千葉氏胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉氏胤(1337-1365)

生没年 延元2(1337)年5月11日?~貞治4(1365)年9月13日
千葉介貞胤
曽谷教信入道日礼姪(法頂尼)?
新田左中将義貞女子
官位 不明
官職 下総権介?
役職 下総国守護職
伊賀国守護職:観応2(1351)年免
上総国守護職〔1〕:観応3(1352)年任~文和4(1355)年5月8日免
上総国守護職〔2〕:康安2(1362)年任~貞治3(1364)年免
所在 下総国千葉庄
法号 常珍月渓殿氏徹貴運其阿弥陀仏
墓所 千葉山海隣寺?

 千葉氏十二代。父は千葉介貞胤。母は曽谷教信入道日礼姪・法頂尼曾谷氏の項)と伝わるが傍証はなく不明。

氏胤の花押
氏胤花押

 延元2(1337)年5月11日、京都に生まれたという。兄の新介一胤が氏胤誕生の前年に京都三条河原合戦「義貞一人当千の船田入道、由良左衛門尉を始として千余人討ち取らる(『梅松論』)たことから、生まれながら嫡子とされ、先例に従って千葉新介を称したのだろう。元服時に足利尊氏の偏諱「氏」をうけて「氏胤」を称したと思われる。

 氏胤は京都で生まれ育ったためか京文化に興味を示し、千葉一族で二条流歌人の東中務丞常顕の門人となって歌道に執心し『新千載和歌集』に歌が選ばれている。

 題知らず   平氏胤
 人しれすいつしかおつる涙河わたるとなしに袖ぬらすらん

 康永4(1345)年8月16日、「後醍醐院聖忌也」として、「於天龍寺有御仏事」が執り行われた(貞和元年八月十六日『師守記』)。いまだ落慶供養前ではあるが、七回忌日に合わせて法要が執り行われている。この儀には将軍尊氏と武衛直義がそろって参列し、導師は開山夢窓疎石が行ったとみられる。また、同日には建仁寺においても「関東将軍守邦親王十三廻」のための「千僧供」が挙行されている(貞和元年八月十六日『師守記』)

 その翌17日には小除目が執り行われている。これも仏事に伴う除目とみられ、「天龍寺造営功」といった「多武家吹挙之輩也」(「光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』)といい、足利家から推挙した人々が多く任官叙位したとみられる。

●康永四年八月十七日任官除目(光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』) 

任官 名前 成功
中務丞 源盛義
中原師綱
天王寺造営功
法勝寺造営功
侍従 源定具
藤原季持
 
縫殿権助 小槻兼治  
民部少輔 源義宗(里見義宗)  
民部丞 源行泰 祇園社遷宮神宝功
刑部丞 源師義(佐竹師義) 天龍寺造営功
掃部允 藤原盛祐 天龍寺造営功
弾正忠 藤原頼明 天龍寺造営功
山城守 源高邦  
大和権守 藤原弘員  
遠江守 平行連(三浦行連) 天龍寺造営功
出羽守 平直重(河越直重) 天龍寺造営功
能登守 藤原親能  
丹後権守 藤原直盛 東大寺八幡宮神輿造替功
備前守 藤原秀長(中條秀長)  
阿波権守 源武光 正親町長講堂修造功
左近少将 源具信  
左近将監 平繁邦
平忠継
藤原能教
天龍寺造営功
右近少将 藤原基敦  
右近将監 藤原教宣
大江成房
源氏範
藤原祐熈(伊藤祐熈)
三善康直


天龍寺造営功
天龍寺造営功
天龍寺造営功
左兵衛尉 藤原知範
藤原教貞
 
左馬助 藤原朝房(上杉朝房) 天龍寺造営功
右馬権頭 源国氏(畠山国氏)  

●康永四年八月十七日叙位(光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』) 

叙位 名前 任官(再掲)
正五位下 藤原経春
源家兼(足利家兼)
藤原定頼
源貞家(吉良貞家)
源和義(石橋和義)
 
従五位上 源具通
藤原基数
源秀綱(佐々木秀綱)
※秀綱は25日叙
 
従五位下 藤原輔忠
藤原仲秀
藤原直盛
平行連(三浦行連)
源武光
平直重(河越直重)
藤原朝房(上杉朝房)
源義宗(里見義宗)
源行康


丹後権守
遠江守
阿波権守
出羽守
左馬助
民部少輔
民部丞

 左大臣公賢は16日夜に「大外記師利、師茂」から除目に関する聞書を受け取っており、ここで先例にない「丹後権守」につき「丹後権守被任、当国無権守、為何様哉云々(貞和元年八月十七日『園太暦』)と足利政権側の強引なやりかたに怒りつつも、「武家功人挙申之間、無力被任云々」と、武家方の成功人への任官吹挙につき、本来存在しないポストながら、充行ないわけにはいかないというジレンマを抱いている。これは師茂弟で除目参陣が指示された少外記中原師守も17日朝に聞書を見て、まず「丹波権守被任之、而此国無権守、仍以御状被伺申洞院左府」と、不審に思いすぐに左大臣公賢に伺いを立てている(貞和元年八月十七日『師守記』)。公賢は昨晩の不審から思い立った「依武家挙無左右被任、後日定被改任他国歟」という思案を伝えている。師守も「武家無沙汰之至、為之如何」と激怒している。

 そして、8月29日、風も穏やかな秋晴れに天龍寺の落慶供養が執り行われた。先陣の随兵には東下総中務丞(東常顕)粟飯原下総守(粟飯原清胤)が連なり、後陣の随兵に「千葉新介」が見える(『結城文書』)。このとき氏胤は九歳であったが、この年は下総国香取社の造営事業があり、父・千葉介貞胤は上洛が免ぜられ(鎌倉期においても香取社造営時の上洛は免じられた例がある)、在京の氏胤が代理を務めたのだろう。なお、康永4(1345)年3月の『造営所役注文』によれば、貞胤の所役は「正神殿」「若宮(吉橋郷分)」「一鳥居(印東庄役)」とあり、下総守護職であった貞胤は香取社の中枢部分を担当したことがうかがえる。

●天龍寺落慶供養参列者(『結城文書』天龍寺供養日記:『大日本史料』所収) ※千葉一族は太字

先陣 山名伊豆前司時氏…帯甲冑、後騎三百余騎、各帯甲冑、召具守護分国輩等
随兵
引馬二疋
・銀鞍
・総鞦
武田伊豆前司信武、小笠原兵庫助政長、戸次丹後守頼時、伊東大和八郎左衛門祐熈、土屋備前権守教遠
東下総中務丞常顕、佐々木佐渡四郎左衛門尉秀宗、佐々木近江四郎高秀、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、吉良上総三郎、高刑部大輔師兼
帯剣(左) 武田伊豆四郎、佐竹刑部丞師義、小笠原十郎次郎政光、三浦駿河次郎左衛門尉藤村、二階堂美作次郎左衛門尉政直、佐々木佐渡五郎左衛門尉高昌、海老名尾張六郎季直、逸見八郎貞有、設楽五郎兵衛尉助定、寺岡兵衛五郎師春、逸見又三郎師満、小笠原源蔵人、佐々木出羽四郎兵衛尉、富永孫二郎左衛門尉、清久左衛門次郎泰行、曾我左衛門尉師助
帯剣(右) 小笠原七郎政経、佐々木信濃五郎直氏、小笠原又三郎宗光、三浦越中次郎左衛門尉、二階堂対馬四郎左衛門尉、佐々木佐渡四郎高秋、平賀四郎忠経、小笠原太郎次郎行継、設楽六郎助兼、設楽二郎、逸見源太郎清重、秋山新蔵人、佐々木近江二郎左衛門尉清氏、宇佐美三河三郎、木村長門四郎基綱、伊勢勘解由左衛門尉貞継
御兄弟御車
小八葉
足利尊氏(将軍家)、足利直義(三条殿)
役人将軍家 南遠江守(剣)、長井大膳権大夫(沓)、佐々木源三左衛門尉(調度)、和田越前守(笠)
役人三条殿 播磨前司(剣)、長井治部少輔(沓)、佐々木筑前三郎左衛門尉(調度)、千秋三河左衛門大夫(笠)
布衣 武蔵守(高師直)、弾正少弼(上杉朝定)、伊豆守(上杉重能)、越後守(高師泰)、伊予権守(高重成)、上杉左馬助(上杉朝房)
随兵 尾張左近大夫将監氏頼、千葉新介、二階堂美濃守行通、山城三郎左衛門尉行光、佐竹掃部助師義、佐竹和泉守義長、武田甲斐前司盛信、伴野出羽前司長房、三浦遠江守行連、土肥美濃権守高真
直垂 土佐四郎、里見民部少輔、安芸守、山城守、大平四郎左衛門尉、摂津右近蔵人、水谷刑部少輔、長井丹後左衛門大夫、長井修理亮、佐々木能登前司、佐々木豊前権守、中条備前守、美作守、町野加賀守、武田兵庫助、武田八郎、大内民部大夫、結城大内三郎、田中下総三郎、狩野下野三郎左衛門尉、島津下野守、土屋三河権守、薗田美作権守、梶原河内守、安保肥前権守、小幡右衛門尉、疋田三郎左衛門尉、寺岡九郎左衛門尉、寺尾新蔵人、須賀左衛門尉、赤松美作権守、須賀二郎左衛門尉
後陣 大高兵庫助…諸人後騎以下各扈従

観応の擾乱

 氏胤が千葉家政を執るようになった頃は、将軍足利尊氏嫡子の宰相中将義詮及び執事の高武蔵守師直一族と、尊氏の実子で九州在陣中の足利左兵衛佐直冬が激しく対立していた。直冬は養父の左兵衛督直義が高師直との間の対立から天下執権を失って引退させられたことに、師直専横の糾弾のためか、九州において師直一党の討伐を声高に挙げた。

 直義と師直との軋轢は、南朝の興国3(1342)年7月3日、北畠親房入道が結城親朝へ下した御教書には「京都凶徒作法以外聞、直義師直不和、已及相剋云々、滅亡不可有程歟」(興国三年七月三日「北畠親房御教書」『相楽家文書』)と見えるように、すでにこの頃から両者の不和の噂は大きなものだったようだ。しかし、その後しばらく数年の間は大きな波風を立てぬまま、順調に足利直義を中心とした政権は続いていたのである。

 ところが、このような中で突然京都に出現したのが、尊氏の庶子(のち直冬)であった。尊氏に直冬を引き合わせたのは相談を受けた尊氏実弟の左兵衛督直義だが、直冬は尊氏実子ながらその出現が足利政権成立後であり、政権継承者は嫡子の義詮(当時は鎌倉殿として鎌倉駐在)と決定されている中で、義詮の庶兄の存在は争乱の因になりかねず、尊氏は実子ながら直冬の存在に否定的な態度を取ったと思われる。吉野方との戦いと政権運営を安定的に行う上で、秩序の維持は最も大事なことであったためであろう。ところが、これを不憫に思ったのか、事実上政権を委任している「天下執権人」たる直義が彼を養子としてしまったのである。

 直義は直冬に自らの行政権限を継承することまで考えていたかは疑問だが、将軍尊氏の覚えを良くするべく直冬を懸命に盛り立てたとみられる。その最たるものが、貞和4(1348)年5月からの紀州阿弖川の南朝後村上天皇の御座所攻めであろう。直冬は初陣ながら見事にこの戦いを完遂しており、当然ながら直冬の名声は高まり存在感は否応なしに増したであろう。一方で、鎌倉に駐屯を続ける義詮の影は薄くなり、この事に尊氏も執事師直も危機感を高めたと思われる。尊氏は直冬を認知し「時々、将軍ノ御方ヘモ出仕シ給ヒシカ共、猶座席ナシトハ、仁木、細川ノ人々ト等列ニテ、サマデ賞玩ハイマダ無リキ」(『太平記』)と、直冬には将軍尊氏への出仕を許す一方で、待遇は仁木氏、細川氏という足利一門被官層と同等に据え置いている。これは尊氏の継承権者たる義詮との格差を諸将に実感させ、行き過ぎた名声や期待を抑えるとともに、直冬自身の自覚を促す狙いがあったのかもしれない。

 しかし、初陣にも拘わらず絶大な軍功を挙げた直冬へのこうした扱いは、義父直義をはじめとする足利一族、被官らには不満を持った人々が多々いたと思われる。直冬自身が待遇に不満を持ったかは分からないがこの待遇を問題にしている史料はない。

 直冬はその一年後の貞和5(1349)年3月末から4月初頭頃、「備後、備中、安木、周防、長門、出雲、因幡、伯耆等成敗之料云々(『師守記』)の西国八ヶ国を治める「中国大将軍」に任じられた。4月11日に「左兵衛佐直冬、今日進発向長門国、於彼国可成敗八箇国事」(『園太暦』)しているが、これは長門国に探題を行う政庁を置くためである。この決定は西国守護人への関わりが大変大きいことや、政庁勤務予定の「評定衆、奉行人等、多下向」(『師守記』)もみられることから、直義の立案ながら尊氏の認可(当然執事師直も参画したであろう)のもと行われたと推測される。ただ、下向に際してはしばらく備後国に駐屯することも命じられており、直冬に対する警戒感の強さが感じられる。

 ところが、このわずか二か月後、直義と師直の間に決定的な対立が生まれた。貞和5(1349)年閏6月1日と思われるが、直義が禅僧妙吉の言葉により師直の暗殺を計画したものの、事前に洩れて失敗したのである(『園太暦』)。翌2日には、直義は三条坊門邸周辺の家を接収したり壊したりして、防衛の姿勢を見せるが、とくに騒動は起こらず、7日に尊氏が直義の三条坊門邸を訪問してこの事を談じ、15日に師直は執事を解任されることとなる。所領も奪われていることから、この暗殺計画の背景には師直による何らかの大きな問題があったと考えられる。

 その後、しばらくは直義による政務が続くが、二か月後の8月に入ると高師直、師泰らの動きが活発化する。そして8月13日には高師直、師泰らが率いる軍勢が突如、直義の三条坊門邸を包囲した。たまらず直義は尊氏邸に遁れるが、14日にはここも師直率いる軍勢に包囲されてしまう。師直らの要求は、直義の政務からの引退と鎌倉殿義詮への引き渡し、直義に様々讒言した禅僧の妙吉、上杉重能、畠山直宗らの引き渡しなどであった。結局、尊氏と直義はこの要求を呑み、直義は政務一切を義詮へ引き渡すことを認め、重能らの身柄を師直に引き渡すこととなった。重能らは翌15日には早くも流刑が執行されるという素早い展開であった。こうして直義は権を失うこととなるが、このとき禅僧妙吉が直冬に遣わされたという風聞があり、直義は直冬に政変を伝えた可能性があろう。これを受けた直冬は備後国を脱出し四国を経由して肥後国阿蘇へ下っていったとみられる。9月早々に直義が左兵衛督を辞しているのは直冬逐電の引責の可能性があろう。そして10月22日、入京した鎌倉殿義詮は、直義から譲られた三条坊門邸に入り、三日後の25日、錦小路堀河の直義のもとに挨拶に出向いている。

 こうして、直冬は養父直義を追い落とした執事高師直と弟師泰の追捕を声高に主張するようになる。その一方で、将軍尊氏と直義を「両殿」と称していることから、尊氏を敵視せず主敵を高兄弟に絞っている。しかし、尊氏・師直は武家の秩序と安定を最優先すべく義詮・高師直の政体を強力に推し進めており、将軍尊氏・執事師直と直冬(主敵は高一族のみ)の対立は激しさを増していったのである。

 しかし、直冬の勢力は九州のみならず、中国地方から北陸、関東にまで波及しており、北陸に流刑となっていた上杉重能らも12月初頭には直冬に呼応して合流を図っている。12月6日に京都へ重能らの挙兵の報告が齎されると、その二日後の12月8日に直義は出家している。責任を自ら取った出家遁世であろう。

 もともと中国大将軍として公的に派遣されていた直冬は、その影響力を存分に用いて中国地方での勢力を拡大していく。そして観応元(1350)年9月10日、直冬は九州で大規模に挙兵した。太宰少弐武藤氏や大友氏らも直冬党となり、京都からも代官が逐電する騒ぎとなった。北陸でも直冬党の桃井氏が兵を挙げるなど、直冬党の攻勢は各地で散発したことから、10月下旬に尊氏自ら九州へ直冬討伐の軍勢を発することとなる。ところが、尊氏出陣前日の10月27日、直義入道が京都から逐電し、大和国田口庄に移り、吉野南朝方への帰順を求めた。交渉の窓口は宿敵であるはずの楠木正儀であった。

 直義入道の南朝帰順の目的は、ひとえに南朝吉野方からの綸旨を以って公的に高師直・師泰を討伐し、足利家が統率する武家政権を維持しながら南北朝の和睦を行い、統一による和平を目指すためであった。直義は直冬と連絡は取っていたであろうが、北朝との敵対理由は師直・師泰の討伐という一義以外は、根本的に全く異なるものであったとみられる。しかし、尊氏は義詮・師直を中心とする安定した政体維持方針を主張していることから、直義入道、直冬がまず前提とする師直等の排除をそもそも否定していることから、互いに歩み寄ることなく、結果として尊氏は九州への軍旅に出陣することとなる。

 その後も京都で夜討ちが発生するなどしたため、尊氏は逗留していた兵庫から京都留守居の宰相中将義詮へ使者を送り、「京都有物騒事者、行幸仙洞於一所可警固申」を指示している(『園太暦』)。宮中にもまた11月8日に「禁中無人不便、面々必可祗候之由、各伝仰勅定」という。そんなころ留守居の「千葉」は北小路里あたりに軍勢を多く寄宿させていた。その「千葉軍勢」「北小路里辺(上京区北小路室町付近)で狼藉をはたらいたため、永福門院(伏見天皇中宮藤原鏱子)は女房たちの一人住まいを物騒に感じ、自らの御所に引き取っている(観応元年十一月八日『園太暦』)。このときの千葉介は千葉介氏胤で、十五歳の若者であった。

●『園太暦』観応元年十一月八日条

永福門院自今夕被来、世上物騒之間、女房独住非無怖畏、就中北小路里辺千葉軍勢多寄宿
狼藉之企触耳、仍難治之間、談女房被合宿彼方也

さらに、二か月後には、

とあるように、とりわけ千葉家士による所々打入の狼藉が激しく、彼等は院御所持明院第(上京区安楽小路町)付近に木戸を構え、周辺の往来を監視していたという。

 このような中、11月16日には直義入道の南朝帰順の交渉が義詮らのもとに届いており、これを「陰謀」と称している。尊氏はその一方を以って直義追討の院宣を軍旅より請求し、11月18日、追討の院宣と御旗が下された。そして11月23日晩には、京都に直義入道の南朝降伏の実報が伝えられ、「叛逆」と称されている。ただ、実態の勢力としては北朝足利方が押され、勢いづいた中国地方が高師泰勢を追い散らし、北陸の直冬党桃井直常は近江坂本から比叡山上に登り、西坂本を窺う状況となっていた上に、直義入道及び畠山国清、細川顕氏らが天王寺、摂津、八幡へ攻勢をかけ、京都に迫るなど畿内の大きな情勢変化をきっかけに、12月30日、尊氏は征西を諦めて「自備州福岡、御入洛」(観応二年七月「足利尊氏袖判御教書」『松浦文書』)の途についている。

千葉介貞胤の死と氏胤の動向

 観応2(1351)年正月1日、氏胤の父「千葉前介貞胤」「兵革時分以疫病有事」(『園太暦』)と、以前からの病により六十一歳で亡くなっている。氏胤はすでに家督を継承しており、大きな混乱はなかったと思われるが、このとき氏胤は十五歳の若者であり、大須賀越後守宗信などの一族に支えられながら動向を判断したとみられる。

 正月3日には「桃井率和田勢入来坂本、大嶽挙火云々(『園太暦』)とあり、東坂本には越中守護職の桃井直常の軍勢が侵攻した。翌4日には「坂本軍兵已入洛之由風聞、仍京都守護輩少々向河原云々だったが「及晩無其実之間、面々引帰之由風聞」という(『園太暦』)。実際は3日未刻頃「称北国勢入部、坂本浜面在家悉就之、已及数千人、是桃井上杉勢也」という状況で、「北陸軍勢一千余騎、折津宿ヘ令出、山門東坂下ニ可打入云々、彼三千余騎ハ先陣之軍勢云々、桃井ハ同今日坂下大津等ニ到著云々(『観応二年日次記』)という。そして「入道左兵衛督、昨日已入八幡之由風聞」(『建武三年以来記』)といい、正月4日に直義入道が八幡山に入ったという。ただし、実際には正月7日に八幡山に入城している(『園太暦』『観応二年日次記』)

 正月5日には「世上兵革之故」に叙位は行われないこととなった。「洛中雖未及動干戈、征夷大将軍発向、未定在所之時分也」(『園太暦』)という。尊氏が上洛の途路という未定在所の不安定な状況にあったことがうかがえる。

 正月6日、「将軍西宮ニ可有到著云々」(『観応二年日次記』)し、翌正月7日には「将軍瀬河ニ逗留」(『観応二年日次記』)し、「先陣山名伊豆之軍勢等、先立責上云々」(『観応二年日次記』)という。正月8日には「備後国武蔵五郎、備前ニ尾張右衛門佐、備中ニハ南遠江、於被致警固云々(『観応二年日次記』)というように、備後国を武蔵五郎師夏、備前国を尾張右衛門佐和義、備中国を南遠江守宗継を派遣して、警固するよう指示している。8日には京都に「将軍帰洛必定也、去夜著瀬河宿、京都合戦已始之、即可入洛、不然者直発向河内国云々(『園太暦』)という情報が伝わっていた。

 尊氏勢は正月10日、山崎に到着し八幡と繋がる「大渡橋」に布陣し、尊氏勢からは「未刻赤松美作守為大将、於大渡有矢合事」(『園太暦』)という。この日「修理大夫高経、二階堂三河入道等走八幡」(『園太暦』)とあるように、足利修理大夫高経、二階堂三河入道といった尊氏方の重鎮が直義入道に寝返っている。「修理大夫、信乃入道等、参錦少路殿」(『観応二年日次記』)というように、二階堂三河入道ではなく二階堂信濃入道ともされる。または両者か。12日には「上椙弾正少輔弼、同幸松、今河五郎入道、参錦禅方云々、其外京方勢参八幡ヘ云々(『観応二年日次記』)とあり、さらには「諸人大略案内可走八幡云々(『園太暦』)というように、八幡の直義入道方には続々と人々が参陣していた。

 正月10日には「細川奥州顕氏相逐将軍」(『園太暦』)とあるように、尊氏は細川陸奥守顕氏に敗れて山崎を追われたというが、正月12日には「将軍在山崎、可攻八幡之旨評議、大渡橋無之、或以船可渡旨、或又可懸橋、其儀未定、所詮合戦可為来十六日」(『園太暦』)といい、追われたというのは虚説であった可能性がある。直義入道勢により橋が引かれていたとみられ「大渡橋無之」という状況で、尊氏は船で渡るか橋を架けるかを議し、16日に八幡城を攻める計画を立てたという(『園太暦』)

 正月13日、東坂本から比叡山上に昇った桃井直常の越中勢が「午刻許自幾良々坂大勢郡下、赤松取陣、即松崎藪里辺挙火数箇所也、或云北手自於伊山入来、又南方合戦以外也」(『園太暦』)といい、「京方勢引退鳥羽辺云々、此事実否之越河人條有疑、或云山手下来皆浄土寺辺陣取云々、又云東手四宮河原辺進来云々、此事者虚説歟、猶可尋決」(『園太暦』)という。虚説かどうか不明としているが、どうやら事実であったようで、「正月十三日、今夜自西坂下宮方軍勢北国桃井軍勢等、藪里ニ下来テ、藪里ノ在宇焼払テ白河々原ノ東岸ニ打莅云々(『観応二年日次記』)と、南朝吉野勢と越中桃井勢が比叡山を越えて西坂本に下り立ち、白河河原周辺に展開したという。義詮は「法成寺京極殿等ニ陣取、今夜終夜相待敵之寄来」(『観応二年日次記』)という。荒廃しつつも広大な法成寺の伽藍跡は陣所となりうる築地等が遺されていたのかもしれない。この対陣は両者がそれぞれ攻め寄せてくるのを待ち受けていたため、合戦とはならなかった。

 氏胤は尊氏や義詮への忠勤を表すためか、将軍家御教書を施行する宰相中将義詮の指示を厳しく遵守し、篝屋を置いて家士を多数駐屯させ、院御所周辺を厳重に警衛していたと思われる。わずかな疑いであっても家士を派遣して捕縛や家屋の破壊を厭わず、往来も厳しく改めた様子がうかがえ、正月14日にはとくに「千葉士卒等」の狼藉がひどいことが報告されている(『園太暦』)

●『園太暦』観応二年正月十四日条

此間洛中狼藉絶于常篇、就中千葉士卒等打入所々、此辺自去此構木戸、而其辺窺見輩有之、
度々消魂了、木戸仙洞咫尺雖不可然取之、伺時宜了、且又密々達武家了

 そして、この正月14日、直義入道は八幡において諸方の士に対し「師直師泰誅伐事、早可致軍忠之状」(観応二年正月十四日「足利直義御教書」『三刀屋文書』他)を命じる御教書を発給した。直義入道による師直等への事実上の宣戦布告であった。 

足利尊氏の都落ち

 観応2(1351)年正月15日未明、京都の各所に火災が発生した。洞院公賢が急ぎ起きて外を見ると、南方に火の手が上がっているのが見えたという。これは「高越後守師泰館、留守者自放火云々(『園太暦』)で、「宰相中将以下、京中勢、皆悉没落之由有其聞」といい、「義詮都落、自桂河辺尊氏与成一所帰京」(『大乗院記録抜書』)といい、義詮は桂川西岸に逃れ、山崎から北上する尊氏との合流を図ったことがわかる。尊氏はもともと16日に八幡攻めを予定していたが(『園太暦』)、義詮では桃井直常の北国勢を防ぎきれないと判断して桂川西岸への退去を指示したのだろう。急遽合流の上、京都に桃井直常を討つことに計画が変えられたと思われる。

 義詮都落ちに伴い、義詮勢の主力の一翼であった「千葉介又走南方云々」(『園太暦』)という事件も起こっている。「就中」と公賢が記すように、諸大名が離反していく中でも、千葉介の離反はとくに目を引いたようである。氏胤も後述のような大義名分の中で形勢を鑑みて直義入道方に下る判断をしたのだろう。前日公洞院賢が「就中千葉士卒等打入」ことを記載した翌日の出来事であった。その後、「仁木兵部少輔頼章、同馬助等ーー放火」(『園太暦』)とあるように仁木頼章、左馬助はそれぞれの高辻万里小路(下京区万里小路町)、五條坊門(下京区仏光寺東町)の南北に隣接する自邸に放火(『建武三年以来記』)、「其外武蔵守師直以下館十箇所計放火云々(『園太暦』)している。

 15日午刻、直義与党の「桃井刑部大輔(桃井直常)入京一両日程在坂本、即参仙洞」(『園太暦』)した。桃井直常は13日にはすでに西坂本に下山し、参院に際しては「山僧少々同参」しているように比叡山も桃井直常に協力したいたことがわかる。直常の突然の参院は、淀川を境に八幡の直義入道勢と睨み合っていた山崎の尊氏勢が俄かに北上したことで、直義入道から仙洞御所の護衛を命じられたためと思われる。直義入道が最も警戒したのは、仙洞御所の光厳上皇、光明上皇らを尊氏方に奪取されることであったと思われる。

 ところが、この時「将軍以下、出河原相戦之由有説、仍桃井以下即馳向、於河原数刻合戦」(『園太暦』)と、将軍尊氏の軍勢が入洛して攻め上る一報が入り、直常は急ぎ「河原(二條河原であろう)へ馳せ向かって尊氏勢と合戦した。この日、尊氏は「父子武州以下自山崎入洛」(『園太暦』)、洛中を東へ駆けている。また「道誉、差江州没落之處、三井僧下向相防之間、返合合戦之」とあり、途中で近江へ下向(北近江での軍勢催促のためか)した佐々木道誉は園城寺の妨害に遭ったことから京都へ戻って桃井攻めに参戦している。この佐々木道誉の加勢により「宰相中将自四條河原責上相戦」い、さらに「将軍、又自二條廻後」って、桃井勢を「自三方責戦」ったことで、さすがの桃井直常も支えきれずに退いた。しかし尊氏勢の損害や疲労も激しく「将軍又同引退」(『園太暦』)している。このときの合戦は「京合戦、二條三條等川原辺」、「自三條河原迄于法勝寺」を主戦場とし、「死亡不知其員」(『常楽記』)であったほどの激しい戦いだった。

 引き分けた両軍は、直義入道方の「吉良左京大夫(吉良満義)「二條京極千手堂(中京区榎木町付近か)に、桃井直常は白河「法勝寺取陣」を取り、尊氏は「其夜二條京極御座」した。この「二條京極」の陣所は「松浦相知二郎左衛門尉秀」「登京極面惣門築地之上致警固」(観応二年七月「相知秀申状」『松浦文書』)とあるほどの大きな築地に囲まれ、惣門を有する巨大な施設であったと推測できる。吉良満義も「二條京極千手堂」に在陣しており、尊氏の本陣と至近距離での対陣であった様子がうかがえる。なお、吉良満義の屋敷は「二條京極吉良左京大夫満義朝臣宿所」(貞和三年六月八日『師守記』)と見えるようにもともと二條京極にあり、吉良満義は屋敷と至近の千手堂に布陣していたとみられる。

 そしてこの日の夜「将軍、千秋蔵人太夫高範、上洛之由申之」(『園太暦』)を院奏した。ところが、数時間後の翌16日朝には「将軍以下籠東寺之由風聞、又或無其儀、差西没落、欲籠香山寺城之處、於伊山敵切塞不得通、仍逗留桂河西河島辺、南方勇士追懸之由有其聞、而無実歟」(『園太暦』)といい、あくまで風聞で無実の可能性を採りつつ、尊氏一行が西方へ没落の途に就いたことを記している。ただ、この将軍や義詮、師直等の京都没落は事実であり、「同十六日、丹波御供仕、自其播磨書写坂本瀧野御共仕畢」(観応二年七月「足利尊氏袖判御教書」『松浦文書』)とある。

 前日の二条河原合戦では勝利を収めつつも、尊氏らに人々は靡かず、直義入道のもとへ去っていったのである。その大きな要因は、左兵衛佐直冬や直義入道がひたすらに貫いてきた「為師直師泰以下与党輩誅伐」(観応元年七月廿七日「吉川実経軍忠状」『吉川家文書』)「令誅伐師直師泰」(観応元年十一月十五日「足利直義入道書状」『河野家之譜』)という、尊氏・義詮を敵視せず、執事である師直や師泰ら高一族を討伐対象にしたことが奏功していると考えられる。尊氏・義詮を敵とせずその執権(執事)を討って世を変えるという思想は、まさに先代関東を追討した大義名分とまったく重なるのである。

 これほど都合の良い名分は、権威(尊氏・義詮)とそれに勝る実勢力(直義入道)との間で去就に迷う人々を動かさずにはおかなかっただろう。はやくも「山名伊豆守、又昨日合戦已後走南」といい、わずか数日前まで尊氏上洛軍の先陣を務めたほどの人物も直義入道に属した。さらに「今夜、又有火、小笠原遠江守政長館也、自身又走南方、焼宅」(『園太暦』)といい、元弘以来尊氏の与党として尽力してきた信濃守護家の小笠原氏が尊氏・義詮から離反した。極め付きは、前日15日夜に「為将軍使参仙洞者」の「佐々木近江入道善願(善観、道誉兄)、千秋左衛門大夫高範」までもが直義入道のもとに走っており、洞院公賢は「尤無情歟」(『園太暦』)と評している。また、「師直武州守護国司代薬師寺、又付敵方」(『園太暦』)となり、師直が武蔵守護代及び国司代として武蔵国に置いていた薬師寺二郎左衛門尉公義も直義入道のもとに下った。これは遠国からの伝聞ではなく断言であり、薬師寺公義はすでに武蔵国から上洛していた可能性が高い。洞院公賢は尊氏方には「無相残者歟、武士之躰頗不異紂兵」(『園太暦』)と評す。

 西方に逃れたという噂の「将軍父子師直、仁木頼章、馬助并道譽等」「欲付篠村、而敵人相防之間、不及越山、住善峯寺、或説野伏済々相防之間、将軍以下施甲冑以下、二三十騎許程越了、所残数百騎在善峯寺云々、其説区分不知一定、後聞、猶没落丹波方、其勢四五百騎云々(『園太暦』)、といい、16日夜は「篠村ニ被宿云々」(『観応二年日次記』)であった。そして、「引退于丹波、将軍、執事、佐渡判官入道以下下向于播磨国、宰相中将、仁木、細川輩、逗留于丹波国」(『東寺王代記』)といい、尊氏、師直、佐々木道誉らは播磨国へ向かい「自其播磨書写坂本瀧野」(観応二年七月「足利尊氏袖判御教書」『松浦文書』)へ向かっている。一方、宰相中将義詮、仁木義長、細川頼春らは丹波国に逗留したという。

 京都合戦翌日16日、八幡の直義入道のもとから入洛したのが「散位頼房(石塔頼房)(観応二年正月廿二日「石塔頼房書状」『薩藩旧記』)や、畠山国清麾下の「伊丹左衛門四郎宗義」(観応二年三月二日「伊丹宗義軍忠状」『北河原森本文書』)らの人々であった。正月22日、石塔頼房は「陸奥守殿(細川顕氏)「去る十六日入入洛候了、仍師直以下掛丹波路没落」と伝えている(観応二年正月廿二日「石塔頼房書状」『薩藩旧記』)

 なお、直義入道はこののちも八幡山に在陣を続けている。これは実質的には敵勢である「師直師泰(実際は尊氏・義詮がいるが、直義入道は彼らを敵とみなしていない)」に臨み、要衝の摂津天王寺、淀、山崎、宇治を抑えることが容易である地理的な条件によるものであろう。ただ、それ以上に重要なこととしては、直義入道は尊氏・師直等との戦いの最中にも、南北の皇統和睦という、吉野方に帰順してまで果たそうとした当初の目的の実現に向けて、南朝吉野方との交渉を続けており、吉野方との交渉に関しても当然ながら京都よりも八幡の方が容易であり、これら複合的要因を鑑みて八幡在城がもっとも理想的な地理的要因であったのである。なお、直義入道の和睦交渉は正月12日に洞院公賢が受けた風聞では「武衛入道南方和談破了、於今只各々沙汰也、達本意之後、成敗其ゝ出来云々、是存内事也」(『園太暦』)であり、これは、正月2日から石清水八幡宮での神事に関わった楽人景房からの報告でも「世上説、大略無相違歟、諸人大略案内可走八幡」という。ただし和睦交渉はその後も続いている。

 翌17日朝、「桃井又以舎弟、又今一人両使、申入仙洞云々(『園太暦』)といい、桃井直常は舎弟(直信か)にもう一人を両使として仙洞御所に遣わしている。ただ、これとは別に直義入道も「二階堂信乃入道行珍、宇津宮遠江入道、為両使」しており、「昨日世上定有狼藉歟、殊恐存、京中事仰付高経、可被仰下彼歟」(『園太暦』)として、足利修理大夫高経に京都の治安維持を命じることを報告している。高経は「今日、治部少輔、修理太夫高経、千葉介等今日上洛」とあり(『園太暦』)、17日に千葉介氏胤吉良治部少輔満貞とともに入京しており、直義入道は入洛直後の高経に京中の狼藉停止の指示を出したと思われる。

 今日春日神主師俊進使問寧否、今日、治部少輔、修理太夫高経、千葉介等、 
 今日上洛之間、付彼手進使者云々、

 同17日には「山名伊豆岡山以下、以大勢奉護将軍令発向云々」(『観応二年日次記』)といい、直義入道は「奉護将軍」ために山名伊豆守時氏、畠山左近将監国清の発向が決定されている。そして正月19日に「為丹波国凶徒退治御発向」(観応二年三月「諏方部扶直軍忠状」『三刀屋文書』)、2月23日には「北丹後発向」するなど、山名時氏は丹波から丹後地方にかけての師直与党の掃討を行っている。

 正月19日、八幡山に右中弁教光が勅使として派遣され、「賀武衛禅門事」した(『園太暦目録』)。そのほか「諸家遣使云々」といい(『園太暦』)、将軍尊氏の没落から人々は直義入道の政権再来を予想し、こぞって直義入道のもとへ賀使を派遣したのである。それは慎重な洞院公賢も同様で、「遣使者於入道主水良兼法名真性也八幡、天下静謐事、賀武衛禅門也」といい、それは「而予有存旨斟酌、然而昨日被遣勅使、仍今日遣之」(『園太暦』)と、勅使が派遣されたことで公賢もその翌正月20日に直義入道への使者を八幡へ遣わした。

 また、19日には「師直等欲没落北国之由有其聞」のため、「修理大夫高経、千葉等勢千余騎通坂本向」して北陸に急行している。そして「佐々木氏頼有申八幡之旨」として、佐々木氏頼も直義入道のもとに下った(『園太暦』観応二年正月十九日条)

 そのころ、尊氏は20日には「すてにはりまの国にたち越てちんをとる處」にあり(観応二年正月廿日「足利尊氏御教書」『明智系図』)といい、尊氏は美濃国の「阿けちひこ九郎殿、ときまこ三郎殿」に参陣を求め、「兵衛督入道直義をちうはつし候へく候」(観応二年正月廿日「足利尊氏御教書」『明智系図』)としている。一方で、直義入道も同20日に播磨国の廣峯氏(廣峯五郎次郎長種、もしくは廣峯弥三郎頼長か)に対し「師直師康誅伐事」(観応二年正月廿日「足利直義御教書」『広峯文書』)を命じており、京都合戦以降も対立は激しく続いていた。廣峯弥三郎はこののち丹波路から播磨へ入った石塔頼房に従軍して奮戦している。

 このような中、観応2(1351)年正月22日、直義入道は「実相院新僧正御房(実相院静深)「六條若宮別当職事」に補任している(観応二年正月廿二日「恵源法師御教書」『観応二年日次記』)。六條八幡宮に関する人事は、文和元(1185)年12月30日、源頼朝が「大膳大夫広元子(実際は弟か)「阿闍梨季厳」「六条八幡宮別当職」に補任(海老名尚、福田豊彦『「六条八幡宮造営注文」について』、『関東御教書案』「醍醐寺文書之二」295の1)したのを皮切りに、鎌倉殿が執権を通じて御教書により補任するものであり、代々醍醐寺の塔頭寺院を以って補されていた。関東が京都によって制圧されたのちは武家最上位の「権大納言尊氏」を通じて、武家の沙汰としての補任が行われるようになる。当初は足利一族の細川卿房定禅(鶴岡八幡宮寺若宮別当とされるが不明)が補されるも「依不吉事」で短期間ながら改補され、建武5(1338)年8月11日に醍醐寺「三宝院僧正御房(三宝院賢俊)」を補任した(建武五年八月十一日「足利尊氏執達状」『三宝院文書』)。しかし、三宝院賢俊は尊氏に従って離京しており、「賢俊僧正跡武恩等、大略改行」として賢俊僧正の所帯を改易するとともに、親交のある「実相院新僧正御房(実相院静深)を推挙したものと推測される。しかし、「実相院静宗僧正、而東寺一流外無例之由、社家申之」(『園太暦』)とあるように、台密の人物が別当となった事に社家から批判が出ている。

 武家を束ねる立場の人物が補任する六条若宮八幡別当は、建武新政期の初期においては足利尊氏が朝廷の意を執達して補任する体裁であったが、尊氏が没落した段階で直義入道がこれを執り行ったのである。そして直義入道による補任は、彼が主体として補任しており、直義入道は「天下執権人」としての地位を掌握するに至ったと考えられる。

播州合戦と打出浜合戦

 観応2(1351)年正月29日、直義入道は「安積平次殿」「播磨路発行」させている(観応二年正月廿九日「足利直義書状」『安積文書』)。おそらくこの日、「師泰武蔵五郎師夏等、到著将軍在所播州書写山下、可入洛之旨有其聞」(『園太暦』)が八幡の直義入道のもとに届いたと思われ、2月1日に洞院公賢のもとに伝聞されている。安積平次盛兼の播磨路への派遣は、丹波国経由で正月25日には播磨国に入り、性海寺(神戸市西区押部谷町高和)「禁制」(観応二年正月廿五日「石塔頼房禁制」『性海寺文書』)を発していた石塔散位頼房等との連携による播磨方面の防衛強化のための派兵であろう。同様に「土肥美濃守殿」にも「丹波路発向、相催庶子、可致忠節」(観応二年二月三日「足利直義御教書」『菅原神社文書』)を指示しており、丹波路への援兵も合わせて派遣している。なお、この頃、尊氏は中国地方、九州各地の人々を中心に積極的に「勲功之賞所充行」の御教書を乱発し始める。その宛がう所領は「行珍入道」「佐々木近江入道」「上杉左馬助」「毛利掃部助」「松田八郎」「摂津左近大夫」ら直義入道方の人の知行地が多く見られることから、直義入道方の人々の知行地を否定し公的に入部を認める内部からの切り崩し戦略であったのだろう(ただし、実際に地頭代が入部して治めている以上、敵対勢力の新補地頭が入部することは容易ではなく、軍事的な実際に履行できた例はそれほどなかったのではなかろうか。印象戦略としての補任の意味合いが強い可能性が高いだろう)。また時には官途の推挙も行うなど、人々の歓心を引き出す戦略も行っている。

 直義入道主導で南朝吉野方と京都朝廷の和睦案も同時並行的に行われており、一旦は決裂したかに見えた案も実際は継続審議されており、正月30日に洞院公賢が得た情報によれば「明日、武衛禅門以両使重申入、■■大膳権大夫広秀可為一方使者云々、今一人可尋、問注所美作前司云々、後聞、明日延引歟」(観応二年正月卅日『園太暦』)という。その後、2月4日に「南山和睦已破、武衛入道可討進旨、桃井張行」(観応二年二月四日『園太暦』)という噂も立ったが、2月2日に直義入道を訪ねた厳楽法師が聞いたところによれば「禅門即対面、剰小兒謁之、在京之時祈祷事申付之故歟、頗饗応之甚哉、厳豪召簾前謁之、南方和睦破之條虚説云々」(観応二年二月四日『園太暦』)であった。そして2月5日、延引されていた両使の派遣が行われ、「長井大膳大夫、美作守等、為武家使節被進吉野殿、青鳥壱萬疋被送進之、御和睦篇目等数箇条被申之」(観応二年二月六日『観応二年日次記』)という。このように、直義入道は尊氏、師直らがただひたすらに義詮・師直政権の秩序回復を目的に戦いを繰り返すこととは対照的に、武家政権の混乱を助長する師直兄弟を排除するとともに、大局的な吉野南朝方との和睦を推進していたのである。このときの吉野方からの返事は「南方御和睦事、猶無分明左右歟」といい、実際に和睦が成立したかは不明である。

 2月3日、直義入道は関東で高師冬を追討した関東執事「民部大輔殿(上杉憲顕)の勲功を賞した(観応二年二月三日「足利直義御教書」『上杉古文書』)。憲顕からの師冬誅殺の報告に対する返事であろう。上杉憲顕はこの書状の中で「可有上洛」を訴えていたとみられるが、直義入道はこれを「おとろき入候、自今後いよゝゝ大事にて候に、無左右御上候者、日ころの忠もいたつら事候へく」(観応二年二月三日「足利直義御教書」『上杉古文書』)とし、憲顕の上洛を止めている。これは、憲顕は関東執事という重職にあることと、関東管領基氏が幼少であり尊氏党(潜在敵性の南朝吉野方の諸氏も含む)の奪取も考えられることなど、関東における責任者が上洛しては関東が治まらないという理由によるものであろう。同い年の従兄弟とはいえ、憲顕の無分別さに直義入道も呆れ、諭すとともに「無左右御上候者、日ころの忠もいたつら事候へく」と述べているのであろう。なお、憲顕の子、上杉左衛門蔵人能憲は上洛を受け入れられており、彼が率いる「東国軍勢等」は2月上旬にはすでに近江国付近まで進んでいた。ところが、近江国勢多に着陣したものの「於勢多依無乗船逗留」という状況にあり、八幡の直義入道に事の次第を知らせている。これを受けた直義入道は2月6日、「園城寺衆徒中」に東国軍勢の「急速令入洛候様、可被致沙汰」を命じている(観応二年二月六日「足利直義御教書」『密井文書』)。園城寺はこの要請を直ちに履行しており、2月8日には「東国軍勢数千騎上洛、是民部大輔憲顕舎弟引率云々(観応二年二月八日『園太暦』)という。

 2月3日には「播州瀧野光明寺合戦」があり(観応二年三月「足利尊氏袖判御教書」『岡本文書』)、「播摩恵源城光明寺押寄、将軍尊氏方赤松相次引退、楯籠白旗城」(『大乗院記録抜書』)という。この日の瀧野城攻めでは、赤松勢(摂津守護赤松信濃守範資か、播磨守護律師則祐か)が主力となっていたとみられるが攻めあぐね、結局、頼房勢の反撃にあったか居城の白旗城(赤穂郡上郡町赤松)へ遁れ籠城したという。将軍尊氏の居する書写山に入らず、その眼前を通過して白旗城へ戻っているのは、則祐も尊氏を見限る姿勢を見せていたのかもしれない。

 翌2月4日夜、尊氏は「為師泰計」として「入夜討於石塔旅陣了」した(『園太暦』)。石塔勢には師泰が送り込んでいた内通者がおり、合戦の中で「寄手数輩討取之」という。ただ、石塔頼房は当時、加古川を天然の堀とする要害「瀧野城(加東市光明寺)」に布陣しており、「夜討之後、即武州党類、即押寄石塔軍陣瀧野城、散々合戦」したが(『園太暦』、石塔頼房の加勢として「顕氏勢等又自後押嚢合戦、勇士済々被討云々」という。また、上洛を企図する尊氏等は書写山を下りてその時期を探っていたが、ここに「細川陸奥守顕氏、同刑部大輔、上杉修理亮以多勢襲来合戦」(『園太暦』)となった。この合戦も「将軍勢、多被討、没落籠居法花寺」と尊氏方の大敗に終わっている。

 石塔散位頼房は瀧野城に尊氏勢を釘付けにしながら、直義入道の御教書に応じた廣峯社家の廣峯弥三郎頼長や廣峯五郎次郎長種らも奮戦して一月余りの籠城戦を戦い抜き、2月14日に尊氏勢が東へ退散する(観応二年三月「廣峯頼長軍忠状」『西行雑録』)。これは、2月15日夕方に醍醐寺の玄房法印のもとへ届いた飛脚によれば「将軍、此間瀧野ニ居住之處、細河奥州播磨ノ書写山ニ責寄之間、彼瀧野ヲ引却、懸河へ被移」(観応二年二月十五日『観応二年日次記』)とあるように、細川陸奥守顕氏らの軍勢に書写山を襲われた尊氏勢は、瀧野の陣を解いて東に走り加古川の河原付近に布陣したようである。そして頼房は尊氏勢が城の囲みを解いて東へ向かうと、翌2月15日には「御立当城」し、17日の「摂州国打出浜御合戦」に参陣している(観応二年三月「廣峯頼長軍忠状」『西行雑録』)

 2月17日に洞院公賢邸を訪れた大夫史清澄からの報告では、「将軍与石塔合戦、将軍方不得理而引退兵庫辺、是為上洛之由披露、或又自兵庫乗船、欲没落東国云々、尤不審説也」(観応二年二月十七日『園太暦』)ともあり、尊氏らの依る所はすでに兵庫津ばかりで「自兵庫乗船、欲没落東国」という風聞すら立つほどであった。尊氏らは「自播磨路撥令上洛之」(『阿蘇文書』)といい、上洛して勢力の挽回を図ったようである。延暦寺ばかりか園城寺までも直義入道に加担し、四面楚歌な中ではあるものの、北陸や北近江、濃尾などにはいまだ尊氏与党として活動する人々が見られ、こうした人々を頼っての復権を狙っていたのかもしれない。

 尊氏は2月17日、「将軍兵庫ニ到着、於雀松原合戦之躰」という(観応二年二月十八日『観応二年日次記』)。「将軍勢二千余騎云々、兵庫ニ取陣」し、「錦禅勢者、西宮雀松原打出等取陣」して対峙した(観応二年二月十八日『観応二年日次記』)。「錦禅勢」の大将軍は「畠山左近大夫将監、石塔中務大輔、小笠原遠江守等、於打出浜」(観応二年二月十九日「足利直義御教書」『阿蘇文書』)で、まず「彼是曰、将軍責上起兵庫、於雀松原辺合戦」し「八幡勢頗被追越歟、仍軍勢差下云々」と、尊氏方優勢で推移したようである。尊氏は「二月十七日打出合戦之時、諸人雖御前引退、於秀者不奉離聊上方、賜御甲令湊川之城御共」(観応二年七月「松浦秀申状」『松浦文書』)とあるように、自らも兵庫から西宮まで攻め上がり、雀松原から打出浜(芦屋市浜町付近)にかけて自らも戦場に出て奮戦したようだが、直義入道は「八幡勢」とあるように、八幡山より指揮を執っていたことがうかがえる。

 翌2月18日は「今日終日合戦、将軍型勢内五百騎許、殊以進出テ及合戦」とあるように、伝聞ながら二千余騎のうち四分の一に相当する五百騎許が戦闘に加わったという(観応二年二月十八日『観応二年日次記』)。ところが「其内或令降参八幡方、或及打死之間、彼五百騎勢一人不帰将軍方、希代合戦也」といい、大敗を喫した尊氏勢は畠山、石塔、小笠原らの軍勢によって「誅戮数百人士卒、逐帰湊川了」(観応二年二月十八日『観応二年日次記』)、「逐将軍勢不利引帰兵庫云々」(観応二年二月十九日『園太暦』)という。この合戦は「両方損命者数百人」と双方に多数の死者を出す「希代合戦」(観応二年二月十八日『観応二年日次記』)であった。20日夜、洞院公賢のもとを訪れた家司左馬権助光元からの報告で「師直手者密々有逃上事、謁或者語」ことの伝聞ながら「十七日合戦之後、十八日又有合戦、両方又多殞命者、又師直股受矢、又師泰内甲被射歟、鎧胸流血、以外失力躰也云々」(観応二年二月十九日『園太暦』)という生々しい戦闘現場の様子が伝えられた。

 大敗を喫し、再起も不可能と察した尊氏は、2月20日夜「将軍、伴命鶴丸入来八幡云々(観応二年二月廿一日『園太暦』)という。ただ、これは誤伝で、実際は将軍自身は八幡には来ておらず「命鶴丸為降参人参八幡、加之長井治部少輔及海老名、為将軍使、即畠山安房将監等伴参之由有」という(観応二年二月廿日『園太暦』)。これを受けて「武衛入道以行珍付四條大納言」へ「将軍可罷出之旨、以命鶴丸俗名氏直示申之由」を伝えており、光厳上皇へ院奏されている(観応二年二月廿日『園太暦』)。また、醍醐寺房玄法印には「越後守被疵、降参輩数輩、畠山石塔等之勢加降参云々」(観応二年二月廿日『観応二年日次記』)という伝聞もあった。

 翌2月21日、京都に「自将軍三ケ度被進御使云々」という(観応二年二月廿一日『観応二年日次記』)。使者「千雨(ちぎり)」が朝廷に申し述べたその内容は「執事、越後守両人令出家了、此上者彼二人之進退可為何様候哉、可被助命候者、召具彼兄弟可令出給云々」というものであった。すでに高師直、師泰兄弟は出家し、尊氏は朝廷にその進退を委ねたのである。この擾乱はあくまでも武家政権内での直義入道と執事家の確執が原因であって朝廷は関係がなく、尊氏は直義入道が彼らを殺害することを公的に不可能にするために、敢えて無関係の朝廷に彼等の進退を委ねたと思われる。翌22日明方に「千雨」は「令帰参湊河」という。

 ところが、21日には丹波に駐屯して都を窺っていた「宰相中将義詮、自丹波可攻上洛中之旨風聞」があり(観応二年二月廿一日『園太暦』)、「上杉并諏訪祝等為退治、今日発向歟、不可有事歟之旨存之歟」という噂が立ち、洛中の人々は右往左往して逃げ惑ったという。丹波路は直義入道勢により強力に封鎖されていたと思われることから、義詮は尊氏の打出浜合戦での大敗や降参などを伝えられていなかった可能性があろう。21日には京都内で「一條猪熊太子堂」で不審火があり、22日には「今曉大樹亭焼失了」(観応二年二月廿二日『観応二年日次記』)、「今曉火出土御門高倉鎌倉大納言留守屋敷寝殿云々、此間散々壊取僅所残焼也」という火災もあり、「在■輩沙汰歟、但太子堂放火云々、如此輩沙汰歟可尋決」という。留守に尊氏邸寝殿より出火したとされており、尊氏の敗戦を伝え聞いた人による自焼か。ただし、出火ののち延焼を防ぐための破壊措置が取られており、邸内も混乱していた様子がうかがえる。

 翌2月22日には、山名伊豆守時氏が「就当国御敵打出(丹後国か)」し、翌23日「北丹後御発向」し「荏原致合戦」している(観応二年三月「諏方部扶直軍忠状」『三刀屋文書』)。これは23日に再び「又宰相中将自丹波可打出之旨風聞」に相当する宰相中将義詮との合戦とみられ、京都からは「桃井、上椙諏訪上宮祝等、率数千騎勢発向已追退、此輩又可降参之由有其聞」という(観応二年二月廿三日『園太暦』)

 2月24日、醍醐寺の房玄法印が石清水八幡宮参詣に訪れ、直義入道麾下の今川五郎入道と対談しているが(観応二年二月廿四日『観応二年日次記』)、「今日、将軍ノ御迎ニ使者二人進発」したという。将軍尊氏らはいまだ「湊川城」にあり、直義入道に降伏する躰ではなく直義入道が迎えに上がるという体裁を取ったものと思われる。この際には「執事兄弟出家了上者、被除政道之人数、被扶置候條、自将軍被申間、不可有子細候由、自錦小路殿被申返事云々」(観応二年二月廿六日『観応二年日次記』)という条件が付されており、これは2月21日に尊氏が朝廷に師直兄弟の助命を願い出ているように、朝廷からも認められた条件であった(観応二年二月廿一日『観応二年日次記』)

 房玄法印はその後、八幡城麓の善法寺に参詣するが、ここで見たものは「諸人群参超過日来、将軍可有御出之間、彼悦申ニ各令参云々」という光景であった。尊氏は敗れた主体ではあったが、直義入道を含め八幡方の人々が戦ったのは、あくまでも直義入道が盛んに軍勢催促状に記した「師直師泰等」だったのである。そのため、直義入道方の人々も「将軍可有御出」により「彼悦申」のために群参したのである。直義入道は将軍尊氏のもとで軍政権を一手に担っているが、それはあくまでも尊氏という存在から委任を受けているものであり、直義入道が尊氏が実質率いていた軍勢を破ったとしても、尊氏の存在を超えることは不可能であった。そして「大膳大夫、二階堂三川入道、同判官入道以下令参会、執事、越後守等出家、仍彼両人之一族家人手勢等百廿四人出家云々」という。

