千葉常胤

千葉氏 千葉介の歴代
桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉常胤  (1118-1201)

生没年 元永元(1118)年5月24日~建仁元(1201)年3月24日
下総権介平常重
常陸大掾平政幹娘女
秩父太郎大夫重弘中女(円寿院殿)
官位 正六位上⇒従五位下
官職 下総権介
相馬郡司:久安2(1146)年4月就任
官職(官人) 下総権介
官職(在庁) 相馬郡司:天治元(1124)年10月就任
役職 下総国守護職?
荘官 千葉庄検非違所
相馬御厨下司職:久安2(1146)年8月10日寄進
        永暦元(1160)年夏頃解職
        永暦2(1161)年2月頃奉免
               3月中頃再寄進
               3月中頃寄進状破棄
所在 下総国千葉庄
法号 浄春院殿貞見、涼山円浄院
墓所 下総国千葉郡千葉山(稲毛区園生町か)

1,相馬御厨が強奪2,平治の乱と相馬御厨
源義宗は佐竹義宗ではない
相馬御厨寄進の時系列
3,相馬御厨について 4,以仁王の乱
5,源頼朝の挙兵と常胤 6,木曽義仲・平家との戦い7,奥州藤原氏との戦い 8.常胤の死

 千葉氏五代。四代・千葉介常重の嫡男。母は常陸大掾政幹娘。妻は秩父太郎大夫重弘娘。元永元(1118)年5月24日誕生(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)。官位は正六位上。官途は下総権介、相馬郡司。荘官としては相馬御厨下司職、千葉庄検非違所。

千葉介常胤(千葉市立郷土博物館蔵)
千葉介常胤像(千葉市立郷土博物館蔵)

 常胤は千葉氏を地方豪族の地位から、御家人筆頭の地位にまで昇らしめた千葉家中興の祖ともいえる人物。下総国主・千葉宗家をはじめ、東北は相馬氏や亘理氏といった室町、戦国大名の遠祖であり、岩手県や宮城県などの東北地方に多い千葉家も彼の血を受け継ぐといわれている。常胤以降、千葉氏やその一族は諱に「胤」の一字を用いることが多くなる。

 源頼朝の挙兵が成功したのは、千葉介常胤上総権介広常といった両総平氏の協力が非常に大きい。頼朝は常胤をして「師父」と呼び、弟・範頼に宛てた手紙の中でも「およそ、常胤の大功においては、生涯さらに報謝を尽くすべからざる」ことを申し送っている。また、「千葉介、殊に軍にも高名し候ひけり。大事にせられ候ふべし」と但し書きがなされる(『吾妻鏡』)ほど、戦の上手としても頼朝の信任あつい人物であった。

1,相馬御厨が強奪される【参考文献】(1)(2)(3)(4)(5)(6)

手賀沼
相馬御厨の手下水海(手賀沼)

 平安時代末期、相馬郡内の相馬御厨は権力闘争の渦に巻き込まれていた。

 千葉次郎大夫常兼が亡くなる(または出家等)と、長子の常重が惣領を継承。その後、天治元(1124)年6月、常重は叔父・相馬五郎常晴の養子となって「先祖相伝領地」であった相馬郡を継承した(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鏑矢伊勢宮方記』:『千葉県史料』中世編))。相馬郡は代々平忠常の子孫がおそらく国司から郡司職を宛がわれて継承してきた土地で、郡内の郷村は「地主職」として開発した地であったのだろう。そして10月、国衙から「随即可令知行郡務之由」の国判を受けて「相馬郡司」となった(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。同時に地主職も継承したのだろう。

 その後、常重「為仰神威、定永地」という祈念のもと、大治5(1130)年6月11日、「相馬郡布施郷(布瀬郷)」「貢進太神宮御領」した(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。この寄進時に「相馬郡布瀬郷証文等事」を都合五通注進している。常重によるこの寄進は三通目に記載のある「前大蔵卿」の死去に伴うものと思われる。

 一枚 布瀬郷内保村田畠在家海船等注文
 一枚 国司庁宣 布瀬墨埼為別符時、免除雑公事案
 一枚 前大蔵卿殿、布瀬墨崎御厨知時、下総守被仰下消息案、在并其返事等、
 二通 同大蔵殿仰書消息等

 四通目、「前大蔵卿殿」が「布瀬墨崎御厨」を「知時」とあることから、「前大蔵卿殿」は常重の養父となった相馬五郎常晴から「布瀬墨崎郷」の寄進を受けて領家となったと思われる。ただし、最終的に「布瀬墨崎御厨」であることから、「前大蔵卿殿」から神宮へ再寄進(神宮は本家)されたことになろう。「前大蔵卿殿」について具体的な名前はないが、承保2(1075)年から大治5(1130)年までの大蔵卿は、以下の通り。

●歴代の大蔵卿(『公卿補任』)

大蔵卿の姓名 就任期間 大蔵卿辞後
藤原長房 承保2(1075)年6月~寛治6(1092)年9月7日 播磨権守兼大宰大弐
藤原通俊 寛治6(1092)年9月7日~寛治8(1094)年 治部卿
源道良 寛治8(1094)年~天永2(1111)年4月24日 死亡
大江匡房 天永2(1111)年7月29日~天永2(1111)年11月5日 死亡
藤原為房 天永3(1112)年正月26日~永久3(1115)年4月2日(4月1日出家) 出家、翌日死亡
藤原長忠 永久3(1115)年8月13日~大治4(1129)年11月3日(10月5日出家) 出家、まもなく死亡
源師隆 大治4(1129)年~長承3(1134)年  

 常重が証文を提出した大治5(1130)年6月当時の大蔵卿は源師隆で、その前は藤原長忠である。長忠は永久3(1115)年から大蔵卿であり、相馬常晴が「布瀬墨崎郷」を寄進した時期と矛盾はない。また、常重が証文を提出した半年前の大治4(1129)年10月5日に大蔵卿を辞しており、常重の証文中に見える「前大蔵卿」は長忠で間違いないだろう。長忠は辞任の約一月後の11月3日に薨じた。

 おそらく常重は、領家・藤原長忠の薨去を知ると、散位源朝臣友定口入人として、大治5(1130)年6月11日、皇太神宮権禰宜荒木田神主延明(稲木大夫)をあらたな領家とし、布瀬(布施)郷の寄進を図ったのだろう。ただし、寄進についての『注進状』は「布瀬郷内保村」のみであって「墨埼郷」の注進はない。墨埼郷はこの再寄進時には対象にしなかったのだろう。

 寄進状と別添証文などの附嘱状は散位源友定を通じて口入神主・荒木田神主延明へと渡され、8月22日、延明から禰宜荒木田神主元親へ請文を提出。開発田数に任せて地利上分・土産物等の上納が示され、寄進が成立した。これにより常重とその子孫は「得分」として「加地子」を取る権利を得、12月、「領使権守藤原朝臣」「国司庁宣」によって「相馬郡司(常重)」の寄進は公式に認められた。寄進条件は、毎年「供祭料」として「地利上分(田:段別一斗五升、畠:段別五升)」と「土産物(雉佰鳥、鹽曳鮭佰尺)」を口入神主「権禰宜荒木田神主延明」と内宮の「一禰宜荒木田神主元親」に納めることであった。

◎相馬御厨の寄進条件の貢納品

供祭料 地利上分 田:段別1斗5升
畠:段別5升
土産物   雉:100羽
塩曳鮭:100尾

◎相馬郡布施郷=常重が寄進して成立した布施御厨:大治5(1130)年6月11日寄進

 1.限東…蚊虻境(茨城県取手市小文間)
 2.限南…志古多谷并手下水海(柏市篠籠田、手賀沼)
 3.限西…廻谷并東大路(千葉県野田市木野崎)
 4.限北…小阿高、衣河流(茨城県筑波郡伊奈町足高、小貝川)

●「布施御厨」の支配構造

【本家】      【領家】       【預所】    【下司・地主職】
一禰宜荒木田元親―――権禰宜荒木田延明―――散位源友定―――下総権介平常重
(皇太神宮)    (口入神主)     (口入人)

※荒木田元親には「供祭料」の半分が上納され、半分は荒木田延明が得る。
※常重は「加持子」を得る権利が設定。

 ところで、寄進状では「但至于田畠所当官物者、令進退当時領主給」としているように(大治五年六月十一日『正六位上行下総権介平朝臣経繁解申永奉附属所領地事』)、本来国衙に納めるべき得分以外の「田畠所当官物」を「当時領主」への給分と定めたことがわかる。この寄進時においては相馬御厨の「田畠所当官物」は「当時領主」の皇太神宮(実質的には一禰宜荒木田元親、権禰宜荒木田延明)の「進退」となり、「田畠所当官物」も「地利上分」に充当されたとみられる(村川幸三郎『古代末期の「村」と在地領主制』)。相馬御厨の「所当官物」を「地利上分」に含めることは、のち常胤が出した寄進状にも記載されていることから、国衙より認められていたものであった。なお、大治5(1130)年当時、「下総権守藤原朝臣」とあることから下総守某は在国していないが、長承元(1132)年11月23日当時には下総に下向していた(『中右記』長承元年十一月廿三日条)。当時の下総国は摂関家の知行国であると考えられ、国司は摂関家の家人であろう。

 この国司の在任中、長承3(1134)年閏12月24日に左大臣が奏上した「当年荒奏」「当年不堪六通、副文下総国不堪五通、同減省一通」とある通り、下総国からの貢物未進が想定され、下総国司が請していることがわかる(『中右記』長承三年閏十二月廿四日条)。次の国司は下野国(待賢門院領か)から国替した藤原親通であった。彼は保延4(1138)年11月6日、「守藤原朝臣親通募重任功、造進彼社(香取大神宮)」によって重任(「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」『広島県市古代中世資料編Ⅱ』)していることから、おそらく保延元(1135)年正月近辺の任官と思われるが、そのあたりの除書中には記載がなく、具体的な任官期日は不明である。

 保延元(1135)年中に下総国司となった藤原親通が解由の際に未進が発覚したのであろう。この未進分は、前年の長承3(1134)年9月頃に朝廷に報告された「不堪佃田」に起因するものであろうが、この「不堪佃田」に関する何らかの過失を在国の下総権介であった常重の責としたのかもしれない。なお、長承3(1134)年3月7日には「下総介広賢」が豊後介から改められているが、彼も在京であるため、常重が事実上の国政を行っていたとみられる。

 この未進発覚により、保延2(1136)年7月15日「国司藤原朝臣親通」によって父・常重「有公田官物未進」の罪で拘束された(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。そして「旬月」ののち、追徴分として「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」が賦課されるが、常重はこれを納められないまま「妄企牢籠」させられ、国司親通は11月13日、庁目代・散位紀季経に指示をして「押書相馬立花両郷之新券恣責取署判」した(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。これは「依官物屓累譲国司藤原親通」(永暦二年正月『正六位上前左兵衛少尉源義宗寄進状』)「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)とあることから官物未納の代償であったことがわかる。前年に常胤に譲った「地主職」を悔い返す形で弁済を明記した新券が作られ、署判させられたのだろう。

-親通流藤原氏家系図-

 藤原師輔―+―兼家――+―道綱  +―伊周                 +―親頼――+―親長      +―親長――――+―宣親
(関白)  |(関白) |(右大将)|(内大臣)               |(右馬助)|(皇嘉門院判官代)|(皇太后宮亮)|(日向守)
      |     |     |                    |     |         |       |
      |     +―道隆――+―隆家                 |     +―親能――――――+―親光    +―忠能
      |     |(関白)  (太宰権帥)              |      (散位)              (延暦寺律師)
      |     |                          |
      |     +―道長――――頼通―――師実―――…        +―親方(源?)――――二条院内侍
      |      (関白)  (関白) (関白)           |(下総守)        |
      |                                |             ↓
      +―為光――――公信――――保家―――公基―――伊信―――親通――+―親盛――+=====二条院内侍
       (太政大臣)(権中納言)(春宮亮)(周防守)(長門守)(下総守)|(下総守)|         ∥
                                       |     |         ∥
                                       |     |         ∥――――資盛
                                       |     |         ∥   (右少将)
                                       |     | +―平清盛―――重盛 
                                       |     | |(太政大臣)(内大臣)
                                       |     | |
                                       |     | +―娘     +―功徳院快雅
                                       |     |   ∥     |(延暦寺僧正)
                                       |     |   ∥     |
                                       |     +―千田親雅――――+―聖円
                                       |     |(皇嘉門院判官代) (延暦寺律師)
                                       |     |
                                       |     +―盛光
                                       |     |(筑前権守)
                                       |     |
                                       |     +―盛保
                                       |     |(散位)
                                       |     |
                                       |     +―顕盛==日野邦俊――邦行―――種範―――俊基
                                       |     |    (彈正少弼)(大学頭)(治部卿)(少納言)
                                       |     |
                                       |     +―円玄
                                       |     |(延暦寺法橋)
                                       |     |
                                       |     +―弁然
                                       |      (延暦寺)
                                       |     
                                       +―承元――+―承長
                                       |     |
                                       |     |
                                       +―円空  +―覚経
                                       | 
                                       |
                                       +―忠顕
                                        (延暦寺阿闍梨)

 相馬御厨の範囲は、常重が大治5(1130)年に寄進した「布施郷」は南端が「志古多谷并手下水海」、源義朝が康治2(1143)年に常重から「責取」り、天養2(1145)年に寄進した地域の「管相馬郡」の「相伝領知」の南端は「蘭沾上大路」であった。そのほかの寄進状に見られる「小野上大路」「坂東大路」も同一の官道(大路)を指しているとみられ、「蘭沼」の南崖上(柏市布施)を東西に走り、古代には「於賦駅(我孫子市新木)」が置かれ、相馬郡衙へも通じていた官道(現在の国道356号と一部重なるか)を南端とする一帯であろう。

年月日 東端 南端 西端 北端 文書
前身 天治元(1124)年10月
~大治4(1129)年
不明 不明 不明 不明 布瀬墨埼御厨
『下総権介平経繁布瀬郷文書注進状写』
1 大治5(1130)年
6月11日
蚊虻境 志子多谷并手下水海 廻谷并東大路 小阿高并衣河流 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』
2 天養2(1145)年
3月
須渡河江口 藺沽上大路 繞谷并目吹岑 阿太加并絹河 『源義朝寄進状写』
3 久安2(1146)年
8月10日
逆川口・笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川・常陸国境 『平朝臣常胤寄進状写』
4 永暦2(1161)年
正月日
常陸国堺 坂東大路 葛餝・幸嶋両郡堺 絹河・常陸国境 『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』
5 永暦2(1161)年
2月27日
逆川口・笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川・常陸国境 『下総権介平常胤解案写』

 常重は拘禁させられたと同時に相馬郡司職も停止されたのだろう。その事件を早くも察したのが、上総国夷隅郡に居たと思われる「常澄」であった。上総権介常澄は常重を養子に迎えて相馬郡を譲った「相馬五郎常晴」の実子で常重への相馬郡継承に反発していたと見られる。常澄のもとで養育されていた源為義の子「源義朝朝臣」「常時男常澄之浮言」を理由に相馬郡に介入しているが(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、常重が拘禁された保延2(1136)年当時、義朝はまだ十四歳であることから、常澄が義朝を利用して相馬「郡」の奪取(=相馬郡司)を目論んだのであろう。常澄が相馬郡司になったという伝は残されていないが、常澄の九男・九郎常清は「相馬」を名乗っていることから、常清が一時的にせよ「相馬郡司」に任じられた可能性もあろう。

 上総国に義朝が下向していた理由については諸説あるものの、義朝の下向は、父・源為義が院の信任を喪って摂関家へ近づいた時期よりもかなり以前のことであり、院近臣家の娘を母に持つ義朝が遠ざけられて廃嫡とされたということはないだろう(そもそも子息は父権による統率であって、子息達は外戚の地位及び幼長の順はあれど原則的に横並びであろうから、廃嫡という言葉自体が相応しくないであろう)。具体的には義朝下向は保延2(1136)年よりも以前で、十歳前後であろうと考えられることから、為義の命を受けた常澄が幼少の義朝を預かって上総国へ下向したものと考えられる。事実、安房国丸御厨は「左典厩義朝令請廷尉禅門為義御譲給之時、又最初之地也」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)とあり、房総には部分的に為義の影響力があったと考えられる。

       平貞盛―――女    +―藤原隆時―――藤原清隆
      (信濃守)  ∥    |(因幡守)  (中納言)
             ∥    |
             ∥――――+―藤原範隆―――藤原資隆
             ∥     (甲斐守)  (上西門院蔵人)
             藤原清綱
            (左衛門佐)
             ∥――――+―藤原隆能
             ∥    |(主殿頭)
             ∥    |
後三条天皇――高階為行――女    +―藤原忠清―+―藤原惟忠――――――藤原惟清
      (信濃守)       |(淡路守) |(太皇太后宮大進)
                  |      |
                  |      +―藤原清兼――――+―藤原清長
                  |      |(太皇太后宮大進)|(太皇太后宮大進)
                  |      |         |
                  |      |         +―藤原康俊
                  |      |         |(待賢門院蔵人)
                  |      |         |
                  |      |         +―藤原惟清
                  |      |          (左大臣勾当)
                  |      |
                  |      +―藤原行俊――――――藤原清定
                  |      |(待賢門院蔵人)  (八条院蔵人)
                  |      |
                  |      +―女
                  |        ∥―――――――――源義朝
                  |        ∥        (下野守)
                  |        源為義
                  |       (検非違使)
                  |          
                  +―藤原隆重―+―藤原政重
                   (筑前守) |(白河院蔵人)
                         |
                         +―平忠重【刑部卿平忠盛為子改姓】
                         |(散位)
                         |
                         +―藤原清重――――――藤原在重
                         |(蔵人)      (上西門院判官代、下総守
                         |
                         +―右衛門佐
                          (後白河院宮女)
                           ∥
                           藤原信西
                          (少納言入道)      

●下総権介について

 常重は拘禁当時「下総権介」であったが、常重の弟・海上余一常衡も「下総権介」の肩書を持っていたと推測される。当時の国府の官人は介、権介、掾、目が複数存在している事例もあり、常重と同時期に常衡も下総権介であった可能性もあろう。

 常衡はその通称「余一」から千葉介常兼の十一男(千葉介常重の弟)とされているが、鎌倉期成立の『徳嶋本千葉系図』『桓武平氏諸流系図』によれば、常衡(常平)はいずれも常重よりも輩行が前にあり、実際には常兼の長男であった可能性が高い。しかし、常兼の長男でありながら、祖父・千葉大夫常長の十一男にも擬されており(「実常兼子」の註)、何らかの事情によって祖父常長の養子とされ、下総権介に任じられていたのかもしれない。

●『桓武平氏諸流系図』(中条家文書)

