| 代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 |
| 初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 |
| 2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? |
| 3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? |
| ―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? |
| 4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 |
| 5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? |
| 6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? |
| ―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) |
| 7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? |
| 8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 |
| ―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 |
| 9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 |
| 10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? |
| 11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? |
| 12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? |
| 13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? |
| 14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? |
| 15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 |
| 16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 |
| 17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 |
◎中村藩主◎
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
| 初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
| 2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
| 3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
| 4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
| 7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
| ―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
| 8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
| ―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
| 9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
| 10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
| 13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■八代惣領家■
(????-1358)
| <正室> | 不明 |
| <通称> | 孫次郎 |
| <父> | 相馬孫五郎重胤 |
| <母> | 田村三河前司宗猷養女(藤原氏女)か |
| <官位> | 不明 |
| <官職> | 出羽権守 |
| <法号> | 月洞聖心 |
●相馬親胤事歴●
![]() |
| 親胤花押 |
父は相馬孫五郎重胤。母は田村三河前司宗猷養女(藤原氏)か。通称は孫次郎。官職は出羽権守。生年については不詳ながら、元弘3(1333)年12月、重胤の代官として多賀城の北畠顕家のもとに参じて所領の安堵をうけた際、「孫次郎」と称しているため、この年には元服しており、生年は正和年中(1312-1317)ごろとなるか。母が田村三河前司宗猷養女とすれば、重胤の奥州下向後の誕生となろう。祖父の彦次郎師胤、父の孫五郎重胤は将軍家からは相馬家の分家として把握されていたとみられ、終生無位無官であった。
|
![]() |
| 亥鼻城土塁(室町後期) | 小高城(小高楯) |
相馬親胤は中先代の乱を契機に父・重胤の指示によって鎌倉に上って足利尊氏の麾下に加わっていたとみられる。その後、建武2(1335)年11月下旬には「千田大隅守相共向于千葉楯致合戦」とあるように、千葉介貞胤の拠点のある下総国「千葉楯」を攻めている(『相馬胤頼着到状』)。この「千葉楯」がどこなのかは定かではないが、同着到状内にも「小高楯」とあるように高台に楯築いた要害のニュアンスで用いられているのであろう。この「千葉楯」は「千葉城」(観応三年十一月廿二日「吉良貞家披露状」)とも記されている通り、通説のような平地の千葉氏の館とは異なる。千葉庄の中で要害となるような場所とすれば、現在の亥鼻山を突端とする台地の可能性が高いだろう(亥鼻城一帯の高台を「千葉楯」「千葉城」から敢えて除外するほどの否定条件はない)。
●建武4(1337)年正月「相馬松鶴丸着到状」(『相馬文書』)
その後、建武2(1335)年に「俄将軍家京都御上洛之」(建武四年正月「相馬松鶴丸着到状」)したとあることから、12月には尊氏に従って新田義貞率いる朝廷軍と箱根竹ノ下に戦ったのだろう。そのまま尊氏勢に加わって建武3(1336)年正月に入京するが、翌建武4(1337)年の時点で「御具申至今未及下国」(建武四年正月「相馬松鶴丸着到状」)とあるように、親胤と小高城との音信は途絶えたままであった。これは足利尊氏が陸奥国多賀城から上洛した北畠顕家、河内国の楠木正成らとの戦いに大敗して九州へ落ちたためと思われ、親胤は九州へ従軍または中国地方や四国に置かれた足利一族の大将のもとに配置されたのだろう。
![]() |
| 多賀城 |
一方、尊氏方の奥州総大将・斯波尾張弥三郎家長は、建武2(1335)年12月22日に陸奥国司の北畠顕家が上洛の途に就いたため、「為国司誅伐志和尾張弥三郎殿、府中御発向」した(建武四年正月「相馬松鶴丸着到状」)。しかし、追いつかずに鎌倉へ駐屯する。
鎌倉は建武3(1336)年正月2日に上洛する北畠顕家卿よって攻め破られ占拠される。ただし、顕家の目的は上洛にあるため、とくに未練もなく鎌倉を棄てて上洛の途に就いた。当時の鎌倉は尊氏嫡子の足利義詮がが留守居しており、家長は義詮を補佐する関東執事に補任される。その家長の下向に親胤の父「相馬孫五郎重胤」が随従することとなり、「于渡郡河名宿、武石上総権介胤顕同道、賜東海道打立、関東馳参」とあるように、阿武隈川の北岸に形成されたであろう渡河宿場の「渡郡河名宿(柴田郡柴田町上川名)」で「陸奥国検断職」の同職にある武石胤顕と同道し、家長に対面したとみられ、そこで東海道出立の御教書を給わって関東へ馳せ参じたものと思われる。なお、この出陣に重胤は決死の覚悟だったようで、建武2(1335)年11月20日、「ちやくし」の親胤を筆頭に、次男の松犬(相馬弥次郎光胤)、娘(相馬朝胤妻)へ『相馬重胤譲状』を発給した。彼らが相馬孫五郎重胤から譲られた所領と除外分は下図の通り。
●建武2(1335)年11月20日譲渡(親胤、光胤、胤家ら)
