千葉成胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

トップページ千葉宗家 > 千葉介成胤


千葉成胤(1155?-1218)

生没年 ????~建保6(1218)年4月10日午刻
千葉介胤正
不明
不明
官位 不明
官職 下総権介(除目による叙任かは不明)
役職 下総国守護職
荘官 千葉庄検非違所?
所在 下総国千葉庄
法号 遠山紅雲院、仙覚院、仙光院正珍厳阿弥陀仏

 千葉氏六代。父は五代・千葉介胤正。通称は小太郎。母、妻ともに不明。『千葉大系図』によれば久寿2(1155)年3月2日生まれ(『千葉大系図』)だが、系譜の信憑性から実際の生年は不明。『結城系図』によれば「千葉介業胤(なりたね)」とあることから、読みは「なりたね」であろう。

下総目代を討つ

 成胤は武勇に富んだ若武者として登場する。『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月13日、祖父の千葉介常胤が安房国に逃れて来た源頼朝を迎えるため、一族を率いて上総国に向かおうとするが、常胤の六男・千葉六郎大夫胤頼が、

当国目代者平家方人也、吾等一族悉出境参源家、定可挿兇害、先可誅之歟

と進言したため、常胤成胤胤頼「早行向可追討」と命じた(『吾妻鏡』寿永四年九月十三日条)

 成胤胤頼は郎従を率いて下総目代館(市川市国府台か)へと馳せ向かうが、「目代元自有勢者」とあるように「令数十許輩防戦」して、成胤・胤頼は攻めあぐねたが、北風が強いことに目をつけて、成胤は郎党をひそかに館の裏手に回らせて火をつけた。突然の出火に目代館は混乱し、防戦を忘れて逃げ惑った目代を胤頼が討ちとったとある(『吾妻鏡』寿永四年九月十三日条)

 この「当国目代」がいかなる人物かは不明だが、当時の下総守は平氏と強い繋がりを持っていた人物であったことがうかがえる。なお、「当国目代」「元自有勢者」であることから、以前から当地で勢力を広げていた人物であって、当時の下総守からの目代ではないと考えられる。治承3(1179)年2月当時には「前下総介藤原朝臣高佐」が見えるが(『山槐記』治承三年二月廿九日条)、彼は一族が上総介を歴任する家柄であり、兄の藤原清頼は太皇太后宮権大進として太皇太后宮亮平経盛(平清盛弟)の下にあり、平氏政権との関わりも深かった。下総守も藤原親以来平氏の影響力が強い人物が補任されており、下総目代も国府付近の有力者が任じられたのであろう。

             源頼義
            (陸奥守)
             ∥―――――源義家―――源為義――――源義朝―――源頼朝
 平維時―+―平直方―――女    (陸奥守) (左衛門大尉)(播磨守) (右兵衛権佐)
(上総介)|(上野介)
     |
     +―女
       ∥―――――藤原永業――藤原季永――藤原清高―+―藤原清頼
       ∥    (遠江守) (大和守) (上総介) |(上総介)
       ∥                      |   
       藤原永信                   +―藤原高佐
      (遠江守)                    (下総守)
                                ∥―――――藤原季佐
                         平貞正――――女    (宮内大輔)
                        (伊勢守)

結城浜合戦

 治承4(1180)年9月14日、「下総国千田庄領家判官代親政」「聞目代被誅之由」いて、「率軍兵欲襲常胤」したことから、「常胤孫子小太郎成胤相戦」って、「遂生虜親政」ったという(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)

 一方、『千学集抜粋』によれば、治承4(1180)年9月4日、安房の頼朝を迎えるため「常胤、胤政父子上総へまゐり給ふ」と、常胤と胤政のみが上総国へと向かったとあり、他の諸子は従った形跡はない。成胤についても記載があり、「加曾利冠者成胤たまゝゝ祖母の不幸に値り、父祖とも上総へまゐり給ふといへとも養子たるゆゑ留りて千葉の館にあり、葬送の営みをなされける…程へて成胤も上総へまゐり給ふ…ここに千田判官親政ハ平家への聞えあれハとて、其勢千余騎、千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投かけける、成胤曾加野まて馳てふりかへりみるに、火の手上りけれは、まさしく親政かしわさならむ、此儘上総へまゐらむには、佐殿の逃たりなんとおほされんには、父祖の面目にもかゝりなん、いさ引かへせやと返しにける」と、成胤は祖母の葬送のために遅れて父祖の上総国へと向かったが、蘇我野で振り返ると千葉に火の手が上がっており、引き返したとされる。その後、「結城、渋河」で親政の軍勢と出会い、散々戦って「親政大勢こらえ得す落行事二十里、遂に馬の渡りまてそ追打しにける」と、親政を討ち取ったことになっている(『千学集抜粋』)

 『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は常胤率いる「新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次常秀・武石の次郎胤重・能光の禅師等を始めと為て、三百余騎の兵」を先陣として上総国から下総国へと向かったという。このとき、藤原親正は「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐無し、京都の聞えも恐れ有り、且うは身の恥なり」と、千田庄内山の館を発して「千葉の結城」へと攻め入ったとする。このとき「加曾利の冠者成胤、祖母死去の間、同じく孫為といへども養子為に依つて、父祖共に上総国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送の営み有りけり」とされ、「親正の軍兵、結城の浜に出で来たる由」を聞いた成胤は、上総へ急使を発する一方で「父祖を相ひ待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず、豈勇士の道為らんや」と攻め懸けるも無勢であり、上総と下総の境川まで追われるが、「両国の介の軍兵共、雲霞の如くに馳せ来たりけり」と、千葉介常胤、上総介広常の軍勢が救援に加わったことで「親正無勢たるに依つて、千田の庄次浦の館へ引き退きにけり」と千田庄へと退いたとされる(『源平闘諍録』)

 『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はともに妙見説話を取り入れ、成胤を養子とする同一の方向性をもつ内容で、物語性の強い『源平闘諍録』はより詳細に記載されている傾向にある。またいずれも千葉の結城浜を戦いの舞台としていることが共通点に挙げられる。しかしながら、この『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はあくまでも説話集と物語であって、そのまま史実と受け取ることはできない。『千学集抜粋』はその妙見信仰と千葉氏を結びつける説話という性格上、まだ妙見信仰の成立していなかった平安時代末期の千葉氏に、妙見信仰の伝承を挿入する上で『源平闘諍録』の妙見説話を取り込んだ可能性が高く、千葉氏を賞賛する創作がかなり強いと考えられる。

 一方、『吾妻鏡』も全体をそのまま史実とするには危険な部分を含んでいるものの、後世北条氏にとって頼朝挙兵に伴う千葉氏の活躍を改変する必要性は全くないので、これは当時の記録に基づく史実として受け取ってよいと思われる。

 治承4(1180)年、千葉介常胤は子息・六郎大夫胤頼と孫・小太郎成胤に命じて下総目代(当時の下総守は不明ながら平家に属する人物)を追捕した。目代の屋敷は国府に近い八幡庄(市川市一帯)にあったと思われる。この目代攻めの時点で、千田庄領家判官代藤原親政(親雅)はおそらく頼朝を討つためにすでに匝瑳郡内山郷匝瑳市内山)を出発しており、粟飯原家常も親雅の千田庄司常益の子孫たちへの軍勢催促に応じて、子息の粟飯原権太元常粟飯原次郎顕常らを伴って千田勢に加わった(『千学集抜粋』)。千田勢は内山館を発すると、武射郡の横路(山武郡横芝光町)を通って、白井の馬渡(佐倉市馬渡)を流れる鹿島川を渡り、千葉庄に攻め入った(『源平闘諍録』)とされる。なお、親雅はもともと上総と下総の国衙を結ぶ千葉庄から上総方面へ南下するために千葉に向かっていたと思われ、この途次「聞目代被誅之由、率軍兵欲襲常胤」の報告を受けたため、千葉庄に攻め込んだ可能性が高いだろう。

 なお、この戦いは千葉小太郎成胤が迎え撃ったとされるが、常胤率いる千葉一族と合流して合戦に及んだのだろう。その結果、千田勢は千葉勢に打ち破られ、親雅は成胤によって捕縛されることとなる(『吾妻鏡』)。この戦いはこうした理由も明確な戦いであったとみられるが、後世、この戦いは千葉小太郎成胤を妙見菩薩に守られた特別な存在(平良文や平将門と共通する存在)とみる妙見説話と結びつけられた合戦譚となっている(『源平闘諍録』『千葉妙見大縁起絵巻』『千学集抜粋』)

 『源平闘諍録』では寡勢の千葉小太郎成胤が親正勢に結城浜まで押された際に「僮ナル童」で具現した妙見菩薩が親正勢の矢を防ぎ、その間に「両国ノ介ノ軍兵共」が救援に駆けつけて親正を追い払ったという(『源平闘諍録』)。なお、この妙見説話は、後世、千葉介成胤の子・千葉介胤綱千葉介時胤代に妙見信仰が千葉氏に取り入れられ(胤綱・時胤と同世代または一世代前に、同族原氏出身の如圓妙見座主となり、その子も名は不明ながら妙見座主の人物がいる(『神代本千葉系図』))、成胤妙見菩薩の加護を受けた特別な者と見るために創作された逸話と考えられる。なお、関東の妙見信仰は多分に平将門との結びつきが見られ、千葉氏も将門との関わりを有する伝承(良文と将門の関係、平忠常の母が将門娘、相馬氏は将門子孫等)があることから、千葉氏における将門信仰と関東の妙見信仰の親和性により容易に取り入れられたのかもしれない。

 親正は皇嘉門院判官代の経歴を有したが(『尊卑分脈』)、女院判官代在任のまま京都から下総国千田庄に下向することは考えにくい。治承4(1180)年5月11日時点の皇嘉門院領に千田庄は含まれておらず(「皇嘉門院惣処分状」『鎌倉遺文』三九一三)、皇嘉門院と千田庄には関わりはなく、親政もこの時点では女院司を辞していたと思われ、「千田判官代」は皇嘉門院判官代ではなく、荘園管理者としての判官代であると考えられる。

 当時の千田庄領主は不明だが、親政の出身である親通流藤原氏は摂関家家人であり、千田庄はもともと摂政藤原基実を本所とし、親政が領家だったと思われる。親政は仁安元(1166)年7月27日の基実薨去後は、摂関家私領を継承した北政所・平盛子のもとで千田庄判官代として実地支配を行ったため、千田庄平氏の統率を行い得たと考えられる。親政下向は、現実的には清盛が妹婿を下向させた具体的な東国管理の一端であったろうが、親政はあくまで摂関家家人の立場で千田庄を支配していたのである。

 親政を捕らえた常胤は、9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、下総国府で親政を頼朝の面前に引き据えている。

不待広常参入、令向下総国給、千葉介常胤相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政、次献駄餉、武衛令招常胤於座右給、須以司馬為父之由被仰云々

 なお、この時点で常胤が頼朝に同道していたのであれば、上記のように下総国府で初対面の居ずまいで出迎える必要はなく、さらにこのときに「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を頼朝に引き合わせるのも不自然である。すでに成人した人物であれば、常胤が頼朝に同道時にすでに面会は行われていたと考えるのが妥当であるためである(ただし、頼隆が目代攻めに加わっていたとすれば国府での対面が初対面となる)

 つまり、常胤ら千葉一族は、上総国に向かって頼朝と合流し、下総行きに同道したのではなく、13日に成胤六郎大夫胤頼を下総目代追討に差し向けて国府一帯から平氏勢力を駆逐する一方で、翌14日に「率軍兵欲襲常胤」した千田判官代親正を千葉庄内で打ち破り、「生虜」とした上で、17日に下総国府(市川市国府台)へ頼朝を迎え入れたと考えられる。

千葉介となる 

 藤原親正捕縛ののち、平氏との戦いで成胤が合戦に参加した具体的な記録はなく、弟の境平次常秀が祖父・常胤とともに西国から九州へと転戦している。

 文治3(1187)年正月12日、「二品并若公」が「御行始」で大蔵御所南門の向かいにあった「八田右衛門尉知家南御門宅」へ入御した(『吾妻鏡』文治三年正月十二日条)。このとき「千葉小太郎役御剣」として従っている。

