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【一】上総氏について |
【二】上総平氏は両総平氏の「族長」なのか |
【三】頼朝の挙兵と上総平氏 |
平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
(????~????)
千葉介胤正の次男。母は不明。通称は平次。名字は境。官途は兵衛尉、左衛門尉、下総守、上総介。兄は千葉介成胤。
「上総介」ではあるが、上総権介広常の系統とは血縁・養子関係ではなく、広常系統の上総介は、広常が殺された時点で消滅した(ただし、相馬常清の子・相馬貞常が上総介を称した可能性がある)。常秀は広常を継承したというわけではなく、千葉宗家から派生した新たな別家御家人である(六党派生と同様であろう)。
『吾妻鏡』によれば、常秀は頼朝の挙兵時にはすでに「堺平次」として見えるが、その名字地は上総国山辺郡堺郷(比定地不明)である。しかし、当時の常胤が上総国に知行を有した形跡はなく、まだ年若い常秀が遼遠の山辺郡に入部していたとも考えにくいことから、挙兵時には「堺」は名乗っていなかったと思われる。
治承4(1180)年9月14日、「下総国千田庄領家判官代親政」が「聞目代被誅之由」いて、「率軍兵欲襲常胤」したことから、「常胤孫子小太郎成胤相戦」って、「遂生虜親政」ったという(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)。
一方、『千学集抜粋』によれば、治承4(1180)年9月4日、安房の頼朝を迎えるため「常胤、胤政父子上総へまゐり給ふ」と、常胤と胤政のみが上総国へと向かったとあり、他の諸子は従った形跡はない。成胤についても記載があり、「加曾利冠者成胤たまゝゝ祖母の不幸に値り、父祖とも上総へまゐり給ふといへとも養子たるゆゑ留りて千葉の館にあり、葬送の営みをなされける…程へて成胤も上総へまゐり給ふ…ここに千田判官親政ハ平家への聞えあれハとて、其勢千余騎、千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投かけける、成胤曾加野まて馳てふりかへりみるに、火の手上りけれは、まさしく親政かしわさならむ、此儘上総へまゐらむには、佐殿の逃たりなんとおほされんには、父祖の面目にもかゝりなん、いさ引かへせやと返しにける」と、成胤は祖母の葬送のために遅れて父祖の上総国へと向かったが、蘇我野で振り返ると千葉に火の手が上がっており、引き返したとされる。その後、「結城、渋河」で親政の軍勢と出会い、散々戦って「親政大勢こらえ得す落行事二十里、遂に馬の渡りまてそ追打しにける」と、親政を討ち取ったことになっている(『千学集抜粋』)。
『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は常胤率いる「新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次常秀・武石の次郎胤重・能光の禅師等を始めと為て、三百余騎の兵」を先陣として上総国から下総国へと向かったという。このとき、藤原親正は「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐無し、京都の聞えも恐れ有り、且うは身の恥なり」と、千田庄内山の館を発して「千葉の結城」へと攻め入ったとする。このとき「加曾利の冠者成胤、祖母死去の間、同じく孫為といへども養子為に依つて、父祖共に上総国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送の営み有りけり」とされ、「親正の軍兵、結城の浜に出で来たる由」を聞いた成胤は、上総へ急使を発する一方で「父祖を相ひ待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず、豈勇士の道為らんや」と攻め懸けるも無勢であり、上総と下総の境川まで追われるが、「両国の介の軍兵共、雲霞の如くに馳せ来たりけり」と、千葉介常胤、上総介広常の軍勢が救援に加わったことで「親正無勢たるに依つて、千田の庄次浦の館へ引き退きにけり」と千田庄へと退いたとされる(『源平闘諍録』)。
