秩父党 畠山氏

畠山氏

武蔵国留守所惣検校職

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平良文
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平忠頼
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平将恒
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平武基
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秩父武綱
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秩父重綱
(????-????)
畠山重弘
(????-????)
畠山重能
(????-????)
畠山重忠
(1164-1205)
畠山重保
(1190-1205)
重慶阿闍梨
(????-1213)
       

           足立遠元―――娘
          (右衛門尉)  ∥
                  ∥――――重秀(小次郎)
                  ∥       
畠山重弘―+―畠山重能―+――――畠山重忠――重慶(阿闍梨)
     |(畠山庄司)|   (次郎)
     |      |     ∥――――重保(六郎)
     |      |北条時政―娘   
     |      |
     |      +―長野重清
     |      |(三郎)
     |      |
     |      +―畠山重宗
     |       (六郎)
     |
     +―小山田有重―――――+―――――――稲毛重成 
     |(小山田別当)    |      (三郎)  
     |           |       ∥―――――小沢重政
     +―娘(千葉介常胤妻) | 北条時政――娘    (次郎)
                 |      
                 +―榛谷重朝―――+―重季
                 |(四郎)    |(太郎)
                 |        |
                 +―小山田行重  +―秀重
                  (五郎)     (次郎)


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畠山重忠(1164-1205)

 畠山庄司重能の二男。幼名は氏王(『源平盛衰記』)。通称は畠山庄司次郎。母は三浦大介義明の娘。妻は足立右衛門尉遠元の娘、のち北条四郎時政の娘(北条政子妹)。

 平家政権のもと、父・重能や叔父・有重とともに平知盛の家人であり、頼朝挙兵時には平家党の一人として三浦氏を攻める。その後、頼朝に降伏し鎌倉入りの先陣をうけたまわる。大力無双の武士であったが、銅拍子を打つなどの音曲にも関心を持っていた雅な一面を持ち、性格は「清廉」「天性廉直」などと評され、頼朝はもちろん鎌倉武士から深く尊敬されていた人物である。

 しかし一方で、武蔵国司家の平賀朝雅とは対立関係にあった。朝雅の父・平賀義信が名国司と評されており、朝雅は気負いがあったのかもしれない。重忠は武蔵国留守所惣検校職であり、朝雅の政治および所領をめぐって対立していた可能性がある。重忠は朝雅の讒言を理由として謀反人とされ、討たれた。

●重忠の挙兵

畠山館
畠山氏館址(深谷市畠山)

 武蔵国男衾郡畠山庄(埼玉県深谷市畠山)の庄司・平重能の二男で、相模国の三浦大介義明の外孫にあたる。なお、重忠の兄・畠山庄司太郎重光については詳細な伝記は不明(『桓武平氏諸流系図』)

 治承4(1180)年、源頼朝が伊豆で挙兵した際には、相模国の平家の「守護人」である大庭三郎景親の要請を受け、平家方としてわずか17歳の若さで畠山一党を率いて相模国へ下った。父・重能や叔父の有重が武蔵守を世襲していた平知盛家の家人として大番役のために上洛しており、重忠も平家の家人という立場で戦場へ出陣していたと思われる。

 頼朝は、伊豆半島の付根、石橋山大庭景親伊東祐親ら平家方の大軍に敗れて逃亡。真鶴岬から安房国へ落ち延びて行った。このとき重忠は平家方として五百余騎を率いて相模国金江川平塚市虹ヶ浜)に陣を取っていた。

 一方、頼朝の援軍として三浦半島から陸路で伊豆国へ向かっていた三浦別当義澄率いる三浦一族三百余騎は、途中で大雨による丸子川酒匂川)の増水で行く手を阻まれ、8月24日、頼朝の敗戦を聞いたために、やむを得ず三浦への帰途についた。このとき、金江川に陣を取っていた重忠勢五百余騎を発見。三浦義澄は一族にどのように対処すべきかを問うた。甥の和田小太郎義盛

「佐殿の左右を聞かん程は、命を全くして君の御大事に叶ふ可」

と、戦いは避けることを主張し「小磯ガ原を過ぎて、波打ち際を忍んで通らん」と答えた。

 しかし、血気盛んな義澄の弟・佐原十郎義連は、

「何条さる事か有るべきやらん、畠山は若武者なり、これも五百余騎、思へば安平なり、我らが三百余騎にて蒐散し、馬共取りて乗て行かん」

と発言した。

 この義連の発言に義澄は、

「詮無き殿原の計り様や、畠山は今日一日馬飼足休めて身を認めたり、我等はこの両三日、彼方此方馳つる程に、馬も弱り主も疲れたり、人の強き馬取らんとて、我が弱き馬取らるること其詮なし、馬の足音は波に紛れてよも聞えじ、轡鳴すな」

と、和田義盛の案を容れて波打ち際をそっと通り抜けることとした。

 しかし、いざ通ってみると、和田義盛も逃げ隠れする行軍に納得ができなくなったようで、

「何時の習ひの閑道ぞ、畠山は平家の方人なり、我等は源氏の方人なり、源氏勝ち給はば畠山旗を上げて参ずべし、平家勝ち給はば三浦旗を上げて参ずべし、ここを問はずは後に笑はるること疑ひなし、人は波打ち際をも打ち給へ、義盛は名乗て通らん、同心し給へ佐原殿」

と言うや、大音声を上げて重忠の陣に向かって、

「これは畠山の先陣か、かく云ふは三浦党に和田小太郎義盛と云ふ者なり、石橋の軍に佐殿の御方へ参りつるが、軍すでに散じぬと聞かば、酒匂宿より帰るなり、平家の方人して留めんと思はば留めよ」

と、名乗りを上げて通り過ぎた。

小坪遠景
小坪坂遠景

 三浦勢は畠山勢の追討を受けることなく、鎌倉を通過して小坪坂にまでたどり着いた。しかし、重忠は名乗りを上げられたとき、一族の本田次郎近常榛澤六郎成清

三浦の輩にさしたる意趣なし、去れ共加様に詞を懸らるる上に、父の庄司、伯父の別当、平家に奉公して在京也、矢一つ射ずは平家の聞へも恐あり、和田が言も咎めたし、打ち立て者ども」

と命じた。榛澤成清は「急げ殿原」と五百余騎を馳せて三浦勢を追撃。小坪坂で追いついた。重忠は、

「いかに三浦の殿原は口には似ず敵に後をば見せ給ふぞ、返し合わせよ」

と三浦勢に取り懸かかった。三浦勢も小坪坂の上に駆け上がると、義盛は叔父の三浦別当義澄に、

「それには東地に懸りて、鐙摺に垣楯かきて待ち給へ、彼処は究竟の小城なり、敵左右なく寄り難し、義盛は平に下て戦はんに、敵弱らば両方より差し挟み、中に取り籠みて畠山を討たんにいと安し、若しまた御方弱らば義盛も鐙摺に引籠りて、一所にて軍せん」

と告げると、二百騎を率いて小坪坂上から攻め下った。重忠率いる五百余騎は由比ガ浜の稲瀬川鎌倉市長谷2丁目)に陣取って、迎え撃つ体勢を取っていた。

 しかし、重忠は横山党の弥太郎という者を使者として義盛のもとに派遣すると、

「日ごろ三浦の人々に意趣なき上は、これまで馳せ来たるべきにあらず、ただ父の庄司、叔父の別当、平家に当参して六波羅に伺候す、これを各源氏の謀叛に与して軍を興し、陣に音信して通じ給ふ、重忠無音ならば後勘その恐れあり、また叔父親が帰り聞かんも憚りあれば、馳せ向ひ奉るばかりなり、御渡りを待ち奉るべきか、また参り申すべきかと牒使を立たりけり」

と述べさせた。

 これに和田義盛から遣わされた藤平実国は、

「御使の申条委く承りぬ、畠山殿は三浦大介には正しき聟、和田殿は大介には孫にておはす、ただならぬ仲と申さんからに、母方の祖父に向ひて、弓引き給はん事、如何か侍るべき、また謀叛人に与する由の事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して、天下の乱逆を鎮むべき由、院宣を兵衛佐殿に下さるる間、三浦の一門勅定の趣と云ひ、主君の催しと云ひ、命に随ふ処なり、若し敵対し給はば、後悔如何が有べき、能々思慮を廻さるべきをや」

と返答した。

 さらに重忠の乳母子・榛澤六郎成清が和田義盛のもとに遣わされ、

「三浦と秩父と申さば一体の事也、両方源平の奉公は世に随ふ一旦の法なり、佐殿いまだ討れ給はずと承る、世に立ち給はば、畠山殿も本田、榛澤召し具して定めて源氏へ参らるるべし、平氏世に立ち給はば、三浦殿も必ず御参あるべし、是非の落居を知らずして、私軍その詮なし、両陣引退かせ給はば、公平たるべきか」

と述べたため、義盛も

「榛澤がかく云ふは畠山が云ふにこそ、人の穏便を存ぜんに勝ちに乗るに及ばず」

と、軍勢を小坪坂に引き返した。こうして畠山と三浦の間には和平が整い、重忠も軍を引くこととした。

 しかし、このとき所用で鎌倉の杉山館鎌倉市杉山)にいた義盛の弟・和田小次郎茂は、小坪で戦いが始まったので急ぎ馳せ参じよという兄・義盛からの伝令を受けたため、わずか八騎を率いてあわてて犬懸坂を越え、名越から下の由比ガ浜を望むと、四、五百騎がかたまって見えた。義茂はこれを合戦していると見て、鞭打って駆け下った。これを遠目に見た義盛は、すでに重忠との間で和平が整ったので畠山勢に向かうべからずという意味で手を振ったが、義茂は先入観もあって、「急げと云ふぞ」と誤解して畠山勢に突進してしまった。