 文治5(1189)年4月18日、北条時政の三男の元服式が御所西侍で行われたが、頼朝の出座とともに三献が行われ、義時が酌を取ったのち「千葉小太郎成胤」が代わって酌を行った。式次第は当然ながら頼朝の決済をとっていたと考えられ、この成胤の酌は頼朝の意思が反映されたものであろう。次いで時政三男が召され、三浦十郎義連を烏帽子親として元服。義連の「連」を賜り、「北条五郎時連」と称した。のち「時房」と改名、文武に通じ、後鳥羽院にも愛でられた幕府の名臣となる。なお、時房の娘は千葉介時胤に嫁いで千葉介頼胤を生んでおり、頼胤の外祖父にあたる。

 奥州藤原氏との戦いでは、文治5(1189)年8月12日晩景、頼朝は多賀城に到着したが、「海道大将軍千葉介常胤、八田右衛門尉知家等参会、千葉太郎胤正、同次郎師常、同三郎胤盛、同四郎胤信、同五郎胤通、同六郎大夫胤頼、同小太郎成胤、同平次常秀、八田太郎朝重、多気太郎、鹿嶋六郎、真壁六郎等、相具于常胤知家、各渡逢隈湊参上云々」と、成胤は一族ともども多賀城に入っている。その後、奥州藤原氏との戦いでの具体的な活躍は記されないが、多賀城についたのちは、海道軍は解散されて頼朝の直接麾下に入ったようである。8月20日には「さうまの二郎(千葉介常胤次男・師常)」が先陣の一人とされ、8月25日には「千葉六郎大夫胤頼(千葉介常胤六男)」「衣河館」に遣わされ、「前民部少輔基成父子」を捕えている。

 ところが、藤原泰衡の追捕でも奥州は治まらず、すでに冬には「奥州故泰衡郎従大河次郎兼任以下」が「伊予守義経」と号して出羽国海辺庄に出没したり「左馬頭義仲嫡男朝日冠者」と称して出羽国山北郡に出没したりと各地で兵を挙げ、津軽に駐屯していた宇佐美平次実政以下の御家人が討死を遂げるという大敗を喫した。さらに大河次郎の子「嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎」が兵を率いて鎌倉へ向かったとの葛西三郎清重からの報が文治6(1190)年正月6日に鎌倉へと届いた。

 頼朝は正月8日、奥州派兵を決定。北陸道の大将軍だった宇佐美平次実政が討死していたためか、今回は三路ではなく、海道軍と山道軍の二路編成とされ「海道大将軍千葉介常胤、山道比企藤四郎能員」が任じられた。東海道筋の岩崎一族らは「雖不相待常胤、可進先登之由、申請」するほどの士気であったようだが、新恩を目的とした積極姿勢なのであろう。

 ところが、「海道大将軍」と任じられた常胤は出征が急遽取り止めとなったようで、嫡子「千葉新介胤正承一方大将軍」とされた。「一方大将軍」が海道大将軍かは記載されていないが、今回の奥州征討は海道・山道の二路であり、比企能員が改められた形跡はないので、一方の大将軍は必然的に海道大将軍となろう。海道大将軍改任は常胤の急病または、厳冬の奥州へ高齢の常胤を出陣させることを躊躇したためと考えられ、胤正に改めたとみられる。成胤の伝はないが彼は頼朝から「千葉小太郎、今度奥州合戦抽軍忠之間、殊有御感」(『吾妻鏡』文治六年正月十五日条)と賞されており、かつ「但合戦不進于先登兮、可慎身之由」という注意をしていることから、自ら先陣に立って奮戦した様子がうかがえる。北条時連の元服時の抜擢及び先頭での奮戦を戒める心遣いからも、頼朝の信任を一身に受けた若武者の姿が浮かび上がる。これは成胤が父・胤正同様、頼朝に特に気に入られて近習として抜擢されていたためと思われ、建久4(1193)年11月27日の永福寺の薬師堂供養の際に「千葉小太郎成胤」が剣を持って頼朝に従った様子からもうかがえる(『吾妻鏡』建久四年十一月廿七日条)

 その後、しばらく成胤は『吾妻鏡』に登場しないが、いまだ祖父常胤、父胤正が健在であり、主に頼朝の側近として動いていたのだろう。このような中、建久9(1198)年に長男の胤綱が誕生する(『本土寺過去帳』逆算)

 建久10(1199)年正月13日、鎌倉殿頼朝入道が入滅する(『猪隈関白記』)。その報はわずか四日後の正月17日には京都に届いており、その三日後の正月20日、「前将軍去十一日出家、十三日入滅、大略頓病歟、未時許除目、頭権大夫承仰内覧、殿下即参内、可書下由有院宣云々(『明月記』建久十年正月廿日条)と、関白基通に「臨時除目」の内覧を経て大間書の執筆を命じる院宣が下された。そして、「其後隆保朝臣参入、申必定入滅由、飛脚到来云々、除目此事以前之由有沙汰云々(『明月記』建久十年正月廿日条)と、頼朝の従弟にあたる左馬頭源隆保から正式に頼朝入道入滅が報告された。この除目には頼朝嫡子・頼家の任官が含まれているが、除目は報告前だったという体が採られることで、除目自体には問題がないとされたようである。

■建久十年正月二十日臨時除目(『明月記』『業資王記』)

官途 名前 備考1 備考2
右近衞大将 源通親   後鳥羽院別当。同日、右大将頼実が辞状を上表している
左近衞中将 源頼家 関東息 官位は正五位下のまま
少納言 藤原忠明 故中山内府(藤原忠親)息  
内蔵頭 藤原仲経 伯耆守如元 後鳥羽院別当。別当高階経仲の後任
造東大寺長官 藤原資実   後鳥羽院別当。摂政基通家司

 しかし、このことを藤原定家は「今朝早々右大将上表使成定朝臣、少納言忠明、内蔵頭仲経、右近大将通親、中将頼家、造東大寺長官資実、遭喪之人、本官猶以服解、今聞薨由被行任官、頗背人倫之儀歟、春除目以前、臨時除目頗珍事歟、後聞、内覧極僻事也、此除目十四日僧事不内覧(『明月記』建久十年正月廿日条)と記し、本来遭喪の人は服解すべきであるにも拘わらず、いま頼朝薨去の聞が来たのに(頼朝子息頼家の)任官が行われたことは頗る人倫の道に背くことであると強く批判。さらに春除目以前に臨時除目が行われることも極めて珍事であり、関白基通に至っては除目も僧事も内覧しないという言語道断の所行に激怒している。

 この臨時除目は頼朝入道入滅が公表される前に、大納言源通親が主導的立場となって急遽行われたとみられ、本来は春除目後に行われる予定であった臨時除目と、予定になかった頼家の除目を加えて行われたのであろう。この日「右丞相被献辞右近大将之状云々(『猪隈関白記』建久十年正月廿日条)とある通り、右大臣頼実から右近衞大将の辞状が上表され、通親が即日新右近衞大将(兼右馬寮御監)となったが、大将任官は任大臣の布石である(『公卿補任』)。同時に頼家は五位のまま左近衞中将に任じられた(『公卿補任』)。これは摂関家嫡子と同等の「五位中将」の待遇となる。関白兼実を事実上追いやり、当時の朝廷で絶大な権力を持った源通親が、関東との関係重視の姿勢を見せるとともに、頼朝亡き後の諸国の武士の動揺が再乱の発生へとつながることを危惧し、「安穏」の世を担保する公的保障(摂関家に準じる家格と官途)を緊急で与えたものではなかろうか。本来は服喪となるべき頼家を、頼朝の死を隠してまで急ぎ任官させる理由はこの他に考えにくい。

 正治元(1199)年10月28日、関東では梶原景時への弾劾が行われ、その連判の筆頭に祖父「千葉介常胤」が署名、父の「千葉太郎胤正」も署した。従兄弟の「東平太重胤」も署名しているが、成胤の名は見えない(この他に省略されている御家人が二十七名あり、そこに列している可能性はある)。なお、父・胤正はこの記述を最後に『吾妻鏡』から姿を消す。父・胤正の薨伝は『吾妻鏡』にないが、『本土寺過去帳』によれば「建仁二年壬戌七月」(『本土寺過去帳』七日上段)に卒去したという。これは祖父の「千葉介常胤」が建仁元(1201)年3月24日に八十四歳で卒去(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)した翌年である。祖父の常胤が晩年まで出家せず「千葉介」として家督にあったことは、成胤を祖とする千葉介家と、常胤が寵した成胤弟・平次常秀を祖とする千葉上総介家との微妙な関係の原因となった可能性があろう。常胤は境平次常秀を好んで同道し、軍功による任官も常秀に譲りを与えている一方で、成胤との接点がほぼみられない。ただし、成胤と常秀は対立しておらず、成胤は父胤正の惣領職を継承し、千葉介となった。

新鎌倉殿頼家 

 左中将頼家のはじめての袖判下文は、正月25日に下された「播磨国五箇庄住人」の「左衛門尉藤原朝政(小山朝政)」ならびに、「播磨国福井庄住人」の「藤原経兼(吉河経兼)」を当地の地頭職に補任するものである(正治二年正月廿五日「源頼家下文」『松平基則氏所蔵文書』、正治二年正月廿五日「源頼家下文案」『周防吉川家文書』)。政所が置けないため、故頼朝同様の袖判下文となっている可能性があろう。続けて11月9日には「美濃国大榑庄住人」の「藤原宗政(長沼宗政)」に「如元地頭職」を安堵している(正治二年十一月九日「源頼家袖判下文」『下野皆川文書』)

 翌正月26日、朝廷は左中将頼家に「続征夷将軍源朝臣遺跡」と「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」の宣旨を下した(『吾妻鏡』建久十年二月六日条)。これは頼朝入道入滅に伴う正月20日の緊急措置(臨時除目)に続く、頼家の鎌倉家継承を宣旨によって公認するものであった。この宣旨は2月6日に鎌倉に到着し、同日「吉書始」が行われた(『吾妻鏡』建久十年二月六日条)「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」、つまり「鎌倉殿」の正式な継承であり、頼朝の死から二十日を経ない時期ではあったが、綸旨が到来したために内々に執り行われたという(『吾妻鏡』建久十年二月六日条)

 吉書始に際しては、北條四郎時政を筆頭に、兵庫頭広元、三浦介義澄、前大和守光行、中宮大夫属入道善信、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、梶原平三景時、藤民部丞行光、平民部丞盛時、右京進仲業、文章生宣衡が「政所」に列し、仲業が清書した吉書(武蔵国海月郡に関する下文)を広元が寝殿の頼家のもとへ持参した。彼らはいずれも鎌倉家の家政機関(政所、侍所)に関わる家職や奉行人とみられる。ただし、正五位下の左中将頼家には政所開設の権利はなく、旧政所でこれまで同様に家政の実務処理は行われたとみられるが、公的には家職(肩書はない)や後見の時政が安堵や狼藉停止などの下知状を下す形となっていた。

●建久十年二月六日吉書始

  家職 家政機関
北條殿 御後見 なし
兵庫頭廣元朝臣 (別当) (政所別当)、公事奉行人か
三浦介義澄    
前大和守光行朝臣    
中宮大夫属入道善信   問注所執事、公事奉行人か
八田右衛門尉知家    
和田左衛門尉義盛   (侍所別当ではないが侍所の序列は景時の上位)
比企右衛門尉能員    
梶原平三景時   侍別当
藤民部丞行光   公事奉行人か
平民部丞盛時   公事奉行人か
右京進中原仲業   公事奉行人か
文章生三善宣衡   公事奉行人か

 北條時政が最前にいるものの、吉書を御前へ持参したのは中原広元であることから、正五位下という上臈の広元が筆頭家職であり、政所(公文所か)別当を兼ねていたことがわかる。この時点では「北條殿」は鎌倉家の家政に直接携わってはいなかったそのほかの人々はいずれも鎌倉家の旧家司及び奉行人等とみられ、鎌倉家家政機関を担う中枢の人々であった。そして、これまでは「家子(血縁者)」という位置づけで、「家人郎従(御家人、侍)」でも源氏「門葉」でもなく、頼朝と私的な関係を有した北條時政が、頼朝薨去に伴って新たな「鎌倉殿」を後見する立場として、鎌倉家に公的に関わることになったのだろう。

