大須賀氏

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●大須賀惣領家想像系図

 大須賀胤信――通信――――――胤氏――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                           |
                           +―時朝――――――宗朝――+
                            (次郎左衛門尉)(下総守)|
                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―宗時       +―宗正―――憲康――――常康――――朝宗――――常正――――政常――――政朝―――政氏
|(下総次郎)    |(左馬助)(左馬助) (左馬助) (左馬助) (尾張守) (尾張守) (尾張守)(弥六郎)
|          |                            
+―宗信―――憲宗――+―宗幸―――朝信――――直朝――――朝胤――――朝宗――――胤朝
 (越後守)(左馬助) (越後守)(左衛門尉)(左衛門尉)(安芸守) (安芸守) (伊豆守)

 

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大須賀胤信(????-1215)

 大須賀家初代惣領。千葉介常胤の四男。通称は四郎。母は秩父重弘中娘。官途は左衛門尉

 父の千葉介常胤は、千葉庄の荘官(検非違所)をつとめ、胤信千葉庄多部田郷(千葉市若葉区多部田)にあって「多部田四郎」を称していた。このころ胤信の兄弟で名字地を領していたのは、胤信同様に千葉庄武石郷(千葉氏花見川区武石)を領した兄の武石三郎胤盛と、下総国府付近(市川市国分)を領した弟・国分五郎胤通で、長兄・千葉太郎胤正と次兄・千葉次郎師常(相馬氏祖)と末弟・千葉六郎大夫胤頼(東氏祖)はいずれも「千葉」を称して千葉庄千葉郷内に居住していたと思われる(胤頼は平安時代末期に大番役として上洛していたため、下総国にはいなかった)。

 「大須賀」氏はもともと千葉常長(平常長)の七男・七郎大夫常継下総国香取郡大須賀保を領して、大須賀を称したのがはじまりである。この初期大須賀氏は源頼朝の挙兵時には、上総介八郎広常の軍勢に連なっており、上総平氏とは血縁関係にあったとみられる。しかし、のちに広常が頼朝に謀叛の疑いで殺されると、おそらく大須賀常継も連座して大須賀保は没収され、千葉介常胤に与えられた。その後、胤信に分与され、胤信大須賀を称することとなった。一方、所領を奪われた常継の子孫は千葉氏の被官となり、大須賀保多田郷の地頭代となり、多田氏として続いた。

 治承4(1180)年9月17日、胤信は父や兄弟とともに下総国府で頼朝と対面した(『吾妻鏡』)。頼朝は8月に「石橋山合戦」で平家に属する大庭景親一党に敗れて安房国へ逃れたのち、上総国を経てこの日、頼朝は下総国府に到着した。国府にはすでに千葉介常胤以下、千葉太郎胤正千葉次郎師常武石三郎胤盛四郎胤信国分五郎胤通千葉六郎大夫胤頼千葉小太郎成胤ら千葉一族が着到しており、頼朝を迎えた。

 そして、14日の千葉庄の戦いで捕らえた平家の縁者・千田判官代親政を国府の庭に引き出して頼朝に見せたのち食事を献じた。頼朝は常胤を招くと「すべからく司馬を以って父となす」との、最大級の賞賛をして協力を謝した。またこのとき常胤「これを以って用いられるべし、今日の御贈物なり」と、ひとりの若者を頼朝の前に連れてきた。この若者は、さきの「平治の乱」で敗れた義朝に従い、近江国伊吹で討死を遂げた陸奥六郎源義隆の遺児・毛利冠者頼隆で、紺村濃の鎧直垂を着して常胤の傍らにひざまづいた。頼朝は彼の顔を見るや、「もっとも源氏の胤子といひつべし」と感じ入り、常胤の上座に座らせた。

 毛利冠者頼隆(森冠者頼隆)は系譜上で見ると、八幡太郎義家の孫で、頼朝の祖父・六条判官為義と従弟の間柄となるが、頼隆は義隆の末子で平治元(1159)年生まれであり、久安3(1147)年生まれの頼朝の12歳年下となり、頼朝と面会したときは22歳だった。頼隆は永暦元(1160)年2月、平家政権によって2歳の幼さで下総国へ流されて以来、常胤の庇護のもとに育った。頼隆の嫡男・若槻太郎頼胤が「胤」字を用いているところからも、千葉氏との深い関係が見てとれる。

◆源氏略系図◆

 源頼信――頼義――+―義家―――+―義宗            +―義朝――――頼朝
(甲斐守)(陸奥守)|(陸奥守) |(左衛門尉)         |(下野守) (右兵衛佐)
          |      |               |
          +―義綱   +―義親―――――為義―――――+―義賢――――木曾義仲
          |(左衛門尉)|(対馬守)  (検非違使判官)|(帯刀先生)(木曾冠者)
          |      |               |
          +―義光   +―義国―――+―新田義重   +―為朝
           (常陸介) |(式部大輔)|(左衛門尉)  |(八郎)
                 |      |        |
                 |      +―足利義康   +―行家
                 |       (治部大輔)   (新宮十郎)
                 |
                 +―義忠=====為義
                 |(河内守)  (検非違使判官)
                 |
                 +―義隆―――――毛利頼隆―――――若槻頼胤
                  (陸奥六郎) (毛利冠者)   (太郎)

