千葉一族 相馬氏

相馬氏

トップページ > 相馬氏

維駒 九曜紋 亀甲紋
繋ぎ駒 九曜 相馬亀甲

●相馬氏について

相馬氏とは?  
相馬氏の歴史  
相馬野馬追い  
御繰出の順番と旗印  
相馬氏惣領 初代・相馬師常より十六代・相馬義胤(奥州相馬氏)までの相馬惣領家の歴史を紹介
下総相馬氏 相馬氏の嫡流で下総国相馬郡の本領を支配し続けた下総相馬氏の歴史を紹介
相馬岡田氏 奥州相馬一族の一門筆頭として重んじられた岡田相馬氏の歴史を紹介
相馬中村藩 奥州相馬氏の末裔で中村藩主となった相馬氏の歴史を紹介
全国の相馬氏 相馬一族で全国へ移り住んでいった家を紹介
相馬氏関係リンク 最下段へ

●全国の相馬氏(2008/8/5)

信濃相馬氏 相馬氏の流れをくむと伝わり、「念流」という剣術流派をひらく。
一流は上野国に「馬庭念流」として伝わる
会津相馬氏 奥州相馬氏の一族? 会津藩士となる。
米沢相馬氏 出自は不明だが、越後譜代の家柄。
喜連川相馬氏 下総相馬氏の流れで、古河公方相馬家に仕え、のち喜連川家の重臣になる。
小田原相馬氏 下総相馬氏の流れで、小田原藩大久保家に仕え、七百石を知行する大身。
彦根相馬氏 下総相馬氏の流れで、彦根藩井伊家に仕えた。
専修大学創始者の相馬永胤は彦根藩相馬家の末裔。
沼田相馬氏 下総相馬氏の流れで、沼田藩土岐家に仕えた。
笠間相馬氏 下総相馬氏の流れか。

相馬

 相馬氏は、平将門の子・小次郎将国が相馬を称したことに始まるとの伝承がある。将国は父・将門が天慶3(940)年に討たれたとき、家臣に我が子・文国を託して常陸国信太郡に逃れさせ、文国は長じて信田小次郎を称した。その子孫・重国千葉常兼に従って後三年の役に従軍。将門以来の相馬郡に住むことを許された。しかし重国は相馬郡の領主ではなかったようで、相馬郡は常兼の子・常晴が領している。その子・胤国は相馬小次郎を称し、その子・師国は、下総藤原氏・千葉氏・上総氏・源氏らの間で相馬郡をめぐる争いの中、常晴から正式に相馬郡を譲られていた千葉家との交流を深め、千葉常胤の次男・次郎を養子に迎えて「師常」と名乗らせ、現代まで続く相馬氏の祖になったと伝えられている。

 しかし、将門の子孫が相馬氏の祖となったという伝承については信頼できる書物が無い。そもそも将門が相馬郡を領したという記録はなく、将門と良文の密接な関係を説く文書もない。では、なぜ相馬氏と将門、将門と良文が結びつくことになったのかについては、岡田清一氏の『中世相馬氏の基礎的研究』(崙書房出版)に詳しい。なお、相馬家の系譜中で将門の子孫とされる人物名は、千葉氏に繋がる人物の片諱を用いて作成された人物であることがわかる。

●相馬氏の伝承上の系譜

→平高望―+―平良将―将門―将国―国―望―望―長―望―頼―国―相馬国―国==師常
     |
     +―平良―忠―忠―常―常―常―常―常―相馬

●将門流相馬氏当主の人物名(後世の作成。)

(0)     平 将門
(1)平 良→信田
(2)平 忠→信田
(3)平 忠→信田
(4)平 常→信田
(5)千葉常→信田
(6)千葉常→信田
(7)千葉常→信田
(8)千葉常→相馬
(9)相馬常→相馬