 広元は鎌倉家の家職筆頭であり、本来であれば無位無官の時政が家政に介入するなど想定だに及ばないが、時政は故右大将頼朝の岳父として頼朝亡き後の鎌倉の混乱を抑え得る存在として抜群であり、尼御台からの要請によりまだ若い鎌倉殿頼家の「御後見」を受けた可能性が高いだろう。それほど当時の鎌倉は動揺した状況にあったと考えられる。そして、頼朝薨去後最初の正治2(1200)年正月1日埦飯は「北條殿被献」じた(『吾妻鏡』正治二年正月一日条)。これは新鎌倉殿の就任による体制の変化によるものである。

 これまで元日埦飯は、記録が残っている年は建久6(1195)年を除きすべて千葉介常胤が行っており、建久6(1195)年元日埦飯のみ「上総前司義兼」であった(『吾妻鏡』建久六年正月一日条)。その後の記録からも推察できるように、記録がない年も元日は千葉介常胤または足利義兼が元日埦飯を奉行したと考えられよう。

●正月埦飯の献上(御家人・門葉家司・御後見・奉行人(推測含む)

埦飯 1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日
家司等
治承年5
(1181)
元日埦飯 千葉介常胤 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
養和2年
(1182)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
寿永2年
(1183)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
寿永3年
(1184)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
元暦2年
(1185)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
文治2年
(1186)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
文治3年
(1187)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
文治4年
(1188)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 足利義兼 不明 不明 不明
文治5年
(1189)
元日埦飯 不明 不明 (如例) 不明 不明 不明 不明 不明
文治6年
(1190)
元日埦飯 埦飯あり 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
建久2年
(1191)
元日埦飯 千葉介常胤 三浦介義澄 小山朝政 不明 宇都宮朝綱 不明 不明 不明
建久3年
(1192)
元日埦飯 埦飯あり 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :前因幡守中原朝臣(中原広元)
    前下総守源朝臣(源邦業)【12月頃辞任か】
    散位中原朝臣(中原久経)【7月頃辞任か】
令  :民部少丞藤原(二階堂行政)【12月以降別当へ】
知家事:中原(中原光家)
案主 :藤井(鎌田俊長)
建久4年
(1193)
元日埦飯 千葉介常胤 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :前因幡守中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久5年
(1194)
元日埦飯 埦飯あり 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :前因幡守中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久6
(1195)年
元日埦飯 足利義兼 千葉介常胤 小山朝政 (甘縄亭) 不明 不明 不明 不明
家司 前因幡守中原
民部丞藤原
平朝臣
建久7年
(1196)
元日埦飯 (闕)
家司 別当 :兵庫頭中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久8年
(1197)
元日埦飯 (闕)
家司 別当 :兵庫頭中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久9年
(1198)
元日埦飯 (闕)
家司 別当 :兵庫頭中原朝臣(中原広元)
令  :前掃部允惟宗
知家事:中原(中原光家)
案主 :不明
建久10年
(1199)
元日埦飯 (闕)
家司 【正月13日、源頼朝入道入滅】
別当?:散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :左兵衛尉藤原(二階堂行光)
知家事:越中大丞大江
案主 :清原(清原実成)
正治2年
(1200)
元日埦飯 北条時政 千葉介常胤 三浦介義澄
(20日後薨)
中原広元 八田知家 大内惟義 小山朝政 結城朝光
(家職) 【北條時政、4月1日遠江守補任】
不明
建仁元年
(1201)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 不明
建仁2年
(1202)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 【源頼家、正月23日、正三位】
不明
建仁3年
(1203)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :遠州(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条
    前大膳大夫中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :左兵衛少尉藤原(二階堂行光)
知家事:不明
案主 :清原(清原実成)
建仁4年
(1204)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 【源実朝、3月6日右近衛少将補任、同日北條義時、相模守補任】
遠江守(北條時政)
前大膳大夫中原朝臣(中原広元)
右(左)衛門尉平(和田義盛?)
前右京進中原(中原仲業)
清原(清原実成)
元久2年
(1205)
元日埦飯 北条時政 不明 千葉介成胤 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 遠江守(北條時政)【閏7月19日失脚】⇒北條義時が継承するか
前大膳大夫中原朝臣(中原広元)
右(左)衛門尉平(和田義盛?)
前右京進中原(中原仲業)
清原(清原実成)
元久3年
(1206)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 《御後見》相模守(北條義時)
散位大江朝臣
書博士中原朝臣(中原師俊)
散位藤原朝臣(二階堂行政)
民部丞中原(中原仲業)
惟宗(惟宗孝実)
建永2年
(1207)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 《御後見》相模守(北條義時)
書博士中原朝臣(中原師俊)
散位藤原朝臣(二階堂行政)
散位中原朝臣(中原仲業)
前図書允清原(清原清定)
惟宗(惟宗孝実)
承元2年
(1208)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 不明
承元3年
(1209)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 【源実朝、4月10日従三位、5月26日右中将。6月16日時点では家司・政所未設置】
相模守(北條義時)
書博士中原朝臣(中原師俊)
散位藤原朝臣(二階堂行政)
散位中原朝臣(中原仲業)
前図書允清原(清原清定)
惟宗(惟宗孝実)
家司 【源実朝、4月10日従三位、5月26日右中将。7月27日時点では家司・政所設置済】
(承元3年7月28日『将軍家政所下文』)
別当 :書博士中原朝臣(中原師俊)
    右近衛将監源朝臣(源親広)
    駿河守平朝臣(不明)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原(清原実成)
(承元3年12月11日『将軍家政所下文』)
別当 :相模守(北條義時)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
令  :前図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原家司
承元4年
(1210)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
    右近衛将監源朝臣(源親広)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原(清原実成)
承元5年
(1210)
元日埦飯 北条義時 中原広元 小山朝政 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    左近衛将監兼遠江守源朝臣(源親広)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原(清原実成)
建暦2年
(1212)
元日埦飯 北条義時 中原広元 小山朝政 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    左近衛将監兼遠江守源朝臣(源親広)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :菅野(矢野景盛)
建暦3年
(1213)
元日埦飯 中原広元 北条義時 小山朝政 和田義盛 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    遠江守源朝臣(源親広)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
令  :図書少允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :菅野(矢野景盛)

 このように、頼朝生存中は「源頼朝」と「家人郎従(御家人)」の個人関係と「鎌倉家」家政機関を通じた公的支配関係の混在があり、埦飯は古い慣例を踏襲したものであった。しかし、頼朝薨去後は頼朝という絶対的存在を失って動揺する「家人郎従」を抑え、安定した「家人郎従」支配及び諸国の治安維持(「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」)を行うために、故頼朝と「家人郎従」の個人的関係をできる限り排除し、強力な家政機関による支配体制の確立が必要だったのであろう。家政機関による支配体制を急ぎ主導したのは、尼御台や北條時政、中原広元、藤原行政らとみられるが、この結果が北條時政による元日埦飯と考えられよう。なお、これは決して北條氏の示威や権限強化のためではなく、必要に迫られて行った家政機関支配強化の結果が、北條氏による権限集中へ繋がったと考えるのが妥当であろう。

 そして、その三か月後の正治2(1200)年4月1日の臨時除目で北条時政は叙爵及び遠江守へ補任され、4月9日「北条殿去一日、任遠江州守、叙従五位下給、彼除書今日到来」(『吾妻鏡』正治二年四月九日条)した。時政六十三歳(『吾妻鏡』正治二年四月九日条、「将軍執権次第」『群書類従三 補任部』)。鎌倉家政所は、北条時政を准摂家の家格である鎌倉家の「御後見」として、家職に准じた官途を朝廷に奏上し、認められたものであろう。遠江国は当時関東御分国ではないが、兵庫頭広元(前因幡守)、散位行政(のち山城守)がみられるように、鎌倉家家司は御分国「以外」の受領となる傾向があるようである。なお、北条義時も元久元(1204)年3月6日、「任相模守、同日叙従五位下」(『武家年代記』)と受領となっているが、これは実朝の「元久元年三月六日、任右近衛少将」(『将軍次第』)と同日の補任であり、実朝の右少将吹挙とともに希望されたものである。そして、当時の相模国も伊豆国とともに関東御分国から外れており(『吾妻鏡』建仁三年十一月十九日条)義時もまた関東御分国外からの受領補任であった。また、一月後の4月13日の臨時除目では「左馬権助政憲平時政子、実宣中将妻兄弟、近代英雄也」「山城藤行政」「伊賀源義成朝雅給」「正五位下惟義大内、源季国、源光行鎌倉、近日蔵人頭云々(『明月記』元久元年四月十三日条)しており、家令の散位藤原行政が山城守に任じられている。

■関東に関する臨時除目等

除目 補任 叙位 名前 備考1 出典
建久10(1199)年
正月20日
左近衛中将 (正五位下) 源頼家 「関東息」
※正月13日、頼朝薨去
『明月記』
建久10(1199)年
正月26日
    源頼家 「続征夷将軍源朝臣遺跡」
「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」
の宣旨が下される
『吾妻鏡』
正治2(1200)年
正月5日
  従四位上 源頼家 「左中将頼家禁色」(『明月記』)
※『吾妻鏡』では聴禁色は正月8日とされる
『明月記』
正治2(1200)年
4月1日
遠江守 従五位下 北條時政 4月9日、関東に除書到着 『吾妻鏡』
建仁3(1203)年
9月7日
征夷大将軍 従五位下 源実朝 「名字実朝云々、自院被定」 『猪隈関白記』
建仁3(1203)年
9月15日
    源実朝 関東に
「為関東長者」
「被下従五位下位記并征夷大将軍宣旨」が到着
『吾妻鏡』
元久元(1204)年
3月6日
右近衞少将   源実朝 建仁3(1203)年9月7日、叙従五位下(征夷大将軍) 『将軍次第』
    〃 相模守 従五位下 北条義時   『武家年代記』
元久元(1204)年
4月13日
左馬権助   政憲
(北條政範)
「平時政子、実宣中将妻兄弟」 『明月記』
    〃 山城守   藤行政
(二階堂行政)
鎌倉家家令(政所執事か?) 『明月記』
    〃 伊賀守   源義成 「朝雅給」 『明月記』
    〃   正五位下 惟義
(大内惟義)
  『明月記』
    〃   正五位下 源季国   『明月記』
    〃   正五位下 源光行   『明月記』

 このような中、建仁3(1203)年7月21日、「頼家左衛門督時二十二、病ヲ受ケキ、此人多死霊故ニヤ(『保暦間記』)とあり、その後も「将軍家御不例、太辛苦」(『吾妻鏡』建仁三年八月七日条)という。直接関わりがあるのかは不明だが、3月9日夜戌刻、「将軍家俄御病悩」という事件が起こっている(『吾妻鏡』建仁三年三月十日条)。頼家の夢見で「而依有御夢想之告、駿河国方上御厨止地頭武田五郎信光所務、寄附太神宮領」といい(『吾妻鏡』建仁三年三月十日条)、翌10日に「広元朝臣奉行之」が執り行われている。

 頼家は「頼家ガヤミフシタルヲバ、自元広元ガモトニテ病セテ、ソレニスヱテケリ」(『愚管抄』)とあるように、別当広元邸で倒れ、そのまま広元邸に置かれたと読むことができる。頼家の体調は悪化の一途をたどっており、頼家は「大方人望ニモ背ケルカ、病気次第ニ難儀」(『保暦間記』)となり、8月24日夜には後鳥羽院のもとに「世間有大事」(『明月記』建仁三年八月廿五日条)の報告が届いている。翌25日夜には九条兼実のもとより「光親御使参入」し「左衛門督頼家卿重病、前後不覚之聞」(『明月記』建仁三年八月廿五日条)という話を聞いている。こうした中、病床の頼家は「大事ノ病ヲウケテ、スデニ死ントシケル」中で、「比企ノ判官能員阿波国ノ者也ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセ」た嫡男の「一万御前」「皆家ヲ引ウツシテ、能員ガ世ニテアラントシテシケル由」を語ったという(『愚管抄』)。これを「母方ノヲヂ北条時政遠江守ニ成テアリケルガ聞」き、時政は「頼家ガヲトゝ千万御前トテ、頼朝モ愛子ニテアリシ、ソレコソト思」ったという(『愚管抄』)