 なお、尊氏は正月10日頃、「鎌倉殿率二拾余万騎御勢御上洛之間、可有御存京著之由」をしたためた書状を京都に「去月十八日依被進早馬候」しているが、その後「播摩国書写山被申坂東勢候之處、御著間、今月三日御発向、同十日被追散京中凶徒候了、錦小路殿自八幡山東條へ御引退之間、高越後守同武蔵五郎已下大勢、追懸申候間、於于今者令落居候歟之由存候」(観応二年二月廿五日「一色道猷書状」『入江文書』)という滅茶苦茶な報告が京都を発し、この知らせを持った「京都御使者僧」が、九州肥前の一色道猷入道範氏の許に「昨日廿四日申刻到来」している。

 一色道猷はこの報告を信じ、翌正月25日に嬉々として「田原蔵人三郎入道殿(大友田原直貞)」に「是も則打立候、早速打越候者、就公私目出候」と、ともに直冬勢との戦いに打ち越すよう促している(観応二年二月廿五日「一色道猷書状」『入江文書』)

 この報告について、少なくともざっくりとした当初の上洛計画(二拾余万騎御勢御上洛)を早馬で京都へ発したのは尊氏で間違いはないだろう。この文書は正月18日に京都に早馬でついている。しかし、その後の尊氏は2月3日、4日ともに瀧野城の石塔頼房を攻めるも敗れ、実際に書写山を発向したのは予定より十日以上も遅い2月14日、しかも細川陸奥守顕氏らに追い散らされて東へ敗走したものであった。当然、直義入道が八幡から河内東條へ逃げることもなく、高師泰や武蔵五郎師夏が彼を追って河内へ攻め入った事実もない。誰がこのような報告を一色範氏入道へ発したのか今となっては謎であるが、尊氏の計画が報告の頭書に掲載されていることから、正月18日に尊氏書状を受け取った京都留守居の人々であったことは間違いないだろう。

 この報告書の作成は、書状に記された内容の日時から2月10日以降であるが、京都で記された書状が肥前国に2月24日夕刻に到着していること、2月18日の打出浜合戦時にこの使僧が西宮辺りを通過しない時期とすれば、具体的には2月10日、11日頃の作成と考えるのが妥当であろう。内容は京都に伝えられてくる様々な風聞から、尊氏方に有利な情報を記した可能性が高いだろう。範氏入道が改ざんした可能性も考えられるが、打出浜合戦の事実が肥前に届いているのであれば、範氏入道の文書は何ら意味をなさないことになる。つまり範氏入道の改竄はなく、2月10日時点で京都の足利邸に上がった、直義入道を破ったという伝聞をよく確認せずに至急送達したものであろう。

 ところが、直義入道が将軍尊氏の迎えの使者を出した翌日、25日「夜中初夜之時分ニ、錦禅門若御前逝去云々、今日為御訪諸人群参、善法寺殿云々」という(観応二年二月廿六日『観応二年日次記』)。洞院公賢はこれを後日聞き、『園太暦』に追記するが「兵衛督入道一子五歳、今日於八幡早世云々、日々附病以外之由聞也、入道触穢云々(観応二年二月廿五日『園太暦』)という。「兵衛督入道一子(如意王丸)」は「日々附病」とあることから、日ごろから病がちだったとみられるが、二十日ほど前の2月2日に直義入道を訪ねた厳楽法師は「禅門即対面、剰小兒謁之、在京之時祈祷事申付之故歟、頗饗応之甚哉、厳豪召簾前謁之」(観応二年二月四日『園太暦』)といい、直義入道と如意王丸は同席しており、如意王丸の病は急激に悪化したのであろう。

尊氏上洛と高兄弟の死

 観応2(1351)年2月25日、直義入道が派遣した「将軍ノ御迎ニ使者二人」は湊川城の尊氏のもとへ到着し、尊氏らは2月26日に上洛の途に就いている。すでに直義入道との間では「執事兄弟出家了上者、被除政道之人数、被扶置候條、自将軍被申間、不可有子細候由、自錦小路殿被申返事云々(観応二年二月廿六日『観応二年日次記』)という約定が交わされており、朝廷からも師直兄弟の助命の件は認められていたため、「仍師直者著禅僧衣、越後守念仏者ノ裳無衣著之云々」と僧衣をまとって出家者となった。しかし「将軍立兵庫ノ琵琶頸寺、上洛之時分、彼執事越州等、欲令供奉之處、以秋山新蔵人被申云、執事越州等供奉之條見苦候云々(観応二年二月廿六日『観応二年日次記』)との進言を受け、尊氏は「三里許相隔後陣彼兄弟上洛云々」とした。そして尊氏が出立すると、後陣に師直、師泰兄弟が僧衣で出立したが(当初は尊氏に供奉予定であり、騎馬であろう)、「而武庫河辺、上椙豆州養子同戸部実子、究竟軍兵五百騎許ヲ令随■、待儲テ誅之云々、武蔵五郎、越後将監、同時ニ被打云々、其外親類家人等数十人被打畢云々(観応二年二月廿六日『観応二年日次記』)という。彼等が討たれた場所は「於武庫川辺鷲林寺前」(観応二年二月廿七日『園太暦』)であり、「上杉修理亮、討師直師泰両入道以下十余人、川津高橋以下又切腹云々、是父重能敵也、以謂親敵其沙汰歟、衰遮耳目可哀ゝゝ」という(観応二年二月廿五日『園太暦』)。なお、「師直師泰以下切腹事」(観応二年二月廿七日『園太暦目録』)ともいう。

●武庫川で討たれた人々(観応二年二月廿五日『園太暦』)

師直
武蔵守入道
高師直 通称は五郎。将軍家執事。妻は従姉妹(太郎左衛門尉師行女子)。
師泰
越後守入道
高師泰 通称は四郎。武蔵守師直の庶兄とみられるが、弟とされている。
師兼
高刑部
高師兼 武蔵守師直の従兄弟。通称は五郎。
師夏
武蔵五郎
高師夏 武蔵守師直の五男。当時十三歳(『常楽記』)。
師世
越後大夫将監
高師世 越後守師泰の嫡子。師直失脚ののち、直義から執事に任じられた。
師直復帰後は執事を解かれている。
高備前 高師幸 武蔵守師直の従兄弟。
高豊前五郎 高師景 武蔵守師直弟の豊前守師久(建武三年、比叡山にて討死)の嫡子
高南遠江兵庫助 南宗継 高一族。
河津左衛門尉    
鹿目左衛門尉    
鹿目平次兵衛尉    
彦目    
文阿弥陀仏    
正阿弥陀仏    

 討手については「打手 杉原(上杉の誤)、三條入道殿執事也、父ノ杉原ヲ去々年執事殺故也」(観応元年十一月二十三日条『金剛寺所蔵聖教類奥書集』)とあり、当時の記録として上杉修理亮は「三條入道殿執事也」と認識されていたことがわかる。

 翌27日未刻、尊氏は山崎に到着。夜になって入洛し、まず常在光院に著し(観応二年二月廿七日『観応二年日次記』)、「寄宿上椙弾正少弼屋」した(観応二年二月廿八日『園太暦』)。翌28日夕には「錦小路殿入洛」(観応二年二月廿七日『観応二年日次記』)し、「宿本宅錦小路屋」している(観応二年二月廿八日『園太暦』)。「師直師泰等已被誅伐之後、将軍家無為御入洛、天下大慶此事也」(観応二年三月四日「足利直義御教書」『榊原家文書』)とあり、師直や師泰がすべての元凶であり、その手から救い出した将軍家が上洛したことは大慶であるということであろう。

直義入道の政務復帰と義詮との確執

 観応2(1351)年2月29日、崇光天皇は「勧修寺前大納言(藤原経顕)、為勅使向錦小路」するが、直義入道は子息の如意王丸の触穢のため、「不入門内、以人於門外申承之、有子細ヽ例閭巷談云々」(観応二年二月廿九日『園太暦』)という。

 3月1日、尊氏は擾乱が終わったことで「至于今致忠節之條、所被感思食也」と、これまで自らの軍勢に従って戦っていた人々への忠節を賞するとともに「雖然、以御和談之儀、御入洛候畢、於御方致忠節之輩事、所領等不可有子細之上、可有御感之旨、自錦小路殿載御起請文被申候畢」(観応二年三月一日「足利尊氏御教書」『麻生文書』)という文書を発給している。いまだ尊氏と直義入道は対面していないが、さまざまに使者を以ってやり取りが行われていたことがうかがえる。

 3月2日、「将軍不快気散了」という。「不快」とは直義入道に対する怒りの気持ちをさすか、尊氏の体調悪化を指すかは不明確である。ただ、この日は尊氏と直義入道は対面の上で「随順忠節軍勢恩賞事可有沙汰」が開始された(観応二年三月二日『園太暦』)。尊氏がまず要求したのは「師直以下誅戮上椙修理亮罪名事」であった。尊氏は「頻雖被欝」と修理亮に対する処分(処刑か)を頻りに主張したが、「禅門種々誘申之間、可流罪之旨治定了」と、直義入道の説得に応じて流罪と決定した。続けて、今後の「政務事」について話し合われ、尊氏は義詮が未熟であり「宰相中条不可堪之間辞謝」としたが、「然而禅門同心可扶佐之上者、不可有子細之旨落居云々」と、直義入道は自分が義詮を扶佐するので、引き続き義詮が政務を執ることに問題ないとし、義詮が政務を執ることで決着した。師直の地位を直義入道が継いだ形となる。

 またこの日、吉野方の賀名生御所へ「為武家使節参吉野殿云々」として「美濃入道(二階堂行通入道行宏)」が任じられるも辞退している。同日「濃州禅門、任政所事云々、随分眉目云々」であり(観応二年三月二日『観応二年日次記』)、前政所執事の佐々木道譽と交代となっており(『武家年代記』)、当初は足利家政所執事を吉野方へ派遣する予定であったとみられる。両使ではないことから大きな案件の使者ではなく、足利家内の紛争が終結したことの通達であった可能性があろう。

 翌3月3日、恩賞沙汰が行われた。再度尊氏と直義入道の間でまとめられたとみられるが、尊氏が主張したことを直義入道は異議なく了承したようで「将軍随遂粉骨武士四十二人先有恩賞、其後諸軍勢事可有沙汰之由治定、其後将軍和悦之気有之」(観応二年三月三日『園太暦』)という。同日、洞院公賢が聞いたことによれば、「細川奥州上洛、直向将軍館之處、為降人身見参称有恐不謁」という。細川陸奥守顕氏が上洛し、上杉朝定亭の将軍尊氏に謁見を願ったが、尊氏は自らが「降人」の身であるのに勝者の顕氏を見参することは憚られるとして対面しなかった。この返答を受けた顕氏は「顕氏恐怖」であった(観応二年三月三日『園太暦』)。この尊氏の対応は「今度上洛已後初現此気云々」という(観応二年三月三日『園太暦』)。顕氏は書写山で尊氏勢を攻め散らし、尊氏勢を兵庫、打出浜へ進ませる原因を作った人物であり、尊氏から恨まれていると感じたのではなかろうか。実際は、尊氏は顕氏を特に恨んでいたという様子はなく、その後は顕氏を重用している。そして、直義入道の意見も取り入れられたとみられ、「鎮西探題事、可為直冬旨治定云々(観応二年三月三日『園太暦』)と、足利直冬は正式に「鎮西探題」と認められたのであった(直冬はその後も貞和元号を用い続けており、しばらく和平に応じていないが、6月5日頃から観応元号を用いており、その頃正式に和睦に応じたとみられる。ただし、直冬はその後も中国大将軍としての管轄である安芸国や備後国の地頭沙汰を行っている。越権行為か公認かは不明ながら、この件で京都からの咎めはない)。なお、「鎮西探題」の職名は先代関東政権の呼称であり、当時においては一色範氏入道道猷が「鎮西管領」

 また、「勢州源大納言(北畠顕能)誇張、以外之由風聞」があったことから、この日「守護石堂中務少輔(石塔頼房)率四箇国勢、可追討之旨沙汰」(観応二年三月三日『園太暦』)も決している。直義入道は南朝吉野方に帰属していたが、これは師直師泰の誅伐および武家による政権のもとで京都朝廷と南朝吉野方の和平を目指すためのもので、師直ら亡き今、和平の交渉のみを目的とする段階となり、直義入道が交渉相手としていた北畠親房入道が牽制したものか。

 3月6日、「将軍向錦小路亭、饗応慇懃、両人頗快然」であったという(観応二年三月六日『園太暦』)。しかし、「師直等事聊将軍夏者私腹立歟、然而無殊大事、大慶之由諸武士存之云々」と、尊氏は師直等の事については聊か不満があるものの、大したものではなく、尊氏、直義入道の再びの親睦は諸武士が大慶としたのだった。また、これ以前に「陸奥守顕氏、為宰相中将迎向丹州、其勢猛也云々」という(観応二年三月六日『園太暦』)。3月6日「宰相中将義詮、明日可入洛云々、頻雖難渋、父卿遣委細状了」という伝があり(観応二年三月六日『園太暦』)、顕氏が派遣された背景は義詮の抵抗があったようである。結局、義詮はその後も数日の間、丹波に留まり、3月10日になって「宰相中将義詮、今夕自丹波上洛、細河陸奥守顕氏、為迎先日下向之、相伴之云々」と、義詮は細川顕氏に伴われて上洛した(観応二年三月十日『園太暦』)

 上洛した義詮は、そのまま「直向錦小路亭、謁武衛禅門云々」している(観応二年三月十日『園太暦』)。将軍尊氏よりもまず直義入道に謁しており、尊氏が遣わした委細状に事の次第が認められていて、政務の後見についての話がなされたのかもしれない。続けて「被参将軍亭上椙霜台宿所ニ被坐」し、「三条坊門亭ヘ上著」した(観応二年三月十日『観応二年日次記』)

 3月11日、醍醐寺の房玄法印が「参錦小路殿了」(観応二年三月十一日『観応二年日次記』)したが、このとき直義入道亭には「楠木代官、参錦小路殿、自南山被下勅書、為使節令参云々、大高予州対面了」(観応二年三月十一日『観応二年日次記』)と、南朝吉野方使者として楠木正儀の代官が後村上天皇勅書を持って錦小路亭を訪れており、大高伊予権守重成が勅書を受け取っている。この南朝勅使(楠木代官)は直義入道が2月5日に「長井大膳大夫、美作守」を両使として派遣した和睦提案数箇条の返事とみられる。直義入道は帰依する「国師(夢窓疎石国師)」に「武家申之趣、密々申之旨、所詮南方和睦事」を院奏している(観応二年三月十二日『園太暦』)。その内容は「雖有申入之旨、只可有御出京之由也」といい、南朝後村上天皇が上京することが主であった。ただし、「今物騒、嗣躰已下事者不申云々」と、皇嗣については世上物騒を理由に返答せず、「内裏修理事申領状」と、後村上天皇の住まう内裏の修理に関しては了承した。また、「東宮御沙汰、兵主社寄附山門替、美濃国西郡庄進之、即被充行四條前大納言云々」という(観応二年三月十二日『園太暦』)。このことにつき翌13日には「被仰南方事、武家申之趣、又相違之由有聞」という風聞があった(観応二年三月十三日『園太暦』)。これは洞院公賢子息の東宮大夫実夏が院参した際に聞いた情報であるが、公賢は「毎事只不異幻夢哉、但実否猶可尋決」と事実かどうかは不明である。醍醐寺房玄法印は吉野方とも繋がりを持つ高僧であり、直義入道は房玄法印も講話交渉への参画を希望していることがうかがえる。

 またこの日、直義入道は関東執事の民部大輔憲顕宛に書状を使わし、「属上杉兵庫助(上杉憲将)手致軍忠輩恩賞事、関東分国内闕所、可有計沙汰」(観応二年三月十三日「足利直義御教書」『上椙古文書』)を指示している。恩賞充行権も直義入道が以前のように差配しており、義詮はいまだ新政権内での活動はうかがえない。

 3月18日、洞院公賢亭に「錦小路兵衛督入道使、二階堂信濃入道行珍」が来訪した(観応二年三月十八日『園太暦』)。公賢は行珍を「寝殿東面」に召して御簾越しに引見するが、行珍の要望は「左衛門督義絶可令免許旨也、且彼卿状篇目折紙、注三箇条也、所詮可合躰申、就其依武家時宜彼義絶可免許之旨、可被立使者旨申之云々者」と、北畠親房と並んで建武政権の軍事、政務を担った左衛門督実世の「義絶」の免除を要請したのである。実世は洞院公賢の庶長子であったものの早くから義絶されていたが、その類まれな才覚により後醍醐天皇に重用され活躍。後醍醐天皇が足利方と対立後は後醍醐天皇方に属し、崩御後も後村上天皇を補佐して八方に活躍した人物である。この義絶免許は後村上天皇からの要請とみられ、直義入道はこれを受けて公賢に要請したとみられる。これに「承了早可存其旨之由、報了、其次日来所為以下委細示了」(観応二年三月十八日『園太暦』)と、公賢も義絶を解くこととなった。

 また、この日は「宰相中将殿御台懐妊、著帯加持事」が定められており(観応二年三月十八日『観応二年日次記』)、醍醐寺の房玄法印がその加持を執り行うこととなった。この著帯加持の奉行は直義入道が任じたとみられる「中條刑部少輔、二階堂能登守、右筆依田右衛門尉、白井弾正忠」が執り行った(観応二年三月廿四日『観応二年日次記』)。彼らは着帯につき「仍被遣使者於三条坊門殿之處、申云、来廿七日午刻可有御著帯候、御帯持参之使者可参入」ことを念のため加持の導師である房玄法印に伝えている。「宰相中将殿御台」は、かつてともに鎌倉へ下向し中先代の乱で討死を遂げた渋川義季の娘で、直義入道にとって義理の姪に当たった。直義入道としても一月前に嫡子如意王丸を喪っており、この懐妊と着帯の儀に関しては力を入れていたのだろう。この一連の儀の只中の3月20日「錦小路殿、可有移徒三条坊門殿云々、但延引云々(観応二年三月廿日『観応二年日次記』)と直義入道は三条坊門殿に引き移る予定であったが、延引されている。当時、直義入道は三条坊門邸の斜向かいの押小路東洞院に新邸を造営中であり、東洞院亭に引き移るまでの暫定的な移徒とみられる。

 この移徒延引は、2月25日に亡くなった如意王丸の触穢を避けるという「公的」な理由もあろうが、義詮としては未熟な自分を支えた執事師直を討った直義入道を受け容れられない感情があったろう。ただ、それ以上に直義入道に対する「不満」があったと考えられる。

 去る3月2日に決定された今後の「政務事」は、尊氏が「宰相中条不可堪之間辞謝」と政務から外そうとした際に、直義入道が「然而禅門同心可扶佐之上者、不可有子細之旨落居云々」と、義詮を扶佐(後見)して政務を執ると述べて決着していたが、実際には直義入道が万事庶務を執り行うという、かつての三条坊門殿としての直義政体が復活しているのである。直義入道が政庁の象徴たる三条坊門殿へ一時的なりとも移徒・復帰することは、義詮としては受け入れ難いものであったろう。なお、27日には予定通り「鎌倉宰相中将義詮朝臣妻、著帯事有之云々」が催行される(観応二年三月廿七日『園太暦』)

 着帯に関する奉行の一人「白井弾正忠」は、翌観応3(1352)年3月24日に駿河国守護職の今川範国入道から「相模国毛利荘内厚木郷半分」を御下文に任せて沙汰するようで指示されている「白井弾正忠殿」(観応三年三月廿四日『沙弥心省奉書写』)と同一人物であろう。彼の実名は同年4月8日に同地を打ち渡した際に「行胤」と見える(観応三年四月八日『白井行胤打渡状』)。この相模国毛利庄内厚木郷半分については、もともと斎藤四郎入道(雅楽助、道恵入道)と白井行胤が地頭を務めていたが、観応2(1351)年5月13日、将軍尊氏によって鎌倉の円覚寺正続院に寄進されたものである。それから二百年ほどのちの、弘治2(1556)年10月23日、安芸国の国人領主だった白井縫殿助房胤は、長門太守の大内義長から「安藝国阿南郡府中内」「阿南郡矢賀尾長」「阿南郡中山」に知行を安堵されているが(弘治二年年十月廿三日『大内義長知行安堵状』)、このうち「安藝国阿南郡府中内百五拾貫文足」は「白井弾正忠先知行」であったとされている。房胤は白井弾正忠行胤の末裔とみられ、安芸国府中付近を治める安芸白井氏として発展したとみられる。

 直義入道の引越延引の翌3月21日、「将軍並武衛禅門、宰相中将向西芳寺、為歴覧花云々、但或説武衛禅門許向云々(観応二年三月廿一日『園太暦』)と、尊氏、直義入道、義詮は同道して西芳寺を訪れ、夢窓疎石国師の「法談」(『正覚国師和歌集』)ののち、梅花歴覧の会に「庭前花下にて人々歌よみける」と花下歌会が催された。

 ところがこの辺りから、物騒な事件や噂が絶えなくなってくる。そこで直義入道は3月29日、みずから院参して「世間大事等奏進」こととした(観応二年三月廿九日『園太暦』)。3月24日夜、洞院公賢のもとに「問注所美作前司、為禅門使入来、条々有、以光熈朝臣問答、篇目五ヶ条」という(観応二年三月廿四日『園太暦』)。直義入道は公賢へ院参装束の故実を問うており、法体となって以来初めての院参だったことがわかる。28日にも評定衆の一人「為武衛使齋藤左衛門大夫利康、如此使節奉行人勤仕、雖非常事、被加評定衆末、仍来旨申之」が重ねて装束の故実の問い合わせに公賢邸を訪れている(観応二年三月廿八日『園太暦』)。そして3月29日夜、「武家入道左兵衛督、参仙洞菊第、世間大事等奏進」という(観応二年三月廿九日『園太暦』)。このときの直義入道の参路については、「使宇津宮遠江入道蓮智」をして公賢に「日来自三条坊門御参、路次不可相替歟、但一條前関白家裏築地外可被除者、一條東行、今出川北方、北小路西行、室町北行、被計用歟」と伝えている(観応二年三月廿九日『園太暦』)。そして「禅門院参、所召具齋藤左衛門大夫利康」が「丑刻許退出、已後被突帰家、今朝逝去云々、狼藉之至、無比類歟」(観応二年三月丗日『園太暦』)と、二日前に直義入道の使者として公賢邸を訪問していた評定衆齋藤利泰が院参供後、帰宅の途についた際に何者かに刺され、翌30日に死去するという事件が起こっている。直義入道のもとでの実務役人だったが、直義入道への意趣を含んだ人物による殺害とみられる。

 院奏の前日3月28日、直義入道は醍醐寺の浄光院房玄法印を南朝吉野方の賀名生御所へ派遣した。房玄法印はこの日、都谷(京田辺市多々羅都谷)へ下向し、翌29日に都谷を出立し、「一夜松(大和郡山市八条町一夜松)」で駄肴を取り、夜は「勧学院」に宿泊(観応二年三月廿九日『観応二年日次記』)。翌30日に「阿那宇殿(賀名生)」に到着した(観応二年三月丗日『観応二年日次記』)。そして4月2日、房玄法印は「北畠禅門ニ対面了、帥亜相被引付候間、事書等彼亜相ニ付」した(観応二年四月二日『観応二年日次記』)。このとき「帥亜相(徳大寺大納言公量)」に手渡した「事書」が直義入道が認めた皇統和平の条々と思われる。そして二日後の4月4日、「条々篇目、帥亜相相披露云々、被下勅約之綸旨了」と返答となる勅約の綸旨が下された。そして使者たる房玄法印は「極官事同蒙勅約了」といい、房玄法印は大僧正への任官が勅約された(観応二年四月四日『観応二年日次記』)。そして申刻、「以帥亜相可有御対面之由被仰下之、仍令参上」と、後村上天皇との対面がゆるされている。翌5日には「北禅ニ対面了」し法話の問答を行い、翌6日未明に賀名生を発った(観応二年四月六日『観応二年日次記』)。その後三日の旅程を経て4月9日夕刻、京都へ戻っている。直義入道邸に報告がなされたと思われるが、4月16日、洞院公賢邸に法勝寺の恵鎮上人が来訪して「世上事粗談」した際に「南方和親事猶不停云々、案内彼方随左右、重可奏聞云々」(観応二年四月十六日『園太暦』)といい、和睦交渉は継続して行われており、仙洞にて吉野方の事書の検討を行うことが伝えられている。

 直義入道は南朝吉野方との和平交渉に尽力する一方で、足元の政務事項では4月2日には「武家沙汰」として「佐土判官入道、仁木兄弟、美乃守護土岐、阿波将監已下七人、被宥罪名、所領悉令安堵云々(観応二年四月二日『観応二年日次記』)と、佐々木道誉、仁木頼章、仁木義長、土岐頼康、細川元氏以下の七人が「被宥罪名」た。彼らはいずれも尊氏、義詮方として転戦した人々であり「罪名」とは直義入道の目線からの言葉とみられるため、この宥免も直義入道が差配したものとみられる。なお、この宥免は直義入道が義詮の要求を受け容れた可能性があろう。

 そして翌4月3日には、延引されていた「武衛禅門」の「為同宿三条坊門」が行われたが、直義入道は「而片時之後又帰錦小路」という(観応二年四月三日『園太暦』)。翌4月4日にこれを聞いた洞院公賢は「同宿猶有予義歟、凡親族内心猶不合体歟云々、可畏ヽヽ」と評しており、直義入道と義詮の関係悪化がささやかれていた様子がうかがえる。直義入道はこの時期もまだ如意王丸の中陰であり、移徒の取りやめとの関わりは不明であるが、これも義詮の強い警戒感と不満による抵抗であ。この五日後の4月8日、直義入道は七六日の追善供養で、嵯峨臨川寺三会院に「為亡息如意王追善料所」として「但馬国太田庄内秦守」を寄進している(観応二年四月八日「恵源寄進状」『臨川寺重書案文』)

 4月13日、直義入道は「宇都宮孫三郎氏綱」が東福寺造営の成功により「修理亮」への任官を望んだため、これを認め推挙した(観応二年四月十三日「足利直義袖判御教書」『東福寺文書』)。ただ、この推挙による臨時除目が即日行われたかは不明である。この三日後の4月16日に正式な除目があったが、ここには氏綱の名は見えない。

四月十六日除目【補任】(観応二年四月十六日『園太暦』『結城文書』)

権中納言 藤原為治            
左少史 小槻兼治            
中務大輔 丹波嗣長            
侍従 藤原忠藤            
内蔵助 中原有清            
掃部助 高階師義
(高師義)
源直勝
(上野直勝)
         
左京亮 源光清            
春宮大進 藤原時光            
修理権大夫 源国清
(畠山国清)
           
山城守 三善尚式            
山城介 丹波維氏            
尾張守 源義深
(畠山義深)
           
美河守 藤原朝常
(結城朝常)
           
遠江守 藤原行種
(二階堂行種)
覚園寺造営功
           
安房守 源光助            
信濃守 源秀時
北野社造営功
           
上野介 高階師員
(高師員)
           
長門守 源貞嗣
(安富貞嗣)
覚園寺造営功
           
左近衛大将 藤原冬通            
左近衛少将 藤原公為 藤原実綱          
左近衛将監 安倍有経 源清義 三善尚行 藤原行連
北野社造営
     
右近衛将監 大江氏秀            
左衛門尉 藤原行致 三善尚清 因幡藤康 源行員 藤原家弘 源基幸 源康基
左兵衛尉 藤原親利            
右馬頭 源頼房
(石塔頼房)
           
右馬允 藤原友弘            

四月十六日除目【叙位】(観応二年四月十六日『園太暦』『結城文書』)

従三位 藤原隆宗            
従四位下 丹波行宗 和気致成          
正五位下 藤原永季            
従五位上 藤原秀成            
従五位下 藤原親高 藤原教長 丹波維氏 中原有清 藤原朝常
(結城朝常)
源光助 源義深
(畠山義深)
源清義 高階師員
(高師員)
高階師義
(高師義)
源直勝
(上野直勝)
源秀時    

 なお、この除目の日である4月16日、直義入道は錦小路堀川邸から山名伊豆前司時氏邸(後年同様に三条油小路(三条油小路町)か)へ移徒した(観応二年四月十六日『観応二年日次記』)。錦小路堀川邸では、政務を行う上で三条坊門邸(御所八幡町)から離れすぎているためだろう。

 4月19日、引付頭人「修理権大夫(畠山国清)」は、伊賀守護の千葉介氏胤に「東大寺雑掌弘恵申、伊賀山田本庄事、訴状如此、服部北田入道、高畠平六、山田十郎左衛門尉以下濫妨云々」及び「伊賀国南北庄々事、訴状如此、柘植新左衛門尉、服部彦四郎、同彦太郎、日置新左衛門尉以下輩濫妨云々」につき、「太不可然、早停止彼等妨、沙汰付下地於雑掌、今月中可執進請取状」を厳命した(観応二年四月十九日『東大寺文書』)

 4月25日、三条坊門邸で「武家評定始」が催された(観応二年四月廿五日『園太暦』)。「宰相中将為探題」として評定を取り仕切った。直義入道も「兵衛督入道行向彼亭」し、評定に加わっている。ただし、義詮が「探題」となっていることから、この日直義入道は評定に関する権限を義詮に譲渡し、扶佐する立場に移行したのだろう。評定後、直義入道は油小路の山名邸から三条坊門邸斜向かいの「押小路東洞院新亭」に移徒している(観応二年四月廿五日『園太暦』)。こののち、義詮が地頭職補任ならびに両使による打渡を行う事例が見え、義詮による直裁の政権運営が本格化したと思われる。

 4月27日、「南方御事、武家以事書委被申之云々」(観応二年四月廿七日『観応二年日次記』)と、和睦に関する事書を認め、「武家奉行両人長井大膳大夫、信乃入道行珍」を通じて「楠木之代官為使節通申南方云々」として事書を委ねた。4月9日に房玄法印が賀名生御所より齎された南朝吉野方の綸旨に基づいて検討された返答の事書である。

 この頃、一月ほど前の3月29日深夜に起きた齋藤左衛門大夫利康殺害事件を彷彿とさせる殺人未遂事件が起こる。5月4日夕刻、「桃井馬頭直常、自武衛禅門許帰宅之處、一人勇士走懸突之、而為用意着物具、仍不突得之處、即捕之、彼女性等所支度歟云々」(観応二年四月廿五日『園太暦』)と、押小路東洞院の直義入道亭を退出した右馬権頭直常を「女性等所支度歟(通行人を装う協力者の女性等の蔭から直常の刺殺を試みたか、本人が女装していたか)」した「勇士」が刺突した。このとき直常は用心(利泰の例か)して鎧を着こんでおり、刃は通らず忽ち捕縛されている。利泰、直常いずれも直義入道との接点が見られることから、直義入道を敵視する者、すなわち故高師直や師泰の縁者や被官であろう。しかし、この事件は将軍尊氏の指図であるという噂が立ったのだろう。「将軍心底猶不和、可逃下濃州有結構」(観応二年五月十日『園太暦』)と、将軍尊氏の美濃国逃亡説が流布したようである。そして事件から4日後の5月8日、尊氏の「可逃下濃州有結構、一昨日洛中騒動、此事余気歟」(観応二年五月十日『園太暦』)といい、尊氏の美濃国逃亡説の余気によって5月8日に洛中で騒動が勃発していたことがわかる(実際には尊氏は京都から動いていない)。

 こうした洛中で騒動が起こっている最中にも、直義入道は粛々と南朝吉野方との講和のために尽力していた。5月15日には南朝吉野方の楠木左衛門尉正儀の使者が来訪する予定だったので、賀名生への使者だった房玄法印を邸に招いたのだろう。この日房玄は「錦小路殿ニ参了」と日記に記すが(観応二年五月十五日『観応二年日次記』)、直義入道は押小路高倉の新邸ではなく錦小路堀川邸も政庁として使用していたことがうかがえる。直義入道と房玄法印は「楠木使者両人神宮寺将監、〃〃入道」に引見して話を聞くが、彼らが述べるには「去月廿七日以所被進南方之武家御事書、欲進上之處、依于無許諾、無拠奏聞、仍令返進武家云々」(観応二年五月十五日『観応二年日次記』)といい、北畠親房入道らにより奏聞されることなく楠木正儀に突き返されたのであった。こうして、かつて直義入道が南朝方に帰参してまで進めた両朝和睦案は破談となった。直義入道と北畠親房禅門がそれぞれ理想としている両朝講和の隔たりが大きすぎたことがその原因であった。

 翌5月16日、「楠木之両使、参将軍家云々、有賞玩、給引出物云々」(観応二年五月十六日『観応二年日次記』)といい、神宮寺将監と神宮寺入道は将軍尊氏と対面し、引出物を給わっている。5月19日、房玄は法勝寺の上人と対面し、和睦のことに関して話しているが、「公武御合体事、北畠禅門以下不可然之由塞申候間、御和睦之儀不可成就」と語っている(観応二年五月十九日『観応二年日次記』)。さらに「於楠木者、参武家之上者、早被差進大将軍於吉野殿、然者楠木殊致軍忠、打塞吉野殿通路、不日令申攻落、御没落不可廻時日云々(観応二年五月十九日『観応二年日次記』)と、吉野方交渉の実務担当者として走り回った楠木正儀もこの講和不成就について激怒し、武家方となった上は早々に大将軍を吉野へ遣わし、楠木一党もこれに加わって吉野を攻め落とすと言い放ったという。洞院公賢は18日、「或人」の言として「楠木使、此一両日上洛、御和睦事申左右、或説、此事已申定之處、申破輩有之歟遺恨也、早可被決申歟、然者被差定大将可抽忠節之旨示之」(観応二年五月十八日『園太暦』)というが「実否以下旁不審事也」と不審を述べているが、楠木正儀は実際に北朝武家方に転じており、7月初旬には「楠木即吉野方、河州辺打廻、或焼払、依之自洛中方々向手云々」(観応二年七月九日条『園太暦』)と、わずかに1か月半程であったが、武家方となっていた。

 5月18日、直義入道は「三宝院僧正御房(賢俊)」を六条若宮別当職に還補した。これは直義入道が正月22日当時、尊氏に従属していた賢俊を解任し、「実相院新僧正御房(実相院静深)」を補任していたが、再度賢俊に還補している。六条若宮別当職は源頼朝以来の武家執政による補任がなされてきたが、直義入道はこの補任権をいまだ有していたことになる。ただ、全身全霊をかけて推し進めてきた南朝吉野方との和平交渉が挫折し、さらに義詮との不和も相俟って直義入道は政治的な情熱を失った印象がぬぐえない。直義入道が5月21日に故高師直、師泰の姉妹にあたる「尼心妙」に対して「亡父高右衛門入道心仏」の永仁4(1296)年3月1日譲状及び同日の御下文の通り「領知三河国額田郡比志賀郷」としているが(観応二年五月廿一日「足利直義袖判下文」『総持寺文書』)、高師直等への慰霊の意味もあったか。

 5月29日、臨時除目が行われているが、吉良貞家(奥州奉行)、畠山国清、石塔頼房、桃井直常、高師秋ら直義入道に近い人々が昇叙している。いずれも4月16日の除目で昇叙に洩れた人々であり、尊氏の恩賞政策が反映されたものとみられる。引付頭人の人々も見られ、政権運営上の昇叙か。

五月廿九日除目【任官】(観応二年五月廿九日『園太暦』)

神祇権少副 大中臣実直            
侍従 藤原公全            
権天文博士 安倍家清            
兵部権大輔 藤原兼俊            
兵部丞 藤原章時            
加賀権守 藤原家栄            
但馬権守 角鹿辰氏            
左近衛将監 安倍有時            
右近衛権中将 藤原公豊            
左衛門尉 伴兼春 藤原忠行 藤原良久 中原豊盛 藤原盛員 平量直 神季貞
左兵衛尉 藤原与茂 藤原忠重          
右兵衛尉 藤原久継            

五月廿九日除目【叙位】(観応二年五月廿九日『園太暦』)

従四位下 源貞家
(吉良貞家)
       
従五位上 藤原家尹 源国清
(畠山国清)
【引付衆】
源頼房
(石堂頼房)
【引付衆】
源直常
(桃井直常)
【引付衆】
高階師秋
(高師秋)
従五位下 藤原季興 紀宗顕 藤原家栄    

 6月16日、直義入道は「東大寺領伊賀国名張郡」につき、「今月中可沙汰付下地於寺家雑掌」を守護職「千葉介殿」に命じている(観応二年六月十六日「足利直義カ御教書案」『東大寺文書』)。なお、これが千葉介常胤以来、歴代千葉介が百五十年あまり継承してきた伊賀守護職として見える最後の文書である。

 直冬は6月5日辺りから貞和七年を改め観応二年の元号を用い始めており、義詮政権との同調を始めたと思われる。これは、5月中旬の吉野南朝方との和睦の失敗も含め、直義入道からの働き掛けがあった可能性もあろう。6月19日には義詮から「左兵衛佐殿」へ「長講堂領筑前国志賀島事、早守事書之旨、可被致厳密沙汰」を命じる御教書が下されており、義詮は直冬を鎮西探題として公認していることがうかがえる(観応二年六月十九日「足利義詮御教書」『西興寺文書』)

 義詮の親政体制の成立後も直義入道は義詮の後見人として扶佐する立場に変わりはなく、そのほか養子の鎌倉殿基氏及び、鎮西探題直冬の後見を在京のまま行っていたとみられ、6月25日、「伊豆国利生塔在修善寺領、同国江馬庄内一方事」として、「地頭寺岡但馬権守顕忠」が子細を言い立てて沙汰されず、直義入道がこれを「不可許容、先々施行」として二百貫の下地を寺家に沙汰付するよう「鎌倉殿(基氏)」に指示している(応二年六月廿五日「足利直義下知状」『神田孝平氏旧蔵文書』)。九州の沙汰については7月18日には豊後国の「野上次郎三郎殿(野上広資)」に「属大宰少弐直資手、致忠節」を賞している(観応二年七月十八日「足利直義御教書」『野上文書』)

 6月26日、臨時除目が行われ、武家においても叙位任官者が見られる。

●六月廿六日除目【任官】(観応二年六月廿六日『園太暦』)

内大臣 藤原長定    
大納言 藤原公名    
中納言 藤原忠嗣 藤原家信  
参議 藤原家賢    
式部少丞 源繁氏
(細川繁氏)
   
兵部大輔 源助時    
宮内卿 菅原高嗣    
木工助 平量重    
兵庫助 藤原宗保    
播磨守 源直常
(桃井直常)
   
備前守 藤原行熈
※行願寺造営功
   
周防守 源成光    
伊予守 源元氏
(細川元氏)
※安国寺造営功
   
左近衛中将 藤原師良    
左近衛将監 源政氏
(細川政氏)
   
左衛門尉 平重久 源盛長 藤原俊行

●六月廿六日除目【叙位】(観応二年六月廿六日『園太暦』)

従四位下 源和義
(石橋和義)
   
正五位下 源顕氏
(細川顕氏)
   
従五位上 藤原信定    
従五位下 源政氏
(細川政氏)
源繁氏
(細川繁氏)
藤原雅輔

 こうした中で、これまで北朝武家方として戦っていた人々が、南朝吉野方へ参向する事例が増え始める。南北の和平案も塞がり、武家方でも再度の内紛が囁かれている中で、人々の諦観があったのかもしれない。

 そして、直義入道と義詮の不和の余波が信濃国において紛争を惹起した。直義入道に出仕する「諏方信濃守代禰津孫次郎」(観応三年正月「佐藤元清軍忠状」『佐藤文書』)と尊氏方の信濃守護小笠原兵庫頭政長の守護代「小笠原余次為経、同十郎次郎」が6月29日、「信濃国府郡野辺宮原(須坂市宮原)」で合戦となっている(正平七年正月「武田文元軍忠状」『古文書』)。直義入道や尊氏らが指図したものではなく、偶発的に起こったものとみられるが、「信濃守直頼」の国司代「禰津孫次郎宗貞以下輩」と、守護代との間で確執が起こっていたのだろう。この信濃合戦はその後、直義入道の北陸出奔に従った「諏方信濃守、経北陸道打越信州」という加勢や直義入道に従う「村上小中條」「上杉率数千騎」「甲州武田上野介」の信州攻め、そこに守護代小笠原政長の信濃帰国での反攻もあって半年もの間、動乱が続くことになる。

直義入道の政務復帰

 観応2(1351)年7月8日、9日の連日にわたり、南朝吉野方に転じた楠木正儀のもと「和泉国御家人和田蔵人助氏」らが「下村次郎左衛門尉平井入道城郭焼払」っている(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)

 この頃、京都においても「世上事以外騒々、所詮隠謀族及広」(観応二年七月八日『園太暦』)といい、不穏な空気が広がっていたことがわかる。また「楠木即吉野方、河州辺打廻、或焼払、依之自洛中方々向手云々」(観応二年七月九日条『園太暦』)という和泉、河内の騒乱も伝えられていた。そして、「武衛禅門大略如独身、近々可有事旨風聞」(観応二年七月九日条『園太暦』)といい、直義入道は孤立している風聞が広がっていたこともうかがわれる。また、宰相中将義詮は7月9日、「八幡宇佐宮」の「神領筑前国立岩別府事」に関して、「太宰筑後守殿(筑後守藤原頼尚)」に「内山田彦七」による濫妨を停止し、宇佐宮に「可被沙汰付下地於清輔跡」を命じている(観応二年七月九日「足利義詮御教書」『到津文書』)。これを受けて9月5日、頼尚は筑前国の「守護代」に執行を命じた(観応二年七月九日「武藤頼尚施行状」『到津文書』)

 7月13日、洞院公賢は御所から帰宅した春宮大夫実夏より「播州蜂起之間、義詮朝臣可発向以顕行、今日奏聞之旨有勅語云々(観応二年七月十三日『園太暦』)といい、播磨国において赤松勢による叛乱が勃発したことで、義詮直々出兵の奏聞がなされた。挙兵した「権律師(権律師則祐)」は正平元号を用いた「賀茂社領塩屋庄」に禁制を発給していることから(正平六年八月七日「権律師則祐禁制」『賀茂社古代庄園御厨』)、則祐は吉野南朝方に寝返っていることがわかる。赤松則祐(妙善)の挙兵は大塔若宮(大塔宮護良親王子)と思われる「宮将軍」を奉じており、のち尊氏の南朝方参向時に仲介していることから、かなり以前より南朝吉野方と通じていたことが察せられる。

 このような騒擾の中で、7月18日「錦小路禅門、政道辞退事、以三川判官入道、数返有問答云々」(観応二年七月十九日『観応二年日次記』)と、直義入道は二階堂三河判官入道をして突然政道からの引退を尊氏に申し出た。これは尊氏にとってもあまりに意外で、18日、19日の「一両日」数度に亘って使者が両者を往復している。しかし、直義入道の政務からの引退の意思は固く「入道対将軍尽心底、所謝世務事、更非為身」(観応二年七月廿日『園太暦』)と、政務からの引退の意思は決して自分を考えての事ではないと心底より訴えた。この衷心の訴えに尊氏も引き留めきれず「所詮将軍如御返答者、政道事辞退之上者、可致其沙汰也」(観応二年七月十九日『観応二年日次記』)と認め、「且相公羽林可有存知之由、以判官入道被申之云々(観応二年七月十九日『観応二年日次記』)とした。ところが、この知らせを受けた義詮は「相公不快、此上者速所辞申也、毎事不可及口入之由演説」」(観応二年七月廿日『園太暦』)と激怒し、「随即諸軍勢以下、早可参申三条坊門之旨相触方々」という騒ぎとなった。直義入道はこの騒動を受けて「随而即籠居西郊辺云々(観応二年七月十九日『観応二年日次記』)とすぐさま西郊へ隠退するが、「夜景所々軍士横行、今夜可有事之由云々」と京都の夜は騒擾に包まれている。結局「然而無為曙了」(観応二年七月廿日『園太暦』)、「今夜騒動、然而無殊事」(観応二年七月十九日『観応二年日次記』)と、兵乱に発展することなく夜は明けた。播磨国出兵の軍勢催促もあり、京中には各地の兵が集っていたのであろう。一方、「和田近江守最前逐電、今河駿河守(今川頼貞)十八日夜」は18日、「大平出羽守(大平義尚)十九日夜」は19日夜に京都から逐電したようである(寛応二年七月廿一日『観応二年日次記』)

 直義入道の隠退の理由は「是為天下静謐之由称之」(観応二年七月廿三日『園太暦』)としている。「入道対将軍尽心底、所謝世務事、更非為身」(観応二年七月廿日『園太暦』)と尊氏に訴えており、播磨国の赤松挙兵の一因は直義入道と義詮の不和の風聞に嫌気がさし、吉野南朝方と通じた可能性がある。また、直義入道自身も嫡子如意王丸の死や、南朝吉野方との和平論破談に精神的に追い詰められていた可能性もあろう。直義入道の政務引退を聞いた義詮の激怒ぶりから見ても、義詮は個人的な気持ちとは別に、直義入道を政道の先人としては信頼し、後見人として重用する意思は強かったことが感じられ、鎌倉居住時以来養父として後見を受けた恩人であると同時に、執事師直を討った仇敵という愛憎渦巻く感情が垣間見える。

 翌7月21日、前日の直義入道政務引退の申し出により「武衛禅門毎事辞退、向後者可為宰相中将成敗之旨、昨日昨日状也、一昨日事歟、治定了」したことで、洞院公賢は「此上表事併為都鄙静謐云々、無相違者、万人安堵歟、不然蜂起者為之如何云々」と評す(観応二年七月廿一日『園太暦』)。ところが、21日夜から22日明方にかけて「世間有喧嘩声、不知是非、天曙之後、彼是云将軍逐電云々、或又相公逐電云々」という風説が流れる(観応二年七月廿二日『園太暦』)。「曾不信受之處、午後聞、彼三輩更不動也、而邪侫輩少々逐電、陰謀之心露顕、不能左右歟」という。その「陰謀之心」が発覚して逐電した「邪侫輩」とは、「土岐刑部少輔(土岐頼康)、細河刑部大輔(細川頼春)、仁木右馬助(仁木義長)并舎弟修理亮(仁木義氏)、春日部雅楽助(赤松貞範)」という。このほか「(土岐)同孫二郎、遠山明智三郎」「高弁房」(寛応二年七月廿一日『観応二年日次記』)が逐電しているが、いずれも義詮と縁の深い人物である。土岐一族の名が多くみられるが、数日後には彼らは南朝吉野方として「濃州土岐一族蜂起」しており、土岐一族は南朝吉野方へ転身したと思われる。仁木右馬助兄弟は播磨、摂津陣以来、遺恨のある石塔頼房を討つべく出兵したのだろう。実はこの頃、義詮も南朝方へ「降参事」を奏上しているが(観応二年七月廿八日『園太暦』)、これは義詮の独断で行われたとみられ、自ら南朝方へ「降参」と称して「蒙勅免給綸旨之由自称」(寛応二年八月二日『観応二年日次記』)と標榜することにより、離反を企てる人々の心を繋ぎ止めようと図るとともに、赤松則祐妙善の蜂起や南方戦線で勢いづく吉野方の鋭鋒を鈍らせようと謀ったのかもしれない。

 この騒動と時を同じくして、「宰相中将殿、可被発向播州云々、仍門出云々、高土佐宿所へ被出云々(寛応二年七月廿二日『観応二年日次記』)と、播州出兵のため三条坊門亭から高土佐守師秋の屋敷に門出している。ところが同22日、尊氏は「将軍以弾正少弼朝定今一人忘却等、問答及七八反、遂如元可為禅門沙汰之旨落居、将軍禅門相公三人合体、昨日殊有快然之所談、就中相公以上三人、重有掲約告文之由風聞」という(観応二年七月廿三日『園太暦』)と、急遽直義入道と親しい上杉弾正少弼朝定らを使者として直義入道のもとに派遣し、政務引退の翻意を求めたのである。そのやり取りは「七、八反」に及ぶもので、尊氏の真剣さが伝わる。尊氏としてはもともと直義入道の政務引退に反対しており、先日も二日間に亘って説得に努めているほどであるが、今回の尊氏の急な行動は、

(一)義詮では諸将の独断の行動、離反を食い止め得ないこと
(二)義詮の未熟さでは、政務を親裁することに不安が残ること
(三)義詮が南朝方に「降参事」を奏上し、「蒙勅免給綸旨之由自称」することで、
   南朝方の攻勢を抑えようとしていること

といった理由が考えられよう。

 尊氏は義詮に強く迫り「遂如元可為禅門沙汰之旨落居」に決したと考えられる。こうして「就中相公以上三人、重有掲約告文」が交わされたのである(観応二年七月廿三日『園太暦』)。三名の和親を契約告文としたことは、諸将の逐電が尊氏、直義入道、義詮三名の不和によるものとの認識があったことを物語る。

 このような中で、近江国では佐々木道譽が南朝吉野方に通じて挙兵。さらに「濃州土岐一族蜂起」も起こった。佐々木道誉や土岐一族が南朝に転身した大きな理由は、やはり直義入道との確執であろう。義詮と謀った策略等ではなく、実際に南朝方と連絡を取った自主的な転身と受け取れ、事実、道誉は南朝吉野方から「可追討尊氏卿父子、直義法師等」の綸旨を受領しているのである(正平六年八月二日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)。そして尊氏は佐々木道誉の説得は余の人物では成し得ないと感じ、自ら「且加問答、且為戦伐云々(観応二年七月廿七日条『園太暦』)している。

 ところが、契約告文が交わされた23日夜にも「蜂屋近江守廿三日夜逃散、左土判官入道子」「阿保肥前(阿保忠実)(観応二年七月廿一日、廿三日『観応二年日次記』)、24日夜には「二階堂三川入道行珍(行諲の誤)、海老名六郎等」が逐電(観応二年七月廿五日『園太暦』)。25日にも「武家輩逐電猶々添其数、仁木兵部少輔(仁木頼章)、細川刑部少輔(頼春?)同阿波将監(細川元氏)等又不見之由」(観応二年七月廿五日『園太暦』)といった人々の逐電が伝えられている。

 ただし、「蜂屋近江守(佐々木近江守の誤)」の誤記と見られ、尊氏から父「左土判官入道(佐々木道誉)」のもとへ遣わされたのだろう。阿保肥前守忠実は高師直与党であったことから、政務復帰の直義入道に反発したものだろう。二階堂行諲と海老名六郎は直義入道に同心して逐電したとみられる(観応二年七月卅日『観応二年日次記』)。「仁木兵部少輔、細川刑部少輔、同阿波将監等」については、丹波国、丹後国及び播磨国の南朝勢の抑えとして派遣されたとみられ、約二十日後の8月13日には、義詮が「仁木兵部大輔殿(仁木頼章)」に対し「高雄神護寺領、丹波国吉富本新両庄事」について神護寺に下地の沙汰付けを指示しており(観応二年八月十三日「足利義詮袖判御教書」『神護寺文書』)、逐電だったわけではなかったことがうかがえる。

 こうした北朝武家方の騒動をあざ笑うかのように、25日には南朝吉野方の楠木左衛門尉正儀は和泉国御家人らを率いて「罷向陶器城致合戦」(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)しており、30日まで攻防が続いている。

 このような中、7月27日早朝、「鎌倉宰相中将室家去夜男子平産、祝着云々、自仙洞被賀仰、又被遣御剣云々(観応二年七月廿七日条『園太暦』)と、義詮に嫡子となる男子が誕生した。祖父となった尊氏は、もともと27日の近江出立の予定を「而依新生事延引、明日云々(観応二年七月廿七日条『園太暦』)と変更。翌28日に「将軍進発江州、是道譽以下輩構城郭於江州」し「今日可逗石山辺云々」ている。尊氏の近江出兵に際して「武衛禅門宰相中将至河原辺打送、帰家」(観応二年七月廿八日条『園太暦』)と、直義入道と義詮の両者はともに尊氏を「河原(二条河原か)」に見送っている。その後、直義入道は仙洞御所に「中條備前前司挙房」を遣わし、「大納言宰相中将発向之間、為申暇可参仕之處、依所労不参、謝申之由」を伝えている(観応二年七月廿八日条『園太暦』)。尊氏や義詮は単に「所労」という一言で仙洞への暇乞いもせず、光厳院ほか持明院統の皇統を軽視している姿を鮮明にしていることがわかる。彼らは名分を得るためのみに持明院統の皇統を利用していたのである。

 義詮の播州出兵については、本来は7月28日に「相公明曉可進発播州云々」の予定であったが、「宰相中将、今日欲発向播州、而俄延引、入夜門出云々、延引何事哉、尤不審、或云、左衛門佐和義同可相伴也、而今暁俄出家、依此事出門不吉延引云々(観応二年七月廿九日条『園太暦』)といい、29日早朝に相伴予定の石橋左衛門佐和義が俄かに出家して不吉であったために延引されたという噂があった。ただ、義詮は29日朝に「出門着東寺」(観応二年八月一日条『園太暦』)し、「廿九日夜、鎌倉殿依御発向播州、御出東寺」(観応二年八月「得江石王丸代長野光信著到状」『得江文書』)と出兵している。京都の留守は直義入道のもと、京都守護の渋川直頼が警衛する体制であったが、翌30日に直義入道が京都を出奔した際、「自三条坊門出河原、々々北行」(観応二年七月丗日条『園太暦』)とあるように、直義入道がこのとき居住していたのは、先日義詮に入居を拒まれた三条坊門邸であったのだ。義詮の真の心情は分かりかねるものの、彼は尊氏や直義入道と契約した告文に従い、協調して態勢の立て直しを考えていたと推察される。また、尊氏も近江出兵の予定日であった7月27日、「鎮西探題」の「兵衛佐殿(足利直冬)」に対して「あか松の妙せん(闕)急ゝにせめのほり(闕)もよおして(闕)猶ゝおそく(闕)いそきゝゝゝよを日につき(闕)妙せん律師(闕)」(観応二年七月廿七日「足利尊氏御教書」『深堀記録証文』)と、赤松権律師則祐(妙善)の追討を命じる御教書を下し、これを受けた直冬も「河尻肥前守殿」に播磨国の律師則祐追討のため「去月廿七日将軍家御教書如此、任被仰下之旨所発向也」とし、「肥前国地頭御家人等、早速可馳参之旨可相蝕之、至難渋之輩者、可令注進交名之状如件」(観応二年八月廿七日「足利直冬文書」『深堀記録証文』)を命じた。

