千葉頼胤

千葉氏 千葉介の歴代
桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

トップページ千葉宗家 > 千葉介頼胤


千葉頼胤 (1239-1275)

生没年 延応元(1239)年11月20日?~建治元(1275)年8月16日
幼名 亀若丸
千葉介時胤
北条時房娘
千葉次郎泰胤娘
官位 不明
官職 下総権介
役職 下総国守護
所在 下総国千葉庄
法号 常善法慶院・長春常善院
墓所 阿毘廬山大日寺?

 千葉氏九代。父は八代・千葉介時胤。母は北条時房娘(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』所収)。幼名は亀若丸。妻は叔父の千葉次郎泰胤の娘。延応元(1239)年11月20日に生まれたという。妹は二人いて、一人は信通朝臣室となっている(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』所収)。なお「信通朝臣」を左近少将坊門信通に比定する向きもあるが、世代的に一世代のずれがあることから疑問。

 父・千葉介時胤が仁治2(1241)年に二十三歳の若さで急死したために、頼胤(亀若丸)は数え三歳で家督を継いだ。まだ幼少だったため後見人がついたというが確認できない。ただし、亀若丸には祖父叔父にあたる一門長老の千葉八郎胤時千葉介胤正九男)が亀若丸に代わって幕府に出仕しており、宗家庶子が亀若丸を支えていたことは事実であろう。千葉胤時はすでに老境であり、叔父の千葉次郎泰胤へ代理職が変わったようである。

●千葉介頼胤周辺系図●

 北条時政――+―北条義時―――+―北条泰時―――+―北条時氏――+―北条経時
(遠江守)  |(相模守)   |(相模守)   |(修理亮)  |(武蔵守)
       |        |        |       |
       |        |        +―娘     +―北条時頼
       |        |          ∥      (相模守)
       |        |          ∥
       |        +―名越朝時―――――名越光時
       |         (遠江守)    (越後守)
       |             
       +―平政子    +―源頼家――――+―壱幡  
       | ∥      |        |
       | ∥――――――+―源実朝    +―公暁
       | 源頼朝
       |
       +―北条時房――――――――――――――娘
        (修理大夫)             ∥―――――――千葉介頼胤  +―千葉宗胤
                           ∥      (千葉介)   |(大隅守)
 千葉介胤正―+―千葉介成胤――+―千葉介胤綱――+―千葉介時胤   ∥      |
(千葉介)  |(千葉介)   |(千葉介)   |         ∥――――――+―千葉介胤宗
       |        |        |         ∥      |(千葉介)
       |        +―千田尼    +―千葉泰胤――――娘      |
       |          ∥       (次郎)            +―亀姫
       |          ∥
       |          ∥
       |          北条時頼
       |         (執権)
       |
       +―上総介常秀――+―上総権介秀胤
       |(上総介)   |(上総権介)
       |        |
       +―千葉胤時   +―埴生時常
        (八郎)     (次郎)

 一方、上総国の上総権介秀胤(千葉胤時の甥)は、父の上総介常秀の代から上総国北部、下総国埴生庄など(埴生庄、埴生西条、印西庄、平塚郷は秀胤弟・埴生時常が継承したが、秀胤が押領)などを領した(大きな枠組みの中での)千葉一門最大の権力者であり、寛元元(1243)年7月、執権を補佐する幕府の最高行政機関である評定衆の一員に抜擢されるほか、上総南部を領した幕府重鎮・三浦義村の娘を妻として威勢は千葉惣領家をしのいだ。

 ただし、千葉惣領家は千葉介成胤の子孫が代々継承し、幼少の亀若丸に代わって幕府に出仕していたのは、千葉胤時と千葉泰胤の両名であって、上総権介秀胤ではなかった。秀胤は千葉一門の「代表者」ではなく、千葉氏とは血縁関係にあるが、六党同様に宗家から独立した御家人(六党以降で初めての宗家分流の独立御家人)であったろう(「六党」の概念は当時においてはまだなかったと思われるが)。のちに宝治合戦において千葉宗家が秀胤一党に連座しなかった理由はここにあるのだろう。

 寛元4(1246)年3月23日、病状の悪化した執権・北条経時は、屋敷に弟の左近将監時頼を召すと執権職を譲り渡した。経時は自らの命がもはや残り少ないこと、二人の息子がまだ幼少であることから、弟の時頼に託した形になったという。そして3月25日、時頼は大殿・藤原頼経入道と将軍・藤原頼嗣に謁して、執権職を相続した旨を報告。翌26日には新執権として評定に臨んだ。その後、経時の病状は好転することなく、4月19日、出家して「安楽」と号し、閏4月1日、三十三歳の若さで卒した。

 経時の死と時頼の執権相続によって、大殿頼経入道・将軍頼嗣の周辺に波乱を巻き起こすことになる。これまで頼経と経時との間にあった将軍家尊重の気風は、時頼を担ぎ出すことによって自家の勢力を伸ばそうとする安達家の増長によって一変する。

              +―安達泰盛            +―頼助
              |(城九郎)            |(大僧正)
              |                 |
         安達義景―+――娘      +―北条経時――+―隆時
        (秋田城介)  (松下禅尼)  |(武蔵守)   (権律師)
                 ∥      |
                 ∥――――――+―桧皮姫
       +――   +―北条時氏    |  ∥
       |(矢部尼) |(修理亮)    |  ∥
       |  ∥   |         | 藤原頼嗣
       |  ∥―――+――娘      |(征夷大将軍)
       |  ∥      ∥      |   
       |  ∥     足利義氏    +―北条時頼  
       |  ∥    (武蔵前司)    (左近将監)
       |  ∥                ∥
       | 北条泰時――――娘         ∥
       |(武蔵守)    ∥         ∥
       |         ∥         ∥
 三浦義村――+――――――+―三浦泰村       ∥
(駿河守)         |(若狭前司)      ∥
              |            ∥
              +――         ∥
                 ∥―――――――――娘
                 ∥
         大江広元―――毛利季光
        (大膳大夫) (蔵人大夫)

■寛元政変

 寛元4(1246)年閏4月18日亥の刻(午後十時頃)、鎌倉に甲冑を着た武士が鎌倉のまちに満ち、その後連日にわたって殺伐とした空気が鎌倉に満ちた。この騒擾は一月経っても収まらず、5月22日寅の刻(午前四時頃)には、秋田城介義景の甘縄屋敷周辺で諍いが起こった。この騒動について詳細は陳べられていないが、北条嫡宗家と激しく対立していた名越流・越後守光時が時頼に反発する大殿藤原頼経入道と結んで安達方と抗争したと思われる。また、時頼の外戚として勢力を伸ばそうとした安達氏の影が大きく見える。