 千葉常永―+―千葉恒家
(千葉大夫)|
      |       
      +―千葉恒兼―――+―千葉常平
       (千葉次郎大夫)|(余一介
               |
               +―千葉常重――千葉常胤
               |(大権介) (大千葉介)
               |
               +―相馬常晴
                  恒兼為子実弟也

●『徳嶋本千葉系図』

 千葉常長――+―千葉常兼――+―海上常衡
(千葉介)  |(千葉介)  |(与一介
       |       |
       +―千葉常房  +―千葉常重――千葉常胤
       |(鴨根三郎)  (大権介) (千葉介)
       |
       +=常衡
       |(与一平、実常兼子
       |
       +―相馬常晴
        (上総介)

 常衡は海上郷の地理的条件の中、内海(香取海)を通じて隣り合う常陸大掾家と縁戚関係にあったと推測され、「常衡」やその子「常幹」の片諱にある「衡」「幹」がそれをうかがわせる。常衡自身も「余一平」とあるように兵衛尉に任官していた形跡があり、常衡の孫・常親「大夫=五位」と、東国の豪族が与えられる官位としては相当高いものであった(常胤は「正六位上」)。常衡の孫世代に至っては、おそらく摂関家司の受領を通じた官途であろうか。

◎海上氏略系図◎

⇒平常兼―海上与一常衡―太郎常幹―小大夫常親―小大夫次郎常宗

 ◎海上与一常衡⇒「海上庄」を領した「下総権介」平氏の11男(与一)の常衡
 ◎海上太郎常幹⇒「下総権介」の「長男=太郎」である常幹
 ◎小大夫常親⇒「従五位下=大夫」である父・常幹の子の「従五位下=大夫」の常親
 ◎小大夫次郎常宗⇒「小大夫」の常親の「次男=次郎」の常宗

●源義朝と相馬御厨

 康治2(1143)年、二十一歳になった源義朝は「自常重之手」から相馬御厨について「責取圧状之文」った。実は康治2(1143)年正月27日の除目で「従五位下源親方」「前司親通進衛料物功」「下総守」となっている(『本朝世紀』康治二年正月廿七日条)。義朝が常重から相馬御厨に関する避状を圧し取ったのは、相馬御厨が国免であるが故の国司交代がきっかけであった可能性があろう。

 親通の後継国司となった「源親方」は親通の子「従五位下下総守 親方」(『尊卑分脈』)と同一人物とされる(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)。親通は保延4(1138)年11月6日、「守藤原朝臣親通募重任功、造進彼社(香取大神宮)」によって重任しており(「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」『広島県市古代中世資料編Ⅱ』)、親通―親方という親子での継承だったことがわかる。親族で国司が継承される場合は姓を改めて記載される例があるという(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)

 康治2(1143)年以降、常重は姿を消し、代わって嫡子・常胤が現れる。義朝は相馬御厨を常重から「掠領」したが、常重が大治5(1130)年に布施郷を神宮へ寄進した際の口入神官・荒木田神官延明が「沙汰」したことで(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)、義朝は天養2(1145)年3月11日、「為募太神宮御威、限永代所寄進也」(天養二年三月十一日『源某寄進状』)「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)とある通り、神宮へ寄進することとなる。

烏森神社(鵠沼神明社)
鵠沼神明社(伊介神社)

 義朝が寄進した理由は「自神宮御勘発候之日、永可為太神宮御厨之由、被令進避文候畢者」(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)とあることから、義朝が神宮の怒りを買っていた様子がうかがわれる。これは、前年の天養元(1144)年9月、「上総曹司源義朝」らが相模国大庭御厨で濫妨を働いたたためだろう。義朝はこの時点で「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」とあり、すでに上総にはおらず「鎌倉之楯」「伝得」して移り住んでいたことがわかる(「官宣旨案」『平安遺文』2544)。なお、後年頼朝が鎌倉入部して館が成った際、すでにその地に存在していた「上総介広常」の館から遷っており、鎌倉は義朝父・為義から「鎌倉之楯」を受け継ぎ、その移徒には鎌倉に屋敷があった常澄の後援があったのかもしれない。

 この義朝の大庭御厨への濫行で御厨内「伊介神社」の祝であった荒木田彦松が頭を割られて殺されており、相馬御厨領主で彦松と同族と思われる内宮禰宜荒木田一族は怒り、荒木田神主延明が義朝に何らかの「沙汰」をしたと思われる。義朝は朝廷の譴責の対象となっており、翌天養2(1145)年3月4日に御厨に対する濫妨停止を相模国司に出したことを知らせる宣旨が「伊勢大神宮司」へ出されている(天養二年三月四日『宣旨案』:『天養記』)

 この義朝の相馬郷寄進を知った(おそらく荒木田延明または明盛からの報告であろう)常胤は、父・常重が「弁済」として作成した相馬郷・立花郷の「新券」を取り戻すべく、久安2(1146)年に「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国庫に「進済」した。

●保延2(1136)年・常重未進の追徴分
(貢納されず)
①准白布:726段2丈5尺5寸
●久安2(1146)年・常胤進済の貢納分 ①上品八丈絹:30疋
②下品:70疋
③縫衣:12領
④砂金:32両
⑤藍摺布上品:30段
⑥中品:50段
⑦上馬:2疋
⑧鞍置駄:30疋

 これにより、久安2(1146)年4月、常胤は「国判」を以て正式に「相馬郡司職」に還任され、「可令知行郡務」とした。このとき「其中一紙先券之内、被拘留立花郷壱處許之故、所不被返与件新券也」(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))とあることから、常重が保延2(1136)年に国司藤原親通に「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)のうち、相馬郷の「新券」は返与されたことがわかる。なお、相馬郷と同じく親通に弁済された「立花郷壱處許」は国衙に留め置かれて「所不被返与件新券」とある通り返与されなかった。

伊勢内宮
伊勢内宮

 常胤は相馬郷の返与に伴い「至于相馬地者、且被裁免畢」(久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状写』)されて「相馬郡司」に任じられたため、「親父常重」が内宮と交わした契約書に基づいて、返与された先券をもとに久安2(1146)年8月10日、「御厨下司正六位上平朝臣常胤」として内宮へ相馬郷を寄進する(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状写』)。なお、寄進時に於いてすでに「御厨下司」と称しているのは、「常重契状」「下司職者以経重子孫」(大治五年十二月『下総国司庁宣写』)などの一文が入っていたためと思われ、天養2(1145)年3月11日の源義朝の寄進を強烈に否定する意味があったのであろう。

 寄進については、4月の「進済」「相馬郡司」の補任から7月までの間に内宮との間で細かい取り決めが済んだとみられ、寄進日付で、加地子・下司職は常胤の子孫に相伝され、「預所職」「本宮御牒使清尚」の子孫に相承されるべきこと寄進条件が追加された正式な寄進状が作成された(久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状写』)

 父・常重は康治2(1143)年までの存命は確認できるが、久安2(1146)年には子・常胤が常重に代わって「相馬郡司」に任じられ、「親父常重」の契状に基づいて「(常重子孫が継承する)御厨下司」になっていることから、常重は康治2(1143)年に亡くなったと推測される。

 久安7(1151)年正月に藤原信成下総守になった。彼は久寿2(1155)年2月25日、「下総、伊豆、佐渡 已上延任各二年」とあることから、四年の任期後に二年の延任が認められている。ただし、同じく春日祭に従った「諸大夫」の「院北面 下総守信成」(『兵範記』仁平四年正月三十日条)は、「下総前司」とされているが(『兵範記』仁平四年ニ月ニ日条)、その後も信成が在任していることが確認できることから、『兵範記』の誤記であろう。

 前任の下総守の親方と弟・親盛(故親通男。下総大夫)は仁平4(1154)年正月30日、春日祭上卿となった「左府家嫡中納言中将殿(藤原兼長)」に従う「散位」の「地下君達」として名が見えており(『兵範記』仁平四年正月三十日条)、左府家の家人であったと推測される。

任官・在任年 離任 人名 備考 出典
【在任】
長承元(1132)年
11月23日
  (某) 当時、下総国に下向していた 『中右記』
長承元年十一月廿三日条
    (某) 長承3(1134)年閏12月24日、「下総国不堪」の奏上 『中右記』
長承三年閏十二月廿四日条
【除目?】
保延元(1135)年
正月?
保延元(1135)年~
保延4(1138)年
藤原親通 下野国から名替  
【在任】
保延2(1136)年
7月15日
藤原親通   官物未納のため常重拘束
【在任】
保延2(1136)年
11月13日
藤原親通   散位紀季経に指示をして
常重から新券を押し取る
【重任】
保延4(1138)年
11月6日
藤原親通 香取大神宮の造替の功で重任 「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」
【除目】
康治2(1143)年
正月27日
康治2(1143)年~
久安2(1146)年?
源親方 前司親通進衛料物功
従五位下
『本朝世紀』康治二年正月廿七日条
【在任】
久安2(1146)年
4月
久安2(1146)年?~
久安6(1150)年?
藤原在重? 常胤を相馬郡司職に任じた  
【除目】
久安7(1151)年
正月
久安7(1151)年~
保元3(1158)年?
藤原信成 院北面。藤原信頼の同族で院近臣。 時期的に久寿二年に延任の下総守と同一人物。
仁平3(1153)年3月28日に院蔵人。仁平4(1154)年正月30日当時に下総前司とあるが、兵範記の誤記か。
その後、遠江守となっている。
『勘例』(『国司補任』)
『兵範記』仁平三年三月廿八日条
『兵範記』仁平四年ニ月ニ日条
【延任二年】
久寿2(1155)年
2月25日
藤原信成か 延任各二年 『兵範記』久寿二年二月廿五日条
【在任】
保元2(1157)年
10月22日
藤原信成 従五位上に昇叙 『私要抄』(『国司補任』)
【除目】
保元4(1159)年
正月29日
保元4(1159)年~
永暦2(1161)年?
源有通   『極秘大間記』
【除目】?
永暦3(1162)年
正月?
  藤原高佐 仁安2(1167)年8月時点で「前下総守高佐」
仁安3(1168)年6月時点で「前下総守高佐」
以前は飛騨守。
『兵範記』仁安二年八月六日条
『兵範記』仁安三年六月廿日条
【除目】
仁安2(1167)年
2月21日
仁安2(1167)年~ 藤原実仲 仁安2(1167)年2月21日に父(伯父)公通が権大納言を辞す代わりに下総守となる。 『尊卑分脈』
『公卿補任』

2,保元・平治の乱と相馬御厨

 久寿3(1156)年に入ると鳥羽院は体調の不良が目立ち始め、5月には食事も摂れないほど悪化する。摂食不良とその後の腹部の膨張ならびに手足の浮腫から消化器系のがんか。5月中には死を覚悟していたとみられ、自分の死後、上皇(のちの崇徳院)や左大臣頼長らによる政権樹立を嫌い、有力武家貴族らに対して招集する院宣を発している。「去月朔以降、依院宣、下野守義朝幷義康等」が禁中の守護として宿営し、「出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此外源氏平氏輩、皆悉率随兵祇候于鳥羽殿」と、出雲守源光保、和泉守平盛兼ほか源平諸氏が鳥羽殿の警衛に参じた(『兵範記』保元元年七月十日条)。鳥羽院は「義朝、義康、頼政、季実、重成、惟繁、実俊、資経、信兼、光信」らを後白河天皇に付属させるべく遺詔を残していたというが(『保元物語』)、この院宣であろうか。

 7月2日、ついに鳥羽院が鳥羽安楽寿院御所で崩御した(『兵範記』保元元年七月二日条)。五十四歳。その死からわずか三日後の7月5日には後白河天皇が蔵人雅頼を通じ、検非違使を動員して「京中武士」の動きを停止させた。これは「蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家」という風聞が京中に流れたことによる。鳥羽院の崩御とともに後白河天皇は、鳥羽院の兄上皇および左大臣頼長勢力を鎮圧すべくさまざまな画策を実行に移していく。

 7月6日には、左衛門尉平基盛が東山法住寺辺で、左大臣頼長に祇候する大和源氏源親治を追捕した(『兵範記』保元元年七月六日条)

 さらに7月8日、後白河天皇は諸国司に対して「入道前太政大臣幷左大臣、催庄園軍兵之由」を勅した(『兵範記』保元元年七月八日条)。そして「蔵人左衛門尉俊成義朝随兵等」に勅して頼長邸「東三條」邸を接収した。頼長は当時宇治にあって東三條邸を留守にしていたときを狙ったものであった。天皇側による圧力が強まっている様子がうかがえる

 こうした状況を知った上皇(崇徳院)は怒り、滞在していた鳥羽田中御所から夜陰に紛れて白河前斎院御所へと遷幸し(『兵範記』保元元年七月九日条)、翌10日には移った白河殿で軍勢を集め始める(『兵範記』保元元年七月十日条)。しかし、それに応じたのは上皇や左府頼長の家人など所縁の人物ばかりであった。

●崇徳院・頼長に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)

上皇祇候 散位平家弘、大炊助平康弘、右衛門尉平盛弘、兵衛尉平時弘、判官代平時盛、蔵人平長盛、源為国
故院勘責
今当召出
前大夫尉源為義、前左衛門尉源頼賢、八郎源為知(為朝)、九郎冠者(為仲)
左府祇候 前馬助平忠正、散位源頼憲

●後白河天皇に加わった諸士(『兵範記』保元元年七月十日条)

下野守義朝、右衛門尉義康、安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁、常陸守頼盛、淡路守教盛、中務少輔重盛

 7月11日早朝、御所高松殿から「清盛朝臣、義朝、義康等」が六百余騎を率いて白河御所へ進軍した。平清盛は三百余騎を率いて二條大路から、源義朝は二百余騎を率いて大炊御門大路から、源義康は百余騎を率いて近衛大路からそれぞれ攻め上がったという。さらに前蔵人源頼盛が郎従数百人を揃え、源頼政、源重成、平信兼らが重ねて白河へと派兵された(『兵範記』保元元年七月十一日条)

●保元の乱相関図■:崇徳上皇方■:後白河天皇方

~天皇、上皇、親王ほか~

 藤原璋子
(待賢門院)
 ∥―――――――+―崇徳上皇――――――重仁親王
 ∥       |
 ∥       |
 鳥羽法皇(崩) +―後白河天皇―――――守仁親王
 ∥                  (二条天皇)
 ∥
 ∥―――――――+―近衛院(崩)
 藤原得子    |
(美福門院)   |          
         +=重仁親王
         | 1140.9養子
         |
         +=守仁親王(二条天皇)
            1150.12.13養子

~摂関家~

 藤原忠実―+―藤原忠通
(関白)  |(関白)
      |
      +―藤原頼長
       (左大臣)
 

~河内源氏~

 源義家―+―源義親――――源為義――+―源義朝
     |(出雲守)  (六条判官)|(下野守)
     |             |
     +―源義国――+―新田義重 +―源義賢
      (式部大夫)|(大炊介) |(帯刀先生)
            |      |
            +―足利義康 +―源義範
             (検非違使)|(三郎先生)
                   |
                   +―源頼賢
                   |(四郎左衛門尉)
                   |
                   +―源頼仲
                   |(五郎掃部助)
                   |
                   +―源為宗
                   |(加茂六郎)
                   |
                   +―源為成
                   |(七郎)
                   |
                   +―源為朝
                   |(八郎)
                   |
                   +―源為仲
                   |(九郎)
                   |
                   +―源義盛
                    (十郎)
 

~伊勢平氏~

 平正盛―+―平忠盛―+―平清盛
(讃岐守)|(刑部卿)|(安芸守)
     |     |
     |     +―平教盛
     |     |(蔵人)
     |     |
     |     +―平頼盛
     |      (常陸介)
     |
     +―平忠貞―+―平長盛――女――宇都宮頼綱
      (右馬助)|(新院蔵人)
           |
           +―平忠綱
           |(皇后宮侍長)
           |
           +―平正綱
           |(左大臣匂当)
           |
           +―平通正
            (平九郎)

 この合戦の様相は、日記の故記録では『兵範記』が唯一のものであるが、そこでは7月11日「彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢齋院御所幷院北殿也」とあり、平清盛を筆頭とする官軍が上皇及び左大臣頼長の軍勢を打ち破り、白河御所などが焼失したことを伝えている。午剋には清盛以下の大将軍はみな内裏へ帰参し、平清盛と源義朝はとくに朝餉間へと召され、上皇、左大臣頼長、源為義以下の人々は行方知れずとなったことを報告している。

 この白河御所での戦いについては、『保元物語』による外ないが、多分に誇張表現や筆者による加筆があり、信憑性については甚だ疑問が多いため、参考程度であるが、この保元の乱では、「上総ニハ介乃八郎弘経、下総ニハ千葉介経胤」(『保元物語』)とあって、当時三十九歳の常胤は上総権介常澄の八男・介八郎広常や相模国鎌倉党の大庭景義・景親兄弟らとともに源義朝に随って後白河天皇方として崇徳上皇(後白河天皇の兄)方と戦ったとされている。広常は父・常澄が義朝の養育者であったことから積極的に参戦したと思われるが、常胤が義朝に積極的に組したかは疑問。ここに見える人々は、義朝が関わりがあった人々のほかに、駿河国、武蔵国、甲斐国、信濃国など義朝との関係がみられない人々も含まれており、諸本によって人物も異なるなど、信憑性に欠ける。ただ、後白河天皇側が国衙に対して軍勢催促を行った可能性もあり、この場合は常胤は下総国司を通じて徴されたということであろう。

●保元の乱に義朝に随った人々(『保元平治物語』慶長本)

  鎌田次郎正清 後藤兵衛実基      
近江国 佐々木源三 八嶋冠者      
美濃国 平野大夫 吉野太郎      
尾張国 舅・熱田大宮司(家子・郎等)        
三河国 志多良 中条      
遠江国 横地 勝俣 井八郎    
駿河国 入江右馬允 高階十郎 息津四郎 神原五郎  
伊豆国 狩野宮藤四郎親光 狩野宮藤五郎親成      
相模国 大庭平太景吉 大庭三郎景親 山内須藤刑部丞俊通 瀧口俊綱 海老名源八季定
秦野二郎延景 荻野四郎忠義      
安房国 安西 金余 沼平太 丸太郎  
武蔵国 豊嶋四郎 中条新五 中条新六 成田太郎 箱田次郎
川上三郎 別府二郎 奈良三郎 玉井四郎 長井斉藤別当実盛
斎藤三郎実員        
(横山党)悪次 悪五      
(平山党)相原        
(児玉党)庄太郎 庄次郎      
(猪俣党)岡部六弥太        
(村山党)金子十郎家忠 山口十郎 仙波七郎    
(高家)河越 (高家)師岡 (高家)秩父武者    
上総国 介八郎弘経        
下総国 千葉介経胤        
下野国 瀬下太郎 物射五郎 岡本介 名波太郎  
上野国 八田四郎 足利太郎      
常陸国 中宮三郎 関二郎      
甲斐国 塩見五郎 塩見六郎      
信濃国 海野 望月 諏方 蒔葉
安藤 木曾中太 木曾弥中太 根井大矢太 根川神平
静妻小二郎 片桐小八郎大夫 熊坂四郎    

