平忠常

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1136-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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平忠常  (975?-1031)

生没年 天延3(975)年9月13日?~長元4(1031)年6月6日
別名 忠経(『正六位上平朝臣常胤寄進状』)
平経明(陸奥介平忠頼?)
左京大夫藤原教宗女(伝)
平将門女(伝)
官位 不明
官職 上総介(『百練抄』『日本紀略』)
下総権介(『応徳元年皇代記』)
武蔵押領使
所在地 下総国(『日本紀略』、『左経記』)
法号 常安

 良文流平氏四代当主。平経明の子(系譜では陸奥介平忠頼の子)。母は左京大夫藤原教宗女とも平将門女とも(左京大夫教宗の実在は確認できない)。官途は上総介、下総権介

 父は一般には「平忠頼」とされるが、平安時代後期に子孫の千葉介常胤が相馬郡を伊勢内外二宮に寄進した久安2(1146)年の寄進状である久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状』と、相馬郡をめぐる左兵衛少尉源義宗との争いの中で、自家が相馬郡を正当に継承してきたことを伊勢神宮に訴えた永暦2(1161)年の永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解案』には、

是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而自経兼五郎弟常晴相承之当初、為国役不輸之地…

とあり、平安時代後期には、千葉氏の祖は「忠頼」ではなく「経明」と認識されていたことになる。 これを系譜に直すと、以下のようになる。

 平良文―経明忠経―経政―経長―+―経兼―常重
                 |
                 +―常晴

 「平忠頼」は寛和2(986)年ごろ、「忠光」とともに、平繁盛(平国香の子で陸奥守貞盛の弟)の使者を武蔵国で追い払っている。寛和3(987)年正月24日の太政官符によれば、繁盛は忠頼・忠光を「旧敵」と呼んでおり、両者の間には何らかの確執があったことがわかる。忠頼と忠光の関係は『続左丞抄』に記載はないが、平安時代末期成立の『掌中歴』『懐中歴』をベースとする『二中歴』によれば「陸奥介忠依、駿河介忠光忠依弟とあり、兄弟であることがわかる。

陸奥介平忠頼、忠光等、移住武蔵国、引率伴類、運上際可致事煩之由、普告隣国連日不絶
(寛和三年正月廿四日『続左丞抄』:『国史大系』)

 一方、「忠経(平忠常)」は、凡そ長保2(1000)年頃にはすでに両総に勢力を広げており、常陸介源頼信と合戦して家人となっていることから、寛和3(987)年に活躍していた忠頼・忠光との活動時期はほぼ同一とみてよいだろう。世代的なことや「忠頼」「忠光」「忠常」の通字(当時の通字は兄弟で共通字を用いる傾向にあった)を考えると、忠頼忠光忠常は兄弟であり、忠頼は陸奥国、忠光は駿河国から武蔵国へ移り、忠常は父祖の下総国に残っていたと考えることもできよう。

 また、忠常の父は平良兼流「平致経」とされるものも存在し、奥州千葉氏や新渡戸氏、郡上東氏の一部の系譜に認められる。ただし、「平致経」は伊勢の住人で忠常と同時期に伊勢で同族の平正輔と闘争して朝廷からの譴責を受けていることから、史実ではないだろう。

 平高望―+―平良兼―+―平公雅―――+―平致利   +―平致経――?―平忠常
(上総介)|(下総介)|(上総掾)  |(出羽守)  |(左衛門大尉)(上総介)
     |     |       |       |
     |     |       +―平致成   +―平公親――――平公経
     |     |       |(出羽守)  |(内匠允)
     |     |       |       |
     |     |       +―平致頼―――+―平公致
     |     |       |(備中守)
     |     |       |
     |     |       +―平致光
     |     |       |(大宰大監)
     |     |       |
     |     +―平公連   +―平致遠
     |      (下総権少掾)
     |
     +―平良文―――平経明―――+―平忠頼===?=平忠経
      (五郎)         |(陸奥介)   (上総介)
                   |
                   +―平忠光
                   |(駿河介)
                   |
                   +―平忠経―――――平経政――――平経長
                    (上総介)  

●桓武平氏の活躍時期と世代(野口実氏『中世東国武士団の研究』を参考に一部改変して作成)

初代 ニ代 三代 四代 五代
国香
・935没
貞盛
・940頃活躍
・947鎮守将軍
・972丹波守叙任
・974陸奥守
・976馬を貢進
維敏
・982検非違使尉に推薦
・990頃、肥前守
・994没
   
維将
・973左衛門尉
・994肥前守
維時
・988右兵衛尉在任
・1016常陸介在任
・1029上総介叙任
・1028上総介辞任
直方
・1028忠常追討使
・1028追討使更迭
維叙
・973右衛門少尉在任
・996前陸奥守
・999常陸介在任(維幹の誤)
・1000頃常陸介
・1012上野介在任
・1015上野介辞任
維輔
・1005検非違使任
 
維衡
・974左衛門尉在任
・998伊勢で致頼と合戦
・1006伊勢守→上野介
・1020常陸介
・1028郎従が伊勢で濫妨
正輔
・1019伊勢で致経と合戦
・1030安房守
 
繁盛
・940頃活躍
・986忠頼らと紛争
維幹
999常陸介在任
・1016左衛門尉在任
為幹
・1020常陸で濫妨
 
兼忠
・980出羽介→秋田城介
・1012以前没
維茂
・1012鎮守将軍
・1017以前没
 
維良(維吉)
・1003下総国衙焼討
・1012頃鎮守将軍
・1018陸奥国司と乱闘
・1022没
 
良兼
・931将門と紛争
・939没
公雅
・940上総掾
・942武蔵守
致頼
・998伊勢で維衡と合戦
・1011没
致経
・1019伊勢で正輔と合戦
 
公連
・940押領使
・940下総権少掾
     
良持
・?
将門
・935国香討つ
・939没
     
良文
・?
経明(系譜未載) 忠頼(系譜上は良文男)
・986陸奥介在任
   
忠光
・986駿河介?
   
忠常(系譜上は忠頼男)
・1000~1012源頼信家人
・1027安房国司を焼殺
・1028以前上総介辞
・1031没
常昌
・1031降伏
 
常近
・1031降伏
 

忠常の前半生

 忠常の前半生はまったく知られていないが、後述のように、源頼信が常陸介として下向していた時期の長保2(1000)年頃から寛弘9(1012)年頃には、忠常「下総国住人」として下総国を本拠に上総国にも影響力を持つほどの勢力を持っていた。また、忠常は常陸国の「左衛門大夫平惟基」と予てから敵対関係にあり「惟基ハ先祖ノ敵」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)と述べている。どのような対立関係かは不明。平忠常の父・平経明は下総国相馬郡を私領とし永暦二年二月廿七日『正六位上行下総権介平朝臣常胤解案』、このほか子孫の分布をみると大須賀保や印東庄、橘庄など香取郡の内海に面した土地にも私領を有したとみられるため、内海を通じた対立関係が続いていた可能性もある。

 10世紀末、忠常がどこにいたのかは不明だが、忠常は下総国を本拠に勢力を伸ばし、長和元(1012)年以前に上総国まで勢力を広げた。また、忠常は公家の日記や『日本紀略』等の朝廷の記録に「前上総介」とあることや、同族の平維時平兼忠が上総介に、平正輔が長元3(1030)年3月29日に「安房守」にそれぞれ補されている(『日本紀略』)ことからも、忠常は除目による「上総介」補任であることは間違いない。ただし、その時期は不明(時期の考察)。

■桓武平氏略系図(太字は貞盛の子、および養子になったと思われる人物)

 平高望―+―国香―――+―貞盛――――+―維敏
     |(常陸大掾)|(鎮守府将軍)|(肥前守)
     |      |       |
     |      |       +―維将――――維時――――直方
     |      |       |(肥前守) (上総介) (右衛門少尉)
     |      |       |
     |      |       +=維叙――――維輔
     |      |       |(常陸介) (左衛門尉)
     |      |       |
     |      |       +―維衡―――………………―清盛
     |      |        (伊勢守)
     |      |        
     |      +―繁盛――――+―維幹―――………………―常陸大掾家
     |       (武蔵権守) |(常陸大掾)
     |              |
     |              +―維忠
     |              |(出羽守)
     |              |
     |              +―兼忠――+―維茂
     |               (上総介)|(鎮守府将軍)
     |                    |
     |                    +―維良(維吉)
     |                     (鎮守府将軍)
     |
     +―良持―――――将門――――――娘
     |(鎮守府将軍)(小次郎)   (忠頼妻?)
     |
     +―良文―――――経明――――――忠常
      (陸奥守)          (上総介)

平忠常、源頼信と戦い降伏、家人となる(『今昔物語集』説話)

 『今昔物語集』には、河内源氏の源頼信「常陸守(常陸介)のときに忠常と下総国に戦い、降伏した話が伝わっている(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)

