千葉胤貞 肥前千葉氏

小城千葉氏

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千葉胤貞(1288-1336)

 小城千葉氏二代。千葉太郎宗胤の嫡男。母は明意。幼名は竹王(竹若)か。通称は太郎。官途は従五位下・大隅守千田次郎泰胤より千葉惣領家が相伝してきた下総国千田庄・八幡庄に常住していたと思われる。

鎌倉小町の胤貞邸跡に建つ妙隆寺

 千葉宗家は千葉介常胤が給わった肥前国小城郡の地頭職を代々受け継いでおり、文永8(1271)年、元寇に備えるため、幕府が九州に所領を持つ御家人を総動員した「異国警固番役」を受けて、胤貞の祖父にあたる千葉介頼胤が直臣を率いて九州へ赴いたことで、千葉宗家は小城郡に直接的に関わるようになった。

 頼胤は元寇のときに受けた矢傷がもとで建治元(1275)年8月16日、三十七歳という若さで亡くなったため、頼胤の嫡男で十一歳の宗胤が代わりに九州へ下ることとなった。胤貞の父である。

 宗胤頼胤か)に随って肥前へ下向した「供奉衆」として、

「平田、原、薗城寺、中村、鎰山、白井、岡崎、船岡、山崎、矢作、岩部、相原、平山、篠原、結篠、山口、福島、樋口、仁戸田、金原、小出、此外ニモ供奉衆有之」(『正東山古文書』)

 また、「千葉胤貞公」「御供之衆」として、

「原殿、円城寺殿、中村殿、あぎあま殿、平田、白井殿、岡崎殿、船岡殿、山崎殿、矢作殿、岩部殿、相原殿、平山殿、篠原殿、飯篠殿、山口殿、福島殿、ひ口殿、二戸田殿」(『妙見太刀神代家ヨリ献上ニ付而之記』)

 が見える。ほぼ同様の氏族名であるが、これは神代家所縁の平田氏の口伝がもととなっていると思われる。ここには岩部氏、中村氏、仁戸田氏、結篠氏、原氏、円城寺氏など、下総国千田庄を発祥とする千葉一族が随っている一方で、千葉六党ら有力千葉一族は随っていない。これは、千田庄の千葉一族は千葉介の「被官」であるが、千葉六党や近親らは幕府から「御家人」として遇されていて、「九州に所領を有する御家人・非御家人」に該当しなかったのだろう。宗胤の父・千葉介頼胤は「被官」である岩部氏、円城寺氏らを随えて下っていったと思われる。

 その後の肥前千葉氏の家老として「千葉六老家」という家柄があったとされ、部、金原、円城寺、中村、結篠の六家であるという(『正東山古文書』

 十一歳の太郎宗胤が下総を留守にしている間、下総国または鎌倉に残されたのが八歳の弟・胤宗(亀弥)であったが、彼は宗胤同様に得宗・北条時宗からの片諱を受けて元服していると思われ、時宗が亡くなる弘安7(1284)年4月までに元服していることがうかがえる。その諱から胤宗はあくまで庶子としての扱いであった事がわかり、兄・宗胤の鎮西下向時にはまだ八歳という幼さであったことから、具体的な政務等に携わることはなく、宗胤もまた十一歳という幼さであることから、政務一切は代官や被官を以って行われたと推測できる。

小城千葉氏の下総の所領

 父・宗胤は九州で成長し、大隅守護として国内の番役、訴訟、追捕等の政務を行いながら、被官層をまとめつつ、鎮西御家人の雄としての地位を確立する基礎を築いた。

 こうした中、正応元(1288)年に胤貞は肥前国小城郡に誕生した。胤貞が生まれた場所については、小城市吉田圓明寺に伝わる元徳2(1330)年胤貞寄進の木造地蔵菩薩半跏像(佐賀県重要文化財)の背面銘に「常胤八代孫 胤貞 母儀明意 生■カ所建立也」とあり(『房総の郷土史』12:「九州千葉の祖 宗胤と明意のこと」淵上登美著)胤貞は現在の圓明寺あたりで誕生したということになる。

 ところが、胤貞が八歳の永仁3(1295)年正月16日、父・宗胤は三十歳で卒した。宗胤亡き後は、東国に残っていた宗胤の弟・胤宗が千葉惣領家を継ぐことになる。

 常胤以来、代々直系で続いてきた千葉惣領家にとって、宗胤の長男・胤貞こそが正統な家督継承者であるが、

 ①現実的に「異国警固番役」の強化が続く鎮西から胤貞が鎌倉に帰還することは不可能
 ②東国になじみのない八歳の胤貞を千葉惣領家とすることに幕府が躊躇?
 ③九州になじみのない二十八歳の胤宗を下向させて異国警固番役を務めさせる弊害を幕府が考慮?