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

■相馬氏の成立

 平良文の四代目の孫・平常長は子供たちを房総各地に配置させて、それぞれの在地領主層を支配し、周辺地域の開発領主を取り込んで武士団を形成した。そして五男・五郎常晴に下総国相馬郡を与え、常晴は相馬を名字とした。これが現実的な相馬氏のはじまりと考える。

 相馬常晴は兄・常兼の嫡男・千葉常重を養子に迎えて相馬郡を譲った。常重は大治5(1130)年6月11日に相馬郡を伊勢内宮に寄進して「相馬御厨」を成立させたが、様々な要因があって、相馬御厨は千葉常胤や上総常澄、親通流藤原氏、左兵衛少尉源義宗らが御厨下司を争い、結局千葉氏は源義宗との論争に敗れ、しばらく相馬御厨の荘官職を奪われる(再度手にした時期は不明だが頼朝挙兵後か)。頼朝の挙兵後までこの地を手放すこととなった。その後、次男・相馬師常が相馬御厨の管理を任され、相馬を称した。

戸張城
戸張城跡

 師常の子孫は代々相馬氏を名乗り、相馬御厨を中心に発展していくこととなる。師常の子・六郎常家は「矢木」を称し、八郎行常は「戸張」を称した。「矢木郷」は流山市芝崎周辺に比定され(流山市は相馬郡内ではないので、相馬氏の相馬郡周辺における地頭職は相馬郡外にも越えた地にもあった)、「戸張郷」は柏市戸張、国道16号線の柏隧道周辺に比定される。

 その後、相馬氏は他の氏族同様に一族による領地の分割相続が発生しており、その領地の細分化を懸念し、惣領権者による所領分散化の防止と一族結合の強化が図られている。つまり、惣領が「惣領権」を行使して一族の結束と勢力の確保につとめたのである。相馬氏は師常の子・義胤から胤村にいたるまでは、一部相論が生じたものの、大きな問題はなかった。

相馬屋敷跡
鎌倉相馬屋敷跡

 ところが、鎌倉中期の惣領相馬胤村が所領配分の決定を行わずに急死したことで、その遺領をめぐって胤村後家尼阿蓮及び阿蓮腹(当腹)の子と、他腹(胤村先妻)の子たちとのあいだに大きな領地問題が発生する。先妻嫡子・相馬次郎左衛門尉胤氏と尼阿蓮嫡子・相馬彦次郎師胤の間での所領争いに発展。そして、彦次郎師胤は「当腹嫡流」であるから、他の兄弟に比べて多くの所領を伝領したと主張して幕府に報告した。しかし、相馬胤氏やその子・相馬五郎師胤らはいずれも相馬家嫡子として「左衛門尉」に任じられている一方で、相馬彦次郎師胤とその子・相馬孫五郎重胤は無位無官のままであり、阿蓮および彦次郎師胤の主張は認められなかったと思われる。 

 永仁6(1298)年ごろにも、相馬孫五郎重胤相馬次郎左衛門尉胤氏と対立していたが、重胤は異母兄・泉五郎胤顕の娘を正室に迎えている。これは自勢力拡大を図ったものか。さらに叔父の彦五郎胤門重胤を養子に迎えてその所領を伝領している。ただし、胤門の娘・彦犬とこの所領について争論が発生しており、彦犬が幕府に訴え出るほど相論は泥沼化した。結局、嘉元元(1303)年12月、幕府は下知状を下して胤門の譲状を正当なものとして重胤の訴えを認め、敗れた彦犬は出家した。 

■相馬孫五郎重胤の奥州下向

「相馬郷発祥地五郎重胤公城址」の碑
伝太田館跡

 伝に拠れば、元亨3(1323)年2月7日、重胤は下総国から奥州行方郡へと下向していったとされ、このときに相馬一族八十三騎が従い、そのなかに、泉五郎胤顕の孫・相馬胤康や一族の文間胤家(相馬郡文間村領主)なども含まれていた。文間胤家は奥州下向の先陣として進み、所領を押領していた代官・三浦左近国清の館(現在の太田妙見周辺)に入り、その後に小高村(福島県南相馬市小高区)に移って、相馬氏の本拠地としたという。左の写真は重胤が落ち着いたとされる場所で、太田妙見の前にある碑。「相馬郷発祥地五郎重胤公城址」と刻んである。 

