継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (1398-1456) |
馬加胤持 (1437-1456) |
岩橋輔胤 (1416-1492) |
千葉孝胤 (1443-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
(1416-1492)
生没年 | 応永23(1416)年~延徳4(1492)年2月15日 |
父 | 馬場胤依(千葉介氏胤庶子・馬場八郎重胤子) 馬加陸奥守康胤入道 |
母 | 不明 |
妻 | 不明 |
官位 | なし |
官職 | なし |
役職 | なし |
所在 | 下総国印旛郡印東庄岩橋郷 |
法号 | 不明 |
墓所 | 千葉山海隣寺? |
岩橋千葉家当主。父は御一家馬場胤依。千葉介氏胤の曾孫に当たる(『千学集抜粋』)。
輔胤花押 |
『千葉大系図』では、輔胤は千葉陸奥守康胤の庶長子とされ、幼名は万。先代・千葉胤持の庶兄とされている。庶子のため家督を継がず、印旛郡印東庄岩橋郷(酒々井町下岩橋)に移り住み、「岩橋殿」と尊称されたという。千葉胤持の死後、千葉宗家の居城を千葉から本佐倉城へうつして千葉介を継承。従五位下に任じられたとされている。また、『松羅舘本千葉系図』によれば、輔胤は「竹墅岩橋殿 按ニ兼胤弟養子、一本ニ介」とあり、兼胤の弟、つまり馬加康胤とは兄弟とある。
康正元(1455)年8月12日および15日の「多古嶋合戦」で千葉介惣領家は滅亡し、翌康正2(1456)年正月19日の「市川合戦」で千葉介兼胤末孫である千葉実胤・自胤が下総国から武蔵国へ撤退することで、下総国西部の上杉勢力は駆逐され、成氏は「両総州討平候了」(康正二年四月四日「足利成氏書状」『武家事紀』巻第三十四)と京都に報告するに至る。
輔胤の発給文書は康正2(1456)年10月25日(関東では享徳5年)、弘法寺(市川市真間4-9)へ発給された『平輔胤安堵状』一通のみであるが、この四か月ほど前に出されている原胤房の安堵状を含めた弘法寺領を包括的に安堵したものであるため、事実上の惣領家的な立場にあったと推測される。その地位は当然ながら京都が認める公的な「千葉介」ではないが、足利成氏による擬似的な補任があったとすれば、関東における千葉介的地位にあったのだろう。
●康正2/享徳5(1456)年6月14日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●康正2/享徳5(1456)年6月20日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●康正2/享徳5(1456)年10月25日『岩橋輔胤安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)
●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』『松羅舘本千葉系図』中心)
千葉介氏胤―+―千葉介満胤―――+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直―――千葉介胤宣
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | |
| | | +―千葉実胤
| | | |(七郎)
| | | |
| | | |【武蔵千葉氏】
| | +―千葉胤賢――+―千葉介自胤―――千葉介守胤
| | (中務大輔) (千葉介) (千葉介)
| |
| +―馬加康胤――+―馬加胤持
| |(陸奥守) |
| | |
| | +―女 +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
| | |(千葉介) (千葉介)
| |【松羅舘本系図】 |
| +―岩橋輔胤――――千葉介孝胤――… +―成戸胤家
| |(成戸殿)
| |
+―馬場重胤――――――馬場胤依――+―金山 +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
(八郎) | |(千葉介) (物井殿)
| |
+―公津 +―成身院源意―――光雲院源秀――天生院源長
| |(菊間御坊)
| |
+―岩橋輔胤――+―椎崎胤次
(岩橋殿) (入道道甫)
本佐倉城妙見社 |
岩橋輔胤の祖父・馬場八郎重胤は、印旛郡馬場村(成田市馬場)を領し、子孫は馬場の周辺各地に広まった。彼の代に「公津へ移らる」といい、「郎等円城寺弾正尚家、同刑部少輔政俊、片野美濃守胤定、御供申せし也」(『千学集抄』)と、惣領家以外にも円城寺氏が仕えていたことを物語る。
「金山殿」は馬場から約一キロ北の「金山村(成田市下金山・東金山)」、「公津殿」は馬場から南西八キロの「公津村(酒々井町公津の杜)」、そして「岩橋殿」こと岩橋輔胤は公津から三キロほど南の「岩橋村(酒々井町下岩橋、上岩橋)」を治めた。
馬場氏は香取海の印旛入江の東湖岸一帯に南北に勢力を伸ばし、のちに千葉惣領家の本拠となる本佐倉城も地続きで隣接していることから、もともとの支配領域であった可能性があろう。また、輔胤は千葉と繋がる街道上の寺崎城(佐倉市寺崎)に在城したとも伝えられており、これが事実であれば、千葉と印旛地方を繋ぐルートで上杉勢に対抗していたか。
なお後年、足利義氏から「養運斎」の斎名を与えられた人物は「千葉介一家光護院」とあるが、おそらく輔胤の末裔であろう。
この頃には「下総国には東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤と於所々合戦止隙なし」(『鎌倉大草紙』)と、東野州常縁(この当時は左近将監)と馬加陸奥入道・岩橋輔胤は所々で合戦を繰り返していたとされており、この頃には輔胤も成氏方として活動していたのだろう。
関東諸城 |
成氏方に属する千葉陸奥入道、胤持を討ったとはいえ、常縁率いる下総の兵力は成氏方に比べると少なく、使命の一つであった千葉七郎実胤の千葉移徙もかなわず、下総国西部は古河方の岩橋輔胤、原越後守胤房により大方掌握されてしまっていた。そのため、上杉氏は康正3(1457)年4月、「上杉修理大夫持朝入道、武州河越の城を取立」て、「太田備中入道は武州岩付城を取立」て、備中入道の子「同左衛門大夫は武州江戸の城を取立」てた(『鎌倉大草紙』)。とくに江戸城は下総国との最前線であり重要拠点となっていた。江戸城は武蔵野台地の最東端にある舌状台地上に築かれ、北部には大湿地帯(文京区後楽付近)が広がり、東側には平川の流れ、南側は日比谷入江が城下を洗っており、天然の要害であった。なお、約百五十年後、豊臣秀吉に命じられて徳川家康が関東へ入った際、この江戸城を改築し、江戸幕府の本拠地・千代田城となる。現在も、皇居の中には太田道灌(太田左衛門大夫)築城当時の堀「道灌堀」が残っている。