 こうした考えがあったかどうかはわからないが、結果として胤宗は惣領家の地位を獲得する。惣領についた名分の弱い胤宗は、惣領につくや支配権を確立すべく早々に六歳の嫡男・貞胤を元服させたとみられる。これは、貞胤が得宗・北条貞時を烏帽子親として一字を賜ったものとすれば、その時期は北条貞時の執権職就任期間と胤宗の家督相続時期を鑑みて永仁3(1295)年~正安3(1301)年の間となる。九州在の胤貞の元服よりも先であろうことから、貞胤の元服はおそらく永仁3(1295)年中であろう。その後、正安3(1301)年の貞時出家以前に胤貞も鎌倉に入って貞時の偏諱を受け「胤貞」を名乗るったと思われるが、宗胤胤宗の例のごとく胤貞は庶子扱いであったことがうかがえる。

 おそらくその後も、胤貞は鎌倉にいたと思われるが、徳治元(1306)年10月以前に叔父の「千葉介(胤宗)」との「相論」が伝えられていることからも察せられる。元亨2(1322)年6月18日、湛睿(のちの金沢称名寺三世)が聞いたところに拠れば、二十余年ほど前の話として、「千葉介(胤宗)」「千田太郎(胤貞)」「相論」した際、「於是急速欲裁許」を願い「千葉介」は「玄瑜」を、「千田太郎」は「安祥寺宰相僧正」をそれぞれの祈祷師として祈祷を行ったという。伝わるのは玄瑜の動向のみだが、玄瑜は胤宗の依頼を受けて「稲荷」へ七日間籠もって祈祷を行っている。この相論については「故大方殿(貞時母安達氏・覚山尼)口入」があり、相論自体が差し置かれることとされた。以降二十余年あまり無為無事できたことが紹介されている(『金沢文庫古文書』未稿文書)「故大方殿」が亡くなったのが徳治元(1306)年10月であることから、相論に対する「口入」があったのはこれ以前ということとなる。

 「千葉介」が師とした「玄瑜」はどのような経歴を持つ人物か不明。文永6(1269)年2月6日、仁和寺の秘密荘厳院で権少僧都頼守(北条武蔵守経時息)の伝法灌頂に色衆として列した「権律師玄瑜按察大納言阿闍梨宗厳真弟子がいるが(『真言宗全書』)、四十年以上も前のことで世代が異なる。僧位僧官も記されておらず、具体的な人物像は不明。

 一方、「千田太郎」が師とした「安祥寺宰相僧正」安祥寺宰相僧正成慧であると思われる(『続真言宗全書』『小野流安祥寺血脈』)。無名の玄瑜と安祥寺僧正である成慧とでは格差は大きく、宗胤の格の高さが子の「千田太郎(胤貞)」の助けとなっていた様子がうかがえる。一方で、胤宗は千葉介を継承する以前は対外的には庶子であったことを裏付けよう。

 胤貞は下総国八幡庄をはじめ、神保御厨(船橋市北東部)、千田庄(香取郡多古町周辺)を継承し、 また、祖父・頼胤の代に千葉宗家に仕えていた曽谷氏・富木氏、大田氏らが信仰していた日蓮宗を庇護し、永仁6(1298)年生まれの日祐(曽谷氏の子ともされる)を幼少の頃から引き取って猶子として富木氏・大田氏の屋敷跡に建てられていた本妙寺・法華寺(市川市中山の法華経寺)三世として所領を寄進するなど、下総日蓮宗のパトロンとなっていた。

●千葉宗家略系図

               【千田千葉氏】
⇒千葉介頼胤―+―千葉宗胤――千田胤貞―+―千田胤継
(千葉介)  |(太郎)  (大隅守) |(大隅守)
       |            |
       |            |【肥前千葉氏】
       |            +―千葉胤泰
       |
       |【下総千葉氏】
       +―千葉胤宗――千葉貞胤―――千葉氏胤
        (千葉介) (千葉介)  (千葉介)

 元弘元(1331)年、幕命により肥前国の反乱軍を討伐して功績があったと伝えられているが不明。元弘3(1333)年、足利高氏(尊氏)が幕府打倒の旗を揚げると、足利方に加わって倒幕に貢献し、後醍醐天皇が主導する「建武の新政」では新政府に仕えた。

