千葉俊胤

江戸時代の千葉氏
継体天皇(???-527?) 手白髮郎女(???-???)
欽明天皇(???-571) 石比賣命(???-???)
敏達天皇(???-585) 比呂比賣命(???-575)
押坂彦人大兄(???-???) 糠代比売王(???-664)
舒明天皇(593-641) 斉明天皇(594-661)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1583-1633)
千葉俊胤
(1588-1639)
千葉定胤
(1617-1649)
千葉知胤
(1622-1685)
千葉英胤
(1659-1730)
千葉紀胤
(1704-1770)
千葉宗胤
(????-1807)
千葉倚胤
(????-1841)
 
江戸期の千葉家
鳥越社家鏑木家 第六天社家鏑木家 武田村千葉家 門井流千葉家 胤富流千葉家 庵原流千葉家    

トップページ > 千葉宗家 > 江戸時代の千葉氏【二】


 安土桃山時代の小田原合戦において、北条氏政の子・千葉介直重が率いる千葉勢は小田原城に入って豊臣勢と戦った。その結果、小田原城は開城され、千葉家の本拠地である本佐倉も降伏。そのほか臼井城や小弓城、森山城など主要な城もことごとく開城し、鎌倉時代から連綿と続いた大名としての下総千葉家は滅亡した。
 しかし、江戸時代も「我こそ宗家」と名乗る千葉家による千葉家再興運動を多数見ることができる。しかし、その再興運動にみる「千葉」氏は、出自が明確でない人々が多く、江戸時代の千葉「宗家」の系譜・出自は混沌としている。出自が明確な重胤は、宗家としての立場を鑑みたか、一族を巡り系譜や伝記を蒐集し、網羅的に氏族体系を明確にした『千葉大系図』を作成したと伝わるが、重胤はこれらこの系譜自体が各この重胤に跡取りがいたという明確な証は残念ながら残っていない。
 その後、江戸時代中期にかけて千葉家再興を目指す運動が起こる。そのとき、運動の中心となって活躍したのが、「千葉宗家」を名乗る幾流かの千葉家だった。そういった江戸時代の「千葉宗家」を紹介する。

●江戸時代の千葉宗家の末裔たち

 千葉介胤富─+─千葉介良胤───千葉采女正當胤──+─千葉源之介知胤──千葉権介英胤────千葉権介紀胤────千葉権介宗胤
       |                  |
       |                  |
       |                  +─善右衛門─────千葉善九郎─────千葉文平──────千葉文蔵胤禄
       |
       |      
       +─千葉介邦胤─+─千葉新介重胤───+─千葉介定胤
       |       |          |(七之助)
       |       |          |
       |       +─千葉權助俊胤   +=権之助俊胤====千葉平助正胤────千葉権之助尚胤─+─千葉権之助安胤
       |                  |                            |
       |                  |[鳥越神社神主] [鳥越神社神主家]          |
       +─千葉繁胤────千葉総胤     | 権之助俊胤──+─鏑木作兵衛胤正           +─千葉小太夫祥胤
        (但馬守)   (新介)      |        |
                          |        |[第六天神社神主家]
                          |        +─鏑木作十郎正胤
                          |
                          +=鏑木権太郎長胤
                          |
                          |
                          +=千葉新介某────千葉内蔵助興胤

千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉當胤
(1578-1627)
千葉知胤
(1622-1685)
千葉英胤
(1659-1730)
千葉紀胤
(1704-1770)
千葉宗胤
(????-1807)
千葉倚胤
(????-1841)
    武田村千葉介
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉重胤
(1583-1633)
千葉定胤
(1617-1649)
↑武田村
千葉家
           