 その結果か、8月27日には「遺跡ヲ長子一万御前譲、坂ヨリ西三十八ケ国、舎弟千万御前被譲畢」(『保暦間記』)という。千幡(のち実朝)に譲られる「関西三十八箇国地頭職」以外の「関東二十八箇国地頭惣守護職」については「被充御長子一幡君六歳」とされたという(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)。表向きは頼家の譲りにより分割相続された形だが、その実は「御後見」時政の働きによって先回りして阻止され、頼家の「皆家ヲ引ウツシテ」一幡御前へ継承させるという希望は叶わなかった。病床の頼家はこれらの事を何一つ伝えられていなかったとみられ、「頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦日ニカウニテ出家シテ、広元ガモトニスエタル」(『愚管抄』)と、広元邸で療養していたという。広元邸は大蔵御所から東に2kmも入った十二所の邸か。ここは喧噪から離れた山間であることから鎌倉市中の騒擾は聞こえない。そして頼家は広元邸で8月30日二更に出家。「出家ノ後ハ、一万御前ノ世ニ成ヌトテ、皆中ヨクテ、カクシナサルベシトモ思ハデ有ケル」(『愚管抄』)という、穏やかな一幡御前への鎌倉家継承を想像していたとされる(『愚管抄』)

 ただし、9月1日には「将軍家御病悩事、祈療共如無其験、依之鎌倉中太物騒、国々御家人等競参、人々所相謂家督姪戚等不和儀出来歟、関東安否蓋斯時也」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)といい、鎌倉中には、頼家の容態は祈祷も医療もその甲斐なしと伝わっており(『愚管抄』によればこの頃から快方に向かったというが、この記述は出家の功験という印象が強く、実際は不明)、鎌倉には御家人等が馳せ付けて騒がしい状況になっていたようである。人々は北條時政と比企能員との不和が起こっているのではないかと噂したという。

 そして、おそらく同9月1日、鎌倉から「頼家、去朔日薨去之由」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)を知らせる使者が発ったとみられる。頼家の快復は不可能であると見越し、新たな「継家」(『明月記』建仁三年九月七日条)を「宣旨」によって確定させるべく、頼家を亡くなったものとして奏上したのである。なお、8月27日の分割相続の取決(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)については、

関東二十八箇国地頭
惣守護職
(鎌倉殿) 一幡
関西三十八箇国地頭職   千幡

というものであったが、実際に奏上された「継家(『明月記』建仁三年九月七日条)は、これを無視した「頼家卿一臈舎弟童年十二(『猪隈関白記』検印二年九月七日条)であった。

 以下は『吾妻鏡』の記事による、比企能員と北条時政との確執である。

 比企能員は、分割相続の沙汰について「家督御外祖比企判官能員、潜憤怒譲補于舎弟事、募外戚之権威、挿独歩志之間、企叛逆擬奉謀千幡君彼外家已下」と、分割相続に不満を持ち、千幡と北条家の追捕を企てたという(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)。そして9月2日朝、このことを「以息女将軍家妾、若君母儀也、元号若狭局、訴申」た。能員は「北條殿、偏可追討由也、凡家督外、於被相分地頭職、威権分于二、挑争之條不可疑之、為子為弟、雖似静謐御計、還所招乱国基也、遠州一族被存者、被奪家督世之事、又以無異儀」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)と主張し、これを若狭局から伝え聞いた頼家は「驚而招能員於病床、令談合給、追討之儀且及許諾」という(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)

 ただし、『吾妻鏡』においては「将軍家御病痾少減、憖以保寿算給」たのは9月5日とされ(『吾妻鏡』建仁三年九月五日条)、9月2日に比企能員と対面して時政討伐を命じることは想定しづらいという同書内での矛盾があり、疑問がある。

 この陰謀は「而尼御台所、隔障子潜令伺聞此密事給、為被告申、以女房被奉尋遠州」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)という。なお、母御台所は病床の広元邸に詰めていたか通っていたかは不明だが『愚管抄』を見る限りでは頼家近くにいたようで、後日、頼家が子息一幡が討たれた噂を聞いて臥所から立ち上がった際に縋り付いて押し留めている(『愚管抄』)

 比企能員の訴えと頼家からの時政追討令を隠れ聞いた尼御台は、営中の時政に女房を遣わしたが、時政はすでに「為修仏事、已帰名越給之由」であったため、尼御台は「雖非委細之趣、聊載此子細於御書、付美女被進之」て、時政に届けさせている。これを受けた時政は「遠州下馬拝見之、頗落涙、更乗馬之後、止駕暫有思案等之気、遂廻轡、渡御于大膳大夫広元朝臣亭、亭主奉相逢之」った。時政は中原広元に「近年、能員振威、蔑如諸人條、世之所知也、剩将軍病疾之今、窺惘然之期、掠而称将命、欲企逆謀之由、慥聞于告、此上先可征之歟、如何者」と問うている。しかし、広元は「幕下将軍御時以降、有扶政道之号、於兵法者不弁是非、誅戮否、宜有賢慮」と明確な返答を避けた(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)。なお、この広元邸は御所近辺にあったであろう屋敷(政所からも御所からも至近の宝戒寺―旧得宗邸跡―辺りか)で、遠い十二所の屋敷ではないだろう。

 こののち、時政は「即起座給、天野民部入道蓮景、新田四郎忠常等為御共」し、絵柄天神社前で馬を停めると、両名に「能員依企謀叛、今日可追伐、各可為討手者」と命じた。これに天野遠景入道は「不能発軍兵、召寄御前可被誅之、彼老翁有何事之哉者」と述べた(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)

 時政は名越邸に帰還したのち、「此事猶有儀、重為談合」と先ほど語らった中原広元を招いた。広元は「雖有思慮之気、憖以欲参向」と、気乗りしないながらも名越邸へ向かうことにした。明確な返答を避けたことで計画の発覚を恐れた時政の姦計を疑ったのである。広元の危機を感じた「家人等多以進従」して護衛につかんとするも、広元は「存念あり」として留め、ただ飯富源太宗長のみを供とした。飯富宗長は御家人であるが広元の御内人でもあったか。広元は名越へ向かう路次、「世上之為躰、尤可怖畏歟、於重事者今朝被凝細碎評議訖、而又恩喚之條太難得其意、若有不慮事者、汝先可害予者」と秘かに宗長に述べている。何かあればまず広元を斬るよう命じたのである。飯富宗長はこの広元の命を守り、名越邸での広元の時政との会談の最中、広元の後ろに控えて座を去ることはなかったという。

 しかし、午の刻、広元は無事に名越邸を退出した。会談の内容は伝わらないが、御後見である時政も別当広元の了解を取り付ける必要を感じたのではなかろうか。その後、時政は「於此御亭、令供養薬師如来像日来奉造之給、葉上律師為導師、尼御御台為御結縁、可有入御」として、御内人とみられる工藤五郎を比企邸に派遣し「依宿願、有仏像供養之儀、御来臨、可被聴聞歟、且又以次可談雑事者、早申可予参之由」を伝えたという。

 比企邸では工藤五郎の退出後、能員の子息や親類らが集まって能員を諫めて「日来非無計儀事、若依有風聞之旨、予専使歟、無左右不可被参向、縦雖可被参、令家子郎従等、着甲冑帯弓矢可被相従」と述べたという。しかし能員は「如然之行粧、敢非警固之備、謬可成人疑之因也、当時能員猶召具甲冑兵士者、鎌倉中諸人皆可遽騒、其事不可然、且為仏事結縁、且就御讓補等事有可被仰合事哉、急可参」と言って、名越邸に向かったという。

 一方、名越邸では時政は甲冑を着込んで臨戦態勢となっており、弓の名手である中野四郎、市川別当五郎に弓箭を帯びさせて「両方小門」に配置。天野遠景入道と仁田四郎忠常両名は「着腹巻、搆于西南脇戸内」えた。

比企館
比企館跡(比企谷妙本寺)

 ここに比企能員は武装もなく黒馬に「着平礼白水于葛袴」という姿で名越邸を訪れた。従うのは郎等二人、雑色五人のみであった。能員は名越邸の惣門を入ると、廊に昇って沓を脱ぎ、妻戸を通って北面(北殿)へ参じようとしたとき、天野遠景入道と仁田忠常の両名が南殿と北殿との境にあった脇戸内から現れて比企能員の両腕を取り、そのまま庭の竹林に引き据えて殺害したという。能員の享年不明。

以上、『吾妻鏡』に見る比企能員殺害までの顛末である。なお、 『愚管抄』では「能員ヲヨビトリテ、ヤガテ遠景入道ニシメイダカセテ、日田四郎ニサシ殺サセ」たとあり(『愚管抄』)、能員を呼び、天野遠景入道と仁田忠常がこれを殺害したという話は事実のようである。

 名越邸の宿蘆で主人比企能員の暗殺を知った「廷尉僮僕」は、事の次第を比企邸に伝えると「仍彼一族郎従等、引籠一幡君御館号小御所謀叛」した。これを受けて、未三刻(午後三時)、尼御台の命により比企氏追討の命が発せられ、「被差遣軍兵」た。追討に加わったのは江間義時、三浦義村、和田義盛ら二十一名の有力御家人である。

●『吾妻鏡』建仁3(1203)年9月2日条

―比企家追討軍―

江間四郎義時 江間太郎頼時 平賀武蔵守朝雅 小山左衛門尉朝政 長沼太郎宗政 結城七郎朝光
畠山次郎重忠 榛谷四郎重朝 三浦平六兵衛尉義村 和田左衛門尉義盛 和田兵衛尉常盛 和田小四郎景長
土肥先次郎惟光 後藤左衛門尉信康 所右衛門尉朝光 尾藤次郎知景 工藤小次郎行光 金窪太郎行親
加藤次郎景廉 加藤太郎景朝 仁田四郎忠常      

―比企家籠館軍―

中山五郎為重
(能員婿)
糟谷藤太兵衛尉有季
(能員婿)
比企余一兵衛 小笠原弥太郎
(小笠原長経)
中野五郎
(中野五郎能成)
細野四郎兵衛尉

 しかし、比企家側の抵抗は激しく、加藤景廉、尾藤知景、和田景長は負傷。郎党も傷を被って軍勢を引き上げている。彼らに代わって畠山重忠が攻め込み、笠原十郎左衛門尉親景の軍勢を破ると、親景は比企邸に駆け込んで放火。比企谷の館に「籠リタル程ノ郎等ノハヂアルハ出ザリケレバ、皆ウチ殺テケリ」(『愚管抄』)という。能員婿の「カスヤ有末ヲバ由ナシ、出セヨゝゝゝト、敵モヲシミテ云ケルヲ、ツイニ出ズシテ、敵八人トリテ打死シケルヲゾ、人ハナノメナラズヲシミケル」(『愚管抄』)といい、「ムコノ兒玉党ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレ」(『愚管抄』)、戦場から引き上げてきた河原田次郎中山為重らは一幡の前で自刃したという。女姿となって逃れ出ていた能員の子・余一兵衛は加藤景廉の郎党に捕らえられて殺害され、夜になって能員の舅・渋河刑部丞兼忠も誅殺され、比企一族は滅亡したという。そして「若君、同不免此殃給」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)という。なお、比企氏の血統は絶えたわけではなく、「妻妾二歳男子等者、依有好、召預和田左衛門尉義盛、配安房国」(『吾妻鏡』建仁三年九月三日条)とみえ、能員の二歳の男子は救われて和田義盛に預けられ、安房国に流されている。この二歳の子が「比企大学三郎能本」となり、のちに出家して日蓮に帰依し「妙本」と号する。その子孫と思われるが、「比企弥太郎」(文和三年十一月十八日「足利基氏御教書」『榊原家所蔵文書』)という人物がかつて武蔵国鴨志田郷内を知行しており、その跡は久下千代丸が領知を主張していたが、恩田左近将監と争っていたことから、足利基氏が「前安芸守」にその召還を命じ、「前安芸守」は「村岡藤内兵衛入道」にその沙汰を指示している。

