行の脱出は「日頃有同心」(『山槐記』治承四年五月廿六日条)が検非違使に報告してすぐに発覚。「依得其告、武士等逐攻」(『玉葉』治承四年五月廿六日条)と、報告を受けた検非違使庁は、ただちに「飛騨守景家、上総守忠清」(『山槐記』治承四年五月廿六日条)、「検非違使景高飛騨守景家嫡男、同忠綱上総守忠清一男等已下、士卒三百余騎」(『玉葉』治承四年五月廿六日条)を追討使として宇治に向けて発向させた。追討使は光明峯寺、法性寺脇を南下し、深草、木幡を経て宇治へと進んだのであろう。
藤原景綱―+―藤原景家―+―藤原景高
(院武者所)|(飛騨守) |(左衛門尉)
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| +―藤原景経
| |(三郎左衛門尉)
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| +―藤原景俊
| (四郎兵衛尉)
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+―藤原忠清―+―藤原忠綱
|(上総介) |(左衛門尉)
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| +―藤原忠光
| |(五郎兵衛尉)
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+―藤原忠直 +―藤原景清
(伊藤六) (七郎兵衛尉)
宇治川と宇治橋 |
追討使が宇治に到着した時には、すでに「宮先渡橋給、彼方甲兵引橋」(『山槐記』治承四年五月廿六日条)と、宇治橋の橋板をはがして抵抗。景家は骨組みの橋上で戦いながら歩き渡り、さらに追いついた藤原忠景は伴類十数騎で宇治川へ飛び込むなど、橋上だけではなく川も馬筏を組んで押し渡った(『山槐記』治承四年五月廿六日条)。上総介忠清も十七騎を率いて宇治川を押し渡った(『玉葉』治承四年五月廿六日条)。結局、「二百余騎渡河」に成功する。
宇治平等院前での戦闘は熾烈であったが、頼政勢の抵抗は激しく、「官軍不得進」という状態であった。このときの頼政勢は追討使の六分の一余りの五十余騎であったというが、「皆以不顧死、敢無乞生之色、甚以甲也」という奮戦ぶりで、兼綱の弓勢は「宛如八幡太郎云々」というものだった(『玉葉』治承四年五月廿六日条)。
平等院内の源頼政供養塔 |
頼政入道の被官らは追いすがる官軍を食い止めている間に、頼政入道らは以仁王を奉じて南都を目指したが、十キロ余り南下した「綺河原」で景家、忠清ら検非違使に追いつかれ、「打取頼政入道、兼綱等了」とされている(『玉葉』治承四年五月廿六日条)。宇治から綺河原にかけての合戦では「彼是死者太多、蒙疵之輩、不可勝計」という激戦であったと伝わる。一方で、「於平等院前合戦、景家得頼政入道頸、忠清得兼綱大夫尉頸」(『山槐記』治承四年五月廿六日条)と、頼政入道らは平等院前の合戦で討たれたとの伝もあった。
しばらくののち、平等院執行良俊の使者が寄手の官軍のもとに遣わされ、平等院の「殿上廊内自殺之者三人相残、其中有無首之者一人、疑者宮欤云々」(『玉葉』治承四年五月廿六日条)と、首のない自害者を以仁王の可能性があると示唆しつつ疑問を呈している。この首のない自害者は「着浄衣」であったという(『山槐記』治承四年五月廿六日条)。一方で「頼政男伊豆守仲綱生死不詳、又宮遁入南都給」と、伊豆守仲綱の生死も以仁王の行方も実際は不明であった(『山槐記』治承四年五月廿六日条)。その後、「蔵人頭重衡朝臣、右少将維盛朝臣」も宇治へ進駐(『山槐記』治承四年五月廿六日条)。以仁王が逃れたとの風聞があった南都興福寺へと軍を進めんとしたところ、無為に興福寺を刺激する事を恐れた忠清等の説得によって帰京している。
