武蔵国留守所惣検校職
●河越氏について●
河越氏は秩父氏の惣領家で、その祖は国衙の有力在庁となったのち、秩父牧別当を経て武蔵国留守所の惣検校職などを「家職」として発展した一族である。河越太郎重頼は支配下の郡司・比企氏出身の女性の娘を娶っており、その女性(比企尼)が乳母を務めた源頼朝とも早いうちから交流があったと推測される。頼朝挙兵時は知行国主平知盛の支配のもとで頼朝と敵対するが、頼朝の武蔵国入国を契機に赦されてその郎従となり、以降はその信任を得て元暦元(1184)年6月5日の除目(鎌倉除目到着は6月20日)で武蔵守となった源義信のもとで相聟同士(義信と重頼の妻は姉妹)で国務を行ったのだろう。
その後、頼朝とその弟(猶子)である洛中守護・伊予守源義経との契約の中で、娘を義経正室として京都へ送っており、もともと比企尼を通じた頼朝と義経の紐帯強化が期待されていたと思われ、義経の麾下には重頼嫡子・小太郎重房が加わっている。
ところが、義経が頼朝に敵意を示す叔父前備前守行家の捕縛を拒絶したことで、頼朝との関係が悪化。頼朝は命に服さなければ土佐房昌俊により義経ともども追捕を行う旨を通告したものの、義経はなお拒絶したため、土佐房昌俊は義経の六条室町邸を襲撃。結局、義経勢に行家勢が加わったことで、土佐房昌俊は捕らえられて梟首された。これにより義経は頼朝追討の宣旨を後白河院に要請。義経と頼朝の関係は破綻した。しかし、義経は頼朝代官という立場であり、義経に付されていた頼朝郎従は義経に加担することはなく、義経と行家はそれぞれ後白河院より九州と四国の惣追捕使に任じられ、京都を落ちていく。さらに摂津国から西へ向けて出帆するも強風によって船団は瓦解。義経と行家はその兵力を失って逃走し、頼朝による行家・義経の残党狩りが行われることとなる。そして、この結果、重頼と重房は義経縁者という理由から誅殺された。
その後、武蔵国における河越氏の勢力は大きく損なわれることとなるが、子孫は鎌倉家家人郎従(御家人)として出仕しつつ北条得宗家の被官(御内人)となり、のちに在京御家人となって六波羅に出仕していたとみられる。その後、北条氏が滅んだのちは「鎌倉家」の家政機関を継承した足利氏(鎌倉殿のち室町殿)の家人となり、関東に下向して関東足利家(鎌倉公方)のもとで勢力を挽回したものの、鎌倉公方に対して反旗を翻した「平一揆」を主導して滅んだ。
平良文 | 平忠頼 | 平将恒 | 平武基 | 秩父武綱 |
秩父重綱 | 秩父重隆 | 葛貫能隆 | 河越重頼 | 河越重房 |
河越泰重 | 河越経重 | 河越宗重 | 河越貞重 | 河越高重 |
河越直重 |
●河越氏略系図●
小代行平
(八郎)
∥――――――弘家
+―娘
|
|
葛貫能隆―+―河越重頼―+―重房 +―泰重―――経重――――宗重―――貞重―――+―高重―――直重
(別当) |(留守所) |(小太郎)|(掃部助)(安芸守) (出羽守)(三河守) |(三河守)(弾正少弼)
| | | |
+―小林重弘 +―重時――+―信重 +―上野介
|(二郎) |(二郎) |(二郎)
| | |
+―師岡重経 | +―重家
(兵衛尉) | (五郎)
|
+―重員―――重資――+―重氏
|(三郎) (修理亮)|(太郎蔵人)
| |
+―重方―――実盛 +―娘
|(四郎) (三浦某妻)
|
+―娘
|(源義経妻)
|
+―娘
(下河辺政義妻)
(????-1185)
河越氏初代。葛貫別当平能隆の嫡男。妻は比企尼娘。通称は小太郎、太郎。武蔵国留守所惣検校職。娘は伊予守源義経室、下河辺四郎政義室。
秩父氏は河越重頼を惣領家とし秩父党および武蔵国人の面々を従えていた。ただし、畠山氏、江戸氏、河崎(渋谷)氏、豊島氏ら秩父一族はすでにそれぞれが独立した勢力であって、同族としての紐帯で繋がる組織であった。それは房総平氏でも同様のことであるが、同族を強権で束ね得るのはあくまでも「父権(家父長権)」のみであり、世代が代わった時点で「支配」から各々が主体性を持って独立するのである。
なお、重頼の父・葛貫別当能隆は菅谷館から鳩山丘陵を越えた南側にあった官牧・葛貫牧の別当に補されていたが、父・秩父次郎重隆から家督を継承することなく没していた可能性が高い。重頼は祖父の重隆から家督を継承し、国司の武蔵守信頼の目代から留守所の惣検校職に補されたのだろう。武蔵守信頼は十年余りにわたって武蔵国に関わりを持ち、目代を通じて秩父一族とも交流があったろう。
重頼は父祖の地である比企郡から河越にかけての入間川水系(入間川、越辺川、都幾川)西側一帯を支配し、都幾川と越辺川の分流域の要衝の領主である兒玉党・小代八郎行平に妹を嫁がせている(『小代宗妙置文』)。そして、その行平の館に隣接した「小代ノ岡(東松山市正代)」には源太義平が居住しており、重頼と義平は旧知の間柄だったと考えられよう。のちの保元の乱で「河越、師岡、秩父武者」が義朝に従属した(『保元物語』)とされているのは、義平を通じた被官化の結果であろうか。
小代行平―+=小代俊平
(八郎行蓮)|(小次郎生蓮)
|
+―小代弘家 母葛貫別当平義隆女河越太郎重頼妹也…
(小太郎)
久寿3(1156)年に入ると鳥羽院は頗る体調が悪化し、5月には食事も摂れなくなる。鳥羽院は死を覚悟し、自分の死後は上皇(のちの崇徳院)や左大臣頼長らによる政権樹立を嫌って、有力武家貴族らに対して招集の院宣を発した。6月1日には「去月朔以降、依院宣、下野守義朝幷義康等」が禁中の守護として宿営し、「出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此外源氏平氏輩、皆悉率随兵祇候于鳥羽殿」と、出雲守源光保、和泉守平盛兼ほか源平諸氏が鳥羽殿の警衛に参じた(『兵範記』保元元年七月十日条)。鳥羽院は「義朝、義康、頼政、季実、重成、惟繁、実俊、資経、信兼、光信」らを後白河天皇に付属させるべく遺詔を残していたというが(『保元物語』)、この院宣であろうか。
そして7月2日、ついに鳥羽院は鳥羽安楽寿院で崩御した(『兵範記』保元元年七月二日条)。五十四歳。その死からわずか三日後の7月5日には後白河天皇が蔵人雅頼を通じ、検非違使を動員して「京中武士」の動きを停止させた。これは「蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家」という風聞が京中に流れたことによる。鳥羽院の崩御とともに後白河天皇は、鳥羽院の兄上皇および左大臣頼長勢力を鎮圧すべくさまざまな画策を実行に移していく。
7月6日には、左衛門尉平基盛が東山法住寺辺で、左大臣頼長に祇候する大和源氏源親治を追捕した(『兵範記』保元元年七月六日条)。
さらに7月8日、後白河天皇は諸国司に対して「入道前太政大臣并左大臣、催庄園軍兵之由」を勅した(『兵範記』保元元年七月八日条)。そして「蔵人左衛門尉俊成并義朝随兵等」に勅して頼長邸「東三條」邸を接収した。頼長は当時宇治にあって東三條邸を留守にしていたときを狙ったものであった。天皇側による圧力が強まっている様子がうかがえる
