平良文

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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平良文(886?-952?)

生没年 仁和2(886)年3月18日?~天暦6(952)年12月18日?
別名 経繁(『下総権介平朝臣経繁寄進状』)
上総介平高望
藤原範世娘(伝)
官職(官人) 鎮守府将軍

 父は上総介平高望。母は藤原範世女と伝わる。通称は村岡五郎

 仁和2(886)年3月18日に京都で生まれたとされるが不明。千葉氏上総氏、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏らの祖といわれる。

桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―+―平国香――――平貞盛
                  |(常陸大掾) (鎮守府将軍)
                  |
                  +―平良持――――平将門
                  |(鎮守府将軍)(小次郎)
                  |
                  +―平良兼――――平公雅
                  |(下総介)  (武蔵守)
                  |
                  +―平良文――――平忠頼
                  |(村岡五郎) (陸奥介)
                  |
                  +―平良正
                   (水守六郎)

 父・平高望『神皇正統録』によれば、寛平2(890)年5月12日に「平朝臣」姓を賜り、昌泰元(898)年4月に上総介に任じられたという。これは、寛平元(889)年5月13日に平朝臣姓を賜った「賜平朝臣姓者五人」(『日本紀略』:『国史大系』所収)のうちの一人ということとなるが、良文には兄に当たる国香、良持、良兼らは王号を称していないことから、国香らも父・高望王の賜姓以降の誕生となる。ただし、兄の国香や良兼、良持らには承平5(935)年当時、すでに成人して任官している男子(右馬允貞盛、瀧口将門、公雅、公連ら)がいることから、父・平高望の賜姓が寛平2(890)年であるとすると、世代的に矛盾が生じる。実際は、高望はこれよりもかなり以前、「平朝臣姓」下賜がとくに集中している貞観年中(859~877)の賜姓の可能性が高いだろう。

 良文武蔵国大里郡村岡郷(熊谷市村岡)を本拠とし、村岡五郎を称したという。「村岡」の名字地はさきの相模国高座郡村岡郷(藤沢市村岡東)ともされるが、『今昔物語集』の中で、良文と抗争している箕田宛(源宛)武蔵国足立郡箕田郷(鴻巣市箕田)を本拠としていると思われること(こちら参照)から、良文の本拠は武蔵国村岡であったろうと推測される。

 また、平安時代末期成立の『掌中歴』『懐中歴』をベースとする『二中歴』には「武者」の項に「村岡五郎吉文」の名がみられる。

●『二中歴』より


○武者 田村綿麿 苅田貞兼 六監利仁 貞盛秀郷 貞時吉文 中橘維時 致頼維時 維叙満仲 満正頼光 頼親保昌 頼信維持 忠依忠光 公正公連 文脩千常 致経頼義 義家
説云 大納言大将田村麿 中納言大将綿麿 苅田丸三位 中藤監貞兼 六藤監 将軍利仁 平貞盛字平太 藤原秀郷 胆沢平二貞時 村岡五郎吉文 小矢中橘太 常陸守維衡 平五大夫致頼 維時直方父 維叙貞叙父 多田新発満仲 満正頼光頼親 大和守藤保昌 頼信 余五将軍維持 陸奥介忠依 駿河介忠光忠依弟 武蔵守公正致頼父 公連公正弟 文脩将軍 源藤介千常文脩父 致経右衛門尉致頼子 頼国 伊予入道頼義頼信子 八幡太郎義家頼義子
○勢人 平少弐 文脩将軍

