葛西家惣領 葛西清重

葛西氏

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葛西清重(????-1237?)

 葛西氏初代。豊嶋権守清元の子。母は秩父十郎重弘の女とされる。通称は三郎。官位は従五位下。官職は左兵衛尉左衛門尉壱岐守。出家して壱岐入道定蓮。妻は従妹にあたる畠山庄司重能の娘千葉介常胤は義理の伯父にあたり、千葉胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼や畠山重忠とは従兄弟の間柄である。

       豊島清元
      (豊島権守)
        ∥
        ∥―――――葛西清重
        ∥    (三郎)
 秩父重弘―+―娘      ∥――――朝清―――――――清時
(十郎)  |        ∥   (六郎左衛門)  (新左衛門)
      |        ∥              ∥
      +―畠山重能―+―娘              ∥
      |(畠山庄司)|                ∥
      |      |                ∥
      +―娘    +―重忠             ∥
        ∥     (次郎)            ∥
        ∥                     ∥
        ∥――――――胤正―――成胤―――胤綱―――娘
       千葉介常胤  (千葉介)(千葉介)(千葉介)
      (下総権介)

 『沙石集』の第六巻「芳心有人事」の記述によれば、「故葛西ノ壱岐ノ前司トイヒシハ秩父ノスエニテ弓箭ノ道ユリタリシ人也」と、秩父氏の一族で武勇の人であった事がうかがえる(『沙石集』)。また、和田合戦では和田一族を駆け散らすなど「心モタケクナサケモアリケルヒト也」と評されている。

 兄・豊島太郎左衛門尉有経が豊島氏を継ぎ、清重下総国葛西庄の庄官となった。四男・笑田四郎有光は武蔵国都筑郡荏田村、五男・豊島五郎家員は豊島郡内に所領を有したのだろう。文治5(1189)年7月19日、奥州藤原泰衡との戦いに祖父の豊嶋権守清元、父の清重とともに従軍している十郎は末弟の清宣か。

 一説によれば、清重は承安3(1173)年、葛西庄の下司職・葛西重隆(重高)の養子となって葛西を称したといわれているが不明。この葛西重隆は千葉介常胤の弟とされるが、実在した可能性の高い常胤の弟は椎名胤光小見胤隆のみであり、重隆は実在の人物であったとしても、千葉氏とは血縁関係のない秩父一族だったのであろう。

●「葛西氏系図」(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』所収)

   次男    号六郎大夫  平傔仗  豊島三郎         左衛門尉
 ●将恒――――武恒―――――経家―――康家――――+―清元―+―有経
   武蔵権守                   |    |
                          |    |  壱岐三郎    四郎
                          |    +―清重――――+―重元
                          |    |       |
                          |    |  笑田四郎 |  伯耆守   三郎左衛門
                          |    +―有元    +―清親――――時清
                          |    |       |
                          |    |  豊島五郎 |  六郎左衛門
                          |    +―家員    +―朝清
                          |            |
                          |            |  七郎左衛門
                          |            +―時重
                          |            |  
                          |            |  八郎左衛門
                          |            +―清秀
                          |
                          |  豊島四郎  兵衛尉
                          +―俊経――――遠経
                          |
                          +―平塚入道                  

 『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月3日、石橋山の戦いに敗れて安房国にあった頼朝は、父の郎党であった上総権介広常千葉介常胤に使者を送る一方、下野国の有力在庁官人・小山朝政と下総国下河辺荘司・下河辺行平、そして武蔵国境に所領を持つ豊嶋権守清元葛西三郎清重にも参向するよう使者を派遣した。とくに清重は「源家において忠節を抽んづる者なり」と頼朝の期待を担っていた人物であったようである。

 秩父一党には比較的手厳しい頼朝も清重には寛大であり、「葛西庄は平家に荷担する秩父一族と隣接していたため進退が難しかろうから、海路を伝って来るように」と申し伝えている。また、大番役で上洛していた豊島右馬允朝経の妻には綿衣を調進するよう命じているが、この豊島朝経清重の兄・有経の子と思われる。

 9月29日、頼朝は側近・中原四郎惟重を清重のもとに派遣し、「大井(太日、大江)の要害を見るべき由」と偽って、いまだ帰参しない江戸重長をおびき出し、暗殺するよう指示を出した。江戸氏は太日川(隅田川)河口周辺に大きな勢力を持っていた豪族であり、平家方に属していた。江戸氏・葛西氏ともに同じ秩父一族であるが、頼朝は「清重ふたごころを存ぜざるによって」この密計を授けたという。頼朝の清重に対する信頼感をうかがうことができる。しかし、清重は重長の暗殺をすることはなかった。

 『沙石集』にはこの頼朝の太日川渡河の際の頼朝と清重とのやりとりが記載されている。頼朝は江戸重長の所領を召上げて、葛西ノ兵衛に与えようと言うが、清重は「御恩ヲ蒙リ候ハ、親キ者共ヲモカヘリミンタメナリ、身一ハトテモカクテモ候ヌヘシ、江戸シタシク候、僻事候ハヽ、メシテ他人ニコソタヒ候ハメ」と、親戚である江戸重長の領地を清重が受けることはできない、もし彼にやましいことがあるならば、彼の所領を召し上げて他の人に給え、とこれを固辞した。頼朝はこれを聞いて「イカテ給ハラサルヘキ、モシ給ハラスハ汝カ所領モ召取ヘシ」と清重の所領を召上げると怒った。これに清重は「御勘当蒙ルホトノコトハ運ノキハマリニテコソ候ハメ、力オヨハス、サレハトテ給ハルマシキ所領ヲハ争カ給フヘキ」と、義を曲げてまで今の所領を欲しないと主張した。