こうした状況を知った上皇(崇徳院)は怒り、滞在していた鳥羽田中御所から夜陰に紛れて白河前斎院御所へと遷幸し(『兵範記』保元元年七月九日条)、翌10日には移った白河殿で軍勢を集め始める(『兵範記』保元元年七月十日条)。しかし、それに応じたのは上皇や左府頼長の家人など所縁の人物ばかりであった。
崇徳院・頼長に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)
上皇祇候 | 散位平家弘、大炊助平康弘、右衛門尉平盛弘、兵衛尉平時弘、判官代平時盛、蔵人平長盛、源為国 |
故院勘責 今当召出 |
前大夫尉源為義、前左衛門尉源頼賢、八郎源為知(為朝)、九郎冠者(為仲) |
左府祇候 | 前馬助平忠正、散位源頼憲 |
後白河天皇に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)
下野守義朝、右衛門尉義康、安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁、常陸守頼盛、淡路守教盛、中務少輔重盛 |
7月11日早朝、御所高松殿から「清盛朝臣、義朝、義康等」が六百余騎を率いて白河御所へ進軍した。平清盛は三百余騎を率いて二條大路から、源義朝は二百余騎を率いて大炊御門大路から、源義康は百余騎を率いて近衛大路からそれぞれ攻め上がったという。さらに前蔵人源頼盛が郎従数百人を揃え、源頼政、源重成、平信兼らが重ねて白河へと派兵された(『兵範記』保元元年七月十一日条)。
保元の乱相関図(■:崇徳上皇方、■:後白河天皇方)
~天皇、上皇、親王ほか~ 藤原璋子 |
~摂関家~ 藤原忠実―+―藤原忠通――藤原基実 |
~河内源氏~ 源義家―+―源義親――――源為義――+―源義朝 |
~伊勢平氏~ 平正盛―+―平忠盛―+―平清盛 |
この合戦の様相は、日記の故記録では『兵範記』が唯一のものであるが、そこでは7月11日「彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢齋院御所幷院北殿也」とあり、平清盛を筆頭とする官軍が上皇及び左大臣頼長の軍勢を打ち破り、白河御所などが焼失したことを伝えている。午剋には清盛以下の大将軍はみな内裏へ帰参し、平清盛と源義朝はとくに朝餉間へと召され、上皇、左大臣頼長、源為義以下の人々は行方知れずとなったことを報告している。
この白河御所での戦いについては、『保元物語』による外ないが、多分に誇張表現や筆者による加筆があり、信憑性については甚だ疑問が多いため、参考程度であるが、この保元の乱では、「高家ニハ河越、師岡、秩父武者」(『保元物語』)とあって、河越重頼、師岡重経、秩父武者(該当者不明)が武蔵国の「高家(名門勢家の意味か)」として源義朝に随って後白河天皇方に加わり、崇徳上皇(後白河天皇の兄)方と戦ったとされている。広常は父・常澄が義朝の養育者であったことから積極的に参戦したと思われるが、常胤が義朝に積極的に組したかは疑問。ここに見える人々は、義朝が関わりがあった人々のほかに、駿河国、武蔵国、甲斐国、信濃国など義朝との関係がみられない人々も含まれており、諸本によって人物も異なるなど、信憑性に欠ける。
保元の乱に義朝に随った人々(『保元平治物語』慶長本)
鎌田次郎正清 | 後藤兵衛実基 | ||||
近江国 | 佐々木源三 | 八嶋冠者 | |||
美濃国 | 平野大夫 | 吉野太郎 | |||
尾張国 | 舅・熱田大宮司(家子・郎等) | ||||
三河国 | 志多良 | 中条 | |||
遠江国 | 横地 | 勝俣 | 井八郎 | ||
駿河国 | 入江右馬允 | 高階十郎 | 息津四郎 | 神原五郎 | |
伊豆国 | 狩野宮藤四郎親光 | 狩野宮藤五郎親成 | |||
相模国 | 大庭平太景吉 | 大庭三郎景親 | 山内須藤刑部丞俊通 | 瀧口俊綱 | 海老名源八季定 |
秦野二郎延景 | 荻野四郎忠義 | ||||
安房国 | 安西 | 金余 | 沼平太 | 丸太郎 | |
武蔵国 | 豊嶋四郎 | 中条新五 | 中条新六 | 成田太郎 | 箱田次郎 |
川上三郎 | 別府二郎 | 奈良三郎 | 玉井四郎 | 長井斉藤別当実盛 | |
斎藤三郎実員 | |||||
(横山党)悪次 | 悪五 | ||||
(平山党)相原 | |||||
(児玉党)庄太郎 | 庄次郎 | ||||
(猪俣党)岡部六弥太 | |||||
(村山党)金子十郎家忠 | 山口十郎 | 仙波七郎 | |||
(高家)河越 | (高家)師岡 | (高家)秩父武者 | |||
上総国 | 介八郎弘経 | ||||
下総国 | 千葉介経胤 | ||||
下野国 | 瀬下太郎 | 物射五郎 | 岡本介 | 名波太郎 | |
上野国 | 八田四郎 | 足利太郎 | |||
常陸国 | 中宮三郎 | 関二郎 | |||
甲斐国 | 塩見五郎 | 塩見六郎 | |||
信濃国 | 海野 | 望月 | 諏方 | 蒔葉 | 原 |
安藤 | 木曾中太 | 木曾弥中太 | 根井大矢太 | 根川神平 | |
静妻小二郎 | 片桐小八郎大夫 | 熊坂四郎 |
合戦は後白河天皇(官軍)の勝利に終わり、同日夕刻、合戦の勲功として、安芸守平清盛は播磨守へ、右馬助源義朝は右馬権頭へ、右衛門尉源義康は左衛門尉兼検非違使へと任官することとなるが、義朝は同日、右馬権頭から一気に左馬頭へと昇み、十九年にわたって左馬頭を務めてきた藤原隆季は「雖無所望」と、強制的に左京大夫へ転じることとなる(『公卿補任』保元三年)。『保元物語』によれば義朝が恩賞の不足を訴えたとされる(『保元物語』)。
褒章された人々(『兵範記』より)
日時 | 名前 | 褒賞 | 備考 |
7月11日 | 藤原忠通 | 氏長者 | 関白前太政大臣。 |
小僧都覚継 | 左府頼長より収公された所領 | 興福寺権別当。 | |
平清盛 | 安芸守⇒播磨守 | 安芸守より転任。 | |
源義朝 | 右馬助⇒右馬権頭⇒左馬頭 | 下野守兼任。同日、左馬頭隆季が左京大夫へ遷任される。 | |
源義康 | 右衛門尉⇒左衛門尉 | 検非違使。蔵人。右衛門尉より陞任。 8月6日夕方、従五位下に昇叙。 |
|
7月16日 | 平頼盛 | 昇殿 | 常陸介。兄の清盛が申請。 |
平教盛 | 昇殿 | 淡路守。兄の清盛が申請。 |
7月13日、上皇は実弟の仁和寺五宮(覚性法親王)のもとに出頭し、16日には為義が出家姿で義朝のもとへ出頭している。そして17日には諸国の国司に対して、前太政大臣忠実と左大臣頼長の所領を没官することを通達した。21日は流矢を受けて負傷死したと伝えられた頼長の遺骸が「般若山辺」で掘り起こされて実検された。