『二中歴』「武者(説云)」項目の分析

人物名 氏名 経歴や官途
大納言大将田村麿                             坂上田村麿 征東副使(のち征夷副使)、陸奥出羽按察使、陸奥守、鎮守将軍、征夷大将軍。
中納言大将綿麿 文屋綿麿 陸奥出羽按察使、征夷将軍。
苅田丸三位 坂上苅田麿 陸奥鎮守将軍。
中藤監貞兼 藤原貞兼? 経歴等不明。
六藤監 経歴等不明。「六」は「陸奥」に通じる。右近将監・鎮守府将軍藤原頼行?
将軍利仁 藤原利仁 鎮守府将軍。
平貞盛字平太 平貞盛 陸奥守、鎮守府将軍。
藤原秀郷 藤原秀郷 鎮守府将軍。
胆沢平二貞時 平貞時? 「膽澤」は陸奥国胆沢郡か。
村岡五郎吉文 平良文 鎮守府将軍と伝わる。
小矢中橘太 経歴等不明。
常陸守維衡 平維衡 陸奥守平貞盛の孫(養子)。道長に仕えた四天王とされる。
平五大夫致頼 平致頼 武蔵守平公雅の子。伊勢国に勢力。伊勢国で平維衡と衝突し流刑。
維時直方父 平維時 陸奥守平貞盛の孫(養子)。上総介。
維叙貞叙父 平維叙 陸奥守平貞盛の子。陸奥守。
多田新発満仲 源満仲 源経基の子。鎮守府将軍。
満正 源満政 源経基の子。鎮守府将軍。
頼光 源頼光 源満仲の子。道長に仕えた四天王とされる。
頼親 源頼親 源満仲の子。
大和守藤保昌 藤原保昌 道長に仕えた四天王とされる。
頼信 源頼信 道長に仕えた四天王とされる。
余五将軍維持 平維茂 陸奥守平貞盛の甥(養子)。鎮守府将軍。
陸奥介忠依 平忠頼 鎮守府将軍平良文の子か。陸奥介。
駿河介忠光忠依弟 平忠光 鎮守府将軍平良文の子か。駿河介。平繁盛と敵対する。
武蔵守公正致頼父 平公雅 下総介平良兼の子。
公連公正弟 平公連 下総介平良兼の子。
文脩将軍 藤原文脩 藤原千常の子。鎮守府将軍。
源藤介千常文脩父 藤原千常 藤原秀郷の子。鎮守府将軍。
致経右衛門尉致頼子 平致経 平致頼の子。
頼国 源頼国 源頼光の子。
伊予入道頼義頼信子 源頼義 陸奥守、鎮守府将軍。
八幡太郎義家頼義子 源義家 陸奥守、鎮守府将軍。

 良文自身の具体的な活躍は『今昔物語集』にのみ見られ、そのほかの事歴は不明であるが、天慶2(939)年4月17日、良文は鎮守府将軍に任じられ、乱を鎮圧して鎮守府(胆沢城)にとどまったという。なお、天慶2(939)年4月17日に出羽国の叛乱が朝廷に報告されている(『貞信公記抄』)。この合戦では秋田城司(源嘉生朝臣)と出羽俘囚がぶつかり、源嘉生が敗れている。続いて5月6日着の報告によれば、暴徒は秋田郡に乱入して官舎に納めてあった稲を強奪。百姓家に放火する暴挙を働いた。朝廷は「陸奥ノ守」にも兵を出すことを命じている(『貞信公記抄』)

 ちょうどこの天慶2(939)年は関東で良文甥の平将門常陸国府(石岡市)を攻めて「叛乱」を起こした年でもあった。この乱のもともとのきっかけは、承平5(935)年2月、平将門前常陸大掾源護の子、源扶、源隆、源繁が争って源氏方が討たれたことに始まっているが、この争いに源護の女婿・常陸大掾平国香(良文兄)や水守六郎良正(良文弟)が源氏方として加わり、さらに下総介平良兼(良文兄)と将門との間の「女論」も含めて一族間の泥沼の戦いとなってしまう。なお将門は良兼と「舅甥」(『将門記』)の間柄であり、将門は伯父良兼の女婿であった可能性が高い。

 この乱は将門が常陸国府を襲撃したことで、朝廷をも巻き込む関東最大の反乱に発展することとなる。朝廷は参議藤原忠文征東大将軍に補任して下向させるが、その到着前に下野押領使藤原秀郷常陸大掾平貞盛(国香嫡子)が下総国猿島郡で将門と合戦におよび、その首を取った。一説には、良文は将門と同盟関係にあり、息子の忠頼たちをひそかに将門に加担させていたともされるが、『将門記』にも記載はなく実際に良文と将門に接点があったかは不明である。

●藤原秀郷系譜(『尊卑分脈』)

