天智天皇

桓武天皇以前

継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平高望
(???-???)
平良文
(???-???)
平経明
(???-???)
平忠常
(975-1031)
平常将
(????-????)
平常長
(????-????)
平常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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天智天皇(626-672)

生没年 推古天皇34(626)年~天智10(671)年)12月3日
在位 天智称制7(668)年正月3日~天智10(671)年12月3日
御諱 葛城
中大兄
舒明天皇(三十五代)
斉明天皇(三十七代)
皇后 倭姫王(異母兄・古人大兄の女)
嬪(子) 蘇我倉山田石川麻呂の娘:遠智娘(大田皇女、鸕野讃良、建皇子)
蘇我倉山田石川麻呂の娘:姪娘(御名部皇女、阿閉皇女)
蘇我赤兄の娘:常陸娘(山辺皇女)
阿倍倉梯麿の娘:橘娘(飛鳥皇女、新田部皇女)
夫人(子) 越道君の娘:伊羅都売(施基皇子)
宮人(子) 忍海造小龍の娘:色夫古娘(大江皇女、川嶋皇子、泉皇女)
伊賀の采女:宅子(伊賀皇子【大友皇子:弘文天皇】)
栗隈首徳萬の娘:黒媛娘(水主皇女)
諡号 天命開別尊
御陵 山科御廟野古墳(京都市山科区御陵上御廟野町52番地)

 三十八代。三十四代舒明天皇(田村王)の皇子。母は皇極天皇(寶王)。妻は倭姫王(異母兄の古人大兄の娘)。諱は葛城王、のち称して中大兄「大化の改新」を主導し、天皇を中心とする中央集権国家の礎を築いた天皇

※当時は天皇の呼称はなく「大王」であるが、大王としての個人呼称は不明であり、天皇、皇位、皇嗣など一般的な表現で記載する。

 推古天皇34(626)年、敏達天皇(沼名倉太玉敷命)の孫王である田村王(のち舒明天皇)の子として誕生した。諱が「葛城」であることから、葛城県に居宮があった可能性があろう。

甘橿丘から見た飛鳥川原宮
飛鳥の里(甘樫丘より)

 推古天皇36(629)年3月、推古天皇(豊御食炊屋比売)が崩じたのち、父の田村王が践祚(舒明天皇)する。このとき葛城王は四歳であった。そして、舒明天皇13(641)年10月9日、舒明天皇が崩御すると、十六歳の「東宮開別皇子」が誄を奉ったとされる(『日本書紀』)。しかしながら、当時権勢を有した蘇我蝦夷大臣の妹を母とする兄・古人大兄を差し置いて葛城王を「東宮」とする考えは諸王・群臣含めて想定しづいこと、「開別」という中大兄の後世の尊称で記述されていること、さらに根本的問題として、この時点で「東宮(という言葉もなかった)」は定まっていないことなどから、この記述は奈良時代以降の付記であることは間違いない。『日本書紀』の記述には、藤原鎌足(中臣鎌子連)、藤原不比等(史)ら藤家の人々を顕彰する藤原氏史観が虚実織り交ぜて語られる部分が多くみられ、この記述もそれに則って挿入されたものであろう

●母・寶王の践祚

 翌舒明天皇14(642)年正月15日、舒明天皇のキサキ(姪)であった寶王が践祚した。皇極天皇(天豊財重日足姫尊)である。

                  伊勢大鹿首小熊――――小熊子郎女
                             ∥
 娶意祁天皇―+―建小広国押楯命――石比売命       ∥――――――――田村王      +―息長足日広額天皇
【継体天皇】 |【宣化天皇】    ∥          ∥       (名糠代比売命)  |【舒明天皇】  ∥
       |          ∥          ∥        ∥        |        ∥
       |          ∥――――――――――沼名倉太玉敷命  ∥――――――――+―中津王    ∥     +―中大兄
       |          ∥         【敏達天皇】 ∥  ∥        |        ∥     |【天智天皇】
       |          ∥          ∥     ∥  ∥        |        ∥     |
       |          ∥          ∥――――――――麻呂古王     +―多良王    ∥―――――+―間人皇女
       |          ∥          ∥     ∥ (押坂彦人大兄)           ∥     |
       |          ∥          ∥     ∥  ∥   ∥             ∥     |
       |          ∥  息長真手王―――比呂比売命 ∥  ∥   ∥――――+―――智奴王  ∥     +―大海人王子
       |          ∥                ∥  ∥   ∥    |     ∥  ∥      【天武天皇】
       |          ∥                ∥  ∥   ∥    |     ∥  ∥ 
       +――――――――――天国押波流岐広庭         ∥  ∥   大俣王  +―桑田王 ∥――宝王
                 【欽明天皇】 ∥          ∥  ∥              ∥ 【皇極天皇】
                  ∥     ∥          ∥  ∥              ∥  ∥
                  ∥     ∥          ∥  ∥――――――――+―山代王 ∥  ∥―――――――漢皇子
                  ∥     ∥          ∥  ∥        |     ∥  ∥
                  ∥     ∥          ∥  ∥        |     ∥  ∥
                  ∥     ∥          ∥――桜井玄王     +―笠縫王 ∥  ∥
                  ∥     ∥          ∥                 ∥  ∥
                  ∥     ∥          ∥                 ∥  ∥
                  ∥     ∥  +―豊御食炊屋比売命                ∥  ∥
                  ∥     ∥  |【推古天皇】                   ∥  ∥
                  ∥     ∥  |                         ∥  ∥
                  ∥     ∥  |                         ∥  ∥
                  ∥     ∥  +―桜井皇子――――――――――――――――――吉備姫王 ∥
                  ∥     ∥  |                            ∥
                  ∥     ∥  |                            ∥
                  ∥――――――――+―橘豊日命―――――■■■■――――――――――――――高向王
                  ∥     ∥   【用明天皇】 
        宗賀之宿祢稲目―+―岐多斯比売 ∥    ∥――――――――厩戸皇子
       (蘇我稲目)   |       ∥    ∥       (聖徳太子)
                |       ∥――――穴穂部間人皇女  ∥
                +――――――小姉君            ∥――――――山背大兄王
                |                     ∥
                |                     ∥
                +―蘇我馬子宿祢―――+――――――――――刀自古郎女
                 (嶋大臣)     |
                           |
                           +―蘇我蝦夷―――――蘇我入鹿
                           |(大臣)     (臣)
                           |
                           +―法提郎女
                             ∥
                             ∥――――――――古人大兄
                             息長足日広額
                            (舒明天皇)
                             ∥
                             ∥――――――――中大兄
                             寶王      (葛城王)
                            (皇極天皇

 キサキ・寶王は血統的に見ると、敏達天皇三世王であり、さらに女性という、本来であれば皇位などまず望むべくもない諸王の一人に過ぎなかった。キサキとはいえ寶王の皇位継承は非常に重大な政治的意図(皇位は寶王でなくてはならなかった)が働いたと考えるほかないだろう。それはどのような理由によるものであったのだろうか。それはおそらく、かつて舒明天皇と皇位を争った山背大兄の存在であろう。

 これまでの皇位継承は兄弟による践祚が優先されており、本来であれば舒明天皇の実弟・中津王多良王(百済王か)、異母弟の智奴王(皇極天皇父)、山代王笠縫王(上記系譜の人物。桑田王は女性王)が皇嗣候補たるべきだが、当時の政治情勢においては後援氏族の存在が不明な彼ら諸王の践祚は考えにくく、事実上、皇嗣候補は蘇我蝦夷大臣の甥である山背大兄と古人大兄で決定付けられていたのであろう。

 しかし、山背大兄と古人大兄両名の践祚には大きな障害があった。まず山背大兄は蝦夷大臣の実甥ではあるものの「上宮王家」として斑鳩を中心に半ば独立した勢力を扶植しつつあり、飛鳥の朝廷にとっては不気味な存在であったことに加えて、すでに皇統が敏達系へと戻された現状(推古天皇で欽明子世代が終わり、子世代の長子・敏達天皇の子世代、つまり押坂彦人大兄系へと皇統が戻った)においては、皇嗣として相応しいものではなかった。

 一方、古人大兄は父は天皇、母は蘇我蝦夷大臣の妹、年齢でも申し分のない人物であったが、彼の践祚は山背大兄との大きな対立が予想され、両者いずれかが即位したとしても、国内には大きな混乱が予想されたのである。おそらく蝦夷大臣と群臣はこの難局を乗り切るために幾度となく協議し、結局、諸卿の記憶も新しい故推古天皇の「先例」を復活させたと思われる。それが、キサキ・寶王を即位させるというものであった。寶王は新宮ができるまでの間、推古天皇の小墾田宮を権宮としたのもその表れであろう。また寶王自身、推古天皇の姪子で蝦夷大臣の従兄の子(『本朝皇胤紹運録』)であったことも、大いに影響した可能性があろう。

                                     蘇我馬子―+―蘇我蝦夷
                                    (大臣)  |(大臣)
         伊勢大鹿首小熊―――――小熊子郎女                |
                     ∥――――――田村王           +―法提郎女
                     ∥      ∥               ∥――――――古人大兄
                     ∥      ∥―――――――――――――――舒明天皇
      +―宣化天皇――石姫     ∥ 広姫   ∥              (田村王)
      |       ∥      ∥ ∥――――押坂彦人大兄          ∥
      |       ∥      ∥ ∥    ∥               ∥
      |       ∥      ∥ ∥    ∥――――――――智奴王    ∥
      |       ∥      ∥ ∥    ∥        ∥      ∥
      |       ∥――――――敏達天皇   大俣王      ∥――――+―皇極天皇
 継体天皇―+―――――――欽明天皇   ∥               ∥    |【小墾田宮】
              ∥      ∥               ∥    |
              ∥――――+―推古天皇            ∥    +―軽王
              ∥    |【小墾田宮】           ∥
              ∥    |                 ∥
 蘇我稲目―――――――+―堅塩媛  +―桜井皇子――――――――――――吉備姫王
(大臣)        |
            +―蘇我馬子―――蘇我蝦夷
             (大臣)   (大臣)

 即位した皇極天皇は、践祚半年後の皇極天皇元(642)年8月1日、雨乞いのために飛鳥川を遡上した南淵邑の「南淵河上」へ行幸し、ここで「跪拜四方、仰天而祈」したところ、大雨が降り五日間にわたって天下を潤したという。人々は「至徳天皇」と讃えたというが、これ以降、天皇の拝殿として利用されたとも考えられる施設が「飛鳥稲淵宮殿跡」と称される史跡であろう。皇極天皇がここに施設を建てた理由は、ここから「田身嶺(多武峰)」を遥拝することができるためであろう。田身嶺の山上には、皇極天皇が重祚後(斉明天皇)に「天宮」と称する「両槻宮」を造営しており、神聖視していたことがうかがえる。皇極天皇は儒教を重んじていたとみられることから、都の東に位置する「田身嶺」を「泰山」に擬して不老不死を願ったものではないだろうか。また、飛鳥稲淵宮はこの多武峰の「明堂」だったとも考えられる。なお、「田身嶺」を崑崙山に見立てる説も有力であるが、崑崙山は都の西方にあるとされ、方位を重視する道教思想においてはやや考えにくいか。