 『吾妻鏡』の記述に戻るが、10月2日、頼朝は上総権介広常千葉介常胤が造った「舟橋」を渡って武蔵国に入った。このとき、豊嶋権守清元葛西清重父子は真っ先に参陣。その後、清重の従兄弟にあたる足立右馬允遠元が兼ねてからの約束どおり参陣した。

 翌10月3日、上総国で叛乱を起こした伊北庄司常仲(上総権介広常の甥)を討つため、頼朝の命を受けた千葉介常胤が子息の千葉太郎胤正をはじめ、子息・郎従を上総国に派遣した。このとき清重も参戦して、大いに活躍をしたようである。文治6(1190)年正月13日の胤正の上申に葛西三郎清重者、殊勇士也先年上総国合戦之時、相共遂合戦」とある。

 11月10日、頼朝は常陸の佐竹氏を追い落として、常陸国府から鎌倉へ戻ると、鎌倉の清重の屋敷へ赴いて一泊している。このとき清重は妻を「青女(未婚の女性のこと)」と偽って頼朝の伽に差し出した。これは当時の貴人に対するもてなしの意味がある。その後、清重は佐竹攻めの戦功によって武蔵国丸子庄を下賜されることとなった。

 寿永元(1182)年8月11日、政子の安産祈願のために関東の諸社に使いが差し向けられたが、その使者はその神社のある国の主だった豪族の子息が選ばれていた。このうち、武蔵国六所宮(大国魂神社:東京都府中市宮町3-1)には「葛西三郎」が使者として使わされた。清重の所領は「下総国葛西庄」であって、下総の豪族の位置づけのはずであるが、父親の豊島清元が武蔵国の豪族であるため、その三男である清重が使者として選ばれたと思われる。

●寿永元(1182)年8月11日に各地に発った使者

派遣された神社 現在の神社名 所在地 派遣された人物
伊豆山 伊豆山神社 熱海市伊豆山上野地1 土肥弥太郎遠平(土肥実平の嫡男)
筥根山 箱根神社 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 佐野太郎忠家
相模一宮 寒川神社 神奈川県高座郡寒川町宮山3916 梶原平次景高(梶原景時の次男)
三浦十二天 十二所神社 神奈川県横須賀市芦名1-21-10 佐原十郎義連
武蔵六所宮 大国魂神社 東京都府中市宮町3-1 葛西三郎清重
常陸鹿嶋 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306-1 小栗十郎重成(常陸大掾一族)
上総一宮 玉前神社 千葉県長生郡一宮町一宮3048 上総小権介良常(上総権介広常の嫡男)
下総香取社 香取神宮 千葉県佐原市香取1697 千葉小太郎成胤(千葉太郎胤正の嫡男)
安房東條社 天津神明神社 千葉県安房郡天津小湊町天津2954 三浦平六義村(三浦介義澄の嫡男)
安房洲﨑社 洲崎神社 千葉県館山市洲崎1697 安西三郎景益

 平家との戦いでは父・豊嶋清元とともに頼朝軍の一翼として活躍。元暦元(1184)年8月8日、頼朝の代官・源範頼に随い西国へと赴いた。頼朝は長谷の稲瀬川に桟敷を敷いて彼らを見送った。

●元暦元(1184)年8月8日「西国下向御家人交名」(『吾妻鏡』元暦元年八月八日条)

三河守範頼 北条小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 千葉介常胤 境平次常秀 三浦介義澄
三浦平六義村 八田四郎武者朝家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 長沼五郎宗政 結城七郎朝光 比企藤内所朝宗
比企藤四郎能員 阿曽沼四郎広綱 和田太郎義盛 和田三郎宗実 和田四郎義胤 大多和次郎義成 安西三郎景益
安西太郎明景 大河戸太郎広行 大河戸三郎 中条藤次家長 工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内遠景
小野寺太郎道綱 一品房昌寛 土佐房昌俊        

 9月2日、京都を出陣した範頼の軍勢はさらに西に向かい、翌元暦2(1185)年1月26日、範頼は「壇ノ浦の戦い」でも参戦している。豊後国の臼杵次郎惟隆緒方三郎惟栄兄弟が進呈した八十二艘の兵船に乗って、豊後に渡った。このとき、周防国宇佐郡の木上七郎遠隆から兵糧米が献じられた。

●元暦2(1185)年1月26日「豊後国渡海御家人交名」(『吾妻鏡』元暦ニ年一月二十六日条)

三河守源範頼 北条小四郎義時 足利蔵人義兼 小山兵衛尉朝政 長沼五郎宗政 結城七郎朝光 武田兵衛尉有義
斎院次官中原親能 千葉介常胤 境平次常秀 下河辺庄司行平 下河辺四郎政義 阿曽沼四郎広綱 三浦介義澄
三浦平六義村 八田四郎武者朝家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 渋谷庄司重国 渋谷二郎高重 比企藤内所朝宗
比企藤四郎能員 和田太郎義盛 和田三郎宗実 和田四郎義胤 大多和次郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景
大河戸太郎広行 大河戸三郎 中条藤次家長 加藤次景廉 工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内遠景
一品房昌寛 土佐房昌俊 小野寺太郎道綱        