『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はともに妙見説話を取り入れ、成胤を養子とする同一の方向性をもつ内容で、物語性の強い『源平闘諍録』はより詳細に記載されている傾向にある。またいずれも千葉の結城浜を戦いの舞台としていることが共通点に挙げられる。しかしながら、この『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はあくまでも説話集と物語であって、そのまま史実と受け取ることはできない。『千学集抜粋』はその妙見信仰と千葉氏を結びつける説話という性格上、まだ妙見信仰の成立していなかった平安時代末期の千葉氏に、妙見信仰の伝承を挿入する上で『源平闘諍録』の妙見説話を取り込んだ可能性が高く、千葉氏を賞賛する創作がかなり強いと考えられる。
一方、『吾妻鏡』も全体をそのまま史実とするには危険な部分を含んでいるものの、後世北条氏にとって頼朝挙兵に伴う千葉氏の活躍を改変する必要性は全くないので、これは当時の記録に基づく史実として受け取ってよいと思われる。
親雅は9月13日の成胤・胤頼による下総目代の追捕の翌日、14日に「聞目代被誅之由、率軍兵、欲襲常胤」と常胤の襲撃を企てたとされている。目代館はその性質上、国府近辺であると考えられることから、目代館から親雅の内山館までは40~50km程度の距離であろうと考えられる。目代が攻められた直後に親雅に使者を飛ばしたとすると、時間にもよるが内海を経由して当日中の到達は十分可能であろう。しかし、親雅がそこから周辺氏族を動員して匝瑳郡を出立したのでは、翌14日に西総に至ることはかなり難しい。ただし、頼朝の安房上陸の一報がすでに親雅に伝わり、催促が終わっていたとすれば、その軍勢を動かし、翌14日に西総へと進むことは可能と思われる。
国府襲撃の一報を受けた親雅は、下総国府へ向かったのだろう。この頃には下総国府はすでに成胤、胤頼によって占領されており、当然ながら成胤と胤頼はそのまま駐屯したと考えられる。占拠した国府、目代館から撤退する合理性がないためである。つまり、伝のように、成胤が一人千葉へ戻って親雅と戦うことは非常に不自然なのである。さらに不自然なのが、常胤が9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼東。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族がすでに上総国で面会していたとすれば、改めて国府で対面を果たす必要性がないのである。常胤が「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を引き合わせるのも、常胤が頼朝に同道していたのであればすでに行われていたと考えるのが妥当であろう。
さらに常胤ら千葉一族が頼朝を迎えるために本拠を空け、その守備を目代館追討に派遣した成胤を戻して守らせ、あわや親雅に敗れかける(『千学集抜粋』)という不可解極まりない作戦をとっていることになるのである。下総目代を攻めることで旗幟鮮明となれば、当然ながら上総国府、千田判官代親雅という平氏勢力が侵入する可能性も高くなる。このような中で本拠を空にし、頼朝を迎えに行って千葉を取られては本末転倒であり、このような作戦を取ることはまず考えにくいだろう。
これらのことから、常胤らは頼朝の出迎えのために上総国へ向かってはおらず、本拠の千葉に残留し、平氏方の藤原親雅や南隣する上総国府の国ノ兵に予め備えつつ、成胤・胤頼を下総目代追討に派遣して国府一帯(市川市国府台)を占拠する方策を取ったのではないだろうか。
上総国では「治承四年庚子九月」に高倉院武者所の「平七武者重国」が討死している(『高山寺明恵上人行状』)。彼は「本姓者伊藤氏、養父の姓によて藤を改て平とす」と伊勢平氏の根本被官伊藤氏の出身者であり、国司・上総介忠清の同族であった。忠清は在京であることから、彼が目代であった可能性もあろう。この「治承四年庚子九月」はまさに頼朝が安房国から上総国へ入った月であり、頼朝以下三百騎は上総国府を実際に攻めて占拠したのであろう。安房国から上総国へ入ったのが9月13日であり、上総国から下総国へ入ったのが9月17日であることから、その四日間のいずれかで国府の占拠が行われたと思われる。おそらく頼朝は国府にあって介八郎広常の参着を待ったものの、広常は広範な軍勢催促に手間取ったため、その参着を待たずに頼朝は9月17日に下総国へと移ったのであった。
