下総相馬氏について

下総相馬氏

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 下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。

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 下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。その後は下総国佐倉城の千葉宗家の一族衆の立場にあったようだが、同じ一族衆の大須賀氏、国分氏らほど密接な関わりを持ってはいなかった。室町時代後期、鎌倉公方・足利成氏が鎌倉を追放されて下総国古河に入ると、一族はその奉公衆となった。さらに古河公方が小田原北条氏の支配下に入ると、下総相馬氏も北条氏の支配下に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。

 戦後、相馬家は徳川家康に召し出されて大坂の陣などで活躍して五千石の高禄を与えられ、子孫は旗本となった。しかし、江戸時代中期に故あって知行地を没収され、蔵米取にかわり幕末にいたった。一族では一橋徳川家に仕えた人物もあった。

◆下総相馬氏の当主たち◆

代数 当主 通称 同時代人物名
初代 相馬師常 千葉介常胤 相馬二郎  
2代 相馬義胤 相馬師常 相馬五郎兵衛尉  
3代 相馬胤綱 相馬義胤 相馬五郎兵衛尉  
4代 相馬胤村 相馬胤綱 相馬孫五郎左衛門尉  
5代相馬泰胤 相馬胤継 相馬民部大夫 相馬胤氏相馬師胤相馬胤継相馬胤顕
6代相馬親胤 相馬泰胤 相馬民部次郎  
7代相馬高胤 相馬親胤 相馬左衛門尉 相馬胤経相馬胤村相馬氏胤
8代相馬胤基 相馬氏胤相馬左衛門尉 相馬忠重
9代相馬胤忠 相馬胤経相馬上野介  
10代相馬胤長 相馬胤忠相馬小次郎  
11代相馬胤宗 相馬胤長 相馬左衛門尉  
12代相馬資胤 相馬胤宗 相馬上野介  
13代相馬胤儀 相馬資胤 相馬左衛門尉  
14代相馬胤高 相馬胤儀 相馬上野介  
15代相馬胤実 相馬胤高 相馬左衛門尉  
16代相馬徳誕蔵主 相馬胤実 相馬小次郎  
17代相馬胤広 相馬徳誕蔵主 相馬因幡守 相馬胤行
相馬胤直…彦根藩士相馬家へ
18代相馬胤貞 相馬胤広 相馬小次郎  
19代相馬胤晴 相馬胤貞 相馬小次郎  
20代相馬整胤 相馬胤晴 相馬小次郎  
21代相馬治胤 高井氏 相馬左近大夫 相馬胤房
相馬胤永…小田原藩相馬家へ
相馬親胤
相馬内膳亮…喜連川藩相馬家へ

◆旗本相馬氏◆

22代 相馬秀胤 相馬治胤 相馬小次郎 相馬師胤相馬胤吉
23代 相馬胤信 相馬治胤 相馬小三郎  
24代 相馬盛胤 相馬治胤 相馬小次郎  
25代 相馬政胤 相馬治胤 相馬小次郎  
26代 相馬貞胤 大岡貞惟 相馬小次郎  
27代 相馬要胤 相馬貞胤 相馬小次郎  
28代 相馬信胤 小笠原貞信 相馬小平太  
29代 相馬重胤 相馬信胤 相馬小平太  
30代 相馬保胤 相馬信胤 相馬小源次  
31代 相馬矩胤 相馬保胤 相馬小太郎 相馬正胤…一橋相馬家へ
32代 相馬是胤 相馬矩胤 相馬左兵衛  
33代 相馬敏胤 相馬是胤 相馬左近  
34代 相馬繋胤 相馬敏胤 相馬左近  
35代 相馬将枝 相馬繋胤 相馬邦三郎  
36代 相馬祚胤 相馬将枝 相馬左衛門  

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相馬泰胤(????-????)

 五代当主。相馬小次郎兵衛尉胤継の子。官途は民部大夫(『神代本千葉系図』『相馬胤綱子孫系図』『平朝臣徳嶋系図』)。名は「胤泰」とも。諱の「泰」は北条泰時の一字拝領とも考えられる。法名は道胤、蓮胤。「関東相馬之祖」(『平朝臣徳嶋系図』)とあり、泰胤をして下総相馬氏の祖としている。

 『相馬之系図』『門馬系図』『相馬当家系図』などでは、胤継の子として「左衛門尉胤経」の名が見え、泰胤の弟に胤経という人物がいたのかもしれない。

●相馬家諸系譜より作成

 相馬胤綱―+―胤継――――――+―泰胤―――――――親胤――――?――高胤
(左衛門尉)|(次郎兵衛尉)  |(民部大夫)   (民部次郎)   (小次郎)
      |         |
      |         +―胤経―――――+―胤村―――――+―氏胤―――――+―胤基
      |          (次郎左衛門尉)|(次郎左衛門尉)|(太郎)    |(小次郎左衛門尉)
      |                  |        |        |
      |                  |        +―鷲谷胤定   +―高井胤行
      |                  |        |(次郎)    |
      |                  |        |        |
      |                  |        +―根戸胤光   +―戸張胤重
      |                  |        |(三郎)
      |                  |        |
      |                  |        +―布施胤久
      |                  |        |(四郎)
      |                  |        |
      |                  |        +―文間胤家
      |                  |         (五郎)
      |                  |
      |                  +―胤忠―――――+―胤長―――――――胤宗
      |                   (上野介)   |(小次郎左衛門尉)(小次郎)
      |                           |
      |                           +―忠重
      |                            (四郎左衛門尉)
      |
      +―胤村――――――+―胤氏―――――――師胤
       (孫五郎左衛門尉)|(次郎左衛門尉) (五郎左衛門尉)
                |
                +―師胤―――――――重胤―――――――親胤―――――――胤頼
                 (彦次郎)    (孫五郎)    (出羽権守)   (讃岐守)



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相馬親胤(????-????)

 六代当主。相馬民部大夫胤泰の子。通称は民部次郎(『神代本千葉系図』『相馬胤綱子孫系図』)。「胤親」とも。系譜には「守屋」とあり(『神代本千葉系図』)、相馬御厨南部を中心に領地を有した胤村流相馬氏とは一線を画し、手賀水海(手賀沼)を挟んだ相馬御厨北部へ発展の基盤を移したか。

●『相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図』(島津家文書)

 相馬小次郎左衛門尉   次郎兵衛尉法名法蓮 民部大夫法名蓮胤     民部次郎
 胤綱――――――――+―胤継―――――+―泰胤―――――――――親胤
 ∥         | 相馬尼令義絶畢|
 ∥         |        |  弥次郎左衛門尉    六郎兵衛尉
 ∥         |        +―頼泰――――――+――泰綱
 ∥         |        |         |
 ∥         |        |         |   九郎(追筆)
 ∥         |        |         +――胤義
 ∥         |        |
 ∥         |        |  四郎左衛門尉     七郎左衛門尉
 ∥         |        +―胤盛―――――――――胤直
 ∥         |        
 ∥         | 孫五郎左衛門尉   次郎左衛門尉     五郎左衛門尉
 ∥―――――――――+―胤村―――――+―胤氏―――――――――師胤
 ∥         |        |
 後家        |        |  六郎左衛門尉
  相馬尼      |        +―胤重
   天野和泉前司政景|
      女子    | 六郎左衛門尉    弥六左衛門尉     五郎
           +―胤景―――――+―胤貞―――――――――親常 今訴人  
           |        |
           |        |  七郎
           |        +―胤平
           |
           | 七郎 童名若王   四郎左衛門尉(追筆) 民部大夫
           +―行胤―――――――胤盛―――――――――胤直
           |
           | 九郎左衛門尉    孫次郎     
           +―忠胤―――――――胤藤―――――――――竹鶴丸
           |
           | 足助尼
           +―一女子被跡為闕所故陸奥入道殿御拝領畢
           |
           | 摂津大隅前司妻              刑部権大輔
           +―二女子――――――女子―――――――――親鑑
           |
           | 島津下野入道後家  下野前司       上総前司
           +―三女子――――――忠宗  法名道義   貞久 法名道鑑
             尼妙智                   ↑「論人」と朱書されていたが、
                                  消されて「貞久」とかかれた。



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相馬高胤(????-????)