 一方、重忠はすでに和平が整った上は戦いは終わったと見て、稲瀬川のほとりで馬を下りて休憩をとっていたが、ここに義茂が攻め寄せて来たのを見て、

「和平は搦手の廻るを待ちけるを知らずして謀られにけり、安からず」

と、馬に跨ると義茂に駆け寄り散々に斬り合った。義茂方もわずか八騎とはいいながら、畠山勢は油断もあって六騎が斬られ、五騎が手負いになるなど被害を受けた。

 これを遠目に見た義盛は、誤解が生んだ椿事であったが、弟を討たすわけにはいかないと、

「小次郎討たすな、はじめに手を開きて招けば知らざるにこそ、大いなる物にて招け」

と人々に命じて四、五十人手々が大きな唐笠を振るって呼び寄せたが、義茂はそれをさらに誤解「いよいよ深入りして戦へと云にこそ」と勘違いして、ますます馳せ入って戦ってしまった。

材木座海岸より由比ガ浜
由比ガ浜遠景

 義盛も「今は叶はじ、小次郎討たすな、続け者共」と、二百余騎を率いて小坪坂からふたたび駆け下り、稲瀬川のあたりまで軍勢を進めると、川を挟んで畠山勢と対峙した。ここで義盛は老練な藤平実光の助言を受けて戦い、重忠は苦戦を強いられた。

 さらに遠く鐙摺で戦況をうかがっていた三浦義澄は、

「ここにて待つも心苦し、小坪の戦、厳しげなり、続けや者共」

と下知し、小坪へと向かったが、坂の道は狭く軍勢は伸びきった。すると、遠目で見ていた重忠はこの長い軍勢が大軍に見え、

「三浦の勢ばかりには無かりけり、一定、安房上総下総の勢が一つに成ると覚えたり、大勢に取籠まれなばゆゆしき大事、いざ落ちなん」

と手勢をまとめて武蔵国へ退いていったが、その際にも和田勢の追撃を受けて三十人あまりの多数の犠牲者を出した。一方、三浦勢も一族の多々良重春が討死を遂げた。

 このとき、和田義茂は畠山勢の陣前に進み出ると、

「敵三騎討ち捕りて帰る剛の者をば誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、桓武天皇の苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎義茂、生年十七歳、我と思はん者は、大将も郎等も寄て組まん」

と喚きまわった。しかし、重忠のまわりには満足に組むことができるそうな者はいない。重忠は自ら組まんと馬を駆けて陣前に出た。その日の重忠の装束は、紺地錦の直垂に裾に蝶の金物を打った緋縅鎧、白星の甲、二十四差の鵠羽の矢を懸け、紅の母衣懸、『薄緑』という銘の三尺五寸の太刀を佩き泥葦毛の馬に跨っていた。本田近常と榛澤成清が左右に並んで控えた。

 重忠は、

「同流高望王後胤、秩父十郎重弘が三代の孫、畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍は今日ぞ始め、高名したりと云はるる和田小次郎に見参せん」

とて進み出た。しかしそこに本田近常が馬を駆って和田義茂との間に割り込むと、

若江島、小坪
▲由比ガ浜より三浦半島方面

「命を捨つるも由による、宿世親子の敵にもあらず、ただ平家に聞えんばかり、一問にこそ侍れ、就中三浦は上下皆一門なり、秀を大将となし、後を郎等乗替に仕ふ、されば一人当千の兵にて、親死子死ともこれを顧ず、乗り越へ乗る越へ面を振らず、後を見せじと名を惜む、御方の勢と申すは党の駈武者一人死すれば、その親しき者共よき事につくとて、引きつれ引きつれ落れば、如何なる大事ありとも、君の御命に替はる者候はじ、成清近常ぞ矢前にも塞るべけれども、これは公軍なり、ただ引き返し給へ」

と重忠に言い聞かせた。しかし興奮している重忠は、「小次郎に組んで死なん」と成清を振り切って義茂に近づいた。ところが、義茂の近くまで馳せ来ると、義茂の郎従が矢を放った。矢は重忠の乗馬に当たり、馬は驚いて重忠を振り落とした。落馬した重忠は馳せ来た成清の馬に抱え上げられ、陣に戻された。

 陣に戻った重忠は太刀を抜いて義茂が攻め寄せるのを待ち、義茂は太刀を抜いて重忠陣に攻め寄ってきた、和田勢からは小太郎義盛、佐原十郎義連ら十三騎が義茂の援軍として馳せ加わり、重忠の命も風前の灯となったがここにふたたび本田近常、榛澤成清の両名が割って入り、

「以前に申すごとく、大形も御一門、近くは三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫におはす、離れぬ御中なり、さしたる意趣なし我執なし、私の合戦、その詮なく覚ゆ。本田、半沢に芳心ありて、御馬を返し給へ」

と義盛らを説いた。

 義盛もこれを聞いて、「郎等の降を乞ふは、主人の云ふにこそ、今は引け」と畠山勢を討ち平らげたとみなして軍を引いた。すでに満身創痍となっていた畠山勢も武蔵国へ引き上げていった。

●衣笠城の戦い

 小坪の合戦から二日後の8月26日、重忠は小坪、由比ガ浜の合戦での怨みをはらすため、秩父党惣領である河越太郎重頼「触れ遣はし」て援軍を求めた。重頼は秩父家においては次男の流れであったが、秩父家家督を継いで秩父党を率いていた。つまり、重忠は長男の流れであるが秩父家の家督は継いでいなかったことになる。しかし重忠は家督の重頼に援軍を「触れ遣はす」ような立場にあった様子がうかがえる。畠山氏は秩父党ではあったが、嫡流としての地位を持っていたのだろう。

衣笠城
衣笠城遠景

 重忠の触れに河越太郎重頼江戸太郎重長ら秩父党の中心をなす人物が応じ、三浦半島へ向けて大軍を動かし始めた。これを知った三浦方は、三浦大介義明の居城である衣笠城に立て籠もり陣を張った。大手に当たる東の木戸口を守るのは三浦次郎義澄佐原十郎義連、搦手口の西木戸は和田小太郎義盛金田大夫頼次、中の陣は長江太郎義景大多和三郎義久らが守る布陣と伝える。

 攻手は河越太郎重頼中山次郎重実江戸太郎重長ら武蔵国を代表する豪族秩父党が主力となり、彼らに従う形で金子党、村山党の諸将あわせて数千騎が布陣し、辰の刻に一斉に攻め寄せた。三浦勢は力戦するが、いまだ小坪・由比ガ浜の合戦の披露が癒えず、夜半になり、三浦党は衣笠城を捨てて落ちていった。惣領の三浦大介義明は自らは城に残って、

「吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり、なんぞこれを喜ばざらんや、保つ所すでに八旬有余なり、余算を計るに幾ばくならず、今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す、汝等急ぎ退去して彼の存亡を尋ね奉るべし、吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し重頼に見せしめん」

と義澄ら一党に落ち延びるよう命じ、義澄らは泣く泣く城を落ちていったという。そして27日、義明は八十九歳(『源平盛衰記』では七十九歳)で討死を遂げた(『吾妻鏡』)

 一方、この衣笠合戦は8月29日という説もある(『源平盛衰記』)。畠山重忠は『吾妻鏡』の衣笠合戦に名が見えないが、おそらく参戦していたであろう。『源平盛衰記』では「河越又太郎、江戸太郎、畠山庄司次郎等を大将軍」として三千余騎の武蔵国の豪族が参戦していることになっている。難攻を極めたが、金子十郎家忠が金子党三百余騎を率いて一の木戸、二の木戸を打ち破り城内に乱入した。この奮戦を感じた義明は敵ながら天晴れと家忠に酒を贈ったという。結局城は落ち、ひとり籠城して討死せんという義明の意思に反し、義澄らが無理やり城から連れ出した挙句、輿を担いでいた郎従が逃げ出して義明は敵中に取り残され、丸裸にされてしまった上、「哀しいかな、同じくは畠山に見合て斬らればや、継子孫なり」と外孫にあたる重忠の手で斬られることを望んだが、その願いも空しく江戸太郎重長によって討たれたという(『源平盛衰記』)。城を落ちた三浦一党は舟で房総半島に逃れ、源頼朝と合流している。

 三浦党を討ったのち、重忠らはふたたび武蔵国に戻ったが、頼朝が房総の大軍を率いて武蔵に上陸してきたことを知ると、10月4日、先祖・秩父十郎武綱が後三年の役の際に義家から賜って先陣をつとめて大功を挙げたという源氏の白旗をかかげて頼朝の陣中に帰参し、河越重頼・江戸重長も帰参した(『吾妻鏡』)

「畠山次郎重忠、長井の渡に参会す。河越太郎重頼、江戸太郎重長また参上す。この輩、三浦介義明を討ちし者なり。しかるに義澄以下の子息門葉、多くもつて御供に候じ、武功を励む。重長等は源家を射たてまつるといへども、有勢の輩を抽賞せられずんば、こと成がたからんか。忠直を存ずる者は、更に憤りをのこすべからずの旨、兼ねて以て三浦一党に仰せ含めらる。彼ら異心無きの趣を申す。よって各々相互に合眼して列座する者なり」(『吾妻鏡』)

 この白旗について頼朝は我が旗と同じであると不審を持つが、その所縁を問い質されたとき、重忠は、

大蔵館
重能が攻め入った大蔵館跡

「君が御先祖八幡殿、宣旨を蒙りたまひて武平、家平を追討せしむる之時、重忠が四代祖父秩父十郎武綱、初参して侍りければ、此の白旗をたまひて先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候おはんぬ」(『吾妻鏡』)と述べたという。また、この旗は久寿2(1155)年8月16日に重忠の父・重能が頼朝の兄・悪源太義平に従って、帯刀先生源義賢、秩父重隆を討った際にもはためいた旗であった。

 頼朝はこの後三年の役の故事にならい、「頼朝日本国を鎮むほどは、汝が先陣を勤むべし」(『源平盛衰記』)と、故事にならって重忠は鎌倉入りの先陣を命じられた。重忠はその後も鎌倉軍の先陣を任される慣例がつくられ、奥州藤原氏との戦い、頼朝の上京までも畠山重忠が先陣をつとめている。

