千葉成胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉成胤(1155?-1218)

生没年 久寿2(1155)年3月2日?~建保6(1218)年4月10日午刻
千葉介胤正
不明
不明
官位 不明
官職 下総権介(除目による叙任かは不明)
役職 下総国守護職
荘官 千葉庄検非違所?
所在 下総国千葉庄
法号 遠山紅雲院、仙覚院、仙光院正珍厳阿弥陀仏

 千葉氏六代。父は五代・千葉介胤正。母、妻ともに不明。久寿2(1155)年3月2日生まれ(『千葉大系図』)。通称は小太郎『結城系図』によれば「千葉介業胤(なりたね)」とあることから、読みは「なりたね」であろう。

下総目代を討つ

 成胤は武勇に富んだ若武者として登場する。『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月13日、祖父の千葉介常胤が安房国に逃れて来た源頼朝を迎えるため、一族を率いて上総国に向かおうとするが、常胤の六男・千葉六郎太夫胤頼が、 

当国目代者平家方人也、吾等一族悉出境参源家、定可挿兇害、先可誅之歟

と進言したため、常胤成胤胤頼「早行向可追討」と命じた(『吾妻鏡』寿永四年九月十三日条)

 成胤胤頼は郎従を率いて下総目代の館(市川市国府台か)へと馳せ向かうが、「目代元自有勢者」とあるように「令数十許輩防戦」して、成胤・胤頼は攻めあぐねたが、北風が強いことに目をつけて、成胤は郎党をひそかに館の裏手に回らせて火をつけた。突然の出火に目代館は混乱し、防戦を忘れて逃げ惑った目代を胤頼が討ちとったとある(『吾妻鏡』寿永四年九月十三日条)

 この「当国目代」がいかなる人物かは不明だが、当時の下総守は平氏と強い繋がりを持っていた人物であったことがうかがえる。なお、「当国目代」「元自有勢者」であることから、以前から当地で勢力を広げていた人物であって、当時の下総守からの目代ではないと考えられる。治承3(1179)年2月当時には「前下総介藤原朝臣高佐」が見えるが(『山槐記』治承三年二月廿九日条)、彼は一族が上総介を歴任する家柄であり、平清盛の従姉妹を室とする平氏血縁者であった。兄の藤原清頼は太皇太后宮権大進として太皇太后宮亮平経盛(平清盛弟)の下にあり、平氏政権との関わりも深かった。下総守も藤原親以来平氏の影響力が強い人物が補任されており、下総目代も国府付近の有力者が任じられたのであろう。

             源頼義
            (陸奥守)
             ∥―――――源義家―――源為義――――源義朝―――源頼朝
 平維時―+―平直方―――女    (陸奥守) (左衛門大尉)(播磨守) (右兵衛権佐)
(上総介)|(上野介)
     |
     +―女
       ∥―――――藤原永業――藤原季永――藤原清高―+―藤原清頼
       ∥    (遠江守) (大和守) (上総介) |(上総介)
       ∥                      |   
       藤原永信                   +―藤原高佐
      (遠江守)                    (下総守)
                                ∥―――――藤原季佐
                   平正盛―+―平貞正――――女    (宮内大輔)
                  (讃岐守)|(伊勢守)
                       |
                       +―平忠盛――+―平清盛
                        (刑部卿) |(太政大臣)
                              |
                              +―女
                                ∥
                         藤原親盛―――藤原親正
                        (下総守)  (皇嘉門院判官代)

千田親正との戦いは国府近辺か(結城浜の合戦の創作性について)

 治承4(1180)年9月14日、「下総国千田庄領家判官代親政」「聞目代被誅之由」いて、「率軍兵欲襲常胤」したことから、「常胤孫子小太郎成胤相戦」って、「遂生虜親政」ったという(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)

 一方、『千学集抜粋』によれば、治承4(1180)年9月4日、安房の頼朝を迎えるため「常胤、胤政父子上総へまゐり給ふ」と、常胤と胤政のみが上総国へと向かったとあり、他の諸子は従った形跡はない。成胤についても記載があり、「加曾利冠者成胤たまゝゝ祖母の不幸に値り、父祖とも上総へまゐり給ふといへとも養子たるゆゑ留りて千葉の館にあり、葬送の営みをなされける…程へて成胤も上総へまゐり給ふ…ここに千田判官親政ハ平家への聞えあれハとて、其勢千余騎、千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投かけける、成胤曾加野まて馳てふりかへりみるに、火の手上りけれは、まさしく親政かしわさならむ、此儘上総へまゐらむには、佐殿の逃たりなんとおほされんには、父祖の面目にもかゝりなん、いさ引かへせやと返しにける」と、成胤は祖母の葬送のために遅れて父祖の上総国へと向かったが、蘇我野で振り返ると千葉に火の手が上がっており、引き返したとされる。その後、「結城、渋河」で親政の軍勢と出会い、散々戦って「親政大勢こらえ得す落行事二十里、遂に馬の渡りまてそ追打しにける」と、親政を討ち取ったことになっている(『千学集抜粋』)