 文治元(1185)年10月24日、長勝寿院(南御堂)の供養が行われた。頼朝は午前九時ごろに御所から徒歩で長勝寿院へ向かい、多くの御家人が随兵として従った。胤信はとくに「弓馬の達者」が集められた後陣の随兵となっている。

●長勝寿院供養に供奉した御家人

随兵十四人 畠山次郎重忠 千葉太郎胤正 三浦介義澄 佐貫四郎大夫広綱 葛西三郎清重 八田太郎朝重
榛谷四郎重朝 加藤次景廉 藤九郎盛長 大井兵三次郎実春 山名小太郎重国 武田五郎信光
北条小四郎義時 小山兵衛尉朝政        
調度懸 小山五郎宗政(剣) 佐々木四郎左衛門尉高綱(鎧) 愛甲三郎季隆(調度)
五位六位
三十二人
(布衣下括)
源蔵人大夫頼兼 大内武蔵守義信 三河守源範頼 安田遠江守義定 足利上総介義兼 狩野前対馬守親光
前上野介範信 宮内大輔重頼 皇后宮亮仲頼 大和守重弘 因幡守大江広元 村上右馬助経業
橘右馬助以広 関瀬修理亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重 藤判官代邦通 新田蔵人義兼
奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門尉朝綱 八田右衛門尉知家
梶原刑部丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛尉基清 足立右馬允遠元    
随兵十六人 下河辺庄司行平 稲毛三郎重成 小山七郎朝光 三浦十郎義連 長江太郎義景 天野藤内遠景
渋谷庄司重国 渋谷庄司重国 糟谷藤太有季 佐々木太郎左衛門尉定綱 廣澤三郎実高 千葉平次常秀
梶原源太左衛門尉景季 村上左衛門尉頼時 加賀美次郎長清      
随兵の長官 和田小太郎義盛 梶原平三景時        
随兵六十〔東〕
(弓馬達者)
⇒門外左右に
伺候
足利七郎太郎 佐貫六郎広義 大戸川太郎広行 皆川四郎 千葉四郎胤信 三浦平六義村
和田三郎宗実 和田五郎義長 長江太郎義景 多々良四郎明宗 沼田太郎 曾我小太郎祐綱
宇治蔵人三郎義定 江戸七郎重宗 中山五郎為重 山田太郎重澄 天野平内光家 工藤小次郎行光
新田四郎忠常 佐野又太郎 宇佐美平三 吉川二郎 岡部小次郎 岡村太郎
大見平三 臼井六郎 中禅寺平太 常陸平四郎 所六郎朝光 飯富源太
随兵六十〔西〕
(弓馬達者)
⇒門外左右に
伺候
豊嶋権守清光 丸太郎 堀藤太 武藤小次郎資頼 比企藤次 天野次郎直常
都築平太 熊谷小次郎直家 那古谷橘次頼時 多胡宗太 蓬七郎 中村右馬允時経
金子十郎家忠 春日三郎貞幸 小室太郎 河匂七郎政頼 阿保五郎 四方田三郎弘長
苔田太郎 横山野三刑部丞成綱 西太郎 小河小次郎祐義 戸崎右馬允国延 河原三郎
仙波次郎 中村五郎 原次郎 猪俣平六則綱 甘粕野次広忠 使河原三郎有直

 文治5(1189)年6月9日、鶴岡八幡宮の御塔供養のあと、御布施の馬が五匹献納されたとき、そのうちの四の馬(黒毛)を次兄・千葉次郎師常とともに曳いた。

 7月17日、頼朝は奥州藤原氏との合戦のための沙汰を行い、千葉介常胤・八田右衛門尉知家「東海道大将軍」に任じられ、おのおの一族ならびに常陸・下総両国の武士を率いて、宇太・行方郡を経て岩城・岩崎を廻り、阿武隈川の湊を渡って多賀城へ の進軍が命じられた。常胤・知家は一族郎従を集めて北上し、8月12日、多賀城へ参着した。胤信常胤のもと、奥州へ出陣している。

●東海道軍に従った武士(『吾妻鏡』に記された人物のみ)

千葉介常胤 千葉太郎胤正・千葉次郎師常・千葉三郎胤盛・千葉四郎胤信・千葉五郎胤通・千葉六郎大夫胤頼
千葉小太郎成胤・千葉平次常秀
八田右衛門尉知家 八田太郎朝重・多気太郎義幹・鹿島六郎頼幹・真壁六郎長幹等

 11月17日、頼朝が渋谷庄に狩に出かけた際、夕刻になって狐が一匹、頼朝の馬の前を走り抜けた。頼朝は鏑矢をつがえて狐を狙ったが、このとき胤信の郎従で弓の名手・篠山丹三が騎乗のまま頼朝の馬の右側に そっと寄り、頼朝が矢を放つと同時に矢を放った。暗がりのなか頼朝の矢は狐をそれたが、丹三の矢はみごと狐の腰の部分に中った。丹三はさっと馬を降りると、狐のもとへ駆け寄り、刺さっていた自分の矢を頼朝の矢と交換して頼朝のもとへ持参した。この機転に感じ入った頼朝は、丹三の主人・胤信に彼の名を訊ねた。そして18日夜、御所へ戻った頼朝は胤信に篠山丹三を御所へ連れてくるように命じ、彼は頼朝の近侍として召しかかえられる事となった。

