東氏 東重胤

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東 重胤(1177?-1247?)

 東家二代惣領。初代惣領・東六郎大夫胤頼の嫡男。母は遠藤持遠娘と伝わる。通称は平太所。妻は下河辺左衛門尉行綱娘(『下河辺氏系図』:「古河市史」所収)。官位は六位(所衆の時期)。官途は兵衛尉

 下河辺行平―+―下河辺行綱―――+―下河辺幹光
(下河辺庄司)|(左衛門尉)   |(三郎左衛門尉)
       |         |
       +―下河辺朝行   +―幸嶋行時――――――…
        (小次郎)    |(四郎)
                 |
                 +―下河辺行重
                 |(弥五郎)
                 |
                 +―女子
                   ∥
 千葉介常胤―――東胤頼―――――――東重胤
(千葉介)   (六郎大夫)    (兵衛尉)

 『吾妻鏡』では建久6(1195)年8月16日、鶴岡八幡宮の流鏑馬に「射手十六騎、皆堪能」の一騎に選ばれ、四番手として「東平太」の名が見えるが、これが『吾妻鏡』における重胤の初見である。重胤は、榛谷四郎重朝愛甲三郎季隆下河辺四郎政義などとともに、御家人中でも弓の上手として知られていたようである。また、実朝の代には「無双の近侍」と呼ばれるほど信頼を得る。弓馬に堪能なだけではなく、父の胤頼からの教育があったのか歌人でもあった。東氏がいつ頃から「和歌」を嗜むようになったのかは具体的にはわかっていないが、頼朝が挙兵をするよりも前に胤頼が上西門院に出仕しており、この環境の中で胤頼が和歌を嗜んだと考えられる。

 東氏が領した下総国三崎庄(他に舟木郷・横根郷)は、治承5(1181)年3月27日に片岡常春より召し上げられ、文治元(1185)年10月28日に千葉介常胤へ与えられた土地である(『吾妻鏡』文治元年十月二十八日条)。その後、胤頼へと譲られる。この下総国三崎庄九条家の庄園であり、建久10(1199)年4月23日、藤原定家のもとへ九条家政所より女房が遣わされ、定家が「下総国三崎庄」の預所職に就く。そして7月29日には、藤原定家は自分が三崎庄預所となったことを「地頭等」に知らせるために、雑色光澤を三崎庄に遣わした。この「地頭等」は父・東六郎大夫胤頼および重胤と弟たちであり、定家と東氏が直接的に結びつくきっかけになっている。

 10月28日、梶原景時の弾劾のための連署状(有力御家人六十六名が記名)が二代将軍・源頼家に提出されたが、その筆頭に重胤の祖父・千葉介常胤が記名し、続いて三浦介義澄千葉太郎胤正ら名だたる御家人たちが名を連ね、「東平太重胤」も名を見せている。

●『吾妻鏡』建久10(1199)年10月28日条より梶原景時弾劾状連署御家人

千葉介常胤 三浦介義澄 千葉太郎胤正 三浦兵衛尉義村 畠山次郎重忠 小山左衛門尉朝政
小山七郎朝光 二階堂民部丞行光 葛西兵衛尉清重 八田左衛門尉朝重 波多野小次郎忠綱 大井次郎実久
若狭兵衛尉忠季 渋谷次郎高重 山内刑部丞経俊 宇都宮弥三郎頼綱 榛谷四郎重朝 藤九郎盛長入道
佐々木兵衛尉盛綱入道 稲毛三郎重成入道 安達藤九郎景盛 岡崎四郎義実入道 土屋次郎義清 東平太重胤
土肥先次郎惟光 河野四郎通信 曾我小太郎祐綱 二宮四郎 長江四郎明義 毛呂次郎季綱
天野民部丞遠景入道 工藤小次郎行光 中原右京進仲業  ほか    

 建仁3(1203)年10月8日、新鎌倉殿源実朝の元服式北条家名越邸にて行われた。千幡このとき十二歳。元服式は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名の御家人が居並ぶ中、亭主の北条時政の理髪、源氏長老の平賀義信の加冠にて行われ、後鳥羽上皇よりは「実朝」の諱が贈られた。加冠式ののちは結城七郎朝光和田兵衛尉常盛和田三郎重茂東太郎重胤波多野次郎経朝桜井次郎光高ら近習衆が侍った(『吾妻鏡』建仁三年十月八日条)。同日「御弓始」の儀も行われ、和田左衛門尉義盛、海野小太郎幸氏以下十名がこれを執り行っている。翌9日、実朝は彼ら十名を「被召北面竹御壺」し、刀や腹巻などの禄を給わった。このとき彼らに禄を伝えたのが「東太郎、和田兵衛尉、足立八郎等」(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条)であった。重胤は実朝が将軍に就いた当初より近習として召されていたことがわかり、和歌という共通の教養を通じてその信頼は殊に篤くなったと思われる。