 そして義詮が京都を出立したのとほぼ同じ時刻、京都に「仁木右馬助逐電下著伊賀、集勢可殺伊勢守護石堂旨結構之處、勢州軍士押寄、勢州合戦、伐取右馬助舎弟修理亮云々、実否不審(観応二年七月廿九日条『園太暦』)という報告が届いている。21日夜に京都から姿を消した仁木右馬助義長、弟の修理亮義氏は守護国である伊賀国に下向(すでに千葉介氏胤は伊賀守護を解かれていることがわかる)し、直義入道の腹心、伊勢守護石塔右馬頭頼房を攻めたものの大敗したのである。具体的な合戦の日にちは不明だが、7月27日前後であろう。仁木 は尊氏の腹心であり、直義入道が義詮を見限ったというような憤懣から逐電し、播磨合戦以来、宿意の直義入道与党・石塔頼房の討伐を企てたとみられる。

 なおこの頃、義詮の「降参事」を「御許容」したという風聞があったが、この風聞は誤りで、激怒した南朝吉野方は7月28日、「右兵衛督為忠(二条為忠)」をして「義詮降参事、無勅免之處、御許容之由有風聞云々、太以不可然、急可発向京都之由、可有御下知山陽山陰官軍之由、天気所候也、以此旨可令申入給、仍言上如件、為忠謹言」という文書を「帥大納言殿(徳大寺公量)」へ進めている(正平六年七月廿八日「御子左為忠申状」『観応二年日次記』)。南朝吉野方は義詮の「降参事」を全面否定したのである。8月2日に吉野朝廷が「佐々木佐渡大夫判官入道」に対する「可追討尊氏卿父子、直義法師等」を命じた綸旨でも「義詮進退事、頻蒙勅免給綸旨之由自称云々、一向不実也」と激怒している(正平六年八月二日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)

 一方、近江国石山寺に布陣していた尊氏は、7月29日に「経廻当寺寺僧坊」し、ここから「以命鶴丸差使、問答道誉」している(観応二年七月丗日条『園太暦』)

直義入道の出奔

 観応2(1351)年8月1日深夜丑刻、洞院公賢が就寝しようとしたとき、「按察卿(日野資明)送使者」が洞院亭を来訪。「武衛禅門没落事、此間風聞、只今已出門之由承之、驚嘆云々」(観応二年七月丗日条『園太暦』)が伝えられた。「日来将軍宰相中将合体之由、有種々誓約之間、相憑之處、将軍発向江州、相公進発播州、已昨朝出門著東寺、両人相合、可攻禅門之由、有潜通事、仍俄没落、是世務無執心之旨、度々謝遣之處、不及許容、有此謀之間、有怨望歟、桃井上椙党類以下、其勢及数千騎、自三条坊門出河原、々々北行、経大原路越北国云々、其間有種々説、洛中事不可狼藉之由、大和将監氏政相触之■■守護渋河可致沙汰云々(観応二年七月丗日条『園太暦』)という。直義入道は政庁たる三条坊門邸(義詮から託されたか)にから俄かに出奔し、「桃井上椙党類」らとともに洛北大原を経由して北陸へ向かったようである。

 直義入道は東の尊氏、西の義詮から挟撃されるという「有潜通事」を受けて京都を去ったが、洞院公賢は直義入道の心情を推して「世務無執心之旨、度々謝遣之處、不及許容」として無理やり政務に引き戻された挙句に「有此謀之間、有怨望歟」という感想を漏らす。ただし、後日の尊氏や義詮の対応を鑑みても、両者が直義入道の攻撃を意図していた様子は微塵もない(この他にも鎌倉末から観応の擾乱期にかけての「定説」は、軍記物に過ぎない『太平記』を史実と誤認したケースが余りに多い)。とくに赤松則祐妙善の挙兵は「将軍宮(大塔若宮か)」を奉じた、南朝吉野方と強く結託した看過すべからざるものであり、鎮西の左兵衛佐直冬にまで至急派兵するよう命じる(観応二年七月廿七日「足利尊氏御教書」『深堀記録証文』)ほどの事態だったのである。

 直義入道に従って北国落ちしたのは「桃井上椙党類以下、其勢及数千騎」であるが、彼らが尊氏や義詮に対して強い敵意を抱いているのは周知の事実であり、尊氏や義詮がともに京都を離れた翌日、「両人相合、可攻禅門之由、有潜通事」という虚構を直義入道に吹き込み、直義入道を事実上「拉致」したものであろう。直義入道自身も多くの理想や希望が潰えて精神的にも不安定であり、義詮や尊氏のまわりの「嗷訴之輩」によって自分たちは排斥されているという被害者意識に襲われていた可能性も否定できず、桃井や上杉の意見を容易に受け入れてしまったのかもしれない。直義入道は離京に当たり、大和将監氏政に洛中の狼藉を禁じる旨を触れ、「■■(京都カ)守護渋河(渋川直頼)」にその沙汰を命じている(観応二年八月一日条『園太暦』)

●七月三十日「錦小路禅門下向北国云々、供奉人数」(観応二年七月丗日『観応二年日次記』)

治部卿有範 山井有範  
藤三品言範 山井言範  
修理大夫 足利高経  
桃井兄弟父子三人 桃井直常
桃井直信
桃井直和
 
上椙弾正少弼 上杉朝定  
上椙宮内少輔 上杉朝憲  
上椙左馬助 上杉朝房  
山名伊豆守 山名時氏  
畠山修理権大夫兄弟 畠山国清
畠山義深
 
上野左馬助兄弟 上野頼兼
上野氏勝
 
吉良治部大輔 吉良満貞 8月12日に北陸行と伝わる
気良入道 吉良  
高土左守父子三人 高師秋
高師義
高師有
 
宇津宮弾正少弼 宇津宮高貞  
梶原河内入道    
逸見甲斐守    
海老名一族    
長井大膳大夫 長井広秀  
長井治部少輔    
水谷刑部少輔    
森掃部助    
中條刑部少輔 中條  
縫殿助入道    
二階堂山城判官 二階堂  
三川判官入道 二階堂行綱入道行諲  
伯耆入道 二階堂道大  
伊勢次郎   足利家根本被官
因幡左衛門入道    
諏訪信乃守 諏訪直頼 この後、北陸を経由して信濃に入り、小笠原政長と合戦する。
寺岡越中入道一族   足利家根本被官
土肥尾張権守    
土肥伊賀守    
四方田入道    
八島    
気良三郎左衛門尉    
赤松二郎左衛門尉    
奉行人等    

 8月2日、南朝吉野方は「佐々木佐渡大夫判官入道」(正平六年八月二日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)に対して、「可追討尊氏卿父子、直義法師等」を命じ、「土岐左馬頭殿」に対しては「美乃尾張両国、寺社本所領等事」について狼藉を禁ずる綸旨を出している(正平六年八月二日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)。なお、佐々木道誉の挙兵後、「濃州土岐一族蜂起」(観応二年七月廿七日条『園太暦』)も起こっており、「土岐左馬頭殿」は土岐刑部少輔頼康や孫次郎らとともに挙兵した土岐一族であろう。

 一方、8月1日中に直義入道出奔の報告を受けた義詮は、すぐさま帰京を朝廷に奏上しており、8月2日朝、洞院公賢は「宰相中将、明日可帰宅」の報告を受ける(観応二年八月二日条『園太暦』)。義詮は即日「京都守護、細川陸奥守顕氏可沙汰云々」しており、現在の「■■(京都カ)守護渋河(渋川直頼)(観応二年八月一日条『園太暦』)と交代させた。渋川中務大輔直頼は義詮の義弟で故高師直の女婿に当たり、直義入道の義甥でもあったが義詮の影響力が強く、京都守護を「顕氏者、禅門専一之仁歟之由、日来有其聞」(観応二年八月二日条『園太暦』)へ交代したのは、直義入道の翻意を促すためと推測される。また、顕氏は当時の在京大将としては最上位の正五位下の官位を持っていたこともあろう。なお、公賢は顕氏について「又属相公、彼是非言詞所及、末代為之如何々々」(観応二年八月二日条『園太暦』)と批評している。

 義詮は8月3日には東寺に帰還。そして「相公羽林、自東寺帰京」し(観応二年八月三日『観応二年日次記』)、「今日、宰相中将義詮朝臣帰宅」した(観応二年八月三日条『園太暦』)。義詮の「帰三条坊門亭」(観応二年八月三日『建武三年以来記』)への帰宅を受け、朝廷は「被遣勅使俊冬朝臣、謁之云々」た(観応二年八月三日条『園太暦』)。義詮の急な帰京は、直義入道出奔による混乱を抑え、南方の和泉国、河内国で活発な軍事活動を見せる南朝吉野方からの警衛のためであろう。義詮は予てより「頻蒙勅免給綸旨之由自称」(正平六年八月二日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)して吉野方の鋭鋒を挫かんと企てていたが、吉野方からは「義詮降参事、無勅免」(正平六年七月廿八日「御子左為忠申状」『観応二年日次記』)、「一向不実也」(正平六年八月二日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)と完全否定されて、火に油を注ぐ形となっており、京都の不安定は情勢は、ますます南朝勢の付け入る隙を与えていたのである。

 8月4日、こうした京都の情勢をいち早く察した南朝吉野方は、比叡山に対して「入道左馬頭直義朝臣」の不実を詰って「果蒙天譴没落北国」と述べ、「加之諸方官軍已笈義兵、高氏卿義詮等失其勢之時分也」とし、「満山勠衆力、不日運良策、早発向京都、可傾覆窠窟也」を命じている(正平六年八月四日「後村上天皇綸旨」『観応二年日次記』)。南朝吉野方は北朝方の官途や「尊」字を認めず、義詮に至っては無位無官の扱いとなっており、南朝吉野方の怒りの程が察せられる。

 これらの事態は、すべて尊氏の思惑とは異なる方向へ進んでいたと思われる。そもそも尊氏は後醍醐天皇敬愛の心底を持ち続け、その想いは生涯変わることはなかったとみられる。しかし、鎌倉没落以降の武士の思惑は、事実上武家の棟梁に祭り上げられた尊氏の個人の思想を押し流し、中先代の乱で関東に下って以降は天皇との意思疎通を欠き、尊氏を敵視する勢力に取り込まれた天皇と心ならずも敵対することとなったのである。これ以降、すべての事象が尊氏の思惑とは異なる方向へ進むこととなり、ついには一族一門でも対立する「観応の擾乱」が引き起こされるまでにこじれるのであるが、尊氏の思惑はあくまでも、武家による政治を継続しつつ(直義入道は今後武士が公家に従属することは想定できないと北畠親房入道に述べている。これは直義入道が南朝との交渉で主張した原則的な考えであり、当然尊氏も承認していたであろう。)、持明院統と大覚寺統の両皇統を存続し、かつての関東と同じく迭立の原則を守る政体であった。しかし、南朝方はこれらを認めることなく、身を捨てて和平交渉を推進した直義入道を一方的に敵視して交渉を打ち切り、さらには義詮の「降参事」の偽称が重なり、南北の和平交渉は中断してしまったのである。

 こうした中でも尊氏はなんとか北朝政権の立て直しを図るべく、まずは8月4日、石清水八幡宮の「山井権別当御房(山井昇清)」へ、「安富三郎左衛門尉」を奉行として「長田左衛門蔵人頼清」を「御使」に「天下静謐祈祷事、近日殊可被致精誠之状」を奉じたのであった(観応二年八月四日「足利尊氏御教書」『菊大路文書』)。そして、同4日、自らも近江国石山からの帰途につくが、風聞では「武家辺事、将軍帰洛有無、縦横之上、宰相中将又可下向旨」があり(観応二年八月四日『園太暦』)、尊氏帰京後に義詮の播磨再征が議されていたようである。そして翌5日、「種々縦横之處、未刻将軍自石山帰洛、且神妙事歟」(観応二年八月五日条『園太暦』)と、尊氏は未刻に帰洛した。尊氏は自邸ではなく義詮の「居三条坊門第給」っており(観応二年八月五日『建武三年以来記』)、改めて義詮や諸奉行と直義入道や南朝方に対する善後策を講じたと考えられる。ここで尊氏等は直義入道を支える人々を追討し、直義入道自身には帰洛を願うことが再確認されたとみられる。

 同5日、義詮は8月3日に若狭国の「美作左近大夫殿(本郷貞泰)」からの報告にあった「所詮山名伊豆前司(山名時氏)、上野左馬助(上野頼兼)、赤松次郎左衛門尉等、没落若狭国云々、早相催国中軍勢等、可令誅伐之状」(観応二年八月五日「足利義詮御教書」『古証文』)が下されている。山名時氏らは直義入道と同道して越前国へ赴いたのち若狭国に侵入したが、義詮は彼らの追討を命じた。一方で直義入道は越前国より祇園社の顕詮法印に「京都対治祈祷事」を命じている(観応二年八月六日「足利直義御教書」『祇園社記続録』)。いずれも対立の主将を指さず、まわりの人々の鎮定を図っている。直義入道は義詮や尊氏に対する敵意は薄く、尊氏に至っては直義入道を直義党の人々から取り返そうとする意志が見て取れるのである。

 8月6日夜、洞院公賢邸を訪れた実性法印が「武家説等談之」したが、それによれば「将軍猶可下向関東之旨骨張珍事也、然而今日有評定」という(観応二年八月六日条『園太暦』)。まず、「遣使者細川陸奥守、其外猶差加之、於北国武衛禅門、在越前国金崎城云々」して、「枉可帰洛旨懇望、旨趣等難尽之、所詮桃井随順諸人不受、仍却彼上洛、如元可世務云々者」という御教書を「越前国金崎城」の直義入道のもとへ「禅門専一之仁歟之由、日来有其聞」(観応二年八月二日条『園太暦』)の新京都守護細川顕氏を使者として派遣し、直義入道の帰洛を「懇望」することで一決した。さらには「彼左右以後、自身進発関東、宰相中将可在京云々者」と、直義入道の政務復帰後は、尊氏自身が関東に下向するという計画もあることが示された。これは関東が上杉民部大輔憲顕を筆頭に直義入道や直冬党の人々が多く、尊氏自身が関東管領基氏の後見として関東(鎌倉)に移り、直接関東、東北を支配して、京都の支援を行うべきと考えたのではなかろうか。

 そして評定直後と思われる8月6日申刻、直義入道の帰京を懇望する使者「顕氏進発北国云々」した(観応二年八月六日条『園太暦』)。「其旨趣者、猶有合体可有帰洛之由云々(観応二年八月六日『観応二年日次記』)であった。ただ、評定では「桃井随順諸人不受」という条件が附されており、彼らが直義入道を引き留める、または直義入道が彼らを見捨てられないという可能性は十分に予想されることであった。尊氏としては「彼左右以後、自身進発関東」と述べるなど、直義入道の帰洛と政務復帰を楽観視しているが、「高倉禅門下向北国了、(仍)所遣使者也、隨(其)左右令用意、可致忠節候(之)状」(観応二年八月六日「足利尊氏御教書」『観応二年日次記』)という文書を関東及び中国地方の国人らに送っている。直義入道及び直冬の影響力がある地方に送り、騒乱や混乱を未然に防ごうとしたものであろう。

 さらに同6日に実性法印が公賢へ報告したことに、尊氏が「南山御合体、猶同可申之」(観応二年八月六日条『園太暦』)があり、尊氏は吉野南朝方との関係修復を自ら主導で試みようとしていたのである。ところが、義詮はデマの流布により南朝方の機嫌を著しく損ねている。この上は、事実上政務から手を引いていた尊氏が和睦の主体とならざるを得ず、翌8月7日夜、「法勝寺恵鎮上人」が使者として京都を出立する(観応二年八月七日『園太暦』)。彼は「為将軍使参南山、是和睦申入云々」とある通り、将軍尊氏の公使という立場で賀名生御所へと派遣されたのであった。奏上文の中で尊氏は「天下事、宜在聖断之由」を約束しており(観応二年八月廿五日「足利尊氏奏上文」『園太暦』)、北朝持明院統の崇光天皇を退位させて後村上天皇を据えるという、踏み込んだ文面であったのかもしれない。洞院公賢はこの和睦のことにつき「為御不審」を問うため、子息の春宮大夫実夏を恵鎮上人に同行する「円勝房」に遣わしたが、円勝房は「所労之間、雖固辞、武命厳密可察」と返答している(観応二年八月七日『園太暦』)。尊氏の南朝との和睦にかける強い意志が感じられる。

 10日の時点ではまだ越前の直義入道との交渉も南朝との和睦も結論が出ていなかったが、越前の直義入道の動向は、直義入道に同行している信濃前司の諏方直頼が任国入部を行いつつある情報が伝えられていたようで、尊氏は信濃守護の「小笠原遠江守殿(政長)」へ「高倉禅門下向北国之間、遣使者了、隨其左右重可被仰之由、先度雖被成御教書」(観応二年八月十日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原古文書』)と現状の交渉は先日御教書の通りと報告するが、「若乱入当国者、切塞通路固、可致防戦旨、可相触一族地頭御家人等、将又自越後国、打入上野国者、率軍勢馳向彼所、可合戦忠節之状」(観応二年八月十日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原古文書』)を送達した。

 そして12日に洞院公賢邸を訪問した五辻宰相入道が述べるには、「恵鎮上人、自南方帰洛、和睦儀不聞食入、空被追上」という(観応二年八月十二日『園太暦』)。南朝方は恵鎮上人の提案に「不及聞召旨趣、法勝寺上人者、追出山中云々」と(観応二年八月十二日『観応二年日次記』)と、まったく聞く耳を持たず、恵鎮上人を山中に追放したのであった。この南朝方との不調停の影響によるものか、同12日、「吉良治部大輔、問注所美作守、逐電向北国云々(観応二年八月十二日『園太暦』)と、吉良治部大輔満貞、問注所美作守顕行が越前国へ去った。

 こうした状況下にあっても、尊氏は南朝方との和平交渉を粘り強く続けていく。もともと尊氏や直義入道の後醍醐先帝敬愛の心は変わらず、先述のように南朝方を正統とする真情も変わることはなかった。尊氏や直義入道がここまで南朝吉野方との和平を推し進めたのはこうした理由が大きかったと推測され、皇統の安定に伴い、元弘の大乱から二十年にもわたって続く擾乱を決着させる意図があったと思われる。

 8月14日は「本日本命日也」(観応二年八月十四日『園太暦』)といい、後醍醐先帝の本命日であった。観応2(1351)年は「後醍醐院十三聖忌」であり、8月16日、天龍寺において夢窓疎石禅師を導師として法要が営まれた。このとき尊氏は天龍寺に対して「天龍寺事、為奉報謝先皇之恩徳、蒙今上之勅命為御開山建立欠訖、公私之発願濫觴異他、現当之願望、仰伽藍之照鑑、仍当家之子孫一族家人等、及末代専当寺帰依之志、寺院并寺領等事、可抽興隆之精誠、若現不義及違乱者、永可為不孝義絶之仁候也、可得此御意候」(観応二年八月十六日『園太暦』)という「自筆置文」をしたためている。この翌日17日、夢窓国師は「開山退院」し、19日に天龍寺二世として「東陵和尚入院」した(『禅林僧伝』)。国師自身の病のためとみられ、9月7日には「両院密々御幸天龍寺、夢窓国師不食所労難治、大略待時躰也、仍幸云々」(観応二年九月七日『園太暦』)といい、光厳上皇、光明上皇が密かに天龍寺に行幸して見舞うほどであった。そして、9月19日にも「夢窓国師所労猶危急」を聞いた両院は「可訪聞食」と急な出立を指示し、「両院密々幸天龍寺云々」と再度の見舞いをされている(観応二年九月十九日『園太暦』)。両院は「御問親切」、国師も「雖在病、奏対移刻、無少怠色」と語り続けたという。上皇らは還御後「謂内臣曰、噫国師西帰、世出世之要、誰復益於朕已矣乎」と嘆いた(『夢窓国師年譜』)

 この頃、直義入道の帰還要請は一時断念されたとみられ(「所詮桃井随順諸人不受」という条件を呑めなかった可能性があろう)、直義入道を取り巻く人々に対する追討軍が発せられる。8月18日に出京して近江へ向かった軍勢は「将軍、相公羽林下向江州」の両大将が率いており、その勢は「二百余騎」ほどであった(観応二年八月十八日『観応二年日次記』)。尊氏等は「北国たひちのために、あふミの国へたちこへ候」(観応二年八月廿日「足利尊氏御教書」『河野家之譜』)とあり、目的は「北国退治」のためであった。ただし、「両御所御下向江州」は、両名による直義入道の説得を意図していた可能性もある。その後、尊氏は「鏡宿、武者寺、四十九院、小野大覚寺、醍醐寺」(観応二年十月廿七日「松浦秀軍忠状」『松浦文書』)と進んだ。

 一方、直義入道は「嗷訴之輩誅伐事」を合言葉に御教書を発給し、諸国の地頭等に協力を求めている。しかしながら、直義入道が標榜した抽象的な「嗷訴之輩」に賛同する者はなかったのである。かつて多くの人々が共感し共鳴した「師直師泰等誅伐事」のような、人々の思いを受け止め、且つ名分のある催促理由は、直義入道にはもはや見出せなかった。それがこの苦し紛れの「嗷訴之輩」だったのだろう。人々は、直義入道に一族の存続を賭け、生死を賭ける価値を見出せなかったのである。

 8月20日、「武衛禅門、明日起越州敦賀津、可入坂本云々、出奔之間在此所云々」といい(観応二年八月廿日『園太暦』)、翌21日に越前を発って坂本へ入る計画という噂があった。さらに「明後日、赤松妙善以下宮方輩、起播州可入京云々」という(観応二年八月廿日『園太暦』)。播磨国の南朝方の赤松権律師則祐(妙善房)が挙兵し、8月22日に入京する勢いという情報も入っていた。

 8月22日、洞院公賢邸に延暦寺僧の「慈能僧正来了」して面閲。ここで伝えられたことは「武衛禅門自越州送状於山門三門跡、是洛中無人之上、吉野軍勢可打入洛中之由有其聞、御所ゝゝ御心苦之間、可幸山門之由所申入也、面々可奉保護之趣云々」という(観応二年八月廿二日『園太暦』)。この奏聞を受けた光厳上皇は「御周章、輙難有沙汰之旨時宜云々」という(観応二年八月廿二日『園太暦』)。直義入道からの使者は「武衛入道使治部卿有範朝臣」と伝わり、24日には「一條前宰相」が「近衛前関白使」として公賢邸を訪問。「山門臨幸事必定歟」と伝えている、また、慈能僧正もまた訪問して「已被仰勅答云々、旨趣推量分、頗似御許諾以外之由」と批判する。ところが、8月29日に直義入道からの使僧が上洛して、「臨幸事可被任時宜之旨申之」と述べたとされ(観応二年八月廿九日『園太暦』)、結果的に9月1日に「臨幸事、北国左右、世間説大略無相違云々、天下惣別大慶歟、有範朝臣今朝即帰国了」(観応二年九月一日『園太暦』)と、叡山臨幸は行われないこととなり、直義入道の提案は却下された。直義入道が坂本へ向かう計画であったことから、両院、主上、春宮を伴って「下向関東也」(観応二年十月十一日「足利直義御教書」『小佐治文書』)を企てていた可能性があろう。

 一方、8月25日、尊氏は近江の戦陣より改めて南朝吉野方へ先日の提案と同様「天下事宜在聖断」を願い、「急速御入洛之様、可申御沙汰候哉」(観応二年八月廿五日『園太暦』)を奏上している。その相手は「洞院殿」とあり、先般、直義入道の尽力によって父公賢卿から義絶を解かれていた洞院実世とみられる。尊氏奏状には後村上天皇の逆鱗に触れていた義詮が副状が副えられ、「重又老父捧状候、無相違之様申御沙汰候」と記した。この両状は元号を記しておらず、南朝方に配慮した形となっている。

 近江では尊氏勢も直義入道勢も入ってはいるが、9月に入っても合戦は行われなかった。これについて「将軍与武衛入道合体密談等有之、仍合戦未始云々」とあるように(観応二年九月三日『園太暦』)、その後も尊氏と直義入道との間には和議に関する話し合いが続けられていたようである。ただし、洞院公賢は「袷恰説紛紜、不能信用事歟」と評す。結局「二日合戦始、来十日可決雌雄云々(観応二年九月六日『園太暦』)という。

 9月3日には、丹後国で「当国守護上野左馬助被打、同四日、宮方勢結城已下入部、国中濫妨無度、且又但馬国悪党等可入来旨風聞云々者」といい(観応二年九月十二日『園太暦』)、9月12日に「丹後国目代光清法師」が洞院公賢邸を訪れて報告している。上野左馬助頼兼は直義入道とともに北陸へ逃れたのち、山名伊豆前司時氏らとともに若狭へ移り、8月5日に義詮の追討令が出されているが、南朝方の「結城已下」とも戦っていた様子がみられ、9月3日に討たれたのだろう。

 南朝吉野方の河内、和泉国での軍事活動は、尊氏らの和睦交渉中にあっても止むことなく、楠木正儀率いる和泉勢の和田蔵人助氏は9月7日から14日にかけて「佐野、籾井城」を責め立て(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)、淡輪彦太郎助重は9月6日から17日まで「佐野城」を攻め、18日からは12月25日まで「籾井城」を攻めた(正平七年六月「淡輪助重軍忠状」『和田文書』)。この籾井合戦は「毎日合戦」という激しいものだったようである。さらに9月7日には、石清水八幡宮に悪党が乱入し、境内を荒らしたため「祠官神人」が追い出している。このとき八幡山へ攻め寄せたのは「新田兵部少輔」とあり(観応二年九月七日『園太暦』)、「新田金野打入八幡」とも見えることから(観応二年九月十二日『観応二年日次記)、新田郡金谷村(太田市小金井町周辺か)の新田金谷氏の手勢とみられる。しかし、その「人勢五十余人、騎馬六、七騎云々」という小勢で、「八幡在家之輩牧片野之輩数百人令引率、忽以令追罰之處、彼金野切腹自害云々、当座被打殺者二十余人、被疵者十余人云々、彼被疵輩各流河云々、彼金野号宮方云々」という(観応二年九月十二日『観応二年日次記)

 一方、赤松則祐妙善の挙兵に対し、尊氏は7月27日に鎮西探題「兵衛佐殿(足利直冬)」に対して律師則祐追討の御教書を下し(観応二年七月廿七日「足利尊氏御教書」『深堀記録証文』)、これに応じた直冬も8月27日、「河尻肥前守殿」を通じて「去月廿七日将軍家御教書如此、任被仰下之旨所発向也」とし、「肥前国地頭御家人等、早速可馳参之旨可相蝕之、至難渋之輩者、可令注進交名之状如件」(観応二年八月廿七日「足利直冬文書」『深堀記録証文』)を命じている。そして直冬は「九月九日、肥前国御発向」したのである(観応二年十一月「龍造寺家平軍忠状」『龍造寺文書』)。肥前国の留守は筑後守武藤頼尚(前太宰少弐頼尚)とみられる。

 ところが、尊氏の御教書が九州に届けられる間に、世状は大きく変化しており、尊氏が則祐追討を直冬に命じた7月27日の三日後の7月30日、直義入道が突如京都を出奔した。慌てた尊氏・義詮は直義入道帰洛に尽力するが、赤松則祐の叛乱への対応も行わざるを得ず、直冬に直義入道の出奔は敢えて伝えなかったのだろう。こうした中でも尊氏は直義入道の意思を引きついで南朝方との和睦交渉も続けていた。しかし、8月7日に法勝寺の恵鎮上人が尊氏の命を受けて「南山将軍与合体事」(観応二年九月三日『園太暦』)のために南朝吉野方の賀名生御所に赴くも。取り付く島もなく山中に追放され、8月12日に「不快罷帰了」(観応二年九月三日『園太暦』)という結果となってしまう。尊氏はこれでもあきらめず、恵鎮上人の帰洛直後、「其後以二階堂三川入道、安威入道等、遣播州、以妙善申入」」(観応二年九月三日『園太暦』)と、二階堂三河入道行諲、安威入道性威の両名を、敵対している権律師則祐妙善のもとに派遣して電撃的に和睦するとともに南朝吉野方との仲介を依頼するという奇策に出た。

 則祐妙善が尊氏の代理として交渉したことにより、南朝吉野方も「頗御許諾気有之由風聞」(観応二年九月三日『園太暦』)となっており、直冬が「九月九日、肥前国御発向」(観応二年十一月「龍造寺家平軍忠状」『龍造寺文書』)して播磨国に向かったときには、すでに尊氏と権律師則祐は和睦していて、則祐を仲介人として、武家方と南朝吉野方との間で和睦交渉が再開されていたのである。直冬は進軍の最中に尊氏と赤松則祐の和睦成立の報を受けたのだろう。完全に梯子を外された形であり、直冬は肥前国へ舞い戻ると、鎮西管領一色入道道猷と戦闘状態になったとみられる。そして、9月29日には「直冬御共抽忠節」の「肥前国龍造寺又四郎家平」が「筑後守頼尚」のもと「於筑後国河北庄、一色入道々猷、同少輔孫太郎入道々勝、同兵部少輔師光、日田若狭権守、草野豊前権守、上松浦一族已下凶徒誅伐」で「家平致散々防戦」している(観応二年十一月「龍造寺家平軍忠状」『龍造寺文書』)。一色入道らは散々に敗れ「不慮式之間、無力引退日田候了」(観応二年十月二日「一色道猷書状」『入江文書』)と「田原六郎蔵人殿」へ報告している。

 9月10日には「武衛禅門勢石塔自伊勢路責入、下賀高山等相共攻戦、当国守護氏頼舎弟、将軍所補并道誉党類数輩被打取、彼輩引籠佐々木城間、馳申云々、自巳刻至申刻合戦」(観応二年九月十一日『園太暦』)といい、近江南部では近江守護の佐々木信詮や佐々木道誉配下の人々が敗れて「佐々木城(近江八幡市安土町)」へ立て籠もっている。直義入道方では「大原小佐治三郎左衛門入道殿(小佐治基氏入道)」が「上野左京亮(上野直勝)」のもと合戦しているが、直義入道はこの時点ですでに「下向関東也」(観応二年十月十一日「足利直義御教書」『小佐治文書』)を決意しており、小佐治入道にも同道を命じている。

 一方、このころ近江北部の八重山城(八相山:長浜市中野町)を攻めるため「江州醍醐寺(長浜市醍醐町)」に在陣していた尊氏は、9月11日に霊夢を見たという。その霊夢がどのようなものであったか推測するほかないが、諸方との和睦がなるというものであったのだろう。この「依霊夢事」により、諸将とともに法楽の和歌一巻をしたためて松尾社壇へと奉献した(『東文書』)。このように、尊氏は夢にまで和平の願いを見る精神状態であり、尊氏や義詮の歌からは、直義入道や後村上天皇へ我が真情が伝えられない想いを、神意を通じて伝え叶えようとする姿が見てとれる。

                        正二位源尊氏
おさまれとわたくしもなくいのるわかこころを神もさそまもるらん

                     参議左近中将源義詮
おさまれと代をゝし思こゝろよりふかくそたのむ神のちかひを

                        命鶴丸
世ヲイノル君カ心シマコト阿レハ神モウケ見テサソマホルラム

 ただ、現実は戦乱の中にあり、この法楽和歌を詠んだその日にも、尊氏は「為北国凶徒対治、所令下向近江国也」の御教書を送達している(観応二年九月十一日「足利尊氏御教書」『安積文書』)。擾乱という現実と望んでいない戦いを続けざるを得ない武家の宿命の中で、尊氏ももだえ苦しんでいたのであろう。

 翌12日、「而北国凶徒等取陣、江州八重山」(観応二年十月「得江石王丸代長野光信軍忠状」『得江文書』)に、能登守護の「桃井兵部大輔殿」らが「八重山西中尾」「大手湯次河原」「北中尾」などを大いに責め立てて攻め落とした。この戦いののち、丹波国の「伊達孫三郎入道(伊達貞綱入道)」へ「北国凶徒等」は「於江州八重山大略討取了」というやや誇張した報告をしている(観応二年九月十八日「足利尊氏御教書」『伊達文書』)。京都には14日に「昨日江州合戦以外興隆、将軍方勇士多被打云々、隨而将軍引退濃州云々(観応二年九月十四日『園太暦』)という情報が齎されている。しかし、そのすぐ後に「将軍軍士乗勝、北国輩陸奥守畠山等自害云々」という一方も洞院公賢は耳にしており、「彼是不一純、定一方虚説歟」と困惑している。結局これらの情報は錯綜していて、公賢は「大略両方白黒説也」(観応二年九月十五日『園太暦』)と結論付け、「所詮桃陣被破之条者実事歟、将軍方又有失理之輩歟之旨風聞」と評し、これは桃井播磨守直常の八重山陣の陥落、南近江での守護信詮の大敗を指しているとすれば、公賢の推測は正しかったことになる。

 そして八重山陣での抗争後、「其後為御合体、新庄大御堂神照寺御座(観応二年十月「金子信泰軍忠状」『金子文書』)と、八重山から姉川を挟んだ神照寺に尊氏(及び細川顕氏か)が入り、直義入道の代理(畠山国清か)と和睦の話し合いがなされた。ただし、9月24日には「将軍兄弟和睦説、桃井刑部大輔申破也、将軍已可赴戦場之旨治定云々(観応二年九月廿四日『園太暦』)と、和睦の話は桃井直常によって破談となり、尊氏はすでに戦場に出ているという悲観的な噂が洞院公賢に届いている。

 しかし、実際には24日に和睦は成立しており、同24日に尊氏が豊前国の「豊前六郎蔵人殿(田原貞広)」に送った御教書には「高倉禅門事、就被申子細所合体也、可存知其旨」(観応二年九月廿四日「足利尊氏御教書」『豊後古文章』)とある。なお、同文書で「直冬事、不可依彼落居、任先度御教書之旨、不日可誅伐」を命じているが、これは直義入道の没落後、直冬が俄かに挙兵して一色入道道猷らを追い落としたことに激怒し、先だって直冬追討の御教書を送っていたのだろう。義詮も9月29日に「豊前六郎蔵人殿(田原貞広)」や「竹田津小串三郎」に「高倉殿事、被申子細之間、所和睦也」の報告と「於直冬事者、任将軍家御教書、不日可誅伐」を命じている(観応二年九月廿九日「足利義詮御教書」『入江文書』『竹田津文書』)

 24日夜、公賢邸を訪れた大蔵卿資明は、「入夜師治来、和睦必定之由、元氏状令見之」(観応二年九月廿四日『園太暦』)と伝えている。尊氏に従軍していた細川伊予守元氏が近江から伝えた兄弟和睦の書状であった。翌25日に公賢邸を訪問した「良兼法師」の情報(直義入道に従う「元隆書札昨日到来」した情報)では「和睦道破了」といい、9月21日、直義入道は「已起敦賀在所、赴戦場」であるというが(観応二年九月廿五日『園太暦』)、26日には公賢邸に大判事明成が訪れ、「将軍兄弟和睦事、必定之由方々説大略一同、将軍来月一日、禅門二日可入洛云々(観応二年九月廿六日『園太暦』)といい、和睦の報は事実と受け止められた。

 10月4日、公賢邸に届けられた「五辻宰相入道」の書状によれば、「恵鎮上人状」の情報として「将軍兄弟和睦、今月二日対面了、今日将軍、起居處上洛之由承候、又禅門先可入坂本云々」という。これを公賢も「先為実事者、神妙事也」と評している(観応二年十月四日『園太暦』)。24日の和睦成立後、直義入道が長浜まで出向き、10月2日に「於錦織興福寺(長浜市錦織付近)」において「御対面」し(観応二年十月「金子信泰軍忠状」『毛利文書』)、和睦に関する言葉が交わされたのであろう。この日、直義入道が政務を執っていた頃の腹心であった「大高伊予権守高成(大高重成)」が三度目の若狭守護職に任じられており(『若狭国守護職次第』)、直義入道の意見が取り入れられた結果と思われる。両者が10月2日に対面してともに入洛を企図したのは、両者が信頼してきた師の夢窓疎石国師が9月30日に示寂したことも大きな要因の一つであった可能性が高いだろう。

 和睦の報告は翌10月5日に公賢に届けられており、夜に訪問した水無瀬宰相の言でも「将軍兄弟合体必定、今日禅門可入坂本云々、将軍可入石山辺云々、一昨日在四十九院之旨慥説云々」という(観応二年十月五日『園太暦』)。尊氏と直義入道は面会即日の10月2日に錦織を出立して同道で帰洛の途につき、「四十九院、鏡宿、森山」に宿したと思われる(観応二年十月「金子信泰軍忠状」『毛利文書』)。その日程は、推測ながら翌3日に四十九院(犬上郡豊郷町)、4日に鏡宿(蒲生郡竜王町鏡)及び森山(守山市)か。ところが、この帰洛途路において両者は決裂し、尊氏は5日に石山寺に入ったが、直義入道は坂本へ入っている。この直義入道の坂本入りは越前国への帰国を意図したものである。和睦決裂の理由は不明だが、尊氏や義詮は直義入道は帰京させても、彼を擁して敵意を示した直義入道与党を赦す気はなかったのだろう。直義入道が一旦は成立した和睦に再度難色を示したのはこの辺りにあったのではなかろうか。和平が決裂した直後、尊氏は信濃国司諏訪直頼(直義入道与党)と合戦していた「小笠原遠江守殿(小笠原政長)」へ「高倉禅門、自北国関東下向之由有其聞」という報告とともに、「早相催一族分国軍勢等、切塞通路、殊可致戦功」を命じている(観応二年十月五日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原文書』)。また、同5日には若狭国でも直義入道与党(山名時氏らか)と「本郷美作左近大夫殿(本郷貞泰)」が合戦し、「美作次郎泰光、松田四郎雅貞等討死」(観応二年十月廿五日「足利尊氏御教書」『古証文』)するなど、和平交渉を他所に尊氏与党と直義入道与党は各地で激しい合戦を繰り返していたのである。

 10月7日、洞院邸に「官人章世来」て述べた所では「将軍兄弟和睦、若不成就歟、石塔起江州陣、切破勢多橋、経坂本向禅門陣旨有風聞」といい、さらに晩に訪れた「賀茂神主久俊」も「兄弟和睦之儀破了、仍禅門引帰北国此間在塩津辺云々、即可ヽ退関東云々」という(観応二年十月七日『園太暦』)

 10月9日、尊氏は九州の「竹田津小串三郎殿」に「高倉禅門、自江州昨日八日、没落北国了、仍差遣討手、所帰洛也」ことを報告している(観応二年十月九日『園太暦』)

 両者の和睦交渉には「細川奥州顕氏、畠山修理大夫等、和睦事随分媒介」したが、「不成就称無面目」として、10月10日夕方「上洛可出家之旨支度」ことを尊氏に上申したが、「而大樹頻制之云々(観応二年十月十一日『園太暦』)と、尊氏は細川顕氏、畠山国清両者の出家を強く制止したという。ここから、和睦交渉は尊氏側の細川顕氏と直義入道側の畠山国清を中心に進められていたことがわかり、強い責任を感じていたことがうかがえる。しかし、尊氏はその責任を問わない方針を示したのだろう。翌11日、「兄弟和睦不成、禅門引退北国了、近日可上洛云々」が公賢の耳に入っている(観応二年十月十一日『園太暦』)。直義入道が北陸から上洛を企図しているという噂があったことがわかる。ところが、11日夜には直義入道に従っていた「信州禅門行珍、上洛」するなど、直義入道側からの脱落者が見え始める。信濃入道行珍はこの直後から尊氏に近侍しており、赦免されていることがわかる。

 尊氏は11日に石山寺を出立して翌12日に上洛の予定であったものの「為悪日赤舌日云々」のため「逗留石山寺、明後日可入洛之由承之云々者、為御不審彼状進仙洞了」(観応二年十月十二日『園太暦』)と、悪日の調整で14日夕方に「御入洛」した(観応二年十月「金子信泰軍忠状」『毛利文書』)。尊氏とともに宰相中将義詮も入洛し「先着常在光院(現在は知恩院方丈付近)」に入り、「其後到著京宿所云々」という(観応二年十月十四日『園太暦』)。翌15日、洞院公賢は「良兼法師」を「将軍宰相中将」に遣わして無事の帰洛に「為悦之由示之」したが、尊氏はすでに「将軍向天龍寺留守云々(観応二年十月十五日『園太暦』)と、9月30日に示寂した夢窓国師のもとへ走っていたのである。なお、義詮は屋敷(三条坊門邸か)におり、「宰相中将有慇懃返答」(観応二年十月十五日『園太暦』)という。

 この直義入道との和睦決裂により、尊氏と義詮は、直義入道の帰還と政務復帰を諦め、義詮の執事を置くことが図られたとみられる。直義入道の後見なき今においては、以前と同様に執事の存在が必須だったのである。なお、尊氏帰洛から四日後の10月18日に「畠山修理権大夫一きう」を「日野大納言殿(日野資明)」を通じて吹挙している(観応二年十月十八日「足利尊氏吹挙状」『三宝院文書』)。当時の畠山国清は従五位上であることから、正五位下への昇叙となる。「正五位下」は故執事師直や師泰、大高重成、細川顕氏と同格となり、足利家被官層では最上位クラスとなる。なお、「修理大夫高経法名道朝、従四位下(貞治六年七月十三日『師守記』)や「従四位下 源貞家」(観応二年五月廿九日『園太暦』)、「従四位下 源和義」(観応二年六月廿六日『園太暦』)ら足利家の別家一門は、当時にあっては従四位下を極官としていたようである。国清の昇叙は和睦に尽力した功績による吹挙と思われ、執事就任を想定したものではないだろう。その五日後の10月23日に公賢に届いた報によれば、「武家沙汰、自一昨日始之、宰相中将以判形沙汰之也、仁木兵部少輔為執事云々(観応二年十月廿三日『園太暦』)と、21日の武家評定で仁木兵部大輔頼章が執事に選ばれている。仁木氏も一族被官層であり、当時の頼章の官途は正五位下であろう(『尊卑分脈』によれば「従四下」とあり、これまでの勲功から別家一門に准じる家格とされたのだろう。なお、延文4(1359)年10月13日当時「正四位」(「再住東山建仁禅寺語録」『無規矩』)とする伝もある)

南朝和平と直義入道との戦い

 観応2(1351)年9月3日に京都へ報告のあった、尊氏の赤松則祐妙善を通じた南朝との和平交渉につき、10月25日に洞院公賢のもとに入った報告では「彼御和睦、於南方者大略御承諾之躰云々、使節出京可治定云々」という(観応二年十月廿五日『園太暦』)。そして翌26日、「忠雲僧正以下為南方御使、今明日之間可出京云々」とされた(観応二年十月廿六日『園太暦』)。ただ「但和睦事、武家変之由風聞云々」という条件が付されており(観応二年十月廿六日『園太暦』)、10月28日にはおそらくこの条件を巡ってか「宰相中将辺騒動、父卿遣追討使由有凶害云々(観応二年十月三十日『園太暦』)と、尊氏が激怒して義詮へ追討使を送る騒動にまで発展している。公賢もこれには「尤不善事也、可慎ゝゝ」と批判している。

 吉野南朝方から「足利大納言殿」及び「足利宰相中将殿」へ送られた10月24日付の『後村上天皇綸旨』(『園太暦』)にその具体的な内容が記載されているが、

●正平六年十月廿四日「後村上天皇綸旨」(一)(『園太暦』)

不違元弘一統之初、可被仰申聖断之由聞食訖、尤以神妙、此上偏存天下安全之道可被無二忠節者、天気此如、仍言上如件
   正平六年十月廿四日  左中将具忠
 進上 足利大納言殿

●正平六年十月廿四日「後村上天皇綸旨」(二)(『園太暦』)

可致忠節之由被申趣、同食聞了、尤神妙、此上偏存天下安全道被無二忠節者、天気此如、仍言上如件
   正平六年十月廿四日  左中将具忠
 進上 足利宰相中将殿

●正平六年十月廿四日「後村上天皇綸旨」(三)(『園太暦』)

入道直義朝臣、乖朝憲令没落云々、早可被追討、至軍忠輩者可有抽賞者、天気此如、仍言上如件
   正平六年十月廿四日  左中将具忠
 進上 足利大納言殿

というもので、「一通勅免、一通直義法師追討事」の「南方綸旨二通」であった(観応二年十一月五日『園太暦』)。綸旨を出すにあたり、当然互いが呑める条件とするため、数度の交渉があったのちに成立していると思われるが、一通目の「勅免」については、5月中旬の直義入道と吉野南朝方の和平が決裂した最大の要因として、北畠親房入道が「公家一統の御世にかへらバ諸人の本領を失べし、かれ皆御方の恩賞におこなハれん、面々手をむなしくすべしと云、此事きハめて短慮也、さてハ合体申されば、天下の軍勢なにしにか本領に安堵せざるべき、又功によりて申おこなはれ、自方他方安堵の思あらんこそ合体なるべし、さるをやすべからくまづ天下を返し申され、人民をやすくせられけむ事、今度の達要たるべきにや」(『吉野御事書案』)と主張した事書を送達したのに対し、直義入道は「抑此御事書のごとくバ、天下一統の御色歟、其段ハ先朝の御徳盛なりし、猶三年を越ずして海内反覆しき、諸国の武士勇卒等、又元弘の如く公家の被官となり、卿相雲客の家臣僕徒ならんむ事をバ欲すや否や、能々御了簡有べき歟、所詮天下の太平を御庶幾あらバ、旧如く武家の計申さるゝ旨に任せて御入洛あらバ、先皇の御継嗣断絶せずして、祚を無窮に伝しめ給べき者乎」(『吉野御事書案』)と返答しているように、武家が元弘年中のような朝廷の被官となり、公卿らの家臣なることを望んでいるかどうか、よくよく考えられよと痛烈に批判したことにある。つまり、直義入道は南朝方が望む「元弘の如き」状況への回帰を一蹴したのである。しかし、尊氏はその一条を呑まないことには南朝との和平はないと考え、「不違元弘一統之初、可被仰申聖断之由」を、和平の前提条件として確約したのであろう。これにより吉野南朝方は、尊氏と義詮の勅免という形で応えた。そして、南朝政府は尊氏の官途を建武元(1334)年正月5日の「正三位」のまま据え置いており(建武二年八月三十日の従二位昇叙は関東下向の叛乱時のものとして認めなかったか)、改めて「為権大納言」とした(『尊卑分脈』)。南朝政府は持明院統の皇統が行った除目を認めておらず、他の人々の官途も南北朝分裂時点に戻されていたと考えられる。

●正平六年十二月叙位任官(『公卿補任』)

任官 官位 北朝官 北朝官位
関白(12月28日) 従一位 藤原師基
(二條師基)
前権大納言
元前左大臣
従一位
太政大臣 従一位 源長通
(久我長通)
前太政大臣 従一位
大納言 正二位 藤原公泰
(洞院公泰)
前権大納言
民部卿
正二位
権中納言 正二位 藤原実守
(洞院実守)
前権大納言 正二位
権中納言 従二位 源親光
(中院親光)
前参議 従二位
刑部卿 従四位下 藤原定親
(冷泉定親)
前参議 従三位
左京大夫
侍従(12月28日)
従四位下
従三位(12月28日)
藤原宗重
(中御門宗重)
前参議 従三位

 ところが、南朝吉野方は「入道直義朝臣、乖朝憲令没落云々、早可被追討」をも提示してきたのである。尊氏は直義入道が離京しようとも自らを敵としようとも、直義個人を追討対象とする命令は一切出すことはなく、却って直義入道帰洛のために尽力するほど、直義入道への愛情が深かった。尊氏の直義への思いは実子である義詮や直冬の存在をも凌駕しており、尊氏もこれは呑めない一条であったろう。ところが、義詮は南朝方との和平成立を至上命題と考え、直義入道追討を受諾するよう尊氏に迫ったのではなかろうか。これに尊氏の怒りが爆発し、義詮追討令まで出すほどに荒れたのであろう。しかし、結局、尊氏は南朝吉野方の提案を受け入れざるを得ず、10月24日付の綸旨は正式な南北和睦の契約書となったのである。しかし尊氏は交渉において、直義入道らへの追討を受け容れつつも、対応には密かに釘を打っており、後日の請書に認められることとなる。

 11月1日、尊氏・義詮と吉野南朝政府を仲介した「赤松妙善律師名字則祐」が入洛する(観応二年十一月二日『園太暦』)。「是、南方将軍和睦事必定、依此事上洛」したものであった。そして翌11月2日には、「彼方御使忠雲僧正、此間上洛在宇治、今日京上、彼是相論云々」と、十月廿四日綸旨二通を奉じた勅使忠雲僧正が入洛する(観応二年十一月二日『園太暦』)

 翌11月3日、「権大納言尊氏」「参議義詮」は「綸旨跪以拝領、御沙汰之旨忝畏申之趣、加芳言可令洩奏給」の綸旨請書の奏状をしたためたのであった。「鎌倉宰相中将」がこれを持参して「忠雲僧正南方御使」が宿する「賀茂親承法印坊」に赴き(観応二年十一月三日『園太暦』)、「随分饗応」(観応二年十一月五日『園太暦』)、「賀茂辺謳哥」したという(観応二年十一月三日『園太暦』)。そして、「公家事、一円南方可有御沙汰」と、南朝方を正統の朝廷と認めその沙汰に従うことが決定され、「武士事被召仕之上者、可管領之旨勅許云々」と尊氏・義詮に武士の管領を勅許したのであった(観応二年十一月五日『園太暦』)。なお、尊氏は事前の交渉の中でこの「武士事」の「可管領」を認めさせたことで、「可仰聖断之上由、下賜綸旨之上、止合戦之儀、宜従上裁之旨、遣国々也」とした。なお、「遣国々」の御教書は正式な締結以前、後村上天皇の十月二十四日綸旨が下されるよりも前に九州には遣わされていたとみられ、「薩摩国島津上総入道々鑑、令同心宮方、依罷成御敵候、隅州国人等少々雖令与同道鑑候」(『新編禰寝氏世録正統系図』)と、足利直冬方として薩摩国を転戦していた島津上総入道が吉野南朝方へ寝返っている。11月8日には直冬の腹心「左馬助義冬(斯波氏か)」が「楯籠道鑑舎弟島津佐多又三郎入道子息等」を追い落としたことを「武藤但馬権守殿」に進上しており、島津道鑑入道が南朝方に下ったのは11月初旬であろう。「嶋津上総入道殿」へ「吉野和睦之間、可追罰入道直義朝臣之間、去月廿五日被下綸旨、案文遣之、仍為治罰彼党類、所下向関東也、存知其之旨、相触一族等官軍、弥可致忠節之状」(正平六年十一月十三日「足利尊氏御教書」『薩藩旧記』)を下したのが11月13日であり、直義入道の有力与党、畠山修理亮直顕との抗争が激化することとなる。

 さらに「於入道直義朝臣直冬等党類者、相談当方可対治之由、被仰含官軍之様、可令申沙汰給」(観応二年十一月三日『園太暦』)と、武士の管轄権を勅許された以上は、直義入道および直冬の追討に関しては、尊氏へ相談することを明記し、尊氏・義詮の奏状とともに義詮が持参して忠雲僧正へ託されたのであった。これは尊氏の密かな抵抗であったのだろう。しかしながら、結局は尊氏が和平という大局から已む無く直義入道追討を呑んだことに変わりはなく、「将軍必定心底不審」であろうと、「賢息、道誉、妙善等張行如此」(観応二年十一月五日『園太暦』)と、義詮、佐々木道誉、権律師則祐が尊氏邸を訪問し、説得に当たっている。

 尊氏は中先代の乱以降、その行動のほとんどが外からの影響により自らが予期しない方向に流され、望んでいない戦乱の世を周囲の人々によって翻弄され続けている不運な将軍であった。そして、今回も南朝方との和平という究極の目的のために、実弟直義入道を追討せざるを得なくなる不運に見舞われたのである。『太平記』という読み物を一切排除し、日記や文献を丁寧に読めば、これまでの尊氏と直義との関係、直義と師直との対立関係と尊氏との合戦の経緯、その後の政権継承のながれが、俗に通説とされるものとは大きくかけ離れていることがわかる。文献等で史実上繋がらない部分を『太平記』やほかの軍記物、想像で補間することが解釈を誤らせる。その結果を歴史学者や歴史研究者とされる人々が認めてしまえばそれが通説化されてしまう。こうした「通説」が尊氏や直義らの関係性を大きく歪めていることに注意すべきである。

 10月26日、宰相中将義詮は醍醐寺三宝院賢俊を招くと「於三條殿、愛染王法、六口」(観応二年十月廿六日『五八代記』)を執り行った。愛染明王は八幡の本地仏との武家信仰があり、その功徳は「ほとんどの一面六臂愛染画像が身色・大円光ともに赤く表されていること、赤は四種法(息災・増益・調伏・敬愛)のうちの敬愛の色であることから、画像規定からすると愛染王は敬愛を第一義としていたことが容易に想像される(要約)(泉武夫「愛染王法と千体画巻」『学叢』第22号)ように、和合を主とする明王であった。ここからこの愛染王法の修法は、義詮が南北和合のために執り行った可能性もあるが、一方で「愛染王法は敬愛を基盤としながら、四種法ほかすべてに通じているとされ、よく知られているように目的に応じて左第三手の持物が変化した。『瑜祇経』に「彼を持つ」と、持物を特定されていないのがそれである」(泉武夫「愛染王法と千体画巻」『学叢』第22号)といい、その後、数度にわたり愛染王法が修法されており、直義入道与党の調伏の修法も為された可能性があろう。

 10月29日、尊氏は「長沼新左衛門尉殿」へ「高倉禅門自江州宮没落北国了、仍近日所発向関東也、早催庶子致用意、可抽忠節」を命じている(観応二年十月廿九日「足利尊氏御教書」『栃木県庁採集文書「皆川家所蔵文書」』)。直義入道が越前へ下向したことで尊氏は関東下向となっているのは、直義入道が「下向関東也」(観応二年十月十一日「足利直義御教書」『小佐治文書』)を企てていたためである。11月1日、義詮は「山科庄等地頭職」(観応二年二月一日「足利尊氏安堵状」『理性院文書』)である「三宝院僧正御坊」に対して「将軍家関東御下向近日也、其間山科辺警固事、厳密可令下知庄家給候」(観応二年十一月一日「足利義詮申状」『理性院文書』)ことを依頼している。翌11月2日、義詮が「於三條殿不動法、伴僧同前」(観応二年十一月二日『三宝院文書』)とあるように、三宝院賢俊が六名の僧侶を伴い不動法を行っているのは、尊氏の関東下向に当たっての息災を祈願したものと推測される。尊氏自身も11月3日、「為凶徒対治祈祷、転読大般若経等、殊可被精誠」を「祇園御師助法印御房(法印顕詮)」に依頼している(観応二年十一月三日『祇園社記続録』)。そして翌4日、「将軍、今朝発向関東了」した(観応二年十一月四日『園太暦』)。しかし、随う人々は「南遠江、今日猶不進発」で、執事の「仁木兵部少輔」以下「十四、五騎」であり、「其外諸武士守護宰相中将可在京之旨下知云々」とされた。この少勢で進発し「於石山寺辺可待整其勢」という。関東下向については近江国以下の軍勢を当てにしていた様子がうかがえる。