 建久元(1190)年11月7日、頼朝は多数の御家人を随兵として上洛を果たした。胤信のことは記されていないが、殿陣の千葉介常胤「以子息親類等為隨兵」とあるので、胤信もそこに含まれているのだろう。12月5日、頼朝は石清水八幡宮を参詣したが、民部卿・吉田経房に馬を献上した際、八田右衛門尉知家胤信が頼朝の使者として遣わされた。

 千葉介常胤は奥州藤原氏との戦いの功績によって正治2(1200)年、奥州各地に所領が与えられた。この中から胤信陸奥国好島庄(福島県いわき市)の預所職が譲られており、承元元(1208)年、この「好島庄預所職」を東庄・西庄に二分して、「好島東庄」を嫡子・通信へ、「好島西庄」は 四男・胤村に譲った。

●大須賀保相続の図

大須賀常継――<没収>―→頼朝――<恩賞>―→常胤――<譲与>―→胤信

●奥州好嶋庄相続の図

源頼朝――――<恩賞>―→常胤――<譲与>―→胤信――<分与>―+―(東庄)→通信
       
                         |
                                |
                                +―(西庄)→胤村

 胤信は他の子供たちにも香取郡の所領を譲っていて、小四郎胤村には埴生庄荒海村(成田市荒海)を、七郎重信には奈古谷村(成田市奈古谷)が、八郎範胤には成毛村(成田市成田町成毛)が、九郎行重には滑川村(成田市滑川)周辺が分与された。

北条時政―+―北条政子
     |  ∥――――源実朝
     | 源頼朝
     |
     +―北条義時――北条泰時
     |
     +―北条時子
     |  ∥――――足利義氏
     | 足利義兼
     |
     +―娘
       ∥―――――畠山重保
      畠山重忠

 元久2(1205)年6月22日、北条時政は 、彼の後妻・牧ノ方の願いを受けて畠山次郎重忠一族を討つ計画を実行に移した。重忠の嫡男・六郎重保が、牧ノ方の聟・平賀右衛門佐朝雅と対立していて、牧ノ方に畠山親子を讒言したことから、時政は武蔵国の最大の御家人でもあった畠山氏を討っておくにしかずと、畠山一族追討を画策した。ちなみに重保は時政の実の孫でもある。

 時政は、鎌倉に謀反人が出たと称して武蔵在国だった重忠のもとに遣いを送る一方で、鎌倉の畠山邸にいた重保には謀反人追討のために兵を出すよう命じた。重保はただちに郎従三騎を率いて由比ヶ浜を駆けたが、ここで北条時政の命を受けた三浦兵衛尉義村の軍勢に突如行く手を阻まれ討ち取られた。さらに時政は嫡子・北条小四郎義時に命じて、重忠追討の軍勢を催促した。胤信は一族とともに後陣を任された。

●畠山重忠追討軍(『吾妻鏡』に記された人物のみ)

総大将 北条相模守義時(大手大将軍)、北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛(関戸大将軍)
先陣 葛西兵衛尉清重
中軍か 足利三郎義氏 小山左衛門尉朝政 三浦兵衛尉義村 三浦九郎胤義 長沼五郎宗政
結城七郎朝光 宇都宮弥三郎頼綱 筑後左衛門尉知重 安達藤九郎右衛門尉景盛 中条藤右衛門尉家長
中条苅田平右衛門尉義季 狩野介入道 宇佐美右衛門尉祐茂 波多野小次郎忠綱 松田次郎有経
土屋弥三郎宗光 河越次郎重時 河越三郎重員 江戸太郎忠重 渋河武者所
小野寺太郎秀通 下河辺庄司行平 薗田七郎 大井兵衛次郎実春 品川三郎清実
春日部、潮田、鹿島、行方、小栗、兒玉、横山、金子、村山党
後陣 境平次兵衛尉常秀大須賀四郎胤信国分五郎胤通相馬五郎義胤東平太重胤

 建暦2(1212)年正月19日、将軍・実朝が鶴岡八幡宮へ参詣した際、北条義時以下有力御家人14名が供奉している。実朝はまず胤信を召し出して御調度を懸くことを命じたが、胤信はこれを「下劣の職」と感じて固辞した。これに実朝は烈火の如く怒り、

「当役においては、右大将家の御時、二十の箭をもつて廿人の敵を射取るべきの者候ずべきの由、仰せ定められをはんぬ。しかればこれを奉る勇士の面目を備ふべきのところ、下劣の職と称して遁避の條、はなはだ自由なり。早く出仕を止むべし」

胤信の御所出仕を禁じた。その後、胤信は記録に現れなくなる。

 建暦3(1213)年5月の「和田義盛の乱」では、鎮圧後の5月7日、恩賞として甲斐国井上庄が与えられた。

 大須賀家菩提寺の宝応寺に伝わる『宝応寺過去帳』によれば、建保3(1215)年9月16日に没したという。法名は宝応寺殿全雄英真大居士

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   建保3(1215)年 四郎左衛門尉 寶應寺殿全雄英信大居士
『寶應寺大須賀系図』     四郎左衛門 英眞幽喜
『大須賀家蔵系図』   25歳にて無官で没する 四郎 英眞幽儀

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大須賀通信(????-????)