 そして3月24日、長門国壇ノ浦において平家と源氏軍が衝突した。これを俗に壇ノ浦の戦いという。清重もおそらくこの合戦に参戦していたと思われる。この一戦で敗れた平家は壊滅。一門は入水や自刃などで次々に亡くなり、清盛の妻で安徳天皇の祖母である二位尼(平時子)は安徳天皇や三種の神器とともに海中に沈んでいった。こうして平家は滅亡した。

 頼朝は範頼に、戦後処理を早めに済ませて8月中に入洛するよう厳命をしていたが、おそらく台風の影響か風雨にあって9月26日の入洛となった。清重も同道したのだろう。その後、範頼とともに鎌倉へ戻った。

 文治元(1185)年10月24日、鎌倉の長勝寿院(南御堂)の供養が行われた。巳の刻(午前九時)になって頼朝は大倉御所から徒歩で長勝寿院へと向かい、数多くの御家人が随兵としてこれに付き従った。

●長勝寿院供養に供奉した御家人(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)

随兵十四人
畠山次郎重忠 千葉太郎胤正 三浦介義澄 佐貫四郎大夫広綱 葛西三郎清重
八田太郎朝重 榛谷四郎重朝 加藤次景廉 安達藤九郎盛長 大井兵三次郎実春
山名小太郎重国 武田五郎信光 北条小四郎義時 小山兵衛尉朝政  
  小山五郎宗政(御剣)、佐々木四郎左衛門尉高綱(御鎧)、愛甲三郎季隆(御調度)
五位六位
三十二人
(布衣下括)
源蔵人大夫頼兼 大内武蔵守義信 三河守源範頼 安田遠江守義定
足利上総介義兼 狩野前対馬守親光 前上野介範信 宮内大輔重頼
皇后宮亮仲頼 大和守重弘 因幡守大江広元 村上右馬助経業
橘右馬助以広 関瀬修理亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重
藤判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁
千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門尉朝綱 八田右衛門尉知家
梶原刑部丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛尉基清 足立右馬允遠元
随兵十六人
下河辺庄司行平 稲毛三郎重成 小山七郎朝光 三浦十郎義連
長江太郎義景 天野藤内遠景 渋谷庄司重国 糟谷藤太有季
佐々木太郎左衛門尉定綱 廣澤三郎実高 千葉平次常秀 梶原源太左衛門尉景季
村上左衛門尉頼時 加賀美次郎長清    
随兵の長官 和田小太郎義盛・梶原平三景時
随兵六十人〔東〕
(弓馬の達者)
⇒門外左右に伺候
足利七郎太郎 佐貫六郎広義 大戸川太郎広行 皆川四郎
千葉四郎胤信 三浦平六義村 和田三郎宗実 和田五郎義長
長江太郎義景 多々良四郎明宗 沼田太郎 曾我小太郎祐綱
宇治蔵人三郎義定 江戸七郎重宗 中山五郎為重 山田太郎重澄
天野平内光家 工藤小次郎行光 新田四郎忠常 佐野又太郎
宇佐美平三 吉川二郎 岡部小次郎 岡村太郎
大見平三 臼井六郎 中禅寺平太 常陸平四郎
所六郎朝光 飯富源太    
随兵六十人〔西〕
(弓馬の達者)
⇒門外左右に伺候
豊嶋権守清元 丸太郎 堀藤太 武藤小次郎資頼
比企藤次 天野次郎直常 都築平太 熊谷小次郎直家
那古谷橘次頼時 多胡宗太 蓬七郎 中村右馬允時経
金子十郎家忠 春日三郎貞幸 小室太郎 河匂七郎政頼
阿保五郎 四方田三郎弘長 苔田太郎 横山野三刑部丞成綱
西太郎 小河小次郎祐義 戸崎右馬允国延 河原三郎
仙波次郎 中村五郎 原次郎 猪俣平六則綱
甘粕野次広忠 勅使河原三郎有直    

 その直後の奥州藤原泰衡との戦いでは、加藤景廉とともに武蔵・上野の武士を引き連れて出陣。父の豊嶋権守清元、弟の葛西十郎とともに従軍した。この「十郎」の実名は記されていないが、清重の弟として『盛岡葛西家系図』に見える葛西十郎清宣か。

葛西氏の領域
葛西氏の所領(緑部分内の各地)

 奥州藤原氏との前哨戦であり、最大の激戦となった文治5(1189)年8月9日の阿津賀志山の戦いでは、葛西三郎清重「三浦平六義村、工藤小次郎行光、工藤三郎祐光、狩野五郎親光、藤澤次郎清近、河村千鶴丸」の六騎とともに、夜陰に紛れて先陣の畠山重忠を追い越し、終夜峰阿津賀志山を越えて、藤原国衡(泰衡の異母兄)の陣所の木戸口に馳せ寄せた。工藤行光が先頭を切って攻め懸けると、泰衡の郎従で奥六郡第一の剛の者と知られた部伴籐八ら強兵たちが応戦し、狩野親光が討死を遂げた。翌8月10日、頼朝勢全軍が阿津賀志山を越えて木戸口に攻め近づき、畠山重忠・小山朝政・結城朝光・葛西清重らの活躍により、国衡の軍勢は退却した。

