継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
生没年 | 延文5(1360)年11月3日?~応永33(1426)年6月8日 |
父 | 千葉介満胤 |
母 | 不明 |
妻 | 上杉右衛門佐氏憲入道禅秀女 |
官位 | 正五位下? |
官職 | 修理大夫 |
役職 | 下総国守護職 |
所在 | 下総国千葉庄 |
法号 | 輝山常光・称名院兼哲往讃 |
墓所 | 千葉山海隣寺? |
千葉氏十四代。千葉介満胤の嫡子。明徳3(1392)年7月21日誕生したと伝わる。官途は修理大夫(応永廿四年十一月廿五日「龍興寺寺領安堵状」『諸家文書纂』)。ただし「修理大夫」は官位相当で四位の顕職で中央貴族や斯波足利家が任官する慣例を持つ官職であり、『上杉本上杉系図』上杉氏憲(禅秀)女子の配者として見える「千葉修理亮兼胤」の通り、五位の修理亮である可能性もあろう(ただし書状の署名として修理大夫と記すかは不明)。
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兼胤花押 |
鎌倉公方足利満兼を烏帽子親として「兼」字を給わったとみられる。応永16(1409)年7月22日、その足利満兼が亡くなり、わずか十二歳の幸王丸(同年、将軍義持を烏帽子親として持氏と名乗る)が関東公方を継ぐと、「新田殿ノ嫡孫謀反ヲ起シ、回文ヲ以便宜ノ軍兵ヲ催サレケレハ、鎌倉ノ侍所千葉介兼胤カ生捕ニシテ、七里浜ニテコレヲ討」った(『鎌倉大草紙』)とする。ただし、兼胤はこのとき十八歳と弱冠であり、侍所の重職にあったことは疑問があり、父の満胤が就任していたのではなかろうか。なお、生田本『鎌倉大日記』を読むと「新田■■殿」が「侍所于時千葉」を七里ガ浜において誅し奉ったとなるが、「奉誅」の対象「之」は明らかに「殿」付けのある「新田■■殿」であろう。『本土寺過去帳』では、「廿二日上」に「勝光院殿応永十六七月、新田武蔵守同年被誅」とあり「勝光院殿」もともに処刑されたことになる。この件は様々に記述が残り、討たれた対象も「新田武蔵守」「新田相模守」「新田治部大輔」など異なる。
●応永16年7月22日の七里ガ浜
勝光院殿 応永十六年七月 新田武蔵守 同年月被誅殺 |
『本土寺大過去帳』廿二日上 |
七ゝ廿五ゝ夜、満兼御逝去刻、新田■■殿、侍所于時千葉、於七里浜奉誅之 | 生田本『鎌倉大日記』応永十六 |
七月二十二日、従四位左馬頭兼左兵衛佐満兼公逝去、于時三十三歳、… 同日、新田相模守ヲ於七里浜ニ侍所千葉介討之、 |
『喜連川判鑑』応永十六 |
新田殿ノ嫡孫謀反ヲ起シ、廻文ヲ以便宜ノ軍兵ヲ催サレケレハ、 鎌倉ノ侍所千葉介兼胤カ生捕ニシテ、七里浜ニテコレヲ討之静ケル |
『鎌倉大草紙』 |
七月廿二日…満兼逝去刻、新田治部大輔、侍所千葉介、於七里浜奉之 | 彰考館本『鎌倉大日記』応永十六 |
-千葉介兼胤略系図-
千葉介氏胤 +―酉誉上人
∥ |《増上寺開山》
∥ |
∥――――+―千葉介満胤―――千葉介兼胤 +―千葉介胤直
∥ (千葉介) (千葉介) |(上総下総守護職)
∥ ∥ |
新田義貞―――娘 ∥――――+―千葉胤賢――→《武蔵千葉氏》
∥ (中務大輔)
上杉氏憲入道禅秀―――娘
応永17(1410)年6月29日、関東公方足利持氏の「御評定始」が行われた(『生田本鎌倉大日記』)。ところが、この御評定始は「未御童躰之間、不能御出」(『生田本鎌倉大日記』)とされた。すでに十三歳にして元服も済ませ、御評定始の予定も組まれていたにも拘わらず、評定に姿を見せることはなかったことは異例であろう。このことは関東管領上杉安房守入道長基(上杉憲定)から将軍義持に通告されている可能性があり、この近辺で長基入道と将軍義持は連絡を取っている。8月7日、「上杉安房入道長基」は「丹波国八田郷内本郷、同国漢部郷除原村事」の「領掌不可有相違」ことの義持袖判状を受けている(応永十九年八月七日「足利義持袖判御教書案」『上杉家文書』)。
そして8月15日、持氏は「依虚事子細、八ヽ十五ヽ若公管領宿所山内へ出御」(『鎌倉大日記』)という。原因は「満隆御陰謀雑説故歟」(『鎌倉大日記』)と見える。「満兼ノ御弟満高、御陰謀ノ企アリトテ、鎌倉中以外ニサハキケレハ、若君管領山ノ内ノ舘ヘ御出アリ、上杉安房守長基色々取持テ、満高陳謝アリテ、御無事ニ治リケリ」(『鎌倉大草紙』)というもので、公方持氏の叔父満隆の陰謀の企てによって、持氏が関東管領長基入道邸へ避難した騒動だったのである(『鎌倉大草紙』)。事前に将軍義持の指示を受けた長基入道が持氏へ告げた結果であった可能性があろう。
この騒動はかなり大きなものだったようで、8月24日に「沙弥(鎌倉の不穏な動きを知らされた人物と思われ、鑁阿寺に指示するほどの人物であることから、管領山内上杉憲定より知らせを受ける立場にあった人物であろう)」が鑁阿寺に「於鎌倉御用心御事候哉、不替時、任先規殊可被致御祈祷状、如件」(応永十七年八月廿四日「沙弥書下」『鑁阿寺文書』)の指示をしている。結果として、憲定入道が骨を折り、満隆が持氏に陳謝して騒動は収まったという。持氏が御所に戻ったのは「同九ヽ三ヽ御所へ還御座」(『鎌倉大日記』)だった。
持氏の「御評定始」では持氏の出席が見送られ、その直後に満隆謀叛の企てが起こっているが、これは一連の出来事として考えてよいものであろう。満隆の兄の前公方満兼亡き後、幼少の持氏に評定始等の出席を行わせず、その地位から退ける企てが、この鎌倉騒乱ではなかろうか。満隆が陳謝していることから、将軍義持から何らかの厳命が下っていた可能性があろう。その後、満隆の存在はしばらくうかがえなくなる。
ところが、この騒動の二か月後の10月11日には、「沙弥(禅秀入道)」が「若宮別当大僧正御房」に「鶴岡八幡宮社領沽却所々」を申請のままに知行を安堵する奉書を発給している(応永十七年十月十一日「上杉禅秀奉書」『神田孝平氏旧蔵文書』)。満隆の「御陰謀」を収めた山内安房守入道長基はいまだ管領職にあり、「辞退」したのは翌応永18(1411)年「正ゝ十六ゝ」(『鎌倉大日記』)のことで、「禅秀 右衛門佐入道二ゝ九ゝ、管領職領掌、同廿始評定」(『鎌倉大日記』)が継承したのはさらに半月後の応永18(1411)年2月9日のことだった(管領就任後の禅秀の評定始は2月20日とされる(『喜連川判鑑』))。入道長基が管領を辞したのは「病に依」(『鎌倉管領九代記』)ともされるが、すでに応永17(1410)年10月の時点で病状は悪化していて、禅秀入道が前管領朝宗入道息として事実上管領職を代行していた可能性はなかろうか。
応永19(1412)年「三ゝ五ゝ御判始」(『鎌倉大日記』)を行い、関東管領の禅秀入道のもと、実質的な政務を執り始めたとみられる。
同年11月19日、常陸国の「鹿嶋社御神領内小牧」の小牧十郎国泰の押領に関する相論について、鎌倉の評定で審議の様子を「鹿嶋社大禰宜殿(大中臣憲親)」が関東評定衆の一人と思われる「沙弥薀誉(佐々木基清入道)」に問い合わせる書状を鎌倉へ送った(応永十九年十一月廿六日「沙弥薀誉書状」『塙不二丸氏所蔵文書』)。この書状は11月24日に佐々木薀誉のもとに到来し、翌25日の「御評定」で「無為ニ令落居候」となり「近日之間、可御判出候之間、目出候」という鹿嶋大禰宜の訴えが認められ、近日奉書が下されるであろうことを薀誉が26日に書状に記して鹿嶋大禰宜のもとへ送達した。御評定については「自元御理訴御事候間、衆中、間領、上方御一同御落居之間、殊ニ目出候」といい、そもそも鹿嶋大禰宜に理のある訴えであり、御評定に出席者の満場一致での採決だったという。ここに見える「衆中」とは関東評定衆、「間領」とは禅秀入道、「上方」は持氏である。持氏はすでに「御評定始」は行っており、応永17(1410)年6月29日以降の評定には出席していたと考えることが妥当であろう(応永17年から後述の応永22年まで五年もの間、持氏が逼塞していたとは考えにくく、京都においても関東問注所や関東政所を通じて当然情勢は伝わっていたであろう。将軍義持が烏帽子子として気にかけていた持氏が逼塞していると義持が察すれば、義持から満隆へ何らかの譴責がくだるであろう)。そして、管領を禅秀入道に譲って引退していた安房入道長基は、応永19(1412)年「十二ゝ十八ゝ、長基頓滅」(『鎌倉大日記』)という。享年三十八。「大酒之後示疾、其夕不慮逝去」(『上杉系図大概』)ともある。
前管領の死から九日後の12月27日、持氏は「新御堂御所御移徒」(『喜連川判鑑』)とあるが、これは「十二月廿七日、満高、新御堂御所御移徒」(『鎌倉大日記』)を誤記したもので、持氏が御所を移転したわけではない。満隆は「新御堂小路殿」(『鎌倉大草紙』)、「新御堂殿」(『鎌倉大草紙』)、「號新御堂故満氏三男也」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)を称しているように、満隆が移った御所は「新御堂」のある「小路」(称してこの小路を新御堂小路と呼んだのだろう)にあった。これが新屋形であったのか従来からあったのかは定かではないが、このタイミングから、満隆は前管領の安房入道長基の監視下に置かれていた可能性があろう。
『喜連川判鑑』では、「新御堂御所御移徒」(『喜連川判鑑』)したのは持氏となっているが、そもそも十五歳ですでに従四位下左馬頭たる公方持氏が、謀叛を企てた「叔父満隆の新御堂御所」に転居することなど考えにくい上に、満隆が公方御所の名を号することも不自然である。つまり、持氏ははじめから転居していない、ということになろう。後日、上杉禅秀の乱で持氏が御所を遁れた際には、十二所を経由して岩戸山(岩殿山)、小坪、前浜、佐介国清寺というルートを取っている。つまり、持氏居住の御所は、これまで同様に浄妙寺付近の御所であったことがわかる。
「新御堂」については、公方御所から東に「かつて」、「大倉新御堂」と称された大慈寺があったが、大慈寺は鎌倉外港六浦への大道六浦道沿いにあり、現在の明石橋北側一帯が寺域であった。西側には当時から明王院が接し、門前には六浦路を挟んで滑川が流れ、周囲に小路は存在せず、御所を建てられる空閑地も存在しない。さらに大慈寺が「大倉新御堂」と呼ばれていたのは建保2(1214)年頃までであって、その後は義時建立の大倉薬師堂(現在の覚園寺)が「大倉新御堂」と呼ばれるようになっている。つまり、満隆の号「新御堂」と大慈寺はまったく関係ない。
「禅秀の乱」の際には、満隆は「西御門」の故基氏「保母清江夫人」(『空華日用工夫略集』一)の菩提所「保寿院」(『鎌倉大日記』)に移っていることから、満隆の「新御堂御所」は、西御門保寿院に近い場所であったと推測される。持氏と対立した犬懸入道禅秀が公方御所を経ずに満隆と密かに通じたであろうことを考えると、「新御堂小路」は永福寺前の薬師堂谷、覚園寺(大倉新御堂)から延びる小路で、満隆の館はここにあったと想定される。
その頃、千葉では応永20(1413)年8月28日、兼胤は直臣を引き連れて香取神宮に参詣した。
●応永20(1413)年8月28日「千葉介兼胤香取社参記録」(『香取大禰宜家文書』)
その三年後の応永23(1417)年2月26日には「新介殿兼胤」が、木内三郎左衛門・曽谷弾正・円城寺新兵衛を奉行として飯沼円福寺(銚子市)に参詣している(『兼胤円福寺参詣振舞料足注文』)。ここにみえる「曽谷弾正」とは、八幡庄曽谷を本貫地とする在地豪族で、兼胤の祖父・千葉介氏胤の母親の実家でもある。
●応永23(1416)年2月26日『兼胤円福寺参詣振舞料足注文』(『円福寺文書』)
兼胤は応永20(1413)年以前に管領上杉禅秀入道の娘を娶っており、応永21(1414)年には嫡子胤直が生まれている(生年は『諸家系図纂』の没年齢より逆算)。応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」では、前管領の氏憲入道禅秀が鎌倉公方足利持氏の御所を攻めた際、舅の禅秀に加担し、父の千葉大介満胤とともに鎌倉米町表に陣取った。持氏奉公衆には海上筑後守憲胤やその子海上信濃守頼胤といった一族が見えるが、彼らとは敵対する(『鎌倉大草紙』)。
●上杉禅秀方についた千葉一族(『鎌倉大草紙』)
千葉大介満胤 | 千葉修理大夫兼胤 | 千葉陸奥守康胤 | 相馬(大炊助胤長?) | 大須賀(相馬左馬助憲康?) |
原(四郎胤高?) | 円城寺下野守(尚任の父か) | 臼井(?) |
この上杉禅秀の引き起こした騒乱の余波は、禅秀の乱が収束したのちも関東公方に暗い影を落とし、関東や京都を巻き込む騒乱となり、小田原北条氏が滅亡する百七十年以上のちまで続いていくことになる。
なお、もともと公方持氏と、関東管領禅秀入道との間には対立があったわけではなく、応永21(1414)年7月2日午刻には、持氏は禅秀入道とその子の病気平癒のため、奉行人の「沙弥道繁」に書状をしたため、「御管領并御曹司御違例之間、被致御祈祷之精誠、可有御進上、巻数同本符之由」を足利の鑁阿寺に依頼している程である(応永廿一年七月二日「沙弥道繁奉書」『鑁阿寺文書』)。
同年8月20日には、持氏は故前管領安房入道長基の子「佐竹左馬助(義憲)」の所領であった「常陸国那珂東国井郷内佐竹左馬助跡」を鶴岡八幡宮に寄進している(応永廿一年八月廿日「足利持氏寄進状」『鶴岡八幡宮文書』)。これは佐竹義憲の下人が鶴岡八幡宮社頭で狼藉を働いたための「収公」で、鶴岡八幡宮の「為武蔵国津田郷内放生会料所不足分」として寄附されたものである。持氏は故安房入道に叔父満隆謀反の件で恩義を感じつつも、私情を挟まずに粛々と正否を諮っていた様子がうかがえる。
ところが、応永22(1415)年3月5日、持氏は御評定で「諸国ノ政事ヲ被聞召」、決裁意見を管領らに諮問する「御評定御意見始」の儀を行った(『喜連川判鑑』)。それまでは御評定の決裁に際しては意見を諮問せず決裁事項に御判を書き、管領禅秀入道が御教書として当事者に下していたのだろう。禅秀入道と持氏が決定的に対立する事件は、この「御意見始」の次の次の評定で起こったようである。
応永22(1415)年4月25日、「鎌倉政所」での御評定のとき、「犬懸ノ家人、常陸国住人越幡六郎」が科によって所領を没収された(『鎌倉大草紙』)。後年、管領の安房守憲実のもと常陸国真壁郡の鹿嶋神領の下地沙汰付の両使として遣わされている常陸国「小幡左近将監(泰国)」の同族であろう。このとき管領禅秀入道は「サシタル罪科ニアラス、不便」として「扶持」したことで、持氏は「以ノ外御気色ヲカフモリケル」という。越幡六郎が管領禅秀入道の家人であったことでその公私混同を詰ったのではなかろうか。ところが禅秀入道は「道ノミチタルコトヲイサメス、法外ノ御政道ニシタカヘ奉ルテ、職ニ居テ何ノ益アラン」と述懐し、5月2日、管領職を辞する旨を上表した(『鎌倉大草紙』)。
持氏はこれを請けると「カヤフノコト、弥上意ヲ奉令軽」と激怒し、禅秀の上表を容れて、5月18日、故憲定入道長基(大全)の子息、安房守憲基を新たな関東管領に任じた(『鎌倉大草紙』)。
このように持氏と禅秀の間には険悪な空気が流れはじめ、それにともない鎌倉中が騒動して、戦乱の臭いを嗅ぎつけた近国の兵が鎌倉に忍び集まってきたが、鎌倉府は7月20日、彼らに帰国を命じている(『鎌倉大草紙』)。ただ、9月18日、持氏は「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「一族親類等令同心、可致忠節候、且此子細可相触在国之輩候也」という不穏な文書を送っている(『皆川文書』)。この頃には前管領禅秀入道は新御堂殿満隆と繋がり、持氏もそれを察していたのであろう。
12月19日、新御堂殿満隆は「安房国長狭郡龍興寺」を「可為祈願所」とし、祈祷を「可被致清誠」ことを命じている(応永廿二年十二月十九日「足利満隆御教書」『保坂氏所蔵文書』)。
●応永22(1415)年12月19日「足利満隆御教書」(『保坂潤治氏所蔵文書』)
安房龍興寺は二年後の応永24(1417)年11月25日、千葉介兼胤が「瑞泉寺殿(足利基氏)」の寄進状、「永安寺殿(足利氏満)」の祈願所の状の通り、知行地不明ながら知行地の証を与えているが、ここから龍興寺は鎌倉足利家の祈願所として継承されていた寺院であったことがわかる。応永22(1415)年12月19日当時、すでに禅秀入道が管領職を辞して半年余り経過しており、禅秀入道はこの頃には満隆(及び持氏異母弟で満隆養子の持仲)と繋がりを有していたとみられ、満隆が鎌倉足利家代々の祈願所に祈祷を命じたのも、関東公方の継承を企図する意識の顕れなのであろう。
以下は『鎌倉大草紙』での禅秀の乱の顛末に『禅秀記』『看聞日記』の記述を追加したものである。
応永23(1416)年、鎌倉公方足利持氏と前管領上杉禅秀の不和が京都に伝わり、「動乱ノヨシ聞ケレ」た際、「義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉ヘ御下シ有テ上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル、持氏卿ノ伯父新御堂小路殿ヲモ頼ミ玉ケリ」(『鎌倉大草紙』)とあり、足利満隆が禅秀を招いて評定を行った際に、禅秀は、
「持氏公御政道悪シクシテ諸人背申事多シ、某諌メ申スト云ヘドモ、忠言逆耳御気色悪シクナリ、結句、御外戚ノ人々依申掠御不審ヲ罷蒙ルト云ヘドモ、誤ノナケレバ鰐ノ口ヲ遁候ヘキ、世ハハ唯為恩ニ仕ヘ、命ハ依義軽シト申候ヘハ、イカヤウニ不義ノ御政道積リ、果テハヤガテ謀反人アリ、世ヲクツガヘサン事チカク候カ、内々承ル子細モ候、他人ニ世ヲトラレサセ給ハン事ヲ、御当家ノ御歎キ申テモアマリアル御事ニテ候、サテ亦君ハ去ル応永十七年ノ秋、佐介入道大全カ讒言ニテアヤウキ御目ヲ御覧セシ御恨忘サセ給ハシ、今京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有不参、不日ニ思召立、鎌倉ヲ攻落シ、押テ御上洛アラハ天下ノ反復コソマノアタリニテ候」
と満隆に勧めたという。満隆もおおいに悦び、
「内々存子細アリトイヘトモ、身ニオヘテ更ニ望ナシ、甥ノ持仲猶子ニ定ツル間、是を取立給ハレ」
と、猶子の足利持仲(持氏の異母弟)を取り立てることを頼んで禅秀に同心したため、禅秀は初秋から病気と称して邸に引きこもり、謀反を計画したという。
禅秀入道の郎等は「国々ヨリ兵具ヲ俵ニ入、兵粮ノヤフニ見セテ人馬ニ負セ」て鎌倉に武具を集積し、人々に気取られることなく準備が進められた(『鎌倉大草紙』)。そして、「新御堂殿」の御内書に禅秀が副状を付けて回文を作成し、「京都ヨリノ仰ニテ持氏公并憲基ヲ可被追討」を諸大名に遣わしたという。その回文を見て集まり来た人々は、禅秀の娘婿である「千葉介兼胤、岩松治部大輔満純入道天用」を筆頭に、多くの諸士が加担したという(『鎌倉大草紙』)。また、陸奥国には「篠河殿(満隆兄弟の足利満直)」を通じて葦名盛久、白河結城、石河、南部、葛西、海道四郎など、こちらも多くの有力諸大名が禅秀に加担した(『鎌倉大草紙』)。
●足利持隆・上杉禅秀入道に加担した人々(『鎌倉大草紙』他)
千葉介兼胤 岩松治部大輔満純入道天用 渋川左馬助 舞木太郎 大類氏、倉賀野氏、丹党の者、荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、甕尻氏 武田安芸入道信満 小笠原の一族 狩野介一類 曾我、中村、土肥、土屋各氏 名越一党、佐竹上総介、小田太郎治朝、府中大掾、行方、小栗 那須越後入道資之、宇都宮五左衛門佐 蘆名盛久、白川、結城、石川、南部、葛西、海東四郡の者ども 木戸内匠助伯父甥、二階堂、佐々木一類 |
上杉禅秀婿 上杉禅秀婿 武蔵国丹党、児玉党 上杉禅秀舅。甲斐国 信濃国 伊豆国 相模国 常陸国 下野国 陸奥国(笹河殿ヲ頼) 奉公衆 |
坂本犬菊丸 ・常陸国信太庄内久野郷の地頭 |
応永24年3月3日「上杉憲基寄進状」 (『円覚寺文書』) |
【禅秀家人】:下野国西御庄で捕縛 秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎 土橋又五郎、石井九郎(若党) |
応永24年閏5月9日「足利持氏御教書案」 (『松平基則氏所蔵文書』) |
二階堂右京亮 ・上総国千町庄大上郷の地頭 |
応永24年閏5月24日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』) |
明石左近将監 ・武蔵国比企郡大豆戸郷の地頭 |
応永24年10月14日「足利持氏寄進状」 (『三島神社文書』) |
皆吉伯耆守 ・上総国天羽郡内萩生作海郷 |
応永24年10月17日「上杉憲基施行状」 (『上杉文書』) |
桃井左馬権頭入道(桃井宣義入道) 小栗常陸孫次郎(小栗満重) |
応永25年5月10日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
混布嶋下総入道 ・下野国長沼庄内混布嶋郷 ・下野国長沼庄内泉郷半分 ・下野国長沼庄内青田郷半分 |
応永25年7月12日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
応永23(1416)年10月2日夜、満隆と猶子持仲(持氏弟)が御所殿中から忍び出て、西御門の「宝寿院」(『鎌倉大草紙』)、「保寿院」(『鎌倉大日記』)で挙兵した。なお、京都へ実際に伝わった報告では「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)とあるので、満隆と上杉禅秀は鎌倉外から侵入した可能性がある。
禅秀挙兵の原因は、京都に伝わった情報によれば、「上杉金吾謀叛濫觴者、左兵衛督持氏母儀を令盗犯云々、依之可被討罰之由、有沙汰之間、上杉分国へ落下了、然而盗犯事、為虚名之間、雖被赦免、猶討罰事欝憤申、発謀叛」(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)というように、持氏母を禅秀入道が「盗犯」した噂により禅秀追討の沙汰が下され、禅秀は分国へ遁れたが、その噂は虚偽であったため持氏が「赦免」したものの、禅秀の鬱屈は晴れずに挙兵に及んだ、というものであった。真偽は不明だが、持氏は禅秀入道を信用していなかったことは確かであろう。
犬懸上杉家の郎党の屋部氏、岡谷氏の両人が手勢を引率して、夜に入って塔辻に下り、鎌倉の所々に堀を切り、鹿垣を結うなど防砦を築いた。
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犬懸上杉邸跡 |
一方、禅秀は持氏を捕らえるべく、御所へ向かった。この挙兵は前触れなく起こっており、持氏はこのとき「折フシ御沈酔」で寝ていたという。近習の木戸将監満範が御座近くに馳せ参じて持隆・禅秀らの反乱を伝えたが、持氏は、
「左ハアラジ、禅秀以テ外ニ違例ノヨシ聞食、今朝二男中務少輔持房、出仕致ケルカ、存命不定ノヨシニテ帰宅セシ」
と言い、瀕死の禅秀が兵を挙げるなど思いもよらないという返答であった。これに満範は、
「ソレハ謀反ノハカリ事ニ虚病仕候、唯今御所中ヘ敵乱入ラン、分内セハク防ニ馬ノカケ引不可叶、一間途御出アリ、佐介ヘ御入候ヘ」
と告げて、佐介の管領邸に移すべく持氏を馬に乗せて御所を脱出させた。すでに六浦路の西側「塔辻」には「敵篝ヲ焼テ警固」していたので、若宮大路を経由して佐介へ向かうことはできず、「岩戸ノ上ノ山路ヲ廻リ、十二所ニカゝリ、小坪ヲ打出、前浜」を馳せて佐介の管領上杉憲基のもとに遁れた(『鎌倉大草紙』)。持氏が御所から突然消えたので、「御供人々不存知間、或国清寺奉追人々者」(『鎌倉大日記』)といい、持氏馬廻衆ははじめ持氏の行方をつかむことができなかった様子があるが、その中に持氏を佐介に遁れさせた「木戸将監(木戸将監満範)」(『鎌倉大草紙』)も見えることから、木戸満範が彼ら馬廻衆を佐介に伴ったということかもしれない。なお、『鎌倉大草紙』は「国清寺」を「伊豆ノ名コヤノ国清寺」としており、持氏本陣となっていた佐介国清寺と混同している。
●足利持氏の脱出に御供した近習(『鎌倉大草紙』):■千葉一族
一色兵部大輔 | 一色左馬助 | 一色左京亮 | 一色讃岐守 | 一色掃部助 |
一色左馬助 | 龍崎尾張守 | 龍崎伊勢守 | 早川左京亮 | 早川下総守 |
梶原兄弟 | 印東治郎左衛門尉 | 田中氏(新田一族) | 木戸将監満範 | 那波掃部助 |
島崎大炊助 | 海上筑後守 | 海上信濃守 | 梶原能登守 | 江戸遠江守 |
三浦備前守 | 高山信濃守 | 今川三河守 | 今川修理亮 | 板倉式部丞 |
香川修理亮 | 畠山伊豆守 | 筑波源八 | 筑波八郎 | 薬師寺 |
常法寺 | 佐野左馬助 | 二階堂 | 小瀧 | 宍戸大炊助 |
宍戸又四郎 | 小田宮内少輔 | 高瀧次郎 |
このとき、佐介の上杉憲基は「安房守憲基ハ夢ニモ是ヲ知ラス、酒宴シテヲハシケル」が、ここに上杉修理大夫(小山田流上杉定重か)が三十騎ばかりで馳せ参じ、
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上杉禅秀の乱 関係地図 |
「禅秀入道、新御堂殿并持仲公ヲスゝメ申、御所ヲモ取リ籠奉リ、唯今是ヘモ発向スル處、カヤフニエフゝゝト渡ラセタマフソヤ」
と呼ぶが、憲基は少しも騒がず、
「何程ノコト有ヘキ、大将ノ満隆ハ先年雑説以ノ外ニテ、御大事ニ及ヒシヲ親ニテ候大全カ蒙恩、御命ヲ扶ケ給ヒ、何ノ間ニ我ニ向ヒ左ヤフノ悪事ヲ思ヒ立玉フハ天ノセメノカルヘカラス、又禅秀去応永九年ノ夏、奥州伊達大膳大夫退治ノ時、赤舘ノ戦ニ敗北シテ両国兵ニ見限ラレタリ、今更何カ彼ニシタカワンヤ」
と、その報告を信じようとしなかった。しかし、今度は上杉蔵人大夫憲長(庁鼻和流上杉憲長)が十四騎を率いて武装して馳せ参じ、
「敵味方ハ不知、何様前浜ニハ軍勢充満ス、打立タマへ」
と叫んだ。これには憲基も異変を感じ、急ぎ甲冑を著すると、「長尾出雲守、大石源左エ門、羽継修理大夫、舎弟彦四郎、安保豊後守、惟任助五郎、長井藤内左エ門、其外、木部、寺尾、白倉、加治、金子、金田ヲ初トシテ宗徒ノ兵七百余騎」を伴って出陣した。憲基は、
「御所ヘ馳参リ候ヤフ、イマタ恙ナク御座御供申、是ヘ入ヘシ、若又御所中ヲ敵取巻申サハ、西御門ニ火ヲカケ宝寿院ヘ推ヨセ、一戦タルヘキ」
を人々に申し合わせていたが、そのとき持氏が「宍戸六郎朝国」(応永廿四年三月「宍戸朝国着到状」『安得虎子』)ら味方の将兵ともども佐介に遁れてきたので、憲基はじめ人々は安堵した(『鎌倉大草紙』)。ここには、禅秀方と縁戚にあった大掾満幹とは袂を分かった「常州鹿嶋一族」が「上方、佐介江御移」を聞きつけ(応永廿四年正月「烟田幹胤申着到」『烟田文書』)、「惣領属鹿嶋兵庫助憲幹手」に属して参陣している(応永廿四年十月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)。その日付は闕だが、翌2月の軍忠状では「同三日」とあるので、「上方(持氏)」が佐介へ移ったのは10月3日の事となり、『鎌倉大草紙』の記述は誤りとなる。
●応永24(1417)年正月「烟田幹胤着到状」(『烟田文書』)
●応永24(1417)年3月「宍戸朝国着到状」(『安得虎子』)
鹿嶋一族や宍戸朝国、そのほか人々が佐介の持氏営所(後述の通り、管領亭ではなく佐介国清寺とみられる)の宿直警固を行っている。持氏にはさらに足利一族と所縁の深い伊豆山権現別当房密厳院の尊運僧都が加担している※。
※これは本寺の醍醐寺僧正隆源(三宝院満済師)との伊豆山密厳院を巡る継承問題(将軍義持の認可の矛盾により発生)を有利に進めたい尊運が、将軍の命を遵行する立場にある持氏(義持との関係は良好)に協力し、その対価を得ようとしたものであろう。しかし、翌応永24(1417)年7月1日、将軍義持は「伊豆山密厳院別当職事」は「所被補水本僧正隆源」とする御教書(執筆:伊勢因幡入道照心、伊勢貞長)が「左兵衛督殿(足利持氏)」へ下されており(応永廿四年七月一日「足利義持御教書」『三宝院文書』)、同日には管領「沙弥道歓(細川満元入道)」から「上椙安房守殿(憲基)」へ「就伊豆山密厳院事、御書候、早速申御沙汰候者、目出候」(応永廿四年七月一日「細川満元書状案」『三宝院文書』)が下されているように、持氏からの要望は認められなかった。これを受けて持氏は尊運僧都に沙汰を下したとみられるが、納得のいかない尊運僧都は9月、「早被退水、本僧正隆源非拠競望、任安堵御下文以下、代々手継相承旨、預御裁許全知行当院家職」(応永廿四年九月「伊豆密厳院雑掌栄快申状案」『醍醐寺文書』)を依頼している。
持氏が佐介へ遁れた10月3日は「悪日」のため、満隆・禅秀は寄せず、持氏・憲基からも寄せることはなかった。翌10月4日未明より、管領憲基は佐介谷南面の「浜面法界門」には長尾出雲守をはじめとする安房国勢を差し向け、南東の「甘縄口小路」には憲基弟の佐竹左馬介(佐竹左馬助義憲)、「薬師堂南」には結城弾正(結城弾正少弼基光)、北東の「無量寺口」には上杉蔵人大夫憲長、北の「気生坂」には三浦、相模国の人々、その北「扇谷」には上杉弾正少弼氏定とその子(持朝、持定か)らをそれぞれ派遣した。この他「所々方々馳向陣取」った(『鎌倉大草紙』)。
