千葉直重

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?) 手白髮郎女(???-???)
欽明天皇(???-571) 石比賣命(???-???)
敏達天皇(???-585) 比呂比賣命(???-575)
押坂彦人大兄(???-???) 糠代比売王(???-664)
舒明天皇(593-641) 斉明天皇(594-661)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1583-1633)
千葉俊胤
(1588-1639)
千葉定胤
(1617-1649)
千葉知胤
(1622-1685)
千葉英胤
(1659-1730)
千葉紀胤
(1704-1770)
千葉宗胤
(????-1807)
千葉倚胤
(????-1841)
 
江戸期の千葉家
鳥越社家鏑木家 第六天社家鏑木家 武田村千葉家 門井流千葉家 胤富流千葉家 庵原流千葉家    

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千葉直重 (1567?-1627)

生没年 永禄10(1567)年辺?~寛永4(1627)年3月1日
義父 千葉介邦胤
北条陸奥守氏照
実父 北条相模守氏政
母 武田信玄長女黄梅院(『小田原編年録』)
※黄梅院は永禄12(1569)年6月17日に亡くなっており、直重は天正元(1573)年生(『堀尾古記』)ではない。
 永禄10(1567)年~永禄11(1568)年の間で誕生しているとみられる。
妻 千葉介邦胤娘
市原実兵衛入道如雪妹(後妻)
官位 不明
官職 不明
役職 不明
所在 下総国印旛郡佐倉
阿波国徳島(後)
号 謙入
墓所 不明
子 北条十三郎
女子(大石六太夫重昌室)

 千葉氏二十五代。千葉介邦胤の養子。実父は北条相模守氏政。母は武田信玄長女黄梅院(『小田原編年録』『蜂須賀家家臣成立書并系図』)。妻は千葉介邦胤娘。のち市原実兵衛入道如雪妹。小田原北条氏五代当主の北条氏直の実弟である。

 生母については武田信玄長女(黄梅院殿春林宗芳大禅定尼)は永禄12(1569)年6月17日に亡くなっており(『高室院 相州過去帳』)、直重が誕生したとされる天正元(1573)年前後では故人であるため、直重が天正元年生まれ(『堀尾古記』)であれば母は別人となるが、直重が天正19(1591)年に蜂須賀家に召抱になった際に提出されたであろう由緒書にも「母武田大膳大夫晴信女」とあることから、直重母は黄梅院で間違いない。おそらく永禄10(1567)年から永禄11(1568)年の間で誕生したとみられる。

●黄梅院(武田信玄長女・北条氏政室)について(想像)

年月
年齢 出来事
天文12(1543)年 1 誕生。父武田晴信。母三条氏。
天文21(1552)年 10 北条氏康の嫡子新九郎氏親との婚約中に新九郎死去
天文23(1554)年12月23日 12 北条氏康の次男新九郎氏政に嫁ぐ
弘治元(1555)年11月8日 13 「霜月八日曹子様ヲ設ケ玉フ、甲州晴信公御満足大慶此事候」(『妙法寺年録』):夭折
弘治3(1557)年11月19日 15

●『武田信玄願文』 (『小佐野文書』「原色武田遺宝集」武田信玄公宝物保存会)

敬白願書意趣者

晴信息女北條氏政妻、当産平安無病延命則従来歳戊午夏六月、長可抜船津之関鎖、比乗士峯菩薩願轂、如意満足不可有疑者也、急々如律令

維時弘治三暦丁巳
 冬十一月十九日大膳大夫兼信濃守晴信

南無富士浅間大菩薩

長女:芳桂院殿(千葉介邦胤室)の誕生か(氏直姉)⇒直重室の母

永禄3(1560)年7月 18

●『武田信玄願文』 (『西村藤右衛門家文書』『戦国遺文武田氏編補遣2』)

敬白願状

 武田信玄嫡女北條氏政簾中也、今茲秋之仲懐産之期萌也、依此先暢祝祭矣、持多賀大明神者、攘異之霊社也、就中能済人之命、粤即息女護産出平安而、令授与寿於百歳、則近年献納之外、毎年黄金五両充重可奉納者也、仍祈願之旨如件、

   永禄三年七月吉日  徳栄軒(花押)