以仁王陵墓(高倉神社脇) |
そして午刻、検非違使季貞から別当平時忠へ「頼政党類併誅殺了、切彼入道、兼綱幷郎従十余人首了、於宮者慥雖不見其首同伐得了」との報告がなされ、「蔵人頭重衡朝臣、右少将維盛朝臣」も同時刻に院御所に参入して、報告をしている。
翌27日、以仁王の舎人から、王は「藍摺水干小袴生小袖」という装束で、「加幡河原」で討ち取られたとの報告があった(『山槐記』治承四年五月廿六日条)。ここは頼政入道、兼綱らが討たれたとされた「綺河原」(『玉葉』治承四年五月廿六日条)と同地であり、以仁王は同地で討たれたのだろう。「宮者慥雖不見其首、同伐得了」(『玉葉』治承四年五月廿六日条)との報告があったが、首級のないまま追討は完了したとの最終的な結論に至る。南北に流れる木津川の東岸、木津川市山城町綺田の地には、以仁王の陵墓が遺されている。なお、仲綱の遺体は最後まで発見されることはなかった。
以仁王に従った律静房日胤も光明山鳥居の前で討死を遂げたという(『吾妻鏡』治承五年五月八日条)。享年不明。官軍として招集を受けていた美濃国の左兵衛尉源重清の手勢が討った五人の一人に「此内法師一人」とある。以仁王には多くの園城寺衆徒が加わっていたので日胤とは限らないが、その可能性もあろう。
■被切頸輩(『山槐記』治承四年五月廿六日条)
追討使 | 被切頸輩 | 続柄等 | 備考 |
検非違使左尉 平景高 |
頼政法師 | ||
源仲家 | 八条院蔵人、帯刀先生義方(義賢)子 | 木曽義仲の異母兄で頼政養子。烏帽子親は仲綱であろう | |
源勧 | 字佐知源太 | ||
内藤太守助 | 内藤右馬允守定男 | ||
小藤太重助 | 同 | ||
安房太郎 | 下総国住人 | 下河辺庄の人か | |
字藤次 | 兼綱三郎子 | ||
検非違使 藤原忠綱 |
兼綱 | 大夫尉、頼政甥 | 以仁王を高倉御所に捕縛に向かった検非違使の一人 |
源義清 | 足利判官代、義康子 | 此頸首非義清、義清不交戦場 | |
唱法師 | 長七入道 | ||
源副 | 字源八、競養子、実馬允貞政男 | ||
左兵衛尉 源重清 |
源加 | 字坊門源次 | |
不明名四人 | 此内法師一人 |
実検に供された首のうち、検非違使忠綱によって討たれた「義清」の首とされたものが「源義清、足利判官代云々、義康子、後聞、此頸非義清不交戦場、宮云々」(『山槐記』治承四年五月廿六日条)とあるように、義清の首ではなく以仁王の首であろうかともされた。なお、この「義清」の首は少なくとも義清のものではなく、上西門院判官代の源義清(細川氏祖)はのちに源義仲に従って平氏と戦っている。
5月30日、追討の行賞がなされ、乱は終結した。
■以仁王・源三位追討賞(『山槐記』『玉葉』治承四年五月卅日条)
名 | 叙位 | 任官 | 備考 |
従四位上 侍従平清宗 |
従三位 | 前右大将子、追捕源以光幷頼政法師賞(『山槐記』) 前右大将追討源以光幷頼政法師已下賞(『玉葉』) |
|
検非違使 藤原景高 |
従五位下 | 使如元、追討頼政法師賞 | |
検非違使 藤原忠綱 |
従五位下 | 使如元、追討以光賞 | |
藤原為家 | 刑部丞 | 忠清譲 | |
藤原光安 | 左衛門尉 | 景高譲 | |
藤原景安(景康) | 右衛門尉 | 忠清譲 | |