 12月1日、約一年二か月の殯の期間を経て故舒明天皇の葬送が行われた。誄は舒明天皇の皇親が奉ったが、長老格の「大派皇子(舒明天皇叔父)」代として小徳・巨勢臣徳太が誄し、軽皇子(皇極天皇弟)代として小徳・粟田臣細目、蝦夷大臣代として小徳・大伴連馬飼が誄した。蝦夷大臣は父・馬子大臣と同様、皇族に準ずる存在であったことがうかがえる。そして12月14日には天皇の遠縁である息長山田公が「奉誄日嗣」した。舒明天皇の母方の親族とみられる。

 12月21日、故天皇の棺は滑谷岡の仮陵へ埋葬され、同時に舒明天皇の幼少期の宮家のあった息長氏の勢力圏・押坂に本陵の造営が始まったと思われる。また、皇極天皇は故宮から小墾田宮へと居宮を遷した。これは新たな板蓋宮の造営が完了するまでの間の仮宮である。このころ、蝦夷大臣は「己祖廟於葛城高宮」に建てて祀ったという。その際、蝦夷が詠んだという歌には、

野麻騰能 飫斯能毗稜栖鳴 倭柁羅務騰 阿庸比陀豆矩梨 挙始豆矩羅符母
やまとの おしのひろせを わたらむと あよひたつくり こしつくらふも

 とあり、祖廟が建てられた「葛城高宮」は、「おしのひろせ」を渡った先にあった天皇所縁の宮家であったと思われる。「おしのひろせ」とはおそらく「忍海(葛城市忍海)」のことと考えられ、低湿地帯であるその一帯には広大な沼沢地が広がっていたのだろう。その南西二キロほどの河岸段丘上に伝「綏靖天皇葛城高丘宮趾」がある。また、『古事記』においては、白髮大倭根子命(清寧天皇)崩御後、継嗣が絶えたことから、履中天皇女の忍海郎女(飯豊王)が祭祀を司ることとなったが、その飯豊王が居住した宮を「葛城忍海之高木角刺宮」といった。

 「葛城高宮」のあった葛城県は、推古天皇32(624)年10月1日に蘇我馬子大臣が推古天皇に求めて断られている過去があった。このとき馬子大臣は「葛城県者、元臣之本居也、故因其県為姓名、是以、冀之常得其県以、欲為臣之封県」と上奏したとする。葛城県が蘇我氏にとって「因其県為姓名」という特別な地であったことがわかるが、推古天皇は「今朕則自蘇何出之、大臣亦為朕舅也」と、自らも蘇我氏の血縁者であることを指摘し、ここで伯父・馬子大臣の申出を聴せば、「豈独朕不賢耶、大臣亦不忠、是後葉之悪名」として聴さなかったという。葛城県は天皇家が掌握していた地であって、屯倉も置かれていたのだろう。

 蘇我氏は葛城地方の有力豪族の集合体である葛城氏の一流であり、用明・崇峻・推古の三代に亘る蘇我氏の血を強く受けた天皇の存在もあり、もともと葛城の地にはすでに何らかの天皇家に纏わる宮が存在し、蝦夷大臣はその宮に祖廟(祭神は武内宿禰または、欽明天皇の代に葛城氏族から台頭した蘇我稲目宿禰であろう)を追築したのかもしれない。そしてこれは葛城県への造営ということもあり、おそらく故推古天皇の発願または許しを得ての造営と考えられる。そしてこの廟所での出来事が、蘇我氏糾弾の記述につながるのだが、蝦夷大臣はここで大陸で皇帝にのみ許された「八佾之舞」を舞わせたとする。しかしこれは儒教を背景とした『論語』の「季氏、八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也」という説話とほぼ軌を一にすることから、この説話をもとに創作された可能性が高いだろう。

●蝦夷大臣の大陵造営

 続いて蝦夷大臣と入鹿臣は「挙国之民幷百八十部曲」を徴発して、「今来」の地に蝦夷大臣と入鹿臣の「双墓」を作らせたという。この墳丘墓は蝦夷のものを「大陵」、入鹿のものを「小陵」と称したという。「陵」とは王家の墓所を意味することから、これも僭越を誹謗する記述となる。さらに蝦夷大臣は「更悉聚上宮乳部之民、役使塋垗所」としたという。この「上宮乳部之民」は故厩戸王の壬生部の人々であって、厩戸王の「大娘姫王」がこれに憤慨し「蘇我臣、専擅国政、多行無礼、天無二日、国無二王、何由任意悉役封民」と罵ったという。これも蘇我氏による越権と、のちの「入鹿臣による上宮王家滅亡」を匂わせるためにつくられた記述であろう。

 しかし、蘇我稲目大臣以来、天皇外戚という存在となり、稲目大臣・馬子大臣が卓越した政治的手腕を発揮して以来、蘇我宗家は群臣の枠外に置かれ、皇族に準じる地位を保持した。その血統及び権勢とも絡み、当時においては、蘇我宗家の墳墓を「陵」と称した可能性も否定できないだろう。

 甘橿丘の南部を切り離した丘上で近年発掘された「小山田古墳」には、「結晶片岩」「室生安山岩」による積石がみられるが、「室生安山岩」の積石が蘇我氏系の墳墓に用いられる傾向にあることから、この小山田古墳も蘇我氏が関わった墳墓であったことが推測できる。なお、この積石が舒明天皇陵(押坂内陵)にも用いられていることから、小山田古墳が舒明天皇の初葬陵である「滑谷岡陵」という説も提唱されているが、小山田古墳は甘橿丘に接する地理的不自然さに加え、仮陵としてはあまりにも巨大で精緻なつくりであることから「滑谷岡陵」とは認めづらい。さらに小山田古墳に西接する丘上には、小山田古墳と方位を一にする方墳・菖蒲池古墳があり、小山田古墳との関連性がうかがえ、「双墓」にふさわしい。おそらく「大陵」「小陵」は小山田古墳と菖蒲池古墳である可能性が高く、「双墓」は実際に造営されたのであろう。

 同時期に造営された舒明天皇の押坂陵にも「室生安山岩」による積石がみられるため、押坂陵造営も蝦夷大臣が関わった国家的なプロジェクトであることがわかる。「挙国之民幷百八十部曲」を徴発した記事は、押坂陵造営のために徴発された部民らが「大陵」「小陵」の造営にも加わっていた可能性を指摘できよう。

●舒明天皇の押坂陵造営と道教

 皇極天皇2(643)年4月28日、皇極天皇は「権宮(小墾田宮)」から「飛鳥板蓋新宮」へと遷った。そして9月6日、故舒明天皇を「滑谷岡」陵から「押坂陵」へと遷葬する。押坂は皇祖・押坂彦人が母方の息長氏のもとでの初期居宮の地と思われ、押坂が選ばれたのはそのためであろう。舒明天皇の諡である「息長足日広額天皇」からも息長氏との由緒を強く想像させる。

 この本陵は押坂の地主神・生根神を祀る宮山の南に突き出た舌状台地を切り離して造営された初の「八角陵(上八角下方墳)」であり、「周易」の思想に基づくものであろう。「周易」は「儒」の経の一つであるが、儒教は舒明天皇4(632)年8月に唐使・高表仁とともに帰国した「僧旻(推古朝に遣隋使の一員として渡隋していた)」や、舒明天皇12(640)年10月11日に「新羅朝貢之使」とともに帰国した「大唐学問僧清安、学生高向漢人玄理」らによって詳細が伝えられたと考えられる。彼らはいずれも推古天皇16(608)年9月11日に遣隋使の一行に加えられた人々であり、数十年にわたって唐朝に仕え、その先進の文化を身につけていた。とくに「僧旻(日文)」は周易や祥瑞の思想に詳しく、蘇我入鹿臣や中臣鎌子連ほか「群公子」がその学堂で「読周易」であったという(『藤氏家伝』)。また、中大兄や中臣鎌子連は「自学周孔之教於南淵先生所」と、「大唐学問僧清安」こと南淵請安の塾に通っていた伝もある(『日本書紀』)。これらから、舒明朝に於いてはすでに儒教思想が政治に取り入れられ始め、若い世代の教育としても導入されていたことが窺える。舒明天皇陵の上八角下方墳はこれまでの大王の方墳と儒教の影響を強く受けた八角墳の融合墳であると考えられる。

●入鹿臣への紫冠授与

 皇極天皇2(643)年10月6日、蝦夷大臣は病によって入朝せず、子の入鹿臣に「紫冠」を授けて「擬大臣位」とした。なお、入鹿臣に授けられた「紫冠」は、「擬大臣位」とあることから「大臣」の象徴であったことがわかる。「大臣」の地位は舒明天皇の葬礼後、空位の時期に「蘇我蝦夷臣、為大臣」とあることから、天皇の指名に拠らない蘇我宗家の職位となっていたことがわかる。つまり蝦夷大臣から入鹿臣への「紫冠」授与は何ら批判されるものではなかったと考えられる。その後、蝦夷大臣が入朝した形跡がないことから、この時点で蝦夷大臣は政治的には表向き引退し、入鹿臣が国政参与することになったとみられる。しかし、蝦夷大臣は「大臣」を譲ってはおらず、まだ若い入鹿臣は、あくまで蝦夷大臣の代理「擬大臣」として政治に当たったと考えられよう。しかし、その権勢は「威勝於父、由是、盗賊恐懾、路不拾遺」と、盗賊すら恐れ、道に落ちている物を盗む者もない状態であったという。これは常套句であるが、入鹿臣が民政を厳正に行った表れであるかもしれない。

 なお、蘇我宗家の地位である「大臣」は、古くは「臣(マヘツキミ)」を統べる尊称「大」が付けられた一般名詞であり、かつては天皇が指名する職であった。しかし、蘇我氏が稲目大臣以来の天皇外戚策をとることで準皇族化し、高貴な職位として固有名詞化した「大臣(オホマヘツキミ)」となり、群臣の枠外に存在する格式を築き上げたと思われる。

●上宮王家の滅亡

 蝦夷大臣が政治の表舞台から引退してわずか六日後の皇極天皇2(643)年10月12日、蘇我入鹿臣は父・蝦夷大臣の許しを得ることなく、「独謀、将廃上宮王等、而立古人大兄為天皇」したという。

 蘇我馬子宿祢―――――+―蘇我蝦夷―――――――蘇我入鹿
(嶋大臣)       |(大臣)       (臣)
            |
            +―法提郎女
            | ∥
            | ∥――――――――――古人大兄皇子
            | 息長足日広額
            |(舒明天皇)
            | ∥
            | ∥――――――――――葛城王
            | 寶女王       (中大兄皇子)
            |(皇極天皇)
            |
            +―刀自古郎女
              ∥――――――――――山背大兄王
              ∥
 橘豊日命―――――――――厩戸皇子
(用明天皇)       (聖徳太子)