一方、「新御堂殿(足利満隆)」も同4日「馬廻一千余騎(いわゆる鎌倉府の奉公衆に相当する満隆近習と思われるが、持氏に供奉した二十七名を当時御所に詰めていた当番の奉公衆であるとすると、公方持氏に仕える奉公衆の実数はもう少し多かったと思われる。この持隆・禅秀の挙兵時に満隆に寝返った奉公衆もあったであろうが、それでも満隆に近侍した武士が持氏奉公衆より多いことは考えられないので、この一千余騎は近習の被官や陪臣層も含めても誇張であることは間違いなく、馬上の士は多くても百騎未満であろう)」を随えて、陣所とした西御門保寿院を出立し、若宮小路に布陣した。また、千葉大介満胤が「嫡子修理大夫兼胤、同陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下総守(下野守)を初八千余騎、米町表」に展開しており、千葉勢は小町大路筋の往来を固め、若宮大路下馬橋付近に睨みを利かせていたとみられるが、その後鎌倉中の戦いの中で彼らの働きは皆無であり、様子見に終始した可能性がある。
満胤、兼胤の軍勢の実数も不明だが、170年余り後世の天正18(1590)年、小田原合戦当時の千葉介ら下総国の国人の兵力動員が合計七千(『関東八州諸城覚書』)あまり、禅秀の挙兵当時はさらに少ないであろう。さらに、満胤、兼胤は下総守護として鎌倉常駐だったことのほか、不自然ではない人数や催促の日数を考えると、このとき彼らが率いた兵力は平時から鎌倉の千葉屋敷に伺候していた家人のみで構成されていたと推測できよう。当然ながら平時は在倉にかかる負担を軽減するため、必要以上の人数は置かないと考えると、満胤・兼胤や麾下の下総衆が率いた人々は、多くても合計して千騎程度であろう。
禅秀与党の「佐竹上総介入道(佐竹与義入道)、嫡子刑部大輔、二男依上三郎、舎弟尾張守一類」ら手勢百五十騎は浜の大鳥居から極楽寺口に展開した(『鎌倉大草紙』)。
禅秀の手勢は「嫡子上杉中務大輔(憲顕)、舎弟修理亮(氏顕)郎等千坂駿河守、子息三郎、岡屋豊前守、嫡孫ゝ六、甥弥五郎、従弟式部大輔、塩谷入道、舎弟平次右エ門、蓮沼安芸守、石河介三郎、加藤将監、矢先小次郎、長尾信濃守、同帯刀左エ門、坂田弾正忠、小早川越前守、矢部伊予守、嫡子三郎、其外臼井、小櫃、大弐、沓俣、太田、秋元、神崎、曾我、中村ノ者」ら二千五百騎あまりが鳥居の前から東に向いて鉾矢形に陣を張った(『鎌倉大草紙』)。ここに見える「臼井」「神崎」はおそらく千葉一族の各氏であろう。
京都へ伝えられた禅秀の乱の合戦当初の報は、二日の挙兵により「左兵衛督持氏、無用意之上、諸大名敵方ヘ与力之間、不馳参、管領上杉房州子息、為御方、纔七百余騎、無勢之間、不及合戦引退、駿河国堺ヘ被落了、同四日、左兵衛督持氏館以下鎌倉中被焼払了」(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)と京都へ伝えられている。これは禅秀挙兵と4日の合戦、7日の持氏の駿河国堺三嶋への落去がまとまった情報として伝えられたものであろう。なお4日の合戦では「去四日合戦、当方一色以下若干討死了」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)とあり、持氏血縁の一色某以下が討たれたことがわかる。
10月5日、持氏は9月中旬に軍勢催促を行った「長沼淡路入道殿(長沼義秀入道)」に「下野国長沼庄右衛門佐入道跡」など四か所を知行として宛行っている(応永廿三年十月五日「足利持氏御下文」『長沼文書』)。禅秀を除く三名は、いずれも3日前の禅秀挙兵に加担したことが判明している中心的な奉公衆なのだろう。
下野国長沼庄右衛門佐入道跡、同国大曾郷木戸駿河守跡、同国武田下條八郎跡、武蔵国小机保内長井次郎入道跡等事、所充行也者、早守先例、可致沙汰之状如件
応永廿三年十月五日 花押(足利持氏)
長沼淡路入道殿
ここから、下野国長沼庄内(真岡市長沼周辺)に禅秀の所領が食い込んでいたことがうかがえ、芳賀郡大曾(真岡市上大曾周辺)の木戸駿河守、芳賀郡堺郷(真岡市境)の武田下條八郎といった長沼庄に隣接する地域にも禅秀方の人々の所領があり、長沼淡路入道はこうした対立関係もあって当初より持氏に属したのだろう。
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鎌倉化粧坂 |
軍記物『鎌倉大草紙』の記述によれば、満隆・禅秀の手勢は「十万騎(実際は多くとも二、三千騎ほどだろう)」にも膨れ上がり、10月6日、禅秀は岩松治部大輔満純・渋川左馬助らの手勢を葛原岡の要衝「六本松」に差し向けたという。実際に宍戸六郎朝国が六本松合戦で「頭骨」に負傷している(応永廿四年三月「宍戸朝国着到状」『安得虎子』)ように、冑が飛んでしまうような激烈な戦いが繰り広げられたのであろう。
六本松は葛原岡の西麓に位置し、化粧坂方面と東西から葛原岡を攻め、前浜と葛原岡を占拠し、持氏・憲基が立て籠もる佐助を南北で挟撃する戦略であろう。この葛原岡を守る御所方は、扇谷から出張した上杉弾正少弼氏定であったが、氏定は深手を負って退却。麾下の上田上野介、疋田右京進ら大将は討死を遂げた。宍戸一族では、宍戸左近将監朝雄も「舎兄兵庫助(宍戸兼朝)」とともに参陣して兵庫助は討死を遂げている(応永廿七年十月「宍戸朝雄申状写」『小宅雄次郎氏所蔵文書』室:1908)。
この六本松の戦勝の余勢を駆って、禅秀勢は化粧坂に攻め懸けて勝鬨を上げた。
一方、葛原岡口守将の氏定が大敗したため、持氏・憲基勢は化粧坂の守りに、持氏馬廻衆から梶原但馬守、海上筑後守(海上筑後守憲胤)、海上信濃守(海上信濃守頼胤)、椎津出羽守、園田四郎、飯田小次郎以下の三十騎あまりを派遣している。ここから、持氏の周辺には守護級の将官がいなかった様子がうかがえる。公方身辺を警衛する馬廻衆に雑兵までもが戦闘力として機能する軍勢との合戦は期待できず、当然ながら馬廻衆は惨敗し、梶原但馬守と椎津出羽守が討死、「飯田、海上、園田四郎」も負傷して、無量寺まで退却することとなる。葛原岡の南岸下は御所方の拠点である国清寺であり、この葛原岡を禅秀方に取られたことは、御所方にとって致命的であった。
満隆、禅秀の手勢は鎌倉中を席巻し、「岩松治部大夫、渋川左馬介カ手ノ兵、走散テ国清寺上杉憲顕カ建立ナリニ火ヲカクレハ、火煙吹掛味方ノ兵共ケムリニムセビ、弓ノ本末ヲ忘テ逃伏テ落行ケリ」という。この国清寺の合戦で、御所方の「江戸近江守、今川参河守、畠山伊豆守、其外宗徒ノ兵卅余人討死」(『鎌倉大草紙』)し、「佐介舘ニ火カゝリシカハ、人力防ニ不叶、持氏落サセ玉フ、安房守モ御伴申、極楽寺口ヘカゝリ肩瀬腰越汀ヲ遥ニ打過玉ヘ、及黄昏、小田原ノ扁ニ付玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。
なお、持氏が遁れていた「佐介」の舘は、管領亭ではなく国清寺であった可能性が高い。
常陸鹿嶋一族が「上方、佐介江御移之間、為外門之手、致昼夜宿直警固以降」(応永廿四年正月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)とあるが、これは持氏が移った佐介館の外門の警衛についていたことになる。それは「去年十月国清寺外門之御合戦」(応永廿四年十月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)に見える「外門」であり、常陸鹿嶋一族は「上方(持氏)」が移った「佐介」の「国清寺外門」で合戦したのであろう。『鎌倉大草紙』では国清寺の放火と佐介館の放火が扱われているが、持氏は国清寺に本陣を構え、安房守上杉憲基は佐介亭にいたとみるべきだろう。なお、国清寺外門を鹿嶋一族とともに警衛していた「飯田民部丞」が、この期に及んで禅秀方に寝返り、烟田幹胤は彼との合戦で烟田幹胤は乗馬を死なせている。
●応永24(1417)年10月「烟田幹胤目安状」(『烟田文書』)
そして、禅秀勢の攻勢に佐介国清寺を警衛していた人々は「於彼寺討死畢、其外者令出家■■落行訖」(『鎌倉大日記』)とあるように敗れ去り、「木戸将監満範ヲハシメトシテ、廿一人、高矢倉ニ上リ、一同ニ自害シテ失セニケリ」(『鎌倉大草紙』)といい、佐介から遁れた持氏は「六日、由比浜御合戦、及難儀」(『鎌倉大日記』)のため、鎌倉を脱出し「自其夜駿州へ御発向」した(『鎌倉大日記』)。
この10月6日の「前浜合戦」には佐介館以来従っていた常陸鹿嶋一族も奮戦している。そして、この前浜合戦では、「今度大乱刻、他門跡輩一人毛不令参陣處、尊運独召具内者共、馳参佐介陣、去年十月六日於浜合戦、侍四人令討死其外被疵輩、被切乗馬者、不可勝計」(応永廿四年九月「伊豆密厳院雑掌栄快申状案」『醍醐寺文書』)とある通り、伊豆山密厳院の尊運僧都は持氏に加担し、自ら由比浜の合戦に加わり、供侍四名が討死を遂げている。
●応永24(1417)年2月16日「足利持氏感状」(『烟田文書』)
また、葛岡原で重傷を負った扇谷上杉弾正少弼氏定は、藤沢まで持氏に供奉するも、力尽きて「藤沢道場ニ入テ自害」した。四十三歳という(『鎌倉大草紙』)。
鎌倉を落ちた持氏は、「安房守モ御伴申、極楽寺口ヘカゝリ肩瀬腰越汀ヲ遥ニ打過玉ヘ、及黄昏、小田原ノ扁ニ付玉フ」(『鎌倉大草紙』)と、6日夕刻には小田原に到着したという。ところが、「爰ニ土肥、土屋ノモノ共、元来禅秀一味ナレハ、小田原宿ヘ押寄、風上ヨリ火ヲカケ、攻入ケレハ、御所ト憲基ヲハ落シ奉リ、兵部大輔憲元父子并今川残留テ討死シテ、夜ノ間ニ箱根山ニ入ラセ玉フ」(『鎌倉大草紙』)といい、西湘中村党の土肥氏、土屋氏が持氏一党の宿する小田原宿を急襲し、持氏と管領憲基を落とすため、同道する上杉兵部大輔憲元父子が奮戦して討死を遂げている。その間に持氏らは箱根山まで逃れ、「於箱根山夜明ル間、翌日七日午剋計、箱根ヘ御著」(『鎌倉大日記』)して「箱根別当証実御供」し、彼を案内者として証実の出身である「駿河国大森カ舘」へ向かった(『鎌倉大草紙』)。この「大森カ館」がどこか不明だが、箱根越えのルートである鮎沢川沿いの大森氏領(駿東郡小山町)か。しかし、大森氏も小勢であり、持氏らを支えることは不可能であった。さらに禅秀の舅である甲斐武田信満入道の勢力も程近く、結局「駿河今川上総守ヲ御頼可然チ評定有テ、駿河ノ瀬名ヘ御通りアル、今川上総介範政ハ氏定聟ニテ御所ヘモ常ニ通ラル故ナリ」(『鎌倉大草紙』)という。
そして10月7日「同日入夜、三嶋へ御著、自三嶋忍天、召具箱根別当、於瀬名へ御通事」(『鎌倉大日記』)と見え、三嶋宿から箱根山別当証実が「瀬名(駿河国府中)」に駐屯する今川上総介範政のもとへ使者として遣わされたのであろう。
京都にはじめてこの関東の大乱が報告されたのは10月13日であった。
10月13日、この「前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)の将軍義持への注進は、ちょうど「室町殿、因幡堂御参籠」のため、因幡堂に「諸大名馳参、有御評定」った。ここで「駿河ハ京都御管領之間、先駿河ヘ可入申之由、守護今川金吾被仰、関東へ先御使可被下云々、相国寺南西堂可下向」といい、駿河守護の今川範政にその対応を命じるとともに、相国寺南西堂の和尚を避難中の持氏への使者として遣わすことを決定する(『看聞日記』応永二十三年十月十三日条)。
続けて、10月15日夕刻に「自関東重飛脚到来」(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)している。この内容は「管領并武衛ニ注進」されたが、「室町殿北野経所ニ御座之間、管領、武衛等馳参令披露、則還御、以外御仰天、周章」させる内容であった(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)。その内容は「上杉金吾以大勢、去七日責寄之間、兵衛督持氏并管領以下廿五人腹切之由」(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)というものであった。この内容は醍醐寺報恩院僧正隆源(伊豆山密厳院につき別当尊運僧都と論じた人物)の記録にも、弟子の満済座主が将軍義持へ宛てた書状の内容として「鎌倉殿被切御腹之由」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月十七日条)とあり、やはり「御所様、凡御仰天」であった。
「左兵衛督者、室町殿烏帽子子、別而御扶持之間、御欝憤無極」と、烏帽子子持氏が自刃を遂げたという報告に対する将軍義持の怒りはすさまじく、「関東京都敵対申歟之間、天下大乱之基、驚入者也」という(『看聞日記』応永二十三年十月十六日条)。この飛脚は「自駿河守護方注進」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)であり、守護今川範泰からの一方であった。満濟も「鎌倉殿於伊豆已御自害、当管領上杉房州同自害、委細重可言上」という報告を受け、「御所様御仰天無申計」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)と記している。義持は「御祈事、旁可有御沙汰、仍方々可申遣由、被仰出了」(『満濟准后日記』応永廿三年十月十六日条)といい、すぐに護持僧から東寺、醍醐寺までも総動員して各々「五大尊護摩」の修法を命じ、その他寺院にも祈祷を指示するほどのかなり大掛かりな関東鎮定と持氏らの延命を念じている。
10月19日、醍醐寺座主満済から師の醍醐寺隆源僧正へ宛てた文書では、「関東事、尚々驚入候、但鎌倉殿御自害事、荒説之由、昨夕重又注進到来、先珍重候、今度御祈事、御所様為御息災候、不動護摩御始行、目出候」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月十九日条)と、昨18日夕方に届けられた注進で持氏の無事が確認されたことに安堵する様子がうかがえる。持氏がどこにいたのかを記す一次史料は存在しないが「管領憲基、佐竹左馬助義憲等、僅七八人ニテ駿州ノ国司今川上総介ヲ御頼ミ、瀬名ノ奥、安楽寺ニ落付玉フ」(『喜連川判鑑』)と見える。そして「憲基、義憲ハ越後ヘ赴ク」(『喜連川判鑑』)とあり、管領憲基と佐竹義憲は叔父房方の守護国越後国へ向かったと思われる。駿河に落ち着いた日は、京都に今川範政からの飛脚が届いた10月28日夕刻(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)から考えると、10月23日頃となろうか。
10月20日には伏見の貞成王のもとにも飛脚の内容が伝えられ、「関東事、左兵衛督、腹切事虚説也、管領者腹切了、於武衞者無殊事、京都被憑申之由有注進云々、近日巷間無窮也」(『看聞日記』応永二十三年十月廿日条)という。
10月29日、伏見宮貞成王のもとに「自関東昨夕又注進」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)の「左兵衛督、駿河国へ没落、国中ニ被座云々、京都御合力併被憑申之由」の報告が到来している。「駿河国司今川上総介範政、京都へ注進申」(『鎌倉大草紙』)た書状であろう。
将軍義持はこの報告を受けて「諸大名被召御評定」するが、「面々閉口不申意見」という重苦しいものだった。これを見た義持叔父の「小河大納言入道(足利満詮入道)」は、おもむろに「武衞者、為御烏帽子々、爭可被見放申哉、且又敵方、鎌倉既一統之上者、京都へ企謀叛事、難測者歟、其為も可被扶持申之條、可然歟」と具申する(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)。この意見に将軍義持や諸大名も得心し、すぐに「駿河守護今河、越後守護上杉、可合力申」の決定を下し、「先越後国へ可被越之由」を持氏に伝えるよう命じた(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)。
なお、20日の注進にあった「管領者腹切了」も誤伝であり、「去四日合戦、当方一色以下若干討死了、管領腹切事者、無其儀、行方不知没落云々、敵方號新御堂故満氏三男也、鎌倉中令一統」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)といい、管領憲基は行方知れず、敵方満隆が鎌倉を手中にした報告が為されている。なお、京都への注進は、戦時ということもあって多分に真実ではない部分も報告されており、伏見宮は「近日風聞説、無窮也、記録無益歟」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)と嘆く。しかし、京都の人々の関心の高さがうかがえる。
このような関東への対応に追われている最中、10月30日に今度は将軍義持の弟で、従二位権大納言という高位の「新御所」足利義嗣が突然逐電するという事件が起こった。醍醐寺理性院の宗観僧正房が30日、隆源僧正へ「潜通」した内容によれば「此暁、新御所御逐電之間、諸大名馳参御所、京都騒動以外、但御在所栂尾之梅佃辺云々、仍富樫、大館両人率軍勢、向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也云々、山科新少将已入道令共奉云々、新御所法衣等、自元御用意衣著之、已御落飾云々、種々巷説充満、鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)という。10月30日の義嗣の突然の逐電と関東騒乱時期が重なったため、人々はこれを関連付けて巷説となっていたことがうかがえるが、その後、京都で義嗣と関東との繋がりが議されたことはなく、実際には彼らに繋がりはない。
11月3日、幕府は「宇都方ヘ御内書、今日渡遣、白久入道夜中門出、明暁可罷立由加下知了」(『満濟准后日記』応永廿三年十一月三日条)と、下野国の宇都宮持綱に御内書を発給。白久入道を使者として派遣している。「白久入道」は「宇都宮右馬頭持綱郎等白久但馬入道」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川家文書』室:2093)と同一人物と思われ、宇都宮持綱の使者として京都に来ていたとみられる。その四日後の11月7日には持氏から「飛脚到来、御合力之勢、急可下賜之由被申」(『看聞日記』応永二十三年十一月九日条)の連絡をうけており、義持は援軍に関する協議を行ったのだろう。
その後、御内書を受けた宇都宮持綱が発した「宇都宮御返書」が12月15日に満済から義持に披露されている(『満濟准后日記』応永廿三年十二月十五日条)。その二日後の12月17日、義持は管領細川満元をして「宇都宮、結城両人方へ御教書送給」した。この時の使者は「善右衛門入道」が務めた(『満濟准后日記』応永廿三年十一月十七日条)。宇都宮氏も結城氏も伝統的に将軍家との直接的な主従関係(鎌倉殿とは管国指揮系統に組み込まれているものの主従関係はない。ただし、管国守護は鎌倉常駐の義務を負う)を持つ「京都御扶持之輩」であり、京都と直接的なやり取りは常態であったろう。とくに宇都宮氏は京都との血縁関係も濃厚であり、北関東における要衝を押さえる氏族として京都も重要視していたと考えられる。なお、宇都宮持綱の「持」は持氏の片諱を給わったとされるが、持綱が宇都宮家を継承した応永14(1407)年末頃は足利満兼が鎌倉殿として健在で、持氏が継承したのはその三年後であることや、「持」字が将軍義持の一字を下されていることを考えれば、持氏からの偏諱とは考えにくく、持綱は将軍義持の一字を拝領したものであろう。この例を見るように、関東における「持」字の人々(関東奉公衆も含め)も持氏偏諱ではなく、将軍義持からの一字拝領と考えるべきで、鎌倉殿からの偏諱は共通する「氏」の片諱または「兼(満兼代)」が与えられたものと考えられよう。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3179356/1/33
大掾重幹
(権守)
∥――――――真壁氏幹
+―宇都宮貞綱――宇都宮公綱―――女子 (六郎)
|(下野守) (左馬権頭)
| ∥ +―一色義貫
| ∥ |(修理大夫)
| ∥ |
| ∥ 一色満範―+―女子
| ∥ (右京大夫) ∥
| ∥ ∥――――――宇都宮持綱
| ∥ ∥ (右馬頭)
| ∥ ∥ ∥
+―宇都宮泰宗――∥―宇都宮時景―宇都宮泰藤――宇都宮氏家――武茂綱家 ∥――――――宇都宮氏綱
(常陸介) ∥(美作守) (左近将監) ∥
∥ ∥
∥ +―赤松義則―――赤松満祐 ∥
∥ |(左京大夫) (左京大夫) ∥
∥ | ∥
∥ 赤松則祐―+―女子 ∥
∥ (律師) ∥――――――細川満元 ∥
∥ ∥ (右京大夫) ∥
∥ +―細川頼元 ∥
∥ |(右京大夫) ∥
∥ | ∥
∥ 細川頼春―+―女子 ∥
∥ (右京大夫) ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥―――――――宇都宮氏綱 ∥――――――宇都宮満綱――女子
∥ (下野守) ∥ (下野守)
∥ ∥ ∥
千葉宗胤―――女子 ∥――――――宇都宮基綱
(大隅守) ∥ (下野守)
∥
足利高経――+―女子
(尾張守) |
|
+―斯波義将―――斯波義重―――斯波義淳
(右衛門督) (右衛門督) (左兵衛督)
19日にも満済は将軍義持と「御雑談数剋、関東ヘ御教書事伺申了、可令談合管領由被仰下、仍罷向彼亭」『満濟准后日記』応永廿三年十一月十九日条)と、関東へ遣わす御教書について管領細川満元と相談するよう命じている。
その頃、鎌倉は「敵方號新御堂故満氏三男也、鎌倉中令一統」(『看聞日記』応永二十三年十月廿九日条)し、「新御堂殿并持仲、鎌倉ニ御座マス、関東ノ公方ト仰レ玉フ」(『鎌倉大草紙』)という。
このような中、持氏を庇護していた今川範政は、京都に鎌倉の大乱を注進し、幕府はただちに禅秀一党ならびに満隆、持仲父子の追討の御教書を発給。応永23(1416)年12月11日、「関東武衛(持氏)」が「室町殿御旗」(『看聞日記』応永二十三年十二月十一日条)を求める使者が室町殿に到来する。義持はこれを受けて早速御旗の製作を命じ、「御旗之文字、行豊之、代々佳例云々、令精進潔斎書之」と、佳例に則り、世尊寺流を伝える世尊寺行豊の文字を以て御旗の文字をしたためている。そして完成した御旗は「奉行長澤」を以て関東へ遣わしている(『看聞日記』応永二十三年十二月十一日条)。
おそらくこの御旗が駿河国へ下された際に、「不日ニ禅秀一類并新御堂殿、持仲公可追討ノヨシ御教書」が今川範政に下されたとみられ、12月に「上総介、関東ノ諸家中ヘ廻状ヲ送ラルゝ」(『鎌倉大草紙』)という。この「廻状」は関東の持氏方の主要武家(「京都御扶持之輩」に属する高い家格の家)に送られたのち、彼らを仲介して禅秀方の武家に伝えられたようである。禅秀方に属していた白河小峰七郎満朝には「応永廿四年正月七日到来、自宇津宮館」とあるように、宇都宮持綱を介して届けられている(応永廿三年十二月廿五日「今川範政書状写」『結城古文書写』)。
『鎌倉大草紙』には見えないが、持氏は個別に将軍義持と連絡を取りつつ、持氏救援を命じられていた駿河今川勢を後盾として鎌倉奪還を目指しており、12月23日に「先度為退治右衛門佐入道禅秀、昨日廿三、已所進発也」(応永廿三年十二月廿四日「足利持氏御教書」『皆川家文書』)と、駿河国を出立して鎌倉を目指したのだろう。
この時点で「禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」(『鎌倉大草紙』)とあるように、禅秀入道は千葉介兼胤以下の諸将三百騎余りを駿河国に向けて進発させていたのだろう。持氏らは久能山の東、駿河国入江庄(清水区入江)で彼らと対峙してこれを破った。なお、入江庄合戦は「十二月廿八日駿河国入江庄合戦」(『異本塔寺長帳』)とあるも、同書には続けて「同廿九日相州相模川合戦」(『異本塔寺長帳』)という時系列的に不可能な日付が記されていたり、雪ノ下合戦の期日が「翌正月二日」と記されるなど、期日には信頼性を欠いており、「十八」と「廿八」の転記ミスがあった可能性はある。
入江庄の合戦は「今川勢夜討シテ、禅秀敗軍」という結果に終わり、禅秀勢は「筥根水呑ニ陣ヲ取、今川勢三島ニ陣ヲ取」ったという(『鎌倉大草紙』)。そして12月中(12月25~26日頃だろう)に相模国河村城(足柄上郡山北町山北)に入った。ここに常陸国鹿嶋一族ほかの人々が「河村城ヘ馳参」じている(応永廿四年十二月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)。
一方、叔父上杉房方の守護国・越後国へ遁れた関東管領上杉憲基は、応永23(1416)年12月には越後国の兵力を率いて南下を始め、その途路、守護国の上野国のほか、下野、武蔵国の兵をも糾合してその兵力を拡大させた。想像ではあるが、そのルートは、越後国から千曲川沿いに信濃国を南下し、碓氷峠を経て上野国西部から鎌倉街道へ向かったとみられる。そして、12月18日及び22日に禅秀方勢力とぶつかっている(応永廿四年三月三日「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』)。この合戦の詳細は不明だが、『鎌倉大草紙』では「禅秀の聟岩松治部大夫、本名也とて新田に成かへり、館林辺へ討て出、国中過半したかへける、由良、横瀬、長尾但馬守、持氏の御方として、十二月十八日、岩松と合戦す」とあり、続けて「同月の廿二日、猶岩松多勢にて押寄せける、横瀬、長尾勝ほこりたる折からなれは、頓面押寄、不残追散しけり」と見えることから、憲基は守護として上野国に勢力拡大を目論む岩松満純入道を駆逐すべく、上野国人の由良氏、横瀬氏とともに被官の長尾但馬守を派遣して戦ったと言うことであろう。
また、『鎌倉大草紙』によれば、足利満隆は養子の乙御所持仲を「大将」に任じ、禅秀入道の子「中務大輔憲顕、其弟伊与守憲方」を武蔵国に派遣したという(『鎌倉大草紙』)。しかし、禅秀嫡子の憲顕(憲秋)は病で出陣せず(仮病であった可能性が高い。憲顕は将軍義持との繋がりを有し、当初より挙兵には積極的に加わっておらず、この直後、京都へ逃亡する)、弟の伊予守憲方が「大将軍」となり、持仲を奉じて、12月21日、武蔵国小机(横浜市港北区小机)に布陣した(『鎌倉大草紙』)。「武蔵国小机保長井次郎入道跡等」(応永廿三年十月五日「足利持氏御教書」『皆川家文書』)とあるように、この鎌倉街道(下道)に近接する要衝は、上杉禅秀入道与党の長井次郎入道の所領であり(公的には持氏によって収公され長沼淡路入道へ充行われているが、当時は施行されるゆとりはなかったであろう)、常陸国や六浦にも繋がる禅秀方の拠点であったのだろう。
しかし、持仲や伊予守憲方の小机への出兵は、越後国から南下、12月18日に北関東で合戦となった管領上杉憲基への対応とすると、なぜ常陸国や下総国へ通じる下道に兵を進出させたのか不可解であるが、おそらく江戸・豊嶋勢は禅秀方につくと吹聴する謀略を行い、禅秀へ加担する旨を鎌倉に通告していたのではなかろうか。憲方の下ノ道進発と小机着陣は江戸・豊嶋勢との合流を図った可能性があろう。ところが、江戸・豊嶋勢は禅秀を裏切り、入間川を遡上して持氏方の二階堂下総守らと合流したのだろう。
『鎌倉大草紙』においては、この直後に「江戸、豊島、二階堂下総守并南一揆并宍戸備前守兵共」が「入間川辺」に集結しているという報を受けた伊予守憲方が入間川へ向かうが、12月23日、「其道ニ於テ、十二月廿三日、世谷原ニテ合戦」となり、伊予守憲方勢は打ち負けて鎌倉へ向けて潰走、御所方の江戸氏、豊島氏らが猛追。大敗した憲方と持仲は25日夜にようやく鎌倉に帰還したとある(『鎌倉大草紙』)。
ただし、実際には「豊島三郎左衛門尉範泰」が軍忠状に記しているように、12月25日夜に「於武州入間河、二階堂下総入道仁令同心、御敵伊与守追落畢」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)と、伊予守憲方は25日までに入間川まで兵を進めており、それまで憲方が打ち負けた事実はない。そして、12月25日夜の入間川合戦で、二階堂下総入道、豊嶋範泰、江戸氏らに大敗したのである。つまり『鎌倉大草紙』が記すような12月23日の瀬谷原合戦はなく、憲方がそこで敗れて鎌倉に逃げ戻った事実もない。
伊予守憲方が小机から入間川へ至る道程にある「瀬谷原」へ進んで起こったという「世谷原ニテ合戦」は、翌応永24(1417)年正月5日、正月9日の瀬谷原合戦が、軍記物『鎌倉大草紙』の編纂段階でここに挿入されたのではなかろうか。物語上の説話が煩雑になることを避けるべく変更された可能性があろう。そのため、史料として考えると、矛盾が解消できないことになっているのではなかろうか。
『鎌倉大草紙』では、この「創作の瀬谷原合戦」後の応永24(1417)年正月2日に「南一揆并江戸、豊島」を追捕するために「鎌倉ヨリ満隆御所并禅秀、武州世谷原ニ陣ヲ取」り(『鎌倉大草紙』)、「武州世谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)」の合戦で彼らを打ち破って「江戸、豊島、打負テ引退ケリ」と記す。この「瀬谷原合戦」は豊島範泰の軍忠状に見える「其以降、今年応永廿四年正月五日、於瀬谷原戦仁散々太刀打仕、被乗馬切、家人数輩被疵畢」(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)の事であろう。おそらく入間川合戦で伊予守憲方が惨敗して鎌倉に逃げ戻ったことに危機感を強めた満隆及び禅秀入道が、正月2日、自ら兵を率いて鎌倉を出立して鎌倉街道を北上し、正月5日、下ってきた江戸・豊嶋勢を瀬谷原で打ち破ったのであろう。