 頼朝は、秩父党は敵対したとはいえ、こうした「有勢の輩」を味方につけなければ「(平家を討つ)こと成りがたし」と考えており、そのためには三浦氏との諍いは避けなければならず、「忠直を存ずる者は、更に憤りをのこすべからず」と三浦一党に言い含めた。秩父党は三浦氏の城を落とし、惣領三浦大介義明を討ちとっており、三浦一族の秩父党に対する恨みはとても深いものがあったと思われる。頼朝もそれを心配しての念押であったが、三浦氏も怨みを飲み込んで「異心無」い旨を述べ、秩父党、三浦党はお互いに見合いつつ列座した。

大倉屋敷跡
頼朝屋敷跡(御所跡)

 10月6日、頼朝軍は重忠を先陣とし、千葉介常胤を後陣として鎌倉に入り、民家を仮の宿舎と定めた。翌7日、頼朝は故父・源義朝の旧跡(鎌倉亀ヶ谷)を訪れ、そこに館を建てようとしたが、あまり広い平地ではなかった上に、岡崎義実(三浦大介義明の弟)が義朝の菩提を弔うために建立した堂宇があったため断念し、場所をより東の大倉へ移して造営作業を開始した。そして12月12日、新邸が完成し、頼朝は鎌倉の東の端にあった上総権介広常の館から新邸に入った。重忠はその列の殿を務めている(『吾妻鏡』)

 翌治承5(1181)年正月1日、頼朝は元旦を八幡宮奉幣の日と定めて若宮に参詣した際には、三浦義澄畠山重忠大庭景義が郎党を引き連れて、夜半から辻々の警護をしている(『吾妻鏡』)

 養和2(1182)年正月3日、頼朝は「御行始」として、甘縄の藤九郎盛長の屋敷に向かったが、このとき佐々木四郎高綱が頼朝の駕の横にあり、重忠は足利上総介義兼北条四郎時政三浦介義澄和田小太郎義盛などとともに供奉をつとめた。4月5日には頼朝の江島詣に供奉。8月13日、頼家の出産を祝して、重忠をはじめとして、宇都宮弥三郎朝綱土屋次郎義清和田小太郎義盛梶原平三景時梶原源太景季横山権守時兼らが刀を献上している(『吾妻鏡』)

木曾義仲との戦い

 寿永2(1183)年11月1日、頼朝は京都で乱暴狼藉を行ったという名目で追討の対象となっていた征夷大将軍・木曾左馬頭義仲の追討軍を派遣した(『吾妻鏡』)

●義仲追討の頼朝勢

大手
大将軍
蒲冠者範頼               
相従輩 武田太郎信義 加々見次郎遠光 一条次郎忠頼 小笠原次郎長清 伊沢五郎信光 板垣三郎兼信
逸見冠者義清          
大手侍 稲毛三郎重成 榛谷四郎重朝 森五郎行重  千葉介常胤  千葉小太郎胤正 相馬次郎成胤 
国府五郎胤家
(国分五郎胤道)
金子十郎家忠 金子与一近範 源八広綱 渡柳弥五郎清忠 多々良五郎義春
多々良六郎光義 別府太郎義行 長井太郎義兼 筒井四郎義行 葦名太郎清高 野与
山口 山名 里見 大田 高山 仁科
広瀬          
搦手
大将軍
九郎冠者義経          
相従輩 安田三郎義定 大内太郎維義 田代冠者信綱      
相従侍 佐々木四郎高綱 畠山次郎重忠 河越太郎重頼 河越小太郎重房 師岡兵衛重経 梶原平三景時
梶原源太景季 梶原平次景高 梶原三郎景家 曽我太郎祐信 土屋三郎宗遠 土肥次郎実平
土肥弥太郎遠平 佐原十郎義連 和田小太郎義盛 勅使河原権三郎有直 庄三郎忠家 勝大八郎行平
猪俣金平六範綱 岡部六弥太忠澄 後藤兵衛真基 後藤新兵衛尉基清 鹿島六郎維明 片岡太郎経春
片岡八郎為春          
御曹司
手郎等
佐藤三郎継信 佐藤四郎忠信 伊勢三郎義盛 江田源三 熊井太郎  
大内太郎          

 頼朝は出征に当たり御所の侍所に御家人を集めて評定を行った。京都に至るまでには越えなければならない近江国の勢田橋宇治の宇治橋の二つの難所があり、この橋の橋板は木曾勢によってすでに外されていると見なければならず、だからといって川は激流、底も深くすべての馬が渡り切れる保障はない上に、川の中には逆茂木や綱が張られているはずであり、各人よい馬を用意して、宇治・勢多の難所を乗り切って高名を挙げるべしと議された。さっそく大名、小名、党、高家それぞれ名馬を用意して戦陣に臨んだ。重忠は並み居る御家人の中でも最も多い「秩父鹿毛」「大黒人」「妻高山葦毛」の三頭を曳いており(『源平盛衰記』)、馬の産地であった秩父地方に一定の勢力を確保していたことをうかがわせる。

●持参した名馬(『源平盛衰記』) 

人物 馬名
上総介八郎広常
千葉介常胤 薄桜
平山武者所季重 目糟馬
渋谷庄司重国 子師丸
畠山庄司次郎重忠 秩父鹿毛、大黒人、妻高山葦毛
和田小太郎義盛 鴨の上毛、白浪
北条四郎時政 荒礒
熊谷二郎直実 権太栗毛
源九郎義経 薄墨、青海波
蒲冠者範頼 一霞、月輪

 このとき、梶原源太景季は頼朝が秘蔵している馬三頭のうち「生喰」を所望した。

●頼朝秘蔵の名馬(『源平盛衰記』)

産地 謂れ
生喰 陸奥国七戸 黒栗毛、高八寸、五歳馬
磨墨 陸奥国三戸 藤原秀衡子・本吉冠者高衡よりの献上品。異名は町君。
若白毛

 頼朝は、かつて大庭景親との石橋山の戦いで敗れて、土肥の杉山に隠れたとき、まだ敵方だった梶原景時の機転によって命を救われたこともあり、その嫡男・景季の願いも叶えたいとは思う一方、この生喰は、弟の蒲冠者範頼も所望したものの、この馬は頼朝がいざ出征する際の馬であるとして断った経緯もあり、景季には生喰に劣らない「磨墨」を下賜した。

 この翌日、佐々木高綱が申し上げたいことがあると頼朝の御所を訪れた。頼朝は、高綱が近江に在国していたと聞いていたので、

「如何御辺は此の間は近江に在国と聞けば、志あらば軍兵上洛に付きて京へぞ上り給はんずらんと相存ずるに、いつ下向ぞ」(『源平盛衰記』)

と問うた。高綱は、

「その事に侍り、去年十月の頃より江州佐々木庄に居住の處に、かかる騒動と承れば、誠に近きに付て京へこそ打上るべきに、軍の習ひ、命を君に奉りて戦場に罷り出る事なれば、再び帰参すべしと存ずべきにあらず、今一度見参にも入れ御暇をも申さんが為、また、何処の討手に向へども、慥かの仰せをも蒙らん料に、正月五日の卯の刻に、佐々木の館を打ち出て、三箇日の程に鎌倉に下著し侍り、かつは下向せずして、自由の京上もその恐れありと存じ、旁らの所存によりて罷り下れり、志は加様に運び奉りたれども、一匹持ち侍りつる馬は馳せ損じぬ、親しき者といふ知音と申す人々も面々に打ち立つ間、誰に馬一匹をも尋ね乞ふべしとも覚へねば、如何仕り侍るべきと心労して、大名小名既に上りぬれども、今まではかくて候」(『源平盛衰記』)

と歎いた。頼朝も石橋山の戦いでの高綱の活躍を思い出し、その志も賞玩した上で、ついに、

「相構て今度宇治川の先陣を勤て高名し給へ、必ず相計るべき也、頼朝が随分秘蔵の生喰、御辺に預け奉らん」(『源平盛衰記』)

と、秘蔵の生喰を高綱に与えた。感謝して退出しようとする高綱へ頼朝は声をかけ、

「この馬所望の人あまた有つる中に、舎弟蒲冠者も申き、殊に梶原源太直参して真っ平に申しつれどももしもの事あらば乗て出んずればとてたばざりき、その旨を存ざれよ」(『源平盛衰記』)

と注意を与えている。高綱も宇治川の先陣は必ず自分が果たすことを約束して、さっそく鎌倉を発して京都へ馳せ向かった。

 寿永3(1184)年正月10日ごろ、生喰の馬舎人六人と十七騎の郎従を伴って駿河国浮島原沼津市原)を西に進んでいた。生喰は延々と続いていく相模湾沿いの平野を歩んでいたため、うずうずしたのか身震いして鐘衝のような嘶きをあげた。その声ははるかに二里も離れた田子の浦富士市)にまで届いた。

 鎌倉軍は折からの雪解け水で増水していた富士川を渡れずに滞陣しており、田子の浦には畠山重忠が宿陣していた。重忠は生喰の嘶きを聞き、

「是はいかに、生喰が鳴音のするは誰人の給て将に来るやらん」(『源平盛衰記』)

とふと言った。しかし榛澤六郎成清は、

「是程の大勢の中に、数千匹の逸物ども多く侍り、いずれの馬にてか侍るらん、大様の御事と覚へ候、その上、生喰生は蒲、梶原殿など申されけれども御免なしと承る、さては誰人か給ふべき」(『源平盛衰記』)

と言うと、そばの人々もその通りであると鼻で笑った。しかし重忠は譲らず、

「一度も聞き損ずまじ、人にたびたはずは知らず、一定生喰が音也、只今思ひ合せよ(『源平盛衰記』)

と言っていると、東のほうから舎人六人を引き連れた佐々木高綱のまたがる生喰が現れた。人々は改めて重忠を、神に通じたるやらんと賞賛したという(『源平盛衰記』)。梶原景季が自慢していた磨墨も生喰と並ぶと見劣りがしたという。景季は高綱が生喰を給わったことを悔しがり、

「時に取て日の敵也、高綱さる剛者なれば、左右無くよもせられじ、互ひに引っ組んで落ち重なり、腰の刀にて刺し違へ、恥ある侍二人失ひ、鎌倉殿に大損とらせ奉らん」(『源平盛衰記』)

と、高綱のもとに馳せ寄った。景季は高綱に馬を並べると、

「あの御馬は上より給ひてか」(『源平盛衰記』)