23日、上皇(讃岐院。のちの崇徳院)は讃岐国へと流され、7月28日から30日にかけて、上皇および左大臣頼長の主な戦力となった人々が処刑されることとなった。8月3日には流罪が執行されており、こうして「保元の乱」は幕を閉じるが、皇位継承については様々な蟠りが残されたまま、次代へと引き継がれ、再び内紛の様相が露呈し始める。
保元の乱の後、鳥羽院女御であった美福門院は、養子でもある後白河天皇の皇子・守仁親王の即位を願い、権勢を握っていた後白河天皇の乳父・藤原信西入道に働きかけた。これにより保元3(1158)年8月4日、仁和寺において信西と美福門院は後白河天皇から守仁親王への譲位を決定する。俗に「仏と仏との評定」(『兵範記』)と称されるものだが、関白・藤原忠通にも知らされないという異例のものだった(7)。
譲位された新天皇(二条天皇)は、美福門院を筆頭に藤原経宗(後白河院、忠実従弟)、藤原惟方らに擁立され、実父・後白河院の院政を阻止せんと図った。これに対し、後白河院は寵臣・権中納言藤原信頼を御厩別当に任じて抵抗を図った。
三条南殿趾 |
こうした天皇親政派と院政派の対立の中でも、朝廷内での権力をますます強めていく信西一門への反発が強まっていく。反信西派は平治元(1159)年12月9日深夜、藤原信頼は院近臣である従四位上源光保、従五位下源義朝らを主力とする軍勢を、信西がいる院御所・三条殿に派遣して焼き討ちし、後白河院の玉体を内裏一本御書所へ移した。しかし、目的だった信西はすでに逃亡しており、後を追った源光保が山城国田原で自害していた信西の首を切って都へ戻っている。
こうして信頼は一時的に朝廷の権力を握ることに成功するが、信西亡き後、共通の敵を失った親政派と院政派は再度対立。信西追捕の際、熊野へ外出中だった平清盛が親政派に推されて信頼打倒を模索し、12月25日夜、後白河院が内裏から仁和寺に脱出。さらに翌26日には二条天皇も六波羅邸へ遷り奉ったことで、信頼方の同調者も次々と寝返っていき、信頼に対する追討の宣旨が出されるに到った(7)。
平治の乱相関図(■:藤原信頼方、■:後白河院方)
■藤原家
→藤原道長――藤原頼通――藤原師実―+――藤原師通―――藤原忠実―――藤原忠通―――藤原基実
(関白) (関白) (関白) | (関白) (関白) (関白) (摂政)
| ∥――――――近衞基通
| ∥ (関白)
| 藤原基隆――――藤原忠隆 +―女
| (修理大夫) (大蔵卿) |
| ∥ |
| ∥――――+―藤原信頼―――藤原信親
| ∥ (右衛門督) ∥
| ∥ ∥
|+―藤原顕隆――藤原顕頼――+―藤原公子 +―娘
||(権中納言)(民部卿) | |
|| | |
|+―女 +―藤原惟方 平清盛――+―娘
| ∥ (参議) ∥
| ∥ ∥
+――藤原経実―+―藤原経宗 藤原通憲―――藤原成憲
(大納言) |(左大臣) (入道信西)
|
+―藤原懿子
(女御)
∥――――――二条天皇
∥
後白河天皇
■清和源氏
【摂津源氏】
→源満仲―+―源頼光――…+―…―――源頼政
(摂津守)|(内蔵頭) | (兵庫頭)
| |
| +―…―+―源光保【寝返る】
| |(出雲前司)
| |
| +―源光信――――源光基【寝返る】
| (検非違使) (出羽判官)
|【河内源氏】
+―源頼信――…+―…―+―源義朝――+―源義平
(甲斐守) | |(下野守) |(悪源太)
| | |
| +―源義盛 +―源朝長
| (十郎) |(中宮大夫少進)
| |
+―…―――源義信 +―源頼朝
(四郎) (右兵衛権佐)
■伊勢平氏
→平忠盛―+―平清盛――――+―平重盛
(讃岐守)|(太宰大弐) |(左兵衛佐)
| |
+―平経盛 +―平基盛
|(蔵人) (大夫判官)
|
+―平教盛
|(淡路守)
|
+―平頼盛
(三河守)
戦いは結局、二条天皇を擁する平清盛や、六波羅へ移徒せざるを得なかった大殿忠通・関白基実ら内裏勢力の勝利に終わり、敗れた藤原信頼は仁和寺に出頭し、罪状勘文もないままに河原で斬首。源義朝ら一党も竜華峠での山門僧との戦いで大叔父・陸奥六郎義隆が討死。重頼とも所縁があったであろう義朝嫡子・源太義平は北陸へ別れ、次男・中宮少進朝長は美濃国で死去。三男・右兵衛権佐頼朝も尾張国で平頼盛の被官・左兵衛少尉平宗清に捕縛されて京都へ移送され、義朝自身も尾張国内海(知多郡南知多町)で在郷の家人・長田庄司忠致によって殺害され、事実上、陸奥守義家流は壊滅した。この戦いに重頼以下の秩父一族が参加した形跡はなく、義平の上洛にも従っていないとみられる。
川越日枝神社 |
永暦元(1160)年、後白河法皇が京都東山に造営した広大な院御所・法住寺殿が造営され、その鎮守に新日吉山王社が東坂本より勧請された際、「河越氏」が所領を新日吉山王社に寄進。以降、河越庄は新日吉社領として続いた。この年の武蔵国司は平清盛の子・平知盛であり、重頼は知盛を通じて寄進したのだろう。重頼は館の近くに日枝神社を創建した。
重頼は国衙の留守所惣検校職にあり、目代を通じて平知盛と親密な関係を持っており、知盛がことのほか寵愛した「河越黒」という黒い名馬は、知盛が「武蔵国務」のとき「河越といふ所」より、信濃国の井上小次郎が奉った馬であり、「井上」とも称された逸物であった。知盛が一の谷の敗戦で舟に遁れた際、やむなく手放し、義経が戦利品として院に献上している。井上小次郎と重頼の関係は不明だが、信濃国の豪族である井上氏が武蔵国司の知盛に、わざわざ河越から馬を取り寄せて献じるのも違和感があり、重頼の依頼を受けた井上小次郎が馬を持参して上洛したのだろう。
また、重頼の弟・師岡重経の領所である師岡郷にゆかりのあった武藤頼平は「平知盛為国司大官武蔵国居住」(『武藤系図』「諸家系図纂」所収)とあるように、平知盛の「国司大官(代官か=目代か)」だったという。姉妹が知盛室となって嫡男・武蔵守平知章を生んでおり、こうした縁戚だという。そして頼平の養子になった武藤資頼の兄・監物太郎頼方は、知盛の子・武蔵守平知章とともに一の谷の戦いで討死を遂げている。
+―藤原頼方
|(監物太郎)
【武蔵国目代か】|
武藤景頼―+―武藤頼平―――+―藤原資頼……【子孫は太宰少弐武藤氏】
|(大蔵大夫) (小次郎)
|
+―娘
∥――――――――平知章
∥ (武蔵守)
平知盛
(中納言)
平知盛は知行国主として子息の武蔵守平知章を国司とし、武藤頼平を目代として留守所の惣検校職の河越重頼とともに武蔵国郡司や検非違使らを統括していたのだろう。ほかにも秩父党には畠山庄司重能、小山田別当有重は平家政権のもと大番役として上洛しており、「東国にも郎等多かりける中に畠山荘司、小山田別当と云フ者、兄弟にてありけり」とあって、知盛は武蔵国を完全に掌握しており、惣領家の重頼以下秩父一族はその忠実な被官となっていた。
河越氏館址(常楽寺) |