この「瀬谷原合戦」は、持氏方の江戸・豊嶋勢が大敗を喫したとみられ、上杉憲基勢との合流を図って久米川宿まで戻っている。ただ、満隆・禅秀入道は江戸・豊島勢を打ち破ったものの、「上方の討手、小田原迄責下り、味方打負るよし聞けれは、敵はまけても悦ひ、味方は次第に力を落」と、禅秀勢は勝利してもまったく士気が上がらず、正月9日にはその大半が御所方となったという(『鎌倉大草紙』『禅秀記』)。そして正月8日、江戸・豊嶋勢は「為大将御迎」に「馳参久米河御陣江、令供奉」という(応永廿四年正月「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』)。
その関東管領憲基は、正月2日には「庁鼻和(深谷市国済寺)」に入り、「別符尾張入道代内村四郎左衛門尉勝久」が率いた「北白旗一揆」が「去二日馳参庁鼻和御陣」している。北白旗一揆は上杉勢に加わり「同四日村岡御陣、同五日高坂御陣、同六日入間河御陣、同八日久米河御陣、同九日関戸御陣、同十日飯田御陣、同十一日鎌倉江令供奉」(応永廿四年正月「別符尾張入道代内村勝久着到状」『西敬寺所蔵別府文書』)と鎌倉をめざして攻め下っている。
そして、この上杉憲基勢は正月9日には関戸(多摩市関戸)まで進駐し、鎌倉から攻め上っていた足利満隆・禅秀勢と戦ったのだろう。この「関戸合戦」で憲基勢は満隆・禅秀率いる鎌倉勢を打ち破り、敗走する鎌倉勢を追って南下していく。実は同正月9日には持氏・今川勢が瀬谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)で鎌倉勢(満隆・禅秀率いる軍勢とは別であろう)と合戦しており、前日(と思われる)に飯田原で敗れた鎌倉勢と関戸合戦で敗れた満隆・禅秀勢が合流し、瀬谷原に展開したのだろう。しかし、鎌倉勢はこの瀬谷原合戦でも敗れ、飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)へと潰走した。翌正月10日には上杉勢も飯田原に着陣し、持氏勢と合流。満隆・禅秀勢を壊滅させた。
応永23(1416)年12月23日、駿河国を出立して鎌倉を目指した今川勢・持氏勢は、箱根を南北(水呑峠、足柄峠)の二手に分けて攻略することになったと思われる。
持氏は大手となる足柄峠越えの今川勢に加わり、その先陣「葛山」と「荒川治部太夫、大森式部大輔、今川一族瀬名陸奥守」が「足柄ノ陣ヲ攻落シ」た(『鎌倉大草紙』)。持氏は12月中には足柄の「河村城」に入っているが(応永廿四年十二月「烟田幹胤申目安状」『烟田文書』)、「足柄ノ陣ヲ攻落」した戦いは河村城をめぐる合戦で12月26~27日辺りであろう。なお、『異本塔寺長帳』(『内閣文庫』)には「駿河国入江庄合戦」(『異本塔寺長帳』)は「十二月廿八日」とあるが、『異本塔寺長帳』には満隆を「刑部少輔満座」と記したり、正月10日の雪之下合戦を「正月二日」と記すなど誤記が多く、前述の通り期日に誤りのある可能性がある。
また、この入江庄合戦には、「禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」(『鎌倉大草紙』)とあるように、千葉介兼胤も出兵していたという。
足柄河村城を越えた今川勢の先陣は、禅秀方の「曾我、中村」を破り、小田原に布陣した(『鎌倉大草紙』)。また、三島に布陣していた水呑峠越えの今川勢も、12月25~26日あたりで箱根山中の「水呑(三島市川原ケ谷)」に布陣した禅秀勢を破ったのだろう。「朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山ヲ越」て、「伊豆山衆徒」とともに「土肥、中村、岡崎」を攻略。大手の足柄越えの今川勢本隊と「一同ニ小田原、国府津前川ニ陣」を取った(『鎌倉大草紙』)。
持氏・今川勢は国府津前川を渡って西へ進み、12月29日、「相州相模河合戦」(『異本塔寺長帳』)が行われた。おそらく持氏・今川勢は禅秀勢を打ち破ったのだろう。相模川を渡り「懐島御陣(茅ヶ崎市円蔵)」、「藤沢(藤沢市藤沢)、飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)、瀬谷原(横浜市瀬谷区瀬谷周辺)之御合戦」と相模国から武蔵国を転戦する。その経路を見ると、懐島から藤沢を進軍するも、鎌倉に攻め入ることはせずに鎌倉上道を北上している。これは上杉憲基との合流を図ったためであろう。
応永24(1417)年正月8日頃に飯田原(横浜市泉区上飯田、下飯田)で禅秀勢を打ち破った持氏・今川勢は、「去正月九日、於武州瀬谷原合戦」(応永廿四年三月廿日「足利持氏御教書写」『彰考館所蔵 石川氏文書』)している。正月9日には、上杉憲基率いる北国勢が、関戸(多摩市関戸)で満隆・禅秀入道率いる軍勢を破っており、その敗兵と飯田原の敗兵が瀬谷原に遁れていたのだろう。
常陸鹿嶋一族の烟田遠江守幹胤はこの合戦で「武者一騎切落、欲取頸処、御敵落重間、被押隔不分捕間、為証拠取越刀お、既大将一色宮内太輔殿御検知之所也」という軍功を挙げ、鎌倉奪還後に関東管領上杉憲基がこれを承了している(応永廿四年十二月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)。持氏方の「大将一色宮内太輔殿(一色直兼)」は、持氏の血縁者(生母一色氏の親類)とみられる。同様に常陸大掾一族の石川左近将監幹国や信太藤九郎も瀬谷原合戦で軍功を挙げている(応永廿四年三月廿日「足利持氏御教書写」『彰考館所蔵 石川氏文書』、同日「足利持氏御教書写」『水府志料』十三)。
この9日の瀬谷原の陣で、持氏と上杉憲基は対面したのだろう。翌10日の「飯田原」の合戦は、瀬谷原合戦と同じく、満隆・禅秀入道率いる鎌倉勢と瀬谷原敗兵(1月8日飯田原の敗兵)の軍勢とみられ、すでに士気ははなかったのだろう。持氏勢は飯田原で満隆・禅秀入道勢を退けると、一気に鎌倉へと攻め下ったとみられる。
●足利持氏の駿河出立以降の足取り(ピンクは合戦)
日にち | 足利持氏他 駿河国→鎌倉 |
上杉憲基(管領) 越後国→鎌倉 |
鎌倉大草紙の記述 |
応永23年(1416) | |||
12月13日 | 長沼淡路入道、持氏の御教書に応じる旨を返信 (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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12月18日 | 駿河の持氏のもとに長沼淡路入道からの文書が到着 (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
上杉憲基、合戦 ※岩松満純との合戦か (「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』:神5514) |
「禅秀の聟岩松治部大夫、本名也とて新田に成かへり、館林辺へ討て出、国中過半したかへける、由良、横瀬、長尾但馬守、持氏の御方として、十二月十八日、岩松と合戦す」 |
12月19日 | 持氏、長沼淡路入道に早々に馳せ参じるよう、僧侶を派遣して指示する (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
||
12月21日 | 禅秀方、伊予守憲方を大将軍(持仲に供奉)として小机辺に布陣 江戸、豊島、二階堂下総守らが入間川に集まっているため、入間川へ発向 |
||
12月22日 | 上杉憲基、合戦 ※岩松満純との合戦か (「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』:神5514) |
「同月の廿二日、猶岩松多勢にて押寄せける、横瀬、長尾勝ほこりたる折からなれは、頓面押寄、不残追散しけり」 | |
12月23日 | 持氏、駿河を出立 (「足利持氏御教書」『皆川文書』:室1556) |
入間川へ向かう「其道」で瀬谷原合戦となり、「伊予守打負、鎌倉サシテ引返ス」。それを「江戸、豊島、勝ニノリ追カケ」た。 | |
12月24日 | 持氏、長沼淡路入道に馳せ参じるよう公的に命じる (「足利持氏御教書」『皆川文書』:室1556) |
||
12月25日 | 今川範政、禅秀方につく関東諸将へ回文作成 (「今川範政書状」『結城古文書写』:室1557) |
夜、豊島範泰、入間川で二階堂下総入道と同心して、上杉伊予守憲方を破る (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
「伊予守モ持仲モ、漸同廿五日夜ニ入、鎌倉ヘ帰リ玉フ」 |
12月28日? | 駿河国入江庄合戦 (『異本塔寺長帳』) |
禅秀ハ千葉、小山、佐竹、長瀬、三浦、芦名ノ兵三百余騎ヲ足柄山ヲ越ヘ、入江ノ庄ノ北ノ山下ニ陣ヲ取間、持氏ハ今川勢ヲ先頭トシテ、入江山ノ西ニ陣ヲ取玉フ」という。ここに「今川勢夜討シテ、禅秀敗軍、筥根水呑ニ陣ヲ取、今川勢三島ニ陣ヲ取」った。 | |
12月29日 | 相州相模河合戦 (『異本塔寺長帳』) 持氏、佐竹彦四郎入道(白石義治)へ参向を命じる (「足利持氏御教書」『白石家古書』:室1558) |
今川勢の先陣は「葛山」と「荒川治部太夫、大森式部大輔、今川一族瀬名陸奥守、足柄ノ陣ヲ攻落シ」て、禅秀方の「曾我、中村」を破り、小田原に布陣した。 さらに、今川勢は「朝比奈、三浦、北條、小鹿、箱根山ヲ越」て、「伊豆山衆徒」とともに「土肥、中村、岡崎」を攻略。「一同ニ小田原、国府津前川ニ陣」を取った。 |
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12月中 | 持氏、河村城へ入る 烟田幹胤、参陣する (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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12月中 | 古宇田幹秀、惣領真壁掃部助秀幹に属し、常陸国所々で戦う (「古宇田幹秀軍忠状」『長岡古宇田文書』:室1577) |
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応永24年(1417) | |||
正月1日 | 持氏、禅秀方の岩松左馬助入道(満純)の所領上総国周東郡大谷村を鶴岡八幡宮へ寄進する (「足利持氏寄進状」『鶴岡八幡宮文書』:室1565) |
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正月某日? | 宇都宮持綱、今川範政からの回文届く (禅秀方白河満朝への仲介) |
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正月2日 | 別府勢、庁鼻和御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
「鎌倉ヨリ満隆御所并禅秀」が「世谷原」に陣を取り、「南一揆并江戸、豊島ト合戦」し、「江戸、豊島打負テ引退」する | |
正月4日 | 別府勢、村岡御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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正月5日 | 別府勢、高坂御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 豊島範泰、瀬谷原合戦で軍功 ※但し、敗戦とみられる。 (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
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正月6日 | 別府勢、入間河御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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正月7日 | 白河満朝、宇都宮持綱からの今川回文届く (「今川範政書状」『結城古文書写』:室1557) |
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正月8日 | 【上杉憲基と一揆勢合流】 別府勢、久米河御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 豊島範泰、大将憲基を迎えるため久米河に参陣 (「豊島範泰軍忠状」『豊島宮城文書』:室1574) |
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正月8日までの間 | 烟田幹胤、懐島御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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烟田幹胤、藤沢御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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烟田幹胤、飯田原御陣に参加 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) |
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正月9日 (合流) |
一色直兼が持氏方の主将 烟田幹胤、瀬谷原合戦に先駆 (「烟田幹胤軍忠状写」『烟田文書』:室1575) 長沼安芸守、瀬谷原合戦に軍功 (「足利持氏御教書」『長沼文書』:神5588) |
別府勢、関戸御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 石川幹国、宍戸備前守に属して瀬谷原合戦に軍功 (「石川幹国軍忠状」『石川氏文書』:室1576) 信田藤九郎、瀬谷原合戦で軍功 (「足利持氏御教書」『水府志料』十三:室1604) |
「九日、上杉安房守、北国勢、上野、下野、武蔵、相模ノ軍勢ヲ引率シ、相模川東ノ岸ニ押寄テ、川ヲ亘リ、責戦、上方勢、今川勢、勝ニ乗テ進戦、禅秀、敵ヲ前後ニ請テ、大ニ敗北シ、味方大方心替リシテ、敵ニ加ハリシカハ、持仲、満隆、禅秀、不叶、其夜、カマクラヘ没落ナサレ」た。 |
正月10日 | 烟田幹胤、雪下合戦に軍功 (「烟田幹胤軍忠状」『烟田文書』:室1575) 長沼安芸守、雪下合戦に軍功 (「足利持氏御教書」『長沼文書』:神5588) |
別府勢、飯田御陣に参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) 石川幹国、宍戸備前守に属して鎌倉雪下合戦に軍功 (「石川幹国軍忠状」『石川氏文書』:室1576) |
「十日、禅秀ノ子息宝性院快尊法印ノ雪下御坊ニ籠リ、満隆御所、同持仲、右衛門佐禅秀俗名氏憲、子息伊豆守憲重、弟五郎憲春、宝性院快尊僧都、武州守護代兵庫介氏春ヲ初トシテ、悉自害シテ失ニケリ」と、禅秀らの自害を伝える。 ただし、「嫡子憲顕ハ如何シテノカレタリケン、此戦ヨリ前ニイタハルコトアリテカタハラニ引籠ヲハシケルカ、ヒソカニ京ヘ逃ノホラレ」ている。 この日、「今川勢、江戸、豊嶋両方ヨリ鎌倉ヘ乱入」した。 |
正月11日 | 別府勢、鎌倉に供奉参陣 (「別符幸直代軍忠状」『別符文書』:室1573) |
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正月17日 | 持氏、「同十七日、鎌倉ヘ還御ナリ、浄智寺ニ入ラセ玉フ、其後、江戸、豊嶌ヲハシメ、忠節ノ人々、禅秀一類ノ没収ノ地ウィワケ玉フ、大森ニハ土肥、土屋カ跡ヲ玉マハリ、小田原ニ移リ、箱根別当ハ僧正ニ申ササル」 また、今川範政は「京都ヨリ副将ノ綸旨ヲ給リケリ、御所未出来サレハ、同三月廿四日、梶原美作守屋形ヘ入御成リ、卯月廿八日、大蔵ノ御所ヘ還御ナリ」という。 |
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正月20日 | 憲基、武蔵国多西郡土淵郷を立河駿河入道へ環補 (「上杉憲基施行状写」『立川氏文書』:室1570) |
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正月22日 | 古宇田幹秀、惣領真壁掃部助秀幹に属し、鎌倉に参着 (「古宇田幹秀軍忠状」『長岡古宇田文書』:室1577) |
持氏・管領勢の追撃になす術ない満隆、禅秀入道は、正月10日、飯田原から鎌倉に落居する。
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鶴岡八幡宮 |
禅秀方には鎌倉諸口の守りも固める兵力もなかったのだろう。鎌倉になだれ込んだ持氏・管領勢は、鶴岡八幡宮雪ノ下御坊に籠もる満隆・禅秀入道を捕らえるべく、雪ノ下で禅秀与党と激しい合戦に及んだ(雪ノ下合戦)。持氏に付き随っていた烟田幹胤は「至于鎌倉雪下御合戦、励無二之戦功、令供奉段他于異」(応永廿四年十二月「烟田幹胤申軍忠状」『烟田文書』)と述べるほどの戦いを見せた。長沼淡路入道が持氏旗本に遣わしていたとみられる長沼安芸守も飯田原合戦やこの雪ノ下合戦での軍功がみられる(応永廿六年六月三日「足利持氏御教書」『長沼文書』)。「上田叡仲叡信兄弟応永廿四鎌倉合戦打死」(『本土寺大過去帳』六日上)も見えるが、前年の六本松合戦で討死した扇谷上杉家被官「上田上野介」(『鎌倉大草紙』)と同族とすれば、扇谷上杉持定に従っていた人物であろう。
このほか、宍戸備前守持朝のもとで「石河五郎(石川幹国)」も奮戦している(応永廿四年正月「石川基国着到写」『市川氏文書』:「茨城県史料」)。これらの勲功により幹国は左近将監に吹挙されたと思われ、3月20日の「去正月九日、於武州瀬谷原合戦」を戦功を賞する持氏御教書では「石川左近将監」となっている。
余談になるが、「石河左近将監」の出身である常陸石川氏(常陸平氏)はかつては禅秀父の上総守護上杉朝宗(禅助)の被官であり、永和2(1376)年当時には「石河左近将監」曾祖父の「石河左近将監(石川満幹)」が上総国守護代として派遣されていた(永和二年十一月四日「上杉朝宗遵行状」『円覚寺文書』神:4770)。石川満幹は至徳2(1385)年2月29日においても「円覚寺山門方丈要脚上総国棟別銭壱疋」の施行を行うよう指示を受けており(至徳二年二月廿九日「上杉朝宗遵行状」『円覚寺文書』)、当時も在職であった。また、応永8(1402)年2月7日、石川満幹入道祐昌は宍戸持朝の祖父である宍戸基家入道希宗から「常陸国吉田郡平戸郷内嶋田村」の「合直銭参拾五貫五百文」の売却を受けている(応永八年二月七日「沙弥希宗売券写」『石川文書』)ように宍戸氏とも接点を有している。この「平戸郷并嶋田村内知行分」は応永25(1418)年3月8日、基家入道孫「任宍戸備前守持朝申請之旨」せて、満幹入道曽孫「石河左近将監殿(石川幹国)」に「領掌不可有相違」ことが持氏御教書により認められている(応永廿五年三月八日「足利持氏御教書写」『石川氏文書』:「茨城県史料」)。
石川満幹――石川俊幹――石川久幹――石川幹国
(左近将監)(五郎) (越前守) (左近将監)
禅秀入道等は鶴岡八幡宮周辺の「雪ノ下」に兵を集結させて抗戦する一方で、若宮別当の宝性院快尊(禅秀子息)の雪ノ下御坊に籠もり、「満隆御所、同持仲、右衛門佐禅秀俗名氏憲、子息伊予守憲方、其弟五郎憲春、宝性院快尊僧都、武州守護代兵庫助氏春を初めして、悉自害して失にけり」(『禅秀記』)という。ただし「嫡子憲顕は如何にしてのかれたりけむ、此戦より前にいたわる事ありて、かたわらに引籠おわしけるか、ひそかに京へにけ上らるゝ」(『禅秀記』)という。「於雪下社務坊内御自害、討死侍五十七人也、御子男女四十二人」(『上杉本上杉系図』)と伝わる。自刃した武蔵守護代の「兵庫助氏春」はおそらく禅秀母(上杉修理亮定重妹)の遠縁にあたることから、禅秀に付き従っていたのだろう。このほか、「蘆名五郎盛仲、津久井太郎、杦本三郎以下」も自害したという(『異本塔寺長帳』)。
上杉頼成―――+―長尾藤成―+―上杉顕定====上杉氏定―――上杉持定===上杉定頼
(永嘉門院蔵人)| |(伊予守) +―(弾正少弼)(治部少輔) (三郎)
| | |
| +―小山田頼顕―+―上杉定重―――上杉定頼
| (宮内大輔) |(修理亮) (三郎)
| |
| +―女子
| (惣持院)
| ∥ 【上総守護】
| ∥――――――上杉氏憲
| ∥ (右衛門佐)
| ∥
| 【上総守護】
| 上杉朝宗
| (修理亮)
| 【武蔵守護代】
+―長尾藤明――長尾藤景―――――長尾氏春
(兵庫助) (兵庫助)
この禅秀の乱は「鎌倉上杉右衛門佐入道禅秀謀叛合戦、自十六至正十、死者三千余人」(『武家年代記』)という鎌倉府設置以来の「大乱」となった。
禅秀一党の自害を受けた持氏は、早くも翌11日には「鶴岡八幡宮社頭事、厳密可致警固」を「当社神主(大伴時連)」に指示し、いきり立つ軍勢の狼藉を未然に防ぐための措置を取らせている(応永廿四年正月十一日「足利持氏御教書写」『鶴岡神主家伝文書』)。さらに正月13日には禅秀与党の「凶徒退治祈祷事」を行うよう同じく神主大伴山城守に命じている(応永廿四年正月十三日「足利持氏御教書写」『鶴岡神主家伝文書』)。血気盛んな二十歳の若公方持氏が、叔父満隆や前管領禅秀入道から受けた屈辱は強い怨恨となって、徹底した叛乱与党撃滅を進めていくことになる。
今川勢と江戸・豊嶋氏は東西から鎌倉に攻め入るが、禅秀勢はすでに壊走した跡であり、応永24(1417)年正月17日、持氏は鎌倉に入り、浄智寺へ居を定めた。御所に入らなかったのは、おそらく禅秀入道勢が持氏捕縛に動いて乱入した際に破壊されたためだろう。
2月27日には、持氏が佐介へ遁れた10月5日にしたためた長沼淡路入道へ禅秀与党の所領を宛行う旨の御下文に基づいて下野守護の「結城弾正少弼入道殿」に沙汰付けるよう関東管領「前安房守」に指示し、憲基は施行状を下している(応永廿四年二月廿七日「上杉憲基施行状」『長沼文書』)。
下野国長沼庄内上杉右衛門佐入道跡、同国大曾郷木戸駿河守跡、同国武田下條八郎等事、
早任去年十月五日御下文之旨、可被沙汰付下地於長沼淡路入道代之状、依仰執達如件
応永廿四年二月廿七日 前安房守(花押)
結城弾正少弼入道殿
3月24日には持氏が浄智寺から「御所、評定傾廃ヲ修理」(『喜連川判鑑』)の奉行「梶原美作入道宿所」に居を移し(『鎌倉大日記』)、4月28日、大蔵に御所が再建されると移徙した。持氏の新御所移徙は京都へ報告されているが、憲基からの使者と同時に、おそらく京勢の大将軍であった今川範政からも使者が遣わされたのだろう。将軍義持は閏5月7日、「今川上総介殿(今川範政)」に「関東事、早速落居目出度候」と、持氏の新御所への移徙を賀するとともに、範政の「今度忠節異于他候」と関東鎮定の勲功を賞し「所充行富士下方」している(応永廿四年閏五月七日「足利義持御内書案写」『今川家古文書写』)。なお、範政は「京都ヨリ副将ノ綸旨ヲ給リケリ」(『鎌倉大草紙』)というが、傍証はない。
また、移徙の当日、憲基が関東管領職を辞した(『鎌倉大日記』)。憲基の管領職辞任の要望は重病のためであろうが、持氏が無事に新御所へ移り、名実ともに鎌倉殿に復帰したことへの安堵から自ら身を引いたのだろう。憲基は辞職と同時に三島へ下向して辞任の上表を京都に注進しており、六日後の5月4日には三宝院満済に伝わり「上椙房州、下向伊豆由注進、為管領上意」(『満済准后日記』応永廿四年五月四日条)と日記に記している。憲基入道の体調は相当悪化しており、三島に下ったのは三島大社への平癒祈願であろうか。しかし「為管領上意」とあることから、憲基の関東管領辞任は将軍から認められなかったとみられる。
持氏自身も憲基の鎌倉帰還を望み、幾たびも三島の憲基のもとへ使者が飛んだようである、結局憲基は「ヤフゝゝニ被仰下ケレハ、五月廿四日、鎌倉ニ返参リ、六月晦日、又管領ニ成リ玉フコソ目出タケル」(『鎌倉大草紙』)とあり、持氏の説得に応じて鎌倉へ戻っている。さらに京都柳営から上表が認められなかったことで関東管領職も留任した。ただし、『鎌倉大日記』によれば、憲基は「潤五ゝ廿四ゝ帰参、六ゝ晦ゝ管領職再任」(生田本『鎌倉大日記』)とあることから、実際には5月24日ではなく閏5月24日に鎌倉に帰還したのだろう。帰還翌日の閏5月25日、持氏は「安房前司殿(憲基)」に「上野伊豆両国闕所分事、任先例、領掌不可有相違」とする安堵状を発給している(応永廿四年閏五月廿五日「足利持氏所領安堵状(『上杉文書』神:5530)。山内上杉家の家職である上野守護、伊豆守護についても憲基の急な引退により混乱が生じたのだろうか。鎌倉帰還直後に改めて両国闕所の安堵を行った上、7月4日に将軍義持から憲基に「上野、伊豆両国闕所分事、上杉安房守憲基可令領掌」の御教書が下されている(応永廿四年七月四日「足利持氏袖判御教書」『上杉家文書』)。さらに持氏は8月22日には憲基へ「被官輩知行分帯文書致訴訟所々除之事、任申請之旨、所充行也、此上者、就今度之過失、不可有他人競望」(応永廿四年八月廿二日「足利持氏御教書」『上杉家文書』)という文書を遣わすなど、憲基に対して手厚い行賞を行った。
9月22日、持氏は鶴岡八幡宮に「天下静謐祈祷」を命じ(応永廿四年九月廿二日「足利持氏御教書写」徳川林政史研究所蔵『古案』一四:室1675)、10月14日には三島社に「為天下安全、武運長久」を願い「武蔵国比企郡大豆戸郷明石左近将監跡」を寄進(応永廿四年十月十四日「足利持氏寄進状」『三島社文書』室:1678)、11月25日に兼胤が安房国の足利家祈願所の龍興寺(鴨川市大幡)に関東公方先考状に基づく知行証明の書下状を発給し(応永廿四年十一月廿五日「千葉介兼胤書下写」『諸家文書纂』)、同年12月24日に兼胤被官の「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」が奉行人として「安房国長狭郡柴原子郷上村皆蔵御社造営料田壱町」の知行の証を執達している(応永廿四年十二月廿四日「守護奉行人奉書」『諸家文書纂』)。
このような中、翌応永25(1418)年正月4日、関東管領上杉憲基が病死した(『喜連川判鑑』『浅羽本上杉系図』)。道号は無悔。法名は海印。二十七歳(三十七歳、三十四歳とも)。三島から帰還してわずか七か月であり、やはり当時から病状はかなり重かったと思われる。憲基の死を受けて「持氏大になげき給ひ、自法華経を転読し南無幽霊頓証仏果と回向し給ふそ忝き、さこそ九泉の苔の下にても懇に是をうけて歓喜の眉をや拓きぬらんと近習の人々、随喜の泪を流されけり」(『鎌倉管領九代記』)と伝わる。憲基の後継については、『鎌倉大草紙』では「応永廿六年十一月六日、上杉安房守憲基、病ニ依テ管領ヲ辞シ、子息次郎憲実当職ヲ承リ、安房守ニ任ス」(『鎌倉大草紙』)とあるが、これは『喜連川判鑑』も参照した原本または稿文を『鎌倉大草紙』が誤記したものであろう。その死後は「関東管領房州禅門去正月五日入寂、猶子上杉戸部禅門息十歳云々、仍管領之未分明候歟」(三月廿七日「足利義持御教書案」『醍醐寺文書ニ〇函』:室1714)とあるように、憲基養嗣子の憲実が幼少であったためか、一年程関東管領の補任はなく、関東管領付随の武蔵国守護も置かれなかった。
●上杉禅秀方の収公所領
旧地頭 | 所領 | 新補 | 典拠 |
上杉禅秀入道 | 下野国長沼庄大曾郷 | 長沼淡路入道 | 応永24年4月14日「水谷聖棟打渡状」 (『皆川文書』)室1613 |
上杉禅秀入道 | 下野国長沼庄堺郷 | 長沼淡路入道 | 応永24年4月14日「水谷聖棟打渡状」 (『皆川文書』)室1613 |
坂本犬菊丸 | 常陸国信太庄内久野郷 | 寄進(円覚寺正続院) | 応永24年3月3日「上杉憲基寄進状」 (『円覚寺文書』) |
上杉禅秀入道 | 常陸国北条郡宿郷 | 寄進(鶴岡八幡宮) | 応永24年閏5月2日「足利持氏寄進状」 (『鶴岡八幡宮文書』)神5522 |
二階堂右京亮 | 上総国千町庄大上郷 | 大御所(持氏母) | 応永24年閏5月24日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』)神:5528 |
明石左近将監 | 武蔵国比企郡大豆戸郷 | 寄進(三島社) | 応永24年10月14日「足利持氏寄進状」 (『三島神社文書』) |
皆吉伯耆守 | 上総国天羽郡内萩生作海郷 | 大御所(持氏母) | 応永24年10月17日「足利持氏料所所進状」 (『上杉文書』)神:5544 |
混布嶋下総入道 | 下野国長沼庄内混布嶋郷 下野国長沼庄内泉郷半分 下野国長沼庄内青田郷半分 |
長沼淡路入道 | 応永25年7月12日「足利持氏御教書」 (『皆川文書』) |
応永24(1417)年2月11日、禅秀の乱鎮定から一か月後に京都の将軍義持は「今度於関東自害輩為追善」に「大施餓鬼千僧供在之」(応永廿四年二月十一日『満済准后日記』)を執り行った。昨晩からの雨は激しさを増し、雷鳴轟く中での供養となった。