 なお、「鎌倉前大納言下向関東、今朝進発、相具五六騎云々、及人定差朝饌、顔厚之類、遭乱世、誠可然矣」(観応二年十一月四日『玉英記抄』)ともされ、人数としては『園太暦』の具体名と合致する。尊氏進発以前の10月28日には、すでに信濃から遠江へ下った小笠原伊豆守の手勢が「於遠江国引間宿対于貴良殿代富長致合戦」するなど、東海道では情勢が不穏な動きを示していたにも拘わらず、尊氏はわずか数名の騎乗士(当然ながらその麾下の武士は付いていただろう)のみで東国へ下ったのである。東海道や東山道の守護に対して予め軍勢催促を命じていたのだろう。なお、尊氏相伴の武士を見ると、将軍家執事の仁木頼章を筆頭に、右馬助義長は尊氏与党の代表者、畠山修理権大夫国清は直義入道と親しいことから和解を模索するための相伴と思われ、硬軟織り交ぜての人材が付けられたのだろう。千葉介氏胤(十五歳)及び武田伊豆守信武は実戦相伴衆、南遠江守宗継は尊氏執事(正平七年閏二月十四日「前遠江守奉書」『伊達文書』「南北朝遺文」2191)、二階堂信濃入道行珍は軍政官及び使者としての役割を期待されたものだろう。

●観応二年十一月四日「供奉人数」(観応二年十一月四日『園太暦』)

相伴衆 人物 備考
仁木兵部少輔 仁木頼章(執事) 将軍執事 11月8日、9日頃帰京か。
ただし、その後関東に下向。
仁木右馬助 仁木義長 強硬な反直義派 途中で伊勢へ下向したか
畠山修理権大夫 畠山国清 直義入道への対応者 侍所頭人
千葉介 千葉介氏胤 実戦部隊(下総守護)  
高南遠江 南宗継 尊氏執事 11月4日は不進発ながら、
その後、進発
武田伊豆守 武田信武 実戦部隊(甲斐守護信成の父) のち陸奥守
信濃入道行珍 二階堂行朝入道 折衝、使者  

 しかし、尊氏の鎌倉下向の軍勢はあまりに貧弱な態勢であり、それを反映してか、翌5日には「宰相中将義詮朝臣、為相伴父卿下向之旨」を尊氏に伝えている(観応二年十一月八日『園太暦』)。この頃、東海道では「十一月五日、小笠原伊豆守、於海道与上杉戸部合戦了」(観応二年十一月五日『鎌倉社務記録』)しており、小笠原伊豆守の軍勢は10月28日の遠江国引間合戦ののち、「於佐江中山馳向上杉率数千騎押上之處、散々合戦、退散敵追懸上杉若藤力石兵庫助打取了」」(観応三年正月日「佐藤元清軍忠状」『佐藤文書』)というように、京都勢と直義入道勢が激しく合戦していたのである。

 義詮は6日以降も相伴を訴えており、11月8日、義詮が出立を強行しようとしたところ、「父卿差使者命鶴丸、朽木某(佐々木経氏か)、不可然之由」と押し留められ、た。尊氏は義詮同道を頑なに拒否しているのは、当然ながら義詮に代わる在京主将が存在しないためであろう。尊氏は吉野南朝方、とくに北畠親房入道を全く信用しておらず、京都に多くの武士を残したのはそのためであろう。ところが、義詮は「然而、仁木兵部大輔已下先下向之輩有之」と、執事仁木頼章以下が関東下向しに加わっていることを理由に「相公又明後日猶可下向」と、尊氏の制止も聞かず11月10日の京都進発を伝えたようである(観応二年十一月八日『園太暦』)。ただし、義詮は結局京都を進発することはなく、おそらく尊氏が執事仁木頼章を京都へ差し戻すことにより義詮の下向の理由を封じたのだろう。

 一方、義詮の東下相論の最中である11月7日、「両院主上以下可奉取之旨、南方形勢之由風聞、驚動御気色云々、更不信用事也、如此狂事併両方小人奸詐之風聞歟、莫言々々」(観応二年十一月七日『園太暦』)と、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇の吉野行幸という風聞があった。これと同様の内容が9日にも「兼又主上、上皇彼方可被行政道、当時在京輩少々可被召之由候、粗有沙汰歟」(観応二年十一月九日『園太暦』)と伝わっている。そしてこの日「南朝より取たてまつりて御くらゐを廃す」(観応二年十一月七日『椿葉記』)と、崇光天皇が南朝方により廃されたのであった。同時に「皇太弟 直仁親王 観応二十一廃之(『皇代暦』)といい、ここに北朝持明院統はその皇位を否定されることとなったのである。

 11月9日、尊氏は「三島東大夫殿」に「吉野和睦之間、為静謐東国所下向也、祈祷事弥可致精誠之状」(正平六年十一月九日「足利尊氏御教書」『三島神社文書』)と、はじめて「正平」元号を用いた御教書を発給している。これは、北朝持明院統を廃したことを尊氏自身も認め、名実ともに大覚寺統の皇統を推戴したことを意味した。必然的にその後の除目は南朝賀名生御所において取り決められ、11月9日には大将除目が執り行われている(京都の公賢の耳に入ったのは13日、四位大夫匡遠の報告による)。また、13日には洞院公賢を「任左大臣」する南山除目が行われた。公賢は持明院統、大覚寺統の両皇統の血縁者でもあり、足利家とも親密な関係を持つ一方で、南朝賀名生朝廷からも政務や故事など信頼されており(子息の実世が賀名生政府の重鎮、後村上天皇の義祖父であった)、南朝政権の中枢となる左大臣のポストにつけられたとみられる(24日夜に頭中将具忠が「率軍士廿騎許」して公賢邸を訪れ、客座で謁見。「予任左大臣手詔、及後院別当口宣」が下された)

●正平六年十一月九日任官(『園太暦』)

左近衛大将 藤原教忠
(二條教忠)
二條師基子息
(12月22日任関白)
 
右近衛大将 源顕良
(北畠顕能)
北畠親房入道次男 伊勢国司現任
(正平六年十一月十三日『園太暦』)

●正平六年十一月十三日任官(『園太暦』)

左大臣
後院別当
藤原公賢
(洞院公賢)

 洞院実雄―+―洞院公守――――洞院実泰―――洞院公賢――+―洞院実世
(左大臣) |(太政大臣)  (左大臣)  (左大臣)  |(権中納言)
      |                      |
      +―藤原佶子                 +―洞院実夏
      |(京極院)                 |(内大臣)
      |  ∥                   |
      |  ∥                   +―女子
      |  ∥                   | ∥
      |  ∥                   | 徳大寺公清
      |  ∥                   |(右近衛大将)
      |  ∥                   |
      |  ∥                   +=藤原廉子
      |  ∥                    (新待賢門院)                     
      |  ∥                     ∥  
      |  ∥――――――後宇多天皇          ∥―――――――後村上天皇
      |  ∥      ∥             【南朝】
      |+―亀山天皇   ∥――――――――――――――後醍醐天皇
      ||        ∥
      || 五辻忠継―+―藤原忠子         正親町三条公秀―+―正親町三条実音
      ||(参議)  |(談天門院)       (内大臣)    |(准大臣)
      ||      |                      |
      ||      |                      +―藤原秀子
      ||      |                       (陽禄門院)
      ||      |                        ∥
      ||      +―五辻経氏―――藤原経子            ∥―――――+―崇光天皇
      ||       (参議)   (典侍)             ∥     |
      ||               ∥               ∥     |
      ||               ∥―――――――後伏見天皇   ∥     +―後光厳天皇
      |+―後深草天皇         ∥       ∥       ∥
      |  ∥―――――――――――――伏見天皇    ∥       ∥
      |  ∥                     ∥      【北朝】
      |  ∥                     ∥     +―光厳天皇――――直仁親王
      |  ∥                     ∥     |        (春宮)
      |  ∥                     ∥     |
      +―藤原愔子                   ∥―――――+―光明天皇
       (玄輝門院)                  ∥
                       西園寺公衡―+―藤原寧子
                      (左大臣)  |(広義門院)
                             |
                             +―西園寺実衡――西園寺公宗
                              (内大臣)  (権大納言)

 前述の通り、執事仁木頼章は尊氏相伴衆として関東下向に加わったものの、おそらく近江国から帰京して義詮の補佐にあたったとみられる。11月6日、義詮は守護「仁木兵部大輔殿」へ「丹波国篠村新八幡宮造営料所、篠村佐伯庄黒岡光久等事、可沙汰付三宝院僧正坊雑掌」を命じている(観応二年十一月六日「足利義詮御教書」『三宝院文書』)。このとき頼章はおそらく近江国に在陣していたと思われるが、翌7日に「仁木越後守殿(仁木義長)」へ「遠江国相良庄安芸守成藤跡事、今年二月十三日御下文、可被沙汰付細河左馬助頼和代之状」や「佐々木近江守殿(佐々木秀綱)」へ「上総国長屋郷上椙宮内大輔跡事、守御下文之旨、可致沙汰付■■■■■■之状」(観応二年十一月七日『野田文書』)という執事施行状を発給しており、丹波篠村八幡造営料所についても同様に施行状を発給したと思われる。

 「仁木兵部大輔殿」は京都へ戻った直後とみられる11月10日、義詮から守護国丹波国の「丹州安国寺雑掌申、同国春日部庄内中山村事、訴状遣之、赤松筑前守濫妨云々、早止彼違乱、可沙汰付下地於寺家雑掌之状」を命じられている(正平六年十一月十日「足利義詮御教書」『安国寺文書』)。この春日部筑前守貞範(赤松貞範)の濫妨停止を命じる御教書が義詮が正平元号で発給した初めての御教書となる。なお、翌観応三年中にも義詮は丹波国の下地沙汰付を頼章に指示しており、しばらく頼章は義詮のそばに仕えていたとみられる。ただし、頼章は関東に下向していたことは確かで、正平7(1352)年閏2月28日、「高麗彦四郎経澄」が「於高麗原為執事御手、於東手崎最初合戦致戦」(正平七年三月「高麗経澄軍忠状」『武蔵町田文書』)とあり、閏2月には鎌倉にいたことがわかる。その後も関東にあり、尊氏の上洛時に「後陣には仁木兵部大輔、小山なといふ東国の武士」(『小島之寿佐美』)が従ったことが見える。なお、尊氏が鎌倉に逗留している間、頼章が発給したとされる「仁木頼章施行状」は数通あるものの、そのうち三通は署名が「散位」である。しかし、頼章が上洛中の美濃国垂井宿に宿陣した文和2(1353)年9月当時、頼章は「仁木兵部大輔」(『小島之寿佐美』)であって、関東下向時と変わっておらず、在関東当時は「散位」ではなかった。つまりこの施行状を発給したのはいずれも頼章ではないことになる(花押を実見していないため確定できない)。

●「仁木頼章施行状」とされる「散位」発給の施行状その他関連書状

発給日 差出 宛先 内容 備考
(『遺文』)
正平7年
(1352)
正月日
別符幸実 花押
(頼章)
別府幸実が軍忠状を奉じ、仁木頼章が書判して
戻したもの
軍忠状
(2172)
正平7年
(1352)
正月日
高麗経澄 花押
(頼章)
正月1日伊豆国府に参じ、鎌倉御供の着到状に
頼章が書判して戻したもの
着到状
(2170)
正平7年
(1352)
正月16日
尊氏
(袖判)
別符尾張太郎殿
(別符幸実)
昨年12月28日の由比山合戦での勲功を賞される 御教書
(2156)
観応3年
(1352)
7月以前
尊氏か 久下頼直 勲功賞として以下の地頭職を与える下文
(1)武蔵国池守郷
(2)武蔵国大里郡久下郷内宇波五郎入道、同七郎等跡
(3)このほか武蔵国以外にもあった可能性
下文
(現存せず)
観応3年
(1352)
7月2日
散位
(頼章?
仁木修理亮殿 (1)武蔵国池守郷
(2)武蔵国大里郡久下郷内宇波五郎入道、同七郎等跡
を久下頼直に沙汰するよう指示
施行状
(2298)
観応3年
(1352)
7月2日
尊氏 別符尾張守幸実 勲功賞として以下の地頭職を与える下文
(1)上野国羽継郷
(2)■■■■(不明)刑部大輔入道道■
(3)武蔵国別府郷東方闕所分
(4)武蔵国入西越生郷内越生馬太郎跡
下文
(2299)
観応3年
(1352)
7月24日
尊氏 佐野太郎四郎秀綱 介戸郷内紀五小太郎跡の替地として
(1)下野国足利庄梅園六郎重綱跡
を宛行う下文
下文
(2312)
観応3年
(1352)
7月26日
花押
(頼章?)
西尾民部三郎殿 佐野秀綱に
(1)下野国足利庄梅園六郎重綱跡
を宛行う施行状
施行状
(2314)
観応3年
(1352)
10月22日
尊氏
(袖判)
仁木兵部大輔殿 鶴岡八幡宮の両界壇所供料として
(1)下野国足利庄粟谷郷年貢
を沙汰するよう指示
御教書
(2361)
文和元年
(1352)
12月20日
散位
(頼章?)
仁木修理亮殿 同年7月2日御下文のうち
(1)武蔵国別符郷東方闕所地分
を別符幸実に沙汰するよう指示
施行状
(2387)
正平8年
(1353)
4月10日
袖判
(尊氏)
結城弾正少弼顕朝 勲功賞として以下の地頭職を与える下文
(1)陸奥国信夫庄余部
下文
文和2年
(1353)
4月13日
散位
(頼章?)
長沼淡路守殿 4月10日の下文の通り
(1)陸奥国信夫庄余部地頭職を
結城顕朝に沙汰するよう指示
施行状

 また、仁木越後守義長も尊氏に同道して東下の途中、近江もしくは尾張あたりで伊勢国に下向して直義与党の前伊勢守護の石塔右馬助頼房勢の制圧に向かったのか、京都出立から三か月後の正平7(1352)年2月19日時点で伊勢国におり、制札を出している(正平七年二月十九日「伊勢守護制札案」『難波家文書』)。一年後の文和2(1353)年3月18日時点でも伊勢国に在陣しており、義詮は「佐藤新蔵人殿(佐藤元清)」に「属仁木右馬頭義長手」して「東條凶徒退治」を命じている(文和二年三月十八日「足利義詮御教書」『南狩遺文』)。その後、義長は京都へ戻っているが、再度8月に「近江伊勢両国凶徒退治事、差遣仁木右馬頭義長」(文和二年八月十五日「足利義詮御教書」『仁木文書』)されており、義長が関東へ下向するタイミングはない。尊氏の鎌倉下向の目的は直義入道個人ではなくその与党の追捕であり、直義入道とは和解の道を探るものであった。直義入道への敵対心が強い仁木義長の帯同は却ってその妨げとなることが相伴を降ろされた大きな理由か。

 11月10日、義詮は三条坊門亭に三宝院賢俊を招き、再び愛染王法を修した(観応二年十一月十日『五八代記』)。10月26日の愛染王法修法と同様、和平、息災と調伏を兼ねた修法であろう。11月15日には「仏眼法」を修法して直義入道与党の調伏を行ったとみられる(観応二年十一月十五日『五八代記』)

 この頃、直義入道は越後を経由して関東に入っており、11月11日には常陸国の「佐竹三郎入道殿(三郎義春入道)」に「所下向関東也」として「可参上之状」を送達した(観応二年十一月十一日「足利直義御教書」『奈良文書』)。かつての新田義貞や中先代北条時行の行軍ペースを見ると、上野国境から10日余りで鎌倉に到着しており、この頃直義入道はすでに武蔵国に入っていたと思われる。10月8日に近江から越前へ下った直義入道は、わずか一か月後には関東へ到着していたことになる。そのルートは杳として知られないが、東海道は京勢と上杉勢が合戦し、中山道も土岐氏、小笠原氏、武田氏が抑えていることから、与党の筆頭格であった越前守護の修理大夫高経、越中守護の桃井刑部大輔直常の協力を得て関東に入ったのだろう。越後国は尊氏与党の「宇都宮下野守■綱(宇都宮氏綱)」が11月20日、「於越後国柏崎手物軍忠」(正平七年正月「宇都宮氏綱軍忠状」『宇都宮文書』)しており、守護だったことがわかる。その着到には「稗生左衛門尉通高、同六郎左衛門尉房高、同直五郎」ら越後国人が含まれており、直義入道は、前守護上杉憲顕の影響力が強い守護所(上越市)付近を南下し、先だって入部していた前国司「諏方信濃守以下」が布陣していた千曲川沿いを遡上、同じく直義入道与党「禰津小次郎」が居していた小県郡を経由して上州から鎌倉へ下向したのだろう。直義入道は11月15日、「高倉殿、御鎌倉入」し(『鶴岡社務記録』)、17日に鶴岡八幡宮寺を参詣した(『鶴岡社務記録』)。11月24日には「田代豊前三郎殿(田代顕綱)」に「自京都至于関東令供奉之条神妙」として褒賞の状を発給している(観応二年十一月廿四日「足利直義御教書」『田代文書』)

 11月中には駿河府中を抑えていた直義入道与党「中賀野掃部助殿」に対し、11月16日、駿河国の尊氏勢「伊達藤三郎景宗」や「武藤四郎兵衛尉、鴇右衛門四郎、大村六郎左衛門尉等」が駿河国小河(焼津市小川町)に打ち出でて、小坂山(駿河区小坂)に攻め寄せて中賀野勢と合戦。同日中には「打入府中之間、中賀野殿、入江駿州以下凶徒等、引籠久能寺城畢」(正平六年十一月「伊達景宗軍忠状」『伊達文書』)と、府中で中賀野掃部助、入江駿河守と合戦して久能山に追い落としている。

 そして、将軍尊氏から関東下向の触れを受け、武田安芸守信成は甲斐国内の御家人に「将軍家関東御下向之間、為御迎、今月廿日所令発向也、早相催庶子等可被馳参」(観応二年十一月十九日『足利尊氏御教書』『黄薇古簡集』)を厳命した。甲斐国内にも直義入道党の「武田上野介以下」(観応三年正月「佐藤元清軍忠状」『佐藤文書』)がおり、信濃守護小笠原政長が尊氏の催促に応じて駿河路へ向かうに際し、12月29日に「武田上野介以下」と「七覚寺(甲府市上向山周辺)」で合戦。小笠原勢に属した「武田按察房乗信子息弥六友光」が奮戦している(正平七年正月「武田友光軍忠状」『武田家文書』)

 直義入道勢は駿河府中の陥落を受け、「上椙兵部小輔(上杉兵部少輔能憲)以下」を富士川及び「駿州陣取由比蒲原宿」に派遣して布陣(正平七年正月「伊達景宗軍忠状」『伊達文書』)。これに対し、駿河守護「今河五郎入道殿(今川範国入道)」の子、今川上総介範氏は11月23日に「御発向(駿府か)」し、「由比越御陣」した(正平七年正月「伊達景宗軍忠状」『伊達文書』)。「由比越」は興津川を渡った先の東に海を望む難所(薩埵峠)の事と思われる。上杉勢は蒲原と由比の間の平地に陣をとる他なく、逆に今川勢からは上杉勢の動きが手に取るように把握できたろう。しばらくここで両勢は膠着状態となっており、11月26日、尊氏の本隊は「今日廿六日かけかハへつき候へく候、ミやう日るすかの国へうちこゆへく候、いそきうちたちて、かまくらをつめられ候へく候」(正平六年十一月廿六日「足利尊氏書状」『越後榊原文書』「南北朝遺文2103」)

 12月11日には甲斐武田信成勢が富士川河口付近および蒲原まで進出して上杉勢と合戦(正平六年十二月「波多野清秀軍忠状」『黄薇古簡集』)して「於蒲原河原凶徒数百人討取、御方打勝畢」(正平六年十二月十五日『「足利尊氏御教書」勝山小笠原古文書』)と報告している。そして12月13日、「将軍家当御陣御著」すると「則日、又被移御陣於櫻野」している。尊氏は「為退治富士河凶徒」(正平六年十二月十五日『「足利尊氏御教書」勝山小笠原古文書』)のために「今月十三日、於由比山取陣畢」と記しており、直義入道の派遣した上杉兵部少輔能憲の本陣は富士川畔にあったと考えられる。

 尊氏は由比越の陣に着陣するやすぐさま軍勢を進めて由比川付近まで進出したと思われる。ここで由比川に沿って北上し、山中の櫻野(清水区由比入山)に布陣した。蒲原から富士川へ進まず、敢えて山道へ向かったのは、「十一日の合戦に、ゆいかんハらにて、うちかつといへとも、猶大せい、ゆいこへうつふさ、この道へかゝり候て、すてにせんとの合戦にて候」(正平六年十二月十五日「足利尊氏御教書」『勝山小笠原文書』)といい、11日の由比蒲原合戦は勝利を収めたものの、直義入道勢の軍勢はなお強大であり、富士川原から由比越内房(富士宮市内房)に攻め寄せていた。尊氏は「由比越内房(内房山)」=「北尾崎」に今川勢を派遣して対応しており、12月27日には「御敵石塔入道殿(石塔義房入道)、同典厩(石塔右馬助頼房)并子玉党以下凶徒等寄来」たところを、上総介範氏勢の「(伊達)景宗、平間帯刀左衛門尉、景宗若党小林彦太郎等僅二三人、於北尾崎踏留、致散々合戦」という(正平七年正月「伊達景宗軍忠状」『伊達文書』)。そして、12月28日には「武蔵国別府尾張太郎幸実」らは「打破上杉兵庫助(上杉憲将)陣一木戸」(正平七年正月「別府幸実軍忠状」『駿河志料』)という。

 なお、12月11日の由比蒲原合戦で活躍した伊達藤三郎景宗に対し、翌12日には「駿河国入江庄内三澤小次郎跡」を勲功賞として充行う御教書を発給しているが(正平六年十二月十二日「足利尊氏下文」『伊達文書』)、翌正平7(1352)年閏2月14日、駿河守護「今川入道殿(今川五郎範国入道)」に対して「去年十二月十二日御下文之旨、沙汰付下地於景宗」を行うよう施行状が出された(正平七年閏二月十四日「南宗継施行状」『伊達文書』)。この施行状を出しているのが「前遠江守(南宗継)」であり、彼は高一族として尊氏執事(臨時か関東御座の常任かは不明)の座に就いていたことがわかる(在京執事の仁木兵部大輔頼章とは別に置かれたとみられる)。執事施行状を請けた範国入道は「去年十二月十二日御下文今年潤二月十四日執行等之旨、莅彼所沙汰付下地於景宗」を「齋藤雅楽四郎入道殿(齋藤道恵)」「木村四郎兵衛尉殿(木村盛綱)(正平七年閏二月十六日「今川範国入道遵行状」『伊達文書』)に指示したのであった。

 12月11日の由比蒲原合戦の敗亡と富士川を望む内房合戦の状況は、おそらく1、2日のうちに鎌倉の直義入道へ報告されたのだろう。直義入道は「佐竹弥二郎殿(佐竹義盛)」に「足柄路発向事」を命じている(観応二年十二月十五日「足利直義御教書」『常陸遺文』)。続けて18日にも「筥根路警固事、所遣荒河参河三郎入道(荒川頼清入道)」を大将軍として派遣している(観応二年十二月十八日「足利直義御教書」『彦部文書』)。直義入道勢は駿府及び由比越で敗北し、もし防衛線の富士川を破られれば、箱根を死守しながら別計を巡らす以外に勝利は考えられない。しかし、今の直義入道には動かせる軍勢も限られ、しかも、北関東最大の尊氏与党、宇都宮氏綱も動き出して、宇都宮家被官「芳賀伊賀守(守護代か)」が、上州に地盤を有する桃井直常らと12月16日に「上州淵名庄木嶋合戦」、19日の「同国那波合戦」している(観応三年五月「香林直秀軍忠状」『赤堀文書』)。さらに、8月頃に宇都宮に義詮の命によって下向していた「薬師寺加賀守入道(公義入道元可)」も「高麗彦四郎経澄」らとともに12月17日に武蔵国「於鬼窪揚御旗」し、武蔵府中へ向けて進軍。19日には「羽禰蔵合戦(新座市上宗岡)」で、関東執事上杉民部大輔憲顕の被官「難波田九郎三郎以下凶徒等」を捕らえている。そして、12月20日には「押寄府中、追散御敵等、焼払小澤城畢」(正平七年正月「高麗経澄軍忠状」『町田文書』)といい、すでに鎌倉上道も武蔵国府が落ち、西は箱根の警衛もおぼつかず、東は下総の千葉介氏胤に阻まれるという状況となっており、鎌倉はまさに風前の灯火だったのである。このような中、直義入道の養子・関東管領基氏(尊氏四男)は、12月18日、直義入道に従属し「自京都至関東供奉」してきた「田代豊前三郎殿(田代顕綱)」「田代次郎四郎殿」に対し「神妙也、可抽賞之状」(観応二年十二月十八日「足利基氏奉書」『田代文書』)を下している。

 基氏と直義入道との関わりは、康永3(1344)年6月17日、「今日左兵衛督直義朝臣子息実将軍子息也、学問始、師読前藤少納言有範朝臣、深剃著袴馬乗始、弓始、五箇条同日有之」(『師守記』)というように、五歳時点で事実上直義の子として認識されていた。同じく直義養子とはいえ長らく鎌倉にいた義詮とは情愛もまた異なったであろう。基氏はこのとき十二歳だが、執事上杉憲顕のもと戦乱の気のある関東をうまく差配し、京都との関係も複雑な中で身を鍛えていたのだろう。ただし、この田代顕綱らへの奉書は自らの提案ではなく、おそらく直義入道が指示したものであろう。敢えて直義入道が記さず基氏に記させたのも、直義入道は自ら勝機はないことをすでに悟っており(または在京時から何らかの疾患に冒されていた可能性もあるか。義詮の行っている祈祷のうち二度行った愛染王法は息災を一義とし、不動法は病魔退散及び延命と調伏、その他の修法もすべて息災と調伏を兼ねており、直義入道が何らかの病に冒されていたことを示唆しているのかもしれない。調伏は直義入道個人ではなくその与党に向けられたものであろう)、田代顕綱らの武勇を証するために、追討対象とされた自分ではなく基氏にその証文を記させたのではなかろうか。事実、直義入道降伏後、田代豊前三郎顕綱は上洛して足利義詮に帰参しており、閏2月20日の義詮と南朝勢力の七條大宮合戦において奮戦している。

 12月25日、直義入道は「伊豆路警固事、所差遣加子宮内少輔也」ことを「走湯山常行堂衆徒」に知らせ、「早致用意、可抽忠節状」ことを命じている(観応二年十二月廿五日「足利直義催促状」『士林証文』)。加子宮内少輔(加子信氏)は一色範氏入道、石塔義房入道の従兄弟で、尊氏庶長子・竹若丸(元弘の乱で討たれた)の叔父である。彼は直義入道に従属し、伊豆路の警衛を走湯山堂衆に指示したのだろう。直義入道は鎌倉を追われて伊豆国へ向かったと思われるが、12月29日「於足柄山、追落御敵等畢」(正平七年正月日「高麗経澄軍忠状」『町田文書』)とみえ、直義入道勢は足柄山で追撃する薬師寺勢などに敗北した。

 一方、尊氏勢は正平7(1352)年正月1日、「馳参伊豆国府」(正平六年十二月廿九日「高麗経澄軍忠状」『町田文書』)し、正月2日に足柄山から逃れた直義入道勢と「早河尻合戦」(文和元正月二日『妙法寺記』)したとみられる。その後の直義入道の行方は定かではないが、正月5日に「将軍御鎌倉入」(『鶴岡社務記録』)しており、「大将軍領武衛入鎌倉」(『東海一漚集』)とあることから、直義入道は降伏し、尊氏とともに鎌倉に入ったことがわかる。後年の記述だが「将軍、恵源ヲ携テ鎌倉ニ入御、基氏ハ将軍ト恵源ト御中不快ノ事ヲ歎キ、和睦ノ儀ヲ調給フトイヘトモ御許容無シ、依之、鎌倉ヲ去テ安房国ニ忍居玉フ、将軍ヨリ御使ヲ立ラレ鎌倉ヘ還座」(『喜連川藩鑑』)ともあり、鎌倉に入った時点で尊氏と直義入道はいまだ和睦の気はなく、基氏はこれを嘆いて鎌倉から安房国へ移ったという逸話も残る。

 2月6日、尊氏は「高尾張権守師業」に「可令領知下野国足利庄内大窪郷、生河郷、戸森郷、小江郷」を「馴馬、梅木、白根、高岡郷々之替所充行」っている(正平七年二月六日「足利尊氏袖判下文」『永井直哉文書』)。これは各国に分散していた師業所領を他の御家人への勲功充行とするために、御内人の高師業を根本私領内に替地を充行ったものであろう。また、武蔵国守護に「川越出羽守(河越直重)(観応三年八月十四日「足利尊氏施行状」『永井直哉文書』)、上野国守護に「宇都宮下野守殿(宇都宮氏綱)(正平七年閏二月十六日「前遠江守宗継施行状」『浅草文庫本古文書』)、越後国守護も「宇都宮下野守■綱(宇都宮氏綱)(正平七年正月「宇都宮氏綱軍忠状」『宇都宮文書』)、伊勢国守護に仁木越後守義長(正平七年二月十九日「伊勢守護制札案」『難波家文書』)を据えるなど、尊氏に従軍していた実力者を守護につけている。なお、守護職補任については『建武式目』に「諸国守護人、殊可被択政務器用事」と明記され、建武年間までの恩賞のような宛行は否定されており、実際にその国に影響力を及ぼし得る人々を補任していることがうかがえる。

●建武三年十一月七日「建武式目」(『建武式目』)

諮問答申
政道事 先逐武家全盛之跡、尤可被施善政哉、然者、宿老評定衆公人等済々焉、
於訪故実者、可有何不足哉、古典曰、徳是政々在安民云々、
早休万人愁之儀、速可有御沙汰乎、其最要、
一、(前条略)
一、諸国守護人、殊可被択政務器用事
  如当時者、募軍忠被補守護職歟、可被行恩賞者、可宛給庄園乎、
  守護職者、上古之吏務也、国中之治否、只依此職、尤被補器用者、
  可叶撫民之義乎
一、(以下略)

 

正平の一統

 正平6(1351)年12月22日、京都でも大きな動きがあった。洞院公賢邸に「伯卿(神祇伯資継王)」が訪問し、「三種器渡御間事談之」(正平六年十二月廿二日『園太暦』)という。資継王は「神官奉仕、此事先規不覚悟迷惑可為何様哉」と、先例もない異例の神器渡御に困惑している様子がうかがえる。12月28日には「南方内侍所神宴関白宣下、准后、院号等事」(正平六年十二月廿八日『園太暦』)につき、光明院及び新院(崇光院)に「太上天皇尊号」(『皇年代私記』)、准三宮廉子に新待賢門院の院号が奉られた。また、南朝方の大将軍の一人でもあった二條前権大納言師基を関白とした。これ以降、「参南方」の公卿や役人が目立ち始める。すでに北朝は消滅しており、唯一の朝廷たる吉野へ向かうことは道理であった。

 翌正平7(1352)年正月5日、「於南方御所被行叙位」された。

●正平七年正月五日叙位(正平七年正月五日『園太暦』)

正二位 藤原実守
(洞院実守)
   
従二位 源通冬
(中院通冬)
資継王
(神祇伯)
藤原実清
(洞院実清)
従三位 藤原公冬
(今出川公冬)
藤原光有
(堀川光有)
藤原正雄
正四位下 源定能
(冷泉定能)
   
従四位上 源顕成
(北畠顕成:北畠顕家子息)
   
従四位下 源顕氏
(土御門顕氏)
藤原隆兼  
正五位下 藤原季定 源通春
(土御門通春)
 
従五位上 藤原隆世    
従五位下 藤原光氏    

 関東において戦乱が終結した一報は、正月16日に左大臣公賢の耳に入っており、「就中東国平定歟、此間洛中風聞候、旁幸甚珍重候」(正平七年正月十六日『園太暦』)と評している。この風聞を受けて、同16日、祇園執行詮顕は「参鎌倉殿慶賀申了、又御撫物加持申了」(正平七年正月十六日『祇園執行日記』)と、三条坊門邸を訪れて義詮に慶賀を述べるとともに、忌祓の加持を行っている。

 こうして、北朝持明院統の廃位(北朝消滅)と南朝大覚寺統の皇統の正統性が治定し、三種器の渡御も完了。多くの公卿も正規御所である賀名生御所へ出仕し、武家を統括する勅許を受けている足利家も内訌が収束したことを受け、南北和合については後村上天皇の洛中臨幸を残すのみとなったのである。そしてこの臨幸につき、2月3日、賀名生の後村上天皇は在京の左大臣公賢に諮問している。後村上天皇は、

於京都者、今年方忌之上、八卦方忌重畳之間、自去年猶重可謹慎候歟、仍先八幡辺なと卜行宮、云礼儀、云政務、可令施行之由思給候、且面々一同之間、已廿日頃可遂其節之由治定候、前大将令還任申沙汰候、行幸之体一向可為警固之儀候歟、其間事定右大将被申談候歟

とし、そのほか延引している祈年祭、春日祭などの行事についても諮問している(正平七年二月五日『園太暦』)。これを請けた公賢は2月6日、祈年祭や春日祭等について勅答し、

抑行宮出御事、返々承悦仕候、云神事以下礼儀、云安堵以下釐務、天下大慶不可過之歟、八幡辺尤可有便宜候、就中臨時祭事、即於当所御沙汰尤可有便宜候哉、殊可被経御沙汰候歟、実世卿顕職還任、如此事申沙汰承悦仕候

と、八幡山への行宮を推し臨時祭もそこで行うことがよいと、頭中将具忠へ宛てて勅答したのであった(正平七年二月五日『園太暦』)

 公賢への諮問書送達の二日後、2月5日には「右大弁守房(吉田守房)」より「鎌倉宰相中将殿」へ「臨幸事、御事書被遣候、且可令存知給之由、天気所候也」(正平七年二月五日『園太暦』)と、後村上天皇臨幸に際しての事書を送達したことを義詮に知らせている。事書は左府公賢の家司と思われる「丹後守殿(藤原光熈)」に送達されており、「臨幸事、云方忌之難、云諸司之障、無左右難事行之間、静可有沙汰之處、祈念以下恒例諸祭御斎会等、有限之仏事事、依御在所之遼遠、毎事擁怠、所驚思食也」であり、「仍先可幸京洛近境歟之由思食定也、被催具者、可為今月中、至定日者、重可被仰矣」ことを義詮朝臣へ伝えるよう指示されている。

 2月21日には新院崇光上皇の院司が補され、別当以下が定められた。これと同時に「仙洞守護事、先日勅定之趣申入南方御所、勅答之趣無相違、仍申遣武家也」(正平七年二月廿一日『園太暦』)ことが、七十七歳の大蔵卿雅仲が公賢邸を訪問して報告している。

●崇光院司( )内は北朝官職

別当
(執権不被補)
源通冬 正二位 権中納言
(大納言)
奨学院淳和院両院別当
藤原実夏
【執事】
従二位 権中納言
(権大納言)
前春宮大夫(2月20日止)
藤原実長 正三位 権中納言 前春宮権大夫(2月20日止)
藤原守房   頭右大弁 ●祗候南山
藤原経量 正四位下 散位
(治部卿)
 
判官代 藤原教光
【年預】
従四位下 左中弁 洞院公賢家司
前春宮権少進(2月20日止か)
藤原時経   蔵人
勘解由次官
●祗候南山
藤原範康   蔵人  
橘以清      
源仲興      
主典代 資為      
蔵人
(不被補)
藤原範元
(不被補)
  非蔵人 ※蔵人今度不被補、非蔵人藤範元、
南山左大将同名無骨之上、蔵人不非補有先規、
仍被略之

 2月25日、武家沙汰として「東寺八幡宮雑掌」の訴えによる「山城国久世庄事」の濫妨人の沙汰につき、京都守護の「細川陸奥守(細川顕氏)」より「海部但馬守殿」「広田出羽亮五郎殿」を両使として、「退濫妨人、沙汰付下地於雑掌、可執進請取状」を厳命している(正平七年二月廿五日『東寺百合文書』)

 なお、直義入道の与党はいまだ各地で反旗を翻しており、義詮は2月7日にも三宝院賢俊を招き「於三條殿、相染王法」を修法している(正平七年二月七日『三宝院文書』)。同日、義詮は「丹波国凶徒退治事、所被仰守護人也」と丹波守護の執事仁木頼章に凶徒追捕を命じた(正平七年二月七日「足利義詮」『河本文書』)。執事頼章は当初の計画とは異なり、尊氏とともに下向せず在京して義詮を補佐していたことがわかる。

直義入道の死

 正平7(1352)年2月25日、鎌倉では「若公(基氏)」の元服が急遽行われた(『鎌倉大日記』)。このとき基氏十三歳。そして、翌26日卯刻、「高倉殿入滅高武州滅亡之月日云々」した(『鶴岡社務記録』)。享年四十六。場所は「鎌倉延福寺」(正平七年二月廿六日『常楽記』)、「鎌倉稲荷智円法師坊」(『建長寺年代記』)という。延福寺は鎌倉の足利邸に隣接した寺院で、病中の直義入道は療養のために寺に置かれたものと推測される。直義入道入寂前日に元服の儀が執り行われたのは、直義入道の病が旦夕に入る状況にあったためではなかろうか。

 直義は尊氏挙兵よりその片腕となり、私心のない冷静かつ沈着、豪胆でありながらも神経質な性格で、尊氏とともに道を切り開いた。そして、関東武家政権の崩壊とともに、武家第一人者となった兄尊氏を支えて武家公卿足利家の外交、内政、人事、軍事一切を一手に引き受け、持明院統の皇統のもとで、もともと足利家とは君臣関係のない全国の武家を沙汰して政務を行った。足利家は関東武家政権(いわゆる鎌倉幕府)においては御家人の一家であり、摂関家や皇族を推戴して成立していた関東政権とは全く異なる成立過程を辿っており、故に非常に不安定なものであった。こうした状況をうまく立ち回りながらも、南朝大覚寺統との和平も推進する。

 基氏は在京期間も長く、前述のように幼少の頃から実質直義の子として育てられており、直義入道から様々な薫陶を受けていたのだろう。後年だが永徳3(1383)年3月30日、等持寺での「檀那尊氏忌齋」で十五歳の将軍足利義満が義堂周信との話のついでに、義堂和尚「故鎌倉基氏作何好」と質問してきた際、義堂和尚は「凡佛法政道、其余管絃諸伎芸、無不好者、独於世俗所好村田舞楽、終身不一見」と述べた。義満は故基氏がなぜ田楽のみを「終身不一見」なのかを聞いたため、義堂和尚は「伯父大休寺殿不愛戯場、且以有妨於政道也」と、「伯父大休寺殿(直義)」が政道の妨げになるからとして避けていたため、それを見習ったものだと答え、義満は「君頗有愧色」と反省の様子を見せたという(永徳三年三月晦日『空華老師日用工夫略集』)。このように、基氏は直義入道を政道の鑑とし、基氏の末裔は「左馬頭(将軍家と共通で任官)」を経て「左兵衛督(これを極官とする)」に任じられる足利別家の家柄となり、室町期を通じて関東を支配した。そしてこの官途は直義入道の官途と一致し、関東管領足利家(関東公方)は直義を継承した直義流足利家といえるのかもしれない。

●関東管領(関東公方)足利家【直義流足利家】

当主 誕生 元服 左馬頭
(及び叙位)
左兵衛督
(及び叙位)
薨去
  足利直義 足利貞氏 徳治2(1307)年
※薨年より
逆算
不明
※嘉暦元(1326)年
5月26日カ
・従五位下
・兵部少輔
元弘3(1333)年
6月12日
・27歳

※10月10日
・正五位下
※11月8日
・(遷)相模守
※建武元(1334)年
7月9日
・従四位下
暦応元(1338)年
8月11日
・従四位上
・32歳

※康永3(1344)年
9月23日
・従三位
正平7(1352)年
2月26日
・46歳
足利基氏 足利尊氏 暦応3(1340)年
3月5日
正平7(1352)年
2月25日
・13歳
文和元(1352)年
8月29日
・従五位下
・13歳
延文4(1359)年
正月26日
・四位か
・20歳
貞治6(1367)年
4月26日)
・従三位※
※貞治3(1364)年
4月14日に従三位
・28歳
足利氏満 足利基氏 延文4(1359)年
8月12日
応安2(1369)年
正月21日
・11歳
応安5(1372)年
11月6日
・従五位下
・14歳
康暦元(1379)年
3月7日
・従四位下
・21歳
応永5(1398)年
11月4日
・40歳
足利満兼 足利氏満 永和4(1378)年
※薨年より
逆算
不明 応永5(1398)年
12月25日以前
(氏満死直後)
・官途不明
応永8(1401)年
5月2日から
応永9(1402)年
3月23日の間に任官
・従四位下
・23~24歳
応永16(1409)年
7月22日
・32歳
足利持氏 足利満兼 応永5年(1398)
※薨年より
逆算
応永17(1410)年
12月22日
・13歳
応永17(1410)年
12月22日
・従四位下
応永27(1420)年
12月
・従三位
・23歳
永享11(1439)年
2月10日
・42歳
足利成氏 足利持氏 永享6(1434)年
※薨年より
逆算
宝徳元(1449)年
11月30日
・16歳
宝徳元(1449)年
8月27日
・従五位下
・16歳(元服前)
宝徳3(1451)年
2月28日
・従四位下
・18歳
明応6(1497)年
9月30日
・64歳
足利政知 足利義教 永享7(1435)年
7月12日
長禄元(1457)年
12月19日
【還俗】23歳
長禄元(1457)年
12月19日
・従五位下
・23歳
文明2(1470)年
11月26日
・従四位下
(左兵衛督カ?)
※文明7(1475)年
9月9日に従三位
※文明17(1485)年
で左兵衛督を辞す
後任は田向重治
延徳3(1491)年
4月3日
・57歳
【古河】
足利政氏
足利成氏 文正元(1466)年
※薨年より
逆算
文明16(1484)年
12月
・23歳
文明16(1484)年
12月
・従四位下
・23歳
就かず 享禄4(1531)年
7月18日
・66歳
【古河】
足利高基
足利政氏 文明17(1485)年
※薨年より
逆算
明応2(1493)年
6月19日~
文亀2(1502)年
7月21日の間
就かず
※明応3(1494)年
11月24日
足利義高が任左馬頭
就かず
※左兵衛佐に就任
天文4(1535)年
10月18日
・51歳
【古河】
足利晴氏
足利高基 不明 享禄元(1528)年
12月27日
時期不明 時期不明 永禄3(1560)年
5月17日
【古河】
足利義氏
足利晴氏 天文10(1541)年
正月15日
弘治元(1555)年
10月か
時期不明
・従五位下
弘治3(1557)年
2月
・従四位下
(右兵衛佐)
天正10(1582)年
閏12月21日
・42歳

 この頃、畿内でも事態が大きく動いていた。

 2月19日、前権大納言実守から天皇臨幸の道程が左大臣公賢に示された(正平七年二月十九日『園太暦』)。実守は公賢の子である。

一 臨幸事、可為八幡之由、先日被仰之處、其後有異儀、先可幸東條、自其可幸住吉歟

と、先日取り決められた八幡を行宮として祈年祭等を執り行うという予定が変更され、まず河内国東條に行幸したのち、住吉へ向かう旨が示されたのである。「東條」は楠木左衛門尉正儀を筆頭とする楠木一族の拠点であり、これが公賢より足利家へ伝えらえた際には、不穏な意図が隠されているという強い警戒感が足利家に伝わったと思われる。さらに、

一 人々行粧事、元弘自伯州還幸儀相准、誠不可有子細歟、各為戎衣云々

と、後醍醐天皇が伯耆国から入洛した先例に准じ、供奉の人々は武装した状態で入洛する旨が伝えられている。

 2月26日夜、公賢邸に「五條三位為嗣卿」が訪問し、「明暁二條元関白(二條良基)」が住吉へ参るにあたり、自分も相伴して向かうことが報告された。そしてこの日、後村上天皇も「令出穴太此間改名於賀名生、宸居、令赴住吉給、但暫可御東條城、楠木左衛門尉正式、聴其構、供奉人各戎衣躰、但用総鞦、実世卿有示旨之間、馬一疋総鞦蒔鞍等、伝借遣了」(正平七年二月廿六日『園太暦』)という。公賢は子息の南朝右大将実世からこれらの情報を伝え聞いており、実世のためか総鞦と蒔鞍を置いた飾り馬を一頭派遣している。

 行幸は右近衛大将実世、左近衛大将教基が警衛する形で、まず「内裏ヨリ五條野ノ野社へ行幸」し、翌27日に「野社ヨリ東條観興寺(観心寺カ)ヘ行幸」した(『斑鳩嘉元記』)。翌28日、観興寺から「著御住吉、以神主国夏館為御在所、但可御住江殿、仍有修造」(正平七年二月廿八日『園太暦』)した旨が閏2月1日に南朝方の葉室右衛門権佐光資から洞院公賢の家司丹後守光熈に届けられ、「此御教書可被付遣義詮朝臣之由、同被仰下候」が指示されている(正平七年閏二月一日『園太暦』)。同様に「鎌倉宰相中将殿(義詮)」自身にも「著御住吉候也、暫被點行宮候、御入洛時分追可有沙汰之旨、被仰下候」(正平七年閏二月一日『園太暦』)ことが光資より伝えられている。「供奉人悉戎衣也、色々織物鎧直垂用総鞦」とあるように、供奉人はすべて武装した状態での行幸であった(正平七年二月廿九日『園太暦』)。この後村上天皇行幸は、京都武家方の予想通り(尊氏は離京時すでに警戒していたとみられる)、後醍醐天皇の伯耆からの還御に則った武力による京都制圧と、新田義貞の鎌倉攻めを先例とした関東制圧、陸奥国司による陸奥国府制圧という三面行動であった。こうした南朝方の秘かな動きは、すでに2月27日、洞院公賢のもとにかつて雑訴決断所奉行時代の奉行人だった「武家奉行人諏方大進房円忠」が来て「公家武家和談事未熟、天下又騒乱出来歟之間、世上云々愁歎之由談之、尤有謂之如何」と語っているように、不穏な風聞として京都に広まっていたのである(正平七年二月廿七日『園太暦』)。なお、諏方円忠は公賢邸には「依得旧好時々来也」という間柄であった(正平七年二月廿七日『園太暦』)

 こうした風聞により、京都を守る義詮は南朝吉野方の謀略を疑いつつも、閏2月8日、祇園社法橋顕詮に「天下静謐御祈、大般若一部可転読之由、為三須雅楽允奉行」(正平七年閏二月十七日『祇園執行日記』)を依頼している。ところがこの日、顕詮は太子堂等の再建造営料所の奏請のために住吉の行在所を訪問しており留守であった。このため改めて16日に転読し、17日に「御所奉行粟飯原下総入道(粟飯原清胤入道)」に巻数を付している(正平七年閏二月十七日『祇園執行日記』)

 京都での動きと並行し、前述のとおり吉野方は、関東上州の「武蔵守義宗(新田義宗)」及び「奥州国司(北畠顕信)」らに蜂起の勅書を伝えているが、その綸旨発給時期は北朝持明院統の天皇が廃された2月初旬頃とみられる。さらに信濃国の「大王(宗良親王)(正平七年三月四日『園太暦』)には「東夷を征すへき将軍の宣旨を下されて、東山東海のほとりに籌策をけくらし侍」っている(『李花集』雑歌)。この事から、宗良親王を大将軍とする鎌倉攻めの計画が進行していたことがわかる。宗良親王の『李花集』によれば「征夷将軍の宣旨なと給りし」とあるが、『新葉和歌集』では「中務卿宗良親王」に「征東将軍の宣旨なと下されし」(『新葉和歌集』十八雑歌下)といい、「征夷将軍」「征東将軍」が混在している。これは単純に「夷」「東」の誤記とも思われるが、そもそも「征夷将軍」と「征東将軍」は同義であり、将門鎮定の忠文将軍及び中先代の先例に基づき「東夷を征すへき将軍」こと「征東将軍」が是であろう。その宣旨が下された時期は定かではないが、「おなし比、武蔵国へうちこえて、こてさし原といふ所におりゐて、手分なとし侍し」(『新葉和歌集』十八雑歌下)とあることから、閏2月「廿八日、籠手指原合戦」(正平七年三月「松井助宗軍忠状」『土佐国蠧簡集残篇』)と同時期のことであり、関東及び奥州への蜂起の勅書と同時に下されたと考えるのが妥当だろう。

 閏2月15日、後村上天皇は住吉を出立し、「幸天王寺」した(正平七年閏二月十七日『園太暦』)。この天王寺行幸は「公家武家御合体事、自公家御違変、仍自住吉昨日行幸天王寺」といい、南朝吉野方の「御違変」(正平七年閏二月十六日『祇園執行日記』)として、武家政権側は一気に緊張の度を増したのである。

正平七年閏二月十五日の南朝方一斉蜂起

 南朝吉野方の一斉蜂起は「正平七年閏二月十五日」と定められていたとみられ、正平7(1352)年閏2月15日、「武蔵守義宗」は「於上州揚義兵」し、新田義興は「世良田長楽寺」に禁制を出した。また、丹波国でも同日「丹波国守萩野被追落」の報が入り、義詮は「鬱陶」(正平七年閏二月十五日『園太暦』)し、「毎事不可従綸旨、起軍之旨風聞という。この丹波合戦は「千種少納言少将某(千種顕経)、日来在丹波」の挙兵であり(正平七年閏二月廿日『園太暦』)、丹波ばかりでなく「江州等、自住吉被向其勢之旨謳歌歟、魔縁■歟」というように、近江国でも南朝方が兵を挙げていたのである。

 さらに奥州でも閏2月16日に陸奥国司顕信が家司右馬権頭清顕を通じて、「相馬出羽前司殿」に「為伊達御発向、所有著御柴田也、相催一族急可被馳参之由仰候也」(正平七年閏二月十六日「陸奥国宣」『相馬文書』)していることから、伊達郡霊山から陸奥国府へ向けて出立したのは前日の閏2月15日であろう。これらのことから、正平7(1352)年閏2月15日が南朝蜂起の期日であったことがわかる。

 義詮は天王寺に迫った「住吉殿(後村上天皇)」の軍勢に対し、15日以前に「武家進住吉之使者」(正平七年閏二月十六日『園太暦』)を派遣したり、16日には「恵鎮上人為武家使、今朝参住吉了」(正平七年閏二月十六日『園太暦』)したりと、「和睦之道」「御和談」を必死に探ったのである。その一方で、15日には「武家軍勢著到之由」と軍勢を集めつつ、「武家遣使者於関東」「武家遣使者於江州、令渡勢多橋、若没落之躰歟」と、関東へ危急を伝え、近江国へ脱出する道も整えていたのである。

 こうした緊張状態の中で、閏2月16日夜には「伊勢国司勢数百騎入洛中、其他軍士充満云々、或説今夜若可有事歟云々(正平七年閏二月十六日『園太暦』)といい、伊勢国司北畠顕能の軍勢数百騎ほか南朝方の軍士が入洛していた。すでに朝廷は南朝方で一統されていたことから、京都の武家政権側が伊勢国司勢の正当な入洛を拒むことはできずなかった。しかし、武家政権はすでに「自公家御違変」(正平七年閏二月十六日『祇園執行日記』)と認識し、和睦の破綻を意識していた。そのため、17日朝には佐々木道譽を近江に下向させ「是称勢多橋可渡之由云々、其勢二百騎許歟、此外多勢、在京人無之云々(正平七年閏二月十七日『園太暦』)といい、義詮は着到した軍勢の多くを近江へ移していたのである。

 閏2月17日、「住吉殿(後村上天皇)」は「幸八幡、即可被発向軍兵於京都之旨風聞」という(正平七年閏二月十五日『園太暦』)。「主上已渡御八幡之由有説、無実歟、或云昨日幸天王寺、明日可幸」(正平七年閏二月十七日『園太暦』)ともいう風聞に、公賢は「彼是迷惑、天下騒乱歎而有余事也」と述べている(正平七年閏二月十五日『園太暦』)。こうした状況にあっても、なお義詮は南朝方の翻意を祈るべく、閏2月18日に「天下静謐祈祷事」を神護寺に依頼するなど、懸命に戦争回避を続けたのであった(正平七年閏二月十八日「足利義詮御教書」『神護寺文書』)

 一方で、若狭国の「美作守殿」からの「注進状披見了」として若狭国の異変を確認するとともに、「南方和睦事、既御違変之由有其聞之間、致用意最中也」ことを伝え、「若狭国凶徒退治事」は「被仰守護人了」ことを述べて、本郷美作守貞泰にも「相催一族同心之輩、可致忠節」を命じている(正平七年閏二月十八日「足利義詮御教書」『本郷文書』)。このときの若狭守護人は足利左京権大夫家兼(高経弟)で、守護代として子息の「治部大輔直持」(観応三年三月廿四日「足利義詮奉書」『古証文』)が差配し、義詮は和平に一縷の望みをかけつつも、南朝方のまったく一方的な「御違変」の可能性が高く、警戒するように伝えているのである。

 そして閏2月19日明け方、天王寺の行宮を出立し「幸八幡、及晩著御歟」という(正平七年閏二月十九日『園太暦』)。これは祇園執行顕詮法印も「閏二月十九日、主上自天王寺、今日行幸八幡」(正平七年閏二月十九日『祇園執行日記』)といい、後村上天皇は八幡山に入ったのであった。この石清水八幡宮を擁する八幡山は、摂津国、山崎・桂方面、京都、宇治を遠望できる地域の中核であり、さらに難攻不落の要塞でもあった。この八幡行幸は、閏2月20日に「阿曾大宮司館(宇治惟時)」「恵良小次郎館(恵良惟澄)」へ「右大弁(吉田守房)」が発給した綸旨では「高氏、義詮乍蒙勅免、重依有陰謀之企、為被追討所有臨幸八幡也」としたためている(正平七年閏二月廿日「後村上天皇綸旨」『阿蘇文書』)。この八幡行幸は「高氏、義詮」の「為被追討所」であることが明確であった。

 なお、足利武家政権側からの和平に関する協定違反はまったく確認できず、この破談は南朝吉野方、具体的には「准后」こと北畠親房入道による一方的な謀略とみられる。このことは「南方官軍、北畠破武家合体」(『東寺長者補任 隆雅』)からも明らかであろう。尊氏や義詮自身は協定に即し、とくに尊氏は望まない直義入道の追討戦を実行。さらに持明院統隆雅の天皇を上皇として北朝を廃し、南朝吉野方の元号「正平」を用いて南朝皇統を正統と治定した上で帰洛を促すという最大限の譲歩を行った。武家の統率についても「武士事被召仕之上者、可管領之旨勅許云々」と尊氏・義詮に武士の管領を勅許しており(観応二年十一月五日『園太暦』)、足利武家政権は南朝においても完全に認められていたのである。しかし、南朝の「准后」こと北畠親房入道の目的は「公家一統の御世」(『吉野御事書案』)とすることにあった。かつて直義入道は親房入道との和平交渉の中で、彼の時代錯誤な考えを「諸国の武士勇卒等、又元弘の如く公家の被官となり、卿相雲客の家臣僕徒ならんむ事をバ欲すや否や、能々御了簡有べき歟」(『吉野御事書案』)と嘲笑しているが、親房入道はいまだ「公家一統の御世」(『吉野御事書案』)、つまり朝廷が武家をも一統するかつての建武政権の世に拘り、勅定による尊氏らとの約定など初めから守る気はなかった。そして、勅定を遵守する尊氏、義詮に「重依有陰謀之企」という事実無根の罪を擦り付け、自らを正当化したのであった。