 元久3(1206)年2月4日大雪の日、鶴岡八幡宮の奉納会の晩、北条義時の名越別邸で催された歌会では、重胤は北条義時内藤知親らとともに臨席し、初めての歌会に臨んだ実朝を補佐した。重胤はこの当時にはすでに御家人中では歌人として名が知れていたことがうかがえる。

 この直後、重胤は幕府から下総国(海上庄か)への一時帰国を認められる。ところがその後、数か月もの間音沙汰もなく海上庄に居続けた。実朝は歌を詠んで重胤を召した(『吾妻鏡』建永元年11月18日条)。このときの歌と思われるものが、実朝編纂の私歌集『金槐和歌集』に載せられている。

●『金槐和歌集』所収

  遠き国へまかれりし人、八月はかりに帰り参るへき由を申して、九月まて見えさりしかは、
  かの人のもとに遣はし侍りしうた

  こむとしもたのめぬうはの空にたに 秋かせふけば雁はきにけり
  いま来むとたのめし人は見えなくに 秋かせ寒み雁はきにけり

 重胤が実朝に伝えた帰倉時期は8月だったようだが、9月になっても姿を見せないことから実朝が歌を詠んで召還したものだろう。それでも鎌倉に姿を見せない重胤に怒った実朝は、重胤に海上庄において「籠居」を命じた。

 その後、11月18日になって「東平太重胤」は下総国から鎌倉へ出てきた。籠居を命じられていたものの、居ても立ってもいられずに出てきたものと思われる。しかし、その後も実朝の赦しを得られることはなく、困り果てた重胤は12月23日、「相州(北条義時)」の屋敷へ相談に出向き、「愁歎難休」ことを訴えた。すると義時は、「是非始終事哉凡逢如此殃、官仕之習也(このような事は宮仕えにとってはいつものことです)と重胤をなぐさめつつ、「但献詠歌者、定快然歟(歌を献じればご機嫌は直るでしょう)と献歌を勧めたため、重胤はすぐさま一首を認めた。義時はその歌を詠んで感じ入り、重胤を伴なってすぐに御所へ赴いた。

義時・重胤が赴いた大蔵幕府跡

 御所内には義時のみが参入し、重胤は御所門前で待つこととなるが、しばらくすると実朝は御所の南面に出てきて、傍の義時が重胤の和歌を披露した。そして「重胤、愁緒之余及述懐」んだことを告げるとともに「事之体不便」と擁護した。重胤の在総延長には義時も納得できる何らかの理由があったことがわかる。

 実朝は和歌を三度詠歌すると、すぐさま重胤を御前に呼び出し「片土冬気、枯野眺望、鷹狩、雪後朝等事」をいろいろと尋ね、数刻を過ごした。こうして重胤は赦されることとなる。義時が御前から退出する際、重胤は御所の庭に義時を送ると、手を合わせて「依賢慮預免許、忽散沈淪之恨、子葉孫枝永可候門下」と述べたという(『吾妻鏡』建永元年十二月廿三日条)

 承元2(1208)年閏4月27日、「東平太重胤」は上洛した。これは父の胤頼が二十歳頃に大番役として上洛し「本所(蔵人所)」に伺候した先例に則り、一時であっても上洛して蔵人所に出仕して名誉を得たいとの懇望によるもので、実朝はこれを認めた。実は建久5(1194)年10月29日、「東六郎胤頼子息等令祗候本所瀧口事」については、「向後雖不申子細、進退可任意之旨」を頼朝から許可されており、重胤はこれを以って上洛を願い出たものと思われる。

 重胤は約半年間上洛して、10月21日に鎌倉に帰参した。この間に和歌の研鑽を積んだ可能性もあろう。こののち重胤は「東所」と号しているため、蔵人所の所衆であったのだろう。所衆は「瀧口同所衆、堪武勇之輩可補之云云」(『職原鈔』下)とあるとおり、蔵人所に属し武勇の士が選ばれたようである。実朝は鎌倉に戻った重胤を御所に召すと、京都の情勢についていろいろと聞いている。京都に強い憧れを持っていた将軍の心がよくわかる逸話である。重胤はまず去る9月14日未刻に「熊谷次郎直実入道(蓮生房)が東山の草庵で入滅することを公表し、結縁の僧俗が見守る中、端座合掌し念仏を唱えながら亡くなったことを伝えた。次いで9月27日夜半の失火による朱雀門焼亡を伝えた。