また、管領上杉憲基は同年3月3日、禅秀方の坂本犬菊丸から召し上げた「常陸国信太庄内久野郷」を円覚寺正続院に寄進している(応永廿四年三月三日「上杉憲基寄進状」『円覚寺文書』神:5514)。これは越後国から鎌倉に至る道筋で憲基自身が加わった「自去年十月三日、同六日、同十二月十八日、同廿二日至于去正月五日、同九日、同十日」の各合戦での「御方并御敵等打死為菩提」に寄進するというものであった。信太庄の武士としては信田藤九郎が正月9日に「瀬谷原」の戦いに加わっており、宍戸備前守持朝の手に属し、石川幹国らとともに戦ったと思われる。この寄進は持氏の沙汰ではなく憲基個人によるものであり、敵味方を問わずにその菩提を弔うという姿勢であった。
将軍義持や上杉憲基は一連の合戦による死者の菩提を弔ったが、関東公方持氏は禅秀入道一党は「無道之臣」であり「逆徒滅亡」によって関東の安寧を祈るという考えを持っていた。持氏は一連の禅秀の乱で禅秀方についた人々を許さなかった。応永24(1417)年2月、彼らの追捕と関東の復光を願文として認め、足柄郡の浄瑠璃山真福寺に収めている(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)。持氏は「苟持氏指麾同志之輩、欲誅無道之臣」し、「早施逆徒滅亡之戦功」することで「恵光鎮照、関東純熈」(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)という、薬師如来の功徳としての「関東」の現世に生きる人々の心身の安楽を願ったのである。
●応永24年2月「足利持氏願文案写」(『後鑑所収相州文書』神:5513)
持氏の禅秀与党追討戦は、持氏が願文を収めた応永24(1417)年2月にはすでに開始されており、各地に兵が派遣されている。
常陸国 (佐竹氏) |
上野国 (岩松氏) |
甲斐国 (武田氏) |
下野国 (禅秀与党) |
上総国 (上総本一揆) |
武蔵国 (新田・岩松氏) (恩田氏) |
応永24(1417)年2月初旬、「石河左近将監(石川幹国)」ら常陸国内の地頭が鎌倉から常陸国へ派遣されており、2月7日に「常州稲木城(常陸太田市天神林町)」を攻めている(応永廿四年七月廿日「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536)。「石河左近将監」は正月10日に宍戸備前守持朝のもと鎌倉雪ノ下を奮戦しており、それから一か月も経たないうちに常陸国に出征していることになる。なお、宍戸持朝は水戸の吉田社別当御房(吉田山薬王院)に、持氏が「臨時御祈祷御巻数一枝、入見参候訖」(応永廿四年二月十九日「足利持氏御教書案」『吉田薬王院文書』)ことを「鎌倉より御返事」(応永廿四年二月十九日「足利持氏御教書案」『吉田薬王院文書』)していることから、常陸国では彼らを指揮していない。
そして3月末ごろまでには、陸奥国岩城の「岩城飯野式部大輔入道光清」ら「岩城、岩崎」氏も「佐竹凶徒可令退治旨」の「御教書」が下されており(応永廿四年四月廿六日「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614)、岩城・岩崎の「両郡一族等」は、4月10日に陸奥国を出立すると、15日に「依苽連参陣」し、瓜連城(那珂市瓜連)に籠る「長倉常陸介(佐竹義景)」を降伏させた。さらに「小野崎安芸」らとともに久慈川を北上して「与類山県三河入道城」(常陸大宮市山方)を攻め「廿四日、致抜骨責」て「家子家人数輩被疵候」している(応永廿四年四月廿六日「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614)。同24日には石川左近将監らが「四月廿四日、於常州稲木城、致戦功之条」(応永廿四年七月廿日「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536)とあり、それぞれ連携した追討戦であったのだろう。
佐竹長義――佐竹義胤 海上胤泰―――+―海上師胤――――――海上公胤―――海上憲胤
(次郎) (常陸介)(孫六左衛門尉)|(筑後守) (八郎) (筑後守)
∥ |
∥ | 上杉氏憲―――女子
∥ | (禅秀入道) ∥――――――那須氏資
∥ | ∥ (大膳大夫)
∥ | +―那須資氏―――那須資之
∥ | |(刑部大輔) (越後守)
∥ | |
∥ | 那須資世―+―女子
∥ | (越後守) ∥
∥ | ∥――――――女子 結城光久
∥ | 江戸氏 (芳林) (七郎)
∥ | ∥ ∥
∥ | 河越氏 ∥――――――女子 ∥
∥ | ∥――――――佐竹義盛 (甚山妙香)+―女子
∥ | ∥ (左馬頭) ∥ |
∥ +―女子 小田知貞―――女子 ∥ ∥ |
∥ ∥ (四郎左衛門尉)∥――――――佐竹義宣 ∥――――+―佐竹義俊
∥ ∥ ∥ (左馬助) ∥ |(右京大夫)
∥ ∥ ∥ ∥ |
∥――――佐竹行義 ∥―――――――――佐竹義篤 +―上杉憲定―+―佐竹義人 +―上杉実定
∥ (左衛門尉) ∥ (左馬頭) |(安房守) |(左衛門尉)|(常陸介)
∥ ∥ ∥ ∥ | | |
∥ ∥ ∥ ∥――――――小場義躬 | +―上杉憲基 +―戸村義倭
∥ ∥ ∥ 浜名氏 (大炊助) | (安房守) (常陸介)
∥ ∥ ∥ 〔京方〕 |
岩崎氏―――女子 ∥――――――+―佐竹貞義 +―上杉房方―――上杉憲実―――上杉憲忠
∥ |(上総介) (民部大輔) (安房守) (右京亮)
∥ | ∥ ∥
二階堂頼綱――――――女子 | ∥ 上杉朝定―+=上杉顕定===上杉氏定―+―上杉持定 ∥
(下総守) | ∥ (弾正少弼)|(式部丞) (弾正少弼)|(修理大夫) ∥
| ∥ | | ∥
| ∥ | +―上杉持朝―+――――――――女子
| ∥ | |(修理大夫)|
| ∥ | | |
| ∥ +―上杉朝顕―――女子 +―女子 +―上杉顕房―+―上杉政真
| ∥ (中務大輔) ∥ ∥ |(修理大夫)|(修理大夫)
| ∥ ∥ ∥ | |
| ∥ ∥――――――今川範政 | +―女子
| ∥ ∥ (上総介) | ∥
| ∥ 今川泰範 | 千葉胤賢―――千葉実胤
| ∥ (民部大輔) |(中務大輔) (千葉介)
| ∥ |
| ∥ +―上杉定正
| ∥ |(修理大夫)
| ∥ |
| ∥―――――――――佐竹師義―――佐竹与義―+―佐竹義郷 +―三浦高救―――三浦義同
| 二階堂氏 (刑部大輔) (上総介) |(掃部助) (修理亮) (陸奥守)
| |
+―長倉義綱――――――長倉義利―――長倉義景 +―佐竹祐義
(三郎) (常陸介) (刑部大輔)
ところが、禅秀女婿・佐竹上総介入道(与義)の本貫である山入付近(常陸太田市国安町)では合戦が行われていない。与義入道はその後も生存しており、持氏は与義入道を直接攻めていないのである。与義入道は実際には具体的に禅秀の乱には与しておらず、それは将軍義持も確認している事であった可能性があろう。実は与義入道が禅秀の乱に参戦していたと記すものは、信頼性が著しく低い『鎌倉大草紙』のみなのである。なお、上杉家から惣領家に龍保丸(佐竹義憲のち義仁)を入嗣させることに反対する立場を示し、「佐竹親叔老臣等入稲木城為備、且拠永倉城族之」(『色川本佐竹系図』)したという伝は、当時の史料にはそれを匂わせる記述は一切ない。この伝は上杉禅秀の乱の稲木城・長倉城攻めが仮託されたものである可能性がある。
与義入道はもともと京都と深い繋がりがあったことは確かで、彼の官途である「上総介」は佐竹家惣領家が拝領していた官途でもあった。彼は佐竹庶家の立場にはあったものの、父の刑部大輔師義は足利尊氏近侍であり、康永4(1345)年8月16日には「天龍寺造営功」(「光明院宸記」『京都御所東山御文庫記録』)として「刑部丞」に任官し(康永四年八月十七日任官除目)、8月29日の天龍寺落慶供養にも「佐竹刑部丞」(『結城文書』天龍寺供養日記:『大日本史料』所収)として随兵中に名が見える(天龍寺落慶供養参列者)。このように師義は京都将軍家と直接的な主従関係が成立しており、これは子の与義にも受け継がれた「家格」だったのではあるまいか。つまり、与義入道は本来的に「有京都御扶持」(応永卅年七月七日「畠山道端奉書写」『色部家市川家古案集』)、「京都御扶持之輩」(『兼宣公記』応永卅年八月十七日条)の家柄であって、佐竹惣領家とは別立の佐竹家(持氏には「庶子」と卑下されるが)だったのではなかろうか。
「京都御扶持之輩」について
「京都扶持衆」という名称で表現される「京都御扶持之輩」については、幕府が関東を牽制するために幕府が主従関係を結んだ人々であるとされる。しかし、これらは改めて主従関係を結んだ人々であったのか。
鎌倉の統治組織(鎌倉府)の成立過程を見るに、彼らは本来的に将軍尊氏から所領の給与や安堵、扶持を給わって直接的に奉公契約を結んだ大名や被官人であり、義詮に代わって関東の統治を委任された関東管領基氏やその子孫(鎌倉殿、関東様と称される関東公方)の被官人となったわけではないのである。
彼らは伝統的に将軍家へ直接奉公する立場でありながら、「関東進止之国」へ下向し、鎌倉殿に付属して、関東執事や関東管領の指示のもとに動き、守護となれば管国の監督を行い、関東の諸政を様々に動かしていたのである。つまり、彼らはとくに関東の牽制などを行うために改めて京都が「認定」「設定」した人々ではなく、普段から関東に生きて鎌倉殿を支えた、将軍直属の人を指す言葉であったと思われる。
「京都御扶持之輩」の中で、鎌倉以来将軍や得宗家から偏諱を受けていたような伝統的な主要な家の惣領は、元服の際に将軍家より偏諱を給わっているとみられる。また、関東奉公衆や奉行人など、大名ではなくとも主要な人々にも将軍家は片諱を与えており、京都は彼ら「京都御扶持之輩」及び関東管領上杉家を通じて、関東の政体に間接的に関与しながら、緊密に東国の情報を得ていたのである。
こうした、鎌倉殿に近侍しながらも鎌倉の被官人ではなく、いわば与力として諸政務を行う存在は、鎌倉殿にとっては好ましい存在ではなかったであろう。鎌倉殿は関東管国の治安、行政を委任される一方で、彼ら「京都御扶持之輩」を強制的に私的な動員は行い得なかったと思われ、基氏以来の関東公方はこの矛盾する体制の中で苦しんでいたのだろう。一方、鎌倉殿は「京都御扶持之輩」の庶家を被官化することで、手足となる新たな奉公衆として組織化していったと思われる。
こうした鎌倉府の立場は「京都御扶持之輩」の中でも様々な思惑を呼び、木戸満範や宍戸持朝、宍戸満里ら持氏に忠実に生きた人々もあれば、宇都宮持綱、佐竹与義、小栗満重、結城満朝らのように鎌倉を軽視する者も現れるようになったのだろう。応永25(1418)年10月10日に将軍義持が持氏の書状に対する返書に「常陸守護佐竹上総〔以下闕〕」(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)とみえるように、佐竹与義入道は将軍義持に常陸守護の補任を求めていたとみられる。後述の通り、「関東進止」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)の国に関する守護吹挙権は鎌倉公方が有しており、将軍義持から持氏へ「御吹挙」が行われ、持氏が追認して吹挙状を京都に提出することではじめて将軍が守護補任の御内書を発給することができた。
将軍義持は佐竹与義入道の常陸守護要望と宇都宮持綱の上総守護職要望への持氏に対する吹挙要請を同時に進めているが、持綱については「禅秀の乱」では禅秀方を牽制したためか、持氏は持綱の上総守護は追認している。一方、佐竹与義入道は禅秀縁者であることや持氏が信任していた前管領憲基弟の佐竹義憲(義仁)と対立していたことから、補任吹挙の撤回を義持に求めたと思われる。しかし、義持はこれを拒否し(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)、一方で持氏も追認しないことから、与義入道の常陸守護問題は膠着状態となった。応永28(1421)年4月28日の時点でも「常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候」(四月廿八日「足利義持御教書」『大舘記』「御内書案応永以来至永正」)とあるように、持氏は将軍義持から受けた佐竹与義入道を常陸守護に追認する「度々申入」(御吹挙か)を無視し続けていたのである。
また、稲木城合戦の翌年応永25(1418)年5月初頭には、鎌倉において「桃井左馬権頭入道并小栗常陸孫次郎等」(応永廿五年五月十日「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566)の陰謀が発覚している。彼らが禅秀与党だった確証はないが、江戸期の史料『常陸誌料』によれば、小栗満重は禅秀の乱後に降伏したものの「足利持氏罰之、多削其地、満重怨之、意不自安」という憤怒のもとで「在鎌倉、遂与一色左馬権頭共復謀叛」したという(『常陸誌料』)。この「謀叛」は「上総本一揆」の挙兵と時期が重なっていることから、一色左近大夫将監の出征が5月9日から5月28日に延引された原因であろう。持氏の御教書では桃井左馬権頭入道が先に記されているが、事実であれば桃井宣義入道が主体となって小栗満重と結んだ陰謀であった可能性が高い。『源氏諸流系図』に見える桃井宣義は「引付頭人」とあることから、鎌倉の最重鎮が離反したことになる。
●小栗系図(『続群書類従』)
小栗重政―+―小栗重貞―――小栗詮重――小栗氏重――小栗基重―+―小栗重弘――小栗重久―――小栗真重――――小栗重昌
(遠江守) | (遠江守) (常陸介) |(弾正忠) (吉阿弥陀仏)(三郎右衛門尉)(雅楽助)
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+―河澄重顕 +―小栗満重――小栗助重
|(又次郎) (常陸介) (常陸介)
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+―厚科重秀
|(小三郎)
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+―横嶋重家
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+―大関重行―――大関重勝
|(文殊丸)
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+―金尾屋重清――金尾谷重益
(彦王丸)
●桃井系図(『源氏諸流系図』史料編纂所所蔵本)
桃井義胤―+―桃井頼直―+=桃井直頼―+―桃井直常――+―桃井直和
(遠江守) |(播磨守) |(右馬頭) |(駿河守) |(刑部少輔)
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| | +―桃井直弘 +=桃井直弘
| | |(刑部大輔) (刑部大輔)
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| | +―桃井直信――――桃井詮信
| | (修理大夫) (兵部少輔)
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| +―桃井頼明―――桃井直頼
| |(五郎)
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| +―桃井直経―――桃井宗景
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+―桃井頼氏―+―如幻―――――桃井直頼
(三郎) | (右馬頭)
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+―桃井胤氏―――桃井満氏――+―桃井尚義―――桃井義通――――桃井義任
(遠江守) (又二郎) |(弥二郎) (刑部大夫) (兵部少輔)
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+―桃井氏義―――桃井宣義
(小三郎) (左馬権頭)
この小栗満重の計画は「而其計漸発覚、逃帰拠城」(『常陸誌料』)と、鎌倉での謀叛計画の発覚で「常州小栗城」(筑西市小栗)へ逃亡したとされる。5月10日には「依陰謀露顕、令没落上」(応永廿五年五月十日「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566)とみえることから、この時点ですでに鎌倉から逃亡していたことがわかる。持氏は桃井及び小栗への対応として「長沼淡路入道殿」に「不日差遣勢、可加退治」と命じている(応永廿五年五月十日「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566)。6月13日には「宍戸弥五郎殿(一木満里)」が小栗城を攻めているように(応永廿五年六月廿日「足利持氏御教書写」『中河西村一木氏所蔵文書』神:5563)、周辺の地頭が合戦に加わっていることがわかる。その後、7月10日までに小栗満重は降伏し(七月十日「藤原定頼書状」『皆川文書』)、赦免された。
しかし、小栗満重の本貫小栗庄は収公されて小栗に戻されなかったのだろう。小栗のその後の動向は不明となるが、応永30(1423)年7月7日当時、小栗満重は「常陸介」に任官していることから、桃井左馬権頭とともに上洛していたのかもしれない(応永卅年七月七日「畠山道端奉書写」『色部家市川家古案集』)。そして、三年後の応永28(1421)年9月末頃には桃井左馬権頭とともに下野国へ拠っており、10月9日に下野国佐貫庄で「桃井左馬権頭并小栗輩合戦」があり、「佐野帯刀左衛門尉」が戦功を挙げている(応永廿八年十月十三日「足利持氏御教書写」『喜連川家文書』「御書案留書」上 室:1942)。合戦は桃井や小栗の敗北に終わったとみられ、その後両者は分かれ、桃井左馬権頭入道は上洛し、小栗満重は雌伏しつつ旧領小栗庄の小栗城奪還を企てることになる(常陸国その後)。
禅秀自刃後、上杉禅秀の女婿である岩松満純入道へも追討の手を遣わすが、満純入道は鎌倉を脱出して所在が知れずしばらくはその探索が行われた。そして2月中には「岩松一類、白河辺排回之由、其聞、致了簡候」が判明し、3月1日、持氏は長沼淡路入道に岩松一党を「可討進候、於忠賞者、可有殊沙汰候」を告げる(応永廿四年三月一日「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596)。
また、この岩松所在判明の報告はおそらく関東管領憲基を通じて京都にも知らされており、3月27日、将軍義持は管領「沙弥(細川満元)」を通じて白河一族の「小峰七郎(結城朝親)」に「岩松治部大輔一類等、隠居在所事、尋究之、不日可加退治之由」(応永廿四年三月廿七日「細川満元奉書写」『白河結城家文書』室:1609)を命じている。その後「岩松一類」は白河から上野国へ戻ったのだろう。「五月二十九日、岩松治部大輔逆心ヲ起シ、禅秀与力ノ残党ト入間川ニ出張」(『喜連川判鑑』)し、安保信濃守宗繁が「相催一族等、最前馳向」っている(応永廿四年閏五月十二日「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525)。そしてこの蜂起は「舞木宮内允、馳向テ合戦シテ悉ク追散シ、天用ヲ生捕」(『鎌倉大草紙』)という形で鎮圧された。「舞木宮内允」は「去年、禅秀ニ与ミセシ事ヲ悔ミ、岩松討テ罪ヲ謝セン為メ、入間川ニ出向ヒ合戦」と見え、禅秀与党だった(『鎌倉大草紙』には禅秀与党として「舞木太郎」が見える)。
その後、岩松満純入道天用は鎌倉に連行され、閏5月13日、「於龍口誅」された(『喜連川判鑑』)。なお、岩松満純との合戦について、閏5月12日、持氏は「安保信濃守殿(安保宗繁)」の戦功を賞する御教書を下している(応永廿四年閏五月十二日「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525)。
新田岩松氏は満純の刑死後は、その父満国入道法泉が一旦領した(挙兵後に満国入道が満純を廃して悔い返した可能性)のち、応永26(1419)年2月27日、満国入道は孫の「土用安丸」へ「亡父法松得譲所々文書在之」の「上野国新田庄并国々本領等之事」ならびに「法泉一跡惣領職」を譲り渡した(応永廿六年二月廿七日「岩松法泉譲状写」『新田岩松文書』室:1797)。満国入道の子で土用松丸の実父である「能登守(岩松満春)」には、惣領の「土用松丸若輩」のため「お公方可被致代官」ことと定め、「縦親方流而就惣領職致異乱輩在者、為先此状可被致申沙汰候、仍兼日知行分其外計置所領等事、不可有煩」と命じている。反逆者となった満純の弟ではなく、その弟の子に継承させることで、満純から遠く且つ惣領として納得のできる親等の人物が選ばれた結果であろう。
岩松満純入道と同様、禅秀女婿である千葉介兼胤は、応永23(1416)年12月末の「入江山合戦」に禅秀方の大将の一人として参戦したとされるが(『鎌倉大草紙』)、時期的に入江山合戦が実際にあったのかは大いに疑問がある。
禅秀の乱後、兼胤の動向を示す史料は遺されていない。なお『鎌倉大草紙』に拠れば、故禅秀入道の義父である武田安芸入道明庵(武田信満。『鎌倉大草紙』によれば「信満」だが、軍記物『鎌倉大草紙』の信頼性の低さの他、「満」が将軍義満偏諱を受けたものと思われること、武田氏由緒の古刹一蓮寺に伝わる『一蓮寺過去帳』や『穴山家系図』には「満信」とあることから、満信が本来の名乗りではなかろうか)を頼っていることから、甲斐国へ遁れた可能性がある。
+―穴山満春
|(修理大夫)
|
+―武田信基===武田伊豆千代
|(信濃守)
|
+―武田信満―+―武田信重―――――――武田信守
(安芸守) |(刑部少輔) (刑部少輔)
|
+―武田信長―――――――武田伊豆千代
|(右馬助)
|
+―女子
∥
上杉朝宗―――上杉氏憲【禅秀】―+―上杉憲顕
(中務大輔) (右衛門佐) |(中務大輔)
|
+―上杉憲方
|(伊豆守)
|
| 岩松満純
|(治部大輔)
| ∥
+―女子
|
| 那須資之
|(越後守)
| ∥――――――那須氏資
+―女子 (大膳大夫)
|
+―女子
∥
千葉介満胤――――――千葉介兼胤
(千葉介) (修理大夫)
そして、甲斐国に攻め入った鎌倉勢にあっさりと降伏したとされる千葉介兼胤だが、降伏後の動静もまた記録がない。
なお、非常に怪しい文書であるが、武田信満入道が「応永廿四年六月六日」(『鎌倉大草紙』)に自刃した五か月後の応永24(1417)年11月25日には、関東公方祈願所の安房国龍興寺に対して、「瑞泉寺殿(足利基氏)」の寄進状、「永安寺殿(足利氏満)」の祈願所の状の通り寺領を証したとする文書が残されている。
まず、この文書には本来書出に記されるべき「知行」地に関する事書が記されず、文書としては不完全なものである。また、基氏及び氏満の寄進状等も現存せず寄進地は不明。編纂時に落とした可能性もある。
●応永24(1417)年11月25日「千葉介兼胤書下写」(『諸家文書纂』十一)
そして最も問題なのは、この文書は執達状ではなく「修理大夫」が安房国に主体的立場で寺領の保証を行っている点である。兼胤が安房守護であれば管国の寺院の寺領を保証することは可能だが、兼胤は安房守護だった傍証はない。さらに龍興寺が足利家祈願寺であることからして、その寺領を証するにあたり、持氏を何らかの形で経由せず、独断で書下を発給することは不合理である。そのことはこの『諸家文書纂』の編者も不自然に感じたとみられ、「修理大夫」の花押の照合のために、文書脇に足利満隆の花押(模写:下表B)が付されている。不完全な文書の体裁も含めて、この文書は相当疑問の多い文書となる。
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『諸家文書纂』 A「修理大夫」 1417年 |
『諸家文書纂』 B「満隆」 1417年 |
『中山法華経寺文書』 「修理大夫(兼胤)」 1422年 |
『保坂氏所蔵文書』 「満隆」 1415年 |
『相州文書』 「沙弥」 長尾藤景? 1401年 |
『海蔵寺文書』 足利持氏花押 1419年 |
そして、この書下から一月後には龍興寺に「安房国長狭郡柴原子郷上村皆蔵御社造営料田壱町事」について知行を認める奉行人奉書がみられる。
●応永24(1417)年12月24日「奉行人奉書」(『諸家文書纂』十一)
ここに見える「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」がどういった立場の人物であったのかは不明であるが、「左衛門尉胤継」については、応永8(1402)年8月(応永28年?)時点の千葉氏奏者の一人「木内平次左衛門尉胤継」(応永八年八月日「千葉氏奏者」『香取旧録司代文書』33)と同一人物か。彼は応永20(1413)年8月28日に兼胤が香取社に参詣した際に兼胤被官人として見える「木内平次左衛門尉」と同一人物とみられ、兼胤の奉行人だったとも想定されるが、兼胤は安房守護だった傍証はないため、この龍興寺の知行を保証した主体は不明である。なお、この「左衛門尉胤継」「沙弥恵超」は、応永26(1419)年3月27日にも「安房国長狭郡上村大山寺中道坊跡譲状」について承認を与えている(応永廿六年二月一日「大山寺澄慶譲状」『安田家文書』)。
このほか、兼胤は京都柳営から下総守護職を解任されていなかったようで、「聖禅寺(匝瑳市大寺)」へ「下総国北条庄大寺郷内飯盛塚、笠懸屋敷一円当時敷地云々并田畠下名別紙在之」を「可被致祈祷之精誠」ことを条件に「任河戸弾正胤久申請之旨」て寄進を認めている(応永廿五年十一月二十八日「千葉兼胤寄進状」『龍尾寺文書』室:1782)。河戸胤久は千葉郷川戸村(千葉市中央区川戸町)を名字地とする千葉惣領家被官であろう。
●応永25(1418)年11月28日「千葉介兼胤寄進状」(『龍尾寺文書』)
『鎌倉大草紙』の記述ではあるが、甲斐国西郡の領主で「如何ニモシテ武田ヲ絶シテ甲州一円ニ守護セハヤ」と考えて持氏に「忠勤ヲ尽シ」た「逸見中務丞有直」が、今度の禅秀の乱で「武田安芸守入道明庵ハ禅秀ノ小舅ナリ、千葉修理大夫兼胤ハ聟ナリ、両人共ニ持氏ヲ背ケル」ことに、逸見有直は「能キ時分ナリ」と思い、縁者の持氏寵臣「二階堂三河守」を通じて「色々甲斐ノ事望申」したという(『鎌倉大草紙』)。有直はおそらく逸見又五郎義直の末裔と思われ、有直の父と思われる「逸見中務大輔」は明徳2(1390)年以前に「下野国薬師寺庄半分、除福田、平塚両郷、逸見中務大輔寄進地也」とあるように、下野国薬師寺庄の自領を鎌倉名越の別願寺に寄進している(明徳二年九月八日「足利氏満寄進状」『別願寺文書』)。その後出家した「逸見中務大輔入道」は、応永27(1420)年2月頃に別願寺門前の田畠を「勝光院殿(満兼)御菩提」のために別願寺に寄進する旨を持氏に申請し、持氏を通じて別願寺に寄進されている(応永廿七年二月十九日「足利持氏寄進状」『別願寺文書』)。このように、逸見氏は持氏祖父の氏満の代にはすでに関わりを有していた可能性が高く、以来奉公衆としての顔も持つ甲斐国有力者だったのだろう。なお、応永23(1416)年12月1日に「逸見」氏(作阿弥陀仏)が死亡しており(『一蓮寺過去帳』)、禅秀の乱から二か月後には甲斐国で武田信満入道勢と持氏与党の逸見氏による戦闘があった可能性がある。
信満入道自身は禅秀の乱に加わってはいないようであるが、持氏は「鎌倉ヨリ御勢向ラレ、大将ニハ上杉淡路守憲家ナリ」を派遣して討伐を図ったという。このとき「千葉ハ早々降参」したとあり、兼胤は趨勢を鑑みて早々と降伏したとする(『鎌倉大草紙』)。一方、信満入道は降伏せずに「ツルノ郡ヘ馳出」て対陣するも、「多勢ニ無勢不叶、終ニ打負、信満ハ甲州都留郡木賊山ニテ自害シテ失ス、法名明庵常光、于時応永廿四年六月六日ノ事ナリ」(『鎌倉大草紙』)とする。『鎌倉大草紙』の記述ではあるが、具体的に記されていることから、何らかの史料に基づいたものであろう。ただし、その没月日は『妙法寺記』や『高野山武田家過去帳』、諸系譜によれば「応永廿四年二月六日」とあることから、これもまた『鎌倉大草紙』の誤記である(『一蓮寺過去帳』の信満没月日は「十二月六日」だが、この時点で合戦は終決している事ならびに応永24年中に次の守護「竹田」が入部していることから、十は衍字であろう)。武田家由緒の古刹『一蓮寺過去帳』に、「彌 藝州信満長松寺殿明庵 応永廿四年十二月六日」の次に「由 修理大夫満春號穴山 応永廿四年五月二十五日」とあり(『一蓮寺過去帳』)、信満入道自刃後、穴山郷に所在していた弟の修理大夫満春が甲府一蓮寺の願主になった様子もうかがえる(武田惣領家を継承していたかは不明だが、彼は庶流穴山家の当主であり、惣領ではないだろう)。
信満入道は鎌倉には「禅秀事ニ恐レ不参候」という状況にあったという(『鎌倉大草紙』)。ただし、信満入道は禅秀の乱直後に討たれていることから、前述の鎌倉不参の時期があったとすれば、禅秀の乱以前からすでに鎌倉不参が常態だったことになる。つまり『鎌倉大草紙』の記述が創作でなかった場合は、禅秀の乱当時、信満入道はすでに甲斐守護ではなかったのではなかろうか。持氏が下総「守護」である千葉介兼胤の降伏を認め、信満入道は討ち果たしたのは、鎌倉公方は管国内の守護職を処断する権限は持っていなかったためであろう。
