光仁天皇

千葉氏 千葉介の歴代

天智天皇
(626-672)
志貴親王
(???-716)
光仁天皇
(709-782)
越道君伊羅都売
(???-???)
紀橡姫
(???-709)
高野新笠
(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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光仁天皇(709-782)【高野朝臣新笠

生没年 和銅2(709)年10月13日~天応元(782)年12月23日
在位 宝亀元(770)年11月~天応元(782)年4月3日
御諱 白壁王
二品志貴親王(春日宮御宇天皇)
紀朝臣諸人(贈太政大臣)娘:橡姫
后・夫人 ・皇后:井上内親王(聖武天皇皇女)
・皇太夫人:高野新笠(和史乙継女。諡号:天高知日之子姫尊)
・夫人:藤原産子(藤原楓麻呂女?)
   :藤原曹司(藤原永手女)
   :紀宮子(紀稲手女)
・宮人:尾張女王(湯原王女)
   :県主島姫(県主毛人)
・女嬬:県犬養宿禰勇耳
官位 天平9(737)年9月28日 無位⇒従四位下
天平18(746)年4月22日 従四位上
天平勝宝9(757)年5月20日 正四位下
天平宝字2(758)年8月1日 淳仁天皇即位につき正四位上
天平宝字3(759)年6月16日 従三位
天平宝字8(764)年9月12日 正三位
天平宝字9(765)年正月7日 勲二等
官職 天平宝字4(760)年6月7日 光明皇太后崩御につき山作司
天平宝字6(762)年12月1日 中納言
天平神護元(765)年10月13日 称徳天皇の紀伊国行幸に御前次第司長官
天平神護2(766)年正月8日 大納言
諡号 天宗高紹天皇
御陵 田原東陵(奈良県奈良市日笠町)

 人皇四十九代。施基皇子(志貴親王)の第六皇子。母は紀朝臣諸人娘・紀朝臣橡姫。正妃は井上内親王(聖武天皇皇女)。白壁王(白璧王)と称した。

 和銅2(709)年10月13日誕生。藤原京で生まれたか。母の紀朝臣橡姫は「己酉年九月十四日崩」とあり、和銅2(709)年9月14日に亡くなったとされている(『類聚三代格』)が、白壁王出生以前に亡くなっていることとなるため、白壁王の生誕か橡姫の没年のどちらか、または両者の誤記となる。母・紀朝臣橡姫は皇族の一人に過ぎない志貴親王の妾女であった上に、白壁王も六男という輩行であり、正式な記録は残されていなかったとみられる。

■冠位は優遇も散位に置かれた天智系二世王

 霊亀2(716)年8月9日、父・志貴親王が薨去し、その七年後の養老7(723)年正月10日、異母兄・春日王が栗栖王(長親王子)、三嶋王(舎人親王子)とともに無位から従四位下に叙された(『続日本紀』)志貴親王亡き後、母が皇親(天武天皇皇女・託基皇女)の春日王が第一子の待遇になったと思われる。令の規定によれば蔭位は二十一歳以上、親王の子は従四位下に叙される規定(「選叙令」)があった。

●『選叙令』授位条

凡授位者、皆限年廿五以上、唯以蔭出身、皆限年廿一以上、

●『選叙令』蔭皇親条

凡蔭皇親者、親王子従四位下、諸王子従五位下、其五世王者従五位下、子降一階、庶子又降一階、唯別勅処分、不拘此令、

 この令の規定は、当時は厳密に守られていたわけではないが、春日王は初叙が従四位下であることから、王は明確に二世王の格式を以って遇されていたことがわかる。しかも、春日王はおそらく二十三歳程度(母・託基皇女の伊勢斎退出時期より)であったと思われることから、冠位においても天武系諸王長子と同様に扱われていたことがわかる。