| 国郡 | 村 | 給分 | 受給 |
| 陸奥国行方郡 | 小高村 | 〔除外分以外〕 | 相馬親胤 |
| 九郎左衛門尉の給分一軒 | 相馬朝胤妻 | ||
| 矢河原(十郎)の後家尼の田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| 彦三郎入道の居内の田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| 高村 | 〔除外分以外〕 | 相馬親胤 | |
| 高野蔵人の後家尼の田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| 文間孫四郎の居内の田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| さうきやう房の田在家一軒 | ? | ||
| 目々澤村 | 相馬親胤 | ||
| 堤谷村 | 〔除外分以外〕 | 相馬親胤 | |
| 藤三郎の田在家一軒 | ? | ||
| 耳谷村 | 相馬光胤 | ||
| 村上浜 | 相馬光胤 | ||
| 小山田村 | 相馬親胤 | ||
| 堰沢村(千倉庄南草野村) | 相馬親胤 ※後家尼御前(一期分) | ||
| 盤﨑村 | 〔除外分以外〕 | 相馬親胤 ※後家尼御前(一期分) | |
| 釘野内田在家山狩倉 | 相馬光胤 | ||
| かくまさわの伊予房の屋敷田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| 孫四郎の給分関根の屋敷田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| 鳩原村 | 〔除外分以外〕 | 相馬光胤 ※相馬胤門後家(一期) | |
| 彦四郎の給分の田在家一軒 | 相馬光胤 | ||
| 下総国相馬郡 | 増尾村 | 〔除外分以外〕 | 相馬親胤 |
| いやけんし入道の田在家一軒 | 相馬胤家(岡田相馬氏) | ||
| 粟野村 | 山ふしうちの田在家一軒 | 相馬胤家(岡田相馬氏) | |
| 薩間村 | 相馬光胤 |
なお、親胤の嫡男「松鶴丸(相馬胤頼)」は正中元(1324)年生まれとされているが、建武2(1335)年11月20日の『相馬重胤譲状』に「二郎子なくしてあとたえぬへくハ、二郎か跡をも松犬知行すへし」とあって、重胤は「二郎子」(松鶴丸)を認識していないようにもみえる。ただし、これは親胤の子がいない場合には松犬光胤が継承するという、あくまでも相続順を明記したものという考え方も可能である。
![]() |
| 鴨川 |
建武3(1336)年正月11日、新田義貞らを追捕しながら上洛した足利尊氏勢であったが、正月13日には北畠顕家勢が近江東坂本に到着。これに勢いを盛り返した新田義貞勢と鴨川で対峙するが、正月27日の合戦で敗北を喫した。東山へ逃れた足利勢は翌正月28日の合戦でも敗北。正月30日、賀茂社の糺河原に寄せるも敗れてついに丹波国へ遁れた。その後、2月3日に摂津国から京都へ攻め入ろうとするが、2月6日から11日にかけて起こった摂津豊嶋河原の合戦で新田義貞・北畠顕家および楠木正成の軍勢に防がれ大敗を喫し、瀬戸内を九州へ落ち延びて行った。
京都の合戦で足利尊氏を九州へ追い落とした北畠顕家卿は建武3(1336)年2月14日に京都に帰還。3月2日「権中納言」に任官したのち(『公卿補任』)、再度奥州の警衛の為に陸奥鎮守府へと下向していった。
一方、鎌倉では2月18日、重胤が弥次郎光胤や甥の相馬孫次郎行胤に『相馬重胤定書』を渡して小高城の守りを固める指示と戦いの心得を示し、光胤を大将に据えて庶子等ともども軍忠に励むよう指示した『軍勢催促状』を発給し、鎌倉から小高へと帰還を命じた。
●建武3(1336)年2月18日『相馬重胤定』(『相馬文書』)
●建武3(1336)年2月18日『相馬重胤軍勢催促状』(『相馬岡田文書』)
3月3日、「惣領代」光胤は四十五人の一族郎従を率いて小高城に着到し、奥州大将軍斯波家長の留守居を任されていたであろう家長従弟の足利竹鶴(のち斯波兼頼)に属し、その代官・氏家道誠入道に『相馬光胤着到状』を提出している。『相馬光胤着到状』には「任 斯波殿■■書并親父重胤事書、今月八日令下国」とあり、斯波家長と重胤の命を受けて「今月八日令下国」したことがうかがえるが、この文書は3月3日の文書であることから、本来は「今月十八日令下国」で「十」の脱字であろう。