武田信満入道自刃ののちは、軍記物ながら『鎌倉大草紙』によれば、持氏は「甲斐国ハ逸見ニ給リ打入ケリ、然トイヘトモ京都公方ヨリ御引移ハナシ、鎌倉ドノヨリノ御意計リナリ」(『鎌倉大草紙』)とみえるように、持氏独断で奉公衆の「逸見中務丞有直」を甲斐国に入部させたとする。
一方で、将軍義持は「陸奥守花峯入道ノ末子、武田信濃守信元ハ禅秀一味ノ儀ハナケレトモ、恐ヲナシ出家シテ高野山ニ登リ、昊山ト改名シテ閑居」(『鎌倉大草紙』)した「信濃守信元ヲ召出シ」て(『鎌倉大草紙』)、甲斐守護に任じたという。この信元は「満春(穴山修理大夫。春信とも)」(『武田系図』)と同一視される。なお、「成就院殿(信重)ト申、今ノ甲斐ノ武田ノ先祖也、舎弟悪八郎(信長)ヲハ右馬助ト申、入道シテノ名ヲハ妙申ト申シ、道號春克ト申、勝福寺殿ノ事也、某道存カ祖父也」という道存(信満入道子の武田信長孫)が後年『一本武田系図』に記した裏書によれば、「武田信重三郎、信長ノ為に伯父」である「穴山ニ武田信濃守信基ト申仁」が「惣領職仰付ラル」(『一本武田系図裏書』)とみえる。
信基の伝では「安芸守生害ノ時、他人ナラヌ事ナレハ高野ヘ上リ給フ」、「信濃守信基入道、既ニ高野ニ候上ハ、カレヲ国ヘカヘサレヘキト、鎌倉ヘ仰セラレ」ているが(『一本武田系図裏書』)、この信濃守信基入道(信濃守信元)と修理大夫満春の伝がともに「穴山」に由緒を持ち、禅秀の乱後に高野山に登るという軌を一にしており、どちらかの事項を仮託または混同している可能性を考慮すべきか(満春の「満」は将軍家偏諱の可能性が高く、それを「信基(信元)」と改める可能性は考えにくいか)。なお、修理大夫満春は前述の『一蓮寺過去帳』にあるように、穴山武田家当主であって惣領家及び守護職を継承した形跡はなく、木賊山合戦の約四か月後の応永24(1417)年5月25日に卒しており(『一蓮寺過去帳』)、家督相続に関わることはなかったと思われる。
甲斐守護については、応永24(1417)年2月以降、「信濃守信基入道、既ニ高野ニ候上ハ、カレヲ国ヘカヘサレヘキト、鎌倉ヘ仰セラレ、逸見中務アリ、ナヲイマタ世上ニ有シ時也、京ト鎌倉ハ魚ト水トノ如ク仰合ラルゝ事也、京ハ親方ノ御事ナレハ、遠キ御申候而ハ王命迄違ヒ申間、京都ノ仰ニ任セ信濃守信基ヲ召出ラレ、父ノ陸奥守信春、信成ノ跡ニ定メラレ、惣領職仰付ラル、甲斐国ヲ召カヘサレテ、信濃守信基ニ被仰付ラルゝ也、逸見ニ下サルゝヲ召返ス也」(『一本武田系図裏書』)と見えることから、信満入道自刃ののち数か月後には、信基の守護職が決定され、将軍義持は信基入道を惣領職とし、鎌倉の持氏には甲斐新守護として彼の入部を打診したという。これを受けた持氏もとくに反論もせず応じ、非公認で配した逸見中務を免じたという。
そして、応永24(1417)年6月8日時点では、信基入道は「甲斐当守護」であったとみられる(『満済准后日記』応永廿四年六月八日条)。また同日条に「先守護子息■■■」と見えるが、これは甲斐国に在国の悪八郎信長であろう(兄の三郎信重は当時、高野山へ登っている)。文章が摩滅していることから文意は定かではないが、その後の信基入道と信長の関係を見ると、敵対関係の報告がなされたわけではないと思われ、この十日ほど前に卒去した信基兄弟の穴山修理大夫満春とのことの報告があった可能性もあろう。信基も「穴山」を称したとされることから、もともと兄満春の養嗣子であった可能性があり、武田穴山氏領である「甲州南部、下山辺」に居住していたのかもしれない。
こうして、信基入道の甲斐入部が決定し、「竹田■■■守護自去年以来入部處」(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)とあるように、応永24(1417)年中に一度は甲斐国に入部している。しかし、信濃守信基が入部したのち、応永25(1418)年初頭には「甲斐国事、地下一族蜂起」(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)とあるように、「地下一族」が甲斐国に挙兵して信基を追い出したとみられる。この「地下一族」はおそらく持氏に非公認の守護を罷免された逸見中務丞有直の一党ではなかろうか。
その後、続けて「駿■■■■■■悉遁上」(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)と見えることから、おそらく信基は拠点の南部(南巨摩郡南部町)・下山(南巨摩郡身延町下山)辺にいたところを、西郡から富士川沿いに攻め込んだ逸見氏に追い出され、信基は駿河国へ遁れたのだろう。そして、京都将軍家の命を受けた駿河国の今川勢が「地下一族」の追討を行い、彼らは「悉遁上」ったのだろう。
こうして信基は一度は甲斐国に復帰したものの、2月15日には「国■■■■■■京都穴■■■御合力■両国勢発向」という報告が京都に届いている(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)ことから、信基は翌応永25(1418)年2月初旬までに、再び逸見一族によって追放され、今度は甥の「小笠原右馬助殿(小笠原政康)」を頼って信濃国へ逃れたのだろう。この小笠原政康が満済に報告した文書が、2月15日の一報(『満済准后日記』応永廿五年二月十五日条)であろう。
武田信基は小笠原政康率いる信濃勢と、某国(駿河国か)の「両国勢」でとともに再度甲斐国に進み、2月17、18日頃には甲斐国に入ったとみられる。この報告は京都に届けられ、将軍義持は2月21日に政康に対して信基の甲斐入国(二月廿一日「足利義持御内書」『小笠原文書』)への働きを褒し、甲斐国で信基と合力して「可励忠節」ことを命じている。
10月28日、将軍義持は武田信基の甲斐入国につき、小笠原政康に「此間辛労察思召給候、誠以神妙」と褒するとともに、改めて「武田、甲州南部、下山辺可打越候、自然事可加扶持也」ことを命じている(応永廿五年十月廿八日「足利義持御内書」『東京大学史料編纂所所蔵小笠原文書』室:1774)。信基入道がまず穴山家領の南部(南巨摩郡南部町)や下山(南巨摩郡身延町下山)を目指したのは当然であろう。この南部・下山を抑えるには、逸見氏が拠点を置く西郡を通過する必要があり、逸見氏の妨害を防いで入部を急がせるため、将軍義持は小笠原政康の合力を命じたものであろう。
ところが、信基が甲斐国に入っても、甲州はなかなか安定せず、翌応永26(1419)年3月14日にも「小笠原右馬助殿」に「武田陸奥守合力事」が命じられている(応永廿六年三月十四日「足利義持御内書」『小笠原文書』室:1802)。「武田陸奥守」はおそらく信基のことであろう。甲斐国に入部したことを賞しての任官吹挙があったのかもしれない。以降は後述。
上杉氏憲
(禅秀入道)
∥
+-女子
|
|
武田信春―+―武田信満―+―武田信重
(陸奥守) |(安芸守) |(刑部大輔)
| |
| +―武田信長=伊豆千代
| (右馬助) |
| ↓
+―武田信基===武田伊豆千代
|(陸奥守か)
|
+―下條信継
|(伊豆守)
|
+―女子 +―小笠原長秀
∥ |(信濃守)
∥ |
∥――――+―小笠原政康
小笠原長基 (右馬助)
(信濃守)
上杉禅秀―――女子 |
禅秀の乱後、「下野国西御庄」に「右衛門佐入道禅秀家人等秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎、土橋又五郎、石井九郎若党」がいたが、応永24(1417)年5月27日、下野守護の「結城弾正少弼入道殿(結城基光入道禅貴)」がこれを捕縛して鎌倉に進上している(応永廿四年閏五月九日「足利持氏御教書案写」『松平基則氏所蔵文書』)。
「西御庄」は「西御庄内富田郷、同庄下皆河郷等(栃木市大平町富田、大平町下皆川)」(応永廿四年七月廿四日「某書下」『松平基則氏所蔵文書』室:1657)、「西御庄西水代(栃木市大平町西水代)」(応永三年十月十八日「大般若経奥書」『日光山輪王寺文書』)など永野川西岸域一帯に南北に広がり西は佐野庄に接する摂家領で、同年7月24日、「小山庄内木本郷并西御庄内富田郷、同庄下皆河郷等」(応永廿四年七月廿四日「某書下」『松平基則氏所蔵文書』室:1657)が「左馬助殿(小山満泰)」の知行と定められている。
応永27(1420)年正月26日、「下野国家中合戦」(応永廿七年潤正月十一日「足利持氏御教書」『喜連川家文書』室:1865)があり、「佐野帯刀左衛門尉殿」や「鹿島越前守殿」が戦功を賞されている。また、7月20日には「小山左馬助殿(小山満泰)」が「右衛門佐入道禅秀子共以下残党」の追捕を命じられている(『山川光国氏所蔵』)。
応永25(1418)年4月下旬には、上総国の「上総国狼藉張本人」(応永廿五年四月廿六日「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561)、及び武蔵国での「新田并岩松与類可出張」(応永廿五年四月廿八日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5562)、といった上杉禅秀与党の挙兵が相次いでいるが、かつての元弘3(1333)年5月7日の尊氏六波羅攻めと翌8日の新田義貞・岩松経家の挙兵、先代北条氏の建武元(1334)年の同時期蜂起、正平7(1352)年閏2月15日の南朝方一斉蜂起などと同様、互いに期日を決めた「多方面同日挙兵」であると考えられる。
これらの挙兵に対し、持氏は上総国には「来月九日、所差遣一色左近大夫将監也」を決定し、「白石彦四郎入道殿」に一色左近将監に属すことを命じている(応永廿五年四月廿六日「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561)。一方、武蔵国には「差遣治部少輔持定」とし、入間川合戦などで活躍した豊島氏・江戸氏らの「武州南一揆」に出兵を命じている(応永廿五年四月廿九日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563)。上総国と武蔵国はいずれも当時は守護闕国(上総国は前守護禅秀自害による闕、武蔵国は関東管領憲基の正月四日死去による闕)であり、両国における禅秀与党の兵乱はこの隙をついたものだったのだろう。持定は禅秀の従弟にあたり、禅秀与党の叛乱拡大を防ぐことを意図していた可能性があろう。これは上総国に禅秀・持定の従兄弟、上杉三郎定頼を関わらせたことも同様の意図があるのかもしれない。
犬懸上杉家が三代に渡って守護を継承してきた上総国は守護闕所国となったことで、関東の直接支配を強く考えていた持氏がこの機会を逃さず、後任となる守護を吹挙せず直接支配を行う体制を整えようとしたとみられる。応永24(1417)年2月に瑠璃光山真福寺に納めた願文に見えるように、賊徒を滅ぼすことにより「恵光鎮照、関東純熈」という、薬師如来の威光による「関東」の衆生救済が持氏の強い意志であった。そして持氏がこれを主導するという意思表示でもあったのだろう。
ところが、禅秀一党の滅亡に伴い、「宇都宮(持綱)」が応永24(1417)年5月以来、上総守護職を望み、将軍義持に働きかけたのである。北関東においては持綱は那須資重(禅秀女婿の資之の弟)とともに将軍家の意向を受けて禅秀方と戦うなど、京都の命を忠実に履行する立場に徹した。禅秀の乱鎮定後も積極的に京都との連絡を取り続けた持綱は、5月初旬に軍功に関するとみられる書状を遣わした。時期的にみて5月に「下野国西御庄」で発生した「右衛門佐入道禅秀家人等秋山十郎、曾我六郎左衛門尉、池田太郎、池森小三郎、土橋又五郎、石井九郎若党」らとの合戦に基づくものか。5月9日、将軍義持はこれに答えて「宇都宮へ御書、今日被■鎧一両糸白、御太刀一腰、彼使者ニ渡遣了」(『満済准后日記』応永廿四年五月九日条)している。そして5月下旬、三宝院満済のもとに宇都宮持綱、那須資重からそれぞれ「御吹挙」の書状が届けられた。
5月28日、満済は御所に「宇都宮、那須状」を持参して将軍義持に披露した。これにつき、義持は「可有子細由被仰出」と述べている(『満済准后日記』応永廿四年五月廿八日条)。
こうした動きを持氏はいまだ知らず、上総国は禅秀滅亡以降、鎌倉府が直接支配を行った。上杉憲基入道が鎌倉に帰還した当日の閏5月24日、持氏は「上総国千町庄大上郷二階堂右京亮跡」を生母「大御所」の「御れう所」とするよう、御付の女房「あのゝ御局」へ所進状を遣わしている(応永廿四年閏五月廿四日「足利持氏料所所進状」『上杉文書』神:5528)。それにつき、同日「上総権介殿」に「可沙汰付下地於御代官」よう命じる御教書を発給している(応永廿四年閏五月廿四日「足利持氏御教書」『上杉文書』神:5529)。この「上総権介殿」が如何なる人物かは定かではないが、持氏が守護の代わりに設定した上総国代官か。このほか10月17日にも「大御所御料所」として「上総国天羽郡内萩生作海郷皆吉伯耆守跡」を設定し、管領憲基が佐々木隠岐守と大坪孫三郎を両使として預人に打渡すよう指示している(応永廿四年十月十七日「上杉憲基施行状」『上杉文書』神:5545)。
こうした中で、宇都宮持綱は執拗に上総守護職を将軍義持に求め、応永24(1417)年8月3日、「自宇都宮戒浄上洛■■■■■戒浄私■■■」と、使僧「戒浄」を醍醐寺座主満済のもとへ送っている。「戒浄」はおそらく都賀郡七石(下都賀郡壬生町七ツ石)の熊野御師「坂東下野国七石戒浄坊」(応永廿二年十一月十八日「弁阿闍梨重讃売券」『米良文書』)であろう。戒浄と宇都宮氏との関係も宇都宮一族ともに熊野六角堂の檀那職を務めているなど(ただし応永22年に勝達房に売渡されている)、その関わりも深かった。宇都宮持綱が再度上総守護職について満済に吹挙を求めたものであろう。その後、将軍義持は満済から宇都宮状を披露されたと思われ、柳営で3日から7日の間で評定が開かれた結果、宇都宮持綱を上総国守護職として持氏に「御吹挙」することを決定したとみられる。
8月7日、将軍義持は満済に「宇都宮状」のことにつき「上総国御吹挙治定由被仰下」ている(『満済准后日記』応永廿四年八月七日条)。ただし、あくまでも「守護補任を決定」したのではなく、補任について「持氏の意向を聞くことを決定」したというものである。将軍義持は持氏に宇都宮持綱の上総守護職を「御吹挙」し、宇都宮持綱にもそのことを報告したのだろう。9月下旬、持綱は御礼贈物を満済を通じて将軍義持に遣わした。満済はこれを受け取ると、10月4日に「自宇都宮御馬二疋、鳥目万疋進之、若君御方へ御馬一疋、太刀一振進之」を三條坊門殿に届けた(『満済准后日記』応永廿四年十月四日条)。
ところが10月17日、満済のもとに再度持綱から書状が齎されたため、満済は三條坊門第に持参して義持と対面し「自宇都宮注進状、上総国御吹挙處■■■及異儀由事、懸■■■了、重可有御下知由、御返事■■■■」ことを披露した。漫滅して判読できない部分は「鎌倉殿」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)など持氏を表す文言であろう。もともと上総国に守護を置くつもりのない持氏は当然これを拒絶し、持綱に異議を通告したのだろう。そして、持綱は再度満済に泣きつき、将軍義持は宇都宮持綱に持氏へ「重可有御下知」ことを約する返事をしているが、明確に「補任する」とは伝えてはいない。
満済は義持に「■■鎌倉■西■上洛事■■■■申」ことを話しており、持氏からの使僧「■西堂」が上洛することを伝えている。彼は持綱への上総守護「御吹挙」の件について、持氏の意見を伝えるための使者とみられる(『満済准后日記』応永廿四年十月十七日条)。その後上洛した「■西堂」は持氏の主張を伝えたのだろう。その後使僧は鎌倉へ戻り、翌応永25(1418)年2月21日、将軍義持は「関東御使頌西堂既進発」(『満済准后日記』応永廿五年二月廿一日条)した。義持の御教書には上総守護のことのみならず、「■■条、目■■条、上総国守護并甲斐国事、御料所中之事、■■■■■方へ内々以状、此由申遣了」といういくつかの項目が示されていたようである。
この京都からの書札を受けた持氏は、建長寺住持「日峯和尚(日峯法朝)」を「鎌倉使節」として上洛させ、持氏側からの言い分を述べさせることとした。鎌倉最高位の高僧を派遣することで、持氏の真剣な意思を伝える意図があったのかもしれない。「日峯和尚」は3月10日に満済を訪れているが(『満済准后日記』応永廿五年三月十日条)、日峯の上洛は「甲斐国、上総国等事」を述べることが理由と記している。日峯は「禅秀乱時、僧日峯推之赴京都、為法師因勝定院」(『両上杉系図』)とあるように、故武田信満入道を母に持つ禅秀入道の子(「幼少時為常陸大掾養子」)を伴って上洛した可能性があり、この子は旧西八條の義持由緒の勝定院(下京区七条御所ノ内本町)の法師にされたという。のちに将軍義教の命によって還俗して「上杉教朝」を称し、関東攻め及び結城氏朝の乱で京都方の大将軍として奮戦することとなる。また日峯和尚はその後「応永中年、由建長遷亀山」とあるように、建長寺から天龍寺へ遷っている。
日峯和尚が上洛した翌日の3月11日、満済は「宇都宮状」を御所に持参して将軍義持の「懸御目」た(『満済准后日記』応永廿五年三月十一日条)。この書状も上総守護の問題について語られたものであろう。当然このとき日峯和尚の上洛も伝えられたと考えられる。宇都宮持綱からの書状は5月25日にも届けられており、これもまた満済が義持に披露している(『満済准后日記応永廿五年五月廿五日条』)。
この上総国をめぐる京都将軍家、宇都宮持綱との問題が発生していた頃、当の上総国で兵乱が勃発した。兵乱の首謀者は前守護禅秀入道の遺臣等で、4月下旬から5月初頭頃、上総国府付近で挙兵したものだった。討伐の大将は持氏奉公衆で親族の「一色左近大夫将監」が任じられた。
出兵に先立ち、5月6日、持氏は管轄下にある「円覚寺領上総国畔蒜庄内亀山郷」につき禁制を発出した(応永廿五年五月六日「足利持氏袖判禁制」『円覚寺文書』神:5564)。出陣は一旦は5月9日と定められたが「上総本一揆御敵、以一色左近将監為大将、御旗五月廿八日立鎌倉、則敵退散」(『喜連川判鑑』)とあるように、5月28日まで延引された。おそらく小栗満重の謀叛発覚が出陣時期とほぼ重なったことで、その対応に追われたのであろう。
こうして、一色左近将監率いる鎌倉勢が「為上総国凶徒等御対治、大将御発向」し、禅秀遺臣が展開していた上総国府に至近の飯香岡八幡(市原市八幡)に着陣したのは6月(初旬歟)だった。常陸国からも鹿嶋党が鎌倉勢として参陣しており、「惣領鹿島出羽守憲幹」のもと「常陸鹿島烟田遠江守幹胤」や「亀谷田左近将監胤幹」らが属して「馳参最前八幡御陣」じた(応永廿五年六月日「烟田幹重軍忠状写」『烟田文書』室:1737、「亀谷田胤幹軍忠状写」室:1738)。鹿嶋氏自体が上総国に所領を有していたのかは定かではないが、烟田氏は養老川沿いの「上総国佐是郡矢田郷(市原市矢田、下矢田、池和田周辺)」(延元元年六月廿日「沙弥信崇譲状」『烟田文書』)内に所領を有しており、こうしたことで催促を受けたとみられる。
鎌倉勢は「八幡御陣」から養老川を攻め上り、烟田党は「於在々所々令致宿直警固」しながら南東部の「平三城(市原市平蔵)」を攻め落とした。禅秀遺臣らは「没落」して逃げ散ったとみられる。
烟田幹胤は「鳥栖村、富田村等」について禅秀の乱の功績によって安堵を求めていたものの、二年が経過しても「不成案堵思」い、さらに軍功を重ねるべく「上総国御敵仁等悉令対治候畢、然之間可浴御恩賞砌也、所詮募彼忠節」によって「二ケ村如元仁預還補御証判」を重ねて要求している(応永廿五年八月十九日「烟田幹胤重申状」『烟田文書』室:1758)。この二村は鹿嶋社人からの社領に関する訴えにより収公された土地で小鶴修理亮、梶原但馬守季景に下されたが、その後、対応に誤りがなかったことが認められて、応永22(1415)年12月27日に「満頼(一色式部大輔満頼)」から管領憲基(代官の長尾殿宛)へ還補の依頼が発せられても(応永廿二年十二月廿七日「一色満頼方書札」『烟田文書』)、両名の抵抗により返されなかった所領であった(正長三年七月「烟田幹時訴状」『烟田文書』)。
持氏は、この上総国の禅秀与党の追捕に兵を送ることと並行して、前年12月1日に行われた「室町殿若公、今日被加首服、加冠父公于時内大臣」(『看聞日記』応永廿四年十二月一日条)という将軍義持の嫡子足利義量の「御元服御礼ノ為」に「関東使節宍戸」を上洛させている(『満済准后日記』応永廿五年六月十三日条)。「宍戸」は6月13日に京都に到着し、即日義持と対面が叶っている。彼は詩文の名手・宍戸遠江守基家入道希宗である。禅秀の乱で持氏与党の大将の一人となった宍戸備前守持朝の祖父に当たる。
完戸朝家―+―完戸基家――――完戸家秀―――宍戸持朝
(安芸守) |(遠江守) (安芸守) (備前守)
|
+―宍戸家里――+―宍戸兼朝
|(彦四郎) |(兵庫助)
| |
| +―宍戸朝雄
| (左近将監)
|
+―宍戸基里――――宍戸満里
(弥四郎入道) (弥五郎)
そして、上総国の兵乱が鎮定されて二か月程のちの9月初旬、持氏は宇都宮持綱の上総守護職を追認した。補任の流れが不明瞭ながら、持氏はまず宇都宮持綱に上総守護職について認める旨を通達したと思われる。当時の持綱の所在は不明だが、守護ではないことから禅秀の乱時と同様、宇都宮だろう。
持氏からの通達を受けた持綱は、満済を宛書とした書状(宇都宮注進)を送達し、9月15日に書状を受け取った満済は即日三條坊門第へ参り、「自宇都宮方、上総国守護職事、無相違自鎌倉補任由、畏申、則披露、御所様御悦喜、但今日不及披露」という。持綱からの書状も持参したとみられるが、この日は口頭のみで伝えたようだ(『満済准后日記』応永廿五年九月十五日条)。それでも義持は大変喜んでいる様子がうかがえ、関東における大きな懸念の一つが消えた事への安堵感が感じられる。そして翌16日、満済は「宇都宮注進」を持参して「宇都宮注進之趣、今日披露、御悦喜、蝕御祈祷宗観僧正、少現歟」された(『満済准后日記』応永廿五年九月十六日条)。もとより安穏を求める意識の強い義持は、関東との対立は求めておらず、何事もなく収まったことで喜びを示したのだろう。あとは持氏から送達される吹挙状を受けて持氏が補任するのみであった。
9月下旬、持氏は「関東使節僧花宗和尚」を上洛させ、「三ヶ条」を将軍義持に要請した。これらも満済を通じての要請であったと考えられ、後日、使僧花宗和尚は満済を訪問している。
(1)宇都宮持綱を上総守護とする吹挙の承認を求める
(2)「上椙房州跡(上杉憲基跡)」の中分の件
(3)「常陸守護佐竹上総(佐竹与義入道)」に関する件(守護吹挙を行わない旨か)
義持は10月10日、これらについて返答している。
(1)宇都宮持綱の上総守護吹挙を「無相違御領掌」→〇
(2)「上椙房州跡(上杉憲基跡)」の中分の件は「難儀可有御免」→×
(3)「常陸守護佐竹上総(佐竹与義入道)」に関する件(守護吹挙を行わない旨か)は「難儀可有御免」→×
すでに両者が確認済みの「宇都宮上総国守護職事」については「無相違御領掌」されたが(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)、「上椙房州跡中分事」と「常陸守護佐竹上総[以下判読不能だが、佐竹上総介(与義入道)の常陸守護を吹挙しない旨の事求めたものか。持氏は応永28年の時点で持氏に「常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候」と言っており、持氏が守護職補任の吹挙を拒んでいた様子がうかがえる]」の「両條」は「難儀可有御免」として花宗和尚に伝え、持氏へ託した。ただ、返答には「但」書があった(内容は不明)。
花宗和尚は返書を受けると、10月12日に満済のもとへ「明日下向之間、為假請来臨」し、結果を報告している(『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条)。翌10月13日、満済は「絵幅十帖等、遣花宗和尚方」(『満済准后日記』応永廿五年十月十三日条)して餞とした。
宇都宮持綱の上総守護補任状と管領副状は、義持が結論を述べた10月10日以降に作成され、宇都宮へ送達されたと思われる。ただし、持綱の上総守護としての活動がみられるのは現存史料では約一年後であり、10月29日時点では以前として鎌倉府がその権限を履行し、「去年十二月十一日還補下文」した「進士九郎左衛門尉(進士重行)」の「上総国加津社内三佐古東西村地頭職」(袖ヶ浦市三ケ作)につき、村上民部丞、由比左衛門入道を両使として下地の沙汰付を行っている(応永廿五年十月廿九日「足利持氏御教書」『小川文書』室:1775)。
そして後述二度目の「上総本一揆」が鎮圧されたのちの翌応永26(1419)年12月15日、持氏は「宇都宮右馬頭殿(宇都宮持綱)」に「進士九郎左衛門尉重行」の「上総国加津社内三佐古村東西事」に関し、「不日莅彼所、縦雖固支、不可許容、可沙汰付下地於重行」ことを命じている(応永廿六年十二月十五日「足利持氏御教書」『京都大学所蔵古文書集』室:1858)。
宇都宮持綱が上総守護となって間もない応永26(1419)年正月初頭、「上総本一揆、重令蜂起」した(『鎌倉大日記』)。「重令蜂起」とあるので前年5月に蜂起した禅秀遺臣と同じ主体との認識であったことがうかがえる。大規模な叛乱の鎮圧は管国守護が独断で行うことは認められておらず、鎌倉から派遣される大将軍によって行われるものであったとみられる。
持氏は「為木戸内匠助大将、正月十九日立鎌倉」(『鎌倉大日記』)とあるように、今回の大将も奉公衆から選任され、正月19日に木戸内匠助範懐が鎌倉を出立した。出立の日時は「同月十八日鎌倉ヲ立」(『喜連川判鑑』)とも。足利家根本被官である木戸(きべ:戸は部の略字)氏は上杉氏と縁戚関係を持ち、関東奉公衆の最有力者でもあった。この「木戸内匠助」は『鎌倉大草紙』においては、禅秀方に与した奉公衆の中に「木戸内匠助伯父甥」として見えている人物と同一と思われる。誤謬の多い『鎌倉大草紙』ながら、これが真であるとすると、持氏は禅秀与党だった人物を追討の大将軍としたことになる。全面的な合戦ではなく、上総本一揆勢の降伏を狙ったものかもしれない。このときの上総本一揆大将は犬懸上杉家被官・埴谷小太郎重氏である(『喜連川判鑑』)。
埴谷氏は上総国武射郡埴谷郷(山武市埴谷)を名字地とする一族で、「ハンヤ」と読み(『本土寺大過去帳』)、日蓮宗に深く帰依した。秩父平氏「榛谷」氏と混同されるが別流である。
埴谷郷には「上総国埴谷妙宣寺トテ埴谷日継ノ大檀那トシテ建立サセ給ケル寺」(『伝燈抄』)があるが、この妙宣寺は康安元(1361)年7月5日、中山三世の日祐が「康安元年太歳辛丑七月五日 埴谷左近将監御堂」に曼荼羅本尊(『妙宣寺蔵』)を下して建立された寺院である。その末裔が後述の鍋冠日親上人である。ここから、南北朝期の半ばにはすでに埴谷左近将監が地頭としてこの地を治めていたことがわかる。
埴谷左近将監の子孫とみられる「埴谷備前入道」は、関東管領「中務少輔入道(上杉朝宗入道禅助)」のもと、管領兼国の武蔵国守護代として派遣されていた(国人領主との私的関係を排除するためか守護代は当国出身者を避ける傾向にあった)。彼が武蔵守護代として応永11(1404)年9月15日、「下総国大慈恩寺雑掌」が申し立てた「六十六基内当国卒塔婆料所武蔵国六郷保内大森、永富両所、永安寺殿代御寄附」(応永十一年九月十五日「足利満鐘御教書」『大慈恩寺文書』室:924)が「江戸蒲田入道以下輩致押領狼藉」につき、足利満兼は関東管領「中務少輔入道(上杉朝宗入道禅助)」へ「不日退彼狼藉人等、寺家全知行之様、可加扶持之由、可令下知守護代」を命じた。これを受けた禅助は即日守護代の「埴谷備前入道」に施行を命じる書状をしたためた(応永十一年九月十五日「上杉禅助施行状」『大慈恩寺文書』室:925)。この施行状は御教書案とともに守護所の埴谷備前入道へ送達され、9月23日に江戸蒲田入道らに押領地を大慈恩寺雑掌へ打ち渡すよう命じた(応永十一年九月廿三日「埴谷法義打渡状」『大慈恩寺文書』室:927)。
また、足利家の菩提寺である「足利鑁阿寺供僧等」が、鎌倉の「雪下社務僧正」に貸していた「比企郡内戸守郷高坂左京亮跡(比企郡川島町戸守)」につき、前年に返付を受けたものの、このうち「勝高田」は「号買得」したとして、鶴岡社務から遣わされていた「慈光房代」が居座っているとして鎌倉に訴え出た際には、応永12(1405)年2月12日、鎌倉府は「左衛門尉」「沙弥」の奉行人二名をして「埴谷備前入道」に当該地を鑁阿寺雑掌へ打ち渡すよう命じた(応永十二年二月十二日「鎌倉府奉行人連署奉書」『鑁阿寺文書』室:955)。ところが八幡宮側は譲らずに居座ったようで、7月10日、鎌倉府は再度「加賀守(明石利行)」「沙弥」をして、八幡宮側の狼藉は不当として「寺家雑掌」に召し返すよう命じている(応永十二年二月十二日「鎌倉府奉行人連署奉書」『鑁阿寺文書』室:955)。
「埴谷備前入道」は禅助の子・関東管領氏憲入道禅秀のもとでも武蔵国守護代を務めており、応永19(1412)年7月5日、禅秀から、持氏の御教書の通り「武蔵国高麗郡広瀬郷内豊筑後守信秋寄進地事」について、「可打渡下地於蓮花定院代官」ことを命じられている(応永十九年七月五日「上杉禅秀施行状写」『鶴岡等覚相承両院蔵文書』)。