 七代当主? 通称は小次郎。系譜には見えない人物だが、元弘4(1334)年の建武新政府の関東の治安維持機関・関東廂番の三番に「相馬小次郎高胤」の名が見える。同じく奥州の引付結番には千葉一族として「武石二郎左衛門尉」が見える(『建武年間記』)

 関東廂番は六番で構成され、それぞれ筆頭には渋川義季、吉良経家、吉良貞家、細川頼行、石堂範家、吉良満義ら足利一族が列している。その後、この治安機構はのちの鎌倉府へ継承されていくことになるが、そうした機関に属する人物であれば、高胤も鎌倉時代には相馬家嫡流としての地位があったと推測される。「高」字は最後の得宗・北条高時の偏諱かもしれない。時代的には親胤の子世代に相当する。

●元弘4(1334)年『関東廂結番』(『建武年間記』)

一番 刑部大輔義季、長井大膳権大夫広秀、左京亮、仁木四郎義長、武田孫五郎時風、河越次郎高重、丹後次郎時景
二番 吉良兵部大輔経家、蔵人憲顕、出羽権守信重、若狭判官時明、丹後三郎左衛門盛高、三河四郎左衛門尉行冬
三番 吉良宮内大輔貞家、長井甲斐前司泰広、那波左近大夫将監政家、讃岐権守長義、山城左衛門大夫高貞、
前隼人正致顕、相馬小次郎高胤
四番 細川右馬権助頼行、豊前前司清忠、宇佐美三河前司祐清、天野三河守貞村、小野寺遠江権守道親、
因幡三郎左衛門尉高憲、遠江七郎左衛門尉時長
五番 丹波左近将監範家、尾張守長藤、伊東重左衛門祐持、後藤壱岐五郎左衛門尉、美作二郎左衛門尉高衡、
丹後四郎政衡
六番 中務大輔満義、蔵人伊豆守重能、下野判官高元、高太郎左衛門尉師顕、加藤左衛門尉、下総四郎高家

 高胤はこののちも新政府に仕えたと思われるが動向は不明。



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相馬胤経(????-????)

 相馬小次郎兵衛尉胤継の子。通称は次郎兵衛、官途は左衛門尉(『相馬之系図』『門馬氏系図』『相馬岡田系図』『相馬当家系図』)。詳細な伝記は不明。

 ただし、胤継が胤綱の弟とされている点(実際は胤綱の長男)、実在の系統胤綱胤村胤氏と、『相馬之系図』などに見える胤綱胤経胤村氏胤という部分が非常に似通っていることや「綱」「経」字の相似点など、系譜上間際らしく疑わしい部分がある。ただ、ほぼ同時代に同名の人物がいたことも珍しくはないため、一概に否定はできない。

●『相馬之系図』(『相馬文書』所収)

+―胤綱――――――胤村―――――+―胤氏―――――――師胤
|(次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉)|(次郎左衛門尉) (五郎左衛門尉)
|                |
|                +―師胤―――――――重胤――――――親胤―――――胤頼
|                 (彦次郎)    (孫五郎)   (出羽権守) (讃岐守)

+―胤継――――――胤経―――――――胤村―――――+―氏胤――――――胤基―――+―胤忠
 (小次郎)   (左衛門尉)   (次郎左衛門尉)|(太郎)    (左衛門尉)|(上野介)
                          |              |
                          +―鷲谷胤定         +―高井胤行
                          |(次郎)          |
                          |              |
                          +―根戸胤光         +―戸張胤重
                          |(三郎)      
                          |
                          +―布施胤久
                          |(四郎)
                          |
                          +―文間胤家
                           (五郎)



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相馬胤村(????-????)

 相馬次郎兵衛尉胤経の子。通称は次郎。官途は左衛門尉(『相馬之系図』『門馬氏系図』『相馬岡田系図』)。詳細な伝記は不明。相馬二郎左衛門尉胤綱の子・五郎左衛門尉胤村と混同されている可能性もある。



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相馬氏胤(????-????)

 相馬次郎兵衛尉胤村の子。通称は太郎(『相馬之系図』『門馬氏系図』『相馬岡田系図』)。氏胤の兄弟は相馬郡各地に移ったという。

鷲谷次郎胤定 柏市鷲谷
根戸三郎胤光 柏市根戸
布施四郎胤久 柏市布施
文間五郎胤家 取手市小文間

 五男の文間五郎胤家の子・文間五郎胤直は、相馬孫五郎重胤に随って陸奥国行方郡太田村へ下向し、その後、行方郡片草村金場に移住した。そして子孫は奥州相馬家の重臣・門馬氏として発展した。



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相馬胤基(????-????)

 八代当主。父は相馬太郎氏胤(『相馬之系図』『相馬岡田系図』)相馬次郎左衛門尉胤氏(『相馬出羽守系図附別紙系図』)。通称は小次郎。官途は左衛門尉(『相馬之系図』『門馬氏系図』『相馬岡田系図』)。兄弟は相馬郡内へ移住した。

高井胤行 取手市高井
戸張胤重 柏市戸張

 ただし、胤基の名がない系譜もある(『奥相秘鑑』『相馬当系図』)

●『奥相秘鑑』をもとにした系譜

 相馬義胤―+―胤綱        +―胤村――+―氏胤
(五郎)  |(次郎左衛門)    |(次郎) |(太郎)
      |           |     |
      +―胤継―――胤経―――+     +―鷲谷胤定
       (小次郎)(左衛門尉)|     |(次郎)
                  |     |
                  |     +―根戸胤光
                  |     |(三郎)
                  |     |
                  |     +―布施胤久
                  |     |(四郎)
                  |     |
                  |     +―文間胤家
                  |      (五郎)
                  |
                  +―胤忠―――…<下総相馬氏>
                  |(上野介)
                  |
                  +―高井胤行―…<相馬民部>



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相馬胤忠(????-????)

 九代当主。父は相馬左衛門尉胤経(『奥相秘鑑』『相馬当系図』)相馬左衛門尉胤基(『相馬之系図』『相馬岡田系図』)。通称は小次郎。官途名は上野介。世代的に見ると胤経の子ということが妥当か。

 次男の相馬四郎左衛門尉忠重は新田義貞に従って活躍した弓の名手として知られ、延元元(1336)年6月17日、比叡山の松尾坂での足利方との合戦で、「相模国の住人本間孫四郎重氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重」が「勢兵精射」で「熊野勢五百余人」を防いだという。

 延文4(1359)年5月18日、円覚寺に大般若経の版木のための資金を納めた人物のひとりとして「相馬掃部助貞重」の名が見える(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)。貞重が系譜上でどの位置にあるかは不明ながら、相馬民部太夫泰胤の甥・澤八郎胤頼の子に八郎太郎貞頼がおり、その近親かもしれない。



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相馬胤長(????-????)

 十代当主。相馬上野介胤忠の子。通称は小次郎。官途は左衛門尉。号は覚寿(『相馬当家系図』)

 貞治5(1365)年、千葉介氏胤が美濃で没すると、幼少の竹寿丸(のち千葉介満胤)が家督を継いだ。このとき竹寿丸はわずか六歳であり、将軍・足利義詮は下総国の混乱を恐れて一族や家臣たちに竹寿丸の後見を命じたといわれる。

 後見人となった「族臣」には「粟飯原弾正左衛門、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、東二郎左衛門入道」が挙げられている(『千葉大系図』)。『千葉大系図』の記載は『香取文書』に記された人物を羅列しているに過ぎないが、応安7(1375)年8月9日、鎌倉府から発給された文書に「相馬上野次郎」の名が見えており、相馬上野次郎という人物が千田大隅次郎、大須賀左馬助などとともに有力な一族であったことがうかがえる。「上野次郎」は上野介の次男の意味であり、相馬上野介胤忠の子であろう。

●応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇 香取文書』所収)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、
 所被仰両使也、早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、
 依仰執達如件、
   応安七年八月九日     沙弥(在判)

木内七郎兵衛入道殿  大隅次郎、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、国分六郎兵衛入道、国分越前五郎、国分与一、東次郎左衛門尉、木内七郎左衛門入道、野崎左衛門五郎、那智左衛門蔵人入道、ニ同文書

■千葉介竹壽丸後見人(一族)

名前 法名 実名
粟飯原彈正左衛門   粟飯原彈正左衛門尉詮胤
大隅次郎   千田義胤? 大隈守の二男をあらわす。木内下総介胤康の義弟。
相馬上野次郎   相馬左衛門尉胤長
大須賀左馬助   大須賀左馬助憲宗
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
東次郎左衛門入道   東次郎左衛門尉胤秀
木内七郎兵衛入道    
国分六郎兵衛入道   国分小六郎胤任?
国分与一   国分与一氏胤?
国分越前五郎   国分越前五郎時常
神崎左衛門五郎   神崎左衛門五郎秀尚(文和3年:1354の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?)
那智左衛門蔵人入道   ?(下総町の那智山に関係した大須賀・神崎・木内一族か?)

■千葉介竹壽丸後見人(家臣)

名前 実名
円城寺式部丞 円城寺政氏。=図書丞氏政?応安7(1374)年5月27日、安富道轍の注進状に「満胤代官」として見える。
円城寺駿河守   
鏑木十郎 鏑木胤繁。千葉宗家の重臣にして有力一族。
多田平四郎 香取郡多田村の千葉一族。
中村式部丞 中村胤幹。香取神領地頭代。中村弥六入道生阿(聖阿)の子で満胤の寵臣。
深志中務丞 応安7(1374)年5月27日、安富道轍の注進状に「満胤代官」として見える。
内山中務丞 常陸国人か。
行方平四郎 常陸国人か。
麻生淡路守 常陸国人か。
島崎大炊助 常陸国人か。
龍崎尾張守 常陸国人か。
高城越前守 常陸国人?