 鎌倉末期から建武の新政当初の奥州相馬氏は朝廷方として活躍し、北畠陸奥守顕家が国府多賀城に入るとその麾下に加わり、行方郡などの検断職に就任した。

小高城本丸
小高城本丸跡

 しかし建武の新政に失望した相馬一族は、鎌倉で反建武政府の兵を挙げた足利尊氏と結んで朝廷方と対し、朝廷方の北畠顕家・白河結城氏・伊達氏らと激しく対立した。

 なお、相馬孫次郎親胤(重胤嫡男)は早いうちに尊氏と結んでいたようで、一貫して尊氏の麾下に従って、新田義貞との箱根竹之下の戦いでも活躍。壊走する新田勢を追って京都へ攻め上っていった。このとき惣領相馬孫五郎重胤、一族の相馬五郎胤康らは鎌倉に残り、同行していた相馬弥次郎光胤(重胤次男)・相馬孫次郎行胤(重胤従弟)は小高城の守りのため奥州へ帰還している。

 しかし、鎌倉で新田勢らを追撃して上洛した足利勢を追って、奥州から陸奥守顕家も上洛の途に就いており、比叡山に逃れていた後醍醐天皇らと合流。尊氏は京都を追われて九州へ落ち延びた。これにも親胤は同行している。尊氏を京都から追った顕家は、ふたたび陸奥国へ下向の途に就くが、その途中、鎌倉を攻め、相馬五郎胤康は片瀬河畔の戦いで戦死、鎌倉へ遁れた孫五郎重胤は右大将家法華堂下で自刃した。  

小高城
陸奥国行方郡小高城

 その後、奥州へ戻った顕家は、建武3(1336)年5月、相馬氏居城の小高城を囲んで猛攻をかけ、惣領代光胤など数名の相馬一族及び郎従が戦死した。被害は最小限にとどめられているが、これは光胤が城を囲まれる前に、親胤の嫡男・相馬胤頼(当時は松鶴丸)を養子として所領を譲渡して多くの一族郎従を逃がしたためである。

 こうして胤頼らは山林に身を隠して時が来るのを待つこととなるが、小高落城の半年後、新たに奥州に下ってきた足利竹鶴丸(斯波兼頼)と白河結城宗広の配下との宇多庄熊野堂の戦いに挙兵。中村六郎広重が籠る熊野堂を攻め落とし、その後、城代の鈴木掃部を奇襲して滅ぼし、小高城を奪還したと伝わる。 

 そして、音信不通であった父・親胤も帰城してきたため、勢力を盛り返した相馬氏は奥州の有力北朝方として活躍を始めることになる。そして相馬氏は、室町・戦国時代を、伊達氏・佐竹氏たちと婚姻・同盟・戦争を繰り返して戦国大名として成長していった。 

 一方、下総相馬氏は奥州相馬氏とは対立関係にあったか、下総相馬氏の流れと伝わる相馬忠重は南朝方につき、強弓を引く勇将として新田義貞に従って越前金ヶ崎で戦死した。また、奥州相馬氏内でも重胤の従兄・相馬胤平が、おそらく所領争いが原因で南朝方につき、北畠顕家に従って重胤流相馬氏と対立した。胤平は功績によって南朝から「左衛門尉」に任じられている。 

 南朝方として戦っていた相馬一族の相馬左衛門尉胤平は、北畠顕家が和泉国で戦死するなど南朝方が不利になるとその姿も見られなくなり、所領・高平村も没収されて、異母兄の相馬胤重の曾孫・相馬胤直に与えられ、その子孫は奥州相馬氏の重臣となった。  