 後村上天皇の八幡行幸は義詮ら足利武家政権の警戒心は最高潮に達し、翌閏2月20日、義詮自身がまず「東寺辺」へ出立した(正平七年閏二月廿日『園太暦』)。「方々討手已襲来之由有其聞」と、京都へ向けて軍勢があちこちから襲来しているという噂もあった。丹波国で挙兵した「千種少納言少将某(千種顕経)」は「已入京内野充満」(正平七年閏二月廿日『園太暦』)といい、「自南方北畠宰相中将顕能伊勢国師、千種宰相中将不知名字丹波国師、楠木以下軍勢責入京都、於五條大宮合戦之處、武家方軍勢打負了、鎌倉宰相中将義詮、佐渡判官入道々譽、細川奥州等以下軍勢、悉江州没落了」(正平七年閏二月廿日『神護寺交衆任日次第』)と、足利義詮らは20日の「五條大宮(実際は七條大宮)合戦」において大敗を喫し、東寺から近江国へと逃れ去った(正平七年閏二月廿日『園太暦』)

 合戦以前からすでに京中には「北畠中納言顕能卿」が率いる伊勢北畠勢、「千種宰相中将(顕経)」率いる丹波千種勢が合法的に入っており、そこに八幡から「楠木勢和田勢次第打入」ったこと、すでに武家政権側が催促した軍士の多くは近江国に集められ、京都は「在京人無之云々(正平七年閏二月十七日『園太暦』)、「宮方破合体之儀寄来之間、洛中依為無勢」(観応三年三月一日「足利義詮御教書」『立入文書』)という様相であったことから、義詮らは合戦前から戦勝は放棄し、京都を脱出して東西より挟撃する体制づくりをしていたとみられる。「七條大宮辺合戦」では「細川奥州顕氏一戦之處、舎弟被討、即引返指北西没落」(正平七年閏二月廿日『園太暦』)と、細川顕氏は従弟の讃岐守頼春(侍所頭人か)を失いながらも桂、丹波方面へ移り、義詮らは「指東国没落之由有其聞」(正平七年閏二月廿日『園太暦』)、「道譽、土岐等勢、伴宰相中将、赴東国四宮河原」(正平七年閏二月廿日『園太暦』)という。細川頼春が討死した場所は「於洛中七條油小路辺(下京区米屋町付近)被討了」(正平七年閏二月廿日『常楽記』)とみえ、戦場は東寺以北七條大路を東西に広がっていたのだろう。なお、この頼春の末裔が細川家惣領となり、三管家の一つとして強大な勢力を築くことになる。この戦いで「午刻許有火、是義詮朝臣三條坊門館、御所方軍士放火云々、其辺又一両所有火、其外無殊事」(正平七年閏二月廿日『園太暦』)と、三條坊門邸は放火により焼失している。

 このように電撃的な南朝方の攻勢は、親房入道が予め南朝諸勢を洛中に送り込み、八幡からの楠木勢らとの連携により勝利を収めるが、親房入道は勢力的には南朝方は圧倒的に不利であるという状況を理解しており、今回の京都攻めは親房入道の最大の目的は武家政権が持明院統の皇統を担ぎ出さぬように、まず光厳、光明、崇光の三上皇及び廃太子直仁親王を八幡へ同道することにあった。京都の安定が図られた場合には、八幡山より還御となる運びであったと考えられる。

 南朝方による京都制圧の翌日、閏2月21日未半刻頃、左大臣公賢邸に「蔵人右衛門権佐光資(葉室光資)」が八幡より勅使として来訪した。公賢は勅使光資に謁し「所詮御所々々可幸八幡之由」を命じられる(正平七年閏二月廿一日『園太暦』)。このとき公賢へ渡された消息は、出処は不明ながら、おそらく北畠親房入道の御教書と思われる。上皇らの八幡行幸は、表向きは「縦雖非庶幾、余賊令抑留申候、為彼御進退殊御心苦也、其間事殊可被申入候、尚々不可残御意、不可有隔心、為天下安全候也」とするが、事実上の持明院統の皇統の拉致計画である。

 すでに北朝皇統に実権はなく、天皇は八幡行宮の後村上天皇のみであるため、公賢が勅定を拒むことは不可能であり、仙洞女房に宛てて「八幡御幸候へき事、御書かように候」とし「三院宮御方なり候へきよし申さたし候へきむね申候、御心得候」「いそき出御候へきよし、申入候へと申候つる」と「即伝申仙洞了」し、「御書進之上、光資示之趣、又申入了」(正平七年閏二月廿一日『園太暦』)。ただし、敗れた武家方は南朝方入洛以前に兵力の大半を近江に送っており、親房入道としては、武家方反攻の前に八幡行宮への上皇行幸を完了している必要があった。そのため、最高執行責任者たる左大臣公賢に上皇行幸の指示を行うとともに、在洛中の「北畠中納言顕能卿」を「仙洞持明院殿」へ遣わして「両院(実際は三上皇と前春宮直仁)奉入六条殿」(『祇園執行日記』)した。このとき、「只今御車以下無用意、予可進之由沙汰云々、牛童已下近来不随所勘、仍其々示之、但車牛一頭可隨召之由申、彼御書申仙洞案続之、小時自仙洞有御書、曾可参御共之仁無之、実夏参哉云々、実夏自今曉現病、招嗣成朝臣加灸程也、仍其子細了、日没程出御、御共教言朝臣北面康兼許也、後聞実音朝臣、又依仰参向云々(正平七年閏二月廿一日『園太暦』)と、あまりに急な行幸であるため車の用意ができず、洞院公賢があわてて車と牛童を手配するという状態であった。また、御共の人々も避けて集まらず、公賢の嫡子実夏に供奉の命が下るが、公賢もこれを避けるためか、実夏は急病と断っている。結局、御共は山科内蔵頭教言と北面源康兼のみ(のち崇光院叔父の正親町三条実音も供奉)であった。なお、上皇らが逗留した場所は「六条殿」ではなく「伊勢国司中納言顕能卿北畠一品禅門子息、参向仙洞、本院、新院法皇、主上、春宮、奉入東寺、一夜逗留、以小子坊為御所」(『五壇法記』)とあるように、実際は要害の東寺であった可能性が高いだろう。

 北畠親房入道は京都占領と同時に「顕能卿」へ「重可発向江州」を指示したようであるが(正平七年閏二月廿六日『園太暦』)、前述の通り、指揮する将たる者の数や兵力、士気において南朝勢は明かな劣勢にあった。京都占領後は「顕能卿」が「被住左女牛若宮別当坊」(正平七年三月十五日『祇園執行日記』)して警衛しており、彼が近江へ出立すれば京都は抜け殻となってしまう状況にあった。親房入道は「洛中事、又難被打捨」という中で、「隆俊卿、適居大理之職、加扶持可上洛之由、再三雖被仰父卿、固辞候」と、検非違使別当の職にある四條隆俊卿に京都警衛のため上洛を要請するも、その父四条隆資卿が拒絶したのである。四条隆資は公卿大将として楠木勢とともに戦場を馳せる歴戦の驍将であるが、彼は戦略的に見てもこの京都占拠は無謀とみて、親房入道と対立していた可能性が高い。やむなく「俄又被差窮老之質候」と、閏2月24日にみずから上洛して京都の差配を行うこととしたのである。洞院公賢には「歴十七年、履旧里之塵、非不自愛、而至此一挙者、迷是非候」とその決意を述べている(正平七年閏二月廿六日『園太暦』)

 一方、近江国の「石山寺」(正平七年閏二月廿日『金剛寺所蔵聖教類奥書集』)へ逃れた「若将軍」義詮は、閏2月23日、朽木谷の「佐々木出羽守殿」「佐々木朽木出羽四郎殿」へ「宮方合体御違変之間、所打越江州也」として、南朝方の一方的な違約により合体が破算となった旨を伝え、参着を命じた(観応三年閏二月廿三日「足利義詮御教書」『朽木文書』)。南朝方の裏切り行為により京都を追われた義詮の怒りの程は、「正平」から「観応」へと元号を変えたことからも察せられる。

 閏2月23日、土岐刑部少輔頼康は「美濃国墨俣」に動き、義詮の布陣する「馳向江州四十九院宿」した(観応三年五月「佐竹義景軍忠状」『秋田藩採集文書』)。京都には翌24日に「土岐刑部少輔、於濃州率勇士上洛、最初中将在江州四十九院辺相伴、又可攻上之由風聞」(正平七年閏二月廿四日『園太暦』)という一報が届いている。また、同日義詮は下野国の長沼左衛門尉へ「宮方合体(御違変之間打越于)江州候、可罷上京都也、早催一族、以夜継日可馳参」(観応三年閏二月廿四日「足利尊氏御教書」『栃木県庁採集文書』)を命じる御教書を送っており、同様の文書は諸所に送っているとみられる。翌25日にも「義詮朝臣、与土岐合勢、可攻上之由有風聞」(正平七年閏二月廿五日『園太暦』)があり、京都の緊張感はすさまじいものがあったであろう。「江州四十九院」では事実合戦があり、かつて直義入道に従属して関東へ供奉した田代豊前三郎顕綱がいつしか入京して義詮に帰参し(おそらく直義入道が顕綱の今後のために基氏に証判させた軍忠状を持参し帰参が認められたのだろう)、細川陸奥守顕氏の子、細川陸奥八郎四郎業氏に属して四十九院に奮戦している(観応三年六月三日「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)

 なお、閏2月25日、洞院公賢のもとに「鎌倉大納言所労危急、或已及大事云々(正平七年閏二月廿五日『園太暦』)という一報が届く。続報として、翌26日に「信濃諏訪祝已下一国軍勢発向鎌倉之由、去十六日立彼国云々」が伝わった(正平七年閏二月廿六日『園太暦』)。そして、28日に「准皇(北畠親房入道)」より直接「尊氏卿、去十八日没落之由」が伝えられた(正平七年閏二月廿八日『園太暦』)。後述のように、閏2月18日、新田武蔵守義宗、新田兵衛佐義興、脇屋左衛門佐義治ら新田勢を主力とした南朝勢により鎌倉は攻め落とされていたのである。ただし、皮肉にもこの確報が京都に伝わった28日、鎌倉を目指していた吉野方大将軍の征東将軍宗良親王は小手指原で大敗し潰走していたのであった。

 閏2月28日、近江から「准后(親房入道)」宛ての「千種左馬頭」の飛脚によれば「佐々木五郎入道、与同義詮朝臣、急可被下軍勢云々」という(正平七年閏二月廿八日『園太暦』)。近江国へ義詮を追撃した北畠顕能らの軍勢は寡勢であり、当てにしていた途中参着の人々は集まらないばかりか、却って敵方に加わる始末で、顕能は親房入道へ軍勢の追加派兵を依頼したのであった。

 そして3月1日、義詮は丹後国の「松田修理進殿」へ、義詮勢は近江国を「今明所発向也」と伝え、「早同心之輩相共、且対治凶徒、且可責上京都」ことを命じている(観応三年三月一日「足利義詮御教書」『立入文書』)。洛西には細川陸奥守顕氏ら細川勢が駐屯しており、この一手との合流が図られたのかもしれない。なお、3月1日には「園三位基経(基隆)卿」から「関東敗北事、妙法院宮注進已下到来」して「持参八幡」されている(正平七年三月一日『園太暦』)。それによれば「去十九日尊氏卿没落、大略不知行方」といい、さらに「奥州大軍已到常州」とのことであった。しかし、この書状が届いた時点で、鎌倉は足利勢に襲撃されており、翌3月2日、新田勢は鎌倉から退散している。

八幡落城

 正平7(1352)年3月3日には「江州已襲来八幡之由」(正平七年閏三月四日『園太暦』)という中で、3月4日「就之騒動ゝ三院宮御方被奉移東條」という重大案件が公賢の耳に入る。その後「大炊御門元大納言氏忠卿」が来て、「去夜上皇已下幸東條、御輿、供奉人実音朝臣也、教言朝臣自内裏不可参之旨被仰、仍上北面範康舎弟範之■相副御輿、其体■■云々、不便之梶井宮、垂髪一両人、坊官一人、同歩行相従云々(正平七年閏三月四日『園太暦』)と、三上皇及び前東宮、梶井宮尊胤法親王は、すで八幡を発したことが伝えられた。「本院、新院、法皇、宮御方前春宮、自八幡被奉下、河内東條広河寺、自内裏沙汰、梶井宮御下東條同日(正平七年三月四日『祇園執行日記』)と、行先は東條広河寺と伝えられ、楠木左衛門尉正儀一党による警衛と考えられる。これらの沙汰は、京都を警衛していた親房入道が、情勢から京都の永続的な占拠と後村上天皇の入洛は不可能と判断したことと、八幡山での兵粮米の不足(ただでさえ兵站が延びて補給が不安定な中、敵地の最前線に天皇、公卿衆、守衛の兵に加えて三上皇と前春宮を養わざるを得ない負担があった)、三上皇らの奪取を防ぐ必要に迫られた結果であろう。

 この頃、播磨国の赤松則祐律師も義詮の要請に応じ、3月5日に上洛の途についている(観応三年五月「後藤基景軍忠状」『後藤文書』)。そして3月9日、「江州四十九院宿」(観応三年三月十日「足利義詮下文」『豫章記』)を発して「已所発向京都也」した。3月10日には各地の守護に京都発向を命じる御教書を出したとみられ、伊予国守護の「左近将監政氏」はこの「鎌倉殿御教書」を3月16日子刻に受け取り、即日国内の地頭らに対し「不日可攻上候、相構早々可有御上洛候哉」という施行状を発給している(観応三年三月十六日「細川政氏施行状」『河野家之譜』)

 3月11日には「自若狭路越前守護(足利修理権大夫高経)已下可攻上云々」という風聞もあり、3月14日、「坂本辺山徒等有別心輩之上、江州勢已打入坂本之由有其風聞」のため、「大塔僧正坊(忠雲僧正)并松本(坂本カ)辺警固中院宰相中将(中院具忠)等昨日帰京」し、翌15日朝には「宮方官軍顕能等悉」(『皇代記』)くの南朝勢は「不及合戦」(正平七年三月十五日『五壇法記』)、早々に「各引八幡了」した。それを追うかのように、15日の「未申刻」に「鎌倉宰相中将殿勢、又今日已寄来神楽岡真如堂辺」という(正平七年三月十五日『祇園執行日記』)。「武家相公羽林手、自勢多北国入洛」(正平七年三月十五日『建武三年以来記』)とあるように、噂通り足利高経勢も北から入洛していたとみられる。東山に軍勢が動いたことで「洛中又物騒」として、祇園社は「中門脇門等、以古材木構之」と門に防御施設を建築している(正平七年三月十五日『祇園執行日記』)

 入洛した「将軍方軍勢」は「取陣於東山長楽寺、双林寺、鷲尾、阿ミタ峯等」し、「鎌倉殿、同長楽寺上峯ニ御座、各被焼篝■■少々宿、百度大路在家等」(正平七年三月十五日『祇園執行日記』)と、義詮自身は京都全体を俯瞰し八幡行宮をも望む「長楽寺上峯」(正平七年三月十五日『祇園執行日記』)の「東山将軍塚」(正平七年三月十五日『五壇法記』)に陣所を置き、夜は篝火を盛大に焚いて威嚇したのであろう。その後、義詮は山を下って「羽林今夕坐法勝寺」(正平七年三月十五日『建武三年以来記』)し、翌16日には「羽林坐東山常在光院」(正平七年三月十六日『建武三年以来記』)へ入った。「常在光院」は尊氏も利用する足利家ゆかりの寺院であり、現在の知恩院境内に存在していた。3月17日には「楠木以下凶徒等、率大勢寄来摂津国神崎」(文和元年十月「杜本基長軍忠状」『北河原氏家蔵文書』)したため、摂津国守護の赤松信濃二郎左衛門尉光範がこれを迎え撃ち、麾下の杜本左衛門次郎基長らがこれを撃退した。18日には光範の叔父で播磨国守護となっていた権律師則祐が「紅一揆」「赤旗一揆」と称する赤松党を率い、「為八幡山凶徒退治御発向」(観応三年五月「後藤基景軍忠状」『後藤文書』)のため摂津国に進出し「吉川五郎入道仁心代堀四郎光重」(観応三年五月「堀光重」『吉川家什書』)らが摂津国「瀬河宿(箕面市瀬川)」に馳せ参じている。

 そして3月21日、「鎌倉殿諸軍勢、巳刻自東山御陣下入御東寺、二千余騎、前懸於赤井河原、一合戦」(正平七年三月廿一日『祇園執行日記』)といい、昼前に義詮は本陣を東山から東寺へ移した。率いる兵は二千余騎という大軍であり、先陣はすでに山崎を臨む「赤井河原(伏見区羽束師)」まで進んで南朝勢と合戦をしている。3月23日には「山城国狭郷田村左近信友」が「尾張左近大夫氏経」のもと「淀大渡警固」を行っており(観応三年五月十二日「田村信友着到状」『柳瀬所蔵文書』)、23日には八幡山を望む淀大渡周辺は足利方が押さえていたことがわかる。そしてそれは5月12日の氏経帰洛まで警衛が続いており、南朝方の手に落ちることはなかった。

 同3月23日には、土岐頼康勢が「馳向宇治」しており(観応三年五月「佐竹義景軍忠状」『秋田藩採集文書』)、3月24日には権律師則祐が「於宇治、松井野、洞峠以下所々之御陣」を戦っている。すでに則祐律師は義詮与党としての姿勢を明確にしており、南朝方との関係を完全に遮断している。尊氏直々の依頼によって南北融和のために走り回った結果が、北畠親房入道の裏切り(はじめから親房入道は南北和平の意志などなく、ただ天皇還御と武家政権打倒のために北朝方の人々を利用していたことが露顕した)という結果に激怒したものだろう。「義詮以下軍兵責八幡事、至廿九日渾合戦事也、仍不注之(『園太暦目録』)は、3月25日に開始される予定であったが、「而延引明日歟云々」(正平七年三月廿五日『園太暦』)という。延引の理由は「武家勢頗如雲霞、近日陪増、仍不急合戦歟」とも伝わっている(正平七年三月廿五日『園太暦』)

 3月26日に「宇治手渡河寄八幡辺合戦、寄手多被追入河水歟」(正平七年三月廿七日『園太暦』)という足利勢の多くが宇治川へ流される合戦の風聞があり、翌27日晩に左大臣公賢のもとに届けられているが、これは虚説と確認されている。実際には27日には足利勢が「渡木津川」し、土岐頼康勢は「馳向大墨山(京田辺市大住城ノ谷)致合戦」(観応三年五月「佐竹義景軍忠状」『秋田藩採集文書』)、摂津から宇治方面へ駆けた赤松則祐勢も同日に大墨山と連なる「荒坂山(八幡市美濃山荒坂)」に立て籠もった楠木正儀勢と合戦(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』)している。この大墨山、荒坂山が「洞峠」に相当するが、楠木氏が拠る生駒山系西麓の北端であり、楠木氏の勢力下の要衝であろう。同日には「八幡合戦」もあり、「赤松勢取陣於洞ヶタウ下南辺、官軍及酉刻押寄合戦、両方被疵者数輩、土岐頼康舎弟号悪五郎勇士被討了」といい、赤松律師則祐と土岐兵部頼康は連携して宇治から八幡南部に展開していたことがわかる。なお、「悪五郎」は「土岐荒五郎」ともされ実名は「頼里 観応三五ヽ討死(『尊卑分脈』)と伝わる。「土岐荒五郎被討、八幡洞塔下合戦庭、楠木勢多以討」(正平七年二月廿七日『常楽記』)と、赤松則祐、土岐頼康が戦った洞峠の合戦も楠木勢が南朝方の主力だったことがうかがえる。

 26日「夜半許、軍兵寄来勢多辺、宿大略焼払、就中焼橋了、依之江州辺以外物騒之間、迎輩不来、仍延引、或説、石塔吉良等引勢上洛之間、下賀高山輩焼之歟」(正平七年三月廿七日『園太暦』)というように、近江国では「儀我高山以下凶徒」(観応三年四月十日「足利義詮御教書」『南部文書』)による騒擾が続いており、南朝方に帰参していたと思われる石塔頼房や吉良満義貞らが上洛を企て「下賀高山輩」が近江国勢多辺を焼き払い、勢多橋も焼き落としたともいう。

 28日明方には宇治木津川辺で合戦があったようである(正平七年三月廿八日『園太暦』)。律師則祐は「於宇治、松井野、洞峠以下所々之御陣」(観応三年五月「後藤基景軍忠状」『後藤文書』)とあることから、この宇治から攻め上がっていたのは律師則祐の手勢であろう。28日には京都に「手負引返」している(正平七年三月廿八日『園太暦』)。4月2日には土岐頼康勢は「取陣於洞手向」(観応三年五月「佐竹義景軍忠状」『秋田藩採集文書』)ている。また八幡対岸の山崎地域には「於山崎忍頂寺致忠戦之由、仁木越後守義長、詳所注申」(観応三年四月三日「足利義詮奉書」『南狩遺文』)、「山崎致忠節之由、畠山上総介所注申也」(観応三年四月三日「足利義詮奉書」『南狩遺文』)とあるように、仁木越後守義長、畠山上総介貞康らが派遣されていた。

 洛中には4月2日夜、「上辺武士多充満、随而越前守護修理権大夫、南惣門前大蔵卿定親宿所構間所参候被御所之故也、宿之、其外軍勢上辺横行多就宿所、更不得其意」(正平七年四月二日『園太暦』)と、越前守護足利高経が入京して南惣門前(御所南惣門か)の大蔵卿定親屋敷に宿し、京都北部一帯に軍勢が多く宿陣したという。公賢は当初その理由がわからなかったが、夜になり「三宮新院御一腹、公秀卿之孫也、自八幡為被奉捕、被指入勢於京中之由風聞、依之用心歟」(正平七年四月二日『園太暦』)という風聞が伝わった。南朝方は河内国東條へ連れ去ることに成功した持明院統の三院(光厳、光明、崇光)ならびに前東宮(直仁親王)とは別に置かれていた崇光院の実弟三宮(のち弥仁王)をも捕らえるべく動いた様子がうかがえる。もう一人の光厳上皇皇子(三才宮)は、すでに3月2日、おそらく武家政権側の要請により「忠季卿奉伴」って逐電しており(正平七年三月二日『園太暦目録』)、都に残る三宮の身柄保護に対し武家方の警戒感が強かったことがうかがわれる。

 北条時頼―+―北条時宗――北条貞時――北条高時
(相模守) |(相模守) (相模守) (修理権大夫)
      |
      +―北条宗頼――女子
       (七郎)   ∥―――+―北条守時
              ∥   |(相模守)
              ∥   |
              ∥   +―平登子
              ∥     ∥――――――+―足利義詮
              ∥     ∥      |(宰相中将)
              ∥     ∥      |
              ∥     足利尊氏   +―足利基氏
              ∥    (権大納言)   (左馬頭)
              ∥     
              北条久時――女子
             (相模守)  ∥――――――+―正親町忠季
                    ∥      |(権大納言)
                    ∥      |    
                    正親町公蔭  +―徽安門院一條
                   (権大納言)   (対御方)
                             ∥
                             ∥―――――――義仁親王
                             ∥      (三才宮)
                             光厳天皇

 この頃、足利方はすでに桂川西岸域、山崎の要衝を抑え、宇治から巨椋池南岸域も制圧。淀川も赤松勢が進んでおり、制圧は時間の問題となっていた。後村上天皇の行宮である八幡山周辺にはすでに足利勢が進出していたが、4月5日に「大高伊予重成」が左府公賢に報告したところでは「合戦定未聞」(正平七年四月五日『園太暦』)であるという。「所詮八幡兵粮払底之由風聞、然者可奉守落之旨支度歟」と、八幡山の兵粮払底により天皇以下が南方へ落ちる支度をしているとの観測もありつつ、「又、公家輩事、可有以外沙汰之旨、骨張輩有之旨風聞、可恐事歟」(正平七年四月五日『園太暦』)とあるように、強硬な態度の殿上人らがいて、油断できない旨を報じている。

 4月11日、赤松信濃二郎左衛門尉光範の手勢は「馳向渡邊」し、6月までの間に「致度々合戦」して南朝楠木勢等を撃退している(文和元年十月「杜本基長軍忠状」『北河原氏家蔵文書』)。4月17日には山名師氏率いる山名勢が「宇治御発向」し、そこには備後三吉氏の「惣領備後上秀経」や「三吉少納言房覚弁」ら属している(観応三年五月十二日「三吉覚弁」『鼓文書』)。また、八幡へ戻った北畠顕能は、4月17日に伊勢佐藤氏の「信夫佐藤彦左衛門尉殿」「信夫佐藤弾正忠」(正平七年四月十九日「北畠顕能袖判御教書」『佐藤文書』)に家司「大蔵権少輔定景」を通じて軍勢催促している。八幡山への合流を求めたものとみられる。なお、顕能はこのとき京都占拠の功績を以ってか「宰相(参議)」から「(権)大納言」に登って「土御門源大納言家」と称している。「土御門」は村上源氏の名門であり、元来中院家の庶流に過ぎない北畠家が、尊氏与党の土御門家を絶家とし継承する形で称したのかもしれない。

 4月21日、公賢のもとに「山名伊豆時氏発向八幡之處、野伏輩出向、時氏勢数十輩被討云々」(正平七年四月廿一日『園太暦』)という報告が入る。山名時氏は直義入道与党として活動していたが、関東での直義入道降伏を受けて京方に降ったと思われる。さらに「前典薬頭嗣成朝臣」が邸を訪れて語るには「武家辺説語之、八幡御没落不可有程之由風聞、彼御方勢没落之間、為路次可令召捕相尋之、兵粮大略尽歟之由称之」(正平七年四月廿一日『園太暦』)といい、八幡山から逃れ出た武士等を捕縛して尋問すると、八幡山ではすでに兵粮がほとんど残っていないことが語られたという。23日には「牧片野郷民不従武命之間、寄手陸奥守顕氏焼払歟」(正平七年四月廿四日『園太暦』)という足利勢による「牧、片野(枚方市から交野市)」への軍事行動も行われている。なお、細川顕氏は「今度八幡合戦惣大将也」(正平七年七月五日『園太暦』)でる。

 ところが、4月24日に公賢が聞いたところでは「八幡御所兵粮米、済々到来之由有其聞、仍此間可食攻之由武家支度之處、当方ハ依兵粮難治、没落之輩多有其聞」(正平七年四月廿四日『園太暦』)といい、八幡山には兵粮米が密かに運び込まれたことで兵糧攻めが不可能となり、却って足利勢の兵粮不足が露呈したという。このため、足利勢は「此上者攻寄可決雌雄之由風聞」(観応三年四月廿四日『園太暦』)といい、力攻めでの八幡城攻略にシフトした。参戦が確認できるのは、惣大将細川陸奥守顕氏の和泉勢、細川伊予守元氏の四国勢、山名伊豆前司時氏の出雲勢、山名右衛門佐師氏の備後勢、赤松権律師則祐や赤松左衛門尉光範の「紅一揆」の播磨摂津勢、土岐右馬権頭頼康の美濃勢、佐々木近江守秀綱の近江勢(なお、安芸国守護武田信武が関東出兵のため、安芸国衆は赤松則祐、佐々木秀綱が率いて八幡陣に臨んでいる)、桂川西岸域から山崎にかけては、仁木越後守義長、畠山上総介貞康らが見える。

 翌4月25日、「諸軍勢今日寄八幡之由風聞」(正平七年四月廿五日『園太暦』)が公賢のもとに届いた。これは現地からの報告ではなく洛中の噂であろう。実際に公賢は噂を聞いて「随而南方煙気度々見之」している。八幡行宮の後村上天皇は公賢の義理の孫(天皇の母、新待賢門院廉子は公賢養女)でもあり、「宸儀玉躰尤不審事也、御心苦事也」と天皇の苦衷を察し安否を気遣っている。

 西園寺公経――洞院実雄―+―洞院公守―――洞院実泰―――洞院公賢――+―洞院実世
(太政大臣) (左大臣) |(太政大臣) (左大臣)  (左大臣)  |(権中納言)
             |                     |
             +―藤原佶子                +―洞院実夏
              (京極院)                |(内大臣)
               ∥                   |
               ∥                   +=藤原廉子
               ∥                    (新待賢門院)
               ∥                     ∥  
               ∥――――――後宇多天皇          ∥―――――――後村上天皇
               ∥      ∥             【南朝】
               亀山天皇   ∥――――――――――――――後醍醐天皇
                      ∥
               五辻忠継―――藤原忠子 
              (参議)   (談天門院)

 八幡合戦では足利勢が「責入八幡山下、仏閣人屋払塵煨尽、剰火及極楽寺云々」といい、これは総大将の細川顕氏勢が「於山下悉焼払極楽寺祓殿以下寺社数箇所為灰燼」したものである。赤松勢は八幡山東部の「於善宝寺口抽戦攻畢」(観応三年五月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)、「西中尾合戦」(観応三年五月「吉川五郎入道代堀光重軍忠状」『吉川家什書』)及び「攻上佐良階南山励戦功、城二箇所追落之、則取陣於佐良階城之攻口」(観応三年五月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)の南西部「佐良階南山(枚方市楠葉丘の交野神社の山か)」の砦を攻めている。また山名右衛門佐師氏率いる備後勢らは「木津川尻美豆繩手両所令退治、追籠御敵城内、焼払山下在家」(観応三年五月十二日「三吉覚弁」『鼓文書』)と、北東部から木津川対岸から八幡山へ攻め寄せたことがわかる。

 諸方からの攻撃により、後村上天皇は山上に行幸し、公卿衆などほかの人々も山上へ移った。翌4月26日に公賢に届いた報告では、「細川奥州、予州元氏以下、山上自後廻、寄称経墓之所取陣之處、自御方夜討、子刻発向彼役所、被疵者不知数、仍顕氏已下被迫切、元氏在洞タヲ下在之而仰天之上、其路難所之間、引退大渡辺云々、顕氏元氏被疵之由風聞、後聞、顕氏無殊事歟、馬武具大略払底被取云々(正平七年四月廿六日『園太暦』)といい、惣大将の細川陸奥守顕氏、伊予守元氏らは「牧、片野」(正平七年四月廿四日『園太暦』)から北上して八幡山後背の「経墓」という地に布陣し、深夜に夜討を仕掛けたが大敗し、大渡の辺まで退いた。顕氏、元氏兄弟も負傷したという風聞があったが、とくに問題はなかったとされている。ただ、顕氏はこの二か月余り後に亡くなっており、戦傷が原因の可能性もあろう。

 なお、この頃東寺の武家政庁では「武家執行雑務引付、高駿河入道、大高伊予前守重成、為両頭人行之云々(正平七年五月一日『園太暦』)というように5月1日、高師直弟の高駿河入道(高重茂入道)ならびに親類の大高伊予前司重成を引付頭人として雑訴沙汰を執り行った。同日、故公宗跡を継承し西園寺家当主として北山亭に居住していた前内大臣公重は南朝方との接点が多かったためか「前内府依武命、如元帰竹林院事」されている(正平七年五月一日『園太暦目録』)。5月6日には祇園執行顕詮法橋が東寺の義詮を訪問し、「粟飯原入道齋藤五郎左衛門入道見参」し、造営料や修理沙汰などの「条々申了」している(観応三年五月六日『祇園執行日記』)。八幡合戦という大戦を行いつつも裁判や行政上の案件は止まることなく行われたのである。

 八幡山合戦は4月25日の開戦から二十日あまり続いているが、和泉国でも楠木左衛門尉正儀による活動が続いており、5月6日には「泉州松村(岸和田市上松町、下松町周辺か)」で合戦があった(正平七年六月「和田助氏軍忠状」『和田文書』、正平七年六月「淡輪助重軍忠状」『淡輪文書』)。相手はおそらく守護細川顕氏であろう。

 そして、5月11日夜、洞院公賢邸に入った報告で「八幡官軍堅敗北歟、降人済々、又主上令没落給云々、其後頃之云、御没落不実歟、熊野湯河庄司、此間顕能卿専一官軍也、而率二百騎許勢、降参奥州陣、此上官軍失力之條勿論歟云々(正平七年五月十一日『園太暦』)、「湯浅入道一族自八幡城降参、衆三百余騎云々(正平七年五月十一日『祇園執行日記』)といい、八幡山からは北畠顕能の「専一官軍」だった熊野湯河庄司(または湯浅入道一族)が二、三百騎を率いて細川顕氏に降伏。これをきっかけに八幡山に籠城していた人々は力を失い、瓦解したという。

 5月11日夜、山名右衛門佐師氏勢は「男山城没落之間、則追懸散々致合戦訖」(観応三年五月十二日「三吉覚弁」『鼓文書』)、5月11日夜には「御敵没落之時、自善宝寺之上責登致合戦」し、「其夜猶八幡薬師堂、終夜致警固畢」(観応三年五月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)している。この合戦では「被疵者以百千数之、就中可然者可令被討歟」(正平七年四月廿五日『園太暦』)という。

 翌5月12日、左府公賢に「去夜子刻、八幡陣敗北、主人以下皆以没落云々、或云、於南都少々欲奉留之輩有之」(正平七年五月十二日『園太暦』)と、八幡落城の確報が届いた。翌13日朝、「知任朝臣(刑部卿橘知任)」が訪れて「自八幡到来首等、今朝梟六条河原云々」という(正平七年五月十三日『園太暦』)。それによれば「此條叶宜否未知、或説、景繁卿、章興以下懸之、其外執柄師基公二男教忠卿、具忠卿、公興朝臣等首到来、是ハ不懸云々」という。二條教忠は左近衛大将として右大将顕能とともに南軍を率いる総大将であり、頭中将具忠、左近衛中将公興はいずれも武官として戦ったとみられ、建武年中に奮戦した左兵衛督実世、右兵衛督隆資などを見ても南朝方における武官は野戦指揮官を意図した人事である可能性がある。

 西園寺実氏――西園寺公相―+―西園寺実兼―――西園寺公衡―――+―西園寺実衡――+―西園寺公宗
(太政大臣) (太政大臣) |(太政大臣)  (左大臣)    |(内大臣)   |(権大納言)
              |                 |        |
              |                 |        +―西園寺公重
              |                 |         (内大臣)
              |                 |        
              |                 +―藤原寧子   +―光厳天皇
              |                  (広義門院)  |
              |                   ∥      |
              |                   ∥――――――+―光明天皇
              |                   ∥
              |                   後伏見天皇
              |                           
              |                          
              +―西園寺実俊―+―西園寺季経―――+―西園寺公興  
               (参議)   |(左近衛中将)  |(左近衛中将) 
                      |         |        
                      +―女子      +―西園寺実澄
                       (遊義門院一條局) (権中納言)   
                        ∥                  
                        ∥―――――――――世良親王
                        ∥        (太宰帥)
                        後醍醐天皇              

 同日夜には権中納言忠季が公賢邸を訪れ、「白河宰相中将公冬、為土岐被生捕、可斬之旨風聞、又右大将隨逐尊光丸同生虜云々、又四條一品為赤松被討取、首同取之、随以合戦遂被取不便」と報告があった。今出川公冬中将は土岐頼康勢にとらわれて斬首(実際は「当流矢、然而無殊事」で生存している。その後出家した)され、おそらく京都攻めには反対していたであろう歴戦の四條権大納言隆資も赤松勢と戦い討死した(正平七年五月十三日『園太暦』)。さらには「実清卿、必定被討歟」(正平七年五月十五日『園太暦』)と、公賢甥の左中将実清も討死したことが語られている(これも誤伝で実際は東條へ遁れていた)。「実勝朝臣、其時分殞命了、一流滅亡不便」(正平七年七月九日『園太暦』)と、滋野井右中将実勝も討死を遂げて滋野井家は断絶となっている。

 また、「河野対馬入道殿」へ宛てた義詮の書状では「八幡山凶徒等事、一昨日悉没落之間、石見宮四條一位隆資已下数百人討死或ハ生捕候」(観応三年五月十三日「足利義詮御教書」『河野家之譜』)とあり、「石見宮」なる皇族の存在が見える。この宮の出自は不明ながら、八幡合戦前年の正平6(1351)年当時、「周防御座 常陸親王」がおり、正平6(1351)年7月30日に「常陸親王御使 河原源次左衛門尉」が用件不明ながら遠江国の「一宮源蔵人大夫入道」に遣わされている(正平六年七月丗日『毛利文書』)。正平6(1351)年2月には「参御方可致軍忠」の「常陸親王令旨」が石見の「諏訪部弥三郎殿」へ伝えられている(正平六年二月「常陸親王令旨」『三刀屋文書』)。「石見宮」はこの「常陸親王」と所縁の皇族か。「常陸親王」は暦応3(1340)年正月24日に土佐国大高坂城(高知市)に籠って足利方と戦った「花園宮、新田綿打入道殿、金澤左近将監、土佐権守」らの大将「花園宮」の後身とみられ、「とさよりすハうへ御入り」し、中国地方西部域に地盤を持ったのだろう。なお「花園宮」が「常陸親王」と称したのは、常陸太守に任じられためとみられ(親王任国に封ぜられた親王は上野親王、常陸親王、陸奥親王など任国を称する)、常陸国との直接的な関係はない。

せんくわうの御こ四人

めうほうしとの、さすのミや

はなそのゝミや、とさよりすハうへ御入ある
いまハひたちの志んハうと申候也

ちんせいのミや、つくしに御さ候、

よしのゝたうきん、

於うたをのミやの御こ二人、そうして六人わたり候
先皇の御子四人

妙法寺殿(宗良親王)、座主宮

花園宮、土佐より周防へ御入ある
今は常陸親王と申候也

鎮西宮(懐良親王)、筑紫に御座候

吉野の当今(後村上天皇)

大塔宮御子、二人、そうして六人わたり候

●参戦した南朝殿上人

人名 官途 合戦
石見宮
(満良親王カ)
常陸太守カ? 生死不明
北畠親房入道   動向不明ながら賀名生へ帰還
二條教忠 左近衛大将 討死の風聞があったが生存し、正平8年京攻めの大将となる
北畠顕能 右近衛大将 後村上天皇に供奉して賀名生へ退避
四條隆資 権大納言
(北朝においては前権中納言)
×討死
洞院実世 前右大将 「右大将父子」が東條へ「不慮落来」
徳大寺公量 太宰権帥、権大納言 東條へ落行
四条隆俊 中納言、
検非違使別当(武官を兼官歟)
四條隆資子。東條へ落行
中院具忠 蔵人頭、左近衛中将 ×討死
今出川公冬 参議、左近衛中将 討死の風聞があったが、流矢に当たったのみで健在。
西園寺公興 左近衛中将 ×討死
洞院実清 左近衛中将 討死の風聞があったが、東條へ「不慮落来」
滋野井実勝 右近衛中将 ×討死
洞院公行 無官 洞院実世嫡子。東條へ「不慮落来」

 完全包囲の八幡山からの後村上天皇脱出は、武士のみならず公卿武官においても相当な犠牲を払和猿を得ず、親房入道が武家を騙してまで企てた武家打倒と還御復興の壮大な両輪計画は、結局は天皇自身を危険にさらし、多くの人材を失うだけの徒労に終わったのである。

 八幡山から天皇がどのようないでたちで逃れ出たかは当日の記録にはないが、「主上トオホシキ御事、褐冑直垂、被混惣軍士、但聊分別申篇ハ、御鞍前ツワ程ニ新葛筥一被付之、付緒被■■■、若是神器類歟者、不知実否、然而伝説如此也」(正平七年五月十七日『園太暦』)という記録も見える。当然ながら腰輿では現実的に脱出は厳しく、元徳3(1331)年8月24日、六波羅の追撃を逃れるために南都へ疾駆した後醍醐天皇の先例の如く、騎馬武者らに重囲されて馬上で血路を開いたのであろう。「八幡主上御没落、北畠中納言顕能、伯耆守以下三百余騎被召具之、将軍方軍勢馳向而合戦、宮方勢数輩討死云々(正平七年五月十二日『祇園執行日記』)と、天皇には右大将北畠顕能ら三百騎余りが供奉して切り抜けた様子がうかがえる。

 5月15日、左大臣公賢邸に届けられた「南都実遍僧都」の書状と使者によれば、「十二日、主上令過南都給、於招提聊供御茶、令過宇智郡方給、無追懸之輩、又南都不被綺申」(正平七年五月十五日『園太暦』)というように、翌日には南都に入っており、「巳刻許令過西大寺前給」(文和二年三月十七日『園太暦』)と、昼前には西大寺前を通過し、唐招提寺での休息後、すぐ出立。「先著御美和」(文和二年三月十七日『園太暦』)し、「主上経奈良路、御下向大和三輪城之由有風聞」(正平七年五月十二日『祇園執行日記』)と三輪方面を経由して「著御宇陀郡」し、「被召寄楠木等、御問答穴太郡民許可申」(文和二年三月十七日『園太暦』)し、て同日中には吉野の入口である宇智郡を馳せ過ぎて賀名生に入御した。合戦の翌日には賀名生に戻るという強行軍を成し遂げる二十五歳の後村上天皇は、幼少期を奥州の戦陣で過ごし、強靭な肉体と精神力を持った青年だったのだろう。

 なお、足利方は天皇の足取りをつかめておらず、南都以降は追撃する人々もいなかったという。「右大将(不)被奉従行幸、不得其路、没東條云々」とあるように、前右大将実世ら側近も天皇の行方がわからず、「右大将父子、実清卿等不慮落来」と、河内東條へと遁れていった。なお、この時点の南朝「右大将」は北畠顕能であるが、顕能は天皇に供奉して賀名生へ戻っており、東條へ遁れたのは前右大将実世であろう。5月19日に公賢邸に届いた弟「公泰卿状」にある「右大将父子」も公賢甥の実清と並んで記載があることから、前右大将実世と公行であろう。このほか「帥大納言(徳大寺公量)、四条中納言(四条隆俊)等」も東條へ参着している(正平七年五月十八日『園太暦』)

 京都八幡の戦い以前は、南朝方は「公家一統の御世」(『吉野御事書案』)を目指す北畠親房入道ら強硬派が台頭し、政事・軍事すべてが吉野朝廷堂上人のもと決定され、軍事面でも堂上人を大将軍とし、その指揮下で武士を使嗾する形となっていた。しかし、還御計画および関東、東北での同時挙兵がすべて失敗に終わり、南朝方もかつて直義入道が言い放った「諸国の武士勇卒等、又元弘の如く公家の被官となり、卿相雲客の家臣僕徒ならんむ事をバ欲すや否や、能々御了簡有べき歟」(『吉野御事書案』)の言葉を思い知ったのだろう。もはや武士は経済的にも実力的にも大きく成長し「公家一統の御世」(『吉野御事書案』)など成立しようもない世の中になっていたのだった。こののち親房入道は表舞台から全く姿を消しており、文和3(1354)年4月17日、賀名生に薨じた。享年六十二。

 武家方においては直義入道、将軍尊氏、鎌倉殿義詮、南朝方においては和平派の人々(楠木左衛門尉正儀、四條一位隆資ら)の尽力により、観応2(1351)年11月7日、「正平の一統」により皇位は南朝方皇統(大覚寺統)で一統され、後村上天皇の還御によって元弘以来二十年に及ぶ戦乱の世が収まるかに思われた。ところが南朝吉野方の北畠親房入道を中心とする武家政権の解消を目指す人々は、この還御を利用して一方的に和平協定を破り、京都へと攻め入ったのである。南朝方は一時は京都を占拠するも、軍勢のほとんどを近江に移していた義詮はすぐさま反転して在京の南朝勢を壊滅させ、さらに南朝方の拠点八幡山をも攻め落としたのであった。この結果、南朝吉野方は再び山深い賀名生の地に遁れ去り、京都には武家政権に奉じられた北朝皇統が巨大な壁として立つこととなったのである。かつて故直義入道に現実を直視せよと窘められた北畠親房入道であったが、これを無視して自らの理想のために武家政権をだまして敗れ、ふたたび山深い吉野へと押し込められたのであった。結局、この致命的なミスにより大覚寺統の皇胤はその後二度と京都の地を踏むことはなかったのである。

後光厳天皇践祚

 観応3(1352)年5月12日、祇園執行顕詮法橋は義詮が陣所とする東寺へ赴き、御所奉行の「粟飯原禅門(粟飯原清胤入道)」を通じて「賀申鎌倉殿」している(正平七年五月十二日『祇園執行日記』)。東寺に同宿する「三宝院、判官入道等」に法橋顕詮は面会しており、三宝院賢俊や佐々木判官道誉らが義詮を補佐していた様子がうかがえる。そして5月13日、吉野南朝方との畿内一円での合戦の収束を見て、「義詮朝臣、今日出東寺移住中條備前守宿館、於此處可行天下事云々、東寺輩皆々帰歟」(正平七年五月十三日『園太暦』)という。「相公羽林夜前自東寺移居錦小路京極中條備前々司許了」(観応三年五月十三日『建武三年以来記』)とあり、義詮が東寺を出たのは13日夜前、移った先の中條備前前司秀長邸は「錦小路京極(中京区東大文字町辺)」にあったことがわかる。三条坊門邸は南朝兵乱によって焼失していたためだが、義詮はここを武家政権の行政府と定め「於此處可行天下事」とした。なぜ京極の地を選んだかははっきりしないが、同日「佐渡判官入道帰八坂之宿、自余軍勢等悉帰本宿云々(観応三年五月十三日『神護寺交衆任日次第』)とあり、佐々木道誉は本邸の高辻京極邸(下京区京極町)ではなく、鴨川を挟んだ八坂辺の宿所に移っている。これは近江路の確保があったとみられ、義詮は今後異変があった際にはすぐに近江へ遁れることができるよう、佐々木道誉本宅に程近い錦小路京極が選ばれたのではなかろうか。のち、この「錦小路京極」の政庁と錦小路を挟んだ北側に「四条坊門富小路私邸」(文和二年五月廿四日『園太暦』)が造られている。

 そして、義詮らは河内東條へ連れ去られた三上皇及び前春宮の帰洛のため、密かに「等持寺住持祖曇和尚」を派遣した。祖曇和尚は尊氏等の帰依篤かった故玄恵法印の門弟にして「楠木縁者」という血縁により交渉役として選ばれたとみられる。ところが、彼が東條へ着いたときに八幡から「右大将、帥大納言、四条中納言等没落、参当所」という不運により「弥失方便」し、空しく5月18日に帰洛した。祖曇和尚が見た「東條御所」は「以外厳密、就中祗候之輩等、猶清撰両三人之外■■御所役なと猶不可祗候之由有沙汰云々(正平七年五月十八日『園太暦』)という張り詰めた雰囲気であったことがうかがえる。

 5月19日、公賢邸に「八幡別当定清法印」が来訪し、中納言実夏が対面した。定清法印は「八幡主上御座之間事等談之」(正平七年五月十九日『園太暦』)し、「被奉納宝殿御調度等、先日賢俊僧正検知、可奉渡之由有命」という。そのため、「検校朗清、別当定清等、相副奉渡之」た。石清水八幡宮側が武家に渡した調度は「朱漆小辛櫃一合、又奉嚢錦小箱一合許、鉢鈴三付之物ナト也」といい、「若是今度、自仙洞被渡内侍所以下神器歟云々」という崇光天皇より引き渡された三種神器である可能性があった。「然者公家未定最中、武将奉請、尤可有案事歟、近日躰、夢幻未分之時節歟」(正平七年五月十九日『園太暦』)という。武家方が正統の「公家」を奉じることができる可能性ができたのである。ただし、一説には「内侍所の御櫃を持ける者、敵にきられ捨行かるを、長年甥大井太郎左衛門尉長重、長年弟長義二男、後大蔵少輔、其後号大井能登守、奉見付、馬よりおり、若党所持を防矢を射、矢種尽ぬれハ、自戦被疵けり、御櫃にも矢十三迄中りけれとも内には不通、無恙して賀名生の御所に著せ給ひける、有難かりしことゝも也」(『伯耆巻』)とも見え、内侍所は賀名生へ還御した可能性がある。

 6月2日、「上皇等東條御坐之間、陪従之仁不幾、仍女房可参候之旨有沙汰、明日少々可参之由支度之處、今日可被奉移賀名生之旨被申、仍女房参不可及其儀云々(正平七年六月二日『園太暦』)といい、三上皇らに伺候する陪従の人々が少なかったため、明日女房衆を東條へ派遣することと決定したが、同日、上皇らを賀名生へ移し奉る旨が報じられたため、この女房衆の派遣は中止となる。義詮らは上皇らが賀名生へ移される報を受けたことで、上皇らを急ぎ救出することは諦め、翌6月3日、南朝方から逃げ果せた「三宮(光厳院第二皇子で崇光院実弟)」の皇位継承を決定。「武家使節道譽向勧修寺亜相亭、三宮御登壇女院後政務事令執申云々(観応三年六月三日『左大史匡遠宿禰記』)と、義詮は佐々木道譽を勧修寺経顕のもとに遣わし、「御所々々出御事、随分雖廻秘計無其験、剰可還御穴太御所之由有其聞、驚存、就其皇位事、武家申沙汰旁有事恐、又非可閣、然者宮々御中為女院御計、可被定申之旨」(正平七年六月五日『園太暦』)を申し入れ、三宮を皇位とし、祖母に当たる女院(広義門院)に後見を願ったのだった。

 西園寺公衡――――+―西園寺実衡――+―西園寺公宗
(左大臣)     |(内大臣)   |(権大納言)
          |        |
          |        +―西園寺公重
          |         (内大臣)
          |  
          +―藤原寧子   +―光明天皇
           (広義門院)  |(法皇
            ∥      |
            ∥――――――+―――――――――――光厳天皇   +―崇光天皇
            ∥                 (上皇)    |(新院
+―――――――――――後伏見天皇              ∥ ∥    |
|           ∥                  ∥ ∥――――+―後光厳天皇
|           ∥                  ∥ ∥     (三宮
|           ∥――――――――尊胤法親王     ∥ ∥
|           ∥       (梶井門跡)     ∥ ∥
|           治部卿局               ∥ ∥
|                              ∥ ∥
| 正親町三条公貫―+―正親町三条実躬――正親町三条公秀―――藤原秀子
|(権大納言)   |(権大納言)   (内大臣)     (陽禄門院)
|         |                    ∥
|         +―女子                 ∥―(実子)―――直仁親王
|           ∥                  ∥       (春宮)
|           ∥――――――――――――――――――藤原実子     ↑
|           ∥                 (宣光門院)   【猶子】
|           正親町実明              ∥        ↑
|          (権大納言)              ∥――――――――直仁親王
|                              ∥       (春宮)
+――――――――――――――――――――――――――――――花園天皇

 6月5日、公賢は「勧修寺前大納言向武家」して「先日女院御返事被仰之歟」ことを聞くが(正平七年六月五日『園太暦』)、「女院御返事、両院以下御事、御迷惑之間、皇位事更難及御意見、只御迷惑之旨也、為武家計申沙汰、不可有子細之由、被仰之旨、但虚実未知事也」(正平七年六月五日『園太暦』)といい、事実なのかは確認できなかったが、夜になって実夏が「参持明院、可申入両(條)女院御方之旨仰了、践祚沙汰事、世上風聞頗有実歟、但秘蔵猶不及披露、広義門院被仰之趣、世上云々若附合歟、内々女房談之」という。

 6月9日にも「御位事、武家令執申之趣、女院平以御不受之由、人々被語申也」(観応三年六月九日『左大史匡遠宿禰記』)といい、広義門院は後見を頑なに拒んでいた様子がうかがえる。これは「抑此君御位之事女院広義門院御政務事、大樹頻に執申されけるに、女院御固辞、都て不可叶之由被仰けれは、本院以下山中に御坐之間、被御ため御仇たるよしふかく思召入ける故とそ、大樹執柄へも申談られけり」(『続神皇正統記』後光厳院)という。広義門院の子(光厳院、光明院)、孫(崇光院、直仁親王)を南朝吉野方に連れ去られた武家政権への強い嫌悪感があったのは間違いないだろう。女院のこうした態度を受けてか、一旦は停止された上皇らへの女房派遣を見直し、15日に「女房等依召参穴太仙洞、御方方各一人」が決定され、賀名生御所へ向かっている(正平七年六月十五日『園太暦』)

●賀名生御所へ向かった女房衆

上皇ら 女房名 出自
光厳上皇
(上皇御方)
新宰相典侍 定兼卿女
(冷泉宰相定親カ)
光明上皇
(法皇御方)
中納言典侍 隆蔭卿妹
(四條権大納言隆蔭)
崇光上皇
(新院御方)
在位御時勾当内侍  
直仁親王
(宮御方)
対御方 故実明卿息女
(正親町権大納言実明)
※直仁親王の叔母に当たる

 6月18日、「武家使節道譽、向勧修寺前亜相亭、三宮御事猶申入之云々」(観応三年六月十八日『左大史匡遠宿禰記』)と、再度申し入れを行っている。おそらく依頼というよりも、事実上の指示に近いものであったと思われ、翌19日、「前亜相、今日向武家、仰昨日御返事云々、三宮御事、再三被申入之間、女院無力御領納云々」(観応三年六月十九日『左大史匡遠宿禰記』)という。これは公賢邸にも「入夜北面康兼来」て大夫実夏が対面して結果を聞いているが、「践祚事三宮御治定、昨日道譽重申之、仍勧修寺前大納言申女院、大略有承諾云々」(観応三年六月十九日『園太暦』)とあり、女院は已む無く武家側の意見を吞んだとみられる。21日には皇位について武家政権の申し入れにより三宮で御治定したことを人々が語っており(観応三年六月廿一日『左大史匡遠宿禰記』)、23日、公賢邸に「三條新大納言実継卿来、三宮践祚事談之、猶堅有■■由歟、不知諸人、只経顕、隆蔭卿外無案内歟、強不可望事歟、種々雑談月出程帰了」(観応三年六月廿三日『園太暦』)

 こうした中、6月21日夜、東條に幽閉されていた「梶井二品親王(尊胤法親王)」は「客飲、守護武士酣酔、倫逃去出京云々」と脱出を企てて成功し、23日に「自東條無為還御去月廿三日」した(観応三年七月三日『祇園執行日記』)。これを聞いた公賢は「逃南方乕口、逃脱之次第言語道断」と驚きを隠せない(観応三年六月廿七日『園太暦』)