宝徳元(1449)年8月27日、足利成氏が京都から鎌倉に還御した(宝徳元年(カ)八月廿九「前但馬守定之書状」『鑁阿寺文書』)。ところが、すでに永享11(1439)年2月10日の足利持氏自刃以降、関東は関東管領上杉家によって事実上統治され、それが定着していた。ここに新たな上意権力者が介入する余地はほとんど残されておらず、成氏還御後に雌伏していた在鎌倉の旧公方近臣層が蠢動をはじめ、実権を握っていた上杉方との間で諍いが起こり始める。当時十七歳の関東管領憲忠や十六歳の鎌倉殿成氏はいまだ政治経験は乏しく、両者の関与する隙もなく対立は激化する。成氏は伊豆国狩野に隠遁していた前関東管領憲実入道に対立への助言を求めるも、上杉方の暴発により戦端が開かれることとなった。
関東管領憲忠は経験浅く、関東上杉家の有力氏族である扇谷上杉家の当主顕房もまだ十五歳程であり、事実上の上杉方指揮権者は憲忠の舅で顕房の実父に当たる扇谷上杉家の隠居持朝入道であった。宝徳2(1450)年4月、持朝入道は本拠の相模国糟屋庄に隠居したまま、山内家執事の長尾左衛門入道、扇谷家執事の太田備中入道に指示して公方亭襲撃を計画し、その風聞が流れた。当然、これは成氏を討つものではなく公方近臣の追滅が目的であるが、成氏は4月20日夜半に鎌倉を脱出し、江ノ島へ御移座した(江ノ島合戦)。
翌21日には長尾・太田勢が腰越まで進出したため、鎌倉中の家柄で成氏に供奉していた小山小四郎持政の一隊が迎え撃って撃退。鎌倉に引き上げた長尾・太田勢は由比ヶ浜でも鎌倉中の家柄である千葉介胤将、小田讃岐守持家、宇都宮右馬頭等綱によって追討され、相模国の糟屋庄へと落ち延びていった。その後、成氏は鎌倉に還御し、関東管領憲忠や持朝入道を赦免するも彼らは出頭せず、成氏は京都にその旨を通達している。その後、憲忠は鎌倉へ戻って関東管領として政務を執り行うも、享徳2(1453)年3月の段階で成氏は関東管領憲忠の副状を付けずに京都との交信を行うなど、両者の交流には断絶の雰囲気が漂っており、管領細川勝元より「上杉右京亮以副状執次申候者可然候、無其儀候者、就諸篇雖被下 御書候、不可及御返事候」(享徳二年三月廿一日「細川勝元書状」『喜連川文書』)との通告を受けている。
そして、その翌年享徳3(1454)年12月27日、年末も押し迫ったこの日に「鎌倉殿、被誅管領上杉右京亮、於御所被出抜云々、故鎌倉殿之御敵之故者哉」(『康富記』享徳三年十二月廿七日条)とあるように、成氏は上杉憲忠を御所へ招いて殺害した。この関東管領殺害により、山内上杉家、扇谷上杉家は公然と成氏への反旗を翻すこととなる。
成氏はとくに関東管領山内家への敵意を強くしており、その領国である上野国と武蔵国を中心に攻めるべく、自ら鎌倉を出陣して、武蔵国国府で庁鼻和憲信入道、扇谷大夫三郎顕房(扇谷上杉家当主)を討ち取って上杉勢を潰走させる(分倍河原の戦い)。敗れた上杉勢は常陸国小栗城に逃れて立て籠もり、成氏はこれを追って結城へ進軍した。これと同時に上野国においても、近臣の新田岩松持国を主将とする新田一党を差配して、上野守護山内家との戦いを繰り広げた。
こうした関東の情勢に京都も対応せざるを得ず、享徳4(1455)年3月28日に「上椙ヽヽ故房州入道子関東発向」(『康富記』享徳四年三月卅日条)させた。彼は上杉憲実入道の次男・兵部少輔房顕(幼名龍春)で、成氏に殺害された関東管領憲忠の実弟である。彼を関東管領に任じ「総大将」(『康富記』享徳四年三月卅日条)として関東派遣が行われた。続けて、4月3日には「駿河守護今河ヽヽ、今日関東発向、関東御退治御旗被給之」といい(実際の下向は4月8日)、「御旗」を給わって京都から下向している(『康富記』享徳四年四月三日条)。彼の賜った「御旗」は「布御旗」となる。このほか「去月時分、為関東御退治、自武家御旗被下関東也、上椙、今河、桃井等賜之、下向也」(『康富記』享徳四年閏四月十五日条)とあるように、桃井某ほか五名(越後上杉房定ほか四名か)の大将が関東に攻め下った。
関東に下った上杉房顕・房定勢は、6月5日、上野国国府の南「三宮原」(北群馬郡吉岡町大久保)において成氏方の岩松勢を打ち破り、大手(南)の山内勢と搦手(山沿)の新田長純勢の二手に分かれて東へ進軍している。この当時、下野国天命(佐野市天明町)・只木山(足利市迫間町582)には、小栗城の落城後に移った上杉勢(武蔵国府の戦いに敗れた人々)が布陣しており、上野上杉勢の目標は、足利庄の掌握と天命・只木山の友軍との合流を図り、成氏の拠点である小山・古河へと進むものだったと推測される。上杉勢の進軍に、成氏は6月24日、天命(佐野市天明町)から「足利御陣」へ陣を移している(年月闕「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)。しかし、足利もまた進撃する上野上杉勢と、下野国天命(佐野市天明町)・只木山(足利市迫間町582)の上杉勢に挟撃される可能性があったとみられ、7月9日、成氏は「至小山御陣」(年月闕「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)った。
こうした情勢を成氏方退勢と見たか、下野国で宇都宮右馬頭等綱、下総国で千葉介胤直入道が挙兵したと思われる。ところが、成氏は驚くべき速さで態勢を立て直すと、瞬く間に下野国足利へ再進出し、上野国へ派兵。7月25日の「於上州合戦」では「悉御理運候(実際は敗退)」という(享徳四年八月八日「足利成氏書状写」『那須文書』)。この合戦は「七月廿五日穂積原」(『松陰私語』)の合戦とみられ、上州路においては搦手の戦いとなる。この時の戦いは、上杉方搦手は新田岩松長純勢など二千五百余騎、成氏方は「御同名岩松左京太夫殿、新田之面々、結城、小山、佐野、佐貫都合五千余騎也」(『松陰私語』)という。朝方の合戦では「当方打負」と、上杉方が押し込まれているが、「夕手之合戦打勝」って「其侭蹈仕場也」といい、敗れた成氏方は「足利ノ本陣ニ引返」した。この日の合戦では、上杉方の「当方一族新野出羽守、渋川能登守為始之、廿余人討死了」したという(『松陰私語』)。
ただ、こののちの戦いは、成氏方優勢で事が運んだようで、9月3日、成氏は「那須越後守(那須資持)」に「東上州合戦理運候、以後敵未武州上州群集之間、雪下殿致御供奉公、外様大略罷立候之間、両国事御心安候」と報告している(康正元年九月三日「足利成氏書状写」『那須文書』)。
下総国においても、前に挙兵した千葉介胤直入道に対し、成氏方に属した千葉惣領被官の原越後守胤房がこれを千葉に攻めて下総国千田庄へ追放。原勢に与した千葉御一家「千葉陸奥入道常義父子」が千田庄多古城に拠った千葉介胤宣を攻めて8月12日に自刃させ、8月15日には原胤房が千葉介胤直入道を嶋城に攻めて滅ぼした(多古嶋合戦)。下総国西部から中部にかけては成氏方に加担した千葉陸奥入道常義(康胤)や岩橋輔胤、原胤房らが優勢となった。