●奈良時代の諸王略譜

天武天皇―+―草壁皇子―+―元正天皇
     |      |
     |      +―文武天皇――聖武天皇―+―孝謙称徳天皇 +―酒人内親王
     |                   |        |【伊勢斎宮】 
     |                   +―井上内親王  |
     |                   |【伊勢斎宮】  |
     |                   | ∥――――――+―他戸親王
     |                   | ∥
     |                   | 白壁王
     |                   | [光仁天皇]
     |                   |
     |                   +―安積親王
     |                   |
     |                   +―不破内親王
     |                     ∥
     |                     ∥
     +―新田部新王―――――――――――――+―塩焼王
     |                   |
     +―舎人親王―+―淳仁天皇       +―道祖王
     |      |
     |      +―三原王―+―和気王
     |      |     |
     |      +―三浦王 +―細川王
     |      |     |
     |      +―三嶋王 +―小倉王――――清原夏野
     |      |     |
     |      +―舩王  +―石浄王
     |      |
     |      +―池田王 +―桑田王――――磯部王―――――石見王―――高階峯緒
     |      |     |
     |      +―式部王 +―栗原王
     |      |     |
     |      +―守部王 +―黄文王
     |      |     |
     |      +―貞代王 +―山背王
     |            |
     +―高市皇子―+―長屋王―+―安宿王
     |      |
     |      +―鈴鹿王
     |      |
     |      +―交通王        
     |           
     +―長親王――+―智努王
     |      |            
     |      +―栗栖王  +―浄原王
     |      |      |
     |      +―長田王――+―広川王            
     |      |
     |      +―大市王
     |      |
     |      +―川内王――+―高安王
     |      |      |
     |      +―奈良王  +―桜井王
     |      |      |
     |      +―川斗王  +―門部王
     |      |
     |      +―境部王
     |
     +―多紀内親王(託基皇女)
      【伊勢斎宮】
       ∥――――+―春日王…三代…葛声王―――恒蔭王
       ∥    |             (醍醐寺開山聖宝)
       ∥    +―湯原王―+―壹志濃王
       ∥          |
       ∥          +―尾張女王
       ∥            ∥――――――稗田親王
       ∥            白壁王
       ∥            [光仁天皇]
       ∥    
       志貴親王―+―榎井王―――神王
       ∥    |
       ∥    +―壹志王
       ∥    |
       ∥    +―海上女王
       ∥    |
       ∥    +―尾張女王
       ∥
       ∥――――+―難波女王
       紀橡媛  |
            +―白壁王
              [光仁天皇]

■兄・春日王の死と「家門」の継承

 兄・春日王は初叙から七年後の天平3(730)年正月27日、従四位上に昇叙した(『続日本紀』)。一方、六弟の白壁王も天平9(737)年9月28日、二十九歳で従四位下に叙せられた(『続日本紀』)白壁王の叙位が天武系の王と比べて「遅い」と評されているのは、兄・春日王の存在をまったく考慮していないことによる誤解である。なお、白壁王の兄である湯原王、榎井王、壱志王も冠位を賜っているはずであるが、彼らの叙位は記録に残されていない。湯原王、榎井王いずれも早世していたのかもしれない。ただし、湯原王は子の壹志濃王が天平5(733)年生まれ、榎井王は子の神王が天平9(737)年生まれであり、いずれも少なくともその前年までは生存していたことになる。春日王、湯原王、榎井王の兄弟は『万葉集』にも名を見せる歌人であり、父・志貴親王の薫陶を受けているのかもしれない。

 白壁王と春日王との年齢差はおそらく七歳程度と思われるが、初叙は十四年の差があった。これは白壁王の母が皇親ではない(紀氏)ことと、六男という輩行から、二男以降の王と同様に叙爵が遅くなっていると思われる。ただし、同日に無位から叙位された道祖王、宇治王、神前王、久勢王、大井王、安宿王(天武系皇親)はいずれも翌天平10(738)年中には何らかの官職に任官しており(『続日本紀』)、散位の春日王、白壁王とは待遇が異なっている。このことから天智系二世王は冠位はあるが実権はない立場に置かれていたと見ることもできよう。

 なお、この年、白壁王と和史乙継の娘・和史新笠との間に、第一皇子・山部王(のちの桓武天皇)が生まれている。和史新笠は史姓という地位の低い官人層出身であることから、おそらくもともとは白壁王家に仕えていた従婢であったと推測される。山部王の姉・能登女王(のち能登内親王)の生誕年からみて、和史新笠は天平6(732)年以前には白壁王家に入っていることがわかる。

●天平9(737)年9月28日叙位任官(抜粋)