上杉禅秀の乱から七か月後の応永24(1417)年8月に中山法華本妙寺貫主の権大僧都日英が「千代寿竜法師」へ譲与した「御経、御本尊、聖教、堂職、田畠、弟子檀那」のひとつに「祐師三枚御本尊康安左近将監御堂妙宣寺常住也」(応永廿四年八月「日英譲状」『法宣寺文書』)として見える。なお、日英は「千代寿竜法師、虎菊丸両人」へ「所々導師職末寺等」諸所の管理を命じているが、「千代寿竜法師」はのちの妙宣寺住持の法宣房日国(『本土寺過去帳』廿六日上「文明七十月中山」)、虎菊丸は中山法宣院主となる日親(のちに信仰を貫き、将軍義教から熱く焼けた鍋を被らされ「鍋冠上人」とも称された傑僧)で両者は兄弟、日英は叔父である。
文明2(1470)年5月13日、日親が豊後国から「埴谷平次左衛門尉」へしたためた返書によれば、埴谷平次左衛門尉の「亡父妙義之御事者、日親住山之古、遂父子之契約、偏後世菩提之事を憑度由承候之間、事新仰にて候由候つれとも、別而御所望之由、御定候之程に、其上者、兎角無申事候て、堅固ニ約諚申候つる」(『埴谷抄』)とあるように、日親は「山(比叡山ではなくこの場合は中山法華本妙寺か)」で修行中に、埴谷「妙義」の依頼を受けて父子の契約を交わしていたことがわかる。
【朝宗被官】 【氏憲被官】
埴谷左近将監―…―埴谷備前入道―+―埴谷左近将監―+―日国【千代寿竜法師】
|(日継) |(妙宣寺三世)
| |
+―日英 +―日親【虎菊丸】
(中山五世) (中山法宣院)
↓
…埴谷妙義―――+=日親
|
|
+―埴谷平次左衛門尉
【氏憲被官】
…埴谷重氏
(小太郎)
禅秀の乱から五十年以上のちに「埴谷平次左衛門尉」が埴谷郷(と思われる)に居住しているように、禅秀の乱後も埴谷氏は断絶しておらず、山内上杉氏の被官となった系統も存在した。埴谷平次左衛門尉の頃から百年余りのちの永禄3(1560)年ごろの山内上杉家被官としては、岩付衆として「埴谷図書助 一用」とある。「一用」の紋は不明だが、一文字か。
この二度目の上総合戦にも前回同様に鹿嶋一党が参戦しており、2月11日に「鹿嶋烟田遠江守殿(烟田幹胤)」は木戸内匠助範懐の陣に馳せ参じた。鹿嶋勢は「其以来数日矢戦」し、「三月三日、上総国坂水城攻合戦」の際には「最前上切岸」って、「家人小高根左衛門四郎」が負傷したことを「大将検知了」という(応永廿六年四月廿五日「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810)。この「大将」は「被疵之由、木戸内匠助範懐所注申也、尤以神妙」(応永廿六年五月八日「足利持氏御教書案」『烟田文書』神:5586)とあることから、木戸範懐であったことがわかる。なお、上総本一揆勢が立て籠もった「坂水城(いすみ市新田か)」(「坂水城」を「坂本城」の誤りとする恣意的な説もみられるが、「水」「本」は筆の流れからも間違える余地のない異字であり慎むべきであろう)は、平三城から養老川を南東へ下り、さらに夷隅川を下り峠を越えた先にある要害である。これについては「二月三月雖攻坂水城、不落居降参」(『鎌倉大日記』)とあるが、日時は誤記である。この籠城戦は二か月に及び「五月六日、本一揆ノ大将、埴谷小太郎重氏降参ス、木戸相伴テ鎌倉ヘ帰ル、埴谷ヲハ由比ノ浜ニテ誅セラル」(『喜連川判鑑』)とあるように、資源不足に陥ったとみられる本一揆方の大将埴谷重氏が木戸懐範のもとに降伏した。
その降伏時期は、烟田幹胤が4月25日に大将木戸懐範に軍功を報告している(応永廿六年四月廿五日「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810)ことから、4月25日以前に戦闘は終結していたことがわかる。さらに、5月8日には持氏が木戸懐範の注進を受けて烟田幹胤を褒じている(応永廿六年五月八日「足利持氏御教書案」『烟田文書』神:5586)ことから、この時点で木戸懐範はすでに鎌倉に帰還し注進状を持氏に奉じていることになり、本一揆方の降伏が5月6日では時間的に無理である。『喜連川判鑑』に見る「五月六日」の一文は、埴谷重氏が降伏して鎌倉に連行され処刑された日を表わしている可能性が高いだろう。
なお「上総国本一揆御退治事、被仰出候」ことは武蔵国に「差遣」(応永廿五年四月廿九日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563)されて駐屯中の「治部少輔持定」にも、鎌倉から奉行人の「奉書」で伝えられており、正月30日時点ですでに持定から武蔵国の地頭等に「平均相触訖」していた(応永廿六年正月卅日「上杉持定書状写」『常陸誌料雑記』室:1793)。その一人の「垣岡源左衛門尉殿」には「於府中付着到、国之境を可堅固之旨、美濃守方へ申遣候」ことを伝えているが、垣岡氏は持定被官の太田一族とみられることから「美濃守」は太田氏(資房?)か。持定は垣岡源左衛門に「諸事有談合、可然之様可被相計候、尚々能候様面々可有談合候」と告げており(応永廿六年正月卅日「上杉持定書状写」『常陸誌料雑記』室:1793)、武蔵国内の禅秀与党の挙兵及び他国与党との連携を警戒していた様子がうかがえる。なお、持定は御教書の通りあくまでも武蔵国内の警戒を強化したのであって、上総国へ兵を出してはいない。
また、上総新守護の宇都宮持綱や、隣国下総守護千葉介兼胤も加わった様子はない。征討の大将も一色左近大夫将監や木戸内匠助といった持氏側臣が務めており、京都との繋がりが強い守護職を起用せずに鎌倉直轄の体制での追討を目したものとみられる。
応永25(1418)年4月下旬、武蔵国に「新田并岩松与類可出張」(応永廿五年四月廿八日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5562)している。挙兵時期が上総国の上総本一揆と同時期であることから、連携されていた可能性があろう。
この新田・岩松勢の武蔵国侵入に対して、持氏は「差遣治部少輔持定」している。持定はこのとき十七歳という若者だったが、父の弾正少弼氏定とともに禅秀勢と鎌倉化粧坂に戦い、父氏定は負傷して藤沢に自害しているという経緯があり、持氏は持定を側近くで重用したのだろう。持定の武蔵派遣に伴い、入間川合戦などで活躍した豊島氏・江戸氏らの「武州南一揆」に出兵を命じている(応永廿五年四月廿九日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563)。
ところが、応永26(1419)年5月21日に持定は十八歳の若さで卒去する(『上杉系図』)。その死によるものか、7月までに「恩田美作守、同肥前守等」とみられる人々が陰謀を企てたことが発覚している。ただし「(陰謀之)族、可打出之由、(所有其聞)也、静謐之程、於符内以巡番、可致警固」(応永廿六年七月廿四日「足利持氏御教書写」『三島明神社文書』)と、持氏は「武州南一揆中」に「於符内、以巡番可致警固」を命じている。
「恩田美作守、同肥前守」は武蔵国都築郡恩田郷(横浜市青葉区恩田町)の地頭とみられるが、彼らは「兵庫助憲国并禅秀同意之段露顕」したため、持氏は彼らを鎌倉に召喚して「欲致糾明」しようとしたが、「没落之由所令注進」があった(応永廿六年八月十五日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5594)。彼らは「相語悪党等、出張彼在所」と狼藉を図る様子がうかがえ、持氏は豊嶋氏や江戸氏ら南一揆に守護代(長尾尾張守忠政)に同心して退治するよう命じている(応永廿六年八月十七日「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5595)。この騒動はその後「静謐」したが、持氏は再び「武州南一揆中」に「於符内、以巡番可致警固」を命じている(応永廿六年八月廿四日「足利持氏御教書写」『阿伎留神社所蔵三島神社文書』室:1842)。そして、9月10日には恩田勢が再び兵を挙げたことから、南一揆勢に追捕を命じた(応永廿六年九月十日「足利持氏御教書写」『阿伎留神社所蔵三島神社文書』室:1848)。
その後、恩田氏がどうなったのかは伝わっていないが、結局恩田郷に戻ることはないまま禅秀与党に合流して没落したのだろう。
●禅秀の乱後の情勢
応永24年(1417) | ||||||||
日にち | 常陸国 | 上総国 | 上野国 | 甲斐国 | 下野国 | 武蔵国 | 鎌倉 | 京都 |
正月10日 | 石川幹国、宍戸持朝に従って鎌倉雪ノ下を奮闘 | 雪ノ下合戦で禅秀一統自刃 | ||||||
2月初旬 | 石川幹国、鎌倉から常陸国へ (「足利持氏書状」『皆川文書』:室1555) |
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2月6日 | 武田信満、木賊山で自刃 (『妙法寺記』) |
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2月7日 | 石川幹国、稲木城攻め (「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536) |
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2月中 | 岩松満純入道、白河辺に遁れている事が判明 (「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596) |
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3月1日 | 持氏、長沼淡路入道に岩松一類の追討を命じる (「足利持氏書状」『皆川家文書』室:1596) |
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3月24日 | 持氏、御所造作奉行梶原美作邸に遷る (『鎌倉大日記』) |
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3月27日 | 将軍義持、白河小峰朝親に岩松一類の追捕を命じる (「細川満元奉書写」『白河結城文書』室:1609) |
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3月末頃 | 岩城・岩崎氏に「佐竹凶徒」追討の御教書が出される | |||||||
4月10日 | 岩城・岩崎氏、陸奥国から常陸国へ進発 (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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4月15日 | 岩城・岩崎氏、瓜連城攻め、長倉常陸介降伏 (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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4月20日頃 | 岩城・岩崎氏、山方城攻め (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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4月24日 | 岩城・岩崎氏、山方城攻め 〔攻め落とす?〕 (「飯野光清軍忠状」『飯野家文書』室:1614) |
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石川幹国、稲木城攻め (「足利持氏御教書」『石川氏文書』神:5536) |
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4月28日 | 持氏、大倉新邸に遷る (『鎌倉大日記』) |
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上杉憲基、関東管領辞任の意向と三島引退 (『鎌倉大日記』) |
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5月9日 | 将軍義持、宇都宮持綱に書状を遣わす (『満済准后日記』) |
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5月下旬 | 宇都宮持綱が上総守護の御吹挙を義持に依頼する (『満済准后日記』) |
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5月27日 | 結城禅基、禅秀与党を西御荘で捕縛して鎌倉へ送致 (「足利持氏御教書案写」『松平基則氏所蔵文書』) |
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5月28日 | 満済、宇都宮持綱の書状を義持に披露 (『満済准后日記』) |
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5月29日 | 岩松満純、入間川へ出張 (『喜連川判鑑』) |
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5月中 | 持氏、安保宗繁に岩松勢への対応を命じる (「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525) |
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閏5月7日 | 将軍義持、今川範政へ持氏移徙を賀す (「足利義持御内書案写」『今川家古文書写』) |
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閏5月12日 | 持氏、安保宗繁を賞する (「足利持氏御教書」『安保文書』神:5525) |
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閏5月13日 | 岩松満純、龍ノ口で誅殺 (『喜連川判鑑』) |
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閏5月24日 | 持氏、生母御料所として上総国千町庄大上郷を宛行う (「足利持氏料所所進状」『上杉文書』神:5528) |
上杉憲基、鎌倉帰還 (生田本『鎌倉大日記』) |
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閏5月25日 | 持氏、上杉憲基に上野、伊豆両国の闕所地を安堵 (「足利持氏所領安堵状(『上杉文書』神:5530) |
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6月30日 | 上杉憲基、管領再任 (生田本『鎌倉大日記』) |
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7月4日 | 将軍義持、上杉憲基に上野、伊豆両国の闕所地を安堵する御教書を下す (「足利持氏袖判御教書」『上杉家文書』) |
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8月3日 | 満済が宇都宮使僧の戒浄の言葉を将軍義持に伝える (「弁阿闍梨重讃売券」『米良文書』) |
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8月7日 | 将軍義持、「上総国御吹挙治定由被仰下」する (『満済准后日記』) |
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8月22日 | 持氏、上杉憲基に被官所領を宛がう (「足利持氏御教書」『上杉家文書』) |
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10月10日頃 | 持氏、京都に使僧の「頌西堂」を京都へ派遣 | |||||||
10月17日 | 持氏、生母御料所として上総国天羽郡内萩生作海郷を宛行う (「上杉憲基施行状」『上杉文書』神:5545)) |
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満済、将軍義持に宇都宮持綱からの注進状(持氏が持宇都宮持綱の上総守護の吹挙を拒絶した旨)を披露 (『満済准后日記』) |
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12月1日 | 足利義量元服 (『看聞日記』) |
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今年中 | 入部した守護武田満春が「地下一族蜂起」により甲斐を追い出される | |||||||
応永25年(1418) | ||||||||
日にち | 常陸国 | 上総国 | 上野国 | 甲斐国 | 下野国 | 武蔵国 | 鎌倉 | 京都 |
正月4日 (公称5日か) |
上杉憲基病死 (『喜連川判鑑』) 「足利義持御教書案」 ※『醍醐寺文書ニ〇函』:室1714では正月5日「房州禅門去正月五日入寂」 |
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2月10日頃 | 武田満春、小笠原政康とともに甲斐再入部 (「足利義持御内書」『小笠原文書』) |
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2月15日 | 武田満春の入部が京都へ報告 (『満済准后日記』) |
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2月21日 | 京都から持氏使僧「頌西堂」が帰途。 上総守護と甲斐国、御料所の件についての義持書状を帯する (『満済准后日記』) |
義持、小笠原政康に満春の甲斐入部を褒する (『満済准后日記』) |
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2月下旬 | 持氏、義持からの御内書を受け取る | |||||||
3月初旬 | 持氏、使僧「日峯和尚」を京都へ遣わし義持御内書への返事を持たせる (『満済准后日記』) |
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3月10日 | 満済、持氏使僧の日峯和尚から「甲斐国、上総国等事」についての返事を義持へ伝える (『満済准后日記』) |
満済、持氏使僧の日峯和尚から「甲斐国、上総国等事」についての返事を義持へ伝える (『満済准后日記』) |
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3月11日 | 満済、宇都宮持綱の書状を義持に伝える (『満済准后日記』) |
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4月中旬 | 「上総国狼藉張本人」の挙兵 (「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561) |
「新田并岩松与類可出張」 (「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5562) |
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4月26日 | 持氏、白石彦四郎入道に上総出兵を命じる (「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561) |
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4月29日 | 武州南一揆に出兵を命じる (「足利持氏御教書写」『多摩郡宮本氏所蔵文書』神:5563) |
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5月初頭 | 桃井宣義と小栗満重の陰謀が発覚 (「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566) |
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5月初旬 | 小栗満重、小栗城へ没落 (『常陸誌料』) |
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5月6日 | 持氏、「上総国畔蒜庄内亀山郷」に禁制 (「足利持氏袖判禁制」『円覚寺文書』神:5564) |
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5月9日 | 一色左近将監、上総国へ向かう予定 (「足利持氏御教書写」『楓軒文書纂六十五』神:5561) ※5月28日に延期 (『喜連川判鑑』) |
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5月10日 | 長沼淡路入道に小栗城攻めを命じる (「足利持氏御教書」『皆川文書』神:5566) |
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5月25日 | 満済、宇都宮持綱の書状を義持に披露する (『満済准后日記』) |
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5月28日 | 一色左近将監、上総国へ出立 (『喜連川判鑑』) |
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6月初旬 | 一色左近将監、上総八幡に着陣 |
持氏、将軍嫡子義量の元服祝として、宍戸基家入道を上洛させる |
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常陸鹿島氏上総八幡に合流 (「烟田幹重軍忠状写」『烟田文書』室:1737) |
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6月初~中旬? | 一色勢、上総平三城を攻め落とす (「烟田幹重軍忠状写」『烟田文書』室:1737) |
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6月13日 | 宍戸満里に小栗城攻めを命じる (「足利持氏御教書写」『一木氏所蔵文書』神:5563) |
宍戸基家入道、入洛して「即日延見、待遇博達」という義持と面会 (『満済准后日記』、『東海璚華集』三敍) |
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7月10日迄 | 小栗満重、降伏 (「藤原定頼書状」『皆川文書』) |
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9月初旬 | 持氏、将軍義持が「御吹挙」した宇都宮持綱の上総守護職を追認 | 持氏、上総守護追認を将軍・宇都宮持綱に伝達か | ||||||
9月15日 | 満済、宇都宮持綱からの持氏が上総守護を追認した件の文書について義持に伝達 (『満済准后日記』) |
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9月16日 | 満済、宇都宮持綱からの持氏による上総守護追認の件について義持に披露 (『満済准后日記』) |
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9月下旬 | 持氏、使僧花宗和尚を上洛させ、三カ条について認可を求める ・宇都宮持綱の上総守護 ・故憲基跡の中分 ・常陸守護佐竹上総の補任不許か |
持氏、使僧花宗和尚を上洛させ、三カ条について認可を求める ・宇都宮持綱の上総守護 ・故憲基跡の中分 ・常陸守護佐竹上総の補任不許か |
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10月10日 | 義持、持氏からの三カ条に返事 ・宇都宮持綱上総守護補任 ・故憲基跡の中分は認めず ・常陸守護佐竹上総の補任不許は認めずか (『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条) |
義持、持氏からの三カ条に返事 ・宇都宮持綱上総守護補任 ・故憲基跡の中分は認めず ・常陸守護佐竹上総の補任不許は認めずか (『満済准后日記』応永廿五年十月十二日条) |
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10月28日 | 将軍義持、小笠原政康に武田満春への合力を命じる (「足利義持御内書」『東京大学史料編纂所所蔵小笠原文書』室:1774) |
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10月29日 | 持氏、進士重行に三佐古東西村の下地を沙汰付け (「足利持氏御教書」『小川文書』室:1775) |
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応永26年(1419) | ||||||||
日にち | 常陸国 | 上総国 | 上野国 | 甲斐国 | 下野国 | 武蔵国 | 鎌倉 | 京都 |
正月初頭 | 「上総本一揆、重令蜂起」 (『鎌倉大日記』) |
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正月19日 | 木戸懐範、上総攻めの大将となり鎌倉を出立 (『鎌倉大日記』) |
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正月30日以前 | 上杉持定、武蔵国内の地頭に国境を固める旨を伝達 (「上杉持定書状写」『常陸誌料雑記』室:1793) |
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2月11日 | 常陸鹿島氏、木戸勢に参加 (「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810) |
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3月3日 | 坂水城の合戦 | |||||||
3月14日 | 将軍義持、小笠原政康に「武田陸奥守」への合力を命じる (「足利義持御内書」『小笠原文書』室:1802) |
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4月25日以前 | 坂水城の「本一揆ノ大将、埴谷小太郎重氏」が降参 (『喜連川判鑑』) |
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4月25日 | 烟田幹胤、坂水攻城の軍忠状をしたためる (「烟田幹胤代胤幹軍忠状案」『烟田文書』室:1810) |
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5月6日以前 | 木戸懐範、埴谷重氏を鎌倉に連行 (『喜連川判鑑』) |
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5月6日 | 埴谷重氏、由比浜で処刑 (『喜連川判鑑』) |
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5月8日 | 持氏、木戸懐範からの注進により烟田幹胤を褒す (「足利持氏御教書案」『烟田文書』神:5586) |
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5月21日 | 上杉持定、卒去 享年十八 (『上杉系図』) |
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12月15日 | 持氏、守護宇都宮持綱に進士重行に三佐古東西村の下地を沙汰付けを命じる (「足利持氏御教書」『京都大学所蔵古文書集』室:1858) |
応永26(1419)年に入り、禅秀与党の騒乱がやや落ち着いてくると、持氏は各所に天下安全の祈祷を命じている。右大将家法華堂には政所執事(持氏は当時四位であって政所設置の資格を得ていない。鎌倉の政所は京都「将軍家」政所の一機関の名目で置かれていたものか)の二階堂信濃守盛秀を通じて「三ケ日御祈祷」を願い(応永廿五年七月十二日「鎌倉府政所執事奉書」『法華堂文書』神:5590)、上野国長楽寺(応永廿六年七月十七日「足利持氏御教書」『長楽寺文書』神:5591)や鶴岡八幡宮には「天下安全祈祷」(応永廿六年七月十九日「足利持氏御教書」『鶴岡八幡宮文書』神:5592)を命じている。
