千葉成胤

千葉氏 千葉介の歴代
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(786-853)
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(???-???)
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(???-???)
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(???-???)
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(???-???)
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(975-1031)
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(????-????)
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(????-????)
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(????-????)
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(????-????)
千葉常胤
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千葉成胤
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(1291-1351)
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千葉胤将
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(????-1455)
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(1557-1608)
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(1557-1583)
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(1576-1633)
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千葉成胤 (1155?-1218)

生没年 久寿2(1155)年3月2日?~建保6(1218)年4月10日午刻
千葉介胤正
不明
不明
官位 不明
官職 下総権介(除目による叙任かは不明)
役職 下総国守護職
荘官 千葉庄検非違所?
所在 下総国千葉庄
法号 遠山紅雲院、仙覚院、仙光院正珍厳阿弥陀仏

 千葉氏六代。父は五代・千葉介胤正。母、妻ともに不明。久寿2(1155)年3月2日生まれ(『千葉大系図』)。通称は小太郎。読みは「なりたね」か。『結城系図』によれば「千葉介業胤(なりたね)」。 

 

 成胤は武勇に富んだ若武者として登場する。治承4(1180)年9月13日、祖父の千葉介常胤は房総半島に逃れて来た頼朝を迎えに行くため、一族を率いて上総国に向かおうとするが、常胤の六男・千葉六郎太夫胤頼が、 

当国の目代は平家の方人なり、われらが一族、ことごとく境を出でて源家に参らば、定めて凶害を挿むべし、まづこれを誅すべきか

と進言したため、常胤成胤胤頼「早く行き向かいて追討すべし」と命じ、彼らは下総目代の館(市川市国府台か)に向かった。しかし、目代は兵を多数抱えていたため、胤頼らは攻めあぐねたが、北風が強いことに目をつけて、成胤は郎党をひそかに館の裏手に回らせて火をつけた。突然の出火に目代館は混乱し、そこに胤頼が郎党を率いて押し入って目代を討ちとった。

 成胤は翌14日に千葉庄へ戻り、祖父たちの後を追って上総へと向かった。そして千葉庄の南・蘇我野まで来たとき、千田庄領家判官代である藤原親正(平重盛親族)が匝瑳北条庄の内山館から臼井庄馬渡を通過してひそかに千葉庄に乱入し、「千葉の堀込の人なき所へ押寄せて、堀の内へ火を投げかけ」た。

 成胤はこの異変を知ると「ここで私が上総に赴けば、佐殿は必ずや『逃げてきたな』と思われて父や祖父の面目にもかかわる。引ッ返せ!」と千葉庄まで馳せ戻り、結城原(現在の千葉駅付近)で親正軍とぶつかった。しかし、千葉勢のほとんどは常胤とともに上総へ向かっていたため、成胤は彼の郎党のみで立ち向かうこととなり、多勢に無勢で押されていたとき、常胤が軍勢を率いて戻ってきたため形勢は逆転し、成胤は千田庄次浦館に逃れようとする親正を捕らえた(『千学集抜粋』)

 その後の平家との戦いでは参加していた形跡はみられない。代わって、弟の境平次常秀が祖父・常胤とともに西国を転戦している。一方、奥州藤原氏との合戦では父・胤正に従って合戦に参加、みずから千葉勢の先頭に立って敵陣につっこむなどの活躍をみせる。しかし、これを聞いた頼朝は、成胤を賞しながらも「合戦に先登に進まずして、身を慎むべし」と、成胤に行動を謹むよう指示する書簡を送っている。

 文治5(1189)年4月18日、北条時政の三男の元服式が御所西侍で行われることとなった。まず、頼朝の出座とともに三献が行われ、義時が酌を取ることとなったが、「千葉小太郎成胤」が義時に代わって酌を行った。次いで時政三男が召され、三浦十郎義連を烏帽子親として元服。義連の「連」を賜り、「北条五郎時連」と称した。のち「時房」と改名、幕府を支える名臣となる。なお、娘は千葉介時胤に嫁いで千葉介頼胤を生んでおり、頼胤の外祖父になる。

 建仁3(1203)年7月、父・胤正が没すると四十八歳で家督を継承し「千葉介」となった。

 元久元(1204)年10月14日、将軍・実朝の御台所として坊門信清息女を鎌倉に迎えるため、北条時政と牧ノ方の子・北条政範(左馬権助)をはじめとして、結城朝広(七郎)・千葉常秀(平次兵衛尉)・畠山重保(六郎)・筑後朝尚(六郎)・和田朝盛(三郎)・土肥惟光(先次郎)・葛西清宣(十郎)・佐原景連(太郎)・多々良明宗(四郎)・長井義景(太郎)・宇佐美祐能(三郎)・佐々木小三郎南條平次安西四郎が上洛の途についた。すべて若武者であり、実朝好みの側近たちなのだろう。