人名 位階 備考 初任 次の叙位
高安王 従四位下→従四位上 敏達天皇末孫 天平4(732)年10月17日
:衛門督
天平12(740)年11月21日
:正四位下(大原真人高安)
白壁王 無位→従四位下 天智天皇子・志貴親王の子 天平宝字6(762)12月1日
:中納言
天平18(746)年4月22日
:従四位上
道祖王 無位→従四位下 天武天皇子・新田部親王の子 天平10(738)年閏7月7日
:散位頭
天平12(740)年11月21日
:従四位上
倉橋王 無位→従五位下 不明 不明 不明
明石王 無位→従五位下 不明 不明 不明
宇治王 無位→従五位下 不明 天平9(737)年12月23日
:内蔵頭
不明
神前王 無位→従五位下 敏達天皇末孫 天平9(737)年12月23日
:治部大輔
天平12(740)年9月5日
:摂津亮(賜姓甘南備真人)
久勢王
(久世王)
無位→従五位下 天智天皇子・川嶋皇子の孫 天平10(738)年閏7月7日
:内蔵頭
天平勝宝元(749)年7月2日
:従五位上
河内王 無位→従五位下 不明 天平宝字2(758)年8月19日
:この年までに左大舎人頭
天平宝字3(759)年6月16日
:従五位上
尾張王 無位→従五位下 不明 天平宝字5(757)年5月
までに死去カ
天平宝字5(757)年5月
までに死去カ
古市王 無位→従五位下 不明 不明 不明
大井王 無位→従五位下 不明 天平10(738)年閏7月7日
:左大舎人頭
天平12(740)年11月21日
:従五位上
安宿王 無位→従五位下 天武天皇孫・長屋王の子 天平10(738)年閏7月7日
:玄蕃頭
天平9(737)年10月20日
:従四位下(二階昇叙)

 天平15(743)年5月5日、白壁王の兄・春日王は栗栖王とともに正四位下に陞ったが(『続日本紀』)、そのわずか二年後の天平17(745)年4月28日、薨じた(『続日本紀』)。おそらく四十四歳程度だったと思われる。白壁王は春日王薨去の翌年、天平18(746)年4月22日に三十八歳で「従四位上」に陞叙された(『続日本紀』)。初叙から九年目と比較的早い陞叙でもあり、この叙位は春日王という長子が薨じたことによる志貴親王―春日王と続いた「家門」の継承であったと思われる。

●天平18(746)年4月22日叙位任官と諸王の前位からの昇叙年数[ ](抜粋)

人名 位階 続柄等
【初叙の年齢】
従四位上 正四位下 正四位上 従三位
智努王 正四位下
→正四位上
長親王長子
(天武二世)
【25歳】
天平元(729)年
3月4日
[12年]
天平12(740)年
11月21日
[11年]
天平18(746)年
4月22日

[6年]
天平19(747)年
正月20日
[1年]
三原王 従四位上
→正四位下
舎人親王長子
(天武二世)
【22歳】
天平元(729)年
3月4日
[12年]
天平18(746)年
4月22日

[17年]
天平19(747)年
正月20日
[9年]
天平20(748)年
2月19日
[1年]
白壁王 従四位下
→従四位上
志貴親王六子
(天智二世)
【29歳】
天平18(746)年
4月22日

[9年]
天平宝字元(757)年
5月20日
[11年]
天平宝字2(758)年
8月1日
[1年]
天平宝字3(759)年
6月16日
[1年]
春日王
(参考)
  志貴親王長子
(天智二世)
【23歳程度】
天平3(730)年
正月27日
[7年]
天平15(743)年
5月5日
[13年]
× ×
鈴鹿王
(参考)
  高市皇子二子
(天武二世)
【27歳程度】
神亀3(726)年
正月21日
[16年]
天平元(729)年
3月4日
[3年]
天平4(732)年
正月20日
[3年]
塩焼王
(参考)
  新田部親王長子
(天武二世)
【23歳程度】
天平12(740)年
正月13日
[8年]
天平12(740)年
11月21日
[0年]
天平宝字元(757)年
5月20日
天平宝字2(758)年
8月1日(氷上真人)
[1年]
道祖王
(参考)
  新田部親王の子
(天武二世)
【23歳程度】
天平12(740)年
11月21日
[3年]
× × ×
栗栖王
(参考)
  長親王の子
(天武二世)
【42歳】
天平9(737)年
2月14日
[14年]
天平15(743)年
5月5日
[6年]
天平勝宝4(752)年
7月16日
[9年]
長田王
(参考)
  長親王の子
(天武二世)
天平12(740)年
11月21日
[5年]
× × ×
大市王
(参考)
  長親王の子
(天武二世)
【36歳】
天平勝宝3(751)年
正月25日
[12年]
天平宝字元(757)年
5月20日
[6年](文室真人)
天平宝字5(761)年
6月26日
[4年]故后斎功績
天平神護元(764)年
正月7日
[3年]
船王
(参考)
  舎人親王の子
(天武二世)
天平15(743)年
5月5日
[16年]
天平宝字元(757)年
5月20日
[13年]
天平宝字元(757)年
8月4日
[0年]
天平宝字2(758)年
8月1日
[1年]
池田王
(参考)
  舎人親王の子
(天武二世)
天平勝宝6(754)年
正月16日
[19年]
天平宝字元(757)年
5月20日
[3年]
天平宝字2(758)年
8月1日?
[1年]
安宿王
(参考)
  長屋王の子
(天武三世)
天平12(740)年
11月21日
[1年]
天平勝宝3(751)年
正月25日
[11年]
× ×
黄文王
(参考)
  長屋王の子
(天武三世)
天平12(740)年
11月21日
[1年]
× × ×
山背王
(参考)
  長屋王の子
(天武三世)
天平宝字元(757)年
5月20日
[17年]
天平宝字元(757)年
7月5日(藤原朝臣弟貞)
[1年]

