継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (1398-1456) |
馬加胤持 (1437-1456) |
岩橋輔胤 (1416-1492) |
千葉孝胤 (1443-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
(1443-1505)
生没年 | 文安元(1444)年(『松羅館本千葉系図』) 嘉吉3(1443)年5月2日~永正2(1505)年8月19日(『本土寺過去帳』) 長禄3(1459)年~永正18(1521)年8月19日(『千学集抜粋』) |
父 | 岩橋輔胤 馬加陸奥守康胤入道? |
母 | 不明 |
妻 | 不明 |
官位 | 不明 |
官職 | おそらく無し(京都から正式な千葉介と認められていない) |
所役 | おそらく無し(京都から正式な千葉介と認められていない) |
所在 | 下総国印旛郡佐倉 |
法号 | 全孝常輝院殿眼阿弥陀仏 |
墓所 | 千葉山海隣寺か? |
千葉氏十八代。「のりたね」とよむ。系譜によれば岩橋輔胤の嫡男。または馬加陸奥守康胤の子(『鎌倉大草紙』)。生年は諸説あり、文安元(1444)年生まれ(『松羅館本千葉系図』)。嘉吉3(1443)年5月2日生まれ(『千葉大系図』)。長禄3(1459)年生まれ(『千学集抜粋』)。
亨徳4(1455)年8月、千葉介胤直入道常瑞一党を追討した際、「父」の「陸奥守入道常輝」に従って胤直入道らを討ったといい「千葉介孝胤は先年父陸奥守入道常輝を相伴ひ故胤直兄弟に腹切せ、成氏へ奉公の人にて成氏より千葉一跡を給はりける」とある(『鎌倉大草紙』)。成氏はすでに古河へ
長禄元(1457)年12月、将軍・足利義政は成氏に代る鎌倉の新しい主として、異母兄の足利左馬頭政知を鎌倉に下向させた。しかし、鎌倉は享徳4(1455)年6月に成氏勢力を追い出したとはいえ、いまだ不穏な動きがあったため政知は箱根を越えることができず、伊豆国堀越に館を構えて「堀越公方」と呼ばれた。
足利尊氏――+―足利義詮―――足利義満―――+―足利義持 +―足利義政
(征夷大将軍)|(征夷大将軍)(征夷大将軍) |(征夷大将軍) |(征夷大将軍)
| | |
| | |【堀越公方】
| +―足利義教―――+―足利政知
| (征夷大将軍) (左馬頭)
|【鎌倉公方】 【古河公方】
+―足利基氏―――足利氏満―――――足利満兼―――――足利持氏―――足利成氏
(鎌倉公方) (鎌倉公方) (鎌倉公方) (鎌倉公方)
寛正4(1463)年8月26日、成氏勢と戦いつづけた山内上杉家家宰・長尾左衛門景仲入道昌賢が鎌倉において病死。さらに山内上杉兵部少輔房顕も寛正7(1466)年2月11日に没したことで、武蔵の山内上杉家は一気に世代交代が進むこととなり、山内上杉家は越後守護・上杉相模守房定の子・顕定を当主に迎えた。
足利貞氏 +―足利尊氏
(讃岐守) |(権大納言)
∥ |
∥――――+―足利直義
∥ (左兵衛督)
∥
勧修寺重房――上杉頼重――+―清子
(左衛門督) (大膳大夫) |(果証院)
|
+―上杉憲顕―――上杉憲方――上杉房方――+―上杉房定――――上杉顕定
(安房守) (安房守) (民部大輔) |(相模守) (右馬助)
|
+―上杉憲実――+―上杉憲忠
(安房守) |(右京亮)
|
+―上杉房顕
(兵部少輔)
●寛正7(1466)年2月ごろの関東
古河公方方 | 京都方 |
足利成氏(古河公方) | 足利義政 |
足利政知(堀越公方) | |
簗田持助(成氏重臣) | 山内上杉房顕(上杉憲実の子) ⇒山内上杉顕定(房顕従弟) |
扇谷上杉政真(房顕兄嫁の甥) | |
長尾景仲入道(山内家宰) | |
太田入道道真(扇谷家宰) | |
千葉介孝胤 | 千葉介自胤(武蔵千葉氏) |
小山下野守持政 | |
結城左衛門督氏広 | |
那須氏ら |