下総国中西部一帯の平氏党は13日から14日にかけて平氏党はほぼ壊滅しており、頼朝はその日のうちに下総国府へと入り、そこで待っていた常胤は「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼東。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、頼朝との面会を果たし、捕縛していた親雅が頼朝の見参に入れられている。この面会時に常秀の名は見えないが、おそらく兄・小太郎成胤らとともに謁見しているのだろう。
なお、この親雅の子・功徳院快雅は延暦寺の碩学としてのちの幕府とは良好な関係を築き、将軍家御侍僧となり、幕府の重要修法に際して下倉している。
千葉の結城浜での所謂「結城浜の合戦」の伝承は、妙見神を具現化するために妙見神の所縁の地での戦いが染井川の戦いや蚕飼川の戦いのように必要とされ、それが妙見宮前浜である結城浜が選ばれたと思われ、この結城浜の合戦自体は創作である可能性が高いだろう。また、たとえあったとしても、染井川の戦いや蚕飼川の戦いのような、別にあった戦いに拠った創作、または後世の合戦などが仮託されたものではないだろうか。
その後の常秀は平氏との合戦に従軍しており、元暦元(1184)年8月8日、平家追討軍として、大将軍・源範頼の麾下として常胤に従っている。兄・小太郎成胤は平氏との戦いに参戦している様子がまったく見えないが、おそらく祖父・常胤は明確に成胤の役割を留守居に定め、頼朝も成胤を鍾愛しており、傍に置いたのだろう。成胤は胤正の次代は千葉家惣領となることが決まっているが、弟・平次常秀は地位が不安定であったろう。祖父・常胤は常秀を千葉惣領家とは独立した御家人とするべく積極的に参戦させたのではないだろうか。
●元暦元(1184)年8月8日、三河守範頼扈従の輩(『吾妻鏡』)
大将軍 | 三河守範頼 | |||
扈従の輩 | 北条小四郎義時 | 足利蔵人義兼 | 武田兵衛尉有義 | 千葉介常胤 |
境平次常秀 | 三浦介義澄 | 三浦平太義村 | 八田四郎武者朝家 | |
八田太郎朝重 | 葛西三郎清重 | 長沼五郎宗政 | 結城七郎朝光 | |
比企藤内所朝宗 | 比企藤四郎能員 | 阿曽沼四郎広綱 | 和田太郎義盛 | |
和田三郎宗実 | 和田四郎義胤 | 大多和次郎義成 | 安西三郎景益 | |
安西太郎明景 | 大河戸太郎広行 | 大河戸三郎 | 中条藤次家長 | |
工藤一臈祐経 | 工藤三郎祐茂 | 天野藤内遠景 | 小野寺太郎道綱 | |
一品房昌寛 | 土佐房昌俊 |
各地を転戦した常秀は、文治元(1185)年正月26日、豊後国の緒方惟隆・惟栄らが提供した兵船八十二艘と周防国宇佐郡の木上七遠隆から提供された兵糧米を積み、範頼勢の一隊として豊後国に渡って西から平家を牽制している。
●文治元(1185)年正月26日、三河守範頼扈従の輩(『吾妻鏡』)
大将軍 | 三河守範頼 | |||
扈従の輩 | 北条小四郎義時 | 足利蔵人義兼 | 小山兵衛尉朝政 | 小山五郎宗政 |
小山七郎朝光 | 武田兵衛尉有義 | 斎院次官中原親能 | 千葉介常胤 | |
千葉平次常秀 | 下河辺庄司行平 | 下河辺四郎政能 | 浅沼四郎広綱 | |
三浦介義澄 | 三浦平六義村 | 八田武者知家 | 八田太郎知重 | |
葛西三郎清重 | 渋谷庄司重国 | 渋谷二郎高重 | 比企藤内朝宗 | |
比企藤四郎能員 | 和田小太郎義盛 | 和田三郎宗実 | 和田四郎義胤 | |
大多和三郎義成 | 安西三郎景益 | 安西太郎明景 | 大河戸太郎広行 | |
大河戸三郎 | 中条藤次家長 | 加藤次景廉 | 工藤一臈祐経 | |
工藤三郎祐茂 | 天野藤内遠景 | 一品房昌寛 | 土佐房昌俊 | |
小野寺太郎道綱 |
