(1155-1228)
東氏初代当主。千葉介常胤の六男で、母は秩父太郎大夫重弘の次女。通称は六郎。官位は上洛当初は六位、のち従五位下。「千葉六郎大夫」と称し、のち下総国東庄を与えられて東六郎大夫を称す。晩年は上洛して法然上人の弟子となり法阿弥陀仏と号した。頼朝からの信頼は絶大で、兄弟中では最も高い位階を有した。
胤頼は「平家執天下権之時、雖候京都」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)とあるように、平氏政権のもと上洛したが、「更不諛其栄貴」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)であったという。「東平太重胤上洛、是父胤頼、弱冠之当初、候本所、任其例、片時可級上日奉公名之由、致懇望之間、依被挙申也」と後年に子・重胤が申し述べているように、胤頼は「弱冠之当初、候本所」(『吾妻鑑』承元二年閏四月廿七日条)ていた事実があった。胤頼は二十歳頃に大番役で上洛して蔵人所に属し、六位に叙されて所衆に加わったと思われる。建久5(1194)年10月29日、「東六郎胤頼子息等令祗候本所瀧口事」については、「向後雖不申子細、進退可任意之旨」を頼朝から許可されており、重胤はこれを以って上洛を願い出たものと思われる。
また、その後、上西門院(鳥羽院皇女統子)に出仕していた遠藤左近将監持遠の「挙」によって「仕上西門院」え、その「御給」を以って「従五位下」に叙された(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)。どういった経緯で遠藤持遠と知り合ったかは定かではないが、ともに蔵人所に出仕して面識があったのかもしれない。遠藤持遠がどのような立場で上西門院に仕えていたのか記録はないが、治承元(1159)年10月、十三歳にして上西門院内蔵人に任じられた「右近将監」源頼朝の例と同様、遠藤持遠も上西門院蔵人であったのかもしれない。また、胤頼は持遠との縁によって、持遠の子・高尾神護寺の文覚上人(遠藤武者所盛遠)の弟子となっている。
上西門院や八条院は反平氏の拠点として機能していたといわれており、とくに八條院は二條天皇准母にして、平氏に挙兵した以仁王(三宮、最勝王)の養母でもあった。二条天皇准母「八条女院御猶子」(『玉葉』治承四年五月十五日条)である「三宮」は「永万元年十二月六日、御年十五と申しゝに皇太后宮(太皇太后宮)の近衛河原の御所にて忍びて御元服有りし」(『延慶本平家物語』)とあるように、永万元(1165)年12月6日に元服する。これは7月28日の異母兄・二条院崩御からわずか四か月後というタイミングであった。以仁王が元服した「近衛河原の御所」の主「皇太后宮(太皇太后宮)」は、近衛・二条の二世の皇后となった藤原多子(藤原公能娘で以仁王の又従姉)である。
二条天皇は父・後白河院の院政を否定して親政を展開しており、後白河院は雌伏を余儀なくされていたが、二条院崩御後、幼少の六条天皇のもとで復権。旧二条院派を排除し、平清盛と協調して絶大な権限を以て院政を展開することとなる。二条院と繋がりの深かった人々は逆に雌伏を余儀なくされるが、彼らの拠り所となったのが、おそらく八条院であろう。以仁王の元服は二条院に近かった人々が密かに支援していたと思われ、後白河院の寵妃・平滋子所生の七宮(憲仁、のちの高倉天皇)の皇位継承を阻止するべく動いていたと思われる。そして、元服の場を提供した太皇太后も協力者だったことは明らかであろう。そしてこのとき授けられた「以仁」の御名は、二条院の御名字勘考の際に「守仁」とともに最終候補となったものであった(『兵範記』久寿二年九月廿三日条)。この「以仁」の名を撰ぶに当たっては、二条天皇准母にして以仁王の養母となった八条院の介入があった可能性が高いだろう。二条院崩御から五か月あまりでの以仁王の元服は、以仁王養母・八条院、太皇太后多子らが二条院派の人々とともに画策した、六条天皇皇嗣としての擁立計画だったのではなかろうか。
当時の後白河院は兵部卿平清盛と協調政治を展開しており、二条院に近い以仁王の存在を認めることはなく、その元服についてはかなり神経をとがらせたと考えられる。その結果、永万元(1165)年12月25日、後白河院は寵妃平滋子所生の憲仁(五歳)に親王宣下し(『百錬抄第七』永万元年十二月廿五日条、『兵範記』仁安元年十月十日条)、兵部卿平清盛をその勅別当に任じた。以仁王の元服からわずか二十日後というタイミングで、しかもわずか五歳という幼児に対しての親王宣下は、憲仁親王を皇嗣と定めたことを公にしたものであろう。後白河院が太皇太后や八条院、旧二条院派の支援による以仁王の元服を知り、平清盛と共謀して急ぎ憲仁に親王宣下し、以仁王の優位性を阻止したものだろう。この当時の太皇太后宮亮は清盛の義弟・平経盛であり、以仁王元服の情報は経盛から齎された可能性もある。
仁安元(1166)年10月10日、摂関家本邸(邸主は北政所盛子)である東三条殿で憲仁親王を立太子させた(『兵範記』仁安元年十月十日条、『玉葉』仁安元年十月十日条)。摂政松殿基房はなぜか「遅参」しているが、平盛子が摂関家領を継承したことへの反発であろう。憲仁立太子に際しては、清盛が春宮大夫に就任。以下、清盛側近の五条邦綱が春宮権大夫、春宮亮は平教盛、春宮権亮は右中将藤原実守、大進の一人に平知盛が就くなど(『玉葉』仁安元年十月十日条)、春宮職は非常に平氏色の強い人選となっており、次の天皇は官位と武力を併せ持つ平氏が支えることが示された。
後白河院は清盛との連携のもとで院政を推し進めていたが、仁安3(1168)年2月2日、清盛は「寸白」のため六波羅邸で床に伏し、7日には「頗以減気」という病態を示していた。ようやく8日から「又増気」となるも「事外六借云々、天下大事歟」という状況に変わりはなかったようである(『玉葉』仁安三年二月九日条)。九条兼実は「猶々前大相国所労、天下大事只在此事也、此人夭亡之後、弥以衰弊歟」(『玉葉』仁安三年二月十一日条)と清盛亡き後の政治的混乱を予想している。
当時後白河院は熊野詣のため京都を留守にしており、16日に帰京の予定であったが、「相国危急」を聞いて予定を繰り上げて15日に帰京し、「即密幸六波羅第」して清盛を見舞い(『玉葉』仁安三年二月十五日条)、翌16日には六条天皇の譲位を閑院において行うことを「俄」に決定(『玉葉』仁安三年二月十六日、十七日条)した。九条兼実はこの譲位について、「上皇有思食事、御出家事歟」、「因之令急給、又前大相国入道所悩已危急、雖不増日比、更非有減気、且彼人夭亡之後、天下可乱」ということを院が「頗急思食事歟」と予想している。「天下可乱」は皇位継承に発する騒乱であろうから、旧二条院派による復権行動、具体的には以仁王を擁した皇位要求運動と考えられよう。この動きは後白河院の以仁王への警戒を強め、結果として親王宣下といった皇位継承に直接結びつく行為は行われず、以仁王は三条高倉御所で雌伏の時を過ごすこととなる。
こうした動きを阻止するべく、2月19日、六条天皇を譲位させて憲仁親王を践祚(高倉天皇)させた。清盛は病態が回復したのちは福原へ遷り、嘉応元(1169)年6月17日、後白河院とともに出家(『玉葉』嘉応元年六月十七日条)。その後は後白河院とともに政務を後見することとなる。嘉応3(1171)年12月2日には清盛入道の娘・平徳子が院御所・法住寺殿で後白河院猶子として高倉天皇に入内する((『玉葉』嘉応三年十一月廿八日条、十二月十四日条)ほどの協力関係を構築した。
ところが、安元2(1176)年6月、建春門院滋子が「二禁(腫瘍)」のために病床に伏すようになる(『玉葉』安元二年六月十一日条)。「胸幷脇下二禁」とあることから、乳及び脇下リンパ節の腫瘍と思われる。この頃は「不及大事」と楽観的な見方もあったが、実際の病状は芳しくなかった。また、13日には後白河院鍾愛の異母妹高松院姝子内親王(八条院実妹、尊恵大僧都養母)が崩御するという災難が後白河院に降りかかっている。
その後、建春門院は様々な療治の甲斐なく、7月8日に三十五歳の若さで薨じた(『百錬抄』安元二年七月八日条)。これがきっかけとなり、後白河院と平清盛入道の関係は次第に悪化していくことになる。
建春門院薨去から四か月後、高倉天皇に猶子が選ばれた。これは中宮徳子に皇子が誕生しないための措置であるが、安元2(1176)年10月23日には「少将隆房」が「法皇々子仁操法印外孫、仁和寺宮弟子」を抱いて参内(『玉葉』安元二年十月廿三日条)、11月2日には平時忠が「法皇々子遊女腹」の「座主弟子宮親宗朝臣養君」に随って参内し(『玉葉』安元二年十一月二日条)、いずれも高倉天皇の猶子となった。平時忠は姉・時子を通じて清盛一門と深い接点を持っていたが、もともと公卿の家柄である堂上平氏であり、清盛一門からは独立していた人物である。時忠は弟で後白河院近臣・平親宗が養君とした「座主弟子宮」を推したであろうし、時忠・親宗は建春門院の実弟であることから、九条兼実も彼が皇嗣の有力者とみているが、実母が遊女ということもあってか「儲弐」の器かと疑いもしている(『玉葉』安元二年十月廿九日条)。いずれも後白河院が院政を敷くために、高倉天皇の皇嗣候補を送り込んだ謀略と思われる。
さらに12月5日、蔵人頭に院近臣の左中将定能、右中将光能が任じられた。この除目は正式なものであるが、これは蔵人の上臈で「入道相国最愛之息子、当時無双之権勢」があった平知盛を飛び越えた人事であり、後白河院の意向を受けたものであることは間違いなく、清盛入道への徴発とも取れるものであった(『玉葉』安元二年十二月五日条)。後白河院は清盛入道との協調政治からの離脱を積極的に進めていたのであった。
ところがこのような中、安元2(1176)年に起こった「加賀目代師恒」による白山領焼払い事件に対し、延暦寺大衆が蜂起する噂が都に伝わった(『玉葉』安元三年三月廿一日条)。目代師恒は後白河院近臣・西光の子で、加賀守は師恒の兄・師高が務めていた。3月30日、延暦寺僧の訴えにより、後白河院はやむなく師恒を備後国への配流に処すが(『玉葉』安元三年四月二日条)、4月12日夜半から延暦寺大衆は神輿を押し立てて参洛。祇陀林寺に集まると、後白河院の命を受けた左大将重盛の官兵と合戦に及び、神輿を路上に置き捨てて東西に散った。しかしこのとき、神輿に矢が突き刺さるという事態が発生。大衆の勢いを恐れ、翌14日、高倉天皇は法住寺殿へと逃れている。このとき「大衆送書状於相国入道云、為致訟訴、猶可参公門、早可被致用心也」という延暦寺大衆から清盛入道への書状が送られたとある(『玉葉』安元三年四月十四日条)。清盛入道は延暦寺とは比較的友好的な関係にあり、清盛入道への書状が認められているのは、こうした関係の上からに他ならない。
15日明け方、後白河院は院宣を下して僧剛等を比叡山に上らせて事態の鎮静化を図るが、大衆によって追い返されてしまうという事態となり、やむなく院は延暦寺大衆の要求を呑んで「加賀守師高配流、奉射神輿之者可禁獄」という判断を下すこととなった。そして20日、師高を解官の上、尾張国へ配流、神輿を射た重盛郎従の平次利家、平五家兼、田使難五郎俊行、加藤太通久、早尾十郎成直、新次郎光景の五名を禁獄に処した(『玉葉』安元三年四月廿日条)。
しかし、延暦寺へ譲歩を余儀なくされた後白河院の怒りは収まらず、強訴の張本として5月5日、「天台座主法務僧正明雲」を解任し、職掌の停止の宣旨を出させた(『玉葉』安元三年五月五日条)。大衆はこれに猛反発するも5月11日、院七宮・覚快を天台座主とする宣命が出され、前座主明雲の罪名勘考が行われた(『玉葉』安元三年五月十一日条)。その結果、明雲は伊豆国へ配流が決定し、明雲は執行まで謹慎が命じられ、13日には「検非違使兼隆、為守護被加遣之、其譴責之体、如切焼」というような激しい拷問も行われたようである(『玉葉』安元三年五月十五日条)。なお、このとき遣わされた検非違使兼隆は、この三年後に伊豆目代として頼朝に討たれた山木判官兼隆である。
5月21日夜、明雲は伊豆国へ出立する(『玉葉』安元三年五月廿一日条)。ところが、23日、明雲の護送使一行が近江国勢田あたりまで来たとき、「山大衆二千人許遮近江国々分寺中路」と道をふさいで明雲の奪取を図った。このとき「座主、頻雖被固辞」するも、強要して比叡山へと連れ帰ってしまった(『顕広王記』安元三年五月廿三日条)。