 『源平闘諍録』では、治承4(1180)年9月4日、頼朝は常胤率いる「新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次常秀・武石の次郎胤重・能光の禅師等を始めと為て、三百余騎の兵」を先陣として上総国から下総国へと向かったという。このとき、藤原親正は「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐無し、京都の聞えも恐れ有り、且うは身の恥なり」と、千田庄内山の館を発して「千葉の結城」へと攻め入ったとする。このとき「加曾利の冠者成胤、祖母死去の間、同じく孫為といへども養子為に依つて、父祖共に上総国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送の営み有りけり」とされ、「親正の軍兵、結城の浜に出で来たる由」を聞いた成胤は、上総へ急使を発する一方で「父祖を相ひ待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず、豈勇士の道為らんや」と攻め懸けるも無勢であり、上総と下総の境川まで追われるが、「両国の介の軍兵共、雲霞の如くに馳せ来たりけり」と、千葉介常胤、上総介広常の軍勢が救援に加わったことで「親正無勢たるに依つて、千田の庄次浦の館へ引き退きにけり」と千田庄へと退いたとされる(『源平闘諍録』)

 『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はともに妙見説話を取り入れ、成胤を養子とする同一の方向性をもつ内容で、物語性の強い『源平闘諍録』はより詳細に記載されている傾向にある。またいずれも千葉の結城浜を戦いの舞台としていることが共通点に挙げられる。しかしながら、この『千学集抜粋』と『源平闘諍録』はあくまでも説話集と物語であって、そのまま史実と受け取ることはできない。『千学集抜粋』はその妙見信仰と千葉氏を結びつける説話という性格上、まだ妙見信仰の成立していなかった平安時代末期の千葉氏に、妙見信仰の伝承を挿入する上で『源平闘諍録』の妙見説話を取り込んだ可能性が高く、千葉氏を賞賛する創作がかなり強いと考えられる。

 一方、『吾妻鏡』も全体をそのまま史実とするには危険な部分を含んでいるものの、後世北条氏にとって頼朝挙兵に伴う千葉氏の活躍を改変する必要性は全くないので、これは当時の記録に基づく史実として受け取ってよいと思われる。

 親雅は9月13日の成胤・胤頼による下総目代の追捕の翌日、14日に「聞目代被誅之由、率軍兵、欲襲常胤」と常胤の襲撃を企てたとされている。目代館はその性質上、国府近辺であると考えられることから、目代館から親雅の内山館までは40~50km程度の距離であろうと考えられる。目代が攻められた直後に親雅に使者を飛ばしたとすると、時間にもよるが内海を経由して当日中の到達は十分可能であろう。しかし、親雅がそこから周辺氏族を動員して匝瑳郡を出立したのでは、翌14日に西総に至ることはかなり難しい。ただし、頼朝の安房上陸の一報がすでに親雅に伝わり、催促が終わっていたとすれば、その軍勢を動かし、翌14日に西総へと進むことは可能と思われる。

 国府襲撃の一報を受けた親雅は、下総国府へ向かったのだろう。この頃には下総国府はすでに成胤、胤頼によって占領されており、当然ながら成胤と胤頼はそのまま駐屯したと考えられる。占拠した国府、目代館から撤退する合理性がないためである。つまり、伝のように、成胤が一人千葉へ戻って親雅と戦うことは非常に不自然なのである。さらに不自然なのが、常胤が9月17日に「相具子息太郎胤正、次郎師常号相馬、三郎胤成武石、四郎胤信大須賀、五郎胤道国分、六郎大夫胤頼。嫡孫小太郎成胤等参会于下総国府、従軍及三百余騎也、常胤先召覧囚人千田判官代親政」と、常胤以下の千葉一族がすでに上総国で面会していたとすれば、改めて国府で対面を果たす必要性がないのである。常胤「陸奥六郎義隆男、号毛利冠者頼隆」を引き合わせるのも、常胤が頼朝に同道していたのであればすでに行われていたと考えるのが妥当であろう。

 さらに常胤ら千葉一族が頼朝を迎えるために本拠を空け、その守備を目代館追討に派遣した成胤を戻して守らせ、あわや親雅に敗れかける(『千学集抜粋』)という不可解極まりない作戦をとっていることになるのである。下総目代を攻めることで旗幟鮮明となれば、当然ながら上総国府、千田判官代親雅という平氏勢力が侵入する可能性も高くなる。このような中で本拠を空にし、頼朝を迎えに行って千葉を取られては本末転倒であり、このような作戦を取ることはまず考えにくいだろう。