 同日夕刻、合戦の勲功として、安芸守平清盛播磨守へ、下野守源義朝兼右馬権頭へ、右衛門尉源義康左衛門尉兼検非違使へと任官することとなるが、。義朝は同日、右馬権頭から左馬頭へと昇み、十九年にわたって左馬頭を務めてきた藤原隆季「雖無所望」と、義朝の要求を受け入れた朝廷によって、左京大夫へ還任することとなる(『公卿補任』保元三年)

●褒章された人々(『兵範記』より)

日時  名前 褒章 備考
7月11日 藤原忠通 氏長者 関白前太政大臣。
小僧都覚継 左府頼長より収公された所領 興福寺権別当。
平清盛 播磨守 安芸守より転任。
源義朝 右馬権頭⇒左馬頭 下野守は兼任とみられる。同日、左馬頭隆季が左京大夫へ遷任される。
源義康 左衛門尉 検非違使。蔵人。右衛門尉より陞任。
8月6日夕方、従五位下に昇叙。
7月16日 平頼盛 昇殿 常陸介。兄の清盛が申請。
平教盛 昇殿 淡路守。兄の清盛が申請。

 7月13日、上皇は実弟の仁和寺五宮(覚性法親王)のもとに出頭し、16日には為義が出家姿で義朝のもとへ出頭している。そして17日には諸国の国司に対して、前太政大臣忠実と左大臣頼長の所領を没官することを通達した。21日は流矢を受けて負傷死したと伝えられた頼長の遺骸が「般若山辺」で掘り起こされて実検された。23日、上皇(崇徳院)は讃岐国へと流され、7月28日から30日にかけて、上皇および左大臣頼長の主な戦力となった人々が処刑されることとなった。8月3日には流罪が執行されており、こうして「保元の乱」は幕を閉じるが、皇位継承については様々な蟠りが残されたまま、次代へと引き継がれ、再び内紛の様相が露呈し始める。

●罪に問われた人々(『兵範記』より)

名前 処罰 官職等 備考
藤原兼長 出雲国へ流罪 権中納言兼右近衛大将 8月3日、山城国稲八間庄へ追放
(使:右衛門尉平維繁、府生・資良)
藤原師長 土佐国へ流罪 権中納言兼左近衛中将 8月3日、山城国稲八間庄へ追放
(使:右衛門尉平維繁、府生・資良)
藤原隆長 伊豆国へ流罪   8月3日、山城国稲八間庄へ追放
(使:右衛門尉平維繁、府生・資良)
範長 安房国へ流罪 大法師 左府頼長の子。
8月3日、山城国稲八間庄へ追放
(使:右衛門尉平維繁、右衛門府生資良)
尋範 所領没官 権大僧都 興福寺別当。関白忠通、左府頼長の叔父。
千覚 所領没官 権律師 藤原盛実の子で、左府頼長の母方の叔父。13日に瀕死の頼長が頼り、14日、その房で頼長は薨じる。
信実 所領没官 大法師 興福寺上座。悪僧として知られ、興福寺へ大きな影響力を持っていた。
玄実 所領没官   信実の子。
清頼   蔵人大夫 7月13日、捕縛。左大臣家職事。
藤原教長 常陸国へ流罪 右京大夫 7月14日、広隆寺辺で出家し参上。左衛門尉季実が具す。
8月3日、被行流罪(使:実俊)
親頼   治部丞 7月16日、捕縛。左大臣家侍所司。兵庫頭頼政が召し出す。
藤原忠実 所領没官   前太政大臣。
成雅 越後国へ流罪 左近衛中将 8月3日、被行流罪(使:右衛門志兼成)
藤原成隆 阿波国へ流罪 皇后宮権亮
8月3日、被行流罪(使:業倫)
実清 土佐国へ流罪 前右馬権頭 8月3日、被行流罪(使:業倫)
俊通 上総国へ流罪 散位 8月3日、被行流罪(使:国忠)
盛憲 佐渡国へ流罪 散位 8月3日、被行流罪(使:実俊)
平忠貞 7月28日六波羅辺で斬刑 右馬権助 前名忠正。平正盛の子で清盛の叔父。
道行
(忠貞郎従)
7月28日六波羅辺で斬刑    
憲親 下野国へ流罪 皇后宮権大進 8月3日、被行流罪(使:国忠)
経憲 隠岐国へ流罪 散位 8月3日、被行流罪(使:右衛門志能景)
源為義 7月28日船岡山辺で斬刑 前大夫尉  
平家弘 7月30日大江山辺で斬刑 右衛門大夫  
源頼憲   散位  
平康弘 7月30日大江山辺で斬刑 大炊助  
平盛弘 7月30日大江山辺で斬刑 右衛門尉  
平時弘 7月30日大江山辺で斬刑 兵衛尉  
平国正    
平正弘 陸奥国へ流罪   8月3日、被行流罪(使:国忠)
平長盛 7月28日六波羅辺で斬刑 院蔵人  
源頼賢 7月28日船岡山辺で斬刑 前左衛門尉  
平忠綱 7月28日六波羅辺で斬刑   左大臣家匂当
平正綱 7月28日六波羅辺で斬刑    
平正方      
源為成 7月28日船岡山辺で斬刑    
源為宗 7月28日船岡山辺で斬刑    
源為知     八郎。乱後は逃亡し、近江国坂田辺に隠棲していたが、8月26日、前兵衛尉源重貞に捕縛されるが、その後の動向は不明。『保元物語』では伊豆大島へ流されたとされるが、事実不祥。なお、源重貞は為知捕縛の功により、翌27日、右衛門尉に転任する。
源九郎冠者 7月28日船岡山辺で斬刑    
平光弘 7月30日大江山辺で斬刑    

 保元の乱の後、鳥羽院女御であった美福門院は、養子でもある後白河天皇の皇子・守仁親王の即位を願い、権勢を握っていた後白河天皇の乳父・藤原信西入道に働きかけた。これにより保元3(1158)年8月4日、仁和寺において信西と美福門院は後白河天皇から守仁親王への譲位を決定する。俗に「仏と仏との評定」(『兵範記』)と称されるものだが、関白・藤原忠通にも知らされないという異例のものだった(7)

 譲位された新天皇(二条天皇)は、美福門院を筆頭に藤原経宗(忠実従弟)、藤原惟方らに擁立され、実父・後白河院の院政を阻止せんと図った。これに対し、後白河院は寵臣・権中納言藤原信頼御厩別当に任じて抵抗を図った。

 こうした天皇親政派と院政派の対立の中でも、朝廷内での権力をますます強めていく信西一門への反発が強まっていく。反信西派は平治元(1159)年12月9日深夜、藤原信頼は従四位上は源光保、源義朝らを主力とする軍勢を、信西がいる後白河院の御所・三条殿に派遣して焼き討ちし、後白河院の玉体を内裏一本御書所へ移した。しかし、目的だった信西はすでに逃亡しており、後を追った源光保が山城国田原で自害していた信西の首を切って都へ戻っている(7)

 こうして信頼は一時的に朝廷の権力を握ることに成功するが、信西亡き後、共通の敵を失った親政派と院政派は再度対立。信西追捕の際、熊野へ外出中だった平清盛が親政派に推されて信頼打倒を模索し、12月25日夜、後白河院が内裏から仁和寺に脱出。さらに翌26日には二条天皇も六波羅邸へ遷り奉ったことで、信頼方の同調者も次々と寝返っていき、信頼に対する追討の宣旨が出されるに到った(7)

●平治の乱相関図■:藤原信頼方■:後白河院方

■藤原家

→藤原道長――藤原頼通――藤原師実―+――藤原師通―――藤原忠実―――藤原忠通―――藤原基実
(関白)  (関白)  (関白)  | (関白)   (関白)   (関白)   (摂政)
                  |                       ∥――――――近衞基通
                  |                       ∥     (関白)
                  |        藤原基隆――――藤原忠隆 +―女
                  |       (修理大夫)  (大蔵卿) |
                  |                ∥    |
                  |                ∥――――+―藤原信頼―――藤原信親
                  |                ∥     (右衛門督)  ∥
                  |                ∥             ∥
                  |+―藤原顕隆――藤原顕頼――+―藤原公子        +―娘
                  ||(権中納言)(民部卿)  |             |
                  ||             |             |
                  |+―女           +―藤原惟方   平清盛――+―娘
                  |  ∥            (参議)           ∥
                  |  ∥                           ∥
                  +――藤原経実―+―藤原経宗          藤原通憲―――藤原成憲
                    (大納言) |(左大臣)         (入道信西)  
                          |
                          +―藤原懿子
                           (女御)
                            ∥――――――二条天皇
                            ∥
                            後白河天皇

■清和源氏

       【摂津源氏】
→源満仲―+―源頼光――…+―…―――源頼政
(摂津守)|(内蔵頭)  |    (兵庫頭)
     |       |
     |       +―…―+―源光保【寝返る】
     |           |(出雲前司)
     |           |
     |           +―源光信――――源光基【寝返る】
     |            (検非違使) (出羽判官)
     |【河内源氏】
     +―源頼信――…+―…―+―源義朝――+―源義平
      (甲斐守)  |   |(下野守) |(悪源太)
             |   |      |
             |   +―源義盛  +―源朝長
             |    (十郎)  |(中宮大夫少進)
             |          |
             +―…―――源義信  +―源頼朝
                  (四郎)   (右兵衛権佐)

■伊勢平氏

→平忠盛―+―平清盛――――+―平重盛
(讃岐守)|(太宰大弐)  |(左兵衛佐)
     |        |
     +―平経盛    +―平基盛
     |(蔵人)     (大夫判官)
     |
     +―平教盛
     |(淡路守)
     |
     +―平頼盛
      (三河守)

 常胤は「平治の乱」には加わっていないが、介八郎広常は義朝に呼応して上洛し、待賢門の戦いでは義朝の長男・鎌倉悪源太義平に従って平重盛(平清盛の嫡男)を追い回したとの伝承がある(『平治物語』)広常の父・常澄は義朝が幼少のころに養育のために預かっていた(おそらく為義の依頼であろう)とみられ、広常が義朝に従うのは自然であったのだろう。また広常は義朝が(おそらく為義から)「称伝得字鎌倉之楯、令居住」(「官宣旨案」『平安遺文』2544)した鎌倉にも屋敷を持っていたとみられ、義朝・義平とは深く結びついていたのだろう。

 一方、常胤はもともと為義や義朝に従属していた上総平氏とは異なり、義朝との主従関係はなかったことから、いわば私戦の延長上に位置する平治の乱に加わる理由は存在しなかったのであろう。

 「平治の乱」は結局、二条天皇を擁する平清盛ややむなく移徒した大殿忠通・関白基実ら内裏勢力の勝利に終わり、敗れた藤原信頼は仁和寺に出頭して捕縛され罪状勘文もないままに斬首。源義朝ら一党は比叡山僧との戦いで大叔父・陸奥六郎義隆が討死。長男・鎌倉源太義平は北陸へ落ち、次男・中宮権少進朝長も美濃国で負傷死。三男・右兵衛権佐源頼朝は近江国ではぐれ、平頼盛の被官人・左兵衛少尉平宗清に捕縛されて京都へ移送された。そして義朝自身は、尾張国内海(知多郡南知多町)で在郷の家人・長田庄司忠致によって殺害されることとなった。

平宗清
 桓武平氏。仁安3(1169)年7月4日、右衛門権少尉から左衛門権少尉に昇進。同日に主の平頼盛は右兵衛督を兼ねている(『兵範記』仁安三年七月四日条)

 義朝の屋敷にいたであろう頼朝実弟・希義(八歳)や、愛妾常葉とその子三人(今若、乙若、牛若)、陸奥義隆の嬰児(のちの毛利頼隆)らはいずれも捕われたものの、みな死罪に問われることはなかった。これは幼少であったことが大きい。藤原信頼の子・信親「彼卿死罪之時、依五歳幼稚無沙汰」とあり(『兵範記』嘉応二年五月十六日条)、首謀者として「死罪」となった人物の子であっても幼少を理由に沙汰を逃れていることがわかる。ただし、これはおそらく院の意思によって流刑の執行を延期されたものであって、嘉応2(1170)年5月16日、十六歳で伊豆国へと流罪とされた。

 一方で、義朝一党の遺児たちへの刑の執行は延期されず、まず永暦元(1160)年2月に陸奥六郎義隆の子・頼隆(配流時は生後百日余)が「仰常胤配下総国」されている(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)平治の乱では常胤は義朝に属しておらず、朝廷は常胤と義朝との間に主従関係はないと認識していたことがわかる。また、朝廷が常胤に下総国への配流を命じていることから、当時常胤は在京中であった可能性が高い。そうであれば、常胤は大番等のために上洛しており、内裏勢力として召集された可能性もあろう。

 そして、義朝三男・前右兵衛権佐頼朝も、頼隆配流の翌3月11日、伊豆国へ流されることとなる。彼ら敗将の子らの助命に際して、『平治物語』によれば池禅尼や平重盛が平清盛への口添えをしたとされている。『吾妻鏡』においても「池禅尼恩徳」(『吾妻鏡』寿永三年四月六日条)とあり、また、重盛についても「平治逆乱之時、故小松内府、為源家被施芳言訖」(『吾妻鏡』建久五年五月十四日)とあることから、池禅尼や重盛が諫言を行ったことは事実であろう。清盛は当時は正四位下で参議でもなく、当然陣定にも列席していないが、平治の乱では二条天皇が六波羅邸へ行幸するなどその影響力は強かったことから、罪名宣下に於いてもその意思は考慮されたのだろう。

 なお、余談だが、池禅尼と北条時政の後室牧の方が縁戚であるという説があるが(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置~池禅尼と頼朝と~」)、牧の方の父である「大舎人允宗親」が、説のように「諸陵助宗親」と同一人物であるとすると、諸陵助宗親が保延2(1136)年の任官当時にたとえ二十歳だとしても、六十年後の建久6(1195)年に「武者所」であろうはずもなく、頼朝に供奉して上洛を果たすことも考えにくい。池禅尼と牧の方との間には血縁関係はなかった可能性が高いだろう(牧氏と牧ノ方について)。

 頼朝は上西門院には皇后時代から皇后宮少進、転じて上西門院蔵人として仕え、さらに二条天皇蔵人に移るなど、天皇や上西門院にゆかりのある人物であった。また、母や伯母が上西門院や美福門院女房であり、上西門院や美福門院らが助命に働きかけたともされるが、頼朝が上西門院や蔵人として出仕した期間は非常に短く、女院が積極的に働きかけるほど親密な関係にあったとは考えにくい。『吾妻鏡』に述べる通り、上西門院や美福門院の要請というよりも、やはり池禅尼や平重盛の諫言が罪名勘考に関して大きく働いたのであろう。

 また、『平治物語』によれば「法性寺の大殿(藤原忠通)」が信西入道の追捕を実行して院の怒りを買い「死罪」と決まっていた新大納言経宗、検非違使別当惟方の処分につき、「公卿の死罪いかゞあるべかるらむ、其上、国に死罪をおこなへば、海内に謀叛の者たえずと申せば、かたがたもて死罪一等をなだめて遠流にや処せられん」と発言し、諸卿も「尤大殿の仰然るべし」と同意したことで、経宗・惟方は遠流へと減刑されたとある(『平治物語』)。この記述は軍記物の性格上、断定できるものではないが、保元の乱のように公的に死罪を言い渡された者が見えないことから、この大殿忠通の死罪忌諱の発言は事実に近いのではないだろうか。忠通の発言は死罪全体への警鐘であることから、頼朝以下の源氏遺児に対する量刑にも当然影響したであろう。その結果、永暦元(1160)年3月11日、平治の乱の罪科による遠流が執行され、経宗・惟方・師仲・頼朝と同母弟・希義(配流当時九歳)が京都を発した(『清獬眼抄』)

●永暦元年三月十一日「配流公卿殿上人事」(『清獬眼抄』)

流人 官途 配流国 追使
藤原経宗 大納言 阿波国 章貞(左衛門志中原章貞)
源師仲 中納言 下野国 信隆(右衛門尉惟宗信隆)
藤原惟方 参議、検非違使別当 長門国 能景(左衛門志清原能景)
源頼朝 右兵衛権佐 伊豆国 友忠(左衛門府生三善友忠)
源希義 (頼朝舎弟) 土佐国 予(左衛門府生清原季光か)

 なお、頼朝の流刑地が伊豆となった理由は、遠流の国が選ばれただけであって、実弟の希義が土佐国へ流されたことと同様、偶然である。頼朝には二人の供人が付いたのみで、検非違使の左衛門府生三善友忠が護送した(『清獬眼抄』)。このうちの一人は、母方叔父の「祐範」が付けた「郎従」であるが、彼が安達氏の祖である藤九郎盛長の可能性もあろう(安達氏について)。

■伊豆国の頼朝

 頼朝が流された永暦元(1160)年3月当時の伊豆守は平義範と推測される。義範は『尊卑分脈』にも名が見えず、系譜は定かではないが、一年半前の保元3(1158)年11月26日、伊豆守藤原経房と相伝名替によって安房守から転じた人物である(『兵範記』保元三年十一月廿六日条)

※平義範
 系譜不詳。保元3(1158)年11月26日、安房守から伊豆守に相伝名替(『兵範記』保元三年十一月廿六日条)。仁安2(1167)年6月28日、後白河院皇女・休子内親王の初斎宮の際に勅別当後見となったことが知られる(『顕広王記』仁安二年六月廿八日裏書)。おそらく兄弟と思われる「同親家」も見え、その片諱から平高棟流の公卿・平範家の庶族である可能性が高いだろう。
 仁安3(1168)年3月15日、臨時給として正五位下に叙される(『兵範記』仁安三年三月十五日)。9月18日、御禊行幸の供奉列に定められる(『兵範記』仁安三年九月十八日)。治承3(1179)年4月11日時点で「故入道前宮内少輔義範」とあることから(『山槐記』治承三年四月十一日条)、この時には亡くなっていたことがわかる。

 平義範の前任者・藤原経房が伊豆守に補任されたのは仁平元(1151)年であるが、当時の伊豆国の知行国主は経房の父・藤原光房であった。しかし、光房は久寿元(1154)年11月に急死したことから、知行国主は別の人物へと変わったとみられる。伊豆守と安房守の相伝名替であることから、新たな知行国主は安房国も知行国としていたと考えられる。

 藤原俊忠―+―藤原俊成――――藤原定家
(権中納言)|(皇太后宮大夫)(権中納言)
      |
      +―藤原忠成――――高倉局
      |(民部大輔)  (仕上西門院)
      |         ∥
      +―帥法印禅智   ∥―――――――真性
      |(随以仁王)   ∥      (常興寺僧正)
      |         ∥
      | 暲子内親王===以仁王
      |(八条院)   (高倉宮)
      |
      +―娘
        ∥―――――――藤原経房
        ∥      (伊豆守、上西門院判官代)
        藤原光房    ∥
       (権右中弁)   ∥
                ∥
        平範家―――――娘
       (非参議)