文明2(1470)年4月16日、八幡庄の大野において「原左衛門次郎蓮教」が討死した(『本土寺過去帳』十六日上段)。彼は大野に住んでいた原氏の一族であると考えられ、上杉氏との戦いの中で戦死したものと思われる。
文明3(1471)年3月、小山下野守持政・結城左衛門督氏広・千葉新介孝胤などの武蔵・下総の成氏党が箱根を越えて堀越公方・足利政知を討つべく、伊豆国三島へ向けて軍を進めてきた。このとき三島を攻めたのは孝胤の手勢であると考えられるが、政知のもとにはわずかな手勢しかなく、政知は今川範忠(駿河守護)へ援軍を求める一方、三島に軍を進めて成氏勢を防いだ。
しかし、今川家の援軍が来るよりも早く政知勢と成氏勢は三島で合戦となり、政知勢は打ち破られたが、山内上杉家の家臣・矢野安芸入道の軍と合流したことで勢いを盛り返し、ついに成氏勢は退却。さらに山内上杉顕定は宇佐美藤三郎孝忠に五千餘騎を授けて道中に伏せさせていたため、退却する小山・結城・孝胤の軍勢は散々に叩かれ壊滅した。3月28日に「原肥前入道行朝(小西原肥前守胤継)」が討死しており(『本土寺過去帳』廿八日上段)、彼はこの三島の戦いで孝胤に従っていたのかもしれない(『本土寺過去帳』廿八日上段)。同書の彼の条は消損により甚だしく鮮明ではないが、翻刻によれば「文明十三辛卯」とある。ただし、「辛卯」は文明3年であることから、肥前入道行朝の死は文明3年のこととなる。
三島の合戦の大勝に勢いづいた上杉勢は、翌4月には長尾左衛門尉景信(長尾景仲の嫡子)が大軍を率いて下野国へ進軍。小山持政ら成氏に荷担していた関東の大名も、京都の内部工作によって次々に上杉勢に内応を約束しており、長尾景信は下野国足利庄を攻略、南式部大輔ら成氏の直臣が討死を遂げた。さらに5月、長尾景信は古河城に攻め寄せて、迎え撃った沼田・高・三浦など成氏奉公衆を討ち取り、6月24日、古河城はついに陥落。成氏は「成氏古河城没落、移千葉館」「古河没落、御陣千葉御動座」(『鎌倉大日記』)とあるように、千葉介孝胤(岩橋輔胤子)を頼って下総国千葉庄へと遁れた。
当時孝胤は「康胤御子胤持、輔胤、孝胤、勝胤まで以上五世は平山におはしければ」(『千学集抜粋』)と見えるように、千葉庄平山城(緑区平山町)を居城としていた可能性があり、千葉の宗教都市とは都川で繋がる利便性のある要衝でもあった。成氏が庇護された「千葉舘」が千葉か平山城かは定かではないが、のちの成氏出立時の対面先から考えると、千葉町の千葉館に滞在した可能性が高いか。7月21日には「千葉介無二補佐申之際、先以御心安候」という書状を茂木式部大夫(茂木持朝)へ送っており、孝胤から手厚い保護を受けていたことがうかがえる(文明三年七月廿一日『足利成氏書状』茂木文書)。
そして文明3(1471)年後半、成氏は結城城の結城氏広が「社家様」こと鶴岡八幡宮別当の尊 (成氏弟)を奉じ、白河結城直朝へも加勢を要請したうえで挙兵したことから、成氏も古河奪還を志して千葉から進発した。この進発に当たり、「孝胤御時、公方様御発向ありて、篠塚に御旗を立させられし時、本間殿六崎にて孝胤に逢て、三ヶ年間、御旗を立させられ、御退治を加へらる、但し御覚悟によつて御帰座あるべきか」(『千学集抜粋』)と、本来三年間は孝胤のもとにあって、じっくりと上杉勢と対峙する予定であったが、急遽古河への御帰座を目指して進発したという。成氏はまず「篠塚」(佐倉市大篠塚)まで進んで宿陣しているが、このとき孝胤は「六崎」(佐倉市六崎)で成氏近臣の「本間殿」と対面して、上記の説明を受けている。孝胤はこのとき本佐倉にいたと考えられ、千葉の平山、本佐倉などいくつかの拠点を移りながら生活していたと思われる。
成氏は千葉館を出立すると、本佐倉の孝胤のもとへその旨を報告し、孝胤は六崎まで出向いて出迎えたのだろう。成氏はその手前の「篠塚」に宿陣し、近臣の「本間殿」を孝胤に遣し、俄かの出立を伝えたとみられる。この際、成氏は孝胤への礼を兼ねて、「御子一人、御字を御請あるべきよし仰せわたさるヽ也」と、成氏より孝胤の子一人へ偏諱一字を与えるので請けるようにと伝えている(『千学集抜粋』)。