⇒藤原鎌足―不比等―房前―魚名―藤成―――豊沢―――+―村雄―――+―秀郷――――+―千晴
(大職冠)          (伊勢守)(下野権守)|(下野大掾)|(鎮守府将軍)|(鎮守府将軍)
                          |      |       |
                          +―秋村   +―宗郷    +―千春
                          |      |       |
                          +―嗣村   +―高郷    +―千国
                                 |       |
                                 +―永郷    +―千種
                                 |       |
                                 +―興郷    +―千常
                                 |
                                 +―友郷
                                 |
                                 +―時郷
                                 |
                                 +―春郷

 天慶3(940)年5月、良文は関東へ帰国し、その後に下総・上総・常陸の三国の介に任じられ、下総国相馬郡を賜ったとされるが信憑性はないだろう。ただ、久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』の中で、千葉介常胤相馬郡を「右当郡者、是元平良文朝臣所領」としていることから、良文が下総国相馬郡を領していたことは間違いないだろう。

 なお、叛乱前の将門が父・鎮守府将軍良持から伝領した私領はその活動場所を見ると下総国豊田郡内、猿島郡内であったとみられ、相馬郡と将門は接点が見られない。現実的に考えれば、良文が相馬郡を領したのは将門の遺領を継承したわけではなく、もともと良文が父の平高望から譲られた私領であろう。しかし、良文と将門は「伝承上」では非常に密接な関係にあったとされる。そして、それらはいずれも妙見説話に端を発するものとなる。

■伝承上の良文

現在の染谷川
現在の染谷川(左は谷津田)

 伝承によれば、良文四歳のとき、父・平高望「上総介」に任じられて関東へ下ったが、良文は母とともに京都へ留まり、京都で育ったという。高望と母は京都においてともに妙見菩薩を深く信仰し、千葉氏への妙見信仰につながったとされる。

 また、良文は優れた風貌の勇将として知られ、延長元(923)年、醍醐天皇良文に対して「関東の賊を討伐せよ」との勅命を下し、良文は相模国高座郡村岡郷(藤沢市村岡)へ下り、そこを拠点に相模国の盗賊・野盗を滅ぼしたという。

 承平元(931)年、将門・良文と平国香(良文の兄)が上野国府付近の上野国花園村(高崎市群馬町)の染谷川で戦ったという(染谷川の戦い)。結果として将門・良文は敗れ、わずか七騎で逃れたところを妙見菩薩が現れ、追撃してくる国香勢に矢の雨を降らせて追い払ったという逸話がある(『妙見縁起絵巻』)。この「染谷川」は現在では川幅わずか2mほどの小川であり、この戦いも将門と国香の常陸国蚕飼川の戦いがベースとなったものという。「七騎」で逃れる逸話は『陸奥話記』にも見られるものだが、妙見と北斗七星をここに掛けて採用された逸話と考えられよう。

良文貝塚傍の豊玉姫神社
良文貝塚傍の豊玉姫神社

 将門亡きあと良文は「氏長者」になったとされるが(『千葉大系図』)平氏の「氏長者」は存在していない。おそらく源氏長者に包括されていたと思われるため(皇別氏族は橘氏を除いて源氏長者が諸権利を有した)、あくまで伝承である。

 良文の妹は常陸介藤原維幾の妻となって、藤原為憲(遠江介)の母になったという。為憲の子孫が伊豆や駿河に繁栄した伊東氏・工藤氏・狩野氏・吉川氏ら伊豆駿河藤原氏であり、伊東祐親・工藤祐経・狩野親光らも板東平氏の血を引いていることになる。なお伊東氏の末裔で江戸時代の飫肥藩主・伊東家は、月星を定紋として用いている。

 良文は晩年に下総国海上郡大友(東庄町神代)に移り住み、さらに下総国阿玉郡(香取市小見川)へ移って、天暦6(952)年12月18日に没したと伝えられているが、裏付けはない。六十七歳で没したとされる。法名は夕顔観音大士。現在、阿玉には「良文貝塚」という貝塚が残されていて、周辺の方々は風習として夕顔(かんぴょう)を食べないそうである。