■相馬略系図■

●相馬胤村―+―相馬胤氏―――――――相馬師胤
      |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
      |
      +―相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏
      |(五郎)
      |
      +―相馬胤重―――――――相馬胤国―――相馬胤景―――高平胤直
      |(六郎左衛門尉)                 (九郎左衛門尉)
      |
      +―相馬有胤―――――――相馬胤平
      |(十郎)       (六郎左衛門尉)
      |
      +―相馬師胤―――――――相馬重胤
      |(次郎左衛門尉)   (孫五郎)
      |
      +―相馬胤通――――――→大悲山氏 
       (与一)

 応仁期には、奥州相馬氏と所領を隣接する標葉郡の豪族・標葉一族と岩城郡の大豪族・岩城氏が争っていた。岩城氏と標葉氏は同じ海道平家の一族で、鎌倉時代に領地として賜った奥州に下り発展していた。 

相馬家の地図
相馬家の所領

 しかし、この当時の標葉氏当主・標葉清隆はすでに老衰し、嫡男・標葉隆成に当主たる器量がなかったことから、重臣たちは話し合って標葉領の跡を、相馬高胤に託すことにして高胤に書状を送った。これに高胤は応じて標葉郡になだれ込んで権現堂城を攻めたが大敗して病死。その五年後、高胤の嫡男・相馬盛胤が苦戦の末に標葉氏を滅ぼして標葉郡を併呑した。このとき、相馬氏に内通した重臣たちは相馬氏の重臣としてとりたてられている。

■伊達家との確執と相馬中村藩の成立

 室町後期の伊達家当主・伊達稙宗は文武に長じた人物で、外交戦略にも長けていた。稙宗は娘や子を隣接の大名家にとつがせたり、養子に入れたりと伊達家の勢力をしだいに拡大していった。盛胤の子・相馬顕胤稙宗の娘を正室に迎えていた。そんな中、稙宗は三男の伊達真元(藤五郎)を越後守護職・上杉定実の養子とする話について、嫡子・伊達晴宗と意見がまっぷたつに割れた。養子の話しは、すでに上杉家とは話が決まっており、引き出物として上杉家の家紋「竹に雀」、真元は「実」字をもらっていた(真元は実元を称す)。一方、晴宗は越後上杉家内における治安の悪さと、所領の割譲を断固拒否し、約束を破るわけにはいかないという稙宗と奥州一帯を巻き込む戦争を引き起こしてしまう。これを「天文の大乱」という。

 このとき、顕胤は舅・稙宗を相馬に迎えて保護し、稙宗方に加わって晴宗と合戦しているが、戦いは晴宗方の勝利に終わった。乱のあと稙宗は隠居し、晴宗は居城を伊達郡梁川から出羽国米沢に移した。この大乱の結果、それまで友好的だった相馬家と伊達家は対立関係となり、それぞれの子の相馬盛胤・伊達輝宗、孫の相馬義胤・伊達政宗が互いに争うなど、半世紀にわたる戦いの日々となる。そして、江戸時代でも相馬中村藩(6万石)と伊達仙台藩(62万5000石)は互いに敵視しあっていた。

 顕胤が天文18(1539)年2月に亡くなると、嫡男・相馬盛胤が家督を継いた。そしてその4年後、上洛して将軍家に謁見し、従四位下に叙せられた。盛胤は勇猛で知られ、伊達家と長年にわたる戦いを繰り広げる。