さらに、同年12月11日の「天命只木」における合戦で、上杉房顕・房定を大敗させた。成氏は岩松持国からの「就天命只木御敵退散」の報告を受け、12月13日に「上杉兵部少輔以下被討漏候事、御無念至候」と残念を伝えている。この「天命只木」における大敗により、上杉方は古河を短期攻略する術が失われ、長期にわたって成氏方(古河公方)による利根川東対岸の実行支配を許す結果となった。そして成氏は、さらなる勢力の拡大を企図してか、おそらくこの頃、上総国に近臣武田右馬助信長入道を派遣し、さらに安房国にも近臣里見某を送り込んで、東関東における実行支配権の確立を図ったと思われる。
翌康正2(1456)年正月7日、成氏は持国からの「上州時宜」に対し、「来十一日、御動座日限被相定候」(康正二年正月七日「足利成氏書状写」『正木文書』221)と、再度の上州出師を伝えている。また、同7日夜、赤堀時綱は「那波郡福嶋橋切落警固」し「御敵等数輩討捕」ったとあり(「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)、赤堀時綱は足利から那波郡福嶋(那波郡玉村町福島)へ進み、利根川にかかる橋を切り落としたうえ、この周辺に布陣していた上杉方と戦ったと推定される。この「福嶋」は赤堀氏がおそらく兵粮料所として預置いている土地のひとつで、時綱の子とみられる「赤堀亀益丸」が「同国那波郡之内北玉村円覚寺領」として見える(「赤堀亀益丸所領注文」『赤堀文書』)。この頃において、利根川から西が上杉方、東が古河方の勢力範囲として大まかに固定されることになったとみられる。
成氏が正月11日に行うと持国に伝えた「御動座」は実現しておらず、その理由は不明ながら、正月21日までに行うことを持国に伝えている(康正二年正月廿日「足利成氏書状写」『正木文書』227)。なお、このとき成氏は正月19日に「於下総国市河致合戦悉理運之由」(市川合戦)ことも併せて報告している(康正二年正月廿日「足利成氏書状写」『正木文書』227)。この「市川合戦」は、多古嶋合戦で自刃(9月2日)した千葉中務少輔入道の子息二人(のちの千葉七郎実胤、千葉介自胤の兄弟)が、京都奉公衆の東左近将監常縁や八幡庄曾谷氏、そのほか上杉氏や守屋相馬氏などとともに市川城に挙兵したもので、これに成氏方の原越後守胤房、岩橋殿輔胤に加えて、古河からの「南図書助、簗田出羽守その外大勢指遣」が攻め立てた合戦である。この戦いに敗れた千葉七郎実胤、次郎自胤の兄弟は市川城を脱出して上杉勢を頼って武蔵国へと遁れたのち、上杉方の将として出陣をしているとみられる。
正月13日、成氏は持国に「新田庄内仁御敵方江令内通輩在之由聞召候、残党等徘徊由聞候間、尋捜可被致糺明候」ことを伝え、「鳥山式部大夫方」にも伝えているので「在談合厳密成敗候者可然候」ことを指示した(康正二年正月十三日「足利成氏書状写」『正木文書』222)。
正月16日、成氏は持国から「武州上州時宜具聞食候」し、「仍御調義事、努々無油断候」と指示した(康正二年正月十六日「足利成氏書状写」『正木文書』168)。この際に「何様不日可有御同座候」とあるのは、先日、新田庄内の内通者や残党の糾明を指示した鳥山式部大夫との同陣を示唆していると思われる。武蔵国から上杉勢が利根川を越えて上州へ攻め入る風聞があったようである。そして正月24日、赤堀時綱は下野国「殖木、赤石へ御敵出張」(「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)に対応して上杉方と合戦しており、「殖木、赤石(伊勢崎市内)」に上杉勢が寄せてきていたことがわかる。ただし、これは利根川からの距離を考えると、武蔵国からの兵ではなく西上州に駐屯する上杉勢であろう。
正月25日、「武州御敵等可越河由」の注進が成氏に届いた。成氏は持国に鳥山式部大夫を陣所に招き、対応を協議した上で「重可有注進候」ことを命じている(康正二年正月廿五日「足利成氏書状写」『正木文書』161)。さらに正月27日、成氏は「如今其敵軍時宜、致守佐野(佐貫の誤)、太田両庄由顕然」とし、持国に「速古戸江被罷越可有調儀候」を命じるとともに「佐野、舞木、長荏、蓮沼江同被仰付候」ことを報告した(康正二年正月廿七日「足利成氏書状写」『正木文書』140)。成氏は上杉方が上野国佐貫庄(邑楽郡千代田町付近)と武蔵国太田庄に兵力を増強している様子から、彼等の態勢が整わないうちに叩くべく持国に早々に古戸渡(太田市古戸町)へ移る指示をしたのだろう。翌28日には、「急如元佐貫庄江可被寄陣候」と、具体的に佐貫庄の上杉勢を攻めるよう指示している(康正二年正月廿八日「足利成氏書状写」『正木文書』150)。
2月2日、成氏は持国に「鳥山式部大夫、就御用一両日御留候、其間事、其方江在陣無油断可有調儀候」ことを指示した(康正二年二月二日「足利成氏書状写」『正木文書』148)。当時、鳥山式部大夫は岩松持国の陣に宿陣していたが、この日、鳥山式部大夫は古河へ出張していた。本来は即日戻る予定であったが、成氏の御用のために帰ることができなくなり、成氏は早馬を派遣して即日持国にその旨を伝えている。
この頃、上野国における古河勢と上杉勢との戦いは各地で散発的に発生しており、2月26日には西上野の深津において「於深巣合戦(前橋市粕川町深津)」が起こっている。この合戦は越後上杉家被官の「長尾兵庫頭并沼田上野守」らが寄せており、この越後勢と戦った赤堀下野守時綱は弟の赤堀孫三郎とともに討死した(「赤堀政綱軍忠状」『赤堀文書』)。
こうした上野国における長い抗争は、岩松持国ら古河勢の人々に大きな負担がかかっていた。古河方と上杉方との戦線は広く、成氏は天命・只木山の戦勝後に上野国に増援していた軍勢を他に振り分けたり本国へ戻したりしたと思われ、持国は対応に苦慮していたようである。こうした状況はやむを得ない事ながら、成氏は3月9日、持国に「就其方時宜、粗雑説候由其聞候」と叱責するとともに、「毎時無油断可有計略候」ことを改めて示して規律を引き締めている(康正二年三月九日「足利成氏書状写」『正木文書』233)。一方で、この上州の状況は解決しなければ瓦解しかねないことから、成氏は「其方無勢之由、可申上候間、明日十九日可被差遣一勢候」(康正二年三月十八日「足利成氏書状写」『正木文書』136)と約している。
その後、岩松勢は利根川を渡って武蔵国へ侵攻した。これはこの年に庁鼻和右馬助房憲が深谷城を築城しており、上杉方の前線基地が築かれつつあったことから、「成氏之を聞きて、敵に足を留めさせじ」(『鎌倉大草紙』)と上州勢の「鳥山右京亮、高因幡守を先懸にて、二百余騎の勢を差遣」わしたもので、9月17日、深谷城に近接する岡部原(深谷市岡部)において「火出つる程に戦」い(『鎌倉大草紙』)、「上杉方には井草左衛門尉、久下、秋本を始として、残り少なに討ちなされ、悉敗軍」したという(『鎌倉大草紙』)。しかし、古河方も「勝軍はしたりけれ共、一方の大将鳥山深手負ひ死ければ、東陣へ引返す」(『鎌倉大草紙』)といい、持国とともに上州新田党を率いた「新田鳥山式部大輔殿岡部原ニテ打死」(『本土寺過去帳』十七日上段)している。また、岩松持国の次男「次郎殿(成兼)被負御手、乗馬被切」、さらに「其外親類被官、或被疵或討死」しており(康正二年九月十九日「足利成氏書状写」『正木文書』147)、持国は近臣野田持忠に「合戦悉御理運之由」の「御注進」を送っているが、その後岩松勢が深谷付近で活動していない事からも、撤退は事実とみられる。