 5月24日になっても、鎌倉の騒動は鎮まらず、民衆は家財道具を持って逃げ出している。これを受けた時頼は、御家人に辻々の警固を命じ、宇津宮御所の頼経入道へ加担する者を取り締まった。御所に馳せ参じようとした狩野為佐が抵抗して乱闘騒ぎを起こすなど、大殿・名越方と執権・安達方に分かれた御家人が巷にあふれて大騒動となっていた。

 ところが翌25日、御所の名越光時はにわかに剃髪し、一族もそろって時頼へ詫びることで、騒乱は収束に向かい、翌26日、時頼の屋敷に右馬権頭政村、陸奥掃部助実時、秋田城介義景が集まって密会が行われた。おそらく名越光時前将軍家の追放が話し合われたと思われる。

 三浦義村―+―三浦泰村
(駿河前司)|(若狭前司)
      |
      +―三浦家村
      |(式部大夫)
      |
      +―娘
        ∥
       上総権介秀胤
      (上総権介)

 そして6月7日、時頼は頼経入道・名越光時方に加担した後藤佐渡前司基綱、狩野前大宰少弐為佐、上総権介秀胤、町野加賀前司康持評定衆から除く決定を下す。町野康持はさらに問注所執事の職も剥奪されている。これら一連の事件を「寛元政変」という。

■宝治合戦

宝治合戦
宝治合戦当時の鎌倉

 寛元4(1246)年6月13日、越後守光時入道蓮智伊豆国に流された。また、上総権介秀胤も鎌倉を追放されて上総国へと帰国した。

 6月27日、頼経入道は鎌倉から京都へ送還されるに及び、佐介の越後守時盛邸に入り、門出の儀が執り行われた。ここに時頼が参列した様子はうかがえない。7月1日、ようやく時頼は頼経入道の宿所に酒肴を届けさせているが、やはり両者が対面した様子はない。その後も対面はされることなく、7月11日明け方、頼経入道は上洛の途についた。事実上の鎌倉追放である。その供奉には、頼経と親密な関係を持っていた元評定衆でもある後藤基綱、狩野為佐や、親交のあった三浦光村らも選ばれている。

●寛元4(1246)年7月11日頼経入道上洛供奉(『吾妻鏡』)

京都に祇候
すべき人
前讃岐守親実 前石見守能行 前隼人正光景 山城入道元西 信濃権守
隼人太郎左衛門尉光盛 信濃右馬允 高橋右馬允光泰 弥五郎右馬允盛高 斎藤左衛門尉清時
藤四郎左衛門尉秀実 十郎兵衛尉      
路地送迎の人 相模右近大夫将監時定 後藤前佐渡守基綱 狩野前太宰少弐為佐 三浦前能登守光村 島津前大隅守忠時
二階堂前筑前守行泰 主計頭頼行 毛利蔵人経光 下妻四郎長政 大曽祢左衛門尉長泰
結城上野弥四郎左衛門尉時光 宇都宮五郎左衛門尉泰親 三浦駿河五郎左衛門尉資村 佐原肥前太郎左衛門尉胤家 武藤左衛門尉景頼

 供奉して鎌倉への帰途の際、三浦光村は頼経との別れに、二十年にわたる懐旧を思い、御簾の前で泣き崩れてしばらく退出しなかった。光村はその後、人々に「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らん」と言ったという。この発言は危険視され、のちの宝治合戦への布石となる。

宝治合戦と三浦家滅亡

 宝治元(1247)年4月4日、高野山に住していた秋田城介景盛入道覚地がにわかに鎌倉に馳せ戻り、甘縄の安達邸に入った。景盛入道はその後数日滞在することになる。景盛が急に帰倉した理由はわからないが、三浦氏の権勢拡大に居ても立ってもいられなくなったのが真相か。

 4月11日、景盛入道は時頼邸を訪れて、時頼と秘密の談合を行なっている。どのようなことが話されたかは不明だが、景盛入道は三浦氏を「傍若無人」としており、彼らを追捕する必要があると訴えたのだろう。甘縄に戻った景盛入道は、子の秋田城介義景と孫の九郎泰盛に対しても「三浦一党、当時武門に秀で傍若無人なり。漸々澆季に及わば、われらが子孫、定めて対揚の儀に足らずか。もっとも思慮を廻らすべきのところ、義景と云ひ泰盛と云ひ緩怠の稟性、武備無きの条は奇怪」と子や孫への訓戒も欠かさなかった。この高野入道の鎌倉下向帰参によって、三浦氏と安達氏は決定的な対立を深めていってしまう。

 安達氏と三浦氏の関係は深い溝があったが、時頼との間はどうだったのだろう。5月6日、時頼は泰村の次男・駒石丸を養子に迎えており、時頼はすでに縁戚関係になくなっていた三浦氏をふたたび親族として取り込むことを考えたのではないだろうか。13日に将軍・頼嗣御台所だった時頼の妹が十八歳の若さで亡くなってしまうと、その服喪のために泰村邸に移っていることからも、時頼と泰村の関係は悪くなかったと推測されるのである。

 しかし、5月21日に鶴岡八幡宮の鳥居の前に「泰村が傍若無人の余り厳命に背くことがあり、近日中に誅罰を加える」という旨の立て札が立てられたころから状況は変わって行った。だが、時頼はこの日も三浦邸にあり、おそらくこの立て札は安達一党の策謀によるものであろう。

三浦氏
左側が三浦邸址

 時頼は三浦邸で十日もの間世話になっていて、はじめは泰村の挙兵について信じなかったが、三浦一族が集まっているにもかかわらず、時頼のもとに挨拶に参じる者はなく、さらに逐電した泰村所縁の土方右衛門次郎が鶴岡八幡宮寺に奉納した「彼の一類の叛逆に与すべからず、霊神の冥助を加え、安全を護らしめ給うべし」という願文を時頼が読んだことで、疑いの心が芽生え、さらに夜に甲冑の音が聞こえ出すと、謀叛はもはや顕かになったかとにわかに三浦邸を出立して、邸に帰ってしまった。泰村はこれを聞き、あわてて時頼のもとへ出頭し、陳謝したという。