千葉俊胤
(1588-1639)
千葉胤正
(????-1640)
鏑木式部
(????-1673)
鏑木勝豊
(????-1708)
鏑木弘豊
(????-1728)
鏑木対馬
(????-1754)
鏑木盛弘
(????-1767)
  鳥越神社神主
鏑木正胤
(1614-1660)
鏑木正重
(1647-1690)
鏑木正義
(1675-1736)
鏑木慶寛
(1718-1750)
鏑木 崇
(1740-1806)
鏑木 栄
(1765-????)
  第六天神主
千葉新介
(????-????)
千葉興胤
(????-????)
          庵原流千葉家
門井正道
(1584-1654)
千葉正胤
(1614-1677)
千葉尚胤
(????-????)
千葉安胤
(????-????)
千葉祥胤
(????-????)
      門井流千葉介
千葉清胤
(????-1590)
                 

トップページ > 千葉宗家 > 千葉俊胤


千葉俊胤 (1588-1639)

 千葉介邦胤の次男。初名は粟飯原孫平(『千葉大系図』)、千葉権之助(『千葉権之助願書』)。また、鳥越神社神主として「鏑木式部」(『千葉大系図』)を称したともされる。

 千葉俊胤は中世末から近世初頭の千葉氏に関する伝記、願書、系譜に登場する主要な人物でありながら、様々な伝承を持つ不思議な人物で、『千葉伝考記 巻五』で示唆されているように、江戸期の千葉家末裔を称する人々が、自家と俊胤と繋げた可能性も考えられる。下表は俊胤の名が見られる書と俊胤の人物比較である。共通しているのは、

 ・俊胤は重胤の弟
 ・子は「正胤」
 ・武田信吉に仕え、その死去後は浪人となる

という三点である。その浪人となったのち、

 (1)子がいない兄重胤の跡を継いで千葉氏の当主となる→千葉権之助家
 (2)浅草に出て鳥越神社の神主となる→鳥越神社社家

とあるように、まったく別の二つに分かれる。(2)の鳥越神社社家の伝については、『千葉大系図』が鳥越神社鏑木家から分かれた第六天神社鏑木家が書き継いだ過程で、俊胤が加えられたと想像される。

書物 父 兄弟 子 通称 没年 備考
『千葉伝考記』 千葉介邦胤 重胤(長胤)
門井正道
正胤(養子)
※弟正道子
粟飯原孫兵衛 寛永16(1639)年
7月19日
62歳
『千葉正系譜』から引く
・八男信吉に「大神君の鉤命」で仕える
慶長8(1603)年9月11日
・信吉「御早世ましませし」
 俊胤「漂泊の身となる」
 既にして兄長胤卒去して続嗣なし、
 是に於て俊胤嫡流を相続して、
 然して後、長胤の遺物、建盞(千葉建盛)を
 松平信綱に給い愁訴するが、
 寛永16(1639)年7月19日に卒去。62歳。
 江戸海善寺で火葬、牌は佐倉海隣寺。
『千葉大系図』 千葉介邦胤
※粟飯原光胤継嗣
重胤(長胤)
門井正道
作兵衛胤正
作十郎正胤
粟飯原孫平
鏑木式部
  慶長3(1598)年
・仕于信吉君
慶長8(1603)年9月朔日[死去は9月11日]
・信吉君早世
 俊胤為浪人
慶長10(1605)年
・来江戸浅草鳥越村
 明神成神主
 時改性鏑木、名號式部
 其社成神職
『千葉権之助願書』 兄長胤…養子ニ罷成 長胤幼名重胤 平助正胤 権之助   文禄元(1592)年か
・万千代様、作倉城江御入部被為遊候砌り
 被召出御奉公仕候
慶長9(1604)年[死去は慶長8年]
・万千代様於水戸ニ御逝去被為遊候
 俊胤浪人仕候
 然処兄長胤相果候、則実子無御座候ニ付
 養子ニ罷成千葉権之助与改申候