 大須賀家二代惣領。父は初代・大須賀四郎胤信。通称は太郎。官途は左衛門尉

 鎌倉幕府に仕え、源頼朝・頼家・実朝の将軍家三代に奉仕した。建暦3(1213)年5月の「和田義盛の乱」はじめ、承久3(1221)年5月にはじまった「承久の乱」で活躍がみられる。承久の乱の功績によって恩賞を与えられた。

 通信の代から下総国香取郡大須賀保に松子城を築いて本拠としたとされるが、松子城が築かれたのは時代の下った室町時代以降と考えられ、鎌倉から室町期まで、大須賀氏が本拠としたのは助崎付近(下総町)と考えられる。大須賀一族の古い分流が領した「幡谷」「水掛」「荒海」「成毛」「小泉」「名古屋」「七澤」「小浮」「滑川」などがいずれも助崎周辺に集中してある事に加え、助崎の北隣に「大菅」「西大須賀」といった地名がある事からも、鎌倉期の大須賀氏は助崎を本拠としたことは間違いないだろう。

 父・胤信が祖父・千葉介常胤より譲られた陸奥国好島庄(福島県いわき市)の預所職は、承元元(1208)年、胤信の手によって東庄・西庄と二分され、そのうち「好島東庄」が通信へ継承され、「好島西庄」は二男・胤村が継承することとなった。

建保2(1214)年7月27日、大雨の中で大倉大慈寺(新御堂)供養が執り行われた。将軍・実朝の随兵として、従兄弟の東平太所重胤とともに名が見える。

 建保7(1219)年正月27日、実朝右大臣拝賀の鶴岡八幡宮参詣の日は日中は曇り、夜に入って大雪となるあいにくの天気だった。実朝は酉の刻(午後六時)になって邸を出立し、一千余騎の随兵を率いて鶴岡八幡宮へ参詣した。

●鶴岡八幡宮参詣に供奉した人物(『吾妻鏡』に記された人物)

  居飼四人(退紅縫越の手下)、舎人四人(柳裃平礼)
  菅野景盛(将曹)、狛 盛光(府生)、中原成能(将曹)
・殿上人
(二列)
一条侍従能氏 伊予少将藤原実雅 兵衛佐藤原頼経 右馬権頭頼茂 中宮権亮信能
一条大夫頼氏 一条少将能継 前因幡守源師憲 伊賀少将隆経 文章博士源仲章
  前駈笠持        
・前駈
(二列)
藤原匂当頼隆 平匂当時盛 前駿河守中原季時 左近大夫朝親 相模権守経定
蔵人大夫以邦 右馬助藤原行光 蔵人大夫邦忠 右衛門大夫時広 前伯耆守親時
前武蔵守義氏 北条相模守時房 蔵人大夫重綱 左馬権助範俊 右馬権助宗保
蔵人大夫有俊 前筑後守頼時 武蔵守親広 修理権大夫源惟義 北条右京権大夫義時
・官人 秦兼峰、下毛野敦秀(各々、白狩袴、青脛幅、狩胡箙を負う)
・御車 右大臣源実朝        
・車副 四人(平礼、白袴)、牛童一人        
・随兵
(二列)
小笠原次郎長清
(小桜)
武田五郎信光
(黒糸)
伊豆左衛門尉頼定
(萌黄)
隠岐左衛門尉基行
(紅糸)
大須賀太郎道信(藤)
式部大夫泰時
(小桜)
秋田城介景盛
(黒糸)
三浦小太郎時村
(萌黄)
河越次郎重時
(紅糸)
萩野次郎景員
(藤)
⇒各々甲持一人、張替持一人、傍路に前行。しかし景盛は張替持たず。
・雑色 雑色二十人(皆平礼)        
・検非違使 加藤大夫判官景廉(束帯、平鹿蒔太刀、舎人一人、郎従四人、調度懸、小舎人童各々一人、
看督番二人、火長二人、雑色六人、放免五人)
・御調度懸 佐々木五郎左衛門尉義清        
・下臈
 御随身
秦公氏 秦兼村 播磨貞文 中臣近任 下毛野敦光
下毛野敦氏        
・公卿
⇒各々乗車
坊門新大納言忠信
(前駈五人)
西園寺左衛門督実氏
(随身四人)
宰相中将国通
(随身四人)
八条三位光盛 刑部卿三位宗長
・後陣随兵 加藤左衛門大夫光員 二階堂隠岐守行村 浅沼民部大夫広綱 葛西壱岐守清重 関左衛門尉政綱
布施左衛門尉康定 小野寺左衛門尉秀道 伊賀左衛門尉光季 天野左衛門尉政景 武藤左衛門尉頼茂
伊東左衛門尉祐時 足立左衛門尉元春 市川左衛門尉祐光 宇佐美左衛門尉祐長 後藤左衛門尉基綱
宗左衛門尉孝親 中条左衛門尉家長 佐貫左衛門尉広綱 伊達右衛門尉為家 大江右衛門尉範親
紀右衛門尉実平 宮内兵衛尉公氏 若狭兵衛尉忠季 網島兵衛尉俊久 東兵衛尉重胤
土屋兵衛尉宗長 境兵衛尉常秀 狩野七郎光広