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相馬胤宗(????-????)

 十一代当主。相馬左衛門尉胤長の嫡男。通称は小次郎。官途は左衛門尉、下総守。号は茂林。八十三歳で没したとされる。くわしい事歴は伝わっていない。

 法名の「茂林」については、『松羅館本千葉系図』では相馬胤継の子「相馬五郎兵衛尉胤経」が「茂林」と記載されている。また、室町時代末期の相馬郡泉(柏市泉)に龍泉院を開基したと伝わる「相馬小次郎師胤:茂山玄林大居士」とも関係があるのかもしれない。



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相馬資胤(????-????)

 十二代当主。相馬左衛門尉胤宗の嫡男。通称は小次郎、二郎。官途名は上野介(上総介)。号は月桂



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相馬胤儀(????-????)

 十三代当主。相馬上野介資胤の嫡男。通称は小次郎。官途は左衛門尉。号は在桂(在林)

 康正2(1456)年正月19日の国府台城の戦いで、曽谷直繁・直満・将旨、円城寺若狭守・肥前守、蒔田殿、武石駿河守とならんで「相馬盛屋殿妙盛」が戦死している『本土寺過去帳』。この「妙盛」という人物がどの当主に比定されるかは不明ながら、時代的に胤儀か? このころの守谷相馬氏は日蓮宗徒であったことがうかがわれる。

 寛正7(1466)年4月18日、守谷で金杉二郎五郎が討死していることが『本土寺過去帳』に記されており、守谷で何らかの戦いがあったようである。

―本土寺過去帳曽谷氏略系図―

+―曽谷―+―左衛門尉直繁法名秀典 康正二年丙子正月於市河打死其他於市
|    |            河合戦貴賎上下牛馬等皆成
|    +―彈正忠 直満 蓮宗  仏道平等利益
|    |
|    +―七郎将旨法名典意
|    
+―円城寺若狭守妙若 +―足立将監顕秀   +―山口妙口 足立殿下人
|          |          |      孫太郎男
+―同肥前守妙前   +―宍倉帯刀掃部兄弟 +―妙縛 与五郎 
|          |          |    大ノ
+―蒔田殿      +―行野隼人妙野   +―妙大 平六
|          |          |    藤郷与殿法名妙与
+―武石駿河守妙駿  +―豊島太郎妙豊   +―左近二郎 彈正殿
|          |                 中間  妙光
+―相馬盛屋殿妙盛――+―児嶋妙嶋―――――+―匝瑳新兵衛妙新神田ノ
                      |
                      +―同帯刀妙刀
                      |
                      +―同二郎左エ門妙衛
                      |
                      +―戸張中台孫三郎妙台



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相馬胤高(????-1511)

 十四代当主。相馬左衛門尉胤儀の嫡子。通称は小次郎、二郎。官途名は上野介。号は幸山

 永正8(1511)年8月18日に没したとされる。



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相馬胤実(????-1503?)

 十五代当主。相馬上野介胤高の嫡男。通称は小次郎。官途は左衛門尉。号は正安

下総相馬氏の守谷城
守谷城遠景

 『本土寺過去帳』の十日上段に「相馬守谷殿 文亀三癸亥八月」とあることから、この「相馬守谷殿」が胤実であったとすれば、彼は文亀3(1503)年8月10日に亡くなっていることになる。系譜上で父である胤高は永正8(1511)年8月18日に亡くなったとされており、もし胤実が胤高の子であるとすると、胤実は父に先立って亡くなったことになる。

 「相馬守谷殿」は、約五十年前の康正2(1456)年正月19日の国府台城の戦いで討死を遂げた「相馬盛屋殿妙盛」とともに日蓮宗徒であったことがうかがわれる。



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徳誕蔵主(????-1525)

 十六代当主。相馬小次郎胤実の嫡男。実名は不明。通称は小次郎。官途名は下総守徳誕蔵主、宝寿庵と号した。

 徳誕が亡くなった事を示す文書として、某年閏11月21日付けの足利高基書状がある。そのなかで「徳誕蔵主の死去、是非なき次第に候」とある。つまり胤徳の死が古河へ伝わった直後に発給された文書であり、「相守因幡守、無二の忠信を励み候、■節■の者どもへ意見を加え候はば、簡要たる可く候」というように、胤徳の嫡男・相馬守谷因幡守胤広へ、一族(節操の者どもにも意見を加えて)を掌握することがもっとも大事なことであるとしている。そして「無二の忠信」ということから見て、下総相馬氏は古河公方の支配下(=奉公衆)にあったことが察せられる。

 この書状を胤広のもとへ持参した「安西左京亮」は、古河公方の奏者・安西但馬守能胤(安西右京亮)のことと思われ、彼は安房安西氏の流れを組む一族であろうと思われる。この文書がいつの発給文書かはわからないが、高基が古河公方であったのは、永正9(1512)年6月18日から天文4(1535)年10月8日までの23年間で、この間で「閏十一月」があったのは大永5(1525)年のみであることから、文書は大永5(1525)年の文書と推測できる。つまり、徳誕蔵主は大永5(1525)年閏11月ごろに亡くなったということか。

●大永5(1525)年閏11月21日『足利高基書状』(『房総古文書雑纂』)

 徳誕蔵主死去、無是非次第候、然者、相守因幡守無二励忠信候ハヽ、
 節瑳之者共加意見候者、可為簡要候、巨細安西左京亮可申遣候、謹言、
 
 閏十一月廿一日     花押(足利高基)

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相馬胤広(????-????)

 十七代当主。徳誕蔵主の嫡男。官途は修理亮、のち因幡守。法名は天桂

 大永5(1525)年に父・徳誕蔵主が亡くなったか、すでに「徳誕蔵主」と出家をしている様子がうかがえ、大永5年にはすでに家督を継いでいたか。

 天文6(1537)年正月、小田政治・多賀谷家重結城政朝を攻めた。このとき、政朝は嫡男・政勝に命じて足利晴氏に救援を求め、次男の小山下野守高朝はじめ、一族の山川小山氏岩上結城氏水谷氏らを率いて戦い、小田・多賀谷勢を打ち破った。一方、晴氏も国人たちを結城氏の援軍として派遣したが、そのなかに「守谷、筒戸」が見える。相馬胤広と筒戸胤満兄弟が出陣していたのかもしれない。結城勢の援軍として、胤広は四百五十騎・千八百人を率いて合戦に参加したとあるが、これは誇張か。

 胤広の家老として「泉田靫負佐」「相馬玄蕃允」が見える(『大武鑑』)。泉田靫負佐は「相馬靫負佐」のことか。「相馬靫負佐・玄蕃允」家は室町時代末期には古河公方の直臣、江戸時代の喜連川藩(足利氏)の重臣に列しており、永禄年中の相馬氏内紛によって相馬本家から離れて足利家に従ったのかもしれない。

 胤広の弟として系譜には胤行胤直の二人が記載されている(『相馬当家系図』)。胤行は「相馬大蔵太夫」と称し、子孫は「土岐丹後守殿」に仕えた。ここに見える土岐丹後守とは、慶長2(1597)年に相馬郡領主となった土岐定政の子孫と思われる。

 延宝8(1680)年の「上山藩御物成目録」(『土岐家関係文書集』)によれば、惣高三万七千四百五十九俵余の物成があり、その換金されたうちから金四十一両三分(御馬三疋代、御馬飼料代)が「蛯原五郎右衛門、相馬七右衛門、安彦治兵衛」の三名に預けられることとなり、相馬七右衛門へ金子が渡された。その相馬七右衛門が大蔵太夫の子孫かもしれない。

 その後、土岐家(上山藩、のち沼田藩)の分限帳に相馬家の名は見えない。ただ、相馬家と縁のある名字の広瀬(高井十郎胤永子孫が称する)、高井(高井十郎胤永の家?)が土岐家の家臣の中に見える。その系譜上の関係は不明だが、土岐家臣には他にも安彦氏、安孫子氏など相馬郡ゆかりの人々が見えることから、広瀬、高井両家も相馬家と関係している可能性もある(『明和六丑年四月十一日分限帳』)

役職 石高 名前
家老 三百五十石 広瀬杢左衛門
用人 二十人扶持 広瀬新左衛門
先手弓物頭 三百石 二階堂衛守
留守居 十五人扶持 広瀬左近右衛門
八十石以上 八十石 高井弥門
十人扶持 十人 安孫子屯
表医師 十五人扶持 広瀬良的
外格 二十俵 高井右門