 兄の千葉重胤が撰したという『千葉大系図』の伝によれば、俊胤は天正16(1588)年5月5日、東庄森山城主・粟飯原出雲守光胤が嗣子なく亡くなった際に、「迎俊胤続其家」いて「號粟飯原孫平」したとされる(『千葉大系図』)。しかし、このころの森山城主は海上氏であって、森山城将で判明する将士の中に粟飯原氏は一名もいない(森山管轄領内の将士には見られる)。さらに『千葉大系図』には粟飯原光胤を「実北条氏康之九男也、天文十六年光胤七歳、源公養之為継嗣」とあるように、史実と相容れない記載が多数みられる。これは室町後期の千葉惣領家が東総地域をとくに意識していたことから、重胤(または「千葉家の復興・復権」を標榜する人々による書継や増補の過程)は、東総地域の有力者が持つ「家伝」を積極的に採用したためと想像される。

 千葉介邦胤亡き後、遺された邦胤の血縁者は「姫様、御ふくろ様邦胤母なり」(『千学集抜粋』)と「千葉新介平邦胤は初め北条相模守氏政の婿たりしが、北条の息女は一女子を産みて早世せしため、其の後岩松治部大夫の姉を娶る、此腹に男子あり、新介重胤といふ」(『千葉伝考記』)だけが史料上に見える。このうち「姫様」と「一女子」は同一人物であるため、邦胤血縁者は下表のとおりとなる。

御ふくろ様邦胤母なり(千学集抜粋) 千葉介邦胤の母(通性院芳泰:海上山城守常元妹)
姫様(千学集抜粋)
十二にならせ給へる姫君(千学集抜粋)
邦胤御子、姉十二歳(『妙見実録千集記』)
一女子(『千葉伝考記』)
千葉介直重の妻(邦胤の死去時、十二歳)
※母は北条氏政長女芳桂院殿
岩松治部大夫の姉(『千葉伝考記』) ひがし(崇源院の侍女)
新介重胤(『千葉伝考記』)
三にならせ給ふ御曹司(千学集抜粋)
邦胤御子、姉十二歳、弟三歳(『妙見実録千集記』)
千葉重胤(邦胤の死去時、三歳)

 つまり、記録上に邦胤の子として俊胤はまったく考慮されていないことがわかる。天正13(1585)年に邦胤が卒去していることを考えると、俊胤が実在で且つ邦胤の子であったとすれば、天正11(1583)年生まれの重胤の異母弟となることから、俊胤生誕は天正11(1583)年から天正13(1585)年となる。『千葉伝考記』等に記録がないとすれば、天正13(1585)年中はまだ母胎内で翌天正14(1586)年誕生という可能性もある。

 なお、『千葉伝考記』巻五初項の「千葉介重胤の事」に下記が存在する。(1)の「或系図」とは(2)に見える享保8(1723)年頃に「千葉権之助(千葉権之助祥胤)」が所有していた『千葉正系譜』(『千葉伝考記』が俊胤以降の千葉氏の考察に用いている)とみられるが、この年齢表現は『千葉大系図』が採用しており、このほか神君の「鉤命」や松平信綱の行等、『千葉大系図』の表現を用いていることから、両系譜に引用された元本が同じ、または『千葉正系譜』が『千葉大系図』の記述を引用したものとなろう。そして(1)(2)ともに俊胤を重胤の弟とすることを非とする。

●『千葉伝考記』巻五(1)

或系図に、重胤此時十歳と記して、其弟二人の名あり、俊胤八歳、正道四歳とあり、記々所系を考づるに重胤の弟あることなし、若し幼年にて死せる弟あるか知らず、成長せる弟の事は決せり、姉は一人あり後年早世す、然るに今世、千葉の的伝なりと名乗る者在りて、右の弟の名を拵へ設けて、夫より自己の系連を実として拵へ、人を欺く者ある由、間伝へたり

●『千葉伝考記』巻五(2)

千葉正系譜といふものに、千葉重胤、後に諱を改めて、長胤といふ、長胤弟二人俊胤、正道の名ありて、其弟より自己の系連を引きたるあり、按ずるに重胤、長胤は二人の諱にして一人の名に非ず、長胤は鏑木権太郎が諱なり、又同書に邦胤の卒を天正十三年と記す、是も非なり、邦胤は天正十六年七月四日或云五月九日卒日なり、此時重胤千鶴丸といひて六歳なるべし、右の系譜に、重胤弟俊胤八歳、正道四歳とあるは大に非なり、重胤に弟はなしと云々