 これと時を同じくして武家政権は「吉見三河守殿(吉見氏頼)」を大将軍とした軍勢を「令対治能州凶徒」のために遣わすこととし、6月6日、越中国の南朝吉野方「桃井播州刑部大輔殿、民部少輔殿以下凶徒」らの追討のために吉見三河守氏頼を「越中国御発向」させている(文和二年六月「天野遠政代堀籠宗重軍忠状」『天野文書』)。吉見勢は「越州横河保芝塔下(氷見市上余川)」に布陣し、桃井勢と合戦している。以降吉見勢は桃井勢と氷見周辺で対峙し、6月8日には「同国木谷城(氷見市稲積)」に夜討を懸けて追い落とし、14日には「氷見湊夜討(氷見市本町辺カ)」で桃井勢を放逐している。その後、吉見勢は氷見を望む芝峠に布陣し、翌文和2(1353)年4月にかけて「桃井播州刑部大輔殿、民部少輔殿以下凶徒」と合戦を繰り返している(文和二年六月「天野遠政代堀籠宗重軍忠状」『天野文書』)

 また、美濃国においても旧直義党で南朝方に帰参していた「吉良治部大夫殿(吉良満貞)、石塔殿(石塔頼房)、原、蜂屋、宇都宮参河三郎以下輩」が兵を動かしており、守護職の土岐馬権頭頼康の催促に応じた人々が6月16日、「馳向長森追懸御敵至郡戸追落」している(観応三年七月廿五日「鷲見加々丸軍忠状」『鷲見家譜』)。さらに観応2(1351)年8月以降、備後国守護として南朝勢との戦いを繰り広げた「岩松禅師房頼宥」も改めて備後国で「凶徒退治事」が命じられ、国内武士らに頼宥禅師に従うことを命じている(観応三年六月廿三日「足利義詮御教書」『萩藩閥閲録』、観応三年六月廿五日「足利義詮御教書」『鼓文書』)

 6月25日、「勧修寺前大納言参殿下、御当職如元不可有相違事天下政務内々可有御計之由申入之、且女院御使、且武家令執申之趣云々、就之践祚事、又急速可有御沙汰云々」とし、女院広義門院と武家政権側の依頼として勧修寺前亜相経顕が関白二條良基のもとに遣わされ、元のごとく関白職と天下政務のことを執らしめることを確認。7月2日、女院広義門院は関白良基を通じて「今度践祚儀、可為何様哉事、尋問人々近衛殿、一條殿、鷹司殿、左大臣殿、久我前太政大臣殿、洞院殿、御所存、奉行頭弁為御使参向云々」(観応三年六月廿五日『左大史匡遠宿禰記』)と、近衛前関白基嗣、一條前関白経通、鷹司前関白師平、左大臣九條経教、久我前太政大臣長通、洞院公賢に奉行頭弁を通じて使者を以て諮問し、公賢には「仲房朝臣」が遣わされた。

 仲房朝臣が申すには女院より「宮御方践祚事、武家申沙汰近日可被行其礼、而旧主不御坐、節会已下不可被行、剣璽不御坐之上、不可有渡御儀、又上皇御坐之時、以後彼宣命被行寿永以降例歟、是又今度三院御坐外都、難被准寿永以来、元弘建武儀、然而若猶以上皇御如在儀、可有宣命歟、彼是可為何様乎、申談人可申沙汰之旨」の諮問があり「引勘明日可注進之由示了」の指示を公賢に伝えた(観応三年七月一日『園太暦』)。また、左大史小槻匡遠も同2日に「今度践祚儀事、如准拠例所存、別可注進之由」について御教書を受けており「仍其定則令註進訖、継体天皇御例以下注進」している(観応三年七月七日『左大史匡遠宿禰記』)。これは一條前関白の意見とも合致しており、神器なき例は「模寿永之濫觴」、「伝国無詔」の例は「仁治之準的」をそれぞれ適用し沙汰すべきことで、「両箇互有旧蹤、一向何為新儀哉」と注進している。そして「抑又以持明院殿擬仙洞、被行伝国之條、可否未存定、彼是之間広被尋先例、可有用捨之沙汰乎」との付則も述べた(観応三年七月二日『園太暦』)

 6月27日、小槻匡遠は二條関白に召されて参じ、「抑諸人官位以下事、如元不可有相違歟、止正平一旦儀、毎時可被用観応御沙汰之由、武家令執申之趣」を語られた(観応三年七月一日『左大史匡遠宿禰記』)。三宮の践祚を視野に、南朝吉野方との完全な決別を意図した決定となる。同日、義詮は阿波国の南朝勢を追捕するべく、讃岐守護「細川讃岐十郎殿(細川頼有)」に兄「細川右馬助(細川頼之)」と談じて対処するよう命じている(観応三年六月廿七日「足利義詮御教書」『永源師壇紀年録』)

 そして、細川頼之の父・故刑部大輔頼春の従兄弟に当たる細川陸奥守顕氏は、八幡合戦における惣大将として活躍するも負傷し、おそらくその傷がもとで病床に付していたとみられ、命旦夕に入った7月4日に出家を遂げ、翌5日未刻に卒した。一族被官細川家の庶家という出自ながら、官途は足利高経、吉良貞家ら一門に比肩する従四位下に達し、名実ともに一族最大の実力者として活躍した人物であった。その死は八幡合戦において多数の寺社を焼き払ったための「冥罰可恐之由」が囁かれた(観応三年七月五日『園太暦』)

 7月16日、義詮は東條を攻めるべく「東條凶徒退治事、所差遣越後刑部丞師秀也」と、故越後守師泰の子、刑部丞師秀を大将軍とする軍勢を派遣したことにつき、「渡辺四郎左衛門尉殿(渡辺実)」「伊丹左衛門四郎殿(伊丹宗義)」らに参向を命じた(観応三年七月十六日「足利義詮御教書」『蠧簡集残篇』『北河原氏家蔵文書』)。彼らはいずれも摂津国衆であるが、摂津守護赤松左衛門尉光範ではなく、河内守護の高師秀への従軍を命じられており、鎌倉殿の権限により守護国を越えた軍勢催促が行われていたことがわかる。これはすでに安芸国衆の小早川氏や吉川氏が播磨守護赤松則祐権律師の指揮下に入り八幡合戦に参陣していたことからもうかがわれる。

観応三年当時の各国守護

守護 守護代 出典
陸奥国 左京大夫貞家
(吉良貞家)
  観応三年八月三日「吉良貞家執達状」
(『結城古文書写』)
上野国 宇都宮下野守殿
(宇都宮氏綱)
  正平七年閏二月十六日「前遠江守宗継施行状」
(『浅草文庫本古文書』)
下総国 千葉介殿
(千葉介氏胤)
   
上総国 千葉介殿
(千葉介氏胤)
  観応三年六月八日「足利尊氏袖判下文」
(『垣谷文書』)
武蔵国 仁木修理亮殿
(仁木義氏)
  観応三年七月二日「仁木頼章施行状」
(『久下文書』)
川越出羽守殿
(河越直重)
  観応三年八月十四日「足利尊氏施行状」
(『永井直哉文書』)
相模国 河越弾正少弼殿
(河越直重)
河越上総介 文和二年七月二日「執事施行状」
(『鶴岡等覚相承両院蔵文書』)
伊豆国 修理大夫、修理権大夫
(畠山国清)
遊佐勘解由左衛門尉 観応三年三月廿六日「畠山国清施行状」
(『相模文書』)
遠江国 今川上総介
(今川範氏)
  正平七年閏二月廿四日「足利尊氏御教書」
(『伊達文書』)
駿河国 今川上総介
(今川範氏)
  正平七年閏二月廿四日「足利尊氏御教書」
(『伊達文書』)
信濃国 小笠原遠江守殿
(小笠原政長)
  観応二年八月十日「足利尊氏御教書」
(『勝山小笠原古文書』)
越後国 宇都宮下野守■綱
(宇都宮氏綱)
  正平七年正月「宇都宮氏綱軍忠状」
(『宇都宮文書』)
越中国 沙弥
(宇都宮貞泰入道)
  文和二年二月十二日「沙弥施行状」
(『建内文書』)
越前国 修理権大夫
(足利高経)
  正平七年四月二日「越前守護修理権大夫」
(「園太暦」)
美濃国 土岐右馬権頭殿
(土岐頼康)
   
尾張国 土岐右馬権頭殿
(土岐頼康)
  観応三年七月廿七日「足利義詮御教書」
(『若王子神社文書』)
近江国 佐々木千壽殿
(佐々木義信)
  観応三年七月廿四日「足利義詮御教書」
(『臨川寺重書案文』)
伊勢国 仁木越後守
(仁木義長)
  正平七年二月十九日「伊勢守護制札案」
(『難波家文書』)
河内国 越後刑部丞師秀
(高師秀)
  観応三年七月十六日「足利義詮御教書」
(『蠧簡集残篇』)
和泉国

(細川元氏)
細河八郎四郎業氏カ
(細川業氏)
文和二年三月十八日「足利義詮奉書」
(『田代文書』)→業氏注進に基づく

文和五年三月廿一日「細川元氏書状」
(『田代文書』)
摂津国 赤松信濃二郎左衛門尉
(赤松光範)
  観応三年八月廿七日「足利義詮御教書」
(『三宝院文書』)
丹波国 仁木兵部大輔殿
(仁木頼章)
  観応三年十一月三日「足利尊氏御教書」
(『三宝院文書』)
丹後国 武蔵左近大夫将監殿
(高師詮)
  観応三年八月八日「足利義詮御教書」
(『長福寺文書』)
能登国 散位
(桃井義綱)

吉見三河守殿?
(吉見氏頼)
  観応二年正月十一日「桃井義綱軍忠状」
(『得江文書』)

文和二年六月「天野遠政代堀籠宗重軍忠状」
(『天野文書』)
若狭国 左京権大夫殿
(足利氏経)
  観応三年八月八日「足利義詮御教書」
(『東寺百合文書』)
出雲国 佐々木大夫判官入道殿
(佐々木道誉)
観応三年八月五日「足利義詮御教書」
(『二尊院文書』)
因幡国 前駿河守頼貞
(今川頼貞)
杉田弾正左衛門尉 観応元年九月廿一日「今川頼貞具申状」
(『新興寺文書』)
観応三年八月二日「足利義詮御教書」
(『東福寺文書』)→杉田弾正
但馬国 今川駿河前司殿
(今川頼貞)
 ↓
武蔵将監
(高師詮)
  観応二年八月十七日「足利義詮御教書」
(『臨川寺重書案文』)
 ↓
『園太暦』文和二年五月廿九日条
(『園太暦』)
備前国 松田備前守殿
(松田盛朝)
  観応三年八月廿四日「足利義詮御教書」
(『田中教忠所蔵文書』)
備中国 沙弥
(石橋和義)
  観応三年七月四日「沙弥執達状」
(『東寺百合文書』)
備後国 岩松禅師房頼宥   観応二年八月十五日「頼宥奉書」
(『三吉鼓文書』)
観応三年六月廿三日「足利義詮御教書」
(『萩藩閥閲録』)
播磨国 権律師
(赤松則祐律師)
宇野備前守殿
(宇野頼季)
観応三年七月廿六日「律師則祐施行状」
(『松雲寺文書』)
文和二年三月十八日「権律師施行状」
(『法観寺文書』)
安芸国 武田陸奥守
(武田信武)
  ↓
武田兵庫助氏信
(武田氏信)
  文和二年二月十七日「足利尊氏御教書」
(『萩藩閥閲録』)

文和二年三月廿二日「吉川実経軍忠状」
(『吉川家什書』)
周防国 大内民部大夫殿   観応三年九月廿五日「沙弥施行状」
(『東福寺文書』)
長門国 厚東長門守武直   観応二年十二月廿日「十二月廿日入府」
(『長門国守護代記』)
阿波国 細川右馬助
(細川頼之)
  観応三年六月廿七日「足利義詮御教書」
(『永源師壇紀年録』)
讃岐国 細川讃岐十郎殿
(細川頼有)
  観応三年十二月十五日「足利義詮御教書」
(『永源師壇紀年録』)
伊予国 河野対馬入道    
肥前国 右馬権頭
(一色範光)
  文和二年二月十七日「守護施行状」
(『正法寺文書』)
豊後国 大友孫三郎氏時   観応三年九月廿二日「足利義詮袖判下文」
(『大友文書』)

 8月3日、「関東使者命鶴丸俗名氏直以下勇士七八百騎京着之由風聞」があり、洞院公賢は「是何事候哉尤不審」と不安を隠せない(観応三年八月三日『園太暦』)。噂によれば「西国兵衛佐直冬可和睦事、并南方可攻中事、両條云々、但実否未分明」という。

 8月12日夜、公賢邸を訪問した左兵衛督定親が語るところによれば、「本院光厳院御方、去八日御素懐、西大寺長老(元耀上人)奉授戒云々、御発心歟欺誑歟、尤不審、凡其基御辺已及多年歟、今年御年四十歳也、可驚事也」(観応三年八月十二日『園太暦』)という。法諱は「勝光智」(『皇年代私記』)。この上皇御落飾の知らせを聞いた正親町前権大納言公蔭(娘の徽安門院一條が光厳院に仕えて「三才宮(後、義仁法親王)を産む」)は8月12日に出家(法諱は空静『公卿補任』)。8月14日には揚梅三位重兼が出家(『公卿補任』)。さらに「上皇数十年昵近人」の「大炊御門前大納言氏忠卿」は19日に落飾した(法諱は紹済『公卿補任』)。公賢は「擬彼御共歟、尤可憐、年齢五十四歳(実際は五十一歳)」と評する(観応三年八月十九日『園太暦』)。そして、上皇等及び神器の帰洛の見通しが立たぬまま延々と延期されてきた「院第三皇子御諱弥ー春秋十五歳、御母三位殿、新院同母弟也」の践祚の儀が、8月17日夜、「於土御門殿」で行われることとなる(観応三年八月十七日『後光厳院御践祚記』)。践祚儀は土御門東洞院亭の「於東小御所御元服密儀、加冠関白殿下、理髪頭左大弁藤原仲房朝臣、其儀畢渡御宸居」し、多々の儀を経て践祚した(観応三年八月十七日『左大史匡遠宿禰記』)。後光厳天皇である。

 8月29日、小除目が行われ、翌30日聞書が送られた。これが「当代初度除目也」であった。この除目で「基氏為将軍三男、号鎌倉三郎云々、今任左馬頭、敍爵也」(観応三年八月廿九日『園太暦』)という。

●観応三年八月廿九日叙位除目(『園太暦』)

官職
( )は現任
昇叙
( )は現位
名前
主計権助 (正六位上) 中原師秀    
兵部権大輔   平親顕    
兵部丞   菅原富長    
大蔵卿 (正四位下) 藤原兼綱
(勘解由小路兼綱)
   
(右大弁) 従四位上 藤原俊冬
(坊城俊冬)
   
(右少弁) 正五位上 藤原時光
(日野時光)
   
左馬頭 従五位下 源基氏
(足利基氏)
   
典侍   藤原為子 藤原宣子  
掌侍   三善維子 菅原親子 橘知子

 そして改元についても議され、9月8日夜、公賢邸に「頭弁仲房朝臣」が来訪し、「條々勅問事」を述べた(観応三年九月八日『園太暦』)。その一が「改元事」であり、「急可有沙汰之旨、武家執申之、仍今月中可有沙汰」と武家政権が急ぎ改元の要請をしていた様子が見える。公賢は「代始即位以前、改元邂逅歟、九月又可為何様哉」(観応三年九月八日『園太暦』)と、即位を経ていない代始の改元及び過去に二度しか例のない九月改元の意外性から疑問を呈すが、武家政権側は代始の改元を行って穢れを払い、すべてを一新して事に当たる姿勢を見せたものであろう。

 9月25日には改元字につき菅原在淳、菅原在成の「両儒卿」、文章博士藤原行光、菅原高嗣への諮問についての案が答申された。代始の勘者は元暦、延慶の際の四名という先例に基づき、四名の儒者で行われることとなる(観応三年九月廿七日『園太暦』)

●観応三年九月廿五、廿六日年号勘文(『師守記』)

提案者 元号案 出典
菅原在淳
(従三位式部権大輔)
文元 『隋書』志
文和 『唐紀』
正長 『貞観政要』
菅原在成
(従三位)
宝安 『後漢書』
文和 『呉志』
藤原行光
(文章博士)
康安 『唐紀』
文安 『尚書』
正長 『毛詩』
菅原高嗣
(従四位上宮内卿兼文章博士)
応仁 『維城典訓』
建承 『金楼子』
嘉慶 『藝文類聚』

 これを請けて27日、朝廷は改元定を行う。頭右大弁仲房に年号勘文が下され、右大臣に示された(観応三年九月廿七日『実夏公記』)

●観応三年九月廿七日年号勘文(『実夏公記』)

参陣公卿 推案
右大臣道嗣 文元、文和
中院大納言通相 正長
権大納言実夏 嘉慶、文和
西園寺中納言実俊 文和、正長
葉室宰相長顕 正長、文和

 こうして「文和大略一同之間、可一同之旨不被仰、就宸前奏聞、改観応三年、可為文和元年、依代始例、令作詔書之旨被仰之云々」と、文和への改元が決定する(観応三年九月廿七日『園太暦』)

 こうした北朝側の政体一新の最中、南朝方の動きもまた活発になっており、9月30日には摂津国「渡邊神崎両陣合戦」(文和元年十月「杜本基長軍忠状」『北河原氏家蔵文書』)が起こっている。この戦いは摂津守護「赤松信濃次郎光範」が中心となって戦い、渡邊津(大阪市北区天満)と神崎津(尼崎市神崎町)を中心に行われている。南朝勢が京都を占拠していた最中の3月17日には「楠木以下凶徒等、率大勢寄来摂津国神崎」(文和元年十月「杜本基長軍忠状」『北河原氏家蔵文書』)したため、赤松光範が迎撃しているが、これ以降、摂津淀川河口付近には楠木勢が駐屯し続け、赤松勢と対峙していたとみられる。

 翌10月1日には「右馬頭(石塔頼房)」が摂津国「勝尾寺(箕面市)」及び「多田院(川西市)」に禁制を発給し(正平七年十月一日『多田院文書』『勝尾寺文書』)、翌10月2日には「摂州辺物騒、吉良、石塔等党類已攻入吹田辺之由風聞、天下又騒動歟、生民曾不可有蘇息之便歟、為之如何」(文和元年十月二日『園太暦』)と、吹田(吹田市)あたりにも吉良満貞、石塔頼房の軍勢が入っており、吉良・石塔勢は渡邊津から吹田、神崎付近と、多田院周辺に大規模に軍勢を展開していた様子がうかがえる。勝尾寺、多田院は石塔頼房の禁制があり、北部域は石塔勢がかなり多くの軍勢を率いて行動していたと考えられる。なお、禁制に正平元号が用いられていることから、吉良満貞、石塔頼房は南朝吉野方であったことがわかる。

 10月5日の風聞では「摂州辺事、妙善自兵庫後攻之間、引退歟云々、或又実不然歟」と、赤松妙善権律師が兵庫島から出陣し、吉良・石塔の背後を襲ったため、吉良等は退却したという(文和元年十月五日『園太暦』)。翌6日にも公賢は「吉良石塔已下勢、摂州横行以外」とあるように吉良満貞、石塔頼房らは摂津国内を馳せまわっている噂を聞いているが、「近々来襲、昨日所聞、彼輩引退趣例事歟」(文和元年十月六日『園太暦』)と評す。9日には「吉良以下党類、在摂州榎並、近日可攻来山崎之旨風聞、以外騒動、任天運頗不足憑身歟」と、吉良満貞、石塔頼房の南朝勢は摂津国榎並付近(大阪市城東区野江周辺)に展開し、山崎を窺っていたという。ただし、実際は彼らは摂津中部域から榎並付近まで追い落とされたとみることができよう。

 同じころ、細川伊予守元氏が伊勢守護として伊勢国へ攻め入り、石塔頼房らの南党を追捕している(文和元年十月五日『園太暦』)。10月5日にはすでに鎮撫も平定し、協働した美濃尾張守護「土岐(土岐右馬権頭頼康)」も美濃国への帰途についたが、「元氏退治残党多勢也、仍元氏已入打手云々」と、細川元氏勢は石塔等の多数の残党を追撃して、管轄外の美濃国まで攻め入ってしまうという事件も起こっている。このほか、10月には「中国辺大略令属山名右馬権頭」(文和元年十一月十二日『兼綱公記』)の追討のため、石橋左衛門佐和義入道が守護として京都より備前国に下向。「山名左馬権頭(山名右馬権頭師義)」が「打越備前国取鳥庄(赤磐市町苅田)」したため、「当国山口御陣(赤磐市山口)(文和元年十二月七日「三吉覚弁着到状」『鼓文書』)でこれと対峙した。ところが備後国で「上椙修理亮以下凶徒等依蜂起」したことから、石橋和義は12月13日に麾下の「三吉少納言房覚弁(11月16日に備後より着到)」に「惣領三吉備後守秀経」とともにこれに当たるよう指示し、備後国岩成上村(福山市御幸町上岩成)に派遣している。三吉勢は12月16日に「石済河原致合戦」して勝利し、28日には備前国の石橋和義入道のもとに馳せ戻っている(文和二年正月「三吉覚弁軍忠状」『鼓文書』)

 10月21日、「京都可有物騒事歟、自関東将軍所命、京都有可誅戮者云々(文和元年十月廿一日『園太暦』)、畿内の吉良満貞、石塔頼房の騒動は関東に伝わっていたとみられ、尊氏は彼らの追討を命じたのだろう。22日夕刻には「小田常陸前司某(小田治久)」が上洛している(文和元年十月廿三日『園太暦』)。ただ、七十歳という高齢の治久はこの秋霜の旅が祟ったのか、12月11日に卒去したという(『佐竹古文書』)

 また同11月3日、美濃から「土岐刑部少輔頼泰上洛、為京都守護、率多勢云々」した(文和元年十月廿三日『園太暦』)。この「京都守護」は渋川直頼、細川顕氏が担った「京都守護」を引き継いだものと見られ、「武家検断土岐頼泰舎弟長山某(長山頼基。頼康の叔父)(文和二年三月廿六日『園太暦』)が「召捕人殺尼、渡大路自一條町至六條渡之、捕人児殺之、及数十人云々者」と、子ども数十人を殺害した「殺人尼」を捕らえて一条から六条まで大路渡している。その後、この「人殺尼」を処刑したかどうかは不明。また、5月14日には「可夜討鎌倉宰相之由、支度輩有浮説」(文和二年五月十九日『園太暦』)により、「召検断侍所長山、令召取彼党類」に動いており、「不慮発■余党類十二人、張本有其聞、其内八人召取之、骨張称小早河将監入道云々、不可説事歟、夜討事浮説之趣無相違歟、彼将監入道、一昨日被梟首云々、其外京中武士大略与同、珍事歟」といい、「長山某」は兄の京都守護土岐頼康のもとで洛中検断を行っていたことがわかる。かつての検非違使のような検断権を持ち、武士に限らず殺害犯や強盗犯など重罪人も追捕の対象としていた。

 11月3日、「石堂右馬権頭頼房、以数百騎勢、攻落摂州神崎■■■■■■■■浅井入道者也、不及合戦無程没落云々、可驚々々」(文和元年十一月三日『兼綱公記』)と、要衝の神崎津は石塔勢に攻められ、おそらく守将であった浅井入道は戦うことなく遁れたとみられる。石塔頼房に参陣していた「渋谷近江守殿」は「為摂津国尼崎溝口先懸案内者、数輩御敵追落」(正平八年四月九日「石塔頼房奉書」『古今消息集』)という。

 翌11月4日には「石堂於神崎辺猶焼払所々云々(文和元年十一月三日『兼綱公記』)と、石塔頼房の活動が活発化している様子がうかがえる。京都の広橋兼綱も聞こえ伝わる情報から「於事今者、南方以外被賞軍勢等云々」という。南朝方の方針転換が如実であったのだろう。兼綱は「今春以来、度々合戦之時者、籌策事一向公家人々被相計畢、然間于今不被達御本懐、於今度者合戦事、吉良石塔両人可令計申由被仰含云々(文和元年十一月四日『兼綱公記』)と、南朝方も「不被達御本懐(還御)」の失敗により、合戦は武家に計らう風潮へ変わった様子を感じている。

 11月7日、義詮は「石塔等為退治、道誉子秀綱、五郎右衛門尉(佐々木高秀)等発向摂津」した(文和元年十一月七日『園太暦』)。当時の石塔頼房はおそらく渡辺津あたりに在陣しており、「佐々木近江守秀綱」は「率百余騎勢発向南方」して13日に攻め寄せたとみられる(文和元年十一月十三日『兼綱公記』)。その後、合戦は数度にわたって行われたようだが、27日夜に公賢が聞いたところでは「摂津国合戦、近江守秀綱失利、渡部今日以外物騒云々(文和元年十一月廿七日『園太暦』)とあり、佐々木秀綱、高秀の軍勢は石塔頼房勢に敗れ、渡辺津も南朝方の手に堕ちた可能性がみえる。

正平七年閏二月十五日の新田勢蜂起

 日時はやや遡って、関東においても正平7(1352)年閏2月15日に「武蔵守義宗」が「於上州挙義兵、同十六日、対治国中凶徒、同日打越武州、打随当国凶徒」(正平七年閏二月十九日『園太暦』)した。同15日、新田義興は「世良田長楽寺」に禁制を出している(正平七年閏二月十五日『長楽寺文書』)。これは前述の通り、京付近(北畠顕能ら)、上州(新田義宗一族ら)、奥州(北畠顕信)の三か所での南朝方同日挙兵である。この計画の立案は北畠親房入道とみられる。

 新田一族等の鎌倉攻めの大将軍は、先に「征東将軍」に補された「大王(中務卿宗良親王)(正平七年三月四日『園太暦』)で、宗良親王に従軍する「覚譽(法印覚譽)」が八幡山行宮に伺候する甥の「園殿(園基隆)」へ宛てた3月5日の書状によれば、宗良親王は「上州信州之堺臼居塔下まて已出御候て、諸方大軍如雲霞、可決雌雄之條不可廻踵之間、新田者共注進昨日酉刻到来、則申入八幡了」している(正平七年三月四日『園太暦』)

◆新田義貞周辺略系図◆

⇒新田貞氏―+―新田義貞―+―新田義顕(越前金ヶ崎で自刃)
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      |      +―新田義興
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      |      +―新田義宗
      |      |
      |      +―娘
      |        ∥―――――千葉介満胤
      |       千葉介氏胤
      |
      +―脇屋義助―――脇屋義治

 「新田兵衛佐殿(新田義興)、同武蔵殿(新田義宗)(観応三年五月「足利尊氏袖判下文」『赤堀文書』)兄弟及び「義治脇屋(正平七年三月五日『園太暦』)ら「新田一族以下諸将」は閏2月15日の上野国で挙兵後、16日には宇都宮下野守氏綱麾下の「芳賀伊賀守」らと合戦している(観応三年五月「足利尊氏袖判下文」『赤堀文書』)。翌17日には鎌倉から「将軍武州御発向」(『鶴岡社務記録』)するも尊氏は敗れたとみられる。新田勢は尊氏が留守にした鎌倉を目指し、「同十八日攻入鎌倉候」(正平七年閏二月十九日『園太暦』)した。同18日には信濃国より征東将軍宗良親王が「諏訪祝(信濃前司直頼)」ら信濃勢を率いて「上州信州之堺、臼居塔下まて已出御候」して鎌倉へ向かったとみられ、「閏二月廿日、新田鎌倉入」(『鶴岡社務記録』)とあるように、閏2月20日、新田勢は鎌倉を攻め落としたのだった。なお、同日「相模次郎号仁、鎌倉入」といい(『鶴岡社務記録』)、十九年前の元弘3(1333)年5月22日、鎌倉を攻め落とした新田太郎義貞の子・武蔵守義宗らと、攻め落とされた得宗高時入道の子・相模次郎時行が同陣して鎌倉を占拠するという、歴史の皮肉が起こった日でもあった。

 鎌倉を攻めていた新田勢のうち「新田武蔵守義宗ハ令警固関東奉待大王」と鎌倉攻めを続けるも、「義興義宗舎兄、義治脇屋以下諸将ハ、立帰武州可平敵陣云々」(正平七年三月四日『園太暦』)と、兵衛佐義興と脇屋義治らは尊氏を追って武蔵国へ戻っていった。

 鎌倉を攻められながらも、落とされた尊氏等は武蔵国府を目指す途中の「狩野河(金井川)(町田市藤の台)あたりで「楯籠武州狩野河候」(正平七年閏二月十九日『園太暦』)し、新田勢(左兵衛佐義興、脇屋義治らであろう)を迎え撃ち、新田勢は「今日十九日発向彼方仕候、決雌雄者重可注進候」(正平七年閏二月十九日『園太暦』)した。勝敗は不明だが、尊氏勢は再び北上して国府を目指しており、敗れた可能性があろう。この新田勢には「上椙一類」が加わっており(正平七年三月一日『園太暦』)、上杉勢は「谷口御陣」で尊氏に供奉する「武蔵国前守護代薬師寺(薬師寺加賀権守入道)一党」と合戦している。また、鎌倉下道を固めるためか「武州鶴見宿」に在陣していた「水野平太致秋」は、新田勢に応じて閏2月19日に「馳参関戸」している(正平七年三月三日「水野致秋軍忠状」『張州雑志抄』)。ただし、水野致秋は合戦はしておらず、関戸での合戦はなかったとみられ、これ以前に尊氏は多摩川を渡って武蔵国府に入ったとみられる。水野致秋はかつて直義入道に属していた尾張国の御家人であり、「上椙一党」ら同様に、直義入道与党は南朝方に属していたことがわかる。

 翌20日には新田勢と尊氏勢が「金井原(小金井市前原町)」「人見原(府中市若松町)」で合戦し、新田勢は薬師寺加賀権守入道や武田安芸守信成、畠山修理権大夫国清、今川上総介範国ら尊氏勢の精鋭と激しく衝突した。この合戦で「御方打勝了、御敵没落云々」(『鶴岡社務記録』)、「武蔵国府原合戦、尊氏打勝」(『神明鏡』)とあり、新田勢に勝利した。その後、しばらく合戦は行われておらず「同廿日金井原、同廿八日小手指原両度合戦」(観応三年三月十六日「三富元胤軍忠状」『古証文』)、「廿日、同廿八日、両度後攻仕訖」(観応三年五月「香林直秀軍忠状」『赤堀文書』)と、閏2月20日以降の新田勢と足利勢の合戦は、20日の国府原付近での合戦と28日の小手指原合戦の二度きりであることがわかる。ただし、虚飾の多い『太平記』によれば、金井原合戦ののち尊氏が死を覚悟したという「石浜合戦」があり、尊氏は攻め破られそうになるも挽回したとされる。「石浜」が隅田川沿いの「石浜(荒川区南千住)」でないことは、尊氏が合戦している場所が武蔵国府付近であることからも明らかであるが、もし「石浜合戦」があったとすれば、国府から12キロ西側の多摩川を望む「牛島(福生市牛島)」とみられる。軍忠状等の一次史料に「石浜」という合戦地名は一切なく人見原、金井原合戦の一部であろう。

 閏2月20日の合戦で一敗地にまみれた新田義興勢は、再起を図るべく舎弟の武蔵守義宗が警衛する鎌倉へ入り、22日に「新田、相模等、鎌倉ヲ出」(正平七年閏二月廿二日『鶴岡社務記録』)て、翌23日「三浦入」った(正平七年三月三日「水野致秋軍忠状」『張州雑志抄』)。しかしその後、また鎌倉へ戻ったようである。

 国府原付近での一連の合戦に打ち勝った尊氏勢はいったん国府へ帰還したようで、閏2月24日、尊氏は「遠江、駿河両国凶徒対治事、所差下今川上総介(今川範氏)也」し(正平七年閏二月廿四日「足利尊氏御教書」『伊達文書』)、遠江国と駿河国の平定を今川上総介範氏に命じて指し遣わした。翌25日には「高掃部助(南宗直)、石塔左衛門助(左馬助義基)」の両将が「自武州国府御立、鎌倉御発向」し、「同廿八日、対于新田兵衛助(新田兵衛佐義興)、三浦介(三浦介高通)以下凶徒等御合戦」している(観応三年三月「佐藤元清軍忠状」『佐藤文書』)。閏2月28日の鎌倉合戦では「於赤橋辺、三浦、新田与高掃部助、石塔左衛門助合戦」(観応三年閏二月廿八日『鶴岡社務記録』)、「自岩屋堂前至于中下馬橋、致散々太刀打畢、次於毛和井坂返合大将御合戦」とあり、鶴岡八幡宮寺の西側一帯が戦場となっていた様子がうかがえる。なおこの合戦は、「掃部助打負了」(観応三年閏二月廿八日『鶴岡社務記録』)という。足利方の南宗直、石塔義基両大将は鎌倉に駐屯を続けていたのか、鎌倉を脱したかは不明。

 一方、その頃武州北部においては、征東将軍宗良親王が「武蔵国へうちこえて、こてさし原といふ所におりゐて、手分なとし侍し」(『新葉和歌集』十八雑歌下)と、大将軍たる宗良親王の一手が鎌倉へ向けて進行していた。尊氏勢は国府を出ると、閏2月28日に「籠手指原(所沢市北野)合戦」(正平七年三月「松井助宗軍忠状」『土佐国蠧簡集残篇』)及び「高麗原合戦(日高市)(観応三年五月「高麗季澄軍忠状」『町田文書』)している。尊氏勢は「薬師寺加賀権守入道」や「執事(仁木兵部大輔頼章)」、今川駿河守頼貞、武田伊豆守信武、武田安芸守信成、畠山修理権大夫国清らが奮戦し、この一戦で宗良親王以下の軍勢は潰走した。彼らのその後の足取りはつかめないが、翌文和2(1353)年11月8日夜、越後国「古志郡乙面陣(三島郡出雲崎町)」で「一品宮、新田武州、脇谷金吾以下没落候了」(文和二年十一月十六日「三浦和田義成軍忠状」『三浦和田文書』)とあることから、彼らは小手指原合戦後は越後国へと遁れ、刈羽郡「小国城(長岡市小国町小国沢)(文和二年十一月十六日「三浦和田義成軍忠状」『三浦和田文書』)に拠っていたことがうかがえる。

 この征東将軍宮の敗報を受けたか、3月2日、「三浦、新田等鎌倉ヲ出」ている(観応三年三月二日『鶴岡社務記録』)。新田義興のその後の足取りは、水野致秋が義興に従って「至平塚宿、令御供」したといい(正平七年三月三日「水野致秋軍忠状」『張州雑志抄』)、鎌倉から西へ遁れていることがわかる。閏2月15日を期した南朝方の東西同時挙兵は東国において失敗に終わったため、彼らは上方勢と合流し再起を期したとみられる。3月8日、彼らを追って相模国に畠山国清らが派遣され、3月12日には「懐島」に在陣(「佐藤経貞軍忠状」『雲頂庵文書』)、3月15日には「河村城御向之時致合戦畢」(観応三年三月十六日「三富元胤軍忠状」『古証文』)と、西方へ攻め上がっている。

 3月12日、「将軍、鎌倉入二階堂別当坊」っている(正平七年三月十二日『鶴岡社務記録』)。基氏も同道したとみられ、翌3月13日、「基氏 御沙汰始、直義逝去以後」(『鎌倉大日記』)が行われた。畠山国清は河村城に新田義興を攻め落としたのち、鎌倉に帰還したとみられ、3月26日には「鎌倉宝泉寺雑掌」の訴えによる「伊豆国狩野庄熊坂村事」につき「任寄進状并執行之旨、可沙汰付下地於雑掌」を「遊佐勘解由左衛門尉殿」へ指示しており(観応三年三月廿六日「畠山国清施行状」『相模文書』)、このとき国清は伊豆守護人となっており、守護代として遊佐勘解由左衛門尉が補されていたと考えられる。また、翌文和2(1353)年7月2日には尊氏は「修理大夫(畠山国清)」を通じ「鶴岡八幡宮両界供僧信濃法印重弁」の訴えによる「相模国戸田郷内淵辺源五郎跡事」について「任去年観応三年四月廿三日御寄附状之旨、可被沙汰付于重弁代」を「河越弾正少弼殿」に命じており(文和二年七月二日「執事施行状」『鶴岡等覚相承両院蔵文書』)、国清は関東における執事職となっていたことがうかがえる。また、相模国守護は河越弾正少弼直重が務めており、武蔵国守護から転じていたことがわかる(直重は康永4(1345)年8月17日の除目で叙爵し出羽守となっており、このときまでに弾正少弼へ転じたことがわかる)。守護代は庶家とみられる「河越上野介殿」であろう(文和三年八月十二日「河越直重施行状」『薩藩旧記』)

 尊氏に従って関東に下向していた千葉介氏胤は、観応3(1352)年6月までに「上総守護職」を拝命しており、両総守護職を兼ねた。6月8日、尊氏は「安田修理亮氏義」に「上総国一宮庄高根郷内大曾根太宰少弐入道跡」を勲功賞として充行い(観応三年六月八日「足利尊氏袖判下文」『垣谷文書』)、6月20日に守護職の「千葉介殿」に「可被沙汰付候」ことを命じている(観応三年六月廿日「足利尊氏御教書」『垣谷文書』)。なお、守護職人事は恩賞に相当するものではないことが『建武式目』に明記され「諸国守護人、殊可被択政務器用事」と定められており、現実的にその国の御家人に対する影響力を及ぼし得る人々を補任している。

 7月4日、尊氏は鎌倉の円頓宝戒寺(得宗高時を弔うために尊氏が後醍醐天皇に願い出て得宗屋敷跡に建立)の造営料として「上総国武射郡小松村工藤中務右衛門跡」「出羽国小田島庄内東根孫五郎跡を寄進しているが(観応三年七月四日『足利尊氏寄進状』、出羽小田島庄内の土地は「長井備前太郎殿」に、そして上総国武射郡小松村の工藤中務右衛門跡は守護である「千葉介殿(千葉介氏胤)にそれぞれ請取状が発給されている(観応三年七月廿二日『尊氏判物①』文和元年十二月廿日『尊氏判物②』)。

●観応3(1352)年7月4日『足利尊氏寄進状』

 寄進 円頓宝戒寺
  上総国武射郡内小松村工藤中務右衛門跡出羽国小田島庄内東根孫五郎跡事、
  右為当寺造営料所、限永代所寄進之状如件、
    観応三年七月四日     正二位源朝臣(御判)

●観応3(1352)年7月22日『足利尊氏判物』

 円頓宝戒寺雑掌申、出羽国小田島庄内東根孫五郎跡事、
 早任寄附之旨、沙汰付下知於雑掌、可被執進請取之状如件、 
   観応三年七月廿二日     御判 
    長井備前太郎殿

●文和元(1352)年12月20日『足利尊氏判物』

 円頓宝戒寺雑掌申、上総国武射郡内事、
 早任寄附之旨、沙汰付下知於雑掌、可被執進請取之状如件、
   文和元年十二月廿日     御判
    千葉介殿

 また、観応3(1352)年7月13日、尊氏は関東の鎮護を祈願して、下総国一ノ宮の香取大社に参詣し、「下総国戸頭郷(取手市戸頭)を寄進している(観応三年七月十三日「足利尊氏寄進状」『香取文書』)。尊氏が寄進した「下総国戸頭郷」は、鎌倉期においては下総相馬氏の所領だったが、相馬胤継の次女が継承し、彼女が嫁いだ摂津氏(関東評定衆)に受け継がれて、彼女の孫・掃部頭親秀が建武5(1338)年8月10日、「近江国柏木御厨地頭職」と替地され、足利尊氏知行となっていた。

 観応3(1352)年10月15日、尊氏は「千葉介殿(千葉介氏胤)」に「浄光明寺雑掌申、上総国北山辺郡内由井郷事」について、「早任寄付之旨、沙汰付下地於雑掌」を命じた(観応三年十月十五日「足利尊氏御教書」『相州文書』)

 文和2(1353)年初頭には駿河国の南朝方として、「石塔入道殿(石堂義房入道)」が土豪とみられる鴇氏の居館「鴇山」(文和二年十月「伊達景宗書状」『伊達文書』)、「徳山(榛原郡川根本町徳山)」を拠点に活動しており、2月10日、駿河守護の今川上総介範氏が尊氏の御教書により「為徳山凶徒対治」のため駿府を発向(文和二年二月「伊達景宗軍忠状」『伊達文書』)。安部川支流の藁科川に沿って北上し、翌2月11日に「萩多和城(静岡市葵区日向)」を攻め落とした。続けて、2月13日には山を越えて「護応土城(榛原郡川根本町東藤川榛原)」を占拠。奮戦した「伊達右近将監景宗」が負傷している。今川勢は2月16日に「取朝日山陣」し、2月18日には「鴇彦太郎」が籠る「西尾四伝多和(徳山城の西側の山か)」を攻め、25日夜「御敵鴇彦太郎親類兄弟石塔入道殿家人佐竹兵庫入道、藁科以下凶徒令没落訖」という。

 また、関東各地の守護は守護権限の一つである謀反人の捕縛を実行しており、5月8日、おそらく相模国内で「今日野心之者被召取之云々(文和二年五月八日『鶴岡社務記録』)という。当時の相模守護は河越直重であり、彼の麾下による捕縛か。翌5月9日にも「今日又凶人被召取之、此内稲荷神主子息同被召取」(文和二年五月八日『鶴岡社務記録』)であった。「稲荷神主子息」がいかなる人物かは不明。さらに翌5月10日にも「今日モ被召取之云々」(文和二年五月十日『鶴岡社務記録』)と、三日連続での謀反人捕縛であった。これはこの「野心之者」「凶人」の鎌倉近辺での秘かな動き(鎌倉奪還の密儀か)を尊氏方が察知して逮捕に繋がったとみられる。そして、この「野心之者」とは、かつて中先代の乱で鎌倉を落とし、近くは新田義宗と謀って鎌倉を再度奪還した「相模次郎(北条時行)」以下の旧得宗家の人々であった。

 そして5月20日、「於龍口、相模次郎、長崎駿河四郎、工藤二郎被誅了」(文和二年五月廿日『鶴岡社務記録』)とあるように、相模次郎時行とその被官人である長崎駿河四郎、工藤二郎は竜ノ口刑場で処刑されたのであった。建武2(1335)年7月、南北朝動乱のきっかけとなった中先代の乱を主導し、十八年もの間、足利家とその与党と戦い続けた生涯だった。このときの時行は二十五歳以前の若者であり、ともに処刑された長崎駿河四郎、工藤二郎も出自は不明ながら、得宗御内人の遺児で時行に付き随っていたと思われる。

 この相模次郎らの捕縛と関わるものと思われるが、同じ頃「今河入道(今川範国入道)」から、「天野周防前司入道殿」が「上総親王宮奉懐取」った報告が尊氏に注進されており、5月27日、尊氏は天野周防前司入道に袖判の奉書を下している(文和二年五月廿七日「足利尊氏奉書」『尾張浅井文書』)。「上総親王宮」が如何なる皇族かは不明だが、(南朝において)親王宣下を受けて上総太守に補された皇親であることから、後醍醐天皇に血縁上近しい人物で、相模次郎時行が奉じていたのだろう。時行らの捕縛により、吉野へ戻る途次、遠江国で捕縛されたのではなかろうか。

南朝吉野方の再入洛

 文和2(1353)年正月7日、「佐渡判官入道々誉逐電、仍武家以外物騒云々」(文和二年正月七日『園太暦』)という。しかし、聞けばこれは「一昨日、称参詣北野社打出、自其下向江州柏原城蟄居云々」という。さらに道誉は「下向関東、有可申披将軍之子細之由、兼相語知音之由云々」とも伝え聞こえていた。そしてこの日「子息秀綱深夜自摂州上洛」して、おそらく義詮邸に参じて子細を述べたのだろう。洞院公賢は「向敵陣之處、無兵引退、失弓箭面目、口惜之欝憤歟」ということを漏れ聞いているようである。この秀綱が寡兵のため退いた戦いは、11月下旬の石塔右馬権頭頼房との「摂津国合戦、近江守秀綱失利、渡部今日以外物騒云々(文和元年十一月廿七日『園太暦』)とみられる。

 翌正月8日、義詮は「就此事相原下総守、為宰相中将使、下向江州柏原道誉下向此處云々」という(文和二年正月八日『園太暦』)。さらに義詮は「賢俊同含武命下向、再三雖辞退不免、仍遂昨日進発了」と、三宝院賢俊にも道誉説得のために柏原へ下向を命じている。賢俊は真言院での「後七日法」の大阿闍梨として修法するためか再三辞退しているが、義詮の意志は強く、弟子僧とみられる「権僧正賢季」(『東寺長者補任』)が修法の代理を務めている。

 そして正月9日夕刻、道誉のもとへ遣わした使者が帰洛する(文和二年正月十日『園太暦』)。結局、粟飯原清胤や三宝院賢俊は道誉とは「不可及対面」であった。「留守者申趣、為湯治下向駿河了、急可帰参云々者」と留守居に追い返された様子がうかがえる。公賢が聞いた「或説」では「去年氏直命鶴丸上洛、下国之後、宰相中将并道誉事、讒説以外也、仍将軍欝憤之由、窮冬廿八日、関東有告示之飛脚、聞之為陳謝下向、且宰相中将母儀相共、密談旨有歟云々」という(文和二年正月十日『園太暦』)

 正月11日には、再び「御敵、押寄伊丹城」(文和二年六月「杜本基長軍忠状」『北河原森本文書』)といい、摂津国一帯にはいまだ吉良、石塔、楠木等の南朝勢が活発に動いていた様子がうかがえる。前日の10日には「備前国迫山」で石橋和義入道が南朝勢と合戦して敗れているが、15日の合戦で勝利している(文和二年正月「三吉弁覚軍忠状」『鼓文書』)。正月22日には石見守護職として下向していた「荒河遠江守詮頼」も石見国仁万郷に城郭を構えていた直冬与党の「仁万弥太郎以下輩」を攻めて落とし、2月10日には「山名刑部少輔、佐波善四郎左衛門尉已下御敵等数百余人」と戦っている(文和二年四月「赤波重房軍忠状」『久利文書』)。またこの日、「遠江守(荒川詮頼)」は「武田伊豆乙殿」へ「石見国波祢郷内朝倉孫五郎、同七郎跡、地頭職事、為兵粮料所々預置也」(文和二年二月十日「荒川詮頼文書」『庵原文書』)と、武田伊豆乙に兵粮料所を宛がっている。

 九州北部から中国地方西部に勢力を維持する直冬は、「于今者兵衛佐殿、宮方令同心、弥蜂起之間、当国難儀候」(文和二年三月五日「島津師久交名注文」『薩藩旧記』)と薩摩国の「左衛門少尉師久(島津師久)」が京都へ訴えているように南朝勢力と合流して太宰府周辺を強力に固めた。これに「鎮西管領」一色右京亮直氏が対峙したものの、2月の「筑前国針摺原」では「大友田原蔵人三郎入道殿(直貞入道正曇)」の子息、「田原豊前守(貞広)」、「子息氏貞等孫子」も討死など劣勢を挽回できず、「一色殿被引退候之刻、当国弥蜂起以外候」(文和二年三月五日「島津師久注進状」『島津文書』)という状況となる。太宰府近辺は城塞として武藤前少弐頼尚の動きも活発化しており、こうして、九州においては直冬勢と征西将軍宮懐良親王の勢力が鎮西管領を駆逐し、畿内、京都も南朝吉野勢の攻勢にふたたび不穏な情勢となっていた。

 2月3日には「右馬頭頼房」が洛西桂川の長福寺の長老に「天下安全御祈祷」をしており(正平八年二月三日「石塔頼房祈禱状」『長福寺文書』)、石塔頼房は京都を西から望む場所にまで迫っていたことがわかる。

 2月13日には「伊勢国司顕良卿、已起勢州赴和州宇陀郡、先陣已到来之由」(文和二年二月十五日『園太暦』)を、奈良大乗院からの飛脚が朝廷に届いたという。この一報は2月15日、「五辻宰相入道」が洞院公賢邸を訪れて報告している。このほか「五辻宰相入道」は「紀州合戦、守護失理歟」と述べている(文和二年二月十五日『園太暦』)。この紀州合戦は「四條中納言乱入当国」(文和四年二月五日「魔訶鶴丸所領文書紛失状」『両足院文書』)したもので、魔訶鶴丸の所領相伝文書などを収めていた伝法院に「楠木家人等打入彼所被引失畢」したとあり、四條中納言隆俊(故一品隆資子)を大将軍とし楠木左衛門尉正儀の手勢を合わせた軍勢が紀州に攻め入り、足利方の紀伊守護と合戦したことがわかる。楠木正儀はその後、和泉国の土豪に軍勢催促しており、3月9日に和泉国の楠木被官「左衛門尉」(南朝和泉守護代か)を通じて「参御方致軍忠者、本領不可有相違由事」を約する文書を「深日又二郎入道殿」へ送達している(正平八年三月十日「左衛門尉某施行状」『岡本貞休所蔵文書』)

 また、石見国で大きな勢力を保っていた左兵衛佐直冬与党を討つべく、「荒河遠江守詮頼」の派遣を決定。11月25日には直冬与党の一人である「周布左近将監との」へその旨の御教書を送っている(文和元年十一月廿五日「足利義詮御教書」『萩藩閥閲録』)。直冬勢は肥前国において武藤前少弐頼尚らを率いて猛威を振るっており、日向国でも強硬な直冬与党である畠山修理亮直顕が島津氏らを相手に戦い続けていたが、石見国でも直冬与党「桃井左京亮」や周布氏や益田氏、三隅氏が勢力を伸ばし、安芸国でも「刑部太輔(今川刑部大輔直貞)」が大将として「吉河次郎三郎殿(吉川経兼)」らを率し、安芸守護「武田兵庫助氏信以下」(観応三年十二月十二日「足利直冬奉書」『吉川家什書』)と対峙していたのである。直冬の威勢は南朝方と手を組んだことによるものか、京都でも公賢のもとに「武家雑掌之信」が来訪し、「鎮西兵衛佐乗勝以外之由、方々飛脚到来、武家頗失色」(文和二年二月卅日『園太暦』)という。

 義詮はこうした南朝方の動きに危機感を露わにし、朝廷を動かして「左兵衛権佐忠光」に後光厳天皇の綸旨を持たせて祇園社に「御祈祷事、任代々例可被抽丹誠者」を命じ(文和二年三月二日『建内文書』)、義詮は祇園社と神護寺、西大寺に「天下静謐御祈祷」を命じている(文和二年三月二日「足利義詮御教書」『祇園社記続録』『神護寺文書』『西大寺文書』)。また、3月5日、義詮は摂津国に「土岐右馬権頭頼康」を発向させ、山崎に宿陣せしめた(文和二年三月五日『園太暦』)。これは吉良満貞、石塔頼房、楠木正儀ら摂津南朝勢への打手であり、京都では「武家辺以外騒動之由有其聞、何事之由不及披露、有秘事歟、京中物騒、都人士女東西奔営云々(文和二年三月五日『園太暦』)という。さらに、義詮は延暦寺の警固のため「佐々木近江守(佐々木秀綱)」と「佐々木出羽守(佐々木経氏)」を派遣し(文和二年三月五日「足利義詮御教書」『朽木文書』)、「本間又四郎殿(本間季光)」らを付属せしめた(文和二年三月五日「足利義詮御教書」『本間文書』)

 3月23日、「吉良、石塔以下神崎辺宮方軍族、襲来土岐軍陣之間、於吹田辺合戦、土岐方以籌策、討取数十人、或取首或生慮四十人許云々(文和二年三月廿四日『園太暦』)という。土岐頼康は山崎方面から吹田へと軍勢を進め、そこに神崎辺に布陣していた吉良満貞、石塔頼房の軍勢が襲いかかったが、土岐頼康の戦略により吉野方は数十名の被害を出して引き退いたようである(文和二年六月「杜本基長軍忠状」『北河原森本文書』)。一方で土岐勢も被害を被っており、石塔頼房勢の「渋谷近江守殿」が「於同国吹田被致分捕之條」という勲功を挙げている(正平八年四月九日「石塔頼房奉書」『古今消息集』)。土岐勢は吹田陣の勢いのまま翌24日には「神崎、尼崎御発向」して、「杜本左衛門次郎基長」は「属御手当□(所カ)警固」しており(文和二年六月「杜本基長軍忠状」『北河原森本文書』)、吉良・石塔勢は神崎津、尼崎方面からはすでに撤退していたとみられる。土岐頼康はこののち帰洛するが(ただし、この帰洛は義詮の意に沿ったものではなかったようである)、この神崎津、尼崎は「杜本左衛門次郎基長」ら武家勢力(摂津国衆か)が押さえており、5月16日にはここから杜本基長らが渡辺津へ夜討を仕掛けて「進一陣追退橋爪御敵」し、淀川河口を渡すこの橋を「焼落同橋畢」している(文和二年六月「杜本基長軍忠状」『北河原森本文書』)

 九州においては、左兵衛佐直冬の攻勢により2月の針摺原合戦の大敗で「鎮西管領」一色左京大夫直氏は九州の支配を行い得ず、「鎮西管領退座」していたが(文和二年三月十日「足利義詮御教書」『大友文書』)、この訴えを請けて、3月10日、義詮は「大友刑部大輔殿(大友氏時)」に対し、「鎮西管領退座軍陣急事等事、進使者之時、路次便宜之地頭御家人等、不用過書之間、往復不輙云々」といい、「早任先例、関渡以下可勘過之旨、可相触之、於難渋之輩者、為有其沙汰、可注申交名之状」(文和二年三月十日「足利義詮御教書」『大友文書』)を指示している。

 その後も直冬の攻勢は留まらず、3月24日に洞院公賢が耳にした情報では「鎮西以外蜂起、直冬勢欲東漸、備前輩已入美作、々州一円悉帰彼方云々」(文和二年三月廿四日『園太暦』)といい、中国情勢も緊迫の度を増している。4月1日には「鎌倉宰相中将、可発向」(文和二年四月一日『園太暦』)と、義詮自ら摂津国への出陣を示唆した。これは、先日摂津国で吉良・石塔との戦いに勝利した土岐頼康、仁木義長らが「土岐、仁木不致退治、早速帰洛之間、有此企歟」といい、摂津平定を成し遂げることなく帰洛したことに義詮が怒り親征を企図したものである。はやくも翌4月2日には「宰相中将、進発明暁也」(文和二年四月二日『園太暦』)が決定され、「仍禁裏、被引遣御馬、左馬寮馬部一人、可召進之由、被仰大納言(大納言実夏)、仍進之候、俊冬朝臣、為勅使将向之」と禁裏より引出物の馬が引き渡されている。ところが翌4月3日「宰相中将不進発、猶未定歟云々(文和二年四月三日『園太暦』)という。洞院公賢はこの不進発につき「縦横説、曾以不得其心也、抑可発向何所哉」と疑問を呈しているように、摂津国の主な要衝は武家方が押さえている現状にあって、義詮自身が出兵する必要性は、少なくとも京都では感じられなかったのだろう。結局、「宰相中将進発止」され(文和二年四月七日『園太暦』)、4月7日に「土岐相伴其勢、又向摂州云々」と、土岐頼康が再度摂津国へ派遣されたのだった。