 また、胤行の弟・胤直「相馬形部太夫(ママ)」を称し、子孫は彦根藩重臣として続き、明治には専修大学創始者となる相馬永胤を輩出する。

 徳誕蔵主―+―相馬胤広――相馬胤貞――相馬胤晴―――相馬整胤
(小次郎) |(因幡守) (左衛門尉)(上総介)  (小次郎)
      |
      +―相馬胤行――相馬胤亮――相馬胤房―+―…【土岐丹後守家臣】
      |(大蔵太夫)(大蔵太夫)(大蔵太夫)|
      |                  |
      |                  +―娘
      |                    ∥
      |             高井某――+―高井胤永――+―相馬胤勝――…【大久保相模守家臣】
      |                  |(十郎)   |(七左衛門)
      |                  |       |
      |                  |       +―広瀬胤正――…【相馬郡高井村帰農という】
      |                  |        (十郎)
      |                  |
      |                  +―相馬治胤――+―相馬秀胤
      |                   (左近太夫) |(小次郎)
      |                          |
      |                          +―相馬胤信――…【旗本相馬家、一橋相馬家】
      |                           (小三郎)   
      |
      +―相馬胤直――相馬胤方――相馬胤利―――…【井伊掃部頭家臣】
       (刑部太夫)(刑部太夫)(刑部太夫)

●結城氏と古河公方との関係図●

《例》■:親古河派■:親北条派

      結城政朝   +―結城政勝====結城晴朝===結城秀康――――松平忠直【越前福井藩主】
        ∥    |         ↑     (徳川家康二男) →結城氏の家臣が従って移住。
        ∥――――+―小山高朝――+―結城晴朝
        ∥     (下野守)  |(下野守)
宇都宮成綱―+―娘            |
      |              +―小山秀綱―――小山秀恒【水戸藩家老】…
      |               (弾正大弼)
      |
      +―宇都宮忠綱――宇都宮広綱―+―宇都宮国綱――宇都宮義綱【水戸藩家老】…
      |              |
      +―娘            +―結城朝勝(結城晴朝の養嗣子)
        ∥―――――足利晴氏   
       足利高基  (左兵衛督)
              ∥――――――――足利義氏
       北条氏綱―+―娘       (左兵衛督)
      (左京大夫)|(芳春院殿)       
            |
            +―北条氏康―――+―北条氏政―――千葉直重
             (相模守)   |(相模守)    ∥
                     |         ∥
                     +―芳林院殿    ∥
                        ∥――――――娘
                       千葉介邦胤
                      (千葉介)

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相馬胤貞(????-????)

 十八代当主。相馬因幡守胤広の子。通称は小次郎。官途名は左衛門尉。法名は花桂

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相馬胤晴(????-1546)

 十九代当主。相馬小次郎胤貞の子。諱は「胤清」とも。通称は小次郎。官途は上総介。号は玉庵(玉案)、玉宗

 古河公方・足利晴氏に奉公衆として仕えていたと思われる。天文15(1546)年4月20日、晴胤は晴氏に従って北条綱成(北条氏綱の娘聟)の籠る河越城に攻め寄せたが、北条氏康が援軍として駆けつけたために足利晴氏勢は打ち破られた。

 この戦いは俗に「河越夜戦(実際は夜に行われた戦いではないとされる)」といわれているが、系譜による胤晴の没年は天文15(1546)年4月20日であること(『相馬当家系図』)や「相馬氏」が敗走しているといわれていることから、胤晴はこの戦いで亡くなったと推測される。

 墓所は『相馬藩世紀』によれば、「相馬郡大雄山海禅寺……小次郎胤晴、嫡子整胤法名実山墓所等有之」とあるので、大雄山海禅寺(守谷市)に葬られたと思われる。

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相馬整胤(1544-1566)

 二十代当主。相馬小次郎胤晴の子。通称は小次郎。官途名は左衛門尉、下総守。法名は実山常真

 天文14(1545)年9月、古河公方・足利晴氏は敵対する北条氏康を討つべく、山内上杉憲政(関東管領)や扇谷上杉朝定らを語らい、大軍で武蔵国河越城を攻囲した。しかし、名将・北条綱成が守る河越城は攻め難く、翌天文15(1546)年4月20日、北条氏康率いる援軍の前に古河公方勢は大敗を喫し、この日、妻の父・相馬左近太夫胤晴は北条氏と戦って討死を遂げた。このため、整胤が三歳の幼さで家督を継ぐこととなった。

 翌天文16(1547)年7月ごろには、北条氏に従う「櫻井」「興津神次郎」らが「相馬口」に攻め寄せ、閏7月4日、北条氏康は「櫻井との」「興津神次郎との」へ感状を発給している(閏七月四日『北条氏康感状』「取手市史」所収)。幼少の主を擁した相馬家は北条氏に対して抵抗したものの、この感状を見る限り劣勢に立たされていた様子がうかがわれる。

 天文21(1552)年、晴氏は古河公方の座を子の足利義氏(母は北条氏綱娘)へ譲らされた。義氏は氏康の従兄弟に当たり、北条氏にとっては都合のいい公方であった。

 天文23(1554)年10月、前古河公方・足利晴氏と嫡子・足利藤氏は再び反北条氏の兵を挙げ、関宿城から古河城に移って籠城したが、11月、氏康によって古河城を攻め落とされ、晴氏は相模国波多野に幽閉された。相馬氏がこのときいずれに加担していたのかは不明。

 弘治3(1557)年7月24日、晴氏らは許されて古河に戻ったが、このとき「小山之高朝」「相馬殿」が晴氏を古河に迎えるために城の普請などで人夫を指揮したようだ。足利義氏の側衆・田代三喜斎昌純の書状によれば、「小山之高朝様、相馬殿、無二に御走り廻り候、日々の御普請など仰せつけらるるの由、申し候」とある。これを見ると小山氏は「様」、相馬氏は「殿」であり、小山氏は古くからの「関東八屋形」の名家として重んじられていたことがわかる。「相馬殿」はおそらく整胤であろう。このとき整胤はまだ十四歳であるが、晴氏のために奔走したのだろう。

 しかし9月、晴氏の嫡男・藤氏は弟・足利義氏(母は北条氏康の姉妹)の追放を企てて古河に挙兵した。この挙兵は未然に発覚し、晴氏は栗橋城に幽閉され、藤氏・藤政・家国兄弟は古河を追放されることになった。

 氏康は古河公方家にさらに深く介入するには、足利家家宰・簗田晴助の政治力があまりに大きいことを懸念し、簗田家の力を殺ぐため永禄元(1558)年4月、氏康と晴氏の間で「関宿の城は公方様の御座地となし、来る六月中に御進上すること」「晴助殿には古河の地を与える」「晴助殿の御知行は、関宿近隣の地については同程度の他地と交換すること」と関宿御移座に関わる起請文が取り交わされた。こうして6月、晴助は長年の所領である関宿を追われて古河に入ることになり、義氏・北条氏の連合軍が勝利したかに見えた。

●簗田氏・北条氏と古河公方との関係図●

《例》■:親古河派■:親北条派

  簗田高助―+―簗田持助―簗田助綱
 (関宿城主)|
       +―娘
         ∥――――足利藤氏【足利義藤(のち義輝)より偏諱】
         ∥
  足利高基―――足利晴氏
         ∥
         ∥――――足利義氏【足利義輝より偏諱】
  北条氏綱―+―娘
       |
       +―北条氏康

 しかし、永禄3(1560)年5月に前公方・晴氏が亡くなると、簗田氏の血をひく足利藤氏と、北条氏綱の孫である足利義氏の争いが再燃した。そこに越後の長尾景虎が藤氏擁立を旗印に9月28日、上野国厩橋城に入ると簗田晴助は景虎に通じ、藤氏を奉じて御座所となっていた旧居城・関宿城を攻め立てた。相馬氏も簗田氏の属将として従軍したのかもしれない

 一方、永禄4(1561)年3月、長尾景虎は関東管領・上杉憲政を奉じ、関東の諸将を引き連れて北条氏の居城・小田原城へ攻め寄せた。しかし、小田原城を落とすことはかなわず鎌倉に退却。閏3月16日、鶴岡八幡宮において上杉憲政より山内上杉家の名跡と関東管領職の譲渡が行われた。これによって景虎は「上杉政虎」と名を改めた。このことにつき、政虎は「簗田中務太輔殿」へ宛てて、「公方様御家督之事、其方ヘ深令談合、何之御方ニ而も御相続之稼可走廻候、仍申候、以愚慮計取立申事不可有之候」と、簗田晴助との相談を重要視し、自分ひとりの考えで新たな公方を立てる考えはないことを起請文として渡している(永禄四年閏三月十六日『上杉政虎起請文』)