◎平氏・工藤氏系図◎

工藤氏系図

●『千葉大系図』良文の項●

「仁和二年丙午三月十八日誕生。母夢日輪入口中成懐孕。此母亦、封三五柱兎、有感生。当家為武臣祖。醍醐天皇延長元年癸未正月、依勅下向東州、討逆賊、顕龍驤鷹揚誉。同九年辛卯、與同族有相戦。此時有妙見擁護。故裔孫世々尊崇、以為鎮守神也。天慶二年巳犬、任陸奥守、補鎮守府将軍。同三年康子五月、賜将門舊領、任下総上総常陸介、子孫繁栄于東州。所謂千葉上総三浦土肥畠山大庭梶原長尾等八平氏也。天暦六年壬子十二月十八日卒。年六十七。言于忠頼、子孫応割見夕顔。即吾正體也。言畢上天。故不知其歿處。彼夕顔変現観音小像。後裔崇号夕顔観音大士。裔孫断食夕顔矣」

●千葉氏の妙見信仰●

妙見寺
三鈷山妙見寺(群馬県)

 妙見神はもともと大陸から伝わってきた神で、「妙見」「北辰」=「北極星」=「尊星王」を神格化したもので、「北斗七星」=「北斗神君(道教で延命を司る)」がともに人の生死に関わる神である事からか、後に同一化され、ともに「妙見信仰」の対象となった。

 天智天皇2(663)年、百済・倭の連合軍は朝鮮半島の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、百済は滅亡。日本には次々に百済から亡命を求めた人々が押し寄せた。朝廷は天智天皇5(666)年冬に「百済男女二千余人、凡不択緇素」を三年「賜官食」って東国に移して以降(『日本書紀』天智天皇五年是冬条)、彼ら渡来系氏族による馬術、養蚕・被服(織裳)技術、妙見信仰など様々な技術や文化が東国に齎されていったと考えられる。

 渡来人が武蔵国へ置かれた公的記録は天武天皇13(684)年5月14日の「百済僧尼及俗人、男女并廿三人、皆安置于武蔵国」(『日本書紀』天武天皇十三年五月十四日条)を初見とするが、持統天皇元(687)年3月22日には新羅人を下毛野国、4月10日には新羅僧尼と男女合わせて二十二人を武蔵国に移住させている(『日本書紀』持統天皇元年三月二十二日条、四月十日条)。その後も朝廷の施策に拠って幾度にわたり高麗人、百済人、新羅人が武蔵国、下野国などに移され、和銅4(711)年3月6日には上野国「甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等六郷」を独立させた「多胡郡」が置かれ、霊亀2(716)年5月16日に「駿河、甲斐、相摸、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人」が武蔵国の西部山岳地域に移されて「高麗郡」が置かれた(『続日本紀』霊亀二年五月十六日条)。さらに天平宝字2(758)年8月24日には新羅人の僧尼や男女を「武蔵国閑地」へ移して「新羅郡」を置いた。