 伊豆守平義範の後任の伊豆守は、美福門院に仕える源頼政の子・源仲綱であった。仲綱の伊豆守就任時期は不明だが、仁安2(1167)年7月7日当時「伊豆守」であることから、応保4(1164)年の任官であろう。頼朝が伊豆に流された四年後のことである。

源仲綱
 摂津源氏源頼政の長男。久寿2(1155)年9月23日、立太子した美福門院養子・守仁親王(二条天皇)の東宮坊蔵人三﨟(『山槐記』久寿二年九月廿三日条、『兵範記』久寿二年九月廿三日条)。父・頼政同様に美福門院との繋がりが強かった。その後、伊豆守となるが、就任時期は不明。ただし、前任の平義範が保元3(1158)年11月26日の就任から四年の任期を全うしたとすると、仲綱は応保3(1163)年中の任官となるが、仁安2(1167)年7月7日、法勝寺で行われていた御八講結願の日、「伊豆守仲綱」が法会の列に加わり、同年12月30日、後白河院の近臣・隠岐守中原宗家と相伝名替によって隠岐守に転任(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)しており、仲綱の伊豆守就任は応保4(1164)年と考えられ、前任の平義範は一年の延任があったのかもしれない。仲綱は頼朝配流後四年目での就任ということになる。
 仁安3(1168)年9月18日、「従五位下源朝臣仲綱」が御禊行幸の供奉列に定められる(『兵範記』仁安三年九月十八日)
 仲綱は隠岐守ののち、再び伊豆守となる。この伊豆守任官は、伊豆国の知行国主となっていた兵庫頭源頼政の選任である。伊豆国は承安2(1172)年7月9日以前から「頼政朝臣知行国」(『玉葉』承安二年七月九日条)であり、仲綱が隠岐守として四年の任期を全うして伊豆守に転じたとすると、仲綱の伊豆守就任は承安2(1172)年の除目であると考えられ、頼政の伊豆国知行国主もその時期であろう。安元2(1176)年4月27日当時も仲綱が「伊豆守」であり(『吉記』安元二年四月廿七日条)、重任していることがわかる。

 仲綱は仁安2(1167)年12月30日、後白河院の近臣である隠岐守中原宗家相伝名替によって隠岐守に転任した(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)。仲綱は頼朝配流後、四年にわたって伊豆守であり、頼朝が二条天皇蔵人であったこともあり、美福門院とその娘・八条院に仕えていた仲綱との間に交流があってもおかしくはなく、この時点で頼朝と仲綱父・兵庫頭源頼政が繋がりをもった可能性もあろう。頼政は自身に所縁のある一族の孤児を積極的に養子としており、謀叛の罪で討たれた実弟・源頼行の子である兼綱らはもちろん、近衛天皇(美福門院皇子)の東宮時代に帯刀先生だった源義賢(頼朝叔父)の遺児・源仲家(八条院蔵人)や同族・源国政も養子としている。頼朝も仲綱を通じて頼政の庇護のもとにあったと考えられる。

中原宗家
 後白河院近臣。従五位下隠岐守。仁安2(1167)年12月30日、伊豆守源仲綱と相伝名替によって隠岐守に転じた(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)。仁安3(1168)年3月20日、皇太后宮(建春門院平滋子)大属となる(『兵範記』仁安三年三月廿日条)

 仲綱の伊豆守就任は承安2(1172)年の除目であると考えられ、以降治承4(1180)年まで伊豆守であった。安元元(1175)年9月に起こった「武衛御座豆州之時者、安元々年九月之比、祐親法師、欲奉誅武衛、九郎聞此事潜告申間、武衛逃走湯山給、不忘其功給之處有孝行之志如此云々」(『吾妻鏡』養和二年二月十五日条)という事件の際も仲綱が伊豆守であった時期であり、この伊東祐親入道による頼朝誅殺計画は、祐親入道の子・伊東九郎(頼朝乳母比企尼の女婿)によって頼朝に知らされ、頼朝は走湯山へ逃れたとされる。なお、当時の頼朝が居住していた配流地は伊東であり、その後に蛭嶋へ移ったとされる(坂井孝一『源頼朝の流人時代に関する考察』)

 その後、治承4(1180)年まで頼政が伊豆国知行国主として続き、頼朝はその庇護のもとで、頼政の主・八条院の所領である下総国下河辺庄の庄司・下河辺氏やその一族で乳母家の小山氏らとの接触、伊豆国の在庁官人の北条氏、狩野氏、そのほか天野氏、堀氏、仁田氏ら国人層との接触を重ねたと思われる。後年のことだが、頼朝が幕府成立後、頼政の係累を尊重する立場を取り、頼政の末子・源広綱は「広綱、自幼稚住洛陽之歟、謂官位者又就最初御吹挙任之間、於一族為上臈」(『吾妻鏡』建久二年十一月二十七日条)とある通り、実弟範頼や義経、血縁の足利義氏を差し置いて門葉筆頭として遇されていた。また、頼政女婿の藤原重頼も鎌倉に招請されて、傍近くで処遇されている。

■平治の乱後の常胤

 平治の乱後、相馬御厨は謀叛人義朝の知行とみなされ「自国衙被没収」されてしまった(永暦二年四月一日『下総権介平某申状写』)。しかし、常胤は、相馬郷は源義朝と無関係であることを証文とともに国衙を通じて国司・源有通へ訴えたのだろう。これを受けて永暦元(1160)年秋、下総守源有通は常胤の訴えを認め、相馬御厨について「非彼朝臣所知之由、証文顕然候、如本可被奉免立券候之旨」と、奉免立券した。源有通は保元4(1159)年正月29日の除目で「従五位下源朝臣有通」として下総守に任じられている人物で(『極秘大間書』)、小一条院敦明親王の曾孫である(『尊卑分脈』)。この後のことであるが、平治元(1159)年10月15日に出家辞官した前大納言藤原成通の猶子となり、藤原姓に改姓している。

 三条天皇――敦明親王――源基平――源行宗――+―源有通
      (小一条院)(侍従) (大蔵卿) |(下総守)
                       |
                       +=女
                  信縁――――(兵衛佐局)
                 (法勝寺執行) ∥―――――重仁親王
                         ∥
                         崇徳天皇

伊勢外宮
伊勢外宮

 ところが「如本可被奉免立券」し、在庁が地頭らに検注させたが、その「国吏裁定」が「無音」という状況が続いたことから、常胤は国衙に出向いて子細を訪ねた。しかし、なぜか審理が長引いて「国吏裁定」が滞っていたことが判明した。その滞った理由は、おそらく相馬御厨の庁判や公験を所有し、寄進を謀った前左兵衛少尉源義宗なる在京官吏の存在と見られる。

 常胤は因縁深い故親通の公験を所有する義宗の寄進に対抗するべく、「因之令訴申権門候」と中央の権力者を頼り、その結果「右大臣殿(藤原公能)」から計らい沙汰すべき旨の指示が「祭主殿」に出された(永暦二年四月一日『下総権介平某状』)。当時の伊勢祭主は、正月25日までは大中臣親章、その後は大中臣為仲、大中臣師親と相次いで変わっているが、右大臣公能が指示したのはおそらく大中臣為仲であろう。

■伊勢祭主(『祭主補任』:「神道大系」)

祭主名 最終官途 在任 備考
大中臣朝臣親章 従三位 保元2(1157)年8月13日~永暦2(1161)年正月25日(薨去 五十七歳)
大中臣朝臣為仲 正四位下 永暦2(1161)年正月30日~同年9月19日停任 元待賢門院侍
大中臣朝臣師親 正四位上 永暦2(1161)年9月19日~永万元(1165)年5月4日停任

 なお、突如相馬御厨の寄進を行おうとした源義宗は、故源義朝の遠祖・鎮守府将軍源頼義の実弟の源頼清の子孫である(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))

 源頼信―+―源頼義――源義家――源義親―――源為義――――源義朝―――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)(対馬守) (検非違使) (下野守) (右兵衛権佐)
     |                      
     |                      +=源義宗
     |                      |(判官代)
     |                      |
     +―源頼清――源家宗――源家俊―+―源重俊――+―源宗信―――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
      (陸奥守)(美作守)(左馬助)|(左衛門尉) (上野冠者)(高松院判官代
                     |
                     +―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕

 源義宗は常胤が「権門」を頼って解決しようとしたことに、「此国者惣根本当宮御領也、仍雖権門勢家、敢以不致相論也」と反発し、「常澄常胤等之妨」と主張している(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)。この批判は永暦2(1161)年正月の段階のものであることから、常胤が「権門(藤原公能)」へ訴えたのは、奉免立券した永暦元(1160)年秋以降、10~12月であると思われる。なお、義宗の批判の対象になぜか「常澄」も含まれているが、常胤の寄進状の中に常澄が登場することはなく、さらに常澄の介入も見られないことから、義朝と関わった常澄と常胤を敵対勢力と考えて記載したのであろう。彼らを「大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等」と誹謗(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)、彼らに相馬御厨に介入する権利はないとするところからも察せられる。

 義宗が相馬御厨の知行の根拠と主張したのは、藤原親通の「二男親盛朝臣」から「而依匝瑳北條之由緒、以当御厨公験所譲給」ったことである(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)「匝瑳北條之由緒」がどのようなものかははっきりしないが、「匝瑳北条」に義宗が持っていた土地に関する何らかの権益を親盛へ渡した過去があり、その経緯を以て相馬御厨の「公験」が譲られたのかもしれない。実際に親盛の子・藤原親雅(千田判官代)は、匝瑳北条の内山に館を構えていたとされ、親盛が匝瑳北条に権利を持っていたことが推測される。 

五十鈴川
伊勢内宮を流れる五十鈴川

 義宗は永暦2(1161)年正月、相馬郷寄進の解状を伊勢内外二宮へ送るが(永暦二年正月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』)、相馬御厨をそれまでの内宮一宮から内外二宮への寄進としている。さらに翌2月には供祭料についての請文を内外二宮に発給している。

 常胤は義宗の二宮寄進を知ると、これまでの内宮一宮への寄進から内外二宮へ義宗と同条件の寄進に切り替え、2月27日に寄進の決裁のための「解」を「二所太神宮庁」へ発した(永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解写』)。そこには「代代国判次第調度文書公験等」が付されており、常胤も正式な「公験」を有していたことがわかる。

 ところが、神宮庁では義宗、常胤両者の寄進を勘案しつつも、義宗が推されていたとみられ、常胤の寄進については「然則件相馬御厨、任申請旨、為二宮御領、可令備進供祭上分之状、与判如件」と認可するものの、敢えて「若相交他領者、非此限」という但し書きも付されており、これは義宗の寄進地と重なる場合は、常胤の寄進は認めないという条件であった(永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解写』)

 伊勢より返された写を見て厳しい状況を察したのか、常胤は4月1日にこれまでの相馬御厨に関するいきさつを主張した「申状」を「稲木大夫(荒木田明盛)」へ提出し、祭主(大中臣為仲)からの尋ねがあれば申状の旨を説明してほしいと依頼している(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)

 その後、神宮庁は義宗と常胤の寄進状を具に勘案したのち、義宗が正月に提出した寄進状に対して「判」を与え、「抑件御厨、依下総権介平常胤寄文、近日雖成与二宮庁判、如今寄文者、理致分明之上、不知子細之旨、常胤誓言状具也者、毀先判改与判如件」と、義宗の寄進状が「理致分明」である一方で、常胤の「誓言状(寄進状の後に何らかの文書を提出したか)」は「不知子細」であるとし、常胤の寄進を否定した(永暦二年正月『正六位上前左兵衛少尉源義宗寄進状写』)。そして長寛元(1163)年、相馬御厨は「源義宗沙汰」として宣旨が下されることとなり(建久三年八月『伊勢太神宮神領注文』)常胤は相馬御厨に関する権利を完全に失うこととなった。

 文治2(1186)年3月12日の時点では相馬御厨は後白河院の「院御領」とされている(『吾妻鏡』)。ただし、室町時代に至るまで伊勢外宮度会家が御厨の口入職等の権利を継承していることや「御厨」の称号はそのままであることから、本家は神宮、領家が後白河院であったと推測される。

 相馬郷に関する権利を常胤が取り戻したことが確認できるのは、文治5(1189)年8月20日、頼朝による奥州藤原氏との合戦時、頼朝が翌21日に「ほうてう、みうらの十郎、わたの太郎、さうまの二郎、おやまたたのもの、おくかたせんちしたるものとん、わたの三郎」が平泉へ必ず到着するよう命じた文書である(文治五年八月二十日『源頼朝書状』)。ここにみえる「さうまの二郎」常胤の次男・相馬二郎師常であることから、常胤の手のもと、次男師常が相馬郷に入部していたことがわかる。

 建久3(1192)年8月5日、「下総国住人常胤」は政所下文の通り「仍相伝所領、又依軍賞充給所々等地頭職」を頼朝から認められており(『金沢文庫』:「鎌倉遺文」所収)、おそらくこの「相伝所領」の中には相馬郷ならびに立花郷が入っていたものと思われ、正式に相伝所領を取り戻したのだろう。

●源義宗は「佐竹義宗」ではない
※源義宗を佐竹義宗ではないとした初見論文(8)(9)

 この相馬御厨の権利に関して、常胤と争った「源義宗」は常陸国の佐竹冠者昌義の子・佐竹義宗のこととされていたが、誤りであったことが証明されている。

 保延2(1136)年、下総守藤原親通が平常重から「官物負累」を理由に責め取った相馬御厨の証文および公験は、親通から次男・親盛へ譲り渡され、さらに「匝瑳北条之由緒」により源義宗へ譲り渡された。「匝瑳北条」とは匝瑳北条内山に屋敷を構えた親通流藤原氏のこととすれば親通流藤原氏と「源義宗」は親密な関係にあったことは推測できる。

 しかし、ここから「源義宗」を「佐竹義宗」と同定し、平家―親通流藤氏―佐竹義宗―佐竹氏というような図式を成立させるのは非常に困難である。そもそも、親通流藤氏と佐竹氏が結びついていた傍証はない上に、佐竹氏が本拠とした常陸北部と相馬郡とでは地縁的な関わりが無いこと、佐竹氏討伐後に頼朝が没収した佐竹氏領の中には常陸国北部以外のものは含まれていないこと、佐竹義宗自身は院の「判官代」ではなかったこと、活動の時期が「源義宗」の方が一世代前であることなど、「源義宗」を「佐竹義宗」とする条件は大変厳しい。

 「佐竹義宗」は承安4(1174)年3月14日当時、「■(佐)竹冠者昌義、同男雅楽助、大夫義宗」(『吉記』)と見え、父の「佐竹冠者昌義」とともに「蓮華王院領常陸国中郡庄下司経高濫行」を抑えるため、在庁らと協力すべきことが指示されており、父もまだ健全ないまだ青年の面影を感じる人物と思われる。なお「雅楽助」と「大夫義宗」が同一の人物かどうかは不明。ただ、佐竹義宗はこれ以前に在京して五位に叙爵していることがうかがえる。

 一方、布施郷を寄進した「左兵衛少尉正六位上源義宗」は、久安5(1149)年12月22日の小除目で「去頃於陣辺搦犯人之賞」(『本朝世紀』)として賞に預かった人物で、当時「女院侍長」(『本朝世紀』)であった。佐竹義宗が常陸で活躍するよりも二十五年も前のことである。つまり義宗は美福門院侍長として美福門院に出仕していた在京の武士であり(賊を逮捕したのも左兵衛陣の辺りだろう)、久寿2(1155)年3月23日の石清水臨時祭では舞人の一人として「兵衛尉源義宗」が見えている(『兵範記』久寿二年三月二十三日条)。その後、布施郷を伊勢二宮に寄進した永暦2(1161)年正月までの間に左兵衛少尉を辞官していたことがわかる。

 なお、『寛政重修諸家譜』の佐竹家譜に見える佐竹義宗の項目に「皇嘉門院侍長」とあるのは、『本朝世紀』の久安5(1149)年12月の源義宗の「女院侍長」とある記述を引いていると思われるが、当時の女院・美福門院を、二か月後に女院となった皇嘉門院と誤って「皇嘉門院侍長」とした可能性があろう。

 仁安2(1167)年6月15日、伊勢外宮禰宜・度会某(度会彦章)が「源判官代」に対し、相馬御厨について内宮権禰宜荒木田明盛と外宮禰宜度会彦章との相論(権禰宜荒木田は千葉氏からの相馬御厨寄進の際の口入神主の家柄で領家的存在であり、対して外宮の禰宜度会は義宗の代弁を行う存在であった。)が永万2(1166)年6月3日に決着し、荒木田明盛から度会彦章へ避文を渡し和與がなったことの報告をしている(ただし、権禰宜荒木田は彦章を信用しておらず、御厨に関する文書は荒木田が保管している)。義宗が内宮荒木田明盛の避文を欲していることの他、文章の内容から、この「源判官代」と「源義宗」は同一人物とみられる

 結論から言えば、禰宜度会から報告がなされた「源判官代」は、おそらく伊予守源頼信の子・源頼清の子孫である「高松院判官代源義宗」と思われる(『尊卑分脈』)

 源頼信―+―源頼義――源義家――源為義―――源義朝――――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)(検非違使)(下野守)  (右兵衛権佐)
     |                      
     |                      +=源義宗
     |                      |(判官代)
     |                      |
     +―源頼清――源家宗――源家俊―+―源重俊――+―源宗信―――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
      (陸奥守)(美作守)(左馬助)|(左衛門尉) (上野冠者)(高松院判官代
                     |
                     +―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕

●相馬御厨の寄進事項時系列

大治5(1130)年6月11日

『下総権介平朝臣経繁寄進状』→相馬御厨(布瀬墨埼御厨)の成立

保延元(1135)年2月

常胤、18歳で「相馬御厨下司職」を継承。
相馬郡司は常重のままと思われる。

保延2(1136)年7月15日藤原親通、相馬郡司常重の官物未進を責めて、常重を逮捕し、相馬郷・立花郷の新券を押し取る。
康治2(1143)年 源義朝、上総権介常澄の「浮言」を理由に、常重から相馬郷を責め取る(圧状)。
天養2(1145)年3月 源義朝、神威を恐れて(大庭御厨濫行か)相馬郷を伊勢二宮に寄進(ここでの避状=寄進状)。
久安2(1146)年4月常胤、国衙に税を納めて、正式に相馬郡司に任じられる(立花郷は返還されず)
        8月10日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状』→常胤によるはじめての寄進。 常胤、伊勢皇太神宮(内宮)より御厨下司職に改めて任じられる
????常胤、このころ「下総権介」に任じられるか
保元元(1156)年7月「保元の乱」が起こる。 常胤、上総介八郎広常(上総権介常澄八男)とともに源義朝に随って参戦
平治元(1159)年12月「平治の乱」が起こる→源義朝、敗れて尾張にて殺害される。 常胤は参戦せず、広常は参戦。
永暦元(1160)年常胤、相馬御厨を「謀叛人義朝領」として国衙に没収される
       秋常胤、相馬御厨は千葉氏相伝の地であって義朝領ではなく、「神宮領」として国衙に奉免を求める。国司源有通もこれを認め、在庁に対して現地調査を命じる。
  常胤は前年秋の相馬御厨奉免の決済が降りないので、国衙に参上して問い合わせを行っている。しかし、早々に決が下りる様子がないため、権門に注進。右大臣より伊勢祭主に調査の指示が出る。
永暦2(1161)年1月日『前左兵衛少尉源義宗寄進状』→源義宗による突然の寄進。
      2月27日『下総権介平常胤解案』→相馬御厨を内宮だけではなく、外宮にも寄進することを述べる。
      3月中『下総権介平常胤解案』の判以降→常胤の二宮への寄進状を認め、判が捺される。
      3月中『前左兵衛少尉源義宗寄進状』の判以降→先日の常胤へ与えた先券を破棄し、義宗の寄進状に判が捺される。
      4月1日(16日着) 『下総権介平申文案』→常胤、伊勢の稲木大夫に自分の正当性について口利きを依頼するが、実らず。
長寛元(1163)年 相馬御厨について「源義宗沙汰」の宣旨。
永万2(1166)年6月3日 常胤側の口入神主・荒木田明盛(内宮権禰宜)から、源義宗側の口入神主・度会彦章(外宮禰宜)へ避文が渡され、和與が成立。ただし、明盛は義宗を信用せず、御厨に関する書類一切は手元に保管。
仁安2(1167)年6月15日 度会彦章より「源判官代」に対し、相馬御厨について荒木田明盛との相論が決着した報告がなされる。

3,相馬御厨の範囲について

 相馬御厨は千葉介常胤の父・常重相馬郡布施郷(相馬郷と同意か)を伊勢内宮に寄進して成立した寄進地系の荘園である。相馬御厨(布瀬墨埼御厨を含め)は千葉介常重、源義朝、千葉介常胤、源義宗、千葉介常胤と、大治5(1130)年から永暦2(1161)年の三十年にわたって六回の寄進が行われている。ただし、常重は布施郷を寄進する以前、天治元(1124)年10月から大治4(1129)年までの間に、相馬郡内の「布瀬郷」「墨埼郷」の別符地の二郷を大蔵卿藤原長忠を領家として伊勢内宮に寄進しており、これが相馬御厨の前身となる「布瀬墨埼御厨」である。

 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』によれば、「経繁相伝之私領」である「相馬郡布施郷」を寄進する旨が記され、その「四至」として、東は蚊虻境、南は志子多谷・手下水海、西は廻谷・東大路、北は小阿高・衣川流が記されている。

  年月日 東端 南端 西端 北端 文書
前身 天治元(1124)年10月
~大治4(1129)年
不明 不明 不明 不明 布瀬墨埼御厨
『下総権介平経繁布瀬郷文書注進状写』
1 大治5(1130)年
6月11日
蚊虻境 志子多谷并手下水海 廻谷并東大路 小阿高并衣河流 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』
2 天養2(1145)年
3月
須渡河江口 藺沽上大路 繞谷并目吹岑 阿太加并絹河 『源義朝寄進状写』
3 久安2(1146)年
8月10日
逆川口・笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川・常陸国境 『平朝臣常胤寄進状写』
4 永暦2(1161)年
正月日
常陸国堺 坂東大路 葛餝・幸嶋両郡堺 絹河・常陸国境 『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』
5 永暦2(1161)年
2月27日
逆川口・笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川・常陸国境 『下総権介平常胤解案写』

◆東端について

<1>蚊虻境 <2>須渡河江口 <3><5>逆川口・笠貫江 <4>常陸国堺

<1>「蚊虻境=蛟蛧境」については、現在の茨城県北相馬郡利根町立木周辺は古代、大蛇=蛟のように川筋が入り混じっていて、一帯は「蛟蛧(こうもう)」と呼ばれていた。延喜式内社として「蛟蛧神社」があり、現在でも台地上に二つの蛟蛧神社がある。とくに「奥ノ宮」と呼ばれる東の神社は台地の最東端に位置しており、平安期にはこのあたりまで「衣川(鬼怒川=小貝川)」が入り込み、常陸国境と接していた。

<2>「須渡河江口」については、現在の茨城県龍ヶ崎市須藤堀町周辺と思われ、「須渡河」の「江口」のことと推測される。「須渡河」は現在の河川には見えないが、おそらく現在の蛟蛧神社の眼前を流れていた小貝川の流れであったと思われる。「江口」は河口につながり、香取海(大きな意味での現在の利根川)に注ぎ込む地点であったと思われる。

<3><5>「逆川口」「笠貫江」については、「逆川」については不祥なものの、「笠貫江」に関しては、蛟蛧神社の南東に広がっていた「笠貫沼」がまだ小貝川の河口であったころの名称と思われる。「笠貫」は蛟蛧神社の「ミタライ=御手洗」「カサヌキト云フ」という話が『下総国旧事考』に記されていて、蛟蛧神社の面前が「笠貫」と呼ばれていたという。

<1><2><5>とおそらく<3>もいずれも蛟蛧神社の東側を流れる河川によって相馬御厨の境界が定められており、それらはすべて小貝川の河口付近に設定されていて、<4>「常陸国堺」に通じている。

◆南端について

<1>志子多谷并手下水海 <2>藺沽上大路 <3><5>小野上大路 <4>坂東大路

<1>「志子多谷并手下水海」については、「志子多谷」は現在の柏市篠籠田(しこだ)のことで、手賀沼へ流れ込む大堀川の南側にある。「手賀水海」は現在の手賀沼のことで、古代から中世にかけて千葉県北部に広がっていた広大な入江・香取海の一部を形成している。

<2>「藺沽上大路」の「藺沽」は「藺沼(いぬま)」のことで、菅生沼(水海道市菅生町)から利根川に注ぐ「飯沼川」周辺、現在の東海寺(布施弁天)北麓の水田地一帯、取手市・我孫子市・柏市あたりにあった大きな沼地(飯沼=幸嶋広江)と思われる。「大路」は官道を指しており、国府と国府を結ぶ重要な道路であった。相馬郡内には、常陸国府から下総国府へ至る大路が現在の柏市内あたりを通過していたと思われ、その大路を指していると思われる。

<3><5>「小野上大路」については、現在の茨城県取手市井野のあたりを通過していた大路のことと思われ、<2>「藺沽上大路」や<4>「坂東大路」と同じ意味と思われる。井野から水路を経て相馬郡衙=郡庁(我孫子市日秀)に入り、手賀沼をわたって柏市大島田(=大路又:おおじまた)から柏市内へ抜けていたのかもしれない。

◆西端について

<1>廻谷并東大路 <2>繞谷并目吹岑 <3><5>下川辺境并木崎廻谷 <4>葛餝・幸嶋両郡堺

<1><2>「廻谷并東大路」の「廻」は「メグリ」とよみ、境界線を表す。東大路の存在は不明だが、<2>に見られる「繞谷」の「繞」も「メグリ」と読み、同一の地域を指していると思われる。つまり、<1>の「東大路」が走っていたところと「目吹岑」がほぼ同じ地域にあったと思われる。「目吹岑」は現在の野田市目吹付近の「岑」のことと思われ、熊野神社・香取神社などがある丘一帯か。

<3><5>「下川辺境」は葛飾郡下河辺庄の境目である太日川(大井川=江戸川)、「木崎」は現在の千葉県野田市木野崎に相当すると思われ、目吹とは北接している。木野崎は平安時代にはまだ川が流れていたと思われ、南の瀬戸と北の目吹の間に谷を形成して、「廻谷」と呼ばれていたのかもしれない。

<4>「葛餝(葛飾)・幸嶋両郡堺」については、葛飾郡・猿島郡の境であるから、目吹の前を流れる利根川、さらには南に下って下河辺庄との境の太日川、東経139度54分付近が西の境界となっていたか。

◆北端について

<1>小阿高并衣河流 <2>阿太加并絹河 <3><5>衣川・常陸国境 <4>絹河・常陸国境

<1>「小阿高并衣河流」と<2>「阿太加并絹河」については、「小阿高」「阿太加」は現在の茨城県稲敷郡伊奈町足高と推測され、「衣河流」「絹河」は小貝川(=鬼怒川)のことであり、現在の伊奈町城中にある城中八幡神社が中世の陸地の東端であったと推測される。<3><5>「衣川・常陸国境」、<4>「絹河・常陸国境」についても、ほぼ同じく現在の牛久沼の南端を指していると思われる。

4,以仁王の乱

 千葉氏は常兼常重以来、代々「下総権介」に就いているが、館は遠祖千葉大夫常長以来の本拠であった千葉庄(千葉市内)に存在していたと考えられるが、下総国衙付近(千葉県市川市国府台)にも進出し、官牧・国分寺領の支配をしていたと思われる。常胤の五男・五郎胤通は国分館に住し、国分五郎を称していた。

 また、常胤の六男・六郎胤頼大番として上洛し瀧口に詰めたのち、上西門院蔵人だったと思われる遠藤左近将監持遠の推挙で上西門院統子内親王(鳥羽院の皇女)に仕えて「五位」を給され、「千葉六郎大夫」と称した。そして大番の任期が切れて帰国予定だった治承4(1180)年5月、以仁王(後白河院の皇子)と源三位頼政入道が結んで起こした乱(以仁王の乱)が京都で起こり、以仁王に近侍した常胤の子・園城寺律静房日胤が宇治の光明寺鳥居前において戦死している。

  以仁王の乱が鎮定されたのち、六郎胤頼三浦次郎義澄とともに東国へ帰国を企てるも、両名は「依宇治懸合戦等事、為官兵被抑留之間」とある通り身柄を拘束された。胤頼の兄「律上房、尊上房」が乱の「張本」(『玉葉』)である以上、胤頼は当然嫌疑をかけられただろうが、三浦義澄が拘束された理由は不明。しかし、半月ほど拘留されたのち胤頼たちは釈放され、帰国の途についた。胤頼・義澄が具体的に宇治合戦に関わった証左はないが、胤頼の周辺を見ると乱に関わった人物が散見され、胤頼・義澄も関係していた可能性は高いだろう。

 東下した胤頼三浦義澄はまず伊豆国田方郡北条前右兵衛権佐源頼朝のもとを訪れた。ここで彼らは以仁王や頼政入道の挙兵や京都における平家政権の状態を告げたと思われる。以仁王の乱が勃発するまで伊豆国は源頼政入道が知行国主となっており、目代も頼政入道所縁の人物であったと考えられ、承安2(1172)年7月9日以前から続いていた「頼政朝臣知行国」(『玉葉』承安二年七月九日条)のもと、下総国八条院領の下河辺庄司である下河辺氏、その一族で乳母家の小山氏らとの接触など、頼政の関係者との接触はそれほど厳しいものではなかったのかもしれない。

 ところが、以仁王、源頼政入道の乱によって、伊豆国は収公され、平清盛の義弟・平時忠が知行国主となり、伊豆守は平時兼(時忠養子)、目代は当国流人だった平兼隆が起用された。兼隆は治承3(1179)年正月19日に「解官右衛門尉平兼隆」(『山槐記』治承三年正月十九日条)、と父・平信兼の申請によって検非違使判官ならびに右衛門尉を解官され、伊豆国へ遠流されるという稀有な人物で、在所は北条館に近い山木郷であった。兼隆は安元2(1176)年、平時忠が検非違使別当であった時期に「右衛門尉正六位上 平兼隆」と初見されることから、時忠のもとでおよそ半年あまり(時忠は辞官してしまう)検非違使に在任しており、目代起用にはこうした過去の関係があったのかもしれない。

 胤頼義澄は頼朝との対面後、それぞれ郷里に帰り、頼朝は源頼政入道から遣わされた叔父・新宮十郎行家から、「前伊豆守正五位下源朝臣(源仲綱)」の名による「以仁王の令旨」を受け取ると、挙兵の意志を固め、舅・北条時政一族はじめ、伊豆の豪族たちを率いて、目代・平兼隆とその後見・堤信遠を攻めて挙兵した。時は治承4(1180)年8月17日である。

 兼隆は前年の治承2(1178)年正月19日に解官され(『山槐記』治承二年正月十九日条)、配流はさらに後日であったことになる。おそらく伊豆へたどり着いたのは早くとも3月以降であろうと推測され、その後、目代として起用されるまで流人であった。『吾妻鏡』によれば配流後「漸歴年序之後、借平相国禅閤之権、輝威於郡郷、是本自依為平家一流氏族也」とあるが、流人ながら平氏一族だったことから権威を奮ったのだろう。しかし兼隆は父・信兼と対立の上、その信兼の訴えで配流に処されており、一族の支援は考えられず、私兵を蓄える財はなかったであろう。また、目代となったのは早くとも治承4(1180)年7月以降(以仁王の乱は5月26日に終結しており、その後の頼政党類の収公処理や除書等の作成、伊豆国への伝達を考えれば、さらに一月程度は必要であろう)であることから、頼朝挙兵までひと月程度となる。

 「後見」の堤信遠については、後見が親類を主とすることから兼隆の親類で家人であったのではなかろうか。

三浦義明墓
伝三浦義明墓(材木座来迎寺)

 このころ平家は、伊豆で伊豆前司源仲綱(源頼政の子)の子息が不穏な動きをしていることを察し、相模国の平家党である大庭景親を鎮定のために下していた。ところが、仲綱の子は陸奥国へ逃亡した。

 頼朝の挙兵はこのようなときに起こり、大庭景親率いる平家軍と伊豆・相模の国境である「石橋山」で戦い、大敗を喫した。頼朝ら一党は箱根山中に潜伏し、大庭勢に属していながら頼朝に好意を持っていた梶原景時・飯田家義の機転によって命を救われ、真鶴から相模灘へ出帆して海上で三浦郡三浦氏と合流。安房の洲﨑(上総国猟嶋とも)に上陸して、幼馴染の安西三郎景益を頼った。三浦氏は頼朝に味方した三浦大介義明が率いていたが、義明は子の義澄や孫の和田義盛らに一族を託し、自らはわずかな一族とともに伊豆国三浦郡の衣笠山に籠もり、平家に加担していた秩父党によって討たれた。八十余歳であった。

 その後、頼朝は安房に渡って数日間のあいだに、三浦義澄の手で安房最大の平家党・長狭常伴を討ち、「上総介八郎広常・千葉介常胤」に親書を送った。

6,源頼朝の挙兵と千葉介常胤

 『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月9日、安房国の頼朝のもとに使者に出していた藤九郎盛長が帰参して、常胤が呼応を承諾し、鎌倉への移徒を勧めたことを伝えている。

盛長、自千葉帰参申云、至常胤之門前、案内之處、不経幾程招請于客亭、常胤兼以在彼座、子息胤正胤頼等在座傍、常胤、具雖聞盛長之所述、暫不発言只如眠、而件両息同音云、
「武衛興虎牙跡、鎮狼唳給、縡最初有其召、服応何及猶予儀哉、早可被献領状之奉者」
常胤云、
「心中領状更無異儀、令興源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所覃也者」
其後有盃酒次、
「当時御居所非指要害地、又非御曩跡、速可令出相摸国鎌倉給、常胤相率門客等、為御迎可参向」
之由申之

 と、常胤が一族を率いて迎えのために参向すると述べている。なぜ常胤は頼朝に加担することを決めたのだろうか。

 常胤の本拠である千葉庄は「八条院庁分」であり、いわゆる八条院領であった。おそらく常胤は八条院暲子内親王に仕える立場にあり、八条院猶子である以仁王とも関係を持っていたであろう。常胤の子(庶長子であろう)の園城寺律静房日胤が以仁王に侍り「以仁王の乱(源三位の乱)」の首謀者とされたことからも、常胤と八条院には密接な繋がりがあったことが予想される。当然、八条院に仕えた源三位頼政や伊豆守仲綱とも関わりがあったと思われ、頼朝との関係は八条院・頼政との関わりの中で生まれ、頼朝挙兵について加担を決めるポイントになったと考えられよう。

 9月12日、常胤は子息親類を率いて上総国へ向かおうとするが、六男・胤頼がこれを制して、平氏方である目代を追捕することを主張した。

千葉介常胤相具子息親類、欲参于源家、爰東六郎大夫胤頼談父云、当国目代者平家方人也、吾等一族悉出境参源家、定可挿兇害、先可誅之歟云々。

 そのため、常胤は胤頼成胤(孫)に目代の追討を命じた。

 成胤胤頼は郎従を率いて下総目代の館(市川市国府台か)へと馳せ向かうが、「目代元自有勢者」とあるように「令数十許輩防戦」して、成胤胤頼は攻めあぐねたが、北風が強いことに目をつけて、成胤は郎党をひそかに館の裏手に回らせて火をつけた。突然の出火に目代館は混乱し、防戦を忘れて逃げ惑った目代を胤頼が討ちとったとある。

亥鼻城址
亥鼻城の土塁(室町期)

 この「当国目代」がいかなる人物かは不明だが、当時の下総守は平氏と強い繋がりを持っていた人物であったことがうかがえる。なお、「当国目代」「元自有勢者」であることから、以前から当地で勢力を広げていた人物であって、当時の下総守からの目代ではないと考えられる。治承3(1179)年2月当時には「前下総守藤原朝臣高佐」が見えるが(『山槐記』治承三年二月廿九日条)、彼はもともと摂関家職司であるが、平清盛の従姉妹を室とする平氏血縁者であった。また、兄の藤原清頼も久安3(1167)年6月9日、内大臣藤原頼長の推挙により、源頼憲(前下野守明国孫)とともに六位にも関わらず昇殿の栄に浴すなど(『本朝世紀』)、一族を挙げて摂関家に随従する立場であったが、のち太皇太后宮(平滋子)の権大進として太皇太后宮亮平経盛(平清盛弟)の下にあって、平氏政権との関わりも深かった。

             源頼義
            (陸奥守)
             ∥―――――源義家――――源義親――――源為義―――――源義朝―――源頼朝
 平維時―+―平直方―――女    (陸奥守)  (対馬守)  (左衛門大尉) (播磨守) (右兵衛権佐)
(上総介)|(上野介)
     |
     +―女
       ∥―――――藤原永業――藤原季永―――藤原清高―+―藤原清頼
       ∥    (遠江守) (大和守)  (上総介) |(上総介
       ∥                       |   
       藤原永信                    +―藤原高佐
      (遠江守)                     (下総守
                                 ∥―――――――藤原季佐
                   平正盛――+―平貞正――――女      (宮内大輔)
                  (讃岐守) |(伊勢守)
                        |
                        +―平忠盛――+―平清盛―――――平重盛
                         (刑部卿) |(太政大臣)  (内大臣)
                               |         ∥
                               +―女       ∥―――――平資盛
                                 ∥       ∥    (右近衛権中将)
                   藤原親通―+―藤原親盛―+―藤原親正    ∥
                  (下総守) |(下総大夫)|(千田庄判官代) ∥
                        |      |         ∥
                        +―藤原親方 +―――――――――女
                         (下総守