しかし、孝胤は「某代々妙見菩薩の宮前において元服いたすことなれば」(『千学集抜粋』)と断っている。本間は断られれば復命できないと思ったか「第二の御子を」と伝えた。しかしこれも孝胤は「某の家は二男は嫡子に一字を申請らるヽよし」(『千学集抜粋』)を申して、これも断った。こうして「本間殿力なく馬を返されし」と、篠塚の陣所へと戻ったという。成氏からはその後とくに何もなかったようで、おそらく成氏勢はこののち、至近の本佐倉の湊場から香取海へと船出し、一路古河へと進んでいったのだろう。そして、翌文明4(1472)年2月、古河を奪還した。
成氏は孝胤のもとにあるとき、香取社大禰宜・大中臣胤房の依頼を受け、何者(千葉家直臣の中村氏)かに押領されていた香取社領の「小野・織幡・葛原」を取り戻して香取社に還付した(享徳20(1471)年8月6日『足利成氏書状』一、8月18日『足利成氏書状』二)。この相論の地になった「小野・織幡・葛原」は、130年ほど前の暦応4(1341)年9月、千葉介貞胤が中村弥六入道へ「小野織幡葛原牧所務」について「実高以下之輩」が「違乱」致しているのが事実であれば不届きであり、地頭面々に触れて「恒例神事」を行うよう命じている(暦応4(1341)年9月26日『千葉介貞胤書状』)。
大中臣胤房の依頼を受けた成氏は、まず「小野・織幡・葛原」を押領していた「知行人」に対して、公方の権威を振りかざして還付を命じたと思われ、享徳20(1471)年8月6日、胤房へ「可相待申候」と伝えた(享徳20(1471)年8月6日『足利成氏書状』一)。そして早くも18日には、押領地の一部かもしれないが、香取社に還付され、神事を滞りなくつとめるよう命じた(享徳20(1471)年8月18日『足利成氏書状』二)。さらに翌19日には、所願成就の祈祷に対し、一所を寄進する旨の寄進状を発給した(『足利成氏寄進状』)。
享徳20(1471)年8月6日『足利成氏書状』※享徳20年(古河公方暦)=文明3年(京暦)
享徳20(1471)年8月18日『足利成氏書状』※享徳20年(古河公方暦)=文明3年(京暦)
これらを受けた孝胤は8月27日、「葛原・小野・織幡」について安堵状を大中臣胤房に発給(文明3(1471)年8月27日『千葉介孝胤安堵状』)、天下御祈祷ならびに御祭礼を滞りなく行うことを命じた。なお、この書状の日付は「亨徳廿年」とあるように「享徳」元号が使われている。しかし、京都の武家政権は「享徳」元号はわずか三年間しか用いておらず、これ以降は成氏が支配領域のみで使用し続けていることから、孝胤は成氏の強い影響下にあって、京都武家政権方=関東管領上杉家と対立関係にあったことがわかる。
享徳20(1471)年8月27日『孝胤知行安堵状』※享徳20年(古河公方暦)=文明3年(京暦)
一方、康正2(1456)年正月19日、下総国市川城を落とされ、武蔵国に逃れた千葉実胤・自胤兄弟(胤直入道の甥)は、実胤が石浜(台東区橋場周辺)に、自胤は赤塚(板橋区赤塚二丁目)に拠って外戚の扇谷上杉家の庇護下にあったが、実胤はあるとき、山内上杉家重臣の葛西城主・大石石見守に招かれて葛西に移り、「公方様内々被申旨候」と、敵対している足利成氏と内々に連絡を取ったという(『太田道灌状』)。
このとき実胤が成氏からどのような「内々」のことを受けたのかは不明だが、
「千葉介孝胤…成氏へ奉公の人にて成氏より千葉一跡を給はりける、其後胤直の一跡として、実胤を千葉介に任し、上杉より下総へ指遣といへども、成氏より孝胤を贔屓にて千葉に居をかれける間、実胤を千葉城へ入部不叶して、武州石浜葛西辺を知行して時を待て居たりしか」