上野国古河方の要である新田党は、岩松持国を筆頭に、鳥山式部大夫、桃井左京亮の三名が「三大将」と称されて活動していたが、桃井左京亮は前年の享徳4(1455)年5月の戦勝以降見られなくなっており、この岡部合戦で鳥山式部大夫が討死したことで、上野新田党は岩松持国ひとりで支える事となった。
上野国と武蔵国における上杉方と古河方の合戦は利根川を挟んで膠着状態となり、その後、激しい合戦の記録はみられなくなる。一方で、古河方の伸長に対し、京都は新たな「新鎌倉殿」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月廿五日条)の選定を開始し、関東の新しい旗頭を置いて「成氏」を「討伐」することを図った。
その選定は、康正3(1457)年3月中までに「関東主君御事、京都御連枝御中御定候」(康正三年(カ)四月四日「伊勢貞親奉書」『石川文書』)と、新たな鎌倉殿を将軍家連枝中から決定する旨(この時点では、御連枝中から選ばれるというのみで、具体的な人物は決まっていない)が「白川修理大夫(白河直朝)」に伝えられている。その鎌倉殿の候補は、かつて成氏(永寿王丸)とともに鎌倉殿への就任が検討された「御連枝小松谷殿…御俗名義制」(『刑部卿賀茂在盛卿記』長禄二年四月十九日條)と、天龍寺香厳院主清久(義政異母兄、母は朝日氏)の二名とみられる。
当時、京都から関東へ派遣されていた追討使は東左近将監常縁のみであるが、彼は一奉公衆に過ぎず、千葉氏の内紛を鎮める目的で下向したに過ぎず、成氏と対峙し得る大将軍ではなかった。成氏への直接的な対応は同格の鎌倉殿の下向が必須だったのだろう。そのため京都は「常縁を召上せられ」(『鎌倉大草紙』)ている。このような状況となってしまったことを嘆いて、常縁は歌を詠んでいる。
そして、3月中に「新鎌倉殿」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月廿五日条)を「関東主君御事、御連枝香厳院殿御定候」(康正三年七月十三日「細川勝元書状」『石川文書』)とあるように、将軍義政の異母兄・天龍寺香厳院主清久に決定し、「近々可有御下向候」こととした。この「新鎌倉殿」の治定とともに、6月23日、御一家・渋川左衛門佐義鏡を「探題」に任じ、「武蔵国へ被指下」(『鎌倉大草紙』)ことと決定した。この「探題」がいかなる職かは不明だが、旗頭「新鎌倉殿」の「香厳院殿」を支える「執事」(関東管領ではない)であろう。
朝日某―――女子 【小松谷殿】
∥―――――足利義制
∥ (左馬頭)
∥
足利義教
(左大臣) 【鎌倉殿】
∥ ∥―――足利政知
∥ ∥ (左馬頭)
∥ ∥
∥ 女子
∥(赤松永良則綱女子)
∥
∥ 【征夷大将軍】
∥―――――足利義政
∥ (右近衛大将)
日野重光――藤原重子
(大納言) (北方)
渋川義鏡は「公方の近親にて代々九州探題の家なれば、諸家も重き事に思ひける上、祖父左衛門佐義行は久鋪武蔵の国司にてあり、其時より足立郡に蕨と云所を取立、居城にして今に至るまで此所を知行」していたことから、彼を探題に選任したという。渋川氏の祖・足利次郎義顕(兼氏)は足利太郎家氏(斯波家祖)と同母兄弟で、その妻女も姉妹同士(北条為時女子)という斯波家の兄弟筋であり、斯波庶家の吉良氏・石橋氏と並ぶ権威を持っていた。
+―斯波義種―――斯波満種―――斯波持種―――斯波義敏
|(修理大夫) (左衛門佐) (修理大夫) (左兵衛督)
|
| +―斯波義淳―――斯波義豊
| |(左兵衛督) (治部大輔)
足利泰氏 北条時継――女子 | |
(宮内少輔)(式部丞) ∥―――――北条宗氏 +―足利高経――+―斯波義将 +―斯波義重―+―斯波義郷―――斯波義健==斯波義敏==斯波義廉
∥ ∥ (尾張守) |(修理大夫) (右衛門督)|(左衛門督) (治部大輔) (治部大輔)(左兵衛督)(左兵衛佐)
∥――+――足利家氏 ∥ ∥ | ∥ |
∥ | (尾張守) ∥ ∥――――+―斯波家兼 ∥――――+――――――――女子
名越朝時――女子 | ∥―――――足利宗家 ∥ (左京権大夫) ∥ ∥
(越後守) | ∥ (尾張守) ∥ ∥ ∥
| ∥ ∥ 吉良満貞――――女子 ∥――――――渋川義俊――渋川義鏡――斯波義廉
| ∥ ∥ (上総三郎) ∥ (左近将監)(右兵衛佐)(左兵衛佐)
| ∥ ∥ ∥
北条為時――――――+―女子 長井時秀――女子 高師直―――――女子 ∥
(六郎) || (宮内権大輔) (武蔵守) ∥――――――渋川義行―――渋川満頼
|| ∥ (左衛門佐) (右兵衛佐)
|+―女子 +―渋川直頼
| ∥ |(中務大輔)
| ∥―――――渋川義春 北条朝房―――女子 |
| ∥ (二郎三郎)(備前守) ∥―――――+―源幸子
| ∥ ∥ ∥ ∥
+――足利義顕 ∥―――――渋川貞頼―+―渋川義季 ∥
(二郎) ∥ (兵部大輔)|(刑部権大輔) ∥
∥ | ∥
北条時広――女子 |+―足利尊氏―+―足利義詮―――足利義満―+―足利義持―――足利義量
(越前守) ||(権大納言)|(権大納言) (太政大臣)|(内大臣) (参議)
|| | |
|| | +―足利義教―+―足利義勝
|| | (左大臣) |(左近衛中将)
|| | |
|| | +―足利政知
|| | |(左馬頭)
|| | |
|| | +―足利義政
|| | |(右近衛大将)
|| | |
|| | +―足利義視
|| | (権大納言)
|| |
|+―足利直義 +―足利基氏―――足利氏満―――足利満兼―――足利持氏―――足利成氏
| (左兵衛督)=(左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督) (左兵衛督)
| ∥
| ∥――――――如意王
| ∥
+――女子
(本光院殿)
渋川義鏡はまず「御下知の通、武州、上州の兵共に申し聞かせ、成氏を退治して上杉を管領として関東を治むべき」の御教書を「板倉大和守先立て」て下向させたところ、「上杉方の兵共各馳せ集まり、渋川殿へ参会して京公方の御下知を承」ったという(『鎌倉大草紙』)。
将軍義政は渋川義鏡を「探題」と定める一方で、長禄元(1457)年12月19日、将軍義政は香厳院主清久を還俗させて「カマクラ殿、左馬頭付ヲコナワル、御名字政知」と改めさせるとともに、「左馬頭」に補任した(『山科家礼記』)。「探題」の語は関東管領としてすでに上杉房顕がいることから、それとは別の職名として付けられたものであろう。政知も「公方様」とは称されず「豆州様」「主君様」と公称されている。これは成氏が「公方様」と公称されているように、成氏の称として関東に定着しており、容易に変更周知し難い事情があったのであろう。