       千葉介常胤
      (千葉介)
        ∥――――――千葉介胤正――千葉介成胤
 秩父重弘―+―女     (千葉介)  (千葉介)
(秩父庄司)|
      |
      +―畠山重能―――畠山重忠
       (畠山庄司) (次郎)
               ∥――――――畠山重保
               ∥     (六郎)
        北条時政―――女
          ∥
          ∥    平賀朝雅
          ∥   (武蔵守)
          ∥    ∥
          ∥――+―女
         牧ノ方 |
             +―北条政範
              (左馬権助)

 一向は11月3日、京都に到着したが、政範は上洛途中で病気に罹っており、上洛早々の11月5日、政範が十六歳の若さで京都に没した。亡くなった翌日には東山辺に葬られた。13日には鎌倉に政範卒去の報が鎌倉にもたらされ、時政と牧ノ方は悲嘆に暮れたという。

 また、政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀武蔵前司朝雅の邸で上洛祝いの酒宴が執り行われたが、この席で畠山重保と朝雅が争論を起こした。朋輩たちがなだめたため事なきを得たが、争論の原因は政範の病悩と関係があるのかもしれない。

 この朝雅と重保の論争は、政範の死で気を逆立たせている時政と牧ノ方の怒りを買ったのだろう。牧ノ方は娘婿である朝雅を擁護したと推測され、また牧ノ方の言いなりとなっていた時政も、実の孫である重保を含め、娘婿の重忠をも非として罰したか。

 そして、おそらくその事件に関連していると思われる文書が残されている(『島津家文書』)。文書によれば某年正月十三日、「六郎ならひに二郎りやう人かかんたう(六郎重保ならびに二郎重忠が勘当)」については、「ちは殿おほせにより」て罪を免ぜられたという。文書が某年のため確実なことはいえないが、文書の内容からはこの事件が最も妥当か。また、成胤の発言は幕府の中でも重いものだったことがうかがえる。

 承元2(1208)年7月、嫡男・胤綱が生まれた。

 翌承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文(政所下文か)」が発せられたが、おそらくこれより以前に成胤は下総守護職について何らかの打診を受けていたと思われ、下総国と千葉氏の縁の深さを主張し、

先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間、右大将家御時、以常胤、被補下総一国守護職之由申之…

として、常胤が頼朝より下総国守護職に任じられていたという由緒を申し述べていた。これにより、成胤下総国守護職についたと思われる(『吾妻鏡』)

 建暦2(1212)年7月2日、成胤御所侍所の建て直しを命じられた。これは前月7日に侍所で起こった宿直の侍の喧嘩による死傷事件が原因であった。北条義時らはとくに憚りはないと将軍・実朝に言上するが、実朝は頑として聞かず、建て替えを指示した。7月9日、侍所は解体されて木材は寿福寺に寄進、和田左衛門尉義盛清図書允が奉行となり、成胤は一族を集めて造営にはげんだ。

 建暦3(1213)年2月、成胤は鎌倉甘縄の館において一人の僧侶を捕らえた。この僧侶を取り調べると、信濃国の泉親衡(小次郎)の家臣・青栗七郎の弟で阿静房安念という者であることがわかった。親衡は頼家の遺児・千寿丸を擁して挙兵を計画し、北条氏と対立していると思われる有力御家人に密使を送って協力を求めていた。しかし、成胤と北条義時は仲が良く、成胤は被官の粟飯原次郎に命じて阿静房を捕らえ、北条館に連行。彼の自白によって、和田義盛の甥・胤長(平太)と義盛の子・義直(四郎左衛門尉)・義重(六郎兵衛尉)がこの計画に参加していたことがわかった。これを知った義時は、手勢を和田館に差し向けて胤長らを逮捕した。

 この時、義盛は所領の上総国伊北庄で政務を見ていたが、事件を聞いてあわてて鎌倉へ向かい、翌月、鎌倉に着いた義盛は将軍・実朝に目通りして無実を訴えた。実朝は義時を説得し、義盛の子である義直・義重については、父のこれまでの功績に免じて赦されたが、甥の胤長は許されず、これに反発した義盛は一族九十八人を引き連れて胤長の赦免を訴えたが、義時は「これは幕府の決定である」として、縄にした胤長を居並ぶ和田一族の面前を歩かせて連れていった。義盛はこの侮辱に怒り、従兄弟の三浦義村に協力を求めて、義時排斥の計画を練った。

 しかし挙兵直前の5月2日、突然義村が義時に密告したため計画が発覚。義盛は歯軋りして悔しがったものの、もはや引くこともできずに鎌倉の館で挙兵。一族百五十騎を引きつれて幕府に攻め込んだ。成胤はこれを聞くと、5月3日、一族の精兵を率いて幕府方として馳せ参じた(『吾妻鏡』)。成胤の参戦は藤原定家の『明月記』にも記載があり、