常秀は平氏滅亡後は鎌倉に帰還し、一族とともに頼朝に供奉。文治元(1185)年10月24日、勝長寿院供養の際に、随兵16人の一人に選ばれている。
◎勝長寿院供養に見える千葉氏
●先陣の随兵14人
千葉太郎胤正
●五位六位32人
千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼(頼朝が御堂へ上がるとき沓を持つ)
●随兵16人
千葉平次常秀
●後陣の随兵60人(弓馬の達者を清撰)
千葉四郎胤信、天羽次郎、臼井六郎
●馬三十疋を導師に曳き渡す(牧武者所宗親が北条時政代として奉行
一ノ馬 千葉介常胤、足立右馬允遠元
九ノ馬 千葉二郎師常、印東四郎
翌文治2(1186)年11月12日、「若公」の鶴岡八幡宮参詣に、小山五郎宗政・小山七郎朝光・三浦平六義村・梶原三郎景茂・梶原兵衛尉景定とともに供奉した。彼らはいずれも小山朝政・三浦義澄・梶原景時といった現役の幕府宿老の子息であり、「若公=頼家」に配される予定の武士であったと思われる。とくに梶原景茂と常秀は仲が良かったようで、同年5月14日に、ほかに工藤祐経・八田朝重・藤原邦通とともに静御前の館を訪れて酒宴を開いている。ただこのとき景茂は静に言い寄り、手厳しく咎められるという珍事も起こった。
文治5(1189)年8月12日、奥州藤原泰衡追討戦では、海道大将となった千葉介常胤に従って出陣。父の胤正はじめ、叔父の師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼、兄の成胤とともに平泉平定に功績を挙げた。ところが文治6(1190)年正月には奥州藤原氏の残党が挙兵して平泉を落とした際には、再度鎌倉から追討使が派遣され、祖父・常胤に代わって父・胤正が海道大将軍となった。兄・成胤もこの合戦に加わるが、その際頼朝は兄・成胤に対して「千葉小太郎、今度奥州合戦抽軍忠之間、殊有御感」(『吾妻鏡』文治六年正月十五日条)と賞賛する一方で、「但合戦不進于先登兮、可慎身之由」という注意をしていることから、成胤自ら先頭に立って奮戦した様子がうかがえる。これは成胤が父・胤正同様、頼朝に特に気に入られて近習として抜擢されていたためと思われ、成胤は別格であった。
11月7日、常秀は頼朝入洛に際して「先陣六十番」のひとりとして供奉。頼朝は後白河院と後鳥羽天皇に拝謁した。このとき頼朝は権大納言・右近衛大将に任じられた。翌12月2日、頼朝の「御直衣始」に際しては随兵として供奉。11日、祖父・常胤の功績が常秀に譲られ、常秀は「左兵衛尉」に任官した。常胤による常秀の別家御家人とするべく、家格上昇の布石であろう。
その後は頼朝の側近くに仕え、建久5(1194)年12月26日、鎌倉二階堂の永福寺に新築に作られた薬師堂供養に叔父の胤頼とともに供奉。建久6(1195)年、頼朝は再び上洛のために供奉の人数をそろえていたが、頼朝に滅ぼされた源義経・源行家の残党が不穏の動きをしている噂があったため、2月12日、「勇敢」の名の高い比企能員・千葉常秀らが先発隊として派遣され、頼朝の本隊が続いた。そして3月10日、奈良の東大寺供養に出席した頼朝に供奉し、叔父の「千葉二郎師常、千葉六郎大夫胤頼」と列席した。27日の参内には三浦義村とともに「随兵八騎」の一人として供奉した。5月20日の天王寺参詣に随兵として供奉。6月3日の「若公万寿(頼家)」参内にも供奉した。
正治2(1200)年2月26日、頼家の鶴岡八幡宮参詣に、小山朝政らとともに供奉し、建仁3(1203)年10月8日、頼朝の次男・千幡(実朝)の元服式に、佐々木広綱らとともに鎧・馬などを奉じている。11月15日に鎌倉中の寺社奉行が定められた際には薬師堂の奉行に任じられている。また、12月14日の永福寺供養にも供奉している。
元久元(1204)年10月14日、将軍・実朝の御台所として坊門信清息女を鎌倉に迎えるため、北条時政と牧ノ方の子・北条政範(左馬権助)をはじめとして、結城朝広(七郎)・千葉常秀(平次兵衛尉)・畠山重保(六郎)・筑後朝尚(六郎)・和田朝盛(三郎)・土肥惟光(先次郎)・葛西清宣(十郎)・佐原景連(太郎)・多々良明宗(四郎)・長江義景(太郎)・宇佐美祐能(三郎)・佐々木小三郎・南條平次・安西四郎が上洛の途についた。なお、牧の方は時政の後妻として権勢を振るった女性である(牧の方の出自について)。『吾妻鏡』では御台所迎えの武士は十五名だが、『明月記』においては「来迎武士廿人」(『明月記』元久元年十二月十日条)とある。