 白壁王と同日に従四位下に昇叙されていた道祖王は、わずか3年後の天平12(740)年11月21日に従四位上に陞っているが、兄の塩焼王ともども藤原鎌足の曾孫という血統であるため、諸王たちとは単純に比較できない。

                                      +―春日王
                                      |
+―天智天皇―+―志貴親王―――――――――――――――――――――――――+―白壁王――――山部王
|      |(二品)                           (天武天皇) (桓武天皇)
|      |                                ∥
|      +―持統天皇                           ∥――――――他戸王
|        ∥                              ∥
|        ∥―――――草壁皇子――――文武天皇―――聖武天皇――――+―井上内親王
|        ∥                            |
+――――――――天武天皇                         +―称徳天皇
         ∥                            |
         ∥                            +―不破内親王
         ∥                              ∥
         ∥                              ∥――――――氷上川継
         ∥                              ∥     (伊豆守)
         ∥                            +―塩焼王    
         ∥                            |(氷上塩焼)  ∥
         ∥                            |        ∥
         ∥――――――新田部親王―――――――――――――――――+―道祖王    ∥
         ∥     (一品)                    (廃太子)   ∥
 藤原鎌足――――五百重娘                                  ∥
(大職冠)    ∥                                     ∥
 ∥       ∥――――――藤原麻呂―――藤原浜成――――――――――――――――――――藤原法壱
 ∥       ∥     (参議)   (参議)
 ∥       ∥
 ∥―――――――藤原不比等
 ∥      (右大臣)
 車持氏

 また、安宿王は従五位下に叙された翌月の天平9(737)年10月20日に二階昇叙して従四位下に、さらに三年後に従四位上となって白壁王を官途で上回るが、彼は冤罪によって自殺した左大臣長屋王の子であり、急な昇叙は長屋王の祟り(天然痘の流行)への鎮魂の意味合いが強いと思われる。これら特殊な要件を除くと、白壁王の昇叙はほかの天武系の諸王とさほど変わらず天智天皇系という出自は当時としても不利な条件ではなかったことがわかる。

■聖武天皇皇女・井上内親王をキサキとする

 天平19(747)年正月20日、聖武天皇の皇女・井上内親王無品から二品へ昇叙した(『続日本紀』)。皇女は聖武天皇の第一皇女で、養老5(721)年9月11日、五歳のときに斎王に卜定され、神亀4(727)年9月3日に伊勢へ遣わされて以来、伊勢斎として伊勢太神宮に仕えていた。内親王の伊勢退出年は不明だが、天平18(746)年9月3日には次の斎王・縣女王が伊勢へ向かっていることから、これ以前のこととなる。そして、この井上内親王が白壁王のキサキとなる女性である。

 天平勝宝元(749)年7月2日、皇太子・阿倍内親王聖武天皇より譲位された(『続日本紀』)。女帝・孝謙天皇である。井上内親王の異母妹にあたる。白壁王が井上内親王をキサキに迎えた年は不明だが、天平勝宝6(754)年には長女・酒人女王が誕生しており、天平勝宝5(753)年以前のこととなる。これについて、天平14(742)年10月17日、井上内親王の同母妹・不破内親王を娶っていた塩焼王が無礼を働いて聖武天皇の怒りを買い(皇位に関する事か?)、天平17(745)年4月15日に赦されるまで伊豆国三嶋に流刑となった事件があったが、白壁王が井上内親王を娶るのは凡そこの時期であることから、皇位継承とは縁遠い唯一の天智系二世王であった白壁王に嫁がせてしまうことにより、突出した天武二世王の出現を防止する意図があったのかもしれない。皇位を践いだ孝謙天皇は「人疑彼此罪廃者多」という性格であったようで、白壁王「縦酒晦迩、以故免害者数」(『続日本紀』)と、酒におぼれる振りをしていたこともあったようだ。