激怒した後白河院はすぐさま兵士に追わせるも、すでに大衆は比叡山に登っており、空しく引き返したという(『百錬抄』)。度重なる延暦寺の行為についに激発した後白河院は「此上堅東西坂下、可被攻叡山」と比叡山攻めを決定するに至った(『玉葉』安元三年五月廿三日条)。そして24日、「召居両大将、可固坂本之由有」と、左近衛大将・平重盛、右近衛大将・平宗盛の両大将を召して比叡山攻めの院宣を下すが、彼らは前代未聞のことに即答せず、「先可仰入道、随其左右」と清盛入道の意見に随うことを申し遁れた(『顕広王記』安元三年五月廿四日条)。これを受けて、後白河院は直ちに「平内左衛門」を福原に飛ばして清盛入道を召還する。
翌25日、清盛入道は返事を曖昧にしながら、「申時入道被入洛」という返事をしている(『顕広王記』安元三年五月廿五日条)。しかし、実際に清盛入道が入洛したのは27日夜であった(『玉葉』安元三年五月廿七日条)。その二日の間に何があったのかは不明だが、福原と六波羅の間では頻繁に使者が往復し、その後の対応が練られたのであろう。
そして、翌28日、「禅門相国参院、有御対面云々、大略堅東西之坂、可責台山之議、一定了云々、然而入道内心不悦云々」と、清盛入道は法住寺殿に参じて後白河院と対面した。清盛入道は延暦寺攻めを押し止めんとしたと見られるが、後白河院の逆鱗は収まらず、さすがの清盛入道も説得を諦め、「一定了」と比叡山攻めを了承したことが窺える。しかし、清盛入道の「内心不悦」が伝わるほど、清盛入道は不満を隠さず法住寺殿を退出したのだろう(『玉葉』安元三年五月廿九日条)。
明雲の奪取以降、後白河院は延暦寺の末寺、荘園を諸国の国司に注進させており、延暦寺領の収公などの処置を考えていたとみられる。さらに近江、美濃、越前三か国の国司に対して国内武士の注進が命じられており、延暦寺を粟田口と坂本の東西両面から攻める軍備を進めたことがうかがえる。そして、後白河院は5月28日と29日の二回にわたって僧綱等を山に登らせ「可進明雲」「被問謀叛之意趣」を命じており、これが事実上の最後通牒であったのだろう。しかし、これにも「不申大衆返事」と無視を決め込む態度をとった(『玉葉』安元三年五月廿九日条、『顕広王記』安元三年五月廿八日条)。
ただ、延暦寺大衆がここまで強行に後白河院に対する無礼、無視ができたのも、何らかの担保があったからではなかろうか。延暦寺は以前より平氏とは比較的親密な関係を続けており、「大衆送書状於相国入道」とあるように(『玉葉』安元三年四月十四日条)、清盛入道と延暦寺大衆の間では連絡が取り合われていたのかもしれない。後白河院の延暦寺攻めの中止説得に失敗した清盛入道は、翌29日の夜、後白河院への対応を一変させる。
後白河院は有力な近臣勢力が排除されたことで雌伏を余儀なくされるが、年が明けて治承2(1178)年3月1日、院が「於薗城寺可伝受秘密灌頂於公顕僧正」(『玉葉』治承二年正月廿日条)と、延暦寺を差し置いて、園城寺の公顕権僧正を師僧として「為大阿闍梨令伝法灌頂」(『山槐記』治承二年正月廿日条)を受ける計画が発覚する。これを知った延暦寺衆徒は「可令受天台灌頂給者、於延暦寺可有御灌頂也、又於寺被遂其事者、彼寺自往昔宿意也」(『山槐記』治承二年正月廿日条)と、このことを妬み、「其事、彼日以前可焼三井寺」「速可焼払薗城寺」と、三井寺攻めを計画するに至った(『玉葉』治承二年正月廿日条、『山槐記』治承二年正月廿日条)。この風聞を見にした院は「事已火急」と考え、右大将宗盛を福原に遣わして対策するとともに、正月20日、院は勅命を以て僧綱を比叡山に上らせて制止を図るも、「王化如鴻毛、豈従勅命」として撤回。清盛入道と延暦寺との関係から清盛入道を勅勘したが清盛入道はまったく動ぜず、いっそう延暦寺を勢いづかせていた(『玉葉』治承二年正月廿日条)。結局、21日に山に登った僧綱は衆徒の説得に失敗して帰参することとなる。結局、「御幸必定停止云々」と予想される状況となり(『玉葉』治承二年二月廿一日条)、実際に3月25日、「来月一日寺御幸遂依山大衆欝停止」されることとなる(『山槐記』治承二年二月廿五日条)。
院はこれら延暦寺の行為に激怒。「抑留御灌頂事、奇恠思食之故」に、報復として5月17日からの恒例の最勝講に延暦寺学徒を召さず園城寺、興福寺、東大寺僧を以て執り行った(『玉葉』治承二年五月十七日条、『山槐記』治承二年五月十八日条)。院の延暦寺に対する宿意意識はより一層園城寺および南都への肩入れとなって表れていく。
このような中、11月12日に清盛入道が待ちに待った中宮平徳子の「皇子降誕」が告げられた。のちの安徳天皇である。「未二點」であったという(『山槐記』治承三年十一月十二日条)。清盛入道は三夜の儀が終わったのち福原へと下向するが、11月26日に再び上洛。中宮大夫時忠に対して、一宮の立太子を年内にするよう後白河院と折衝するよう命じたとみられ、11月27日夜、参院した時忠が後白河院に奏達している。公的には二歳、三歳の立坊が「不快」であるとの理由であるが、平氏血統の皇太子冊立による今後の平氏政権の安定と後白河院の権限縮小ならびに、以仁王の皇嗣候補からの排除、そして何より高倉天皇の「内女房」ですでに臨月に近い「修理大夫信隆女」が皇子を出産した場合に備えての政敵予防であろう。
平氏に敵対的な関白松殿基房も、院の命を受けた蔵人頭定能の諮問に対し「二三歳共不吉、被待四歳頗似延怠、歳内頗率爾、何不被遂行哉、然者今年何事候哉」として年内立太子については肯定している。二歳または三歳の立太子の「不快」「不吉」は、二歳、三歳で立坊したものの即位することなく薨じた保明親王や実仁親王、慶頼王の例が忌諱されたと考えられる(『玉葉』治承二年十二月十五日条)。
12月8日、若宮に親王宣旨が下され、御名字の勘考がなされた。案は「知仁」「言仁」の二つが挙げられ、結果「言仁」が選ばれた(『玉葉』治承二年十二月十日条)。また、親王家の勅別当や家司等が選任され、家政機関が平氏一門の強い影響下に置かれた事がわかる。
●言仁親王家職
勅別当 | 右近衛大将平宗盛 | ||
家司 | 左馬頭平重衡 | 内蔵頭藤原経房 | 侍従平資盛 |
職事 | 左近衛少将平清経 | 蔵人右少弁光雅 | 左衛門権佐藤原光長 |
12月15日早旦、「立太子事」が冊命され、立坊の儀が六波羅の東宮御所にて執り行われた。本来後白河院は三条烏丸宮での挙行を主張したが、清盛入道が六波羅邸での開催を強行している(『玉葉』慈性に年十二月十五日条)。また同時に東宮職および春宮坊の除目が行われ、後白河院近臣の重鎮である高階泰経の子・経仲が入選しているが、権大進に抑えられ、全体的に平氏の関与を強めて後白河院の影響力を排除する人事となっている。
治承3(1179)年6月17日夜半子刻、清盛入道の娘で故摂政基実の北政所「従三位平朝臣盛子(白河准后、白河北政所)」が白川御所で薨去した(『玉葉』治承三年六月十七日条、『山槐記』治承三年六月十七日条)。二十四歳だった。しかし、盛子の死後、摂家預領の継承について明確な取り決めはなく、清盛入道、後白河院それぞれが恣意的に継承権を想定することとなる。清盛は摂関家私領であるならば盛子の義子・基通が正統な継承権者だと訴え、後白河院は盛子が天皇准母であるという立場から天皇管理下に置かれるべきであるとしたのだろう。結果、盛子が有した摂関家領は王家預となり、盛子の家政機関が師家に移されたことからも、その後関白基房へ付すことを考えていたのではなかろうか。そして、基房への白川殿領付与については、さらに大きな後白河院の陰謀(高倉天皇の退位)への布石であったとみられ、こうした院の動きを知った清盛入道の子・前右大将宗盛は、11月11日、厳島神社参詣と称して福原へ向かい、清盛入道に報告。これを受けた清盛入道は、わずか三日後の11月14日、多くの兵士を率いて、電撃的な軍事行動を起こすことになる。
清盛入道による後白河院と院近臣への報復人事は、単に摂関家にまつわる対立だけではないだろう。後白河院が清盛入道を排斥せんとする意思は、反平氏の関白基房の子・師家に摂関家嫡子の待遇を与えたことからもうかがえるが、それよりも高い次元である高倉天皇と東宮言仁親王という、平氏血縁の王統の否定を想定していたと思われる。摂関家から平氏の影響力を排除しただけでは、東宮言仁親王外戚の清盛入道の権力を削ぐことはできないからである。高倉天皇の一宮にして清盛入道を外祖父とする東宮言仁親王の即位は、即ち後白河院政の終焉と、高倉院政を利用した清盛入道による政治の壟断が想定されるのである。後白河院はみずからの院政継続のために、自身の唯一の俗世の皇子である以仁王を持ち出すことは十分想定できるものであった。そして、その以仁王の危険性をその元服以来十年にわたって認識し続けていたのが、清盛入道である。
政変から数日後の11月25日、清盛入道は以仁王が座主最雲親王の付弟であった当時から「知行之常興寺在九條、太政大臣信長所建立」を取り上げ、天台座主明雲に付した。
常興寺領はかつて白河院から天台座主仁源へ付されたのち、仁豪、仁実ら梶井円徳院の付領として最雲親王へと伝領されてきたものであり、梶井門正統の明雲が常興寺領を継承するのは「而当座主為彼最雲親王弟子、仍被付法家歟」という正当な理由もあった。以仁王から没収した公的な理由は「座主入滅之後、加元服猶知行彼寺、有庄園等」であり、梶井円徳院円融房(梨下正統)を継ぐ者への伝領であって、そこから外れた以仁王は伝領の資格はないという理論である。後白河院を幽閉し、以仁王擁立の可能性はなくなったにもかかわらず、長い間以仁王が継承していた所領を反論のできない「正当な理由」で収公する事は、清盛入道が彼の影響力の強さを極度に警戒していた現れであろう。
しかし、清盛入道が行った治承三年十一月の強引な関白人事、院近臣の解官、後白河院の鳥羽殿御幸は、平氏に反発する勢力をより勢いづかせ、その後に清盛入道の行った独断的な行為が、結果的に反平氏勢力を糾合し、数年後、平氏一門を滅ぼす大きな原因となるのである。
治承3(1179)年11月14日夜、宮中では豊明節会が予定されていたが、同日夕刻、不意に清盛入道は「武士数千」を率いて福原から入洛した。このため洛中には武士が溢れて「凡京中騒動無双」という騒ぎとなっていた。人々は「人不知何事」とその原因がわからずに困惑しているが、九条兼実は節会のために「今夜出仕雖非無所恐、為勤公事出仕、不可有横災之由、深存忠、仍令企参仕」と武士の狼藉に注意しつつ出仕している。この混乱を「乱世之至」と表現し、突如として騒乱の体を見せ始めた京中の状況を嘆いている(『玉葉』治承三年十一月十四日条)。
西八条邸に入った清盛入道は、関白人事案と意見書を作成して「自今旦、右将軍及若州等、数遍往還」と、前右大将宗盛を通じて「若州等」と数度に渡り交渉させ、関白人事案を「内々議定」させた(『玉葉』治承三年十一月十五日条)。清盛入道の武威に恐れをなした朝廷は「忽遣勅使、被仰此儀可被行之状」を発し、上卿を源中納言雅頼として「詔書宣命等」を認めた。九条兼実は予め「詔書宣命等」に係る下記の人事内容を史大夫隆基から得ている。
清盛入道は絶対的武力を背景に、11月15日、松殿基房の関白を停止して藤氏長者を剥奪。基房嫡子・師家の権中納言ならびに右近衛権中将も停止させ、自身の女婿で非参議に捨て置かれていた右近衛権中将藤原基通を藤氏長者に付けるとともに、関白宣下と内大臣補任を朝廷に認めさせた。
・藤原基通:関白宣下および内大臣補任、藤氏長者の就任
・藤原基房:関白の停止(藤氏長者剥奪)
・藤原師家:権中納言ならびに右近衛権中将の停止
しかしこの基通への関白宣下の評判は芳しいものではなかった。関白は執政の重職にあるため、実務経験が必要不可欠であり、納言、参議など議政官を経験する先例であった。ところが基通は長らく非参議に置かれ、ここから直に関白および内大臣へと就任することになった。十数年にわたって反平氏思想の関白基房が朝廷を取りまとめる中で、平氏と近い存在の基通を議政官に就けないという基房の策謀であったのかもしれない。