 

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

 しかし、夜になって拝賀式が終った直後、拝殿の前で実朝と随っていた源仲章めがけて、鶴岡八幡若宮別当・阿闍梨公暁らが抜刀して斬りかかった。公暁は実朝の実兄・頼家の遺児で、実朝からみると甥にあたる人物である。公暁は若いうちに鶴岡八幡宮若宮に預けられ、将軍職とは関わりのない存在ではあった。しかし、頼家が北条時政の手先と思われる刺客に伊豆国田方郡の修善寺で討たれたことを、公暁は実朝が仇であると思うようになったようで、実朝に斬りつけた際には「父の敵を討つ」と叫んだと『吾妻鏡』に記されている。こsののち、公暁はふっつりと姿を消しまたが、三浦義村の配下であった長尾定景・景茂・胤景がねじ伏せて討ち取っている。

 安貞2(1228)年7月23日、四代将軍・藤原頼経三浦駿河前司義村田村山荘(平塚市田村)を遊覧のために訪れた際、随兵として多数の御家人が参列したが、この中に「大須賀左衛門尉」の名が見える。この「大須賀左衛門尉」は通信の弟・多部田胤秀とされているが、実は通信か。

 天福2(1234)年7月29日、二代将軍・頼家の娘で四代・藤原頼経の正妻となっていた竹之御所が、産後に亡くなる悲劇があり、このことに伴なって御家人二十名ほかあまたの出家者を出すことになった。その御家人中に「をゝすか左衛門」の名が見えることから(『明月記』)、通信はこの時に出家遁世したのだろう。

 出家の二年後、嘉禎2(1236)年6月13日に没したと伝えられている(『宝応寺過去帳』)。法名は通信院殿如覺浄意大居士

 伝えられる通信の死から二か月後の嘉禎2(1236)年8月4日、将軍・藤原頼経が若宮大路新御所へ移った際、その供奉人の中に、通信の弟・胤秀と思われる「大須賀次郎左衛門尉」が参加している。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   嘉禎2(1236)年 太郎左衛門尉 通信院殿如覺浄意大居士
『寶應寺大須賀系図』     太郎左衛門尉  
『大須賀家蔵系図』 長寛2(1164)年? 建保3(1215)年 52歳 刑部大輔 道眞大居士

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大須賀胤氏(????-????)

 大須賀家三代惣領。父は大須賀通信。母は不明。通称は左衛門次郎。官途は左衛門尉

 父・通信の死後、胤氏が大須賀家の惣領を継いだと思われるが、暦仁元(1238)年2月17日の時点では「大須賀左衛門次郎」と称していて、まだ任官していないことがわかる。この日の子の刻(午後十時頃)、頼経ら幕府一行は京都へ到着。六波羅に新造された御所へ入った。このとき「駿河前司随兵 以家子三十六人為随兵」のなかに「大須賀八郎」の名が見える。大須賀八郎は胤信の八男・成毛八郎範胤のことで、兄・大須賀七郎重信とともに三浦氏と結びついていた形跡がある。

 仁治2(1241)年1月14日、将軍家の鶴岡八幡宮への参詣に供奉した諸士の中に「大須賀六郎左衛門尉」の名が見えるが、胤氏の弟の大須賀六郎左衛門尉為信か。8月25日の北斗堂供養では、最末に列した随兵十二騎の一人として「大須賀七郎左衛門尉重信」の名が見える。

 寛元2(1244)年8月14日、鶴岡八幡宮の放生会に際して、大殿・藤原頼経、将軍・藤原頼嗣に供奉した御家人の中に、「大須賀左衛門尉胤氏」があり、暦仁元(1238)年2月17日の上洛以降、鶴岡八幡宮放生会までの6年の間に「左衛門尉」に任官したことがわかる。さらに絞り込むと、仁治2(1241)年11月4日、将軍・頼嗣は武蔵野開発の御方違えのため、秋田城介義景の武蔵国鶴見庄の館に移った。その際の供奉人として「大須賀左衛門尉」が見えるが、彼が胤氏だとすると胤氏が左衛門尉に任官したのはこの年までということになる。

 寛元3(1245)年10月16日、漏刻博士泰継という殺人犯が、去る9月26日から上総権介秀胤に召し預けられていたが、今日上総国に下された。また、同類の大膳権亮孝俊は、大須賀七郎左衛門尉(重信)が相具して下野国に召し連れられた。

 11月3日の将軍・藤原頼嗣の上洛時にも、上総権介秀胤千葉次郎泰胤相馬五郎義胤東素暹入道ら一族とともに随兵として参列した。

 北条氏と三浦氏との戦いである「宝治合戦」では、三浦方とされた秀胤(三浦泰村の妹聟)の追討も行われることとなり、宝治元(1247)年6月6日、胤氏東素暹入道にその追討が命じられた。胤氏東素暹からみれば、秀胤は宗家に近い一族であり、幼い宗家・頼胤の後見人筆頭、さらに東素暹とは縁戚関係でもあったため、あまり士気も上がらなかったと思われるが、軍勢を率いて上総国一宮の大柳館を囲んだ。