 建武元(1334)年春、紫宸殿で執り行われた北条氏残党の調伏の儀式でも、三浦介高継千葉介貞胤が御家人の最上位を占めており、新政府においても、胤貞は庶家の立場におかれていたことがわかる。胤貞はこうした境遇に反発しており、南北朝の動乱期には千葉介貞胤の勢力と交戦している。

 千葉介頼胤―+―千葉宗胤―――千田胤貞
(千葉介)  |(太郎)   (大隅守)
       |
       +―千葉介胤宗――千葉介貞胤
        (千葉介)  (千葉介)

 同年9月27日、胤貞後醍醐天皇の加茂神社行幸に際して隨兵を勤め、「帯刀廿一番」の三番として随行した。

●『足利尊氏隨兵交名』(国立公文書館『朽木文書』)

一番 武田八郎次郎信明     十一番 小早川弥太郎 浅利太郎家継
二番 佐々木備中前司時綱     十二番 香川四郎五郎 二階堂丹後三郎
三番 千葉太郎胤貞 大高左衛門尉重成   十三番 香川左衛門尉頼行 何某
四番 佐々木源三左衛門尉秀綱 小笠原七郎頼氏   十四番 南部弥六政氏 三浦秋庭平三秀重
五番 野本能登四郎朝行 土肥佐渡次郎兵衛氏平   十五番 隠岐守兼行 海老名彦四郎秀家
六番 宇津宮遠江守貞泰 上椙蔵人朝定   十六番 萩原四郎基仲 萩原七郎三郎重仲
七番 二階堂信濃三郎左衛門行広 嶋津下野三郎師忠   十七番 日田次郎永敏 河野新左衛門尉通増
八番 三浦因幡前司貞連      十八番 足立安芸守遠宣 嶋津三郎左衛門尉
九番 小笠原七郎次郎頼長 田代豊前次郎   十九番 山名近江守兼義 土岐近江守貞経
十番 橘 佐渡弥八公好 小早川又四郎亮景   二十番 細川帯刀直俊 吉見三河守頼隆
        二十一番 富士名判官雅清 伊勢山城守元貞

足利方として新政権に反抗

 建武2(1335)年8月2日、足利尊氏が「中先代の乱」を鎮圧するために京都から鎌倉へ下った際、胤貞もこれに加わった。そして8月9日の遠江国橋本の合戦で、「千田太郎、安保丹後権守等両人懸先高名之間、則浴恩賞了」(『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)と、先駆けして高名を挙げている。

 ところが、尊氏は中先代軍から鎌倉を奪還しても京都に戻らず、さらに帰還の勅命を無視して上洛しなかったことから、謀反人として追討されることとなり、11月2日、足利尊氏追討の軍勢が鎌倉へ向けて下向した。

●建武二年十一月東征軍

征路将軍名前 官位官職
東海道上将軍尊良親王 一品 中務卿
東海道大将軍新田義貞 従四位上 右衛門佐
東山道大将軍洞院実世 正二位 尾張守
権中納言
左衛門督
東海道
(奥州より)
大将軍 北畠顕家 従二位 陸奥守
右近衛中将
鎮守府将軍

 なお、東海道軍の「大将軍」は新田右衛門佐義貞が任じられているが、上表に見られるように、彼は東山道の大将軍左衛門督実世や奥州の陸奥守顕家の官途に大きく見劣りしている。それを補う意味で一品尊良親王が先例なき「上将軍(かつて源頼朝の大将軍名で候補の一つとなったが先例がないと見送られ、征夷大将軍号が選ばれている)」に任じられ、義貞はその麾下の大将軍となり、官途上の不足を補ったと考えられよう。そこまでして義貞が大手軍である東海道の大将軍に選ばれたのは、彼が武家においては尊氏に次ぐ従四位上(『異本元弘日記』)の官途を持ち、彼以上の高位武家は存在しなかったことに加え、足利一門という血統、惣領尊氏・直義との対立関係、尊氏に従わず京都に残った武士は新田氏とその方人ばかりになっていたことなどからの任と思われる。つまり義貞の東海道「大将軍」補任は、彼の能力をとくに見込んで抜擢したのではなく、尊氏・直義と合戦で真向対峙が期待できる武家が義貞以外に存在しなかったためであろう

 千葉介貞胤はもとより後醍醐天皇に随従しており、尊氏には従わずに留京している。ただし、貞胤が官軍の一人として鎌倉へ攻め下ったかどうかは不明である。なお、胤貞と貞胤の対立は武力抗争となっており、建武2(1335)年中に貞胤の「守護使」が胤貞の所領である千田庄に乱入している。『戒本見聞集』によれば、千田庄土橋(香取郡多古町)の東禅寺で行われていた講義の最中、にわかに守護使が乱入したという。