 そして11月1日、入鹿臣は巨勢徳太臣(小徳)との土師娑婆連(大仁)の両名を将軍として、斑鳩宮の山背大兄(上宮王)を襲撃した。なお、11月11日に「宗我大臣并林臣入鹿、致奴王子児名軽王 巨勢徳太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫等六人」が攻めたという記録もあり(『上宮聖徳太子伝補闕記』)、実際は蝦夷大臣や軽王(孝徳天皇)までもがこの戦いに加わっていた可能性がある。

 『日本書紀』によれば、山背大兄もすでに臨戦態勢にあり、追捕の前に何らかの情報が山背大兄に流れていたとみられる。飛鳥朝廷軍は斑鳩宮に攻め寄せるが、武装していた上宮王家の舎人らの抵抗を受け、上宮王家の奴三成の矢によって将軍・土師娑婆連が射殺されて敗走する事態に陥る。しかし、巨勢徳太臣に率いられた朝廷軍は再び斑鳩宮に攻め寄せ、宮に放火して焼き尽くした。この際、山背大兄は「内寝」に馬の骨を投げ込んでいて、徳太臣は灰燼の中にあった馬の骨を王のものと誤解して包囲を解いて退いたという。

 また、山背大兄は「其妃幷子弟等」「三輪文屋君、舍人田目連及其女菟田諸石、伊勢阿部堅経」らとともに「膽駒山」へ逃れ、四、五日の間、山中に留まっていたが、三輪文屋君の「移向於深草屯倉、従茲乗馬詣東国、以乳部為本興師還戦、其勝必矣」という言葉も拒否して斑鳩寺へと戻り、寺を取り囲む朝廷軍の前で自害したという。その後、山背大兄の死を伝え聞いた蝦夷大臣は、入鹿臣を「噫、入鹿、極甚愚癡、専行暴悪、儞之身命、不亦殆乎」と極めて強い調子で罵ったとされており、この事件は、臣下が王族を弑逆した悪逆の例として『日本書紀』に記載されることとなる。

 しかし、この入鹿臣が独断で山背大兄を追捕したという説話には、多々矛盾が生じている。まず、「上宮王」家の討滅を画策した理由を入鹿臣が「立古人大兄為天皇」としている点である。すでに皇極天皇が即位した現状において、古人大兄の践祚を画策することは「謀反」に他ならず、まったく信用のならない記述であることがわかる。

 二点目としては、入鹿臣が追捕の指示をしたという将軍は、いずれも高官である巨勢徳太臣と土師娑婆連であったことである。とくに巨勢徳太臣はのちに左大臣にまで昇進した人物であり、彼ら公人を軍事的を伴って動かすには、当然公的な命(詔)が必要であったと思われることから、入鹿臣が恣意的に軍勢を動かしたとは考えにくい。

 三点目が、根本的なことではあるが、追討の対象が皇位継承に絡む山背大兄であったということである。山背大兄は皇族でも有勢者であり、これを私情で殺害することは短絡に過ぎ、考えにくい。

 第四点は、あたかも入鹿臣独断での行動とされているが、これだけの軍事行動を父・蝦夷大臣が知らされていないはずもなく、慎重で協調派の蝦夷大臣が追討を私情で許し、事が終わったのちに入鹿臣を罵ることは考えにくい。

 そのほか、細かい記述としては、山背大兄が逃走の際に寝所に馬の骨を投げ込んでカムフラージュを図ったことも疑問である。体よく馬の骨を持っていること自体不自然であるが、火薬もない当時、火災程度の温度で生身の人間が骨灰になることはなく、現代よりも「骨」と接する機会が多かったであろう当時において、馬と人の骨を間違える可能性は低い。また、逃走先の「膽駒山」についても、斑鳩から生駒山の間には矢田丘陵が南北にそびえており、足弱を伴って越え、食料もない中で四、五日を過ごす事は容易ではない。これらの記述も、後世の挿入と思われる。

 当時、皇統は敏達系へ戻されており、用明系の山背大兄が皇位を継承する可能性は相対的に低かったとは思われるが、蘇我馬子大臣とともに外交・内政改革を断行した厩戸王の子であるというカリスマ性があった。さらに先述のとおり、山背大兄は、秦氏の軍事力を背景に斑鳩地方から山背国南部に半ば独立した勢力を扶植していた。また、難波津からの要衝である斑鳩に半独立勢力が蟠居することは、飛鳥朝廷にとって好ましくない事象であり、飛鳥朝廷としても捨て置けないものであったに違いない。

 先述のように皇極天皇の践祚は非常に特異なケースであり、推古天皇の皇嗣決定の際と同様、山背大兄が批判した可能性も十分考えられる。蝦夷大臣らによる舒明天皇のキサキ・寶王の擁立理由が、古人大兄と山背大兄の対立による混乱を防ぐためのものであったとすれば、山背大兄の追討は、皇極天皇即位直後から蝦夷大臣主導で練られた公的な謀計であった可能性が高くなる。後世、『日本書紀』記述の際にこの出来事を蘇我氏専横の誹りに置き換え、「独謀、将廃上宮王」という入鹿臣の謀計としたのだろう。

●蘇我蝦夷大臣、入鹿臣の悪逆説について

 皇極天皇2(643)年11月、蝦夷大臣と入鹿臣の甘樫丘の館が完成し、蝦夷大臣の館を「上宮門」、入鹿臣の館を「谷宮門」と称させたという。この館造営は、おそらく蝦夷大臣と入鹿臣の「大陵」「小陵」の双墓とほぼ同時に進められたものと思われる。さらに「呼男女曰王子」と、蝦夷大臣の子女を「王子」と呼ばせたという伝も掲載される。

 まず、蝦夷大臣、入鹿臣が甘樫丘に館を建て、「宮門(ミカド)」と呼称させたことについては、概ね事実であろう。その館は、門外に柵を巡らす堅固なもので、門の傍らには兵庫が設置され、門ごとに「水船」一つと「木鉤」が数十置かれた。これは火災に備えたものという。さらに兵士を常駐させて館を守らせ、防備に特化した施設であったことがうかがえる。そのほか、長直を大丹穂山へ遣わして「桙削寺」を造らせ、畝傍山の東には堀池に囲まれた「城」を建てて兵器を備蓄し兵士を駐屯させたという。何に対してこれだけの防衛を必要としたのかは不明だが、甘樫丘の「上宮門」「谷宮門」に関しては、『天皇記』『国記』等の史書や珍宝が保管され、「史」姓の人々が出仕していたことが推定され、おそらく邸内では『天皇記』『国記』の編纂作業が行われていたのだろう。とくに防火に力を注いでいることからも、火災を恐れる施設であったと推測できる。

 このことから、甘樫丘の館は天皇家の別宮として建てられ、蘇我宗家の住まいを兼ねてその警衛を担ったと考えられ、「宮門(ミカド)」の通称があったのかもしれない。ただし、準皇族である蘇我宗家の館へ対して「宮門(ミカド)」と呼称しても、当時としては不自然なものではなかったのかもしれない。

 また、蝦夷大臣の「呼男女曰王子」については、蝦夷大臣には入鹿臣以外の子は伝わっておらず、入鹿臣自身「王子」と称された記録はなく疑問であるが、これも準皇族として「王子(ミコ)」の呼称が用いられても不自然ではなかったのかもしれない。

 これらはいずれも皇位の簒奪を窺い、蝦夷大臣と入鹿臣の専横がこれまで以上に甚だしく露骨に行われ始めたとして、この直後に実行された「乙巳の変」へ至る最後の「蘇我氏を滅ぼさざるを得なかった」蘇我氏悪逆説を裏付けるための後世の創作に過ぎないと考えられる。

●乙巳の変(『日本書紀』より)

 皇極天皇4(645)年6月12日、三韓貢進の儀式の際に、皇極天皇子・中大兄が中臣鎌子連らとともに専横の臣・蘇我入鹿を斬殺した、とされる事件である。蘇我入鹿が天皇家を乗っ取らんとしたことが原因とされている。それは事実なのであろうか。

 『日本書紀』に記載されている「乙巳の変」の描写では、皇極天皇4(645)年6月8日、皇極天皇皇子・中大兄が「倉山田麻呂臣」に対して「三韓進調之日、必将使卿読唱其表」するとし、12日に行われる百済、新羅、高句麗三国の使者の朝貢の儀に乗じて「欲斬入鹿之謀」を打ち明け、協力を取り付ける場面から始まる。この「倉山田麻呂臣」は蝦夷大臣の実甥に当たり、中大兄のキサキの一人、遠智娘の父でもあった。

 蘇我馬子―+―――蘇我蝦夷―――――――蘇我入鹿
(大臣)  |  (大臣)       (臣)
      |
      +―――法提郎女
      |   ∥
      |   ∥――――――――――古人大兄
      |   息長足日広額
      |  (舒明天皇)
      |   ∥
      |   ∥――――――――――中大兄
      | +―寶女王 
      | |(皇極天皇)
      | |
      | +―軽皇子――――――――有間王子
      |  (孝徳天皇)
      |
      +―――倉麻呂――――――――倉山田石川麻呂
      |  (臣)        (臣)
      |
      +―――刀自古郎女
          ∥――――――――――山背大兄
          ∥
 橘豊日命―――――厩戸王
(用明天皇)   (聖徳太子)

 そして、6月12日、「三韓進調」のため、皇極天皇が大極殿に出御し、側に古人大兄が侍り、中臣鎌子連の指示を受けた「俳優」の「方便令解」によって刀を外した入鹿臣が席に座って儀式が始まったとする。

 この儀式に際し、中大兄は衛門府に指示して十二の宮門を閉じて往来を遮断させ「召聚衛門府於一所、将給禄」と、衛門府の衛士を一箇所に集めて禄を与えた。その後、中大兄はみずから長槍を執り「殿側」に隠れ、中臣鎌子連は弓矢を持って中大兄を助衛したという。そして、中大兄は入鹿殺害の実行役である佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田のもとへ海犬養連勝麻呂を遣わして剣の入った箱を渡し、「努力努力、急須応斬」と命じた。ところが、剣を渡された子麻呂らは入鹿臣を恐れて動けず、子麻呂は飯を流し込むも緊張のあまり反吐する有様であった。これを鎌子連が「嘖而使勵」したが、やはり動けなかった。

 一方、「三韓進調」の表文を読唱していた倉山田石川麻呂であったが、表文がまもなく終わるというにも関わらず子麻呂らの行動がないことから、緊張のあまり「流汗浹身、乱聲動手」であった。これを訝しんだ入鹿臣が「何故掉戦」と問うた。これに倉山田石川麻呂は「恐近天皇、不覚流汗」と答えるが、やはり子麻呂らは動かない。痺れを切らした中大兄は舌打ちして飛び出し、「以剣傷割入鹿頭肩」した。入鹿臣は驚いて立ち上がるが、子麻呂によって足を切られ転倒。そのまま御座まで進んで平伏して、「臣不知罪、乞垂審察」と哀願する。皇極天皇はこの事態に驚き、中大兄に「不知所作、有何事耶」と問い質した。これに中大兄は平伏して「鞍作尽滅天宗将傾日位、豈以天孫代鞍作乎」と奏したという。