と問いただした。高綱は「あの景気を見るに、馬の立ち様、人を待つ様、直事とは覚えず、生喰ゆゑに一定高綱に組まんとの思意趣あるらん、鎌倉殿の意せよとはこの事にこそ」と密かに思い、真偽取り混ぜて、

「これは君の御大事也、後の御勘当は左右もあれ、盗みて乗らんと思ひて、御厩小平に心を入れ盗み出して、夜に紛れ酒匂の宿まで遣はして、この暁に引かせたり、只今にや御使走りて、不思議也と云ふ御気色にや預らんと閑心なし、もし御勘当もあらん時は、然るべき様に見参に入れ給へ」(『源平盛衰記』)

と語ると、景季も相好を崩し、

「この定ならば景季も盗むべかりけり、正直にては能き馬は儲くまじかりけり」(『源平盛衰記』)

と納得し、二人は連れ立って上洛の途についたという。

宇治橋
▲宇治橋

 正月20日、蒲冠者範頼、源九郎義経の鎌倉勢大将軍の兄弟が勢多と宇治の二手に別れて京都に攻め寄せた。重忠は搦手大将軍の義経に従って宇治方面から攻撃をしかけた。

 宇治川の急流にかかる宇治橋の橋板はすでに外され、その流れの中には逆茂木が置かれ、綱が張られていた。その逆茂木や綱は常陸国の鹿嶋与一という水練の達者によって除かれていたが、その急流にいまだ渡る者はなかった。その評定の席で重忠が進み出て、

「事新し、この河は近江の湖の末、今始めて出来たる川にあらず、春立日影の習ひにて、細谷川の氷解、比良の高峰の雪消ゑて、水のかさは増すとも、水の減る事有べからず、足利又太郎忠綱も、高倉宮の御謀叛の御時は、渡せばこそ渡けめ、鎌倉殿の御前にてさしも評定の有しはこれぞかし、始めて驚くべき事にあらず、兼ての馬用意その事也、重忠渡して見参に入れん」 (『源平盛衰記』)

と、馬を馳せようとしたところ、平等院の小松崎から梶原源太景季佐々木四郎高綱の若武者二騎が馳せ参じた。梶原は磨墨、佐々木は生喰を駆りたて宇治川を目指して駆けたが、梶原の方が先を走っていた。これに佐々木は、

「如何に源太殿、御辺と高綱と外人になければかく申す、殿の馬の腹帯は以外に窕て見物かな、この川は大事の渡し也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給ふな」 (『源平盛衰記』)

宇治川合戦碑より
宇治川合戦跡地より宇治川を望む

と叫んだため、梶原はさもあらんと馬を留めて弓を咥え、馬腹帯をいったん解いて引き締め直した。しかし、その間に佐々木は名馬生喰を駆って、あっという間に梶原を追い抜いてしまった。梶原はたばかられたかと追うが、すでに佐々木は川に飛び入り、河中の綱も断ち切って対岸一番乗りを果たしてしまった。続けて梶原も対岸に上がったが、こちらも負けず一番乗りを宣言。鎌倉への注進もいずれもが一番乗りを主張している。宇治川の対岸にはもちろん木曾勢がひしめいており、彼らだけでは乗り切れるものではなかった。しかし、佐々木、梶原両将の先駈を見ていた鎌倉勢は勢いづき、秩父党、足利党、三浦党、鎌倉党ら党や高家の諸将も次々に宇治川に飛び込んだ。

 重忠は青地錦直垂、赤威鎧といういでたちに「鬼栗毛」という馬に巴摺の貝鞍を置いて、糸総鞦を懸けて乗っていた。その手勢は五百騎という大勢で、宇治川に飛び込んだ。しかし、川は深く激流で、郎党たちは次々に流されていく。重忠は馬に負担の軽い乗り方を叫びつつ叱咤した。そこに、木曾勢の将の一人、根井小弥太行親が放った矢が重忠の乗馬・鬼栗毛に突き立った。鬼栗毛「天狗の駒」とも称された名馬だったが負傷したため、重忠は馬から下り、馬の足を自分の肩に懸けて泳ぎ渡ったという。この泳ぎ渡っているとき、武者が溺れかかって「然べくば助給へ」と重忠に哀願してきた。重忠は彼を持ち上げると岸のほうへ放り投げた。彼は、

「只今歩にて宇治川を渡りたる先陣は、武蔵の国の住人、大串次郎(『源平盛衰記』)

と名乗りを上げた。しかし、大串次郎重親は明らかに重忠により救われたことがわかっているので、敵味方を問わず非難があがった。このため彼は「一陣は畠山、二陣は大串」と言いなおしている。重忠はほかにも塩冶小三郎維広という武士が流されそうになっているのも救って岸に放り投げた。

 その後、岸に上がった重忠は、木曾勢からの矢が散々に降り注ぐ中を突進したが、木曾勢のなかから義仲の従弟、長瀬判官代義員という武者が馳せ出てきた。彼こそがこの宇治の木曾勢総大将と見た重忠は、「秩父がかう平」という三尺九寸の太刀を抜いて歩み寄ったが、義員は何を思ったか引き退いてしまった。重忠が呼びかけても出てくることなく、そのまま都へと逃げ帰ってしまった。

法性寺遠景
法性寺跡遠景

 木曾勢は京都の七条、八条の河原ならびに法性寺柳原に宿陣しており、義仲は、

「合戦、今日を限りとす、身をも顧み命をも惜まん人々はここにて落つべし、戦場に臨みて逃げ走りて東国の倫に笑はれん事、当時の欺くのみにあらず、永代に恥を貽さん事、口惜かるべし」(『源平盛衰記』)

とその覚悟を述べている。

 重忠は五百騎を率いて木曾勢めがけて突撃したが、義仲率いる木曾勢は精神的にも強く、その真っ只中を突破されて続く河越小太郎重房陣も壊走。佐々木四郎高綱勢二百騎、梶原平三景時勢三百騎、渋谷庄司重国二百騎らの陣は次々に打ち破られた。

 京都に入った義経は、まず六条殿に馳せ参じて後白河法皇を警衛した。このとき義経を含めて参内したのは六騎あり、御所の門前で下馬し、後白河法皇の御叡により御所の中門の外、御車宿前に立ち並んだ。このとき法皇は中門の羅門から叡覧、陪従の出羽守貞長に、かの六名について年齢、名前、住国を聞こし召された。

●参内した六騎(『源平盛衰記』)

  生国 装束 生年
源九郎義経    赤地錦直垂
萌黄唐綾紅糸威鎧
鍬形甲
金作太刀
二十五歳 今度の大将軍
畠山次郎重忠 武蔵国住人 青地錦直垂
赤威鎧
備前作平太刀
二十一歳 秩父末流畠山庄司重能の長男
渋谷右馬允重助 相模国住人 菊閉直垂
緋威鎧
四十一歳 渋谷三郎重国の長男
河越小太郎重房 相模国住人
(実際は武蔵国)
蝶丸直垂
紫下濃小冑
十六歳 河越太郎重頼の子息。
※河越太郎重頼とする説もある。重目結の直垂に射向の袖に赤地錦鎧、黒糸縅冑、大切符の征矢
梶原源太景季 相模国住人 大文三宛書たる直垂
黒糸威冑
二十三歳 梶原平三景時の子息
佐々木四郎高綱 近江国住人 三目結直垂
小桜黄返たる冑の裾金物
二十五歳 佐々木源三秀義の四男
宇治川の先陣

 このとき重忠も参内の栄誉に預かっている。ほかに親族の渋谷右馬允重助河越小太郎重房の名も見える。

 重忠はその直後、木曾を討ちもらしたのは覚束ないことであると、ふたたび三条河原の西端まで出陣した。このとき義仲はわずか十三騎にて三条白河を東へ逃れているところだったが、重忠はその左右に本田近常、榛澤成清を置いて義仲に、

「東へ向けて落ち給ふは大将と見るは僻事か、武蔵国住人秩父の流れ、畠山庄司次郎重忠なり、返し合はせ給へや」(『源平盛衰記』)

と呼びかけると、義仲は振り向いて重忠を射よと下知して弓合わせが行なわれたが、重忠率いる手勢は大勢、対して義仲はわずか十三騎。重忠勢の矢は義仲勢の頭上に降り注ぎ、ついに打ち破られて三条小河まで追い落とされた。勝ちに乗じた重忠はその後を追って散々に攻め懸けた。すると、木曾勢の中から萌黄縅の鎧を着た葦毛馬にまたがる武者が走り出て重忠と馳せあった。重忠は自他ともに認める剛力の武士であったが、攻め立てられて河原に引き上げた。

 帰陣後、この突然の剛勇の武士の登場に納得のできなかった重忠は、榛澤成清を召すと、

「如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合ひたれども、これ程軍立の険しき事に合はず、木曾の内には今井、樋口、楯、根井これらこそ四天王と聞しに、これは今井、樋口にもなし、さて何なる者やらん」(『源平盛衰記』)

と問うた。成清はさすがに老練の武士である。

「あれは木曾の御乳母に、中三権頭が娘、巴と云ふ女なり、強弓の手練れ荒馬乗の上手、乳母子ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず、今井、樋口と兄弟にて怖しき者にて候」(『源平盛衰記』)

と説明した。重忠はさもあらんと納得したものの、重忠ともあろう者が女武者に追い立てられたという噂が流れるのも甲斐なきことであり、今日は巴御前を虜にせんと巴御前を敵陣の中を探し回り、ついに発見。馬を寄せて鎧の袖をつかんで組もうとしたが、その袖を引きちぎって遁れてしまい、重忠もさすがに感心してしまい「これは女にはあらず、鬼神の振舞にこそ」と賞賛している。

石山寺
石山道前に建つ石山寺

 義仲は京都を落ちると、叔父・志田美濃守義広らが守る近江国勢多(大津市瀬田)へ向かった。勢多は琵琶湖のすぐ南に位置する京都へ入る要衝の地であり、蒲冠者範頼率いる鎌倉大手軍三万余騎が木曾勢と勢多川をはさんで集結していた。川にかかる勢多橋はすでに橋板が外されていて、渡ることは得策ではないと、重忠には従兄弟にあたる稲毛三郎重成榛谷四郎重朝らは南に下り、田上の貢御瀬(大津市稲津あたりか)を渡って、石山寺の前の道を北上して、今井四郎兼平五百余騎と合戦に及んだ。さらに鎌倉勢三万余騎が勢多川を渡って木曾勢に攻めかかった。この戦いで、木曾勢の大将・志田義広が戦死している。