 秀胤はかねてから館の外に薪を積み重ねており、館を囲まれるや薪に火を放ち、その猛火は人馬も通れないほど灼熱の空間を作り出した。上総国の豪族も胤氏素暹の軍勢に加わっており、数百騎にも及ぶ軍勢であったと考えられるが、その炎が熾(さかん)であったために手出しができず、胤氏らはときの声をあげて矢を射かけた。これに館内の馬場から返しの矢が射られるといったさしたる戦いもないままに、秀胤一族は読経して自害して果てた。さらに館に火をかけたため、館内外の炎に煽られた幕府勢はそのまま数十町先まで退き、敢えて首を取ることはないと、そのまま鎌倉へと帰還した。

●宝治元(1247)年6月6日、7日『吾妻鏡』(『全訳吾妻鏡』)

六日 丁亥

上総権介秀胤を討ち捕らふるべきの旨、大須賀左衛門尉胤氏東中務入道素暹等に仰付らる。秀胤は泰村が妹聟たるによつて也、また、武蔵国六浦庄内に餘党人等群居の由、風聞するの間、領主陸奥掃部助実時に仰せ、家人等を差し遣はすの上、薩摩前司祐長、小野寺小次郎左衛門尉通業、同じく御旨を含みて、これを追捕せんが為に行き向ふと雖も、その実無きによつて、各々帰参すと云々
今日、逆党の首級実検に及ぶと云々、光村、家村が首、頗る御不審ありて未だ一決せられずと云々、また大倉次郎兵衛尉、武蔵国に発向す、残卒の隠居する処を尋ね求めんが為なり

七日 戊子

胤氏、素暹等、秀胤が上総国一宮大柳の舘を襲ふ、時に当国の御家人、雲霞の如く起こりて合力を為す。秀胤、兼ねて用意するの間、炭薪等を舘の郭外の四面に積み置き、皆ことごとく火を放つ、その焔、はなはだ熾にして、人馬の通るべき道にあらず、よつて軍兵轡を門外に安んじ、わづかに時の声を造りて矢を放つ、ここに敵軍馬場の辺に出逢ひて、答の箭を射る、この間、上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、心静かに念仏読経等の勤めに凝らし、各々自殺す、その後、数十宇の舎屋に同時に放火す。
内外の猛火混じて半天に迸る、胤氏以下の郎従等、その熾なる勢に咽び、還つて数十町の外に遁避し、敢へてかの首を獲るにあたわずと云々、また下総次郎時常、昨夕よりこの館に入り籠りて、同じく自殺せしむ、これ秀胤が舎弟なり、亡父下総前司常秀が遺領垣生庄を相伝するの處、秀胤が為に押領せらるるの間、年来鬱陶を含むといへども、この時に至りて、死骸を一席に並ぶ、勇士の美談する処なり、そもそも泰村誅罰のこと、五日午刻、当国の聴に通ずと云々。

◆宝治合戦時の千葉氏略系譜■:宝治合戦で幕府方■:宝治合戦で三浦方■:東素暹によって助命された子ども

千葉介常胤―+―千葉介胤正――+―千葉介成胤 +―埴生時常―――――男子(4歳)
      |        |       |(次郎)    
      |        |       |        
      |        +―堺常秀―――+―千葉秀胤―――+―千葉時秀    +―男子(5歳)
      |         (平次兵衛尉) (上総権介)  |(式部大夫)   |
      |                         |         |
      +―大須賀胤信――+―大須賀通信―――大須賀胤氏  +―千葉政秀――――+―男子(3歳)
      |(四郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)(次郎左衛門尉)|(修理亮)
      |        |                |
      |        +―大須賀重信          +―千葉景秀
      |        |(七郎左衛門尉)        |(六郎)
      |        |                |
      |        +―大須賀範胤          +―男子(1歳)
      |         (八郎左衛門尉)        |
      |                         +―千葉泰秀
      |                          (五郎左衛門尉)
      |                           ∥―――――――――男子(1歳)
      +―東胤頼――――――東重胤――――――東胤行―――――娘
       (六郎大夫)   (平太)     (素暹入道)

 東素暹入道は娘を秀胤の三男・上総泰秀に嫁がせていて、その間に一歳になる男の子があった。6月11日、素暹は執権・北条時頼のもとへ出向いて、みずからの功績に代えて自らの孫のみならず、秀胤の孫や甥sの助命歎願をし、17日にはその必死の訴えが実を結んで子どもたちは幕府へ召還され、時頼の実検ののち、千葉一族に預けられた。

 この翌年、泰秀の子が2歳になると陸奥国五戸郷鹿内への流罪が決まり、その護衛として大須賀七郎景氏国分行泰らが従ったというが不明。彼らの子孫は現在も青森県内に続いているという。

 一方、宝治合戦では三浦氏の「家子」となっていた大須賀重信大須賀範胤(三浦氏の家人)の両名が三浦方に属しており、重信・範胤両名は6月5日に法華堂合戦から行方をくらまし、重信はそのまま逐電、範胤は6月13日に捕らえられたが、おそらく赦されており、子孫が続いている。