■千田親正との戦いは国府近辺か

嶋城
千田庄

 頼朝に呼応した常胤が下総目代を追捕した際、平氏血縁者の千田庄判官代の藤原親政(親雅)が常胤追討のために兵を率いて攻め寄せ、常胤の孫・成胤がこれを返り討ちにしたという。

 この事件は『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月14日、「下総国千田庄領家判官代親政」「聞目代被誅之由」いて、「率軍兵欲襲常胤」したことから、「常胤孫子小太郎成胤相戦」って、「遂生虜親政」ったと記されている(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)

藤原親政(親雅)
 常重・常胤と橘庄および相馬御厨を巡って争った下総守藤原親通の孫。平清盛の姉妹を妻とし、平資盛の叔父という平氏の重縁者であった。
 皇嘉門院判官代の経歴を有したが(『尊卑分脈』)、女院判官代在任のまま京都から下総国千田庄に下向することは考えにくい。治承4(1180)年5月11日時点の皇嘉門院領に千田庄は含まれておらず(「皇嘉門院惣処分状」『鎌倉遺文』三九一三)、皇嘉門院と千田庄には関わりがなく、親政もこの時点では女院庁を辞していたとみられる。
 当時の千田庄の荘園領主は不明だが、親政の出身である親通流藤原氏は摂関家に仕えており、千田庄はもともと平氏と強く結びつく摂政藤原基実を領家(本所)としていたのだろう。基実薨去後は摂家領を事実上継承した基実室・平盛子のもと、親政は親平氏の千田庄の判官代として下向したのであろう。長男の快雅が生まれたのが仁安元(1166)年であることから、おそらくその後の下向であろう。治承4(1180)年当時には、親雅はすでに地域氏族を統率しており、在地領主化していたと考えられる。親雅は親族が下総守を歴任しているが、彼らは知行国主の推挙によって任じられた受領であっり、さらにそれもすでに二十年以上も前のことであるため、親政が父祖の直接的な恩恵を受けることはなかったであろう。ただし、親政の父・親盛は「匝瑳北条」に対して権益を持っており、親政は荘園領主・平盛子(摂家私領相続者)のもとで千田庄判官代に就き、在地領主を支配して勢力を扶植したのであろう。当時の下総目代が平氏与党であったことは下総守が平氏に属する人物であったことを意味し、親政は親平氏派の下総守のもとで強力な在地支配を続けたと思われる。
 なお、彼の一族は延暦寺と関わりが深く、長男の快雅は仁安元(1166)年に生まれ、天台座主慈円を師として研鑽を積み、慈円門下の碩学として成長。のちに僧正となって比叡山西谷功徳院に住した。『瑜祇経』についての抄本とみられる『瑜祇経抄』を認めている。摂家将軍頼経のもと鎌倉にも招聘され、その護持僧となった。貞永元(1232)年11月29日には雪の永福寺で歌会に参加し、嘉禎2(1236)年8月6日の内法御祈始のために下倉するなど幕府と良好な関係を築いている。

 この事件は『千学集抜粋』によれば、治承4(1180)年9月4日、安房の頼朝を迎えるため「常胤、胤政父子上総へまゐり給ふ」と、常胤胤正のみが上総国へと向かったとあり、他の諸子は従った形跡はない。成胤についても記載があり、「加曾利冠者成胤たまゝゝ祖母の不幸に値り、父祖とも上総へまゐり給ふといへとも養子たるゆゑ留りて千葉の館にあり、葬送の営みをなされける…程へて成胤も上総へまゐり給ふ…ここに千田判官親政ハ平家への聞えあれハとて、其勢千余騎、千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投かけける、成胤曾加野まて馳てふりかへりみるに、火の手上りけれは、まさしく親政かしわさならむ、此儘上総へまゐらむには、佐殿の逃たりなんとおほされんには、父祖の面目にもかゝりなん、いさ引かへせやと返しにける」と、成胤は祖母の葬送のために遅れて父祖の上総国へと向かったが、蘇我野で振り返ると千葉に火の手が上がっており、引き返したとされる。その後、「結城、渋河」で親政の軍勢と出会い、散々戦って「親政大勢こらえ得す落行事二十里、遂に馬の渡りまてそ追打しにける」と、親政を討ち取ったことになっている(『千学集抜粋』)

 また、『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は常胤率いる「新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次常秀・武石の次郎胤重・能光の禅師等を始めと為て、三百余騎の兵」を先陣として上総国から下総国へと向かったという。このとき、藤原親正は「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐無し、京都の聞えも恐れ有り、且うは身の恥なり」と、千田庄内山の館を発して「千葉の結城」へと攻め入ったとする。このとき「加曾利の冠者成胤、祖母死去の間、同じく孫為といへども養子為に依つて、父祖共に上総国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送の営み有りけり」とされ、「親正の軍兵、結城の浜に出で来たる由」を聞いた成胤は、上総へ急使を発する一方で「父祖を相ひ待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず、豈勇士の道為らんや」と攻め懸けるも無勢であり、上総と下総の境川まで追われるが、「両国の介の軍兵共、雲霞の如くに馳せ来たりけり」と、千葉介常胤、上総介広常の軍勢が救援に加わったことで「親正無勢たるに依つて、千田の庄次浦の館へ引き退きにけり」と千田庄へと退いたとされる(『源平闘諍録』)

 『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はともに妙見説話を取り入れ、成胤を養子とする同一の方向性をもつ内容で、物語性の強い『源平闘諍録』はより詳細に記載されている傾向にある。またいずれも千葉の結城浜を戦いの舞台としていることが共通点に挙げられる。しかしながら、この『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はあくまでも説話集と物語であって、そのまま史実と受け取ることはできない。『千学集抜粋』はその妙見信仰と千葉氏を結びつける説話という性格上、まだ妙見信仰の成立していなかった平安時代末期の千葉氏に、妙見信仰の伝承を挿入する上で『源平闘諍録』の妙見説話を取り込んだ可能性が高く、千葉氏を賞賛する創作がかなり強いと考えられる。

 『吾妻鏡』は全体をそのまま史実とするには危険な部分を含んでいるものの、頼朝挙兵に伴う千葉氏の活躍を改変する必要性は全くないので、これは当時の記録に基づく史実として受け取ってよいと思われる。実は『吾妻鏡』には千葉一族が『千学集抜粋』と『源平闘諍録』のように頼朝に同道して下総国へ入ったという記述や千田親政と戦った場所についての記述はないのである。

 親正は頼朝の安房上陸と安房の平氏与党の壊滅を伝え知ると、下総目代の指示を受けて下総国衙の守衛のための軍備を整えたのではなかろうか。当時の常胤が頼朝に組したという情報が親正に伝わっていたとは考えにくく、親正は国衙へ直接向かったであろう。当時の官道を考えると、香取海経由であったか。下総目代も常胤の意向を把握する由もなく、当然常胤にも軍勢催促を命じたであろう。このような中で、成胤胤頼は郎従を率いて国府近隣の目代屋敷を攻めて9月13日に目代を誅し、翌14日には「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」と、常胤を討つために親正が攻め寄せ、成胤がこれを捕縛したとする(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)。親正が13日の目代討滅を千田庄で聞いたとすれば、軍勢催促も含めて14日の来襲は時間的に不自然である。親正の軍行は常胤挙兵(目代からの催促に応じた体を装った挙兵か)とほぼ時を同じくしている可能性があろう。

 成胤胤頼は目代を追捕すると同時に下総国府も占拠したと思われ、当然そのまま駐屯したであろう。占拠した国府を放棄する合理性がないためである。また、親正は「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」であって、目代を討った常胤を攻撃対象としており、当然ながら留守である千葉庄ではなく、国府へ向かうであろう。つまり、占拠した成胤がひとり千葉へ戻って親正と戦うことは非常に不自然なのである。また、千葉庄は「八条院庁分(八条院領)」であり、政治的に強い影響力を持った八条院の所領であった。かつて久寿2(1155)年10月、源頼賢(頼朝叔父)が信濃国の鳥羽院領に侵入して追討の院宣が下されたのと同様、権門領への侵入は避けるべき条項であったと考えられ、その点からも八条院領千葉庄での戦いは考えにくいのではないだろうか。

 さらにもっとも不自然なのが、常胤が9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族は上総国で面会したはずの頼朝に同道せず、別行動をして下総国府にいた様子が見える記述である。

不待広常参入、令向下総国給、千葉介常胤相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政、次献駄餉、武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰云々

 下総国府で初対面のような出迎えをする必要はなく、この国府での参会で常胤「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を引き合わせるのも、常胤が頼朝に同道していたのであればすでに行われていたと考えるのが妥当であろう。

 つまり、常胤千葉一族は頼朝の下総行きに同道したのではなく、成胤・胤頼を先陣に下総目代を追討する方針に変更して国府一帯から平氏の勢力を駆逐し、翌14日、「率軍兵欲襲常胤」した千田判官代親正を、成胤を遣わして打ち破り「生虜」とした上で、17日に頼朝を迎え入れたと考えられる。これらのことから、親正との戦いは千葉で行われたのではなく、国府(市川市国府台)近辺で行われ、捕えられた親正はそのまま国府に拘留されたのであろう。千葉の結城浜で合戦となったという伝承は、妙見神を具現化するために妙見神との所縁の地での戦いが必要とされ、それが妙見宮の前浜で神事も催される結城浜であったとみられる。

頼朝の移動ルート
頼朝の挙兵から佐竹氏討伐までの日程(『吾妻鏡』)

 9月19日、頼朝軍が隅田川畔で陣を張っていると、上総権介広常上総国周西・周東・伊北・伊南・庁南・庁北郡の武士団二万余騎を引き連れて参陣した。『吾妻鏡』によれば、頼朝は広常の遅参を叱責し、広常は面食らって遅参を詫びると同時に頼朝を頼むに足る大将とみとめたとされる。

◎頼朝側の主な構成

国衙関係者

平 広常…上総平氏。上総権介の八男。
千葉常胤…下総平氏。下総権介。「千葉介」を称する。
小山朝政…秀郷流藤原氏で上野大掾を代々つとめる在庁官人の家柄。
狩野行光…南家藤原氏流。伊豆国在庁。「狩野介」を称する。
三浦義明…坂東平氏一族で相模国在庁。大庭氏と争う。頼朝の挙兵時から従う。「三浦大介」を称する。
河越重頼…武蔵国留守所惣検校職。後年、頼朝に疑われて誅されたのち、惣検校職は重忠に移る。
平 広幹…代々常陸大掾を勤める家。頼朝に降伏したのち重用された。のち八田知家と争い梟首された。

任官者

宇都宮朝綱…下野国宇都宮検校。八田権守宗綱の子息。左衛門権少尉。秩父党・稲毛重成の叔父。
工藤行政…代々駿河守をつとめた受領系の家柄。頼朝の縁戚で鎌倉に招かれて永福寺辺に住み二階堂を称する。
武田有義…武田信義息。重盛に仕えて左兵衛尉に進むが、父に従ったため妻子の首を京の武田邸前に晒された。
千葉胤頼…千葉常胤息。上西門院に仕えて従五位下に叙される。子孫の東氏は代々歌人として著名。
新田義重…清和源氏。新田庄下司職。従五位下大炊助・左衛門尉。はじめ頼朝に敵対していたため冷遇される。
足利義兼…八条院蔵人。頼朝近親。以仁王の乱にも関係し、発覚後は頼朝に合流。子孫は幕府に大勢力を築く。
後藤基清…左兵衛尉。父・仲清は摂政家随身。叔父・義清は鳥羽院北面の武士で、出家して「西行」を称する。
足立遠元…右馬允。武蔵国足立郡の豪族で、頼朝とは挙兵以前からの知己。
天野遠景…内舎人。伊豆国田方郡の豪族で、工藤氏の同族。頼朝とは挙兵以前からの知己。
…等々多数

荘官

下河辺行平…源頼政の郎党・下河辺庄司行義の子で、八条院領・下河辺庄の庄司をつとめた。
葛西清重…武蔵国葛西庄の荘官。所領が隣接する秩父氏や千葉氏と関わりが深かった。
大庭景義…相模国大庭御厨司。石橋山で敵対した大庭景親の実兄。頼朝からは古老の武士として重用された。
渋谷重国…武蔵国秩父庄司。石橋山では頼朝に弓を引いたが、その後降伏して活躍。頼朝の信任を得る。
畠山重忠…弱冠17歳で、惣領・河越重頼らの援助を受けて三浦氏を攻める。その後頼朝に降伏。
江戸重長…武蔵国在庁。秩父一族。頼朝が挙兵したときは、武蔵国の豪族の棟梁と目されていた。
…等々

在庁官人

比企能員…阿波国出身ともされる。頼朝の乳母 ・比企尼の甥。
…等々

豪族

土肥実平、佐々木定綱、…等々。

平家家人

熊谷直実…武蔵熊谷郷の人。一谷で平敦盛を討った人物。伯父との所領問題で遁世し、法然の門人となる。
武藤資頼…一貫して平家の武将として活躍。捕縛されたのち御家人に列し、北九州三国の守護。少弐氏の祖。
北条時政…伊豆北条庄の豪族。惣領・時兼は狩野氏とならぶ有力在庁。娘・政子は頼朝の妻。
梶原景時…かつて大庭景親のもとで頼朝と戦うが、のち降伏して重用される。知略と剛腕で知られた人物。
小山田有重…平家の家人として木曽義仲と戦う。その後、頼朝に帰参し、子息・稲毛重成らとともに活躍。
…等々

京出身

藤九郎盛長…京都にゆかりの人物で、比企尼の聟。頼朝の直臣。足立遠元とは血縁上の関係はない。
藤大和判官代邦通…藤九郎盛長の「因縁」の人物で、盛長の推挙により頼朝の側近となる。

 頼朝はその後「鷺沼」に逗留した。「鷺沼」は千葉県習志野市鷺沼とも葛西清重の勢力下であった東京都葛飾区新宿ともいわれているが不明。10月1日にこの鷺沼旅館で異母弟・醍醐悪禅師全成(義経の実兄。幼名は今若)と「泣いてその志に感じせしめ給う」と対面をすませたあと、翌2日、広常・常胤が調達した舟筏に乗って隅田川を渡って武蔵国に入った。ここで武蔵の豪族である豊島権守清元葛西三郎清重足立右馬允遠元が麾下に加わっている。さらに同日、頼朝の乳母・寒河尼(八田権守宗綱の娘で、小山下野大掾政光の妻)が十四歳になる末子を連れて陣に参じ、頼朝はそこでその少年の烏帽子親として元服式を行い、みずからの一字「朝」字を与えて「小山七郎宗朝(のちの結城朝光)」を名乗らせた。

→藤原宗円―――八田宗綱―+―宇都宮朝綱
(宇都宮座主)(権守)  |(左衛門尉)
             |
             +―八田知家―――八田朝重
             |(右衛門尉) (太郎)
             |
             +―寒河尼  +―小山朝政
              【頼朝乳母】|(下野大掾)
                ∥   |
                ∥―――+―長沼宗政
               小山政光 |(淡路守)
              (下野大掾)|
                    +―結城朝光
                     (左衛門尉)

 3日、常胤は上総国で起こった伊北庄司常仲広常の甥)の反乱を鎮圧するため、嫡男・胤正らに厳命して上総に派遣。常仲を潰走させている。常仲を討ったかは不明。常仲は伊南庄から伊北庄にまで勢力を拡げ、伊北庄司となっていた。『吾妻鏡』には、常仲は「長狭常伴の外甥」であるために誅されたとあるが、常伴は頼朝を討とうとした平家党の人物である。常仲の父・伊南新介常景は弟の印東次郎常茂に暗殺され、実質的に上総国を束ねたのはその弟・広常であった。

畠山重忠像
畠山重忠銅像

 4日、平家方として戦っていた秩父党の有力者・畠山庄司次郎重忠が頼朝に降参し、さらに、秩父党棟梁・河越太郎重頼江戸太郎重長が次々に頼朝勢に参加。畠山重忠は、かつて「後三年の役」の時、先祖の秩父武綱が先陣をつとめて戦功を挙げたいわれがあったため、これ以降、戦いには畠山重忠が先陣を、しんがりは千葉介常胤がつとめることとなった。

 6日、頼朝軍は畠山重忠が先陣、千葉介常胤が後陣をつとめて相模国に入り、翌7日、鎌倉へ入った。

 鎌倉に入った直後、富士川では武田太郎信義甲斐源氏の奇襲によって平維盛・平忠度率いる平家正規軍が壊滅。頼朝は逃れる平家勢のあとを追って京都に攻め上ろうとしたが、常胤や広常、三浦義澄ら東国の豪族たちが「常陸にまだ敵方の佐竹氏がいるので、さきにこれを平らげてそれから西へ向かうべきです」と進言したことから、頼朝は彼らの意見を入れて京都へ攻め上ることを断念した。そして相模国府への途中の黄瀬川で、奥州平泉から頼朝を頼って弟・義経が到着。義経の実兄・醍醐禅師全成ともども、「互に往事を談じ、懐旧の涙を催す」出会いをした。

 10月23日、相模国府に到着した頼朝は、北条時政以下の諸将に論功行賞をおこない、10月26日、広常に預けられていた宿敵の大庭三郎景親らを片瀬川で処刑した。

 10月27日、頼朝は佐竹氏討伐のために常陸国へ出立した。11月4日に常陸国府に入り、上総権介広常・千葉介常胤・三浦介義澄・土肥次郎実平ら宿老を召集し、佐竹氏の縁者である上総権介広常をもって、まず佐竹太郎義政を誘殺し、一族・佐竹蔵人義季を味方に引き込んで金砂城を攻めたため、当主・佐竹秀義は叔母夫の藤原秀衡を頼って平泉へ落ち延びていった。

 11月17日、頼朝は鎌倉へ帰着。12月12日、鎌倉にあった上総権介広常の屋敷から新造の邸宅へ移った。北条時政以下、諸将がこれに従うが、千葉介常胤は足利冠者義兼山名冠者義範といった源氏一門の次に従う栄誉を得、胤正胤頼が常胤に従っている。この中で注目されるのが、胤頼は常胤の六男にも関わらず、嫡子の胤正とともに栄誉に浴しており、ほかの兄たちと比べて優遇されていることがわかる。頼朝の挙兵を影から支えていたと思われることや、位階を得ていることなどがあるのだろう。  