 天平宝字元(757)年3月29日、皇太子を廃された道祖王(塩焼王弟)が邸宅に戻り、4月4日、孝謙天皇は群臣に対して新たな皇嗣としてふさわしい王は誰かを問うた。これに右大臣藤原豊成中務卿藤原永手「道祖王兄塩焼王」を推し、摂津大夫文室智努(もと智努王)と左大弁大伴古麻呂「池田王」を推した。孝謙天皇は、「宗室中、舎人、新田部両親王、是尤長也」とした上で、「道祖王、而不順勅教、遂縦淫志」「塩焼王」「太上天皇責以無礼」であって新田部親王の系統は排除する旨を決定。舎人親王の子の中では、「船王」「閨房不修」「池田王」「孝行有闕」のため却下。「大炊王」が新たな皇太子と決定された(『続日本紀』)。そして5月20日、大炊王践祚(淳仁天皇)に伴い、白壁王は「正四位下」に昇叙する(『続日本紀』)。従四位上に叙されてから十一年だが、これも他の天武系諸王と大きな差はない。しかし、翌年の天平宝字2(758)年8月1日、さらに正四位上へと陞る。わずか一年での昇叙は異例であった。おそらく二世諸王の年長者という立場のほかに、孝謙太上天皇の姉婿という地位によるものと思われる。

 天平宝字3(759)年6月16日、淳仁天皇の父・舎人親王「崇道盡敬皇帝」の称を与えらえた日、白壁王も昇叙に預かり「従三位」となる(『続日本紀』)。当時の三位以上の二世王は白壁王のみであった。正四位上から従三位への昇叙は諸王みな一年ほどであることから、とりわけ早いわけではない。

光明皇后陵
光明皇后陵

 天平宝字4(760)年6月7日、光明皇太后が崩御すると、その山陵造営の責任者(山作司)として池田親王文室智努(もと智努王)、氷上塩焼(もと塩焼王)、市原王らとともに任じられている(『続日本紀』)

 天平宝字6(762)年12月1日、御史大夫正三位文室浄三(もと智努王)が神祇伯を兼ね、従三位氷川塩焼(もと塩焼王)、従三位白壁王従三位藤原眞楯の三名が「中納言」となった(『続日本紀』)

 天平宝字8(764)年9月11日、恵美押勝の乱が勃発した。乱の首謀者・藤原恵美朝臣押勝は孝謙太上天皇の生母・光明皇太后の甥(孝謙太上天皇の従兄)にあたる藤原仲麻呂である。孝謙称徳天皇治世下で信頼を得て絶大な権力を振るうが、のちに孝謙天皇は僧侶の道鏡に傾倒し、仲麻呂と激しく対立。ついに9月11日、押勝は氷川塩焼を擁して反乱を起こした(恵美押勝の乱)。しかし、反乱はすぐに鎮定され、9月12日、白壁王は「正三位」に叙された(『続日本紀』)

 10月9日、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇の中宮院が突如、孝謙太上天皇の勅命を受けた兵部卿和気王、左兵衛督山村王、外衛大将百済王敬福率いる数百の兵に取り囲まれた(『続日本紀』)。そして天皇のもとに山村王が赴き、太上天皇の詔を天皇に伝達。淳仁天皇は廃帝とされ淡路国公の「大炊親王」とされ、母とともに淡路国へと遷された(『続日本紀』)。さらに、押勝と謀叛を謀ったとされた淳仁天皇の弟・船親王は親王の名を廃されて諸王となり、隠岐国へ配流、同じく池田親王も諸王に格下げされ土佐国への配流となった。そして即日孝謙太上天皇が重祚(称徳天皇)し、皇太子については見合う王が見つかるまでは定めないこととした(『続日本紀』)

 10月7日、「加賜親王大臣之胤、及預討逆諸氏人等位階」として、白壁王の長子で無位の山部王(のちの桓武天皇)に「従五位下」が授けられた。10月13日の紀伊行幸に際しては「御前次第司長官」としてこれを取り仕切った(『続日本紀』)

 天平神護元(765)年正月7日、前年の乱は「幸頼神霊護国風雨助軍」で鎮圧されたとして「天平神護」と改元し、その恩賜として叙位が行われ、白壁王は「勲二等」を授けられた(『続日本紀』)。さらに翌年の天平神護2(766)年正月8日、藤原真楯とともに「大納言」に任じられる(『続日本紀』)

●天平神護2(766)年正月現在の三位以上(付参議)