 これらのことから、常胤らは頼朝の出迎えのために上総国へ向かってはおらず、本拠の千葉に残留し、平氏方の藤原親雅や南隣する上総国府の国ノ兵に予め備えつつ、成胤・胤頼を下総目代追討に派遣して国府一帯(市川市国府台)を占拠する方策を取ったのではないだろうか。そして目代追捕の翌日14日、「率軍兵欲襲常胤」した千田判官代親雅を国府付近で成胤が破って「生虜」とした上でそのまま国府に拘禁し、17日に下総国府で常胤一統の謁見及び親雅の検分、毛利頼隆の引見が行われたのではあるまいか。

 千葉の結城浜での所謂「結城浜の合戦」の伝承は、妙見神を具現化するために妙見神の所縁の地での戦いが染井川の戦いや蚕飼川の戦いのように必要とされ、それが妙見宮前浜である結城浜が選ばれたと思われ、この結城浜の合戦自体は創作である可能性が高いだろう。また、たとえあったとしても、染井川の戦いや蚕飼川の戦いのような、別にあった戦いに拠った創作、または後世の合戦などが仮託されたものではないだろうか。

千葉介となる 

 藤原親正捕縛ののち、平氏との戦いで成胤が具体的に合戦に参加した記録はなく、弟の境平次常秀が祖父・常胤とともに転戦している。

 文治5(1189)年4月18日、北条時政の三男の元服式が御所西侍で行われたが、頼朝の出座とともに三献が行われ、義時が酌を取ったのち「千葉小太郎成胤」が代わって酌を行った。式次第は当然ながら頼朝の決済をとっていたと考えられ、この成胤の酌は頼朝の意思が反映されたものであろう。次いで時政三男が召され、三浦十郎義連を烏帽子親として元服。義連の「連」を賜り、「北条五郎時連」と称した。のち「時房」と改名、文武に通じ、後鳥羽院にも愛でられた幕府の名臣となる。なお、時房の娘は千葉介時胤に嫁いで千葉介頼胤を生んでおり、頼胤の外祖父にあたる。

 奥州藤原氏との戦いでは、文治5(1189)年8月12日晩景、頼朝は多賀城に到着したが、「海道大将軍千葉介常胤、八田右衛門尉知家等参会、千葉太郎胤正、同次郎師常、同三郎胤盛、同四郎胤信、同五郎胤通、同六郎大夫胤頼、同小太郎成胤、同平次常秀、八田太郎朝重、多気太郎、鹿嶋六郎、真壁六郎等、相具于常胤知家、各渡逢隈湊参上云々」と、成胤は一族ともども多賀城に入っている。その後、奥州藤原氏との戦いでの具体的な活躍は記されないが、多賀城についたのちは、海道軍は解散されて頼朝の直接麾下に入ったようである。8月20日には「さうまの二郎(千葉介常胤次男・師常)」が先陣の一人とされ、8月25日には「千葉六郎大夫胤頼(千葉介常胤六男)」「衣河館」に遣わされ、「前民部少輔基成父子」を捕えている。

 ところが、藤原泰衡の追捕でも奥州は治まらず、すでに冬には「奥州故泰衡郎従大河次郎兼任以下」が「伊予守義経」と号して出羽国海辺庄に出没したり「左馬頭義仲嫡男朝日冠者」と称して出羽国山北郡に出没したりと各地で兵を挙げ、津軽に駐屯していた宇佐美平次実政以下の御家人が討死を遂げるという大敗を喫した。さらに大河次郎の子「嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎」が兵を率いて鎌倉へ向かったとの報が文治6(1190)年正月6日に鎌倉へと届いた。

 頼朝は正月8日、奥州派兵を決定。北陸道の大将軍だった宇佐美平次実政が討死していたためか、今回は三路ではなく、海道軍と山道軍の二路編成とされ「海道大将軍千葉介常胤、山道比企藤四郎能員」が任じられた。東海道筋の岩崎一族らは「雖不相待常胤、可進先登之由、申請」するほどの士気であったようだが、新恩を目的とした積極姿勢なのであろう。

 ところが、「海道大将軍」と任じられた常胤は出征が急遽取り止めとなったようで、嫡子「千葉新介胤正承一方大将軍」とされた。「一方大将軍」が海道大将軍かは記載されていないが、今回の奥州征討は海道・山道の二路であり、比企能員が改められた形跡はないので、一方の大将軍は必然的に海道大将軍となろう。海道大将軍改任は常胤の急病または、厳冬の奥州へ高齢の常胤を出陣させることを躊躇したためと考えられ、胤正に改めたとみられる。成胤の伝はないが彼は頼朝から「千葉小太郎、今度奥州合戦抽軍忠之間、殊有御感」(『吾妻鏡』文治六年正月十五日条)と賞されており、かつ「但合戦不進于先登兮、可慎身之由」という注意をしていることから、自ら先陣に立って奮戦した様子がうかがえる。北条時連の元服時の抜擢及び先頭での奮戦を戒める心遣いからも、頼朝の信任を一身に受けた若武者の姿が浮かび上がる。これは成胤が父・胤正同様、頼朝に特に気に入られて近習として抜擢されていたためと思われ、建久4(1193)年11月27日の永福寺の薬師堂供養の際に「千葉小太郎成胤」が剣を持って頼朝に従った様子からもうかがえる(『吾妻鏡』建久四年十一月廿七日条)