12月24日、政知は京都を出立し「カマクラ殿御下向、今日ハ三井寺マテ候也」(『山科家礼記』)と、逢坂関を越えて園城寺へ入った。このとき「新鎌倉殿、三井寺辺被下向、御共渋河」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月廿五日条)といい、「探題」渋川義鏡が政知に同行していたことがわかる。ただ、この下向は関東下向ではなく園城寺への下向で、実際の関東下向は翌年となる。
この頃、新たな鎌倉殿が決定した風聞は関東にも流れていたのだろう。成氏は長禄2(1458)年閏正月11日、「小山下野守殿」に対してこの上なく慇懃な契状を示している(長禄二年閏正月十一日「足利成氏契状写」『小山家文書』)。単に小山持政の勲功を賞したものかもしれないが、京都から下向するであろう新鎌倉殿への危機感があった可能性もあろう。
●長禄2(1458)年閏正月11日「足利成氏契状」(『小山文書』)
また、この頃には各所で度々合戦が起こっていたようで、閏正月17日、成氏は岩松持国に参陣(古河か)を命じている(長禄二年閏正月十七日「足利成氏書状写」『正木文書』158)。それについて「親類被官中一人も不相残、催具出陣者可然候」と強硬な出陣催促となっているが、「定就連々陣労可及兎角異儀候哉」と、度々の出陣要請に持国が不満を持っているであろうことは察しているが、「今度罷立励各戦功者、依忠節浅深可有恩賞候」と伝えており、持国の不満は恩賞の不備と考えられる。多くの犠牲を強いて長年の連戦に応じたものの、合戦しているのは上野国内部であって恩賞となる地もまた極めて不安定であり、働きに見合った恩賞が見込めないことにあったのではなかろうか。
結局持国はこの成氏の軍勢催促に応じず、閏正月24日、成氏は「今月廿六御親類様御内面々致御共、可有御取陣之由」の御書を下した(現存せず)。二階堂左衛門尉成行もまた副状を遣わしており(長禄二年閏正月廿四日「二階堂成行副状」『正木文書』256)、「不可有片時も御延引候、廿六日必御参陣尤候」と強く命じている。持国はおそらくこの要請にも応じず、所領についての「就条々御申事」を二階堂成行に送っている。成氏はこれを受けて「仍上意之段、御代官ニ令申候」し、「御本領続目 御判申出令置之候」と対応をしている(長禄二年二月二日「足利成氏書状写」『正木文書』255)。
こうした成氏と持国との間隙を察したのか、この頃京都は持国への調略を開始する。
3月27日には京都の将軍義政より「岩松右京大夫(岩松持国)」へ直接御内書が遣わされている(長禄二年三月廿七日「将軍義政御内書」『正木文書』)。古河方の上野国の主将である岩松持国に調略をかけることは、これが発覚してもしなくても、彼が寝返っても寝返らなくても、成氏や持国には精神的に大きな揺さぶりをかけることができる。当然調略が成功すれば、上野国、下野国及び武蔵国の状況は一変し、古河を攻め落として成氏を追い落とすことは現実的となる。この将軍御内書には奉行人「近江前司教忠」の副状(長禄二年三月廿七日「朝日教忠副状」『正木文書』)、探題渋川「義鏡」の副状(長禄二年三月廿七日「渋川義鏡副状」『正木文書』)が付されているが、彼らは関東へ下る新鎌倉殿政知に付される予定の人々であった。これと同内容の書状が持国の子「岩松次郎(岩松成兼)」「岩松三郎殿」にも送達されている。なお、奉行人の朝日近江前司教忠は、政知の生母・朝日氏の親族とみられ、近江国朝日郷を本貫とする奉公衆である。
●長禄2(1458)年3月27日「将軍義政御内書」(『正木文書』:「韮山町史」第三巻)
●長禄2(1458)年3月27日「朝日教忠副状」(『正木文書』:「韮山町史」第三巻)
●長禄2(1458)年3月27日「渋川義鏡副状」(『正木文書』:「韮山町史」第三巻)
この頃京都では政知の下向についての日次が議論されていた。
4月7日、「渋川雑掌伊香方」より刑部卿賀茂在盛に「御門出吉日、関東主君御征伐之門出也」が問い合わされた(『在盛卿記』長禄二年四月七日条)。在盛はさっそく占卜したところ「今月廿日丁丑 時辰 吉方戌亥、廿六日癸未下吉、時卯辰吉方東」と出たため、「御出行日」を伊勢守貞親に報告している。その後、再度貞親から諮問されたか、在盛卿は4月19日には「今月廿六日癸未、廿八日乙酉」を案として報告している(『在盛卿記』長禄二年四月十九日条)。4月28日に将軍義政が「白河修理大夫殿」へ下した御内書(長禄二年四月廿八日『白川文書』神:6259)には、「已典厩下向之上者、早速令進発」と見えることから、新鎌倉殿政知の出京は占卜の結果通り4月28日と推定できる。ただし、出京21日後の5月20日時点で上野国で在陣中の横瀬国繁が「主君様近々に御下之事候間」(長禄二年五月廿日「横瀬国繁書状案」『正木文書』)と、まだ関東下着の知らせが届いていない様子も見えるが、その主である岩松長純は同日に「関東 御主君御下向之上者」と見えることから、これ以前に伊豆に入っていたと考えるのが妥当だろう。この五日前の5月15日、岩松持国が3月27日付の『将軍家御教書』への返書として、「弥可抽忠心候、以此旨可預御披露候」の請文(長禄二年五月十五日「岩松持国請文」『正木文書』271)を送っている。
●長禄2(1458)年5月15日「岩松持国請文写」(『正木文書』271)
その宛所は3月27日に御内書の副状をしたためた渋川義鏡または政知付帯の豆州奉行人朝日教忠ら(京都奉行人のままで豆州出向)と考えられるため、政知一行は出京から十日前後の5月上旬には伊豆に到着していたと考えられる。その在所は「伊州国清寺(伊豆の国市奈古谷1240-1)」(『碧山日録』寛正元年五月七日条)であろう。
なお、政知とともに新鎌倉殿の候補だったと思われる「御連枝小松谷殿」は、「自科料」って「御左遷」となり「隠岐国」へ配所されている。具体的な罪状は不明だが、政知(香厳院主清久)が新たな鎌倉殿に選ばれたのは、小松谷殿義制の何らかの科があったためか。5月7日「小松谷殿」は配流まで「侍所京極於路次奉向之、京極宿所為御所」とし、在盛卿は配流の日次について「今月十三日己亥 時卯申、十四日庚子 時辰」(『在盛卿記』長禄二年五月七日条)と報告している。
5月20日、持国の従兄弟に当る岩松治部大輔長純(のち家純)は「関東 御主君御下向之上者、此刻被参御方者、取可申候」と、鎌倉殿政知が関東へ下向した際に味方につくのであれば自分が取り次ぐことを告げるとともに(長禄二年五月廿日「岩松長純書状」『正木文書』258)、家宰の横瀬雅楽助国繁も「澁澤(渋沢入道)」を使者として持国家宰の伊丹伯耆守に書状を送り、交渉をしている(長禄二年五月廿日「横瀬国繁書状案」『正木文書』195)。横瀬国繁は伊丹伯耆守との交渉の中で「於此上不逢首尾事にてハ、我々両人之末代可為比興候」と、この交渉がまとまらなければ、我ら両人は末代まで汚名を残すとのべており、彼らが持国帰参に関する条件面も含めた交渉の実務担当だったことが推測される。