また、重頼の正室は頼朝乳母の比企尼長女だが、重頼が惣検校職のもとで統率する郡司比企氏の娘(比企尼次女)と婚姻関係となったのは頼朝が伊豆配流後で、比企尼が京都から「請所」の比企郡へ戻ったのちであろう。具体的な婚姻時期は不明だが、嫡男・小太郎重房が仁安3(1168)年生まれであることから(『源平盛衰記』より逆算)、そのころか。なお、この婚姻は頼朝の存在とはまったく関係のない地縁的な理由と考えられる。
一方で三女は頼朝の初期監督者であった伊豆国賀茂郡河津郷の河津祐親の子・九郎祐清に嫁いでいる。こちらは比企尼による頼朝支援の一環であろう。なお、長女(丹後局・丹後内侍)は藤九郎盛氏に嫁いだとされるが、これは丹後局と丹後内侍を混同した謬説であり、実際は長女「丹後局」は在京時に官人惟宗氏(惟宗広言とも忠康とも)に嫁ぎ、惟宗忠久を出産。忠久は武官として京都で育ち、摂関家に仕えていたが、母丹後局もともに在京であったろう。丹後局(忠久も同道歟)の関東下向のきっかけは、丹後局の母が乳母であった頼朝の挙兵に求められよう(「丹後内侍と「丹後局」参照)。
治承4(1180)年8月17日、頼朝が伊豆で以仁王の令旨を奉じて反平家の兵を挙げると、三浦氏が同調して伊豆へ馳せ向かった。しかし、三浦氏は暴風雨で増水した丸子川に阻まれて渡河できず、頼朝の敗北の報を受けて三浦郡へと引き返していった。その帰途、8月24日、鎌倉の由比浜で秩父党の畠山次郎重忠と三浦党の和田小太郎義盛・三郎義茂の間で合戦となり、不意を打たれた重忠は惨敗して退いた。
重忠はこの小坪、由比ガ浜の合戦の怨みをはらすべく、武蔵国の河越太郎重頼へ「相具当国党々可来会之由」を「触遣」した。これは「是重頼於秩父家雖為次男流相継家督」のため、秩父家惣領が継承する留守所の惣検校職(付帯権限の「机(=床几の略歟)催促」か)に基づき「依従彼党(当国党々)等」と国内武士団を率いて相模国へ来るよう指示したものである。ここからは重忠の父・畠山庄司重能が二十五年前に重頼の祖父・次郎大夫重隆を討った(重隆の養君・義賢の巻き添えか)遺恨は感じられず、また重忠も重頼が「次男流(次郎大夫重隆は重忠祖父・太郎大夫重弘の弟)」ではあるが、彼の秩父家「相継家督」を認めている。ただし、重忠は重頼に「可来会」と「触遣」していることから、長男流の重忠は秩父家の家督及び公権関与はないものの、私的には重頼とは同等の家格であったと考えられよう。そして、重頼の軍勢催促に四男流の江戸太郎重長(重忠叔父)も加わっている。
衣笠城遠景 |
こうして重忠の触れに応じた河越太郎重頼は、小坪合戦から二日後の8月26日、江戸太郎重長や中山次郎重実を伴い、「金子党、村山党、丹党、横山党、篠党、兒玉党、野与党、綴喜党」らの「党者」の者ら二千余騎を率いて三浦半島へ侵入した。これを察した三浦方は、三浦大介義明の居城である衣笠城に立て籠もり陣を張った。大手の東木戸口を守るのは三浦次郎義澄、佐原十郎義連、搦手の西木戸は和田小太郎義盛、金田大夫頼次、中の陣は長江太郎義景、大多和三郎義久らが守る布陣と伝わる。
辰の刻となり、秩父氏率いる武蔵勢は衣笠城に一斉に攻め寄せた。三浦勢は力戦するが、いまだ小坪・由比ガ浜の合戦の披露が癒えず、夜半になり、三浦党は衣笠城を捨てて落ちていった。惣領の三浦大介義明は自らは城に残って、「吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり、なんぞこれを喜ばざらんや、保つ所すでに八旬有余なり、余算を計るに幾ばくならず、今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す、汝等急ぎ退去して彼の存亡を尋ね奉るべし、吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し重頼に見せしめん」と義澄ら一党に落ち延びるよう命じ、義澄らは泣く泣く城を落ちていったという。そして27日、義明は八十九歳(『源平盛衰記』では七十九歳)で討死を遂げた(『吾妻鏡』)。
一方、この衣笠合戦は8月29日という説もある(『源平盛衰記』)。畠山重忠は『吾妻鏡』の衣笠合戦に名が見えないが、おそらく参戦していたであろう。『源平盛衰記』では「河越又太郎、江戸太郎、畠山庄司次郎等を大将軍」として三千余騎の武蔵国の豪族が参戦していることになっている。難攻を極めたが、金子十郎家忠が金子党三百余騎を率いて一の木戸、二の木戸を打ち破り城内に乱入した。この奮戦を感じた義明は敵ながら天晴れと家忠に酒を贈ったという。結局城は落ち、ひとり籠城して討死せんという義明の意思に反し、義澄らが無理やり城から連れ出した挙句、輿を担いでいた郎従が逃げ出して義明は敵中に取り残され、丸裸にされてしまった上、「哀しいかな、同じくは畠山に見合て斬らればや、継子孫なり」と外孫にあたる重忠の手で斬られることを望んだが、その願いも空しく江戸太郎重長によって討たれたという(『源平盛衰記』)。城を落ちた三浦一党は舟で房総半島に逃れ、源頼朝と合流している。ここで頼朝は上総氏・千葉氏ら房総平氏の支援を受けて勢力を取り戻し、隅田川を渡って武蔵国に入ってきた。三浦氏だけではなく房総平氏も頼朝に味方し、さらに秩父党の豊島・葛西氏もすでに頼朝に加担している今、秩父党もこの流れに加わることが得策であると考えたのかもしれない。
10月4日、重頼は畠山次郎重忠・江戸太郎重長とともに隅田川の頼朝の陣に降伏した。このとき、頼朝は三浦一族に対して、秩父党へ恨みを残すことないように申し含め、三浦党もしぶしぶ納得して陣に迎え入れた。こうして頼朝は房総半島および三浦半島、武蔵国の軍勢を支配下に収め、「石橋山の戦い」で頼朝軍を殲滅した大庭三郎景親・伊東次郎祐親も敵わじと見て、京都から攻め下ってきていた平維盛、平忠度らが率いる平家正規軍と合流するために足柄山に向かったが、すでに頼朝勢に行く手を阻まれており壊滅。景親はその後頼朝に降伏して出たが、頼朝は許さず固瀬川で処刑した。
養和2(1182)年正月28日、頼朝は伊勢神宮への進物として、砂金・神馬十疋を献じたが、重頼はこの神馬のうち、白栗毛(額白)一頭を献じている。
8月12日酉の刻、頼朝の御台所(のちの平政子)は男子を出産した。のちの右衛門督頼家である。御験者は伊豆山の専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は重頼の弟・師岡兵衛尉重経のほか、大庭平太景義、多々良権守貞義、引目役は上総権介広常がそれぞれ勤めている。戌の刻、重頼の妻(頼朝の乳母・比企尼の娘)が召し出され、御乳付を行っている。このころ、重頼にも次郎重時か三郎重員が誕生していたのだろう。
寿永3(1184)年正月20日、木曾義仲を討つべく、蒲冠者範頼、源九郎義経の兄弟が頼朝の代官として数万騎を率いて京都に入った。大手大将軍の範頼は勢多で今井四郎兼平、搦手大将軍の義経は石山から宇治田原方面を経由して宇治にから京都に攻め入り、主将の美濃守義広らを打ち破って入洛を果たした。また、別手として甲斐源氏の一條次郎忠頼らが近江国粟津で義仲の本隊と合戦し、相模国三浦一族・石田次郎為久の手によって義仲は討ち取られた。