 治承5(1181)年正月1日、頼朝は鶴岡若宮を参詣した。これを先例とし、鎌倉幕府を通じて元旦をもって奉幣の日と定められる。この時は三浦介義澄畠山次郎重忠大庭平太景義が郎従を率いて辻を警護している。その後、頼朝は騎馬で到着し、神馬一疋を宇佐美三郎祐茂仁田四郎忠常が曳いて奉納し、法華経供養と説教を聞いた後、屋敷へ帰還した。参詣ののち、千葉介常胤が椀飯を献じている。その後、次第に大規模で形式が固まっていく元旦参詣だが、この時は大変おおらかな雰囲気が感じられる。  

6,木曽義仲・平家との戦い 

 その後、常胤は一族を率いて木曾義仲との戦いや、平家との戦いに加わって戦功を挙げる。京都でも常胤は下河辺行平と並んで勇名を知られており、盗賊が暴れていた京都に常胤・行平が治安維持のために上洛すると、盗賊らはたちまち姿を消したという。

 養和2(1182)年8月18日、頼朝嫡男・頼家の御七夜の儀が行われた際には、常胤が奉行となり、妻・秩父重弘娘、子息六人がそれに従った。  

七夜の儀、千葉介常胤これを沙汰す。常胤子息六人を相具して侍の上に著く。父子白水水干を装ひ、胤正の母、秩父太郎重弘女をもって御前の陪膳となす。又進物あり、嫡男胤正、次男師常御甲を舁ぐ。三男胤盛、四男胤信御馬 鞍を置く を引く。五男胤道御弓箭持ち、六男胤頼御剣を役し、各庭上に列す。兄弟皆容疑神妙の壮士なり。武衛、殊にこれを感ぜしめ給ふ、諸人又壮観と為す

 常胤は、平家との争いでは大手大将・蒲冠者源範頼の軍監として従軍し、元暦元(1184)年8月8日、頼朝は九州を支配下におさめるため、範頼に千余騎を与えて上洛を命じた。このときも常胤は孫の平次常秀らとともに従軍している。軍勢は途中で参陣してくる者を加え、京都につく頃には三万騎を数える大軍となっていた。  

●元暦元(1184)年8月8日範頼上洛軍従軍諸士(『吾妻鏡』)

北条小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 千葉介常胤 境平次常秀 三浦介義澄
三浦平太義村 八田四郎武者知家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 長沼五郎宗政 結城七郎朝光
比企藤内所朝宗 比企藤四郎能員阿曽沼四郎広綱 和田太郎義盛和田三郎宗実 和田四郎義胤
大多和次郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景大河戸太郎廣行 大河戸三郎 中条藤次家長
工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内所遠景 小野寺太郎道綱一品房昌寛 土佐房昌俊

 9月1日、範頼は京都を発し、行軍して周防国に攻めこんだが、範頼が兵糧としてあてにしていた現地の米は、長門国彦島に陣を構える平家の大将・前権中納言平知盛によってすでに刈り取られ、さらに糧道封鎖のために範頼軍はいちじるしい兵糧不足に陥った。さらに九州に入るために必要な舟もすべて知盛が押収していたため、範頼らは進退窮まることとなった。長門国に終結した鎌倉勢の士気は極端に低下し鎌倉へ帰還を企てる輩も出始めた。この極限の状態に追い込まれた範頼は、元暦元(1184)年11月14日、物資輸送を頼朝に求める使者を遣わすこととなる。使者は翌元暦2(1185)年正月6日、鎌倉に参著。範頼の書状を読んだ頼朝は、 

 1,九州諸勢は簡単には従わないと思うので、騒がず、くれぐれもくれぐれも、国人に憎まれるようなことはしないこと
 2,所望の馬については、重要なことではあるが、京都をねらう平家勢に奪われたとあれば聞き苦しいので遣わさないこと
 3,内藤六の周防国での乱暴はもってのほかであり、国の者の心を傷つけるようなことはしないこと
 4,天皇ならびに二位殿、女房らをすこしも傷つけることなくお迎えすること。くれぐれも心に止め置かれること
 5,内府は極めて臆病の人であり、自害など、まさかなされないであろうから、生け捕りにして京都へ具すこと
 6,九州の者たちにくれぐれも憎まれるような振る舞いはせぬこと。また、九州の者が天皇を攻めるようなことをさせぬこと
 7,平家勢が弱くなったと人々が言っているからといって、決して決して侮ることのないようにすること
 8,くれぐれもみかどの御事については、事なく沙汰するよう
 9,最後に、千葉介常胤は戦にかけても高名の者であるから、大事にするように

という返書を送った。最後には、「千葉介、殊に軍にも高名してけり、大事にせられ候べし」と、常胤を重く用いるよう指示している。さらに、それに続けてもう一通したため、降伏する国人たちに対する対処や、小山朝政一党を大事にあつかうべきこと、さらに「甲斐の殿原(甲斐源氏)」の中では「いさは殿(石和信光)、か々み殿(加々美遠光)」を大事に用いるべきこと、ただ「か々み太郎殿(武田信義)」「二郎殿(遠光)の兄」ではあられるが、平家に仕え、また木曽にも仕えるなど心定かでない人なので、重く用いず、弟の二郎殿を重く用いるべきこと、などを申し伝えた。さらに円滑に範頼軍が動けるように、頼朝は九州の武士たちに「参河守(範頼)」の下知に従うべき事を記した書状を遣わしている。そして正月8日、京都に駐屯させていた弟・源九郎義経にも出陣を命じた。 

●清和源氏略系図(為義を義家の実子とする)

⇒源頼義―+―源義家――――源為義――――源義朝――――+―源頼朝
(陸奥守)|(八幡太郎) (六条判官) (下野守)   |(左兵衛佐)
     |                      |
     +―源義綱                  +―源範頼
     |(加茂次郎)                |(三河守)
     |                      |
     |                      +―阿野全成
     |                      |(醍醐禅師)
     |                      |
     |                      +―源義経
     |                       (伊予守)
     |
     +―源義光――+―武田義清―――逸見清光―――+―武田信義―――石和信光
      (新羅三郎)|(三郎)   (源太)    |(太郎)   (五郎)
            |               |
            |               +―加賀美遠光――小笠原長清
            |                (二郎)   (二郎)
            |
            +―平賀盛義―――平賀義信―――+―大内惟義
             (左兵衛尉) (武蔵守)   |(相模守)
                            |
                            +―平賀朝雅
                             (右衛門権佐) 

 だが、あいかわらず兵糧も舟も確保できない鎌倉勢の士気は衰える一方で、侍を統括すべき立場の和田小太郎義盛ですら鎌倉への帰還を願うようになっていた。しかし正月12日、以前から源氏に心を寄せていた豊前宇佐八幡宮司一族臼杵惟隆・緒方惟栄の兄弟がにわかに範頼に好を通じたため、範頼は彼らに兵船の用意を命じ、26日には八十二艘の兵船が提供された。こうして範頼以下三十九人の大将が渡海して豊前に上陸。千葉介常胤も老体をおして孫の境平次常秀とともに渡海している。 

●元暦2(1185)年1月26日範頼渡海軍従軍諸士(『吾妻鏡』)

北条小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 小山兵衛尉朝政 長沼五郎宗政 結城七郎朝光
武田兵衛尉有義 齋院次官中原親能 千葉介常胤 境平次常秀 下河辺庄司行平 下河辺四郎政能
阿曽沼四郎広綱 三浦介義澄三浦平太義村 八田四郎武者知家 八田太郎朝重 葛西三郎清重
渋谷庄司重国 渋谷二郎高重 比企藤内所朝宗比企藤四郎能員 和田小太郎義盛和田三郎宗実
和田四郎義胤 大多和三郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景大河戸太郎廣行 大河戸三郎
中条藤次家長 加藤次景廉 工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内所遠景 一品房昌寛
土佐房昌俊 小野寺太郎道綱         

このとき範頼が周防国の留守を任すべき人物について、 

周防国は、西は宰府に隣し、東は洛陽に近し。この所より、子細を京都と関東に通じて、計略を廻らすべきの由、武衛兼日の命あり。然れば、有勢の精兵を留めて、当国を守らしめんと欲す。誰人を差すべきや

と諸大将に問うと、常胤が進み出て、  

義澄は精兵たり。また多勢の者なり。早く仰せらるべし 

と三浦介義澄を推薦した。このため、範頼はさっそく義澄に周防国の守護を指示すると義澄は、 

意を先登に懸くるのところ、いたづらにこの地に留まらば、何を以てか功を立てんや 

と、戦いの無い周防を守るのみでは功績をあげることはできないとして、辞退した。しかし、範頼は周防は九州と京都、関東を結ぶ重要地であり、勇敢な者しかその任を任せることができないと、再三に渡って義澄を説得したため、義澄もついに折れて周防国の守備に就くこととなった。 

 一方、九州に渡った範頼であったが、かねてよりの兵糧不足がよりいっそう深刻化し、ふたたび和田義盛・工藤祐経らが鎌倉への帰還をほのめかしたため、範頼は鎌倉にこの状況を伝え、3月9日、範頼の書状が鎌倉についた。 

平家の在所近々たるにつきて、相構へて豊後国に著くのところ、民庶尽く逃亡するの間、兵粮その術なきによつて、和田太郎兄弟、大多和次郎、工藤一臈以下の侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、まげてこれを抑留し、相伴ひて渡海し了んぬ。なほ、御旨を加へらるべきか。継ぎに熊野別当湛増、廷尉の引汲によつて追討使を承り、去ぬる比讃岐国に渡り、今また九国に入るべきの由、その聞えあり。四国の事は義経これを奉り、九州の事は範頼奉るのところ、さらにまた然るごときの輩を抽んでられば、ただ身の面目を失ふのみにあらず、すでに他の勇士なきに似たり。人の思ふところ、尤も恥と為すと云々。 

 翌々日の11日、頼朝は使者に返書を持たせて九州へ遣わした。  

 参州に御返報を遣はさる。湛増都会の事、その実なきの由、これを載せらる。また関東より差し遣はさるるところの御家人等、皆尽く憐愍せらるべし。就中に千葉介常胤、老骨を顧みず旅泊に堪忍するの條、殊に神妙なり。傍輩に抜きんでて賞翫せらるべきものか。およそ、常胤の大功においては、生涯さらに報謝を尽くすべからざるの由と云々
 
 また、北條小四郎殿、ならびに小山小四郎朝政、同五郎宗政、斎院次官親能、葛西三郎清重、加藤二景廉、工藤一臈祐経、宇佐美三郎祐茂、天野藤内遠景、新田四郎忠常、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、以上十二人の中に慇懃の御書を遣はさる。おのおの西海にありて殊に大功を抽んづるが故なり。同心せしめ豊後国に渡ること神妙の趣、御感おはすところなり。伊豆、駿河等の国の御家人も、同じくこの旨を承り存ずべきの由と云々。  

 頼朝は、とくに常胤について言及している。

 1,熊野別当湛増が九州へ向かった事実はないこと
 2,関東の御家人たちはみな憐愍して用いること 
 3,特に千葉介常胤は、老体を惜しまずに戦いの旅に出ている。
   彼の大功は生涯、報謝を尽くすべからざること

 翌日、頼朝は範頼勢への補給として、兵船三十二艘を伊豆国鯉名・妻郎津に浮かべて兵粮を乗せ、筑後権守藤原俊兼を奉行として西海に派遣した。

 3月21日、周防国在庁官人・船所五郎正利がにわかに鎌倉搦手軍・源九郎義経に船を献じて源氏に荷担したことで兵船の確保も見込みがつき、義経は22日、周防国を守護していた三浦介義澄を先陣に命じて舟を壇ノ浦に進めた。  

 3月23日、彦島の平知盛と四国屋島から逃れてきた平宗盛ら平家一族が赤間ヶ関沖で合流。24日、赤間ヶ関沖の壇ノ浦で源氏と平家が最後の戦いを繰り広げた。「壇ノ浦の戦い」である。ここで阿波民部重能の水軍に裏切られた平家軍が次第に押され、二位尼(清盛の妻・平時子)は、頼朝がなんとしても無事に入手せよと厳命していた「三種の神器」のひとつ、宝剣(草薙剣)を抱き、按察局安徳天皇を抱いて入水した。安徳天皇御歳八歳であった。 

 天皇の御母・建礼門院平徳子(清盛娘)は入水したものの、源氏方の渡邊源五允によって救われた。また、安徳天皇を抱いて入水した按察局も引き上げられている。しかし、天皇と宝剣はついに浮かび上がってくることはなかった。 

 4月21日、鎌倉の頼朝のもとに、軍監として従っていた梶原平三景時より戦況報告が届けられた。同時に義経への不満が披露されることとなった。範頼は頼朝の指示をよく守り、大小を問わず常胤・義盛の意見をよく取り入れていたのに対し、義経は「自専の慮を挿み、かえって御旨を守らず、偏に雅意に任せ、自由の張行を致すの間、人の恨を成す、景時に限らず」と、義経は頼朝の申しつけを守らずに独断専行でいていたことが伝えられた。義経はこれに重なって勝手な任官(頼朝の指示もなく、後白河法皇から検非違使尉に任命された)をしたとして、頼朝によって排斥され、叔父の備前守行家とともに頼朝と対立することとなる。

 10月24日に行われた勝長寿院供養に際して、常胤は頼朝の「御後五位六位」の一人として、五位の六男・六郎太夫胤頼とともに従っている。

●文治元年勝長寿院供養に供奉した千葉一族(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)

随兵(先陣) 一番 畠山次郎重忠 千葉太郎胤正
御後五位六位(布衣下括) 十三番 千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼
随兵(後陣) 七番 千葉平次常秀 梶原源太左衛門尉景季
随兵東方(弓馬達者、勝長寿院門外) 三番 千葉四郎(胤信)  三浦平六
十三番 大見平三 臼井六郎(有常)
随兵西方(弓馬達者、勝長寿院門外) 三番 比企藤次 天羽次郎(直胤)

  その後、導師公顕への布施として馬三十疋が納められるが、そのうち十疋はセレモニー的に御家人が引いた。その際、千葉介常胤が足立右馬允遠元と組んで一之御馬を納め、九之御馬は千葉二郎師常が一族の印東四郎と組んで納めている。

一之御馬 千葉介常胤 足立右馬允遠元
ニ之御馬 八田右衛門尉知家 比企藤四郎能員
三之御馬 土肥次郎実平 工藤一臈祐経
四之御馬 岡崎四郎義実 梶原平次景高
五之御馬 浅沼四郎広綱 足立十郎太郎親成
六之御馬 狩野介宗茂 中條藤次家長
七之御馬 工藤庄司景光 宇佐美三郎祐茂
八之御馬 安西三郎景益 曽我太郎祐信
九之御馬 千葉二郎師常 印東四郎(師常)
十之御馬 佐々木三郎盛綱 二宮小太郎

 勝長寿院より御所に帰還すると、頼朝は義盛・景時を召して、明日の上洛進発について軍士の着到を指示する。これは伊予守義経と備前守行家を追討するための軍勢催促であり、これに応じた群参の御家人は「常胤已下」主だったものは二千九十六人であった。このうち上洛に付き従うものは、小山朝政、結城朝光ら五十八人とされた。

 10月28日、佐竹太郎と同調した片岡八郎常春から没収した下総国三崎庄が、常胤に与えられた(『吾妻鏡』文治元年十月廿八日条)。そして翌29日、「予州・備州等」の叛逆を追討すべく、延引していた上洛の途につき、先陣は土肥次郎実平、後陣は千葉介常胤が務めた。ただし、土肥実平ら追討使が入洛するより以前に伊予守義経・前備前守行家は京都から落ちたため、11月8日、頼朝は上洛を取りやめて黄瀬川宿から鎌倉へ戻っている。

 文治2(1186)年正月3日、義経謀反のこともあって、延期されていた頼朝の二位叙爵の御直衣始めの儀が鶴岡八幡宮で行われた。最前にあるのは、公家で頼朝の義弟にあたる左馬頭・藤原能保であった。 

●文治2(1186)年1月3日頼朝鶴岡八幡宮御直衣儀供奉諸士(『吾妻鏡』) 

一条左馬頭能保 前少将平時家 平賀武蔵守義信 宮内大輔源重頼 駿河守源広綱 散位源頼兼
因幡守大江広元 加賀守源俊隆 筑後権守藤原俊兼 安房判官代高重 判官代藤原邦通 所雑色基繁
千葉介常胤 足立右馬允遠元 八田右衛門尉知家 千葉散位胤頼 武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信
工藤庄司景光 岡部権守泰綱 渋谷庄司重国 江戸太郎重継 市河別当行房 小諸太郎光兼
下河辺庄司行平 長沼五郎宗政        

        源義朝 +―源頼朝――――+―源頼家―――――――――竹御所
       (下野守)|(右近衛大将) |(右近衛少将)      ∥
        ∥   |        |             ∥      
        ∥―――+―源希義    +―源実朝         ∥
        ∥   |(土佐冠者)   (右大臣)        ∥
        ∥   |                      ∥
 藤原範季―――娘   +―娘                    ∥
(熱田大宮司)       ∥                   【征夷大将軍】  【征夷大将軍】
              ∥――――――――娘         +―藤原頼経―――――藤原頼嗣
⇒藤原通基―――藤原通重  ∥        ∥         |(権大納言)
       (丹波守)  ∥        ∥         |
        ∥―――――一条能保     ∥―――九条道家――+―教実
        ∥    (左馬頭)     ∥  (関白)    (関白)
 藤原公能―――娘              ∥
(右大臣)                  ∥
                       ∥ 
 藤原忠通―――九条兼実―――――――――――九条良経 
(法性寺関白)(月輪関白)         (太政大臣)

 参詣ののち、八幡宮にて椀飯が行われた。供奉人として参列した人々が八幡宮庭の左右にわかれて座ったが、このとき胤頼は、父・千葉介常胤に相対して着座した。列した人々は、子が父と同列とはいささか礼を失していると見咎めたが、これは頼朝の指示であった。常胤は胤頼の父であるが、天皇から賜った位は「六位(正六位上)」である。一方、胤頼は子といえども「五位=大夫」の位を賜っていることからの配慮であった。胤頼は頼朝の子息中でもっとも頼朝と深く関わり、三浦介義澄とともに挙兵を勧め、常胤にも参戦を呼びかけた人物である。もっとも大功あるものとして頼朝の信頼は殊に厚かった。 

 常胤は平家追討の功績として、各地の平家没官領の地頭職を賜ることとなる。南の薩摩国においては、島津庄寄郡内祁答院・甑島没官領地頭、高城郡没官領地頭、入来院内没官領地頭、東郷別府没官領地頭などが与えられている。

 文治2(1186)年2月2日、「散位源邦業」が頼朝によって「是為御一族功士下総国、同為御分国之間、被挙申之云々」と、「下総守」に推挙された。具体的な活躍は見られないが「功士」であったという。その出自は清和源氏ではなく醍醐源氏であるが、嵯峨天皇を祖とする「源氏」という認識であろう。