●『今昔物語集』巻廿五 第九「源頼信朝臣責平忠恒語」

下総国平忠恒ト云フ兵有ケリ、私ノ勢力極テ大キニシテ、上総下総ヲ皆我マゝニ進退シテ、公事ヲモ事ニモ不為リケリ、亦、常陸守ノ仰ヌル事ヲモ、事ニ触レテ忽緒ニシケリ大キニ此レヲ咎メテ、下総ニ超テ忠恒ヲ責メムト早ルヲ、其国ニ左衛門大夫平惟基ト云フ者有リ、此ノ事ヲ聞テニ云ク、彼ノ忠恒ハ勢有ル者也。亦其ノ栖、飄ク人ノ可寄キ所ニ非ズ、然レバ少々ニテハ世ニ被責不侍ラ、軍ヲ多ク儲テコソ超サセ給ハメ、此レヲ聞テ然リト云トモ此テハ否不有マシト云テ、只出立ニ出立テ下総ヘ超ユルニ、惟基三千騎軍を調ヘテ、鹿嶋ノ御社ノ前ニ出来会タリ、然許白ク広キ浜ニ廿町許カ程ニ朝ノ事ナレハ弓ノ限リ朝日ニ鑭メテ見ヘケリ、ハ舘ノ者共、国ノ兵共打具シテ二千人許ソ有ケル、然レハ此ク軍共ノ勢、子島ノ郡ノ西ノ浜辺ヲ打立タリケルカ人トハ不見エテ、鑭々ト為ル弓ノミシテ雲ノ如クナム見ヘケル、世ノ昔物語ニコソスレ、未タ此許ノ軍勢不見トソ人奇異カリケル、衣河ノ尻ヤカテ海ノ如シ、鹿島梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ、顔不見ヘ程也、而レハ彼ノ忠恒カ栖ハ内海ニ遥ニ入タル向ヒニ有ル也、然レハ責ニ寄ルニ此ノ入海ヲ廻テ寄ナラム、七日許可廻シ置クニ、海ヲ渡ラハ今日ノ内ニ被責ヌヘケレハ、忠恒勢有ル者ニテ、其ノ渡ノ船ヲ皆取リ隠シテケリ、然ルハ可渡キ様モ無クテ、浜辺ニ皆打立テ、可廻キニコソ有ヌレナト、若干ノ軍共思ヒタルニ、大中臣成平ト云者ヲ召テ小船ニ乗セテ忠恒カ許ニ遣ス、仰セテ云ク、不戦ト思ハゝ速ニ参来、其レヲ尚不用ハ否返リ、不敢シ只船ヲ下様ニ趣ケヨ、其レヲ見テ渡ラムト、成平此レヲ承テ、小船ニ乗テ行ヌ、而ル間、惟基馬ヨリ下テノ馬ノ口ニ付クヲミテ、若干ノ軍共馬ヨリハラゝゝト下テ持行ク、風草ヲ吹クニ似タリ、下ルゝ音ハ風ノ吹カ如シ、而ル間成平船ヲ下様ニ趣ク、忠恒ノ返事ヲ申ケル様、守殿止事無ク御座ス君也、須可参シト云トモ惟基ハ先祖ノ敵也、其レカ候ハム、前ニ下リ蹉キテナム、否不候マジキト、亦渡ニ船无クシテ、何カ一人ハ參ラムト云ケレバ、船ヲ下樣ニ趣クル也ケリ、斯ヲ見テ云ク、此ノ海ヲ廻リテ寄ラバ、日来経ナムトス、而レバ逃ゲ亡ナム、亦不寄マジキ構ヲモシテム、今日ノ内ニ寄テ責ムコソ、彼ノ奴ハ案ノ外ニテ迷ハシテ、其レニ船ハ皆隠レタリ、何カセムトスルト、若干ノ軍兵ニ仰スル時 二軍兵ノ申サク他ノ事候ハズ廻テナム奇ラセ給ベキトノ云ク、頼信坂東ハ此度ナム始メテ見ル然レバ道ノ案内可知キニ非ズ、然レドモ家ノ傳ヘニテ聞キ置ケル事有リ、此ノ海ニハ浅キ道堤ノ如クニテ、廣サ一丈許ニテ直ク渡リケリ、深サ馬ノ太腹ニナム立ツナル、其ノ道ハ定メテ此ノ程ニコソ渡タラメ、此ノ軍ノ中ニ論无ク其ノ道知リタル者有ラム、然レバ、前ニ打チテ渡レ、頼信其レニ付キテ渡ラムト云ヒテ、馬ヲ掻キ早メテ打チ寄リケレバ、真髮ノ高文ト云フ者有テ、己レ度々罷リ行ク渡リ也、前馬仕ラムト云テ、葦ヲ一束従者ニ持セテ打下シテ、尻ニ葦ヲ突差々々渡リケレバ、此レヲ見テ他ノ軍共モ悉ク渡リケルニ、游グ所二所ゾ有ケル、軍共五六百人許渡リニケレバ、其ノ次ニナムハ渡ケル、多ノ軍ノ中二三人許ナム此ノ道ヲバ知タリケル、其ノ外ハ露聞ニダニ不聞ザリケレバ、此ノ守殿ハ此ノ度コソ此方ハ見給フラメ、其レニ我等ダニ不知ニ、何カデ此ク知リ給ヒケム、尚人ニハ勝レタル兵也トナム皆思テ恐ヂ合ケル、然テ、渡リ持行クニ、忠恒ハ、海ヲ廻テ寄来テ責給ハム、船ハ取隠シタレバ、否渡リ不給ト、此ノ浅キ道ハタ否不被知ジ、我ノミコソ知タレ、廻ラム程ニ日来経バ迯ナムニハ、否責メ不給ハラムト、静ニ思テ軍調へ居タル程ニ、家ノ廻ニ有ル郎等走ラセ来テ告テ云ク、常陸殿ハ、此ノ海ノ中ニ浅キ道ノ有ケルヨリ、若干ノ軍ヲ引具シテ既ニ渡リ御スルハ、何ガセサセ給ハムト為ルト、横ナハリタル音以テ周立早云ケレバ、忠恒兼テノ支度大キニ違ウテ、我レハ被責ヌルニコソ有ナレ、今ハ術无シ術无シ、進ラムト云テ、忽ニ名符ヲ書テ、文差ニ差テ、怠状ヲ具シテ、郎等ヲ以テ小船ニ乗セテ、向テ寄セタリケレバ、此レヲ看テ、名符ヲ令取テ云ク、此許名符ニ怠狀ヲ副テ奉レルハ、既ニ■■シニタル也、其レヲ強ニ責可罸キニ非スト、速ニ此レヲ取テ可返キ也」云テ、馬ヲ取テ返シケレバ、軍共モ皆返リニケリ、其後ヨリナム、此ノヲバ艶ズ極ノ兵也ケリト知テ、皆人弥ヨ恐ヂ怖レケリ、其ノノ子孫止事无キ兵トシテ公ケニ仕リテ、于今栄テ有トナム語リ傳ヘタルトヤ

 頼信が下総国に忠常を攻めるという話を聞いた「左衛門大夫平惟基」は、

彼ノ忠恒ハ勢有ル者也、亦其ノ栖、輙ク人ノ可寄キ所ニ非ズ、然レバ少々ニテハ世ニ被責不侍ラ、軍ヲ多ク儲テコソ超サセ給ハメ

と大軍を以って攻めることが肝要と説いた。こうして「惟基」三千騎の軍勢を整えて鹿島宮の社前に集結。また頼信「舘ノ者共国ノ兵共」二千人ばかりを集めて「鹿島ノ郡ノ西ノ浜辺」に集まった(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)

 忠常の当時の本拠は、

…衣河ノ尻ヤガテ海ノ如シ、鹿島梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ顔不見エ程也、而ニ彼ノ忠恒ガ栖ハ、内海ニ遥ニ入リタル向ヒニ有ル也、然レバ責寄ニ、此入海ヲ廻テ寄ナラバ七日許可廻シ、直グニ海ヲ渡ラバ、今日ノ内ニ被責ヌベケレバ…

という位置にあった。

 「衣河(キヌガワ)」とは現在の小貝川(こかいがわ)のことで、この「衣河ノ尻」つまり小貝川から香取海(内海)にそそぐ河口部分は、現在の竜ケ崎市から利根町のあたりにあり、幾重にも分かれた小川が蛇のように複雑に流れる(蛟蛧)湿地帯であった。忠常の所在地はこの「内海」の「遥」か奥の「向ヒ」にあったとされている。「良文朝臣」以来忠常も私有し、のちに千葉常重・常胤や源義宗が伊勢神宮に寄進した相馬御厨の東限は「須渡河江口(竜ケ崎市須藤堀町周辺)で、まさに「内海ニ遥ニ入リタル向ヒ」に相当する。このことから、忠常の居住地は、香取郡大友よりも相馬郡のほうが妥当であろう。そもそも大友であれば、鹿嶋社から陸路銚子を経て向かったとしても「海ヲ廻テナラバ七日許可廻シ」もかからない。そのほか、

(1)相馬郡は大友に比べて下総国府(市川市)・上総国府(市原市)ともに近い。
(2)相馬郡の内海沿いには陸の官道や駅、郡衙が存在し、東西の水運・軍事・流通の要であった。
(3)両総平氏は相馬郡を「平良文朝臣」以来の私領として大変に尊重している。

 といった理由が上げられ、この点においても香取郡大友とは地理的な重要性にかなりの差が見られる。

●房総平氏と相馬氏●

⇒平常長―――+―千葉介常兼―千葉介常重―――――千葉介常胤―+―千葉介胤正
(上総権介) |(下総権介)(下総権介)    (下総権介) |(千葉介)
       |       ↑  ↑      ↑     |
       |       |  |      |     +―相馬師常
       |   相馬郡譲渡  対      立      (次郎)
       |   ↑       |
       |   |       ↓
 相馬郡継承⇒+―相馬常晴―――――平常澄――+―平広常
        (上総権介)   (上総権介)|(上総権介)
                       |
                       +―相馬常清
                        (九郎)

 さて、鹿島宮の西の浜辺に滞陣した頼信・惟基の軍勢だが、「其ノ渡ノ船ヲ皆取リ隠シテケリ、然ルハ可渡キ様モ無クテ、浜辺ニ皆打立テ、可廻キニコソ有ヌレナト」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)と、舟はすでに忠常に奪取されており、内海を渡る術がなかった。内海の舟を忠常は内海の権益に影響力を及ぼしていた様子がうかがえる。このため、頼信は常陸国衙在庁と思われる「大中臣成平」を召し、彼を使者として忠常のもとに派遣し、

不戦ト思ハバ速ニ参来、其レヲ尚不用バ否返リ不敢、只船ヲ下様ニ趣ケヨ、其ヲ見テ渡ラム

 と最後通牒を送り、不戦で降伏させようと試みた。その後、忠常のもとから戻った成平は、

守殿止事無ク御座ス君也、須ク可参シト云トモ、惟基ハ先祖ノ敵也、其カ候ハム前ニ下リ跪キテナム否不候マジ

と、頼信を尊重しているが、その麾下にいる先祖の敵・惟基の前に跪くことはできないと、降伏を断った。そこで頼信は内海の縁を廻って攻めるべきだとする軍兵の反対を押し切り、忠常の裏をかいて、今日中に海を渡って進発することを命じた。舟の無い中で海を押し渡ることについて頼信は、