この先例にない関白兼内大臣の補任を、叔父の兼実は「自非参議任大臣、幷無摂録事今度始之」と評している(『山槐記』治承三年十一月十六日条)。いまだ二十歳の若者で、父基実の早世により有職故実を学ぶ機会を逸していた基通は、執務や典礼について戸惑うことが多く、叔父兼実に逐一質問しながら儀式を行っている(『玉葉』治承三年十二月八日条)。これを裏付けるように、兼実のもとを訪れた基通家司の「兵部卿入道信蓮(平信範)」は数刻談話しているが「多是新博陸、未練之間事歎申」て、とくに「日頃籠居人、俄居重任、毎事惘然、無術之由被命」(『玉葉』治承三年十二月十日条)と、基通自身から「籠居していた人が俄かに関白となってしまい、やることなすことわからない事ばかりでどうしようもない」と告げられたことを兼実に伝えている。基通自身、欲して関白になったのではないことが明白であり、彼もまた清盛入道と後白河院の対立の犠牲者であった。11月28日には新関白基通の家司職事が定められたが、新補の家司らは平氏関係者で占められており、平氏は名実ともに摂関家を支配下に収めたことになった。
治承三年十一月政変から三か月後の治承4(1180)年2月21日、高倉天皇は二十歳にして東宮言仁親王に譲位して上皇となり、言仁親王はわずか三歳で践祚(安徳天皇)した。
ところが、高倉上皇の初行幸が先例に反して清盛禅門の強い希望で厳島とされたことから、激しく反発した「薗城寺大衆発起、相語延暦寺及南都衆徒」が「参法皇及上皇宮、可奉盗出両主」を企てた。ただ、延暦寺でこの呼びかけに応じたのは専光房阿闍梨珍慶のみで(『山槐記』治承四年三月十七日条)、もともと平氏との関係は悪くなかった延暦寺では「延暦寺総大衆不成此議」と、園城寺とは異なり全山挙げて謀議に加わったわけではないようだ。
この両院奪取計画は、「法皇令告前右大将給、其後帥大納言隆季被告大将」と、後白河院と太宰帥隆季から平宗盛へ情報が齎されており(『山槐記』治承四年三月十七日条)、事前に清盛側に漏れたことで、高倉院の厳島行幸は19日に延引、後白河院は警衛のために多くの兵士に囲まれて鳥羽殿から「五条大宮之辺家為行家云々」「五条南大宮東前備後守為行宅」へと遷御するため移動するが、途中の「四墓(四塚)」で再び鳥羽殿へと戻っている。
こうした平氏方の動きによって大衆の両院奪取の計画は失敗に帰すこととなる。しかし、園城寺や興福寺の平氏政権に対する不信感は拭われることなく、平氏と園城寺・興福寺衆徒の対立は激化することとなり、高倉宮以仁王の騒動へと繋がっていくこととなる。
三条高倉御所跡 |
『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年4月9日の夜、「入道源三位頼政卿」が子息の前伊豆守仲綱らを率いて密かに以仁王の坐す三條高倉御所を訪れ、「前右兵衛佐頼朝已下」の源氏を催して平氏を討ち、「可令執天下給之由」を告げたとある(『吾妻鏡』治承四年四月九日条)。そして、これを受けた以仁王は「散位宗信」に指示して「令旨(最勝王宣旨)」を下したとされる。
ただし、清盛入道に対する頼政の敵意については疑問である。頼政が悲願としていた従三位に昇叙したのは「入道相国奏請」によるものであり、彼に対しては恩義を感じこそすれ、敵愾心を持つ余地はないだろう。また、たとえ清盛入道の後白河院幽閉や院近臣粛清、独断的な関白人事など常軌を逸した治承三年十一月の政変に怒りを感じたとしても、頼政と院、前関白基房との関わりの希薄さから考えて、自ら進んで反平氏の先頭に立つことは想定しづらい。逆に頼政は政変から十一日後、以仁王が城興寺領を収公された三日後の11月28日(『公卿補任』)、突如出家遁世しており、七十六歳という年齢に加えて「煩赤痢病、及獲麟」(『玉葉』治承三年正月十二日条)という病状に加え、動乱の世の中に嫌気がさしていたこともあったのではなかろうか。
では、なぜ遁世したはずの頼政入道が、出家から五か月の間に、一転友好関係にあったはずの清盛入道を討つべく4月9日の「最勝王宣」を主導する立場へと変化したのであろうか。
おそらく頼政入道の本心は、和歌の道に執心することを望み、以前と変わらず清盛入道に対抗する意思はなかったであろう。しかし、主である八条院や太皇太后宮ら美福門院、二条院ゆかりの王統による人々が、武門源氏の最上位にある頼政入道を説得し、その影響力を以て諸国源氏へ挙兵を促す謀略に加担させたのだろう。そして、頼政入道も主筋の要請を拒むことはできなかったのだろう。
頼朝の叔父・十郎義盛は以仁王及び源三位頼政入道によって八条院蔵人に推挙され(このとき名を行家と改める)、八条院蔵人として以仁王令旨(最勝王宣)を諸国源氏へと繋げた。源義盛(行家)はおそらく保元の乱で父・為義が殺害された後、摂津源氏源頼政に養われていたと思われるが、頼政は美福門院およびその皇女・八条院に出仕しており、こうした頼政の立場から、河内源氏の胤子ながら顔を知られていない義盛に白羽の矢が立てられ、八条院蔵人として東国へと遣わされたのであろう。
名前 | 役職 | 備考 |
源義清 | 上西門院判官代 | 足利義康の長子。木曾義仲に仕え、平家との戦いで討死を遂げる。 |
源頼朝 | 上西門院蔵人 | 源義朝の三男。もと二條天皇蔵人。兄には義平、朝長がいた。 |
藤原季範 | 熱田大宮司 | 熱田大社の大宮司家。源頼朝の母の実家。 |
源義長 | 上西門院蔵人 | 足利義康の二男。上西門院判官代義清の弟。 |
源義房 | 上西門院蔵人 | 新田義重の孫。 |
千葉胤頼 | 上西門院に仕える | 千葉介常胤の六男。頼朝の挙兵に尽力し、頼朝から大変な信頼を受けた。東氏の祖。蔵人所衆、上西門院出仕。 |
遠藤持遠 (文覚の父親) |
上西門院蔵人か | 摂津渡邊党の一員。摂津源氏棟梁の源頼政と深い関わりを持っていたと思われる。 |
遠藤盛遠 (神護寺文覚上人) |
院武者所(鳥羽院か) | のちの高尾の文覚上人。頼朝に挙兵を勧める。その後も頼朝と深い関係を持つ。 |
源行家 | (八条院蔵人) | 源為義の末子。以仁王の令旨(最勝王宣)を伝える。のち頼朝と対立し、討たれた。 |
源仲家(木曾義仲兄) | 八条院蔵人 | 源義賢の長子。源頼政の養子となり、以仁王の乱では以仁王に属し、嫡男・仲光(蔵人太郎)とともに討死。 |
下河辺行平 | 八条院御領下総国下河辺庄司 | 源頼政の郎従。以仁王の挙兵を頼朝に伝える。弓の名手で、頼朝に仕えて平家との戦いに活躍する。 |
●『吾妻鏡』文治2(1186)年正月3日条
―東氏と遠藤氏の系譜―
千葉介常胤―――東胤頼
(六郎大夫)
∥――――――東重胤
∥ (平太兵衛)
遠藤持遠――+―娘
(左近将監) |
+―遠藤盛遠
(文覚上人)
紫線は以仁王の逃走ルート(推定) 青線は検非違使の追撃ルート(推定) |
治承4(1180)年5月15日、三条宮以仁王は源三位頼政入道と謀り、諸国源氏に平氏打倒の「最勝王宣」を送るとともに、平氏と姻戚関係にある高倉院(建春門院平滋子を母とする)および安徳天皇を排除し、園城寺や南都興福寺と結託して兵を挙げ、みずから「受国」を企てたとみられる(八条院だけではなく、平清盛入道によって鳥羽殿へ幽閉されていた父院・後白河法皇も背後にいた可能性)が、この王家転覆の企ては発覚してしまい、三条高倉宮邸は検非違使の襲撃を受けることとなる。この直前に以仁王は園城寺へ逃れ、さらに南都へ向かうが、平氏政権はいち早くこの園城寺脱出を察知し、検非違使藤原忠清、藤原景高らを南都への要所である宇治へと急派した。
検非違使が宇治に到着したときには、源三位入道らの軍勢はすでに宇治川を渡り、宇治橋を引き橋にして待ち受けており、検非違使と宇治川を挟んで対峙した。五月の宇治川は雪解け水が流れ増水していたが、数で勝る寄手は宇治川を馬で押し渡り、平等院前で合戦となった。ここで頼政入道の養子・源大夫兼綱は強弓を過たず寄手を射落とし、八幡太郎の如しと勇名を馳せた。その後、頼政入道の手勢が寄手を防いでいる間に、以仁王・頼政入道らは興福寺へ向けて南へ馳せ下るが、綺田河原で木津川に遮られたとみられ、ここで藤原忠清や景高に追いつかれて討たれた。この戦いでは以仁王に随って園城寺から付き随っていた胤頼の兄・園城寺律静房日胤(頼朝の祈祷僧。おそらく以仁王の護持僧)が討死を遂げている。場所は綺田にあった光明山寺に関係する神社(摂社か)の鳥居前か。
●『吾妻鏡』治承5(1181)年5月8日条
九条兼実の『玉葉』には、園城寺に匿われた以仁王を引き渡すよう園城寺へ派遣された僧綱・房覚僧正が帰朝し、高倉院の御所に参院した際、宮を支えている張本人は「律上房、尊上房」と奏上している(『玉葉』治承四年五月十九日条)。
以仁王の乱が鎮定されたのち、胤頼と三浦次郎義澄は東国へ帰国を企てたが、両名は「依宇治懸合戦等事、為官兵被抑留之間」とある通り、叛乱に関わった疑いで身柄を拘束された。胤頼の兄・律静房日胤が乱の首謀者であり、胤頼は当然嫌疑をかけられただろうが、三浦義澄が拘束された理由は不明。その後、半月ほど拘留されたのち胤頼たちは釈放され、帰国の途についた。胤頼・義澄が具体的に宇治合戦に関わった証左はないが、胤頼の周辺を見ると乱に関わった人物が散見され、胤頼・義澄も関係していた可能性は高いだろう。
胤頼・義澄は関東へと戻ると、まず伊豆の頼朝のもとへ参向して、数か月の無沙汰を詫びた。『吾妻鏡』によれば治承4(1180)年6月27日に、参上している。
このなかの「御閑談移刻、他人不聞之」とある部分について、ここで頼政入道の挙兵について語られたと考えられ、胤頼は後白河院の逆鱗に触れて伊豆国にいた師・文覚(遠藤持遠子)とともに「令同心、有示申于二品之旨」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)と、頼朝に挙兵を促し、同年8月、頼朝は、三浦次郎義澄の父・三浦大介義明と連絡をとって挙兵した。
このころ平氏は、「近曾為追討仲綱息、素住関東云々、遣武士等大庭三郎景親云々、是禅門私所遣也」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、以仁王の乱に加担した前伊豆守仲綱(源頼政子)の子息を追討するべく、清盛入道が公的な追討使ではない被官の大庭三郎景親を関東に戻したが、この「仲綱息」は「迯脱奥州方了」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、すでに奥州へ逃れ去っていた。このようなときに「忽頼朝之逆乱出来」(『玉葉』治承四年九月十一日条)たことが報告されたことから、「伊豆国伊東入道、相模国大庭三郎」(『山槐記』治承四年九月七日条)に頼朝追討が命じられることとなった。
頼朝の挙兵は「義重入道故義国子、以書状申大相国、義朝子領伊豆国、武田太郎領甲斐国」と、新田義重入道によって清盛入道へと伝えられて発覚し、義重は「義重在前右大将宗盛命相乖、彼家宗、坂東家人可追討之由仰下、仍所下向也者」と、宗盛の命によって追討のために上野国へ下向していた人物であった(『山槐記』治承四年九月七日条)。
そして9月7日、戦いの結末が「義朝子慮掠伊豆、坂東国之輩追討之伐取舅男、於義朝子入筥根山」と報告されている(『山槐記』治承四年九月七日条)。その報告は合戦後五日目の8月28日に同地を発した脚力のもので、「伊豆国伊東入道、相模国大庭三郎」が「相模国小早河」において頼朝の軍勢と合戦に及び、「伊豆国伊東入道(祐親入道)」の親族とみられる「伊東五郎」ならびに「相模国大庭三郎(景親)」に随っていた「甲斐国平井冠者」が討たれたこと、敵の「兵衛佐(頼朝)同心輩」として、「駿河国小泉庄次郎」「伊豆国北条次郎兵衛佐舅」「同(伊豆国)薫藤介用光」「新田次郎」を討ち取り、「兵衛佐残少被討成、箱根山遁籠了」(『山槐記』治承四年九月七日条)ということであった。なお、北条次郎は頼朝の小舅・北条三郎宗時、薫藤介用光は工藤介茂光、新田次郎は仁田次郎(仁田四郎忠常の兄か)であろう。その兵力は「群賊纔五百騎許、官兵二千余騎」であったという(『玉葉』治承四年九月九日条)。
頼朝は乳母関係の豪族・土肥次郎実平などわずかな供とともに箱根山中へ逃げ込み、実平が用意した舟に乗って、伊豆国真鶴から海路、安房国へ落ち延びた。
