平能常

上総氏

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【一】上総氏について
【二】上総平氏は両総平氏の「族長」なのか
【三】頼朝の挙兵と上総平氏

 

 平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
      |
      +―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
      |(下総権介)(下総権介) (下総権介)        |
      |                           |
      |                           +―千葉常秀―――千葉秀胤
      |                            (上総介)  (上総権介)
      |
      +―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
       (上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
                   |
                   +―印東常茂
                   |(次郎)
                   |
                   +―平広常――――平能常
                   |(上総権介) (小権介)
                   |
                   +―相馬常清―――相馬貞常
                    (九郎)   (上総権介?)


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上総氏 平能常(????~1183)

 上総介八郎広常の嫡男。通称は小権介。名は良常(『吾妻鏡』)常顕(『神代本千葉系図』)とも。

 平氏政権の中で、平氏家人・伊藤右衛門尉忠清が罪を得て上総国に流された際、父の上総介広常が忠清を手厚く世話をしたという。しかし、忠清が厚免を得て上洛したのち、恩義を忘れて広常を讒したという。上総介広常は能常を上洛させて子細を申し述べたが、能常の弁明では足りなかったのか、平氏は上総介広常の上洛を命じたため、上総介広常は平家に対して恨みを含んだという(『源平盛衰記』)

 寿永元(1182)年8月11日、頼朝御台所(のち平政子)の安産を祈願するため、奉幣の使者を伊豆・箱根のほか、関東各国に立てた。上総国の上総一宮(玉前社)には「小権介良常」が使者となった。

 その後は目立った活躍は伝わらず、寿永2(1183)年12月、父・上総介広常が頼朝の命によって殺害されたときに、同時に殺害されたようだ。その日付は「而寿永元十二廿二父子共為鎌倉大将被誅了」(『中条家文書』)とある。


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