 その後、しばらく成胤は『吾妻鏡』に登場しないが、いまだ祖父常胤、父胤正が健在であり、主に頼朝の側近として動いていたのだろう。このような中、建久9(1198)年に長男の胤綱が誕生する(『本土寺過去帳』逆算)

 しかし、父の胤正は正治元(1199)年10月28日の梶原景時弾劾連判に加わった「千葉太郎胤正」の記述を最後に『吾妻鏡』から姿を消し、建仁元(1201)年3月24日には祖父「千葉介常胤」も八十四歳で卒去した(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)。父・胤正の卒去については『吾妻鏡』に記載はないが、『千学集抜粋』によれば建仁3(1203)年7月20日とされる(『千学集抜粋』)。この日近辺は将軍頼家の急病があり、胤正の死が記載されなかったのかもしれない。父・胤正が没すると、成胤が千葉家を継承し「千葉介」になったとみられる。

 元久元(1204)年10月14日、将軍・実朝の御台所として坊門信清息女を鎌倉に迎えるため、北条時政と牧ノ方の子・北条政範(左馬権助)をはじめとして、結城朝広(七郎)・千葉常秀(平次兵衛尉)・畠山重保(六郎)・筑後朝尚(六郎)・和田朝盛(三郎)・土肥惟光(先次郎)・葛西清宣(十郎)・佐原景連(太郎)・多々良明宗(四郎)・長江義景(太郎)・宇佐美祐能(三郎)・佐々木小三郎南條平次安西四郎が上洛の途についた。常秀は成胤の弟で平氏との戦いなどに参戦して功績をあげた人物である。

        千葉介常胤        +―千葉介成胤
       (千葉介)         | (千葉介)
        ∥            |
        ∥――――――千葉介胤正―+―千葉常秀
 秩父重弘―+―女     (千葉介)   (平次兵衛尉)  
(秩父庄司)|
      |
      +―畠山重能―――畠山重忠
       (畠山庄司) (次郎)
               ∥―――――――畠山重保
               ∥      (六郎)
        北条時政―――女
          ∥
          ∥    平賀朝雅
          ∥   (武蔵守)
          ∥    ∥
          ∥――+―女
         牧ノ方 |
             +―北条政範
              (左馬権助)

 一向は11月3日、京都に到着したが、政範は上洛途中で病気に罹っており、上洛早々の11月5日に没した。享年十六。翌6日には「東山辺」に葬られた(『吾妻鏡』元久元年十一月廿日条)。13日に鎌倉にその報がもたらされ、時政と牧ノ方は悲嘆に暮れたという。政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀武蔵前司朝雅の邸で上洛祝いの酒宴が執り行われたが、この席で畠山重保と朝雅が争論を起こした。朋輩がなだめたため事なきを得たが、争論の原因は政範の病悩と関係があったのだろう。朝雅と重保の争論は時政と牧ノ方の怒りを買い、重保を含め、娘婿の重忠をも非として罰したとみられる。牧の方は時政の後妻として権勢を振るった女性である(牧の方の出自について)。

 その事件に関連していると思われる文書が残されている(『島津家文書』)。文書によれば某年正月十三日、「六郎ならひに二郎りやう人かかんたう(六郎重保ならびに二郎重忠が勘当)」については、「ちは殿おほせにより」て罪を免ぜられたという。文書が某年のため確実なことはいえないが、文書の内容からはこの事件が最も妥当か。この文書がこの争いのこととすれば、「ちは殿」は成胤のこととなり、成胤の存在が幕府にとっても大きなものであったことがうかがえる。

 翌承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文(政所下文か)」が発せられたが、おそらくこれより以前に成胤は下総守護職について打診を受けていたと思われ、下総国と千葉氏の縁の深さを主張し、

先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間、右大将家御時、以常胤、被補下総一国守護職之由申之…

として、常胤が頼朝より下総国守護職に任じられていたという由緒を申し述べていた。これにより、成胤下総国守護職に補任されたと思われる(『吾妻鏡』承元三年十二月十五日条)