 5月28日、時頼は三浦一党の反逆の疑いについて慎重に裏付けを取り始めると、彼らは武具を取り寄せているという報告が入った。とくに三浦能登前司光時は幼少のころから頼経に近侍して二十年余、ふたたび鎌倉に頼経を復帰させることを悲願にしていると公言してはばからなかったことが、時頼にとって危険分子に思えたのかもしれない。

 6月2日、近隣の御家人が鎌倉に馳せ参じ、執権邸に集まり始めた。もはや三浦泰村の挙兵は間違いないという風評が飛び交ったためと思われる。このとき、三浦一族である佐原遠江守盛連の子息、佐原太郎経連比田次郎広盛次郎左衛門尉光盛藤倉三郎盛義五郎左衛門尉盛時六郎兵衛尉時連は、泰村と決別して時頼のもとに参じている。

 しかし6月5日、時頼はなおも「泰村を討つ心はない」という誓書をしたため泰村に遣わしている。これを聞いた安達景盛入道は、子の義景、孫の泰盛を招いて、三浦一党を討つべく挙兵せよとの指示を出し、独断で赤橋にまで軍勢を進めた。時頼が泰村へ遣わした使者がまだ時頼邸に着いていない頃であり、時頼の与り知らぬ部分での挙兵であったか。いずれにしろ、三浦氏は虚を突かれた形となった。和平を模索していた時頼も、交戦しているのであればもはやこれまでとし、三浦党攻めを敢行。泰村一党は屋敷を逃れて東に隣接する頼朝法華堂に篭り、防戦するも衆寡敵せず主だった者二百七十六名、家子、郎従ら合わせて五百余名が法華堂で自害し、繁栄を極めた三浦家嫡流はここに滅亡する。

 その翌日には、上総で蟄居していた上総権介秀胤に対する追討令が下った。この追討を命じられたのが、同族の大須賀左衛門尉胤氏東中務胤行入道素暹であった。東素暹の娘秀胤の子・上総五郎左衛門尉泰秀に嫁いでおり、両者は大変関わりの深い親戚であった。これは三浦氏の縁戚であり、強大な勢力を持っていた上総千葉党をそのままにしておくことはできなかった時頼の裁断であろう。

 大須賀胤氏東素暹は6月7日、郎党を率いて秀胤上総一ノ宮大柳館に攻め寄せた。しかし、彼らは事前に秀胤と連絡を取っていたようで、大須賀胤氏東素暹の軍勢が館を囲むと、館の周りに積み上げていた薪に火をかけ、四人の子息や郎党百六十三人とともに自害して果てた。このとき、埴生庄を兄・秀胤に押領されて仲違いしていた埴生時常も秀胤のもとに駆けつけ、邸内でともに自刃した。このほか、秀胤に味方した下総三郎(東胤行の従弟?)・大須賀重信(大須賀胤氏の叔父)は戦死し、三浦一族の三浦行泰の娘を妻としていた大須賀範胤は戦場を逃れて宇都宮頼綱(叔父・時綱は三浦泰村とともに鎌倉で討死)を頼って下野国君島村に逃れ、子孫は君島を称した。かつて亀若丸の代理を務めた白井八郎胤時も連座して領地を没収されている。

 東素暹は、秀胤との戦いののち、外孫にあたる上総五郎泰秀の男子(一歳)のほか、秀胤の末子(一歳)秀胤の長男・政秀の二人の子(五歳、三歳)秀胤の弟・埴生時常の男子(四歳)の助命を、自分の戦功に代えて時頼に申し出て許された。その後、東素暹が預り育てたとも、陸奥国五戸庄へ落としたとも言われる。

■千葉氏の財政難

 宝治元(1247)年12月29日、「京都大番勤仕」の結番が定められた。各々三か月を限って在京し、京中所々を警固すべきことが指示され、八番が「千葉介」と定められた。この結番の開始時期については、一番の「小山大夫判官長村」が宝治2(1248)年正月20日に将軍家の鶴岡八幡宮参詣に加わっていることから、長村の大番役はこれ以降のこととなるため、八番の亀若丸は三か月刻みでの大番であるとすると、建長元(1249)年10月から12月までの三か月となるか。

 建長元(1249)年2月1日、京都の閑院内裏が炎上したことから、3月1日、幕府は再建に際し御家人たちに諸役を分担させることとした(『吾妻鏡』建長元年三月一日条)。ここで「千葉介跡」が内裏「西対」の造営雑掌とされるが、この「千葉介跡」は前回閑院再建(建暦御造営)に携わった「祖父(祖父の前一文字闕があるが、文脈上「者」カ?)の千葉介成胤の遺領継承者ということか。5月27日、「至亀若丸者、僅雖有嫡家相伝之名」も、所領は一族に分与されてしまい彼らの催促も成り難い上、今年は大番役もあって苦しい旨を幕府へ訴えている(『平亀若丸請文案』:中尾堯『中山法華経寺史料』)

 さらに同年3月23日午刻、京都姉小路近辺で起こった火災によって、蓮華王院が延焼(『百錬抄』)。幕府はこの御堂の再建にも御家人役を課し、「千葉介跡」三百貫文の負担を強いられている。千葉家の家政を鎌倉で担当していたとみられる「法橋長専」という人物は財政難を激しく嘆いており、千葉介ほか御家人たちへの公的負担は増すばかりであった。

 こうした状況の中で、千葉惣領家の亀若丸はまだ歳若く、建長2(1250)年8月15日の鶴岡八幡宮放生会では後陣随兵として「千葉次郎胤泰(ママ)が見え、8月18日の将軍家由比ガ浜逍遥では、将軍家御後に「千葉次郎」とあり、いずれも叔父の千葉次郎泰胤が亀若丸の代理として参加している。

 11月28日、幕府は陸奥・常陸・下総の三か国で隆盛していた双六博打の取り締まりを、「陸奥国留守所兵衛尉、常陸国宍戸壱岐前司、下総国千葉介等」に命じている。これもまた十二歳の亀若丸が裁許できるものではないため、千葉次郎泰胤ほか一族や被官によって執行されたと思われる。そして12月27日の「将軍近習結番交名注文」でも「千葉次郎」の名が見え、泰胤は将軍近習の勤めを果たしていたことがうかがえる。