 その後、皇極天皇は殿中へ退出し、入鹿臣は佐伯連子麻呂と稚犬養連網田によって斬られ、遺体は雨の中、席の蓆が掛けられて置かれたという。古人大兄も変の直後に自らの宮に駆け入り、「韓人殺鞍作臣謂因韓政而誅、吾心痛矣」といい、門を閉ざして閉じこもったという。

蘇我入鹿首塚
伝入鹿首塚と甘橿丘(後)

 入鹿臣殺害後、中大兄は甘樫丘の眼前にある法興寺(現在の飛鳥寺)に移って備えを固めると同時に、入鹿臣の遺骸を蝦夷大臣のもとに引き渡した。法興寺には「凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆隨侍」という。一方、蘇我氏邸では蘇我氏の舎人である東漢直一族がいきり立ち、軍備を進めた。これに中大兄は使者として将軍・巨勢徳陀臣を派遣し、「以天地開闢君臣始有」ことを説得。これに蘇我一門である高向臣国押は「吾等由君大郎、応当被戮、大臣亦於今日明日立俟其誅決矣、然則為誰空戦、尽被刑乎」と応じるや、武器を捨てて去り、東漢直一族も館を退いたという。

 翌6月13日、入鹿臣殺害の報を受けて蝦夷大臣は、甘橿丘邸で編纂が行われていた『天皇記』『国記』や珍宝に放火した。これに気付いた船史恵尺が『国記』だけは持ち出す事に成功。中大兄へと献じたという。蝦夷大臣は同時に自害したとされ(『藤氏家伝』)、同日、蝦夷大臣の遺体と入鹿臣の遺体は「許葬於墓復許哭泣」という寛大な措置がとられた。これが『日本書紀』が物語る事件の様子である。

●「乙巳の変」の内幕

 まず、この儀式の根幹を成す「三韓進調」であるが、当時の「三韓(高麗・百済・新羅)」はお互いに対立して争いを繰り返していた。三韓はいずれも唐からの冊封を受けており、この争いには唐も出兵するなど複雑なものであった。このような時期に三国がそろって「進貢」することは現実的ではなく、当然、『三国史記』にも「朝貢」の記載はない。ではなぜこの殺害劇が「三韓進調」の儀式を舞台としたのか。それは、古人大兄が目撃した入鹿臣殺害実行犯が「韓人(百済人)」であったことと、殺害の根拠を「韓政」としていること、そして『藤氏家伝』にみられる「中大兄詐唱三韓上表」の記述から推測できる。

(1)「三韓進調」の儀の真の目的は蘇我宗家と古人大兄の排除

 皇極天皇の即位は、先にも記した通り、政局の混乱を避けるために推古天皇の先例を用いたものであった。そして、蝦夷大臣は皇極天皇即位の翌年、皇極天皇2(643)年10月6日に引退し、長子・入鹿臣に紫冠を授け「擬大臣」として政治の表舞台へと送り出す。そのわずか六日後に入鹿臣は天皇及び蝦夷大臣の意思に沿って勅のもとで山背大兄を追討使し、古人大兄を事実上の皇嗣としたのだろう。

 ところが、ちょうど同じ時期の唐の貞観17(643)年9月、「新羅遣使言、百済高句麗入寇新羅、請求派兵援助」(『冊府元亀』巻九九一外臣部備御第四)と、百済・高句麗から攻められた新羅が唐に援軍を要請、唐から「爾国以婦人為主、為隣国軽侮、失主延寇、靡歳休寧、我遣一宗枝、以為爾国主、而自不可独往、当遣兵営護、待爾国安、任爾自守、此為四策爾宜思之」女性の王(善徳王)を止めて、唐の宗族を王として立てるよう提案される事件があった(『冊府元亀』巻九九一外臣部備御四)。当時の三韓(百済国、高句麗国、新羅国)は、唐の武徳7(624)年以来冊封され、唐の属国となっていたが、とくに新羅は唐の貞観6(632)年の新羅王金真平に継嗣がなく、「其女善徳」が王となっていた(『舊唐書』東夷傳、『三国史記』巻五)。唐はこれを好機に新羅国の併呑を画策したと思われる。

 三韓の使者が舒明天皇の葬礼後に飛鳥を訪れた記録はないが、朝鮮半島での戦乱で海を渡り逃れた人々が多数流入したことは想像に難くない。こうした渡来人から唐の半島政策が飛鳥朝廷に届き、新羅と同じく女性を王として戴く政体であった飛鳥朝廷が危機感を持ったことは十分想像できる。そしてこの二年後の皇極天皇4(645)年6月12日に「乙巳の変」が起こり、二日後の14日には前例のない「授璽綬禅位」が行われ、天皇の生前退位及び皇弟・軽王(軽皇子)の践祚がおこなわれることとなる。この「禅位」は唐の朝鮮半島政策に対応したものとされるが(小倉慈司「「退位」「譲位」の誕生」『日本歴史』2018年5月号日本歴史学会編)、十分考えられる。また、退位した皇極天皇には「皇祖母尊」の称が即日奉呈されていることからも、以前から計画され準備されたものであったとする(遠山美都男「「乙巳の変」の再構築」『学習院大学文学部研究年報』三五、仁藤敦史「古代女帝の成立」『古代王権と支配構造』吉川弘文館)

 以上のことから、唐の新羅国の女性王への対応を知った中大兄、入鹿臣、群臣はこれに対するための方策を協議し、天皇が生前退位して皇位を譲る「譲位」という新たな政治システムを考え出したと思われる。そして「譲位」の対象は同母弟・軽王に定められたとみられるが、蝦夷大臣は「譲位」に終始反対であったと思われる

 蝦夷大臣はこれまでも皇位継承については蘇我氏の血統を重視せずに群臣や政局の調和を取り、できる限り政争を避ける方針を堅持していた。ところがこの「譲位」は群臣氏族の動向にも関わる上に、蝦夷大臣自身も捨て置けないある状況があり、ことさら慎重な態度を見せたと思われる。結果として、蘇我宗家やそれに近い群臣は「譲位」に抵抗したまま、膠着状態に陥っていたのかもしれない。「乙巳の変」が皇極天皇の「譲位」への反対勢力を粛正するものだったという説(小倉慈司「「退位」「譲位」の誕生」『日本歴史』2018年5月号日本歴史学会編)も提唱されており、変の直後に譲位が敢行された事実からして、妥当であろう。

 蝦夷大臣が「譲位」に異論を唱えたであろうもっとも大きな理由は、対立関係にあった同族・蘇我麻呂臣(蘇我倉山田石川麻呂臣)が軽王の外戚であったことであろう。軽王が譲位によって践祚することになれば、石川麻呂臣が天皇外戚の地位を手に入れることになり、蝦夷大臣の「大臣」の職位を揺るがしかねない存在になることで、好まざる政争へ発展することを恐れた可能性があろう。

 蘇我氏は、宗家が一族すべてを支配していたのではなく、有力庶家は独立した基盤を有し、中でも馬子大臣の弟・雄当臣(蘇我倉麻呂臣)を祖とする蘇我倉家は蘇我宗家と対立関係にあったとみられる。対立理由は不明だが、「山田臣与作相忌」とあるように石川麻呂臣と入鹿臣は疎遠だった説話が伝わる(『藤氏家伝』)。蘇我倉家は家祖・雄当臣が、父の馬子大臣から屯倉管理者の権限(蘇我倉家の本拠である石川周辺には屯倉が散在している)を継承したことで「倉(蔵)」家を称したと思われる。麻呂臣(倉山田石川麻呂臣)は、祖父「馬子宿禰」が仏殿に改修した「石川宅」のあった石川(橿原市石川町)を受け継ぎ、隣接する軽(橿原市大軽町)に住む軽王に娘の乳娘を嫁がせていた。なお「軽」にももともと蘇我氏の「軽曲殿」が置かれており、欽明天皇23(562)年8月に蘇我稲目大臣がこの軽曲殿に二人の高麗女性(美女媛とその従女・吾田子)を入れて妻としている(『日本書紀』欽明天皇廿三年八月条)。軽王の宮家は「軽曲殿」の後身かもしれない。また、軽王は阿倍内倉梯麻呂の娘・小足媛も娶っており、阿倍内家も軽王を支援していたことがわかる。

 このような中で、中大兄、石川麻呂臣らは根本政策に対立する蘇我宗家の追討と、その蘇我宗家の血が濃い皇嗣候補・古人大兄の排除を画策することとなる。まず、古人大兄を支える蘇我宗家を排除する方策が練られ、天皇も出席する「三韓進調」の「詐」の儀式が計画された。この儀式の具体的な流れは記載がないが、『日本書紀』には、推古天皇18(610)年10月8日に小墾田宮で行われた「新羅客」と「任那客」を迎える儀式の詳細が記載されており、同様の流れで行われたか。このときの儀式では、新羅と任那の使者は「導者」の先導によって宮の南門から庭中に入って立ち、「四大夫」が自席から進み出て庭に伏せた。これに「両国客」は再拝して使いの旨を奏上した。「四大夫」は立ち上がり、「大臣」へ啓し、「大臣」は自席から立ち上がって朝庭に建てられた庁の前に立ってこれを聴き、それと同時に使者へは「賜録」されている。おそらく進調の儀式も同様の流れで行われたのだろう。

 そして、古人大兄が実際に目撃した「韓人」による入鹿臣殺害から、中大兄は「韓人(百済人)」による殺害を偽装させたと思われる。これは「韓人(百済人)」に変装した佐伯連子麻呂と稚犬養連網田に斬らせたか、もしくは「使者」役とした韓人に行わせたかのどちらかであろう。皇極天皇も出御する儀式を偽装したということは、当然、天皇自身もこれを認識し承認していた可能性が高く、政治的混乱を伴わない形で古人大兄の支援者である蘇我宗家を排除するとともに、軽王への政治体制の移行と「譲位」の布石を整えたのだろう。

(2)蘇我倉山田石川麻呂について

 「三韓進調」で朝貢表文を読唱する役を命じられたのが、蘇我倉山田石川麻呂であるが、「倉」は屯倉を管理していた家職名、山田・石川はそれぞれ本拠のあった山田(桜井市山田)と石川(橿原市石川町)に由来する。なお、石川を河内国石川郡(南河内郡一帯)に求める説もあるが、これは当時の蘇我本宗が治めた豊浦一帯から遠く離れていることや、弟の日向臣が石川町と接する見瀬(身狭)を支配していたと思われることから妥当ではない。河内国石川郡は蘇我氏の治める地で渡来人も多く留住し、敏達、用明、推古天皇などの天皇陵が築かれるなど蘇我氏にとっても重要な拠点であったことは間違いなく、そのため蘇我氏傍流が入部して治めているが、彼らは稲目・馬子世代に蘇我本宗から分かれた庶流であり、石川麻呂が直接関っていた地であったかは不明である。旧蘇我宗家滅亡ののち、その私領として受けた可能性があろう。