 『愚管抄』では、時政は比企亭を攻めた直後、「ヤガテ武士ヲヤリテ、頼家ガヤミフシタルヲバ自元広元ガモトニテ病セテ、ソレニスヱテケリ、サテ本躰ノ家ニナラヒテ、子ノ一万御前ガアル人ヤリテウタントシケレバ、母イダキテ小門ヨリ出ニケリ」(『愚管抄』)という。比企谷の小御所(頼家の急病後、御所女房の母若狭局とともに移されたか)の一幡御前を討つべく人を差し遣わしたが、母の若狭局が小門より抱いて脱出したとする。

 別説では「頼家卿子息年六歳云々、并検非違使能員件能員頼家卿子息祖父也、為今大将軍実朝、去二日被撃云々、後聞、頼家卿子息不被撃云々、於能員者撃了」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)とあり、京都においていまだ情報が錯綜している中での情報だが、討たれたとも討たれていないとも伝わっている。このほか「比企判官藤原能員一幡御前外祖、遠江守時政千万御前外祖ヲ打、天下ノ世務ヲ一人シ而相計ラハントスル、此事聞エテ、九月二日能員ヲ時政ノ宿所ヘタハカリ寄テ能員ヲ差殺畢、同六日、一万御前能員子息宗朝以下、小御所ニ籠テ合戦ス、義時、義村、朝政等ヲ以テ大将トシテ、数万騎ノ軍勢ヲ差遣シテ、能員一族悉打畢、剰一万御前サヘ御所ニ火ヲ懸ケレハ焼死シ給フ、是ヲ小御所ノ戦ト申ス」(『保暦間記』)とあるが、時政による能員殺害四日後の9月6日に合戦が起こり、一幡は焼死したとある。『明月記』でも9月7日には「左兵衛督頼家卿薨、遺跡郎従争権、其子六歳或四歳、外祖為遠江国司時政金吾外祖被討」(『明月記』建仁三年九月七日条)とあり、いずれも一幡の死を伝えている。

 頼家は8月30日深夜の出家後「スナハチヨリ病ハヨロシク成タリケル」(『愚管抄』)と、快方に向かったが、9月2日に聞いた「カク一万御前ヲウツト聞テ、コハイカニト云テ、カタハラナル太刀ヲトリテフト立ケレバ、病ノナゴリ誠ニハカナハヌニ、母ノ尼モトリツキナドシテ、ヤガテ守リテ修禅寺ニヲシコメテケリ、悲シキ事ナリ」(『愚管抄』)という。

妙本寺
比企一族の墓(比企谷妙本寺)

 翌9月3日、小御所の焼け跡に「大輔房源性鞠足、欲奉拾故一幡君遺骨」(『吾妻鏡』建仁三年九月三日条)した。そこには「所焼之死骸、若干相交而無所求」という惨状がそのまま遺されていたが、御乳母が言うには一幡御前は「最後令着染付小袖給、其文菊枝也」という装束だったという。そこに見つけた「或死骸、右脇下小袖僅一寸余焦残、菊文詳也」という。源性は「仍以之知之奉拾了、源性懸頚、進発高野山、可奉納奥院」という。詳細なかつ源性という具体的な第三者を入れての記録であることから、真実性は高いとみるべきだろう。おそらく一幡は小御所合戦の余で「若君、同不免此殃給」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)という『吾妻鏡』の記述が真相だろう。

 なお、一幡について、『愚管抄』においては、小御所合戦後「ソノ年ノ十一月三日、終ニ一万若ヲバ義時トリテヲキテ、藤馬ト云郎等ニサシコロサセテウヅミテケリ」(『愚管抄』)と、北条義時邸に預けられたのち、二か月を経た11月3日に「藤馬」という郎等に刺殺させて埋葬されたと見える。これを用いたとみられる『武家年代記』においては「十一月三日、義時遣藤馬允誅一万公了」(『武家年代記』)とある。「藤馬」が「藤馬允」となっているが、両者ともに義時郎党で馬寮出仕の経歴者を指しているのであろう。ただ、11月3日はすでに新鎌倉殿実朝の世で比企氏余党の追討も過去のものとなり、父の頼家入道もすでに伊豆国修禅寺へ移されており、この儀に及び敢えて一幡を討つ必要性は考えにくい(一幡以外の頼家庶子にもとくに影響は及んでいない)。さらに傍証も皆無であり『愚管抄』の記述には疑問がある。また、その後も頼家は9月10日に「頼家入道ヲバ、伊豆ノ修禅寺云山中ナル堂ヘヲシコメテケリ」(『愚管抄』)とみえるが、『吾妻鏡』では9月29日に鎌倉を出立したとある。この近辺の『吾妻鏡』の記述には北条氏にとって不都合なものはなく、敢えて事実を枉げて記す必要はないことから、具体性かつ詳細に記載される『吾妻鏡』の記述に信を置くべきか

 9月4日、頼家の近習で「恃外祖之威、日来与能員成骨肉之眤」「小笠原弥太郎、中野五郎、細野兵衛尉等」を捕らえた(『吾妻鏡』建仁三年九月四日条)。彼らはいずれも信濃国の御家人であり、信濃守護比企能員との関係を深めながら頼家に出仕していた人々だったとみられる。比企谷の合戦で「相伴廷尉子息等」しており、「比企判官能員残党」(『吾妻鏡』建仁三年九月十九日条)としての捕縛であった。ところが、「信濃国住人中野五郎」についてはこの日、時政によって「可令安堵本所之状如件」(建仁三年九月四日「北條時政下文」『出羽市河文書』「鎌倉遺文」1378号)という下文を与えられている上、9月23日「藤原能成(中野五郎能成)」が「信濃国春近領志久見郷地頭職」「如本可為彼職」を安堵されている(建仁三年九月廿三日「北條時政下文」『出羽市河文書』「鎌倉遺文」1381号)。この春近領は「抑依能員非法、難安堵之由依聞食、於得分者、所被免也」もので、時政が「依鎌倉(殿)仰」とする「然者成安堵思、可致官仕忠」の下文を与えている。「能」の字に見るように、もともとは比企能員の信任深い人物だったとみられるが、その後比企能員と所領を巡る遺恨が生まれ、北條時政に通じたと思われる。また、遠く九州に赴任中であった「嶋津左衛門尉忠久」も「被収公大隅、薩摩、日向等国守護職」した島津忠久は比企尼長女の御所女房丹後局(藤九郎盛長室の「丹後内侍」とはまったくの別人)を母としており、能員の義甥であったための連座である。この比企判官与党追捕の動きは京都にも発せられており、「其所従等於京家々追捕磨滅」(『明月記』建仁三年九月七日条)という。

 なお、『吾妻鏡』では9月5日、病が小康状態となった頼家は、比企一族および一幡が北条時政によって討たれたことを聞き、近習の堀藤次親家を使者として、内密に和田左衛門尉義盛と仁田四郎忠常に時政の殺害を命じたという。頼家はこの知らせを受けた和田義盛は書状を時政に提出したことで陰謀が発覚。堀親家は捕らえられて工藤行光に殺害された(『吾妻鏡』建仁三年九月五日条)。堀親家も工藤行光も頼朝挙兵に加わった伊豆の武士で最古参の御家人であった。

 翌9月6日晩、時政は仁田四郎忠常を名越邸に召した。「為被行能員追討之賞」(『吾妻鏡』建久三年九月六日条)という名目である。本来、恩賞行為は政所において詮議され行われるものであるが、忠常は比企能員を討つにあたり天野遠景入道とともに時政に随従して名越邸に詰めるなどた記述があることから、時政家人(鎌倉家御家人の身分はそのまま)となっていた可能性もある。頼家が時政の追討に仁田忠常を選んだのは、忠常が頼家の無二の近習で一幡の乳母夫であるという、頼家派である一方で時政家人でもあるという被官関係があったのかもしれない。

 『吾妻鏡』によれば、忠常が深夜に及んでも名越邸から退出しなかったことを訝しんだ忠常の舎人は、忠常の馬を曳いて名越邸を後にして帰宅、事の次第を忠常の弟、五郎と六郎に告げたという。彼らは「而可奉追討遠州之由、将軍家被仰合忠常事、令漏脱之間、已被罪科歟之由」と推測。すぐさま兵を挙げると「江馬殿(義時亭)」へ馳せ向かった。折節、義時は「被候大御所幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御坐」していたが、仁田五郎らが大御所に矢を放ってきたため、義時は「令御家人等防御給」(『吾妻鏡』建久三年九月六日条)、その間に仁田五郎は馳せ付けた「波多野次郎忠綱」に討たれた。また、弟の六郎は大御所の台所に放火して自殺している。この煙を見た御家人らは大御所に馳せ集ったという。この頃忠常は何事もなく名越邸を出たが、馬も舎人もおらず困惑したであろう。そのまま家に向かうが、途中で騒乱の次第を聞いたという。陰謀の発覚を察した忠常は、「則称可棄命、参御所」ったところを、加藤次景廉によって討たれたという。堀藤次親家追捕の翌日の事件であることから、時政による頼家派粛清の策謀のひとつであろう。なお、『愚管抄』においては、9月5日、「頼家ガコトナル近習ノ者」である「日田四郎」が「頼家ガ家ノ侍ノ西東ナルニ、義時ト二人アリケルガ、ヨキタタカイシテウタレニケリ」(『愚管抄』)といい、御所侍所に北条義時と仁田忠常二人が出仕した際、義時によって殺害されたという。

 9月7日、頼家は「将軍家令落飾給、御病悩之上、治家門給事、始終尤危之故、尼御台所依被計仰、不意如此」(『吾妻鏡』建仁三年九月七日条)とあり、頼家は病のため落飾したという。『公卿補任』においても九月七日の出家と記される。ただし、『愚管抄』においては「頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦日ニカウニテ出家シテ、広元ガモトニスエタル」(『愚管抄』)とあり、危篤状態の8月30日深夜に出家したと伝わっている。いずれが真かは定めようもないが、『愚管抄』においては、この出家により快方に向かったという得度の功力を含ませており、やや疑いがあるか。

 同9月7日、京都においては「関東征夷大将軍従二位行左衛門督源朝臣頼家、去朔日薨去之由、今朝申院」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)とあり、この日、右大臣家実が後鳥羽院より報告を受けたことがわかる。この薨伝は9月1日または2日頃に関東を発した頼家薨去(実際は薨じていないが、「将軍家御病悩事、祈療共如無其験」という状況のもとで頼家復帰は不可能と判断し、早々に継嗣を奏上し宣旨によって確定しようととする時政他家司らの動きであろう)の一報を受けてのものであり、前述の通り、薨伝とともに継嗣として奏上されたのは「頼家卿一臈舎弟童年十二(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)だった。そして、9月7日夜、頼家卿舎弟を「任征夷大将軍、叙従五位下、名字実朝云々、自院被定」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)た。一幡御前との分割相続に関しては全く触れられず、すでに「左兵衛督頼家卿薨、遺跡郎従争権、其子六歳或四歳、外祖為遠江国司時政金吾外祖被討」(『明月記』建仁三年九月七日条)と一幡御前の死も京都に伝わっており、「金吾弟童可継家由、申宣旨」(『明月記』建仁三年九月七日条)との沙汰が下っている。そして翌8日、「前夜已被下宣旨金吾将軍事(『明月記』建仁三年九月八日条)て、関東に勅使が下されたとみられる。

 そして9月10日、「吹挙千幡君被奉立将軍之間、有沙汰」といい、千幡は尼御台所(大御所)から北条時政邸に移ったという(『吾妻鏡』建仁三年九月十日条)。乳母で叔母の「女房阿波局」が同輿し、江間太郎(江間頼時のちの北条泰時)、三浦兵衛尉義村が輿に伺候した。そしてこの日、「諸御家人等所領、如元可領掌之由、多以被下遠州御書、是危世上故也」(『吾妻鏡』建仁三年九月十日条)という北條時政の下文が下された。

