千葉昌胤

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(????-1455)
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(1557-1583)
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千葉昌胤 (1495-1546)

生没年 明応4(1495)年5月10日~天文15(1546)年1月24日
千葉介勝胤
不明
不明
官位 不明
官職 不明
役職 不明
所在 下総国印旛郡佐倉
輪覚
法号 真英常天阿弥陀仏
梅光院殿道繁法阿弥陀仏
墓所 佐倉の海隣寺?

 千葉氏二十代。千葉介勝胤の嫡男。明応4(1495)年5月10日生まれとされる(『千葉大系図』)。この年は、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を乗っ取った年にあたる。天文元(1532)年に父・勝胤が没し、天文2(1533)年、昌胤が千葉宗家の家督を相続した。

 鎌倉の鶴岡八幡宮別当だった空然(足利政氏子)が還俗して足利右兵衛佐義明となり、永正14(1517)年10月、上総真里谷城主・武田三河入道恕鑑(武田信保)・足利義明の連合軍が小弓城に攻め寄せ、14日の戦いで「小弓城主」「原次郎」と家老「高城越前守父子」「滅亡」「同下野守(高城下野守)」「逐電」した(『快元僧都記』)。このとき討死を遂げた「原次郎」とはおそらく原孫次郎基胤のことだろう。義明は小弓城を攻略して移り住み小弓御所とよばれた。

 その後、義明は生来の傲慢な性格があらわれ、天文3(1534)年、武田信保入道恕鑑は義明を諌めたために切腹を命じられた。恕鑑の嫡子・信隆は無念で仕方がなく、小田原城の北条氏綱に使者を派遣して、義明討伐の援軍を求めた。一方、信隆の異母弟・信応が上総武田家の家督を主張して、上総武田家は二つに分裂することになった。

―上総武田氏略系図―

上総武田氏の系譜

 天文7(1538)年10月、武田信応は義明と結んで異母兄・信隆討伐の兵を挙げた。また、義明も北条氏綱討伐も画策。北条氏と敵対関係にあった安房の里見義堯に御教書を送って彼を傘下に加え、下総国国府台まで出陣してきた。これを第一次国府台合戦という。

国府台
国府台の戦い

 一方、義明の兄で古河公方・足利晴氏は、これ以上義明の力が大きくなることを恐れて北条氏綱に加担。北条氏綱は小田原城を発して下総国国府台を目指して出陣し、義明軍と対峙した。この時、千葉介昌胤は北条氏綱の軍勢と合流した。

 江戸川の対岸から相模台(松戸市岩瀬)を窺っていた氏綱の嫡子・北条氏康は、北条軍本隊が国府台に向かっているという偽情報を流し、足利方の本隊を国府台に釘付けにさせると、手薄になっていた相模台に奇襲をかけた。ここを守っていた椎津隼人助は重傷を負って国府台に退却した。相模台は松戸駅西口の高台にあたり、聖徳大学がある。その校域にこの時の戦士者を祀ったといわれる「経世塚」が残っている。また、国府台は現在の国府台駅の北側の高台。千葉商科大学と和洋女子大学の校地になっている。

 椎津隼人助からの報告を受けた足利義明は、裏をかかれたことで憤り、ただちに軍を北上させ、矢切台において北条軍とぶつかった。

小金の慶林寺
慶林寺

 戦いは士気の高い北条氏康北条長綱(のちの北条幻庵)の軍が足利勢を圧し包む形となり、義明はみずから大長刀をふるって奮闘したが、弟・基頼や子・義純とともに戦死。里見義堯も大敗を喫して上総へ退却していった。こうして北条氏は小弓城をも奪還して昌胤に返還し、昌胤原胤貞(昌胤とは従兄弟同士の可能性あり)を城主とした。

 昌胤の妹は、下総国北西部に勢力を広げていた高城下野守胤吉に嫁いでおり、胤吉亡きあとは慶林尼と称した。その嫡男・高城下野守胤辰のもとで余生を送り、彼が建立した慶林寺に葬られた。

         高城胤吉
        (下野守・玄心伝昭居士)
          ∥
          ∥―――――――――――高城胤辰
 千葉介勝胤―+―月庵桂林尼       (下野守・関相玄酬居士)
(千葉介)  |               ∥――――――――――高城胤則
       |              妙城尼        (源二郎・庭室玄拍居士)
       |
       +―千葉介昌胤―――――――千葉介胤富―――――――千葉介邦胤
        (千葉介)        (千葉介)       (千葉介)

 昌胤は天文15(1546)年1月24日、52歳で亡くなった。法名は真英常天阿弥陀仏(『千葉大系図』)梅光院殿道繁法阿弥陀仏。同年1月7日に51歳で亡くなったとも(『松羅館本千葉系図』)


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