●義仲追討の頼朝勢
大手大将軍 | 蒲冠者範頼 | ||||
大手相従輩 | 武田太郎信義 | 加々見次郎遠光 | 一条次郎忠頼 | 小笠原次郎長清 | 伊沢五郎信光 |
板垣三郎兼信 | 逸見冠者義清 | ||||
大手侍 | 稲毛三郎重成 | 榛谷四郎重朝 | 森五郎行重 | 千葉介常胤 | 千葉小太郎胤正 |
相馬次郎成胤 (相馬次郎師常か) |
国府五郎胤家 (国分五郎胤道) |
金子十郎家忠 | 金子与一近範 | 源八広綱 | |
渡柳弥五郎清忠 | 多々良五郎義春 | 多々良六郎光義 | 別府太郎義行 | 長井太郎義兼 | |
筒井四郎義行 | 葦名太郎清高 | 野与 | 山口 | 山名 | |
里見 | 大田 | 高山 | 仁科 | 広瀬 | |
搦手大将軍 | 九郎冠者義経 | ||||
相従輩 | 安田三郎義定 | 大内太郎維義 | 田代冠者信綱 | ||
相従侍 | 佐々木四郎高綱 | 畠山次郎重忠 | 河越太郎重頼 | 河越小太郎重房 | 師岡兵衛重経 |
梶原平三景時 | 梶原源太景季 | 梶原平次景高 | 梶原三郎景家 | 曽我太郎祐信 | |
土屋三郎宗遠 | 土肥次郎実平 | 土肥弥太郎遠平 | 佐原十郎義連 | 和田小太郎義盛 | |
勅使河原権三郎有直 | 庄三郎忠家 | 勝大八郎行平 | 猪俣金平六範綱 | 岡部六弥太忠澄 | |
後藤兵衛真基 | 後藤新兵衛尉基清 | 鹿島六郎維明 | 片岡太郎経春 | 片岡八郎為春 | |
御曹司手郎等 | 佐藤三郎継信 | 佐藤四郎忠信 | 伊勢三郎義盛 | 江田源三 | 熊井太郎 |
大内太郎 |
京都に入った義経は、まず六条殿に馳せ参じて後白河法皇を警衛した。このとき義経を含めて参内したのは六騎(源九郎義経、畠山次郎重忠、渋谷右馬允重助、河越小太郎重房、梶原源太景季、佐々木四郎高綱)あり、御所の門前で下馬し、後白河法皇の御叡により御所の中門の外、御車宿前に立ち並んだ。このとき法皇は中門の羅門から叡覧、陪従の出羽守貞長に、かの六名について年齢、名前、住国を聞こし召された。
●参内した六騎(『吾妻鏡』)
生国 | 装束 | 生年 | 伝 | |
源九郎義経 | 赤地錦直垂 萌黄唐綾紅糸威鎧 鍬形甲 金作太刀 |
二十五歳 | 今度の大将軍 | |
畠山次郎重忠 | 武蔵国住人 | 青地錦直垂 赤威鎧 備前作平太刀 |
二十一歳 | 秩父末流畠山庄司重能の長男 |
渋谷右馬允重助 | 相模国住人 | 菊閉直垂 緋威鎧 |
四十一歳 | 渋谷三郎重国の長男 |
河越小太郎重房 | 相模国住人 (実際は武蔵国) |
蝶丸直垂 紫下濃小冑 |
十六歳 | 河越太郎重頼の子息。 ※河越太郎重頼とする説もある。重目結の直垂に射向の袖に赤地錦鎧、黒糸縅冑、大切符の征矢 |
梶原源太景季 | 相模国住人 | 大文三宛書たる直垂 黒糸威冑 |
二十三歳 | 梶原平三景時の子息 |
佐々木四郎高綱 | 近江国住人 | 三目結直垂 小桜黄返たる冑の裾金物 |
二十五歳 | 佐々木源三秀義の四男 宇治川の先陣 |
このとき参内した中に、重頼の嫡男で十六歳の重房が加わっている(『源平盛衰記』)。重頼はおそらく平家との戦いにも義経の麾下として参戦し、活躍を見せたのだろう。
寿永3(1184)年5月1日、義仲の嫡男・故志水冠者義高の伴類らが甲斐国、信濃国で叛逆する噂が立ったため、頼朝は足利冠者義兼と小笠原次郎長清に御家人等を率いて甲斐国へ発向すべき命を下した。また、小山、宇都宮、比企、河越、豊島、足立、吾妻、小林各氏に信濃国へ発向して伴類を探し出す命を下している。しかし、頼朝は彼らだけでは不安だったのか、鎌倉殿の軍勢の中核である和田小太郎義盛、比企藤四郎能員に相模、伊豆、駿河、安房、上総各国の御家人を率いて出立すべきことを命じている。当時、重頼および重房は京都にいたと思われるため、ここに見える「河越」は重頼の代官が出陣しているのかもしれない。
6月5日の小除目では頼朝の推挙によって権大納言平頼盛、侍従平光盛、河内守平保業、讃岐守藤原能保、三河守源範頼、駿河守源広綱、武蔵守源義信の七名が任官し、6月20日に鎌倉に除書が届いた。しかし、この除書には義経の名は見えない。義経はかねてより頻りに官途の吹挙を望んでいたが頼朝はあえて推挙状に載せず、まず範頼の任官を先にしたという。義経は頼朝の猶子たるが故に、より厳しく長幼の順を内外に示したものか。
ところが、西国に遣わしている土肥次郎実平・梶原平三景時の両惣追捕使の戦況が大変憂慮する情勢となっており、頼朝は義経を「追討使」として西国へ派遣することを決定。京都に使者を遣わし、7月3日、義経の「可遣西海事」を法皇に奏上したのであった(『吾妻鏡』元暦元年七月三日条)。
ところが義経の追討使任命から数日後、今度は「伊賀伊勢国人等謀叛了」(『玉葉』元暦元年七月八日条)という風聞が京都に広まっることとなる。伊賀国は「大内冠者源氏、知行云々」であり、大内冠者惟義が伊賀国各所に郎従を派遣して統治していたが、7月7日夕刻、「家継法師平家郎従、号平田入道是也」が大将軍となって兵を挙げ「大内郎従等悉伐取了」という(『玉葉』元暦元年七月八日条)。これに呼応して、伊勢国でも「信兼和泉守」が鈴鹿山を切り塞いだという。
頼朝は7月18日、大内惟義ならびに「加藤五景員入道父子、及瀧口三郎経俊等」に伊賀伊勢平氏の追捕を命じた(『吾妻鏡』元暦元年七月十八日条)。大内惟義、山内経俊はそれぞれ伊賀国、伊勢国の「守護(国惣追捕使)」であるが、頼朝が叛乱の追捕を発令した時点で、すでに挙兵後十日が経過し、さらに飛脚が大内らのもとに戻るまで数日かかる中、大内・山内が頼朝の命を待ってから軍事行動を起こすことは非現実的である。彼らは謀反人追捕の権限(後の守護の権限の一つに繋がるか)は与えられており、頼朝はその追認を行ったという事であろう(『吾妻鏡』元暦元年七月十八日条)。また、頼朝はこの畿内の大規模な兵乱を受けて、予定していた義経の検非違使補任を急いだと思われ、8月7日に「九郎可任官」(『玉葉』元暦元年八月七日条)にこぎつけている。これにより義経は京洛取り締まりの公的な権限を得たこととなる。
伊賀・伊勢平氏の乱は7月21日、「謀叛大将軍平田入道家継法師」が梟首されて鎮圧はされるも、「忠清法師、家資等籠山了」という不安定な状況にあった。ただ、8月2日、鎌倉に伊賀・伊勢平氏の鎮圧が完了した旨が報告され(『吾妻鏡』元暦元年八月二日条)、翌8月3日、頼朝は義経に「今度伊賀国兵革事、偏在出羽守信兼子息等結構歟、而彼輩遁圍之中、不知行方云々、定隠遁京中歟、早尋捜之、不廻踵可令誅戮之趣」(『吾妻鏡』元暦元年八月三日条)ことを伝える安達進三郎を派遣した。