此海ニハ浅キ道堤ノ如クニテ、広サ一丈許ニテ直ク渡リケリ、深サ馬ノ太腹ニナム立ツルナル、其ノ道ハ定メテ此程ニコソ渡ラメ、此軍ノ中ニ論無ク其ノ道知タル者有ラム、然ラハ前ニ打テ渡レ、頼信其ニ付テ渡ラム

と、浅瀬を渡って対岸へ向かうことを提案。ここに「真髪ノ高文」という人物が名乗りをあげ、浅瀬を案内した。二度ばかり泳ぐ箇所があったものの、頼信は軍勢のうち五、六百人あまりとともに下総国へ上陸した。このとき忠常は、頼信らには舟がないため、陸路を廻ってくるものとして策を立てていたが、郎従らがあわてて忠常のもとへ飛び込み、

常陸殿ハ此海ノ中ニ浅キ道ノ有ケルヨリ、若干ノ軍ヲ引具シテ既ニ渡リ御スルハ、何カセサセ給ハム

 と狼狽して言うと、忠常も計画が水泡に帰したことを悟り、

今ハ術無術無進テム

と降伏を決意。「名符」と「怠状」を具し、郎従に持たせて小舟で頼信の陣所へ遣わした頼信「不戦ト思ハバ速ニ参来」という考えであり、降伏したのちは「強チニ責メ可罰キニ非ズ、速ニ此ヲ取テ可返キ也」と言って、軍勢を常陸へ返したという(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)。「名符=名簿」を差し出すことは臣従の意味合いがあり、忠常頼信の家人となった。

『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」は史実か?

 この『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」の説話はいつの事なのだろうか。そして史実なのだろうか。

 説話では源頼信が常陸介だった時期の出来事であるが、源頼信「常陸守(常陸介)だった期間の頼信に関する記録は残念ながら遺されていない。実はこの説話には時期的・制度的矛盾点があり、史実としては不審が大きいのである。

●源頼信の官途

 まず、10世紀末から11世紀初頭の源頼信の官途を見てみる。

 頼信の初見は寛和3(987)年2月19日の慧心院造営功による叙位で、当時左兵衛尉であった(『小右記』寛和三年二月十九日条)。永承3(1048)年9月1日、七十五歳で卒去(『系図纂要』)とすると、14歳のときとなる。

 正暦5(994)年3月6日、朝廷は「召武勇人源満正朝臣、平惟時朝臣、源頼親、同頼信等、差遣山々、令捜盗人」(『日本紀略』)とあるように、叔父満政や兄の頼親らとともに武勇の人として認識されていた。当時21歳である。この直後に上野介に補任されたとみられ、長保元(999)年9月2日には「上野守(上野介)として藤原道長に馬を献じている(『御堂関白記』長保元年九月二日条)。頼信は受領として上野国に赴任しており、『今昔物語集』にその記述がみられる。

●「藤原親孝為盗人被捕質依頼信言免」(『今昔物語集』語第十一)

今昔、河内守源頼信朝臣、上野守にて其国に有ける時、其の乳母子にて兵衛尉藤原親孝と云者有けり、其れも極たる兵にて頼信と共に其の国に有ける間、其の親孝か居たりける家に盗人を捕へて打付けて置たりけるか…

 その後、頼信は常陸介に転任している。補任時期は明確ではないが、寛弘9(1012)年閏10月23日に「前常陸守」(『御堂関白記』寛弘九年閏十月廿三日条)とあるので、寛弘9(1012)年以前に常陸介だったことがわかる。

●平維幹の官途

 平維幹は出羽守繁盛の子で、伯父の陸奥守貞盛の養子になった人物。常陸大掾家や奥州伊達家の祖である。

 平国香――――平繁盛        +―平為幹―――…―大掾家              +―伊佐為宗
(鎮守府将軍)(出羽守)       |(散位)                      |(皇后宮大進)
        ∥          |                          |
        ∥―――――平維幹――+―平為賢―――………――――――――――常陸入道――+―伊達為家
        ∥    (陸奥守)  (散位)               (西念)   |(右衛門尉)
        ∥                                     |
 貞純親王―+―女子                                    +―大進局
      |                                         ∥
      +―源経基―+―源満仲――+―源頼光                        ∥
       (武蔵介)|(陸奥守) |(摂津守)                       ∥
            |      |                            ∥
            +―源満政  +―源頼親                        ∥
             (陸奥守) |(大和守)                       ∥
                   |                            ∥
                   +―源頼信――源頼義――源義家――源為義――――源義朝――源頼朝
                    (河内守)(陸奥守)(陸奥守)(左衛門大尉)(下野守)(権大納言)

 長保元(999)年12月9日、常陸介維幹朝臣、先年所申給、崋山院御給爵料不足料絹廿六疋及維幹名簿等送之、以維幹可預栄爵者、維幹余僕也、進馬三疋毛付、以院判官代為元令奉絹及維幹名簿等」(『小右記』長保元年十二月十一日条)と見えるように、長保元年当時は常陸介であった。このとき、維幹は私君である中納言実資に先年「崋山院恩給」による昇進を依頼していたが、爵料が不足しており叶わなかった。そこで維幹は「不足料絹廿六疋」と「維幹名簿」を実資に馬三疋とともに送付した。これを受けた実資は花山院判官代為元を通じて花山院に奉献し、御給による維幹の昇進を依頼している。この願いは二日後の12月11日、「為元朝臣来、院仰云、常陸介維敍(維幹)朝臣進絹令納給了、但以明年御給栄爵可給維幹之由可仰遣者」(『小右記』長保元年十二月十一日条)と、明年正月縣召除目により維幹の「御給栄爵」が決定された旨が実資に伝えられている。これにより長保2(1000)年正月22日の「除目儀」(『権記』長保二年正月廿二日条)「院宮御給」「以上今日可給、又任国公事究済旧吏一束」と見え、常陸介維幹が常陸国の公事を究済していた場合は、おそらくこの御給によって叙爵(従五位下)したのだろう(ただしその後の維幹の官途は伝わらない)。なお、同日条の「常陸介維敍」(『尊卑分脈』の註では「実右大将(済)時卿男」と見える)は、文意から見ても維幹の従兄弟維敍を指しているのではなく「常陸介維幹」の誤記であることは間違いない。維敍が常陸介になったのは、維幹の後である。

 維幹のあとの常陸介は、頼信に至るまでには少なくとも二名は補任されたと考えられる。維幹の後任国司二人(後述の通り、従兄弟の平維敍、その後は藤原師長か)がそれぞれ四年の任期を満期務めたとすれば、頼信の常陸介任官期間は、寛弘4(1007)年正月26日の縣召除目(『権記』寛弘四年正月廿六日条)から寛弘8(1011)年2月2日の除目以前までと推測される。

(長保元(999)年九月)
二日辛巳金危 上野守頼信五疋 一疋田鶴料駒也

(常陸介:平維叙)
(常陸介:藤原師長)
(常陸介:源頼信)

(寛弘八(1011)年二月)
二日 諸卿上受領挙策聞書除目、常陸守藤原通経、後書送云藤原信通、又少選云猶通経也云々、此間縦横、其心鬱結説之、執筆人誤通経書信通、仍被仰清書上、被改書通経

(寛弘九(1012)年閏十月)
廿三日丁亥 物忌依昨日、出羽親平献馬六疋、入夜前常陸守頼信献馬十疋

 なお、維幹叔父の平維敍の官途は、永観元(983)年8月の除目で「任肥前国守(当時従五位下)(『類聚譜宣抄』八 任符事)、次いで正暦2(991)年正月の除目で陸奥守に補任されたとみられ、正暦元(990)年時点の現任陸奥守(『本朝世紀』)藤原国用の後任「陸奥守維敍」として陸奥国に「著任」(『北山抄』吏途指南)する。その後、正暦6(995)年正月13日の縣召除目で左近衛中将実方が陸奥守に補任(『中古歌仙三十六人伝』)されるまで陸奥国に赴任し、任期満了後は帰京して三、四年後に「常陸ノ守」に補任されたという(『今昔物語集』卅二「陸奥国神報平維叙語」)。藤原隆家らが花山院を射た罪で邸を囲まれた長徳2(996)年5月当時、内裏は「内には陣に陸奥の国の前守維敍、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親など云ふ人々」が護衛した(『栄花物語』)とあり、維敍の陸奥守離任と推定する正暦6(995)年と矛盾はない。ここから三、四年後に常陸介に補任されたとすれば、維敍の常陸介任官期間は、維幹が常陸介在任が確認できる長保元(999)年12月以降(正暦6(995)年の陸奥国よりの上洛から三、四年後の常陸介補任)、長保6(1004)年正月までと推測されるため、維幹の後任常陸介が維敍であろう

 その後十年余りの間、維敍の名は史料から見えなくなるが、長和元(1012)年閏10月17日には「上野守維敍、献馬十疋」(『御堂関白記』長和元年閏十月十七日条)と見えることから、この時期には上野介在任中であったことがわかる。その後、長和4(1015)年8月27日に任期途中で「上野守維敍辞退、仍被任弾正小弼定輔」と上野介を辞退した(『御堂関白記』長和四年八月廿七日条)。おそらく病のためか。翌長和5(1016)年5月15日に「前上野介維敍、今日可出家之由、昨日令申摂政殿云々、仍差忠時問遣、即帰来云、近日所労更発、未死前、今朝遂本意了者、重令労問」(『小右記』長和五年五月十五日条)とあり、当時病で出家したことがわかる。その後、病は快復したのか、翌寛仁元(1017)年9月17日、「維敍法師、献馬一疋」(『御堂関白記』寛仁元年九月十七日条)している。それから一月後の寛仁元(1017)年10月16日に亡くなったという(『系図纂要』)

『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」の矛盾点

 『今昔物語集』にみられる忠常が「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べる「左衛門大夫平惟基」は、通説では上記の平維幹と同一人物とされている。ところがこの説話には矛盾があるのである。