 兼平は義仲は京都から北陸へ遁れると見ていて、北へ向かったが、その途中、粟津浜(大津市馬場)で落ちてきた義仲と合流。北陸へ遁れて再起を図るべく、勢多から逃れてくる落武者を取りまとめて五百余騎となり、武装を外して軽くしていたところ、武石三郎胤盛猪俣小平六範綱ら七百余騎が攻め寄せた。さらに甲斐源氏の一党、千葉介常胤の三千余騎、蒲冠者範頼の七千余騎と渡り合うも、衆寡敵せず、ついに相模国三浦党の石田小太郎為久の手によって討たれた。義仲三十一歳の若さであった。巴御前は信濃国に遁れていたが、その後、鎌倉に召し出されている。一説に巴は和田小太郎義盛に嫁いで朝夷奈三郎義秀を生んだとされているが、これは伝承である。

 2月5日、摂津国福原の周辺に陣を構えていた平家の軍勢を討つため、範頼・義経軍は摂津国に参集した。重忠は鎌倉勢の搦手大将軍・源義経の軍勢に加わり、福原の北方の山越えを敢行。平家が陣を構えていた一ノ谷へ駆け下ったという。このとき重忠は愛馬「三日月」を背負って駆け降りたという(『平家物語』)。この平家の陣中にはかつての主君である新中納言平知盛武蔵守平知章がいた。

●鎌倉軍●■:秩父一族 ■:秩父氏の養子系 ■:千葉一族

◎大手軍

大将・源範頼
小山小四郎朝政 武田太郎信義 加賀美次郎遠光 加賀美小次郎長清 武田兵衛尉有義 板垣三郎兼信
下河辺庄司行平 長沼三郎宗政 結城七郎朝光 佐貫四郎広綱 小野寺太郎通綱 稲毛三郎重成
榛谷四郎重朝 森五郎行重 江戸四郎重春 梶原平三景時 梶原源太景季 梶原平次景高
千葉介常胤 相馬次郎師常 国分五郎胤通 東六郎胤頼 中条藤次家長 海老名太郎季貞
曾我太郎祐信 中村太郎時経 安保次郎実光 中村小三郎時経 河原太郎高直 河原次郎盛直
小大八郎行平 久下次郎重光 藤田三郎大夫行泰 秩父武者四郎行綱 大河戸太郎広行 庄司三郎忠家
庄四郎高家 庄司五郎広方 塩谷五郎惟広 庄太郎家長

◎搦手軍

大将・源義経
安田遠江守義定 大内右衛門尉惟義 村上判官代康国 山名三郎義範 斎院次官中原親能 田代冠者信綱
大河戸太郎広行 土肥次郎実平 三浦介義澄 三浦平六義村 三浦十郎義連 畠山次郎重忠
長野三郎重清 和田小太郎義盛 和田次郎義茂 和田三郎宗実 佐々木四郎高綱 佐々木五郎義清
天野次郎直経 多々羅五郎義春 多々羅太郎光義 別府小太郎清重 金子十郎家忠 金子与一近範
金子源八広綱 岡部六弥太忠澄 渡柳弥五郎清忠 糟谷藤太有季 平山武者所季重 平佐古太郎為重
熊谷次郎直実 熊谷小太郎直家 小河小次郎祐義 山田太郎重澄 原三郎清益 猪俣小平六則綱
片岡太郎常春 伊勢三郎義盛 佐藤三郎忠信 佐藤四郎継信 武蔵坊弁慶

●平家軍

内大臣平宗盛
新中納言平知盛 本三位中将平重衡 薩摩守平忠度 修理大夫平経盛 中納言平教盛
三位中将平資盛 備中守平師盛 少将平有盛 尾張守平清定 淡路守平清房
丹後侍従平忠房 皇后宮亮平経正 若狭守平経俊 大夫平敦盛 武蔵守平知章
平越前三位通盛 蔵人大夫平業盛 能登守平教経 左馬助平行盛 越中前司平盛俊
越中次郎兵衛平盛嗣 三郎左衛門尉平景綱 上総介藤原忠光 悪七兵衛尉藤原景清 伊賀平内左衛門平家長
伊賀平内兵衛平清家

 文治元(1185)年3月、範頼・義経率いる鎌倉軍は長門国壇ノ浦の海戦平家を滅ぼして、頼朝の勢力は全国に及ぶようになる。しかし義経はこれ以前に頼朝に無断で後白河法皇より左衛門尉ならびに検非違使判官の官職を受けており、頼朝は義経に対して怒りを含んでいた。捕虜の前内大臣平宗盛を京都から鎌倉に護送してきた義経が、鎌倉の入口・腰越で哀願の書状を頼朝へ委託するも、頼朝は受け入れることなく追い返した上、京都に刺客を放って義経の殺害を謀った。しかしこの計画は失敗に終わり、怒った義経は頼朝追討の院宣を後白河法皇より得て兵を集めた。しかし、義経のもとに兵は集まらず、ついに義経は京都を脱出して大和国吉野に逃れた。その後、頼朝は後白河法皇を動かして義経追討の院宣を引き出し、義経を求めて大和に鎌倉勢が入ってきた。義経は妾のとこの吉野山中で別れ、北陸を通って奥州を目指していった。その後、山中をさまよっていた静は捕らえられて鎌倉に護送されている。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

 4月、鎌倉に軟禁されていた静が頼朝の命により鶴岡八幡宮寺の回廊で舞を舞った際、重忠は銅拍子をつとめている。武蔵守として武蔵国の豪族を家人化していた平知盛を通じて上洛するなど、京都の文化にも通じていたのだろう。

 11月、秩父氏の惣領家であった河越太郎重頼が、義経の舅ということで誅殺される。彼の所領はその大部分を母親が相続することとなったが、彼が帯していた「武蔵国留守所惣検校職」は重忠の手に移っていることから、重忠は祖父・秩父重弘が継承することができなかった秩父党の惣領職になったのだろう。

 文治3(1187)年9月27日、伊勢神宮領の伊勢国沼田御厨にあった重忠の代官・真正が狼藉をはたらいたと、伊勢神宮の神官が訴え出た。重忠は代官の所行の子細を知らなかったと謝罪したが、所領四か所は収公され、重忠の身柄は従兄にあたる千葉新介胤正に預けられた。このとき重忠は、寝食を絶って身の潔白を主張。この様子を見ていた胤正は不憫でならず頼朝に陳情したため、頼朝も心を動かされて重忠を許すこととした。胤正は早速館に帰ると、重忠を伴ってふたたび幕府に参上。重忠は幕府にいた里見冠者義成に、

「恩に浴するの時は、まづ目代の器量を求むべし。その仁なくんば、その地を請くべからず。重忠清潔を存ずること、甚だ傍人に越ゆるの由、自慢の意を挿むのところ、真正男が不義によって恥辱に逢い了んぬ」

菅谷館遠景
菅谷館址遠景

と話している。その後、重忠は幕府をあとにして、本拠の武蔵国菅谷館に下向していった。しかし、この直後の11月15日、梶原景時は、

「畠山次郎重忠、重科を犯さざるのところ、召し禁めらるるの條、大功を棄捐せらるるに似たりと称し、武蔵国菅谷の館に引き籠り、反逆を起こさんと欲するの由、風聞す。しかるに折節、一族尽く以て在国し、ことすでに符号す。いかでか賢慮を廻らされざらんや」

と頼朝に讒言した。頼朝もいささか不安を感じたと見え、小山左衛門尉朝政・下河辺庄司行平・結城七郎朝光・三浦介義澄・和田小太郎義盛らを召して、重忠追討の是非を問うたが、結城朝光は、

「重忠は、天性廉直をうけ、もっとも道理を弁え、敢へて謀計を存ぜざる者なり。しかれば、今度の御気色、代官所犯の由によって、雌伏せしめ了んぬ。その上殊に神宮の照鑑を畏怖するの間、さらに怨恨を存ぜざるか。謀叛の條、定めて僻事たらんか。専使を遣はされて、その意を聞こしめさるべし」

と重忠の清廉な人柄を熱心に訴えたため、頼朝は重忠の親友・下河辺行平を使者として武蔵菅谷の畠山邸に派遣することとした。そして17日、行平は菅谷館に着き、このことを重忠に告げると、

「何の恨みに依って多年の勲功を擲ち、忽ち反逆の凶徒と為すべきや、且は重忠の所存に於いては左右に能はず、二品の御腹心、今更御疑いなからんか、偏に讒者等の口状に就きて恩喚有りと称し、相度誅せんが為、貴殿を差し遣わさるるなり、末代に至り今この事を聞き、業果を恥づべし」

と、重忠は腰刀を抜くや自殺を図った。行平はあわててその手を押さえると、

「貴殿は訴偽を知らざるの由自称す、行平また誠心在口の條、いささか貴殿に異なるべきや、誅すべきはまた怖るべきに非ざるの間、偽たるべからざるなり、貴殿は将軍の後胤なり、行平は四代将軍の裔孫なり、態と露顕せしめ挑戦に及ぶの條、その興有るべし、時儀適々朋友を撰び行平を使節と為す、これ異儀無く、具し参らしめんが為の御計なり」

と重忠を説得し、重忠もようやく心を鎮めると、酒席を設けて行平と談笑しながら盃を交わした。その後、行平と重忠は連れ立って鎌倉へ赴いた。行平の発言にある「貴殿は将軍の後胤なり、行平は四代将軍の裔孫なり」の「将軍」は鎮守府将軍平良文のことであるが、「四代将軍」とは鎮守府将軍藤原秀郷のことと思われる。「四代」は秀郷が家祖左大臣魚名より四代目であるためか。