 このあとも衣川ノ関などを攻略し、奥州藤原氏の都・平泉に迫った。ここに藤原泰衡は平泉の放棄を決め、8月21日、藤原清衡以来三代にわたる平泉の文化・財宝が頼朝の手にわたらぬように、豪壮な館や寺の伽藍に火を放ち、平泉を焼け野原とした。翌8月22日、頼朝は平泉に入ったが、まばゆいばかりの北の都と謳われた平泉はそこにはなく、あちこちに火のくすぶる廃虚があった。一晩中燃え続けた火は藤原四代の黄金文化を灰とし、豪華絢爛を誇った平泉はすでに跡形もなく消え去っていて、ただ飄々と肌寒い秋風が陣幕をゆらし、雨が粛々と降っているだけであった。

 頼朝は焼け野の隅に小さな蔵があるのを見つけ、葛西清重・小栗重成らを召してその蔵をあけさせた。この小さな蔵の中には焼け残った沈・紫檀でつくられた唐木の厨子数脚があり、その厨子には玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃の笏・金の沓・蜀錦の直垂など、数え切れない宝物が収められていた。頼朝はこの財宝を蔵を開けた重成・重清に分け与えられ、清重には「象牙の笛」「縫わざる帷子」が下賜された。

 9月22日、頼朝は「陸奥国御家人事」葛西三郎清重が奉行し、降伏してきた者はすべて清重に付くことを命じた。そして、24日には「平泉郡内検非違所」の事は清重が管領すべきことの御下文を賜わった。検非違使所は、郡内における諸人の濫行を防止し、犯した者の罪科を糺断するもので、大変な重職であった。清重の勲功がとくに抜群であったために与えられたものであり、恩賞として伊澤・磐井・牡鹿等の郡のほか、数箇所の所領を拝領した。そして9月28日、頼朝は奥州の留守を葛西清重・伊澤家景に任せて帰途についた。

 頼朝は奥州からの帰途に葛西三郎清重母所勞」の事を聞き、さっそくに使者を下総国葛西の住所に送った。頼朝が鎌倉へ到着した二日後の10月26日、使者は鎌倉へ帰還した。報告によると清重の母の所労はそれほど重篤なものではなかった。

 しかし、11月に入ると奥州藤原氏の遺臣や土豪たちが不穏な動きを見せはじめ、奥州藤原氏の血をひく大河兼任(次郎)が頼朝によって滅亡の道をたどった「前予州(源義経)」「朝日将軍之遺児(清水冠者義高)」を称して挙兵した。

●大河氏略系図(『岩手県史』第二巻中世篇上)

安倍忠良――頼良―+―貞任
         |
         +―娘     【奥州藤原氏】
         | ∥――――――清衡――基衡――秀衡―+―国衡
         | 藤原経清              |
         |(亘理権大夫)            +―泰衡
         |
         +―家任―――――秀任――祐任――武嗣―+―近綱
                         (三郎)|(新田三郎)
                             |
                             +―兼任
                             |(大河次郎)
                             |
                             +―忠季
                              (二藤次)

 清重は主将として諸将を率いて防戦にあたっていたが、由利中八維平宇佐美平次実政大見平次家秀石岡三郎友景ら歴戦の勇将が討死を遂げるほど厳しい戦局となっていた。清重はただちに鎌倉に使者を飛ばし、注進を受けた頼朝は12月23日、鎌倉で奥州再征軍を編成し、さっそくに工藤行光らを先陣として先発させ、翌文治6(1190)年1月8日、千葉介常胤比企能員を総大将とした大軍を派遣した。

 1月13日、頼朝は上野国・信濃国の御家人に奥州征討の出陣を命じた。さらに、足利義兼(上総介)を追討使として出陣させ、千葉太郎胤正が一方の大将軍に任じられた。このとき、胤正は頼朝に葛西三郎清重者殊勇士也、先年上総国合戦之時、相共遂合戦、今度又可相具之由被仰含云々」と、治承4(1180)年10月3日の上総国合戦でともに戦った清重を相具したいとの希望を伝え、頼朝はその希望に任せ、清重へ宛てて「可相伴于胤正」との書状を送った。

 2月6日、奥州からの飛脚が鎌倉へ参着した。先月23日に奥州を発った飛脚だったが、まだ鎌倉からの軍兵が着いておらず、大河兼任の軍勢が雲霞のごとく集まっていることを伝えた。国中の御家人たちは、一旦は兼任の猛威に怖れて、兼任軍に降伏したものの、その真実の志は定めて鎌倉方にあるので、もし帰参した場合には減刑する旨を国中に触れさせたという。この報告の中で、「新留守所、本留守」はともに大河兼任に降伏していたことが見え、本来彼らは誅殺されるべき罪科だが、清重へお預けになり、甲二百領を納める過料とされた。