 奉納多賀大社大明神宝殿

次女:龍寿院殿(里見義頼室)の誕生か
⇒天正5(1577)年11月に里見義頼に嫁いでおり、永禄12(1569)年の黄梅院死去後に氏政側室を母として生まれたとすると、嫁いだ年齢が一桁となる。また天文12(1543)年生の義頼とは二十五年以上の年齢差があり、妻女としては想定し得ない。そのため龍寿院殿は黄梅院所生の可能性が高い。

永禄5(1562)年 20 北条氏直誕生
永禄9(1566)年5月5日 24

●『武田信玄願文』 (『小佐野文書』「原色武田遺宝集」武田信玄公宝物保存会)

信玄息女北条氏政簾中也、今時当妊懐之気候、来六七月之頃托胎必然歟、臨厥期而産平安、子母共無毫末之禍機者、帰富士浅間之神功、若夫祷祝不空、於中宮之室、集一百衆之桑門、而令読誦法華経王、加之可奉納神駒矣、感応之一件、刻日竢之、仍願状敬白
              徳栄軒

  永禄九丙寅年五月吉日 信玄(花押)

奉納浅間大菩薩御宝前

●『武田信玄願文』 (『諏訪家文書』「神奈川県史」)

  敬白願状

某信玄息女北條氏政妻、當産平安、息女無恙得長命者、從來歳丁卯、尽未來歳、可抜黒駒第一之關
鑰者必矣、仍如件

  丙寅六月十六日  徳榮軒(花押)
富士淺間大菩薩

太田十郎氏房の誕生か

永禄10(1567)年
~永禄11(1568)年
25
~26
北条七郎直重の誕生か
「母武田大膳大夫晴信女」(『蜂須賀家家臣成立書并系図』)
永禄12(1569)年6月17日 27 卒去。「黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」(『高室院相州過去帳』)
元亀元(1570)年12月1日 没後

●『武田信玄寄進状』 (『大泉寺文書』「原色武田遺宝集」武田信玄公宝物保存会)

  定
為黄梅院料、甲州南古之内、肩地行分、定納拾六貫弐百文之所、令寄附畢、塔頭之造営無疎略可被相勉、殊別而者朝経暮呪之勤行、不可有怠慢者也、仍如件
 元亀元年庚午
  拾弐月朔日 信玄(花押)
  大泉寺
    衣鉢閣下

 松江城主堀尾氏の古記録『堀尾古記』(『新修島根県史 史料篇 第2近世上』)の「■■八癸寅年 小田原陣」の際の「氏政子」として、「氏直 歳廿八、十郎 廿三、七郎 十八」とあり、天正18年当時に十八歳の可能性も指摘され(黒田基樹『戦国北条氏一族事典』戎光祥出版)、これが正しい場合には直重は天正元(1573)年の誕生となる。ただし『堀尾古記』は氏政の年齢を「五十九」(『小田原編年録』は五十三歳)とあり、弟の陸奥守氏照も美濃守氏規も『小田原編年録』と異なる(ただし『小田原編年録』が正しいとも限らない)ように、直重についても正確な年齢かは判断できない。

●『堀尾古記』(『新修島根県史 史料篇 第2近世上』)

『堀尾古記』
記載人名
『堀尾古記』
記載歳
『小田原編年録』 人名 『北条家人数付』
(『毛利家文書』)
天正十八年
騎数
天正18年年齢 生年 没年 『小田原一手役書立写』
(『安得虎子 巻十』)
氏政 五十九 53歳 天文7(1538)年 天正18(1590)年 北条相模守氏政      
陸奥守 五十四 49歳 ー 天正18(1590)年 北条陸奥守氏照 北條陸奥守 竹山の城(武蔵国瀧山)
水見城(下総国)
小山城(下野国)
関宿ノ城(下総国)
栗橋城(下総国)
江ノ本城(下野国)
四千五百騎
陸奥守殿 八王子
弟 美濃守 五十一 45歳(逆算) ー 慶長5(1600)年
56歳
北条美濃守氏規 北條美濃守 相州三浦城(相模国三浦)
伊豆にら山(伊豆国韮山)
五百騎
美濃守殿 三うら
弟 阿波守 四十七 ー ー 慶長2(1597)年
享年不明
北条安房守氏邦 北條安房守 はちかたの城(武蔵国鉢形)
ふかやの城(武蔵国深谷)
前はし城(上野国前橋)
くらかね城(上野国倉金)
みのわ城(上野国箕輪)
沼田城(上野国沼田)
五千騎
安房守殿 見付ミ
氏政子氏直 廿八 29歳 永禄5(1562)年 文禄元(1592)年
31歳
北条氏直 氏直   馬廻七百騎
 