 11月21日、行平とともに鎌倉に出頭した重忠は梶原景時と面会して、謀叛の心は毛頭無いことを訴えたが、景時は「起請文」の提出をさらに求めた。これに重忠は、

「重忠が如き勇士は、武威を募り、人庶の財宝等を奪取し、世渡の計とするの由、もし虚名に及ばば、もっとも恥辱たるべし、謀叛を企てんと欲するの由、風聞するはかへって眉目と云ひつべし、ただし源家の当世を以て武将の主に仰ぐの後、さらに弐なし、しかるに今このわざはひに逢うや、運の縮まるところなり、且は重忠、もとより心と言と異なるべからざるの間、起請を進じ難し、詞を疑ひて起請を用ゐ給ふの條は奸者に対する時の儀なり、重忠に於いて偽を存ぜざるの事は、兼ねて知ろしめすところなり、速にこの趣を披露すべし」

と、起請文の提出を拒否した。景時がこのことを頼朝に言上すると、頼朝はとくに返事をしなかった。その後、重忠と行平を御所に召すと、いつもと変わらない様子で「世上の雑事等」を談じ合った。とくに重忠の謀叛疑惑や起請文の提出拒否については話題に上らなかったという。頼朝の重忠に対する謝罪の気持ちやその清廉な心に応えたものであろう。しばらくのち、堀藤次親家を遣いとして、行平へ御剣を下賜した。

 この騒動のもとになった伊勢国沼田御厨は重忠から収公されたのち、吉見次郎頼綱に宛がわれたが、頼綱の代官も民を追い出すなど狼藉をはたらいたことから、御厨の民衆たちが鎌倉に訴え出ていた。文治5(1189)年7月10日、頼綱の地頭職が停止されている。

●奥州合戦

 文治5(1189)年、頼朝は奥州藤原氏を追討するため、軍勢を三手に分けて東北に向けて発向させた。7月19日、頼朝率いる本隊が鎌倉を出立したが、重忠は先例によって先陣を務め、弟・長野三郎重清、郎従の大串小次郎重親本田次郎近常榛澤六郎成清柏原太郎らを率いて鎌倉を出立した

 8月7日、奥州藤原氏の前線基地・阿津賀志山伊達郡国見町)を攻める際にも先陣を任された。阿津賀志山では泰衡の命を受けた藤原太郎国衡(藤原泰衡の異母兄)らが城塞を築いて二万騎の将兵でかためていた。重忠は頼朝からまず堀を埋めるよう指示を受け、八十名の人夫を指揮して鋤鍬でこれを埋め、親友の結城七郎朝光が、兄・小山左衛門尉朝政の郎党を引き連れて阿津賀志山の麓に至った。

 8月8日、平泉方の将・金剛別当季綱が阿津賀志山の麓に宿陣したため、頼朝は畠山重忠・結城朝光・加藤景廉・工藤行光・工藤祐光らにこころみに矢合わせを命じた。しかし、金剛季綱はこの大量の矢を防ぎきれずに山中に退却。ここに常陸国の伊佐常陸入道念西(伊達氏の祖)の子息、伊佐為宗・為重・資綱・為家らが伊達郡澤原まで侵入し、佐藤庄司元治(佐藤継信・忠信の父)を討ち取った。

 8月9日夜の評定で、翌朝に総攻撃をかけることが決定し、その先陣を重忠が命じられたため、重忠は陣に帰って休んでいたが、三浦平六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・工藤三郎祐光・狩野五郎親光・藤沢次郎晴近・河村千鶴丸(河村季清。十三歳)の七騎が夜中のうちに重忠陣をひそかに追い抜いて山中に入った。これを発見した榛谷六郎成清は、重忠の寝所を訪れると、

「今度の合戦に先陣を奉ること、抜群の眉目なり、しかるに傍輩の争うところを見て温座し難からんか、早くかの前途を塞ぐべし、しからずんば事の由を訴え申し、濫吹を停止してこの山を越えらるるべし」

と告げた。しかし重忠は、

「その事然るべからず、たとひ他人の力を以て敵を退くと云へども、すでに先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戦は、皆重忠が一身の勲功たるべし、かつは先登に進まんと欲するの輩のこと妨げ申すの條、武略の本意にあらず、かつはひとり抽賞を願うに似たりただ惘然をなすこと神妙の儀なり」

と、彼らの先行を許した。

 彼らは終夜行軍して阿津賀志山を越え、藤原国衡の陣所の木戸口に馳せ寄せた。工藤行光が先頭を切って攻め懸けると、泰衡の郎従で奥六郡第一の剛の者と知られた部伴籐八ら強兵たちが応戦し、激戦のなかで狩野親光は討死を遂げている。

 そして翌10日、頼朝勢全軍が阿津賀志山を越えて木戸口に攻め近づいた。先陣は重忠がつとめた。このとき彼の門客だった大串次郎重親は、九寸もの体高がある「高楯黒」にまたがった国衡と出くわしたが、国衡が重忠の軍勢に驚いて深田に馬を入れて動きが取れなくなったところを組み付いて、さっとその首を取った。

 翌11日、重忠は大串次郎が討ち取った国衡の首級を頼朝に献じた。頼朝は重忠の功績を褒め称えたが、このとき和田義盛が御前に進み出て、

「国衡は義盛の箭にあたりて亡命するの間、重忠の功に非ず」

と、重忠の功績ではないことを主張した。事実、義盛は国衡を追って矢を射かけ、国衡はその矢傷の痛みに耐えかねて退いたところを重忠の大軍が攻め寄せてその首を挙げたというものだった。しかし、重忠はそんな事実は知らず、大笑いして、

「義盛の口状、髣髴と謂ふべし、誅せしむの支証何事ぞや、重忠頸獲りて持参するの上は、疑う所無からんか」

と反論した。これに義盛はさらに反論し、

「頸の事は勿論なり、但し、国衡の甲は定めて剥ぎ取らるるか、彼の甲を召し出され実否を決せらるべし、その故は、大高宮の前田の中に於いて義盛と国衡互いに弓手に相逢う、義盛の射る所の箭、国衡に中たりをはんぬ、その箭の孔は、甲の射向の袖二三枚の程、定めてこれ在るか、甲の毛は紅なり、馬は黒毛なり」

と言ったため、頼朝は国衡の鎧を取り寄せてみると、義盛の言った通りであった。頼朝は重忠に、国衡に矢を放ったかどうか尋ねたところ、その事実はないという。義盛の言ったことは全て正しかったことが判明したが、頼朝は重忠について「其性、禀清潔」と信じており、一連の事実を知らなかっただけのことであって、この件についてはとくに問題になることはなかった

 9月7日、宇佐美平次実政が泰衡郎従で剛勇無双の由利八郎維平を生け虜って陣に連れてきた。取調べをした梶原景時は居丈高な物言いをしたため、由利八郎は、

「汝は兵衛の佐殿の家人なるか、今の口状過分の至り、喩えを取るに物無し、故御館は秀郷将軍嫡流の正統として、已上三代鎮守府将軍の号を汲む、汝の主人猶この如きの詞を発すべからず、矧やまた汝と吾とは対揚の処、何れに勝劣有らんや、運尽きて囚人と為るは勇士の常なり、鎌倉殿の家人を以て奇怪を見るの条、甚だいわれ無し、故に問う事、更に返答に能わず」

怒って口をつぐんでしまった。梶原も怒って顔を赤らめて頼朝の御前に戻り、結果を報告した。頼朝は由利八郎が景時の無礼に怒ったことを知っており、続いて重忠を召すと、その取調べをあらためて命じた。重忠は礼をもって勇士として由利を迎えたため、由利は感動してすべてを語った。その後、由利は重忠に預けられることになる。

毛越寺
平泉毛越寺

 9月20日、今回の奥州合戦における論功行賞が平泉において行なわれた。重忠は「陸奥国葛岡郡(長岡郡)」の惣地頭職を給わったが、この地は狭小の地であり、重忠は、

「今度重忠先陣を奉ると雖も、大木戸の合戦、先登他人の為に奪われをはんぬ、時に子細を知ると雖も重忠敢えて確執せず、これその賞を傍輩に周しめんが為なり、今これを見るに果たして皆数箇所広博の恩に預かる、恐らくは重忠の芳志と謂ふべきか」

と朋輩に語ったという。とくに恩賞を求めるでもなく、正直一徹に生きていた重忠の清廉な性格がうかがえる逸話である。

永福寺
永福寺跡

 建久元(1190)年、頼朝の上洛に際して先陣として出陣。後白河法皇の院への参内にも供奉している。また、建久2(1191)年7月、鎌倉永福寺の庭池の大石を一人でかつぎ上げて運び入れるなど剛力が知られている。

 正治2(1200)年正月2日、頼家は剛力の士・波多野三郎盛通に、謀叛人とされた梶原景時の与党・勝木則宗を生け捕るよう命じたが、則宗は背後から羽交い締めにされた右腕を振りほどいて、盛通を刺そうとした。このとき、たまたまその場に座っていた重忠は、その場を動くことなく左手で則宗の腕をとらえ、腕をへし折った。

 則宗もこの突然の出来事に惘然となり、容易く生け捕られたという。そして2月6日、波多野盛通に恩賞の沙汰があった際、則宗を捕らえたのは重忠だと、真壁紀内舎人という者が訴え出た。このため幕府は重忠と真壁を召してその事実を糺した。ここで重忠は、

「その事を知らず、盛通一人の所為の由、承り及ぶところなり」

として、自分は関係ないと主張。その後、退出して御所の侍溜まりに戻った重忠は真壁に、

「かくのごときの讒言、もっとも無益の事なり、弓箭に携はるの習ひ、横心なきをもって本意となす、然れども、客意を勲功の賞に懸くるがために、阿党を盛通に為さば直に則宗を生け捕るの由、これを申さるべきか。なんぞ重忠を差し申さんや、かつは盛通譜第の勇士たり。敢て重忠が力を借るべからず、すでに譜第の武名を申し汚すの條、不当至極なり」