 しかし15日、尼御台所のもとに妹の阿波局が参じ、「若君御坐遠州御亭雖可然、倩見牧御方之躰、於事咲之中挿害心之間、難恃傅母、定勝事出来歟」(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)と伝えている。これに尼御台所は「江間四郎殿、三浦兵衛尉義村、結城七郎朝光等、被奉迎取之」している。この突然の事態に「挿害心」ことなどまったく知らない時政は「遠州不知子細、周章給」(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)という。時政は「以女房駿河局被謝申」したが、尼御台所は「成人之程、於同所可扶持之由」を答えたという。ただし、「挿害心」んだはずの時政妻室「牧御方」は処罰されず、この直後には時政は中原広元とともに家司別当となり、実朝の元服を差配し、時政自身が実朝の代理として下文を出すなど、妻室「牧御方」の陰謀がまったく感じられないことから、この説話自体が時政と牧の方を伊豆へ追放する後日談の前段として設けられた作為的な説話の可能性が感じられる(単に継嗣実朝が御所へ移住したという事実に、後日談のための説話を挿入したか)

 そして同15日、勅使が鎌倉に到着。「幕下大将軍二男若宮字千幡君、為関東長者、七日被下従五位下位記征夷大将軍宣旨」が齎された(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)。その後、京都には「頼家卿一定存命云々、或云出家」(『明月記』建仁三年九月廿三日条)「関東左衛門督頼家逝去僻事云々、但出家如実」(『猪隈関白記』建仁三年九月卅日条)と、頼家の生存が伝えられている。

 実朝の「為関東長者」が認められた翌日の9月16日、北條時政は「小代八郎行平」に「越後国青木地頭職事」を「依鎌倉殿仰、下知」している(建仁三年九月十六日「関東下知状」『肥後小代文書』)。時政ははじめて「依鎌倉殿仰」と記し、実朝の御後見として下知状を下した。その後の両執権(執権、連署)が鎌倉殿の意を呈した形の関東下知状は、この書式を踏襲している。

 そして、9月29日、頼家入道は鎌倉を出立し、伊豆国田方郡修禅寺へと移された(『吾妻鏡』建仁三年九月廿九日条)

 その直後の10月3日には「武蔵守朝雅為京都警固上洛、西国有所領之輩、為伴党可令在京之旨被廻御書」(『吾妻鏡』建仁三年十月三日条)といい、平賀武蔵守朝雅が上洛の途に就いた。西国に所領を持つ御家人は彼に従い在京して治安を守るべしという御教書が下されたという。当時京都には別当広元の兄「掃部頭入道寂忍(中原親能入道寂忍)が京都の諸政を行っていたが、5月に比叡山内での「叡山堂衆与学生確執及合戦」(『吾妻鏡』建仁三年九月十七日条)という内紛が拡大し、「学生者同(八月)十九日出城下洛訖、於今者存静謐由之處、同廿八日復蜂起、本院学生同心、群居霊山長楽寺、祗園等、重欲及濫行」という京洛にまでその戦闘行為が及ぶようになった。中原親能入道がしたためた暴動を伝える書状は9月17日に関東に報じられている(『吾妻鏡』建仁三年九月十七日条)。こうした洛中騒擾と頼朝薨去による動揺が西国の不穏な動きに繋がることを警戒し、故頼朝猶子にして別当家司時政女婿というカリスマを持つ武蔵守朝雅が京都守護として派遣されたとみられる。

  牧の方
  ∥―――――――――――――女子
  ∥             ∥
  ∥     源頼朝=====平賀朝雅
  ∥    (前右大将)  (武蔵守)
  ∥      ∥
  ∥      ∥――――+―源頼家
  ∥      ∥    |(左兵衛督)
  ∥      ∥    |
 北條時政――+―平政子  +―源実朝
 (遠江守) |(二位尼) (右大臣)
       |
       +―北條義時
        (陸奥守)

 そして10月8日、「将軍家年十二御元服」が執り行われた(『吾妻鏡』建仁三年十月八日条)。元服は「於遠州名越亭」で行われ、「前大膳大夫広元朝臣、小山左衛門尉朝政、安達九郎左衛門尉景盛、和田左衛門尉義盛、中條右衛門尉家長已下御家人等百余輩着侍座」した。「江間四郎主、左近大夫将監親広」が儀式の調度を相具しているが、彼らは両別当の北條時政、中原広元の嫡子であり、次代の家司を想定した公事奉行人として鎌倉家に伺候していたのであろう。

●建仁三年十月八日、実朝元服の伺候人

持参雑具/進物陪膳 江間四郎主(北條義時)
左近大夫将監(源親広)
着侍座 前大膳大夫広元朝臣
小山左衛門尉朝政
安達九郎左衛門尉景盛
和田左衛門尉義盛
中條右衛門尉家長
(已下御家人等百余輩)
理髪 遠州(北條時政)
役送
※各近習小官中、被撰父母見存之輩召之
結城七郎朝光
和田兵衛尉常盛
和田三郎重茂
東太郎重胤
波多野次郎経朝
桜井次郎光高
奉鎧、御釼、御馬 佐々木左衛門尉広綱
千葉平次兵衛尉常秀

 10月9日に「今日将軍家政所始」が行われたという。午の刻、政所に「別当遠州、広元朝臣已下家司各布衣等」が参集し「民部丞行光書吉書」いた。家令の「図書允清定」が返抄し、「遠州持参吉書於御前給」った(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条)。時政が吉書を持参していることから、この時点で時政が鎌倉家の筆頭家職「執権」(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条)であったと考えられる。

 ただし、実朝はこの時点の官位は従五位下でかつ無官、三位が家司及び政所開設の資格であり(そもそも実朝の官位が従五位下に対し、「別当」の遠江守時政が同位従五位下、中原広元は上位の正五位下)、公的にはこの頃の鎌倉家には家司及び政所は置かれていない。

 同10月9日「将軍御代始」として「佐々木左衛門尉定綱、中條右衛門尉家長、為使節上洛」した(『吾妻鏡』建仁三年十月十九日条)。これは「京都警固」のために10月3日に派遣された「武藏守朝雅」及び在京の京都守護「掃部頭入道寂忍」へ、「京畿御家人等、殊挿忠貞、不可存弐之由、相触之、且可召進起請文之趣」(『吾妻鏡』建仁三年十月十九日条)を命じる使者であった。

 11月6日、頼家は修禅寺から尼御台所と将軍実朝へ宛てて、ここでは召し使う者もないため、日頃の近習の参入を許してほしいと嘆願状を送ってきた。しかし尼御台所はこれを認めず、さらに今後は手紙を鎌倉に遣わすことを禁じる旨を、三浦義村を通じて修禅寺に申し遣わした。ただ、御台所はさすがに我が子である頼家入道を心配しており、4日後、義村が修禅寺から帰参して報告を聞くと悲しんだという。

 11月15日、鎌倉中の寺社奉行が定められ、 成胤の弟、兵衛尉常秀が永福寺の薬師堂の奉行となっている(『吾妻鏡』建仁三年十一月十五日条)。彼らの多くが鎌倉家の家政機関出仕の人々であることから、常秀もその一人であった可能性もある。

●寺社奉行

鶴岡八幡宮寺 江間四郎義時、和田左衛門尉義盛、清図書允
勝長寿院 前大膳大夫大江広元、小山左衛門尉朝政、宗掃部允
永福寺(永福寺二階堂) 畠山次郎重忠、三浦兵衛尉義村、三善進士康清
阿弥陀堂(永福寺南堂) 北条五郎時連、大和前司、足立左衛門尉遠元
薬師堂(永福寺北堂) 源左近大夫将監、千葉兵衛尉常秀、藤民部丞
右大将家法華堂 安達右衛門尉景盛、結城七郎朝光、中条右衛門尉

 建仁4(1204)年正月28日、藤原定家のもとに「自京下人等来云、関東乱違、時政為庄司次郎被敗逃山中、広元已伏誅」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)という風聞が入る。畠山庄司次郎重忠が兵を挙げて将軍御所を攻めた噂とみられ、政所別当の北条時政と中原広元が狙われたというものであった。この風聞ですでに京都の「依此事広元縁者等騒動、京中迷惑運雑物」という(『明月記』建仁四年正月廿八日条)。定家の耳に入る以前にすでに関東に近い人々にはこの噂が伝わっていた様子がわかる。藤原定家は「聞此事、向左金吾宿所」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)と、物忌ではあったが左衛門督公経の宿所を訪問して事の真偽を聞いている。これに公経は「朝雅等当時無誅申事」と答えており、当然まだ鎌倉から情報は届いてはいないが、京都守護平賀朝雅(時政女婿にして故右大将頼朝猶子)が言うには、関東における騒乱の情報は入っていないという。その後、定家は「相次参御所、召陰陽師等、被召此事、又被立神馬漸聞此事、全無別事」と、陰陽師らの占いにおいても同様の結果が出ており、「天狗所為歟」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)と述べている。

 ただし、この噂は鎌倉家政所と畠山庄司次郎重忠との間での何らかの対立があったことを示唆するものではなかろうか。

 元久元(1204)年10月14日、将軍・右兵衛佐実朝の御台所として坊門信清息女を鎌倉に迎えるため、「遠江守時政男馬助維政(左馬権助政範)(『仲資王記』元久元年十一月五日条)を筆頭に、結城七郎朝広千葉平次兵衛尉常秀畠山六郎重保筑後六郎朝尚和田三郎朝盛土肥先次郎惟光葛西十郎清宣佐原太郎景連多々良四郎明宗長江太郎義景宇佐美三郎祐能佐々木小三郎南條平次安西四郎が上洛の途についた。常秀は成胤の弟で平氏との戦いなどに参戦して功績をあげた人物である。

        千葉介常胤        +―千葉介成胤
       (千葉介)         | (千葉介)
        ∥            |
        ∥――――――千葉介胤正―+―千葉常秀
 秩父重弘―+―女     (千葉介)   (平次兵衛尉)  
(秩父庄司)|
      |
      +―畠山重能―――畠山重忠
       (畠山庄司) (次郎)
               ∥―――――――畠山重保
               ∥      (六郎)
        北条時政―――女
          ∥
          ∥    平賀朝雅
          ∥   (武蔵守)
          ∥    ∥
          ∥――+―女
         牧ノ方 |
             +―北条政範
              (左馬権助)

 一向は11月3日、京都に到着した。なお、「今夜遠江守時政入洛云々(『仲資王記』元久元年十一月五日条)という記述もみられるが、この上洛に際しては「遠江守時政男」が「為迎将軍北方坊門大納言息女、相具数百騎上洛」(『仲資王記』元久元年十一月五日条)とあることから、政範が軍勢を率いていた主体であることがわかる。また、その後、京都での時政の活動が公家の日記にも全く見られないことからも、時政は上洛していないことがわかる。この記述は次条五日条の「遠江守時政男」と本来同様であり、単に「男」の脱であろう。

 左馬権助政範は「去三日入洛、自路有病」(『仲資王記』元久元年十一月五日条)とあるように、上洛途中に急病を患っており、上洛早々の11月5日に「遠江守時政男馬助維政早世了云々、生年十五歳(『仲資王記』元久元年十一月五日条)した。翌6日には「東山辺」に葬られた(『吾妻鏡』元久元年十一月廿日条)

 11月13日、政範死去の報告が鎌倉にもたらされると、時政と牧ノ方は悲嘆に暮れたという。政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀武蔵前司朝雅の邸で上洛祝いの酒宴が執り行われたが、この席で畠山重保と朝雅が争論を起こした。朋輩がなだめたため事なきを得たが、争論の原因は政範の病悩と関係があったのだろう。朝雅と重保の争論は時政と牧ノ方の怒りを買い、重保を含め、娘婿の重忠をも非として罰したとみられる。牧の方は時政の後妻として権勢を振るった女性である。