藤原忠定 | 左兵衛尉 | ||
藤原友綱 | 左兵衛尉 | 景高譲 | |
藤原則綱 | 左兵衛尉 | 景高譲 |
なお、日胤から頼朝の御祈願書を託されていた弟子僧の帥公日慧は、日胤が果たせなかった千日祈願を果たしたが、都の情勢が不穏であったため、翌治承5(1181)年5月8日、頼朝のもとに参じて参着の遅延をわびた。ただ、鎌倉に参着したころには、日慧は腹の調子が思わしくなく、病状は次第に悪化、鎌倉に来てわずか半年後の12月11日に亡くなった。頼朝は悲しみのあまり、みずから荼毘所に赴くほどで、遺骨は鎌倉北部の山内の地に埋葬された。日慧の出自は不明だが、以前より頼朝とは面識があったとみられる。
■『吾妻鏡』治承五年五月八日条
また、父・千葉介常胤は日胤の菩提を弔うために、下総国印旛郡(佐倉市城)に天台宗寺院・光明山圓城寺を建立したという。現在、参道と寺跡の広場は残っているが、寺院としての伽藍は一切残されていない。その隣接地の舌状台地上に、円城寺氏の居館・城館(佐倉市城)があった。
光明山圓城寺の跡 |
日胤は一般に千葉介常胤の末子といわれているが、治承4(1180)年当時、すでに伝法灌頂を受けて阿闍梨となっており、高名知識の弟子僧・帥公日慧までいたとすれば、それなりの年齢になっていると思われる。この年、父の常胤は六十三歳。次男・千葉次郎師常は『吾妻鏡』によれば康治2(1143)年生まれであり、治承4(1180)年当時、三十八歳。六男・六郎胤頼は安貞2(1228)年10月12日、七十三歳で亡くなったとされ、これが正しいとすると治承4(1180)年当時、二十五歳となる。日胤が常胤の末子だとすれば、二十代前半で阿闍梨となった上、かなり高齢の弟子僧を持つという無理が生じる。このことから、日胤は常胤の長男もしくは猶子であった可能性が高いだろう。
●以仁王の乱に加わった以仁王方(『覚一別本平家物語』)
源三位頼政 | 正三位。摂津源氏の棟梁。宇治で討死した。 |
乗円房 阿闍梨慶秀 |
園城寺乗円房の阿闍梨。80歳を過ぎた老僧のために泣く泣く宮と別れ、弟子の刑部俊秀を供奉させた。 |
律成房 阿闍梨日胤 |
園城寺律静房の阿闍梨。千葉介常胤の子。 |
帥法印禅智 | 太宰帥藤原俊忠の子。公卿の出ながら剛僧として知られた。名歌人・藤原俊成の弟で藤原定家の叔父。 |
義宝 | 帥法印禅智の弟子。 |
禅房 | 帥法印禅智の弟子。 |
伊豆守仲綱 | 頼政の嫡男。大手の主将。以仁王の令旨を諸国の源氏に送るよう指示した人物。宇治平等院で自害。 |
源大夫判官兼綱 | 頼政の養子。検非違使として以仁王邸を囲むが、その後、頼政とともに以仁王に加担し宇治で戦死。 |
六条蔵人仲家 | 源義賢の嫡男。木曽義仲の異母兄である。八条院蔵人。宇治で戦死。 |
蔵人太郎仲光 | 八条蔵人仲家の子。宇治で戦死した。 |
円満院大輔源覺 | 園城寺円満院の大衆。 |
成喜院荒土佐 | 園城寺常喜院の大衆。常喜院は民部卿藤原泰憲が建立した寺院。 |
律成房 伊賀公日慧 |
律静房日胤の弟子。帥公日慧と号す。実際には参戦していない。頼朝の帰依をうけ、養和元(1181)年12月11日卒。 |
法輪院鬼佐渡 | 園城寺法輪院の大衆。 |
因幡竪者荒大夫 | 園城寺平等院の大衆。平等院は村上天皇の皇子・致平親王が出家して建立した園城寺中院の寺。円満院。 |
角六郎房 | 園城寺平等院の大衆。 |
島ノ阿闍梨 | 園城寺平等院の大衆。 |
卿ノ阿闍梨 | 園城寺南院三谷の一つ、筒井の阿闍梨。 |
悪少納言 | 園城寺筒井の大衆。 |