 建暦2(1212)年7月2日、成胤御所侍所の建て直しを命じられた(『吾妻鏡』建暦二年七月二日条)。これは前月7日夜、侍所で宿直中の「伊達四郎、萩生右馬允等也」の刃傷沙汰が原因で(『吾妻鏡』建暦二年六月七日条)、互いの郎従が死亡した事件であった。伊達四郎、萩生右馬允はともに出羽国置賜郡の御家人であり、何らかの遺恨があったのだろう。この刃傷事件のため、将軍実朝が穢れを嫌い、北条義時と大江広元に侍所の建て替えを指示し、「仰千葉介成胤、可造進之由」と、成胤に造進が命じられた。これは幕府負担の建替ではなく、成胤が全て負担するものであり、成胤に贖罪を命じたことを意味するのだろう。成胤は伊達四郎、萩生右馬允のいずれかと何らかの関りがあったと推測される。

 7月9日、侍所は解体されて木材は寿福寺に寄付された。そして新侍所の造営が侍所別当・和田左衛門尉義盛図書允清原清定が奉行となって行われ、「千葉介成胤催一族等沙汰之」と、成胤は一族を挙げて造営にはげむこととなった。

和田合戦

 建暦3(1213)年2月15日、成胤は鎌倉甘縄の館を訪れた一人の僧侶を捕らえた。この僧侶を取り調べると、信濃国の御家人・泉小次郎親平の被官人・青栗七郎の弟で阿静房安念という者であることがわかった。親衡は「尾張中務丞養君」だった「故左衛門督若君」を大将軍に擁して「度相州」を計画したものであった(『吾妻鏡』建暦三年二月十六日条)。しかし、成胤は「依存忠直」であったことから阿静房を捕縛して義時に引き渡した。彼を捕らえた人物は「千葉介被官粟飯原次郎」と見える(『鎌倉年代記裏書』)

 伊那為扶――林為扶――林快次――泉公季――諏訪部快衡――泉公衡―+―泉親衡――泉満衡
(太郎)  (源太) (小太郎)(太郎) (太郎)   (二郎) |(小二郎)(孫太郎)
                                 |
                                 +―泉俊衡――泉快衡
                                 |(四郎) (四郎二郎)
                                 |
                                 +―泉頼衡――泉貞衡
                                 |(五郎) (五郎二郎)
                                 |
                                 +―泉公信――泉孫四郎
                                  (六郎)

 翌日、阿静房の自白によってこの叛乱計画に同調した御家人が次々に捕らえられ、御家人預かりとされた。その数「凡張本百三十余人、伴類及二百人」というかなり大きな義時追討計画であった様子がうかがえる。そしてこの計画には、和田義盛の子・四郎左衛門尉義直と六郎兵衛尉義重、甥の平太胤長が加わっていた。

●義時追討計画に参加した御家人

名前地頭職 備考預かり御家人
一村小次郎近村(信濃国住人) 信濃国水内郡市村庄か  北条泰時
籠山次郎(信濃国住人) 信濃国   高山小三郎重親
宿屋次郎 信濃国佐久郡宿岩村か   山上四郎時元
上田原平三父子三人 信濃国小県郡上田原   豊田太郎幹重
薗田七郎成朝 上野国山田郡薗田御厨   上條三郎時綱
狩野小太郎 上総国伊北庄か   結城左衛門尉朝光
和田四郎左衛門尉義直 相模国三浦郡和田村 和田義盛四男 伊東六郎祐長
和田六郎兵衛尉義重 相模国三浦郡和田村 和田義盛六男 伊東八郎祐広
澁河刑部六郎兼守 上野国群馬郡澁河郷 比企能員舅・澁河刑部丞兼忠の子か 安達右衛門尉景盛
和田平太胤長 相模国三浦郡和田村 和田義盛甥 金窪兵衛尉行親。安東次郎忠家
礒野小三郎 不明   小山左衛門尉朝政
保科次郎(信濃国住人) 信濃国高井郡保科御厨    
粟澤太郎父子 信濃国諏訪郡粟沢村    
青栗四郎 信濃国 青栗七郎、阿静房安念の兄弟であろう  
木曾瀧口父子(越後国住人) 越後国 不明  
八田三郎(下総国住人) 下総国 不明ながら常陸八田氏の一族か  
和田奥田太 不明    
和田奥田四郎 不明    
金太郎 (伊勢国住人) 不明    
上総介八郎甥臼井十郎(上総国住人) 上総国 下総国臼井庄の臼井十郎常俊であろう  
狩野又太郎 上総国伊北庄か    

 彼らの多くは2月27日に配流に処されているが(『吾妻鏡』建暦三年二月廿七日条)、和田義盛の子の義直義重、甥・胤長は留め置かれた。侍所別当の一族が加担するという重大事であったため、義盛の出頭まで執行されないこととなったのだろう。なぜ義盛の子らがこの義時追討計画に加担したのかははっきりしないが、この直前、義盛と実朝は義盛の上総介任官問題でぎくしゃくした関係になっていた。このような中で、義盛の子らが北条氏に遺恨を持つ人々の誘いを受け、義盛を味方に引き入れて義時や広元を討ち、実朝を廃して頼家遺児を新たな鎌倉殿にせんとする企みであったのだろう。