また、憲基死去後、関東管領が置かれない中で、鎌倉が管轄する関東及び奥州の料所の遵行や打渡がうまく機能せず、今川範政は「出羽国竹嶋庄、安房国群房庄」は「雖被成環補判、未及遵行」ことを歎き、また「相模国出縄郷、常陸国下妻庄内安敷郷」は「半分被渡残」という状況を将軍義持に訴えた。これを受けて義持は10月20日、持氏に「厳密被沙汰付、被代候之者、可為本意」と注意している(応永廿五年十月廿日「足利義持御教書案写」『今川家古文章写』神:5579)。なお、故憲基の養嗣子で家督を継承した「上杉四郎憲実」は、応永26(1419)年8月28日、将軍義持から山内上杉家職の「伊豆、上野両国守護職事」を補任された(応永廿六年八月廿八日「足利持氏袖判御教書」『上杉家文書』室:1843)。
上総国は上総本一揆の兵乱鎮定から一年半も後になって、ようやく守護宇都宮持綱の動きが見えており、応永27(1420)年12月20日、宇都宮持綱が守護代「芳賀右兵衛尉殿」に、醍醐寺地蔵院雑掌からの「上総国飫富社別当職并本納、加納両郷等事」について「去廿四年十二月廿七日 御判之旨」の通り、「恵命法印代官」を退けるよう命じている(応永廿七年十二月廿日「宇都宮持綱遵行状」『尊経閣文庫所蔵文書』室:1917)。
ところが、この翌日の応永27(1420)年12月21日、持氏は「上杉三郎殿」に対し、鎌倉浄光明寺雑掌からの「上総国北山野辺郡内堺郷并鹿見塚、湯井郷、玉泉院末寺粟于郷内真珠寺、同寺領等事」について、「山野辺代官背先例、号惣検断、放入使者於当所、充仰種々課役、致譴責、土民等及牢籠云々、所行之企太難遁其咎、所詮為断向後彼違乱、厳密所有其沙汰也、不日可被註進実否」を命じている(応永廿七年十二月廿一日「足利持氏御教書」『浄光明寺文書』室:1920)。これは「任官符宣并京都御成敗、同以前御免状之旨、所被免除也」(応永廿七年十二月廿一日「足利持氏御教書」『浄光明寺文書』室:1919)とあるように、官符、宣旨、将軍御教書や下知状を根拠とする所領等に関する事柄(公事免除など)は関東進止国守護の権限外であり、鎌倉殿が直接取り扱う案件であったためと思われ、上杉三郎定頼は上総国、相模国、伊豆国について持氏の命を受けて対処しているのであろう。上杉定頼は上総守護またはそれと同様の権限を有していたのではなく、
上杉頼成―――+―長尾藤成―+―上杉顕定====上杉氏定―――上杉持定===上杉定頼
(永嘉門院蔵人)| |(伊予守) +―(弾正少弼)(治部少輔) (三郎)
| | |
| | |
| +―小山田頼顕―+―上杉定重―――上杉定頼
| (宮内大輔) |(修理亮) (三郎)
| |
| +―女子
| (惣持院)
| ∥ 【上総守護】
| ∥――――――上杉氏憲
| ∥ (右衛門佐)
| ∥
| 【上総守護】
| 上杉朝宗
| (修理亮)
| 【武蔵守護代】
+―長尾藤明―――長尾藤景――――長尾氏春
(兵庫助) (兵庫助)
こうした中、持氏は応永27(1420)年に「従三位」の末席に「源持氏左兵衛督」として見える(『公卿補任』応永廿七年)。具体的な日にちは記されていないが、応永27年は12月5日に除目があったため、おそらく持氏もこの日の叙位任官であろう。従三位基氏以来、鎌倉足利家で公卿となった人物は持氏以外に存在せず(将軍義政の庶兄の堀越公方政知は除く)、将軍義持は当時十四歳の嫡子義量を差し置き、猶子持氏を公卿に推挙したことになる。このとき持氏二十三歳であった。規範を守り法に則り理想的な安寧の世を築き上げるという将軍義持の政治姿勢は、父義満のような強引な引給を否定し、我が世子とはいえ幼弱の義量の昇叙を吹挙せず、敍爵(正五位下)から六年間据え置いて、十八歳になって従四位下に吹挙している。
名前 | 誕生 | 元服 | 五位 | 四位 | 三位 |
足利義量 (義持嫡子) |
応永14(1407)年 7月24日 |
応永24(1418)年 12月1日 12歳 |
【元服同日】 応永24(1418)年 12月1日 ・正五位下 ・右近衛中将 12歳 |
応永31(1424)年 正月12日 ・従四位下 18歳 10月13日 ・参議(兼右中将) 応永32(1425)年 正月12日 ・正四位下 19歳 2月27日(薨) 19歳 |
― |
足利持氏 (義持猶子) |
応永5(1398)年 ※『大乗院日記目録』 より逆算 |
応永17(1410)年 12月23日 13歳 |
【元服同日】 応永17(1410)年 12月23日 ・正五位(下か) ・左馬頭 13歳 |
不明 | 応永27(1420)年 12月5日か ・従三位 ・左兵衛督 23歳 |
足利義嗣 (義持弟) |
応永元(1394)年 | 応永15(1408)年 4月25日 15歳 |
応永15(1408)年 3月4日 ・従五位下 3月24日 ・正五位下(越階) ・左馬頭 15歳 |
応永15(1408)年 3月28日 ・従四位下 3月29日 ・左近衛中将 15歳 |
【元服同日】 応永15(1408)年 4月25日 ・従三位 ・参議 15歳 |
二条持基 【参考】 |
明徳元(1390)年 | 応永16(1409)年 12月20日 20歳 |
【元服同日】 応永16(1409)年 12月20日 ・正五位下 12月29日 ・左近衛少将 20歳 |
応永17(1410)年 正月5日 ・従四位下 ・左近衛中将? 4月26日 ・正四位下 (基教⇒持基) 21歳 |
応永17(1410)年 8月5日 ・従三位 ・権中納言 21歳 |
九条満教 【参考】 |
明徳4(1393)年 | 応永11(1404)年 12月15日 12歳 |
【元服同日】 応永11(1404)年 12月15日 ・正五位下 12月25日 ・侍従 12歳 |
応永12(1405)年 正月6日 ・従四位下 3月17日 ・左近衛少将 12月10日 ・右近衛中将 13歳 |
応永14(1407)年 正月6日 ・従三位(越階) 3月24日 ・権中納言 15歳 |
持氏は応永28(1421)年正月、奉公衆の木戸駿河守氏範を「今度使節上洛ハ、去々年鎌倉殿左兵衛督持氏従三位後昇進御礼并去年十月御所様御違例御本復目出、両條聞也」のために上洛させた(『喜連川判鑑』『花営三代記』)。木戸氏範は2月26日に「関東使節木戸駿河守、両御所之懸御目、管領有引道、昭心申次也」(『花営三代記』)とあり、将軍義持と世子義量と対面を果たしている。さらに「於御所、内裏仙洞上臈御参有之、御一献、伊勢守沙汰也」(『花営三代記』)と、政所執事伊勢守貞経の沙汰において三條坊門第に御所や仙洞の上臈衆が招かれて氏範への饗応が行われている。持氏から義持への引出物として「就昇進事、太刀一腰金、馬三疋青鴇毛、糟毛、駁」が進上されている(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)。
この使者となった「木戸駿河守(木戸氏範)」は同族の木戸内匠助範懐らとともに満隆・禅秀方に加担した木戸氏庶流の奉公衆で、持氏が御所から佐助へ逃れた応永23(1416)年10月5日に下野国「大曾郷」を収公された「木戸駿河守」と同一人物であろう(応永廿三年十月五日「足利持氏御下文」『長沼文書』)。その後、禅秀の乱後に木戸範懐らとともに赦されたのだろう。
3月4日にも「関東使節木戸駿河守、御所東向被召、有一献、御相伴両人、管領畠山左衛門督入道、衾二、盃一、自上被下木戸」(『花営三代記』)とあり、三條坊門第の東小御所に召されて饗応を受けている。そして約二か月にわたって在京した氏範は4月末に帰国することとなり、4月28日に将軍義持より持氏への御教書が渡されている。まず、昇進の進物に対する返礼として「太刀一振鮫綵、金襴一端分一枚」が渡された。そして、関東との間に残る強い懸念である下記の二項についての注文が伝えられている。
■将軍義持から持氏に出された注文事(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)
【一】 | 甲州事、申付武田三郎入道之間、悉属無為候処、被下両使之由、其聞候、 事実者不可然候、早々被召返候者、可目出候 |
【二】 | 常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候、無心元候、 所詮早速被仰付候者、可為本意候 |
この子細については、氏範に口頭で伝えている。
5月初旬頃には木戸氏範は鎌倉へ帰還したと思われ、御所において将軍義持御教書とその言葉を持氏に伝えたのだろう。将軍義持の懸念の一つ、「甲州事、申付武田三郎入道之間、悉属無為候処、被下両使之由、其聞候、事実者不可然候、早々被召返候者、可目出候」は、故武田信満入道の子で、高野山に逃れていた武田三郎信重入道が守護として入部させようとするも持氏が認知せず、鎌倉から両使を遣わしている現状について、早々に召し返すよう依頼したものである。
応永25(1420)~26(1421)年当時、甲斐国には守護の陸奥守信基がいて、持氏の後ろ盾で甲斐国に入部して権勢を振るった逸見中務丞有直も、将軍義持の要請を受けた鎌倉殿持氏の対応により旧領西郡を抑える程度となっていた。ただし、逸見氏の勢力はまったく減退したわけではなく、応永27(1422)年2月当時、鎌倉奉公衆「逸見中務大輔入道」(有直の父世代となる)は、「勝光院殿(足利満兼)御菩提」のために「名越別願寺」の「門前畠等」を寄進することを持氏に依頼している(応永廿七年二月十九日「足利持氏寄進状」『別願寺文書』)ように、逸見氏自体は持氏側近として存在し、有直も持氏与党として甲斐国西郡に蟠踞していたとみられる。その後、持氏が将軍義教から攻められると逸見氏も追討対象となり、永享11(1439)年閏正月初旬、「関東逸見伏誅」(『薩戒記』永享十一年閏正月十三日条)された。その後の逸見一族は古河公方家(のち小弓公方家を経て喜連川家)の宿臣として命脈を繋ぐこととなる。この「逸見伏誅」を受けた幕府の人々は「人々参賀」(『薩戒記』永享十一年閏正月十三日条)、「諸老為関東事参賀」(『蔭涼軒日録』永享十一年閏正月十四日条)というほど悦んでおり、逸見氏(逸見有直か)は持氏奉公衆の巨頭として認識されていた様子がうかがえる。
武田信基には当時男子がおらず、「右馬助信長ハ甥ノ事也、器用ト申出頭ト申、是ヲ連々名代ニ心懸ラレ候ヘトモ、父ノ安芸守、京鎌倉ニソムカレ候間、タチマチナレハ互ニシンシヤク有、扨又他人ニイカテカ可譲トテ、右馬助信長ノ子息ニ伊豆千代トテ土屋ノ娘ノ腹ノ子有リ、是ヲ猶子トシテ文書重代ノテツキ悉ク渡サレ候、是偏ニ右馬助殿ニ世ヲ任セ給フ迄也」といい(『一本武田系図裏書』)、信基入道は甥の右馬助信長の子、伊豆千代を猶子として文書を譲ったという。この『裏書』の筆者が信長の孫道存であることから、「文書重代ノテツキ」を継承し得る状況にあったか疑問であり、信長に恣意的な事を記している可能性が高いが、守護信基は甥の八郎信長と協調関係にあったことは間違いなさそうである。
その守護たる信基入道であったが、おそらく応永26(1421)年前後には亡くなったと思われ、伊豆千代を当主とし実父八郎信長が後見する甲斐国の政治体制が敷かれたと思われる。彼の甲斐における活動拠点ははっきりしないが、故信基の跡を受けていることから、信基と同様に甲南穴山領ではなかろうか。
『鎌倉大草紙』には「信元ノ家来跡部駿河同上野ト申テ甲州ノ守護代預リ一類アマタアリテ何事モ信元ノ旨ヲ背テ横行シケリ、信元一期ノ後、伊豆ノ千代丸ニ跡部ソムキケル」(『鎌倉大草紙』)と見え、信基生前より守護代跡部氏が専横し、後継者の伊豆千代に対しても背反したとする。具体的にこれを証する文書は存在しないが、八郎信長孫の道存が記した中に「跡部駿河守トテ甲斐国ノ守護代ヲアツカリ、身類縁者数多有モノテニ出頭ノ者也、彼人右馬助信長ニ深ク恨ヲ結フ事アリ、然間謀叛ヲ企ツ」(『一本武田系図裏書』)と見えるように、信元の跡を事実上継承した八郎信長と守護代跡部駿河守は激しく対立した様子がうかがえる(ただし両名ともに持氏与党ではなく京方であるため、関東との争いではなく内部抗争である)。
なお、跡部氏は信濃国佐久郡跡部郷(佐久市跡部)を名字地とする小笠原氏支流ではあるが、「身類縁者数多有モノ」(『一本武田系図裏書』)とあることから、かなり以前に甲斐国に入部していた氏族とみられる。小笠原政康から付けられたという説もあるが、現実的ではない。やや後年になるが政康末裔の小笠原秀政の家人にも跡部氏は見られず(『小笠原秀政分限帳』)、守護代跡部氏と小笠原政康との関連は考えにくい。
こうした混乱極まる甲斐国は、応永28(1421)年4月までに「武田三郎入道(信重入道)」はすでに甲斐守護であった(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)。しかし、持氏は本来守護の職務であることを「被下両使」て直に裁許し、遵行せしめていた。将軍義持が問題にしたのはこのことで、「被下両使之由、其聞候、 事実者不可然候、早々被召返候者、可目出候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)と、これが事実であれば問題なので、両使の召還を行われることを望むとしている。
しかしながら、持氏としては、一向に京都から関東に出仕しようとしない武田信重入道への不審や、故信基入道後に蟠踞する武田八郎信長と守護代跡部駿河守の勢力争いによる国内の混乱など、管国たる甲斐国へ介入を行う必要性を感じていたことは想像に難くない。甲斐国への両使派遣は守護不任に伴う政務の停滞を防ぐためにはやむを得ない措置であったろう。将軍義持への従三位昇進御礼の使者派遣など、持氏としては京都と対立する意思は全くなかったのである。
ところが、武田信長は持氏の意向を受けて甲斐にいたわけではなく、持氏が管国甲斐の直接支配を行うに当たり、信長との間で対立があったのだろう。応永28(1421)年9月、「吉見伊予守、甲州発向」(『鎌倉大日記』)、「甲州武田右馬助信長反逆ノ聞エアリ因玆吉見伊予守ヲ指向ラル、信長出合ヒ対談シテ野心無之旨陳ス、吉見鎌倉二帰ル」(『喜連川判鑑』)とあるように、持氏は信長追討使として吉見伊予守を派遣している。このとき八郎信長は抵抗することなく降伏したことから、吉見伊予守は鎌倉に帰還した。
なお、これとほぼ時を同じくする10月9日、下野国佐貫庄で「桃井左馬権頭并小栗輩合戦」があり、下野国の地頭等が彼らの追討を命じられたとみられる。これに応じたひとり佐野帯刀左衛門尉は10月13日、持氏から戦功を賞されている(応永廿八年十月十三日「足利持氏御教書写」『喜連川家文書』「御書案留書」上 室:1942)。
常陸国に関しては、応永28(1421)年4月28日当時、「常陸国守護職事、可被申付佐竹上総入道候由、雖度々申候、未無其儀候、無心元候、所詮早速被仰付候者、可為本意候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)と見えるように、持氏は将軍義持や幕閣が望んでいる「佐竹上総入道」を常陸守護とすることへの追認を頑なに拒絶している。
甲斐武田氏も佐竹氏もともに将軍家直属の被官人(「京都御扶持之輩」)とみられるが、武田信重入道は持氏との間に深い繋がりもなければこれといった遺恨もみられず、守護職を拒む理由はない一方、与義入道は持氏が強烈な遺恨を持つ故禅秀入道の女婿であるとともに、佐竹惣領家の左馬助義憲(義仁)と嫡庶の違いはあれど同格だったことが峻拒の理由と思われる。義憲は持氏が信頼した故管領憲基の弟であり、持氏としては現守護の義憲を仇敵縁者の与義入道を追認する意思はなかったのだろう。
ただ、与義入道自身が持氏に対して直接挑発的なことを行った傍証はない(禅秀の乱でも信頼性に問題の多い『鎌倉大草紙』以外に参戦したことが記されるものはない)。持氏幼少時、応永14(1412)年から翌応永13(1413)年にかけて起こったとされている、上杉家から佐竹惣領家への義仁入嗣に対する稲木・長倉城への籠城事件も、実際は傍証となる周辺氏族の動向や文書、京都及び鎌倉側の史料は皆無であることから、禅秀の乱時の稲木・長倉城籠城戦が混同されたものではなかろうか。そもそも応永14年当時に与義の籠城事件があったとしても、幼い持氏には全く関わりのないことで、これが遺恨となる理由はない。
こうした常陸国守護を巡る問題は、持氏の個人的な感情とは別に、惣領義憲と庶家与義入道の対立として表面化しており、持氏は5月初旬頃に受領した将軍義持からの「雖度々申候、未無其儀候、無心元候、所詮早速被仰付候者、可為本意候」(『大舘常興日記』「御内書案応永以来至永正」室:1924)という意思も無視できず、6月25日、「二階堂信濃守殿(二階堂盛秀)」に「佐竹左馬助与庶子等確執事、早完戸備前守相共令下向常州、任仰含之旨、相触面々、属無為之様、可申沙汰」(応永廿八年六月廿五日「足利持氏御教書写」『喜連川文書』(「御書案留書」上)室:1929)を命じている。義持側近でも最上位に位置する政所執事二階堂盛秀と常陸国の宍戸持朝(持氏側近として奮迅するが、彼も「京都御扶持之輩」の一人であろう)を両使としており、持氏は義憲と与義入道の対立を解消させ、後年義持に提案することになる「意向に少しでも沿う解決策」を考えていた可能性があろう。
こうした中、応永29(1422)年5月には先年の佐貫庄合戦で逃亡した「小栗常陸孫次郎(公的には小栗常陸介に任官しているが持氏は認めていない)」が小栗城を占拠したため、持氏は「上杉三郎(上杉定頼)」を大将として「小栗発向」(『喜連川判鑑』)し、周辺氏族にも派兵の命を下した。常陸の地頭に限らず、小栗城から至近の人々に催促されたとみられ、6月13日には下総結城氏の一門に包摂されていた「小山左馬助(小山満泰)」も催促の対象となっている(応永廿九年六月十三日「足利持氏御教書」『山川光国氏所蔵文書』室:1983)。なお、彼も将軍義満から片諱を頂いている(氏満から与えられる一字は「氏」と考えられることや、氏満の「満」は義満の一字を受けたものであろうことから、持氏の周囲に見られる「満」字をもつ人々は足利氏満から片諱を拝領したものではないだろう)ように将軍家直属の「京都御扶持之輩」であったとみられる。
小山秀政――小山氏政―+―小山義政―――小山若犬丸
(下野守) (左衛門佐)|(下野守)
|
+―女子 +―結城満広 +―結城氏朝
∥ |(中務大輔)|(中務大輔)
∥ | |
∥――――+―小山泰朝―+―小山満泰
結城朝祐――結城直光―――結城基光 (下野守) (左馬助)
(左衛門尉)(中務大輔) (弾正少弼)
『喜連川判鑑』では「八月、小栗満重所領ノ事ニ付テ鎌倉殿ニ恨ヲ含ミ逆心ヲ起ス」とあるように8月の挙兵とされているが、小栗合戦は5月中には起こっていた合戦である。
こうした中、応永29(1422)年6月29日、「今日、上椙屋敷ヘ室町殿入御、御引出物三千貫、金鯉、同俎箸、銀御盃等進之、一献廿七献之間、毎献ニ御引出物進之、翌日又越後布車一両、干飯一両進云々、御共申大名共鎧一両、馬一疋引之、上杉初而入申間、如此振舞」(『看聞日記』応永廿九年六月廿九日条)という。将軍義持がなぜこの時初めて京都の越後上杉亭を訪れることになったのか、子細は記されていない。しかし、当時の越後守護職は関東管領憲実の実兄に当たる上杉民部大輔朝方であることから、憲実から関東の情勢を受けた朝方が、自らの保身のためか憲実の要請を受けて持氏を擁護するためかは不明だが、義持ならびに共衆を大勢屋敷に招いて二日に渡る大歓待を行い、領国越後から取り寄せていた大量の引出物を献上し、共衆にはそれぞれ鎧一両、馬一匹を配ったのである。
伝統的に将軍家と主従関係を持つ在関東の「京都御扶持之輩」の反抗は、持氏が応永24年に薬師如来に誓った「苟持氏指麾同志之輩、欲誅無道之臣」し「早施逆徒滅亡之戦功」することで「恵光鎮照、関東純熈」(応永廿四年二月「足利持氏願文案写」『後鑑所収相州文書』神:5513)という行動原理を再確認させ、「関東」に生きる人々の心身の安楽を実現するための行動を起すきっかけとなったのだろう。応永29(1422)年9月、「檀那大御所源持氏、高滝近江守氏重」の銘で「上総国天羽郡造網神社」に「現世安民所也」を祈願し、同時に「衆人信威、怨敵皆悉失滅、子孫繁昌所也」を祈った(「応永廿九年九月吉日造網神社棟札銘」『富津市三柱神社蔵』室:2001)。この頃には持氏は敵対する「京都御扶持之輩」を悉く追討することを決意していたのだろう。
持氏は「佐竹上総入道、京都異他御扶持」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)と見える佐竹与義入道の追討を画策した。応永28(1421)年6月に持氏は常陸国の佐竹義憲与党と与義入道子息らとの間を「属無為之様」よう働きかけたが双方拒絶したとみられ、叶わなかった。こうした中、与義入道の「子息并一族以下御敵等、館籠常州額田城」したという(応永卅年三月「烟田幹胤軍忠状案」『烟田文書』室:2028)。この挙兵は「依佐竹上総入道常元隠謀」とあることから、事実であれば与義入道の指図によって与義入道子息の刑部大輔祐義らが額田城(那珂市額田南郷)に兵を挙げ、この報を受けた持氏が応永29(1422)年閏10月3日、「佐竹上総入道御不審、為大将上杉淡路守発向、上総入道於比企谷法華堂自害」(『鎌倉大日記』)とあるように、「佐竹上総入道御不審」により与義入道を鎌倉の館(鎌倉市大町3丁目)に攻めたものとする。与義入道はおそらく館裏の山を登って裏手の比企谷法華堂(妙本寺)へ遁れたと思われるが、ここで自刃した。享年不祥。なお、その合戦の日は『鎌倉大草紙』では「十月三日」、『喜連川判鑑』では「閏十月十三日」となっている。
持氏は11月、額田城を攻めるべく、佐竹義憲に常陸国への下向を命じ、烟田幹胤や一族の鳥名木国義らがこれに属した。一方で、京都ではこの関東の動きに対する反応がみられない。これは翌応永30(1423)年前半も行われていた新将軍義量に纏わる多くの儀式の影響であるのかもしれない。佐竹与義入道誅殺の報告は、持氏が円覚寺正続院主の学海皈才を遣わして伝えたものと思われる。義持が満済に「佐竹上総入道、為関東沙汰被誅也云々、言語道断、粗忽沙汰歟由」(『満済准后日記』応永二十九年十一月二日条)を伝えたのが11月2日であることから、学海皈才が鎌倉を発したのは閏10月下旬であろう。額田城を攻めるための常陸国人への軍勢催促などを行い、佐竹義憲を派遣するのとほぼ同時に京都へ事の次第を伝えたのではなかろうか。「佐竹上総入道常元之子共以下庶子等、館籠常州額田城」をめぐる合戦は翌応永30(1423)年3月21日まで続いた(応永卅年三月「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』)。
翌応永30(1423)年正月19日には小栗城で再び合戦があり、鎌倉方の「小山左馬助(小山満泰)」は「於小栗城討執凶徒数輩之、家人或被疵、或討死之条、所感思召也」と賞されている(応永卅年正月廿二日「足利持氏御教書」『山川光国氏所蔵文書』室:2017)。
2月15日には「常州坂戸合戦」があり、「宍戸弥五郎(宍戸満里)」が奮戦している(応永卅年三月八日「足利持氏御教書写」『水府志料』二 室:2021)。「坂戸(桜川市西飯岡)」は「京都御料所とも成、関東御支配候へ共、当庄之事ハ内裏御料所と申、于今無相違候間、京都へ一注進申候ハてハ、代官之身と而、不可有渡申事之由、堅申候」(年不詳十二月一日「沙弥通積書状」『塙不二丸氏所蔵文書』「茨城県史料中世Ⅰ:九六」)という、京都由緒の「諸国御料所」のひとつ「中郡庄」に含まれる地であり、この坂戸合戦には小栗城攻めの大将「上杉三郎定頼」の麾下に属する宍戸弥五郎が奮闘していることから、持氏勢が戦った相手は小栗満重勢とみられ、小栗庄東隣の御料所内に展開していた様子がうかがえる。
応永30(1423)年2月末頃には、持氏は「武州南一揆中」に「致国警固」を指示するなど(応永卅年三月十二日「足利持氏カ御教書写」『阿伎留神社所蔵三島明神文書』)、常陸のみならず武蔵国においても警戒を強めている。
こうした中、京都では3月9日に「御方御所様将軍宣下事、可為来十八日由」が内々に決定された(『満済准后日記』応永卅年三月九日条)。この日、将軍義持は「渡御越後守護上杉亭、御代初申入分也」とみえ、前年6月29日以来、二度目の越後守護邸御出となっている。前回と同様に、常陸国小栗城における合戦と連動した越後守護邸訪問であり、上杉朝方は従兄弟義憲の守護国常陸の紛争を受け、弟の関東管領憲実から何らかの根回しを行っていた可能性があろう。それとともに、3月18日の「今日、御方御所様、将軍宣下」(『満済准后日記』応永卅年三月十八日条)を前に、関東のために骨を折ったのかもしれない。
ところが、それから1、2か月ほど経った5月中旬、持氏は鎌倉の御所で小栗攻めに親征することを主張したのだろう。持氏は派兵から一年近く経っても膠着状態の続く小栗城攻めの状況に、自ら陣頭指揮を執ることで諸氏の勇躍を期待したのかもしれない。そして評定の結果、持氏出立の時期は「五月廿五日八日間」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)と定められたようである。これに対し、関東管領憲実は諫めて押し留めようとしたのだろう。しかし当時十四歳程度であった憲実が決意の固まった二十六歳の考えを制止することはできず、憲実は帰邸後に武蔵守護代の長尾尾張守忠政を召すと、畠山修理大夫満慶入道の被官人で足利庄代官の神保慶久に持氏の出陣計画を伝えるよう指示した。長尾忠政は早速「内々可被注進申旨、長尾尾張守書状お神保方へ遣之」(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)し、これを足利庄で受けた神保慶久は「其状案文ヲ相副え注進」て京都の主、畠山修理大夫入道のもとへ使者を遣わしたのであった。こうして6月4日までに畠山修理大夫入道は御所に「畠山修理大夫、自足利庄代官神保方注進トテ持参」した。その忠政状案と慶久注進状の内容は「五月廿五日八日間、必為常陸小栗以下悪党退治、武蔵辺マテ可有御進発」というもので、持氏自身が親征するというこれまでとは次元を超えた対応が必要になる由々しき事態であった。
新田義兼―+―新田義房
(大炊助) |(蔵人)
|
+―女子 +―岩松時兼――岩松経兼――岩松政経―+―岩松直国
足利義兼 ∥ |(蔵人太郎)(五郎) (下野太郎)|(治部少輔)
(上総介) ∥ | |
∥ ∥――――+―田中時朝 +―岩松経家
∥――――――足利義純 (次郎) (兵部権大輔)
∥ (遠江守) 【関東執事】
遊女 ∥――――――畠山泰国――畠山時国――畠山貞国―――畠山家国――+―畠山国清
∥ (上総介) (阿波守) (兵部丞) (尾張守) |(左近将監)
∥ | 【管領】 【管領】
北条時政―――女子 +―畠山義深――畠山基国――+―畠山満家――畠山持国
(遠江守) ∥ (尾張守) (右衛門権佐)|(尾張守) (尾張守)
∥ |
∥――――――畠山重保 +―畠山満慶
畠山重忠 (六郎) (修理大夫)
(次郎)
さらに同じ頃、宇都宮持綱からも同様の文書が京都に届けられていたとみられる。当時、持綱が上総国守護だったかは史料が遺されていないため不明だが、その後の持綱の活動は宇都宮近辺で見られることから、すでに上総守護は解替され、宇都宮へ戻っていたのではなかろうか。その上で、小栗出兵に何らかの関与が求められたのではなかろうか。持綱はこれに京都に使者を遣わして、鎌倉殿持氏の下知に従うべきかどうかを問い合わせたとみられる。その使者が京都についたのは、義持入道の緊急対応から考えて6月5日であろう。
その6月5日、義持入道(4月25日出家)は、相国寺雲頂院の「太清和尚卅三回遠忌」に列席したのち御所に戻ると、申次の赤松越後守を満済入道のもとへ遣わし「可被仰子細在之、可参申入旨」を伝えた(『満済准后日記』応永卅年六月五日条)。これを受けて御所に参じた満済入道は、以下のような関東の情勢について説明を受けている。
応永30年6月5日の義持入道から満済への報告事 | 具体的な内容 |
関東之儀、毎時物騒歟、剰武蔵国ヘ可有進発由、其聞有也 | 持氏親征の計画と期日についての情報(上杉憲実⇒長尾忠政⇒神保慶久⇒畠山満慶⇒義持)があったことの報告。 |
随而去年以来関東使者正続院々主学海和尚及当年未無御対面、今日已被帰国了 | 持氏が佐竹与義入道を討った弁明の使者として上洛していたか。対面の条件などが詰められていたと思われるが、持氏親征の情報により、御破算となり帰国させた。 |
宇都宮不可隨関東成敗由可被下御内書、相副予状、急可下遣之由 | 宇都宮持綱から、持氏の小栗親征で持氏下知に従うべきかどうかの問い合わせの返事を、持氏御内書とともに満済の副状をつけて急ぎ持綱へ下すべしという内容。 |
宇都宮持綱からの問い合わせについては、「不可随関東成敗由」とし、義持入道の御内書に加えて満済の副状も付けるという厳重な扱いの上「急可下遣」という緊急措置が取られた。これは持氏が親征すると設定した5月25日から8日間(5月26日~6月4日)がすでに過ぎてしまっていることが挙げられるか。
この急派された使者が宇都宮へついたのは6月中旬であろう。持綱は義持御内書と満済副状を受けると、「宇都宮、依京都御左右可進退由申入之也」(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)という返書を認め、「宇都宮使者僧白久但馬入道息云々名字永訴」を京都へ遣わした。ここに尊氏以来「京都御扶持之輩」である大名宇都宮家は、関東の下知に従うべからずという御内書に従い、将軍の命を奉じる旨を明確にしたのである。よって、持氏には小栗攻めの要請に応じない旨を返答したのであろう。こうして持綱と持氏は敵対関係となった。