 慶長5(1600)年の「関が原の戦い」では、盛胤の子・相馬義胤徳川家康の召しを無視して中立を決め込んだ。義胤は石田三成とは個人的に仲が良く、嫡男・相馬三胤(のちの利胤)は三成を烏帽子親とする。また、相馬氏の縁戚である佐竹義宣(常陸水戸城主)も家康に敵対する姿勢を見せたことが、家康の相馬氏に対する心象を悪くした。「関ヶ原の戦い」がわずか数時間で石田光成方の敗北に終ると、家康は敵対した大名家の粛清を始めた。義胤は上杉景勝領・月夜畑城(安達郡東和町)を攻め陥してはいるが、それまでの中立の態度を咎められて、鎌倉時代からの伝来の領地はすべて没収とされてしまい、相馬・岩城両氏は、佐竹義宣の親類筋として出羽国への同道が命じられた。岩城氏は出羽へ向かうことが家中の意思で決定し、佐竹義宣は義胤にも一門として遇する旨を通達して同道を促した。

 しかし義胤は、家中の意見を聞いてからお答えするとして、中村城内大広間に主だった家臣を集めて、徳川家の意向を尊重して佐竹一門としてこの地を離れるか、浪人するかを議論させた。その結果、相馬家臣はその後の生活もあるため、佐竹に従うもやむなしとの意見が大半を占めて、結論が出されようとした。そのとき、義胤嫡子・三胤は口を開き、相馬家復興のために自ら江戸へ赴くことを宣言し、家中の意見は御家再興論へかたむき、義胤もこれを認めて三胤の江戸行きを許した。このとき、三胤は石田三成から受けた「三」を「蜜」に改めて「蜜胤」を称している。家康の怒りをすこしでも和らげようとする配慮が見られる。

 こうして江戸に赴いた蜜胤は、家康の側近・本多正信(佐渡守)を通じて家康に面会、慶長9(1604)年に家康に嫡孫・竹千代(徳川家光)が生まれた慶事と、宿敵・伊達政宗の口添えによって、蜜胤に対して陸奥国行方郡中村を中心に6万石が安堵されて大名として復帰することに成功した。こうして相馬中村藩6万石は出羽久保田藩の佐竹氏と密接な関係を保ちつつ、大きな事件や過失もなく幕末にいたり子爵となった。幕末の戊辰戦争の際には、相馬胤就(靱負)が「奥羽越列藩同盟」の中村藩代表として出席、相馬胤真(将監)は中村藩軍の総大将をつとめている。幕末の一門筆頭・岡田泰胤(監物)と出羽久保田藩主・佐竹義堯(右京大夫)は藩主・相馬充胤(大膳大夫)の実の叔父にあたる。家紋は「繋ぎ馬」・「九曜」・「相馬亀甲」。

中村城堀 中村城堀割 大手先門
中村城堀 中村城堀 中村城大手先門

 現在でも、福島県原町市相馬市中村(相馬中村藩の中心地)などでは「相馬野馬追」という行事が、毎年7月23日から3日間行われている。この行事は、福島県相馬郡周辺各地の人々が中心になって行われている祭事で、もともとは下総国で相馬氏が行っていた軍事訓練が発祥とされている。江戸時代には北の大藩である仙台藩を仮想敵国として行われており、現在では甲冑行列や甲冑競馬、空に打ち上げられた御神旗を馬に乗って奪い合う御神旗争奪戦など、勇壮な祭である。この行事は中村藩主・相馬氏の子孫の方が「総大将殿」として行われている。野馬追いは江戸時代の旧郷名で呼ばれる各郷から順番に福島県原町市の雲雀ヶ原に繰り出していく(→野馬追御行列順序

 下総国にのこった相馬一族は南朝へつき、相馬忠重(四郎左衛門尉)は新田義貞にしたがって北陸を転戦、強弓のつわものとして恐れられたが、義貞とともに戦死したとも落ち延びたともいわれる。忠重の弟・相馬胤長の系統は相馬郡内に生き残り、子孫は相馬郡一体に散らばり、宗家は北相馬郡の守谷周辺を所領として古河公方足利氏、小田原北条氏の麾下に属して活躍。小田原の戦いでは、小田原に籠って戦うが、落城後は徳川家康によって召し抱えられて旗本となる。ほかにはそのまま帰農した一族や、喜連川藩(古河公方足利氏の末裔)の重臣、小田原藩(大久保氏)の客分、彦根藩(井伊氏)の家臣となった系統もあり、千葉県柏市東部(旧東葛飾郡沼南町)には相馬氏の子孫が繁栄した。