 建長4(1252)年4月3日、御格子番の五番に「大須賀次郎左衛門尉胤氏」として名を連ねている。

●御格子番

足利三河前司頼氏 安達城九郎泰盛 相模八郎時隆 足利上総三郎満氏 長井蔵人泰元
二階堂隠岐三郎左衛門尉行氏 伊賀次郎左衛門尉光房 薩摩七郎左衛門尉祐能 大須賀次郎左衛門尉胤氏 豊後三郎左衛門尉忠直
山内首藤左衛門尉成通         

 同年9月25日の鶴岡八幡宮の仁王会に供奉人として参列。同列に「東中務丞胤重」が連なっている。同年11月11日、将軍家が新御所へ移る際にも供奉人として参列。おなじく海上弥次郎胤景が列した。同20日には、将軍家の北条陸奥守重時の屋敷への御渡には、相馬左衛門尉胤村武石四郎胤氏とともに参列、同年12月17日の将軍家の鶴岡八幡宮への参詣に際しては、海上胤景とともに供奉した。

 建長8(1256)年8月15日、将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮放生会御参に「大須賀左衛門四郎」なる人物が参列している。後陣には千葉介頼胤大須賀胤氏武石胤氏らが参列している。大須賀左衛門四郎は、おそらく胤氏の四男のことであろうと考えられるが、実名は不明。

 弘長3(1263)年、胤氏入道信蓮「神四郎法師了義(諏訪氏?)」へ「大須賀保内毛成・草毛両村」を沽却したが、彼はこれ以前に両村を「本間四郎左衛門尉」に二十年を限って質入していた。この事実を知った法師了義が異議を申し立てたため、胤氏入道は翌文永元(1264)年、「陸奥国好嶋荘紙谷郷」を両村の替地として法師了儀に与えた。しかし約束の二十年が過ぎたため、本間四郎左衛門尉毛成村を、胤氏入道が沽却した相手・了義へ返却し、了義は正応2(1289)年に毛成・草毛両村を円覚寺に寄進した(『円覚寺文書』)

 両村の替地として法師了儀には好嶋荘内紙谷郷が与えられたにも関わらず、了義は好嶋荘内紙谷郷と引き換えに手放したはずの「大須賀保内毛成・草毛両村」を自らの所領として円覚寺に寄進しているとして、延慶元(1308)年、子孫の大須賀時朝と円覚寺雑掌が相論をしている。この両村の訴訟沙汰は、永享年中(1429-1441)まで続いた。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   建治2(1276)年 次郎左衛門尉 修福院殿實性信蓮大居士
『寶應寺大須賀系図』     次郎左衛門尉 信蓮
『大須賀家蔵系図』 元久元(1204)年 安貞元(1227)年 24歳 次郎左衛門尉 信蓮居士

 

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大須賀朝氏(????-????)

 大須賀家四代惣領。父は大須賀胤氏。母は不明。官途は左衛門尉

 建長2(1250)年1月16日の将軍家鶴岡八幡宮御参の供奉人に「大須賀左衛門尉朝氏」として登場するのが初見(『吾妻鏡』)

●鶴岡八幡宮参詣供奉人(『吾妻鏡』建長二年正月一日条)

供奉人
布衣
前右馬権頭政村 尾張前司時章 武蔵守朝直 備前前司時長
陸奥掃部助実時 宮内少輔泰氏 遠江左近大夫将監時兼 佐渡前司基綱
小山出羽前司長村 大蔵権少輔景朝 新田参河前司頼氏 前太宰少貳為佐
秋田城介義景 壱岐前司泰綱 安藝前司親光 能登左近大夫仲時
内藤肥後前司盛時 薩摩前司祐長 城九郎泰盛 大曽祢左衛門尉長泰
上野三郎左衛門尉広綱 武藤左衛門尉広頼 出羽次郎左衛門尉行有 筑前次郎左衛門尉行頼
和泉次郎左衛門尉行章 遠江次郎左衛門尉光盛 遠江六郎左衛門尉時連 伊賀次郎左衛門尉光房
式部六郎左衛門尉朝長 大須賀左衛門尉朝氏 肥後次郎左衛門尉忠綱 伊東次郎左衛門尉時光
三村新左衛門尉親時 弥善左衛門尉康義 豊後四郎左衛門尉忠綱 伊東次郎左衛門尉
宇佐美籐内左衛門尉祐泰 足立太郎右衛門尉直光 長三郎左衛門尉朝連 常陸次郎兵衛尉行雄
和泉五郎左衛門尉政泰 小野寺新左衛門尉行通    
供奉人
直垂
上野十郎朝村 波多野小次郎宣経 遠江十郎頼連 小野澤次郎時仲
摂津新左衛門尉 備後次郎兵衛尉 土肥四郎実綱 隠岐新左衛門尉時清
加地五郎次郎章綱 梶原左衛門尉景綱    