とあり(『鎌倉大草紙』)、おそらく実胤は下総千葉介の継承を認めてもらうために努力していたのだろう。しかし、「雖然孝胤出頭事候之間、無御許容」と、この実胤への「内々被申旨」を聞いた孝胤が猛反発し、みずから篠塚の公方屋敷へ出向いて実胤の千葉介一跡の計画を阻止したため、実胤は落胆して突如として出奔し「濃州辺」へと落ちていったと思われる(『太田道灌状』)。
◎『太田道灌状』(『北区史』中世編所収)
翌文明4(1472)年には成氏方は古河城を回復する動きが活発となり、結城氏広(結城城主)は鶴岡八幡宮別当であった成氏の弟・尊 (社家様)を奉じて、一族の白河結城直朝へ加勢を依頼した。このような中、成氏は千葉から古河城へ進発。2月、古河城を奪還した。
古河周辺から退いた上杉勢は、最前線基地である武蔵国五十子(本庄市)に留まって、利根川を挟んで成氏勢と対峙していたが、翌文明5(1473)年11月24日、扇谷上杉修理大夫政真が22歳の若さで討死を遂げ、叔父・扇谷上杉定正が扇谷上杉家を継いだ。
●文明6(1474)年ごろの関東
古河公方方 | 京都方 |
足利成氏 | 足利義政 |
足利政知(堀越公方) | |
簗田河内守持助(成氏重臣) | 山内顕定(上杉憲実の甥) |
扇谷定正(上杉憲忠の義兄) | |
長尾景春(景忠の甥) | 長尾尾張守景忠(山内家宰) |
太田左衛門入道道灌(扇谷家宰) | |
上杉朝昌(扇谷定正弟) | |
三浦介義同(扇谷定正甥) | |
太田資忠(太田道灌弟) | |
千葉介孝胤 | 千葉介自胤 |
小山下野守持政 | |
結城左衛門督氏広(下総結城) | |
那須氏 | |
岩松持国 | |
結城直朝(白河結城) |
一方、山内家の上杉右馬助入道顕定は、6月に亡くなった家宰・長尾左衛門尉景信(玉泉庵)の跡を、景信の長男・四郎左衛門尉景春にではなく、景信の弟・尾張守忠景に継がせたことから、景春は怒って成氏に内通した。長尾景春は、豊島勘解由左衛門尉泰経・平右衛門尉泰明兄弟をはじめとする武蔵国の豪族を語らって挙兵し、文明8(1476)年中ごろには武蔵国鉢形城(大里郡寄居町)へ移って、文明9(1477)年正月、五十子の上杉勢を襲った。小勢にては敵わじと、山内顕定、扇谷定正、扇谷宣政らは正月19日夜、太田備中入道道真を殿軍として利根川を渡り、上野国那波庄へと退いた。
この上杉家の危機に対し、昨年10月より江戸城にあった太田左衛門入道道灌(道真の子)は3月18日、溝呂木城(厚木市)と小磯城(中郡大磯町)の越後五郎四郎を攻め落とし、金子掃部助の守る小沢城(愛甲郡相川町)にも攻め寄せた。さらに河越城には弟の太田図書助資忠・上田上野介をはじめとする松山衆を、江戸城には上杉刑部少輔朝昌(扇谷定正弟)・三浦介義同(扇谷定正甥)・千葉介自胤を入れて、これを守らせた。
このころ、景春の与党であった実相寺、吉里宮内左衛門尉は小沢城の後詰のために横山を出て相模国府中に布陣、小山田城(町田市下小山田町)を攻め落として、太田図書の籠もる河越城攻めのために矢野兵庫助を大将として派遣した。これを見た太田図書らは4月10日、景春党を迎え撃って打ち破った。4月13日、道灌は江戸城を出陣して、景春に組する豊島泰明が籠もる平塚城を取り囲んで放火した。泰明は逃亡して兄の勘解由左衛門尉泰経を頼り、石神井城・練馬城から豊島勢が兵を繰り出して江古田・沼袋に布陣。これに太田道灌も上杉朝昌、千葉介自胤を派遣して応戦し、激戦の末に豊島勢は豊島泰明以下百五十名が討死を遂げ、18日には石神井城と小沢城が陥ち、相模国の景春党は壊滅した。
長尾景春は、上野国の与党を集めて五十子梅津に布陣した。一方、太田道灌も5月13日、上杉勢を率いて利根川を渡って五十子へ帰陣した。これを見た景春はあわてて退却するが、山内顕定、扇谷定正、長尾忠景、太田道灌、板倉美濃守、大森信濃守らが追撃し、用土原(大里郡寄居町用土)の合戦で景春勢は敗れ、景春は命からがら鉢形城へ逃れた。上杉勢はさらに富田(寄居町富田)、四方田(本庄市四方田)、甘粕原(美里町甘粕)という三段構えで鉢形城を取り囲んだ。