―奥州諸豪の系図―

南奥州諸大名の血縁図

●全国の相馬氏●

下総相馬氏

 千葉介常胤の二男・相馬師常の嫡流。下総国相馬郡の領主として鎌倉時代から安土桃山時代までの四百年もの間、勢力を持っていた。鎌倉時代はおそらく相馬郡衙(我孫子市日秀)のあたりと、増尾(柏市増尾)に屋敷を持っていたと思われる。室町時代、相馬家の嫡流は守谷城守谷市本町)を居城とし、周囲に一族を配した。相馬郡のもっとも南には藤ヶ谷相馬氏柏市藤ヶ谷)が残る。

 下総相馬氏は江戸時代、旗本となり相馬郡内に所領を有した。

奥州相馬氏

 鎌倉時代末期に下総国相馬郡から陸奥国行方郡へ移っていった相馬一族。南北朝時代は北朝=足利氏に属して南朝の北畠氏と合戦している。室町時代は行方郡内の領主として勢力をもち、奥州の群雄の一家に成長した。室町後期には伊達氏と交戦して互角の戦いを見せる。江戸時代になって、陸奥中村藩六万石の藩主となった。現在、毎年七月の下旬に福島県原町市で行われる、無形文化財・相馬野馬追大祭は奥州相馬氏の末裔を総大将に招いて行われる。

千葉介常胤―相馬師常―義胤――胤綱――――――胤村―――――――師胤―――重胤―――親胤―――胤頼―――憲胤――――+
(千葉介)(次郎) (五郎)(次郎左衛門尉)(孫五郎左衛門尉)(彦次郎)(孫五郎)(出羽守)(讃岐守)(治部少輔) |
                                                          |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―胤弘―――重胤――――高胤―――盛胤――――顕胤―――盛胤――――義胤―――利胤―――義胤―――…
 (讃岐守)(治部少輔)(讃岐守)(大膳大夫)(讃岐守)(弾正大弼)(長門守)(大膳亮)(大膳亮)

●信濃相馬氏

 下総相馬氏の流れをくんでいるとされる。

―代表的な人物―

相馬義元 (????-????)

 下総相馬氏の一族。剣術家として知られ、「念流」という流派を作った。幼少時に父を失い、時宗の僧「念阿弥」と称して奥州を流浪。その後、相馬四郎を名のった。応安元(1368)年、安楽寺で奥義を会得。その後、禅宗に帰依して「慈恩念大和尚」と呼ばれる。晩年には信濃国伊那郡波合長福寺を建立した。「念流」は上野国の農民や土豪層に広まり、義元の高弟の1人・樋口太郎兼重の孫・高重は、上野国吾妻郡馬庭村に拠点をおいたことから「馬庭念流」と呼ばれるようになる。

●会津相馬氏

 出自は不明。米沢相馬氏との関わりがあるかもしれない。

―代表的な人物―

相馬幸胤 (1817-1911)

 幕末の会津藩郡奉行兼農兵隊長。通称は新兵衛、直登。父は相馬 郡太永胤。禄高は230石。本国は下総。号は素哉

 戊辰戦争のときには農兵隊長として白河城に出陣し、貫通銃創を受ける。しかし、すぐに治って佐川官兵衛の手について会津城下で奮戦した。このとき幸胤は53歳。会津城開城後は塩川に謹慎するが脱走。松平容保親子の助命と会津藩の復興を計画して発覚。雲井竜雄と連絡を取ったので、明治3年に増上寺に閉じ込められ、ここで大鳥圭介、榎本武揚と知り合う。その後、明治政府は幸胤を登用しようとするが断固拒否している。