 そのころ、吉野方の楠木正儀は兵を集めて摂津国に進出しており、洞院公賢は「自或辺有音信事」として、「来廿日比、南方軍士可入洛之由有聞歟」(文和二年五月十五日『園太暦』)ことを伝え聞いている。また、住吉神主国夏の死去に伴う補所職につき、按察卿が前日14日に住吉神社に勅使として遣わされていたが、帰洛後の15日に公賢を訪れて「楠木勢充満天王寺辺之旨」を伝えており、すでに摂津国天王寺は楠木勢に占拠され、京都を窺い得る拠点が築かれていたことがわかる。

 摂津国へ再派遣されていた土岐頼康は5月16日、神崎津方面の警固をしていた摂津衆を率いて「渡辺津夜討」し、渡辺津に架けられていたとみられる大橋の「橋爪」に駐屯していた南朝勢(天王寺楠木勢の先陣か)を追い落とし、前述の通り橋を焼き払っている(文和二年六月「杜本基長軍忠状」『北河原森本文書』)

 5月19日、公賢邸を「武家雑掌知信」が訪問し、「南方勢、来廿五日必要可入洛之旨有其聞」という情報を伝えている(文和二年五月十九日『園太暦』)。知信は美作国から帰洛したとみられ、中国地方からの不穏な動きについて「直冬已著到周防国府之由其告云々」を伝えた。また前年10月には南朝方に参じて義詮と敵対していた山名氏が「山名没落美作之由」という風聞もあったが、これは「此事無実、有可談父事、白地下向因州又帰来作州、近日南方軍士大略充満云々(文和二年五月十九日『園太暦』)といい、山名伊豆前司時氏や左馬権頭師義率いる備後国、備前国などの南朝勢が因幡国や美作国にも勢力を広げている様子が報告された。

 5月21日には「南都東門院使者」が「有申長者事」として公賢を訪問。「楠木已発向之由有其聞、南都路可塞歟、仍急下向云々、或云、南方事、已有聞定之旨歟、在京或名家人、昨朝参彼方」(文和二年五月廿一日『園太暦』)ことが報告されている。

 そして、おそらく楠木勢によって和泉国「都智丸城没落已後、彼勢参南方」(文和二年五月廿三日『園太暦』)の風聞を聞いた都人は「世上以外又物騒、都人士女運雑具、東西馳走」という。なお、後日のことになるが、この「都智丸城(槌丸城)」はその後足利方に奪還されており、関東から帰洛した和泉国御家人「日根野次郎(日根野時盛)」が「為槌丸城主」として警衛に当たっている(文和二年八月十六日「畠山国清注進状」『日根文書』)

 こうした各所における南朝方の攻勢を受けて、義詮は「可臨幸関白押小路亭之旨、武家奏聞」した(文和二年五月廿四日『園太暦』)。公賢は義詮が「四条坊門富小路私邸(中京区蛸屋町、梅屋町、船屋町周辺)」に近い場所へ遷し「可守護申之支度歟」と推測している。

 5月29日、「山名父子、自因州越但州、攻武蔵将監城、而山名不得理、被追帰、京方唱万歳」(文和二年五月廿九日『園太暦』)といい、山名伊豆前司時氏、左馬権頭師義が因幡国から但馬国へ攻め入り、「武蔵将監(高師詮)」の城を攻めたが、山名勢は追い返されたという。しかし、これは誤報で実際は「山名乗勝、将監頗危之体」(文和二年五月卅日『園太暦』)という。

 6月1日には「山名已出丹州著丹波志宇智(船井郡京丹波町富田美月)、或説著和久城(福知山市厚)」という情報が「萩野并武蔵将監等飛脚到来」でもたらされており(文和二年六月二日『園太暦』)、「或已入嵯峨辺云々、於于今合戦已迫喉歟」という喫緊の状態が想定されていた。6月3日には「合戦可為来六日、或又御霊会已後歟」、翌4日には「合戦明後日必定云々」(文和二年六月四日『園太暦』)、そして翌5日には「世上合戦明暁必定之由」(文和二年六月五日『園太暦』)と京都での合戦が現実味を帯びてきていた。「吉良、石塔已下入八幡云々、又或説、直冬已向山名所歟云々」(文和二年六月五日『園太暦』)といい、5日酉の夕刻、公賢邸に「八幡検校定清送使者」が馳せ付けて伝えるには「今日午剋、吉良、石塔手群入、點宿所打札、本人未到云々」(文和二年六月五日『園太暦』)といい、要害八幡山に吉良、石塔勢が入ったことが確実となる(ただし、吉良満貞、石塔頼房の両大将軍は入城していない)。

 一方で、本日深夜の「行幸執柄押小路第」が決定し、寅刻に「執柄押小路亭、当代初度行幸也、非常儀尤不便事歟」(文和二年六月六日『園太暦』)した。供奉は「西園寺中納言(西園寺実俊)、右大弁俊冬、左少将隆右、蔵人右兵衛権佐忠光等」が務めた。この押小路邸からさらに「今日即可幸山門云々」と評議されたが、延引という。しかし、これにつき、三宝院賢俊僧正が「先向坂本」しており、公賢は「彼■事、委可案内之料歟」と記す(文和二年六月六日『園太暦』)。南朝方の京都攻めを見越し、後光厳天皇の比叡山行幸計画は進行していたのである。公賢は「申剋許、俄行幸山門之由有風聞」を聞くも「不信受」であったが、「秉燭之間、必定出御」(文和二年六月六日『園太暦』)となり、まず押小路亭主の「関白被参会、乗輿」して叡山に先発。その後、後光厳天皇が「腰輿」に遷り、「西園寺中納言、仲房、俊冬等朝臣、時光、忠光等」が供奉して叡山行幸となった。その後「三條新大納言実継卿追参」し、さらに「近衞前関白(近衞基嗣)并右府(近衞道嗣)」が叡山に参じ、「故堀河前関白息三位中将経家卿」もこれに加わったという(文和二年六月七日『園太暦』)

 なおこの時点では「西七條辺遣使令見之處、発向勢未見」(文和二年六月六日『園太暦』)といい、いまだ西からの山名勢は姿を現しておらず、南の八幡勢についても「八幡勢吉良、石塔以下引籠、引大渡橋」との報告があり、公賢は「不心得事歟」となぜ現れないのか疑問を呈している。また、実否不明ながら「宇治路四條大納言隆俊、率紀伊国及熊野勢、已到来之由風聞」を聞いている。公賢はこれらの情報を冷静に分析し「山名勢、称多称少、所詮数千騎従之、或説、直冬密々来加此内歟、不信受事歟」(文和二年六月六日『園太暦』)と評し、合戦についても「豆州時氏者、自丹波路上、子息已下相分廻北方、所詮於今日者無合戦歟、或云、明後日歟、或云、土岐、佐々木等勢、遣渡邊令見事躰」(文和二年六月六日『園太暦』)という。

 天皇の叡山行幸を見送った義詮は、6月7日、「打出河原、勢ソロエノ後、宰相中将引上中霊山、相待敵之躰歟、二千騎許歟云々」(文和二年六月七日『園太暦』)と、早々に鴨川を渡って京都を離脱し、東山の丘陵に拠って、西と南の二手から迫る吉野方を待ち受けたのであった。そして、山名勢も同7日、「山名伊豆守以下西国軍勢、著西山谷峯畢」(文和二年六月七日『神護寺交衆任日次第』)と、京都を望む西山に布陣した。義詮はこの頃状況を関東へ報ずる使者を遣わしており、6月15日、「自京都御使下向、石堂、吉良三郎、八幡マテ責寄」(『鶴岡社務記録』)が伝えられている。なお、山名勢は「上杉勢」とともに行動しているが、「上杉」とは、前年文和元(1352)年11月頃に備後国で挙兵した「三條入道殿執事」(観応元年十一月二十三日条『金剛寺所蔵聖教類奥書集』)の「上椙修理亮」か。上杉修理亮重季は文和元(1352)年12月16日に「石済河原致合戦」(文和二年正月「三吉覚弁軍忠状」『鼓文書』)で、守護石橋和義入道が派遣した備後国御家人の三吉氏に敗れて行方知れずとなっていたが、同時期に備前国に挙兵している山名勢と合流した可能性が高いだろう。

 山名勢及び上杉勢は大江山を越えず山の丹波路を通って西山へ至ったようで、その場所は東山よりも北に拠っていた。そのためか「宰相中将以下」は西坂本警衛に利便性のある「取陣於神楽岡吉田宮辺」に陣所を移している。なお、公賢は報告を受けると「合戦之躰可引上山門歟、或説山門異議出来歟」と推測をしている(文和二年六月八日『園太暦』)

 今回の吉野方は、前年閏2月15日の北畠親房入道主導の奥州・関東と連動した「閏二月十五日挙兵」とは様相が異なり、「今春以来、度々合戦之時者、籌策事一向公家人々被相計畢、然間于今不被達御本懐、於今度者合戦事、吉良石塔両人可令計申由被仰含云々(文和元年十一月四日『兼綱公記』)と、合戦は武家に計らう方針転換がなされていた。これは親房入道の事実上の失脚によるものとみられ(親房入道の南朝方での不人気は、親房女子の「女御殿一品准后女」が故中院具忠と密通したことが発覚して2月に逐電し、親房入道が激怒。その手引きをしたという山民の家を襲わせて四、五人を梟首し、これを恨んだ山人が蜂起して賀名生に迫り、すでに京都に攻め上っていた楠木、和田、四條隆俊らを呼び戻して警衛させんとした、という「虚実雖未弁、以外之事歟、京都潤色之由沙汰歟」の噂からも察せられる)、現実路線への転換が図られたとみられる。そして、実際に戦う南朝方武士の主力は、故直義入道の系統を引く吉良満貞、石塔頼房、山名時氏父子といった武家政権離脱者であった。これに対して純粋な南朝方は楠木左衛門尉正儀の東條勢が主力であり、吉野方は事実上、武家政権内の内部抗争を利用した形で戦いに臨めたのである。

 6月8日、洛西竹林寺の境空から公賢に届けられた消息によれば、「山名勢西山辺充満、非無恐怖之旨示之」といい、合戦を前にした気の立った武士たちが竹林寺周辺に大勢出没し、身の危険を感じているさまが浮き彫りとなっている(文和二年六月八日『園太暦』)

●南北の布陣:文和二年六月八日(『園太暦』)

宮方 布陣地
山名已下
(山名時氏、山名師義)
西山法花寺
上杉勢
(上杉重季か)
長坂
賀茂瓦屋正伝寺辺
南方
(吉良満貞、石塔頼房、楠木正儀、四條隆俊)
鳥羽横大路辺
武家方 布陣地
宰相中将
(足利義詮)
神楽岡
吉田宮辺

 南朝方の「左馬頭」は6月8日、園城寺に「京都合戦事、明日所打立也、可被致軍忠之状」を送達している(正平八年六月八日「左馬頭書状」『園城寺文書』)。この「左馬頭」は翌6月9日の神護寺の記録に見える「吉良左馬頭義満」(文和二年六月九日『神護寺交衆任日次第』)から吉良満義と比定されている。しかし、この『神護寺交衆任日次第』は人名に疑義があるためそのまま鵜呑みにはできない上に、吉良満義は長らく「左京大夫」の官途にあった人物であり、南朝方において下位の左馬頭に補任されることへの疑問もある。ただ、同9日には東寺にも「吉良左馬頭御判(案のため花押はない)」が発給した「禁制」(正平八年六月九日「吉良左馬頭禁制案」『東寺文書』)があり、この裏書には「諸寺領制札、江戸出羽権守出之、吉良侍所」と見え、「左馬頭」は吉良氏であろう。ではこの「左馬頭」が吉良満義に該当するかといえば、園城寺へ軍勢催促を行った「左馬頭」の花押と、正平13(1358)年9月21日に「天野兵部権少輔殿」へ「遠江国奥山郷三分一信濃守跡地頭職之事、為料所所々預置也」(正平十三年九月廿一日「左馬頭」『天野文書』)という「左馬頭専玄禅門也」の花押と一致することから、少なくとも延文元(1356)年に卒去(『尊卑分脈』)した満義ではないことになる。これらから神護寺文書に見える「吉良左馬頭義満」は、観応2(1351)年に直義入道に属した「治部少輔」(観応二年正月十七日『園太暦』)、観応3(1352)年に「石塔殿」とともに南朝方として美濃国で活動した「吉良治部大夫殿」(観応三年七月廿五日「鷲見加々丸軍忠状」『鷲見家譜』)と同一人物とみられ、治部少輔満貞が南朝方において左馬頭に昇任したものか(貞和5(1349)年時点の満貞花押と『園城寺文書』の「左馬頭」の花押は筆致も形も全く異なっているため断定はできない)

 そして6月9日、「左馬頭」が述べる通り「西山勢八幡勢等已入洛中」った(文和二年六月九日『園太暦』)。武家方はすでに後光厳天皇を奉じて洛中から撤退していたことから、彼らの入洛は抵抗なく行われたとみられる。攻め寄せた「南方大将」は「二條大納言左大将歟兄弟、先錦旗被出、四條中納言別当歟兄弟」で「楠木、和田在彼勢、又石塔、吉良、率原、蜂屋等」(文和二年六月十日『園太暦』)で、彼らは「件輩皆自八幡出歟、其勢彼是一万余騎也」であった。このほか西山の「山名伊豆守時氏、馬助時定、又率数千騎勢発向」が加わった。なお「山名者如云、直冬命之躰也云々者」(文和二年六月十日『園太暦』)といい、山名時氏の背後には周防国に進出していた南朝方の左兵衛佐直冬があったという。

 入洛した彼らは「山名勢、七條以北小路切打出、八幡勢、楠木、輪田勢等、自二條以南小路切打出、各発向河原、暫思惟躰也、若廻勢於東北事歟」(文和二年六月九日『園太暦』)という。この洛中侵攻の西山勢(山名、上杉勢)、八幡勢(吉良、石塔、楠木勢)に対し、義詮麾下の武家方も「神楽岡勢又下逢」して、午の刻、公賢邸にも届く「河原方有時声両三度」(文和二年六月九日『園太暦』)があった。

 「午刻始合戦、神楽岡辺戦之處、武家方多討死」(文和二年六月九日『神護寺交衆任日次第』)の合戦では「於所々被打留、及四五百人云々」(文和二年六月十日『園太暦』)といい、「土岐彦四郎頼泰弟、細河伊与守元氏、伴野入道」らの討死が噂され(文和二年六月九日『園太暦』)、「土岐軍勢多以殞命、大略所残不幾云々者」という程であった。京都守護として義詮勢の主力であったとみられる土岐頼康勢の犠牲が甚だしかったことがうかがわれる。さらに千葉介氏胤の叔父または従兄弟とみられる御所奉行「粟原下総入道(粟飯原清胤)」も神楽岡において討死を遂げた(文和二年六月九日『常楽記』)。合戦には足利家御内人以外にも「渡辺四郎左衛門尉実」(文和二年七月「渡辺実軍忠状」『土佐国蠧簡集残篇』)や「田代豊前三郎殿(田代顕綱)(文和二年十月二日「足利義詮奉書」『田代文書』)、「小早川出雲四郎左衛門尉殿(小早川重景)(文和二年十月廿六日「足利義詮奉書」『小早川家什書』)、「小早川安芸五郎左衛門尉殿(小早川氏平)(文和三年六月廿日「足利義詮奉書」『吉川家中并寺社文書』)、「大友刑部大輔殿(大友氏時)」の「代官近藤兵衛次郎永郷」(文和三年六月廿三日「足利義詮奉書」『大友文書』)、「石井三郎左衛門尉殿(石井政安)(文和三年六月廿三日「足利義詮奉書」『東寺百合文書』)ら諸国の御家人も加わっていたことがわかる。

 合戦ののち、「半時許之後、青侍等見物帰来」て公賢に報告した内容によれば「宰相已差山門没落、赴古今路、合戦不経程之由見及、而宰相中将方勢、少々被打取云々」といい、義詮は合戦に敗れてすでに比叡山へ向けて古道、今道を抜けて「宰相中将者、無為著坂本云々」(文和二年六月十日『園太暦』)という。

●二度の南朝京都占拠状況の違い

正平7(1352)年閏2月15日 文和2(1353)年6月9日
南北の状況 和睦(北朝消滅、武家方の正平元号受容) 敵対
南朝天皇 後村上天皇 後村上天皇
北朝天皇 廃位(武家方受容) 後光厳天皇
南朝方の戦略 「正平の一統」のもと、後村上天皇の帰洛を謳い、賀名生から石清水八幡宮へ行幸。洛中に南朝方の兵を合法的に配置したうえで、武家方を攻めて占拠(北畠親房入道による奥州、関東での同日挙兵のひとつ)。 前年の反省をもとに軍事は武家に任せる戦略へ転換(親房失脚か)。故直義入道与党を積極的に許容して、吉良、石塔、山名、上杉らを主力に畿内平定計画を進め、京都を占拠した。九州においても直冬の帰降を許し、中国地方への影響力も強める。
武家方の戦略 後村上天皇還御を推進するが、多くの軍勢が同道することに疑惑を抱くも、唯一の天皇の勅命を拒むことはできず、主力を近江へ退避させる。その上で義詮が東寺に入って警戒するが、案の定、南朝方が裏切り、義詮は近江に遁れる。 京都守護細川顕氏亡き後、軍事的主力を土岐頼康率いる美濃尾張勢へ転換。吉良、石塔等南朝勢への対応を行わせる。しかし、南朝方の勢いは強く、天王寺や石清水八幡宮を占拠され、義詮は天皇を比叡山へ行幸させた上で御内人、在京御家人を動員して戦うが敗れて近江国を経て美濃国へ遁れる。
北朝皇統への対応 後村上天皇の勅命により東寺行幸を経て八幡、東條へ行幸(事実上の拉致) 後光厳天皇の比叡山行幸

 6月9日の申刻ごろにはすでに帰趨は決しており、公賢邸の「当南有火」が上がった。この火災は「検断侍所土岐族長山屋云々」という。彼は京都守護「土岐頼泰」の「舎弟長山某(実際は叔父の長山頼基か)」で、「伴野出羽守土御門油小路屋」とともに「面々自放火」して遁れた(文和二年六月九日『園太暦』)

 合戦ののち、「宮方四人大将、四條中納言隆淳、吉良左馬頭義満、石塔中務等京都在之、山名伊豆守、白河判官入道住宅點居云々(文和二年六月九日『神護寺交衆任日次第』)して京都を占拠し、「此後京都用正平号正平八年也」という。

 義詮の近江没落ののち、「萩野相具丹後守護武蔵将監、自長坂入京、又赤松妙善、同自西方攻入」ったが、「而大将已没落後也、仍不及合戦、引退西山云々」(文和二年六月九日『園太暦』)といい、この夜、「西山并比叡山、所々炬火、西者萩野赤松、北者敗軍等所為歟」(文和二年六月九日『園太暦』)という。そして、6月11日、「赤松者、昨日不合戦引退播州云々(文和二年六月十二日『園太暦』)とあるように、赤松妙善律師は西山から守護国播磨へと退いた。備前から備後、美作、因幡など中国地方の山名氏の勢力伸長を警戒しての帰国か。一方、「西山大原野」に布陣(文和二年六月十二日『神護寺交衆任日次第』)していた丹後守護職高武蔵将監師詮、丹波守護代萩野朝忠のもとに「京方勢攻寄西山、萩野及武蔵将監以下合戦」(文和二年六月十二日『園太暦』)し、「彼輩即敗績、師詮切腹了」という。師詮に仕える「阿保、高根已下専一輩、大略於一所切腹」し、「萩野舎弟者討死、本人不見邂脱歟、又或切腹投井之輩多之、其沙汰歟」といい、萩野朝忠は切腹ののち投井された可能性を指摘している(文和二年六月十二日『園太暦』)

義詮の美濃没落

 今回の南朝方の京都占拠は昨年のような知将北畠親房入道が組み上げたような策謀ではなく、武家戦力を使った力攻めであり、それだけに南朝方も強い意識をもって洛中占拠を決行しており、占領した京都を武家方に再度明け渡す意思はまったくなかった。近江へ逃れた宰相中将義詮を追捕するため、堅田衆や兵も派遣している。これらは、武家勢力の主力を東国へ追い落とし、近江路と伊勢路を封鎖することで東国からの武家方の侵入を防ぎつつ、西国を盤石なものとする目論みだったのかもしれない。

 ただし、彼らの政治体質は基本的に理想を追い求めるという姿から脱却できておらず、現実的な政策ビジョンがないままに京都占領を行ったため、後村上天皇の感情のままに北朝への報復を最優先し、本来であればはじめに行われるべき治安維持が行われず、民衆から強い怒りを買ってしまうのであった。

 6月13日明方卯刻には、坂本から「主上、梶井宮、同日三宝院等相伴、宰相中将没落」したことが公賢へ伝えられている(文和二年六月十三日『園太暦』)。義詮ら一行は「欲渡湖上之處、無船、仍俄差北落了」であり、舟はすでに隠されていることから、堅田衆らが南朝に加担したことを察したのだろう。急ぎ琵琶湖西岸を北に駆け上ったと思われる。このとき坂本から後光厳天皇、義詮らに供奉した堂上衆は「西園寺中納言(西園寺実俊)、仲房朝臣、隆右、時光等」に過ぎず、「関白(二條良基)并忠光不参、留坂本云々、近衞前関白(近衞基嗣)、右府(近衞道嗣)又不参」という(文和二年六月十四日『園太暦』)。なお、関白良基は「瘧病」で同道できなかったもので、坂本から「小倉山の麓、中院の草の庵」(『小島之寿佐美』)へ隠退して療養している。

 義詮の勢は没落行とはいえ「其勢猶猛也」と士気はなお盛んで、「和邇、方田輩走来、為南方寄心、仍合戦、其上又京方勢馳集合戦程也、勝負之躰、追可申分」と、追撃する和邇衆や堅田衆、京都からの南朝勢と合戦があった。ただし、追撃する南朝勢は少なく、和邇、堅田の衆徒が義詮勢を襲ったのも、義詮勢のほとんどが堅田を通過したあとであった。ただし、後陣を務めた佐々木道誉嫡男で「当侍所」(観応三年八月十日『祇園執行日記』)を務める「佐々木近江守秀綱」は「片田浦」(文和二年六月十二日『武家年代記』)で和邇、堅田衆徒と戦い「一族家人数輩」(『源威集』)とともに「被討了」(文和二年六月十二日『園太暦』)している。『尊卑分脈』では「於江州与野心山徒合戦被討了」(『尊卑分脈』)と見え、南朝に加担する一部の延暦寺僧との戦いであったとする。

 こうして義詮らは「自坂本経北路、没落江州、行幸同奉成之」(文和二年六月十三日『建武三年以来記』)し、琵琶湖北岸の峠を越え、余呉湖を右手に佐々木道誉の本拠がある伊吹山麓を経て、美濃国垂井へ入ったと思われる。後光厳天皇は「著御垂井宿小島行宮」(文和二年六月十三日『皇代暦』)したが、これは京都から供奉してきた「土岐大膳大夫頼泰」(『源威集』)が「濃州尾州両国為守護間、仮大内已下用意」(『源威集』)したものである。「小島」とは揖斐郡小島(揖斐川町小島)である。「小島内裏」(文和二年十月二日「足利義詮奉書」『田代文書』)の情景は「左も右もそびえたる山に雲いとかかる所なりける、時しも秋の深山のありさま、ただをしこめて言知らぬ物のあはれ、いはんかたなし」(『小島之寿佐美』)という場所であり、その近隣に土岐頼康が瑞巌寺を建立しており、守護土岐氏が警衛を行ったのかもしれない。

 この頃、義詮は鎌倉に次第を伝える使者を遣わしており、6月17日に「三條殿ハ神楽岳へ令引給云々」(文和二年六月十七日『鶴岡社務記録』)という報告が鎌倉へ届いている。この報告を受けた尊氏は早くも同日中に陸奥国白河の「結城参河守殿(結城朝常)」へ「依南方凶徒蜂起、京都難儀之由有其聞、早今月中、可馳参」ことを命じている(文和二年六月十七日「足利尊氏軍勢催促状」『結城小峰文書』)

 6月16日、公賢は「南山御所可有還幸、就其両法皇以下御方々、同可有御出京、御与力者以下可催進之由、被仰四條大納言云々、此事尤不審事也、頗物騒歟、隨而昨日到来御返事、其子細不見也、若人々物騒承候歟」(文和二年六月十六日『園太暦』)と、後村上天皇の還幸及び光厳、光明両法皇、崇光上皇、直仁親王の御出京も取り沙汰され、四條大納言隆蔭に供人の催促がなされたという。また、「前伊豆守(山名時氏)」は6月15日に東寺に禁制を発給し(正平八年六月十五日「山名時氏禁制」『東寺百合文書』)、17日には摂津国勝尾寺にも禁制を出して(正平八年六月十七日「山名時氏禁制」『勝尾寺文書』)、戦後処理の狼藉防止を進めている。

 6月17日には「今度南方時宜以外苛酷沙汰也」(文和二年六月十七日『園太暦』)が京都で行われ、「参山門輩、懸親類境堺可有厳密沙汰、於住宅者可被點者、吉田中納言宗房、前大蔵卿師治、為彼奉行上洛」といい、吉田宗房、中原師治の両卿が奉行となり、後光厳天皇に従って比叡山へ供奉した人々や親類の住宅を没収。坂本に留まった「関白師基公」は「京都事可有申沙汰」と苦言を呈すべく今朝入洛している。また、供奉した人々に留まらず、「先主践祚出仕之輩、可被解官云々」といい、これらの報復的な一連の沙汰に対し公賢は「実夏其随一歟、悲愁之限、乍在京不出現之條爭可有之、其被坐又無力事也」と嘆くとともに、「先皇元弘聖断、以仁恕為先了、今度儀如何、但我意叡慮歟、近臣張行歟、以外事哉」(文和二年六月十七日『園太暦』)と怒りをもって後醍醐先帝と今上後村上の器の差を述べている。21日には吉田宗房がとくに「住屋以下多可被點云々」することが伝聞で公賢の耳に入っており、「厳急沙汰、頗不似先皇」と後村上天皇の批判を展開する(文和二年六月廿一日『園太暦』)。また「去年時宜之由、只若臨深淵履薄氷」と、任太政大臣が勅されたことに公賢の否定的感情が浮き彫りとなっている。

 6月22日には、後村上天皇が後鳥羽院の御影を祀る「水無瀬法花堂」へ「公量卿」を遣わして告文を捧げている。武家政権の打倒を誓った告文であろう。徳大寺公量はその後京都へ向かい、26日に入洛した(文和二年六月廿六日『園太暦』)。その翌日27日には、吉田中納言宗房が賀名生から太政大臣公賢を勅使として訪問する。褐衣に鎧直垂という「戎衣躰」であり、いまだ戦時の騒動が収まらない洛中への警戒感が見える。南朝方は公賢に今回決定の条々を披露し、公賢は太政大臣として請文を勅使宗房へ献じた。

●正平八年六月二十七日条々

条目 内容
諸社所寺事 社務祠官并寺務以下、任去年補任致執務
諸家并在洛輩事 去年偽朝践祚之時、出仕人々并山門供奉輩、可相尋交名、
於在洛輩者、応召可参入之由、各可相触之
僧中事 於偽朝殊致祈祷并今度没落輩、同可相尋、
至其外僧綱者、可隨召矣
可免除諸公事 任元享例、一切停止之
可閣地利催促事 雖有帯近年綸旨輩、無重勅裁者、不可叙用之
諸司職并御院領以下地利事 一同沙汰以前、暫可閣之

 しかし、公賢はこのときの宗房の対応に激しい不信感と怒りをもっており、勅使たる身にも拘わらず「久我、竹林院并愚身、有被仰下之子細之旨、此間所謳歌也」と言っておきながら、上洛後数日間来ず、やっと27日夕方来たかと思えば、条々への注進への請文を請い、さらに「而明暁帰参旨示之」と、明日の明方には賀名生へ帰参するので、それまでに方針を決めろというのである。公賢は請文は出したものの「事次第頗以不得心、彼朝讒口充満云々、微運短慮、如此人数難堪事歟」(文和二年六月廿七日『園太暦』)と怒りを露わにしている。結局、急ぎ久我前相国、竹林院前内府と案を出し合って早急に方針が示され、28日午刻、勅使吉田宗房卿は返事を持って賀名生へ帰参している(文和二年六月廿九日『園太暦』)。その後、公賢らは弁官に後光厳天皇践祚時の出仕者を調べさせ、報告されることとなる。彼らの屋敷は接収され南朝方公卿へ下されている。6月27日から広義門院が居住していた今出川公直の「菊亭」も「広義門院、昨日御幸萩原殿、菊亭公冬卿為勅裁賜之」と、広義門院を萩原殿へ移し、公直同族の今出川公冬に下されている(文和二年七月十三日『園太暦』)。さらに「関白家記文書悉収公、被渡前関白了」(文和二年七月十一日『園太暦』)とあるように、関白二條良基邸からは伝来文書も収公され、南朝方の前関白師基に引き渡されている。こうした政策につき、官務家の小槻匡遠は「奇怪天気也」(文和二年七月十一日『園太暦』)と公賢に述べている。

●正平八年七月二日践祚出仕人として家宅接収の対象となった人々

  官職
公卿 関白 二條良基      
左大臣 九条経教      
右大臣 近衞道嗣      
大納言 中院通相 洞院実夏    
中納言 大炊御門家信 西園寺実俊    
参議 葉室長顕 今出河公直    
  少納言 長綱朝臣      
  坊門俊冬朝臣 時光 経方朝臣  
職事 蔵人頭 万里小路仲房
(左大弁)
兼綱朝臣    
五位蔵人 親顕 柳原忠光
(左兵衛権佐)
   
六位蔵人 菅原富長 橘以頼 藤原氏房  
非職殿上人 一條公村
(中将)
四條隆家
(少将)
教定朝臣
(内蔵頭)
 
両局   清澄
(大夫史)
中原師茂
(大外記)
中原康隆
(権少外記)
安倍盛宣
(右大史)
    小槻匡遠      

 当時京都は「彼朝讒口充満云々(文和二年六月廿七日『園太暦』)というほどに南朝勢力が不人気で、「世間有動揺之声、次第競近」というほど治安も悪く、6月24日には「所詮物取等乱入安楽光院、如此新御所御留守追捕、妻戸障子等放之、又此辺在家輩少々預財宝、於承仕族有内通者、如此短慮之所致、及此大事、不便ゝゝ、半時許後退散了」(文和二年六月廿四日『園太暦』)という狼藉も発生した。盗賊の跋扈は「猶可興盛之旨聞之間、此辺構城戸、随分可警固之旨、菊亭殿広義門院仰也」といい、公賢は久我前相国長通、竹林院前内府公重と謀り、「西大路南北柳原北釘貫辺殊可令構之旨」を指示している(文和二年六月廿五日『園太暦』)

 しかし、盗賊を取り締まり処断する検断職が設置されていない中では、彼らの狼藉を止める術はなく「一條大宮圓興寺物取入之、曾無財宝、仍放火云々」(文和二年六月廿九日『園太暦』)と、連日の略奪騒ぎが起こっている。しかも、盗賊ばかりか「軍勢入悲田院、称有負物譴責、此事不実也、只物取所為歟」(文和二年七月二日『園太暦』)というように、南朝勢の暴徒化による略奪騒ぎまで起こる有様で、「即可来此亭之旨風聞之由、方々有其告、周章之余、遣隆俊卿許、近立菊亭殿宿已相ゝ人数有其聞、可馳参之旨、仰含候由、報了」(文和二年七月二日『園太暦』)と、公賢邸への乱入計画すら伝えられ、公賢は近所の菊亭殿(広義門院居住)警固していた四條隆俊卿に自邸警固の依頼をするほどであった。このように、武家政権が追われたことで治安維持組織が消滅し、激しい狼藉行為が頻発。洛中の人々の南朝方への不満は「彼朝讒口充満云々(文和二年六月廿七日『園太暦』)というほど高まりを見せていたのであった。

 こうした怨嗟の声は後村上天皇の耳にも入っており、公賢は勅使として上洛した実守卿を通じ「洛中此間之儀、人民不安堵歟、痛敷候、重仰諸将候也、今度之儀失本意了、定令傷老心歟、如然事細々可被申候」との言葉を受けている(文和二年七月十日『園太暦』)。しかし、公賢は「去年時宜之由、只若臨深淵履薄氷」(文和二年六月廿一日『園太暦』)というような心境の中で太政大臣の職務を続けることはできないと判断。7月12日、勅書への返奏に後村上天皇からの質問に細々答えつつ、最後に太政大臣「謙退事」の一条を加えたのだった(文和二年七月十二日『園太暦』)。なお、この「謙退事」については21日、後村上天皇より「太政国辞表事、返々不思寄事候、是非還幸後、加思案可申候也、若又及遅々者、追可被謙退、只今更々不思寄事候也、又公泰卿申旨候間、有計沙汰了、子細被慇懃之至、定被察歟、此上殊被存報国之忠者、可為本意、洛中尚不清粛候、傷耳銷心之外無他、静謐事被仰時氏了、重又条々以准后可申遣之子細候也」(文和二年七月廿一日『園太暦』)と太政大臣の「謙退」を思い止まるよう説得を受けている。

義詮の京都帰還と南朝没落

 義詮は美濃国垂井(美濃国府辺りに布陣したのだろう)に到着した直後から、京都奪還のために諸方へ軍勢催促や兵粮料の設置を開始している。

 6月17日、若狭国の御内人「本郷美作守(本郷貞泰)」に、後光厳天皇に供奉して美濃国にあることを報告。貞泰には「早相談同心之輩等、且致用意、且可被待御入洛」を指示した(文和二年六月十七日「足利義詮御教書」『古文書』)。その二日後の19日、本郷美作守が去15日に認めていた注進状(国内の地頭や御家人で催促に応じた者の注進状か)が義詮に届けられると、「京都合戦難儀候間、臨幸濃州垂井宿、近日可攻上京都也、早国中地頭御家人相共致用意、其時分可馳参」ことが改めて指示されている(文和二年六月十九日「足利義詮御教書」『古文書』)

 また、6月20日には亡き佐々木近江守秀綱の弟「佐々木佐渡五郎左衛門尉殿(佐々木高秀)」に、「近江国分郡本所領除一円寺社領半済事、為兵粮所可支配軍勢」(文和二年六月廿日「足利義詮御教書」『佐々木文書』)が宛行されており、この他にも兵粮の確保が進められたと考えられる。23日には高秀に「江州凶徒退治事、相催分郡勢、打出四十九院辺、令談合佐々木五郎左衛門尉(佐々木定詮)(文和二年六月廿三日『佐々木文書』)ことが命じられており、上洛時の道筋にあたる四十九院宿周辺の鎮定の意図であろう。

 6月27日には公賢に「濃州敗軍已得勢、左馬頭基氏率大軍上洛、仍自京都、原、蜂屋以下已発向云々」という情報が届く(文和二年六月廿七日『園太暦』)。義詮勢に関東から弟基氏が大軍を率いて合流するという風聞であった。これに反応した吉良・石塔等の麾下にあった原、蜂屋勢が京都を進発したという。29日には「義詮以下得勢、参河、遠江、美濃、尾張、若狭、越前軍勢馳参之上、江州又守護五郎左衛門尉付著到集勢、加之山僧等大略下向及数万騎、仍来月二日可攻之由、仁木并宰相中将張行、而土岐頼康義、将軍去十六日門出、十八日進発之由有其聞、暫相待彼勢、上洛尤可宜、物騒発向、若又不得利者、頗可失本意之旨頻執之云々、仍未断歟、或説、此風風聞皆無跡形事也、敗軍千余騎雖集居、馬物具曾無之、只今発向躰不見、且兵粮闕乏不便躰也、関東事進発之由、曾不聞歟、於粉信不能偏信事歟」(文和二年六月廿九日『園太暦』)という風聞と公賢の推測があり、実際に美濃国から上洛軍が動いているのか、さてまた関東からの将軍尊氏率いる軍勢が動いているのか、まったくわからない状況にあった。7月9日に入った情報では「原、蜂屋、宇津宮三川三郎等勢六七百騎已下下向、已著四十九院辺、曾無相防者、守護人佐々木五郎左衛門尉、構城郭引籠、粗有降参之志歟之旨風聞」(文和二年七月九日『園太暦』)と、南朝方の原、蜂屋、宇津宮三河三郎らの軍勢と、武家方の近江守護佐々木五郎左衛門尉(佐々木定詮)及び佐々木佐渡五郎左衛門尉高秀が四十九院で合戦し、南朝方有利との情報が伝えられたようである。

 ところが、7月11日夜に「園前宰相(園基成)」が公賢を訪問して伝えた話から、実際の情勢が明らかとなってきた。「濃州以外有勢、仁木、細川等越江州為合戦発向南方兵之躰也、四條中納言隆持卿、一昨日越坂本、入夜以船浮湖上■坂本云々、又聞、今出河宰相中将公直又参云々(文和二年七月十一日『園太暦』)と、垂井の武家勢は相当数に増えており、仁木義長や細川元氏ら武功の士らの士気も高く、近江国を越えて京都へ向かう勢いであるという。翌12日にも「今日聞、美濃以外有勢、将軍今月二日、已起鎌倉発向之由、有其聞」(文和二年七月十二日『園太暦』)と、将軍尊氏が鎌倉を出立したという情報が舞い込んできたのであった。実際には7月2日時点での尊氏の鎌倉出立はなかったが、その風聞だけで武家方の士気の回復と南朝方武家の萎縮、帰趨を決めかねていた諸国人らの参向に強い影響力を及ぼしたのではなかろうか。尊氏の存在はその去就の風聞だけで武家全体を動かし得るほど巨大になっていたのである。

 13日には「江州合戦、今朝之由有其聞、敵方多勢也、官軍無勢也、心苦之躰」(文和二年七月十三日『園太暦』)という南朝方敗報が京都に伝えられ、21日にも「南方軍勢不下向、適下向勢狭少、而敵方勢猛也、仍南方勢大略散失」(文和二年七月廿一日『園太暦』)という南朝勢の壊滅が伝えられたのであった。22日には「伊勢国司顕良卿、已迫寄之間、義詮軍勢出江州之輩、引退旨風聞」(文和二年七月廿二日『園太暦』)と、伊勢国からの北畠顕能卿の近江出兵により一時的に南朝勢の勝利もあったが、大勢はすでに北朝方に傾きつつあった。同時期、信濃国においても守護「小笠原兵庫頭(長基)」が「仁科右馬助以下凶徒城郭追落」(文和二年七月五日「足利尊氏奉書」『小笠原古文書』)など南朝勢力の圧迫を始めていた。

 また関東においても、尊氏が「結城参河守殿(結城朝常)」へ「依南方凶徒蜂起、京都難儀之由有其聞、早今月中、可馳参」(文和二年六月十七日「足利尊氏軍勢催促状」『結城小峰文書』)ことを命じているように、関東御家人の鎌倉参集が進んでいた。6月29日には「小山鎌倉入」(『鶴岡社務記録』)とあるように、実際に6月内に小山左衛門佐氏政をはじめとする関東御家人が鎌倉に集まっていたとみられる。そして尊氏は6月29日、鶴岡八幡宮寺の神官家に「凶徒対治祈、可令精誠」ことを命じ(文和二年六月晦日「足利尊氏御判御教書」『鶴岡神主家伝文書』)、翌7月1日、鶴岡八幡宮寺で「為世上祈、タラニ廿一反、皆参」(文和二年七月一日『鶴岡社務記録』)が行われている。

 そして、7月10日、垂井の宰相中将義詮は上洛の途に就き、垂井から「江州清瀧、佐馬替、小野、四十九院、武者寺、守山」を経て京都へ入った(文和二年七月「渡邊実軍忠状」『土佐国蠧簡集残篇』)。同10日、小島内裏の後光厳天皇から上洛を促す勅使が関東へ下されたとみられ、7月16日に「勅使雪下寄宿」(『鶴岡社務記録』)という。後光厳天皇は予てより「鎌倉大納言のほり侍るへきよし勅書」(『小島之寿佐美』)を関東へ送っており、尊氏は請文を奏上していた。後光厳天皇以下の廷臣は「たゝこれをのみまつことにて、おほやけわたくしなくさみ侍り」(『小島之寿佐美』)であったという。しかし「鎌倉大納言のゝほり、けふゝゝとのみ聞えしかと、只同し様にて日数経しかは、心もとなしとて、度々御使をつかはす」(『小島之寿佐美』)といい、なかなか上洛の報告のない尊氏に催促の綸旨を幾度となく遣わしていたようである。おそらく尊氏はこの勅使に「今はほとあるましきよし、おほやけわたくしへ請文」を託したのであろう。これに「たれもゝゝゝ安堵したるやうに侍し」(『小島之寿佐美』)という。

 一方、京都では尊氏上洛が迫っている事が事実として受け取られていたが、8月下旬に至っても一向にその動きが伝えられないことに、公賢は不審を感じて、尊氏の義兄という「有縁」の従弟「正親町大納言入道(正親町公蔭入道空静)」に問い合わせている。親類として何らかの情報を得ている可能性からの問い合わせであろう。しかし、公蔭入道も詳細は聞いていないようで「大樹上洛事、実否未承定候」(文和二年八月廿五日『園太暦』)という。ただ、「勅使俊冬朝臣状とて先日見及事候き、其こそ■■勿論にて候らめと仰信候■■、まさしくこうつと申候所■■にて、自其先立去十日、帰参濃州候」(文和二年八月廿五日『園太暦』)といい、29日に鎌倉を発っていた尊氏と相模国国府津で面会したのだろう。俊冬は尊氏に先立って8月10日に垂井御所に帰参している。

         北条時頼―+―北条時宗―――北条貞時―――北条高時
        (相模守) |(相模守)  (相模守)  (修理権大夫)
              |
              +―北条宗頼―――女子
               (七郎)    ∥――――+―北条守時
                       ∥    |(相模守)
                       ∥    |
                       ∥    +―平登子
                       ∥      ∥――――――+―足利義詮
                       ∥      ∥      |(宰相中将)
                       ∥      ∥      |
                       ∥      足利尊氏   +―足利基氏
                       ∥     (権大納言)   (左馬頭)
                       ∥     
                       北条久時―――女子
                      (相模守)   ∥――――――+―正親町忠季
                              ∥      |(権大納言)
                              ∥      |    
 西園寺公経―+―洞院実雄―+―洞院公守―+―正親町実明――正親町公蔭  +――――――――徽安門院一條
(太政大臣) |(太政大臣)|(権大納言)|(権大納言) (権大納言)          (対御方)
       |      |      |                        ∥
       |      |      |                        ∥―義仁親王
       |      |      |                        ∥(三才宮)
       |      |      +―洞院実泰                   ∥
       |      |       (左大臣)                   ∥
       |      |        ∥――――――洞院公賢―――――洞院実夏   ∥
       |      |        ∥     (太政大臣)   (内大臣)   ∥
       |      +―小倉公雄―――藤原季子                   ∥
       |      |(権中納言)                         ∥
       |      |                               ∥
       |      +―藤原愔子                          ∥
       |      |(玄輝門院)                         ∥
       |      |  ∥―――――伏見天皇――――――――――――後伏見天皇  
       |      |  ∥                     ∥      ∥
       |      |+―後深草天皇                 ∥――――+―光厳天皇
       |      ||                       ∥    |
       |      ||                       ∥    |
       |      |+―亀山天皇                  ∥    +―光明天皇
       |      |  ∥―――――後宇多天皇―――後醍醐天皇   
       |      |  ∥                     ∥
       |      +―藤原佶子                 +―藤原寧子
       |       (京極院)                 |(広義門院)
       |                             |
       +―西園寺実氏――西園寺公相――西園寺実兼―+―西園寺公衡―+―西園寺実衡――西園寺公宗
        (太政大臣) (太政大臣) (太政大臣) |(左大臣)   (内大臣)  (権大納言)
                             |
                             +―今出川兼季―――今出川実尹――今出川公直
                             |(太政大臣)  (権大納言) (権中納言)
                             |
                             +―西園寺公顕―――西園寺実顕――今出川公冬
                              (右大臣)   (参議)   (参議)              

 こうした情勢の中で、7月13日、公賢に「東軍以外近々攻来之由風聞」(文和二年七月十三日『園太暦』)が伝えられ、「左衛門佐入道、則祐以下、昨日已入兵庫之由、有其聞、諸軍以外之躰」というように、中国地方に進駐していた石橋左衛門佐和義入道、赤松則祐律師がすでに兵庫津に入って京都をうかがっている風聞が伝えられた。これに対応したものか、7月17日には在京の南朝勢に動きがみられ、「四條新大納言已下諸将発向江州之由有其聞」(文和二年七月十七日『園太暦』)というが、西側の動きも考えて「未見実儀云々、彼是云、今日発向猶不然歟」と見直されたのだろう。7月19日、「四條大納言山名軍勢数百騎、差西北発向、可召取人事有之歟、若所聞西辺有事歟、或云、召人事ハ不知、大徳寺、白毫寺乱入取資材云々」(文和二年七月十九日『園太暦』)という。

 この山名勢を見たためか、関白二條良基は「七月廿日あまり、ありあけのつきのまた夜るかきに、くさのいほりをたち出て、あつまちとをくおもひたつこゝろのうち、すずろにものかなし」と、療養していた小倉山の草庵(右京区嵯峨二尊院門前北中院町)を出立して美濃国の「小嶋」に「二三日の道を五六日のほとにやうゝゝからうして、をしまにまいりつ」いた(『小嶋之寿佐美』)。良基はまず後光厳天皇に供奉していた叔父の「二條中納言(二條良冬)のたちいりたる所」へまず宿した。この宿は「かやの軒端、竹のあミ戸、まハらなるすのこより風もたまらす吹あけて、一夜たになをやとりかたし」という有様であった。その後「小嶋の頓宮」へ参って天皇に拝謁。この日の夜は「瑞岩寺とかやいふ寺尋出てとゝま」った。良基はこの寺の造作が気に入り、数日間逗留している。現在の小島瑞巌寺(揖斐郡揖斐川町瑞巌寺)である。

 そして7月23日、「赤松相伐西国勢已到著西宮、策清水宿国府、楠木余手之由示」(文和二年七月廿三日『園太暦』)と、赤松妙善入道を討つべく楠木正儀勢が追撃したという。また「四條大納言隆俊、俄進発、向摂州之由有風聞」といい、四條隆俊卿も摂津国へと向かったという。しかし、結局「山名父子、吉良、石塔、悉以没落了」(文和二年七月廿九日『園太暦』)し、「七月廿三、四両日間、南方人々皆以引退帰座」(文和二年七月廿三日『建武三年以来記』)と、南朝方の公卿、軍勢は京都からも一斉に撤退していった。この南朝勢の撤退に戦闘行為は記されておらず、自壊に近いものだったのだろう。山名時氏らは「山名越丹波路」(文和二年七月廿三日『園太暦』)と見え、「山名在丹波山内辺、楠木四條等猶在神崎辺、明日武家可遣打手云々」(文和二年七月廿七日『園太暦』)といいように山名時氏は丹波国に駐屯し、楠木正儀と四條隆俊は摂津国神崎津辺りに宿陣していたようである。これに、28日「宰相中将可遣討手、於丹波神崎辺之由風聞」が、「而或説、時氏引退丹波、赴丹後但馬方歟之旨有説、仍打手発向延引」という(文和二年七月廿八日『園太暦』)。山名時氏が丹波国から丹後国か但馬国の何れに落ちたか定まらず、討手の進発が延期されたという。

 7月25日、「南方軍士悉蓄電散方々」した南朝無人の京都に「赤松中国左衛門佐入道、率四国已下勢七千騎許到来」(文和二年七月廿五日『園太暦』)した。この日の夜、「五辻宰相入道」が公賢を訪れて世上の事を談じたが「武家随分可行仁政之由風聞、南方苛鵠政風聞如此、尤可有懲粛事歟」(文和二年七月廿五日『園太暦』)と述べている。そして26日には「西国勢左衛門佐入道高経法師、赤松則祐律師備前守護松田等勢、昨日入洛、四條以南充満」し、おそらく盗賊の追捕も行われたのだろう。「逆徒退散之間、関東ヲ不待、武将義詮、濃州帰洛、細川相州、土岐、佐々木供奉」(『源威集』)と見え、義詮自身も26日に「宰相中将入夜京著、在常在光院」(文和二年七月廿六日『園太暦』)という。27日には近江国で活動していた「南方軍士原、蜂屋已下」に「守護五郎左衛門尉佐渡五郎左衛門尉、率三千騎許、為退治発向」して合戦に及んだ。ところが「原等勢三百騎許」は勇猛であり、原勢の「勇士五六騎、懸入大勢中、曾無惜命之気、因茲守護以下軍卒引退四五里、追籠佐々木庄内了」という(文和二年八月一日『園太暦』)。8月7日には「京都軍勢等多向江州、土岐勢仁木勢等発向」(文和二年八月七日『園太暦』)して佐々木勢とともに近江国の南朝勢の駆逐が指示されたのだろう。また8月15日には、「近江伊勢両国凶徒退治」のために「所差遣仁木右馬頭義長」(文和二年八月十五日「足利義詮書状」『仁木文書』)といい、近江国に派遣された仁木義長は伊勢路の北畠顕能卿の追討へ向かったとみられる。

 前述の通り、南朝には官務全体を執り行い得る官僚組織が未熟で、実務に通じた官僚の不在という慢性的な人材不足があった。それに加えて南朝方には建武政権当時の理想が根底にあるため現実的な政権運営が行えず、在京時の治安維持にも失敗、後村上天皇自身の北朝政権への報復行為も不人気であり、武家や公家衆のみならず民衆の支持をも受けることができなかったのであった。そして、義詮の入洛以降は「洛中静謐、民間唱大平」(文和二年七月廿八日『園太暦』)といい、公賢も「弥随分之徳歟、神妙事也」(文和二年七月廿八日『園太暦』)と義詮の徳を讃えるのであった。

将軍尊氏の鎌倉出立と氏胤の鎌倉入り

 文和2(1353)年7月27日以降、上洛前までに諸方に「凶徒退治」の手配りを行う。7月24日、先日の約定通り、若狭の「本郷美作守殿」へ「来廿九日可有御上洛候、同心之輩、相共可被馳参也」(文和二年七月廿四日「足利尊氏御教書」『古文書』)を指示。そして27日には「本郷美作守殿」に京都へ出立するよう指示。28日には常陸国の「佐竹三郎入道殿(佐竹小瀬義春か)」へ常陸国内の南朝方の追捕を命じた(文和二年七月廿八日「足利尊氏御教書」『奈良文書』)

 鎌倉出立に先立ち、7月28日に「殿武州御下向」(文和二年七月廿八日『鶴岡社務記録』)、「関東大将右馬頭基氏、畠山国清管領トシテ、武将入間川ニ可有御座定ル」(『源威集』)と、左馬頭基氏に畠山修理権大夫国清を添えて武蔵国入間郡の入間川御所(狭山市入間川二丁目の入間川河岸段丘上か)に向かわせた。ここは上州からの鎌倉上道を抑えるとともに西側からは南信濃からの秩父路を望むことができる要衝であり、南朝勢力へ対抗する主軸に据えた。相模国守護に抜擢していた河越弾正少弼直重を中心とする武蔵平氏を中心とする「平一揆」も麾下に組み込んでいる。なお、常陸国の「鹿島烟田遠江守時幹」も「依為平一揆(武蔵平一揆に属したか、常陸平氏の一揆か)」って、8月9日に「国府(常陸国府)馳参」じ、9月には「入間河御陣」に至っている(文和二年九月「烟田時幹著到状」『烟田文書』)。このときの承了判は佐竹義篤か。

 そして7月29日、尊氏は「御所、御京上」(『鶴岡社務記録』)の途に就いた。出立に当たり「先陣ノ事」を尊氏侍者の饗庭命鶴丸に売り込む「競望ノ輩」が多く、彼らには「思食被定有旨、不及御返答」ことを告げていたが、先陣が決まらぬままの状況に、さすがの命鶴丸も困惑し、「御進発ノ事無余日、御先打誰ノ仁ニ可被仰付候哉」(『源威集』)と尊氏に問うた。すると、尊氏は「結城中務太輔直光」との返答であった。

 結城直光はかつて「彼禅門厳閣総州(足利義氏入道)与日阿〈于時結城七郎〉(結城朝光)可為同等礼之由、分明也」(宝治二年閏十二月廿八日条『吾妻鏡』)という、頼朝から足利義氏と同等礼とされた結城朝光の嫡々たる名門当主であるが、すでに往時の勢力はなかった。意外に思った命鶴丸は「小山左衛門佐氏政ハ分限ト申シ、多勢ト云、不可余儀歟、能々可有御計」と再考を促すが、尊氏は「諸家ノ輩為一流非普代ト無云事、今度ハ譜代ト忠功ト志トヲ為テ賞可被仰付間、結城ハ其仁ニ当レル者也、其謂ハ譜代ヲ思ヘハ朝光家督、忠ヲ云ヘハ父朝祐、兄直朝、二代奉命ヲ、志ヲ案スレハ去年文和元二月ノ合戦、天下御大事ノ時分、諸大名是ヲ伺テ無音ノ處、直光馳参テ、廿八日合戦ニ致戦功、志ノ條依無余儀」と述べて、結城直光を先陣に据えたという(『源威集』)。「譜代」とは結城朝光を「譜代」と称していることから、「足利家」の譜代被官という意味ではなく、右大将家以来関東に伺候した御家人という意味であろう。尊氏上洛の勢に従った人々は不明だが「関東供奉ノ輩、大小名其数ヲ不知」(『源威集』)という。関白二條良基が美濃垂井で実見した武士は、先陣に「ゆふき、小田、佐竹なといふもの」「後陣には仁木兵部大輔、小山なといふ東国の武士」(『小島之寿佐美』)という。翌文和3(1354)年12月下旬の京都には「武田伊豆守信武」「佐竹右馬頭義篤于時侍所、同兄弟一族、結城中務大輔直光、常陸大掾入道浄永、那須備前守資藤、結城大内刑部大輔重朝」「小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政」「佐竹刑部大輔師義(『源威集』)、「今度自関東令同道武田薩摩守(武田公信)(文和二年十一月四日「足利義詮奉書」『後藤文書』)が見え、彼らはこのときの上洛に付き随ってきた人々であろう。ただし、関東の有勢としては、千葉介氏胤は関東に残されており、8月6日に「千葉、今日鎌倉入」(『鶴岡社務記録』)という。鎌倉には尊氏および基氏はすでに不在であり、千葉介氏胤は鎌倉の警衛を任されたとみられる。

 8月10日、朝廷は尊氏からの「将軍上洛必定之由」の飛脚が到来した(文和二年八月十日『園太暦』)。「中澤掃部允、自平塚為先陣著濃州、江州路猶不心安之間、■又留濃州、以使達武家」といい、さらに「土岐出羽前司頼雄、示大納言之旨云々、此上上洛必定條々勿論歟」という(文和二年八月十日『園太暦』)。12日には「将軍已到著遠州白須賀(湖西市白須賀)(文和二年八月十二日『園太暦』)という報告が届けられている(白須賀宿は10日辺りの宿陣であろう)。