 2月11日、鎌倉勢第三軍として足利上総前司義兼が率いる鎌倉勢は平泉を出立し、泉田(宮城県栗原郡一迫町?)に参着した。ここで義兼は兼任の在所を尋ねると、平泉から一万騎を率いて行軍中であるという。義兼はただちに小山五郎宗政結城七郎朝光葛西三郎清重葛西四郎小野寺太郎通綱中条義勝法橋中条藤次家長ら諸将を率いて泉田を出立した。しかし夜になってしまったため一迫に行くことができず、途中の民家に分宿した。その間に、兼任の軍勢は一迫を馳せ過ぎた。翌2月12日、義兼軍に千葉新介胤正の軍勢が加わり、一迫にて激戦が繰り広げられた。

 戦いは鎌倉勢の勝利に終わり、大河勢は散り散りなり、兼任は五百騎を率いて平泉衣川を渡って陣を敷いた。奥六郡の入口・衣川関は北上川に囲まれ、切り立った崖の上にある天然の要害で、南からの攻撃には抜群の守備能力を持った天然の要害であった。しかし、鎌倉勢の大軍は衣川を渡り、大河勢を壊走させた。千葉新介胤正葛西三郎清重堀藤次親家はさっそく飛脚を発し、2月23日に飛脚が鎌倉に着した。

 大河兼任は壊走ののち、ひとり山中に逃れていたが、華山(栗原郡花山村)、千福山本を経て、亀山を越えて栗原寺に出た。しかし、そこにいた樵夫が、兼任の錦の脛巾、黄金作の太刀を見て怪しみ、仲間数十人とともに彼を囲み、手にした斧で兼任を殺害した。時に3月10日。樵夫たちは鎌倉勢の大将・千葉新介胤正に首を差し出し、大河の乱は平定された。

 3月15日、先に解任された「留守所」の後継として、新たに伊澤左近将監家景「留守職」に任命された。留守職は「被定住彼国、聞民庶之愁訴、可申達」とあるように、民事・行政官としての職である。彼の子孫が留守氏として発展していく。

 9月15日、来月に控えた頼朝の上洛に伴なう諸事の奉行のうち、御宿の奉行に葛西三郎清重が任じられた。

 建久2(1191)年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会が行われたが、この時葛西三郎は鴾毛の馬を一疋奉納している。

 清重はこののち、兵衛尉へ任官していると思われる。建久3(1192)年11月25日の永福寺供養の供奉人に葛西兵衛尉清重が見える。これが清重が「兵衛尉」を称している初出である。

 建久4(1193)年3月21日、頼朝は下野国那須野、信濃国三原などの狩倉を覧るために鎌倉を出発した。この旅の供には狩に慣れ親しんだものを選んでいるが、そのうち日頃から隔心なく交わっている二十二名の御家人にのみ弓箭を帯びることを許した。その二十二人のなかに葛西兵衛尉が見える。また、11月27日、永福寺供養に先陣の隨兵として葛西兵衛尉清重の名が見える。

 建久5(1194)年2月2日、御所において北条義時の嫡男・金剛(のちの泰時)が十三歳にて元服した。この式にに参列した葛西兵衛尉清重が見える。

●金剛元服の想像図(幕府西侍配置)

 【右】 頼朝 【左】 
畠山重忠
三浦介義澄
土屋宗遠
藤九郎盛長
大須賀胤信
    
千葉介常胤(脂燭役)
千葉新介胤正
梶原景時
和田義盛
三浦義連
梶原朝景
金剛
 
 
 
 
 
 
武蔵守義信(脂燭役)
伊豆守義範
相模守惟義
大和守重弘
葛西清重
佐々木盛綱
上総介義兼
信濃守遠義
江間小四郎
八田知家
加藤景廉
    
北条時政  下河邊行平 宇都宮頼綱 宇佐美祐茂 比企能員 江戸重長
結城朝光 小山朝政 岡崎義實 榛谷重朝 足立遠元 比企朝宗

 元服式では、祖父の北条時政が金剛の手を引いて西侍にあらわれたのち、頼朝が上座に座り元服式が執り行われた。このとき、脂燭の役を務めたのが、最前に列する武蔵守義信千葉介常胤であった。元服後は頼朝の一字を賜り「太郎頼時」と改められた。その後の歌舞宴ののち、頼朝は三浦介義澄を傍に召して「この冠者を以て聟と為すべし」と申し含め、義澄「孫女の中より好婦を撰びて、仰せに随うべし」と返答したという。こののち、頼時に嫁いだ娘(三浦義村娘)がのちの矢部禅尼で、北条時頼の祖母になる女性である。

 北条時政―――北条義時――北条頼時[泰時]
(四郎)   (小四郎) (金剛)
              ∥――――――――北条時氏
              ∥       (太郎)
 三浦介義澄――三浦義村――        ∥―――――――北条時頼
(荒次郎)  (平六)  (矢部禅尼)    ∥      (最明寺入道)
                       ∥
        安達盛長――安達景盛―――――娘
       (藤九郎) (弥九郎)    (松下禅尼)

 10月22日、葛西兵衛尉清重は頼朝に白い大鷹一羽を献上した。無双の逸物と評判で、結城七郎朝光に預けられた。鷹や馬は奥州所産のものが有名であり、献上された鷹もおそらく清重が奥州から取り寄せたものなのだろう。