この劣勢に、景春は古河の成氏に救援を求め、7月はじめ、成氏は自ら結城・那須・佐々木・横瀬ら数千騎を具して、上杉本陣の北西十三キロにある上野国瀧(高崎市上滝町)に出陣して上杉勢の背後をついた。このため、顕定・定正両将は白井城(北群馬郡子持村白井)へ引き上げざるを得なかった。
10月、長尾景春・六郎為景は成氏の援軍と合流して白井城の南東10キロの荒巻(前橋市荒牧町)に進出。利根川に囲まれている堅固な地に陣を取った。さらに12月23日、成氏の本隊八千騎が上野国瀧村を発して和田(高崎市和田町)を通り、24日には観音寺(群馬町高棟)を経て、白井城から南西10キロの広馬場(北群馬郡榛東村広馬場)へ布陣した。
これに両上杉氏も五千騎の大軍をもって白井城を出陣。広馬場へ集結し、成氏本隊とわずか二里(七〇〇m程か)にまで接近して対峙した。広馬場には実に一万騎を越える兵が集まっており、「隔切所打向両陣之形勢、打廻見渡、本朝無双之塁陣也、其為体誠刀剣動銀山、鉾楯論鉄壁」というように、数多の刀剣が煌めいて銀山が動いているかのように見えるほど、軍勢がひしめいていた。
古河公方方 | 京都方 |
足利成氏 | 足利義政 |
足利政知(堀越公方) | |
簗田河内守持助(成氏重臣) | 山内顕定(上杉憲実の甥) |
扇谷定正(上杉憲忠の義兄) | |
長尾景春(景忠の甥) | 長尾景忠(山内家宰) |
太田道灌(扇谷家宰) | |
上杉朝昌(扇谷定正弟) | |
三浦介義同(扇谷定正甥) | |
太田資忠(太田道灌弟) | |
千葉新介孝胤 | 千葉介自胤 |
小山下野守持政 | |
結城左衛門督氏広(下総結城) | |
那須氏 | |
岩松持国 | |
結城直朝(白河結城) |
しかし戦いは行われることなく、大雪のために互いに陣をひき、文明10(1478)年正月1日、成氏の重臣・簗田河内守持助から長尾景春のもとへ寺尾上野介が派遣され、上杉と和睦することが命じられ、扇谷定正らもこれを受け入れて長尾景春・両上杉家の間に和睦が成立した。
翌正月2日、成氏は武蔵国成田(熊谷市上之)へと陣を引いた。正月24日には、扇谷定正も太田道灌とともに河越城へと引き上げていき、景春と上杉家の二十年にわたる戦乱は収束したかに見えた。
しかし、長尾景春は叔父の尾張守忠景(山内家宰)と対立、千葉新介孝胤も和議に反対し、成氏の上意にも逆らった。このため、和睦はたちまち決裂。景春と孝胤は一味同心して武蔵国で上杉勢と戦うことになる。
正月25日、景春の与党・豊嶋泰経が平塚城(北区上中里)を攻め落として丸子城(中原区中丸子辺)・小机城(緑区小机町)に立て籠もった。景春は小机城救援のために吉里宮内左衛門らを率いて、大石駿河守が守る二宮城(秋川市二宮)に入城。一方、扇谷定正は3月10日、河越城から二宮城へ派兵して合戦となり、景春は大敗して、成氏が布陣していた武蔵国成田に逃れた。景春は成氏の陣中にいた孝胤を伴って羽生峯(羽生市か)に布陣したが、20日、小机城を攻めていた太田図書助と援軍の扇谷定正が迫ると戦わずに退陣。二宮城・磯辺城・小沢城といった長尾方の城は次々に陥落。長尾勢は「奥三保(西多摩郡檜原村三都郷?)」へ逃れ、太田道灌はこれを甲斐国まで追撃している。
7月17日、景春の本拠・鉢形城を囲んでいた山内顕定・扇谷定正・太田道灌のもとに、成田の成氏から簗田持助が使者として遣わされた。持助は、
「上野国で申し合わせた通り、公方・上杉家の和議については別儀ないが、景春が公方の御近辺へ参上してしきりに懇請するため、公方は難儀に思召しされており、急ぎ一勢を派遣して景春を排除し、古河ヘ御帰座されたく思し召されておわす」
と古河への帰還を頼んでいる。また、孝胤についても、
「景春と一味して所々にて合戦し、また、成氏・上杉と御和談について、しかるべからずとして、たびたび妨害をしており、孝胤は御敵の随一である」
と評されている。そして成氏からの景春追討令を受けた太田道灌は翌18日、鉢形城に総攻撃をかけて攻め落とし、この隙をついて23日、成氏は岩松氏を千葉介孝胤・長尾景春らへ対する後詰として利根川を渡って古河城に帰座した。