 醍醐天皇―――源高明                                +―源盛定
       (左大臣)                               |(太皇太后宮少進)
        ∥                                  |
        ∥――――源忠賢―――源守隆―――源長季―――源盛長――――源盛家――+―源盛邦――源邦業―女
        ∥   (左兵衛佐)(右馬頭) (備前守) (左衛門権佐)(摂津守)       (下総守)∥――伊賀朝光
        ∥                                             ∥ (伊賀守)
        ∥                                             ∥ 
 藤原師輔―+―女                                             藤原光郷
(右大臣) |                                               (散位)
      |
      +―藤原兼家―藤原道長――藤原頼通――藤原師実――藤原師通―――藤原忠実―+―藤原忠通
       (摂政) (関白)  (関白)  (関白)  (関白)   (関白)  |(関白)
                                           |
                                           +―藤原頼長―藤原多子
                                            (左大臣)(太皇太后)
                                                  ∥
                                                  近衛天皇

 邦業の伯父・源盛定は太皇太后宮少進であったが、上官の太皇太后宮権大進・藤原清頼の弟、下総守藤原高佐は平清盛の従姉妹を妻とし、その上司・太皇太后宮亮は平清盛の異母弟・平経盛であった。盛定の弟・盛邦の官途は不明だが、盛定周辺から平氏との関わりも想像できる。邦業の「功」とは平氏の情報を頼朝へ流していたことかもしれない

 下総守となった邦業だったが、主に鎌倉の前右大将家政所に出仕しており、下総国に赴任しておらず目代を置いたと考えられるが、ちょうどこの頃、常胤が下総国に帰国しており、国司目代との間で政務上の調整が行われたと思われる。常胤がふたたび鎌倉に戻ったのは12月1日であった。鎌倉に戻った常胤は、頼朝屋敷の西侍に出向いて頼朝と対面。盃酒を賜った。この席には小山朝政、三善善信、岡崎義実、足立遠元、藤九郎盛長ら宿老たちが列席しており、久しぶりの邂逅に花が咲いたことだろう。たくさんの瓜が出され、宴会が開かれた。六十九歳の常胤は座を起って踊り、三善善信入道は催馬楽を歌うなど、楽しげな雰囲気が伝わる。 

 文治3(1187)年8月30日、京都で起こった狼藉の糾明や没官領の仕置きなどのため、常胤と下河辺行平が使節として上洛を命じられた。本来は27日に行平とともに上洛する予定であったが、病のために遅れての出立となった。9月11日、一足先に京都に入った行平は、夜に入るとさっそく京都に跋扈していたという群盗を窺い、白川尊勝寺の辺りに屯していた男たち八名を搦めとった。彼らが犯行を自供したことから即座に処刑するなど果断な処置を取り、京都の群盗を震え上がらせる。そして、14日になって常胤が京都に到着。これ以降、洛中に群盗が出没する事はなくなった。 

 10月3日、下河辺行平千葉介常胤は群盗の事などの条々を奉聞し勅答を得、その報告が鎌倉に届けられた。そして8日、行平、常胤は京都から帰倉。頼朝の友人でもあった御前に召されてねぎらいの言葉を掛けられている。 

7,奥州藤原氏との戦い 

 文治5(1189)年4月18日、常胤は北条時政の三男の元服式に、嫡孫・成胤とともに列席。三浦義連の加冠によって元服し、偏諱を受けて「北条五郎時連」(のちの北条時房)を称した。 

 6月9日、常胤は胤正師常胤信胤頼ら子息とともに鶴岡八幡宮の御塔供養に参列した。  

●鶴岡八幡宮御塔供養列席者

導師法橋観性
呪願法眼円暁(若宮別当)
行事三善隼人佐康清、梶原平三景時
先陣
随兵
小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、北条小四郎義時、武田五郎信光
御徒 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲)
御後
参列
大内武蔵守義信、安田遠江守義定、伏見駿河守広綱、三河守範頼、大内相模守惟義、安田越後守義資、因幡守広元、毛利豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、右馬允橘公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長
後陣
随兵
小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景

 供養ののち、錦を奉納。その後、神馬を奉納する際の引き手は下記の通り。ここに見える「千葉次郎師胤」師常の誤りで「相馬次郎師常」のことである。千葉四郎胤信は千葉庄田部多村を領して田部多四郎胤信を称している。のちの大須賀氏の祖である。  

●神馬の引き手

一ノ馬(葦毛馬) 畠山次郎重忠、小山田四郎重朝
二ノ馬(河原毛) 工藤庄司景光、宇佐見三郎祐茂
三ノ馬(葦毛) 藤九郎盛長、渋谷次郎高重
四ノ馬(黒毛) 千葉次郎師胤、千葉四郎胤信
五ノ馬(栗毛) 小山五郎宗政、下河辺六郎

 文治5(1189)年の奥州藤原氏との戦いでは、常胤は頼朝から軍旗の新調を命じられ、小山朝政から献上された絹を用いて7月8日、一丈二尺の白旗を二幅献上した。旗の形大きさは、「前九年の役」源頼義の旗と同じ寸法で、伊勢大明神・八幡大菩薩、下に向かい鳩を縫い取ったものである。この旗は三浦介義澄の手で鶴岡八幡宮に奉納され、七日間の祈祷ののち、奥州征討の旗とされた。また同日、下河辺庄司行平が新調の鎧を頼朝に献じた。普通は袖につけられる笠標が兜の後ろについているのを見て不思議に思った頼朝は、  

「この簡袖に付くるを尋常の儀となすか、如何に」

と行平に問うた。これに行平は、

「これ嚢祖秀郷朝臣の佳例なり。その上、兵の本意は先登なり。先登に進むの時、敵は名謁をもつてその仁を知る。わが衆は後よりこの簡を見て、必ず某先登の由を知るべきものなり。ただし袖に付けしめたまふべきや否や、御意にあるべし。かくのごとき物を調進するの時は、家の様を用ゐるは故実なり」

と答えた。行平の先祖は「承平の乱」で平将門を討った藤原秀郷であり、将門に勝利した先例に習って縁起をかついだものであった。

 軍容はできたものの、朝廷よりの承認がおりないため出陣できない頼朝は、7月16日、大庭景義(懐島平太)にこういった場合の故例を問うと、「軍中にては将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず、すでに奏聞を経らるるの上は、強ちその左右を待たしめ給うべからず、随いて泰衡は累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり、綸旨を下されずと雖も治罰を加え給うこと、何事かあらんや、就中、群参の軍士数日を費やすの条、かへって人の煩いなり。早く発向せしめ給うべし」と、戦いにおいては古来より将軍の命が優先されるであるとし、頼朝もこれをうけて後白河院の宣旨を待たずに出陣を決定。翌日には全軍を三手に分けて奥州に発向させた。海道大将軍は千葉介常胤・八田右衛門尉知家の二将。常陸下総の軍勢を引きつれて宇多行方郡を経て阿武隈川に向かった。北陸大将軍は比企能員・宇佐美実政の二将。上野国の軍を引き連れて越後から出羽に向かった。そして大手軍は頼朝が自ら率いて出陣。先陣を畠山重忠がつとめ、大内義信・源範頼・足利義兼・北条時政・新田義兼・小山朝政・三浦義澄葛西清重・加藤景廉・和田義盛・梶原景時・河野通信・工藤祐経・佐々木兄弟ら錚々たる大将が従った。 

毛越寺址
平泉の毛越寺跡の池

 その後の奥州藤原氏勢との戦いは終始優勢に進み、8月9日夜から10日にかけて行われた阿津賀志山の戦いを経て8月22日平泉へ入った。すでに平泉を逐電していた奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は抵抗を試みるも敗れ、「夷狄嶋(北海道か)」を目指して糠部郡まで遁れるが、9月3日、数代の郎従・河田次郎に裏切られて殺害された。泰衡二十五歳。

 この奥州合戦の勲功によって常胤は奥州各所の地頭職を得たと思われ、のちの奥州千葉一族の基を築いたとみられる。また、「凡そ恩を施すごとに、常胤を以って初めとなすべし」という先例もつくられた。

衣川
平泉高舘より衣川を望む

 しかし、頼朝が鎌倉に帰った直後、奥州藤原氏の遺臣・大河兼任率いる軍勢が反乱を起こし、奥州の御家人を統括していた葛西清重からの飛脚がたびたび鎌倉に到着した。清重は平泉に検非違使所を設けて奥州の治安安定に努めていたが、大河軍が蜂起して平泉に迫っていた。このため、文治6(1190)年正月8日、頼朝の命を受けて常胤が海道、山道が比企能員の大将軍として鎌倉を出立した。ところが、その五日後の正月13日、嫡子・新介胤正が「承一方大将軍」として鎌倉を発している。これは海道大将軍が常胤から新介胤正に変更されたことを意味するが、常胤の年齢と厳冬の奥州を鑑みての頼朝の判断だったのかもしれない。

 頼朝は、清重の派遣要請に急ぎ奥州派兵を行うものの、大河勢の攻勢は激しく、文治6(1190)年正月23日、「未無下著之軍兵」と鎌倉勢が奥州へ到着する以前に葛西清重は平泉を放棄して逃れた(『吾妻鏡』文治六年二月六日条)

 建久元(1190)年10月3日、頼朝は上洛の途についた(『吾妻鏡』建久元年十月三日条)。去る9月15日、畠山次郎重忠が供奉のために武蔵国より鎌倉に到着。先陣隨兵については和田小太郎義盛が奉行し、後陣隨兵の奉行は梶原平三景時が任じられた。そして御厩奉行として、八田前右衛門尉知家とともに胤正の弟千葉四郎胤信が任じられた。しかし、上洛にあたってその八田知家が遅参した。頼朝は供奉人らとの打ち合わせのため、重鎮・知家の参着をかなりの時間待っており、甚だ不機嫌であった。そして昼過ぎになってようやく知家が参上。彼は行縢を着けたまま供奉人の郎従らが居並ぶ南庭を通り過ぎて沓解にて行縢を解き、頼朝の御前に参じた。

 頼朝は怒りを抑えて「懈緩の致す所也」と咎めると、知家は所労であったことを告げて詫びるとともに、先陣後陣の人選を問うている。頼朝は、先陣は畠山重忠を起用したものの、後陣の人選に苦慮していることを告げると知家は、先陣は畠山次郎重忠で然るべし、後陣については「常胤為宿老、可奉之仁也」と、千葉介常胤を推薦した。このため、頼朝は常胤を召して、子の六郎太夫胤頼、孫の平次常秀を具して後陣の最末に供奉すべきこととした。そして11月7日、頼朝は上洛を果たす。

●建久元年十一月七日頼朝上洛時の千葉一族随兵(『吾妻鏡』)

先陣随兵 五十九番 千葉新介(胤正)、氏家太郎、千葉平次(常秀)
後陣随兵 十九番 沼田太郎、志村三郎、臼井六郎(有常)
二十四番 浅羽五郎、臼井余一(景常)、天羽次郎(直胤)
三十五番 高橋太郎、印東四郎(師常)、須田小太郎
後陣 千葉介(常胤)
⇒「子息親類等以為随兵」とあることから、
 千葉次郎(師常)、四郎(胤信)、五郎(胤通)、三郎次郎(胤重)は同道していると思われる

 11月9日、頼朝は後白河院の仙洞御所へ院参し、その後参内する。このときの後陣の一人として「千葉介」がみえる。「子息親類等以為随兵」とあることから、常胤次郎師常四郎胤信五郎胤通三郎次郎胤重ら孫子を伴って供奉したとみられる。頼朝はこのとき権大納言に任じられている。

 11月11日、頼朝は六條若宮と石清水八幡宮へ参詣する。このときの先陣随兵に「千葉新介胤正」「葛西三郎清重」がみえ、頼朝の車の後騎として、三河守範頼以下の源氏門葉、宇都宮左衛門尉朝綱・八田右衛門尉知家の兄弟などと並んで常胤が列する。後陣の随兵には弟・千葉次郎師常が名を連ねる。11月29日の院参、12月1日の右大将拝賀にも「千葉新介胤正」が列し、12月14日、離京する頼朝の先陣随兵として供奉した。

 建久2(1191)年正月1日、常胤が沙汰する埦飯が行われ、常胤「御剣」を献じている。正月1日の埦飯は御家人のいわば最上位のものが執り行うしきたりであり、常胤は御家人の筆頭にして長老的立場にあったと思われる。

●建久二年正月一日献埦飯(『吾妻鏡』)

御剣 御弓箭 御行騰、沓 砂金 鷲羽(納櫃) 御馬
千葉介常胤 新介胤正 二郎師常 三郎胤盛 六郎大夫胤頼 一、千葉四郎胤信、平次兵衛尉常秀
二、臼井太郎常忠、天羽次郎直常
三、千葉五郎胤道 、(不明)
四、寺尾大夫業遠 、(不明)
五、(不明)

 建久3(1192)年、頼朝は自らの書判入りの所領安堵状を与えるやり方を改め、官僚機構である幕府に御家人を統括させるため、所領の安堵状は「政所」からの下文にする方針に変えた。

千葉地
鎌倉の伝千葉家邸跡(千葉地)

 しかし、これに反発したのが千葉介常胤・小山朝政ら元有力在庁たちで、自分たちは頼朝個人に仕えているのであり、政所に仕えているのではない、また、政所下文は頼朝の花押がなく、大江広元以下の役人たちの書判のみであって、これでは自らの「所領」安堵についての保証がないとして、頼朝に直談判をした。頼朝もこの常胤らの反発に困り果て、やむをえず常胤に対して特別に従来通りの花押入りの下文を発給し、政所下文に添えた。のち、小山朝政に対しても同様の下文を発している。千葉氏、小山氏といった地方大豪族たちとの頼朝との信頼関係をうかがわせる逸話である。  

 建久6(1195)年12月12日、常胤は「老命、後栄を期し難し」として「警夜巡昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潜かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり」と、恩賞を求める「款状」を頼朝に提出した。この中で常胤は「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいる。この「由緒」は定かではないが、遠祖・平忠常美濃国厚見郡(または不破郡野上、山県郡、加茂郡蜂屋庄)で亡くなったことによるものかもしれない。 

 結局、蜂屋庄は「故院の御時、仰せに依りて地頭職を停止」した荘園であり、頼朝も如何ともしがたい土地である旨を伝え、「便宜の地を以ちて、必ず御計らい有るべきの旨」を記載した書状を遣わしている。これに対し常胤は「太だ落涙」して残念がったが、「今に於いては、その地を賜らずと雖も恨みの限りに非ざる」と返報した。 

 常胤の死後、承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文(政所下文か)」が発せられたが、常胤の孫にあたる当時の千葉介成胤下総守護職に就任するにつき、下総国と千葉氏の縁の深さを幕府に主張していた様子が、 

先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間、右大将家御時、以常胤、被補下総一国守護職之由申之

と見え(『吾妻鏡』)、常胤が頼朝より下総国守護職に任じられていたと推測される。

8,常胤の死 

 建久10(1199)年1月13日、頼朝が急死するとその嫡男・源頼家が将軍職を継いだが、頼家はわがまま粗暴な性格で、御家人たちからは大変悪評であった。頼家の側近たちは将軍の威光をかさに乱暴狼藉を繰り返し、母の北条政子はついに頼家の政治を停止し、有力御家人十三人からなる合議制政治を行うこととした。この合議制によって幕府は落ち着きを取り戻したが、同時に幕府の権力が将軍家から有力御家人へと移っていくきっかけとなった。とくに将軍の外戚で、主席の北条時政の権力は大変大きくなり、北条体制のはしりともいえる体制になった。  

 正治2(1200)年正月2日、常胤は埦飯を沙汰する(『吾妻鏡』正治二年正月二日条)。正月1日の北条時政による埦飯に次ぐ沙汰であり、常胤は御家人筆頭にして長老格という存在であった事がわかる。しかし、これが常胤が行う最後の埦飯となる。正月23日、常胤と並んで幕府をささえ続けた長老の三浦義澄が七十四歳で卒去(『吾妻鏡』正治二年正月廿三日条)。そして翌建仁元(1201)年3月24日、常胤は八十四歳で世を去った(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)。次々に大きな力を持っていた長老が亡くなっていく中で、鎌倉幕府は北条一門による政治へと変わっていく。常胤は下総国千葉郡の千葉山に葬られたと伝えられている。法名は浄春院殿貞見涼山円浄院

千葉氏の墓 千葉山
千葉山の古墳

 常胤が葬られたとされる「千葉山」は、正確な所は断定されていないが、千葉庄馬加郷千葉山海隣寺(現在は佐倉市)とも、稲毛郷都賀邑千葉山(稲毛区園生町)ともいわれている。後者は現在でも中世につくられた古墳が残っており、この地に葬られた可能性が高いと考えられる。事実、この墳丘墓からは鎌倉時代初期の常滑の骨蔵器が発掘されている。

 千葉氏は常胤の死後も鎌倉幕府の中では北条氏に継ぐ大々名として尊重され、常胤の子供たちもそれぞれ独立した御家人として栄えた。

 常胤の次男・相馬二郎師常の子孫は下総と奥州とにわかれ、奥州に下っていった相馬氏の末裔である相馬盛胤相馬義胤伊達政宗との戦いで有名。子孫は陸奥中村藩六万石の藩主となった。

 三男の武石三郎胤盛の子孫も下総と奥州とにわかれ、奥州へ下っていった末裔は「亘理氏」となり、室町時代後期の亘理元宗(元安齋)・亘理美濃守重宗伊達政宗の一門として活躍した。

 四男の大須賀四郎胤信・五男の国分五郎胤通の子孫も下総と奥州とにわかれたが、下総に残った惣領家は千葉宗家とも深く関わっていく国人領主となった。

 六男・六郎太夫胤頼の子孫は武士でありながら歌道の道も極め、藤原俊基、俊成、定家、為家ら平安末期から鎌倉初期にかけて構築された歌道を代々伝えていく。室町中期の東下野守常縁は古今和歌集の解釈の根本を切紙に認めて伝える「古今伝授(切紙伝授)」を確立。後の歌道に大きな影響を与えることになった。

【参考資料】

(1)野口実『坂東武士団の成立と発展』弘生書林1982
(2)竹内理三編『平安遺文』東京堂出版
(3)岡田清一『中世相馬氏の基礎的研究 東国武士団の成立と展開』崙書房出版1978
(4)『我孫子市資料 古代・中世編』我孫子市史編さん室1978
(5)柳晃「相馬御厨の四至の変遷について」(『我孫子市史研究』2)1977
(6)岡野浩二「相馬御厨の成立とその前提」(『野田市史研究』)1996
(7)元木泰雄『平清盛と後白河院』角川学芸出版2012
(8)佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44)
(9)野口実「平清盛と東国武士 : 富士・鹿島社参詣計画を中心に」(『立命館文學』624)


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