■宮将軍擁立

 こうした中、建長3(1251)年12月26日、鎌倉で近江大夫判官氏信と武蔵左衛門尉景頼の両名が「了行法師、矢作左衛門尉千葉介近親、長次郎左衛門尉久連等」を生虜る事件が勃発した。「謀叛之企」のための捕縛であった。謀叛の首謀者とされた「了行法師」は九条家と所縁の深い僧侶で、出自は千葉氏と同族の原氏とされている人物である(野口実『了行とその周辺』:「東方学報」京都大学人文科学研究所2001)。連行された彼らは得宗被官の「諏方兵衛入道蓮仏」の尋問を受けて、記録上では「逆心」を認めた。そして翌27日には早くも処刑および追放されている。「謀叛」とは、「光明峯寺禅定殿下」こと九条道家禅門とその子・藤原頼経禅門(前将軍)が黒幕となり、九条家と所縁の深かった三浦氏とその縁者・上総千葉氏の残党による幕府転覆計画とされている。

 北条時頼はこの計画を未然に防ぐとともに、源頼朝の影響力が残る九条家と幕府の縁を断ち切るためか、翌建長4(1252)年2月20日、「上皇第一三宮之間可有御下向」を朝廷に奏上するため和泉前司行方と武藤左衛門尉景頼が上洛し、3月5日、後嵯峨上皇第一皇子(三品宗尊親王)の関東下向が決定(4月1日、鎌倉にて将軍宣下)する。これに伴い、現将軍の三位中将藤原頼嗣は鎌倉から京都へ出立することとなり、3月21日、幕府を出て上洛の途についた。この混乱の中、正月27日にこれらの計画のいわば「黒幕」であった「法性寺禅定殿下(九条道家)」が薨去しているが、あまりにタイムリーなタイミングであったため、「武家可有籌策之期也」との噂が立つほどであった(。

 ただ、三浦氏・上総千葉氏残党がこの謀叛劇に加担したとされているものの、千葉惣領家や三浦惣領家、その他の一族への引責はなかった模様で、4月1日に鎌倉下向の宗尊親王を片瀬川へ出迎えた諸御家人の中には、「三浦介盛時」「武石次郎」「武石三郎朝胤」「遠江次郎左衛門尉光盛」「六郎左衛門尉時連」ら千葉氏や三浦氏の人々が見られる。現在、御家人として続いている千葉氏および三浦氏は、上総千葉氏や泰村流三浦氏とはまったく別の家であったためであろう。

■元寇

 頼胤の元服がいつかは史料に遺されていないが、おそらく北条時頼の偏諱「頼」を受けていると推測されることから、まだ「亀若丸」を称していた建長元(1249)年5月から、北条時頼が執権を辞任した建長8(1256)年3月までの間であろう。時頼が烏帽子親となった元服の例は、建長2(1250)年12月3日の佐々木壱岐前司泰綱の九歳の「子息小童」の元服式に見られる。時頼の屋敷に招かれた九歳の少年は時頼の「頼」を受けて「三郎頼綱」と号した。連署・北条陸奥守重時秋田城介義景ら幕府重鎮も同席し、「御引出物以下経営、尽善極美」という盛大なものだった。「一門衆群參、各随所役」と佐々木一門もこれに参じて所役を務めた。頼胤の元服に際しても同様に行われ、千葉一門が参集したと思われる。

 建長5(1253)年8月15日、十五歳の頼胤ははじめて鶴岡八幡宮放生会に参列した。千葉介常胤以来の後陣の供奉の一人として千葉介頼胤の名が見える。この前年の放生会については具体的な記録がないため、史料上はこれが頼胤自身の公的立場の初見となるか。

 建長6(1254)年4月15日、頼胤は北条家の意を奉じた「左衛門尉」より(若宮で行われる)「六月廿日御神事流鏑馬役」について指示を受けている。5月9日には「左兵衛尉」より「六月廿日、若宮流鏑之役事」を先例の通り参勤すべきことを伝えられた。ただ、頼胤は同じ20日に若宮での流鏑馬と別の神事についての催促を求められていたようで、「御神事」の参勤が同時にある場合はどちらを優先すればよいのか「左兵衛尉」へ問い合わせたとみられ、閏5月20日、左兵衛尉はこのような神事が重なった場合は「専可被勤仕若宮御神田被定置了」と教えている。そしてこれ以降は「不及執申候歟、猶可令申給子細候、以別人可令申給候覧」と返書を認めている(中尾堯『中山法華経寺史料』「天台肝要文」紙背文書及び「破禅宗」紙背文書より)頼胤は前年に公式行事へ初めて参加したが、これまで千葉介代として公式行事に参加していた大叔父・千葉次郎泰胤が建長3(1251)年正月に亡くなっていた事で(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』)、幕府行事のしきたりを詳しく享受することができなかったのではないだろうか。

 建長6(1254)年7月20日、来月15日に行われる鶴岡八幡宮放生会の供奉催促で、供奉することができないことを訴えた人々の交名が示され、隨兵として「千葉介」「故障」を訴えている。実は頼胤はこの頃、大番役として上洛の時期にあたり、これを以って故障とした可能性もあろう。閏5月、被官の「さいしむ」という人物が「ときの入道殿」「すてに御京上もちかくなりて候」とし「ひんきの時、しかるへきやうにけさんにいれさせ給候て、こんと御ともつかまつり候やうに、御はからひ候はん事、ほいにそんし候」と随行を懇望し、頼胤へその旨伝えてもらうよう願い出ている(中尾堯『中山法華経寺史料』所収「秘書」紙背文書28、29)

 そして建長7(1255)年11月時点では、「おゝはん御在京御時、寛覚令参上候て…」とあり(『寛覚訴陳状』中尾堯『中山法華経寺史料』所収「破禅宗」紙背文書5)、すでに帰国していることがわかる。

万満寺(馬橋)
馬橋の大日寺(法王山萬満寺)

 成長した頼胤は、下総守護職の「守護所」を、それまでの国分寺から国分川対岸に位置する真間山市河に移した。真間山のふもと、谷中・曽谷郷は中世には八幡庄と呼ばれていた。八幡庄には守護所に出仕していた千葉家被官・富木五郎常忍と、問注所の役人・大田左衛門尉乗明がおり、富木常忍は毎朝、真間の守護所へ出仕していた。

 建長8(1256)年、「小金城主」の千葉介頼胤馬橋村(松戸市馬橋)に真言宗・大日寺(現在の法王山万満寺)を創建しており、その北に小金屋敷(松戸市三ヶ月)を建てた。大日寺はその後、千葉介貞胤によって千葉に移され、馬橋の大日寺は千葉介満胤の代、臨済宗・万満寺と改められたと伝わる。