●『明月記』建保元年五月九日条

九日
…自二日夕至于四日朝、攻戦不已、如三周弄不注、義盛士卒一以当千、天地震怒、
 此間千葉之党類常胤之孫子、練精兵、自隣国超来、義盛雖兵尽矢窮、策疲足之兵、
 当新羈之馬、然尚追奔、逐北至于横大路鎌倉之前在此路云々

 成胤は和田義盛が挙兵した当時鎌倉にはおらず「隣国(=下総か)」にいたことが窺えるが、2月には鎌倉の館にいて、和田胤長、和田義重、和田義直の謀反の計画を明らかにした後、5月までの間に鎌倉を離れていることになる。これは和田義盛の所領が上総国伊北庄にあったため、その挙兵に備えて義時から指示されて下総に下向していたのかもしれない。結局、和田義盛の反乱は失敗し、義盛一党は戦死した。

 建暦3(1213)年6月8日、「属星祭」が亀谷にあった故中原親能入道の一宇で行われた。『吾妻鏡』によれば、「千葉介常胤沙汰」とあるが、常胤はすでに故人であり、成胤が沙汰をしたのだろう。

 成胤は建保6(1218)年ごろから病に苦しみ始めたようで、4月7日、成胤の命が旦夕に及ぶことを聞いた実朝は、側近の東平太所重胤を差し遣わすことにした。重胤は成胤の従兄弟で、成胤に慇懃に「子孫事、殊可被加憐愍」を伝えるよう命じた。頼朝の挙兵以来四十年にわたって忠実に幕府に仕えつづけた成胤への功績を賞したものであった。

千葉介常胤―+―千葉介胤正――千葉介成胤
(千葉介) |(千葉介)  (千葉介)
      |
      +―東胤頼――――東重胤
       (六郎大夫) (平太所)

 重胤が成胤を見舞ってから3日後の4月10日午刻、「千葉介平成胤」は亡くなった(『吾妻鏡』)『千葉大系図』の生年を逆算すると享年は六十四歳であったことになる。法名は遠山紅雲院、仙覚院、仙光院正珍厳阿弥陀仏

■千葉介成胤の娘たち

千田尼

 執権・北条時頼の後室。詳細は千田氏

千葉尼聖光

 『結城系図』には、結城朝光の子、寒河時光・山川重光の母親は「千葉介業胤女」とあり、さらに東持寺に伝わる山川結城氏の系譜によれば「長山尼 蓮妙」の次に「千葉尼 聖光」なる人物が書かれている。そして、その聖光の娘に「了阿」という人物がおり、了阿は別の系譜によれば「播磨尼 了阿」とされ、結城朝光の妻になり重光を生んだ。つまり、千葉尼聖光は千葉介業胤(成胤)の妻播磨尼了阿の母であることがわかる。

 「親□書状」(『金沢文庫』:『鎌倉遺文』所収)によれば、承久4(1222)年正月に「千葉尼」について書かれている書状が遺されているが、娘の了阿が建保から嘉暦年中にかけて所領の譲状や安堵を受けていることから、同時代の人物と考えられ、この書状にある「千葉尼」と、千葉介成胤の妻の「千葉尼聖光」は同一人物であるとも考えられる。

●結城山川氏・千葉氏の関係図

 北条時氏――――――北条時頼
            ∥
 千葉介成胤―――+―千田尼
   ∥     |
   ∥     |
   ∥     +―千葉介時胤――千葉介頼胤
   ∥  
   ∥―――――――了阿(播磨尼)
   ∥        ∥
  聖光(千葉尼)   ∥―――――山川重光
            ∥
           結城朝光
          (結城七郎)

●「親□書状」(『金沢文庫』:『鎌倉遺文』所収)

    又いかさまにも、いかさまにも、件男か自身□□らさらんに、凡大略無正躰事候歟、
 めて候、先、近隣ニ令座給い候ける、尤為悦候、彼之間事、此にハ勿論候、
 但件千葉尼自身□儀は候はず、□邊に御伝知行しハ、見参にも申候し様ニ、
 去年収納已後事ハ、不及子細候上、去比地頭等、為同国者、不随庄務之由、訴申関東、
 御計□候て、此下文を得て候とて、彼千葉邊の僧□ハ承引し候まし、可補任遺他預所之由、
 申のぼせて候之間、以可然仁可補遺候之由、致沙汰候間行て候也、其條ヲ不審給候へバ、
 此案文ハ未進□也、件男又沙汰之由、□□不給候しと□□□了、
 子細候ハじと□此□書残不可□候ハバ、 勿論候、随御沙汰、返事可定□□他人□□左右ヲ、
 必々可仰給□思給間候、□□令申候、謹言

                           親□
   □□□阿闍梨御房

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