 政虎は藤氏を古河公方として古河城へ入城させ、その後、厩橋城へ入った政虎は6月28日、越後へ帰国の途に就いた。この関東参陣に際して作成された、参陣諸将の幕紋書上『関東幕注文』に、「簗田」を筆頭にした「古河衆」の記載があるが、その末席に「相馬 四つめゆひ」とある。

●『関東幕注文』(「上越市史 別紙1」)


 幕之注文 古河衆

簗田    水あをい三本たち
同下野守  水あをい二本たち
同右々馬助 同
同平四郎  同
同平九郎  同
一宮河内守 二ひきりやう
二階堂次良 たてすな
相馬    四ツめゆひ
 
  簗田家風
横田藤四郎 扇之内之月ニ七本松

 この「相馬」は時代的に整胤と推測されるが、彼は上杉家からは古河衆として把握されており、幕紋に「四目結」紋を使用していたことがうかがえる。「相馬」が古河衆に組み込まれていたのは、「相馬」が簗田氏の縁戚となっていたためと思われる。晴助の妹が相馬胤晴の妻で整胤の母とすれば、整胤は晴助の甥となり、藤氏の従兄弟となる。幼い整胤は縁戚の実力者・簗田晴助の支援・庇護を受け続けたのだろう。しかしその簗田氏の相馬領への介入は次第に露骨になっていくことになる。

●『與五将軍系図』(「古河市史」)

…簗田経助―簗田良助―+―簗田満助―+―簗田持助―+―簗田成助―+―     +―簗田晴助――――簗田持助
(右京亮)(河内守) |(河内守) |(河内守) |(中務大輔)|(相馬室)  |(中務大輔)  (八郎)
           |      |      |      |       |
           |      |      |      +―娘     +―娘
           |      |      |      |(ヲ子々ノ局)|(千葉介親胤妻
           |      |      |      |       |
           |      |      |      +―簗田高助――+―
           |      |      |       (河内守)  |(相馬妻)
           |      |      |              |
           |      +―娘    +――――――――娘     +―――――――――娘
           |       (興禅院殿)        (安養院殿)           ∥――――足利藤氏
           |        ∥             ∥               ∥   (左馬頭)
           |        ∥―――――足利成氏    ∥               ∥
           |       足利持氏  (左兵衛督)   ∥―――――――足利高基――――足利晴氏
           |      (左兵衛督)  ∥―――――――足利政氏   (左兵衛督)  (左兵衛督)
           |              ∥      (左馬頭)
           +―簗田直助―――――――――娘
            (長門守)        (伝心院)

●相馬家・簗田家想像系図

        相馬胤貞       
       (小次郎)
        ∥―――――相馬胤晴 +―相馬整胤 +―相馬秀胤
 簗田成助―+―娘    (小次郎) |(小次郎) |(小次郎)
(中務大輔)|        ∥   |      |
      |        ∥―――+―    +―娘
      |        ∥     ∥    |(相馬彦左衛門妻)
      |        ∥     ∥    |
      |        ∥     ∥――――+―娘
      |        ∥     ∥     (船橋半右衛門妻)
      |        ∥     ∥     
      +―簗田高助―+―     相馬治胤―――相馬胤信
       (河内守) |      (左近大夫) (小三郎)
             |       ∥
             |       ∥――――+―相馬盛胤
             | 谷上永久――娘    |(小次郎)
             |(和泉)        |
             |            +―相馬政胤
             |             (小次郎)            
             |
             +―簗田晴助――簗田持助
              (中務大輔)(八郎)

 永禄4(1561)年7月、上杉政虎の威勢を背景に簗田晴助は北条氏が擁立する足利義氏の居城・関宿城を攻めたため、足利義氏は関宿城を脱出し、小金城へ移座して高城胤辰に迎えられた。永禄4(1561)年7月14日、北条氏康が栗橋城主・野田氏に宛てた書状によれば、「御所様小金迄被移、御座之由、先以目出令存候」とある。しかし、政虎が越後へ帰国すると、反撃に出た北条勢に古河城が攻められ、公方・足利藤氏は簗田晴助を頼って関宿城に逃れた

 一方、越後へ戻った政虎は、休む間もなく信濃侵攻を企図する武田信玄を討つべく、その領境となっていた信濃国川中島へ出陣。8月15日から9月9日に渡って両軍は対陣を続け、9月10日に八幡原において激戦となった。この「於去十日信州河中嶋、対武田晴信遂一戦」で上杉勢は武田信玄の弟、武田典厩信繁らを討ち取っている。

 政虎は11月には再び関東に入り、12月には上野国で「氏康、晴信」の軍勢を防ぎ、敵を破る自信を覗かせた書状を簗田晴助に送っている。そして「何篇ニも公方様御進退、簗田可被任置之段」と、「公方様(足利藤氏)」の補佐を「簗田(簗田晴助)」に任せる旨を諸将に「能々可申上」ることを述べている(永禄四年十二月九日『上杉政虎感状』)。晴助は政虎の意を受けたか、永禄5(1562)年正月、「鮎川図書助」「目吹之城攻落」を指示し、鮎川図書助目吹城野田市目吹)を攻め落とした。晴助は正月13日に感状を発給している(永禄五年正月十三日『簗田晴助感状』「下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書集三」:「取手市史」所収)。北条氏に加担する人物の持城となっていたのだろう。

 輝虎(政虎改め)は永禄5(1562)年3月まで関東で北条氏と対陣したが、厩橋城に城代として重臣の北条丹後守高広を任じて北条・武田氏に当たらせ、上杉憲政を伴って越後へ戻った。それに際し、2月11日、輝虎は簗田晴助に対し、「小山之下郷并河原田、任詫言御知行不可有相違候」と、晴助が求めていた小山下郷と河原田の知行を認めるとともに、藤氏の為に忠信を尽くすべしと指示している。藤氏はこの年、安房国の里見義堯・義弘を頼って移っている(八月二十八日佐野小太郎昌綱宛『足利藤氏書状』)

 簗田晴助はこのころ、相馬領への介入を露骨に行うようになっていた。永禄5(1562)年4月22日、晴助は「石山隼人佐」へ対し、「相馬之地、若就本意」になれば「佐賀主水助抱之知行分」を渡す判物を発給している(永禄五年四月廿二日『簗田晴助判物写』「下総旧事三」:「取手市史」所収)「佐賀主水助」については不明だが、佐賀氏は相馬氏の重臣に名を見せる家である。整胤は幼少の頃より縁戚である簗田氏の従属下にあって相馬領を保っていたと思われるが、このとき十九歳となっており、晴助といえども簡単に相馬領を我が物にすることはできなかったようである。

 その後も上杉勢と北条勢の合戦は続き、永禄8(1565)年3月、北条氏康は自ら小田原を発し、岩付城主・太田氏資を先鋒として、簗田晴助の居城・関宿城に攻めよせたが、晴助の奇襲によって大敗、氏康も自ら槍をふるって奮戦したが、晴助の猛攻によって北条勢は壊滅。氏康は退却を余儀なくされた。このときの整胤の働きは伝わっていない。

 その後の相馬家の動きはつかめないが、永禄9(1566)年正月27日、「依家僕逆心生害 年廿三」と、整胤は家臣の謀叛によって自害に追い込まれた(『相馬之系図』)。また整胤の子供「某」二人も「故ありて合川志摩某」によって殺害された(『寛政重修諸家譜』)。墓所は不明だが、『相馬藩世紀』によれば、「相馬郡大雄山海禅寺……小次郎胤晴、嫡子整胤法名実山墓所等有之」とあるので、大雄山海禅寺(守谷市)に葬られたと思われる。

 整胤がなぜ殺害されたかは不明だが、簗田晴助が大いに関係しているだろう。晴助は永禄5(1562)年頃から相馬領への野望を強くしていた形跡があり、整胤の殺害を謀った可能性もあろう。しかし、整胤亡きあと、彼の姉妹の夫に当たる「高井孫三郎」「相馬孫三郎」こと「相馬孫三郎治胤」がすぐさま相馬領をまとめたと思われる。整胤が殺害されてひと月ほど経った永禄9(1566)年3月、上杉輝虎麾下の北条丹後守高広・河田豊前守長親らは、北条方の小金城(高城胤辰)を攻めるべく本土寺(松戸市平賀)に軍勢を進めていた。この上杉勢に対し、3月3日、「相馬孫三郎治胤」は「此度金御近陣之内、以代官人数立申候」と代官に手勢を附けて出陣させる旨を伝えている。

 治胤の相続によって相馬領は一応の安泰を見たが、簗田晴助の相馬領への執着は尽きず、同年、密かに北条氏政「侘言」を述べてその麾下に属する約定を結んだ。その降伏の条件に「相馬一跡并要害」「本意候様」にすることを認める一条がある。そして氏政は晴助の要求を認め、永禄10(1567)年4月18日、降伏についての起請文を晴助へ渡した。孫三郎治胤はこの晴助の策謀を知ると、足利義氏を通じて北条氏への従属を願い、義氏の「御座所」として守谷城を進上することで、簗田晴助の野望を防ごうと試みている