鳥越神社神主家に繋がる俊胤

 天正18(1590)年3月、「氏政、頻に質を請ふ、是故に止むを得ずして母堂岩松氏女を、小田原の城に納れ」(『千葉伝考記』)たとあるように、千葉氏方は先の「神君の命を肯じ奉らず」に「一家族を率して小田原に到りて、湯本口に屯す、其兵八千」(『千葉伝考記』)という。このほか「天正十八年小田原陳ノ時重胤纔ニ六歳、邦胤ノ後室、是ヲ携ヘ三千ノ兵ヲ曳テ、彼城ノ後詰トシテ湯ノ山ニ籠ル」(『新田岩松之系図附録』)とも見え、重胤生母が六歳の重胤を伴い三千の兵を率いて小田原城の後詰湯ノ山に入ったともされる。なお、「千葉殿氏直弟也」は「湯本口」ではなく、その北隣の要衝「水ノ尾口」を守衛して宇喜多勢と対峙(『小田原陣仕寄陣取図』「毛利家文書」)しており、重胤を擁する一族家臣勢と千葉介直重の佐倉勢は警衛場所が異なっていた(南北に別指揮系統)可能性がある。

 なお、俊胤の曾孫「千葉権之助(権之助祥胤)」が享保11(1726)年に増上寺に提出した『千葉権之助願書』によれば、「天正八年太閤小田原攻伐時、高曽祖長胤幼名重胤、俊胤共ニ氏直江加勢仕候」と見え、俊胤も小田原に入ったとされる。しかし、これが事実であっても兄重胤が六歳である以上、弟俊胤はさらに年下となる。ところが『千葉伝考記』によれば、俊胤は寛永16(1639)年7月19日、江戸長谷川町の屋敷で六十二歳で亡くなったされる。逆算すると天正6(1578)年生まれとなるため、「兄」重胤より五歳年上となり、小田原戦役時には十一歳となる。

◆千葉氏略系図◆

   +─新田豊純
   |(治部少輔)
   |
   +─ひがし(東)
     ∥
     ∥──────千葉重胤
     ∥     (法名長胤)
+────千葉介邦胤 
|   (千葉介)  
|    ∥
|    ∥──────鏑木俊胤─+─鏑木胤正【鳥越神社神主】
|大掾幹定娘     (千葉権介)|(作兵衛)
|           ∥    |
+────娘      ∥    +─鏑木正胤【第六天神社神主】
     ∥      ∥     (作十郎)
     ∥      ∥            【水戸藩大老】
     ∥────+─娘           +─白井伊信───白井信胤─白井伊胤─白井秀胤─白井像胤─白井之胤─白井久胤─白井錫胤
     ∥    |             |
     白井宗幹 +─娘           |【高松藩家老】
    (治部少輔)  ∥────+─白井幹時─+─良────+─白井伊忠─白井実忠─白井平三郎──…
            白井胤幹 |(志摩守)  (娘)   |
           (備後守) |             |
                 |             +─白井勝久──□□─絵島
                 |              (旗本)     (大奥老女)
                 |
                 +─鶴牧信幹───高覚院様───瑞春院様
                  (茂右衛門)

 『千葉大系図』によれば、文禄元(1592)年10月に徳川家康の五男「万千代君、被領佐倉城」するが、慶長3(1598)年、「神君依之鉤命」によって「俊胤仕于信吉君」という(『千葉権之助願書』)。どれほどの家格で仕えたのかは不明だが、信吉被官は萬澤主税助君基、帯金刑部助君松、近藤伝次郎吉久、宮崎理兵衛三楽、河方織部永養、馬場八左衛門忠時、佐野兵左衛門、蘆澤伊賀守信重、穂坂常陸介君吉ら武田勝千代(穴山信君入道梅雪の子息)旧臣の穴山衆や甲斐・信濃出身者がほとんどを占め、正木権兵衛ら新参衆は十名程度である。俊胤が召し出されたとされるのは、武田家が佐倉を領して六年を経ての取立であり、高い家格ではないだろう。