■7~8世紀の東国移住の渡来人

天智天皇5(666)年是冬 百済男女二千余人居于東国、凡不択緇素、起癸亥年至于三歳並賜官食 『日本書紀』
天武天皇13(684)年5月14日 化来百済僧尼及俗人、男女并廿三人、皆安置于武蔵国 『日本書紀』
持統天皇元(687)年3月22日 以投化新羅人十四人、居于下毛野国、賦田受稟使安生業 『日本書紀』
持統天皇元(687)年4月10日 筑紫大宰献投化新羅僧尼及百姓男女廿二人、居于武蔵国、賦田受稟使安生業 『日本書紀』
持統天皇3(689)年4月8日 以投化新羅人居于下毛野 『日本書紀』
持統天皇4(690)年2月25日 以歸化新羅韓奈末許満等十二人、居于武蔵国 『日本書紀』
持統天皇4(690)年8月11日 以歸化新羅人等居于下毛野国 『日本書紀』
慶雲5(708)年正月11日 武蔵国秩父郡献和銅 『続日本紀』
和銅4(711)年3月6日 上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等六郷、別置多胡郡 『続日本紀』
霊亀2(716)年5月16日 駿河、甲斐、相摸、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡 『続日本紀』
天平5(733)年6月2日 武蔵国埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人、依請為金姓 『続日本紀』
天平宝字2(758)年8月24日 帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是始置新羅郡 『続日本紀』
天平宝字4(760)年4月28日 置帰化新羅一百卅一人、於武蔵国 『続日本紀』
天平宝字5(761)年正月9日 美濃武蔵二国少年、毎国廿人習新羅語、為征新羅也 『続日本紀』
宝亀8(777)年8月15日 上野国群馬郡戸五十烟、美作国勝田郡五十烟、妙見寺 『続日本紀』
宝亀10(779)年3月17日 従三位高麗朝臣福信、賜姓高倉朝臣 『続日本紀』
宝亀11(780)年5月11日 武蔵国新羅郡人沙良真熊等二人、賜姓廣岡造 『続日本紀』
延暦8(789)年10月17日 散位従三位高倉朝臣福信薨、福信武蔵国高麗郡人也、本姓背奈、其祖福徳属唐将李勣抜平壌城、来帰国家、居武蔵焉、福信即福徳之孫也、小年隨伯父背奈行文入都…神護元年授従三位、拝造宮卿兼歴武蔵近江守、宝亀十年上書言、臣自投聖化年歳已深、但雖新姓之栄、朝臣過分、而旧俗之号高麗未除、伏乞、改高麗以為高倉、詔許之、天鷹元年、遷弾正尹兼武蔵守、延暦四年上表乞身以散位帰第焉、薨時八十一 『続日本紀』
貞観12(870)年9月15日 配置新羅人五人於武蔵国、至是、国司言、其中二人逃去、不知在所、仍太政官下符、左右京五畿七道諸国捜索 『日本三代実録』
貞観15(873)年6月21日 武蔵国司言、新羅人金連、安長、清信等三人逃、不知在所、令京畿七道諸国捜捕金連等、貞観十二年自大宰府所遷配也 『日本三代実録』

 こうした渡来系氏族は上記のようにおもに武蔵国に集住していたが、七世紀後半にはすでに入間川を遡って秩父盆地に入部しており、ふもとの上野国南部(奥平山地の南側)にも渡来系氏族の集住が見られた。彼らが秩父の機織技能を有した人々が下りてきたのか、下総国足利や桐生周辺の織裳氏族の移住かは不明ながら、朝廷はこの上野国南部に甘良(加羅)郡を置き、織裳郷や韓級郷などが形成されている。その後、慶雲5(708)年正月11日に「武蔵国秩父郡献和銅」(『続日本紀』和銅元年正月十一日条)られているが、この銅を採掘したのは、採掘技術を有した渡来系氏族であろう。和銅の発掘によるものか、武蔵国には渡来系氏族が集められ、高麗郡、新羅郡など諸郡が成立し、さらに先述の甘良郡などを分けて、多胡郡を置いている。

 秩父については、銅や鉄などの鉱物資源が豊富であり、秩父地域の鉄銅などの鉱物資源の採掘技術を持った渡来系氏族を含む氏族が、擬制同族集団「丹」党(「丹」とは赤い鉱物を指す)に発展したと思われる。上野国榛名山麓には千葉氏と妙見の説話が伝えられていて、青木祐子氏による『榛名山東南麓の千葉氏伝承』(『学習院大学大学院日本語日本文学』第11号2015)に詳しい。その縁起が伝わる「船尾山柳沢寺」の山号は「ふにゅうさん」であるが、これは「丹生」を「にゅう」と読むところから、「舟」「丹」の合一による「舟生」から「ふにゅう」となった可能性も考えられる。秩父地方からの丹党由来の妙見説話の伝播があったのかもしれない。