牧の方の出自について

 その事件に関連していると思われる文書が残されている(『島津家文書』)。文書によれば某年正月十三日、「六郎ならひに二郎りやう人かかんたう(六郎ならびに二郎両人が勘当)」については、「ちは殿おほせにより」て罪を免ぜられたという。文書が某年のため確実なことはいえないが、文書の内容からはこの事件が妥当か。この文書がこの争いのこととすれば、「ちは殿」は成胤のこととなり、成胤の存在が幕府にとっても大きなものであったことがうかがえる。

 元久2(1205)年6月の畠山重忠追討劇に際しては、内心この追討に反対だった江間相模守義時の軍勢に弟の九郎胤義とともに加わり、6月20日、二俣川の戦いで重忠を討った。畠山次郎重忠は武士の鑑と謳われた清廉潔白な人物として知られ、御家人の間でも人気が高かった。これを討った背景には義時の父・北条時政との対立とみられる(牧の方の関与は不明)。

○畠山重忠追討軍  

大将軍:北条相模守義時・北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛
先 陣:葛西兵衛尉清重
後 陣:境平次兵衛尉常秀大須賀四郎胤信国分五郎胤通相馬五郎義胤東平太重胤
諸 将:足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、長沼五郎宗政、
    結城七郎朝光、宇都宮弥三郎頼綱、八田筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、
    中条藤右衛門尉家長、中条苅田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、
    波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、土屋弥三郎宗光、河越次郎重時、河越三郎重員、
    江戸太郎忠重、渋川武者所、小野寺太郎秀通、下河辺庄司行平、薗田七郎、
    大井兵衛次郎実春、品川三郎清実、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方、兒玉、横山、金子、
    村山党

 23日、義時は重忠の首を持って鎌倉に帰参した。幕府で北条時政は義時に戦場のことを尋ねると、義時は、重忠が率いていた兵はわずかに百騎あまりで謀反の企ては虚報であったこと、讒訴によって殺されたことははなはだ残念なことだと時政を暗に詰り、重忠の首を見て悲涙を禁じ難いと言い放った。時政は言う事がなかったという。

 三浦党は二十年の昔、治承4(1180)年、武蔵国知行国主の三位中将平知盛のもとで平家与党だった河越太郎重頼、畠山庄司次郎重忠ら秩父平氏に居館の衣笠城を攻められ、義村祖父・三浦大介義明が討たれた。頼朝はこのときに生じた三浦党と秩父党の遺恨を気にしており、三浦党は秩父党に遺恨を持たないよう命じている。しかし今回の畠山重忠追討について、北条時政は義村の遺恨を利用した様子がうかがわれ、義村に畠山重忠の嫡子・畠山六郎重保の殺害を命じている。さらに二俣川から帰還した三浦義村は、数時間後の午後六時ごろ、今度は手勢を率いて経師谷口榛谷四郎重朝・太郎重季・次郎秀重父子を討ち取っている。

◎畠山・小山田氏略系図◎

       足立遠元―――――――――――――――――娘
      (右衛門尉)                ∥――――――畠山重秀
                            ∥     (小次郎)
                            ∥   
畠山重弘―+―畠山重能――――――+――――――――――畠山重忠―――阿闍梨重慶
     |(畠山庄司)     |         (次郎)
     |           |          ∥
     |           +―長野重清     ∥――――――畠山重保
     |           |(三郎)      ∥     (六郎)
     |           |          ∥
     |           +―畠山重宗     ∥
     |            (六郎)      ∥
     |                      ∥
     | 北条時政――――――+――――――――――女子
     |(遠江守)      |
     |           |
     |           +――――――――――女子
     |                      ∥――――――小沢重政
     |                      ∥     (次郎)
     +―小山田有重―――――+――――――――――稲毛重成 
     |(小山田別当)    |         (三郎)  
     |           |
     +―娘(千葉介常胤妻) +―榛谷重朝―――+―榛谷重季
                 |(四郎)    |(太郎)
                 |        |
                 +―小山田行重  +―榛谷秀重
                  (五郎)     (次郎)

 畠山重忠の殺害によって御家人の反発を買った北条時政と牧ノ方は、現将軍・実朝を殺害して、京都の平賀朝雅(牧の方の娘婿)を新たな将軍として迎えるという計画を立てる。閏7月19日、この計画を伝え聞いた尼御台は、時政邸の実朝を救うため、義村にその救出を命じた。義村は弟の九郎胤義長沼五郎宗政、結城七郎朝光、天野六郎政景らとともに時政邸に乗り込むと、実力で実朝を奪還。義時邸に移した。こうして時政、牧の方のクーデター計画は瓦解。時政・牧の方は、子の義時や尼御台によって伊豆国修善寺に追放され、二度と鎌倉に戻ってくることはなかった。

 翌承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文」が発せられたが、おそらくこれより以前に成胤は下総守護職について打診を受けていたと思われ、下総国と千葉氏の縁の深さを主張し、

先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間、右大将家御時、以常胤、被補下総一国守護職之由申之…

として、常胤が頼朝より下総国守護職に任じられていたという由緒を申し述べていた。これにより、成胤下総国守護職に補任されたと思われる(『吾妻鏡』承元三年十二月十五日条)

 建暦2(1212)年7月2日、成胤御所侍所の建て直しを命じられた(『吾妻鏡』建暦二年七月二日条)。これは前月7日夜、侍所で宿直中の「伊達四郎、萩生右馬允等也」の刃傷沙汰が原因で(『吾妻鏡』建暦二年六月七日条)、互いの郎従が死亡した事件であった。伊達四郎、萩生右馬允はともに出羽国置賜郡の御家人であり、何らかの遺恨があったのだろう。この刃傷事件のため、将軍実朝が穢れを嫌い、北条義時と大江広元に侍所の建て替えを指示し、「仰千葉介成胤、可造進之由」と、成胤に造進が命じられた。これは幕府負担の建替ではなく、成胤が全て負担するものであり、成胤に贖罪を命じたことを意味するのだろう。成胤は伊達四郎、萩生右馬允のいずれかと何らかの関りがあったと推測される。

 7月9日、侍所は解体されて木材は寿福寺に寄付された。そして新侍所の造営が侍所別当・和田左衛門尉義盛図書允清原清定が奉行となって行われ、「千葉介成胤催一族等沙汰之」と、成胤は一族を挙げて造営にはげむこととなった。

和田合戦

 建暦3(1213)年2月15日、成胤は鎌倉甘縄の館を訪れた一人の僧侶を捕らえた。この僧侶を取り調べると、信濃国の御家人・泉小次郎親平の被官人・青栗七郎の弟で阿静房安念という者であることがわかった。親衡は「尾張中務丞養君」だった「故左衛門督若君」を大将軍に擁して「度相州」を計画したものであった(『吾妻鏡』建暦三年二月十六日条)。しかし、成胤は「依存忠直」であったことから阿静房を捕縛して義時に引き渡した。彼を捕らえた人物は「千葉介被官粟飯原次郎」と見える(『鎌倉年代記裏書』)

 伊那為扶――林為扶――林快次――泉公季――諏訪部快衡――泉公衡―+―泉親衡――泉満衡
(太郎)  (源太) (小太郎)(太郎) (太郎)   (二郎) |(小二郎)(孫太郎)
                                 |
                                 +―泉俊衡――泉快衡
                                 |(四郎) (四郎二郎)
                                 |
                                 +―泉頼衡――泉貞衡
                                 |(五郎) (五郎二郎)
                                 |
                                 +―泉公信――泉孫四郎
                                  (六郎)

 翌日、阿静房の自白によってこの叛乱計画に同調した御家人が次々に捕らえられ、御家人預かりとされた。その数「凡張本百三十余人、伴類及二百人」というかなり大きな義時追討計画であった様子がうかがえる。そしてこの計画には、和田義盛の子・四郎左衛門尉義直と六郎兵衛尉義重、甥の平太胤長が加わっていた。

●義時追討計画に参加した御家人

名前地頭職 備考預かり御家人
一村小次郎近村(信濃国住人) 信濃国水内郡市村庄か  北条泰時
籠山次郎(信濃国住人) 信濃国   高山小三郎重親
宿屋次郎 信濃国佐久郡宿岩村か   山上四郎時元
上田原平三父子三人 信濃国小県郡上田原   豊田太郎幹重
薗田七郎成朝 上野国山田郡薗田御厨   上條三郎時綱
狩野小太郎 上総国伊北庄か   結城左衛門尉朝光
和田四郎左衛門尉義直 相模国三浦郡和田村 和田義盛四男 伊東六郎祐長
和田六郎兵衛尉義重 相模国三浦郡和田村 和田義盛六男 伊東八郎祐広
澁河刑部六郎兼守 駿河国有度郡澁河郷 比企能員舅・澁河刑部丞兼忠の子か 安達右衛門尉景盛
和田平太胤長 相模国三浦郡和田村 和田義盛甥 金窪兵衛尉行親。安東次郎忠家
礒野小三郎 不明   小山左衛門尉朝政
保科次郎(信濃国住人) 信濃国高井郡保科御厨    
粟澤太郎父子 信濃国諏訪郡粟沢村    
青栗四郎 信濃国 青栗七郎、阿静房安念の兄弟であろう  
木曾瀧口父子(越後国住人) 越後国 不明  
八田三郎(下総国住人) 下総国 不明ながら常陸八田氏の一族か  
和田奥田太 不明    
和田奥田四郎 不明    
金太郎 (伊勢国住人) 不明    
上総介八郎甥臼井十郎(上総国住人) 上総国 下総国臼井庄の臼井十郎常俊であろう  
狩野又太郎 上総国伊北庄か    

 彼らの多くは2月27日に配流に処されているが(『吾妻鏡』建暦三年二月廿七日条)、和田義盛の子の義直義重、甥・胤長は留め置かれた。侍所別当の一族が加担するという重大事であったため、義盛の出頭まで執行されないこととなったのだろう。なぜ義盛の子らがこの義時追討計画に加担したのかははっきりしないが、この直前、義盛と実朝は義盛の上総介任官問題でぎくしゃくした関係になっていた。このような中で、義盛の子らが北条氏に遺恨を持つ人々の誘いを受け、義盛を味方に引き入れて義時や広元を討ち、実朝を廃して頼家遺児を新たな鎌倉殿にせんとする企みであったのだろう。

 上総介任官問題については、承元3(1209)年5月12日、和田義盛は「被挙任上総国司之由、内々望申之」と、上総介への挙任を「内々」に将軍実朝に訴えていて、そのことについて実朝は母の尼御台に諮ったとする。将軍の任官奏上の際、ともに御家人の任官を吹挙する例があり(※)、義盛は実朝の「右中将」任官奏上に際して「上総国司」への吹挙を望んだのだろう。ところが尼御台は「故将軍御時、於侍受領者可停止之由、其沙汰訖、仍如此類不被聴、被始例之条、不足女性口入」と答えたことで、実朝は義盛へ返答できなかったという

(※)実朝の将軍宣下が建仁3年9月7日に行われたが(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)、近臣安達景盛の右衛門尉の初出がその直後である10月8日であることから、実朝の将軍職吹挙の際ともに奏上されたと思われる。

 尼御台が義盛の受領任官に否定的な発言をしたのは、「侍」に対して受領任官を吹挙しないという頼朝の沙汰を根拠としている。ところが、義盛同様に「侍」品である北条時政は、頼朝の死の直後、正治2(1200)年4月1日に遠江守に任官し(『吾妻鏡』序)、北条義時は元久元(1204)年3月6日(『鎌倉年代記』)相模守に補任されている。北条氏は血縁者たる「家子」であって(源氏)門葉でも准門葉でも御家人でもない。また侍品であることから、尼御台の主張は矛盾しているように見えるが、これは代替わりに際して、若い鎌倉殿を支える別当への任官吹奏であって、尼御台が実質的に主導したものであろう。義盛に対する任官否定の趣旨とは事情が異なっている。

遺跡継承執権の受領任官
源頼家⇒建久十(1199)年正月26日(十八歳) 北条時政(遠江守)⇒正治二(1200)年4月1日
源実朝⇒建仁三(1203)年9月7日(十二歳) 北条義時(相模守)⇒元久元(1204)年3月6日