官職 官位 名前
太政大臣禅師   道鏡禅師
右大臣 正二位 藤原朝臣永手
大納言 正三位 白壁王
大納言 正三位 藤原朝臣真楯
中納言 正三位 吉備朝臣真吉備
参議 従三位 藤原朝臣清河
参議 従三位 山村王(用明天皇子孫)
参議 従三位 石川朝臣豊成
参議 従三位 中臣朝臣清麻呂
参議 従四位上 藤原朝臣縄麻呂
参議 従四位下 石上朝臣宅嗣
参議 従四位上 藤原朝臣田麻呂
参議 従四位下 藤原朝臣継縄
致仕大納言 従二位 文室真人浄三(智努王)
非参議 従三位 百済王敬福
非参議 従三位 藤原朝臣蔵下麻呂
非参議 従三位 高麗王福信
非参議 従三位 文室真人大市(大市王)
非参議 従三位 藤原朝臣宿奈麻呂

■白壁王の立太子と践祚(光仁天皇)

平城宮大極殿 
西宮跡

 神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が内裏の西宮寝殿で崩御(五十三歳)すると、白壁王の周辺は一気に緊迫した(『続日本紀』)。皇嗣についての変事に備えて、左大臣藤原永手が近衛府、外衛府、左右兵衛府を掌握し、右大臣吉備真備が中衛府・左右衛士府を統括した。

 称徳天皇には夫も子もなく、淳仁天皇配流以来、皇太子を定めていなかったため、皇嗣についての話し合いが左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣真備、参議の兵部卿藤原朝臣宿奈麻呂、民部卿藤原朝臣縄麻呂、式部卿石上朝臣宅嗣、近衛大将藤原朝臣蔵下麻呂らによって行われた(『続日本紀』)。このころ生存していた一世王はひとりも無く、二世王は白壁王のみ、もともとは二世王だが賜姓されて臣籍となっていた人物としては文室真人浄三(智努王)、文室真人大市(大市王)の二人であった。そのため、皇嗣はこの三人を中心に話し合われたようである。

称徳天皇陵
称徳天皇陵(高野陵)

 この話し合いの中で、右大臣吉備真備「御史大夫従二位文室浄三真人、是長親王之子也、立為皇太子」と主張する(『日本紀略』)。これに従五位下藤原百川、左大臣藤原永手、参議藤原宿奈麻呂「浄三真人有子十三人、如後世何」と反駁するも、真備はこれを聞かずに文室浄三に皇太子となるよう依頼した。文室浄三(智努王)はもと天武系二世王であり、もっとも年長者でかつ従二位という貴種であったが、即座に辞退している。真備はなおも諦めず、浄三の弟・文室大市を推したが、こちらにも断られてしまった(『日本紀略』)。ただし、もともと両者は二世王とはいえ賜姓されて臣籍に下った人物であり、現在も二世王で冠位・年齢ともに諸王の長者、キサキは称徳天皇の姉(井上内親王)という白壁王が皇嗣と定められるのは自然の成り行きであったといえる。

 話し合いの中で、藤原永手、雄田麻呂、宿奈麻呂ら「定策禁中」白壁王を皇太子とすると記された「遺宣」の詔書を読み上げ、白壁王を皇太子とした。「遺宣」においては「白壁王諸王年歯奈利。又先帝在故、太子定」とあり、諸王の年長者ならびに「先帝(天智天皇)乃功」によって皇嗣に定めたとされている(『続日本紀』)。実はこの詔書は藤原百川、永手、宿奈麻呂らが「定策偽作宣命語」だったとも伝わる(『日本紀略』)

 神護景雲4(770)年10月1日、白壁王は大極殿において践祚し(光仁天皇)、元号を「寶亀」と改めた(『続日本紀』)。即位にあたり多くの貴族に叙位が行われているが、おそらく即位に尽力した人物だろう。聖武天皇以来、優遇されてきた藤原一門の勢力が大きくなる一方で、古代大王以来の阿倍氏大伴氏巨勢氏などは次第にその勢力を小さくしていった。

■:藤原(大中臣)氏 ■・大伴氏 ■:阿倍氏 ■:巨勢氏

従一位⇒正一位 藤原朝臣永手
従三位⇒正三位 大中臣朝臣清麻呂、文屋真人大市、石川朝臣豊成、藤原朝臣魚名藤原朝臣良継
従五位下⇒正五位下 奈紀王
無位⇒従五位上 河内王
従五位下⇒従五位上 掃守王
従四位上⇒正四位下 藤原朝臣田麻呂藤原朝臣雄田麻呂
従四位下⇒従四位上 阿倍朝臣毛人藤原朝臣継縄藤原朝臣楓麻呂藤原朝臣家依
正五位下⇒従四位下 大伴宿禰三依
従五位上⇒正五位下 阿倍朝臣浄成大伴宿禰家持大伴宿禰駿河麻呂佐伯宿禰三野藤原朝臣雄依
従五位下⇒従五位上 佐伯宿禰國益、石上朝臣家成、大野朝臣真本、藤原朝臣小黒麻呂
正六位上⇒従五位下 巨勢朝臣公足
正六位上⇒外従五位下 村國連子老
従六位上⇒従五位下 宍人朝臣継麻呂