 千葉氏における妙見信仰は、上野国群馬郡花園村高崎市引間町)の七星山息災寺(三鋸山妙見寺)がその発祥とされている。群馬郡には奈良時代にはすでに妙見信仰が根付いていたと思われ、秩父盆地から児玉郡内神流川流域の阿久原を経て麓に下り、烏川や利根川を通じて上野国中心域へと伝播したのではなかろうか。宝亀8(777)年8月15日には「妙見寺(河内国の大寺)」「上野国群馬郡」「美作国勝田郡」から封戸が施入されているが、これは群馬郡も勝田郡もともに渡来系氏族の妙見信仰が根付いていたことが朝廷に把握されていたがゆえの措置ではなかろうか。そして、河内国の妙見寺を封主として直接的な関わりを持った上野国群馬郡には妙見寺由来の文化が齎されて七星山息災寺が建立され、妙見信仰の拠点となったのではなかろうか。

 現在、妙見神を祀る武蔵国の大社・秩父神社(知々夫神社)は、崇神天皇の御代に、八意思兼命の末裔・知々夫彦命「知々夫国造」とされたとき、「大神」を祀ったことに始まるという、古い伝承を抱く神社である(『国造本紀』)。もちろん崇神天皇や八意思兼命は実在せず、知々夫彦命も伝説上の人物に過ぎないが、古くから存在していた在地の古族であったことは間違いなく、知々夫国造家はこの知々夫神社を祖神として拝した。知々夫神社の妙見信仰は、鎌倉時代の再建後に合祀されたもので古来のものではないが、関東に移住した朝鮮半島の人々によってもたらされたものであろう。

 千葉氏はこの知々夫国造の流れが下総国へ移り住んだ者の末裔という説も提唱されているが、秩父と千葉氏を結ぶ妙見信仰が千葉氏の中に取り入れられたのは千葉介胤綱、千葉介時胤代と推定される上に、千葉氏と同流の上総権介平氏に妙見信仰がないこと、千葉氏の妙見伝承の中に秩父からの伝来説話はないことなど、知々夫国造家と千葉氏との間に信仰上の接点はなく、知々夫国造家が千葉氏の直接的な祖となることはない。

 千葉氏へ伝わった妙見信仰は、常胤の妻となった秩父太郎大夫重弘の娘が齎した可能性も考えられるが、『千葉妙見大縁起絵巻』の平良文と平将門が共闘して平国香と戦ったという染谷川の戦いの伝承や、青木祐子氏の研究で詳述される西上野の榛名山麓に見られる千葉氏と将門に関わる伝承(青木祐子氏『榛名山東南麓の千葉氏伝承 : 寺社縁起を中心に』(学習院大学大学院日本語日本文学11 2015)、『上野府中の千葉氏伝承』(群馬歴史民俗第41号)2020、『船尾山柳沢寺と千葉氏伝承(ぐんま地域文化第54号)2020)、常胤子・相馬師常に始まる相馬氏に将門の末裔伝承が色濃く残されていることから、千葉氏の妙見信仰は秩父・上野からの直接的な伝播というよりも、将門と妙見に纏わる伝承が取り入れたものと考えるべきか。

  千葉氏と妙見信仰の具体的な接点がみられるのは、千葉大夫常長の三男・千葉三郎常房(鴨根三郎)の子孫である原太郎常泰の子・如圓「妙見座主」とあり(『神代本千葉系図』)、その子も名は不明ながら「妙見座主」とある。世代で見ると当時の千葉惣領家は千葉介胤綱千葉介時胤代となることから、千葉氏が妙見信仰を取り込んだのは鎌倉初期後半と見るべきだろう福田豊彦氏らによる妙見説話の研究において、宝治合戦を契機として妙見信仰が取り入れられたとされているが(福田豊彦・服部幸造 『源平闘諍録 上・下』 講談社学術文庫2000)、千葉介常胤、上総介常秀、上総権介秀胤が地頭職を有していた薩摩国内および越中国新川郡松倉(魚津市松倉)の椎名氏周辺に妙見信仰が認められず(宝治合戦では、上総権介秀胤が討たれ、越中椎名氏祖とされる良明(三浦氏からの養子という)が松倉へ逃れた伝承が残る)、宝治合戦で上総権介秀胤を討った東胤氏入道素暹が美濃国郡上へ隠棲した際(またはその子・六郎左衛門尉行氏)が郡上へ粟飯原氏を以て妙見菩薩を奉じた伝があることから、福田豊彦氏らの説の通り、宝治合戦がひとつの契機になって可能性は非常に高いと考えられる。