 正嘉2(1258)年3月1日、将軍・宗尊親王の二所詣に随兵として、「千葉介分 六郎子息千葉太郎左衛門尉」が従った。この千葉太郎左衛門は具体的に不明だが、千葉七郎太郎師時の子・千葉太郎左衛門尉師重のことか。

◎正嘉2年3月1日条(先陣十二騎部分)


壱岐六郎左衛門尉跡  三田小太郎跡子息云々  大胡太郎跡     小林次郎跡子息云々
 葛西四郎太郎     三田五郎        胡掃部助太郎    小林小三郎

木村五郎跡子息云々  佐貫左衛門尉跡子息云々  那須肥前々司分子息云々  足利向田太郎分云々
 木村四郎左衛門尉    安芸大炊助        肥前七郎         向田小太郎

河越掃部助跡     足立木工助跡     千葉介分六郎子息    相馬左衛門尉跡
 香山三郎左衛門尉   瀧口左衛門尉     千葉太郎左衛門尉    天野左衛門尉


 御引馬 三疋
 御弓袋差  丸嶋弥太郎久経
 御甲着   伊豆藤三郎保経
 御冑持   門居弥四郎行秀
 御小具足持 弥三郎守近
 御調度懸  又鶴丸
 御油
 御先達   権少僧都善道
 
●御駕(御浄衣)
周防五郎左衛門尉忠景 薩摩七郎左衛門尉祐能 武藤左衛門尉頼泰 加藤左衛門尉景経
肥後三郎左衛門尉為成 山内三郎左衛門尉通廉 小河新左衛門尉  肥後四郎左衛門尉行定
鎌田三郎左衛門尉義長 鎌田新左衛門尉    渋谷太郎兵衛尉  鎌田次郎兵衛尉行俊
土肥四郎実綱     平賀新三郎維時    狩野四郎景茂
 
●御後騎(楚鞦)
土御門中納言顕方卿
  
武蔵前司朝直     中務権大輔家氏    陸奥七郎業時
越前守時広      備前三郎長頼
内蔵権頭親家     太宰少弐景頼     参河前司頼氏
筑前次郎左衛門尉行頼 安藝左近大夫親継   肥後次郎左衛門尉為時
阿曽沼小次郎光綱   伊勢次郎左衛門尉行経 山内籐内左衛門尉通重 善五郎左衛門尉康家
采女正忠茂朝臣    前陰陽大允晴茂朝臣  参河前司教隆      大隅修理亮久時

●小侍所司
平岡左衛門尉実俊
北条武蔵守長時    北条相模太郎時宗
 
●侍所司
平三郎左衛門尉盛時
 
●後陣随兵十二騎
行方太郎跡
 行方中務五郎    真壁孫四郎
 
豊嶋兵衛尉跡     中村甲斐前司跡
 豊嶋四郎太郎     内匠蔵人太郎

大河戸兵衛尉分子息と 伊北三郎跡
 大河戸兵衛太郎    伊北小太郎

国分五郎跡      大井品河人々分
 国分彦五郎      品河右馬允

多故宮納左衛門尉跡  鬼窪左衛門入道跡
 多比良小次郎     民部太郎子と鬼窪又太郎

永野刑部丞跡     自身
 永野次郎太郎     忍小太郎

 某年4月29日の『平頼胤請文』「千葉四郎太郎入道」の名が見え、某年7月19日の『平某書状』の宛名は「千葉九郎殿」とあり、いずれも頼胤が幕府から命を受けて発給した文書と思われる。このことからも、頼胤は守護として政治を執り行っていたことがうかがえる。なお、ここに見える「千葉四郎太郎入道」立沢四郎太郎胤義のこと、「千葉九郎殿」はかつての後見人・千葉八郎胤時の子、白井九郎胤定のことと推測される。

◎千葉頼胤周辺系譜

 千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介胤綱――千葉介時胤――千葉介頼胤―+―千葉宗胤
(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)  (千葉介)         |(亀若丸?)
       |                            |
       +―三谷胤広―――千葉胤義                +―千葉介胤宗
       |(四郎)   (四郎太郎)                (亀弥丸?)
       |
       +―白井胤時―――千葉胤定
        (八郎)   (九郎)

 文永8(1271)年9月、幕府は元寇の備えのために、九州に領地を持つ御家人の九州下向を命じた(異国警固番役)。千葉氏も肥前国小城郡晴気庄を所領としていたため、頼胤も警備のために自ら在地に向かうこととなった。このとき、頼胤が率いていった中に千葉六党や親族は加わっておらず、主に下総国千田庄の一族(円城寺氏、原氏、岩部氏、中村氏、仁戸田氏など)を従えていた。これは千葉六党や親族は惣領家を支える一族であり、守護に随う下総の御家人であったが、各個が独立した御家人である上、九州に所領を持たなかったことから召集されなかったのであろう。一方で千田庄の千葉一族は千葉宗家の被官(直臣)であったために、肥前に随っていったと考えられる。

 博多で行われた蒙古軍と日本軍の戦いで、頼胤は防御線の石塁を越え、海岸付近の箱崎松原まで繰り出して元軍と衝突したが、このときの合戦で頼胤は蒙古軍の毒矢をうけて退却。小城郡で疵の治療に当たったが、建治元(1275)年8月16日、三十七歳の若さで亡くなった。法名は常善法慶院・長春常善院

 彼の死が下総国に伝えられると、八幡庄にあった十二歳の長男・宗胤が九州への出陣を命じられ、弟・胤宗が下総の留守を守ることとなった。のち、宗胤亡き後、胤宗は幼少の宗胤嫡子・太郎千葉大隈守胤貞)を差し置いて家督を継承。胤宗の系統が下総千葉介となり、太郎胤貞は父の遺領であった八幡庄・千田庄を本拠として従兄弟の千葉介貞胤と抗争することとなる。

 幕府の官僚・三善家の一族で、美作国布施郷地頭であった布施隼人佐康清の五代の子孫・布施右馬允政康は、千葉介頼胤の娘を正妻に迎え、子息の布施太郎左衛門尉康長は暦応2(1339)年2月10日に亡くなった。法名は宥禅。その子・布施太郎左衛門尉胤康、布施孫三郎胤雄はいずれも諱に「胤」字を用いていることから、千葉氏との深い関わりを見ることができる。