と言ったため、真壁は顔を赤らめて退出。その重忠の公平な態度に聞くものは感嘆したという。

 建仁3(1203)年9月2日、頼家の妾・若狭局(比企左衛門尉能員娘)が御所を訪れて、北条時政一党の追討を懇願した。若狭局は頼家の長男・一幡の母親で、8月27日、頼家が重病で危篤の中、北条時政が主導となり、全国の将軍管轄の地頭職を二分し、関西三十八か国を千幡(のちの実朝)に、関東二十八か国を一幡に管轄する旨を将軍の命として発していた。すでに比企家と北条家には亀裂が生まれていたが、この事件が決定的な結果を生んだ。病床の頼家は自分の知らない間にこのような命が出されていたことに驚き怒り、若狭局の懇願に任せて比企能員を御所へ召して、時政一党の追討を命じたのである。

一幡墓
鎌倉比企館跡(妙本寺)内の比企一族墓

 比企能員が急遽御所に呼ばれたことを聞いた北条政子は、頼家の隣室に密かに控え、頼家と能員の密議を聞くと、ただちに仕える女房を北条邸に走らせたが、時政は仏事のために名越邸へ向かっており、政子は大まかな内容を手紙にしたため、侍女に持たせて名越へ走らせた。侍女は御所を発し、時政の一行に走り追いつくと時政に政子の書状を奉げた。こうして時政は頼家と比企能員の陰謀を知り、ただちに能員を仏事に事寄せて名越邸に呼び出すと、天野遠景入道蓮景仁田四郎忠常をして討ち果たした。

 能員討たれるの報を聞いた能員の童僕は、あわてて比企家に戻り、おそらく能員嫡子・比企弥四郎時員にこの報告をしたのだろう。報告を聞いた比企家は、一幡を擁し館に立て籠った。これに対して未の三刻(午後三時)、北条政子は鎌倉にあった御家人に比企家追討の命を発した。追討に加わったのは重忠をはじめ、北条義時、三浦義村、和田義盛ら、鎌倉に伺候していた二十一名の有力御家人である。

●『吾妻鏡』 建仁3(1203)年9月2日条

―比企家追討軍―

江間四郎義時 江間太郎頼時 平賀武蔵守朝雅 小山左衛門尉朝政 長沼五郎宗政
結城七郎朝光 畠山次郎重忠 榛谷四郎重朝 三浦平六兵衛尉義村 和田左衛門尉義盛
和田兵衛尉常盛 和田小四郎景長 土肥先次郎惟光 後藤左衛門尉信康 所右衛門尉朝光
尾藤次郎知景 工藤小次郎行光 金窪太郎行親 加藤次郎景廉 加藤太郎景朝
仁田四郎忠常        

―比企家籠館軍―

比企三郎 比企四郎時員 比企五郎
河原田次郎(能員猶子) 笠原十郎左衛門尉親景(能員婿) 中山五郎為重(能員婿)
糟谷藤太兵衛尉有季(能員婿) 比企余一兵衛  

 比企家の抵抗は激しく、加藤景廉尾藤知景和田景長は負傷。郎党も傷を被って軍勢を引き上げている。

比企谷の妙本寺参道
比企氏館跡(妙本寺)

 重忠は加藤、尾藤、和田勢に代わって重忠が一気に比企館を攻めて笠原親景勢を破り、親景は比企邸に駆け込んで火をつけ、河原田次郎、中山為重らは一幡の御前まで退いたのち自刃して果てた。火焔は比企邸を押しつつみ、一幡も猛火の中に消えた。女姿となって逃れ出ていた能員の子・比企余一兵衛加藤景廉の郎党に捕らえられて殺害され、夜になって能員の舅・渋川刑部丞兼忠も誅され、北条家と肩を並べた大御家人・比企一族は一日にして歴史から姿を消した

 元久元(1204)年10月14日、将軍家御台所として坊門前大納言信清息女が鎌倉へ下向するに及び、お迎えのために十五名の有力御家人の子弟が派遣された。その一人に「葛西十郎」が選ばれている。

       千葉介常胤
      (千葉介)
        ∥――――――――千葉介胤正――千葉介成胤
        ∥       (千葉介)  (千葉介)
 秩父重弘―+―女 
(秩父庄司)|
      |
      +―畠山重能―――――畠山重忠
       (畠山庄司)   (次郎)
                 ∥――――――畠山重保
                 ∥     (六郎)
        北条時政―――+―女
         ∥     |
         ∥     +―北条政子
         ∥     | ∥――――+―源頼家
         ∥     | 源頼朝  |(左衛門督)
         ∥     |      |
         ∥     +―女    +―源実朝
         ∥       ∥     (右大臣)
         ∥       稲毛重成
         ∥      (三郎)
         ∥  
         ∥       平賀朝雅
         ∥      (武蔵守)
         ∥       ∥
         ∥―――――+―女
        牧ノ方    |
               +―北条政範
                (左馬権助)

 北条時政の六男・左馬権助政範をはじめとして、結城七郎朝広・千葉平次兵衛尉常秀・畠山六郎重保・筑後六郎知尚・和田三郎朝盛・土肥先次郎惟光・葛西十郎清宣・佐原太郎景連・多々良四郎明宗・長井太郎・宇佐美三郎・佐々木小三郎・南條平次・安西四郎らはいずれも実朝好みの若武者で側近と思われる。

 使者一向は11月3日に京都へ到着したが、時政六男・政範は上洛途中で病気に罹り、11月5日に十六歳の若さで京都に没して東山に葬られている。11月13日、鎌倉に政範卒去の報が鎌倉にもたらされ、時政と生母の牧ノ方(時政後室)は悲嘆に暮れたという。

 政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀右衛門権佐朝雅(京都守護)の邸で、政範一行の上洛祝いの酒宴が行われた。幕府正使の接待も守護の役目であったことがわかる。

 ところが、この宴席で畠山重保と朝雅が喧嘩になった。朋輩たちがなだめたため事なきを得たが、対立は解消することはなかった。朝雅は翌日病死する政範の義兄(政範の姉が朝雅妻)である一方で、重保の母は牧ノ方腹ではない時政娘であり、北条家内の対立の構図の反映ということもあったのだろう。「所謂右衛門權佐朝政、於畠山次郎有遺恨之間、彼一族巧反逆之由、頻依讒申于牧御方」とあり、朝雅と重保の父・重忠には深刻な対立が見受けられる。朝雅の父・平賀義信は武蔵守として国府に駐在して善政を敷いており、そのあとを継いで武蔵守となった朝雅が武蔵国に常駐していなかった点と、その不在時に国政を見た留守所惣検校職の畠山重忠との間に対立が発生したのかもしれない。

 この朝雅と重保の論争は、政範の死で気を逆立たせている時政と牧ノ方の怒りを買ったのかもしれない。牧ノ方は娘婿である朝雅を擁護し、牧ノ方の言いなりになっていた時政もまた武蔵国の実権を握る好機と見たのかもしれない。時政は畠山氏の討滅を実行に移した。

 元久2(1205)年4月11日、北条時政は日ごろは武蔵国橘樹郡稲毛郷に隠棲していた娘婿の稲毛三郎重成入道を武蔵国から鎌倉に招聘した。畠山重忠一族の族滅を語らったのだろう。重成入道はおそらく重忠の帯する留守所惣検校職ならびに秩父氏家督をちらつかされたのではなかろうか。重成入道は男衾郡に帰郷中の重忠へ宛てて「当時鎌倉中兵起有る」という手紙を届けており、重忠は嫡男・重保をまず鎌倉へ先発させ、6月20日夕刻、重保は鎌倉に到着した。

 6月21日、時政は子の相模守義時式部丞時房に畠山重忠を討つ計画をはじめて明かした。しかし義時は、

「重忠は治承四年以来忠直を専らとするの間、右大将軍その志を覧給うに依って、後胤を護り奉るべきの旨、慇懃の御詞を遺さるる者なり。なかんずく、金吾将軍の御方に候ずと雖も、能員合戦の時、御方に参りその忠を抽んづ。これ併しながら父子の礼(重忠は遠州聟なり)を重んずるが故なり、しかるに今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし、犯否の真偽を糺すの後、その沙汰有るも停滞すべからざらんか」

と大反対。義時と重忠は大変仲が良かった上に義理の兄弟。比企能員を追討した際にも味方に加わったのは、「父子の礼」を重んじた重忠の信義によるものであり、いまさら彼が幕府に対して謀叛を企てることなどありえないことで、もし愚かにも彼を討てば、必ず後悔することになると、計画の中止を訴えた。これに時政は一言も反論することなく、そのまま座を立って幕府を退出した。義時が反対する中でも重忠追討の計画は着実に練り上げられており、時政はもはや中止する意図などなかった。牧ノ方は大岡備前守時親を義時のもとに派遣して、

「重忠謀叛の事すでに発覚す、仍つて君の為世の為、事の由を遠州に漏らし申すの處、今貴殿の申さるるの趣、偏に重忠に相代わり、彼が奸曲を宥められんと欲す、これ継母の阿党を存じ、吾を讒者に処せられんが為か」

と告げさせた。牧ノ方が娘婿・平賀朝雅を将軍につけることを狙い、朝雅と対立関係にあった重忠を謀叛の罪に落とし入れて追討させようという陰謀であることは義時もわかっていたと思われる。しかし、ここに至って、時政や牧ノ方の謀略を留める事は難しいと考えたか、ついにさじを投げてしまった。しかし、その心底では重忠の謀叛はありえないことを信じ、この騒乱が終わったあかつきには、時政と牧ノ方を鎌倉から放逐する決意を固めたのだろう。

 そのような計画が進んでいるとは思ってもいない重忠は、6月19日、武蔵国小衾郡菅谷館を出立。鎌倉街道を南下した。

畠山重保塔
伝・畠山重保供養塔

 6月22日早朝、鎌倉の御家人たちに「謀叛の輩を誅せらるべし」という幕命が下り、御家人たちは武装して由比ガ浜辺へ馬を走らせて行った。畠山邸にもこの命が届けられたため、父・重忠の留守を守っていた畠山六郎重保も取るものも取り合えず、わずかに郎従三人を率いて由比ガ浜へ走った。しかしここで待っていたのは、重保追討の命を受けていた三浦平六兵衛尉義村の手勢であった。重保はここで計られたと察したが、多勢に無勢、義村の家子・佐久間太郎家盛が重保主従を取り囲んだ。重保は奮戦するもあえなく討たれてしまった。時政は、秩父氏と三浦氏の潜在的な遺恨に目をつけ、三浦氏にその追捕を命じたのだろう。