伝千葉家館跡(千葉地裁)

 そしてこの頃、「千田大隅守(胤貞)」が「相馬孫次郎親胤」とともに千葉介貞胤の居城「下総千葉城」(「吉良貞家挙状」『相馬文書』)「千葉楯」(『相馬胤頼著到状』)を攻めらているが、これは千田胤貞や相馬親胤の私怨など私的な理由で攻められたものではなく、吉良貞家が挙状に「建武二年下総千葉城発向之時、親胤属当手」(「吉良貞家挙状」『相馬文書』)とある通り、千葉城攻めは吉良貞家を大将とする鎌倉方の公的な追討軍であったことがわかる。この千葉合戦は、直義が大量に発給した「新田義貞誅伐」の建武2(1335)年11月2日『関東御教書』以降、親胤が「至于箱根坂水呑致戦功候」(「吉良貞家挙状」『相馬文書』)という12月5日頃の箱根水呑合戦までのこととなり、建武2(1336)年11月上~中旬の出来事であったということになる。千葉庄内の寺僧「沙門等(空)」が某年9月1日に千田庄土橋の「東禅寺侍者(湛睿)」に宛てて「…少々人打せ、手おほはせて、引返候、其日諸方箭合にて候か、皆千葉方打負候、当庄為躰、天地動程事候、若今度寺までも寄付候はゞ、なにも残候はじと覚候」(「等空書状」『金沢文庫古文書』:『多古町史』通史編所収)という文書を送達しているが、「千葉方」が支配する土地での「諸方箭合」に「皆千葉方打負」てしまい、「当庄為躰、天地動程事候」という有様となり、もし敵勢が「今度寺までも寄付候はゞ、なにも残候はじと覚候」と嘆く内容である。これを建武2年の千葉合戦と捉える向きもあるが(『多古町史』)、8月の段階では中先代の乱の余炎が燻っている時期で、朝廷も尊氏を敵視していなかった。このようなときに吉良貞義が千葉に攻め込むはずもなく、少なくとも『等空書状』の「皆千葉方打負」は千葉胤貞・相馬親胤らが加わった千葉合戦について記した書状ではない。もし建武2年の出来事であるとすれば、千葉に攻め入ったのは8月下旬に鎌倉から四散した中先代の敗残与党であると考えるのが妥当だろう。

 鎌倉へ向かう新田義貞らの東海道軍は、各地で足利方を破り、箱根まで攻め寄せた。しかし、12月、新田義貞は箱根竹之下に敗北。京都へ雪崩をうって逃れ、尊氏はこれを追撃して京都に攻め上った。

 その後、上洛を果たした尊氏だったが、義貞とともに鎌倉を挟撃する予定だった北畠顕家(陸奥国司)が近江国坂本に逃れていた後醍醐天皇のもとに合流しており、建武3(1336)年1月、京都に攻め込んできた北畠顕家・楠木正成との戦いに敗れて京都を放棄。翌2月には追撃してきた新田・楠木軍摂津打出・豊島河原で戦って再び敗れ、瀬戸内海を通って九州へ逃れていった。

●足利尊氏に従って九州へ向かった諸将・九州大名

(『九州治乱記』 青色は拠点固めのため室にて降船した人物)

足利左兵衛督尊氏 足利左馬頭直義 足利尾張守高経 足利新右衛門尉氏経 畠山上総介国清 細川阿波守和氏
細川蔵人頼春 細川掃部助師氏 細川兵部大輔顕氏 細川卿公定禅 細川三位皇海 細川帯刀先生直俊
今川三郎頼貞 今川四郎頼兼 桃井(直常か) 市川修理亮義盛 上杉伊豆守重能 一色右馬入道道献
・一色右馬権頭頼行
・一色範氏入道道献
兄弟二人のことか
仁木四郎次郎義長 大島兵庫頭義政 高三河守師直 高尾張守師泰 高豊前守師久 大高次郎重成
南遠江守宗継 佐竹蔵人氏義 小俣少輔太郎入道道剰 小俣少輔七郎氏連 曾我左衛門尉師祐 熱田大宮司
白石太郎 八木岡五郎        
~九州大名~
宇都宮弾正少弼氏貞 島津上総四郎氏久 大友千世松丸 千葉大隅守胤貞 武藤孫三郎頼賢 朝日但馬将監資直

 尊氏は室で足利尾張守高経父子細川一門七名ら足利一門に四千余りを付けて下船させ、上洛に備えての拠点固めを命じる一方、自らはわずかな兵を伴って2月26日、赤間ケ関に着船。前もって尊氏からの親書を受けていた太宰筑後入道妙恵(少弐貞経)は、27日、嫡子の新少弐頼尚に五百騎の兵と、尊氏・直義のために錦の直垂二領を付けて尊氏のもとに遣わした(『九州治乱記』)