 胤康の孫・布施藤左衛門尉藤常は永享11(1439)年2月10日、鎌倉公方・足利持氏(左兵衛督)が鎌倉の報国寺で自刃した際にともに亡くなった。四十一歳。その子・布施藤左衛門尉康晴は文明3(1471)年、おそらく千葉介孝胤に属して、伊豆国堀越に本拠を構えていた足利政知(将軍・義政の弟)を討つべく相模に出陣していた。孝胤は古河公方・足利成氏を自分の領内に庇護していた経緯もあり、小山下野守持政らとともに、幕府の指示を受けて関東に下った足利政知を関東から追放しようと画策していたようである。しかし、古河公方勢は伊豆国三島で打ち破られ、孝胤「高浜六郎」という人物に敗れ、布施康晴は常陸国へ逃れた。

●布施氏略系図

 +―源頼朝乳母                          +―胤宗―――貞胤―――――氏胤
 |                                |(千葉介)(千葉介)  (千葉介)
 +―妹                              |
   ∥―+―康信――町野康俊──康持─―――政康   千葉介頼胤―+―娘
   ∥ |(善信)(加賀守) (散位)  (加賀守)(千葉介)    ∥――――康長―――――+―胤康
   ∥ |                              ∥   (太郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)
⇒三善康光+―康清===布施康定――康高――――康重――――康秀――――政康          |
(山城介) (隼人佐)(左衛門尉)(左衛門尉)(太郎左) (孫太郎) (右馬允)        +―胤雄――+
                                                 (孫次郎)|
                                                      |
               +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
               |
               +―胤定――――藤常――――――康晴―――――康兼
                (孫藤太) (藤左衛門尉) (藤左衛門尉)(隼人佐)

◆頼胤の居館について◆

本福寺
礼拝山敬恭院本福寺

 頼胤は下総守護として、国府(市川市国府台)に近い守護所に館を構えていたと推測され、曽谷教信、大田浄明などの在地豪族を官僚として召抱えていったのでした。

 頼胤は守護所の北六キロほどにある「小金」に館を築き、ここを拠点としました。西には太日川(江戸川)に面した湿地帯が広がり、急崖の下には入り江が入り込んでいたようです。国衙とは舟を用いて連絡していたと考えられます。現在、城跡には「明治神社」とよばれる元妙見社があり(失火で失われ、鉄筋にて再建)、所々に土塁が残っています。また、松戸市内唯一の時宗の寺院・礼拝山敬恭院本福寺があり、同寺に伝わる鉦鼓に陰刻された年号によって、嘉元元(1303)年の創建と伝わります。同寺の梵鐘には「六崎」という刻字があり、本土寺の梵鐘と同様、印旛郡六崎(佐倉市六崎)で鋳造されたものとわかります。

 館のすぐ北には菩提寺として、鎌倉極楽寺住持の良観房忍性を開山に迎え、大日寺(現在の法王山万満寺)を建立しています。館は頼胤の跡を継いだ宗胤千葉介胤宗千葉介貞胤千葉介氏胤らも使用したと思われますが、貞胤は大日寺を千葉の北斗山金剛授寺(現在の千葉神社)に移し、千葉介満胤の代に馬橋の旧大日寺を、鎌倉公方・足利氏満の「満」字を賜って「万満寺」と改称したそうです。

◆千葉氏の政務官僚たち◆

 このころの千葉氏には、官僚的な立場にいたと思われる人物の名前がいくつか見ることができます。とくに著名な人物としては、中山法華経寺の根本の一つである「法華寺」を建立した「富木常忍」がありました。そのほか、やはり法華経寺の基となった「本妙寺」の前身の館にんでいた「大田乗明」、そして、古文書には出なかったものの、困窮していた千葉家の財政を切り盛りして、必死に奔走していた「法橋長専」なる人物がありました。

富木常忍(1216-1299)


 因幡国法美郡罵城郷(鳥取県鳥取市国府町)の人。父は富城中太入道蓮忍。通称は五郎。名字は「とき」とよむ。実名は「常忍」と書いて「つねのぶ」か。日蓮の最古の檀越。のち出家して「日常」と号した。父の通称が「中太」であることから、中原氏の一族か。国府のある罵城郷の住人であることから、国府出仕の人物であった可能性があろう。

 建長2(1250)年、父の富城中太入道蓮忍より、所従(および所領か)を譲られているが、この所従は蓮忍が関東へ移住すると、一宮宇倍神社の「公文元富」がこの所従を従えてしまった。そこで常忍はこの所従を引き渡すよう、宇倍神社政所へ訴えを起こしている(『沙弥常忍訴状』:「日蓮宗全書」)。この訴えは常忍側に不利な判決となったのだろう。直後、常忍は鎌倉に訴え出ることになったと思われ、ここでおそらくは日蓮と出会い、さらに国衙在庁としての経験を買われたのか、千葉家の被官として召抱えられることとなる。

 常忍は下総国府に程近い下総国八幡庄谷中郷若宮戸村に住し、千葉家の政務官僚として活躍することとなるが、同時に日蓮の熱心な庇護者ともなり、建長5(1253)年12月にはすでに交流を持っていた。建治2(1276)年3月の日蓮の書状『忘持経事』(『日蓮聖人遺文』)のなかに「朝出でて主君に詣で、夕に入りて私邸に返る」とあることから、千葉介頼胤の館または守護所に出仕し、夕方に若宮へ帰宅している様子が見られる。

 日蓮は幕府に『立正安国論』を提出したことから幕府から迫害を受けることとなった際には、常忍が日蓮を匿い、日蓮の絶大な信頼を得ていた。さらに日蓮から『観心本尊抄』などの保管を求められる学識者でもあった。

富木常忍廟所
奥之院日常廟

 日蓮の死後、子の日頂と対立して出家し、「常修院日常」と号した。そして自邸の法華堂を改めて「法華寺」と号し、邸域を寺地としている(現・奥之院)。この寺院がのちの中山法華経寺の根本となり、日常は下総の門徒を指導して日蓮宗中山門流の基礎を築いた。さらに晩年、千葉介家でともに仕えていた同僚・大田金吾乗明の子である日高(本妙寺住持)を弟子に迎え、永仁7(1299)年3月4日、『置文』を制し、日蓮の教えを守ることを伝えた。

 6日、各地から収集した日蓮遺文を目録化して『常修院本尊聖教事』を作り、同月20日、法華寺とこれら文書を中山本妙寺の日高へ、真間山弘法寺を日揚へそれぞれ付して、互いに融和すべきことを指示したのち示寂。八十四歳。

大田乗明(????-????) 