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相馬治胤(1541-1602)

 二十一代当主。通称は孫三郎。官途は左近大夫。父は高井某。妻は相馬胤晴娘。本貫地は下総国相馬郡高井村茨城県取手市下高井)。

高井相馬氏の居城 高井城
高井相馬氏の高井城

 高井相馬氏の出身の治胤は十九代・相馬小次郎胤晴の娘と結婚し、一門に連なったという。

 天文14(1545)年9月、古河公方・足利晴氏は敵対する北条氏康を討つべく、山内上杉憲政(関東管領)や扇谷上杉朝定らを語らい、大軍で武蔵国河越城を攻囲した。しかし、名将・北条綱成が守る河越城は攻め難く、翌天文15(1546)年4月20日、北条氏康率いる援軍の前に古河公方勢は大敗を喫し、この日、宗家の相馬左近太夫胤晴は北条氏と戦って討死を遂げ、胤晴の嫡男・整胤が三歳の幼さで家督を継ぐこととなった。このとき治胤は五歳。

 天文21(1552)年、晴氏は古河公方の座を子の足利義氏(母は北条氏綱娘)へ譲らされた。義氏は氏康の従兄弟に当たり、北条氏にとっては都合のいい公方であった。

●簗田氏・北条氏と古河公方との関係図●

《例》■:親古河派■:親北条派

  簗田高助―+―簗田持助―簗田助綱
 (関宿城主)|
       +―娘
         ∥――――足利藤氏【足利義藤(のち義輝)より偏諱】
         ∥
  足利高基―――足利晴氏
         ∥
         ∥――――足利義氏【足利義輝より偏諱】
  北条氏綱―+―娘
       |
       +―北条氏康

 天文23(1554)年10月、前古河公方・足利晴氏と嫡子・足利藤氏は再び反北条氏の兵を挙げ、関宿城から古河城に移って籠城したが、11月、氏康によって古河城を攻め落とされ、晴氏は相模国波多野に幽閉された。

 弘治3(1557)年7月24日、晴氏らは許されて古河に戻ったが、9月、晴氏の嫡男・藤氏が弟・足利義氏(母は北条氏康の姉妹)の追放を企てて古河に挙兵した。しかし、この挙兵は未然に発覚し、晴氏は栗橋城に幽閉され、藤氏・藤政・家国兄弟は古河から逐電した。

 簗田晴助はこのころ、相馬領への介入を露骨に行うようになっていた。永禄5(1562)年4月22日、晴助は「石山隼人佐」へ対し、「相馬之地、若就本意」になれば「佐賀主水助抱之知行分」を渡す判物を発給している(永禄五年四月廿二日『簗田晴助判物写』「下総旧事三」:「取手市史」所収)佐賀氏は相馬氏の重臣に名を見せる家であるが、永禄期の佐賀主水助の先祖と思われる「佐賀主水」は、隼人佐の祖父・石山三河守の代に「筑波山ニ佐賀主水ト言者楯籠候ニ付、石山参河守、逆井右衛門四郎両将ニテ、右主水可討亡ス由、従古河公方蒙仰、則軍士ヲ引率シ早速筑波江令進発、数日相戦候処、逆井右衛門四郎三月始方討死ス、…敵之大勢ニ取囲マレ勇猛モ不相叶、終ニ討死ニ卒」とあるように、筑波山に挙兵して戦いを繰り広げた人物だったようだ(『石山家由緒書』:「総和町史」)。このように、相馬家に属する前は筑波山周辺の土豪だったか。

 整胤は幼少の頃より縁戚である簗田氏の従属下にあって相馬領を保っていたと思われるが、このとき十九歳となっており、晴助といえども簡単に相馬領を我が物にすることはできなかったようで、「若就本意」としている。

 永禄8(1565)年3月、簗田晴助上杉政虎(上杉謙信)と結んで藤氏に加勢して関宿城に籠城北条氏康太田氏資(岩付城主)を先鋒にして攻め寄せたが、簗田晴助の奇襲によって北条勢は壊走。簗田晴助は北条氏康の本陣にまでなだれ込んできた。これにはさすがの氏康もみずから槍を振るって血路を開き、逃げる他なかった。北条勢の散々な敗戦であった。この戦いでの相馬家の活躍は伝わっていないが、簗田勢の一手として参戦していた可能性はある。

 関宿合戦の翌永禄9(1566)年正月27日、当主の整胤「依家僕逆心生害 年廿三」と、家臣の謀叛によって自害に追い込まれてしまった(『相馬之系図』)。整胤がなぜ殺害されたかは不明だが、簗田晴助が大いに関係しているだろう。晴助は永禄5(1562)年頃から相馬領への野望を強くしていた形跡があり、整胤の殺害を謀った可能性もあろう。

 しかし、整胤亡きあと、彼の姉妹の夫に当たる「高井孫三郎」「相馬孫三郎」こと「相馬孫三郎治胤」がすぐさま相馬領をまとめたと思われる。整胤が殺害されてひと月ほど経った永禄9(1566)年3月、上杉輝虎麾下の北条丹後守高広・河田豊前守長親らは、北条方の小金城(高城胤辰)を攻めるべく本土寺(松戸市平賀)に軍勢を進めていた。この上杉勢に対し、3月3日、「相馬孫三郎治胤」「此度金御近陣之内、以代官人数立申候」と代官に手勢を附けて出陣させる旨を伝えている(『相馬治胤書状』「江口文書」:「我孫子市史」所収)。これが、治胤に関する初出の文書である。

 治胤の相続によって相馬領は一応の安泰を見たが、簗田晴助の相馬領への執着は尽きず、同年、密かに北条氏政に「佗言」を述べてその麾下に属する約定を結んだ。その降伏の条件に「相馬一跡并要害」「本意候様」にすることを認める一条がある。治胤の領有を認めていなかったのだろう。これに対し、上杉氏の後援が期待できなくなっている今、治胤も密かに義氏に対し「懇望筋目」していたと思われる。

●足利義氏・北条氏への降伏

 永禄10(1567)年4月18日、氏政は晴助の要求を認め、降伏についての起請文を晴助へ渡した。その一条に「若又相馬折角之上、御所様へ奉対佗言申候者、氏政涯分晴助御為宜様可馳走事」と、相馬氏が義氏へ対して「佗言」を言ってこようとも、氏政は晴助のために努力する旨をしたためた(永禄十年四月十八日『北条氏政起請文写』「簗田文書」:「取手市史」所収)。氏政はこの直後、鎌倉葛西ヶ谷鎌倉市小町3)の足利義氏に報告し、その三日後の4月21日、義氏は「今度属氏政進退儀佗言申上」たことにつき、晴助・持助父子を「被任氏政意見被成御赦免」した(四月廿一日『足利義氏契状写』「国会本集古文書」:「取手市史」所収)

 また、おそらく永禄9年中から義氏に対して「懇望筋目度々申上」てきた治胤は、氏政が晴助へ対して「相馬一跡要害」の領有を認めたことを知ったか、義氏から提示されていた「要害可相渡」という条件を飲んだ。この治胤からの申し出を義氏は「不慮之吉事」と受け止めており、「要害(守谷城)」を渡すことは最後まで渋っていたが、晴助の訴えが認められたことで治胤もついに折れたのだろう(六月廿七日『足利義氏条書写』「国会本集古文書」:「取手市史」所収)。この「不慮之吉事」は永禄9年5月の北条氏と上杉輝虎の和睦を指しているともされるが(『取手市史』解説)、この文書は全体を通じて相馬領の事を述べており、和睦と相馬領の直接的な関係はなく不自然である(七月廿七日『北条氏政書状写』「静嘉堂本集古文書」:「取手市史」所収)

相馬氏の居城 守谷城
守谷城遠景

 6月27日、義氏は氏政に対して相馬孫三郎懇望筋目度々申上間、如返答者、要害可相渡趣申遣處、此度可任其儀由申来事」とし、守谷城には「遠山人衆五百も三百も即時に被指越、要害可被請取、御膝下之各々、十騎も十五騎も可指添事」と、江戸城代・遠山氏の人数をただちに遣わすことを指示している(六月廿七日『足利義氏条書写』「国会本集古文書」:「取手市史」所収)

 また、この条書には「相馬地速於請取者、当年中古河へ可移御座候、其砌相馬地簗田ニ可被渡遣間、只今簗田不可有異儀事」とあり、おそらく治胤が知らない水面下では、相馬の地は義氏が今年中に古河へ移ったあかつきには簗田領とされることが内々に決められており、簗田晴助もこれについては「不可有異儀事」としていたとがわかる。