こうした伊賀・伊勢平氏の兵乱を受けた頼朝は平家追討を急ぐ方針に転換し、8月6日、営中に「招請参河守、足利蔵人、武田兵衛尉給、又常胤已下為宗御家人等依召参入」(『吾妻鏡』元暦元年八月六日条)し、西国出兵の陣容を整える命を下し、西海出陣の餞別として終日の酒宴を開いて、各々に馬を一匹ずつ下賜。とくに大将軍となる範頼には秘蔵の馬を授け、さらに甲冑一両を下した。そして8月8日、範頼以下三十名の御家人は鎌倉を出立し、一路四国を目指すこととなる。なお、頼朝は京都の義経へも範頼とともに追討使として西国下向を指示したと思われる。
●元暦元年八月八日西海派兵の将士(『吾妻鏡』元暦元年八月八日条)
【総大将】 | 三河守範頼 | |||||
【御家人】 | 北条小四郎義時 | 足利蔵人義兼 | 武田兵衛尉有義 | 千葉介常胤 | 境平次常秀 | 三浦介義澄 |
三浦平六義村 | 八田四郎武者知家 | 八田太郎朝重 | 葛西三郎清重 | 長沼五郎宗政 | 結城七郎朝光 | |
比企藤内所朝宗 | 比企藤四郎能員 | 阿曾沼四郎広綱 | 和田太郎義盛 | 和田三郎宗実 | 和田四郎義胤 | |
大多和次郎義成 | 安西三郎景益 | 安西太郎明景 | 大河戸太郎広行 | 大河戸三郎 | 中條藤次家長 | |
工藤一臈祐経 | 宇佐美三郎祐茂 | 天野藤内遠景 | 小野寺太郎道綱 | 一品房昌寛 | 土左房昌俊 |
このころ、京都では頼朝上洛の風聞があり、「木瀬川伊豆与駿河之間云々」に滞陣中と伝わっていた(『玉葉』元暦元年八月廿一日条)。京都への飛脚によれば「已所上洛仕也、但ひきはりても不上洛候也、先参河守範頼蒲冠者是也、令相具数多之勢、所令参洛也、雖一日不可逗留京都、直可向四国之由所仰含也云々」(『玉葉』元暦元年八月廿一日条)とあり、まず三河守範頼が派遣されるが、滞京することなく四国へ向かう旨を伝えている。京都へ伝わった風聞は8月8日に鎌倉を出立した範頼のことであろう。なお、頼朝が範頼に命じていたのは『玉葉』によれば四国の平家中枢への攻撃であったことがわかる。
そして8月7日、在京の「九郎可任官」(『玉葉』元暦元年八月七日条)の除目が行われ、義経は左衛門少尉、検非違使として洛中を公的に取り締まる権限を得る。なお『吾妻鏡』によれば、義経の左衛門少尉任官報告の使者は8月17日に鎌倉に到着し(『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条)、任官について「去六日任左衛門少尉、蒙使宣旨、是雖非所望之限、依難被默止度々勲功、為自然朝恩之由被仰下之間、不能固辞云々」(『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条)と、院からの強い要望により固辞できなかったと釈明したといい、頼朝はこれに「武衛御気色」と怒りを露わにし、頼朝が「起自御意被挙申」した「範頼義信等朝臣受領事」について「於此主事者、内々有儀、無左右不被聴之處、遮令所望歟」だったという。そして、義経の「被背御意事、不限今度歟」という態度から、「依之可為平家追討使事、暫有御猶予云々」(『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条)というが、義経の主任務は代官として「洛陽警固以下事」(『吾妻鏡』寿永三年二月十八日条)を勤めることであり頼朝が定めたものである。当然ながら義経の任官は頼朝からの推挙を得たものであろう。もし義経が「被背御意事、不限今度歟」であれば、洛中守護は範頼や惟義ら他の一門と交代させればよいだけで何ら不都合はない。義経が6月5日の除目で国司に洩れたのは、頼朝が推挙を予定していた検非違使が国司を兼ねない例のためであろう。
また、『大夫尉義経畏申記』(『群書類従』巻百八)によれば、元暦2(1184)年正月1日に「新大夫判官義経朝臣」が左右の看督長を招いた埦飯に際して「大井次郎実春為因幡御目代勤仕之」という記述があることから、これは因幡守中原広元の目代として大井実春が埦飯の沙汰を行ったことがうかがわれ、この埦飯は頼朝の指示であった可能性が高い(菱沼一憲氏『源義経の合戦と戦略―その伝説と実像―』角川選書)。義経はその後「御共衛府」の「左衛門尉藤時成、左衛門尉藤康言、土屋兵衛左兵衛尉平義行、師岡兵衛左兵衛尉平重保、源八兵衛左兵衛尉藤弘綱、渋谷馬允左馬允重資、予(清原某)無官」のほか「武士百騎許」を従えて参院。装束や車を賜っている(『清獬眼抄』)。
義経は検非違使補任からわずか三日後の8月10日夜、「有示子細事」して「召寄出羽守信兼男三人」を自邸に招いた。この三人は兼時、信衡、兼衡(『尊卑分脈』)であるが、六条堀川邸または六条室町邸に招請したのだろう。結局、三名は義経邸で「件三人或自殺、或被切殺」(『山槐記』元暦元年八月十日条)という。『吾妻鏡』では「於宿廬誅戮之」(『吾妻鏡』元暦元年八月廿六日条)とある。これは8月3日、頼朝が雑色・安逹新三郎を「源九郎主許」へ派遣し「今度伊賀国兵革事、偏在出羽守信兼子息等結搆歟、而彼輩遁圍之中、不知行方云々、定隠遁京中歟、早尋捜之、不廻踵可令誅戮之趣」(『吾妻鏡』元暦元年八月三日条)を命じたためと解せるが、義経が三人を召し寄せることができた、つまりそもそも居住地を知っていたことになる。そして、彼らは招請に素直に応じていることから、義経とはつながりを保っていた可能性が高い。こうしたことから、彼らが直接父に同調して叛乱に加担した可能性は低いだろう。ましてや結構して乱の首謀者となったことなど考えにくい。彼らは信兼に連座したものであろう。
信兼子息が討たれた翌日の8月11日、信兼も解官され(『吾妻鏡』元暦元年八月廿六日条)、翌12日、義経は「為伐出羽守信兼」に伊勢国に発向している(『山槐記』元暦元年八月十二日条)。ただし、義経麾下の兵は在京に耐えうる最低限の人数であり、官兵および検非違使らから編成された追捕の軍勢であったろう。山内経俊の軍勢も加わった可能性があり、8月26日の時点で「故出羽守信兼」(『山槐記』元暦元年八月廿六日条)とあることから、信兼は討たれたことがわかる。この戦いは7月の伊賀平氏の乱の延長線上であるが、この追捕を命じた主体は忠清法師ら平家旧家人を極度に恐れる法皇である可能性が高く、頼朝の関与は考えにくい。
そして、元暦元(1184)年8月26日、義経は「賜平氏追討使官符」った(『吾妻鏡』文治五年閏四月卅日条)。これは範頼と義経の両将を追討使とした本格的な西国出兵構想であろったろう(範頼、義経の追討使補任)。なお、義経の追討使官符下賜のタイミングは範頼上洛に合わせたものとみられ、翌27日に三河守範頼が入洛している(『吾妻鏡』元暦元年九月十二日条)。範頼も二日後の8月29日に追討使の官符が下されており(『吾妻鏡』元暦元年九月十二日条)、福原攻めの際と同様、二手から四国屋島を攻めるものであったと考えられる。