成氏の古河帰座から三か月ほど経った12月、山内・扇谷上杉家は千葉介孝胤の追討を決め、石浜城の千葉介自胤を取り立て、両総の侍の大半を自胤へ付けて千葉家の跡を相続させるべく、「古河様=成氏」へ申しあげて内意を得、太田道灌は自胤に合力して下総国へ軍勢を差し向けた。道灌はまず、自胤がかつて古河勢と戦って攻め落とされた「市河城」に隣接する「鵠臺=国府台」(市川市国府台)に城を築き、孝胤の軍勢と対峙した。
長尾景春とともに武蔵国を転戦していた孝胤は、このころ成氏との関係が冷えたためか下総国へ戻っており、太田・自胤勢が江戸川を渡って下総へ攻め入ったことを知ると、「原二郎」「木内」らを先陣として境根原(柏市酒井根)に軍勢を展開し、12月10日、両勢の間で大激戦となった(境根合戦)。この境根合戦で、千葉介孝胤勢の原二郎、木内、津布良左京亮、匝瑳勘解由といった将士数百人が討死を遂げ大敗。孝胤は敗残の軍勢をまとめて臼井城(印旛郡臼井台)に籠城した(『太田道灌状』)。この戦いでは「安保中務少輔殿」が「抽粉骨」んでて合戦しており、太田勢は武蔵国内陸部からも兵力を動員していたことが伺える。
太田図書資忠の墓(臼井城内) |
文明11(1479)年正月18日、臼井城に籠城した千葉介孝胤を追って、千葉介自胤・太田図書らが臼井城を包囲した。しかし、この臼井城は周辺の諸城を外郭とした「惣構」で知られる堅城であり、長帯陣となった。このため太田・自胤勢からは帰国してしまう者が続出。自胤はこの脱走兵にただちに陣へ戻るよう命じたが従わず、焦って臼井城に攻め込んだ太田図書助はじめ僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助など五十三人が討死を遂げた(『太田道灌状』)。さらに多数の戦死者を出して自胤は武蔵へ帰国した。臼井城内の高台には図書の墓が丁重に祀られている。この戦いでは、臼井城主・臼井備前守俊胤入道玄光が活躍したとも。
しかし、退却したはずの千葉介自胤のもとには、「海上備中守」「武田上総介(信隆?)」「武田参河入道(信興入道道鑑)」らが帰服し、武田参河入道は子息・式部丞(のちの式部大夫信嗣か?)を国元に残してみずからは自胤とともに武蔵国へと赴いている(『太田道灌状』)。武蔵石浜へ移った武田三河入道道鑑は金龍山浅草寺を再建し、その後ふたたび上総国に戻った。上総武田氏は小弓城の原氏と対立していて上杉家と結ぼうと考えた結果と思われるが、遠く離れた銚子の海上備中守がなぜ自胤に通じたかは不明。同じころに海上氏では「海上芳翁」の嫡男「海上桃陰」の子「宮寿丸」が殺害され、弟「海上正翁」が継いだといったようなお家騒動のようなものが起こっていたとされ(『千学集抜粋』)、これが関係しているのかもしれない。
●『御土御門天皇綸旨写』(『武州文書』)
自胤はこの後、臼井城を陥れて城代を置いたとされているが(『鎌倉大草子』)、数か月の攻撃にも耐え抜き、太田図書という大将を討ち取るほど士気のある城が自胤の手勢だけで陥落するとは思えず、自胤がその後武蔵へ帰ってしまっていることを考えると、臼井城は落ちず、太田道灌の下総攻略は失敗したといえる。
「天明十五年甲辰六月三日」に「屋形様千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせられ、それより佐倉へ移」った(『千学集抜粋』)。なお、「天明」は江戸時代の元号であることから、文明年中の誤記、甲辰歳は文明16(1484)年となる。この年、孝胤は父・岩橋輔胤の本拠である岩橋に程近い佐倉の地に本拠地を移すこととし、まず千葉から「平山」へ移った。この平山は原氏の本拠である小弓館に隣接する平山(千葉市緑区平山)と推測されるが、次の「長崎」の比定地は不明。佐倉に程近い「寺崎」ともされるが、草書体等にしてもあまりに字形が異なるためこの説は採れない。鎌倉紀より本拠としてきた千葉から佐倉へ館を遷した理由はわからないが、水運に便利で要害の地であること、前代までとの訣別(父・輔胤より始まる新たな千葉宗家)などが考えられよう。