 石川麻呂は蝦夷大臣の甥で入鹿臣とは従兄弟の関係であったが、「山田臣与作相忌」と入鹿臣とは疎遠だった(『藤氏家伝』)。石川麻呂は皇極天皇の実弟・軽王に娘・乳娘を嫁がせており、古人大兄を支援する蘇我宗家とは相容れない関係であったろう。石川麻呂臣の本拠である石川(橿原市石川町)は、軽王の宮家がある軽(橿原市軽)と隣り合っており、石川麻呂と孝徳天皇は近しい関係であったと推測でき、乳娘がキサキとして上がったのはこうした地縁的な関係が強かったのだろう。軽の地は、もともと石川麻呂の曽祖父・蘇我稲目大臣が「軽曲殿」を構えた土地(懿徳天皇の宮とされる「軽地是謂曲峽宮」と同じ地か)であったと推測され、軽を含む石川、身狭、久米など一帯は雄当臣へと継承されたことで「倉」家が成立したのであろう。このように蘇我倉家と軽王はかねてより関係が深かったと考えられる。

 なお、『藤氏家伝』によれば、石川麻呂臣を中大兄に推薦したのは中臣鎌子連で、中大兄に石川麻呂の長女と婚姻して謀計を進めるべしと進言したとされる。中大兄はこれに従って石川麻呂の女婿になってのち、入鹿臣排除の謀を打ち明けたという(『日本書紀』『藤氏家伝』にみられる蘇我日向臣による石川麻呂の長女強奪は、その後の中大兄との関係を見てもおそらく創作であろう)。石川麻呂の人となりについては、鎌子連が「山田臣之為人剛毅果敢威望亦高、若得其意事必須成」と中大兄に述べたとあり(『藤氏家伝』)、当時の宮廷内でも石川麻呂臣の評判は高かったものと思われる。しかし、当然のことながら石川麻呂の人となりは中大兄のほうが熟知していたはずであり、鎌子連に言われるまでもない。また、鎌子連が石川麻呂の娘を娶るよう進言し「中大兄従之」と、中大兄に主体性が全くない記述からも、これらが藤原氏史観による挿入記述であることが窺われるのである。ただし、鎌子連は中大兄に付き従うシンパのひとりで、中大兄に助言しつつその指示を受けて動いていたと思われ、大きな信頼を得ていたのは確かだろう。

 中大兄が石川麻呂臣の娘を娶った経緯は不明だが、石川麻呂臣側からの働きかけではないだろうか。石川麻呂臣は蘇我宗家と対立関係にあり、親しい軽王と中大兄の両者に娘を嫁がせることで、蘇我宗家へ対抗したのだろう。そのことは軽王・中大兄の古人大兄への対抗措置としても一致したことで、石川麻呂と軽王・中大兄は姻戚関係になったと考えられる。

 中大兄は石川麻呂臣と共謀し、石川麻呂臣には儀式の中で要となる詐の「三韓進調」の表文を読唱することを指示した。なぜ石川麻呂にこの役を担わせたのか。それは詐の「三韓進調」の儀が韓人、高麗人、新羅人の進調の儀式を装ったこと、入鹿臣殺害の実行役を韓人に命じたことから考えると、彼らを統率する立場の人物として選んだものと考えられよう。蘇我倉家が治めていた石川や身瀬には、韓人(百済人)や高麗人(高句麗人)の渡来人が多く留住しており、彼らを田部とした「韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉」が置かれていた地であった(『日本書紀』欽明天皇十七年十月条)。このことから、石川麻呂臣には韓人が出仕していた可能性が非常に高いことから、入鹿臣殺害は石川麻呂臣の指揮のもとで行われたと考えられる。

 石川麻呂は中大兄と連携して、この儀式で支配下にある「韓人」を用いて入鹿臣を殺害し、その父・蝦夷大臣をも滅ぼし、蘇我本宗の地位を獲得することとなる。当時の蘇我本宗は代々の天皇の外戚として高貴な存在であり、後世の藤原摂関家と同様の高みにいた。のちのこととなるが、藤原氏も藤原鎌足連の子・藤原不比等蘇我連子大臣(石川麻呂の弟)の娘・媼子を娶ることで蘇我氏の血を自家に取り込むことに成功。それを縁に石川麻呂の孫である持統天皇に取り立てられた藤原不比等であったが、石川朝臣と改めた蘇我宗家の血統を皇統から排除し、媼子との子・武智麻呂(南家)や房前(北家)の末裔が中心となった政体へと変化していくことになる。

 蘇我馬子―+―蘇我蝦夷――蘇我入鹿
(大臣)  |(大臣)  (林臣)
      |
      +―蘇我雄当―+―蘇我倉山田石川麻呂――遠智娘
       (臣)   |(右大臣)       ∥
             |            ∥――――――――持統天皇
             |            天智天皇
             |
             |                    【南家】
             | 藤原鎌足―――――――藤原不比等  +―藤原武智麻呂
             |            ∥      |
             |            ∥      |【北家】
             |            ∥――――――+―藤原房前
             +―蘇我連子―――――+―蘇我媼子  
             |(右大臣)     |      
             |          |      
             +―蘇我赤兄     +―蘇我安麻呂
             |(左大臣)      (少納言?)
             |
             +―蘇我日向
             |(臣)
             |
             +―蘇我果安
              (臣)

 乙巳の変の翌々日、皇極天皇は同母弟・軽王(孝徳天皇)に「譲位」し、孝徳天皇のもと、石川麻呂は蘇我宗家の継承者、軽王の外戚という立場から、阿倍内家の倉梯の麻呂臣(阿倍内麻呂、倉梯麻呂)とともに、高貴な職位「大臣」を賜ることとなる。なお、「大臣」は二名とされたため、上席の「左大臣」は阿倍内麻呂、次席の「右大臣」に石川麻呂が任じられることとなる。

(三)「三韓進調」の儀の矛盾点:鎌子連顕彰の挿話(藤原氏史観)

(ア)入鹿臣の帯剣をはずす

 この儀式に臨むにあたり、入鹿臣は鎌子連が配した「俳優」の言葉に笑って帯剣を外したという。しかし、入廷後に列する廷臣らが帯剣していたのであれば入鹿臣は疑いを持つであろうことから、この儀式はもともと帯剣しないものであったはずである。中大兄が入鹿殺害のための剣を箱に入れて「佐伯連子麻呂与葛城稚犬養連網田」へ送った、という記述からもうかがわれる。つまり、この入鹿臣が帯剣して入廷することは考えられず、鎌子連の活躍を顕彰する挿話である可能性が高い。

(イ)中大兄の儀式への不在

 中大兄はみずから長槍を執って「殿側」に隠れ、鎌子連が弓矢を持ってそれを助衛したとある。しかし、天皇や古人大兄、入鹿臣までも出廷する儀式に、中大兄が天皇の近くに控えていないことは考えにくく、中大兄は古人大兄と同様、大殿内(『日本書紀』によれば大極殿)に控えていたはずである。

 使者への剣の入った下賜品はあらかじめ用意されていたもので、中大兄から海犬養連勝麻呂から三韓使者(石川麻呂の仕人)または従者に成り済ましていた「佐伯連子麻呂与葛城稚犬養連網田」へ下賜されたのかもしれない。

(ウ)鎌子連の叱咤

 子麻呂らが入鹿臣を恐れて動けず、子麻呂が飯を流し込むんで反吐する有様も、宮廷儀式の最中では考えにくく(板蓋宮の南庭に彼らが隠れられるような建物があったかも不明)、入鹿臣の側から隙を窺っていたという彼らが、このように目立つ行動を取ることも考えにくい。これは、緊張感を盛り込むための作話であろう。

 さらにこれを見た鎌子連が「嘖而使勵」とされる記述も、鎌子連は中大兄の側に「助衛」したとされていること、子麻呂らは中大兄の使者から剣を授けられている(つまり離れた場所にいた)という記述があることからも、仮に『日本書紀』や『藤氏家伝』の記述の通りであれば鎌子連と子麻呂らとは意思の疎通は難しく、いずれの記述にも不自然さが目立つ。これらも藤原氏史観による鎌足顕彰の挿話であろう。

 以上の事などを鑑みて、乙巳の変の実際はどのような過程で行われたのか、以下に推測する。

●「乙巳の変」の実際(想像)

 舒明天皇を践いで即位したキサキの寶王(皇極天皇)は、敏達天皇の曾孫という非常に遠い王胤かつ女性であるという、もともと皇位継承に絡む対象ではなかった。しかし、当時の有力な日嗣候補であった古人大兄(舒明天皇第一子)と山背大兄(厩戸王第一子)は、どちらが即位しても混乱は避けられない情勢であった。また、「大臣」として群臣を統べた蘇我蝦夷大臣は古人大兄、山背大兄両者ともの伯父であったが、蝦夷大臣は恣意で政治を動かす人物ではなく、推古天皇の遺詔を汲んで田村王を皇位(舒明天皇)に奉じて以来、政争を避けて調和を最優先に政治を行っていた。今回の皇嗣問題についても、これまでの慣例通り群臣との協議結果を第一義として、両者どちらも推すことはなかったと思われる。そして、蝦夷大臣が群臣との協議を行った結果として、推古天皇の故実に因み、前天皇のキサキを即位させる方策を採ったのだろう。これにより、舒明天皇キサキであった寶王が践祚する(皇極天皇)こととなったと思われる。

 ところが、ちょうど同じ時期の唐の貞観17(643)年9月、百済・高句麗の軍勢から攻められた新羅が唐に援軍を願った。ところが唐は新羅が女性王を奉じていることを理由に、唐の王族を王としてはどうかと迫った。結局、唐は援軍要請に応じて高句麗を攻めるが、この唐の政策は、新羅と同じく女性王を戴く飛鳥朝廷にも衝撃を与え、男性王への「譲位」論が生まれたと思われる。

 当時、皇嗣候補としては、皇弟・軽王、舒明長子・古人大兄、そして山背大兄の三名があげられるが、皇統継承の慣例により、天皇同母弟・軽王(軽皇子)がもっとも可能性が高かったとみられる。しかし、古人大兄も蘇我宗家の支援のもとで有力な皇嗣候補としての立場は維持していた。一方、山背大兄は皇統上すでに遠き皇胤で「上宮王」家として半ば独立した立場を維持しており、朝廷としては皇嗣に定め難い人物であった。しかし、難波津から飛鳥への玄関口である斑鳩を押さえるなど、朝廷としては捨て置けない存在であった。諸書に記載されていないが、舒明天皇のあとをキサキの寶王が践いだことに対して、何らかの反応を示した可能性もあろう。