翌9月1日、範頼は京都を出立した(『吾妻鏡』元暦元年九月十二日条)。範頼は鎌倉出立の際に頼朝から「一日不可逗留京都、直可向四国之由」(『玉葉』元暦元年八月廿一日条)を命じられており、非常に速やかな発向になったと思われる。ただ、このとき西国へ出向したのは範頼一人であり、義経は京都にとどまっている。さらに、範頼は当初の四国ではなく山陽道を西に進んでいるのである。これは、8月27日から29日の間に頼朝の使者が京都に到着し、範頼と義経に追討計画の変更を伝えたのではなかろうか。その大きな要因は、鎮圧間もない伊賀・伊勢平氏の兵乱であろう。この兵乱の勃発を受けた頼朝は義経・範頼のいずれかを畿内警衛として留め置く必要に迫られたと思われる。ただ、範頼はもともと追討使としての軍勢が編成されて上洛しており、そのまま出立したのだろう。義経はすでに上方の情勢にも慣れていたことから留められたと思われる。そして、義経発向がやむなく延引されたことにより、四国屋島を攻める手順も変更され、範頼勢は惣追捕使土肥・梶原の救援と源氏に心寄せる九州国人を招いて西から屋島を攻める戦略に改められたと思われる。
比企尼―+―娘 |
一方、このころ鎌倉では重頼の娘が義経に嫁ぐために上洛の準備がなされており、9月14日に上洛の途につき、重頼の家子二名に郎従三十余が陪従した(『吾妻鏡』元暦元年九月十四日条)。「是依武衛仰兼日、令約諾」と頼朝の指示によってかねてより約定があったことが察せられる。重頼の娘が嫁ぐこととなった理由は、範頼と同様に比企尼系統での紐帯をより深めることが強かったと思われ、一説に言われている監視役という意味合いは考えにくい。この約定を翻していないため、頼朝は猶子義経を粗略に扱っていたわけではなかったことがわかる。
ところが、範頼率いる追討使は兵糧不足にあえぎ、舟も足らず、鎌倉の頼朝に救援を求める有様であった。この捨て置けない状況に、後白河院の抵抗(伊賀・伊勢平氏の乱で逃した忠清法師らへの恐怖である)によりなかなか認められなかった義経の追討使補任は、元暦2(1185)年正月8日、大蔵卿泰経は院中で会った権中納言経房に「廷尉義経可向四国之由」(『吉記』元暦二年正月八日条)を語っており、経房の推挙もあったか、その直後に義経の西国下向が認められ、正月10日に「大夫判官義経、発向西国」(『吉記』元暦二年正月十日条)と、平家討伐のために京を出立した。本来は範頼と義経の二面からの屋島御所の攻略であったが、範頼はすでに動くことはできず、義経一人による屋島攻めへと戦略が変更されたとみられる。
その後、阿波国へ渡海した義経は一気に北上し、2月19日、屋島を攻略して安徳天皇を擁する前内府宗盛以下は長門国に陣取る知盛卿との合流を策して西へと舟を進めることとなる。そして、周防国に留守居していた三浦義澄とともに長門国国府沖に進み、3月24日に平家一門との海戦が行われた。壇ノ浦の戦いである。なお、範頼勢は舟を持たず、北九州に陣取ったままこの海戦には参戦していない。この壇ノ浦の戦いで、安徳天皇以下平家の人々も沈み、三種の神器のひとつ宝剣も海中に没した。
4月11日、平家追討がなったことを知らせる義経の書簡が鎌倉に到着する。頼朝は勝長寿院上棟式に参列していたが、この書簡を手に取ると「向鶴岳方令坐給、不能被発御詞」(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)であったという。柱立上棟の儀が終了すると、急ぎ御所へ帰営。義経からの使者を召すと、合戦の状況をつぶさに訪ねたという(『吾妻鏡』元暦二年四月十一日条)。そして、頼朝は迅速な戦後処理を行うべく営中にて群議を行い、「参州暫住九州、没官領以下事可令尋沙汰之」と「廷尉相具生虜等可上洛之由」を定め、雑色の時澤・里長らを九州へと派遣した(『吾妻鏡』元暦二年四月十二日条)。
この報告を受けた頼朝は、義経の功を評価して「予州事」とある通り、御分国の一つ伊予国の国司に推挙した。具体的な日にちは分かっていないが、「去四月之比、内々被付泰経朝臣畢」とある通り、四月中であったことは確実である。また、義経からの報告には法皇の内示によるとみられる任官者(頼朝の推挙なき自由任官)の報告があったと考えられ、頼朝は4月15日、「関東御家人、不蒙内挙、無巧兮多以拝任衛府所司等官」につき、「不云先官当職、於任官輩者、永停城外之思、在京可令勤仕陣役」として、東国に戻ろうとする者は本領を没収し、斬罪とする旨を通達したという(『吾妻鏡』元暦二年四月十五日条)。(壇ノ浦の戦いその後)
ところがその後、4月21日に鎌倉に届いた梶原使者から義経の「而彼不義等雖令露顕」したという。その「不義」は「伊予守」補任を白紙とする程のものであったようだが、「今更不能被申止之、偏被任勅定云々」であるという(後述のように奏上の撤回は可能であったろう)。これが事実であるとすれば義経への伊予守任官の推薦は、義経の使者到着の4月11日から「不義」露顕の21日までの間となろう。なお、4月14日に「大蔵卿泰経朝臣使者参着関東、追討無為、偏依兵法之巧也、 叡感少彙之由可申之趣、所被 院宣也」(『吾妻鏡』元暦二年四月十四日条)とあることから、頼朝が義経の伊予守任官の推薦を託したのはこの使者と考えられ、同時に翌15日に内挙を経ない自由任官の警告を発したと考えられる。
これらは「自由拝任」者への強い警告であるが、自由拝任自体の罪科はもちろんだが、そもそも任官とは「或以上日之労賜御給、或以私物償朝家之御大事、各浴 朝恩事也」である習いの中で、「徒抑留庄園年貢、掠取国衙進官物、不募成功、自由拝任、官途之陵遲已在斯、偏令停止任官者、無成功之便者歟」という、頼朝が法皇から要求されながら一向に解決できない庄園国衙領の保障に対する問題が根本にあったとみられる。
この問題は、具体的には「内藤六が周防のとを以志をさまたけ候、以外事也」(『吾妻鏡』元暦二年正月六日条)というものや、「淡路国広田庄者、先日被寄附広田社之處、梶原平三景時為追討平氏、当時在彼国之間、郎従等乱入彼庄、妨乃貢歟」(『吾妻鏡』元暦元年十月廿七日条)や「武勇之輩耀私威、於諸庄園致濫行歟、依之去年春之比、宜従停止之之由、被下綸旨訖、而関東以実平、景時、被差定近国惣追補使之處、於彼両人者雖存廉直、所捕置之眼代等各有猥所行之由、漸懐人之訴」(『吾妻鏡』元暦二年四月廿六日条)という、御家人自身による狼藉、眼代による濫行が訴えられており、こうした濫行狼藉を行った当の御家人が、成功もせず勝手な任官を求める状況に怒った頼朝が、彼らの狼藉を禁じる一方で、武士の統率と国家秩序の維持のための自由拝任の禁止を再度通達したものであろう。