(1)平維幹=左衛門大夫平惟基とした場合の時期的矛盾

 まず、平維幹は長保元(999)年12月9日当時、「常陸介」(『小右記』長保元年十二月十一日条)だったが、『今昔物語集』にみられる維幹は左衛門大夫平惟基」とあり、五位の左衛門尉なのである。通常、国司を経て左衛門尉へ任官する例はなく、維幹が「左衛門大夫」であったとするならば、当然維幹が常陸介就任前でなければならない。つまり、平維幹=左衛門大夫平惟基であるならば、頼信と忠常の戦いは長保元(999)年以前でなければならない。しかし、長保元年以前の頼信は「上野介」であり、常陸介補任以前なのである。頼信が「二度」常陸介に補任(常陸介→上野介→常陸介)されていれば辻褄は合うが、頼信が二度常陸介に補任された記録はない

●十一世紀初頭の常陸介の予想任期

名前 補任 離任
※離任日不明のため、離任直近除目日
備考
平維幹 不明 長保2(1000)年
正月22日?
長保元(999)年12月9日
常陸介維幹朝臣、先年所申給、崋山院御給爵料不足料絹廿六疋及維幹名簿等送之、以維幹可預栄爵者、維幹余僕也、進馬三疋毛付、以院判官代為元令奉絹及維幹名簿等
(『小右記』長保元年十二月十一日条)

――――――――――――――――――――――同(寛仁)4(1020)年7月3日
「常陸介惟通妻子為維幹息被取事於任国卒去時
(『小記目録』)
――――――――――――――――――――――
寛仁4(1020)年閏12月13日
「漏聞召為幹朝臣之使貞光密々来云、為幹入京、可令候之處事、示遣史奉親朝臣所、未仰左右、仍密々預前常陸介維時朝臣、明曉罷向随身為幹、借小人宅令候、可待宣旨者、是余指示也、彼奪取命婦、太皇太后御使相共同入京者」
(『小右記』寛仁四年閏十二月十三日条)
平維敍 長保2(1000)年
正月22日?
長保6(1004)年
正月22日?
実右大将済時卿男か。
小一条院敦明親王の叔父
正暦6(995)年に陸奥守離任か
※その三、四年後に常陸介(『今昔物語集』)
長徳2(996)年5月当時、「陸奥の国の前守維敍」
(『栄花物語』)
  寛弘4(1007)年
正月26日?
※長和2(1013)年正月20日、「入夜、前常陸介師長密語云、蔵人登任初可着綾、可用左三位中将蘇芳下襲、無頼殊甚、万計難施者、有歎息気、仍興未着之桜色下襲、感悦将去」(『小右記』長和二年正月廿日条)
源頼信 寛弘4(1007)年
正月26日?
寛弘8(1011)年
2月2日
寛弘9(1012)年閏10月23日
「入夜前常陸守頼信、献馬十疋」
(『御堂関白記』寛弘九年閏十月廿三日条)
とある。しかし、常陸介退任後の受領功過定において、
長和5(1016)年正月12日
「依相府被示、余召受領功過文書相定、相模守孝義有事、亦常陸介頼信状帳、填交替欠事不明、仍令召税帳又神社事不修一社」(『小右記』長和五年正月十二日条)など、在任中の官物貢納の不備や神社不修のため、その後数年は受領になれなかった(検非違使だった)。そして寛仁3(1019)年正月22日の受領功過定(二日目)において、「前常陸介頼信不与状、神社数事年来有疑無一定、後々司実録言上、依彼帳可有定之由、頼信所申」(『小右記』寛仁三年正月廿二日条)との主張が左中弁経通を通じて摂政に伝えられた。結果としては陣定で主張は容れられたようで、頼信は翌23日の除目で受領に推されることとなる。この際、私君頼通の引級で遠江守に補されると大方の予想だったが、実際に遠江守に補されたのは藤原兼成だった(予想では任石見守)。これは頼通が実資の助言を受けた結果で、頼通は家人の頼信を「若以頼信任遠江、必可有謗難歟者」として、実資に感謝を述べている。結果、頼信は石見守となり、同年7月8日「石見守頼信、触明日向任国之由、呼前給禄」と、実資は頼信を邸に招いて禄を与えた。実資は「頼信入道、殿近習者也」(『小右記』寛仁三年七月八日条)と記しており、頼信は頼通の近習だったことがわかる。
頼信の父満仲と平維幹は従兄弟(『系図纂要』)
子の頼義は小一条院敦明親王判官代
藤原通経 寛弘8(1011)年
2月2日「常陸守」(『小右記』)
長和4(1015)年?
紫式部の従兄弟
平維時 長和4(1015)年 寛仁3(1019)年
正月21日?
紫式部の従兄弟
藤原惟通 寛仁3(1019)年
7月13日
「任常陸、敍一階若然歟」(『小右記』)
  紫式部の弟

        光孝天皇―――宇多天皇
               ∥
               ∥――――――醍醐天皇―――村上天皇―+―冷泉天皇―+―花山天皇
               ∥                  |      |
               ∥                  |      |
               ∥                  |      +―三条天皇
               ∥                  |        ∥           
               ∥                  |        ∥――――――敦明親王
               ∥                  |        ∥     (小一条院)
               ∥                  | 藤原済時―+―藤原娍子
               ∥                  |(右大将) |   
               ∥                  |      | 
               ∥                  |      +―平維敍 
               ∥                  |       (常陸介) 
               ∥                  | 
               ∥                  +―円融天皇―――一条天皇―――後朱雀天皇――後三条天皇
               ∥             
      +―藤原高藤―+―藤原胤子   藤原忠幹―――女子
      |(内大臣) |       (筑前守)   ∥――――――藤原通経―――藤原章祐
      |      |               ∥     (常陸介)  (上総介
      |      |               ∥    
      |      +―藤原定方―+―女子   +―藤原為長
      |       (右大臣) | ∥    |(陸奥守) 
      |             | ∥    |
      |             | ∥――――+―藤原為時―+―藤原惟規
      |             | ∥     (越後守) |(散位)
      |             | ∥           |
      |             | ∥           +―藤原惟通
      |             | ∥           |(常陸介
      |             | ∥           |
      |             | ∥           +―女子
      |             | ∥            (紫式部
      |             | ∥             ∥――――――女子
      |             | ∥             ∥     (大弐三位
      |             | ∥             ∥
      |             +―∥――――――藤原為輔―――藤原宣孝
      |               ∥     (権中納言) (右衛門佐)
      |               ∥
      |               ∥    +―藤原為頼
      |               ∥    |(太井皇太后宮大夫)
      |               ∥    |
 藤原良門―+―藤原利基―――藤原兼輔―――藤原雅正―+―女子
(内舎人)  (右中将)  (中納言)  (豊前守)   ∥
                             ∥――――――平維時――――平直方
                             ∥     (上総介)  (上総介
               平国香――+―平貞盛――+―平維将
                    |(陸奥守) |(上総介
                    |      |
                    |      +―平維時
                    |      |(上総介
                    |      |
                    |      +―平維幹
                    |      |(常陸介
                    |      |
                    |      +―平維敍 
                    |       (常陸介
                    |
                    +―平繁盛
                     (常陸大掾)
                      ∥――――――平維幹
                      ∥     (常陸介
        清和天皇―――貞純親王―+―女子
              (中務卿) |
                    |
                    +―源経基――――源満仲――――源頼信
                     (武蔵介)  (陸奥守)  (常陸介

(2)官符もない頼信が他国に攻め入る矛盾

 説話を見る限りでは、忠常は頼信に対して敵対行為をしていたわけではなく、平維良のように長保5(1003)年正月頃、下総国府を攻めて「燃亡府館、掠虜官物」(『百錬抄』長保五年二月八日条)し、「蒙追捕官符」(『小右記』長和三年二月七日条)るような叛乱も起こしてもいない。ところが、頼信はなぜか任国でもない下総国の住人忠常に対して「常陸守ノ仰」を伝える越権行為に出たというのである。忠常は「上総下総ヲ皆我マゝニ進退シテ、公事ヲモ事ニモ不為リケリ」とあり、文面からは頼信が忠常に指示したのは公事に関することと思われるが、常陸国司が下総国の公事に介入する理由は不明で、忠常も「事ニ触レテ忽諸」にしたのも違和感はない。ところが、忠常のこうした対応に頼信は「大キニ此レヲ咎メテ、下総ニ超テ忠恒ヲ責メム」と息巻いたという(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)

 なお、平維良の反乱を受けたものか、二年後の寛弘2(1005)年4月14日、上野介橘忠範は「被載許雑事三箇条事」を申請した(「寛弘二年四月十四日条事定文写」『平安遺文』439)

 上野介橘朝臣忠範申、請被裁許雑事三箇条事

一、請因准傍例、一任間、納言、封家調庸布、端別充六十文、商布、段別充廿文進済事
同前諸卿定申云、諸国所進調庸色替、間雖有裁免之例、当国本自無其例不可被裁許歟

一、請因准傍例、賜押領使官符、於下野、武蔵、上総、下総、常陸等国、捕糺凶賊、兼賜随兵廿人事

同前諸卿定申云、当国押領使及随兵等、任前例可被裁許

一、請兼被賜官符、停止隣国々司并隨兵郎等、恣越来残滅所部

同前諸卿定申云、隣国凶党、若有越住当境者、待国司之移蝶、慥可糺行、但恣以越来残滅所部、早可給制符歟、若不憚制止、猶有越来之者、言上解文之日、隨其状迹可定行歟

 この二条目で、凶賊追捕のために「下野、武蔵、上総、下総、常陸等国」に「押領使」の補任を申請している。押領使については「当国押領使及随兵等、任前例可被裁許歟」と見えることから、これまでと同様に国司等の兼帯での押領使官符となろう。また一方で、三条目にあるように凶党が隣国から移り住んできた際に、「隣国々司并隨兵郎等、恣越来残滅所部」ことを停止してほしい旨も伝えているように、押領使たる隣国国司はその追捕のために、本来管轄外の国へ「恣越来、残滅所部」というように、村落などに壊滅的な被害を与えることも少なくなかった。陣定では「隣国凶党、若有越住当境者、待国司之移蝶、慥可糺行」ことを追認しているように、他国に逃げ込んだ凶党を引き続き追捕することは認めるが、「待国司之移蝶」という条件が付けられ、且つ「恣以越来、残滅所部」は認めず「早可給制符歟」としている。それでも「若不憚制止、猶有越来之者」については「言上解文之日、隨其状迹可定行歟」とし、他国押領使等の侵攻による村落被害は罪過に問われる可能性を示唆する。