左右門佐 三十五 ー ー ー 北条氏堯 北條右衛門佐   百五十騎
右衛門佐殿 こつくや
山上江右衛門                
十郎 廿三 26歳
(逆算)
永禄8(1565)年
(逆算)
文禄元(1592)年
28歳
太田十郎氏房 北條十郎 岩月城(武蔵国岩付)
松山の城(武蔵国松山)
千五百騎
岩付殿 ゆわ付
七郎 十八 ー ー ー 北条七郎直重 千葉介 さくらの城 三千騎
七郎殿 さくら
新太郎 十五 ー ー ー 北条新太郎直定
(氏定)
     
新八郎殿 小田原
鶴千代 七ツ ー ー ー 北条鶴千代      
松田尾張 六十二       松田尾張守憲秀入道 松田尾張入道   千五百騎
松田殿 小田原
子新六 三十五       松田新六      
左馬介 三十二       松田左馬助秀治 松田左馬亮    
 
膳次郎 十八       松田膳次郎      

 北条七郎直重は「国の面々揃はざる故、原豊後守(豊前守)、同大九郎(大蔵丞)父子の心にて、氏政の末子一人を請ひて、十二歳になる姫と合わせまつり、屋形に仰ぎもうさるべし」(『千学集抜粋』)とあるように、十二歳の千葉介邦胤娘を正妻に迎えて千葉介となる。毛利家の文書にも「千葉殿」とあり、『得安虎子』に採録された「小田原一手役書立写」では「さくら」の「七郎殿」とあることから、千葉家の家督を正式に継承したと考えられる。いったんは叔父・北条陸奥守氏照の養子となるが(『寛政重修諸家譜』)、その後すぐに千葉家を継承し、氏照の継嗣にはさらに弟の「於鶴」「鶴千代」が「陸奥守養子」に入ったとみられる。直重の千葉氏入嗣には北条氏政の佐倉領直接支配という考えがあり、これに原若狭守親幹・原大炊助邦房父子が反発して下総最大の内紛に発展した。しかしこの反抗は、氏直の下総出陣によって鎮圧され、親幹は出家して降伏。以降は北条氏の指示に従い、下総北部の最重要拠点・森山城の責任者となった。

 直重の妻となった千葉介邦胤娘は、直重の実姉・芳桂院殿所生の娘で直重には実姪にあたる。直重が入嗣した天正13(1585)年8月の時点で彼女は十二歳、直重は十八、十九歳であったと思われる。同年12月15日、本佐倉城の南に位置する鹿島城に「姫様、御ふくろ様邦胤母なり」(『千学集抜粋』)が入っており、「姫様」は中村雅樂助常顕が保育を命じられた。

●『千葉伝考記』

千鶴丸の姉十二歳にてありしを、氏直の下知として、其年の十一月、総州加島といふ所に、新たなる屋形を造り移され、中村雅楽助、女佐の臣となりて養育の功をぞ励ましける

 その後「姫様」が直重とどのように関わったかは定かではないが、嫡子十三郎と女子(大石重昌妻)の母である可能性がある。後年、直重は阿波徳島藩に召し出されたのちに蜂須賀家の重臣市原如雲の妹を娶っており、この頃には離縁または亡くなっていたと推測される。

 直重の千葉家相続には、千葉氏家老・原大炊助邦房の考えも大きく影響したようで、天正17(1589)年8月1日、「我等儀其方御かせきを以、御名跡ニ成就申付而者、別而立身させ可申候事」と、邦房の働きをもって家督を相続したならば

(1)進退は望みに任せ、何分にも引き立てること
(2)何事も邦胤の御代の如く働いてもらうこと
(3)親幹・邦房父子については隔意なく付き合うこと

の三条を伝えている(『北条直重書状』)。原大炊助邦房は直重の家督相続に反発した原若狭守親幹の嫡男であり、北総の安定のために欠かせない存在である森山原氏に恩を売る意図があったとも考えられる。