安房国に上陸した頼朝は、「御幼稚之当初、殊奉昵近者」の安西三郎景益のもとに身を寄せ、9月4日、藤九郎盛長を千葉介常胤に、和田義盛を上総権介広常にそれぞれ遣わして挙兵を促した。おそらく約一月前の頼朝と胤頼・義澄の密談以前からすでに千葉・三浦両氏は頼朝と連絡しあっていたと考えられる。和田氏(杉本氏)は以前より房総半島と関係を持っており、和田義盛が広常への使者に選ばれた理由はそこにあったと推測される。
藤九郎盛長は千葉館の門前に到着して案内を請うと、すぐに館の客邸に招待された。客邸にはすでに常胤が座し、子息の胤正、胤頼が脇に座して盛長を迎えた。常胤は盛長のいうことをつぶさに聞くが、しばらく目を瞑って黙り込んだ。すると、脇座の胤正・胤頼が、
と常胤に告げると、常胤も、
として、頼朝に協力することを誓い、その後酒宴が催された。この酒宴で常胤は盛長に、
と忠告した。
さらに「遂挙義兵給之比、勧常胤最前令参向」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)と、常胤に参向を勧めたとされ、「兄弟六人之中、殊抽大功者也」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)と頼朝に評価されている。
9月6日晩、上総権介広常のもと遣わされていた和田義盛が安西館に帰参し、広常は千葉介常胤と談じたのちに参上すると言上したという。『吾妻鏡』が常胤を忖度して広常の上位に据える必要はないため、この説話は事実と捉えてよいだろう。上総平氏は両総平氏が入部して歴史の浅い上総国の開発を推し進めたことで、すでに開発の手が進んで数代を経た下総国の同族たちよりもその勢力を大きく伸ばすことができたとみられ、広常の同族勢力(姻戚の臼井氏、大須賀氏ら下総平氏を含む)は千葉介常胤を凌ぐ勢力を持っていた。ただし、広常が族長権を以て常胤に指図した形跡はなく、両者は同族としての関わり以上のものは持っていなかったとみられる。
そして続いて9日、千葉から盛長が参着して頼朝に次第を報告している。9月13日、常胤は子息親類らを率いて頼朝を迎えるために上総国へと向かおうとしていた。このとき「六郎大夫胤頼」は父・常胤に、
と進言した(『吾妻鏡』治承四年九月十三日条)。これに対し、常胤も
と「胤頼幷甥小太郎成胤」に指示。胤頼は成胤とともに目代館に馳せ向かい攻め立てた。この目代は「元自有勢者」であり、「令数千許輩防戦」したとある(『吾妻鏡』治承四年九月十三日条)。「元自有勢者」であるとすると、在地の豪族であった可能性が高いだろう。「数千」には誇張はあるが、かなりの勢力の持ち主だったことがわかる。また、下総国留守所がどこにあったのかは不明だが、翌日には成胤が千葉で親政と合戦していることから、千葉付近であったのかもしれない。
攻め寄せた胤頼・成胤はこのとき「北風頻扇」と北風が強いことに気づき、成胤は胤頼と謀って「廻僕従等於館後、令放火家屋焼亡」させることに成功。目代は「為遁火難、已忘防戦」て逃げ惑っていた。そこに待ち構えていた胤頼が目代の首をとった。
目代が攻められたことを聞いた千田庄領家判官代藤原親雅は、千葉介常胤を追捕すべく千葉庄へと兵を進めた(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)が、小太郎成胤と合戦し、敢無く生捕にされたという。
●『吾妻鏡』治承4(1180)年9月14日条
9月17日、頼朝は下総国府に入った。千葉介常胤も胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼ら子息と嫡孫・成胤、随兵三百名を相具して国府に入り、頼朝と面会をした。この時、常胤は長年の宿敵であり、さきの戦いで生け捕った藤原親政を曳き出して頼朝に見せたのち、駄餉を献じた。常胤はこの酒宴のときに頼朝から座右に招かれ、「須以司馬為父之由」と頼朝に言わしめている。
千田庄 |
頼朝に呼応した常胤が下総目代を追捕した際、平氏血縁者の千田庄判官代の藤原親政(親雅)が常胤追討のために兵を率いて攻め寄せ、常胤の孫・成胤がこれを返り討ちにしたという。
この事件は『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月14日、「下総国千田庄領家判官代親政」が「聞目代被誅之由」いて、「率軍兵欲襲常胤」したことから、「常胤孫子小太郎成胤相戦」って、「遂生虜親政」ったと記されている(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)。この記述では、そこで合戦が行われたのかはわからない。
この事件は『千学集抜粋』によれば、治承4(1180)年9月4日、安房の頼朝を迎えるため「常胤、胤政父子上総へまゐり給ふ」と、常胤と胤正のみが上総国へと向かったとあり、他の諸子は従った形跡はない。成胤についても記載があり、「加曾利冠者成胤たまゝゝ祖母の不幸に値り、父祖とも上総へまゐり給ふといへとも養子たるゆゑ留りて千葉の館にあり、葬送の営みをなされける…程へて成胤も上総へまゐり給ふ…ここに千田判官親政ハ平家への聞えあれハとて、其勢千余騎、千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投かけける、成胤曾加野まて馳てふりかへりみるに、火の手上りけれは、まさしく親政かしわさならむ、此儘上総へまゐらむには、佐殿の逃たりなんとおほされんには、父祖の面目にもかゝりなん、いさ引かへせやと返しにける」と、成胤は祖母の葬送のために遅れて父祖の上総国へと向かったが、蘇我野で振り返ると千葉に火の手が上がっており、引き返したとされる。その後、「結城、渋河」で親政の軍勢と出会い、散々戦って「親政大勢こらえ得す落行事二十里、遂に馬の渡りまてそ追打しにける」と、親政を「馬の渡り(佐倉市馬渡か)」まで追撃したことになっている(『千学集抜粋』)。
また、『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は常胤率いる「新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次常秀・武石の次郎胤重・能光の禅師等を始めと為て、三百余騎の兵」を先陣として上総国から下総国へと向かったという。このとき、藤原親正は「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐無し、京都の聞えも恐れ有り、且うは身の恥なり」と、千田庄内山の館を発して「千葉の結城」へと攻め入ったとする。このとき「加曾利の冠者成胤、祖母死去の間、同じく孫為といへども養子為に依つて、父祖共に上総国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送の営み有りけり」とされ、「親正の軍兵、結城の浜に出で来たる由」を聞いた成胤は、上総へ急使を発する一方で「父祖を相ひ待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず、豈勇士の道為らんや」と攻め懸けるも無勢であり、上総と下総の境川まで追われるが、「両国の介の軍兵共、雲霞の如くに馳せ来たりけり」と、千葉介常胤、上総介広常の軍勢が救援に加わったことで「親正無勢たるに依つて、千田の庄次浦の館へ引き退きにけり」と千田庄次浦へと退いたとされる(『源平闘諍録』)。
『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はともに妙見説話を取り入れ、成胤を養子とする同一の方向性をもつ内容で、物語性の強い『源平闘諍録』はより詳細に記載されている傾向にある。またいずれも千葉の結城浜を戦いの舞台としていること、親雅が捕まらずに逃亡し得ている共通点が挙げられる。しかしながら、この『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はあくまでも説話集と物語であって、そのまま史実と受け取ることはできない。『千学集抜粋』はその妙見信仰と千葉氏を結びつける説話という性格上、まだ妙見信仰の成立していなかった平安時代末期の千葉氏に、妙見信仰の伝承を挿入する上で『源平闘諍録』の妙見説話を取り込んだ可能性が高く、千葉氏を賞賛する創作がかなり強いと考えられる。
『吾妻鏡』も全体をそのまま史実とするには危険な部分を含んでいるものの、後世北条氏にとって頼朝挙兵に伴う千葉氏の活躍を改変する必要性は全くないので、これは当時の記録に基づく史実として受け取ってよいと思われる。
親雅は9月13日の成胤と胤頼による下総目代追捕の翌日、14日に「聞目代被誅之由、率軍兵、欲襲常胤」と常胤の襲撃を企てたとされている。目代館はその性質上、国府近辺であると考えられることから、目代館から親雅の匝瑳郡内山館までは50~60km程度の距離と考えられ、無理なく同日中に到着するのはかなり厳しい。つまり、襲撃の翌日に親雅が周辺氏族を動員して匝瑳郡を出立しても14日に西総に至ることは不可能である。つまり、親雅はこれ以前に匝瑳郡を出立していたことが想定され、それは頼朝追討の命が下総国府を通じて発せられていたことが伺える。親雅は千葉氏を討つために千葉へ向かったわけではなく、安房上陸の一報を受けた親雅が、上総国府への官道大路の通る千葉庄へ向かっていたのではなかろうか。
ところが、千葉介常胤が派遣した千葉小太郎成胤と千葉六郎大夫胤頼が下総目代を襲撃して平家方目代を殺害。同時に国府も占拠したのだろう。取って返した千葉小太郎成胤が千葉庄付近で「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」していた親雅を攻めて合戦になったのだろう。
なお、千葉介常胤が9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼東。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族が上総国で面会したはずの頼朝に同道せず、別行動をして下総国府にいた不自然な記録が見える。
■『吾妻鏡』治承四年九月十七日条
上総国で頼朝に対面しているとすれば、下総国府で初対面のような出迎えをする必要はなく、国府での参会で常胤が「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を引き合わせるのも、常胤が頼朝に同道していたのであればすでに行われていたと考えるのが妥当であろう。
つまり、常胤ら千葉一族は頼朝の下総行きに同道したのではなく、千葉小太郎成胤と千葉六郎大夫胤頼を下総目代を追討して国府一帯から平氏の勢力を駆逐し、翌14日に「率軍兵欲襲常胤」した千田判官代親雅を小太郎成胤を遣わして打ち破って「生虜」とした上で、17日に頼朝を迎え入れたのだろう。戦場は千葉の結城浜とされるが、のちに千葉氏と妙見信仰を結びついた際に、結城浜を妙見を迎え入れる前浜とする妙見宮が造営(金剛授寺尊光院)されたのではなかろうか。
藤原親雅
『尊卑分脈』によれば、皇嘉門院判官代。号して智田判官代。阿波守。常重・常胤と橘庄および相馬御厨を巡って争った下総守藤原親通の孫で、平清盛の姉妹を妻とし、平資盛の叔父という平氏の重縁者であった。
皇嘉門院判官代の経歴を有したが(『尊卑分脈』)、女院判官代在任のまま京都から下総国に下向することは考えにくい。また、治承4(1180)年5月11日時点の皇嘉門院領には千田庄が含まれておらず(「皇嘉門院惣処分状」『鎌倉遺文』三九一三)、皇嘉門院と千田庄には関わりはなく、親政もこの時点では女院司を辞していたと思われる。親雅の「千田判官代」は皇嘉門院判官代ではなく、荘園管理者としての判官代であろう。
当時の千田庄の荘園領主は不明だが、親政の出身である親通流藤原氏は摂関家家人であり、千田庄はもともと摂政藤原基実を領家(本所)としていたと思われる。親政は仁安元(1166)年7月27日の基実薨去後は、摂関家私領を継承した北政所・平盛子のもとで摂関家領判官代として実地支配を行ったため、千田庄平氏の統率を行い得たと考えられる。親政下向は、現実的には清盛が妹婿を下向させた具体的な東国管理の一端であったろうが、親政はあくまで摂関家家人の立場で千田庄を支配していたのである。