孝胤は延徳4(1492)年2月15日、父・岩橋輔胤が亡くなると出家して「常輝」と号し、嫡男・勝胤に家督を譲って、公津城(成田市台方下方)へ移ったという。小見川城の粟飯原豊後入道への書状に出家後の「常輝」の名を見ることができる。豊後入道は小見川伊篠北方村に周心院浄泉寺を開山した人物で、明応年中(1492-1501)の『伊篠浄泉寺文書』に「粟飯原隼人胤光」が見える。また、天正17(1588)年に「粟飯原豊後」(『木内文書』)、天文20(1551)年に「粟飯原大和守」(浄泉寺の本尊観音背識)がある。
文亀2(1502)年、古河公方・足利政氏は「千葉介入道」と対立し、佐倉城に程近い下総国篠塚(佐倉市小篠塚)に出張した(篠塚御陣)。対立した原因は不明だが、翌文亀3(1503)年と思われる7月9日、山内上杉顕定から政氏奉公衆「二階堂左衛門尉」へ宛てて、「永々御陣労誠令識察候、千葉介入道未応御下知候哉」(『戦国遺文』)と、千葉介入道(孝胤)が政氏の下知に「未応」なかいことが理由に挙げられている。「公方様御発向ありて、篠塚に御旗を立させられる時、本間殿六崎にて孝胤に逢て」とあり(『千学集抜粋』)、政氏は篠塚に陣取ったとき、奉公衆の本間某を六崎(佐倉市六崎)に派遣して、孝胤に「三ヶ年の間御旗を立てさせられ、御退治を加へらる、但し御覚悟によつて御帰座あるべきか、御子一人御字を於請あるへきよし」を伝えている。孝胤の子に対し、政氏から一字を賜るよう要求しているのである。これに対して孝胤は「某代々妙見菩薩の宮前において元服いたすことなれば」と、御字を賜ることを拒否する。すると、本間某は長男は無理ならば「第二の御子を」と譲歩するが、孝胤は「某の家は二男ハ嫡子に一字を申請」うと、こちらも断っている(『千学集抜粋』)。ただ、千葉介満胤、兼胤の二代は鎌倉公方(足利氏満・足利満兼)から一字を与えられていると推測され、この言い分は若干の疑問がある。政氏と孝胤の対立はこれが原因であるのか、手打ちとして御字を請うべき由を伝えたのかはわからないが、千葉介が偏諱を受けることで政氏の関東における政治的重みが増すと考えた結果なのかもしれない。
この滞陣は約三年ほど続き、永正元(1504)年に和議が成立するが、4月13日、「表裏」した上総国府の木内石見守胤治を討つべく、「篠塚陣より公方様御馬御入遊ハされならせられ」と政氏自ら「国府」に「押寄」て、「胤治舅原胤隆」がこれを討ち取った。
没年は永正2(1505)年8月19日とも永正18(1521)年8月19日とも。享年六十三。法名は全孝常輝院殿眼阿弥陀仏。
享徳20(1471)年8月19日『足利成氏寄進状』※享徳20年(古河公方暦)=文明3年(京暦)
享徳20(1471)年8月27日『孝胤知行安堵状』※享徳20年(古河公方暦)=文明3年(京暦)
★千葉介孝胤の家臣★
家老
原式部少輔 円城寺若狭守 海保筑後守
族臣
大須賀右衛門尉 土屋左京亮 成東越中守 大須賀信濃守 国分左衛門佐 成東刑部少輔 海上備中守 押田掃部助
●上杉家略系図
勧修寺重房―+―上杉頼重――+―重顕――――朝定====顕定====氏定―――+―持定 +―政真
(左衛門督) |(大膳大夫) |(左近将監)(彈正少弼)(式部大夫)(彈正少弼)|(治部少輔) |(修理大夫)
| | | |
+―娘 +―憲房====重能――+―顕能 +―持朝――――+―顕房――――+―小山田朝重
(足利家時母)|(兵庫頭) (伊豆守)|(民部大輔) |(修理大夫) |(修理大夫) |(三郎)
| | | | |
+―清子 +―娘 +―娘 +―娘 +―娘
|(足利尊氏母) (高師秋妻) (今川範政妻)|(上杉憲忠妻)(千葉実胤妻)
| |
+―加賀局 +―三浦介高求―――義同――――義意