頼朝は以前にも「朝務等」以下四か条の要求を行っているが、その際にも任官は頼朝の推挙によって行うものとしており、平家の脅威が去った今、綱紀粛正が図られたということとみられる。師岡右兵衛尉重経のような相当以前に任官している人々も対象となる「不云先官当職」の東帰禁止という無理難題は、あくまでも頼朝の強烈な意志を御家人らに知らしめるためのジェスチャーであり、こき下ろされた任官御家人らの中で実際に罰せられた者はいない(ただし、実際に御家人の列から脱した人などに対しては解官要求をしている)。なお、義経の左衛門少尉・検非違使補任もこの自由拝任の認識と混同する傾向があるが、義経の任官に頼朝の推挙があったのは確実で、この自由拝任に対する御家人への下文と、後日の義経への譴責にはなんら関係はない。
その後、西国における義経の行為についてさまざまに情報を得た頼朝は、義経に対して勘発状を出して譴責しながらも、洛中守護を続投させるが、頼朝に対して敵対行為を行う前備前守行家を捕らえるよう命じたことに従わず、頼朝が派遣した土佐房昌俊の軍勢と合戦に及んで両者は決裂し、10月12日、義経は頼朝追討の宣旨を下されることを竊奏。10月18日、義経の要望通り「被下頼朝追討宣旨」(『玉葉』文治元年十月十八日条)が、翌19日早朝に上卿を左大臣経宗とし、右大弁光雅が認めてが発布されることとなった(『玉葉』文治元年十月十九日条)。(頼朝追討の院宣)
ところが、義経・行家らに兵力は集まらず、11月3日朝方、「前備前守源行家、伊予守兼左衛門尉大夫尉也従五位下同義経為殿上侍臣」は、各々法皇に出京のことを告げて、二百騎あまりを率い鎮西へ向けて京を出立した(『吾妻鏡』『玉葉』文治元年十一月三日条)。なお、『吾妻鏡』では「為遁鎌倉譴責、零落鎮西、最後雖可参拝、行粧異躰之間、已以首途云々」(『吾妻鏡』文治元年十一月三日条)という、義経は頼朝からの譴責を避けるために九州へ赴く旨を述べたといい、しかも甲冑に身を包んでいるため法皇には会うことなく出立したことを告げたという。
10月22日には在京の一條左馬頭能保からの使者が鎌倉に到着し、義経と同道する前備前守源行家によって、在京の御家人の家屋がつぶされ、行家は北小路東洞院の頼朝の宿所へ移ったことが報ぜられた。この不吉な報告を受けた頼朝であったが、いたって平素と変わらず、勝長寿院供養の沙汰の準備を命じるのみであった。しかし、内心は煮えくり返っていたであろう。翌10月23日、勝長寿院供養の随兵をさらに精選するにあたり、義経の縁者であった河越小太郎重房が除かれた。
河越氏と義経はその婚姻前から親密であった様子が『平家物語』『源平盛衰記』などからうかがえ、頼朝としても比企尼系統での紐帯および、義経の後見的な意味合いで河越氏を義経と接近させたのだろうが、義経と頼朝の間が険悪になると、武蔵国に強大な力を持つ河越氏と義経の連携は危険視されたのだろう。11月12日、重頼は義経の縁者という理由で所領を収公された。重頼・重房らのその後は『吾妻鏡』に記されていないが、文治3(1187)年10月5日、「河越太郎重頼、依伊予前司義顕縁座、雖被誅令」とあり、処刑されたことがわかる。没年齢は不詳ながら、おそらく保延6(1140)年ごろの出生と思われることから、四十代半ばであったと思われる。
収公された所領のうち、伊勢国香取五箇郷は伊勢国攻めに功績があった大井兵三次郎実春へ与えられ、残りは重頼老母が預かっている。重頼老母が河越荘の地頭に定められたかは不明。また、重頼の娘を娶っていた下河辺四郎政義も連座して所領を召し放たれた。
◎河越重頼周辺系図
葛貫能隆
(葛貫別当)
∥―――――河越重頼
重頼老母 (太郎)
∥―――+―河越重房
∥ |(小太郎)
∥ |
比企某 +―女子 +―女子
(掃部允) | | ∥――――――女子
∥ | | ∥
∥―――+―女子 | 源義経
比企尼 ∥ |(左衛門尉)
∥ |
源義信 +―女子
(武蔵守) ∥
∥
下河辺行義――+―下河辺政義
(下河辺庄司) |(四郎)
|
+―下河辺行平
(下河辺庄司)
◎重頼の所領の変遷
河越重頼―+―→大井実春《伊勢国香取五ヶ郷》
|
+―→重頼老母 《河越庄ほか》
義経が頼朝追討の院宣を受けて挙兵した事実は、関東の重事として頼朝も思い煩っていたが、中原広元は梟悪の者、反逆の輩を討たずに、反乱が起こるたびに地方に御家人を派遣していては御家人も迷惑であろうし、国の費えでもあるとして、彼らを追討するにおいて、そのついでとして国衙ならびに荘園ごとに守護、地頭を補すことを提案し、早く朝廷に奏請すべきことを申し述べた。これに頼朝も愁眉を開き、守護・地頭の設置を朝廷に奏する。
常楽寺の重頼・重頼娘・義経供養塔 |
文治2(1186)年8月5日、頼朝は「新日吉領武蔵国河越庄年貢事」について、請所として新日吉社に年貢を納める義務を認める一方、去年(元暦2年か)に「領家逝去」のため年貢を納める先が不明となり、年貢の時期を過ぎてしまったこと、決して「地頭」が恣意に抑留していたわけではないこと、亡き領家の孫・禅師君を新しい領家にしていただければ、ただちに年貢を納めるよう河越荘の地頭に下知すべきことを、側近の平五盛時に命じて請文を京都に進めた。
元暦2(1185)年の河越庄地頭は重頼であるが、文治2(1186)年時点では「重頼老母」に預けられており、彼女が地頭職であれば彼女に下知されたか。ただし、さらにその翌年文治3(1187)年10月5日の時点では、「武蔵国河越庄者、賜後家尼之處」とあり、すでに重頼の後家尼(比企尼娘)に与えられていたことが見えるため、重頼老母は臨時で預かったのみで、地頭は重頼後家であったのだろうか。河越庄の名主、百姓らは重頼後家の下知に随わなかったため、庄務ならびに雑務などについて後家尼の下知に従うことが頼朝によって命じられている。
◎河越氏館◎
河越氏館址(常楽寺) |
河越氏の館は14年にわたって発掘調査が進められ、昭和59年12月6日、「国指定史跡」として認められた。
館は現在の川越市上戸小学校東側、常楽寺周辺に比定され、その眼前にある入間川には川越橋が懸けられている。館の総面積は14,596.721坪、館は土塁と堀をめぐらした堅固な構えとなっていた。館の北東部には、平安時代の農民が使っていたと考えられる竪穴式住居・井戸の跡などが発見されており、河越氏の入部によって周辺に移住させられたという。
館の東北部には東西に入間川から引き込まれる運河がつくられていた。運河は上部幅が約11m、底の幅が約5.5m、深さは3m以上もある大型のもので、渇水期と増水期で舟の大きさを使い分けていた形跡が見られ、運河の北側には人夫が舟を曳航するための曳き道、その対岸には6~7mごとに「もやい柱」(舟を泊めておく柱)と思われる柱跡も発見されている。そして、もやい柱のそばには掘立柱の跡が残っており、船積みの年貢米など物資を集めておく倉庫と考えられている。河越氏は武蔵国留守所惣検校職として、国司不在の武蔵国政を取り仕切っており、国衙または新日吉社に収める年貢や物産を集積していたと思われる(『日本の名族4 関東編Ⅱ』)。
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