 千葉家の有力被官。発祥地などは不明だが、下総国八幡庄谷中郷の中山館に住んでいた豪族。武蔵国の太田氏との関係も不明。名字は「大田」が正しいか。通称は金吾。「金吾」は「衛門府」の別称である事から、「右衛門尉」「左衛門尉」などに任官していたと思われ、御家人であろう。一説には幕府問注所・太田氏の子とされる。

大田乗明
大田稲荷(大田乗明館跡)

 大田氏は、北部の大野(市川市大野)にも館を持っていたと伝えられており、八幡庄曾谷(市川市曽谷)の『長谷山安国寺縁起』によれば、文安元(1264)年の記述として「大野の城主、太田左衛門尉」という名が見える。「太田左衛門尉」つまり、「太田金吾」であり、「太田(大田)金吾乗明」とも何らかの関係があったか。

 彼の子・日高は正嘉元(1257)年に生まれた。通称は伊賀公と称している。日蓮の没後は身延守塔輪番の一人に選ばれた。永仁7(1299)年には師匠・日常から若宮法華寺を受け継ぎ、『日常置文』をよく守り中山門流を運営していく。日高は父・大田乗明の館跡を「本妙寺」に改め、自ら初代住持となっていた。さらに若宮法華寺を受け継いだことから、法華寺の住持も兼帯することとなり、「本妙・法華両寺一主の制」をはじめている。

 千葉大隅守胤貞(のち、肥前千葉氏当主)は、父・千葉太郎宗胤の居館(八幡庄曾谷にあったと思われる)にあったと思われ、本妙・法華寺とも何らかの関わりを持つようになり、胤貞は日蓮宗に帰依。日高も胤貞をパトロンとして経済的な基盤をはじめ、寺院としての地位を高めていったと考えられる。そして日高は胤貞の養子となっていた日祐(浄行院)を弟子とし、正和3(1314)年、17歳の日祐を本妙・法華両寺の主に定めたのちの4月26日、58歳で示寂。

法橋長専(????-????)


 千葉家の財政担当の被官。出身などは一切不明。通称は越前法橋房富木常忍と同じく、その能力を買われて千葉家の被官となった人物で、古くからの千葉家被官ではない。和歌の道に堪能であり、おそらく漢詩をも嗜んでいたであろうことを髣髴とさせる文書から、もともと僧侶として研鑽を積んだ人物で千葉介時胤の右筆として召し出されたのかもしれない。

 宝治2(1248)年6月2日、「法橋長専」「ぬきなの御局」と連署にて「たいふ明仏」との間での所領(某所田在家関連か)に関する訴訟で、情理と知性を尽くして「大夫明仏」の訴えを認めないよう陳状を提出している(中尾堯『中山法華経寺史料』、石井進『鎌倉時代中期の千葉氏』―法橋長専の周辺―「千葉県史研究」創刊号、佐々木紀一『法橋長専のこと(上)(下)』『国語国文』第60巻所収)。当時の法廷の様子や相手を虚仮にしつつも和歌や古典の表現を盛り込んで主張を述べるという長専の才能の考察は佐々木紀一氏の『法橋長専のこと』に詳しい。

 翌建長元(1249)年2月1日、京都閑院内裏が炎上したことから、3月1日、幕府は再建に際し御家人たちに諸役を分担させることとした(『吾妻鏡』建長元年三月一日条)。ここで「千葉介跡」が西対の造営雑掌とされるが、この「千葉介跡」はおそらく千葉介胤正の遺領継承者ということとなろう。胤正以来、庶子達に分割された千葉惣領家の所領は数多く、5月27日、「至亀若丸者、僅雖有嫡家相伝之名」として、所領は一族たちに分与されて自分が有する土地は少なく、しかも今年は大番役の年である事から金銭的にも苦しい旨を幕府へ訴えている(『平亀若丸請文案』)

 さらにまた、建長元(1249)年3月23日午刻、姉小路近辺で起こった火災によって、蓮華王院が焼失(『百錬抄』)。幕府はこの御堂の再建にも御家人役を課し、「千葉介跡」三百貫文の負担を強いられている。千葉介ほか御家人たちへの公的負担は増すばかりであった。

 同年11月20日、法橋長専は「六崎殿」へ宛てて主君(十一歳の頼胤)の命により「いそき」の「御ようい」するよう指示している(『法橋長専奉書』)。「六崎殿」は六崎胤朝の子孫へ宛てての文書か。年未詳ながら10月10日、「胤氏」なる人物が蓮華王院造営の段銭として、六崎・篠塚両郷分(両郷とも現在の佐倉市内)三貫八百文のうちから三貫二百文を納める旨の文書を「法橋御坊」に宛てて提出している。「千葉介跡」に課せられた段銭を「胤氏」が負担していたことがわかるが、これは六崎を治めた胤朝が千葉介胤正の子であることから、その子孫である胤氏も「千葉介跡」に含まれていることがうかがえよう。おそらく、建長元(1249)年10月10日、六崎胤氏は段銭諸役の三貫八百文のうち未だ六百文が未納であったため、11月20日に長専が「六崎殿」へ急ぎの用意をするよう指示したものであろう。 

⇒千葉介常胤―+―千葉介胤正―+―千葉介成胤―――千葉介胤綱――――千葉介時胤――――千葉介頼胤
       |       |
       |       +―上総介常秀―――上総権介秀胤
       |       |
       |       +―六崎胤朝――――兵衛尉(胤氏?)―兵衛太郎
       |        (六郎)
       |
       +―国分胤通――――国分常義――――胤実―――――――胤長
       |(五郎)    (六郎)    (六郎太郎)   (六郎)
       |
       +―東 胤頼――+―東 重胤――→《美濃・下総東氏》
        (六郎大夫) |
               +―木内胤朝――――下総胤時―――――小見胤直―――――胤義――泰義
               |        (四郎)     (弥四郎左衛門尉)(六郎)(彦六)
               |        
               +―小見胤光――+―六郎太郎
                (六郎)   |
                       +―六郎四郎