 皇極天皇2(643)年10月6日、蝦夷大臣は病のため入朝せず、子息・入鹿臣に「紫冠」を与えて「擬大臣」と定めているが、これは蝦夷大臣自身の病が大きな理由であろうが、「山背大兄追討」という最重大な密詔に入鹿臣を参加させ、政治参与の経験を積ませる意味合いもあろう。蝦夷大臣は若い入鹿臣はいまだ政治経験が足らないことを認識していたと思われ、それは入鹿臣へ「大臣」の職位を譲らなかったことからも推測できる。

 10月12日、入鹿臣が主導して謀議が練られ、11月1日、詔を受けた入鹿臣は巨勢徳太臣、土師娑婆連の両将軍に命じて、斑鳩宮の山背大兄を襲撃させた。また、皇弟・軽王や諸王もこれに参戦した説話もあり(『上宮聖徳太子伝補闕記』)、このことからも、山背大兄追捕は勅詔による公的なものだった可能性が高く、入鹿臣の独断とする記述は偽述と考えられよう。

 こうして、飛鳥朝廷は不確定要因であった上宮王家の排除に成功するが、蝦夷大臣は中大兄の主張する「譲位」には慎重な姿勢を示していたと思われる。当時、蝦夷大臣は支流の蘇我倉家と対立関係にあったが、蘇我倉家当主・石川麻呂臣が軽王に娘・乳娘を嫁がせていたのである。万が一、譲位によって軽王が践祚すれば、石川麻呂臣が天皇外戚となることを意味し、「大臣」の職位とも関わってくることから、蘇我宗家としては到底受け入れられるものではなかった。しかも、石川麻呂臣は古人大兄の対抗相手であった中大兄にも娘を嫁がせており、軽王が践祚すれば、石川麻呂が中大兄とともに蘇我宗家に圧力をかけてくることは火を見るよりも明らかであった。さらに、譲位が既定路線になったとしても、蘇我蝦夷大臣は古人大兄を践祚させることは不可能であった。古人大兄の継承権は皇弟・軽王に劣っていたためである。

 蘇我馬子―+―――蘇我蝦夷―――蘇我入鹿
(大臣)  |  (大臣)   (臣)
      |
      +―――法提郎女
      |   ∥
      |   ∥――――――古人大兄
      |   田村王
      |  (舒明天皇)
      |   ∥
      |   ∥―――――――――――――――中大兄
      | +―寶王              ∥―――――――鸕野讃良
      | |(皇極天皇)           ∥
      | |               +―遠智娘
      | |               |
      | |               |
      | +―――――――――――――――――軽王――――――有間王子
      |                 |(孝徳天皇)
      |                 | ∥
      |                 | ∥
      +―――倉麻呂―――倉山田石川麻呂―+―乳娘
         (臣)   (臣)

 中大兄は唐朝の政策への対応から、天皇を頂点とした政治体制の変革を目指しており、譲位の計画とともに、特権的立場にある蘇我宗家とその蘇我宗家を外戚に持つ古人大兄の排除を計画した。中大兄が蘇我宗家・古人大兄排除計画を実行するにあたり協力を要請したのが、外舅の石川麻呂臣であり、「乙巳の変」へとつながっていく。石川麻呂臣にとっては、蘇我宗家の排除と軽王践祚は、みずからが蘇我氏上となり、天皇外戚となって「大臣」の職位が与えられることを意味した。まさに蘇我蝦夷大臣とまったく同じ地位をそのまま継承し得ることが想定されるのである。しかも将来の皇嗣候補として有力な中大兄にも娘を嫁がせており、石川麻呂臣にとっては磐石の閨閥が形成されていたのである。こうした計算のもとで、石川麻呂臣は中大兄とともに「乙巳の変」の主導的立場で儀式に臨んだのである。

 その後、朝廷は皇極天皇4(645)年6月12日に百済・新羅・高句麗の「三韓」が調を進上する「三韓進調」の儀式を行うことを公表する。この儀式は「三韓」の使者・従者らを装った暗殺実行者によって蘇我宗家を討つための「詐」であった。そして、石川麻呂は儀式で最も重要な天皇への貢物表文の読唱者となる。その理由は、石川麻呂臣に仕えていた「韓人」らを暗殺の実行者に加えていたからである。

 6月12日、板蓋宮において「三韓進調」の儀式が行われた。蘇我宗家や群臣にはあらかじめ帯剣しない旨が周知されていた。

 儀式は群臣および入鹿臣、王族が板蓋宮の南庭に列し、皇極天皇が正殿に出御。古人大兄、軽王、中大兄らもそれぞれ登殿する。その後の儀式の流れは、推古天皇時代の新羅・任那使者の例に則ると、三韓の「使者」がそれぞれ二人の「導者」の先導によって南門から入り、庭中に立った。その後、「四大夫」が自席から進み出て庭に伏せた。推古天皇当時の「四大夫」は大伴噛連、蘇我豊浦蝦夷臣、坂本糠手臣、阿倍鳥子臣といずれも群臣最上位の人々であり、彼らは使者を歓迎する役割を担ったと思われる。当時においては阿倍内倉梯麻呂臣、蘇我石川麻呂臣、巨勢徳太臣、大伴長徳連あたりであろうか。「使者」は再拝して使いの旨を奏上した。これを受けて「四大夫」は立ち上がり、進調文(偽文)を請け取ったことを「擬大臣」の入鹿臣へ啓したのだろう。これを受けて入鹿臣は自席を立って正殿前へ移動。ここで石川麻呂臣が奏上する進調表文の読唱を受けたのだろう。

 これと並行して「使者」に「賜録」されるが、この下賜品の中に中大兄が仕込んだ「剣」があったのだろう。おそらく中大兄の命を受けた海犬養連勝麻呂(宮門衛士将官)が下賜品の渡し役となり、使者または従者に成り済ましていた佐伯連子麻呂(宮門衛士将官)と稚犬養連網田(宮門衛士将官)が下賜品の箱に収められていた剣を取り出すや、入鹿臣に斬りかかり、さらに石川麻呂の手に属す百済人(韓人)もこれに加担したのだろう。剣を持たない入鹿臣に防戦の術はなく、その場で斬殺されたと思われる。

 『日本書紀』では中大兄は槍を持って殿側に隠れていたとするが、この儀式に皇子が不在ということは不自然極まりなく、天皇の傍近く殿上にいたことは間違いないだろう。『日本書紀』のように、中大兄自身が剣を振るって入鹿臣を攻撃することは不可能だったと思われる。ただし、中大兄は『日本書紀』の記述によれば、衛門府に指示して十二の宮門(当時十二門あったか疑問)を閉じて往来を遮断させ、「召聚衛門府於一所、将給禄」と衛門府の衛士を一箇所に集めて禄を与えたとあることから、中大兄はもともと宮廷警衛を担い、海犬養連勝麻呂、佐伯連子麻呂、稚犬養連網田ら宮門衛士を揮下としており、武術に長けた彼らを入鹿臣殺害の実行者に命じた可能性が高い。そして、入鹿臣が斬られた現場を見た古人大兄は、「韓人」によって入鹿臣が殺されたと語っていることから、実行者は百済服を身につけていたことが濃厚である。『日本書紀』の記述が、中大兄を実行者と記す一方で、古人大兄が「韓人」による犯行と述べたことを記載するなど、事象のかみ合わない記述がともに載せられたのは、「専横の蘇我氏を討った」中大兄を賞賛する作文とともに、事実を記載していた別の文献(入鹿臣は韓政の影響で韓人に殺害されたという公的な見解)が混入したためと考えられる。殺害された入鹿臣の遺体は即日甘樫岡の蝦夷大臣のもとへ運ばれるという寛大な措置から見ても、入鹿臣は決して罪人として殺されたのではないことが明白である。

 乙巳の変の『日本書紀』の記述については、緊張で動けない子麻呂らに業を煮やした中大兄自らが剣を抜いて「以剣傷割入鹿頭肩」したという記述や、斬られたのち天皇御前に平伏して「臣不知罪、乞垂審察」と大王に無実を訴える不自然さは、これらの記述が作為的なものであることを露呈している。天皇が発した「不知所作、有何事耶」という言葉は、天皇が無関係であることを強調するための記述であり、中大兄の「鞍作尽滅天宗将傾日位、豈以天孫代鞍作乎」という奏も、殺害の正当化のための記述とみられる。

 変の直後、中大兄は「即入法興寺為城而備、凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆隨侍、使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷」とあり、甘橿丘の眼前に壮大な伽藍を擁していた蘇我氏の氏寺・法興寺(現在の飛鳥寺)に兵を入れたのち、甘樫丘へ入鹿臣の遺体を運んだ。ただし、「凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆隨侍」は明らかに後世の誇張表現であろう。ただ、中大兄が入鹿臣の遺体を蝦夷大臣のもとへ運ぶに当たり、蘇我宗家側の蜂起に備えるために法興寺に兵を入れたことは間違いないだろう。

 一方、入鹿臣の遺体が運び込まれた甘橿丘の館では、蘇我宗家に仕える東漢直一族がいきり立ち、軍備を進めたという。ここに中大兄の使者・巨勢徳陀臣が甘樫丘の館を訪れ「以天地開闢君臣始有」と説得。蘇我一門の高向臣国押「吾等由君大郎、応当被戮、大臣亦於今日明日立俟其誅決矣、然則為誰空戦、尽被刑乎」とこれに応じて館を去り、東漢直一族も退いたという。

 そして翌6月13日、「蘇我臣蝦夷等臨誅」(『日本書紀』)と、蝦夷大臣は誅殺されたとされる。また、「豊浦大臣蝦夷自尽其第」(『藤氏家伝』)ともされ、蝦夷大臣が甘橿丘邸で自害したともされる。実際には蝦夷大臣、入鹿臣の遺体埋葬が即日許可されていることから、誅殺ではなく自害が事実であろう。その際、蝦夷大臣は「悉焼天皇記、国記、珍寶」と、天皇権力の前提となる天皇や国の成り立ちを認めた『天皇記』『国記』や「珍宝(天皇家ゆかりの宝物か)」に放火したという(『日本書紀』)。これは甘橿丘の蘇我氏館が天皇の別宮であって、こうした宝物を蘇我宗家が管理していたことに他ならない。蝦夷大臣はこれらすべてを灰燼にすることで抵抗しようとしたのだろう。なお、通説として屋敷に放火したとされるが、そのような記述はない。

 しかし、蝦夷大臣が火を放ったこれら宝物のうち、『国記』だけは「船史恵尺」によって救い出され、中大兄へ献じられている。船史恵尺は「史」姓の官人であることから、日ごろから公務として『天皇記』『国記』の編纂作業を行っていたと考えられ、火災を知るや懸命に運び出す作業を行ったのだろう。