 12月26日、永福寺内に新たに建立された薬師堂供養の際、将軍・頼朝の隨兵八騎に葛西兵衛尉清重の名が見える。

 建久6(1195)年2月2日、頼朝は2月14日の上洛行の路地の沙汰を命じ、2月14日、畠山重忠を先陣に鎌倉を発した。今回の上洛は東大寺供養への参列が目的であった。3月4日、上洛を果たした頼朝は、六波羅邸に入御した。そして五日後の3月9日、奈良東大寺へ向けて出発した。このときの隨兵先陣六騎のうちに葛西兵衛尉清重の名が見える。翌日、奈良南東院へ到着。ここで参列にあたって再編が行われ、頼朝の車の後を固め隨兵中に葛西兵衛尉」「葛西十郎が見える。この葛西十郎は、文治5(1189)年に奥州藤原氏との戦いで豊島清元・葛西清重とともに参戦していた葛西十郎と同一人物か。

●建久6(1195)年3月10日『東大寺参詣供奉人交名』(『吾妻鏡』)

先陣
●各々相並ばず
畠山次郎重忠 和田左衛門尉義盛      
隨兵
●三騎相並ぶ
江戸太郎重長 豊嶋兵衛尉 岡部小三郎 勅使河原三郎有直 熊谷又次郎
大井次郎 足立太郎 小代八郎 浅見太郎 河匂七郎
品河太郎 江戸四郎 山口兵衛次郎 甘糟野次 平子左馬允
阿保五郎 阿保六郎 豊田兵衛尉 真壁小六 下嶋権守太郎
加治小次郎 鴨志田十郎 鹿嶋六郎 片穂五郎 中村五郎
高麗太郎 青木丹五 中郡太郎 常陸四郎 小宮五郎
奈良五郎 小林次郎 太胡太郎 渋河太郎 佐野七郎
三輪寺三郎 小林三郎 深栖太郎 吾妻太郎 小野寺太郎
浅羽三郎 倉賀野三郎 那波太郎 那波彌五郎 園田七郎
皆河四郎 小串右馬允 小室小太郎 春日三郎 小田切太郎
山上太郎 瀬下奥太郎 禰津次郎 中野五郎 志津田太郎
高田太郎 坂田三郎 禰津小次郎 笠原六郎 岩屋太郎
中野四郎 大河戸太郎 下河辺四郎 泉八郎 佐々木三郎兵衛尉盛綱
新田四郎忠常 大河戸次郎 下河辺藤三 宇都宮所 海野小太郎幸氏
新田六郎親範 大河戸三郎 伊佐三郎 天野右馬允 橘右馬次郎
大嶋八郎 藤澤次郎清親 工藤小次郎 糟屋藤太兵衛尉 臼井六郎
中澤兵衛尉 望月三郎 横溝六郎 梶原刑部兵衛尉景定 印東四郎
牧武者所 多胡宗太 土肥七郎 本間右馬允 天羽次郎直胤
千葉次郎師常 広澤与三 梶原刑部丞朝景 和田三郎義茂 河内五郎
千葉六郎大夫胤頼 波多野五郎 土屋兵衛尉義清 和田小次郎 曽祢太郎
境平次兵衛尉常秀 山内刑部丞 土肥先次郎 佐原太郎 里見小太郎義成
武田兵衛尉有義 佐竹別当 関瀬修理亮 下河辺庄司行平 懐嶋平権守景義入道
伊澤五郎信光 石河大炊助 村上左衛門尉 八田右衛門尉朝重 北条小四郎義時
新田蔵人義兼 澤井太郎 高梨次郎 三浦十郎左衛門尉義連 小山七郎朝光
御車 右近衛大将源頼朝
(一門相並ぶ) 相模守惟義 伊豆守義範 因幡前司大江広元    
源蔵人大夫頼兼 源右馬助経業 三浦介義澄    
上総介義兼        
車後一列 豊後前司季光 土肥荒次郎 山名小太郎 那珂中左衛門尉 足立左衛門尉遠元
比企右衛門尉能員 安達藤九郎盛長 宮大夫 所六郎  
車後隨兵
●三騎相並ぶ
奈古蔵人 南部三郎 浅利冠者長義 後藤兵衛尉基清 稲毛三郎重成
徳河三郎 村山七郎 加々美次郎長清 葛西兵衛尉 梶原源太左衛門尉
毛呂太郎 毛利三郎 加々美三郎 比企藤次 加藤太
阿曽沼小次郎 小山五郎宗政 小山田四郎 波多野小次郎 河村三郎
佐貫四郎広綱 三浦平六兵衛尉 野三刑部丞成綱 波多野三郎 原宗三郎
足利五郎 佐々木左衛門尉定綱 佐々木中務丞経高 沼田太郎 原四郎
長江四郎明義 中山五郎 岡崎四郎 小山田五郎 野瀬判官代
岡崎与一太郎 渋谷四郎 和田五郎 中山四郎 安房判官代
梶原三郎兵衛尉 葛西十郎 加藤次景廉 那須太郎 伊達次郎
岡部小次郎 南条次郎 江戸七郎 横山権守 笠原十郎
佐野太郎 曽我小太郎 大井平三次郎 相模小山四郎 堀藤次
吉香小次郎 二宮小太郎 岡部右馬允 猿渡藤三郎 大野藤八
井伊介 吉良五郎 金子十郎家忠 安西三郎景益 小栗次郎
横地太郎 浅羽庄司三郎 志村三郎 平佐古太郎 渋谷次郎高重
勝田玄番助 新野太郎 中禅寺奥次 吉見次郎 武藤小次郎
天野藤内遠景 長尾五郎 筑井八郎 八田兵衛尉 宗左衛門尉
宇佐美三郎祐茂 多々良七郎 臼井与一 長門江七 金持次郎
海老名兵衛尉 馬場次郎 戸崎右馬允 中村兵衛尉 奴加田太郎
大友左近将監 渋谷弥五郎 猪俣平六範綱 仙波太郎 古郡次郎
中条右馬允 佐々木五郎義清 庄太郎 岡部六弥太忠澄 都築平太
伊澤左近将監 岡村太郎 四方田太郎 鴛三郎 筥田太郎
熊谷小次郎直家 平山右衛門尉 諸岡次郎 伊東三郎 千葉四郎胤信
志賀七郎 藤田小三郎 中条平六 天野六郎 千葉五郎胤通
加世次郎 大屋中三 井田次郎 工藤三郎 梶原平次左衛門尉景高
後陣
●各々相並ばず
●郎従数百騎
梶原平三景時 千葉新介胤正      
最末(相並ぶ) 前掃部頭中原親能 縫殿助      
伊賀前司 遠江権守      
最末(並ばず) 源民部大夫 伏見民部大夫 右京進中原仲業 三善隼人佐康清 三善兵衛尉
平民部丞盛時 越後守義資      