 天正17(1589)年8月24日付の氏政からの書状では「佐倉名跡被相移以前之義」とあり、直重は天正17(1589)年8月頃に千葉宗家の家督を相続したと思われる。『小田原一手役之書立写』には「さくら」の「七郎殿」とあることから(「安得虎子」『神奈川県史』資料編)、直重が千葉氏の家督を継ぎ、佐倉領を支配していたことは間違いないだろう。天正19(1591)年、同様に毛利家が残した小田原陣の諸勢陣立には、水ノ尾口と思われる城門(『小田原陣仕寄陣取図』「毛利家文書」)の守備として「氏政持口、同下総千葉殿 氏直弟也」と明記されており、北西の蒲生氏郷、宇喜多秀家勢に対する守衛として入っていたことがわかる。

北条氏政、氏照墓石
北条氏政、氏照墓石(小田原城下)

 7月、豊臣秀吉の大軍に囲まれた小田原城は開城して降伏。隠居の北条氏政と弟・北条氏照は処断された。このとき直重も小田原城にあったが助命されている。豊臣秀吉の軍勢は関東一円を平定し、佐倉城も落城した。

 天正19(1591)年、直重は秀吉から折紙付で蜂須賀正勝に預けられ、五百石を知行することとなり、徳島城下に屋敷を与えられた。蜂須賀家内での席次は定められておらず、客分待遇だったようだ。

 子の十三郎は早世しており、長女を蜂須賀家宿老の益田大膳豊正の三男・能之助に嫁がせて藩に願い上げの上で継嗣とされた。なお、この十三郎と長女の生母は記されておらず、千葉介邦胤女子だった可能性もある。のち、能之助(左兵衛重昌)に家督を譲って剃髪して謙入と号した。

 寛永4(1627)年3月1日に亡くなった。没年齢不明。

 益田持正──益田正忠─+─益田豊正─+─益田正長
(宮内少輔)(内膳正) |(大膳正) |(飛騨守)
            |      |
            +─牛田長尚 +─大石重昌
             (左京)   (左兵衛)
                     ∥─────大石直玄
                     ∥    (六郎右衛門)
              千葉介直重──女子
             (北条七郎)

天正17(1589)年8月1日『北条直重書状』

  等儀其方御かせきを以、御名跡ニ成就申付而者、別而立身させ可申候事、
 一 御進退任御望、何分ニも引達可申候事
 一 於何事も、邦胤如御代、可為御走廻事
 一 御父子別内外共不可有別心事、為後日仍状如件

   天正十七巳丑
    八月朔日       直重(花押)
     原大炊助殿

『小田原一手役之書立写』(「安得虎子」『神奈川県史』資料編)

  小田原一手役役之書立
                い津
 御旗本          清水太郎左衛門(清水康英)
    八王子
 陸奥守殿(北条氏照)   笠原い津
    はちかた
 安房守殿(北条氏邦)   山角(山角康定)小田原上野
    ミうら
 美濃守殿(北条氏規)   垪賀(垪賀氏続)小田原いよ
    小田原
 左衛門佐殿(北条氏忠)  依田小田原下総
    こつくへ         たハら
 右衛門佐殿(北条氏光)  大藤式部
    くの           つくい
 彦太郎殿(北条氏隆)   内藤将監(内藤綱秀)
    玉なわ
 左衛門大夫殿(北条氏勝) 太田江戸肥後
    小田原
 新八郎殿(北条直重)   冨永(冨永政家)江戸
    ゆわ付       江戸
 岩付殿(北条氏房)    治部少輔殿(北条氏秀)
    さくら
 七郎殿(千葉直重)    山中小田原大炊助

    小田原
 松田殿          足軽衆頭
    江戸           十人
 遠山殿          やなた殿
    川越
 大道寺殿         一色殿
    松山
 上田殿          佐々木殿
    おし
 成田殿          羽生衆
 深谷殿(上杉氏憲)
 小幡殿(小幡信真)
 内藤殿(内藤昌月) 
 安中殿
 和田殿(和田信業) 
 倉加野殿(倉賀野家吉)