 続けて、鎌倉へ向っている重忠を追討すべしとの命が北条義時に下り、鎌倉の御家人を率いて鎌倉を出立した。先陣は葛西兵衛尉清重、後陣は堺平次兵衛尉常秀・大須賀四郎胤信・国分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤という布陣である。葛西清重は頼朝の信頼が厚かった人物で秩父党の支族であることから、重忠に代わって先陣とされたか。後陣は千葉一族に任される慣わしがあったことから、境平次以下が任されたのだろう。また、この追討軍には河越氏、江戸氏もなを連ねている。

○畠山重忠追討軍

 
大将軍 北条相模守義時(大手) 北条式部丞時房、和田左衛門尉義盛(関戸)
先 陣 葛西兵衛尉清重      
諸 将 足利三郎義氏 小山左衛門尉朝政 三浦兵衛尉義村 三浦九郎胤義
長沼五郎宗政 結城七郎朝光 宇都宮弥三郎頼綱 八田筑後左衛門尉知重
安達藤九郎右衛門尉景盛 中条藤右衛門尉家長 中条苅田平右衛門尉義季 狩野介入道
宇佐美右衛門尉祐茂 波多野小次郎忠綱 松田次郎有経 土屋弥三郎宗光
河越次郎重時 河越三郎重員 江戸太郎忠重 渋川武者所
小野寺太郎秀通 下河辺庄司行平 薗田七郎 大井兵衛次郎実春
品川三郎清実 春日部 潮田 鹿島
小栗 行方 兒玉 横山
金子 村山党    
後 陣 境平次兵衛尉常秀 大須賀四郎胤信 国分五郎胤通 相馬五郎義胤
東平太重胤      

 午の刻、鎌倉勢は武蔵国二俣川(横浜市旭区鶴ヶ峰本町)に着陣。弟の長野三郎重清信濃国へ、畠山六郎重宗陸奥国に行っていたため軍勢に加わっておらず、軽装の旅路であった。従う者は次男の畠山小次郎重秀本田次郎近常榛澤六郎成清の二将以下百三十六騎で、鶴ヶ峰の麓の駅に着陣した。重忠はここで大軍が前方に立ちはだかっていることに気がつき、不審に思ったことだろう。しかし、報告で重保が今朝鎌倉で誅殺されたこと、前面の大軍が自分たちを追討するために出張ってきた鎌倉勢であることを知る。近常と成清は、

二俣川古戦場
二俣川古戦場

「聞く如きは、討手幾千万騎を知らず、吾衆更に件の威勢に敵し難し、早く本所に退き帰り、討手を相待ち合戦を遂ぐべし」

と主張した。しかし重忠は、

「その儀然るべからず、家を忘れ親を忘るは将軍の本意なり、随ひて重保誅せらるの後は本所を願ふこと能わず、去る正治の比、景時一宮館を辞し、途中に於いて誅に伏す、暫時の命を惜しむに似たり、かつ又、兼ねて陰謀の企て有るに似たり、賢察を恥ずべきか、尤も後車の誡めを存ずべし」

と、もはや覚悟を決めていた。

六ツ塚
二俣川古戦場(六ツ塚)

 しばらくののち、鎌倉勢は高名の重忠を討って誉れを後代に伝えるべく、各々先陣を駆けた。安達藤九郎右衛門尉景盛もそのうちの一人だが、彼は重忠とは弓馬を通じて親しい友人であり、日ごろの旧交を感じて、自ら先頭を進んで突撃してきた。重忠もその意を感じ、

「この金吾は弓馬放遊の旧友なり、万人を抜んでて一陣に趣く、何ぞこれを感ぜざらんや」

と、重秀に対して安達勢に攻めこむよう下知した。一方、安達景盛勢は野田与一、加治次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与籐次等の主従七騎での先陣であったが、重秀との合戦で加治次郎らの家子および多くの郎従が討たれている。

六ツ塚
重忠麾下六騎の塚(六ツ塚)

 無勢の重忠勢であったが、さすがに歴戦の勇士であった。その鋒撃は多勢の鎌倉勢を物ともせずに防いでいた。おそらく重忠は鶴ヶ峰の高台に布陣して防いでいたのだろう。数十倍の兵力を持つ鎌倉勢と約四時間に渡る合戦を繰り広げたが、午後五時頃、これも弓馬の親友・愛甲三郎季隆の放った矢が重忠に命中。重忠は四十二歳の生涯を閉じた。

重忠首塚
畠山重忠首塚

 季隆はすぐさま重忠に走り寄った。そのとき、おそらく重忠はまだ息があったと思われるが、自分を射た人物が親友の季隆であった事を知ったとすれば彼にとっては幸せだったのかもしれない。重忠の首は季隆によって義時のもとに運ばれたが、その首を見た義時はこの亡き友人との思い出に涙にくれた。また、次男の小次郎重秀も二十三歳の若さで自刃を遂げた。

 6月23日午後二時、義時は鎌倉に帰参した。時政はさっそく義時に戦場の様子を聞いてきたが、義時は、

「重忠弟、親類、大略以て他所に在り、戦場に相従うの者、僅かに百余輩なり、然れば謀反を企つる事すでに虚誕たり、若しくは讒訴に依って誅戮に逢うか、太だ以て不便なり、斬首を陣頭に持ち来る、これを見て年来合眼の昵みを忘れず、悲涙禁じ難し」

と、讒言者の平賀朝雅と牧の方を非難し、追討を実行させた父・時政にも軽蔑の視線を送ったことだろう。時政も何も言うことができなかった。

●重忠讒言者の顛末

 義時は重忠謀叛の偽罪をでっち上げ、讒言した者を許さなかった。幕政の停滞にも繋がるこの讒訴事件は、非常に峻烈な断罪となった。

 義時は時政との対面ののち幕府を辞し、その足で三浦義村邸を訪れたと思われる。重忠追討の原因をつくった一人・稲毛三郎重成入道を討ち取るよう義村に下知したと推測され、義村は午後六時過ぎ、経師谷に呼び出した重成の弟・榛谷四郎重朝およびその子・太郎重季次郎季重を謀殺。また、稲毛重成入道は義村が派遣したと思われる三浦一族・大河戸三郎によって討ち取られた。重成の子・小沢次郎重政宇佐美与一祐村に討たれている。

 7月8日、重忠与党の所領が収公され、勲功の賞に宛てられた。幼少の将軍に代わって尼御台の裁量で行なわれているが、相馬五郎義胤はこの騒乱の恩賞として陸奥国高城保地頭職を受けており、もともとは重忠の所領だったのかもしれない。義時と尼御台は御家人らに対しては、重忠追討が幕命であった以上、勲功のあった者へは恩賞を発給せざるを得なかったのだろう。

 閏7月19日、時政邸にいた将軍・実朝の殺害計画があることが発覚。尼御台は長沼五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、天野六郎政景を時政邸に遣わし、有無を言わさず将軍・実朝を保護して義時邸に移した。さらに時政が集めていた武士も義時邸の将軍家守護のためとして引き取り、時政はもはや手も足も出ない状況に追い詰められた。

 この日の午前二時ごろ、時政はにわかに剃髪した。六十八歳。義時や尼御台の激しい非難があったものと推測される。その翌日、時政入道は鎌倉を追放され伊豆北条郡へ移っていった。さらに義時は大江広元入道覚阿安達右衛門尉景盛を屋敷に呼んで評定を行い、京都守護職・平賀朝雅の誅殺を評決。ただちに朝雅追討の使者を京都に発した。朝雅は重忠の事をたびたび讒言していた張本人である。さらに彼自身頼朝の猶子であり、実朝を殺害したのち将軍につくという陰謀も発覚しており、そうした罪状も誅殺に値するとされたのだろう。

 閏7月25日夜、朝雅追討の下知状を持った使者が入京。在京の御家人に朝雅追討を命じた。翌26日、朝雅は仙洞御所に伺候していたが、囲碁を打っていた際に小舎人童が走り来て別室に朝雅を招くと、鎌倉から朝雅追討の命が下されたことを知らされた。朝雅は驚くことなくふたたび囲碁の会に戻り、囲碁を打ち終わったのちに、後鳥羽上皇に「関東より誅罰の専使を差し上さる、遁避するに處無し、早く身の暇を給」わんことを上奏して御所を退出。急ぎ六角東洞院の宿所へ馳せ戻ったが、鎌倉の命を受けた五条判官有範後藤左衛門尉基清安達源三左衛門尉親長佐々木左衛門尉広綱、佐々木弥太郎高重ら在京の御家人が六角東洞院に攻め寄せてきた。朝雅はしばらく防戦していたが逃亡。金持六郎広親佐々木三郎兵衛尉盛綱らが後を追い続け、山内刑部大夫経俊の六男・山内持寿丸(のち山内六郎通基)に射殺された。8月5日、牧の方の親族、大岡備前守時親も出家を遂げた。

 北条時政―+―北条義時――北条泰時―+―北条時氏
(遠江守) |(相模守) (武蔵守) |(修理亮)
      |            |
      +―時子         +―娘
      | ∥            ∥
      | ∥――――――――――――足利義氏
      | ∥           (武蔵守)
      | 足利義兼――足利義純
      |(上総介) (太郎)
      |       ∥――――――畠山泰国
      +―――――――娘     (上総介)
              ∥
              ∥――――――畠山重保
             畠山重忠   (六郎)
            (次郎)

 時政らを追放したのち、尼御台政子、北条義時主導の政治体制が築かれていくが、義時嫡流の得宗家が専制政治を行なうのはまだのちのこと。

 承元4(1210)年5月14日、「故畠山次郎重忠後家」の所領については、そのまま安堵されることが認められているが、この「後家」については、北条義時の妹に当たる女性か。彼女はのちに足利義兼の庶子・足利義純に再嫁し、畠山氏の名跡を再興している。義純の子孫は「畠山」を称し、室町幕府の三管領の一家として繁栄。江戸時代には高家に列せられた。


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