 このころ、肥後国の国人領主・菊池左京大夫武重は後醍醐天皇の新政府のもと、京都に出仕していたが、尊氏一統が九州へ落ち延びたと聞き、在国の弟・菊池掃部助武敏へ尊氏の首を取って叡感に預かるべしと書状を遣わした。これを受けた菊池武敏は取る物も取り敢えず、ただちに兵を集めると肥後国八代から筑後国へ進出。高良山に陣を張って、尊氏勢の出張を待ち受けた(『九州治乱記』)。この一報を聞いた少弐妙恵入道は2月28日、菊池勢を討ち散らすべしと原田次郎・畦倉豊前守を先陣として筑後国へ出兵。途中で味方の三原三郎と合流して、高良山の菊池陣をうかがった。しかし、少弐勢の来襲を聞いた菊池勢は逆に水木の渡りへ進出し、小勢の少弐勢は乱戦ののち潰走。妙恵は太宰府の館に逃れるが、寝返った味方に館を焼かれたため、有智山の要害へと遁れた。しかしこの要害も菊池勢と秋月四郎入道寂心によって攻め破られ、2月29日、少弐妙恵入道は自刃した。享年六十五と伝わる。勢いを駆った菊池勢は博多、箱崎へ向けて進軍を始めた。

 尊氏らはそのころ宗像大宮司氏重の館に在陣していたが、3月2日、宗像を出陣し、箱崎に進んだ菊池勢を追って香椎宮を経て多々良浜という干潟前の赤坂に着陣した。胤貞はこの尊氏の陣中に控えており、高尾張守師泰、宇都宮弾正少弼氏貞、島津上総四郎氏久、大友千世松丸とともに大手の先陣三百騎の大将を命じられて出陣。多々良浜前に南向きに陣取った(『九州治乱記』)

 菊池勢の大軍を前に小勢の足利勢は劣勢を強いられ、尊氏の弟・足利直義は松原の戦いで敵の大将・菊池武敏と直接戦い、直垂の袖を切って形見として尊氏に届けさせるほどの接戦となる。武敏は錦の御旗を陣前に掲げて小川を駆け渡り直義勢に襲いかかろうとしたとき、直義勢の先陣として出陣していた「肥前国千葉大隅守」がただ一人、「月に星の旗」を差して川へと颯と馳せ入り、これをきっかけにして、後陣の尊氏が退く味方を引き立てて進軍を始めた。これに直義も勢いを取戻して川を渡って菊池勢に襲いかかり、勢いに押された菊池勢を乱戦の末に追い散らし、三十七名の主だった将を討ち取った(『九州治乱記』)

 菊池勢大将・菊池武敏は戦陣から逃れることができたが深手を負い、筑後国黒木城に立て籠もった。また、菊池勢の主将の一人、秋月備前守は太宰府で討死、阿蘇大宮司八郎惟直は弟の次郎大夫惟成惟澄と郎等二百名にて阿蘇に逃れる際、胤貞の所領である肥前国小城郡で小城の領民の攻撃にあい、惟直・惟成は天山の山頂にて討死。末弟の惟澄は深手を負いながらも十四人を斬り伏せ、兄の遺骸を舁かせて阿蘇へ帰り着いたのち、しばしして没した(『九州治乱記』)

 3月3日、尊氏は太宰府に入り、九州の武士を召集した。肥前からは龍造寺善智・石志道覚・松浦斑島などが着到状に記載されている。胤貞の着到はないが、これはすでに鎮西下向時から尊氏の陣中にあったためと思われる。建武四年四月『田中行祐申状』の中に「去年故殿鎮西御下向」という文言が見える。

 尊氏は3月8日から九州の宮方勢力掃討を開始し、黒木城の菊池武敏も諸所を追い落とされて行方知れずとなり、菊池党の本拠も攻め潰し、わずか二十日間で九州はほぼ足利勢によって平定され、薩摩国に島津貞久、大隅に畠山義顕、日向に伊東祐持・土持宣栄、肥後に相良長氏、豊後に大友氏泰(尊氏の猶子)・都甲信世、肥前に深堀時広、筑前に一色範氏・少弐頼尚、豊前に宇都宮冬綱を配置して、予定より5日遅れの4月3日、尊氏・直義は太宰府を出立し長門国府中へ向かった。知らせを受けた「大友、少弐、千葉、宇都宮」は博多より出帆し、長門国府中に着船。尊氏・直義はしばらく府中に滞在したのち、上洛の船途に就いた。