 9月3日、平泉の寺塔の修理葛西兵衛尉清重伊澤左近将監家景」が命じられた。戦いによって荒廃した平泉の寺社は、もともと戦いには関係なく、もとのごとく戻すようにとの命であった。さらに9月29日には、故藤原秀衡入道の後家がいまだ平泉に生きており、頼朝は「葛西兵衛尉清重、伊澤左近将監」に彼女を手厚く保護するよう命じた。両人は「奥州惣奉行」であるが故であったという。おそらくこのころ清重は奥州へ赴任していたのだろう。

 建久8(1197)年3月23日、頼朝が信濃国善光寺へ参詣した際に後陣の隨兵として「葛西兵衛尉」の名が見える(『相良家文書』:「大日本古文書 家わけ五」)

●建久8(1197)年3月23日『右大将家善光寺御参隨兵日記』(『相良家文書』:「大日本古文書 家わけ五」所収)


 (前略) 
 隨兵
    先陣
 
 佐原十郎左衛門尉(佐原義連) 長江四郎(長江明義)
 
 千葉次郎(相馬師常)     和田次郎(和田義茂)
 
 武田兵衛尉(武田有義)    平井四郎
 
 (中略)
 
    後陣
 
 千葉新介(千葉胤正)     葛西兵衛尉(葛西清重)
 
 北条五郎(北条時連、のち時房)佐々木五郎(佐々木義清)
 
 千葉平次兵衛尉(千葉常秀)  梶原刑部兵衛尉(梶原景定)
 
 八田太郎左衛門尉(八田朝重) 江戸太郎(江戸重長)
 
 (後略)
 

 建久10(1199)年10月27日、梶原景時の弾劾状には六十六名の宿老に名を連ね、正治2(1200)年2月26日に頼家の鶴岡八幡宮社参に供奉している。

●建久10(1199)年10月27日『梶原景時弾劾状署名宿老六十六名』(『吾妻鏡』:『全訳吾妻鏡』所収)
 

 
 千葉介常胤 三浦介義澄 千葉太郎胤正 三浦兵衛尉義村 畠山次郎重忠 小山左衛門尉朝政 小山七郎朝光
 
 足立左衛門尉遠元 和田左衛門尉義盛 和田兵衛尉常盛 比企右衛門尉能員 所右衛門尉朝光 二階堂民部丞行光
 
 葛西兵衛尉清重 八田左衛門尉知重 波多野小次郎忠綱 大井次郎実久 若狭兵衛尉忠季 渋谷次郎高重
 
 山内刑部丞経俊 宇都宮弥三郎頼綱 榛谷四郎重朝 安達九郎盛長入道 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道 稲毛三郎重成入道
 
 足立藤九郎景盛 岡崎四郎義実入道 土屋次郎義清 東平太重胤 土肥先次郎惟光 河野四郎通信 曾我小太郎祐綱
 
 二宮四郎 長江四郎明義 毛呂二郎季綱 天野民部丞遠景入道 工藤小次郎行光 中原右京進仲業 小山五郎宗政 他27名 
 

 葛西氏の鎌倉における屋敷は、現在でも「葛西ガ谷」と呼ばれ、鎌倉に東側に位置している。おそらく奥州の所領は代官(地頭代)に任せていたのだろう。葛西氏の代官として文書に見える人物に「青戸二郎重茂」「二江入道承信」がいる。「青戸(葛飾区青戸)」「二江(江戸川区二之江町)はいずれも葛西庄内の地名である事から、葛西庄内の郎従を奥州へ派遣して支配していたと考えられる。ほか、奥州葛西氏の重臣として見える「岩淵氏」についても葛西庄の北方にある「岩淵(北区岩淵)」の在地豪族(下河辺氏流)だったのだろう。実際に葛西氏当主と奥州のかかわりが見られるようになるのは、約半世紀後の「葛西経蓮」からである。

 『香取神社造営次第』によれば、建保4(1216)年6月7日に宣旨を受けて香取神社遷宮を十二年にわたって奉行した「葛西伊豆入道定蓮」が見えるが、「定蓮」は葛西清重のことなので、この文書が作成された際に「壱岐入道」「伊豆入道」が誤記されたと思われる。