●五箇条の事柄(『取手市史』参照)●

①義氏が命じた守谷城開城に治胤が従うと返答してきていること。
②遠山人衆(江戸衆)の軍勢をただちに遣わして守谷城を受け取ること。
③自分の奉公衆も請取に加わること。
④自分は今年中に鎌倉から古河に移り、守谷城は簗田持助に遣わすこと。
⑤簗田持助を関宿城主とし、御座所の設置のために働かせること。

 治胤の守谷城明け渡しと義氏の条書きに応じた氏政は、早速手勢を守谷へ手配した(①②)。軍勢催促は内々に簗田晴助へも伝えられていたが、晴助はなかなか兵を動かさず、7月27日、氏政は手勢を守谷城へ入れたことを報告し、義氏が今年中に古河城へ移った際には相馬領を「則刻可返被遣儀、勿論候」と、晴助との約定を改めて確認する配慮も見せている。

 氏政の手勢が守谷城に入った二日後の7月29日、芳春院周興(義氏側近の禅僧)は芹沢土佐守に宛てて「相左(相馬左近太夫治胤)」が守谷を御座所として進上したこと(「当城森谷之事、為 御座所相左進上被申候」)と、また氏政が手勢を守谷に入れたこと(「以小田原之人数、被為請取之候」)、義氏も奉公衆を守谷城へ入れた(「依之某も奉公衆同心申上、廿九令著城候」)ことを伝えた(③)。なお、芳春院周興の書状より、治胤はこのころに官途名「左近大夫」を称したことがわかる。

 8月8日、義氏は晴助に宛てて森屋地為御座所可致進上段、相馬左近大夫申上候間、任其儀被為請取候、古河仕置等被仰付間、彼地へ可被移御座候、可存其旨候」と、治胤から守谷城を御座所として進上されたことを報告し、古河城の普請を行っているため、それが済むまでは守谷を御座所とすることとしている(八月八日『足利義氏書状写』「静嘉堂本集古文書」:「取手市史」所収)。義氏は古河の改修が済み次第、守谷を引き払って古河へ移る考えであったことがうかがえ、守谷はあくまでも一時的な御座所との考えだったのだろう。守谷を一段階置いたのは、永禄元(1558)年の簗田晴助の挙兵以来、晴助が古河を実質支配していたためであろう。守谷を欲する晴助に対し、義氏は古河を取り戻すために守谷を駒として使ったのだろう。

 10月24日、上杉輝虎沼田城に着陣した。上杉家の厩橋城代だった北条丹後守高広はすでに北条方に寝返っており、輝虎の主だった拠点は沼田城のみとなっていた。翌25日、輝虎は「始厩橋、新田、足利敵城廿四ヶ所打通、氏政陳所間近打懸」た。一方、唐沢山城佐野市富士町)では、城将の佐野小太郎昌綱が北条氏と結んで上杉家に抵抗(霜月四日『足利義氏書状写』「豊前氏古文書抄」:「取手市史」所収)。さらに、氏政は唐沢山城の援軍として自ら兵を率いて「赤岩地ニ懸船橋、利根川取越」て佐野に向かっていたが、輝虎の攻撃によって赤岩邑楽郡千代田町赤岩)に懸けた船橋を切り落とされ、北条勢は「廿七日夜中敗北」して佐野から退いた(極月二日『上杉輝虎書状』:「上越市史」所収)。佐野に出張していたのは「大導寺以下」とあり、河越城主・大導寺駿河守政繁が主力となっていたと思われる。北条勢は「岩付へ引除」いた。

 このような中で、いまだ鎌倉葛西ヶ谷から動かなかった義氏は、守谷に在番中の奉公衆・豊前山城守らから、守谷の仕置がままならない報告を受けていたと思われ、11月4日、豊前山城守へ相馬之儀万事御窮屈思召候、仕置之様体、氏康氏政へ可有御談合候、相馬左近大夫方へも急度可被仰出候」と、守谷の万事思うに任せない状況(恐らく人手不足)については、氏康・氏政親子とよく話し合い、「相馬左近大夫(治胤)」にも急ぎ対応を命じるべきことを指示している。また、守谷城の「清光曲輪」の守りのための先番衆についても、番衆が不足していて配備を命じられないことを「是又左近大夫方」へ指示して対応させるよう命じた(霜月四日『足利義氏書状写』「豊前氏古文書抄」:「取手市史」所収)

 北条氏が義氏の御座所と定めていたところは、守谷城内ではなく、守谷城から谷を挟んで北西三キロほどにある高台・御所ヶ丘(御所台)ともいわれている。しかし、結局のところ、義氏が守谷へ移ることはなかったようだ。永禄11(1568)年4月7日、義氏は奉公衆「大草修理亮」相馬在城之儀、被仰付候處、無相違申上候」ことに対し、年貢のうちから十貫文を下した(戊辰四月七日『足利義氏宛行状写』「喜連川文書」:「取手市史」)相変わらず奉公衆を守谷に遣わしていたことが見える。そして古河・守谷の修築普請を指揮していた北条氏政は、5月26日、義氏の下知の通り堅固に普請し終えて帰陣。奉公衆・豊前山城守に義氏へ報告の依頼をしたことを「御奏者」へ伝えた。この「御奏者」は芳春院周興か。

 この直後の8月ごろ、簗田晴助入道はふたたび足利義氏ならびに北条氏に反旗を翻し、関宿城野田市関宿町)に挙兵した。これは、古河城が北条氏によって接収されて普請が終わったにも関わらず、なかなか義氏が移座せず、移座に伴って簗田氏に渡されるはずの「相馬一跡要害」が反故にされていることに関係しているのだろう。

 晴助の背反に対し、北条氏康関宿城野田市関宿町)の力攻めをやめ、三男・北条氏照を主将とした軍勢で関宿城を包囲する作戦に出た。氏照は関宿城とは川を挟んだ対岸にある山王山猿島郡五霞町山王山)に砦を築き、ここを足がかりに関宿を攻めようとしたが、翌永禄12(1569)年閏5月3日、上杉謙信と北条氏康との間で和睦が調い、「越相同盟」に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止されることとなった。氏康も「御一和之上、対関宿可被残遺恨候哉、則破却、人衆可引取候旨被申付」ことを諸将に命じ、山王山砦で関宿城をうかがっていた氏照も父・氏康の命を受け、「早々破却」に同意している(五月七日『北条氏照書状』)。そして永禄12(1569)年8月、義氏は修復の終わった古河城に帰還した。

 某年12月15日、「相馬孫五郎」「鎌倉被立御座以来、昼夜奉公走廻」った功績に対して「上飯津嶋」が下されている(『足利義氏宛行状写』「猿島町史」所収)。この文書は永禄10(1567)年のものとされているが、義氏が古河城に帰還した永禄12(1569)年8月にともなう恩賞と考える方が妥当であり、この文書は永禄12(1569)年12月15日のものか。そして、こののちに記載されたと思われる『御料所知行人注文写』(「猿島町史」所収)には、「いゝつ嶋」の領主として「相馬孫五郎」の名が見える。この「相馬孫五郎」は治胤とは別の流れと推測され、古河公方家の奉公衆として仕えていた一族であろう。

 某年9月17日、足利義氏は「今度相馬家中之仕合」を鎮圧するため「簗田中務大輔(簗田晴助)」に出兵を命じ、野田左衛門大夫(栗橋城主)と小山弾正大弼秀綱(小山高朝の子)にも速やかな派兵を命じているが、義氏が簗田晴助と敵対していない時期のことであり、永禄年後半のころ、相馬家内に内紛があったことがうかがわれる。

●関宿合戦

 元亀元(1570)年になると、簗田氏はふたたび反北条方として行動を始める。「越相同盟」ののちも北条氏が約定を守らない状況に我慢がならなかったのだろう。簗田晴助は武田信玄と連絡を取り、「相馬遺跡要害」を簗田領とすることを条件に武田方に付く交渉を続けたと思われる。そして5月26日、武田信玄は簗田晴助(洗心斎)へ宛てて相馬領についての起請文を提示した。その第一条には「相馬遺跡要害、貴辺御本意之義、里見義弘談合申、可相稼候…畢竟、房州へ御入魂肝要ニ候」と、まず相馬領についての条件を挙げ、里見義弘と談合することが肝要であるとしている。

 元亀2(1571)年10月3日、北条氏康は五十六歳で病死し、嫡男・北条氏政が跡を継いだ。その三か月後の1月、氏政は「越相同盟」を破棄し、武田信玄と同盟を結んだ。北条氏と武田氏が同盟関係となると、これまた「相馬遺跡要害」についての起請文は反故となったのだろう。こうしたことで、天正元(1573)年9月、晴助の嫡男・簗田八郎持助佐竹義重と結び、上杉謙信に通じて関宿城で反北条氏の兵を挙げた。三度目の挙兵である。