 11月6日、キサキの井上内親王を「皇后」とし、「兄弟姉妹諸王子等悉作親王弖冠位上給治給」と、子女らをそれぞれ「親王」「内親王」と改め、品位による叙位を行った(『続日本紀』)。また、甥姪は同日「天皇」の称を追贈された父・志貴親王(御春日宮天皇)の孫王(二世王)として、「従四位下」が与えられた。

無位⇒三品 酒人内親王(母:井上内親王。のち斎王を経て桓武天皇妃)
従四位下⇒四品 山部王⇒山部親王(母:高野新笠。のち桓武天皇)
衣縫女王⇒衣縫内親王(光仁天皇姉妹)
難波女王⇒難波内親王(光仁天皇同母姉)
坂合部女王⇒坂合部内親王(光仁天皇異母姉)
能登女王⇒能登内親王(母:高野新笠。市原王妃)
弥努摩女王⇒弥努摩内親王(神王妃)
従五位下⇒従四位下 桑原王(父王不明。志貴親王孫)
鴨王(父王不明。志貴親王孫)
神王(光仁天皇弟・榎井王の王子)
無位⇒従四位下 浄橋女王(父王不明)
飽波女王(父王不明)
尾張女王(光仁天皇兄・湯原王の王女。光仁天皇妃)
【故人】
※親王記録はなし
湯原王⇒湯原親王(光仁天皇兄)※子の壱志濃王の薨記より
榎井王⇒榎井親王(光仁天皇兄)※子の神王の薨記より

 宝亀2(771)年正月23日、皇后井上内親王との子・他戸親王皇太子と定めた(『続日本紀』)。いまだ十三歳ではあったが、皇親の皇后所生の親王として立太子されたとみられる。光仁天皇には第一皇子の山部親王(三十五歳)がいたが、生母の身分が低かった(史姓)ため、憚られたと考えられる。なお、この他戸親王の立太子を「天武系」派の懐柔のためとする説もあるが、「天智系」「天武系」を推す派閥があったことを示す史料は皆無であり、考える必要はない。

 2月22日、光仁天皇即位に尽力した左大臣・藤原永手が五十八歳で亡くなった(『続日本紀』)。天皇は永手を深く信任しており、その死を聞くと大変落ち込み、中務卿文室真人大市、宮内卿石川朝臣豊成を左大臣邸に派遣して詔を遣わしている。

                  【南家】
       藤原鎌足――不比等―+―武智麻呂―+―仲麻呂(恵美押勝)
                 |      |
                 |      +―豊成―――――縄麻呂
                 |【北家】
                 +―房前―――+―楓麻呂
                 |      |
                 |      +―魚名   +―家依
                 |      |      |
                 |      +―永手―――+―雄依
                 |      |
                 |      +―鳥養―――――小黒麻呂
                 |【京家】
                 +―宇合―――+―蔵下麻呂
                 |      |
                 |      +―継縄
                 |      |
                 |      +―田麻呂
                 |      |
                 |      +―良継(宿奈麻呂)
                 |【式家】  |
                 +―麻呂   +―百川(雄田麻呂)
                 |
                 +―光明子
                    ∥―――――孝謙天皇
天武天皇―+―草壁皇子――文武天皇――聖武天皇
     |              ∥―――――井上内親王 +―酒人内親王
     |            県犬養広刀自   ∥    |
     |                     ∥――――+―他戸親王
     |                     ∥
     |                   【光仁天皇】
     |                    白壁王    【桓武天皇】
     |                     ∥――――+―山部親王
     |                    高野新笠  |
     |                          +―早良親王
     |
     |      【知努王】        
     +―長親王―+―文室浄三――三諸大原―――文室綿麻呂
           |
           |【邑知王】
           +―文室大市

西大寺
西大寺

 5月29日、父・田原天皇(志貴親王)の八月九日忌斎を川原寺で執り行った(『続日本紀』)。8月4日には、高野天皇(称徳天皇)の忌斎を西大寺にて執り行った(『続日本紀』)

 このような中、宝亀3(772)年3月2日、皇后・井上内親王光仁天皇を巫蠱していると従七位上裳咋臣足嶋が訴え出たため、井上内親王は大逆罪に問われ、皇后を廃された(『続日本紀』)。5月27日には連座して他戸親王も皇太子を廃されて「庶民」とされた(『続日本紀』)。「親王」の位も召し上げられ、以降は「他戸王」と称されている。