 康元元(1256)年6月29日に行われた鶴岡八幡宮放生会で「大須賀次郎左衛門尉(胤氏)」とともに参列した「大須賀新左衛門尉」も朝氏であろうと思われる。

 翌月17日に宗尊親王の最明寺参詣の際の供奉人に、将軍の網代車に随う随兵として「大須賀左衛門四郎朝氏」として登場するが、正嘉2(1258)年6月17日、恒例の放生会の随兵として千葉介頼胤武石三郎左衛門尉朝胤風早太郎左衛門尉常康千葉七郎太郎師時相馬次郎兵衛尉胤継相馬五郎左衛門尉胤村ら一族とともに「大須賀新左衛門尉朝氏」「大須賀左衛門四郎」がこれに参列していることが記されており、「新左衛門尉」と「左衛門四郎」は別人ということとなる。おそらく左衛門四郎は朝氏の子・四郎胤泰であると推測される。

 文応元(1260)年7月6日、和泉前司行方(二階堂和泉前司入道道照)は得宗・北条時頼の代官として、北条重時・北条時宗両名に、去年の随兵催促の時、大須賀朝氏・阿曽沼光綱は勝手に欠席し、光綱は子息五郎をもって、朝氏は弟・五郎左衛門尉信泰を代官に立てたことに対し、どのような子細にあるものか尋ねている。これはそれぞれ子細があり、幕府に提出しているとして時宗らが申し開き、事なきを得た。

 同年11月27日、鶴岡八幡宮の放生会に、千葉介頼胤以下、武石新左衛門尉長胤大須賀五郎左衛門尉信泰らとともに参列した。

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   正安2(1301)年 新左衛門尉 透玄院殿徹心朝公大居士
『寶應寺大須賀系図』 建仁元(1201)年 建治元(1275)年 75歳 式部大夫 信圓
『大須賀家蔵系図』 仁安元(1166)年 仁治元(1240)年 75歳 式部大輔 善山居士

 

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大須賀宗胤(????-????)

 四代・大須賀左衛門尉朝氏の嫡男。通称は太郎

 比較的古い『神代本千葉系図』『徳嶋本千葉系図』には朝氏の長男「太郎宗胤」の名があり、彼は将軍・宗尊親王より偏諱を受けて宗胤を称したと思われる。

 建長4(1252)年8月1日、宗尊親王が征夷大将軍の任を受けた御礼として鶴岡八幡宮へ参詣したが、このときの供奉人の中に「大須賀左衛門太郎」の名が見えるが、この「左衛門太郎」が宗胤であると推測される。しかしこの後、宗胤に関する記述は無く、亡くなってしまったと思われる。


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大須賀時朝(????-????)

 大須賀家五代惣領。父は大須賀左衛門尉朝氏。母は不明。通称は次郎。官途は左衛門尉

 兄・宗胤が早世してしまったため、二男の次郎が家督を継ぐこととなり、北条時宗より「時」字を偏諱されて「時朝」を称したと思われる。

 弘長3(1263)年、時朝の祖父・大須賀胤氏入道信蓮「神四郎法師了義(諏訪氏?)」へ沽却したが、これ以前に両村を「本間四郎左衛門尉」に20年を限って質入していた。これを知った法師了義が異議を申し立てたため、胤氏入道は文永元(1264)年、「陸奥国好嶋荘紙谷郷」を両村の替地として法師了儀に与えた。しかし約束の20年が過ぎたため、本間四郎左衛門尉毛成村を、胤氏入道が沽却した相手・了義へ返却し、了義は正応2(1289)年に毛成・草毛両村を円覚寺に寄進してしまった(『円覚寺文書』)

 両村の替地として法師了儀には好嶋荘内紙谷郷が与えられたにも関わらず、了義は「大須賀保内毛成・草毛両村」を所領として円覚寺に寄進しているとして、延慶元(1308)年、「大須賀保内毛成・草毛両村」をめぐって、時朝と円覚寺雑掌が相論をしている。この両村の訴訟沙汰は、永享年中(1429-1441)まで百年以上も続いた。

●大須賀氏略系図『神代本千葉系図』

⇒大須賀胤信――通信――――――胤氏―――――朝氏――――――宗胤
(四郎)   (左衛門尉)  (左衛門次郎)(左衛門尉)  (太郎)

●大須賀氏略系図『香取田所家蔵千葉系図断簡』

⇒大須賀胤信――通信――――――胤氏―――――朝氏――――――時朝―――――――宗朝
(四郎)   (太郎左衛門尉)(二郎左衛門)(新左衛門入道)(二郎左衛門入道)(太郎左衛門尉)

■大須賀家想像略系図■

 大須賀胤信――通信――――――朝氏―――+―宗胤
(四郎)   (太郎左衛門尉)(左衛門尉)|(太郎)
                     |
                     +―時朝――――――宗朝――+―宗時
                      (次郎左衛門尉)(下総守)|(下総次郎)
                                   |
                                   +―宗信―――憲宗
                                    (越後守)(左馬助)

書名 生年 没年 通称 法名
『宝応寺過去帳』   嘉暦3(1328)年 二郎左衛門尉 義雲院殿 忠覺禪信大居士
『寶應寺大須賀系図』     次郎左衛門尉 禅信
『大須賀家蔵系図』 文永8(1271)年 正和元(1312)年 42歳 下総守 信宗居士

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