 建暦3(1213)年8月20日、将軍・実朝が新御所へ移転することとなり、夕刻にいたって大江広元(前大膳大夫)の屋敷より新御所へ移ることとなった。その供奉人として葛西兵衛尉清重が見える(『吾妻鏡』建暦三年八月廿日条)。その翌年の建保2(1214)年7月24日、鎌倉大蔵に建立された大慈寺(新御堂)の供養が行われた。供養には栄西が導師として招かれており、盛大なものとなった。このとき将軍に供奉した葛西兵衛尉清重が見える(『吾妻鏡』建保二年七月廿四日条)

 清重がいつごろから壱岐守に任官したかはわからないが、建保7(1219)年正月1日の将軍・実朝の鶴岡八幡宮参詣供奉人に壱岐守清重の名が見え(『吾妻鏡』建保七年正月一日条)、建保2(1214)年7月24日から建保7(1219)年正月1日までの間に壱岐守に任じられたことがわかる。かつては源氏の一族か血縁に限られた「受領」であったが、頼朝の死後は緩和されていたようだ。

「承久の乱」の際には、「右京兆・前大膳大夫入道覺阿・駿河入道行阿・大夫屬入道善信・隠岐入道行西・壱岐入道・筑後入道・民部大夫行盛・加藤大夫判官入道覺蓮・小山左衛門尉朝政・宇都宮入道蓮生・隠岐左衛門入道行阿・善隼人入道善清・大井入道・中條右衛門尉家長」「宿老」は上洛は免除された。「壱岐入道」が清重である。各々鎌倉に留まり、勝利の祈祷や軍勢を遣わしたという(『吾妻鏡』承久三年五月二十二日条)

 承久4(1222)年5月24日、幕府は天地災変の御祭を行っているが、祭料を壱岐入道定蓮が沙汰している。

 貞応3(1224)年閏7月1日、執権職をめぐる北条政子派(北条泰時を推す)と伊賀氏・三浦義村(北条政村を推す)との確執の中で、政子は泰時邸に義村をはじめ、壱岐入道(葛西清重)・出羽守(中条家長)・小山判官(小山朝政)・結城左衛門尉(結城朝光)」「宿老」を招き、将軍家に忠節を尽くす事を依頼した。

葛西清重墓
伝葛西清重と妻の墓

 この記事を最後に、清重の名は『吾妻鏡』から見えなくなる。清重の死亡年については、

(1)暦仁元(1238)年9月14日説
(2)嘉承3(1237)年12月5日説
(3)貞応元(1222)年3月14日説
(4)承久3(1221)年8月25日説

の四説があるが、嘉禄3(1227)年の香取大社造営雑掌に「壱岐入道」の名が見えることから、この頃までの生存は確認されるため、嘉承3(1237)年または、暦仁元(1238)年あたりということになるか。

●葛西氏系図1(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』所収)

  次男    号六郎大夫  平■仗  豊島三郎         左衛門尉    四郎
→将恒――――武恒―――――経家―――康家――――+―清元―+―有経    +―重元
  武蔵権守                   |    |       |
                         |    |  壱岐三郎 |  伯耆守   三郎左衛門
                         |    +―清重――――+―清親――――時清
                         |    |       |
                         |    |  笑田四郎 |  六郎左衛門
                         |    +―有元    +―朝清
                         |    |       |
                         |    |  豊島五郎 |  七郎左衛門
                         |    +―家員    +―時重
                         |            |
                         |            |  八郎左衛門
                         |            +―清秀
                         |
                         |  豊島四郎  兵衛尉
                         +―俊経――――遠経
                         |
                         +―平塚入道

●葛西氏系図2(『米良文書』笠井氏系図)

笠井三郎清重法名道蓮―西三郎―+―三郎太郎■清――――又太郎兵衛―+―孫左衛門平源重
                |                 |
                |                 +―左衛門四郎平安■―――彦三郎清安―――三郎太郎行貞
                |                 |
                |                 +―左衛門五郎重銀
                |                 |
                |                 +―左衛門六郎重行
                |
                +―小三郎左衛門平光清―+―孫左衛門時清
                            |
                            +―孫三郎重景―――孫三郎入道道蓮(西小松別当房)
                            |
                            +―左衛門三郎清成

●葛西氏系図3(『米良文書』笠井氏系図)

  壱岐守、後出家     嫡子
 清重―――――――+―伯耆前司
          |
          |  二男
          +―伊豆守
          |
          |  三男
          +―井澤七郎左衛門尉
          |
          |  四男 葛西河内守    葛西河内四郎左衛門尉 
          +―重村――――――――+―友村
                      |
                      |  葛西四郎左衛門尉嫡女
                      +―平氏女
                      |
                      |  四郎左衛門尉嫡子 号丸子八郎
                      +―清友
 
   乾元二年閏四月廿二日    御先達越後律師祐玄 在判

………………………………………………………………………………………………

 葛西八郎平清基 在判

   弘安三年二月十八日

………………………………………………………………………………………………

 葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏 在判

          藤原氏女

          同子息彦五郎重盛 在判

   正応五年十一月十三日


葛西氏惣領仙台藩葛西氏宇和島藩葛西氏盛岡藩葛西氏葛西氏庶流
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