●長禄2(1458)年5月20日「岩松長純書状」(『正木文書』258)
●長禄2(1458)年5月20日「横瀬国繁書状案」(『正木文書』195)
得川頼有――――女子 新田義貞――新田義宗―?―岩松満純
(四郎太郎) ∥ (左中将) (武蔵守) (治部大輔)
∥ ↓
相馬義胤―土用御前 ∥―――――+―岩松政経――+―岩松経家――岩松泰家――岩松満国 +=岩松満純
(五郎) ∥ ∥ |(下野太郎) |(兵部大輔) (治部大輔)|(治部大輔)
∥ ∥ | | ↓ | ∥―――――――岩松家純
∥―――+―岩松経兼 +―とよ御前 +―世良田義政 ↓ | ∥ (治部大輔)
∥ |(遠江五郎) | |(伊予守) ↓ | 上杉禅秀女子
∥ | | | ↓ |
足利義純――岩松時兼 +―とち御前 +―あくり御前 +―岩松頼宥 ↓ +―岩松満長====岩松持国
(太郎) (遠江守) (尼真如) |(岩松禅師) ↓ |(伊予守) (右京亮)
∥ | ↓ | ↑
∥ +―岩松直国========岩松満国―+―岩松満春――――岩松持国
∥ (治部少輔) (治部大輔) (能登守) (右京亮)
∥ ↓
∥―――――――土用王御前===岩松直国
∥ (尼妙蓮) (土用王)
藤原某
5月25日、賀茂在盛卿が「渋川殿雑掌、自侍者註進之」こととして「御旗拝受日」の諮問を受け、「今月廿七日癸丑 宿申 時卯、六月八日甲子 時卯」と報告している(『在盛卿記』長禄二年五月廿五日条)。おそらく「御旗」は5月27日か6月8日に下され、関東へ下向したのだろう。
そして、5月中か6月上旬には持国帰参の交渉がまとまり、持国は京方に参じる旨の「京都被進御請」を、探題渋川義鏡に送達した(長禄二年六月十七日「渋川義鏡書状写」『正木文書』118)。ところが「京都被進御請由」とのことだが「但御請此方へハ不到来候、如何候哉」という。実はこの請書未着は少し前に発覚しており、義鏡は持国に「先度此段申候」ており、今回、持国は「御使、不慮之子細(ただし詳細は不明)」があったことを報告してきたため、義鏡は6月17日に「無是非候、仍重而令申候」と、もう一度請書を送るよう指示している。翌6月18日には奉行人「近江前司教忠」からも同様の意趣の書状が持国に遣わされている(長禄二年六月十八日「朝日教忠書状写」『正木文書』124)。
そして6月22日、「沙弥道真」は建長寺西来庵の「侍真禅師」に対し、「当庵領」については今後は「何様豆州江令申、依御返事、可及御左右候」ことを伝えている(六月廿二日「太田道真書状」『西来庵文書』)。相模国守護は「沙弥道真(太田道真)」が仕える扇谷上杉家であるが、今後は建長寺西来庵の寺領(相模国のみか)は「豆州(政知の政庁)」で取り扱う旨が決定された。これは、京都の命により扇谷上杉家が持つ権限の一部を「豆州」へ譲渡したということになろう。
岩松持国と伊豆国清寺の政知との交渉については、探題義鏡と岩松治部大輔長純が専任で取り扱っており、7月11日に持国へ遣わされた義鏡の書状に「御心底趣、自礼部委細承候」とあるように、義鏡は長純から持国の意向を詳細に伝えられていることがわかる(長禄二年七月十八日「渋川義鏡書状写」『正木文書』175)。
8月13日、岩松家純は岩松持国からの「如注文承候所之事」を「豆州様江進候」したところ「封畏給候、目出候」ことを持国に報告している(長禄二年八月十三日「岩松家純書状写」『正木文書』)。8月16日には放生会に関わる件と思われるが、鶴岡八幡宮寺別当の神守院弘尊法印が「豆州主君」のもとに御参している(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)。その後、岩松持国は9月中旬、改めて京方として活動することを約し、9月24日、伊豆の政知が「就成氏対治事、被参御方之条誠以神妙」と御教書を遣わし(長禄三年九月廿四日「足利政知御教書案」『正木文書』)、渋川義鏡(長禄三年九月廿四日「渋川義鏡副状案」『正木文書』)の副状も付されて、岩松持国へ送達された。岩松持国がもっとも欲していたものは、働きに見合った所領だったのである。
長禄3(1459)年11月当時、「豆州主君」は伊豆国田方郡の山内上杉家由緒の国清寺、「公方様(成氏)ニハ未下野御座在之」(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)、「上椙(上杉房顕)」は「本陣五十子(本庄市東五十子)」、「同大夫方(扇谷持朝入道)」は「河越」、「(渋部カ)川方(渋川伊予守カ。12月28日、浅草で病死)」は「浅草」、「鎌倉」には「駿河国人(今川範忠)被座者」という状況にあり、上杉勢と成氏勢が武蔵国北東部及び上野国で交戦していた。とくに「五十子陣」はその後十八年間にわたって上杉方の本陣として機能し続ける。
とくに10月14日、15日の上州「羽継原」および「海老瀬口」の合戦は、「五十子陣之事、管領上杉、天子之御旗依申請旗本也、当方者京都公方之御旗本也、桃井讃岐守、上杉、上条、八条、同治部少輔、同刑部少輔、上椙扇谷、武上相の衆、上杉庁鼻和、都合七千余騎、五十子近辺榛沢、小波瀬、阿波瀬、牧西、堀田、瀧瀬、手斗河原ニ取陣、戴星負月、手斗河原日々打出々々相動、雖然隔大河間、その動不輙、京都方、関東方終日見合々々入馬、勝劣未定之大陣也、天帝修羅之戦モ角哉覧与想像計リ也」(『松陰私語』第二)と見える激戦であった。
●長禄3(1459)年10月~合戦当時の上杉方(『松陰私語』『足利家御内書案』)
氏名 | 功績 | 続柄 |
上杉兵部少輔房顕 | 「武州上州度々合戦」で被官数輩の負傷・討死 |
上杉憲実の次男で関東管領。 関東派兵の大将軍。 「太田佐貫等合戦」に際して、諸将の軍功について、将軍へ「方々遣感書」を依頼する。 |
桃井讃岐守 | ||
上杉民部大輔房定 | 「上州所々合戦」で被官数輩の負傷・討死 |
上杉清方の次男で越後守護職。 関東派兵の次将。 |
(四條)上杉中務少輔教房 | 「武州太田庄」での合戦で討死 |
上杉禅秀弟・持定の子。 禅秀の甥。 |
(四條)上杉三郎政藤 | 「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 上杉教房の子 |
上杉右馬頭 | 「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 不詳 |
上杉宮内大輔 | 「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 不詳 |
上杉修理亮 | 「上州羽継原合戦」で「被官人日山左京亮被疵」 | 不詳 |
(八條)上杉中務大輔持定 | ||
扇谷上杉修理大夫持朝入道 | ||
上杉庁鼻和 | ||
毛利宮内少輔 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
色部弥三郎昌長 | 10月「上州羽継原合戦」で親類・被官数輩の負傷・討死 | 越後国人。房定麾下 |