 この上洛については、この二年後の承元4(1210)年5月11日、「御家人中可参候本所瀧口」の旨の勅宣の通り、「譜第」の御家人である「千葉、三浦、秩父、伊東、宇佐美、後藤、葛西以下家々、十三流」から蔵人所の所衆及び瀧口伺候の人物を上洛させるよう御下文が発せられた。朝廷が本所・瀧口の要員充足を幕府に要請したものと思われる。

 その後、重胤が上洛したかは不明だが、以降は主に実朝の近侍として幕府に出仕し、建暦元(1211)年4月の永福寺供養に供奉。建暦4(1214)年7月の歌会にも出席している。建暦2(1212)年正月19日、実朝の鶴岡八幡宮参詣に供奉した。

●『吾妻鏡』建暦2(1212)年1月19日条

北条相模守義時 前大膳大夫大江広元 安芸権守範高 相模権守経定 美作蔵人朝親 町野民部丞康俊
和田左衛門尉義盛 和田新左衛門尉常盛 小山左衛門尉朝政 結城七郎左衛門尉朝光 三浦兵衛尉義村 東平太重胤
葛西兵衛尉清重          

 7月27日大雨の中、十二所近くの「大倉大慈寺(新御堂)」の供養が行われた。尼御台と将軍実朝の参詣があり、実朝随兵として「東平太所重胤」がみえる。

●『吾妻鏡』建暦2(1212)年7月27日条

供奉前駈 橘三蔵人 伊賀左近蔵人仲能 三條左近蔵人親実 蔵人大夫国忠 左近大夫朝親
相模権守経定 右馬助範俊 前筑後守頼時    
殿上人 右馬権頭頼茂        
御車 実朝        
御劔役 小野寺左衛門尉秀道        
御調度懸 加藤左衛門尉景長        
後騎 北条相模守義時 北条武蔵守時房 北条修理亮泰時 前大膳大夫中原広元 平賀前駿河守惟義
遠江守源親広 伊賀守藤原朝光 筑後守有範 三浦九郎右衛門尉胤義 中條右衛門尉家長
葛西兵衛尉清重 島津左衛門尉忠久 佐貫兵衛尉廣綱 大井紀右衛門尉實平 宇佐美右衛門尉實政
江右衛門尉範親 加藤右衛門尉景廣 兵衛尉大江義範    
随兵 北条相模次郎朝時 武田五郎信光 結城左衛門尉朝光 佐々木左近将監信綱 伊豆左衛門尉頼定
若狭兵衛尉忠秀 下河辺四郎行時 塩谷兵衛尉朝業 大須賀太郎道信 東平太所重胤
三浦左衛門尉義村 八田筑後左衛門尉知重      
検非違使 山城判官藤原行村        

 建保6(1218)年4月7日、千葉介成胤(重胤の従兄)が危篤になったため、実朝は重胤を甘縄の千葉館に遣わし、慇懃に「子孫事、殊可被加憐愍(子孫の事は格別に配慮する)ことを申し伝えることを命じた。これに安心したのか、成胤はその三日後の4月10日に亡くなっている。

 同年6月27日、実朝の左近衛大将任官拝賀の鶴岡参詣に「東兵衛尉重胤」として「衛府」の最末に加わっている。この供奉は本来二列で参じ、左衛門尉から右衛門尉、次いで兵衛尉と並び、左右は「年臈次第」であった。重胤はこの直前まで官職を得ておらず、新規の兵衛尉であるため最末とされたものと思われる。なお、これが重胤が兵衛尉任官の初見である。

 建保7(1219)年1月27日の将軍家鶴岡八幡宮参詣にその隨兵として「東兵衛尉重胤」の名が見える。しかし、これを最後に重胤は『吾妻鏡』の記述から消える。この日は実朝が右大臣拝賀の礼のために鶴岡八幡宮に参詣する日で、重胤も従兄の境平次兵衛尉常秀とともに隨兵として八幡宮へと向かっていた。この日は大雪の降る寒い日であった。夜半まで式が続き、隨兵は八幡宮の道を固め、宮から帰ってくる実朝を待っていたが、ここで実朝が暗殺されたことを知らされることとなった。下手人は鶴岡八幡宮別当公暁であった。二代頼家の子で、実朝の甥で猶子である。

 実朝暗殺の翌日の正月28日辰刻、尼御台(政子)荘厳房律師行勇を戒師として出家を遂げ、武蔵守大江親広左衛門大夫大江時広前駿河守中原季時安達秋田城介景盛二階堂隠岐守行村加藤大夫尉景廉以下の御家人百余輩が、実朝の死の哀傷に堪えず出家を遂げており、重胤もこの「百余輩」の一人であったことは容易に推測される。重胤がこののち記録に見えなくなるのは出家遁世してしまったためと思われ、覺念(覺善・覺然)を号した。没年などは不明である。


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