●良文の兄弟について●

 良文の兄弟は諸書によって記述が異なっている。『将門記』や『今昔物語集』など歴史上に登場する人物は、「国香」「良兼」「良持(良将)」「良文」「良正」である。

(1) 『尊卑分脈』…国香(良望)・良兼良将・良繇・良廣・良文・良持・良茂(8人)

(2) 『千葉大系図』…良望(国香)・良将良兼・良繇・良文(5人)

(3) 『松羅館本千葉系図』…良望・良房・良将良兼良文・良生・良繇・良詮・良持・良廣(10人)

(4) 『神代本千葉系図』…国香・良望・良兼良将・良生・良門・良繇・良廣・良文(9人)

(5) 『千学集抜粋』…良望親王・国香良文良将良兼・良生・良門・良繇・良廣・常辰・駿河十郎(11人)

がそれぞれあげられている。しかし、これに書かれている人物がすべて実在の人物だったわけではないだろう。すこし整理をしてみると、

【A】国香について

・「国香」=「良望」とされている本…『尊卑分脈』『千葉大系図』(『松羅館本千葉系図』では「国香」は見えず)
・「国香」×「良望」とされている本…『神代本千葉系図』『千学集抜粋』(『千学集抜粋』の「良望親王」は明らかに誤記)

【B】良兼について

・『神代本千葉系図』『千学集抜粋』に出てくる「良門」は「ヨシカド」と読むと思われる。
・「良兼」→「良廉」(ヨシカド)→「良門」(ヨシカド)…誤記と誤読であろう
                →「良廣」(字体が似ている)…誤記であろう

【C】良持について

・「良望」は「ヨシモチ」…「良持」「良茂」も「ヨシモチ」と読むことができる。
→3人の「ヨシモチ」は同一人物だろう→このうち実在の人物は「良持」。
 ・将門の父としての「良将」は「良持」が実名である。
  ・『神代本千葉系図』では「良望(ヨシモチ)」の子が「将門」と伝わっている。

【D】良正について

・「良正」は高望王の「妾子」である(『将門記』)。
→「良将」「良正」は「ヨシマサ」で同一人物だろう。

【D】良繇について

・「良繇」は系譜にのみ見られる人物。
→「繇」は「シゲ」と読むため、「良茂」と通じる。

→ABCDで整理すると、良望=良茂(良)=良持=良将で、良兼=良廣=良門となり、史実で見ることができる「国香」「良正」を加え、良文の兄弟は「国香・良兼・良持・良文」となるか。

『松羅館本千葉系図』だけに見られる「良詮」は不明。『千学集抜粋』のみに出てくる「常辰(粟飯原文二郎常時)」については、大治元(1126)年9月、「粟飯原文二郎常時」が千葉介常重に命じられて北斗山金剛授寺の神主となったとあり、「粟飯原文二郎」はその後、妙見神にかかわる行事に顔を出す人物となる。

●高望王の子たち(想像)

<1>国香 <2>良兼 <3>良持 <4>良文 <5>良正

(注)『今昔物語』のなかで良文は源宛(嵯峨源氏。箕田宛)とともに武芸の達人とされている。源宛は良文の武勇を疑って反発していた。ある時、些細なことから両者の間で一騎討ちが行われ、はじめ二人は弓の撃ちあいをしたが互角で決着がつかず、互いの力量を認めて戦いは終わり、以降は無二の親友となった(「今昔物語・巻第25の3」)。この「源宛」は摂津源氏源頼光の四天王の一人と謳われる、渡辺綱の実父である。

 宛の領地の箕田郷「埼玉県鴻巣市箕田」「東京都港区三田」「神奈川県川崎市多摩区三田」のいずれかとされているが、下表のように熊谷市村岡鴻巣市箕田が両者の接点の地としてもっとも近い上に、「箕田宛」の名字「箕田」と同じであることから、この地が妥当か。

村岡郷 直線距離 箕田郷
埼玉県熊谷市村岡 約9.6km 埼玉県鴻巣市箕田
約67km 東京都港区三田
神奈川県藤沢市村岡東 約20km 神奈川県川崎市多摩区三田

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