  合木殿
  白井長尾(白井憲景) 
  大胡殿(大胡高繁)
 まやはし
  毛利殿(北條芳林) 
  那波殿(那波顕宗)
  由羅殿(由良国繁)
  たて林長尾(長尾顕長)
  佐野殿(佐野宗綱)
  皆川殿(皆川広照)
  壬生殿(壬生義雄)
 うすい
  原殿(原胤栄)   長南殿(武田豊信)
  伊田殿        房州衆
  大須賀殿
  助崎殿
 とけ
  酒井伯耆守(酒井康治)
 とうかね
  酒井左衛門尉(酒井政辰)
 こかね
  高木(高城胤辰)
 ふかわ
  豊嶋新六郎(豊嶋貞継) 
  江戸崎土き殿(土岐治綱)
  岡見治部太輔(岡見治広)
  岡見中務(岡見宗治)
  相馬殿(相馬治胤)
  やなた殿(簗田持助)
  一色殿
  毛呂又十郎
  近藤出羽(近藤綱秀)
  佐倉御旗本
  佐々木殿

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大石重昌(????-1677)

 千葉介直重の養子。実父は益田大膳豊正。幼名は能之助。のち興次右衛門、左兵衛、六大夫。はじめ北条を称していたが、養祖父・北条陸奥守氏照(大石氏)に因んで大石を称する。妻は千葉介直重娘。実家の益田家は蜂須賀家が尾張国の豪族であった頃からの被官で、当時は五千五百石を禄していた。兄の飛騨守正長は慶長14(1609)年に益田家を継承している。

 養父・直重の知行五百石を継承して徳島藩鉄砲組頭となった。重昌はかねて養父・直重より小田原没後は北条姓を名乗ることは宜しくなく、養父・北条陸奥守氏照が養子として入っていた大石源左衛門家を相続して「大石」と改氏すべしと申し渡されていたことから、家名を大石と改めた。また、大坂の陣では蜂須賀家の将として活躍した。

 寛永17(1640)年12月12日、山田主税、上田丹波、林大学、片山弥次兵衛、笹山加兵衛、中山惣右衛門とともに夜分、徳島城に召されて御茶を賜った。その後、「六大夫」と改名した。

 このように優遇されていた重昌であったが、寛文3(1663)年、特に理由もなく暇願を藩に提出して、嫡子・七郎右衛門重利を連れて徳島を立ち去って大坂に移り住み休閑軒と号して浪人となった。

 その後、重昌はどこにも仕官することなく、延宝5(1677)年2月23日に病死した。法名は不明。ともに徳島藩を立ち去った嫡子・七郎右衛門重利は江戸に上っていたが、延宝7(1679)年正月19日、亡くなった。重利の妻は林和泉吉時の娘で、娘は仁尾右京永栄に嫁いだ。

 大石家は次男・直玄が万治元(1658)年に二百石で分家し、徳島藩士として幕末まで続いた。


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大石直玄(????-1670)

 大石六大夫重昌の次男。母は北条七郎直重娘。妻は古市加右衛門娘。幼名は七助。通称は六郎右衛門。徳島藩士。直重女の母親が千葉介邦胤女子であれば、直玄は千葉惣領家の胤子となる。

 万治元(1658)年、新たに二百石を支給されて大石家分家を設立し、奥御小姓役となった。

 万治2(1659)年3月4日、森金右衛門上屋敷を拝領したが、寛文3(1663)年、父の大石六大夫重昌、兄の大石七郎右衛門重利が突然暇願いを藩庁に提出して徳島藩を立ち退いたのに従い、浪人となって江戸に上ったが、延宝7(1679)年正月19日、兄・重利が亡くなると、江戸の徳島藩邸に出頭して帰参。以前と同じく二百石を給わり、国許の徳島に戻されて御手廻を仰せ付けられた。

 一族そろって、理由もなく藩を退転して江戸に浪人として過ごしていたにもかかわらず、その後帰参した際には以前と同じ石高を給されているところから、彼らの脱藩は藩からの指示があったのかもしれない。

 寛文10(1670)年9月15日に亡くなった。


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大石直富(????-1708)

 大石六右衛門直玄の子。母は古市加右衛門娘。妻は川島六郎兵衛吉惟姪。幼名は新六。通称は六郎右衛門。徳島藩士。

 寛文11(1671)年、相続が認められたものの、五十石減知の百五十石となる。江戸屋敷在番に三度任命され、御使者にも二度任命された。

 元禄3(1690)年6月16日、喜多村市之進旧屋敷を与えられた。この屋敷が江戸末期までの代々の屋敷となる。その後、名を新六から六郎右衛門と改めた。

 宝永5(1708)年4月17日に亡くなった。


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伊勢直武(????-1717)