 建長3(1251)年2月20日には、「かとりのとうへい四郎(香取の藤平四郎)」「弥五郎すけよし男」「藤入道」の訴訟について、千葉介と思われる人物から命を受け、「ときの五郎殿」「にへた殿」「さとう中務殿」に宛てて『長専奉書』出されている。この中に見られる「ときの五郎殿」は富木五郎常忍のことで、「にへた殿」は「仁戸田殿」か? 仁戸田氏は岩部氏と同族で、のちに肥前国の小城千葉氏の重臣となっている。「さとう中務殿」については不明。 

 建長4(1252)年3月28日、長専は「富城殿(=富木常忍)」に返書を認めているが(『法橋長専書状』中尾堯『中山法華経寺史料』「秘書」紙背文書)鏑木郷よりの御公事用途銭一貫六百文を受けとった事を報告し、さらに「六郎殿」からの依頼である馬のことも了解したことを記している。ただし、最近は葦毛の馬がよいと思うが、二疋のうちから一疋、良いほうを差し上げようと思うものの、鹿毛の馬も良いのでそちらにするか悩んでいる。さらには以前までいた白毛馬ならばよかったのだが、などと記されている。

 ここに見える「六郎殿」とはいかなる人物か実名は不明だが、「殿」がついている事から主君・千葉氏の一族にあるような人物と思われる。『中山法華経寺史料(中尾堯氏著:吉川弘文館)によれば、伊賀国久吉名の地頭である「おみの六郎」という人物がこれらが記されている紙背文書群に見える。おそらく香取郡小見郷の東一族と推測される。

 なぜ広大な所領を持ち、御家人きっての裕福者といわれた千葉家が鎌倉中期に至って赤字を出すほどの財政難に陥ったのかは文書からはうかがえないが、幕府による次々の負担要求と、下総国特有の香取神宮への出費などが大きいと考えられる。

 建長6(1254)年7月5日、幕府は8月15日の鶴岡八幡宮寺の放生会随兵ほか供奉人について、御家人たちへ催促した。おそらく鎌倉の千葉介屋敷にも同日中に廻文が届けられており、翌7月6日、「法橋長専」は「富木入道殿」へ宛てて、「御放生会随兵」のことにつき、「掃部助殿(北条実時。建長7(1255)年12月13日に掃部助から越後守に転じている。)」が奉行として「如此被仰下て候也、急可令申御返事給」との使者が遣わされているので、頼胤へこの旨を「御披露」くださるよう依頼している。状況から、頼胤は鎌倉を不在にしていて、富木入道のいる八幡庄の守護所へ詰めていた様子がうかがえる。結局、頼胤は「故障」を称して随兵を辞退している(『吾妻鏡』建長六年七月二十日条)

 その後も長専が千葉家に仕え続けていたのかなどの行方は不明。

●参考文献

石井進『鎌倉時代中期の千葉氏』―法橋長専の周辺―(『千葉県史研究』創刊号1993)
佐々木紀一『法橋長専のこと(上)(下)』(『国語国文』第60巻1991)
中尾堯『中山法華経寺史料』(吉川弘文館1968)
中尾堯『中山法華経寺蔵聖教紙背文書補遺』(『古文書研究』二十九号1988)

●某年4月29日「平頼胤請文」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

  上総国南郷住人極弘重申節女母子事、任被仰下之旨、相尋子細候之處、
  千葉四郎太郎入道如此令言上候者也、仍為御披見、
  訴陳状進上之、以此旨、可有御披露候、恐惶謹言、

     四月廿九日         平頼胤 請文

請文…散状。上司もしくは身分の上の者から受けた命令文書について、履行を誓う文書。
   署名のあとに「請文」と記す。もしくは書状の裏に花押を書き入れる方式を取る。

●某年7月19日「平某書状」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

  僧了尊申夜討之間事、就白状、相尋子細之處、生口等之申状、
  参差之處、更以難是非候者也。仍須仰上裁之由、
  令申候了、毎事期後信候、恐々謹言、

     七月十九日    平(花押)※←頼胤の花押と同一
  謹上 白井九郎殿

●某年9月15日「平頼胤請文」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

  下総国寺崎郷住人末弘申六郎太郎男并稲事、任被仰下候之旨、
  早速可令糺返之旨、国分四郎左衛門尉季行下知仕候畢、
  以此旨、可有御披露候、恐惶謹言。

     九月十五日     平頼胤 請文

●文永8(1271)年の香取社遷宮についての『造宮記録』の抜粋

              ・
              ・
              ・
 勢至殿一宇 一間 葦葺 在金物
  作断官米三十石
   神保郷本役也 仍地頭千田尼造進□
 若宮社一宇 一間 葦葺 在金物
  作断官米五十石
  萱田郷本役也 仍地頭千葉介頼胤造進□
              ・
              ・
              ・

●文永8(1271)年の香取社殿の造営負担交名(『市川市史 第二巻』)

所領名 人名 負担(石)
不明 葛西経蓮 1,050
上野方郷 辛島地頭等 150
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 70
印西条 地頭越後守(金沢実時:北条一族) 180
小見郷 地頭弥四郎胤直(小見胤直:東 一族) 170
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 30
神保郷 地頭千田尼 30
大戸庄
神崎庄
地頭等(国分胤長?:国分一族)
   (神崎景胤?:千葉一族)
100
猿俣郷 地頭葛西経蓮 60
平塚郷 地頭越後守実時(金沢実時:北条一族) 60
風早郷 地頭左衛門尉康常(風早康常:東 一族) 70
矢木郷 地頭式部太夫胤家(矢木胤家:相馬一族) 70
萱田郷 地頭千葉介頼胤 50
結城郡 地頭上野介広綱(結城広綱) 120
埴生西条 地頭越後守実時 50
河栗遠山方 地頭等(遠山方信胤?:千葉一族) 100
大須賀郷 地頭等(大須賀宗信?:大須賀嫡流)
行事所沙汰
行事所沙汰
100
30
30
遠山方二丁
葛東二丁
千葉介頼胤 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
吉橋郷 地頭千葉介頼胤 30
埴生西条富谷郷 地頭越後守実時(金沢実時:北条一族) 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
行事所沙汰
行事所沙汰
30
30
30
印東庄 地頭千葉介頼胤 100
葛西郡 地頭葛西経蓮 100
大方郷 地頭諏訪真性
行事所沙汰
100
30
国分寺 地頭弥五郎時道女房(大戸国分時通の妻) 60
 正神殿雑掌(葛西入道経蓮
正神殿雑掌(葛西入道経蓮
行事所沙汰
50

ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

copyright(c)1997-2008 chiba-ichizoku. all rights reserved
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。