 同日、蝦夷大臣と入鹿臣の遺体は「許葬於墓復許哭泣」という、「哭泣」までも許される寛大な措置がとられており、「乙巳の変」は蘇我宗家の「尽滅天宗将傾日位」という大逆によって引き起こされたものではなく、政争の結果の殺害であったことが伺われるのである。

●皇極天皇の譲位

 乙巳の変の翌日、皇極天皇4(645)年6月14日、皇極天皇は弟・軽王に「授璽綬」の上、初の「譲位」を行った。『日本書紀』によれば譲位後の皇極天皇には改めて「皇祖母尊」の称が贈られ、中大兄が「皇太子」となったとする。乙巳の変の翌日の譲位と践祚、さらに尊称奉呈から、この譲位についてはかなり以前から準備されていたとされる(遠山美都男「「乙巳の変」の再構築」『学習院大学文学部研究年報』三五、仁藤敦史「古代女帝の成立」『古代王権と支配構造』吉川弘文館)。なお、孝徳天皇の宮である「前期難波宮跡」から「王母前」と墨書のある木簡が出土した(市大樹『黎明期の日本古代木簡』)。これは皇極天皇が退位後に「王母」と称されたものであろう(小倉慈司「「退位」「譲位」の誕生」『日本歴史』2018年5月号日本歴史学会編掲載/仁藤敦史「古代女帝の成立」『古代王権と支配構造』吉川弘文館、前田晴人『難波出土の「王母前」木簡をめぐって』)。なお、道教思想による「西王母」の可能性も示唆される。この譲位からおよそ百年後、遣唐使から鑑真大和上の日本招請を依頼された玄宗皇帝は、その条件として「道士」の同行を示唆したが、大使の藤原清河らは「日本君王先不崇道士法」として断っている(関根淳「天皇号成立の研究史」『日本史研究』665号、『唐大和上東征伝』)。ここから、当時の「日本君主」は「道士法」つまり「道教」を信奉していなかったとされるが、唐は高祖皇帝以来、道教を積極的に政治導入しており、唐から帰国した元遣隋使の人々は当然道教の教義も修めていたはずである。舒明天皇以降は儒教とその経典である周易、尚書以下五経を通じて道教も当然ながら入っており、日本は仏教、儒教、道教が混在して存在していたと考えられる。

 なお、新政権の人事としては、阿倍内家の倉梯麻呂臣蘇我倉山田石川麻呂臣がそれぞれ左右の「大臣(オホマヘツキミ)」となる。倉梯麻呂臣は乙巳の変での勲功が見られないにも関わらず、上席の「大臣」についていることから、この任官は乙巳の変による勲功ではないことがわかる。おそらくこの左右大臣は、先例から天皇外戚を以て任じられたものであり、群臣への詔も先例に従って「大臣」を通じて発せられている。「大臣」が左右両職体制とされたのは、唐官の「左尚書僕射」「右尚書僕射」の踏襲および、一氏への権力集中を防ぐためであろう。石川麻呂臣が次席の大臣とされたのは、準皇族という蘇我氏の血統とその勢力への警戒によるものと思われ、阿部内倉梯麻呂が上席に据えられたのは、推古天皇以来の重鎮であり、かつ石川麻呂とまったく同じ閨閥を持っていたためであろう。逆に言えば、飛鳥朝廷には倉梯麻呂臣以外に石川麻呂臣より上席になり得る群臣は存在しなかったのである。

 阿部倉梯麻呂――――+―――――小足媛
(左大臣)      |     ∥――――――――――有間皇子
           |     ∥
           | +―――孝徳天皇
           | |   ∥
 蘇我倉山田石川麻呂―――――+―乳娘 
(右大臣)      | | |
           | | +―――――遠智娘
           | |       ∥――――――鸕野讃良
           | |       ∥     (持統天皇)
           | +―皇極天皇  ∥
           |   ∥―――――中大兄
           |   ∥    (天智天皇)
           |   ∥     ∥
           |   舒明天皇  ∥――――――新田部皇女
           |         ∥      
           +―――――――――橘媛

 なお、中臣鎌子連については「大錦冠」の冠位「内臣」が与えられたとある(『日本書紀』)。ただし、鎌子連が授けられたとする「大錦冠」は二年後に定められた「七色一十三階之冠」であることから、この当時に授けられたものではない。「内臣」については、その職掌はやや後年になるが、養老5(721)年10月24日の元正天皇の詔に「汝卿房前、当作計会内外、准勅施行、輔翼帝業、永寧国家」(『続日本紀』)と天皇の「輔翼」という高い地位としてみえるが、鎌足称賛の影響により本来の地位から相当格上げされたであろうことを考えると、鎌子連当時の「内臣」は天皇側近にあって政務上の雑務や群臣への対応などを行った職掌で、相対的にはそれほど高い職位ではなかったと考えられる。

●古人大兄の出家

 「譲位」については、もともと皇極天皇は「思欲伝位於中大兄」と、中大兄へ譲ることを望み、中大兄がこのことを中臣鎌子連に諮ったところ、「古人大兄、殿下之兄也、軽皇子、殿下之舅也、方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心、且立舅以答民望、不亦可乎」と言われたため、母天皇に「厥議」を密かに奏聞したという。その結果、皇極天皇は弟・軽王へ譲位を諮すが、軽王はこれを再三固辞し「大兄命、是昔天皇所生而又年長、以斯二理、可居天位」と古人大兄を推したという。一方、古人大兄も退いて「奉順天皇聖旨、何労推讓於臣、臣願出家、入于吉野、勤修仏道、奉祐天皇」と言うや、佩刀を解いて床に置き、法興寺の仏殿と塔の間で剃髪し、袈裟を着て出家を遂げてしまった。そのため、軽王が「譲位」されて践祚することとなった、とある(『日本書紀』)孝徳天皇である。

 この一節は非常に作為的な印象でつづられている。まず、皇極天皇の「思欲伝位於中大兄」を断った中大兄の謙譲さを讃え、次に断ることを勧めた鎌子連の進言への賛美が挙げられる。そして古人大兄は自ら出家して吉野へ去ってしまったため、やむなく軽王が践祚することとなった、として、いずれも中大兄と鎌子連を持ち上げる作風となっている。皇極天皇の「譲位」の対象は、これまでの慣習から皇弟・軽王であったと考えられ、中大兄の継承順は古人大兄に次いでおり、そもそも皇嗣の対象ではなかったと思われる。

 古人大兄は蘇我宗家の滅亡後、表立って支援する有力氏族がなくなったことを実感したであろうし、蘇我宗家が軽王や中大兄らの陰謀によって滅ぼされたと考えても不思議ではない。古人大兄の出家は、身の危険を感じて飛鳥から口実であった可能性が高いだろう。そして『日本書紀』編纂時に用いられた「或本」には、中大兄が「従六月至于九月、遣使者於四方国、集種々兵器」と、乙巳の変の直後から諸国に武器の調達を命じていることから、中大兄が内乱を想定して大規模な武器収集に動いていた可能性もあろう。 

●古人大兄を追討

 孝徳天皇の即位とともに、皇極天皇4(645)年は大化元年と改められた。

 このまだ生まれたばかりの政権には、有力皇嗣候補のまま吉野へ去った古人大兄の存在が重くのしかかっていた。孝徳天皇には弟が存在しないことから、皇嗣は舒明天皇の第一皇子・古人大兄となる。『日本書紀』編纂資料の「或本」には古人大兄を「古人太子」「吉野太子」と称していたとあることからも、古人大兄は幾度となく皇位継承を見送られたとはいえ皇嗣の有力者であることにかわりはなかったのである。そして、古人大兄が旧蘇我宗家の支援を受けていた経緯で、旧蘇我宗家に所縁の人々が彼の舎人として付き従っていたとみられ、蘇我田口臣川掘、物部朴井連椎子、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津らの人々がみられる。彼らは、蘇我氏、東漢氏、秦氏、吉備氏、物部氏の支族であり、いずれも旧蘇我宗家や旧上宮王家に関りを持っていた人々であったことがわかる。このことは孝徳朝においては見過ごすことのできない事態であったが、彼らが吉野で蠢動している証拠はなく、彼を討つ大義はいまだみつけられなかったのである。

 ところが、9月12日、古人大兄を支えていた一人、吉備笠臣垂が飛鳥朝廷に自首し、9月3日に古人大兄が蘇我田口臣川掘、物部朴井連椎子、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津らとともに「謀反」したと伝えた。吉備笠臣垂の密告は、百年後の天平宝字元(757)年12月、垂(笠臣志太留)の功績について「告吉野大兄密功」により子孫へ功田廿町が下賜され、その功は「中功」とされて二代に渡って伝領が認められており(『続日本紀』天平元年十二月九日「太政官奏」)、朝廷に古人大兄追討の大義名分を与えた功績であったのだろう。

 古人大兄の「謀反」の報告を受けた中大兄は、菟田朴室古、高麗宮知に若干の兵を与えて吉野へ派遣したとされるが、別説によれば、11月30日に阿倍渠曾倍臣、佐伯部子麻呂に兵四十名を付けて吉野を攻めさせ、古人大兄とその子を斬り、妃妾は自ら首を括って自殺したという。そのほかの「別説」でも、11月に発覚して殺害されたとあることから、実際に古人大兄を攻めたのは11月のことであろう。

 しかし、この追討戦での最大の疑問は、犠牲者が古人大兄とその子、妃妾のみが伝えられており、「謀反」に加担したはずの蘇我田口臣川掘、物部朴井連椎子、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津らは一切処罰されていないことである。それどころか彼らはその後昇進し、官僚として活躍をしている。なぜこのような事態になったのかは不明だが、もともと蘇我宗家との関りの深かった田口臣、朴井連は蘇我倉家に従属した形跡が見られることから、彼らは蘇我倉山田石川麻呂の手によって事前に調略されていたとも考えられる。

 なお、古人大兄の娘・倭姫王は天智称制7(668)年正月に中大兄の践祚に伴い、その皇后となっている。古人大兄殺害の際、「斬古人大兄与子、其妃妾自経死」と、古人大兄の子は殺害され、妃妾は自死している。これが事実であれば、倭姫王の母はこのとき自害した可能性があるが、「子」であった倭姫王は殺害されなかったことになる。殺害されなかった理由は不明だが、

(1)女性であったため
(2)すでに中大兄に嫁いでいた
(3)生まれたばかりであった、もしくは母が懐妊中であったため助命された

 といった理由が考えられよう。(1)については「妃妾」もおそらく強要された経死であろうから、あまり積極的な理由にはならない。また(2)については、このとき倭姫王がすでに中大兄に嫁いでいたとすれば、父兄弟を殺害した中大兄に対する怨恨はかなりのものであったはずであるが、倭姫王は中大兄とは睦まじかった様子が和歌から伺えるため、古人大兄の一件は問題にはなってない可能性が高い。これらから想定できることとしては、おそらく(3)のようにこの時点で倭姫王は生誕間もない状態、またはいまだ生誕前であった可能性が高いだろう。