親政は親族が下総守を歴任しているが、いずれも二十年以上も前のことであり、親政が父祖の直接的な恩恵を受けることはなかったであろう。ただし、親政の父・下総大夫親盛が「匝瑳北条」に何らかの権益を有しており、親政はそれを継承して匝瑳北条内山に屋敷を持っていた(『吾妻鏡』)。長男の快雅が生まれたのが仁安元(1166)年、次男・聖円はその後の誕生であることから、親政が下総国に下向したのはその後であろう。
なお、親政は阿波守の経歴があったとされる(『尊卑分脈』)。阿波国は仁平元(1155)年までは摂関家知行国であったとみられるが、それ以降、治承3(1179)年まで後白河院御分国となっており、親政の阿波守受領は摂関家知行国当時、つまり康治2(1144)年以前となるが、この頃は親政の祖父や叔父が下総守に就いている時期であるため不可である。また、治承3(1179)年以降であるとすると、平宗親よりも後任となるが、このころ親政はすでに下総国にあり、これも時代的に合わない。仮に親政が阿波守に就いたとすれば、千葉氏との戦いに敗れて頼朝の面前に引き据えられた後、助命されて京都へ戻り、後年阿波守に任官したということになろうか。次男の慈円灌頂の弟子・聖円律師は「阿波阿闍梨」という号があり(『門葉記』建仁三年二月八日平等院修法)、この「阿波」は父・親雅の受領名によるところであろう。
子息二人(快雅・聖円)はいずれも関白九条兼実実弟・慈円門下僧であり、快雅は九條家出身の将軍・頼経の護持僧として鎌倉に下るなど、九条家と深く繋がっていたことがわかる。
功徳院僧正快雅(松田宣史『比叡山仏教説話研究 -序説-』三弥井書店、『吾妻鏡』、『門葉記』)
功徳院跡 |
千田判官代親雅の長男または次男。永万元(1165)年誕生。律師、僧都、権僧正。卿阿闍梨。勅撰歌人。比叡山延暦寺功徳院主。「快雅」の法名は師の慈円(道快)の一字と父・親雅の一字を受けたものと考えられる。建久9(1198)年3月24日、聖蓮房阿闍梨恵尋より谷流の一派三昧流の血脈を受ける。天台座主慈円を師として研鑽を積み、慈円門下の碩学として成長。慈円の高弟として大懺法院の供僧となった(『門葉記』)。
建仁3(1203)年2月8日、平等院(園城寺平等院)において師の前大僧正慈円を導師として、後鳥羽院の為の大熾盛光法が修されているが、助修として「聖円阿闍梨阿波」「快雅大徳卿」らが加わっている(『門葉記』)。「聖円阿闍梨」は快雅の弟であるが、快雅よりも伝法灌頂の時期が二年から三年ほど早いと予想され、僧位や修法の席次も常に上回っていることから、聖円は実際には快雅の兄の可能性が高い。
元久元(1204)年、阿闍梨宣旨を受けて以降、祈祷や五壇法など多くの修法に携わる。承元元(1207)年6月20日、押小路殿での院への七仏薬師修法に際し、慈円の伴僧の一人として「聖円権律師」「快雅灌頂阿闍梨」が見える。修法の中、後夜行法に際して参勤の公円法印が所労余気のため、快雅が後夜日中護摩勤仕する。系譜上で弟の聖円はすでに権律師となっており、快雅に先行している。
承元2(1208)年3月25日、青蓮院本堂で「懺法院供僧」として慈円に従って「聖円阿闍梨」「快雅阿闍梨」らが大熾盛光法を修している(『華頂要略門主伝第三』『門葉記』)が、ここから聖円、快雅は慈円の自房である大懺法院供僧であったことがわかる。
承元4(1210)年7月8日、青蓮院大熾盛光堂での大熾盛光法の修法に伴僧として「聖円律師」「快雅阿闍梨」が見られ(『門葉記』)、この時点でも快雅は任官していない。その後、建暦2(1212)年8月4日の慈円が導師を務めた大熾盛光法修法の伴僧として「快雅已講」が護摩壇手代を勤めており(『門葉記』)、已講となっていたことがわかる。さらに建保2(1214)年3月12日の後鳥羽院の賀陽院殿での御祈祷では已灌頂となっており、前年の建保元(1213)年に小灌頂阿闍梨を経て已灌頂となったと思われる。
建保3(1215)年11月6日、青蓮院大成就院における熾盛光法の修法に慈円の助修として聖円律師とともに快雅律師が見え(『門葉記』)、快雅は権律師となったことがわかる。また、これを最後に弟・聖円律師の名は見えなくなっており、この頃聖円は寂したのかもしれない。
快雅はその後も慈円門下として師とともに多くの修法に参じ、その功を以て昇進を続けることとなる。建保5(1217)年6月14日より慈円の吉水本坊の御念誦堂で後鳥羽院の為に佛眼法が修され、伴僧として快雅律師が見える(『僧事伝僧都』)。その翌月7月15日から28日まで修された賀陽院殿での後鳥羽院瘧気のための御祈祷では「権少僧都」となっており(『五壇法日記』)、佛眼法修法での功による昇任であろう。その翌年建保6(1218)年9月20日には、一条室町殿下御所で中宮(のち東一条院)の御産祈祷の五壇法が修され、導師慈円のもと金剛夜叉明王に修法した。その功績により、9月27日宣下で「権少僧都快雅 任大僧都」(『門葉記』五壇法二)に陞る。ただ、まだ皇子誕生がなかったためか、10月1日には一条殿で中宮御産祈祷として、七仏薬師法を大阿闍梨権僧正良快の伴僧として修法し、10月10日、無事に皇子降誕につき結願。10月17日、御産祈祷を修法した僧侶に叙任が行われ、快雅は権少僧都から権大僧都へと昇任する(『五壇法日記』)。
寛喜2(1230)年正月20日の一条殿での中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷においては、「法印権大僧都」として見え、その後も中宮御産祈祷などの修法を行う。しかし、その後は摂関家、とくに慈円所縁の九条家や西園寺家との関わりを強め、九条道家と西園寺公経息女・藤原倫子の間に生まれ、鎌倉殿となっていた将軍頼経の招聘のもと、貞永元(1232)年11月29日には雪の永福寺で歌会に参加しており、さらにその後は京都へ戻って貞永3(1234)年12月4日には、一条殿で北政所(九条教実室・藤原嘉子[西園寺公経息女]か)の御産御祈祷を行っている。さらに貞永4(1235)年4月4日、六波羅殿で将軍頼経のための御祈祷を執り行った。暦仁2(1236)年正月28日には西園寺五大堂(増長心院)で「入道大相国公経」のための御祈が行われ、快雅もこれに加わった。
嘉禎3(1237)年3月8日、故師の慈円に対して「賜諡号慈鎮和尚」の宣下があり、3月26日に廟所の無動寺本坊大乗院に勅使が参入。権僧正慈賢法印以下、快雅、貞雲、成源、聖増、隆承ら僧綱が南庭に東西に列した(『華頂要略門主伝第三』)。
そして延応元(1239)年8月28日には天台座主慈源の申請により、「勧賞以快雅法印被任権僧正了」と、ついに権僧正へと昇りつめた。なお、これ以降と思われるが、比叡山西谷功徳院(現在の法然堂)に住したことで、功徳院僧正と称された。
仁治3(1242)年7月3日、天変地異の祈祷を九条道家入道の法性寺殿荘厳蔵院で五壇法を修法。寛元2(1244)年2月10日には「関東将軍大納言入道殿(頼経)の御祈祷」を行い、4月15日にも「関東大納言入道殿(頼経)」の御祈祷で中壇(不動明王)を修法した。そして、5月15日の五壇法では僧正快雅、東大寺道禅法印、園城寺猷尊法印、猷聖法印、定親法務が修法した(『五壇法四』)。
寛元3(1245)年12月24日には、頼経入道のために一字金輪護摩を修法するなど、頼経入道の護持僧的な立場にあったことがわかる。寛元4(1246)年、頼経入道の帰洛に同行したとみられ、翌宝治元(1247)年12月12日、八十三歳で入滅(松田宣史『比叡山仏教説話研究 -序説-』)。
●『続古今和歌集』一首入選
●『五壇法日記』『門葉記』『比叡山仏教説話研究』より(快雅および聖円)
・建仁3(1203)年5月27日:法勝寺での八万四千塔供養で、師・慈円の讃衆(聖円阿闍梨、快雅大徳)(『門葉記』)
・建仁4(1204)年2月8日:平等院にて慈円助修として大熾盛光法を修す(阿波聖円阿闍梨、卿快雅大徳(『門葉記』))
・元久元(1204)年5月7日:吉水殿で如法経修法(聖円阿闍梨)(『門葉記』)
・元久2(1205)年2月21日:法勝寺で大熾盛光法を修法(聖円阿闍梨、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・元久2(1205)年8月15日:水無瀬殿での仏眼法修法の助修(聖円、快雅)(『門葉記』佛眼法二)
・元久2(1205)年11月22日:賀陽院殿で安鎮法修法の助修(阿闍梨聖円、阿闍梨快雅)(『門葉記』)
・建永元(1206)年7月15日:青蓮院にて慈円伴僧として大熾盛光法を修す(聖円阿闍梨)(『門葉記』)
・建永2(1207)年2月20日:賀陽院殿で七仏薬師法の修法で伴僧の一人として列す(阿闍梨快雅)(『門葉記』)
・建永2(1207)年3月22日:青蓮院大成就院で伴僧の一人として大熾盛光法を修す(快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元元(1207)年6月20日:押小路殿での七仏薬師修法に際し伴僧の一人として列す(聖円権律師、快雅灌頂阿闍梨)。修法の中、後夜行法に際して参勤の公円法印が所労余気のため、快雅が後夜日中護摩勤仕する。(『門葉記』)
・承元2(1208)年3月25日:青蓮院本堂で「懺法院供僧」として大熾盛光法を修す(聖円阿闍梨、快雅阿闍梨(『華頂要略門主伝第三』『門葉記』))。
・承元3(1209)年正月8日:青蓮院本堂で大熾盛光法を修法(聖円阿闍梨、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元4(1210)年正月22日:吉水懺法印熾盛光堂で鳥羽院のために普賢延命法修法の伴僧(律師聖円、阿闍梨快雅)(『門葉記』)
・承元4(1210)年7月8日:青蓮院大熾盛光堂で大熾盛光法修法の伴僧(聖円律師、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元4(1210)年10月4日:彗星出現により大熾盛光堂で大熾盛光法修法(聖円律師、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・承元5(1211)年正月25日:水瀬殿蓮華樹院での仏眼法修法の助修を務める(快雅阿闍梨)(『門葉記』仏眼法一)
・建暦元(1211)年4月11日:大成就院での仏眼法修法の助修を勤める(快雅阿闍梨)(『門葉記』仏眼法一)
・建暦元(1211)年11月16日:五壇法修法で阿闍梨快雅(『門葉記』五壇法四)「功徳院卿僧正」の記
・建暦2(1212)年正月10日:青蓮院本堂での大熾盛光法臨時修法の助修(権律師聖円、快雅阿闍梨)(『門葉記』)
・建暦2(1212)年8月4日:熾盛光法修法が始められ、伴僧として護摩壇手代を務める(快雅已講)(『門葉記』)
・建暦3(1213)年7月16日:青蓮院大成就院における鳥羽院のための熾盛光法の修法に助修として加わり、護摩壇手代を務める(聖円律師、快雅灌頂)。役人として弟・聖円を筆頭に快雅も加えられている。(『門葉記』)
・建暦3(1213)年8月6日:高陽院殿での佛眼法修法で助修に快雅灌頂(『門葉記』佛眼法二)
・建保2(1214)年3月12日:後鳥羽院の賀陽院殿で御祈祷(已灌頂快雅 功徳院僧正)(『五壇法四』)
・建保2(1214)年5月8日:大成就院にて高倉院のために如法経修法(快雅灌頂阿闍梨)
・建保2(1214)年11月13日:大成就院で熾盛光法修法で助修として務める(聖円律師、快雅灌頂)(『門葉記』)。役人として弟・聖円を筆頭に快雅も加えられている。
・建保3(1215)年11月6日:青蓮院大成就院における熾盛光法の修法に助修として加わる(聖円律師、快雅律師)(『門葉記』)
・建保4(1216)年6月12日:賀陽院殿で御祈祷(権律師快雅)(『五壇法日記』)
・建保4(1216)年10月20日:賀陽院殿で天変のために五壇法を修法(権律師快雅)(『五壇法日記』)
・建保4(1216)年11月3日:3月23日に火災で焼失し、再建された青蓮院本堂での大熾盛光法修法の助修(快雅律師)(『門葉記』)
・建保5(1217)年6月14日:吉水本坊御念誦堂で院の為に佛眼法修法、伴僧として快雅律師が見える(二十一日、僧事伝僧都)