 5月5日夕方、備後鞆津に着船し、尊氏は船で京都へ、直義は陸路で京都を目指すことが決定。4月10日、両大将は鞆を出陣した。そして5月25日、播磨国兵庫和田御崎に陣取り、京都から下ってきた新田左近衛中将義貞、楠木河内判官正成と対陣した。「千葉大隅守胤貞」はこの戦いで軍忠を抽んで尊氏の御感に預かった。この戦いで楠木正成一党を討ち取り、新田義貞を京都へ追い落とした。

 その後、尊氏勢は京都を奪還。後醍醐天皇・新田義貞らは京都を逃れて近江坂本へ遷り、尊氏は光厳上皇を擁立した。

光勝寺裏の伝胤貞墓所

 一方、これまで後醍醐天皇方の武将として活躍をしていた千葉介貞胤だったが、建武3(1336)年10月、新田義貞とともに越前へ入ったものの木芽峠で吹雪に遭い、足利一門・斯波高経の勧告を受け入れてついに降伏。胤貞が彼を鎌倉へ護送する役を命じられたが、胤貞は途中の三河において病に倒れ、11月19日、四十九歳で没した。法名は俊徳院日叡

 このときの状況が、金澤称名寺の沙門一乗から千田庄の東禅寺へ宛てられた年代不明12月13日の消息文に遺されている。「千葉介殿無子細、被参降人候之由、承及候之間、先悦入候、兼又、大隅殿災亡事、荒説に承候、実事候者、浅猿敷存候也」とあることから、千葉介貞胤の降伏の報告を受けたばかりであること、胤貞の死は荒説に過ぎないが本当であったら驚くべきことなどと、まだ確証が得られていないことがうかがわれ、胤貞が三河で亡くなった一か月後の建武3(1336)年12月13日の消息文であろうと推測される。

 胤貞の墓といわれる石塔が胤貞の猶子・日祐を開山とする松尾山光勝寺(小城市松尾)の裏手に遺されている。

鎌倉の千葉胤貞邸跡(妙隆寺)

 千葉胤貞の鎌倉における屋敷は、小町大路に面した一角にあり、現在の鎌倉市小町二丁目の日蓮辻説法跡の近く、叡昌山妙隆寺がその地とされている。胤貞が亡くなったのち、この屋敷が誰に相伝されたか不明だが、胤貞は日蓮宗に帰依していたこと、さらに同寺には、胤貞の猶子・日祐(中山法華寺三代)直筆の本尊が伝わっていることから、日祐が相伝した可能性がある。

 至徳2(1385)年、妙親院日英(中山法宣院主・日貞の弟子で、千葉氏所縁の埴谷重継の弟)は千葉邸跡に七堂伽藍を配置した広大な寺院・叡昌山妙隆寺を建立して開山となった。妙隆寺二代が、将軍・足利義教の政治を批判して、真っ赤に焼けた鉄鍋を被せさせられた久遠成院日親=鍋かむりの日親である。

【参考文献】

(1)『千葉県の歴史 中世編2』によれば、「千田太郎」を宗胤とし、その師を「安祥寺僧正道宝」とするが、宗胤は「千葉太郎」であって「千田太郎」ではない(千田太郎は宗胤の子・胤貞である)。また、道宝は弘安4(1281)年8月に遷化していることから、胤貞の代では時代が合わない。当時において「安祥寺宰相僧正」と号した僧侶は安祥寺の成慧である。成慧は高野山で修業したのち、弘安5(1282)年に安祥寺へ帰り、座主の寛伊僧正に付いた。永仁3(1295)年には僧正位にあり、延慶3(1310)年7月、安祥寺務の宣旨を賜る。

◆中山法華経寺◆

中山法華経寺・祖師堂

 胤貞は日蓮宗の強力な庇護者(俗別当)で、下総の所領には胤貞がパトロンとなった日蓮宗の大寺院が現在も残り、中世下総の重要な日蓮宗の拠点となった。肥前千葉氏の祖となった胤貞は、本来千葉家の嫡々でありながら、叔父の胤宗の系統に「千葉介」が継承されていることに敵愾心を持っており、千葉介代々の信仰で、胤宗流が信仰していた真言宗とは別の宗教、新興の日蓮宗を庇護することによって、新たな道を開こうと考えていたか。