●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』

私先祖千葉之介下総佐倉居城仕候、天正八年太閤小田原攻伐時、高曽祖長胤幼名重胤、俊胤共ニ氏直江加勢仕候、小田原没落之砌り、長胤、俊胤儀  権現様以御憐愍亡命之儀被為遊御救候、此時佐倉之居城者内藤弥右衛門江相渡、浪々之身に罷成候ニ付、長胤母ひがしと申者、新田岩松満治郎御姉ニ御座候、則 大徳院様江被為召出御奉公仕候、就夫従 崇源院様長胤も御憐愍被為遊遂、御上聞ニ常陸国於宍戸郡二百石長胤ニ被下置候処、殊之外ノ荒地ニ而無足ニ御座候故ニ難儀仕候段、奉願上候処ニ、 崇源院様本多佐渡守殿、土井大炊頭殿を以長胤方江御内意被為仰付候者、右之替地達御上聞ニ可被下置候間右之拝領地、先差上置候様ニ遂御内意候ニ付、則右拝領地差上置申候、然処 崇源院様御逝去被為遊且又 台徳院様御他界被為遊候尤ひがし儀
 台徳院様 御代迄被後扶持米切米等迄被 下置候
 大融院様
曽祖父権之助俊胤儀者、長胤弟ニ御座候処ニ 権現様、御憐愍ヲ 万千代様作倉城江御入部被為遊候砌り被召出御奉公仕候処ニ、慶長九年 万千代様於水戸ニ御逝去被為遊候故、俊胤浪人仕候、然処兄長胤相果候、則実子無御座候ニ付養子ニ罷成、千葉権之助与改申候処、後右之替地之儀松平伊豆守殿ニ相談御訴訟申候処、俊胤子祖父平助正胤儀病身ニ御座候故、御公辺難勤御座候間奉願上候儀相延罷在候、正胤子私親権之助儀相続上野御救帳、又は大久保加賀守殿、稲葉丹波守殿ニ御願申上候并増上寺御救帳ニ相訴奉願上候、殊増上寺開山酉譽上人ハ、私先祖千葉之介氏胤之八男ニ御座候、此筋目ニ付代々方丈江出入仕来り候依之御救帳ニ別而御願被下候

瑞春院様御母公高覚院様御父靍牧茂右衛門様千葉一族ニ而御座候間、元禄十一年御系図私方ニ而為遊御調瑞春院ニ差上置申候、右願上候通リ、被為下置候宍戸百石差上候以来浪々之内、替地奉願上候尤、 権現様以御憐愍ヲ私先祖亡命之儀被為遊被下置候ニ付、私共迄其末相続遂候得共、永々浪々之身故唯今ハ至極私世今日難立仕合ニ罷成、家名断絶仕数十年来御祈訟此節空ク仕、民家ニ罷成候儀、残念至極ニ奉存候ニ付、此度乍恐以願書御慈悲奉願上候者、右宍戸拝領地指上候御儀ニ御座候得者、少々分ニ而者被召出家名相立候様ニ乍恐御慈悲奉願上候 以上