なお、宇都宮出立時には白久永訴は父の「宇都宮右馬頭持綱郎等白久但馬入道」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川家文書』室:2093)とともに、越後国を経由して上洛する途に就いている。その上洛ルートは推測だが、宇都宮氏が支配(長沼淡路入道との相論地)する南会津南山三依郷(日光市上三依)を通って南会津南山の川筋を遡りながら魚沼郡へ抜ける道であったと思われる。その途次には宇都宮氏と対立関係にあった長沼淡路入道の所領があり、この手前で二人は分かれて進発した可能性がある。そして「■月、宇都宮右馬頭持綱郎等白久但馬入道、京都江為使懸南山内伊北罷上之間、搦捕討之」(応永卅年十一月「某軍忠状」『皆川家文書』室:2093)とあるように、父の白久但馬入道は伊北(南会津郡只見町)で長沼勢に捕縛され殺害された。なお、白久入道が殺害された月ははっきりしないが、北国街道を目指すルートや応永30年11月以前の事であることを考えると、この時の事件と推測できる。
一方、「宇都宮使者僧白久但馬入道息云々名字永訴」は北国経由で無事に醍醐まで到達し、7月4日朝、「宇都宮注進状」を満済のもとに持参した。即日満済は将軍に宇都宮状を届け、義持入道は「折節使者御悦喜」と感じている(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)、宇都宮持綱への書状が間に合ったことや、持綱の対応に歓喜している様子がうかがえる。
但馬入道息僧永訴が述べたところによると、「去月十一日、国お立テ廿余日北国ヲ経テ参着云々、鎌倉殿、未武蔵二御座」と見え(『満済准后日記』応永卅年七月四日条)、6月11日の段階で持氏は武蔵国に出座していなかったことがわかる。宇都宮持綱や那須氏らの動向が不明で、予定の調整が難航した可能性があろう。軍勢を動かした微証がみられるのは、6月25日に「大蔵稲荷社領所々」へ出した「軍勢甲乙人等不可致濫妨狼藉」を命じた禁制が初見である(応永卅年六月廿五日「足利持氏袖判禁制写」『鶴岡神主家伝文書』室:2044)。持氏はこの稲荷社に6月17日、「凶徒退治祈祷事、近日殊可致精誠」を指示している(応永卅年六月十七日「足利持氏御教書」『鶴岡八幡宮文書』室:2043)。これらのことから、持氏が出陣したのは6月下旬以降となろう。
「宇都宮注進状」が届いた翌日の7月5日早朝、満済は義持入道に召されて三条坊門邸に参上した。満済は当時義持入道から頻繁に召されていることから、距離のある醍醐寺と洛中を往復していたとは想定されず、三条坊門邸に近接する醍醐寺の洛中別坊法身院門跡に居住していたと思われる。満済が召されたのは「就関東事」(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)であり、前日の「宇都宮注進状」によってもたらされた様々な情報から、管領以下との評定に出席と助言を求めたものとみられる。満済は「畠山修理大夫入道令同道罷向管領亭」とあるように、三条坊門邸から神保慶久の主・畠山修理大夫満慶入道とともに管領畠山左衛門督入道道端(満慶の兄満家)の屋敷を訪れている。
管領亭には「諸大名等悉召集、仰趣申聞」とみえるように、主要な在京大名が召し集められており、満済は召集の趣旨(関東の問題)の伝達と、「面々意見通可参申入由」を差配するよう指示されている(『満済准后日記』応永卅年七月五日条)。満済はあくまでも一介の僧侶であることから「為不相応」と認識しているが、義持入道の仰せにより参じている。
応永30年7月5日管領畠山満家入道亭に召集された人 |
三宝院満済 |
畠山修理大夫入道(畠山満慶) |
細川右京大夫(細川満元) |
武衞(斯波義淳) |
山名(山名時熙) |
赤松(赤松満祐) |
一色(一色義貫) |
今川駿河守護(今川範政) |
【依所労不参】大内入道(大内満世) |
管領亭に招集された人々に対して、義持の仰せが開陳され、諸大名の意見が求められた。
仰せの趣 | 管領以下諸大名の御返事 |
・関東振舞以外事共也 ・去年佐竹上総入道不事問被誅罰 ↓ 「雖然于今御堪忍」していたが… ↓ 「結句、上総入道息共并京都様御扶持、大掾、真壁以下者共悉為令退治、五月廿八日鎌倉殿已進発武州」 ↓ ・就之猶、自京都様ハ御中違之儀、無左右不被仰出 ・猶今日長老蘭室和尚ヲ被下関東事、子細可被尋究由」 ↓ 「難治定、能々御思案處、於今ハ可為無益歟」 ・其故ハ、 (1)同篇御返事可被申歟、已ニ及進発嗷々沙汰上ハ不可及被尋子細候歟由被思食 (2)京都御扶持者共事、於今ハ更不可有御捨、可被加御扶持者也 ●此条々可為何様哉、宜被申意見 |
・上意趣畏被仰下、蘭室和尚可被下事、如上意於今ハ更不可有其詮、無益事也 ・関東ニ京方申入者共方々ヘ被成御教書、堅可被加御扶持條、殊可然由一同申 |
7月7日、管領「沙弥(畠山満家入道道端)」は、「佐竹刑部大輔、常陸大掾、小栗常陸介、真壁安芸守等」の「有京都御扶持」者を追捕するべく「関東様御発向」したことを受け、関東各地の地頭らに「早為彼等合力、相催随遂与力人等」し、持氏を「可令誅罰」ことを命じた(応永卅年七月七日「畠山道端奉書写」『色部家市川家古案集』)。また、京都からは「細川刑部少輔并小笠原右馬助」ら「甲斐、信乃、駿河討手共」(『花営三代記』応永卅一年二月五日条)が派遣されている。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1183737/1/34
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1183737/1/45
小栗城が陥落した具体的な日は不明だが、
『鎌倉大日記』によれば、「小栗孫五郎平満重企野心、聞持氏、五月廿八日鎌倉御動座野州結城」(『鎌倉大草紙』)とみえるが、5月28日当時、「武蔵国白旗一揆 別符尾帳太郎幸忠」は持氏の命に応じて「小栗常陸孫次郎満重御退治」に武蔵国「太田庄罷着」いており(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)、その後「大将結城仁御在陣」を聞いて6月8日に「彼御陣江馳参」じている(応永卅年八月「別符幸忠軍忠状」『別符文書』室:2071)。この結城在陣の「大将」は上杉三郎定頼で持氏ではない。
結城
小栗城をめぐる合戦はその後も続き、ついには「宇都宮持綱、桃井下野守、佐々木隠岐入道与力シ、結城ノ城ニ籠ル、岩松治部大輔カ残党モ与ス」(『喜連川判鑑』)という事態に発展しており、あれだけ折衝を重ねた末に認めた上総守護たる宇都宮持綱ですら、反持氏方に転じたのであった。
、八月二日御責彼城、没落満重并宇都宮持綱同意落行畢、鹽谷駿河守討取之、又桃井下野守、佐々木入道被誅、同月八日討之、然間、上方同十六日、自結城還御武州府中、翌年十一月十四日入鎌倉」()
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1183737/1/34
6月26日には(応永三十年八月「鳥名木国義軍忠状」『鳥名木文書』室:2069)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1188041/1/67
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1188041/1/71
武田兵庫頭満信応永29年11月13日~応永32年正月17日見えない
下條兵庫助季信(信秀)応永32年2月29日、畠山信濃守持清入道とともに大御所より「出家暇」。
応永30年「小栗孫五郎平満重企野心、聞持氏、五月廿八日鎌倉御動座野州結城、八月二日御責彼城、没落満重并宇都宮持綱同意落行畢、鹽谷駿河守討取之、又桃井下野守、佐々木入道被誅、同月八日討之、然間、上方同十六日、自結城還御武州府中、翌年十一月十四日入鎌倉」(鎌倉大日記)
応永30年9月13日、「宍戸弥五郎(宍戸満里)」は「常州真壁城責之時、致忠節」ことを持氏から賞されている(応永卅年九月十三日「足利持氏御教書写」『水府志料』二 室:2075)。
「聞、関東事、今月二日夜討有合戦、佐竹、小栗、桃井京方打負、小栗桃井討死、佐竹ハ切腹云々、但没落両説未定也、京方軍勢若干被討、此由注進到来、以外御驚」(『看聞日記』応永卅年八月廿日条)
京方とは佐竹等であって京都の軍勢ではない。
応永31年2月5日「鎌倉左兵衛督持氏、与京都勝定院殿、御和睦落去畢、管領以下御太刀進上也、甲斐、信乃、駿河討手共被召返云々、并方々江御内書被下也」(『花営三代記』応永卅一年二月五日条)
「三月三日服西堂自京下向、五月十日上洛、九月重下向都鄙御和議、十一月廿日奥州稲村殿御上御座泰安寺、同廿四日上方出御牛目貫被進、同廿七日重而御鎧通御腰物進」
応永32年12月29日
「八月十六日、上杉淡路守給御幡、武田為退治発向」
12月27日「東国上杉四郎鎌倉管領也」(『花営三代記』応永卅二年十二月廿七日条)
応永33年「武田右馬助依出張一色刑部少輔為大将、六月廿六日向御幡、同八月廿五日降参、武州一揆八月一日着陣」
応永34年義教「三月九日元服、同十五日宰相中将任征夷大将軍、今日改名義教」
永享元年「九月十日、公方為富士高覧、自京都下向、同十七日到駿河国鬼岩寺、国主範政奉迎、同十八日登高亭御覧有御歌会」
永享2(1430)年6月10日、兼胤は急病に倒れ、6月17日に39歳の若さで亡くなった(『本土寺過去帳』)。法名は輝山常光、称名院兼哲往讃、眼阿弥陀仏。家中は「愁歎無其限」だったという。
●応永34(1427)年11月1日『千葉介兼胤下写』
『鎌倉大草紙』には、将軍義持の異母弟・権大納言義嗣が、兄将軍義持との対立のため、伊勢北畠満雅、六角満高入道、関東上杉禅秀・足利持隆と繋がり、謀叛を企てた結果、捕らえられて殺害されたと述べられる。千葉介兼胤との接点は「禅秀の乱」となるが、結論から言えば、義嗣が自ら謀叛を企て、北畠満雅や六角入道との連携を行ったり、禅秀の乱への介入を行ったりした事実は認められず、現実には義嗣自身が義持とは対立関係にあって積極的に謀叛を企てた形跡は見られない。結果として義持は義嗣の殺害に至ってしまうが、それは必ずしも義持の本心ではなく、周囲の環境によるやむを得ない側面であった可能性が高い。ここでは『鎌倉大草紙』にみられる義嗣関係の虚実を紹介する。
(1)北畠少将満雅との関わり |
(2)六角備中入道との関わり |
(3)上杉禅秀入道との関わり |
■史書から見た足利義嗣遁世以降の顛末 |
『鎌倉大草紙』では、応永22(1415)年の条に「去ルニ依テ、去年伊勢ノ国司動乱セシ時、近習ノ輩、義嗣卿ヲスゝメ申テ、ヒソカニ御謀ヲ思召立ケル、然共勢州程ナクシツマリケレハ、力ナク此事思召止ケル」(『鎌倉大草紙』)と記す。
この北畠満雅の挙兵について『鎌倉大草紙』では時期は記されていないものの、江戸期の『南方紀伝』では「秋九月、伊勢国司北畠満雅、就御即位事而謀反、関左馬助属焉」(『南方紀伝』)と見えることから、応永21(1414)年9月を想定していると思われる。
ところが、応永21(1414)年9月には将軍義持自らの伊勢参宮が計画され、実際に9月18日に「公方様御参宮、公卿両人豊光卿、教興卿、殿上人三輩教豊、雅光、資雅供奉」(『満濟准后日記』応永廿一年九月)とあるように、伊勢に出立していることから、当時の伊勢国では戦乱は起こっていなかったことが確実である。さらに9月24日には「公方様、自伊勢還御、々路次間毎事無為云々、珍重々々」(『満濟准后日記』応永廿一年九月)と、路次は平穏であったことがわかる。さらに、応永21(1414)年に伊勢国で何らかの紛争が起こり、『南方紀伝』や『勢州軍記』が伝えるような軍勢が派遣されたことは、当時の世相を敏感に記す『看聞日記』や『満濟准后日記』にもまったく記されていない。
つまり、応永21(1414)年の北畠満雅の叛乱は『鎌倉大草紙』の虚構であり、その伝を『南方紀伝』や『勢州軍記』など江戸期の軍記物が採用したものであろう。北畠満雅と足利義嗣の繋がりは『鎌倉大草紙』にのみ記されているものであり、その後も巷間でも語られることはなく、義嗣と北畠満雅との繋がりを示す説話は、義嗣が謀叛の企てで処断された物語上の要素として創作されたものであろう。
『鎌倉大草紙』では、応永23(1416)年10月30日、義嗣は「御兄当公方ヲ可奉討ヨシ、ヒソカニ思召立事有テ、便宜ノ兵ヲ御催シテケル、其時分、佐々木六角御勘気ニテ守護職ヲメシ上ラレ閉門ニテ居タリケルヲ御頼ミアリケルニ、佐々木如何思案シケルニヤ、不応貴命、其事無程色ニアラハレ」たため、「公方ヨリ義嗣卿ヲ召トリ奉ル、林光院ヘ押籠申シ、キビシク守護ヲ居置ケル、義嗣卿御出家有テ法名道純ト申」という。
ただし、ここにすでに『看聞日記』や『八幡宮愛染王法雑記』ら当時の史料とは異なる記述が二か所見えている。つまり記事全文が史料とは異なっていることになる。
(一)義嗣は自ら京を出奔して高雄に隠遁したのであって、捕縛の事実はない
義持は義嗣を捕縛して出家させたのではなく、突如出奔して行方不明となった報告に「仰天」し、方々捜索して、ようやく栂尾にいることを突き止めている。ところがこのとき義嗣はすでに自ら髻を切り落としており(ただし、誰もが恐れて義嗣の剃髪をする者はなかった)、俗世との因縁を断つ強い決意があった様子が見える。義持はそんな義嗣に「帰宅」の説得を行っており、二度目の使者には管領細川満元が派遣されるほど、強く帰還を促しており、捕縛の事実はない。
(二)佐々木六角満高入道はこの頃には近江守護であって閉門していない
『鎌倉大草紙』に見られるような、六角満高(佐々木備中入道崇壽)が近江国守護職をはく奪されたのは、応永17(1410)年の一時期のみであり、復帰時期は不明ながら、応永20(1413)年12月までには守護に再任されている(応永二十年十二月廿七日「将軍家御教書」『地蔵院文書』)。それから一年半後には比叡山と対立して「守護六角流罪事、可有其沙汰由、被成御教書間、無為御帰座」(『満済准后日記』応永二十二年六月十三日条)という応永22(1415)年の事件(実際に配流された形跡はなく、比叡山衆徒の怒りを一時鎮めるためのフェイクか)があるが、これで満高入道が失脚した事実はないため、もし義嗣が六角に諮り「無程」して叛逆が発覚し、捕縛された(『鎌倉大草紙』)とすれば、応永17(1410)年から三年以内に限定されることになる。
ところが、実際の義嗣の遁世は応永23(1416)年10月30日早朝であり、六角入道が近江守護に復帰して三年以上経過している。六角入道は後年の義嗣の叛逆協力者の疑惑のある人物名にも見られない(その頃には死去しているが)ことからも、六角入道は義嗣出家とは無関係であり、『鎌倉大草紙』の創作の可能性が非常に高い。
六角入道が義嗣に協力を要請された人物に設定された理由は定かではないが、満高入道が卒去したのは義嗣遁世23日前の10月7日であって、義嗣遁世との関係を示しやすかったことや、義嗣と持氏両者と縁戚関係にあったことが理由かもしれない。
藤原慶子 +―足利義持
(典侍) |(内大臣)
∥ |
∥――――+―足利義教
∥ (内大臣)
∥
∥ 春日局
∥ ∥
善法寺通清―――紀良子 ∥ ∥――――足利義嗣
(石清水八幡宮)(二位) ∥ ∥ (権大納言)
∥ ∥ ∥
∥―――――――足利義満―――女子
∥ (太政大臣) ∥
∥ ∥
足利家時――足利貞氏――――足利尊氏 +―足利義詮 佐々木満高 ∥
(伊予守) (讃岐守) (権大納言) |(権大納言) (近江守) ∥
∥ | ∥――――――佐々木満綱
∥ | ∥ (大膳大夫)
∥―――――+―足利基氏 +―女子
北条義宗――北条久時 +―平登子 (左兵衛督) |
(駿河守) (武蔵守) |(二位) ∥ |
∥ | ∥―――――+―足利氏満―+―足利満兼―+―足利持氏
∥―――――+―北条守時 ∥ (左兵衛督)|(左兵衛督)|(左兵衛督)
∥ (相模守) ∥ | |
∥ ∥ +―足利満直 +―足利持仲
北条宗頼――女子 畠山家国――+―女子 |(篠川御所) (殿御方)
(七郎) (武蔵守) (治部大輔) |(尼清渓) |
| +―足利満隆
+―畠山国清 |(新御堂御所)
(修理大夫) |
+―足利満貞
(稲村御所)
『鎌倉大草紙』では、「関東モ鎌倉殿、管領、仲悪シクナリ、動乱ノヨシ聞ケレハ、義嗣卿ヨリ御帰依ノ禅僧ヲ潜ニ鎌倉へ御下リ有テ、上杉入道禅秀ヲ御カタラヘ有ケル…今、京都ノ大納言家ヨリ御頼候コソ幸ニテ候、急思召立、此時御運ヲヒラキ候ヘ、京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ、禅秀取リ持カタラヒ候ハゝ、於関東ハ誰有テカ可有」(『鎌倉大草紙』)と記述されるように、義嗣と関東との繋がりも語られている。
上杉禅秀の謀叛については、応永23(1416)年10月13日に「今月二日、前管領上杉金吾発謀叛、故満氏末子当代持氏舅為大将軍、数千騎鎌倉へ俄寄来」(挙兵からすでに十一日を経ており、それ以前にも通達があった可能性は高いが、記録には残っていない)という風聞(『看聞日記』応永廿三年十月十三日条)が京都における初見となる。
その情報到達から半月後の10月30日に起こった「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥云々、凡依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退云々、就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)という義嗣出奔事件と禅秀の乱発覚の日時は近く、また「鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)というように、義嗣逐電と関東騒乱が重なったため、人々は前触れなき義嗣遁世の理由を関東と関連付けて理解したことがうかがえ、それが巷間の認識であったと思われる。つまり、『鎌倉大草紙』の説話は、この実際にあった噂を取り入れたものだった可能性があろう。
この関東との繋がりの噂は、義嗣捕縛から一か月半も経過した12月16日時点でも、京都で「押小路亜相叛逆之企露顕、関東謀叛、彼亜相所為」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)という風聞が立つほど根強いものであったが、これを最後に義嗣と関東との結びつきは語られていない。
義嗣が所縁もない関東に繋ぎをつけても何ら得るものはなく、『鎌倉大草紙』においても「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」と述べられているように、義嗣の「御下知」を「公方ノ御教書」にすり替える扱いにされている。御教書と下知状とではまったく様式が異なるため、すり替えるのであればすぐにそれがわかるので人々に供覧することはないだろう。人々に供覧するのであれば偽造の文書となるため、義嗣下知状を御教書にすり替える必要もない。つまり、この「京都ノ御下知ヲ公方ノ御教書ト号シ」の記述は具体的な意味はなく、軍記物を盛り上げるための要素である可能性が高いだろう。
以上のことから、義嗣と北畠満雅の乱、上杉禅秀の乱は何ら繋がりはなく、『鎌倉大草紙』の物語性を高める意味で同時期にあった義嗣の出家と捕縛事件を採用して創作されたものであろう。
足利尊氏――+―足利義詮―――足利義満―――+―足利義持
(征夷大将軍)|(征夷大将軍)(征夷大将軍) |(征夷大将軍)
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| +―足利義嗣
| |(権大納言)
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| +―足利義教―――――足利義政
| (征夷大将軍) (征夷大将軍)
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+―足利基氏―――足利氏満―――+―足利満兼―――+―足利持氏
(鎌倉公方) (鎌倉公方) |(鎌倉公方) |(鎌倉公方)
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+―足利満隆===+―足利持仲
|(新御堂小路殿)
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+―足利満直
|(笹川公方)
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+―足利満貞
(稲村公方)
応永23(1416)年10月30日の義嗣の出奔は、人々に動揺を与えた。10月19日には隠遁は「押小路大納言義嗣卿室町殿舎弟號新御所、今曉被逐電、室町殿仰天、京中騒動、懸追手被尋之間、高雄隠居遁世云々、已被切本鳥」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)とあるように、30日早朝に発覚した突然のもので、義持も「仰天」するなど、何ら前触れのないものであった様子がうかがえる。つまり、義嗣自身の叛逆や関東の叛乱との繋がりもなかったと考えられる。義嗣は行先も伝えぬままに逐電しており、義持はその影響の大きさ(かつて足利尊氏と権勢を二分していた弟・足利直義が突如京都を逐電し、南朝に通じた先例もあった)からか、義持は追手を方々に遣わしてその行先を尋ねている。その後、義嗣は高雄栂尾に入り、すでに自ら髻を切り落としていることが判明している。
遁世の理由を尋ねられた当初、義嗣は「依困窮所領等事、室町殿へ雖被申、無承引、不快之間、依其恨如此進退」と述べるように、所領問題がその原因であった(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)。ただし、その逐電の不自然さからか、逐電当日の騒ぎの中で巷間では「就其有野心之企歟之由、巷説満耳、近日関東事、弥被恐怖」(『看聞日記』応永廿三年十月卅日条)、「種々巷説充満、鎌倉殿ハ駿川国大森之館ニ御没落、管領上椙同令共奉云々、如此時分之間、新御所御逐電、諸人尤有其理歟」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)とあるように、逐電は義嗣の「野心之企」が原因とみなされ、暗に「関東事」との関係も噂されていたようである。
しかしながら、将軍義持はこの巷間説に構わず、二日後の11月2日、高雄に「管領、富樫大輔等為御使、可被帰宅之由雖被諷諫」するも、義嗣は「敢以無承引、被恨申條々述懐、凡出家本望之間、帰参不可叶之由」を述べた(『看聞日記』応永廿三年十一月二日条)。迎えの使者については「富樫、大舘両人、率軍勢向彼在所、奉守護之、仍聊静謐、只御遁世之分也」(『八幡宮愛染王法雑記』応永廿三年十月卅日条)ともある。
これらのことから、義嗣遁世の理由は将軍義持にも身に覚えのある義嗣の所領を巡る理由がまずあったのであろう。しかし、のちの断罪に至るように、理由はそれだけではなかろう。義嗣は故大相国義満の寵愛の子であり、本来仏門に入るべき身でありながら出家することなく、兄将軍義持のもとで「新御所」と称され、正三位を経て従二位権大納言という顕官にまで至っている。当然ながら義持の認可を得ており、さらに義持が義嗣邸を訪問したり、義持と義嗣が揃って院参、参内することもしばしばあったように、両者の関係は決して悪いものではなかった様子が垣間見える。
ところが、義嗣の影響力は政権内に於いてあまりに大きく、義嗣を担ごうとする与党も後年の調査から、幕府上層部にまで浸透していた様子がうかがえる。将軍義持の嫡子は当時わずか十歳の義量であり、才幹高く諸芸に秀でる義嗣を擁立せんとする人々は多くいたと想像される。この遁世を伏見宮貞成は「凡遁世事、発心之由雖被構、真実野心之企、聊露顕歟之間、厳密被沙汰」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と予想しているが、義嗣出奔は将軍義持も知らない突発的な事件であり、何ら「露顕」した結果によるものではない。義嗣は前述の所領問題の不満に加えて、「自らが担がれる」ことから遁れるべく出家した可能性があろう。
義嗣の出家遁世の意思が固いことを悟った義持は、義嗣を担ぐ勢力による奪取を警戒し、11月5日、義嗣の身を高尾から「仁和寺興徳庵絶海和尚塔頭」に移し、「侍所一色被仰付守護申、若野心人有奪取事者、腹を切せ可申云々、仍帯甲冑、昼夜警固申」(『看聞日記』応永廿三年十一月五日条)と、侍所頭人一色義範をその守護に命じるとともに、もし野心を企む者が義嗣を奪おうとする事態が生じれば、やむなく義嗣に腹をお切らせ申せと命じている。これに恐れをなした義範は、武装して昼夜を問わず厳重に警固している。そして、11月9日には「押小路大納言已落髪也、臨光院可被移住」と、仁和寺興徳庵で剃髪を終えた義嗣は、自らが開基となっている相国寺林光院に移された(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)。
一方で義持は、義嗣とともに出家した「山科中将教高朝臣、山科中将嗣教朝臣」や「持光入道、遁世者一人」を「両富樫ニ被預置、可被糺問」している。この事件の結果として11月9日、「教高入道、持光入道以下四人、加賀国可被配流」が決定している。彼らはいずれも義嗣を擁して叛逆を企てたという罪状である。この評定の過程で、管領満元がやや怪しい動きを見せている。満元は「教高入道糺問事」につき、「若白状ニ諸大名四五人も有同心申人者、可被如何候哉、御討罰可為御大事、然者、糺問中々無益歟」(『看聞日記』応永廿三年十一月九日条)と糾問に反対しているのである。一方で「畠山金吾(畠山満家)」は「押小路殿野心之條、勿論之間、参て御腹を切らせ可申」と強硬なものであった。これに満元は「其も楚忽之儀、不可然」と反対し「意見區々未定」という。満元が糾問に反対した理由は、11月25日に「語阿(「遁世者一人」に相当するか)」の白状した結果に見える「武衛、管領、赤松等与力之由」」(『看聞日記』応永廿三年十一月廿五日条)とあるように、御一家筆頭の斯波義教を筆頭に、管領細川満元、赤松義則といった幕府重職が、実は義嗣擁立の企てに加わっていたことにあろう。さらに「諸大名事、中々不及沙汰」という事の大きさに、評定自体が機能不全に陥っていた様子がうかがえる。
ところがその後、「押小路亜相禅門謀叛事、持光書回文」(『看聞日記』応永廿五年正月十三日条)とあるように、義嗣の名において「日野弁入道持光」の認めた「叛逆」を企てる回文が延暦寺や東大寺、興福寺、園城寺に遣わされていたことが発覚する。これは「山門南都被相語、回文等自寺門入見参」(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)とあるように、「回文」が園城寺から義持に提出され、「押小路亜相叛逆之企露顕」したのである。義嗣自身と所縁深い日野持光入道の回文であるが、義嗣自身が参画したかどうかは不明である。発覚後の義持の義嗣への対応からも、義嗣の奪取を警戒することに重点が置かれ、義嗣自身への処罰は行われていないことから、義持自身は、あくまでも義嗣を担ぐ勢力への警戒を強めていたと考えられる。
義嗣擁立の報告を受けた義持は、義嗣が居住する相国寺「臨光院、如楼舎拵之」たという(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ところがここも「亜相取出」のために「偸盗忍入、軒格子切破、番衆見付之間、盗人逃了」という油断ならないことが起こっている(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。これに義持は「弥厳密被守護、向後有如此之儀者、可殺害申之由、被下知」とあるように、義嗣を一層厳密に守護せられること、そして今後またこのような事があれば、義嗣を殺害されるべしと厳命している(『看聞日記』応永廿三年十二月十六日条)。ここからも、義嗣の身を守護することを一義とし、殺害は彼の身が「奪取」されるに及んだときとしている。義持は、義嗣を擁立せんと図る勢力があること、義嗣の遁世はそこからの逃避であることを認識したうえでの対応ではなかろうか。
そして、応永25(1418)年正月24日、義嗣入道は将義持が派遣した富樫兵部大輔満成に屋敷を攻められ、命を落とすことになる。その後も増えていく義嗣擁立を図った諸大名の名前に、事実上一人一人を処断することは不可能と察し、義嗣一人を処断することで政権全体の機能不全の解消及び、まだ幼少の嫡子・義量への後継者問題の解決を図ったのかもしれない。義嗣の死去後も義持は各種法要や施餓鬼などを行うなど供養を欠かさず、その遺児たちも寺院へ預け、妻室らへの処罰も行われなかった。
★千葉介兼胤の重臣★(『千葉大系図』他)
●家老
木内左京亮 鏑木大蔵少輔 湯浅対馬守
●族臣
馬加陸奥守(康胤) 大須賀左馬助(憲康) 国分三河守(忠胤) 粟飯原但馬入道(入道常善) 相馬大炊助(胤長) 円城寺下野守 原四郎(胤高)
●側近
幡谷刑部少輔 麻生左馬助 岩井弾正 石毛権太夫 木村織部 押田源五左衛門尉 平山 八木 土屋