・建保5(1217)年7月15~28日:賀陽院殿で院の瘧気のため御祈祷(権少僧都)(『五壇法日記』)
・建保5(1217)年8月5日:青蓮院本堂で院御悩(瘧気だろう)のため大熾盛光法を修法した際の助修(快雅権少僧都)
・建保6(1218)年2月7~15日:御所道場(仁和寺)で修法(権少僧都快雅)(『門葉記』五壇法四、『五壇法日記』)
・建保6(1218)年9月20日:一条室町殿下御所で中宮(のち東一条院)御産祈祷、金剛夜叉明王に修法(権少僧都快雅)(『五壇法日記』)
⇒『門葉記』五壇法二においては、9月27日宣下で「権少僧都快雅 任大僧都」とみえる。
・建保6(1218)年10月1日:一条殿で中宮(のち東一条院)御産祈祷、七仏薬師法を大阿闍梨権僧正良快の伴僧として修法(快雅僧都)(『五壇法日記』)
・建保6(1218)年10月10日:皇子降誕につき結願。17日、修法の僧侶に叙任(権少僧都⇒権大僧都)(『五壇法日記』)
・建保6(1218)年11月21日:二条町口卿二位宿所で立坊御祈が行われ、仏眼法が修法(快雅僧都)(『門葉記』五壇法四)。
・建保6(1218)年12月2日:最勝四天王院において慈円門下の道覚入道親王(後鳥羽院皇子・十五歳)へ伝法灌頂が行われ、その讃衆二十名の僧綱として「快雅権大僧都」が名を連ねる(『華頂要略門主伝第六』『伝法灌頂日記下』)
・建保7(1219)年正月22日:五壇法修法で権大僧都快雅(『門葉記』五壇法四)
・承久元(1219)年正月22日:賀陽院殿で御祈祷(権大僧都)(『五壇法日記』)
・承久元(1219)年7月5~13日:賀陽院殿で院の夢想(金剛夜叉異常形像)によって御祈祷(権大僧都)(『五壇法日記』)
・承久2(1219)年2月6~1■日:水無瀬殿で御祈祷(権大僧都快雅)(『門葉記』五壇法四、『五壇法日記』)
・承久2(1219)年9月18日:五壇法修法で権大僧都快雅(『門葉記』、五壇法四)
・承久3(1220)年正月13~20日:賀陽院殿で御祈祷(権大僧都)。同勤の前大僧正真性は以仁王子(『五壇法日記』)
・安貞3(1229)年2月12日:五壇法修法で権大僧都快雅(『門葉記』五壇法四)
・寛喜2(1230)年正月20日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷(法印権大僧都)(『五壇法日記』)
⇒『門葉記』五壇法二においては、「法印権大僧都快雅 以経承任律師」とある
・寛喜2(1230)年11月13日:本坊での天変御祈修で佛眼法を修法し助修(快雅阿闍梨)(『五壇法日記』)
・寛喜3(1231)年正月21日:五壇法修法で法印権大僧都快雅(『門葉記』五壇法四)
・寛喜3(1231)年2月6日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷で普賢延命法修法を天台座主良快大僧正の助修筆頭として護摩壇勤仕する(法印前権大僧都快雅)(『五壇法日記』)
・貞永元(1232)年8月14日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷(法印快雅)(『門葉記』五壇法四、『五壇法日記』)
・貞永元(1232)年9月12日:一条殿で中宮(のち藻壁門院)の御産御祈祷の七仏薬師法の修法で伴僧筆頭(快雅法印)(『五壇法日記』)
・貞永3(1234)年12月4日:一条殿で北政所の御産御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・貞永4(1235)年4月4日:六波羅殿で将軍頼経御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・暦仁2(1236)年正月26日:五壇法修法で法印快雅(『門葉記』五壇法四)
・暦仁2(1236)年正月28日:西園寺五大堂(増長心院)で入道大相国公経の御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・嘉禎3(1237)年12月4日:五壇法修法で法印快雅(『門葉記』五壇法四)
・嘉禎4(1238)年4月4日:五壇法修法で法印快雅(『門葉記』五壇法四)
・延応元(1239)年5月20日:九条道家入道の病気平癒の御祈祷(法印)(『五壇法日記』)
・延応元(1239)年8月28日:天台座主慈源の申請により「勧賞以快雅法印被任権僧正了」(『五壇法日記』)
・仁治3(1242)年7月3日:九条道家入道の法性寺殿荘厳蔵院での御祈祷(前権僧正)(『華頂要略門主伝第五』)
・寛元元(1243)年12月10日:五壇法修法で僧正快雅(『門葉記』五壇法四)
・寛元2(1244)年2月10日:関東将軍大納言入道殿(頼経)の御祈祷(権僧正)(『五壇法日記』)
・寛元2(1244)年4月15日:関東大納言入道殿(頼経)の御祈祷で中壇(不動明王)を修法(僧正)(『五壇法日記』)
・寛元2(1244)年5月15日:五壇法を修す(僧正快雅、東大寺道禅法印、園城寺猷尊法印、猷聖法印、定親法務(『五壇法四』)
律師聖円
千田判官代親雅の次男(実際は長男か)。阿波阿闍梨。天台座主・慈円灌頂の弟子。慈円の修法した法会等に加わり、兄弟の快雅とともに慈円の自房であった大懺法院の供僧となった。
建仁3(1203)年2月8日、平等院において師の前大僧正慈円を導師として、後鳥羽院の為の大熾盛光法が修されて、助修として「阿波聖円阿闍梨」「卿快雅大徳」らが加わっている(『門葉記』)。快雅が阿闍梨灌頂を受けたのは翌元久元(1204)年であることや、修法の序列が聖円が常に上位にあることから、聖円が快雅の兄である可能性が高い。
建仁3(1203)年5月27日、法勝寺における後鳥羽院の八万四千塔供養(五寸多宝塔、実数は十三万二千基)が行われた際、導師である「前座主大僧正慈円」の「讃衆三十人」の一人として、讃頭快智のもと加わっている(『門葉記』)。
建永元(1206)7月15日、青蓮院に新造された大熾盛光堂にて、導師慈円の伴僧として「聖円阿闍梨」が大熾盛光法を修す(『門葉記』)。なお、この修法に快雅は加わっていない。
承元4(1210)年7月8日、青蓮院大熾盛光堂での大熾盛光法の修法に伴僧として「権律師聖円」「快雅阿闍梨」が、さらに同年10月4日には大熾盛光堂で彗星出現による祈祷で大熾盛光法が修法され、「聖円律師」「快雅阿闍梨」が見られ(『門葉記』)、この時点で権律師となっていた。
建保3(1215)年11月6日、青蓮院大成就院における熾盛光法の修法に、慈円の助修として快雅律師とともに聖円律師が見える(『門葉記』)が、これを最後に聖円の名は慈円修法から消えており、おそらくこの頃聖円は入寂したのだろう。
●12世紀半ばの阿波守
任 | 任期 | 名前 | 備考 | 出典 |
康治2(1144)年正月30日 | 康治2(1144)年 ~久安3(1147)年 |
藤原頼佐 | 1155年当時、前阿波守(『兵範記』) | 『本朝世紀』 |
久安3(1147)年正月28日 | 久安3(1147)年 ~久安4(1148)年 |
藤原保綱 | 閑院家庶流で崇徳院近臣の実清子。 藤原教長の甥 |
『本朝世紀』 |
久安4(1148)年正月28日 | 久安4(1148)年 | 中原頼盛 | 『本朝世紀』 | |
久安4(1148)年2月か? | 久安4(1148)年? ~仁平元(1151)年 |
藤原保綱 | ||
仁平元(1151)年2月1日 | 藤原保綱 | 重任するが、7月14日解却。 | 『本朝世紀』 | |
仁平元(1151)年 | 不明 | |||
仁平2(1152)年正月28日 | 仁平2(1152)年 ~久寿3(1156)年 |
藤原成頼 | 周防守から名替 | 『山槐記除目部類』 |
久寿3(1156)年2月2日 | 久寿3(1156)年 ~保元3(1158)年 |
藤原光方 | 左衛門督光頼の長男。叔父成頼の後任。 成頼は勘解由次官へ転ずる |
『兵範記』 |
保元3(1158)年8月1日 | 保元3(1158)年 ~? |
藤原惟定 (惟雅) |
父・光方の後任として阿波権守から転ずる。 光方は勘解由次官へ転ずる |
『山槐記』 『兵範記』 |
治承3(1179)年11月17日 解官 |
? ~治承3(1179)年 |
藤原孝貞 | 平清盛入道によって解官 | 『兵範記』 |
治承3(1179)年11月19日 | 治承3(1179)年 ~寿永4(1185)年? |
平宗親 | 『兵範記』 |
治承4(1180)年9月19日、隅田川の河畔まで出陣していた頼朝のもとに、上総権介広常が上総国の軍勢を率いて参陣した。その後、頼朝は葛西清重、河越重頼、江戸重長、畠山重忠ら武蔵秩父党を揮下におさめると、そのままの勢いで10月6日、鎌倉に入った。頼朝の新館は12月12日に落成し、その落成式に常胤・胤正・胤頼が列席した。
寿永元(1182)年7月12日、頼朝御台所(のち政子)が産気づいたことから、比企谷殿へ移ったが、以前から産気づいた際にはこの屋敷へ移ることが決められていた。この比企谷殿はおそらく比企尼の屋敷と思われ、「千葉小太郎胤正、同六郎胤頼、梶原源太景季等」が御台所の御共に付されている(『吾妻鏡』寿永元年七月十二日条)。
8月18日、頼朝嫡子・頼家の御七夜儀は常胤の沙汰で執り行われ、妻・秩父重弘女が頼朝に陪膳した。そして、常胤は六人の子息に進物を引かせ、嫡男・胤正、次男・師常は甲冑、三男・胤盛、四男・胤信は馬、五男・胤通は弓、そして六男・胤頼は剣を持って庭に居並んだ。父子ともに白水干袴を着し、「兄弟皆容儀神妙壮士」という姿を見た頼朝は「殊令感之給」い、頼朝に随行した「諸人又為壮観」と賞賛した。
『吾妻鏡』寿永元年八月十八日条
その後の平氏との戦いでは、胤頼は源範頼に属して活躍。寿永3(1184)年2月5日、一ノ谷の戦いには父の常胤や兄の相馬師常・国分胤通とともに活躍している。
寿永3(1184)年2月4日、平氏は摂津国と播磨国の境、一ノ谷に築いた堅陣に西海・山陰の軍士数万騎を擁して滞陣。この日、亡き相国禅門三回忌の仏事を執り行っていた(『吾妻鏡』寿永三年二月四日条)。そして翌2月5日、頼朝代官として蒲冠者範頼、九郎義経の両勢が摂津国に着陣。七日卯刻に戦端を開くことを平氏方に通達して対陣した。
●一ノ谷滞陣の御家人
大手軍 【大将】 蒲冠者範頼 ●五万六千余騎 |
小山四郎朝政 | 武田兵衛尉有義 | 板垣三郎兼信 | 下河辺庄司行平 | 長沼五郎宗政 | 千葉介常胤 |
佐貫四郎広綱 | 畠山次郎重忠 | 稲毛三郎重成 | 榛谷四郎重朝 | 森五郎行重 | 梶原平三景時 | |
梶原源太景季 | 梶原平次景高 | 相馬次郎師常 | 国分五郎胤通 | 東六郎胤頼 | 中條藤次家長 | |
海老名太郎 | 小野寺太郎通綱 | 曾我太郎祐信 | 庄司三郎忠家 | 同五郎広方 | 塩谷五郎惟広 | |
庄太郎家長 | 秩父武者四郎行綱 | 安保次郎実光 | 中村小三郎時経 | 河原太郎高直 | 河原次郎忠家 | |
小代八郎行平 | 久下次郎重光 | |||||
搦手軍 【大将】 九郎義経 ●二万余騎 |
遠江守義定 | 大内右衛門尉惟義 | 山名三郎義範 | 齋院次官親能 | 田代冠者信綱 | 大河戸太郎広行 |
土肥次郎実平 | 三浦十郎義連 | 糟屋藤太有季 | 平山武者所季重 | 平佐古太郎為重 | 熊谷次郎直実 | |
梶原小次郎直家 | 小河小次郎祐義 | 山田太郎重澄 | 原三郎清益 | 猪俣平六則綱 |
●一ノ谷滞陣の平氏陣
新三位中将資盛卿 ●七千余騎 |
小松少将有盛朝臣 | 備中守師盛 | 平内兵衛尉清家 | 惠美次郎盛方 |
三位中将資盛ら平氏の一勢七千余は、摂津国三草山の西に布陣し、範頼ら源氏の手勢は三草山の東側に滞陣したという。その距離はおよそ三里あまりであったという。このとき、七日の矢合せの約定を無視した九郎義経は「如信綱実平加評定、不待暁天、及夜半襲三品羽林」と、その日の未明に資盛勢を襲撃して、資盛勢は壊走したという(『吾妻鏡』寿永三年二月四日条)。