■譲位と山部親王の立太子

 宝亀4(773)年正月2日、山部親王は勅命により「山部親王立而皇太子」と定められ、立太子した(『続日本紀』)。皇后の誣告罪は山部親王を擁立するための、藤原永手・百川の陰謀とも考えられるが、こうして山部親王は次期天皇としての地位を約束された。

平城宮
平城宮朱雀門(再建)

 10月19日、井上内親王は14日に病死した光仁天皇の実姉・難波内親王を厭魅した罪を着せられ、廃太子他戸王とともに「大和国宇智郡沒官之宅」へ移らされた(『続日本紀』)。この井上内親王が幽閉されていた旧宅があったとされている地には「井上院(五條市岡口)」跡が遺されている。そして、宝亀6(775)年4月27日「井上内親王、他戸王並卒」と記録されており、母子は同日に幽閉前で亡くなっている。この死は明らかに不自然であり、自殺や暗殺の可能性が強いか。

 こののち、疫病や落雷、雹、蝗害、旱魃などがたて続けて発生。宝亀7(776)年11月1日には「天皇不豫」、12月25日には皇太子山部親王が病に倒れた。これら天変地異は井上内親王の怨霊の仕業であるとされ、12月28日、井上内親王の遺骨を改葬することを決定。その墓を「御墓」と称させ、守塚を一軒附けるという御陵に准ずる対応とし、さらに宝亀8(777)年1月20日、従四位下壹志濃王、石川垣守を井上内親王の埋葬墓に遣わして遺骨を掘り起こし、改葬した(宇智陵)。 

 天応元(781)年正月17日、娘の三品・能登内親王が薨じた(『続日本紀』)。皇太子・山部親王の同母妹である。右大弁大伴家持と刑部卿石川豊人が葬儀を執り行った(『続日本紀』)。能登内親王は正五位下・市原王(川嶋皇子曾孫)に嫁ぎ、五百井女王五百枝王を生んでいる。彼らは8月27日、そろって無位から従四位下に上げられた。二世王の待遇である。

 天皇はこの頃から体調が思わしくないことを周囲に漏らし始める。よほど病気が重かったのか3月25日には回復を願って、本日以前の「大辟以下、罪無軽重、已発覚、未発覚、已結正、未結正、繋囚見徒、咸赦除之」と、「八虐」など大赦の対象とならない罪を除くすべての罪人に恩赦を与えた(『続日本紀』)。しかし天皇の病は癒えず、4月3日、皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位(『続日本紀』)。4月4日に山部親王の同母弟・早良親王皇太子に立てられた(『続日本紀』)。4月27日、夫人・高野朝臣新笠「正三位」が加えられた(『続日本紀』)。彼女の子二人が天皇ならびに皇太子に立てられたことによる昇位であろう。

 7月5日には、炎天の日照りにより百姓たちが嘆いていることを耳にした桓武天皇は大赦を行った(『続日本紀』)。しかし、駿河国では雨ではなく富士山が噴火して灰が降り、植物が枯れてしまったという報告が届けられる有様だった。 

光仁天皇陵
光仁天皇陵(田原東陵)

 12月17日、光仁上皇の皇子・薭田親王が三十一歳の若さで亡くなった。桓武天皇の異母弟である。天皇はその薨去を聞くと、従四位上・壹志濃王(湯原王の子で桓武天皇の従兄弟)、従四位下・紀古佐美石川垣守に葬祭を執り行わせた(『続日本紀』)桓武天皇自身も弟親王の死と父上皇の危篤という心身の疲労の中で、12月20日、神社尽くに祈祷をさせているが効験が顕われないのは私の責任であるとし、大赦を行った(『続日本紀』)

 しかし、これらの努力も空しく12月23日、光仁上皇は崩御した(『続日本紀』)宝算七十三桓武天皇は嘆き悲しみ「摧咽不能自止」だったという。

 12月29日、上皇の初七日にあたり七つの大寺において誦経が執り行われた。これを先例として、代々の天皇の初七日に当たっては京都の諸寺で誦経が行われることとなる。

 天応2(782)年正月6日、正三位・藤原小黒麻呂が誄を奉り、上皇に「天宗高紹天皇」の尊諱が奉られた(『続日本紀』)「紹」とは『逸周書』謚法解に曰く「疏遠継位」とあり、天武天皇系から天智天皇系への皇統が移ったことを意味するもの。

 天皇の尊骸はいったん広岡山陵に葬られたのち、延暦5(786)年、志貴親王陵(田原西陵)の近くに改葬された。田原東陵である。 


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