多くの一族を小高へ返した相馬重胤は、斯波家長勢に属して、再度鎌倉を占拠すべく東海道を下ってきた北畠顕家勢と対峙。4月16日の片瀬川合戦で一族の相馬泉胤康や文間胤往らが討死を遂げた。重胤は鎌倉まで遁れるが、北畠勢が鎌倉に乱入するに及び「法花堂下自害」した。この「法花堂」は右大将家法華堂であろう。
光胤は小高に到着すると城郭の強化をはじめ、建武3(1336)年3月18日、結城宗広入道道忠の代官・中村六郎広重が籠もっていた宇多庄熊野堂(相馬市中野)を攻撃する。しかし、3月22日には北畠勢の広橋経泰が小高城に攻め寄せたため防戦。3月27日には斯波家被官の大泉平九郎とともに標葉庄内で標葉一族と交戦している。その後。4月9日には国魂行泰が小高城に攻め寄せ、宮方の軍勢が小高城を包囲。「伯父弥次郎者親胤舎弟、去年五月国司下向之時、海道為小高楯致合戦、終以討死畢」とあるように、5月24日に小高城は落とされ、光胤以下は戦死を遂げた。しかし、これ以前に光胤は甥の松鶴丸に譲状を託し、主要な一族を副えて小高城から脱出させており、一族の命脈は保たれた。そして小高城を逃れた一族は「其後松鶴以下一族隠居山林」と、松鶴丸を奉じておよそ八か月間、山中に潜んで時を待つこととなる。
小高落城から半年後の11月22日、親胤は「斯波家長奉書」によりの下総国相馬郡の相馬一族闕所地を領することを認められた。尊氏方での数々の功績と一族の討死が評価された結果か。おそらく親胤はこの当時は鎌倉に駐屯していたと思われる。
●建武3(1336)年11月22日『斯波家長奉書』
| 闕所地 | 現在地 | 前領主 |
| 相馬郡鷲谷村 | 柏市鷲野谷 | 相馬左衛門尉 |
| 津々戸村 | つくばみらい市筒戸 | 相馬■■六郎 |
| 藤谷村 | 柏市藤ヶ谷 | 相馬六郎、相馬九郎等 |
| 大鹿村 | 取手市白山 | 不明 |
| 高井村 | つくばみらい市上高井 | 不明 |
| 高柳村 | 柏市高柳 | 不明 |
このころ小高周辺では、ふたたび相馬一族による挙兵が起こっている。建武4(1337)年正月26日、「其後松鶴以下一族隠居山林」していた人々は、足利竹鶴(斯波兼頼)の代官である氏家道誠が「東海道宇多庄熊野堂」の「此御合戦蜂起」したことを「幸」として挙兵。松鶴丸は「松鶴雖幼少、着到之親族等相催之宇多庄打越」たという。ここで「結城上野入道代中村次郎、数万騎楯籠当庄熊野堂之處、押寄打散畢」という華々しい戦果を挙げ、氏家道誠に着到状を提出している(建武四年正月廿六日「相馬松鶴丸着到状」)。
延元2(1337)年2月21日、親胤は常陸国関城を出立した奥州総奉行・石塔蔵人義房のもと、各地を転戦しながら北上して行方郡に入り、松鶴丸をはじめとする一族たちと再会を果たした。その後、3月以降に宮方から小高城を奪還して力を取り戻した相馬家は、石塔義房を奉じて顕家を国府及び海道筋から放逐し、宇多郡西端の霊山に追い落とした。
●石塔氏略系図
足利泰氏―(?)―石塔頼茂――義房―――+―義元――+―直房――――頼忠
(宮内少輔) (宮内少輔)(四郎蔵人)|(左馬助)|(中務大輔)(四郎)
| |
+―頼房 +―頼世
(右馬頭) (三河守)
●村上源氏系図
源師房――顕房―――久我雅実==雅通―――通親――+―通光――――六条通有――有房―――有忠――――千種忠顕
(右大臣)(右大臣)(太政大臣)(内大臣)(内大臣)|(太政大臣)(侍従) (内大臣)(権中納言)(左近衛中将)
|
+―通方――――北畠雅家――師親―――師重――――親房―+―顕家
(大納言) (権大納言)(大納言)(権大納言)(准后)|(中納言)
|
+―顕信
|(右大臣)
|
+―顕能
(准后)
3月、顕家麾下の広橋経泰と国魂行泰は行方郡に侵入し、小池村に砦を構えた。小池村は親胤の所領であり(『相馬親胤譲状』(1))、その後、国魂行泰は小高城を包囲した。このとき、小高城には援軍として中野義長が入っており、親胤は中野と結んで行泰を破り、一族の相馬胤時は、総大将・石塔右馬頭頼房を迎えるために陸奥国三箱(いわき市湯本)に向かい、標葉郡内の標葉氏の諸城を攻めながら北上した。