 上総介任官問題については、承元3(1209)年5月12日、和田義盛は「被挙任上総国司之由、内々望申之」と、上総介への挙任を「内々」に将軍実朝に訴えていて、そのことについて実朝は母の尼御台に諮ったとする。将軍の任官奏上の際、ともに御家人の任官を吹挙する例があり(※)、義盛は実朝の「右中将」任官奏上に際して「上総国司」への吹挙を望んだのだろう。ところが尼御台は「故将軍御時、於侍受領者可停止之由、其沙汰訖、仍如此類不被聴、被始例之条、不足女性口入」と答えたことで、実朝は義盛へ返答できなかったという

(※)実朝の将軍宣下が建仁3年9月7日に行われたが(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)、近臣安達景盛の右衛門尉の初出がその直後である10月8日であることから、実朝の将軍職吹挙の際ともに奏上されたと思われる。

 尼御台が義盛の受領任官に否定的な発言をしたのは、「侍」に対して受領任官を吹挙しないという頼朝の沙汰を根拠としている。ところが、義盛同様に「侍」である北条時政は、頼朝の死の直後、正治2(1200)年4月1日に遠江守に任官し(『吾妻鏡』序)、北条義時は元久元(1204)年3月6日(『鎌倉年代記』)相模守に補任されている。北条氏は「家子」であって門葉でも准門葉でもなく、さらに侍品であることから、尼御台の主張は矛盾しているように見えるが、これは代替わりに際して、若い鎌倉殿を支える「執権」への任官吹奏であって、尼御台が実質的に主導したものであろう。義盛に対する任官否定の趣旨とは事情が異なっている。

遺跡継承執権の受領任官
源頼家⇒建久十(1199)年正月26日(十八歳) 北条時政(遠江守)⇒正治二(1200)年4月1日
源実朝⇒建仁三(1203)年9月7日(十二歳) 北条義時(相模守)⇒元久元(1204)年3月6日

 義盛の上総介任官の要望については、実朝は尼台所の意を受けたためか、結局「内々」の要望に対して吹挙は行わなかった。その後、義盛は5月23日に改めて政所執事「大官令(大膳大夫中原広元)」へ「始載治承以後度々勲功事、後述懐所詮一生余執、只為此一事之由云々」を書き連ねた款状を提出して「上総国司所望」することとなるが、これは将軍実朝の任官奏上には間に合わず、朝廷は5月26日に実朝を「任右中将」じた(『吾妻鏡』承元三年五月廿六日条、『公卿補任』承元三年条)

 その後、11月27日に実朝は義盛へ「内々有御計事」につき、「暫可奉待左右之由」と伝えている。これに義盛も「殊抃悦」であったとあるから(『吾妻鏡』承元三年十一月廿七日条)、「内々有御計事」とは実朝が内々に上総介任官を吹挙したことと思われる。ところが、朝廷は翌承元4(1210)年6月17日、治天・後鳥羽院の信任厚い北面・藤原秀康を「上総介」に補任した(『吾妻鏡』承元四年七月廿日条)。結果として実朝の吹挙は実らず、実朝は次に望みを託したようである。しかし、建暦元(1211)年12月20日、義盛は上総国司挙任について「已断余執訖」として、「子息四郎兵衛尉」を大膳大夫広元のもとへ遣わして「可返給彼款状」と依頼した。驚いた広元は「先日進置御前之上、不能左右之趣」を伝えつつも、実朝へこの旨を取り次いだ。当然、実朝は「太不叶御意趣」であった。

 こうした過去のいきさつがあったことが、実朝の和田一族に対する悪感情を生んでいたのかもしれない。そして、前将軍頼家の遺児(千寿丸)を奉じた義時追討の計画に、義盛の子・四郎左衛門尉義直、六郎兵衛尉義重、甥の平太胤長が加わっていたことに怒りを禁じ得なかったのだろう。この計画は、

ということから、建仁3(1203)年に北条氏に滅ぼされた比企氏の残党によるものであったと考えられる。義盛は比企氏追討戦には幕府軍の主力として出兵しており比企氏とは敵対したことになるが、戦後、義盛が「妻妾并二歳男子等者、依有好、召預和田左衛門尉義盛、配安房国」とあることから、義盛と比企能員は友好関係にあったことがわかる。このことから、比企氏残党がその関係を通じて、実朝の不興を買った和田義盛に働きかけて蜂起を計画することは十分に考えられる。