 『今昔物語集』に見える頼信による下総越境事件は、一見して上記の例のごとく、頼信が常陸国の「押領使(記録はない)」として下総国の忠常を追捕した、という構図にも見える。ただし、忠常は常陸国の「凶党」ではなく、常陸国から追捕を受ける立場にはない。つまり、上記の「隣国々司并隨兵郎等」が越境する事由には該当しないのである。

 11世紀初頭の段階では忠常は「下総国」に住む強勢の「兵」であり、いまだ官途に就いたことのない人物であったろう。それが「前上総介」(『百錬抄』)とあるように、明らかに国司「上総介」に就いた形跡がある以上、ある時点で何らかのきっかけで上洛し、兵衛府や衛門府に出仕した経歴があるとみられる。のちに藤原道長五男の藤原教通に仕えた際に、私君教通に上総介補任の申状を提出し、吹挙を受けて「上総介」に補任したのではあるまいか。

●十一世紀初期の上総介の予想任期

名前 上総介以前の
前の官歴
上総介補任 離任 備考
藤原長能 天元5(982)年右近将監
永観元(983)年左近将監
永観2(984)年蔵人
寛和2(986)年近江少掾
永延2(988)年図書頭
正暦2(991)年
4月26日
正暦6(995)年
正月13日?
藤原長能者、讃岐権助惟岳孫、伊勢守倫寧二男、…正暦二年四月廿六日、任上総介、寛弘二年正月廿七日、叙従五位上治国賞、同六年正月廿八日、任伊賀守(『長能集』)
――――――――――――――――――――――
長保三(1001)年七月廿一日「前上総介長能」
(『権記』長保三年七月廿一日条)
――――――――――――――――――――――
寛弘二(1005)年正月廿二日「前上総介長能朝臣」
(『小右記』寛弘二年正月廿二日条)
平兼忠 天元3(980)年出羽介 不明 不明 (参考) 左中将藤原実方の陸奥守任期である
長徳元(995)年正月十三日(『公卿補任』)から
長徳四(999)十一十三日於任所薨(『尊卑分脈』)
の間に、奥州で子息余五将軍維茂と藤原諸任の合戦があった。その将軍維茂は陸奥国在住中に兼忠の上総介就任を聞いて上総国を訪問している(『今昔物語集』)
寛弘九(1012)年閏十月十六日には「故兼忠朝臣男維吉、献馬六疋、二疋兼忠申置」(『御堂関白記』寛弘九年閏十月十六日条)とあり、兼忠子息の維吉(維良)が兼忠遺言も含めた献馬を行っており、兼忠はこの頃亡くなったとみられる。
平忠常   不明 不明 源頼信が常陸介であったであろう寛弘4(1007)年~寛弘8(1011)年は無位無官の下総国の「兵」。頼信の家人となって、おそらく上洛したのだろう。藤原教通の家人となり、衛府を経たのち教通の引給を以て上総介となったか。
●藤原教通(『公卿補任』)
寛弘7(1010)年11月28日従三位
寛弘8(1011)年8月11日正三位
長和2(1013)年9月16日従二位
長和4(1015)年10月21日正二位
菅原孝標 長保2(1000)年
蔵人右衛門尉
検非違使尉
長和6(1017)年
正月24日
寛仁5(1021)年
正月
寛仁元年正月廿四日任上総介 四十五
五年正月得替 四十九(『更級日記』)
平輔忠   寛仁5(1021)年
正月
寛仁5(1021)年
2月28日卒
治安元年二月廿八日、上総介輔忠、阿闍梨固縁、日如、已講法修等卒事(小記目録)
藤原為章 長保元(999)年前伊豆守
長保4(1002)年散位
長和2(1013)年任伊勢守
寛仁5(1021)年
2月
万寿2(1025)年
2月25日
「今年得替国司上総介為章、若狭守遠理、淡路守信成等、入已官物不済公事出家、終無其弁、以財物可令弁進、若無其弁、可令子孫弁済者、仰左中弁経頼了」(『小右記』万寿二年二月廿五日条)
縣犬養為政 長徳4(998)年任左志
検非違使志
寛弘元(1004)年右衛門大志
寛弘2(1005)伝尉
寛弘4(1008)年左衛門少尉
寛弘5(1009)年左衛門大尉
万寿2(1025)年
3月9日
長元2(1029)年
正月22日か
「上総介為政宿祢申任符使禄令給疋絹」
(『小右記』万寿二年三月九日条)
――――――――――――――――――――――
「入夜厩舎人申云、□□従上総罷上、介為政朝臣貢馬、□□、馬二疋、手作布百四端、鴨頭草、□□、鮑等、馬頗宜、令立厩」
(『小右記』長元元年七月十三日条)
――――――――――――――――――――――
「上総介為政妻子、近日申可令上道由、而依件事国人弥不聞国司事歟、国司在忠常之掌握、生死被任彼心、濫吹事逐日不断、忠常従者入乱館内、打縛国司従類之由、厩舎人友成所申、最可歟、可指弾、可殊労上」
(『小右記』長元元年七月十五日条)
平維時 永延2(988)年右兵衛尉
正暦5(994)年散位
長徳2(996)年左衛門尉
長和5(1016)年常陸介
寛仁2(1018)年常陸介
治安3(1023)年前常陸介
長元2(1029)年
正月23日
(首途)
長元4(1031)年
6月27日
長元二年正月廿三日
「上総介維時申、明日首途事」
(『小右記』長元二年正月廿二日条)
――――――――――――――――――――――長元四年六月廿七日
「上総介維時朝臣辞書」
(『左経記』長元四年六月廿七日条)――――――――――――――――――――――長元四年六月廿七日
「上総介維時朝臣申、被停所帯職事、如申状、年齢衰老之上、病痾頻犯、不堪分憂之任者、依請被停止、以可然者可被任歟」
(『左経記』長元四年六月廿七日条)

 長元2(1029)年6月13日「遣検非違使、捜求平忠常郎等住宅」(『日本紀略』)とあることから、忠常が上総国へ戻ったのちも忠常の郎等の中には留京または上洛し住宅を持っていた人物がいたようである(当然仮住まいの場所であった可能性もある)。また、子息の一人が出家して上京しているが、これは頼信の家人になった際に随身したものであろう。

平忠常、房総に反乱を起こす(長元の乱)

 万寿4(1027)年12月、朝廷の実力者であった藤原道長が死去したこととほぼ時を同じくして、「下総権介忠常」「安房守惟忠」を焼殺したという(『応徳元年皇代記』)。この年から始まる反乱を「長元の乱」という。忠常の次男・平常近「安房押領使」ともされ(『松羅館本千葉系図』)、もしも彼の「安房押領使」が事実で忠常叛乱以前に安房国に置かれていたとすれば、安房国府焼打との関係性が考えられる。

 京都に忠常の安房国府襲撃の報が伝わると、朝廷は忠常追討の詮議を行い、万寿5(1028)年2月21日、検非違使・直方(右衛門少尉)を「前上総介忠常の追討使に任じた(『百練抄』)

 高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――――直方――――+―維方―――――盛方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介)  (左衛門少尉)|(蔵人雑色) (左衛門尉)
     |           |                    |
     |           +=維時                 +―女子
     |            (常陸介)                 ∥――――――源義家
     |                                  ∥     (陸奥守)
     |                                  源頼義
     |                                 (伊予守)
     |
     +―良文――――経明――――忠常――――常将―――――常長
      (陸奥守)       (上総介) (武蔵押領使)(武蔵押領使)

 しかし2月に決定された追討は6月まで実行されず、6月5日になって初めて「平忠常并男常昌」追討の詮議が行われた(『小記目録』)。そして6月21日、ようやく右大臣藤原実資、内大臣藤原教通ほか十一名が内裏近衛府陣座で陣定し、「下総国住人前上総介平忠常について二度目の詮議が行われ、正式に検非違使の右衛門少尉平直方左衛門少志中原成道追討使に決定。東海道・東山道諸国に忠常追討に関する太政官符を発給することとなった(『日本紀略』『左経記』)

●万寿5(1028)年6月21日仗座公卿●

名前 官位 官途 年齢 人物
藤原実資 正二位 右大臣 72 右近衛大将。藤原斉敏(従三位・右衛門督)の子。『小右記』作者。
藤原教通 正二位 内大臣 33 左近衛大将。藤原道長の子。
藤原斉信 正二位 中宮大夫 62 大納言・民部卿。藤原為光の子。
藤原能信 正二位 権大納言 34 中宮権大夫。藤原道長の次男で頼通・教通とは異母兄弟。
藤原兼隆 正二位 左衛門督 44 左衛門督。二条関白道兼の嫡男で、祖父・兼家の養子。
源道方 従二位 権中納言 61 宮内卿。道長正室・源倫子の従弟(源重信五男)。
源師房 従三位 春宮権大夫 19 権中納言。村上天皇皇子・具平親王の子。村上源氏の祖。
藤原経通 正三位 左兵衛督 46 参議・治部卿。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子。
源朝任 正四位下 右兵衛督 40 参議。従二位・権大納言・源時中(道長正室・源倫子兄)の子。
藤原資平 正三位 左近衛中将 43 参議。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子で、叔父・実資の養嗣子。
藤原公成 正四位下 権大納言 30 参議・近江権守。権中納言・藤原実成の子。

 しかし、朝廷が2月の追討決定から6月までの四か月もの間、軍事行動を起こさなかったことや、犯人追捕を主目的とする検非違使を「追討使」としていることから、百年前の承平天慶の乱と比べて(参議藤原忠文が征東大将軍として将門追討に派遣されている)朝廷の危機感が薄かったのであろう。また、中原成道は本来の明法家としての職分から得ることができる伝聞から、叛乱の規模を知っていたと思われ、九箇条の申文を提出した上で関白頼通の下向をも訴えたが、右大臣藤原実資は、