 千葉氏は千葉介頼胤(胤貞の祖父)のころ、千葉家=守護家の官僚として政務を担当していたと思われる富木常忍・曽谷教信らがおり、彼らはいずれも日蓮の説教に関心を示し、特に富木常忍は幕府からの迫害を受けた日蓮を庇護している。富木常忍は俗人であったが、長男の日頂(日蓮直弟子)が已む無き仕儀とはいえ、日蓮の三回忌に遅参したため、常忍は日頂を義絶。みずから出家して「日常」と号し、屋敷を「法華寺」に改めた。ただし、出家したのちも千葉家被官として公務を行っていたようである。

 日常の弟子となった大田乗明の子・日高(伊賀公)は、父・乗明の屋敷を「本妙寺」とし、その初代住持となった。千葉胤貞は日高の弟子として、猶子の日祐(大輔僧都。曽谷氏の子とも)を入門させ、寺領を安堵するなど、法華・本妙寺を盛り立て、日祐は日高の跡を継いで、法華寺・本妙寺の住持を兼ねる三代住持となった。こののちも、中山本妙寺・若宮法華寺は千葉氏の庇護を受けていくこととなる。

妙見堂
中山法華経寺・妙見堂

 室町時代に入ると、本妙・法華寺は原氏や千葉宗家の庇護を受けるようになり、室町後期になると、両寺は合併されて正中山法華経寺と号し、真間山弘法寺(市川市真間)と並んで下総日蓮宗の大本山となった。同寺に伝わっている中世の関東の歴史を伝える『中山法華経寺文書』は貴重な資料である。左の「妙見堂」の後ろに見える青い屋根は、法華経寺の前身・本妙寺の基となった法華堂(国重要文化財)である。

 法華堂のほか、同寺には祖師堂・四足門・五重塔といった国指定の重要文化財が遺されている。

 胤貞の九州での館は、小城郡甕調郷高田(三日月町高田)にあったといわれ、猶子の日祐は千葉家領内の小城郡松尾に日蓮宗の寺・松尾山光勝寺を創建。胤貞が開基となった。

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與
    下総国八幡庄谷中郷中山堂田地貳町在家屋敷事坪付有別紙

 右所者、為現世後生、大輔公日祐、自幼少養子として、ゆつり與所也、亡父并名越殿遺骨を奉置候之間、殊しう心候、若於子孫中、い論のわつらいなす者出来候者、以此状上申、なかく不幸仁たるへく候、胤貞か跡において者、別子孫申可給候、仍為後譲状如件、
 
     元応二年十二月一日      平胤貞(花押)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞寄進状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  奉寄進

   妙見御神田合貳町事、下総国八幡庄谷中郷内奉寄進所也、仍状如件

    元応二年十二月一日  平胤貞(花押)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞寄進状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  奉寄進
 
   十羅刹御神田壱町、下総国八幡庄谷中郷内田地、奉寄進候所也、仍状如件、
 
       元応二年十二月一日  平胤貞(花押)

●正中元(1324)年10月13日「千葉胤貞置文案」(『肥前光勝寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

   胤貞之罪障深重候之間、條々申置事、
 
  一 於子孫、于本寺背申、不可為謗法事、
  一 家内謗法仁等、不可召仕事、
  一 於領中、他宗之寺社、不可為安置事、

  右、此條々、背於子孫者、法華経中之三宝妙見大菩薩之御罰を蒙候而、
  胤貞之跡、一分不可知行候、仍為末代、證状如件、

   正中元年甲子拾月十三日   平胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與

  下総国千田庄原郷阿弥陀堂職田地七段、在家壱宇、
  同庄中村郷三谷堂職田地貳町五段、在家壱宇、
  同郷辻堂職田地五段、在家壱宇、同郷田地五段、
  在家壱宇、同庄金原郷内田地五段、在家壱宇、
  同国臼井庄嶋田村内又三郎名七段、在家壱宇、
  同真木野村神田五段、在家壱宇、同平戸村田地五段、
  在家壱宇、同古牟呂村以下、處々神田、
  同国八幡庄曾谷郷秋山村内田地貳町、在家壱宇、
  肥前国小城郡光勝寺職、同妙見座主職、
  同乙犬名坪付別紙在之、本妙寺職、所々注文別紙在之等事、

 右、所々田畠者、胤貞相伝私領也、然彼所々堂職等お、為中山堂免、師匠大輔阿闍梨日祐仁、永代奉譲處実也、天地長久御祈祷お、能々可被懸御心、代々殊者胤貞後生菩提お、可有御訪者也、若子々孫々中、致違乱競望、退伝法華経信心、違背中山者、為不孝仁、胤貞跡お壱分不可知行、仍為後日譲状如件、