 大石六郎右衛門直富の長男。母は川島徳左衛門娘。幼名は新蔵、徳三郎。通称は金左衛門。徳島藩士。

 宝永5(1708)年、父・直富が亡くなったため大石家を相続、百五十石を安堵された。その翌年、名字の「大石」を、祖先の氏である「伊勢」に改めて伊勢氏を復興した。家祖の千葉介直重の高祖父は、室町時代中期の関東地方を席巻した伊勢新九郎盛時(伊勢早雲庵宗瑞)であり、その氏に戻したものだろう。

 伊勢盛定───伊勢盛時─+─北条氏綱──北条氏康─+─北条氏政─+─北条氏直
(新左衛門尉)(北条早雲)|(相模守) (相模守) |(相模守) |(左京大夫) 
             |            |      |
             +─北条長綱       +─北条氏照 +─千葉直重
              (北条玄庵)       (陸奥守)  (北条七郎)

 御次小姓役をつとめ、享保2(1717)年に病気のために実弟の弁五氏勝を養嗣子とすることを藩に願い上げ、正月27日に亡くなった。


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伊勢氏勝(????-1772)

 大石六郎右衛門直富の末子。母は川島徳左衛門娘。妻は寺西金次郎時信妹。幼名は弁五。通称は浅右衛門。徳島藩士。

 兄・直武の養嗣子として、享保2(1717)年3月18日に伊勢家百五十石を相続した。藩侯・蜂須賀宗英の御児小姓をつとめていることから、幼少で家督を相続したことがうかがえる。

 享保9(1724)年3月13日、賀島民部組に組み入れられた。6月3日には、かねて願い上げの通り、浅右衛門と名乗りを改めた。寛延2(1749)年7月3日、新御蔵奉行に就任した。

 安永元(1772)年10月25日に亡くなった。


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伊勢氏高(????-1785)

 伊勢浅右衛門氏勝の子。母は寺西金次郎時信妹。幼名は喜三郎、延五。通称は禎蔵。徳島藩士。

 安永2(1773)年正月10日、伊勢家百五十石を相続。長江縫殿組士となった。

 天明5(1785)年7月29日に亡くなった。

 弟の弥代吉時英は、叔父の寺西金右衛門時信の養嗣子となっている。


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伊勢氏品(????-1835)

 伊勢禎蔵氏高の子。母は某氏。妻は青山牛兵衛成節妹。幼名は虎五郎。通称は黙介。

 天明5(1785)年10月18日、伊勢家百五十石を相続した。名東・名西郡代、御蔵奉行勘定方共、海部那賀郡代、美馬・三好郡代、本締役を歴任して五十石が加増となり、しめて二百石となった。

 天保6(1835)年7月6日に亡くなった。


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伊勢直誠(????-????)

 伊勢黙介氏品の子。母は某氏。妻は寺西道太郎時雄姉。幼名は真太郎。通称は黙介。初名は氏忠。家紋は北条鱗。

 天保6(1835)年閏7月28日に伊勢家二百石を相続。8月8日に長谷川頼母組に配された。天保13(1842)年11月28日、黙介と名を改めた。その後、御広間加番、学問所御奉行、新御蔵奉行、御櫓目付、新御蔵奉行などを歴任し、安政4(1857)年8月27日、江戸近海に「異国舩渡来」という事件が起こった。これに対して幕府は徳島藩に江戸湾警衛を命じ、藩庁は安政5(1858)年5月12日、黙介らに江戸警衛のため江戸出府を命じた。黙介は5月30日に徳島を出立し、6月21日江戸藩邸に出勤。7月17日、羽田に御番として着陣するが、3日後の7月20日には羽田から引払いが命じられる。

 翌安政6(1859)年正月26日、村上弥五六幸久に異国舩警護番のために江戸出府が命じられた代わりに黙介は国許への帰国が許された。その後、佐渡小文次長宣組に指し加えられる。佐渡小文次は江戸へ度々召されるも黙介は国許へ残っており、文久元(1861)年5月4日、江戸から戻った佐渡左近(小文次改め)組に指し加えられ、触使を仰せつけられた。


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