 そして「八月の末、鎌倉の大納言、既に尾張に著ぬと奏をしかハ、同廿五日、小島の頓宮より垂井に行幸あり、そのありさま、非常の儀にて、腰輿にめさる、朝衣の人ハなくて、えひすころもとかやのすかた、めつらしき事也」(『小島之寿佐美』)と、8月25日に小島から「たるゐの頓宮」へ行幸した。「たるゐの頓宮」は「当国の守護頼康うけたまハりてつくりまうく、黒木の御所、小柴垣なとゆひわたして、かうかうしく廻立殿、大嘗宮なとの心地そをし」(『小島之寿佐美』)という見た目であった。急拵えのためか黒木造であり、9月10日の暴風雨(台風であろう)で「ふきまさる風たゝことならす、頓宮ハ黒木のはしらなれハつよからす、かくてわたらせ給ふへきならねは、民安寺といふ所へ臨幸あり」(『小島之寿佐美』)という。このことから、「たるゐの頓宮」は「民安寺」へ暴風雨の中で天皇自身が移ることができる至近距離であったことがわかる。近隣に国府があるが、堅固な国府よりも民安寺のほうへ移ったということは、「たるゐの頓宮」は民安寺の東側にあった可能性が高い。そして、「入御のほと、ものミるものとも、いつくよりかあつまりけむ、いとおほし」と、見物人も集まり来たという。

 8月26日夜、垂井御所の二條良基の耳に「あふみの凶徒はら、はちやとかや、このくにへうちいるへし」(『小島之寿佐美』)という風聞が入る。この情報に人々は慌て「ミやこのミちハ、このほとはやふたかりたると聞したに、こゝりほそかりしに、こよひハにかゝゝしくひしめきて、すてにはや近つきたるよし申のゝしり侍りしほとに、人々内裏へつとひまいる」(『小島之寿佐美』)と、都への道が封鎖されこののちどうすべきかと人々が垂井の内裏へ集まった。人々は「いかなるへきにかと、いと物さはかしくて、かくて世をやつくさむと心ほそさそいはむかたなき」(『小島之寿佐美』)という不安な夜を過ごすが、「されと暁かたに別の事侍らぬよし、人々申侍りしかは、夢のさめたる心地して、をのゝゝまかてぬ、馬ともよういし、臨幸をいつかたへかと申してさたありし、そのおりのさハき申ハかりなかりしなとそ、中々いまの思ひいてとも申侍りぬへき」(『小島之寿佐美』)という。

 なお、京都の公賢のもとには「廿四日」に「良兼法師」が訪れて語るには「将軍已参著濃州、還幸已前来廿七日可入洛」(文和二年八月廿四日『園太暦』)という。しかし、二條良基の日記を見る限り、尊氏は26日時点で垂井には到着しておらず、これは誤伝であった。その後、公賢のもとにも「将軍参著濃州者例浮説歟、在三州矢作之由或説」(文和二年八月廿四日『園太暦』)という情報が入っている。また、この日京都から「右中弁経方朝臣、参濃州」じた。これは「不参輩所領悉被収公之故」という理由であり、このため「人々多参」(文和二年八月廿五日『園太暦』)という。将軍上洛の報と同時期の人の動きであることから、垂井御所ではなく将軍足利尊氏からの命であろう。24日の時点ですでに「人々多参」とあるので、これ以前に在京の人々が美濃への道を下っていることから、尊氏が鎌倉を出立した直後の飛脚で伝えられたものとみられ、尊氏の存在の大きさがうかがわれる。

 また、この頃「中村備中権守親平」が「下総国臼井庄星名郷内神村之半分事」について「大矢孫三郎入道」による押領の停止を鎌倉に訴えている。具体的な日時は不明だが、中村親平は鎌倉詰の御家人か。鎌倉引付はこれを受理後、基氏のもとへ送達され、御教書(御教書は伝わらず)が鎌倉へ戻されたのだろう。8月28日、鎌倉政所執事の「前安芸守(二階堂成藤)」は、この御教書に基づいて御奉書を作成し、鎌倉駐在の氏胤に「不日莅彼所、沙汰付下地於親平、可執進請取状、使節緩怠者、可被処其咎之由、可被下知守護代」を命じた(文和二年八月廿八日「二階堂就藤奉書」『神田孝平氏旧蔵文書』)。氏胤はその後守護遵行状を「守護代」へ下し、この件を沙汰したと思われる。

 同年9月初旬ごろに出されたと思われる「太神宮領下総相馬御厨雑掌貞綱申、当御厨神税物等事」の訴えも、御教書を請けた鎌倉政所から「御奉書」が出されたとみられる。これに基づき、氏胤は9月29日に「御奉書案如此、早任被仰下之旨、可沙汰付所務於彼雑掌」を「円城寺駿河権守殿」に沙汰すべきことを命じているが(文和二年九月廿九日「千葉介氏胤遵行状写」『鏑矢文書』)、内容から円城寺駿河権守が守護代だったと思われる。

●文和2(1353)年9月29日『千葉介氏胤遵行状写』(『鏑矢文書』)

 太神宮領下総国相馬御厨雑掌貞綱申、当御厨神税物等事、御奉書案如此、
 早被仰下之旨、可沙汰付所務於彼雑掌之状如件
   文和二年九月廿九日      氏胤(判)
    円城寺駿河権守殿

 なお、この守護代「円城寺駿河権守殿」と同一人物とみられる「円城寺駿河守殿」は、翌文和3(1354)年6月15日、足利義詮から「於関東致忠節之由、被聞食了、殊以神妙、弥可抽戦功」と賞されている(文和三年六月十五日「足利義詮奉書」『下総円城寺文書』)。「弥可抽戦功」とあることから、翌年には、園城寺駿河権守は入間川陣所に出陣していたとみられる。

 11月21日、鎌倉の氏胤は「覚園寺雑掌申、造営料所上総国小蓋、八板事」につき、覚園寺の造営料所とされた「上総国小蓋、八板」「濫妨人等」の無法を停止させるよう命じられている(文和二年十一月廿一日「足利尊氏御教書移写」『相州文書所収覚園寺文書』「南北朝遺文」2516)

 文和3(1354)年2月5日、氏胤は尊氏から「地蔵院僧正房申、上総国市原八幡宮領市原庄事」につき「先別当明円致押領之由歎申」ことで「急速可被打渡」が命じられている(文和三年二月五日「足利尊氏御内書写」『東寺所蔵観智院金剛蔵聖教目録』)。氏胤は在鎌倉のため守護代円城寺駿河権守へ遵行を命じたと思われるが、遵行状は残っていない。また、同じ頃、鎌倉の「明王院別当法印仲尊」は「当寺領上総国周西郡寺家分下地打渡事」を訴えているが、何度か同様の訴えを起し、氏胤に御内書等で指示したにも拘らず、改善されていなかったようである。このため、5月21日、「先度被仰候処、不事行候」について「甚不可然、急厳密可致沙汰候」と厳命されている(文和三年五月廿一日「足利義詮御内書」『醍醐寺理性院文書』)。また、翌22日には将軍尊氏自らも「明王院別当法印仲尊申、当寺領上総国周西郡寺家分下地事」につき、「先度被仰了、厳密可有沙汰候」を命じている(文和三年五月廿二日「足利尊氏御内書」『醍醐寺理性院文書』)。また、11月24日には鎌倉政所執事の二階堂成藤は「春日社雑掌慶道申、上総国金田郷内万石、大崎村等正税事」の訴えについて、「所申無相違者、可究済、若又有子細者、可被弁申之旨、達正員可申左右」を「地頭代」に命じている(文和三年十一月廿四日「二階堂成藤奉書」『相模明王院文書』)

 しかし、文和4(1355)年5月8日、佐々木道誉が新たな上総守護職となった(文和四年五月八日「足利義詮御教書案」『周防佐々木文書』)。そして、同じ頃に道誉に両総分として「下総国印西庄、同国埴生庄、上総国伊北庄」の地頭職の下文が発給されたと思われる。

●文和4(1355)年5月8日『上総守護職補任状』

  上総国守護職事、如元所補任也者、早守先例可致沙汰之状如件、
    文和四年五月八日         御判(足利義詮)
    佐渡大夫判官入道殿(佐々木道誉)

●文和4(1355)年5月18日『足利尊氏書状』(『周防佐々木文書』)

 佐渡大夫判官入道導誉申、下総国印西庄、同国埴生庄、上総国伊北庄、
 上野国多胡庄地頭職等事
千葉介駿河守以下輩令押領云々、甚不可然、
 仮彼等雖帯下文、導誉先日拝領之上者、先可被沙汰付下地於彼代官、
 至替地者追可有計沙汰候也、謹言、
   五月十八日       尊氏(御判)
    左馬頭殿(足利基氏)

 道誉はこの下文を受けて、「下総国印西庄、同国埴生庄、上総国伊北庄、上野国多胡庄地頭職へ地頭代を派遣したのだろう。なお、佐々木道譽の上野国多胡庄地頭職補任は、文和2(1353)年12月17日に宰相中将義詮から上野国守護「宇都宮伊予守殿」へ「神保太郎左衛門尉、瀬下宮内左衛門尉、小串四郎左衛門尉以下輩」の「依致濫妨未事行」ていないことに「於下地者不日可沙汰付道譽代」ことを命じており、文和2年中であろう。多胡庄は文和3(1354)年6月7日に「左中将(足利義詮)」署判の綸旨で改めて安堵されており(文和三年六月七日「後光厳天皇綸旨」『周防佐々木文書』)

●文和三年六月七日「後光厳天皇綸旨」

相模国 豊田庄
上総国 武射北郷
下総国 大和田四郷
近江国 柏原庄
伊吹庄
上野国 多胡庄
下野国 足黒郷
越前国 足羽庄
伊予国 近井郷
殖生郷

 しかし、これらの土地は、おそらくは「千葉介駿河守」が過去に下文が下されており、彼らが代官を派遣して治めていたとみられる。「千葉介」は千葉介氏胤であるが、「駿河守」は上野守護宇都宮氏綱の家子で越後国守護代芳賀駿河守高家であろう。道誉の地頭代がこれらの所領に下向して入部を試みると、彼らは道譽代官を追い払ったのである。当然ながら道誉は「下総国印西庄、同国埴生庄、上総国伊北庄、上野国多胡庄地頭職事、千葉介駿河守以下輩令押領」の不法行為を訴えることとなるが(文和四年五月十八日「足利尊氏御教書」『周防佐々木文書』)、氏胤は正当な下文を楯に道譽の入部を拒んだのである。ただ、氏胤は上総国守護職の交代の報告には大きな不満を持っており、地頭代入部の拒絶と上総国守護交代への不満表明は全く別件なのである。

 佐々木道譽からの訴えを受けた尊氏は、5月18日に入間川御陣の「左馬頭殿(足利基氏)へ宛て、千葉介の所領押領は「甚不可然」とし、「仮彼等雖帯下文、道誉先日拝領之上者、先可被沙汰付下地於彼代官」と、氏胤らが「帯下文」していても、道譽の下文が優先されるとして、道誉の言い分を全面的に認めたのである。ただ、所領のダブルブッキングの手違いを認め、氏胤らへも「至替地者追可有計沙汰候也」ことを行うよう指示している。また、翌5月19日には「上総国守護職事、千葉介雖申所存、於向後者不可有口入之儀」と、上総守護職のことで千葉介氏胤が何を言おうが関係ないので、「早々下代官可致沙汰」と、道誉に代官を早々に派遣するよう命じた。

●文和4(1355)年5月19日『足利尊氏御内書案』(『周防佐々木文書』)

 上総国守護職事、千葉介雖申所存、於向後者不可有口入之儀、
 早々下代官可致沙汰、此由可被仰関東也
   卯月十九日        御判(足利尊氏)
    佐渡大夫判官入道殿

 しかしながら、上総国の地頭・御家人たちは佐々木道誉の言うことをまったく聞かなかったようで、道誉はまた幕府に泣きついた(文和四年十二月廿三日「足利義詮御教書案」『周防佐々木文書』)。この上総国の御家人たちの行動も千葉介氏胤からの指示のもとで動いていたと推測されるが、義詮は12月23日、佐々木道誉へ「上総国地頭御家人等事」として「背守護人催促云々、事実者招其咎歟、重相触之、若猶不承引者為処罪科、載起請之詞可被注申交名」(文和四年十二月廿三日「足利義詮御教書案」『周防佐々木文書』)という御教書を下した文和4(1355)年12月23日『将軍家御教書』。 

 これ以降、千葉介氏胤が康安2(1362)年の上総守護職再任までの間、佐々木道誉との争いは記録されていない。なお、「駿河守」こと円城寺駿河権守は、文和3(1354)年6月15日に足利義詮から「於関東致忠節之由、被聞食了、殊以神妙、弥可抽戦功」(文和三年六月十五日「足利義詮奉書」『下総円城寺文書』)と、守護氏胤の「所注進」なく直接賞されているが、おそらく彼は観応3(1352)年4月16日に足利尊氏から直接「今度重令当参鎌倉条、尤以神妙也」という感状を下されている「円城寺七郎殿」と同一人物と思われ(観応三年四月十六日「足利尊氏感状」『下総円城寺文書』「南北朝遺文」2251)、千葉介から独立した御家人となっていた可能性が高い。ただし、旧主である千葉家との関わりも解消されることなく、守護代として存在していたのではなかろうか。

 なお、鎌倉は尊氏が駐屯していた時と変らず奥州御家人の統括も行っており、文和3(1354)年7月15日に鎌倉へ参着した「陸奥国石河大炊余四郎光隆」が「所勤仕二階堂釘貫役所」ことの着到状を鎌倉侍所へ提出し、7月27日に侍所官吏とみられる「泰政、経道」両名が「自去十五日以来、役所勤仕無相違候」ことを認可し、光隆へ戻している(文和三年七月「石河光隆著到状」『赤坂光康家蔵文書』)。本来であれば光隆はもう少し早い時期の鎌倉参着が命じられていたが、同年5月23日に「於奥州安積郡佐々河城」で「塩田陸奥禅門子息陸奥六郎、同澁河七郎以下家人、土持二郎入道、同六郎左衛門入道等合戦」して、家人らの手負いや深手、自身も左胸を斬られながらの奮戦により延引した旨を報告している。光隆が戦った「塩田陸奥禅門子息陸奥六郎」は、先代北条一門の六波羅南方塩田陸奥守国時の子息と考えられる。系譜にみられる左近大夫将監藤時、右馬助俊時は「元弘三自害」(『正宗寺本諸家系図』乾)であり、建武2(1335)年8月14日に「中先代の乱」で陥落した鎌倉を奪還すべく京都から下向した尊氏が「駿河国府合戦」で生捕った「塩田陸奥八郎」の兄に当たる人物か。

尊氏上洛

 文和2(1353)年9月3日、「将軍垂井につく、そのありさま、めてたういミしかりしことなり」(『小島之寿佐美』)といい、その風体は非常に立派で頼もしく思われた。そして彼に続く軍勢も「まつ二三日ハ武士ともひますきまなく宿々につく」(『小島之寿佐美』)という程であった。こうしたことで二條良基も「よろついまそ心地ひろゝゝとおほえ侍」(『小島之寿佐美』)った。垂井宿に入った尊氏勢の先陣は「ゆふき、小田、佐竹なといふもの」が供奉。彼らは「水のたるようなるかふとのくわかた、さきにきらめきて、夕日にかゝやく、一日の祭なとのこゝちして、をのゝゝきらゝゝしくみえし」という姿であった。続いて「将軍の馬の先にハ命鶴丸心詞もをよはす出たつ、坂東第一ときこえしくろき馬にそのりたるそのありさま、見所おほし」と、饗庭命鶴丸が坂東第一と名高い黒毛に乗って尊氏の前駆し、将軍尊氏が続いた。尊氏は「大納言ハ錦のよろひひたゝれ、小具足にて栗毛なる馬に乗」っていた。そして尊氏の後陣は「仁木兵部大輔、小山なといふ東国の武士かすをつくしてのこるものなし」という。なお、尊氏の垂井宿到着は、二日後の9月5日に公賢に届けられており、「益守僧正来、依江州嗷々怖畏、自去比上洛、在仁和寺云々、招謁」していたとき「自石山飛脚到来」し、「将軍今月三日参垂井」(文和二年九月五日『園太暦』)とある。

 9月6日、「将軍已上洛之間、為迎」に「鎌倉宰相中将、今日進発向鏡宿」した(文和二年九月六日『園太暦』)。いったん「宰相中将逗留石山寺」して「勢多橋構渡之」(文和二年九月八日『園太暦』)し、8日に「勢多橋終功、宰相中将渡東了」(文和二年九月九日『園太暦』)して「可渡参濃州」(文和二年九月八日『園太暦』)している。9月10日には暴風雨(台風であろう)で「ふきまさる風たゝことならす、頓宮ハ黒木のはしらなれハつよからす、かくてわたらせ給ふへきならねは、民安寺といふ所へ臨幸あり」(『小島之寿佐美』)という。夜のうちに台風は通り過ぎたようで、翌11日の朝から頓宮の修理が行われ、天皇は還御した。ただ、台風一過とはならなかったようで、京都は「天陰雨下」(文和二年九月十一日『園太暦』)であった。

 9月12日、京都の朝廷は南朝方に与した「権中納言 正三位 藤実長」「参議 従三位 藤公冬」の職を停止。天皇に供奉して垂井に伺候している「前権中納言 正三位 藤良冬」を中納言に還任する。そして同日夕刻、義詮は垂井に到着した。「鎌倉宰相中将、垂井につくと聞えしかは、都のミちもあきて、めてたしともなのめならす」(『小島之寿佐美』)と、都に帰る道が通じたことが確認できたことで、二條良基らの人々の喜びは大変なものであった。そして義詮は「たるゐの頓宮」に「及深更参内」している(文和二年九月十九日『園太暦』)

 その後、尊氏は「いさゝか違例のこと」があったため後光厳天皇の京都還幸は延引となり、17日に改めて垂井を出立した。「松殿中納言忠つき(松殿忠嗣)、四條中納言隆もち(四條隆持)、左衛門督実とし(西園寺実俊)、仲房朝臣(万里小路仲房)」「隆右朝臣(四條隆右)」「権大納言(三条実継)、今出川宰相中将(今出川公直)」「二條中納言(二條良冬)」「雅朝(室町雅朝)」「実時(徳大寺実時)」「隆さと(四条隆郷)」「隆家朝臣(四条隆家)」らが供奉した(『小島之寿佐美』)

 近江国の大覚寺(現在地不明だが醒井宿辺りか)に逗留。翌18日は雨のため延引となる予定であったが、すでに宰相中将義詮が進発していたため雨の中を進むことになった。そしてその夜は敏満寺(犬上郡多賀町敏満寺)に宿す。このときの供奉人と大覚寺宿坊は以下の通り。

●文和二年九月十七日(『敏満寺文和臨幸記』『園太暦』)

    官途 大覚寺宿坊
公卿 従一位 関白 二條良基  
正二位 右大臣 近衞道嗣  
  権大納言 洞院実夏  
従二位 権大納言 三条実継 極楽院
従二位 前中納言(9月12日還任) 二條良冬  
正三位 中納言 松殿忠嗣 恵定房
正三位 権中納言 四條隆持 蓮大房
正三位 左衛門督(8月6日任) 西園寺実俊 竹林院
従三位 参議/左近衛中将 今出川公直  
正三位 非参議 四條房衡  
従三位 非参議 四條隆宗  
  左近衛中将 徳大寺実時  
正四位上 参議/左大弁 万里小路仲房 金剛院
殿上人 正四位下 蔵人頭/大蔵卿 勘解由小路兼綱  
正四位上 蔵人頭/右大弁 坊城俊冬 光明院
  右近衛中将 室町雅朝  
正四位下 前神祇伯 白川資英  
  前刑部卿/前左兵衛佐 六條重顕 恵定房
従四位下 右兵衛督 冷泉為秀  
従四位下 文章博士 藤原行光 竹林院
従四位上 少納言 東坊城長綱 恵定房
従四位下 右衛門佐 平惟清 蓮大房
従四位下 左近衛少将 綾小路成賢  
従四位上 右近衛少将 難波宗秀  
従五位下 右近衛少将 難波宗成  
正四位下 左近衛少将 四條隆右 静観房
  左近衛少将 二條雅冬  
  少将 鷹司忠頼  
  少将 月輪家尹  
従五位上 左近衛少将 橋本実澄 竹林院
  少将 三条公野  
  少将 山科教兼  
  少将 持明院盛雅  
  右近衛少将/左少弁 日野時光  
  少将 四条隆郷  
  少将 四条隆有  
  少将 四条隆家  
  右中弁 勧修寺経冬 西福院
  右中弁(供奉内侍所) 経方  
正四位下 蔵人/兵部少輔 平信兼  
  蔵人/検非違使判官 源頼詮  
  前右衛門佐 安居院行知  
  神祇伯 白川業信  
  侍従 松殿冬頼  
  侍従 綾小路資熈 蓮大房
  侍従 高倉範資 蓮大房
  侍従 高倉範蔭 蓮大房
  侍従 飛鳥井雅輔  
  侍従 三条公兼  
正五位下 左近衛権少将 清水谷公広  
正四位下 治部少輔 日野信家  
六位 蔵人/縫殿助 橘以清  
  蔵人/左衛門 藤原永季  
医師   宮内大輔 匡成  
官人   検非違使判官 勢多中原章頼 戒上房
  衛門志 姉小路坂上明方  
    堀川大石親弘  
    姉小路中原章連  
僧侶   東寺一長者(内々参仕) 三宝院賢俊 宝蔵院

 翌19日は「むさてら(近江八幡市武佐町)(『小島之寿佐美』)を経由して石山寺に入った。そして、公賢は20日に入洛と「芝禅尼」からの使者を通じて知らされている(文和二年九月十八日『園太暦』)。それによれば、還幸に際しては「直可幸土御門殿之由」の予定という。ただし、20日は「公家御衰日」のため、石山寺へ逗留し、21日の入洛と治定する(文和二年九月十九日『園太暦』)

 9月21日、「主上自石山寺、可有還幸土御門殿云々」する。天皇の腰輿の左右には「近衞司との」の「雅朝(右近衛中将)、実時(左近衛中将)、隆さと(四条隆郷)」が護衛し、先陣には「義詮朝臣、小具足にて」従い、尊氏は後陣で供奉した。その勢は「軍兵二三万騎もありつらむ」というほどの大軍(文和二年九月廿一日『園太暦』)であり、「二日はかりハ、つゝきたるとそ聞こえし」という。また、還幸の土御門御所については「彼御所、去六月出御以後破壊、如御簾舗設皆以散失、仍此間刑部卿知任朝臣奉之、致其沙汰了」(文和二年九月廿一日『園太暦』)という。その後、尊氏・義詮は鴨川を渡って京都を離れ、通例の如く「直坐常在光院給」し、義詮は「住東山道誉館給」ている。ただこのとき、足利家政所執事の「二階堂信濃入道行珍」が「将軍上洛之時、相伴而落馬」するという事件があった。このとき行珍は六十歳を越えていたとみられるが、「其後無殊事候」と特に心配される様子はなかったようである。

 9月25日、尊氏、義詮のもとにも知らせが行ったと思われるが、先日21日に落馬した「二階堂信濃入道行珍」が急死した(文和二年九月廿六日『園太暦』)。落馬直後はとくに心配されるようなことはなかったようであるが、「俄及大事」であった。公賢は「近代武家輩内、聊弁物宜者也、且元弘比、被召仕公家如存旧好、而又夭亡不便也」(文和二年九月廿六日『園太暦』)と、かつて陸奥国府の国政を支え、陸奥守顕家の式評定衆としても働いた老練な行政者の死を惜しんだ。

 後光厳天皇を土御門御所へ還御させた上、将軍尊氏と宰相中将義詮が並び入った京都は、すでに南朝の付け入る隙は無く、武家政権による盤石の支配体制に入ったかのように見えた。9月23日には南朝方の旧西園寺家当主であった「竹林院前内府(竹林院公重)」が「計略述尽、竹林院舎屋大略放券、被没落辺土、在所隠密無存知者、但武家輩少々有存知之仁歟、是不参南山之条、為証明被仰置」といい、万策尽きた公重自ら館を売り払って姿を消している。なお、「竹林院前内府所領以下事」は11月30日、後光厳天皇の綸旨を以て「左衛門督殿(西園寺実俊)」に「令管領」という(文和二年十一月三十日「後光厳天皇綸旨」『西園寺文書』)

 ところが、9月25日に公賢邸を訪れた権少外記中原康隆が語るには「関東宮方軍勢乱入、已及合戦之由注進武家」(文和二年九月廿五日『園太暦』)という。さらに9月30日には「西国以外蜂起、直冬給南方綸旨、奉惣追捕使事、又諸国守護已下事、任承久已前例可執行之勅許云々、又東国同蜂起、世上猶定難落去歟」(文和二年九月卅日『園太暦』)という情報も伝わっている。南朝は直冬を「惣追捕使」に任じ、武家政権による西国守護職任命を認めないとしたのだった。南朝方は早くも大きな流れを作り出していた。

 10月15日には淡路国賀集庄丹山に「御敵法性寺中将、高倉左衛門佐、新田江一族、土岐原一族、阿波小笠原一族、宇都宮越中守、赤松次郎左衛門尉、阿万六郎左衛門尉以下凶徒」らが兵を挙げている(文和二年十月「船越定春軍忠状」『古文書』)。守護細川氏春の手勢がこれを攻め、10月17日「於上田保円鏡寺原合戦」で合戦となっている。なお、南朝方大将軍の一人「法性寺中将」は法性寺左中将康長(『尊卑分脈』)で、関白師通の末である。

 10月下旬から11月初頭には、武家方の越後守護職宇都宮伊予守氏綱のもと、大将軍中条土佐守茂資が進発して、越後国に籠る南朝方の「一品宮(宗良親王)」以下の追捕を行っている。11月5日には「三浦和田三郎左衛門尉義成」「三浦和田余三景茂」らが「小国城御敵出張」したため「新堀宿」で合戦し、さらに追撃して翌6日には「古志郡乙面陣」に馳せつけた。そして8日夜、合戦で敗れた南朝方の「一品宮、新田武州、脇谷金吾以下没落候了」(文和二年十一月十八日「羽黒義成軍忠状」『三浦和田羽黒文書』「南北朝遺文」2515)という。また、この「越後国凶徒一品宮以下対治」の合戦では「村山熊王殿」の「親父討死」しており、「伊与守(宇都宮氏綱)」が「村山熊王殿」へ「可有其賞」を伝えている(文和二年十二月九日「宇都宮氏綱奉書」『出羽村山文書』「南北朝遺文」2518)。四国においても南朝方の動きが活発化し、伊予国喜多郡の地頭であった「宇都宮遠江入道蓮智(宇都宮貞泰)」が伝えるには、「堺右衛門太郎入道、同孫四郎、重松弥八、太田庄司、仙波又太郎已下凶徒直冬家人石堂左衛門蔵人、新開左衛門尉等」が伊予国喜多郡に乱入して城郭を築いたといい、義詮が「守護人(河野通盛)」に「相催国中勢可退治之旨」が命じられている(文和三年二月二日「足利義詮御教書」『尊経閣古文書纂編年文書』)。このように、南朝方の勢力のみならず南朝方に下った左兵衛佐直冬勢も加わり、西国から不穏な動きがみられるようになった。

 翌文和3(1354)年に入ると、九州や四国からの南朝勢力活発化の注進状が京都に齎されるようになったようで、尊氏は2月6日、「島津上総入道殿(島津貞久)」「島津三郎左衛門尉殿(島津氏久)」へ「中国并鎮西討手事」を命じ(文和三年二月六日「足利尊氏書状」『薩藩旧記』)、貞久入道には「相催一族并分国軍勢等致用意」を指示している(文和三年二月十二日「足利尊氏書状」『薩藩旧記』)

 3月22日には「持明院殿三院、当寺天野寺御幸御所観蔵院(正平九年三月廿二日『弁論第十愚草』)と、光厳院、光明院、崇光院の三院は、賀名生御所から金剛寺観蔵院へ行幸した。北朝方ではすでに後光厳天皇が安定した主上となり、広義門院が治天として治める体制が確立されつつあり、南朝方が幽閉する三院の利用価値は皆無となったための解放とみられる。さらに、三院を開放することで持明院統の混乱を狙った可能性もあろう。

 5月20日、「評定衆列執権之上例」として義詮自ら記した記録に「評定始又三方内談始」(文和三年五月廿日『御評定著座次第』)を行ったことが記された。この評定は義詮自ら「為中国凶徒退治、既所発向」(文和三年七月廿八日「足利義詮書状」『薩藩旧記』)する以前に行う必要があったために開かれたものであった。なお、進発は5月28日予定であったようだが、延引されている。これらは義詮が出席していることから義詮亭で執り行われたとみられる。義詮は西国における南朝方の「惣追捕使」左兵衛佐直冬の攻勢に危機感を抱いていたのである。

●文和三年五月廿日三方内談始

  人名
三方内談方
(頭人か)
石橋左衛門入道心克 仁木左京大夫頼章
佐渡判官入道々譽 土岐大膳大夫頼康
二階堂大蔵少輔政元 問注所美作守顕行
披露奉行 杉原左近大夫  

 「御所(足利直冬)」は5月21日に「御上洛」のために石見国を発った。これは、後村上天皇の京都再征の命に応じたものであった。この直冬東征を受けて、5月27日には石見守護の「荒川参河三郎(荒川頼直)」や「小笠原左近将監以下」が「構城郭於温泉郷之切所、差塞御路」(正平九年六月「吉河経兼軍忠状」『吉川家什書』)したが、直冬勢は戦わずして突破を試みた。この直冬勢の後陣に「吉河次郎三郎経兼」が参陣し、「御敵競来之間、於在々所々、終日致合戦畢、今度温泉郷切所」して直冬勢らは「無為御通」している(正平九年六月「吉河経兼軍忠状」『吉川家什書』)。さらに直冬は日本海岸沿いを出雲国へ向かっており、22日には直冬近臣「前伊予守」(正平九年五月廿二日「足利直冬御教書」『諸家文書纂』)が出雲国三刀屋郷の「須和部三郎入道殿」に軍勢催促を命じているが、同日「沙弥実照」も「石州御迎事、来廿六日必定候、被相触于一族、可令参給由候也」(正平九年五月廿二日「沙弥実照書状」『諸家文書纂』)ことを「須和部三郎入道殿」に伝えている。「沙弥実照」がいかなる人物かはわからないが、こちらも直冬の側近と思われる。しかし、6月1日には「右衛門佐(山名師義)」が「須方部三郎左衛門入道殿」に「相催一族同心之輩、馳参御方、可被抽戦功」(正平九年六月一日「山名師義書状」『三刀屋文書』)の書状を送っており、出雲国三刀屋郷の諏方部助重は直冬に応じていなかった様子がうかがえる。

 ただ、直冬は6月16日に巻数奉行「修理亮(土与田修理亮)」を通じて出雲国の大寺「鰐淵寺」から「御祈祷巻数一枝令入見参候了」ことを伝えており(正平九年六月十六日「足利直冬御教書」『鰐淵寺文書』)、出雲国に入っていたと思われる。直冬の東征の報告と時を合わせたとみられるが、後村上天皇は9月18日、上卿を「日野中納言」に「蔵人頭刑部卿藤原宗教」をして、伯耆国の「修理亮源義氏(名和義氏)」に「宣任安芸権守」の宣旨を下している(正平九年六月十八日「後村上天皇宣旨」『名和文書』)。直冬東征への補完であろう。その後、直冬は「今河刑部大輔直貞」を「出雲国野老原凶徒退治」に差し遣わしており、7月19日、「須和部四郎五郎殿(諏方部来行)」にも速やかに出陣するよう命じた(正平九年七月十九日「足利直冬軍勢催促状」『三刀屋文書』)。この直冬の東征は、「吉河次郎三郎殿(吉川経兼)」に「上洛事、可為来十四日、急速可馳参」ことを命じていることや(正平九年九月二日「足利直冬軍勢催促状」『吉川家什書』)、但馬国養父郡小佐郷地頭の「伊達三郎蔵人殿(伊達義綱)」の軍功について「恩賞事、上洛之時可有沙汰」ことを伝えている(正平九年九月五日「足利直冬御教書」『伊達文書』)ことからも、9月14日の上洛を目指したものであったことがわかる。ただ、この計画は日数から考えても不可能であり、「上洛事、来月(十一月)九日、必定可罷立候」(正平九年十月廿六日「山名時氏書状」『伊達文書』)と変更されている。

 なお、但馬国には「丹州御敵石塔右馬頭」(文和四年四月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)、「右馬頭」こと南朝吉野方の石塔右馬頭頼房が在陣しており、「伊達三郎蔵人殿」に「丹州発向事、可被致用意由、先度相触了」ている(正平九年十月十一日「石塔頼房軍勢催促状」『伊達文書』)。この頃「中国勢、今日所著当国九日市辺」にあり、石塔頼房は伊達義綱に「明後日十三日、可被馳寄宿南陣」(正平九年十月十一日「石塔頼房軍勢催促状」『伊達文書』)を指示している。「中国勢」は書状の記述形式から直冬勢ではなく、山名時氏とみられ、10月26日「時氏」は「伊達孫三郎入道殿(伊達貞綱入道)」に「於馬州被致忠節候之條、殊以目出悦入候」(正平九年十月廿六日「山名時氏書状」『伊達文書』)という。ただし、「伊達孫三郎入道殿」は時氏に応じたものの上洛に関しては明確な態度を示しておらず、時氏は上洛に「御同道候者喜入候」と伝えている。

 後村上天皇の上洛計画は中国地方ばかりではなく、越後の一品宗良親王にも伝えられたとみられ、9月中旬に越後国で「一品親王、千種相掌家、新田武衛、脇谷金吾并魚沼一族等」が挙兵し、武家方の「宇加地城」を攻めた(文和三年十月五日「三浦和田景茂軍忠状」『三浦和田文書』)。この攻勢に9月20日、「三浦和田土佐守(中条茂資)」が一族の「三浦和田三郎左衛門尉代子息余三景茂」らを率いてこれに当たっている。

 この直冬勢の攻勢に、義詮は8月28日に自ら出陣することとし、8月20日に「細川讃岐十郎殿(細川頼有)」に馳せ参じることを命じている(文和三年八月廿日『永源師壇紀年録』)。ただ実際の出陣は10月16日で、「相公羽林、発于中国」(文和三年十月十六日『建武三年以来記』)した。これは「従中国只直冬兵衛佐殿、従山陰道山名伊豆守已下責登由聞」えたためで、「為誅伐義詮御発向、東寺ニ御首途佐々木道譽、赤松則祐其外大勢供奉播州ニ御座」(『源威集』)という。義詮は10月中には「御所御在国(播磨国)」し「弘山御陣(たつの市誉田町広山)(文和四年四月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)ており、馳せ参じた安積出羽入道盛阿の子息平次盛兼は、11月27日、但馬国「大屋庄(養父市大屋町)楯籠」っている「石堂右馬頭手者湯浅次郎左衛門尉、同弾正以下凶徒等」を攻め、翌28日に攻め落としている。

 一方、10月28日には後村上天皇が河内国の金剛寺(河内長野市天野町)に行幸。「至于同十三年六月」まで行宮としている(『薄草子口決』)。なお、この行幸には持明院統の光厳院、光明院、崇光院も同道されており、洞院公賢は閏10月29日、「仙洞還御之由承及候、天下大慶殊以目出悦相存候」(文和三年閏十月廿九日『園太暦』)と記している。

 11月18日、左兵衛佐直冬は「新興寺別当」に祈祷を命じており(正平九年十一月十八日「足利直冬御教書案」『新興寺文書』)、この頃には直冬勢は因幡国中部域にあり、伊豆前司時氏の協力があったのだろう。中国地方は、南朝方の惣追捕使左兵衛佐直冬を筆頭に山名伊豆前司時氏、石塔右馬頭頼房らが京都への道を粛々と進んでいたのである。

 そして12月24日、「天下擾乱」し、後光厳天皇は「遷幸江州」した(『敦有卿記』文和三年十二月廿四日条)。「主上并将軍父子以下引退京都、被下向江州、依直冬朝臣、桃井播州等上洛也、洛中無主送数日了」(『柳原家記録』文和三年十二月廿四日条)という。後光厳天皇と尊氏、義詮らは「臨幸江州武佐行宮(近江八幡市武佐)(『皇代記』)し、「卿上雲客江州下向、侍所賜錦御幡先陣」(『神護寺交衆任日次第』)という。このときの「臨幸奉行」は「武田伊豆守信武」が相務め(『源威集』)、御輿の前後を守護した。将軍尊氏の馬廻には「佐竹右馬頭義篤于時侍所、同兄弟一族、結城中務大輔直光、常陸大掾入道浄永、那須備前守資藤、結城大内刑部大輔重朝等御勢千騎計カ、後陣小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武将瀬田ニ著賜ヒシカハ、御輿ハ川ヲ越テ向ノ岸ニ御座之時分、佐々木五郎左衛門尉六角判官入道弟、号山内、土岐大膳大夫頼泰、御迎ニ参ス」(『源威集』)という。 

 なお、「桃井自北国攻上之故也」(『建武三年以来記』文和三年十二月廿四日条)と、桃井播磨守直常は直冬勢と同道したわけではなく、北陸路から攻め寄せたようである。彼らは綿密に連絡を取り合い、京攻めの日にちを決定していた様子がうかがえる。ただし、12月の時点では「兵衛介殿入洛之由風聞之間、将軍近江武者寺御退」(『大福寺文書』)とあるように、直冬入洛の風聞のみであった。尊氏らは後光厳天皇の奪取を避けるとともに、「北国凶徒蜂起之間、已所発向近江」(文和三年十二月廿七日「足利尊氏御教書」『奈良文書』)という大義を以て近江国へ向かったのである。なお、この際には宰相中将義詮を「中国、北国之凶徒ヲ京中ニ入テ、従西路下御所■四国細川ノ人々、佐々木道誉、則祐等、其外南海之軍勢ヲ為先、従山崎西山ヲ嶺々御陣ヲメサルヘシ、東国大名海道美濃近江土岐佐々木ヲ相従テ、従東西可被責トテ下御所播州ニ御座」という、直冬勢をわざと京都に誘いこんだ上で、東西から挟撃して殲滅する計略を同時に行う謀でもあった(『源威集』)

 そして、後光厳天皇を武者寺(長光寺)へ遷すと、早くも翌文和4(1355)年正月20日に尊氏らは「武者寺於御立」(文和四年三月「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)して京都へ向けて転身。「正月廿一日渡勢多橋」(文和四年三月「二宮円阿軍忠状」『前田家所蔵文書』)、「同廿一日松本御付」(文和四年三月「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)し、翌「同廿二日参坂本御陣」(文和四年三月「二宮円阿軍忠状」『前田家所蔵文書』)した。

 その後、尊氏勢は山科を経由せず「廿九日御登山」と、比叡山を経由して京都へ向かっており、2月3日に「西坂本御陣」した。一方、南朝惣追捕使直冬は「正月末ニ、介殿入洛」して東寺に宿陣している。このとき「直冬并時氏以下逆徒等、楯籠東寺」(文和四年二月十九日「足利尊氏御教書」『碩田叢史』)と見えることから、直冬は山名時氏と同道して東寺に入り京都を窺っていることがわかる。なお、このころ時氏は南朝より「左京大夫」に補されている(正平十年五月二日「足利直冬御教書」『岡本貞烋氏所蔵文書』)

 そして、直冬勢と尊氏勢は2月8日に初めて干戈を交える(文和四年三月「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)。戦場は不明だが、尊氏勢が追い散らしたとみられ、尊氏勢はそのまま南下して、翌2月9日に八坂神社から清閑寺にかけての山裾「鷲尾清水坂御陣」(文和四年三月「二宮円阿軍忠状」『前田家所蔵文書』)し、尊氏は清水坂を眼下に望む「清水将軍塚エ御詰」(『大福寺文書』)たのち、13日には「従霊山、清水坂十住心院之桟敷へ移御座」(『源威集』)している。その後、両軍大将である惣追捕使直冬と将軍尊氏は「三月初マテハ介殿東寺御座、将軍清水ニ御座之由」(『大福寺文書』)をそれぞれ本陣として牽制しあっていたのである。

 一方、正月24日、播磨守護律師則祐は「摂州宿河原御陣」にあり、「宰相中将殿、摂津国ニ御座」(『大福寺文書』)とともに攻め上り、2月6日には「山崎合戦」(文和四年二月廿一日「足利義詮御教書」『草野文書』)、「掌内上山御合戦」(文和四年四月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)があった。相手は不明だが、石塔右馬頭頼房か。翌2月7日には「於山崎財寺上御陣」しており(文和四年四月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)、山崎合戦で南朝直冬方の軍勢を打ち破ったとみられる。

 2月12日、「東寺武士数百騎押寄地蔵堂」(『建武三年以来記』)しているが、文書などが奪われなかったのは幸運だったと住僧が述べており、直冬勢は物資や米などを奪っていったのだろう。翌2月13日には尊氏方の備後国守護の岩松禅師頼宥率いる備後勢が丹波路を抑える「於西山峯堂御陣(西京区御陵峰ケ堂)(文和四年三月「山内松若丸代景山時朝軍忠状」『山内首藤文書』)に到着しており、京都を殲滅する包囲網は着々と作られていた。

  2月15日にも「東寺ノ敵打出平半條里小路ヲ一手令出」(『源威集』)し、尊氏勢と交戦している(文和四年三月「田代顕綱軍忠状」『田代文書』)。この戦いでは「小田、佐竹勢ハ樋口京極国府社前、細川相州六條室町、土岐勢者七條坊門、仁木子七郎各々専功ヲ励シ、終ニ敵河原ヱ不出、大勢討捕」(『源威集』)という。ただし、「勝軍成シカトモ手負打死多カリ」という足利方にも被害の多い戦いだったようである。ここに「関東従左馬頭殿」からの援兵として「畠山尾張守義深、舎弟式部大夫義熙為戦将、平一揆ニハ高坂、江戸、古屋、土肥、土屋、白旗一揆ハ兒玉、猪俣、村(山)ノ輩ヲ分進ル、京著三千余騎」が上洛して法勝寺前に布陣したという(『源威集』)。また、「西路ノ御勢ハ、従山崎、良峰、延朗寺、小原野、老山峯続キニ御陳ヲメサル」(『源威集』)といい、「近日東西同時ニ責寄、東寺ニ近陣可被取トコソ定リシ」(『源威集』)という。なお、このような戦いの最中ではあるが、2月18日、尊氏は「令入清閑寺風呂給」い(『賢俊僧正日記』文和四年二月十九日条)、清閑寺住持とみられる増益と歌を詠み交わしている。

 2月27日、義詮は「為合戦出嵯峨辺」(『園太暦』文和四年二月廿七日条)たという風聞があり、翌28日、「義詮朝臣到著西山法花山寺辺、静為取陣所相計」(『園太暦』文和四年二月廿八日条)という。具体的には「浄土院西山内」(文和四年九月「東寺雑掌光信書状」『東寺百合文書』)であった。この西山には13日に備後守護岩松禅師頼宥が布陣しており、彼らと合流したものか。

 その後、尊氏は3月8日に「細川相州之陳」(『源威集』)である「今比叡御陣」(文和四年三月「二宮円阿軍忠状」『前田家所蔵文書』)に入り、直冬勢はこの日も戦闘を挑んでいる。宰相中将義詮の一手は「桂川ヲ越、四條六條ニ責入、、従太宮西ニ陳ヲ取」った(『源威集』)。尊氏勢の「武田陸奥守信武、将命ヲ請テ甲斐国一揆等相従テ阿弥陀峰ニ陳ス、細川相州打立、七條東洞院赤松宿所ニ走入、矢倉ヲ揚ケ、壁ヲ塗リ、仁木越州小山一手ニ成テ、六條西洞院長講堂之前、土岐勢従鹽小路八條東洞院救済院迄、各々矢倉ヲ揚壁鹿垣ヲ堅ス」(『源威集』)という。この戦いでも直冬勢は敗れたとみられ、洛中へ追い込められた直冬勢は、3月12日に「七條東洞院御陣」(文和四年三月「烟田時幹軍忠状」『烟田文書』)で「夜々合戦」し、さらに「京都御合戦、於七條西洞院」(文和四年三月「二宮円阿軍忠状」『前田家所蔵文書』)で細川相模守清氏らの攻勢の前に「追落戒光寺之城」(文和四年三月「烟田時幹軍忠状」『烟田文書』)されて「御敵没落」。翌3月13日に直冬は「東寺御敵没落」(文和四年四月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)と東寺から「赤井河原御坂」(文和四年三月「烟田時幹軍忠状」『烟田文書』)で及び淀方面へ退くも「淀致数刻合戦」が行われ、摂津国に展開していた宰相中将義詮、律師則祐、岩松禅師頼宥らに追撃されたようである。「今暁寅刻許没落歟云々、将軍即入東寺検知、且昨日分取頸実検、頗及百許、但無姓名分明者歟」(『園太暦』文和四年三月十三日条)といい、尊氏は東山より東寺に移り、戦後処理を行っている。

 3月18日には安積平次盛兼らが「山崎警固、即御下向御共仕」っている(文和四年四月「安積盛兼軍忠状」『安積文書』)。南朝方の京都占拠の計画は三度目もまた失敗に終わった。「直冬朝臣没落西国了」(『柳原家記録』文和四年二月十二日条)とあり、西国へと逃れていったとみられる。

 なお、この惣追捕使直冬の上洛戦に呼応する形で、2月21日に甲斐国の「国中御敵等令乱入」(文和二年二月廿五日「武田信春寄進状」『大善寺文書』)といい、「武田修理亮信春、取柏尾山(甲州市勝沼町勝沼柏尾)於陣、為凶徒等対治」している。3月4日には越後国でも「御敵上椙武庫(上杉憲将)、宇佐美一族已下」が「於佐美庄顕法寺城(上越市吉川区顕法寺字京野)揚旗」(文和四年四月「村山隆直軍忠状」『村山文書』)しており、尊氏方の「風間右京亮長頼」らがこれを攻め落とし、柿崎城に逃れた南朝勢をさらに攻めて4月14日に降伏させている。なお、上杉兵庫助憲将はおそらく柿崎城へは向かわずに信濃へ逃げており、「禰津孫次郎以下凶徒」と合流して、4月16日「小笠原兵庫助(小笠原長基)」と合戦している(文和四年五月廿六日「足利義詮感状」『勝山小笠原古文書』)

 このような中、尊氏の鎮西行に従って九州に赴き、その後は観応の擾乱以来十年の長きにわたって、直義・直冬党として南九州一帯を戦った「畠山修理亮(畠山直顕)」が4月25日、「致忠節之由」の注進状を尊氏へ送って降伏の意図を示した。尊氏もこれを容れて「其堺事、相談一色入道々猷、向後可励戦功」の指示を送っている(文和四年九月廿五日「足利尊氏御教書」『薩藩旧記』)。4月の降伏の一報後、6月頃に直顕は直冬に属して島津氏久らと合戦するなど、抵抗する姿勢を見せており、7月9日には尊氏は「畠山修理亮直顕事、亦与同凶賊云々、事実者、就令現形、相談合力仁等、不日可退治」(文和四年七月九日「足利尊氏御教書」『薩藩旧記』)と「一色入道殿(一色範氏入道)」に命じている。

 5月22日、公賢のもとに「右府(近衞道嗣)、被消息改元事、勅問」ことが伝えられた(『園太暦』文和四年五月廿二日条)。公賢は「抑改元事勅問候、両度遷幸不快上候、可有改元哉否、就其可有改元者、万機旬以前改元可為何様候哉、先被行万機旬後可有改元歟、可計申」と述べ、「改元ハ尤可然候哉」と結論付ける(『園太暦』文和四年五月廿二日条)。この答申をもとに改元が決定され、5月24日、頭弁俊冬が前関白一條経通亭を訪れて「依兵革濃州江州臨幸及度々、尤可有改元非尋常儀、急速被行旬儀之後、須有沙汰」という勅諚を伝えている(『玉英記抄』文和四年五月廿四日条j)

 こうした中で6月16日には「彼是云、南方軍旅大略没落歟」(『園太暦』文和四年六月十六日条)とあり、「越前守護修理大夫高経、帰本国、一昨日先京上御霊会見物下向云々、虚実不知、其外輩桃井又下向之由風聞、或又高経外不散云々、所詮彼党類無ヽ縁之心之條勿論歟」と、足利高経、桃井直常ら吉野南朝方の人々が去ったことがうかがえる。直冬と同調した高経の動向は不明だが、6月4日早朝の時点で「民部少輔越前守護」が三宝院賢俊を訪れており、高経の嫡子・民部少輔氏経は高経と袂を分かち、越前守護と定められている。このことから、南朝方の越前守護高経と武家方の越前守護氏経が父子で対立した構図がうかがえる。

 そして8月8日、洞院公賢は「法皇自天野殿(金剛寺)出御、是僧躰黒衣御事也」(『園太暦』文和四年八月八日条)ことを耳にしている。南朝方としては北朝持明院統の皇統を手元に置く必要性がまったくなくなってしまった現状にあって、京都還御を聴したものであろう。8月11日、公賢は「抑新法皇出御事、賀申広義門院」(『園太暦』文和四年八月十一日条)と、光明法皇の生母広義門院に金剛寺からの出御の賀を伝えている。

 8月17日に公賢の耳に入った情報では信濃国で「妙法院宮為大将軍被合戦、周防祝上下并仁科合力以外也、仍国中騒動、不及国役沙汰、其趣付奉行職事申入之旨語之」(『園太暦』文和四年八月十七日条)という。関東を遁れて越後国で新田一族とともに活動していた「妙法院宮(宗良親王)」が信濃国へ移って活動していることがわかる。上杉兵庫助憲将も4月に越後から信濃に移って守護小笠原長基の軍勢と合戦しているが、こちらは禰津氏と合流しており東信濃での活動だろう。宗良親王は「周防祝上下」と結んでの挙兵であることから、諏訪周辺での戦いとみられる。

 このときの「諏訪祝」は「矢島左衛門尉五位大夫正忠」で、「府中ヘ発向、一族矢島志真野美作守満綱、矢島大井山城守光政、矢島栗林讃岐守政頼、矢島小野勘兵衛尉助成、矢島桑原伯耆守友幸、矢島今田南枝軒入道、矢島佐久栄春入道、矢島神次郎維正、三輪知家、栗田寛範入道、越後守為賢、藤森次郎入道貞景、其他ニ小村、藤澤、千野、香坂、知久、平栗、早村、武居、上原、金子等之衆、自諏訪打出」(『矢島文書』)て、府中勢の「小笠原信濃守長亮、坂西、麻生、麻澤、山家、平瀬、古野、新井、赤澤等」(『矢島文書』)と桔梗原で対陣。8月20日に「大合戦、敵身方手負死人数多、左衛門尉為流矢被遂討死候畢」(『矢島文書』)と、諏訪祝矢島左衛門尉神正忠の討死が伝えられている。

 延文2(1357)年10月24日に下総国守護「平千葉介氏胤)」は、香取大禰宜へ香取社の仮殿の上棟以後、作事が行われていないことを聞いてはなはだしかるべからずと怒り、諸神官を差し遣わして、中村入道聖阿ともども譴責する旨を記した『千葉介氏胤奉書』を発給している。 

●延文2(1357)年10月24日『千葉介氏胤奉書』(『香取文書』所収)

 造 香取社仮殿事、上棟以後、更未作之由、有其聞之間、度々催促之處、
 于今不事行云々、太不可然、所詮任先規、差遣諸神官於彼役所大戸神崎両庄、
 中村入道相共、可致譴責之状如件、
   延文二年十月廿四日     (花押)
    大禰宜殿

 氏胤の上総守護解任に対する抵抗はかなり執拗であったようで、康安2(1362)年に氏胤は上総守護職に復職した。同年4月25日、関東執事・高散位師有より「上総国二宮庄内庄吉郷細河相模守跡「御愛局代」に沙汰付ける施行状を受けている(『円覚寺帰源院文書』)。この「二宮庄内庄吉郷」は同年の貞治元(1362)年12月22日、足利基氏によって御愛局(基氏妻カ)の追善のために円覚寺舎利殿に寄進されている(『円覚寺文書』)

浄光明寺
鎌倉扇谷の浄光明寺山門

 しかし、それから2年後の貞治3(1364)年には再び上総守護職を解かれ、世良田伊予守義政が守護になっていた。

 この年、氏胤が浄光明寺領の「上総国北山辺郡由井郷内越田四段大給分方田地一町三段小及政所屋敷免」を押領していたことに、浄光明寺雑掌賢秀が訴えを起こしており、4月16日、足利基氏は「伊予守(世良田義政)」「観応三年十月十五日御寄進状」に任せて浄光明寺領として沙汰すべきことを命じている貞治3(1364)年4月16日『足利基氏御教書』

●貞治3(1364)年4月16日『足利基氏御教書』(『浄光明寺文書』:『群馬県史』資料編所収)

 浄光明寺雑掌賢秀申、上総国北山辺郡由井郷内越田四段大給分方田地一町三段
 小及政所屋敷免事、早止千葉介家人等押領、任観応三年十月十五日御寄進状
 不日可被沙汰付下地於寺家之状如件、
  貞治三年四月十六日      (花押:足利基氏)
   伊予守殿

 これら上総国をめぐる幕府・鎌倉府との諍いは、千葉介の鎌倉鶴岡八幡宮下宮乱入という事件をも引き起こしたようで、氏胤は上総国をめぐる一連の不祥事を鎌倉公方・足利基氏から叱責されていたと思われ、面目を失った氏胤が下宮に立て籠もっている(『鶴岡諸記録』)

閉門は貞和観応年中に千葉介、公方様より可被失面目時分、下宮江乱入相籠、御訴訟申間、上宮八講修正已下閉門いたし勤行之、其時より修正には今にいたって閉門と云々
来迎寺
千葉の来迎寺に残る千葉一族供養塔

 貞治4(1365)年9月13日、氏胤は美濃国において病死した。享年二十九(『本土寺過去帳』)。法名は常珍月渓殿氏徹貴運其阿弥陀仏。千葉の来迎寺(千葉市稲毛区轟町1)には、氏胤の供養塔をはじめとする一門の供養塔七つが建立されている。

 

◆千葉介氏胤略系図◆

+―曾谷教信(日礼)――――――伝浄
|(下総国八幡庄曾谷郷の豪族)(平賀六ヶ村を本土寺に寄進)
| ・本土寺の日朗の与力      
|                
+―□□□□――――――――――法頂尼
                 ∥
                 ∥―――――千葉介氏胤
                 ∥
                千葉介貞胤

★千葉介氏胤の家臣★

家臣 湯浅左兵衛 円城寺大膳 押田 土屋


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