光金院ノ六天狗 | 園城寺光金院の剛僧六人。式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後。光金院は源義光が建立した寺院。 |
松井ノ肥後 | 園城寺北院の大衆。 |
証南院筑後 | 園城寺北院の大衆。 |
賀屋ノ筑前 | 園城寺北院の大衆。 |
大矢ノ俊長 | 園城寺北院の大衆。 |
五智院ノ但馬 | 園城寺北院の大衆。 |
加賀ノ光乗 | 園城寺乗円房の大衆。乗円房人60名のうちもっとも勇猛な僧兵とある。 |
刑部俊秀 | 園城寺乗円房の大衆。首藤刑部丞俊通の子。育親の乗円房阿闍梨慶秀に言われて以仁王の供奉をする。 |
一来法師 | 園城寺乗円房の大衆。法師たちのうちでもっとも勇猛とされた僧兵。 |
筒井ノ浄妙明秀 | 園城寺の筒井浄妙房の堂衆。堂衆は各堂に属して雑務にあたる僧侶。 |
小蔵尊月 | 堂衆。 |
尊永 | 堂衆。 |
慈慶 | 堂衆。 |
楽住 | 堂衆。 |
かなこぶしの玄永 | 堂衆。 |
渡邊省 | 摂津武士団・渡邊党の武士。嵯峨源氏の嫡流である。摂津源氏に代々仕えていた。省は「はぶく」。 |
授薩摩兵衛 | 渡邊授(さずく)。省の子。 |
長七唱 | 渡邊唱(となう)。省の従兄弟の子。 |
競滝口 | 渡邊競(きそう)。省の従兄弟。 |
与右馬允 | 渡邊与(あたう)。省の子。 |
続源太 | 渡邊続(つづく)。唱の兄弟。 |
清 | 渡邊清(きよし)。省の従兄弟。 |
進 | 渡邊勧(すすむ)。省の父・満の従兄弟。 |
●以仁王の乱の平家方追手●(『覚一別本平家物語』)
左兵衛督知盛 | 平知盛。清盛の三男。知勇兼備の将として知られた。 |
頭中将重衡 | 平重衡。清盛の五男。猛将で、東大寺を誤って焼失させてしまう。 |
左馬頭行盛 | 平行盛。清盛の次男・基盛の子。 |
薩摩守忠度 | 平忠度。清盛の末弟。剛力の大将で、藤原俊成に歌を学び、勅撰和歌集『千載集』に選定される。 |
上総守忠清 | 侍大将。伊藤武者藤原忠清。治承3年11月18日、上総介に叙される。 |
上総太郎判官忠綱 | 藤原忠綱。忠清の子。治承3年11月18日、左衛門少尉・検非違使に任じられる。 |
飛騨守景家 | 藤原景家。忠清の兄。 |
飛騨太郎判官景高 | 藤原景高。景家の子。従兄弟の忠綱と同じく、左衛門少尉・検非違使に任じられる。 |
高橋判官長綱 | 平長綱。伊賀平内左衛門平家長の弟。 |
河内判官秀国 | 伝未詳。木曽義仲との戦いで倶利伽羅峠に戦死した。 |
武蔵三郎左衛門有国 | 伝未詳。木曽義仲との戦いで加賀篠原で戦死。 |
越中次郎兵衛尉盛継 | 平盛継。平家一門・越中守平盛俊の子。父子ともども猛者で知られる。 |
上総五郎兵衛忠光 | 藤原忠光。忠清の子。治承4年5月30日、左兵衛尉に叙任。 |
悪七兵衛景清 | 藤原景清。忠清の子。数々の武勇談を残し、一門滅亡後、鎌倉で病死か。 |
足利又太郎忠綱 | 藤原忠綱。下野国足利庄を本拠とする藤原秀郷の末裔。 |
大胡 | |
大室 | |
深須 | |
山上 | |
那波太郎 | 下野国那波郡の住人。 |
佐貫広綱四郎大夫 | 藤原広綱。下野国佐貫郷発祥の足利忠綱の一族。 |
小野寺禅師太郎 | 藤原道綱。下野国小野寺郷発祥の足利忠綱の一族。 |
辺屋子ノ四郎 | 下野国部屋子発祥の足利忠綱の一族。 |
【参考】治承四年九月五日「源頼朝等追討官宣旨」(『山槐記』治承四年九月五日条)
【参考】承久三年五月十三日「平義時追討官宣旨案」(「小松氏所蔵文書」)