千葉介常胤 +―千葉介成胤
(千葉介) | (千葉介)
∥ |
∥――――――千葉介胤正―+―千葉常秀
秩父重弘―+―女 (千葉介) (平次兵衛尉)
(秩父庄司)|
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+―畠山重能―――畠山重忠
(畠山庄司) (次郎)
∥―――――――畠山重保
∥ (六郎)
北条時政―――女
∥
∥ 平賀朝雅
∥ (武蔵守)
∥ ∥
∥――+―女
牧ノ方 |
+―北条政範
(左馬権助)
一向は11月3日、京都に到着したが、政範は「自路次病悩」しており(『吾妻鏡』元久元年十一月十三日条)、上洛早々の11月5日に「遂及大事」んだ(『吾妻鏡』元久元年十一月十三日条)。享年十六。翌6日には「東山辺」に葬られた(『吾妻鏡』元久元年十一月廿日条)。在京中には「二人死去馬助、兵衛尉」と政範ともう一名が死去しているが名は伝わらない。ただし事件性はないとみられ、欠員の「其替親能入道子」を追加するが「今一人猶欠」であった(『明月記』元久元年十二月十日条)。11月13日、政範の死が鎌倉にもたらされ、時政と牧ノ方は悲嘆に暮れたという。
政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀武蔵前司朝雅の邸で上洛祝いの酒宴が執り行われたが、この席で畠山重保と朝雅が争論を起こした。朋輩がなだめたため事なきを得たが、争論の原因は政範の病悩と関係があったのだろう。朝雅と重保の争論は時政の怒りを買い、重保を含め、娘婿の重忠をも非としたのだろう。
元久2(1205)年6月22日、謀反人とされた畠山重忠を討つための幕府軍では、後陣を千葉一族が固めており「堺平次兵衛尉常秀、大須賀四郎胤信・国分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤」が出陣した。大須賀胤信は常秀の叔父、義胤・重胤は従兄弟にあたる。常秀はその後も幕府の重鎮として将軍家に伺候し、諸処に供奉している。
建暦3(1213)年2月15日、信濃国の泉親衡が故将軍・源頼家の次男である千寿を将軍に擁立する企てが発覚した。この謀叛の企ては、親衡の使僧・安念房が千葉介成胤を説得に来て、逆に捕縛されて義時に突き出されたことでおおやけとなった。この企てには御家人百三十余人、伴類二百人が加わっていたが、和田義盛の子・和田義直、義重、甥の和田胤長らの名もあったことから、騒ぎは大きくなった。この事後処理の問題によって、和田義盛が挙兵して滅ぼされることとなるが、すべて北条氏による筋書きであった可能性がある。
この叛乱に加わった人物の中に「上総介八郎甥臼井十郎」の名が見える。「臼井十郎」とは臼井太郎常忠の十男・臼井十郎俊常のことか。「上総介八郎」は介八郎広常のことであり、広常の甥ということだろう。
平常兼――+―平常澄――+―平広常――――平能常
(上総権介)|(上総権介)|(上総権介) (小権介)
| ?
| +――娘
| ∥―――――臼井常俊
| ∥ (十郎)
+―臼井常安―――臼井常忠
(六郎) (太郎)
承久元(1219)年正月27日、実朝が右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮寺に参詣の際、従兄弟の東兵衛尉重胤とともに供奉したが、このとき実朝は甥の別当公曉(こうぎょう。頼家の子)によって暗殺された。公暁は実朝(および北条義時か)を「親ノ敵」と吹き込まれており、実朝の首を取ったのち、三浦義村の館に遁れようとしたとき、鶴岡八幡宮の裏山で三浦義村の郎従・長尾定景によって殺害され、その首は義村によって北条邸に持参されている。
常秀は千葉一族内部ではどのような地位にあったのであろうか。
彼は胤正の次男であったが、祖父・常胤からの期待も強かった様子がうかがえる。惣領継嗣としての成胤とは別の扱いがなされており、祖父・常胤の薫陶を受け、千葉家分流として早くから想定されていたと思われる。その諱「常秀」も常胤の「常」字が譲られたものであろう。