於関白下向有何事乎、若有可申請事等、於途中若事発所国言上事由、更何事之有也

としており、関白下向などは必要はなく、もし戦陣で何事かあるようならばその国から事柄を言上すればよいだけのことである、それほどの事があるとも思えない、と却下している(『小右記』長元元年七月十五日条)。さらに朝廷では忌日や日の良し悪し、そのほか手続きで追討使の派遣を延期しつづけており、この事からも朝廷の危機意識が欠如していた様子がわかる。

 7月13日、上総介縣犬養為政から、馬二疋と手作布四百反が藤原実資のもとへ届けられ(『小右記』長元元年七月十三日条)、15日には上総国衙の厩舎人伴友成が実資に為政の妻子が近日中に上洛することを報告する一方、国人らは国司に従わず、すべての権力を忠常が握って、生死も彼の心のままになっていること、さらに忠常の郎等が国司館(市原市惣社か)に乱入して国司の郎等に乱暴をはたらいた報告がなされた(『小右記』長元元年七月十五日条)

 一方、中原成道は、先日提出した九箇条の申文のうち、わずか三箇条のみしか取り上げられなかったことに不満を持ったようで、7月25日、「小瘡」として出仕せず、検非違使別当藤原経通(左兵衛督)から「令見気色似遁追討使節」と譴責された。成道は東国下向に否定的になっていたことがうかがえる。

 8月1日、「忠経従者」(『左経記』長元元年八月一日条)が京都に侵入したという内大臣教通からの情報に基づいて、検非違使別当藤原経通は別当宣を以って検非違使を発遣し、その男を捕縛した。実資が手にした「別当報書」によれば、その男に「忠常有様」を尋問するが、彼は実は「忠常従者」ではなく「忠常郎等之従者」であって「不知子細」であった(『左経記』『小右記』)。また、「忠常郎等之従者(脚力の一人)から聞き出した情報によれば、「実忠常脚力二人也」と、忠常から派遣された「脚力(使者)」はもう一人いることがわかった。忠常脚力はそれぞれ「運勢法師」「明通朝臣」のもとに滞在していたことも判明する(『小右記』)。続けて「運勢廻謀略令捕也」とあることから、最初に捕らえられた脚力は「明通朝臣」のもとにいた人物であろう。「明通朝臣」については、検非違使を務めた左衛門少尉藤原明通と思われるが、彼は従姉妹に教通の実姉・上東門院(藤原彰子)に仕えた女房(紫式部)がおり、自身も教通の実妹・藤原威子(後一条天皇中宮)中宮少進を務めていたとみられることから、教通にかなり近い家人だったと思われる。

 この事件について、右府実資は「件事従内府被申者、頗傾思侍、乍置実忠常脚力、郎等之従者在所を被尋申、頗孫本文也物」と、教通は忠常郎等従者(脚力)二人の所在地をすでに把握しているのに、わざわざ別当宣まで出させて「郎等之従者在所」を捜索させたのかと訝しむ表記をしている(『小右記』)忠常が教通の家人であることを実資が把握していたことがうかがえる。また、「運勢法師」「明通朝臣」のもとに滞在していることを事前に教通が把握していたことを前提として日記を認めていることから、「運勢法師」も「明通朝臣」も教通の家人であったと思われる。

●藤原明通周辺系図

 藤原長良――+―藤原国経――藤原忠幹――――藤原文信―――藤原惟風―――藤原惟経
(権中納言) |(大納言) (勘解由長官) (鎮守府将軍)(中宮亮)  (太皇太后宮大進)
       |                             ∥
       +―藤原基経                        ∥――――――藤原棟綱
       |(太政大臣:叔父良房養嗣子)               ∥     (相模守
       |                      平直方――+―女
       |                     (上野介) |
       |                           |
       |                           +―女
       |                           | ∥
       |                           | ∥―――――――――――藤原朝憲
       |                           | ∥          (陸奥守
       |                           | 藤原憲輔        ∥
       |                           |(宮内卿)        ∥―――――藤原説定
       |                           |             ∥    (駿河守)
       |                           | +―源頼清――源兼宗――女
       |                           | |(陸奥守)(上野介)
       |                           | |  
       |                           | +―源頼義
       |                           |  (陸奥守
       |                           |   ∥
       |                           |   ∥――――源義家
       |                           |   ∥   (陸奥守
       |                           +―――女
       |
       +―藤原遠経―+―藤原良範―――藤原純友          藤原為時
       |(右大弁) |(太宰大弐) (伊予掾)         (越後守)
       |      |                      ∥――――――上東門院女房
       |      +―藤原尚範               +―娘     (紫式部)
       |       (上野介)               |
       |                           |
       +―藤原清経―――藤原元名―――藤原文範―――藤原為信―+―藤原理明―――藤原明通
        (右衛門督) (宮内大輔) (権中納言) (右近衛少将)(筑後守)  (中宮少進)
                                     ∥
                                     ∥――――――藤原元範
                                     ∥     (式部少輔)
                              源致明――+―娘      ∥
                             (和泉守) |        ∥
                                   |        ∥
                                   +―娘      ∥――――藤原国綱
                                     ∥      ∥   (刑部大輔)
                                     ∥      ∥
                                     藤原伊周   ∥
                                    (内大臣)   ∥
                                            ∥
                              藤原為時―+―藤原惟通―――娘
                             (越後守) |(常陸介)
                                   |
                                   +―上東門院女房
                                    (紫式部)

 8月4日、「運勢」が「廻謀略令捕」たもう一人の郎等従者(脚力)は、検非違使の粟田豊道、生江定澄に引き渡され、「将参関白第」た。そして、関白頼通は運勢法師のもとで捕らえられた脚力が持っていた書状を右兵衛督源頼任に読ませた。そこには忠常の「聞可被追討之由可申所々事等云々」とあり、追討が不当なものであることが理由も添えて記されていたと思われる。書状は他に「奉内府」「上書新中納言殿」「無上書」の三通があり、これらは披かれることなく検非違使へ返された(『小右記』)。忠常がなぜ「新中納言殿(権中納言師房)」へ「上書」したのかは不明。師房が私君教通の実妹聟であったことが理由か。

下総地図
夷隅郡(内のが国府台)

 忠常がなぜ内府らへ書状を託そうとしたのか、右府藤原実資は興味があったらしく、取調べを総括している甥の検非違使別当藤原経通に子細を尋ねている(『小右記』)。経通によれば、かの郎党は忠常が派遣した「使者」で、書状(解文)は見ていないが、聞いたところによれば、もし内府から返答の使者を送るようであれば、「伊志み」の山辺まで来るべし、との内容であったという(『小右記』)。忠常はこの書状で内大臣・新中納言へ意見(追討の不当性を訴えたと思われる)を出していたとみられる(『小右記』)

 「伊志み」は忠常が「随人二三十騎」で籠っていたと報告された場所であるが、のちに追討使ほか周辺国が忠常の在所を探し当てることができなかったことや、のちに忠常が「欲行向上総」とあることから(『左経記』)「伊志み」は彼の勢力下ではあったが、本拠地は「住下野(下総)」(『左経記』)であったのだろう。また、わずか「随人二三十騎」のみでこの地に来るとあることから、私君である内府教通の使いであれば降伏するという意思表示であった可能性が高い。ちなみに「伊志み」とは、『和名抄』に見える「伊志美」であると考えられ、上総国夷隅郡(いすみ市)にあたる。いすみ市には「国府台」と呼ばれる渓谷を眼前に控えた要害地(地図)がある。

 しかし、忠常の望みも空しく、朝廷は8月5日午の刻、検非違使平直方・中原成道を追討使として二百余人の寡兵で東国に下した。ところが追討使の進軍速度は鈍く、数日経ってもまだ美濃国におり、成道はここで「八十歳になる母親が病を患っている」と京都に使者を出したため、軍勢は美濃国で滞陣することとなる。成道の使者は8月16日に京都に到着。報告を聞いた検非違使別当・藤原経通「成道は以前から直方と不和であり、これが故障の原因ではないか」と疑っている。経通は翌17日、成道の母は小康状態になったことを美濃の成道のもとへ伝えた。成道は仮病や故障を訴えるなど追討に否定的な人物であったことがわかる。

 その後、忠常追討使に関する資料はしばらくなくなるため、追討使が関東に到着した日時は不明。そして、長元2(1029)年2月1日、右大臣藤原実資は東海道・東山道・北陸道諸国、追討使平直方へ下す忠常追討の太政官符の草案を披見し、2月5日、朝廷は「諸国相共可追討忠常之官符請印」が発給された(『小右記』長元二年二月五日条)。さらに追討使直方の支援のためか、直方の父・平維時上総介に任じられ、2月23日、維時は関東へ向かった。しかし、その後も追討使に戦功はなく、6月8日、朝廷では追討使を別人に代えるべきか否かの詮議が行われた。また、13日には、「遣検非違使、捜求平忠常郎等住宅」(『日本紀略』)とあり、京都にあった忠常郎等の住宅を検非違使が家宅捜索している。ところが、その後もまったく忠常追討に進展はなく、業を煮やした右大臣藤原実資は、7月1、2日の両日行われる石清水奉幣の宣命に忠常調伏を載せるべきであると天皇(後一条天皇)に奏上している(『小右記』)

 追討使が派遣されて1年4か月が過ぎた12月5日、追討使平直方とその父・上総介平維時から、戦況を記した解文が京都に届けられたが、一貫して追討に否定的だった中原成道は何の報告もせず、12月7日、追討使・検非違使を更迭され召還が決定した(『小右記』)。そして12月8日、追討使直方のことについての陣定が開かれている(『小記目録』)