| ∥―――――――上杉重能 |(修理亮) (陸奥守) (彈正少弼)
| ∥ (伊豆守) |
| ∥ +―定正====朝良――――朝興――――朝定
| 勧修寺宮津入道 |(修理大夫)(治部少輔)(修理大夫)(五郎)
| | ↑
+―憲藤―――+―朝房 +―朝昌――――+―朝良
|(中務少輔)|(彈正少弼) (刑部少輔) |(治部少輔)
| | |
+―重行 +―朝宗―――+―氏憲―――+―憲顕――――憲定 +―朝寧
|(左近将監) (中務少輔)|(左衛門佐)|(中務大輔)(刑部大輔) |(七郎)
| | | |
| +―氏朝 +―教朝――――一色政熈 +―七澤憲勝
| (左馬助) |(治部少輔)(左京大夫) (七郎)
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| +―持房――――教房――――政藤
| |(中務少輔)(中務少輔)(中務少輔)
| |
| +―憲方――――憲孝
| |(修理大夫)(兵庫頭)
| |
| +―憲春
| |(五郎)
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| +―娘
| |(那須資之妻)
| |
+―憲顕――+―憲将 +―娘
|(安房守)|(兵庫助) |(岩松満純妻)
| | |
| +―能憲====憲孝 +―娘
| |(修理亮) (兵庫頭) (千葉介兼胤妻)
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| +―庁鼻和憲英―憲光―――+―憲長――――憲武――――憲勝 +―憲盛
| |(陸奥守) (左馬助) |(蔵人) (六郎) (左衛門大夫) |(三郎)
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| +―憲春 +―憲信――――房憲――――憲清――――憲賢―+―氏盛
| |(刑部大輔) |(六郎) (右馬助) (三郎) (六郎) (雅樂頭)
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| +―憲賢 +―憲明
| |(越後二郎) (七郎)
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| +―憲方――+―房方―――+―朝方――――房朝
| |(安房守)|(民部大輔)|(民部大輔)(民部大輔)
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| +―憲栄 | +―清方――――房実――――上條兵庫頭
| |(左近) | |(兵庫頭) (淡路守)
| | | |
| | | +―房定――+―房能====定実
| | | |(相模守)|(民部大輔)(兵庫頭)
| | | | |
| | | +―憲実 +―顕定 +―憲忠 +=憲広
| | | (安房守) (右馬助)|(右京亮) |(四郎)
| | | | |
| | +―憲定―――+―憲基====憲実――+―周清――――憲房――+―憲政====輝虎
| | (民部大輔)|(安房守) (安房守)|(号文明) (右馬助) (兵部少輔)(彈正少弼)
| | | |
| +―娘 +―佐竹義仁 +―房顕====顕定====顕実
| (岩松直国妻) (左馬助) (兵部少輔)(右馬助) (四郎)
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+―重兼――――能俊――――憲重―――――憲俊――――憲能――+―憲清――――定兼
|(左京亮) (左衛門佐)(伊豆守) (讃岐守) (讃岐守)|(左衛門) (三郎)
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+―娘 +―星川殿
(高師泰妻) (庁南宮内少輔妻)