また、常胤の所領配分に際しても多大な地頭職を継承されている。分与されたのち、常秀は上総国山辺郡堺郷(比定地不明)に本拠を置いたと思われ、このときはじめて「境」を名字としたのではないだろうか。
●常秀が祖父・千葉介常胤より譲られた所領
上総国 | 山辺北郡堺郷、市東郡、市西郡、玉﨑庄、武射南郷 |
下総国 | 埴生庄、埴生西条、印西庄、平塚郷 |
薩摩国 | 島津庄寄郡五ヶ郡郡司職、没官御領四一一町地頭職 |
その土地は両総はもとより、薩摩国内にまで及んでおり、建仁3(1203)年7月20日、父・胤正が没したのち、千葉惣領家の兄・成胤と並ぶほどの勢力を持ったと推測される。さらに常秀は三浦義村など幕府宿老と同列に供奉したり随兵に選ばれたりしており、成胤よりも幕府中枢に関わる様子がうかがえる。
譲られた地頭職を見ると、「市東郡、市西郡」が見え、国府のある市原郡に地頭職を有したことがわかる。これについては「市東西常秀請所」という文書もあるため(『鎌倉遺文』)、常秀は上総国府一帯を掌握していたことがわかる。そして「玉崎庄、武射南郷」も譲られていたことから、上総平氏の本拠地で一ノ宮(玉崎社)のある玉崎庄と上総平氏所縁の武射南郷もその手におさめていたことがわかる。一ノ宮を掌握し、その国衙神事を前代の上総平氏から継承していたのだろう。
左兵衛尉 | 境常秀(祖父・千葉介常胤の勲功) 梶原景茂(父・梶原景時の勲功) 八田朝重(父・八田知家の勲功) |
右兵衛尉 | 三浦義村(父・三浦義澄の勲功) 葛西清重 |
左衛門尉 | 和田義盛 三浦義連 足立遠元 |
右衛門尉 | 小山朝政 比企能員 |
また、文治6(1190)年12月11日、頼朝は後白河法皇に数刻祇候。そこで御家人十名について挙任しており、祖父常胤の勲功を受けて、常秀が「左兵衛尉」に任官した。常胤の勲功が常秀に与えられたことは、おそらく常秀を独立した御家人とする意図があったのだろう。これは常胤が孫・常秀を、子の師常、胤盛、胤信、胤通、胤頼と同様に別家(独立した御家人)としたためと思われる(ただし、父・胤正の教令権のもとにあったと推測される)。
元久元(1204)年4月20日、実朝は頼朝から自筆の書状を給わった御家人に対して、成敗の内容を写し取るため提出を求めた。これを受けて、5月19日、成胤は所有していた書状数十通を提出している。証文を伝承していることから成胤は千葉氏の惣領家であったことは確実で、元久2(1205)年正月3日の埦飯では、成胤は北条時政の次に献じるなど家格の高さが際立っている。さらに、建暦2(1212)年2月7日、成胤は「一族を率いて」御所を造営し、翌建保元(1213)年5月3日、和田義盛の乱には「党類を率いて」北条義時の館に駆けつけていることから、常秀が千葉惣領家を超越した権威を持っていたということは言えず、逆に成胤は一族を率いる権限を持っており、常秀もこの指示のもとにあった可能性があろう。
嘉禄元(1225)年正月24日、常秀は「下総守」に任官した。さらに文暦2(1235)年(=嘉禎元年)2月以前には「上総介」に任官し、千葉惣領家を優越する地位を得るようになっている。上総介任官ののち、本拠をかつての上総権介家の本拠である上総国一宮付近(大柳館か)に移したのだろう。
この時期まで、常秀は「千葉平次兵衛尉」「堺兵衛尉」を称していた。嫡男・秀胤も承久元(1219)年7月19日の初見時は「堺兵衛尉」の長男を表す「堺兵衛太郎」とあるが、常秀がすでに上総介に任じられた後の文暦2(1235)年2月9日の時点では「上総介太郎」とされている。文暦2(1235)年6月29日、五大堂の新造御堂の安鎮祭が執り行われ、将軍・頼経に供奉した人物中に先陣の隨兵として「上総介常秀」の名を見ることができ、頼経の牛車に侍る武士の先頭に「上総介太郎(秀胤)」と「大須賀次郎左衛門尉」が連なっている。
常秀が最後に『吾妻鏡』に現れるのは嘉禎2(1236)年8月4日の頼経の若宮御所への移座供奉で、嫡男・秀胤とともに列し、こののち常秀の名は見えなくなる。没年は不明だが、仁治元(1240)年8月2日、嫡子・秀胤が「上総権介」を称しており、このころ常秀は家督を譲ったか死亡したものと思われる。宝治元(1247)年6月7日、「亡父下総前司常秀」とある。