    享保十一年未十月十一日          千葉権之助

 慶長7(1602)年5月の常陸佐竹氏転封に伴い、同年7月、武田万千代信吉は常陸国水戸藩十五万石に移されたが、生来病弱だった信吉は慶長8(1603)年9月1日、水戸で病死してしまった。享年二十。法名は浄鑑院殿英誉大禅定門。信吉の死去後、勘定方を務めていた蘆澤伊賀守、佐野兵左衛門らは萬澤主税助以下の家老四名の不正を家康に報告。裁定の結果、萬澤以下の家老は改易とされた。そして同年11月7日、信吉領を家康十男の松平長福丸(徳川頼宣)が継承し、長福丸の家臣に移った蘆澤伊賀守以下三十三名がそのまま水戸で政務を執ることとなるが、彼らはそのまま慶長14(1609)年12月22日の松平鶴千代(徳川頼房)の水戸襲封に際しては頼房付となっている。一方でその他の人々は江戸に召還されており、その中に俊胤もいたのであろう。『千葉大系図』によれば信吉死後は「俊胤為浪人」という。

 その後、俊胤は「慶長十年乙巳来江戸浅草鳥越村、明神成神主、時改姓鏑木名號式部、其社成神職」(『千葉大系図』)というように、慶長10(1605)年、江戸浅草鳥越村に来訪して、どのような曰くによるものか、鳥越明神の神主に迎えられ、鏑木式部を称したという。

 『千葉大系図』には俊胤の没年及び没年齢は記されていないが、鳥越神社からの書立によれば「鳥越二所明神第六天神三社神主」の「鏑木式部」は寛永17(1640)年8月に亡くなったとする(『御府内備考続編巻之二十二』)。

 なお、この『千葉大系図』の最後に記されているのは巻末には朱書で下記が載る。

一本跋ニ云
右千葉系図  
紙数一百九十八葉 巻数四 以下総人秋葉三太夫源好之所蔵之本
                                 藤原(花押)
按此系図は寛永年中千葉介平重胤所撰なり、其後書継あり、此は後裔浅草第六天神の社司鏑木氏の手澤と見ゑたり、恐くは原本同家に伝ふべし、便を得てこれを問ふべし

 ここに見える「千葉系図」の持主「下総人秋葉三太夫源好之」は、おそらく下総国崎房村(常総市崎房)名主である秋葉三太夫家の人と思われる。系譜の最後が第六天神社社家の明和6(1769)年誕生の人物を載せており、このあたりを書継の下限とする。現在残る『千葉大系図』は、第六天神社神主の鏑木家が書き継いだ一書(おそらく写本はいくつも存在したと思われるが、他見はない)を秋葉三太夫家の人物が書写し、さらにそれを藤原某が写したものである。原本となる『千葉系図』は、重胤から家伝書等を引き継いだとする俊胤の末裔鏑木家が、重胤亡き後に重胤の伝及び俊胤の経歴を継ぎ書きしたものと推測され、重胤の生年が『千学集抜粋』など中世史料と異なるのは、俊胤を重胤の弟として系譜に組み込む際に、邦胤の没年と重胤の生年を重ねて無理が生じたためである可能性があろう。

千葉家再興運動を志した千葉権之助俊胤

 武田家の改易に伴い浪人となった俊胤は、先に記した鳥越明神・第六天神主となった伝のほかに、まったく別の千葉家再興を目指した活動家としての伝承も存在し、それは鳥越神社の神官となった「鏑木俊胤」とはまったく別の活動をしているが、重胤の弟であるということ、子の名前が「正胤」である共通点があり、おそらく同一人物を指していると思われる。

●『千葉伝考記』に見る千葉権之助俊胤

(1)千葉権之介、粟飯原孫兵衛を称した。
(2)千葉介邦胤の外戚の子。⇒粟飯原家の子であったのかもしれない。
(3)享保8(1723)年『千葉正系譜』によれば長胤(重胤の号)の弟。
(4)寛永16(1639)年7月19日江戸で卒した。法号は法阿弥陀仏。了性院殿歡翁道喜大居士。
(5)娘がおり、弟・門井弥四郎正道の子・正胤を養嗣子とした。