 直登の長男・相馬孫一は諸生組頭で、明治元(1868)年4月23日、宇都宮城下において討死した。享年二十八歳。日光観音寺に葬られた。また、孫一の妹は明治元(1868)年8月25日、会津大曲村にて被弾して死亡した(『幕末維新全殉難者名鑑』:新人物往来社)。幸胤は薩長嫌いの頑固者として95歳で亡くなる。

-系譜-(『諸士系譜』:『会津人物文献目録』部分記載)

●相馬重胤――重長―――――重能――重系―――――重則――――重季――――永胤――幸胤―+―孫一
(新右衛門)(四郎左衛門)(五六)(四郎左衛門)(忠左衛門)(忠左衛門)(郡太)(直登)|
                                            |
                                            +―娘

●米沢相馬氏

 出自は不明。越後御譜代の家柄であり、もともとは越後国の相馬氏と考えられる。越後国蒲原庄に関する『後藤文書』(柏市史所収)によれば、「前守護代相馬五郎之時」という言葉が見え、相馬五郎義胤は越後国守護代を務めていたと思われるが、その後の相馬氏と越後の関わりをうかがわせる文書はない。なお、上杉家は桃山期に会津領主となっており、会津相馬氏との関わりも考えられる。

●相馬加兵衛―勘左衛門―加右衛門=彦六―加兵衛―権平―息胤――――胤敦―――――祚胤――胤善
                          (蔵右衛門)(吉郎右衛門)(平太)(良助)

●相馬藤兵衛―藤兵衛―利次―――利親===利有==春房――――春信――春弘
          (藤兵衛)(藤兵衛)(利助)(要右衛門)(藤次)(藤八)

喜連川相馬氏

 古河公方奉公衆の末裔で、江戸時代には喜連川家中老職を歴任した。 一説には、千葉介胤正の十八代の末裔・千葉新介重胤が下総国守谷に移り住んで「相馬」を称し、その子・義胤が古河公方・足利義氏に仕えたともされている(『栃木の苗字と家紋 上』)が、時代的に見て重胤と義胤の代が逆で混乱が見られる。

―代表的な人物―

相馬靫負 

 喜連川初代藩主・喜連川国朝の家老。高修理頭、二階堂主計、三浦左京亮などとならぶ重臣。

相馬玄蕃允 

 幕末の喜連川藩中老。下総相馬氏は古河公方の奉公衆をつとめていた。相馬靫負の子孫か。

相馬小次郎

 相馬玄蕃允の子。幕末の喜連川藩用人となっていた。

彦根相馬氏

 下総相馬氏の一族と考えられる。秀吉による小田原征討により下総相馬氏も滅亡。その一族が井伊家に仕えることとなった。

笠間藩相馬氏

 古河公方奉公衆の相馬氏と所縁が考えられる相馬一族。奉公衆相馬家は関宿の東部に所領を持ち、関宿領主だった簗田家と婚姻関係を持っていた。笠間藩相馬家は関宿藩主・牧野家に召し出され、牧野家が常陸笠間に移るのに従い、笠間藩士となる。


◎相馬氏の家臣◎

相馬氏(下総)…相馬・泉田・小島・広瀬 等
相馬氏(奥州)…岡田・堀内・泉・熊川・門馬・青田・須江(末)・木幡・目々沢・百槻・泉田・江井・大内・佐藤 等

=相馬家一族略系図=(太字が嫡流。●は筆頭家老の岡田氏)

相馬家系図


ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

相馬氏について相馬惣領家下総相馬氏中村藩相馬家相馬中村藩相馬岡田相馬大悲山

■中村藩御一家■

中村藩岡田家相馬泉家相馬泉田家相馬堀内家相馬将監家相馬主税家

Copyright©1997-2009 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。