 実際に義盛がこの叛乱計画に加わったかは不明だが、義盛はこの計画を知り、義直らを思い止まらせようとしたのではないだろうか。義盛が上総国伊北庄へ去ったのは、その表れであるかもしれない。ところが、義直らは軽率にもこの義時追討計画に加わり、発覚して捕らえられるという和田氏にとって最悪な状況を招く。四郎義直、六郎義重らが捕縛されたのは2月16日であり、当然のことながら侍所別当たる義盛にこの叛乱計画はすぐさま報告されているはずであるが、義盛が上総国伊北庄を発って鎌倉に出頭するまで二十日余りかかっており、義盛は一報を受けたのちもしばらく上総国から動かないという極めて不自然な行動をとっていたことがわかる。対応に苦慮したためかもしれない。

 このような中で、首謀者の一人・泉小次郎親衡が御所近接の違橋付近に隠れていることが発覚し、3月2日、幕府は工藤十郎を派遣して捕縛を試みるも、工藤十郎以下郎従が殺害されて、逃亡を許すという失態を演じることとなる。泉親衡の謀反計画は未然に防がれたが、この謀反計画は兵乱の噂となって各地の御家人に広まり、3月には「鎌倉中兵起之由、風聞于諸国之間、遠近御家人群参、不知幾千万」と、諸国の御家人が鎌倉へ群参する騒ぎに発展した。

 そして3月8日、和田義盛はようやく上総国伊北庄から鎌倉へ入り、御所を訪れて実朝に目通りして詫びることとなる。義盛の幕府出頭に伴って「愁子息義直、義重等勘発事、仍今更有御感、不及被経沙汰、募父数度之勲功、被除彼両息之罪名」とこれまでの義盛の勲功に免じ、子・義直と義重の両名は赦されることとなり、義盛も「施老後之眉目」と喜んで御所を退出したという。

 ところが、義盛の甥で金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家に預けられていた胤長は赦されなかったことから、翌3月9日、義盛は「引率一族九十八人」して御所に参じ、御所南庭に列して「可被厚免囚人胤長之由」を中原広元へ申請した。これは事実上の示威行為に相当しよう。ところが広元からの報を受けた実朝は「彼胤長為今度張本、殊廻計略之旨、聞食之間、不能御許容」として義盛の要求を突っぱねたうえ、預人の金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家から奉行人の山城判官行村へ渡されることとなった。義時は「重可加禁遏」という実朝の「御旨」を金窪行親、安東忠家に伝えており、胤長は罪人として縛り上げられた上、一族が列する前で行村へ渡された。実朝が胤長に嫌悪感を抱いていた様子がうかがえる。この一族の前での引き渡しが「義盛之逆心職、而由之云々」とあり、義盛は実朝や義時、中原広元へ強い反抗心が生まれたのだろう。さらにその「逆心」にさらに火をつけたのは、3月17日の胤長の陸奥国岩瀬郡への配流と胤長屋敷地の没収であろう。

 胤長屋敷地は荏柄天神社前にあり、御所の東隣であった。3月25日、この胤長屋敷地は縁故により一旦は義盛へ与えられたが、4月2日に反故にされて北条義時へ下され、義時はこれを金窪兵衛尉行親、安東次郎忠家の両名に分配した。金窪行親、安東忠家は胤長を預かっていた御家人であるが、実は義時の祇候人だったのである。胤長旧地の引き渡しの際、彼らは義盛の代官・久野谷弥次郎を追い出しており、実朝・義時・広元ら幕閣と和田義盛の対立は決定的となった。こうして義盛は親族である武蔵国の横山党に義時追討の挙兵計画を伝えることとなった。そのほか、一族の三浦義村にも挙兵を呼びかけ、御所北門の守衛を依頼している。義盛の目的はその攻撃先が御所ならびに義時と中原広元邸であったことから、彼ら義時・広元ら幕府首脳を追捕したうえ、鎌倉殿を実朝から頼家「若公」へと交代する画策であったのかもしれない。

 しかし挙兵直前の5月2日、和田義盛が頼りにしていた三浦義村が北条義時に義盛挙兵計画を告げたことから発覚。義盛は義村の寝返りを知ると歯軋りして悔しがったものの、もはや引くこともできずに挙兵。一族百五十騎を引きつれて御所、北条義時邸、中原広元邸に攻め寄せた。このときの兵火により、「剰縦火於御所、郭内室屋、不残一宇焼亡」(『吾妻鏡』建暦三年五月二日条)とあることから、前年7月から成胤が造営していた御所侍所も焼失したことになる。

 乱の当時、成胤の所在については藤原定家の『明月記』『吾妻鏡』で確認できる。『明月記』によれば、5月2日夕刻からの戦いに「千葉之党類常胤之孫子、練精兵、自隣国超来」とあることから、成胤は2月の阿静房捕縛ののち鎌倉を離れて「隣国(下総国か)」へ戻り、乱の伝聞を受けて鎌倉へ馳せ向かったことがわかる。なお、『吾妻鏡』でも5月3日に「千葉介成胤、引率党類馳参」じたとあり、幕府方として馳せ参じたことが記されている(『吾妻鏡』)