8月、北畠顕家が朝廷より上洛を命じられたため、顕家は義良親王を奉じ、結城宗広・伊達行朝らを率いて宇都宮へ発向した。こうして陸奥国の足利方・朝廷方の勢力均衡が崩れると、足利方の攻勢が始まり、相馬親胤は「海道七郡検断職」に任じられた。一方、北畠顕家は上洛の途中で鎌倉を攻め、12月25日、鎌倉の守将・斯波家長は支えきれずに自刃して果てた。
その後、和泉国内で北朝勢と合戦を繰り返したのち、大和国吉野山に上った顕家は、延元3(1338)年5月15日、新政の欠点を諌めた上奏文を奏上し、痛烈に批判した(『北畠顕家上奏文』)。十六歳から二十一歳までの多感な五年間を陸奥国と戦場の中で暮らし、国の疲弊や民衆の反抗の原因、そして顕家自身の不満などが爆発したのだろう。しかし天皇は上奏文を受け取るやふたたび顕家に出陣を命じた。落胆しつつも顕家は出陣。そして七日後の5月22日、和泉国安倍野において高師直率いる足利勢に討たれた。享年二十一。
暦応元(1338)年6月、親胤は霊山、黒木城を攻め、7月には宇多庄熊野堂を攻めた。ここはかつて弟の松犬光胤が攻撃した地である。
閏7月、南朝の軍事的要であった新田義貞も越前国藤島畷で戦死、起死回生をかけた南朝は東国を平定するべく、暦応元(1338)年9月、義良親王・宗良親王を総大将とし、北畠親房・顕信を補佐とする大船団を伊勢大湊から出発させた。しかし、船団は遠州灘付近で台風に遭遇して船団は四散。義良親王は遠江国白羽港へ流れ着き、結城宗広は伊勢吹上浦に押し戻され、親房・顕信父子は常陸国へ漂着した。
常陸に着いた親房らは常陸国の南朝方、小田治久・関宗祐らの出迎えを受けて常陸国神宮寺城に入ったが、伊勢を発った南朝勢の大軍はすでに壊滅していた。南奥州では、小峰城の結城修理権大夫親朝と白河城の結城顕朝(親朝の子)が南朝方として北朝方と対峙していた。親朝の「親」や顕朝の「顕」は、いずれも北畠親房や北畠顕家からの偏諱と思われ、南奥州の南朝方の要として重要視されていたと思われる。そのような中、11月21日に親朝の父で白河領主・結城宗広入道は伊勢国安濃津で亡くなった。
暦応3(1340)年正月、親胤は探題・石塔義房入道秀慶の命を受けて、白河城を攻めた。結城宗広入道亡きあと、小峰城と白河城は宗広の子・親朝が実質的に支配しており、親朝は南朝方として北朝勢力と渡り合っていたものの、周りは北朝勢力で固められ、動くに動くことはできなかった。暦応4(1341)年11月、親房を庇護し続けていた小田氏治が北朝方に降伏。そして親房がもっとも頼りとしていた結城親朝も康永元(1342)年6月、北朝方に転身した。親房は関宗祐の居城・関城へ逃れたが、11月12日に関城が陥ちると拠点を失い、空しく吉野へ遁れていった。
康永3(1344)年4月19日、探題・石塔義房入道は「対治凶徒天下泰平家門繁衍昌」のために「陸奥国岩城郡飯野八幡宮」に「同郡中平窪村三田彦四郎入道跡」を寄進したが、この土地につき、親胤は「海道七郡検断職」として、4月26日、27日の両日にわたって岩城郡の伊賀三郎左衛門尉盛光の代官にの打渡状を発給している。
◆康永3年4月26日『出羽権守親胤打渡状』(『飯野八幡社古文書』:『大日本史料』所収)
親胤は田村庄内宇津峰に籠った北畠顕信攻撃の指示を受け、貞和3(1347)年7月、相馬左衛門次郎胤親、標葉彦三郎隆光らとともに宇津峰を攻め、9月、霊山を攻め落とした。顕信は守良親王を奉じて霊山を脱出し、出羽国へ逃れていった。
しかし、中央では足利尊氏と弟・直義入道恵源の間で権力闘争が起こっており、この余波が奥州に及ぶにつれて南朝勢力が次第に盛り返し、顕信は出羽国から陸奥国に侵入した。さらに奥州では石塔義房・頼房に代わって派遣された吉良貞家(四本松城)・畠山高国(二本松城)の北朝両探題が対立しており、顕信はこの隙をついて陸奥国府・多賀城を攻め落とした。
●吉良・畠山氏両系図
足利義兼―+―畠山義純―泰国―――時国――――高国――――二本松国氏――国詮―――+―満泰――――持泰―――+―政泰
(上総介) |(太郎) (三郎) (阿波守) (上総介) (左馬権頭) (修理大夫)|(修理大夫)(修理大夫)|(治部少輔)
| | |