 長元3(1030)年3月27日、安房守藤原光業が突如上洛した(『日本紀略』長元三年三月廿七日条)。これは「依忠常乱逆、棄印鑰上洛」といい、忠常の叛乱の影響は安房国にも及んでいたことがわかる。ただし、このとき安房国が襲撃を受けたとは考えにくく、ただ安房国府の印を国衙に置いて京都に逃げ帰ったのだろう。このため朝廷は29日、上総介平維時の従兄弟にあたる平政輔を新たに安房守としたが(『日本紀略』長元三年三月廿九日条)、正輔は忠常を追討するには金がかかるとして国衙の「不動米穀」を「毎国」五百石活用することを要求。朝廷はこれを断るが正輔も引かず、頼通も正輔の要求を認めざるをえなかった(『小右記』)

 高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――――直方――――+―維方―――――盛方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介)  (左衛門少尉)|(蔵人雑色) (左衛門尉)
     |           |                    |
     |           +=維時                 +―
     |           |(常陸介)               |(陸奥守源義家母
     |           |                    |
     |           +―維衡――+―正輔           +―
     |            (常陸介)|(安房守)          (相模守藤原棟綱母
     |                 |
     |                 +―正度―――――正衡――――――正盛―――――忠盛―――――清盛
     |                  (常陸介)  (出羽守)   (讃岐守)  (刑部卿)  (太政大臣)
     |
     +―良兼――――公雅――――致頼――+―致経
     |(上総介) (武蔵守) (散位) |(左衛門尉)
     |                 |
     |                 +―致方
     |                  (武蔵守)
     |
     +―良文――――経明――――忠常――+―常将―――――常長
      (陸奥守)       (上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)
                       |
                       +―恒親―――――恒仲――――――頼任
                        (安房押領使)        (村上貫主)

 一方、5月20日に京都に到着した直方の解文には、忠常が突如出家をとげて「常安」と号したことが記載されていた(『小右記』)。また、直方が解文で要請していた「各国の協力を得る太政官符の発給」については、「籠伊志見山随兵減少由所推量」とあって、官符の発給には及ばないとして聞き入れられなかった(『小右記』)

 しかし6月23日、右大弁源経頼のもとへ届けられた「追討使直方并上総武蔵国司言上解文」によれば、追討使平直方、上総介平維時、武蔵守平致方らは「忠常如言上不知在所者」であって(『小右記』)、いまだ忠常の所在をつかむことができていない状態であることが判明。「可令兼光申忠常在所歟、直方解文云、忠常、志直方之雑物兼光伝送、仍可知彼在所者」(『小右記』長元三年六月廿三日条)とあり、直方の解文によれば忠常は「直方之雑物(直方の雑物については不明)「兼光」に送っていることから、この「兼光」「可知彼在所」として「可令兼光申忠常在所」「此間諸卿相共可定申者」という勅命が下っている。

 9月2日、直方は「無勲功」として追討使を解任・召還され(『日本紀略』『小記目録』)、11月に空しく帰京した(『応徳元年皇大記』)。直方の子「維方 使 上総介 従五上(『尊卑分脈』『桓武平氏諸流系図』)の子に「盛方 左衛門尉が見えるが、彼は権大納言源俊房「年来家人」(『水左記』承暦四年閏八月十日条)であり、直方以来三代にわたって京官として続いている。盛方の生年は長元6(1033)年であり、直方が京都へ戻ったのちにうまれた孫で、従弟の陸奥守義家とは五歳違いとなる。「左衛門尉盛方」は承暦3(1079)年4月13日の「平野賀茂供競馬」(『十三代要略』)で「舞人」の年長者となり、「右衛門尉平兼衡、平正衡、左衛門尉藤季光、右衛門尉平宗盛、高階盛業、同成定、平兼季已上不謂左右年歯立次第(『為房卿記』承暦三年四月十三日条、『参軍要略抄』承暦三年四月十三日条)を伴い神前に舞を披露した。しかし、翌承暦4(1080)年閏8月10日、四十八歳で亡くなっており(『水左記』承暦四年閏八月十日条)、主人の権大納言俊房はその死去を聞いて「可憐ゝゝ」と述べる。なお、『桓武平氏諸流系図』には盛方の兄弟に「聖範 阿多美禅師」が見えるが、彼が伊豆北條家の祖となった人物とされる。盛方は長元6(1033)年であることから、北條四郎時政の生まれた保延4(1138)年までおよそ百年の開きがある。単純計算で四代程となり、系譜上の矛盾はない。

●『桓武平氏諸流系図』(『中條家文書』)

 平直方―――平維方―+―平盛方――――平俊範――――平実俊
(右衛門尉)(上総介)|(右衛門尉) (玄蕃助大夫)
           |
           +―聖範―――――平時家――+―平時綱
            (阿多美禅師)(北條四郎)|(北條三郎)
                         |
                         +―平時兼―――――北條時政
                          (北條四郎大夫)(北條四郎)

平忠常、降伏する

 平直方に代わって、新たに追討使に任じられたのが、かつて忠常を降伏させ家人とした甲斐守源頼信であった。頼信の起用は、忠常追討の実績を買われたものであろう。こうして「甲斐守源頼信并坂東諸国司等」に忠常追討令が発給され、9月6日、朝廷は改めて「甲斐守頼信に忠常追討を命じた(『小右記』)頼信は関東下向の折、京都にいた「忠常子法師」を伴っており、忠常の家人という契約は残っていたと思われる。

 長元4(1031)年正月6日、任国甲斐に在国中の甲斐守頼信からの請願を受けて、この日頼信を従四位下に叙した(『小右記』)。こうした中で、頼信は忠常に対して水面下で降伏勧告を進めていたと思われ、3月中旬ごろには忠常は「欲行向上総」と、おそらく住国の下総国(相馬郡か?)から上総国(夷隅郡か?)へ向かっていたものの、「随身子二人郎等三人進来了」(『左経記』)と、二人の子(常昌・常近であろう)と郎等三人を随えて頼信のもとに出頭。頼信は京都の「権僧正」を通じて関白頼通に「随身来月間可参上」という書状を送っている。4月28日に参議源経頼がその報告を受けている(『左経記』)

●忠常出頭の理由(想像)

(1)従属関係にある頼信の出兵
(2)みずからの病の悪化

 ただし、これは「降状」を提出しての正式な降伏ではなく「出頭」であったようで、おそらく常陸介の履歴のあった頼信は、先例と同様に忠常追討の拠点を常陸国内に移し、忠常に降伏勧告していたのだろう。4月下旬ごろ、ようやく忠常は「降状」を常陸国府に提出したとみられ、5月20日、「常陸介兼資」から朝廷に「忠常帰降」の書状が届き、右大臣実資が確認したようだ(『小記目録』)。ただし、「忠常男常昌常近不進降状」(『左経記』)と、忠常の子「常昌常近」は降状を提出しなかったようで、その後追討の対象として議論されることとなる。

 常陸国府へ降伏した忠常は、追討使頼信とともに上洛の途につくが、すでに忠常は病魔に侵されていたとみられ、6月7日に朝廷に届けられた頼信の申文(美濃国大野郡発)によれば、忠常は5月28日より病が悪化して「日来辛苦、已万死一生也」であるとし、頼信は忠常を扶けながら道を進むことが伝えられている。しかし、忠常はこの申文が京都へ届く一日前の6月6日、「美濃国野上と云所」において病死したという(『左経記』)。没年齢不詳。法号は常安

 死亡した場所については、「美濃国野上と云所」(『左経記』)「美濃国山縣」(『百錬抄』『扶桑略記』)「美濃国蜂屋庄」(『千葉大系図』)とまちまちである。彼らの上洛ルートは中山道と推測されることから、頼信が忠常辛苦の申文を発したのは現在の瑞穂市美江寺(旧大野郡)あたりと思われる。なお厚見郡や山県郡はこれよりも東に位置していることから、病死地としては誤伝である。おそらく美江寺周辺で危篤に陥った忠常は、その後、約十三キロ西にあった美濃国府(不破郡垂井町)までの道中で亡くなったのだろう。「野上」は国府と隣接する中山道の地であることから、ここで美濃国司による検死が行われたと思われる。現在、「しゃもじ塚」と呼ばれる伝忠常墓が野上(関ケ原町大字野上382-1)に祀られている。

没地 現在地 資料
美濃国厚見郡 岐阜市の一部 『左経記』
美濃国野上 不破郡関ヶ原町野上 『左経記』
美濃国山縣 山県市、岐阜市・関市の一部 『百錬抄』『扶桑略記』
美濃国蜂屋庄 美濃加茂市蜂屋町 『千葉大系図』

 なお、忠常の死から百六十年ほどのちの建久6(1195)年12月12日、千葉介常胤「老命、後栄を期し難し」として「警夜巡昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潜かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり」と、恩賞を求める「款状」を頼朝に提出した(『吾妻鏡』)。この中で常胤「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいるが、常胤が伝えたこの「由緒」こそ、平忠常の実際の葬地のことであった可能性が高いだろう。結局、蜂屋庄は「故院の御時、仰せに依りて地頭職を停止」した荘園であり、頼朝も如何ともしがたい土地である旨を伝え、「便宜の地を以ちて、必ず御計らい有るべきの旨」を記載した書状を遣わしている。

 6月11日、朝廷に忠常死去の報が届いたようで、右大臣藤原実資がその報告を受けている(『小記目録』)。6月12日には頼信からの美濃国司が忠常死亡の実検をしたのち、忠常の首を斬りおとした旨の書状と、美濃国司の返牒が右大弁藤原経任のもとへ届けられた。翌6月13日、忠常から直方への雑物を受け取った「兼光」「兼光出家事有与忠常同意之聞と見えるように(『小記目録』)、忠常とのつながりを疑われて出家した。これは忠常の死が朝廷に伝わった直後の出家であることから、当時在京の人物とみられる。彼は平直方とともに東国に下向して忠常と戦った人物と思われ、長元3(1030)年11月に直方とともに京都へ戻ったと思われる。姓を欠いており出自は不明。

 6月14日、朝廷は忠常首を梟首すべきかどうかを審議しているが、その二日後の16日、頼信が忠常の首を持って入京したのち、忠常が神妙に降伏したことが考慮されたのか、梟首されることなく首は忠常の「従類」へ返却された。

