葛西氏惣領 一

葛西氏

【葛西氏以前の当主】

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秩父武常(????-????)

 村岡五郎平良文の曾孫。武蔵権大掾平将恒の子。通称は次郎。秩父宗家・秩父別当大夫平武基は兄にあたる。

 長元元(1028)年10月、源頼義の嫡男・八幡太郎義家が「相模国柳下(小田原市酒匂)」にて生まれたとき、「資隆御引目之役仕兼鳴弦役、其外鳴弦之役三人内、一人常陸介為範、一人蒲野介広隆、一人宇都宮紀三郎是景、守刀進人六人内、一人秩父権守武恒、一人出雲目代兼次、一人相模介是成、一人馬庄司清行、一人伊藤兵衛尉真家、一人駿河判官家光」(『小野氏系図』「続群書類従」巻第百六十六)とみえ、守刀を進上した六名の一人「秩父権守武恒」に相当するか。

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豊島常家(????-????)

 秩父権守平武恒の子。諱は経家、恒家とも。官職は傔仗。「傔仗」とは律令制の武官職で、辺境へ赴任する中央官人の護衛官である。鎮守府護衛官の職のひとつでもあり、彼が鎮守府将軍である源頼義に従っていたことをうかがわせる。

 天喜5(1057)年11月、陸奥国黄海柵(岩手県藤沢市)において陸奥守源頼義安倍貞任とが合戦するが、この戦いは奥州の土地にも、雪に慣れなていない頼義勢が大敗北を喫した。頼義の周りにはわずか七騎しか残らないほど壊滅的な損害を受けた頼義は多賀城へ逃れざるを得なかったと伝わる。この七騎は「将軍頼義、義家、腰滝口季方、後藤内範明、大生三大夫光房、豊島ノ平検仗恒家(『神明鏡』第七十後冷泉院)で、「豊島ノ平傔仗恒家」がこの豊島常家にあたると思われる。

 また、応徳3(1086)年正月23日の『源頼俊申文写』の中でに、奥州における「荒夷」との戦いで、源頼俊や清原真衡らとともに活躍した武蔵国住人平常家が見え、これが豊島常家であろうと推測されている。

■『前陸奥守源頼俊申状』(『御堂摂政別記裏文書』「平安遺文」4652)

前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言
 請特蒙天恩、任先朝綸旨、依以曾別嶋荒夷并閇伊七村山徒討随、拝任讃岐国闕状

右、頼俊去治暦三年任彼国守、著任之後、廻治略期興複、挟野心俗不憚朝憲、然而王威有限、即討随三方之大■■其間無国之費、注子細言上之日、被宣下、云旁勤知有勒辺鎮、事不可黙止者、捧件宣旨文参洛之処、清原貞衡申請拝任鎮守府将軍、為大将軍頼俊、于今不蒙朝■■公文之輩依勲功勧賞之例、古今是多、近則源頼義朝臣、越二階任伊予守、加之子息等及従類蒙恩賞之者廿人也、又参上之後、依綸旨召進武蔵国住人平常家、伊豆国■■、散位惟房朝臣、条条之勤不恥先蹤者也、望請天恩、依□□勤節、被拝任彼国守闕状、弥守勤王之節、将令励後輩矣、頼俊誠恐謹言、

 

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豊島康家(????-????)

 豊島傔仗常家の子。通称は三郎。官職は父と同じく傔仗か?

 娘は武蔵権守藤原遠兼に嫁ぎ、足立右馬允遠元を産んだとされている。この足立遠元は源頼朝の挙兵前から頼朝と交流を持っており、承久の乱の功績によって丹波国へ移っていった足立一族に伝えられた『足立系図』にも「豊島平傔仗泰家」の娘の子であるとされ、康家から娘(遠元母)へ譲渡された足立郡内の地頭職が母から遠元へ譲られたとされている。中世足立氏の所領伝領などについては、比較的信頼に足るものといえるかもしれない。

●豊島・足立家略系図

豊島康家―+――娘
     |  ∥――――足立遠元
     |  ∥   (右馬允)
     | 藤原遠兼
     |(武蔵権守)
     |
     +―清元
      (豊島権守)
        ∥――――葛西清重
 秩父重弘―――娘   (壱岐守)
(十郎)

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豊島清元(????-????)

 豊島三郎康家の子。通称は三郎。庄官としては豊島権守。諱は「清基」とも。「清光」は誤り

 治承元(1177)年12月9日、「豊島葛西三郎清基」が香取大社造営の雑掌となっていたことが『香取社造営所役注文案』に記されている。清元は武蔵国の住人だが、平安時代末期には下総国葛西郷にも進出し、下総一宮である香取大社の諸役を担っていた様子から、下総国在庁として出仕していたのかもしれない。

 頼朝の挙兵にあたっては、同族である秩父党(平家に加担していた)に配慮してか、積極的な荷担はしなかったものの、治承4(1180)年9月3日、頼朝から書状が遣わされると頼朝方に立つことを決めた。そして10月2日、上総介広常千葉介常胤が調達した舟筏で隅田川を渡った頼朝のもとに、子の葛西三郎清重と甥・足立右馬允遠元とともに参陣した。

 文治元(1185)年10月24日の勝長寿院供養の際には、「被清撰弓馬達者」の次随兵六十人の一人として、勝長寿院門外の西側を守った。

 文治5(1189)年7月19日、頼朝の奥州出兵の際には、三男の葛西三郎清重、十男(か?)の葛西十郎とともに頼朝に供奉して出陣する。これ以降『吾妻鏡』に清元に関する記述はなくなった。

 文治6(1190)年3月16日、44歳で亡くなったという説があるが、不明。法名は教円


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