 千葉権之助俊胤は、寛永10(1633)年に千葉介重胤が亡くなると、その跡を継いで「千葉権之助」を称したという。そして重胤の遺品の建盞(千葉建盞と号す)を老中・松平伊豆守信綱に献上して千葉家再興を願ったが、願いは聞き届けられることなく寛永16(1639)年7月19日、江戸長谷川町の屋敷で亡くなったという。享年六十二。逆算すると天正6(1578)年生まれとなり兄重胤より五歳年上となる矛盾が生じる。遺骸は兄と同じく江戸の海善寺で荼毘に伏され、遺骨は佐倉の海隣寺に納められた。法名は法阿弥陀仏、了性院歡翁道喜居士(『千葉伝考記』)。

●『千葉伝考記』

或書云、千葉権之助と號して千葉殿の孫の由いふ者あり、是は千葉の家にて粟飯原孫兵衛といふ者あり、渠は千葉邦胤の下戚の子なり、其を権之助と申し廣む、
 当見曰、今世の千葉権之助が系図に長胤の兄弟四人を記す、妹は北条氏直の女の生る所にして早世せり、其次男胤■とあり、爰に云、粟飯原孫平の事なり、其弟正道とあり、門井弥四郎と号し、門井丹波守定光が養子となる、定光は邦胤の従父兄弟なり、承応三年五月十八日死せり、七十二、法号正雲院響松一潤大居士とあり

●『千葉伝考記』

千葉権介俊胤といふ者あり初の名は孫平、後諱を漢音に唱ふ、享保八年の頃、千葉権介が所持の千葉正系譜といふ五巻の系図にいふ、俊胤は長胤の弟にて天正十六年に生れ、一族の中、下総国東庄森山の城主粟飯原出雲守光胤死去、嗣子なき故に粟飯原の家を継がしめ、同十八年、兄重胤長胤の事と同じく小田原城に入り、既にして蟄居し、後年、大神君御治世の時、御八男武田万千代信吉君、佐倉城御領ましませし時、大神君の鈞命に因つて信吉君に仕へ奉りけるに、慶長八年九月十一日御早世ましませしに依つて漂泊の身となる、既にして後、長胤の遺物、建盞之を千葉建盞といふを、松平伊豆守信綱に給りて、連々愁訴せしめけるに、幾許ならず寛永十六年己卯年七月十九日、江府にて卒す、年六十二、江府海善禅寺にて火葬し、牌を下総国佐倉の海隣寺に建つ、法号法阿弥陀仏、又了性院殿歓翁道喜大居士と号す

「俊胤」の事績や伝記の矛盾

 俊胤の伝記・事績には多くの矛盾が存在している。例えば以下の通りである。

(1)『千葉伝考記』の没年から逆算した生年は同文中に見える「俊胤は長胤の弟にて天正十六年に生れ」と相違する
(2)天正16(1588)年誕生説は兄千葉重胤の生年の天正11(1583)年以前となり不可。
(3)天正16(1588)年誕生説は、その生年が父邦胤の死後三年後である=重胤の弟ではなくなる。
(4)葬送の流れが兄重胤と同じ(火葬:海善禅寺→埋葬:海隣寺)
(5)俊胤と子・正胤が同名異人とみられる
  ・千葉俊胤─鏑木胤正(作兵衛・鳥越明神神主)→鳥越神社のX
  ・千葉俊胤─鏑木正胤(作十郎・第六明神神主)→第六天榊神社のX
  ・千葉俊胤=千葉正胤(門井正道子)─千葉尚胤(千葉家再興運動の人物)

 『千葉伝考記』によれば、俊胤は弟の門井善兵衛正道の子・平助正胤を養子に迎えたとも伝わり、正胤は酒井雅樂頭忠世に仕えて江戸に出、「千葉権介」を号して千葉家家宝を受け継いだといわれる。『千葉大系図』でも『千葉伝考記』でも二つの史料に出てくる正胤の記述はほぼ同じであり、同一人物が想定されるが、実際は異人を同一視された可能性があろう。『千葉伝考記』の採集時に俊胤に関わる伝承をそのまま取り込んでいるとみられ、恣意的な「私実」が混乱して収録されている可能性が考えられる。


|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|

Copyright©1997-2018 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。