 簗田氏の挙兵に呼応した佐竹義重は、相馬郡に向けて軍勢を発した。治胤はこれを撃退するべく、9月18日、弟の民部大夫胤永に百八十騎をつけて対陣させ、ついに佐竹の大軍を追い崩した。これにより、北条氏直は9月24日、胤永に「刀一包永并三種一荷」を進上して功績を賞した(『北条氏直感状』「取手市史」所収)

 天正2(1574)年1月26日、越後を発った謙信は、2月6日、上野国沼田城へ着陣。3月には北条方の城を次々と攻め落としたが、すでに北条左衛門大夫氏繁の手勢が羽生城を取り囲み、4月には簗田氏の本拠である水海城をも取り囲んでいた。このような中で5月、謙信はいったん越後へ帰国し、8月に再び関東へ出陣した。11月7日に利根川を渡り、「鉢形城下、成田、上田領悉放火」した。

 上杉勢が関宿に迫る閏11月3日、北条氏政は、氏照に従って関宿城に向かっていたと思われる相馬治胤に、越衆幸嶋口へ可打下由、其聞候、然者当陣之備者無異儀候、手遠候共、其口之儀、無心元候間、被立越候人衆、先早々返候、堅固之防戦肝要候、若敵之動相違、此方手前之用所有之者、追而可申候、恐々謹言」という書状を送り、ただちに幸嶋口の守りが心もとないため、こちらに手配している相馬勢を早々に返すので防戦に専念するよう頼んでいる(閏十一月三日『氏政書状』「上杉家文書」)。「幸嶋口」が具体的にどこかは不明だが、古河と幸嶋郡の境界にある逆井城坂東市逆井)に相当するか。

 閏11月、北条氏照は遠山政景率いる江戸衆とともに関宿城を遠巻きに囲んだ。一方、簗田氏の援軍として南下を企てていた上杉謙信だったが、上野国金山城主・由良成繁が反旗を翻したために、援軍に駆けつけることはできなくなった。しかし簗田持助は必死に防戦し、北条方の先陣として関宿城に取りついた武蔵千葉氏の当主・千葉二郎胤宗を家臣・菊間図書が鉄砲で狙撃して討ちとっている。なお、菊間図書は胤宗の陣太刀・甲冑・陣羽織を戦利品として手に入れ、天正18(1590)年、松平康元が関宿城主になるとこれらを持参して康元の家臣となった。

 持助は9月17日、属将の鮎川図書助「殊兵粮自下郷者関宿へうつし、領主に可預置候、世上静候者、速可被為返候」と、兵糧の提供を指示していたが、多勢に無勢、閏11月19日、ついに降伏して関宿城を開城。上杉謙信も生城を放棄し、越後へ帰国した。これ以降、謙信は関東に出兵することはないまま天正6(1578)年3月、急死した。

 簗田氏は関宿城を開城したのち水海城に移され、関宿城は北条氏がその手中に収めることとなる。 そして天正2(1574)年12月2日、足利義氏の奏者、芳春院周興松嶺昌寿首座が、北条家奉行・垪和刑部丞康忠に対して公方家領内へ朱印状に基づいた制札の発給を依頼した(『芳春院、松嶺首座連署書状写』「猿島町史」所収)。この中で、古河・関宿・幸嶋については、「河妻猿島郡五霞町川妻」「番匠免三郷市番匠免」「はたや北埼玉郡大利根町旗井)は「簗田左馬助(簗田右馬助助実)」の所領と認められており、簗田助実は系譜上の位置は不明ながら、簗田持助ら嫡流とは行動を異にし、足利義氏(北条方)に属していた人物と推測される。

 また、相馬氏も永禄12(1569)年に「相馬孫五郎」「上飯津嶋」に所領を与えられており、天正2(1574)年12月2日にも相馬氏への所領宛行に関するものがうかがえる。ここに見える「相馬」については、古河公方家に仕えていた奉公衆相馬氏(相馬内膳亮、相馬大膳亮、相馬孫五郎、相馬靱負など)のことであり、守谷相馬氏のことではないだろう。文書によれば、それぞれ「相馬」に下されている知行のうちから他家への宛行が行われていたことがうかがえる。

●「相馬へ被下内」の所領

上幸嶋 屋か井 古河市矢貝
下幸嶋 いゝつ嶋 坂東市幸田
かり宿 坂東市仮宿
きりの木 坂東市桐木
こいつミ 坂東市小泉
上てつ嶋 坂東市上出島

 北条氏政は簗田持助の赦免を足利義氏に働きかけていたようだ。そして12月16日、北条氏政は水海在城の簗田持助へ「古河様へ御赦免之儀、以前雖申上候、御鬱憤之旨深被仰出候条、其後思慮重而一昨日以源三申上候、依之無御別条旨御書被下候」と、義氏の怒りを解いて赦免を引き出したことを報告した。この結果、松嶺昌寿首座領として下されていた「幡谷郷、同酒井両郷北埼玉郡大利根町旗井猿島郡境町を持助へ返還することが決まった(『北条氏政条書写』)。北条氏はこののち、関宿城・栗橋城を拠点として、北関東に進出していくことになる。

 天正9(1581)年、治胤は高野山へ連判状を送っているが、その連判者は次の通り。

●天正9年高野山連判(『相馬当家系図』)

菅生越前守胤貞 筒戸小四郎胤文 岩堀主馬首弘助 大木駿河守胤清 新木三河守胤重
横瀬伊勢守保広 横瀬弾正忠恒広 佐賀掃部介整満 佐賀美濃守久次 佐賀筑後守長弘
寺田弾正左衛門吉次 寺田出雲守長尚 横瀬源太左衛門貞広 木屋長門守満吉 松井主税広吉
鮎川筑後守安勝 安富斎朝直 遊座右京亮広直 泉勝坊光音   

●小田原の戦い●

 天正10(1582)年閏12月20日、足利義氏は病死し、翌天正11(1583)年正月13日、久喜の甘棠院にて送葬の儀が執り行われた。この義氏の死に関して、治胤は「諸士為御弔言上候処、彼一人至于今日是非不申上」と、義氏に対して弔問を行わなかった。さらに治胤は古河衆「何与計策被申」であると、「御当地栗橋」北条陸奥守氏照に注進し、「下幸嶋各々知行分」を所望したようである。しかし、この治胤の策略を知った古河公方家の奉行人は、氏照に対して「相馬注進状写為披見給置」き、治胤の注進状は「近此無曲儀ニ候」とした上で、治胤は「如御存知前々御重恩相忘、違背上意候」であり、公方の葬儀に対しても一人弔問を行わなかった「無法人」であるとし、「畢竟彼地共成望、加様之侫人致之由、令分別候、向後之儀御塩味尤候」と、治胤のような侫人に下幸嶋を与えては今後痛い目を見ると断じた(『古河足利家奉行人連署奉書』「取手市史」)。これにより、下幸嶋は相馬氏の所領としては認められなかったのだろう。

 その後、治胤の活動はまったく見られなくなる。義氏葬儀後の弔問不参、偽計などが咎められて隠居に追い込まれたのかもしれない。おそらく嫡男・小次郎秀胤が跡を継ぎ、弟・民部大夫胤永が後見したか。北条氏政・氏直が「一万五千余騎引率総州下向 其節氏直胤永於一里塚互於馬上対顔」したとあり(『相馬当家系図』)、天正13(1585)年の佐倉下向の際、胤永が氏直と軍陣の作法に則り馬上の対面をしたという。 

 天正18(1590)年の豊臣秀吉と北条氏の小田原戦役に際しては、相馬氏は「惣馬小次郎 百騎」で城を固めていた(『北条氏人数覚書』「取手市史」所収)「惣馬小次郎」は治胤の嫡男・小次郎秀胤のことと思われる。守谷城で相馬勢と豊臣勢とがどのような戦いを繰り広げたかは不明だが、守谷の長龍寺には天正18(1590)年5月付の「浅野弾正少弼・木村常陸介」連署の禁制が出されており、5月には守谷城は陥落していたことがわかる。

 小田原城落城後の治胤の動向はわからないが、『相馬之系図』によると、

「属相州北條家勤仕、北條滅却之後、欲事関白秀吉公雖訴訟不叶、流浪之後、請信濃守胤信扶持、旁遺恨難散、於武州江戸山手思死云々、子孫断絶

とされていて、北条氏の滅亡後は秀吉に旧領安堵などを訴えたものの認められず、流浪したのち、「信濃守胤信」に扶持を請うたとされている。ここに見える「信濃守胤信」は、おそらく「相馬信濃守胤信」のことと考えられ、彼は『寛政重修諸家譜』においては治胤の次男とされている。

 治胤の嫡男・小次郎秀胤が慶長2(1597)年正月15日に亡くなり、その跡を継いでいた次男・信濃守胤信のもとで余生を過ごし、慶長7(1602)年5月6日、江戸にて62歳で亡くなったのだろう。法名は了山悟公


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●おもな参考資料●

『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料

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