    元徳三年九月四日    平胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

 奉譲與

  師匠大輔阿闍梨日祐、所々田地坪付等事、

   下総国千田庄原、中村、金原参ヶ郷田在家、
   同国八幡庄曾谷郷秋山分、彼田地等載譲状、
   同国臼井庄嶋田、真木野、平戸、田地等譲状載之、
   同庄古牟呂村
     貳段  八幡神田
     六段  又四郎名
     四段  九郎三郎名
     一段小 又五郎名   本ハ壱町貳段尓
     一段  今下内    本ハ壱町五段尓
     三段半四十歩  うい内  本ハ壱町大尓
     四段  さき内
     参段  孫四郎入道名
  一 本妙寺職別紙在之

    元徳三年九月四日   平胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與所領事

    可令太輔公領知、下総国八幡庄内中山□□免事、

  右所者、太輔公譲與所也、代々、殊者胤貞後生ほたいを能々心にかけられるへし、
  いつれの子孫たりといふとも、彼所にいらんわつらいをなすへからす、仍為後日状如件

    元徳三年九月四日    平胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月5日「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

  先帝遷幸叡山事、可防申之旨、已被下、院宣云々、仍為對治凶徒等、
  所被差進貞真、貞冬、高氏也、以此趣、可被申入西園寺家之状、依仰執達如件、

   元徳三年九月五日    右馬権頭(御判)
               相模守 (御判)
    越後守殿
    越後左近大夫将監殿
   被成御教書人々次第不同

  武蔵左近大夫将監       遠江入道
  江馬越前権守         遠江前司
  千葉介(貞胤)        小山判官
  河越三河入道         結城七郎左衛門尉
  長沼駿河権守         佐々木隠岐前司
  千葉太郎(胤貞)       佐々木近江前司
  小田尾張権守         佐々木備中前司
  土岐伯耆入道         小笠原彦五郎
  佐々木源太左衛門尉      狩野介入道
  佐々木佐渡大夫判官入道    讃岐国守護代駿河八郎
 
      以上廿人、暫可在京之由、被仰了
   島津上総入道        大和弥六左衛門尉

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

   楠木城   一手東 自宇治至于大和道
  陸奥守       河越参河入道
  小山判官      佐々木近江入道
  佐々木備中前司   千葉太郎(胤貞)
  武田三郎      小笠原彦五郎
  諏訪祝       高坂出羽権守
  島津上総入道    長崎四郎左衛門尉
  大和弥六左衛門尉  安保左衛門入道
  加地左衛門入道   吉野執行

   一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助     駿河八郎
  千葉介(貞胤)   長沼駿河権守
  小田人々      佐々木源太左衛門尉
  伊東大和入道    宇佐美摂津前司
  薩摩常陸前司    □野二郎左衛門尉
  湯浅人々      和泉国軍勢

  一手南西 自山崎至天王寺大路
  江馬越前入道    遠江前司
  武田伊豆守     三浦若狭判官
  渋谷遠江権守    狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道     信濃国軍勢

  一手 伊賀路
  足利治部大夫    結城七郎左衛門尉
  加藤丹後入道    加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道  美濃軍勢
  尾張軍勢

  同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
  同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

  大将軍
  陸奥守遠江国           武蔵右馬助伊勢国
  遠江守尾張国           武蔵左近大夫将監美濃国
  駿河左近大夫将監讃岐国       足利宮内大輔三河国
  足利上総三郎           千葉介(貞胤)一族并伊賀国
  長沼越前権守淡路国         宇都宮三河権守伊予国
  佐々木源太左衛門尉備前国      小笠原五郎阿波国
  越衆御手信濃国           小山大夫判官一族
  小田尾張権守一族          結城七郎左衛門尉一族
  武田三郎一族并甲斐国         小笠原信濃入道一族
  伊東大和入道一族          宇佐美摂津前司一族
  薩摩常陸前司一族          安保左衛門入道一族
  渋谷遠江権守一族          河越参河入道一族
  三浦若狭判官            高坂出羽権守
  佐々木隠岐前司一族         同備中前司
  千葉太郎(胤貞)

  勢多橋警護
  佐々木近江前司        同佐渡大夫判官入道

●建武元(1334)年12月1日『千葉胤貞譲状』(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)

 ゆつりわたす所りやうの事

   右、ひせんの国小城郡下総国千田八幡両庄内知行分のそうりやう職、
   嫡子たるによりて孫太郎胤平に限、永代所譲渡也。庶子に分譲分ハ、
   かの状にまかせて、いらんあるへからす、乃譲状如件

     建武元年十二月朔日    胤貞 (花押)

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肥前千葉氏の一族下総原氏下総高城氏

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