本荘三河守時長 | 10月「上州羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | 越後国人。房定麾下 |
長尾信濃守 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
飯沼弾正左衛門尉 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
石河遠江入道 | 10月「上州海老瀬并羽継原合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
飯沼孫右衛門尉 | 10月15日「上州海老瀬合戦」で被官数輩の負傷 | 越後国人。房定麾下 |
野澤弥六 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
和田弾正左衛門尉 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
三儲帯刀左衛門尉 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
池田太郎四郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
吉澤小太郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
中山左衛門三郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
渡辺孫次郎 | 10月15日「上州羽継原合戦」で父の討死 | |
大石九郎 | 10月14日「武州太田庄合戦」で父の討死 | |
浅羽大炊助 | 10月14日「武州太田庄合戦」で父の討死 | |
神保伊豆太郎 | 10月14日「武州太田庄合戦」で父の討死 | 上杉房顕麾下 |
黒田民部丞入道 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息「紀五郎」「藤増」討死 | 佐竹義定麾下 |
簗備中入道 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息討死 | 佐竹義定麾下 |
長沼修理亮 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息討死 | 佐竹義定麾下 |
結城宮内少輔 | 11月「於常州信太庄合戦」で父の討死 | 佐竹義定麾下 |
結城刑部少輔 | 11月「於常州信太庄合戦」で父の討死 | 佐竹義定麾下 |
尻高新三郎 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で父の討死 | |
後閑弥六 | 10月14日「武州太田庄合戦」 10月15日「朝合戦、海老瀬口」 「夕合戦、羽継原」で父の討死 | |
大類五郎左衛門尉 | 10月15日「羽継原合戦」で父の討死 | |
伊南山城太郎 | 10月15日「羽継原合戦」で父の討死 | |
行方幸松 | 10月15日「羽継原合戦」で父肥前入道が討死 | |
長尾肥前守 | 10月「於常州海老瀬口并羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
長尾尾張守 | 10月14日「武州太田庄合下合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
長尾新五郎 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
芳賀忠兵衛尉 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で被官数輩の負傷・討死 | |
二階堂小瀧四郎 | 10月15日「於上州佐貫庄羽継原合戦」で被官渡辺主計助負傷 | |
高浦加賀守 | 「武州太田庄合戦」で忠節 | |
豊島弥三郎 | 「武州太田庄合戦」で忠節 | |
長南主計助 | 「武州太田庄合戦」で忠節 | |
江戸但馬入道 | 実定(佐竹実定)より注進 | 佐竹実定麾下 |
結城七郎 | 「参御方可致忠節」が房顕より京都に注進 | 上杉房顕麾下 |
小田讃岐守 | 11月「於常州信太庄合戦」で子息「治部少輔」「上総介」負傷 被官「波賀彦三郎」等討死 実定(佐竹実定)より注進 「隠居事」は「太不可然」とする。 | 佐竹実定麾下 |
真壁入道 | 11月「於常州信太庄合戦」で「兵部大輔入道父子三人」討死 実定(佐竹実定)より注進 | 佐竹実定麾下 |
長尾四郎右衛門尉 | 「武州上州度々合戦」で自身の負傷、被官数輩の負傷・討死 | |
二階堂須賀河藤壽 | 10月「於上州佐貫庄羽継原合戦」で親類被官数輩の負傷・討死 | 上杉房顕麾下 |
小山常陸介 | 10月「於上州佐貫庄羽継原合戦」で親類被官数輩の負傷・討死 | 上杉房顕麾下 |
常陸大掾 | 「於常州凶徒出張」時に「馳向所々致合戦得勝利」 | |
白川修理大夫 | 「就関東進発事、内々申子細」 | |
二階堂駿河守 | 「馳参御方、可抽戦功」 | 上杉教朝麾下 |
この合戦は「教房討死」(『足利家御内書案』)するなど、上杉方の敗北に終わり、管領兵部少輔房顕は「五十子陣」へと退却を余儀なくされている。なお、この合戦に岩松持国が子息の宮内少輔成兼とともに京方として加わっており「捨身命、及合戦」んだことに、11月24日、「豆州様」政知直々に御判御教書が下されている(長禄三年十一月廿四日「足利政知御判御教書」『正木文書』「韮山町史」第三巻)。これに探題の渋川義鏡(長禄三年十一月廿四日「渋川義鏡副状」『正木文書』「韮山町史」第三巻)と、奉行人「近江前司教忠」(長禄三年十一月廿四日「朝日教忠副状」『正木文書』「韮山町史」第三巻)も副状を発給している。
この合戦直後、「主君様同年内中、山ヲ可有御越由、其聞在之」と、政知が箱根を越えるという風聞が鎌倉に流れている(『香蔵院珍祐記録』長禄三年十一月「韮山町史」第三巻)。ところが、翌長禄4(1460)年正月時点で「鎌倉ニハ駿河ノ面々被座候處ニ、正月皆々被下者也、狩野方ノ被官人計少々被相残者也、介方者在国也」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年二月「韮山町史」第三巻)とあるように、駿河今川勢は鎌倉から撤退をしていることがわかる。おそらく五十子陣による上杉方の敗北で、相模国や伊豆国などの情勢も一気に不安定化したとみられる。こうした状況に政知の鎌倉入りは中断され、受け容れる側の鎌倉今川勢も撤退が決定されたのだろう。こうして、2月の時点で「京都ノ主君者、未豆州ニ御座在之」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年二月「韮山町史」第三巻)といい、鎌倉への下向は事実上不可能となったとみられる。この件に関してか、渋川義鏡被官人の「板倉(板倉頼次)」が4月中旬に伊豆国を発って4月26日に上洛している。さらに5月7日には「大相国之弟前香厳院主、以命還俗、為征東将軍、攻朝敵於関東、其師次伊州国清寺、敵放火々寺、士卒驚走、将軍徙陣於它云」(『碧山日録』寛正元年五月七日条)とあるように、御所の国清寺に成氏方の軍勢が放火し、政知以下は陣所を他所へ移したという。これがきっかけになったのかは不明だが、政知は狩野川東、願成就院北方の高台に新たに御所を移している。5月に入り、上洛していた「板倉」が「参豆州、去月廿六日上洛之由」を豆州様政知に報告。同月、「昌賢(長尾左衛門景仲入道)」もまた「豆州参」じたという(『香蔵院珍祐記録』長禄四年五月「韮山町史」第三巻)。この長尾の来訪は5月7日の敵勢襲来により焼失した山内上杉家由緒「奈古谷国請寺造営之」の件についてか。