+―足利義氏―義継―――吉良経氏――経家――+―貞家―――――満家 +―本宮満国 +―義泰
(武蔵守)(上総介)(上総介) (上総介)|(右京大夫) (中務大輔) (上野介) (左馬允)
|
+―貞経
|(宮内大輔)
|
+―氏家
(左馬助)
多賀城に落ち着いた顕信は、親胤を味方に引き入れるため、一族の五辻民部権少輔清顕を派遣して恩賞を約束したが、親胤は応じなかった。一方、観応2(1351)年10月、守良親王(後醍醐天皇孫、尊良親王子)が奥州に挙兵し、親胤はこれと戦ったが負傷した。この戦いにおいては、南朝方は「海道四郡守護職安堵」「海道四郡内闕所地」などの恩賞を提示して参向を促したが、北朝方探題・吉良貞家も対抗して親胤を「陸奥国東海道守護職」とする恩賞を約束しており、親胤は南朝方へ寝返ることはなかった。
|
| 小高城 |
観応3(1352)年に入ると、吉良貞家は北畠顕信の籠る多賀城を攻めて占領し、顕信は宇津峰に遁れた。この戦いに際して、親胤のもとには顕信と貞家からそれぞれ使者が遣わされ、参陣が促されているが、相馬氏の所領が海道筋を抑える要衝の地にあったことが、南北両朝ともに魅力的だったのだろう。結局、親胤はこの戦いに加わることはなかった。観応2(1351)年の柴田郡倉本川の戦いで負った傷のためだろうか。親胤不参の報告を受けた足利尊氏は、3月14日に直々の御教書を親胤へ遣わしたため、親胤は嫡男・胤頼を貞家のもとに派遣して北朝方に荷担。翌月、胤頼は陸奥国田村庄に侵入し、5月4日、吉良貞家・結城親朝らとともに宇津峰を包囲して攻めたてたため、顕信・守良親王は支えきれずに出羽国へ落ちて行った。10月26日には「右京大夫(吉良貞家)」から「陸奥国東海道守護職事、小山出羽判官相共可致沙汰」を命じられている(観応二年十月廿六日「吉良貞家補任状」『相馬文書』)。
●観応3(1352)年11月22日「吉良貞家披露状」(『相馬文書』)
これ以降、親胤の活動は見えなくなり、延文3(1358)年11月20日、胤頼に譲状を発給した(『相馬親胤譲状(1)』・『相馬親胤譲状(2)』・『相馬親胤譲状(3)』・『相馬親胤譲状(4)』)。このころ、親胤は「聖心」と号しており、胤頼が親胤の代理となった観応3(1352)年あたりに出家したのだろう。
親胤の譲状の中には、相伝の下総国相馬郡増尾村について触れられておらず、すでに相馬氏の手を離れていたのだろう。ただ、相馬岡田氏の惣領・相馬胤家が貞治2(1363)年8月18日に嫡男・五郎胤重に譲り渡した所領の中には「下総国相馬郡泉村上柳戸・金山・舟戸・増尾・薩間」があり、さらに胤重(胤繁)が嫡子・胤久に譲り渡した康暦3(1381)年の譲状の所領の中にも同様の地が記されており、岡田氏に関してはまだ所領を保っていたのだろう。
親胤の没年は不明。ただし、延文3(1358)年以降、あまり時を経ずして亡くなったのだろう。
●延文3(1358)年11月20日譲渡
| 陸奥国行方郡福岡村 小池村 小高村 高村 目々澤村 堤谷村 草野内堰澤山 村上浜 吉名村 太田村 内山総三村 那良夫山 牛越村 千倉御庄内仁木田村 安倉村 太倉村 | 寿福寺領のため、毎年年貢を納める事 〃 相馬惣領家の重代相伝の本領 〃 〃 〃 〃 〃 相馬氏の知行(新給か?)である事 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 |
『相馬親胤譲状(1)』 〃 『相馬親胤譲状(2)』 〃 〃 〃 〃 〃 『相馬親胤譲状(3)』 〃 〃 〃 〃 『相馬親胤譲状(4)』 〃 〃 |
●斯波氏略系図
【高清水斯波氏】
足利家氏―+―宗家―――宗氏――+―高経――+―斯波家長―――詮経―――+―詮教―――+―義信―――――信時―+―詮貞
(尾張守) |(尾張守)(又三郎)|(尾張守)|(陸奥守) (兵部大輔)|(左馬助) |(浄泉寺) |(弾正少弼)
| | | | | |
| | +―氏経―――――義高 +―教詮 | +―詮当
| | |(左京大夫) |(宮内少輔)| (民部少輔)
| | | | |
| | +―氏頼 +―詮宣 +―子鞏―――――詮満―――詮広
| | |(左衛門佐) (下野守) |(源勝寺) (遠江守)(孫三郎)
| | | |
| | +―義将――――…―【三管領斯波家】 +―郷長―――+―久義