翌文治元(1185)年10月、常胤から海上郡三崎庄五十五郷が譲られて、椿海(旭市)に面した桜井(旭市桜井)に館を構えたと伝えられている(『千葉大系図』)。さらに須賀山城(東庄町須賀山)へ移住したともされるが、当時の御家人の屋敷を考えると、交通の利便性を考慮して道や河川に面した平地にあったと考えられることから、東大社に近接した宮本の入江を望むあたりに造営されていたのではないだろうか。
文治元(1185)年10月24日、鎌倉の長勝寿院(南御堂)の供養が行われた。頼朝は午前九時ごろに御所から徒歩で長勝寿院へ向かい、多くの御家人が随兵として従った。胤頼はとくに「五位六位」の者として列している。
●長勝寿院供養に供奉した御家人
随兵十四人 | 畠山次郎重忠 | 千葉太郎胤正 | 三浦介義澄 | 佐貫四郎大夫広綱 | 葛西三郎清重 |
八田太郎朝重 | 榛谷四郎重朝 | 加藤次景廉 | 藤九郎盛長 | 大井兵三次郎実春 | |
山名小太郎重国 | 武田五郎信光 | 北条小四郎義時 | 小山兵衛尉朝政 | ||
調度懸 | 小山五郎宗政(剣) | 佐々木四郎左衛門尉高綱(鎧) | 愛甲三郎季隆(調度) | ||
五位六位 三十二人 (布衣下括) |
源蔵人大夫頼兼 | 大内武蔵守義信 | 三河守源範頼 | 安田遠江守義定 | 足利上総介義兼 |
狩野前対馬守親光 | 前上野介範信 | 宮内大輔重頼 | 皇后宮亮仲頼 | 大和守重弘 | |
因幡守大江広元 | 村上右馬助経業 | 橘右馬助以広 | 関瀬修理亮義盛 | 平式部大夫繁政 | |
安房判官代高重 | 藤判官代邦通 | 新田蔵人義兼 | 奈胡蔵人義行 | 所雑色基繁 | |
千葉介常胤 | 千葉六郎大夫胤頼 | 宇都宮左衛門尉朝綱 | 八田右衛門尉知家 | 梶原刑部丞朝景 | |
牧武者所宗親 | 後藤兵衛尉基清 | 足立右馬允遠元 | |||
随兵十六人 | 下河辺庄司行平 | 稲毛三郎重成 | 小山七郎朝光 | 三浦十郎義連 | 長江太郎義景 |
天野藤内遠景 | 渋谷庄司重国 | 渋谷庄司重国 | 糟谷藤太有季 | 佐々木太郎左衛門尉定綱 | |
廣澤三郎実高 | 千葉平次常秀 | 梶原源太左衛門尉景季 | 村上左衛門尉頼時 | 加賀美次郎長清 | |
随兵の長官 | 和田小太郎義盛 | 梶原平三景時 | |||
随兵六十〔東〕 (弓馬達者) ⇒門外左右に 伺候 |
足利七郎太郎 | 佐貫六郎広義 | 大戸川太郎広行 | 皆川四郎 | 千葉四郎胤信 |
三浦平六義村 | 和田三郎宗実 | 和田五郎義長 | 長江太郎義景 | 多々良四郎明宗 | |
沼田太郎 | 曾我小太郎祐綱 | 宇治蔵人三郎義定 | 江戸七郎重宗 | 中山五郎為重 | |
山田太郎重澄 | 天野平内光家 | 工藤小次郎行光 | 新田四郎忠常 | 佐野又太郎 | |
宇佐美平三 | 吉川二郎 | 岡部小次郎 | 岡村太郎 | 大見平三 | |
臼井六郎 | 中禅寺平太 | 常陸平四郎 | 所六郎朝光 | 飯富源太 | |
随兵六十〔西〕 (弓馬達者) ⇒門外左右に 伺候 |
豊嶋権守清光 | 丸太郎 | 堀藤太 | 武藤小次郎資頼 | 比企藤次 |
天野次郎直常 | 都築平太 | 熊谷小次郎直家 | 那古谷橘次頼時 | 多胡宗太 | |
蓬七郎 | 中村右馬允時経 | 金子十郎家忠 | 春日三郎貞幸 | 小室太郎 | |
河匂七郎政頼 | 阿保五郎 | 四方田三郎弘長 | 苔田太郎 | 横山野三刑部丞成綱 | |
西太郎 | 小河小次郎祐義 | 戸崎右馬允国延 | 河原三郎 | 仙波次郎 | |
中村五郎 | 原次郎 | 猪俣平六則綱 | 甘粕野次広忠 | 使河原三郎有直 |
文治2(1186)年6月10日、丹後内侍が病気となり、安達家の甘縄邸で病床に伏した。丹後内侍は頼朝の側近だった藤九郎盛長(安達氏祖)の妻である。頼朝は彼女を見舞うため、結城朝光と東胤頼の二名のみを供とし、密かに屋敷を抜け出して甘縄邸を訪ねている。
文治4(1188)年3月14日の鶴岡八幡宮大供養では、頼朝の隨兵として加わった。さらに翌 文治5(1189)年6月9日の鶴岡八幡宮御塔供養に参列した。
●鶴岡八幡宮御塔供養列席者(『吾妻鏡』)
導師 | 法橋観性 |
呪願 | 法眼円暁(若宮別当) |
行事 | 三善隼人佐康清、梶原平三景時 |
先陣 随兵 | 小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、北条小四郎義時、武田五郎信光 |
御徒 | 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲) |
御後 参列 | 大内武蔵守義信、安田遠江守義定、伏見駿河守広綱、三河守範頼、大内相模守惟義、安田越後守義資、大江因幡守広元、毛利豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、橘右馬允公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長 |
後陣 随兵 | 小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景 |
平泉高舘より衣川を望む |
文治5(1189)年8月、奥州藤原氏との戦いがおこると、海道軍総大将であった父・常胤に従って出陣し、8月25日、衣川砦に急襲をかけて攻め落とした。衣川館には当主・藤原泰衡の外祖父である藤原基成が子息三人とともに籠もっていたが、胤頼が館に踏み込んだ時、父子は武具をまとわず、狩衣姿で静然と降人となった。
なお、藤原基成は平治の乱のときに源義朝と組んで平清盛らと争った藤原信頼の弟にあたる人物。信頼は頼朝の烏帽子親でもあり、複雑な人物関係がうかがえる。
●『吾妻鏡』文治5(1189)年8月25日条
●藤原基成と周辺の系図●
藤原師輔――兼家――道隆―+―伊周 +―良頼―――――良基――――隆宗――――宗兼――――池禅尼
(関白) (関白)(関白)|(左大臣)|(右衛門督) (太宰大弐)(近江守) (少納言) (平忠盛妻)
| |
+―隆家――+―経輔―――+―家――――基隆――――忠隆――+―基成――――娘
(大納言) (権大納言)|(右少将) (修理大夫)(大蔵卿)|(陸奥守) ∥――――泰衡
| | ∥
| | 藤原秀郷
| |
| +―信頼――――信親
| |(右衛門督)(侍従)
| |
| +―娘
| (藤原基実妻)
|
+―師信―――経忠―――忠能――――長成
(内蔵頭)(中納言)(修理大夫)(大蔵卿)
∥―――――能成
∥ (侍従)
常盤御前
∥
∥―――+―阿野全成
∥ |(今若)
源義朝 |
(左馬頭) +―帥公義円
|(乙若)
|
+―義経
(牛若)
胤頼は建久元(1190)年10月2日の頼朝の上洛に従い、常胤や甥・常秀とともに後陣を守衛した。建久5(1194)年8月8日には相模国の日向山薬師参詣に供奉し、翌年3月10日の大和国奈良の東大寺再建供養会にも供奉した。しかし『吾妻鏡』ではこの建久5(1194)年を最後に胤頼の記述は消える。
12月26日、永福寺の境内に新造された薬師堂の供養が行なわれ、頼朝が参詣した。このとき、供奉人として父・常胤、甥・境兵衛尉常秀とともに「東大夫胤頼」が見える。随兵八騎には兄・千葉新介胤正が列した。
建久5(1194)年10月29日、頼朝は「東六郎大夫胤頼子息等」が本所(蔵人所)や瀧口に伺候することについて、今後はその子細を告げることなく、進退をその意に任せる旨を示した。
建久6(1195)年2月12日早朝、比企藤四郎右衛門尉能員、千葉平次兵衛尉常秀(常胤孫)の両名が使節として上洛の途に就いた(『吾妻鏡』建久六年二月十二日条)。これは「前備前守行家、大夫判官義顕残党等、于今在存於海道辺、伺今度御上洛之次、欲遂会稽本意之由巷説出来」のためであった。両名は東海道の駅々に子細を尋問し、これらが事実であれば策を巡らして捕縛するよう命じられている。そしてその二日後の2月14日、頼朝は東大寺供養のため上洛の途に就く。「御台所并男女御息等同以進発給」(『吾妻鏡』建久六年二月十四日条)とあり、御台所および頼家、大姫も同伴している。そして半月ほどの旅程を経て、3月4日夕刻、頼朝一行は六波羅亭に入御した(『吾妻鏡』建久六年三月四日条)。「見物輩貴賤成群云々」(『愚管抄』第十)だったという。
3月9日、頼朝は石清水八幡宮ならびに左女牛若宮(六条若宮)の臨時祭に御参。頼家と御台所が同道し、随兵の先陣六騎のうちに千葉新介胤正と葛西兵衛尉清重が並んで供奉している。そしてこのまま石清水八幡宮へ宿泊している(『吾妻鏡』建久六年三月九日条)。
先陣六騎 | 畠山二郎重忠 | 稲毛三郎重成 | |
千葉新介胤正 | 葛西兵衛尉清重 | ||
小山左衛門尉朝政 | 北條五郎時連 | ||
御乗車(網代車) | 前右大将源頼朝 | ||
檜網代車 | 若公(一幡、万寿) | ||
八葉車 | 御台所 | ||
乗出車 (相具衛府二人) |
左馬頭隆保 | 越後守頼房 | |
後騎 | 源蔵人大夫頼兼 | 上総介義兼 | 豊後守季光 |
後陣六騎 | 下河辺庄司行平 | 佐々木左衛門尉定綱 | |
結城七郎朝光 | 梶原源太左衛門尉景季 | ||
三浦介義澄 | 和田左衛門尉義盛 |
翌3月10日、頼朝は石清水八幡宮より東大寺へと出立し、東大寺南東院に入った。このときの供奉は御家人二百七十四騎に加えて御家人の家子郎従が随い、さらに後陣の梶原平三景時、千葉新介胤正は各々数百騎の郎従を従えており、総勢は二千人を超える人数であったろう。主上も丑刻に美豆頓宮へ行幸し未刻に東大寺内頓宮へ着御となる。その後、申刻に兼実已下行事公卿が少々、大仏殿に参じた。この際、兼実は頼朝へ「雑人禁止之間事、仰頼朝卿畢」(『玉葉』建久六年三月十日条)と依頼している。この「雑人」が何を指すかはわからないが、供養に際して関係者以外の立入を禁じるよう警衛を依頼したものではなかろうか。
先陣 | 畠山二郎 | ||
和田左衛門尉 | |||
車前隨兵 ・三騎相並 |
江戸太郎 | 大井次郎 | 品河太郎 |
豊嶋兵衛尉 | 足立太郎 | 江戸四郎 | |
岡部小三郎 | 小代八郎 | 山口兵衛次郎 | |
勅使河原三郎 | 浅見太郎 | 甘糟野次 | |
熊谷又次郎 | 河匂七郎 | 平子右馬允 | |
阿保五郎 | 加治小二郎 | 高麗太郎 | |
阿保六郎 | 鴨志田十郎 | 青木丹五 | |
豊田兵衛尉 | 鹿辺六郎 | 中郡太郎 | |
真壁小六 | 片穂五郎 | 常陸四郎 | |
下嶋権守太郎 | 中村五郎 | 小宮五郎 | |
奈良五郎 | 三輪寺三郎 | 浅羽三郎 | |
小林次郎 | 林三郎 | 倉賀野三郎 | |
大胡太郎 | 深栖太郎 | 那波太郎 | |
渋河五郎 | 吾妻太郎 | 那波弥五郎 | |
佐野七郎 | 小野寺太郎 | 園田七郎 | |
皆河四郎 | 山上太郎 | 高田太郎 | |
小串右馬允 | 瀬下奥太郎 | 坂田三郎 | |
小室小太郎 | 祢津次郎 | 祢津小次郎 | |
春日三郎 | 中野五郎 | 笠原六郎 | |
小田切太郎 | 志津田太郎 | 岩屋太郎 | |
中野四郎 | 新田四郎 | 新田六郎 | |
大河戸太郎 | 大河戸次郎 | 大河戸三郎 | |
下河辺四郎 | 下河辺藤三 | 伊佐三郎 | |
泉八郎 | 宇都宮所 | 天野右馬允 | |
佐々木三郎兵衛尉 | 中沢兵衛尉 | 橘右馬次郎 | |
大島八郎 | 海野小太郎 | 牧武者所 | |
藤沢次郎 | 望月三郎 | 多胡宗太 | |
工藤小次郎 | 横溝六郎 | 土肥七郎 | |
糟谷藤太兵衛尉 | 梶原刑部兵衛尉 | 本間右馬允 | |
臼井六郎(有常) | 印東四郎(師常) | 天羽次郎(直胤) | |
千葉二郎(師常) | 千葉六郎大夫(胤頼) | 境平二兵衛尉(常秀) | |
広沢余三 | 波多野五郎 | 山内刑部丞 | |
梶原刑部丞 | 土屋兵衛尉 | 土肥先二郎 | |
和田三郎 | 和田小二郎 | 佐原太郎 | |
河内五郎 | 曾祢太郎 | 里見小太郎 | |
武田兵衛尉 | 伊沢五郎 | 新田蔵人 | |
佐竹別当 | 石河大炊助 | 沢井太郎 | |
関瀬修理亮 | 村上左衛門尉 | 高梨二郎 | |