●『明月記』建保元年五月九日条

九日
…自二日夕至于四日朝、攻戦不已、如三周弄不注、義盛士卒一以当千、天地震怒、
 此間千葉之党類常胤之孫子、練精兵、自隣国超来、義盛雖兵尽矢窮、策疲足之兵、
 当新羈之馬、然尚追奔、逐北至于横大路鎌倉之前在此路云々

 2月に鎌倉を離れて下総国へ戻った理由は不明だが、頼家若公を奉じた計画に和田義盛の一族が絡んでいることが発覚したことから、義盛挙兵に備えて義時の依頼を受けて下総に下向していた可能性もあろう。結局、和田義盛が起こした騒擾は失敗に終わり、義盛一党は戦死した。

 建暦3(1213)年6月8日、「属星祭」が亀谷にあった故中原親能入道の一宇で行われた。『吾妻鏡』によれば、「千葉介常胤沙汰」とあるが、常胤はすでに故人であり、成胤が沙汰をしたのだろう。

 成胤は建保6(1218)年ごろから病に苦しみ始めたようで、4月7日、成胤の命が旦夕に及ぶことを聞いた実朝は、側近の東平太所重胤を差し遣わすことにした。重胤は成胤の従兄弟で、成胤に慇懃に「子孫事、殊可被加憐愍」を伝えるよう命じた。頼朝の挙兵以来四十年にわたって忠実に幕府に仕えつづけた成胤への功績を賞したものであった。

千葉介常胤―+―千葉介胤正――千葉介成胤
(千葉介) |(千葉介)  (千葉介)
      |
      +―東胤頼――――東重胤
       (六郎大夫) (平太所)

 重胤が成胤を見舞ってから3日後の4月10日午刻、「千葉介平成胤」は亡くなった(『吾妻鏡』)『千葉大系図』の生年を逆算すると享年は六十四歳であったことになる。法名は遠山紅雲院、仙覚院、仙光院正珍厳阿弥陀仏

■千葉介成胤の娘たち

千田尼

 執権・北条時頼の後室。詳細は千田氏

千葉尼聖光

 『結城系図』には、結城朝光の子、寒河時光・山川重光の母親は「千葉介業胤女」とあり、さらに東持寺に伝わる山川結城氏の系譜によれば「長山尼 蓮妙」の次に「千葉尼 聖光」なる人物が書かれている。そして、その聖光の娘に「了阿」という人物がおり、了阿は別の系譜によれば「播磨尼 了阿」とされ、結城朝光の妻になり重光を生んだ。つまり、千葉尼聖光は千葉介業胤(成胤)の妻播磨尼了阿の母であることがわかる。

 「親□書状」(『金沢文庫』:『鎌倉遺文』所収)によれば、承久4(1222)年正月に「千葉尼」について書かれている書状が遺されているが、娘の了阿が建保から嘉暦年中にかけて所領の譲状や安堵を受けていることから、同時代の人物と考えられ、この書状にある「千葉尼」と、千葉介成胤の妻の「千葉尼聖光」は同一人物であるとも考えられる。

●結城山川氏・千葉氏の関係図

 北条時氏――――――北条時頼
            ∥
 千葉介成胤―――+―千田尼
   ∥     |
   ∥     |
   ∥     +―千葉介時胤――千葉介頼胤
   ∥  
   ∥―――――――了阿(播磨尼)
   ∥        ∥
  聖光(千葉尼)   ∥―――――山川重光
            ∥
           結城朝光
          (結城七郎)

●「親□書状」(『金沢文庫』:『鎌倉遺文』所収)

    又いかさまにも、いかさまにも、件男か自身□□らさらんに、凡大略無正躰事候歟、
 めて候、先、近隣ニ令座給い候ける、尤為悦候、彼之間事、此にハ勿論候、
 但件千葉尼自身□儀は候はず、□邊に御伝知行しハ、見参にも申候し様ニ、
 去年収納已後事ハ、不及子細候上、去比地頭等、為同国者、不随庄務之由、訴申関東、
 御計□候て、此下文を得て候とて、彼千葉邊の僧□ハ承引し候まし、可補任遺他預所之由、
 申のぼせて候之間、以可然仁可補遺候之由、致沙汰候間行て候也、其條ヲ不審給候へバ、
 此案文ハ未進□也、件男又沙汰之由、□□不給候しと□□□了、
 子細候ハじと□此□書残不可□候ハバ、 勿論候、随御沙汰、返事可定□□他人□□左右ヲ、
 必々可仰給□思給間候、□□令申候、謹言

                           親□
   □□□阿闍梨御房

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