| | |(左衛門佐) |(民部少輔)|(左京大夫)
| | | | |
| | | +―――――+ +―義次
| | | | (左京大夫)
| | | |
| | | +―詮勝―――+―詮重――+―詮好―――詮房―+
| | | |(治部大輔)|(洞江院)|(兵部大輔) |
| | | | | | |
| | | | +―詮長 +―詮信 |
| | | | (下野守)|(左馬助) |
| | | | | |
| | | | +―詮兼 |
| | | | |
| | | | +――――――――――――――――――――+
| | | | |
| | | | +―詮元――――詮森――――詮国――+―行詮
| | | | (治部大輔)(兵部大輔)(孫三郎)|(三郎兵衛)
| | | | |
| | | +―詮親―+―詮光 +―義真
| | | |(尾張守) (素端)
| | | |
| | +―義種――――…―【奉公衆斯波家】 +―詮忠
| | (修理大夫) (大蔵少輔)
| |
| | 【大崎斯波氏】
| +―斯波家兼―+―大崎直持―+―詮持―――+―満詮――――満持――――持兼――――教兼――+
| (左京大夫)|(治部大輔)|(左京大夫)|(左京大夫)(左衛門督)(左京大夫)(陸奥守)|
| | | | |
| | +―塩松詮直 | +―――――――――――――――――――――+
| | (右京亮) | |
| | | +―政兼―――義兼―――+―高兼====義宣
| | | |(陸奥守)(左兵衛督)|(左京大夫)(小僧丸)
| | | | |
| | | +―娘 +―義直――――義隆
| | | |(伊達成宗妻) (左京大夫)(左衛門督)
| | | |
| | | +―内﨑兼宣
| | | |(彦次郎)
| | | |
| | | +―詮高―――――+
| | | |(左衛門尉) |
| | | | |
| | | +―高清水定家 |
| | | (長門守) |
| | | |
| +―四本松持義 +―直勝 |
| |(伊予守) |(兵部大輔) |
| | | |
| +―西室持頼 +―名生持直 |
| |(式部大輔) |(左兵衛佐) |
| | | |
| | +―高清水持家 |
| | (出羽守) |
| | |
| | +―――――――――――――――+
| | |
| |【高清水斯波氏】+―経詮――――詮真――――詮直―――詮種
| | |(治部大輔)(民部少輔)(孫三郎)(式部少輔)
| | |
| | 【雫石斯波氏】+―詮貞――――詮貴――+―久詮―――久資
| | |(伯耆守) (伯耆守)|(和泉守)(弥右衛門)
| | | |
| | | +―吉久―――東膳
| | | (伯耆)
| | |
| | 【猪去斯波氏】+―詮義――――義方――――久道―――基久
| | (兵庫助) (蔵人) (蔵人) (蔵人)
| |
| | +―義春====義秋
| | |(修理大夫) (修理大夫)
| | 【最上斯波氏】 |
| +―兼頼―――最上直家――満直―――+―満家―――+―義秋
| (出羽守)(右京大夫)(修理大夫)|(修理大夫) (修理大夫)
| |
+―広沢義利―石塔義博―和義――――棟義――――満博―――+ +―満基――――満氏――――義淳―――+
(太郎) (三郎) (左近将監)(治部少輔)(左近将監)| (式部大輔)(治部大輔)(左衛門佐)|
| |
+――――――――――――――――――――――――――――+ |
| |
+―祐義―――房義――家博――――義伸―――――義次――――義久 |
(尾張守)(三郎)(左近将監)(右衛門大夫)(宮内大輔)(治部大輔) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―義定====義守 +―義光――――+―義康
| (修理大夫)(修理大夫) |(右近衛少将)|(修理大夫)
| | |
+―義建――――義清――――義守―――+―長瀞義保 +―家親―――義俊
(中野氏) (民部大輔)(修理大夫)|(新左衛門尉)|(侍従) (源五郎)
| |
+―楯岡義久 +―清水氏満
(甲斐守) |(大蔵)
|
+―山野辺義忠
|(右衛門佐)
|
+―上山光広
|(兵部)
|
+―大山光隆
(内膳)