下河辺庄司 | 八田右衛門尉 | 三浦十郎左衛門尉 | |
懐嶋平権守入道 | |||
北條小四郎 | 小山七郎 | ||
御車 | 前右大将源頼朝 | ||
狩装束 | 相摸守 | 源蔵人大夫 | 上総介 |
伊豆守 | 源右馬助 | ||
因幡前司 | 三浦介 | ||
豊後前司 | 山名小太郎 | 那珂中左衛門尉 | |
土肥荒次郎 | 足立左衛門尉 | 比企右衛門尉 | |
藤九郎 | 宮大夫 | 所六郎 | |
御随兵 ・三騎相並 |
小山左衛門尉 | 北條五郎 | 平賀三郎 |
奈古蔵人 | 徳河三郎 | 毛呂太郎 | |
南部三郎 | 村山七郎 | 毛利三郎 | |
浅利冠者 | 加々美二郎 | 加々美三郎 | |
後藤兵衛尉 | 葛西兵衛尉(清重) | 比企藤次 | |
稲毛三郎 | 梶原源太左衛門尉 | 加藤太 | |
阿曾沼小次郎 | 佐貫四郎 | 足利五郎 | |
小山五郎 | 三浦平六兵衛尉 | 佐々木左衛門尉 | |
小山田四郎 | 野三刑部丞 | 佐々木中務丞 | |
波多野小次郎 | 波多野三郎 | 沼田太郎 | |
河村三郎原 | 宗三郎 | 同四郎 | |
長江四郎 | 岡崎与一太郎 | 梶原三郎兵衛尉 | |
中山五郎 | 渋谷四郎 | 葛西十郎(清宣) | |
岡崎四郎 | 和田五郎 | 加藤次 | |
小山田五郎 | 中山四郎 | 那須太郎 | |
野瀬判官代 | 安房判官代 | 伊達次郎 | |
岡辺小次郎 | 佐野太郎 | 吉香小次郎 | |
南條次郎 | 曾我小太郎 | 二宮小太郎 | |
江戸七郎 | 大井兵三次郎 | 岡部右馬允 | |
横山権守相摸 | 小山四郎 | 猿渡藤三郎 | |
笠原十郎 | 堀藤次 | 大野藤八 | |
伊井介 | 横地太郎 | 勝田玄番助 | |
吉良五郎 | 浅羽庄司三郎 | 新野太郎 | |
金子十郎 | 志村三郎 | 中禅寺奥次 | |
安西三郎 | 平佐古太郎 | 吉見二郎 | |
小栗二郎 | 渋谷二郎 | 武藤小次郎 | |
天野藤内 | 宇佐美三郎 | 海老名兵衛尉 | |
長尾五郎 | 多々良七郎 | 馬塲二郎 | |
筑井八郎 | 臼井与一(景常) | 戸崎右馬允 | |
八田兵衛尉 | 長門江七 | 中村兵衛尉 | |
宗左衛門尉 | 金持二郎 | 奴加田太郎 | |
大友左近将監 | 中條右馬允 | 井沢左近将監 | |
渋谷弥五郎 | 佐々木五郎 | 岡村太郎 | |
猪俣平六 | 庄太郎 | 四方田三郎 | |
仙波太郎 | 岡辺六野太 | 鴛三郎 | |
古郡二郎 | 都筑平太 | 苔田太郎 | |
熊谷小次郎 | 志賀七郎 | 加世次郎 | |
平山右衛門尉 | 藤田小三郎 | 大屋中三 | |
諸岡次郎 | 中條平六 | 井田次郎 | |
伊東三郎 | 天野六郎 | 工藤三郎 | |
千葉四郎(胤信) | 千葉五郎(胤通) | 梶原平次左衛門尉 | |
後陣 ・郎従数百騎 |
梶原平三 | ||
千葉新介(胤正) | |||
最末 ・已上水干 ・相具家子郎等 |
前掃部頭 | 伊賀前司 | |
縫殿助 | 遠江権守 | ||
源民部大夫 | 伏見民部大夫 | 中右京進 | |
善隼人佑 | 善兵衛尉 | 平民部丞 | |
越後守(越後守頼房)※ |
※関白師実孫・権中納言経定の孫にあたる。建久六年当時は侍従に越後守を兼職。十八歳。
3月11日、頼朝は「馬千疋」を東大寺に施入し「八木一万石、黄金一千両、上絹一千疋」を納めている(『吾妻鏡』建久六年三月十一日条)。そして翌12日、国家的事業として進められてきた「東大寺供養」が遂に挙行された(『吾妻鏡』『玉葉』建久六年三月十二日条)。導師は興福寺別当僧正覚憲、咒願は東大寺別当権僧正勝賢である。権僧正勝賢は鎌倉永福寺の薬師堂供養の導師にも招かれた頼朝とは知己の僧侶であり、その他、仁和寺の守覚法親王以下の一千もの僧侶も列席する壮大な供養会となった。
その後、胤頼は大番役として上洛した。そして元久元(1204)年冬、京都黒谷の法然房源空の弟子・西仙坊心寂の妹尼公が姉小路白川祓殿の辻子(東山区定法寺町辺りか)で示寂したとき、「大番の武士、千葉の六郎大夫胤頼」がこの端坐合掌した姿を見て、発心出家。法然の給仕の弟子となって「千葉六郎大夫入道法阿」と称した(『法然上人絵巻』)。三年前の建仁元(1201)年3月24日、父・常胤が八十四歳で亡くなっており、このことも出家の原因だったかもしれない。また、兄・相馬二郎師常も同じ頃に「念仏行者」となっており、元久2(1205)年11月15日、鎌倉屋敷で亡くなっている。
知恩院山門 |
嘉禄3(1227)年6月に胤頼の姿が京都において見られる(『法然上人絵巻』)。彼と同じく東国武者で法然の弟子となっていた宇都宮頼綱入道蓮生、塩谷朝業入道信生、渋谷七郎入道道遍らが見える。宇都宮氏と東氏は鎌倉時代半ばまで歌道を通した深い関わりが窺える。
胤頼の師・法然は建暦2(1212)年に亡くなり、東山大谷に葬られた。現在の知恩院である。このとき、比叡山の門徒による法然の廟所破壊の動きがあることを知った法然の弟子たちは、嘉禄3(1228)年6月24日、廟所から石棺を取り出し、蓋を開いて法然の遺体を運び出したが、死去して十六年を経た法然の遺体はなお生けるごとくの容貌であったと伝えられている。弟子たちは遺体を西山粟生野へと運んで荼毘に伏し、その遺骨を粟生野の幸阿弥陀仏の庵室の塗籠に隠した(『法然上人絵巻』『百錬抄』)。法然の遺体を運ぶ道中、宇都宮頼綱入道蓮生、塩谷朝業入道信生、千葉六郎大夫入道法阿、渋谷七郎入道道遍、内藤兵衛入道西仏が僧衣の上に鎧を着し、家子郎従を従えて遺体を守護している姿が『法然上人絵伝』に描かれている。
芳泰寺の伝胤頼夫妻墓 |
胤頼は安貞2(1228)年10月12日、73歳で亡くなったという。法然の遺体を西山に移してわずか四か月後である。法名は通性院殿真岩常源大居士。通性山芳泰寺(香取市岡飯田)に供養塔といわれる塔が建っている。
なお、宇都宮頼綱、塩谷朝業は両名ともに勅撰和歌集に歌を撰された名歌人であり、藤原定家とも深く親交を持っていた。胤頼についても、彼が仕えていた上西門院は一大歌壇であり、和歌の風を受けていたであろうと推測される。宇都宮氏、東氏は代々歌道の家として伝えられていくこととなる。いわゆる『小倉百人一首』は定家が頼綱の依頼を受けて撰したふすま用の飾りがもととなっている(小倉山荘で撰した確証は無い)。頼綱の長女(実際は養女で、一族の益子左兵衛尉宗朝の娘)は定家の子・為家に嫁ぎ、二条為氏、源承、京極為教らを生み、次女は左大臣・三条実房に嫁いだ。
―東氏と宇都宮氏の系譜(東氏の伝系を含む)―
千葉介常胤―――東胤頼――――重胤――――――――――胤行
(千葉介) (六郎大夫) (平太兵衛尉) (左衛門尉)
∥
宇都宮朝綱―――成綱―――+―頼綱―――+―泰綱 ∥
(左衛門尉) (左衛門尉)|(左衛門尉)|(左衛門尉)∥
| | ∥――――――行氏
| +=娘 ∥ (二郎左衛門尉)
| | ∥――?―娘
| | 中院為家
| |(民部卿)
| |
| +―娘
| ∥
| 三条実房
| (左大臣)
|
+―塩谷朝業―――時朝
(左衛門尉) (左衛門尉)
●以仁王の乱に加わった以仁王方(『覚一別本平家物語』)
源三位頼政 | 正三位。摂津源氏の棟梁。搦手の主将。 |
乗円房阿闍梨慶秀 | 園城寺乗円房の阿闍梨。80を過ぎた老僧のために泣く泣く宮と別れ、 弟子の刑部俊秀を供奉させた。 |
律成房阿闍梨日胤 | 園城寺律静房の阿闍梨。千葉介常胤の子。 |
帥法印禅智 | 太宰帥藤原俊忠の子。公卿の出ながら、剛僧として知られた。 名歌人・藤原俊成の弟で藤原定家の叔父。 |
義宝 | 帥法印禅智の弟子。 |
禅房 | 帥法印禅智の弟子。 |
伊豆守仲綱 | 頼政の嫡男。大手の主将。以仁王の令旨を諸国の源氏に送るよう指示した人物。宇治で戦死。 |
源大夫判官兼綱 | 頼政の養子。検非違使として以仁王邸を囲むが、その後、頼政に応じて宇治川で戦死。 |
六条蔵人仲家 | 源義賢の嫡男。木曽義仲の異母兄である。八条院蔵人。宇治で戦死。 |
蔵人太郎仲光 | 八条蔵人仲家の子。宇治で戦死した。 |
円満院大輔源覺 | 園城寺円満院の大衆。 |
成喜院荒土佐 | 園城寺常喜院の大衆。常喜院は民部卿藤原泰憲が建立した寺院。 |
律成房伊賀公 | 律静房阿闍梨日胤の弟子。日慧と号す。頼朝の帰依をうけた。 養和元(1181)年12月11日鎌倉で卒。 |
法輪院鬼佐渡 | 園城寺法輪院の大衆。 |
因幡竪者荒大夫 | 園城寺平等院の大衆。 平等院は村上天皇の皇子・致平親王が出家して建立した園城寺中院の寺。 |
角六郎房 | 園城寺平等院の大衆。 |
島ノ阿闍梨 | 園城寺平等院の大衆。 |
卿ノ阿闍梨 | 園城寺南院三谷の一つ、筒井の阿闍梨。 |
悪少納言 | 筒井の大衆。 |
光金院ノ六天狗 | 園城寺光金院の剛僧六人。式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後。 光金院は源義光が建立した寺院。 |
松井ノ肥後 | 園城寺北院の大衆。 |
証南院筑後 | 園城寺北院の大衆。 |
賀屋ノ筑前 | 園城寺北院の大衆。 |
大矢ノ俊長 | 園城寺北院の大衆。 |
五智院ノ但馬 | 園城寺北院の大衆。 |
加賀ノ光乗 | 乗円房の大衆。乗円房人60名のうちもっとも勇猛な僧兵とある。 |
刑部俊秀 | 乗円房の大衆。首藤刑部丞俊通の子。育親の乗円房阿闍梨慶秀に言われて以仁王の供奉をする。 |
一来法師 | 乗円房の大衆。法師たちのうちでもっとも勇猛とされた僧兵。 |
筒井ノ浄妙明秀 | 筒井の堂衆。堂衆は各堂に属して雑務にあたる僧侶。 |
小蔵尊月 | 堂衆。 |
尊永 | 堂衆。 |
慈慶 | 堂衆。 |
楽住 | 堂衆。 |
かなこぶしの玄永 | 堂衆。 |
渡邊省 | 摂津武士団・渡邊党の武士。嵯峨源氏の嫡流である。 摂津源氏に代々仕えていた。省は「はぶく」。 |
授薩摩兵衛 | 渡邊授(さずく)。省の子。 |
長七唱 | 渡邊唱(となう)。省の従兄弟の子。 |
競滝口 | 渡邊競(きそう)。省の従兄弟。 |
与右馬允 | 渡邊与(あたう)。省の子。 |
続源太 | 渡邊続(つづく)。唱の兄弟。 |
清 | 渡邊清(きよし)。省の従兄弟。 |
進 | 渡邊勧(すすむ)。省の父・満の従兄弟。 |
●以仁王の乱の平家方追手(『覚一別本平家物語』)
左兵衛督知盛 | 平知盛。清盛の三男。知勇兼備の将として知られた。 |
頭中将重衡 | 平重衡。清盛の五男。猛将で、東大寺を誤って焼失させてしまう。 |
左馬頭行盛 | 平行盛。清盛の次男・基盛の子。 |
薩摩守忠度 | 平忠度。清盛の末弟。剛力の大将。 藤原俊成に歌を学び、勅撰和歌集『千載集』に選定される。 |
上総守忠清 | 侍大将。伊藤武者藤原忠清。治承3年11月18日、上総介の叙任。 |
上総太郎判官忠綱 | 藤原忠綱。忠清の子。治承3年11月18日、左衛門少尉・検非違使に任じられる。 |
飛騨守景家 | 藤原景家。忠清の弟。 |
飛騨太郎判官景高 | 藤原景高。景家の子。従兄弟の忠綱と同じく、左衛門少尉・検非違使に任じられる。 |
高橋判官長綱 | 平長綱。伊賀平内左衛門平家長の弟。 |
河内判官秀国 | 伝未詳。木曽義仲との戦いで倶利伽羅峠に戦死した。 |
武蔵三郎左衛門有国 | 伝未詳。木曽義仲との戦いで加賀篠原で戦死。 |
越中次郎兵衛尉盛継 | 平盛継。平家一門・越中守平盛俊の子。父子ともども猛将で知られる。 |
上総五郎兵衛忠光 | 藤原忠光。忠清の子。治承4年5月30日、左兵衛尉に叙任。 |
悪七兵衛景清 | 藤原景清。忠清の子。平家きっての猛将。数々の武勇談を残した。 一門滅亡後、鎌倉で病死か。 |
足利又太郎忠綱 | 藤原忠綱。下野国足利庄を本拠とする藤原秀郷の末裔。 |
大胡 | |
大室 | |
深須 | |
山上 | |
那波太郎 | 下野国那波郡の住人。 |
佐貫広綱四郎大輔 | 藤原広綱。下野国佐貫郷発祥の足利忠綱の一族。 |
小野寺禅師太郎 | 藤原道綱。下野国小野寺郷発祥の足利忠綱の一族。 |
辺屋子ノ四郎 | 下野国部屋子発祥の足利忠綱の一族。 |