8月、「使下自豆州、可有御越山之由、在其聞、但御延引」(『香蔵院珍祐記録』長禄四年八月「韮山町史」第三巻)との風聞がふたたび鎌倉に立っている。この風聞は京都にも届いており、8月22日、将軍義政は「就関東時宜、可被越箱根山之旨、其聞候、事実者、不可然候」と「此條先度申下」しており、鎌倉下向の企ては「一向可為不忠候」と強く批判している。この御教書は「豆州様」左馬頭政知のみならず、「右兵衛佐殿(渋川義鏡)」にも遣わされ、政知の鎌倉下向は厳禁としている(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)。
●長禄4(1460)年8月22日「御内書案」(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)
●長禄4(1460)年8月22日「御内書案」(『御内書案御内書引付』:「韮山町史」第三巻)
その後も上杉方の敗戦が続いていたようで、政知は閏9月中旬に京都に「朝日」を上洛させて関東の情勢を報告している。それによれば、「関東事以外云々、京都御方悉以打負了」という状況で、成氏勢の勢いが相当大きくなっていることを示していた。
●長禄4(1460)年閏9月27日『大乗院寺社雑事記』(「韮山町史」第三巻)
寛正2(1461)年5月初頭には、一時期成氏方から上杉方へ寝返っていた新田岩松「右京大夫持国父子」が「対成氏内通之儀、令露顕」したため、彼の目付的な「新田治部大輔(岩松家純)」が「致沙汰」したことを関東管領「上杉兵部少輔(上杉房顕)」が注進している(『将軍家御内書案』)。
さらに10月23日、将軍義政は「左馬頭(政知)」へ「政憲令下向候」したので「諸篇被加諷諫候」ように指示し、「右京佐(右兵衛佐義鏡か)」にも同様に「上椙四郎令下向」したので「毎事加諷諫扶助」を指示している。同23日、義政は「上椙兵部少輔(管領上杉房顕)」「上椙民部大輔(越後上杉房定)」「上椙修理大夫入道(扇谷上杉持朝入道)」に対して「政憲令下向候、諸事無等閑、扶助候」ことを指示している(『将軍家御内書案』)。上杉四郎政憲の関東下向は、伊豆の足利政知とともに下向した父・上杉治部少輔教朝の寛正2(1461)年の「疫死」(『上杉長尾系図』)に伴うものと思われる。
また、寛正4(1463)年8月26日、成氏勢力と戦いつづけた山内上杉家家宰・長尾左衛門景仲入道昌賢が鎌倉において病死。おなじく山内上杉家当主・上杉房顕も寛正7(1466)年2月11日に没したことで、武蔵の山内上杉家は一気に世代交代が進むこととなり、山内上杉家は上杉房定(越後守護)の子・顕定を当主に迎えた。
文明3(1471)年3月、小山・結城・千葉などの武蔵・下総の成氏党が箱根を越えて堀越公方・足利政知を討つべく、伊豆国三島へ向けて軍を進めてきた。このとき三島を攻めたのは千葉介孝胤の手勢であると考えられるが、政知のもとにはわずかな手勢しかなく、政知は今川範忠(駿河守護)へ援軍を求める一方、三島に軍を進めて成氏勢を防いだ。
しかし、今川家の援軍が来るよりもく政知勢と成氏勢は三島で合戦となり、政知勢は打ち破られたが、山内上杉家の家臣・矢野安芸入道の軍と合流したことで勢いを盛り返し、ついに成氏勢は退却。さらに山内上杉顕定は宇佐美藤三郎孝忠に五千餘騎を授けて道中に伏せさせていたため、退却する小山・結城・千葉新介孝胤の軍勢は散々に叩かれ壊滅した。
この大勝に勢いづいた上杉勢は、翌4月には長尾左衛門尉景信(長尾景仲の嫡子)が大軍を率いて下野国へ進軍。小山下野守ら古河公方に荷担していた関東の大々名も、幕府の内部工作によって次々に上杉勢に内応を約束しており、長尾景信は下野国足利庄をたちまち攻略、南式部大輔ら成氏の直臣が討死を遂げた。
さらに5月、長尾景信は古河城に攻め寄せて、迎え撃った沼田・高・三浦など成氏奉公衆を討ち取り、6月24日、古河城はついに陥落。成氏は唯一の頼みである千葉介孝胤を頼った。成氏を受け入れた孝胤が成氏一党をどこで遇したか遷したかは、本佐倉や千田庄内御所台(香取郡多古町御所台)などの説があるが、分明4(1472)年に古河へ移るとき「千葉より成氏公御発向」とあることから(『鎌倉大草紙』)、千葉氏はこのころまだ佐倉ではなく千葉を本拠としていた可能性もある。
千葉氏の庇護下にあった成氏は、7月21日付で「千葉介無二補佐申之際、先以御心安候」という書状を茂木式部大夫のもとへ送っており、孝胤からは手厚い保護を受けていたことがうかがえる。そして翌文明4(1472)年2月、結城氏広(下総結城城主)・那須資持(下野烏山城主)らの助力を受けて古河城を回復することに成功した。
輔胤は文明3(1471)年頃には出家して築常と号し、家督を嫡男・孝胤に譲ったとされ、輔胤は公津城(成田市台方下方)に隠居したという。そして20年ほどのちの明応元(1492)年2月15日に亡くなった享年77歳という。法名は千宝院殿輔台浄光阿弥陀仏。
本佐倉城は輔胤が住んでいた岩橋郷の南隣にあって印旛沼と接し、香取海の水便が非常によい土地であった。城郭は東西南北、それぞれ1.5kmの広さがある巨大な城塞で、城の中枢を囲むように天然の外郭があり、細い通路には堀を切って通行を妨害しており、非常に防御力の高い城。また、城郭内には城下町が形成され、交通の便がよいこともあって経済的にも非常に発展していったと考えられる。また、ここを中心に佐倉歌壇とも呼ばれる東国には珍しい和歌の文化が花開いていくこととなる。
本佐倉城の中核 |
★輔胤の家臣
家老
原 円城寺 木内 鏑木 湯浅
側近
中村権太夫 大場伝十郎 村上金太夫
馬廻
林雅楽丞 土肥彦太夫 海保左京進 八木五郎左衛門尉 中川玄蕃允 真形寺大膳
侍大将
山田次郎左衛門尉 岡野怱左衛門尉 藤崎新右衛門尉 青柳源五左衛門尉 根本十郎左衛門尉 岩瀬蔵人 六崎八郎左衛門尉
旗奉行
一色左門 和田兵庫助
御使番
神崎弥三左衛門尉 高木六郎左衛門尉 土屋金左衛門尉 池田修理亮 佐藤庄左衛門尉 桜井六郎左衛門尉 多賀左兵衛尉
近習頭
大川清左衛門尉 大木伝左衛門尉
大目付
青山宮内少輔 石川兵部少輔