 義盛の上総介任官の要望については、実朝は尼台所の意を受けたためか、結局「内々」の要望に対して吹挙は行わなかった。その後、義盛は5月23日に改めて政所執事「大官令(大膳大夫中原広元)」へ「始載治承以後度々勲功事、後述懐所詮一生余執、只為此一事之由云々」を書き連ねた款状を提出して「上総国司所望」することとなるが、これは将軍実朝の任官奏上には間に合わず、朝廷は5月26日に実朝を「任右中将」じた(『吾妻鏡』承元三年五月廿六日条、『公卿補任』承元三年条)

 その後、11月27日に実朝は義盛へ「内々有御計事」につき、「暫可奉待左右之由」と伝えている。これに義盛も「殊抃悦」であったとあるから(『吾妻鏡』承元三年十一月廿七日条)、「内々有御計事」とは実朝が内々に上総介任官を吹挙したことと思われる。ところが、朝廷は翌承元4(1210)年6月17日、治天・後鳥羽院の信任厚い北面藤原秀康を「上総介」に補任した(『吾妻鏡』承元四年七月廿日条)。結果として実朝の吹挙は実らず、実朝は次に望みを託したようである。しかし、建暦元(1211)年12月20日、義盛は上総国司挙任について「已断余執訖」として、「子息四郎兵衛尉」を大膳大夫広元のもとへ遣わして「可返給彼款状」と依頼した。驚いた広元は「先日進置御前之上、不能左右之趣」を伝えつつも、実朝へこの旨を取り次いだ。当然、実朝は「太不叶御意趣」であった。

 こうした過去のいきさつがあったことが、実朝の和田一族に対する悪感情を生んでいたのかもしれない。そして、前将軍頼家の遺児(千寿丸)を奉じた義時追討の計画に、義盛の子・四郎左衛門尉義直、六郎兵衛尉義重、甥の平太胤長が加わっていたことに怒りを禁じ得なかったのだろう。この計画は、

ということから、建仁3(1203)年に北条氏に滅ぼされた比企氏の残党によるものであったと考えられる。義盛は比企氏追討戦には幕府軍の主力として出兵しており比企氏とは敵対したことになるが、戦後、義盛が「妻妾并二歳男子等者、依有好、召預和田左衛門尉義盛、配安房国」とあることから、義盛と比企能員は友好関係にあったことがわかる。このことから、比企氏残党がその関係を通じて、実朝の不興を買った和田義盛に働きかけて蜂起を計画することは十分に考えられる。

 実際に義盛がこの叛乱計画に加わったかは不明だが、義盛はこの計画を知り、義直らを思い止まらせようとしたのではないだろうか。義盛が上総国伊北庄へ去ったのは、その表れであるかもしれない。ところが、義直らは軽率にもこの義時追討計画に加わり、発覚して捕らえられるという和田氏にとって最悪な状況を招く。四郎義直、六郎義重らが捕縛されたのは2月16日であり、当然のことながら侍所別当たる義盛にこの叛乱計画はすぐさま報告されているはずであるが、義盛が上総国伊北庄を発って鎌倉に出頭するまで二十日余りかかっており、義盛は一報を受けたのちもしばらく上総国から動かないという極めて不自然な行動をとっていたことがわかる。対応に苦慮したためかもしれない。

 このような中で、首謀者の一人・泉小次郎親衡が御所近接の違橋付近に隠れていることが発覚し、3月2日、幕府は工藤十郎を派遣して捕縛を試みるも、工藤十郎以下郎従が殺害されて、逃亡を許すという失態を演じることとなる。泉親衡の謀反計画は未然に防がれたが、この謀反計画は兵乱の噂となって各地の御家人に広まり、3月には「鎌倉中兵起之由、風聞于諸国之間、遠近御家人群参、不知幾千万」と、諸国の御家人が鎌倉へ群参する騒ぎに発展した。

 そして3月8日、和田義盛はようやく上総国伊北庄から鎌倉へ入り、御所を訪れて実朝に目通りして詫びることとなる。義盛の幕府出頭に伴って「愁子息義直、義重等勘発事、仍今更有御感、不及被経沙汰、募父数度之勲功、被除彼両息之罪名」とこれまでの義盛の勲功に免じ、子・義直と義重の両名は赦されることとなり、義盛も「施老後之眉目」と喜んで御所を退出したという。

 ところが、義盛の甥で金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家に預けられていた胤長は赦されなかったことから、翌3月9日、義盛は「引率一族九十八人」して御所に参じ、御所南庭に列して「可被厚免囚人胤長之由」を中原広元へ申請した。これは事実上の示威行為に相当しよう。ところが広元からの報を受けた実朝は「彼胤長為今度張本、殊廻計略之旨、聞食之間、不能御許容」として義盛の要求を突っぱねたうえ、預人の金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家から奉行人の山城判官行村へ渡されることとなった。義時は「重可加禁遏」という実朝の「御旨」を金窪行親、安東忠家に伝えており、胤長は罪人として縛り上げられた上、一族が列する前で行村へ渡された。実朝が胤長に嫌悪感を抱いていた様子がうかがえる。この一族の前での引き渡しが「義盛之逆心職、而由之云々」とあり、義盛は実朝や義時、中原広元へ強い反抗心が生まれたのだろう。さらにその「逆心」にさらに火をつけたのは、3月17日の胤長の陸奥国岩瀬郡への配流と胤長屋敷地の没収であろう。

 胤長屋敷地は荏柄天神社前にあり、御所の東隣であった。3月25日、この胤長屋敷地は縁故により一旦は義盛へ与えられたが、4月2日に反故にされて北条義時へ下され、義時はこれを金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家の両名に分配した。金窪行親、安東忠家は胤長を預かっていた御家人であるが、実は義時の祇候人だったのである。胤長旧地の引き渡しの際、彼らは義盛の代官・久野谷弥次郎を追い出しており、実朝・義時・広元ら幕閣と和田義盛の対立は決定的となった。こうして義盛は親族である武蔵国の横山党に義時追討の挙兵計画を伝えることとなった。そのほか、一族の三浦義村にも挙兵を呼びかけ、御所北門の守衛を依頼している。義盛の目的はその攻撃先が御所ならびに義時と中原広元邸であったことから、彼ら義時・広元ら幕府首脳を追捕したうえ、鎌倉殿を実朝から頼家「若公」へと交代する画策であったのかもしれない。

 しかし挙兵直前の5月2日、和田義盛が頼りにしていた三浦義村が北条義時に義盛挙兵計画を告げたことから発覚。義盛は義村の寝返りを知ると歯軋りして悔しがったものの、もはや引くこともできずに挙兵。一族百五十騎を引きつれて御所、北条義時邸、中原広元邸に攻め寄せた。このときの兵火により、「剰縦火於御所、郭内室屋、不残一宇焼亡」(『吾妻鏡』建暦三年五月二日条)とあることから、前年7月から成胤が造営していた御所侍所も焼失したことになる。

 乱の当時、成胤の所在については藤原定家の『明月記』『吾妻鏡』で確認できる。『明月記』によれば、5月2日夕刻からの戦いに「千葉之党類常胤之孫子、練精兵、自隣国超来」とあることから、成胤は2月の阿静房捕縛ののち鎌倉を離れて「隣国(下総国か)」へ戻り、乱の伝聞を受けて鎌倉へ馳せ向かったことがわかる。なお、『吾妻鏡』でも5月3日に「千葉介成胤、引率党類馳参」じたとあり、幕府方として馳せ参じたことが記されている(『吾妻鏡』)

●『明月記』建保元年五月九日条

九日
…自二日夕至于四日朝、攻戦不已、如三周弄不注、義盛士卒一以当千、天地震怒、
 此間千葉之党類常胤之孫子、練精兵、自隣国超来、義盛雖兵尽矢窮、策疲足之兵、
 当新羈之馬、然尚追奔、逐北至于横大路鎌倉之前在此路云々

 2月に鎌倉を離れて下総国へ戻った理由は不明だが、頼家若公を奉じた計画に和田義盛の一族が絡んでいることが発覚したことから、義盛挙兵に備えて義時の依頼を受けて下総に下向していた可能性もあろう。結局、和田義盛が起こした騒擾は失敗に終わり、義盛一党は戦死した。

 建暦3(1213)年6月8日、「属星祭」が亀谷にあった故中原親能入道の一宇で行われた。『吾妻鏡』によれば、「千葉介常胤沙汰」とあるが、常胤はすでに故人であり、成胤が沙汰をしたのだろう。

 成胤は建保6(1218)年ごろから病に苦しみ始めたようで、4月7日、成胤の命が旦夕に及ぶことを聞いた実朝は、側近の東平太所重胤を差し遣わすことにした。重胤は成胤の従兄弟で、成胤に慇懃に「子孫事、殊可被加憐愍」を伝えるよう命じた。頼朝の挙兵以来四十年にわたって忠実に幕府に仕えつづけた成胤への功績を賞したものであった。

千葉介常胤―+―千葉介胤正――千葉介成胤
(千葉介) |(千葉介)  (千葉介)
      |
      +―東胤頼――――東重胤
       (六郎大夫) (平太所)

 重胤が成胤を見舞ってから3日後の4月10日午刻、「千葉介平成胤」は亡くなった(『吾妻鏡』)『千葉大系図』の生年を逆算すると享年は六十四歳であったことになる。法名は遠山紅雲院、仙覚院、仙光院正珍厳阿弥陀仏

■千葉介成胤の娘たち

千田尼

 執権・北条時頼の後室。詳細は千田氏

千葉尼聖光

 『結城系図』には、結城朝光の子、寒河時光・山川重光の母親は「千葉介業胤女」とあり、さらに東持寺に伝わる山川結城氏の系譜によれば「長山尼 蓮妙」の次に「千葉尼 聖光」なる人物が書かれている。そして、その聖光の娘に「了阿」という人物がおり、了阿は別の系譜によれば「播磨尼 了阿」とされ、結城朝光の妻になり重光を生んだ。つまり、千葉尼聖光は千葉介業胤(成胤)の妻播磨尼了阿の母であることがわかる。

 「親□書状」(『金沢文庫』:『鎌倉遺文』所収)によれば、承久4(1222)年正月に「千葉尼」について書かれている書状が遺されているが、娘の了阿が建保から嘉暦年中にかけて所領の譲状や安堵を受けていることから、同時代の人物と考えられ、この書状にある「千葉尼」と、千葉介成胤の妻の「千葉尼聖光」は同一人物であるとも考えられる。

●結城山川氏・千葉氏の関係図

 北条時氏――――――北条時頼
            ∥
 千葉介成胤―――+―千田尼
   ∥     |
   ∥     |
   ∥     +―千葉介時胤――千葉介頼胤
   ∥  
   ∥―――――――了阿(播磨尼)
   ∥        ∥
  聖光(千葉尼)   ∥―――――山川重光
            ∥
           結城朝光
          (結城七郎)

●「親□書状」(『金沢文庫』:『鎌倉遺文』所収)

    又いかさまにも、いかさまにも、件男か自身□□らさらんに、凡大略無正躰事候歟、
 めて候、先、近隣ニ令座給い候ける、尤為悦候、彼之間事、此にハ勿論候、
 但件千葉尼自身□儀は候はず、□邊に御伝知行しハ、見参にも申候し様ニ、
 去年収納已後事ハ、不及子細候上、去比地頭等、為同国者、不随庄務之由、訴申関東、
 御計□候て、此下文を得て候とて、彼千葉邊の僧□ハ承引し候まし、可補任遺他預所之由、
 申のぼせて候之間、以可然仁可補遺候之由、致沙汰候間行て候也、其條ヲ不審給候へバ、
 此案文ハ未進□也、件男又沙汰之由、□□不給候しと□□□了、
 子細候ハじと□此□書残不可□候ハバ、 勿論候、随御沙汰、返事可定□□他人□□左右ヲ、
 必々可仰給□思給間候、□□令申候、謹言

                           親□
   □□□阿闍梨御房

ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

Copyright©1997-2018 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。