 『左経記』には、忠常の子の常昌・常近(常将・常親)「忠常男常昌常近不進降状」「於男常昌等者未降来」というように、忠常降伏の後も従おうとしなかった様子が見えるが、実際は常昌・常近が「降状」を提出していなかったことで彼らはまだ服従していないと受け取られ、朝廷では右大臣藤原実資を中心に兄弟の追討について詮議がなされたものだった。

 『左経記』の著者としても知られる右大弁・源経頼は追討主張派で、「常昌・常近は許されるべき者ではなく追討すべきであるが、忠常追討では坂東諸国の軍勢が参加したにもかかわらず敗れ、諸国は荒廃してしまった。そこに重ねて常昌・常近追討使を派遣すれば、ますます国は荒れてしまうことが予想され、しばらくは国力を回復させるほうに力を注ぎ、国力が戻ったときに彼らを討てばよい」と主張した。

 しかし、左大弁・藤原重尹は経頼の主張とは異なり、「忠常は首となってすでに帰降し、事実、常昌らもこれに従っており、追討する必要はない」とし、さらに左兵衛督藤原公成「忠常入道常安は帰降しており、その息子達も帰降する気持ちであったが、忠常は上洛の途中で死去してしまった。罪人でも父母の死の際には暇が出るのに、父の忠常が死んで間もなく、未だ罪人でもない常昌らの罪状を問うのはどうか」と追討に否定的な意見を述べた。なぜ朝廷が謀反人とされた忠常一族にここまで寛容になっているのか不明だが、忠常が内大臣藤原教通の家人であったことが関係しているのかもしれない。

 朝廷での詮議の結果、常昌・常近は追討されることはなく、常昌(常将)「武蔵押領使」となり、弟・常近(恒親)「安房押領使」になったと『松羅館本千葉系図』に掲載されている。系譜で常近の孫にあたる頼任は「村上貫主」とされており、上総国村上郷(市原市村上)に住し、北東1.5キロにある上総国分寺(市原市惣社)の貫主になっていたとも考えられる。

◆良文流平氏系譜(想像)

            +―忠頼――――将恒―――――秩父武基――――武綱――――――重綱――――重隆
            |(陸奥介) (武蔵権守) (秩父別当大夫)(秩父武者十郎)(出羽権守)(留守所惣検校職)
            |
 平良文―――経明―?―+―忠光――――為通―――――三浦為継――――義継――――――義明――――義澄
(陸奥守)       |(駿河介) (平太夫)  (平太郎)   (三浦庄司)  (三浦大介)(三浦介)
            |
            +―忠通――――章名―――――鎌倉景成――――景正――――――景継――――長江義景
            |(小五郎) (甲斐権守  (権守)    (権五郎)   (小太夫) (太郎)
            |
            +―忠常――+―常将―――――常長――――+―千葉常兼――――常重――――常胤
             (上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)|(下総権介)  (下総権介)(下総権介)
                  |              |
                  |              +―平常晴―――――常澄――――広常
                  |               (上総権介)  (上総権介)(上総権介)
                  |
                  +―恒親―――――恒仲――――――頼任
                   (安房押領使)        (村上貫主)

 忠常の兄(甥?)である将恒(武蔵権大掾)は、おそらく父・忠頼が移住した武蔵国秩父郡の牧を受け継いで秩父を支配したと思われる。将恒の嫡流惣領家・河越氏「武蔵国留守所惣検校職」として、秩父党一族を支配した。秩父党のうち、特に有名な鎌倉武士としては畠山重忠、源義経の舅・河越重頼などがある。

 長元の乱以前の上総国には、二万二千九百八十余町の公定田があったが、乱後の長元7(1034)年、上総介藤原辰時のときには、十八余町にまで激減したと報告されている。また、下総国も激しく荒廃した様子がうかがえ、長元4(1031)年3月1日の朝議において「諸国事」につき、関白頼通から「下総守為頼申被重任■■逃散民勧農業者■給申文」についての「御消息」があった。それによれば「(忠常追)討之間、有勧之由云々、若可有裁許哉何如」とのことだった。これに右大臣実資は「(下総)国依追討忠常之事、亡幣殊甚云々、為頼云、■■貯可及飢餓、亦妻并女去年憂死道路、依無辜、京中之人見歎之由云々、先被優二箇年任、若(為頼)良吏之聞、臨彼時可被延今二箇年歟、抑安(房、上総)下総已亡国也、被加公力、令期興復尤佳」と報告している(『小右記』長元四年三月一日条)。実資は為頼についてはまず二年の重任を認め、彼が良吏であるとの報告があれば、さらに二年の延長を認めてはどうかという内容である。また、忠常の影響により安房・上総・下総三か国はすでに大きく荒廃しており、朝廷からの支援により復興させることが重要であると述べている。

 6月27日の朝議に提出された「下総守頼重任八箇年間、啓四年公事預勧賞申文」(『左経記』長元四年六月廿七日条)につき、右大弁経頼は「下総守為頼申、重任八箇年之中、啓四箇年公事、預勧賞事、如申状者、罷下之後不幾程、相営追討忠常事之間、人物共已弊、忽難興復、若無裁許何済公事云々、所申可然、依請可被免歟」(『左経記』長元四年六月廿七日条)と意見を述べた。為頼が下総国下向後程なくして忠常追討の事があり、下総国は戦場となり国兵の提供や兵粮供出などがあったのだろう。「人物共已弊」じており下総国の再興には援助が必要であるという為頼の申状は尤もであると意見したのである。なお、申状の「下総守頼重」は「下総守為頼」の誤記である。

忠常の官途、その他

 忠常がどういった伝手を以て、選りによって律令大国「上総国」の国司となることができたのか。当時国司となるには下記の『枕草子』に見るように、相当な努力を必要とした。忠常は藤原教通の家人であるため、かつて上洛して教通に仕えていたことがきっかけである可能性もあるが、どういった経緯で受領となるに至ったのかは謎である。

●『枕草子』第三段「正月一日は」

八日、人のよろこびしてはしらする車の音、ことに聞えてをかし

除目の頃など、内裏わたりいとをかし、雪降り、いみじうこほりたるに、申文もてありく、四位五位、わかやかに心地よげなるはいとたのもしげなり、老いてかしらしろきなどが人に案内いひ、女房の局などによりて、おのが身のかしこきよしなど、心ひとつをやりて説ききかするを、わかき人々はまねをしわらへど、いかでか知らん、よきに奏し給へ、啓し給へなどいひても、得たるはいとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ

●『枕草子』第廿三段「すさまじきもの」

除目に司得ぬ人の家、今年は必ずと聞きて、早うありし者どもの、ほかほかなりつる、田舎だちたる所に住む者どもなど、みな集まり来て、出で入る車の轅もひまなく見え、物詣でする供に、我も我もと参りつかうまつり、物食ひ、酒飲み、ののしり合へるに、果つる暁まで門たたく音もせず、あやしうなど耳たてて聞けば、先追ふ声々などして、上達部などみな出でたまひぬ、もの聞きに夜より寒がりわななきをりける下衆男、いともの憂げに歩み来るを、見る者どもはえ問ひだにも問はず、外より来たる者などぞ、殿は何にかならせたまひたるなど問ふに、いらへには、何の前司にこそはなどぞ、必ずいらふる、まことに頼みける者は、いと嘆かしと思へり、つとめてになりて、ひまなくをりつる者ども、一人二人すべり出でて往ぬ、古き者どものさもえ行き離るまじきは、来年の国々、手を折りてうち数へなどして、ゆるぎありきたるも、いとをかし、すさまじげなり

 忠常が「上総介」であったことは間違いないが、上総介を辞した後は下総国に移り住んだようである。また、他の古文書に見えない記述として『応徳元年皇代記』には忠常は「下総権介」だったと記されている。

●忠常について伝える史書

史書 忠常について 住居 成立
『百練抄』 前上総介忠常   13c末
『小記目録』 平忠常并男常昌等    
『日本紀略』 前上総介平忠常 下総国住人 長元9(1036)年まで
前上総介平忠常 下総国
『左経記』 平忠経 住下野(下総の誤りか) 長元8(1035)年まで
『応徳元年皇代記』
(春日若宮千鳥家本)
下総権介平忠常   12c半

●忠常の所在

下総国
古代の房総地図(想像)

 下総に移ってのちの忠常の所在についての伝は、一般的には立花庄大友香取郡東庄町大友)だったとされており、同地には「良文貝塚」や忠常の子・常将が建立したという平山寺が残されている。しかし、忠常以前に良文、忠頼(または経明)が下総にいたことを示す傍証はない。彼らは武蔵国内での動向が記録に残されていることから、武蔵の軍事貴族であったと考えられる。ただし、子孫の千葉常胤が相馬御厨下司をめぐる相論の中で記した文書によれば(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、下総国相馬郡について、

「……右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而経兼五郎弟常晴、相承之当初為国役不輸之地……」

とあることから、千葉介常胤(当時29歳)は相馬郡が良文、経明、忠経(忠常)…と相伝してきた所領と認識していたことがわかる。しかし、立花庄については由来が記述されず、下総平氏がいつ頃から関わりを持つようになったのか不明である。同地には前述のとおり、忠常の子・常将が建立したと伝わる「平山寺」があり、常将による立庄の可能性もあるか。いずれにせよ、立花郷(立花庄)が房総平氏と関わるのは相馬郷よりも後のことであろう。

 立花郷と相馬郷は保延2(1136)年11月13日、国司・藤原親通によって平常重・常胤父子の手から奪われたが、立花郷については取り返すことに執着していないにもかかわらず、相馬郷については相当に執着しており、両総平氏にとって相馬郡は立花郷とは比較にならない重要な由緒があったとみられる。これは相馬郷が良文以来の所領で、遠祖・忠常の下総での住居が相馬郷にあった可能性があったためか。

●『千葉大系図』忠常の項●

忠常 上総介。武蔵押領使。天延三年九月十三日誕生。居上総国大椎城。長元元年戊辰、依浮説而征討使下向、相闘有年。既而同四年辛未四月、服源頼信之言、棒名符怠状。赴洛途中罹病、同五月十五日、死于美濃国蜂屋庄。年五十六。故嫡子常将蒙勅免矣。


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