 倭姫王が皇后とされたのは古人大兄の死から二十三年後のことであることや、中大兄との間に子女がないことを考えると、倭姫王は生誕後は中大兄によって保護されており、中大兄の即位に当たって形式的な皇后に据えられたのではなかろうか。倭姫王が皇后に選ばれた大きな理由としては、

(1)群臣出身者を避けた(旧蘇我宗家のように皇后外戚氏族の発生を防ぐため)
(2)皇后の権威を利用し得る皇后親族がいない
(3)古人大兄の貴種性(父舒明天皇の第一皇子で自らの異母兄)
(4)古人大兄子孫の擁立勢力の再興を防ぐ

が考えられよう。

 蘇我馬子―+―――蘇我蝦夷―――――蘇我入鹿
(大臣)  |  (大臣)     (臣)
      |
      +―――法提郎女
      |   ∥
      |   ∥――――――――古人大兄―――倭姫王
      |   ∥               ∥
      |   舒明天皇            ∥
      |  (田村王)            ∥
      |   ∥               ∥
      |   ∥―――――――――――――――中大兄
      | +―皇極天皇 
      | |(宝女王)
      | |
      | +―孝徳天皇―――――有間皇子
      |  (軽王)
      |
      +―――倉麻呂――――――倉山田石川麻呂
         (臣)      (臣)

●大化の改新

 古人大兄の「謀反」が発覚し、おそらく騒動で忙しない状況の中であった大化元(645)年9月19日、朝廷は諸国に使者を遣わして民数の記録を命じるとともに、群臣や伴造、国造らの人々による土地や金銭、百姓の収斂簒奪を禁じ、「従今以後、不得売地勿妄作主兼幷劣弱」という詔が発せられた。

 そして11月の古人大兄の排除後、12月9日に孝徳天皇は宮を飛鳥から河内国難波長柄豊碕へと遷した。難波宮(前期難波宮)である。この宮は朝廷の外港であった難波津に近接して造営されており、大陸や朝鮮半島との外交、経済、技術、政体の導入を重視し、旧体制から大陸型の中央集権政体への脱却を志した遷宮であろう。宮の東には内海である草香江があり、この内海に流入する大和川水系を通じて飛鳥と通じ、官道では難波大道から茅渟道へ接続して飛鳥に至る交通手段(財団法人大阪市文化財協会『東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究』2010)も確立されていた。

 翌大化2(646)年正月1日、「改新之詔」が詔せられ、公地公民と大夫以下の禄、畿内の国司等地方官の取り決め、戸籍と計帳、班田収授法ならびに度量衡、租税法が定められた。公地公民は徹底的に行われ、3月20日、中大兄は孝徳天皇からの諮問に対し、群臣らが管理する子代入部や、皇子らの御名入部と屯倉、皇祖大兄御名入部と屯倉(これは押坂彦人大兄の御名入部=押坂部と屯倉だが、この御名入部・屯倉はとくに尊重されて別格に取り扱われていたものか)を天皇所属とし、それらの封民を仕丁(公的な労役人夫)として徴収することを奏上。「入部五百廿四口、屯倉一百八十一所」ことを奉答している。

 その後も、天皇は新たな冠位の制定や官人の勤務時間の定め、薄葬の命ほか様々な改革の詔を発布。中央集権国家へ急速に改革を行っていく様子がうかがえ、これらには大陸からの渡来人たちの知識が大きく関わっていたと考えられる。

 こうした中、大化5(649)年3月17日、左大臣・阿倍内倉梯麻呂が薨じた。倉梯麻呂は推古天皇の代から蘇我蝦夷大臣と比肩する群臣の重鎮であり、蝦夷大臣と組んで田村皇子(舒明天皇)を推古天皇の日嗣に推した中心的存在であった。孝徳朝では蘇我宗家・石川麻呂を抑える「左大臣」に遇されており、倉梯麻呂の死に際し、天皇以下皇祖母尊(皇極上皇)、皇太子(中大兄)、諸公卿が朱雀門まで赴いて「哀哭」した(『日本書紀』)。孝徳天皇の妃の一人・小足媛はこの内麻呂の娘で、中大兄と対立することとなる有間皇子を産んでいる。また、もうひとりの娘・橘媛中大兄の妃となっており、孫の舎人親王が『日本書紀』編纂の責任者となった人物である。

 阿部内麻呂―+―――小足媛
(左大臣)  |   ∥―――――――有間皇子
       |   ∥
       | +―孝徳天皇
       | |
       | +―皇極天皇  +―――――――大海人皇子
       |   ∥     |      (天武天皇)
       |   ∥     |       ∥
       |   ∥―――――+―中大兄皇子 ∥――――――舎人親王
       |   ∥      (天智天皇) ∥     (知太政官事)
       |   ∥      ∥      ∥
       |   舒明天皇   ∥――――――新田部皇女
       |          ∥      
       +――――――――――橘媛

●蘇我倉山田石川麻呂の追討

 左大臣・阿部倉梯麻呂が薨じてわずか数日後の大化5(649)年3月24日、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の異母弟・蘇我臣日向が、中大兄に「僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海浜而将害之、将反其不久」と密告した。

 中大兄は日向の訴えを天皇に報告すると、天皇はすぐさま大伴狛連、三国麻呂公、穂積噛臣の三名を石川麻呂のもとへ派遣して実否を問い質したという。石川麻呂は「被問之報、僕面当陳天皇之所」と返答してその場の回答はなかった。天皇はさらに使者を遣わして問うも、再度同じ答えであったことから、軍勢を石川麻呂の館に派遣した。

 ところがこの時にはすでに石川麻呂は難波宮の館から逃れ、法師赤狛の二人の子を連れて山を越えて、飛鳥に造営中の寺(のちの山田寺)にいた子の興志のもとへ向かっていた。知らせを受けた興志は、今来の大槻(法興寺のあたりか)まで出迎え、造営中の寺に迎え入れた。興志はこの朝廷の追討に怒り、「自直進逆拒来軍」と戦うことを主張したが、石川麻呂は許さなかったことから、夜、興志は独断で離宮・小墾田宮を焼き払うべく軍勢を集めた。これは『唐律』「謀大逆」の「謂謀毀宗廟山陵及宮闕」(新井勉「古代日本の謀反・謀叛について ―大逆罪・内乱罪研究の前提として―」『日本法学』第七十八巻第一号)に該当し、量刑は絞首刑である。

 翌25日、石川麻呂は「山田寺衆僧及長子興志与数十人」を前に、「夫為人臣者安構逆於君、何失孝於父、凡此伽藍者元非自身故造、奉為天皇誓作、今我見譖身刺而恐横誅、聊望、黄泉尚懐忠退、所以来寺、使易終時」と諭すと、仏殿の戸を開けて「願我生々世々不怨君王」と言うや、自害した。ほか殉死した者は八名。そのほか「山田大臣之妻子及隨身者、自経死者衆」であった。山田寺へ馳せつけた追討軍の将士である土師連身、采女臣使主麻呂はその死を確認すると、まだ河内国内に駐屯していた大伴狛連のもとへ戻り、顛末を報告している。

 翌26日には、追討使の穂積臣噛が石川麻呂の伴党・田口臣筑紫らを捕縛。夕方には木臣麻呂、蘇我臣日向、穂積臣噛が山田寺に到着し、物部二田造塩を喚んで故石川麻呂の首を切らせた。そして30日、石川麻呂の伴党であった田口臣筑紫、耳梨道徳、高田醜、額田部湯坐連、秦吾寺ら十四人が連座して処刑され、十五人が流刑となった。

 翌3月、朝廷は石川麻呂の資財を収公すべく石川麻呂宅に使者を派遣するが、邸内には良書には「皇太子書」、重宝には「皇太子物」と認めた題紙が資財とともに遺されており、使者はこの紙を持って帰還して中大兄に報告。中大兄は石川麻呂の「心猶貞浄」を知り、「追生悔恥、哀歎難休」であったという。その直後、石川麻呂を讒した蘇我臣日向は「筑紫大宰帥」を拝しており、人々はこれを「是隠流乎」と噂したという。

 また、「皇太子妃蘇我造媛」は、父の石川麻呂臣を斬ったのが「塩(物部二田造塩)」と伝え聞いており、「塩」という言葉を聞くことすら嫌ったことから、近侍の者は「塩」を憚って「堅塩(キタシ)」と称したという。しかしその後、蘇我造媛は傷心のあまり薨じてしまったという。中大兄は造媛の死を聞き、「愴然傷怛、哀泣極甚」であったと伝わる。石川麻呂の娘で中大兄のキサキになったのは、「遠智娘」「姪娘」の両名であるが、「遠智娘」は「或本云 美濃津子娘」と見えることから、「遠智娘」に相当する可能性がある。

●石川麻呂はなぜ討たれたのか

 『日本書紀』によれば、古人大兄の追討にしても、石川麻呂の追討にしても、いずれも密告がきっかけであると記される。さらに後となるが、有間皇子の「謀反」発覚も密告によるものであった。そして、この三人のいずれもが、中大兄と政治的に深く関わる人物であり、さらに密告者はいずれも蘇我倉家の流れの人物であった。

被追討者 密告人 備考
古人大兄皇子 吉備笠臣垂 【古人大兄皇子与党の主だった者】
蘇我田口臣川掘:旧蘇我宗家の与党。蘇我一族の長老的立場か。
物部朴井連椎子:旧蘇我宗家の与党、のち赤兄臣舎人で有間皇子捕縛の人物。
吉備笠臣垂:旧蘇我宗家の与党と思われる。
倭漢文直麻呂:旧蘇我宗家の与党。白雉5(654)年、遣唐使の一員となる。
朴市秦造田来津:旧上宮王家の与党か。のち白村江の戦いで戦死する。
蘇我倉山田石川麻呂 蘇我臣日向 密告者・日向は石川麻呂の異母弟。石川麻呂との関わりは不明だが、伝によれば石川麻呂の娘と中大兄の縁組を妨害するなど、対立関係にあったことを臭わせる。その領した身狭(橿原市見瀬町)は石川麻呂の領する石川(橿原市石川町)と隣接し、屯倉に関する対立があったのかもしれない。また軽王(孝徳天皇)の宮家のあった軽(橿原市大軽町)とも近接しており、石川麻呂と日向はともに孝徳天皇に近く、日向が石川麻呂を敢えて「異母」としているところから、両者の間で倉家の長嫡争いがあり、それが転じて優遇された石川麻呂への対抗心となって、中大兄と結んでの石川麻呂排除の行動に出た可能性もあろう。
有間王子(有間皇子) 蘇我臣赤兄 密告者・赤兄は石川麻呂の弟。天皇及び中大兄の留守中に、赤兄臣に奉じられて謀反に同調するも、不祥のため盟約を解除。その直後に赤兄臣が派遣した物部朴井連鮪(椎)の手によって捕われ、中大兄のもとに突き出されたのち、絞殺された。

 石川麻呂臣は、「乙巳の変」では「韓人」を使って入鹿臣を討つ実質的な指揮を取っていたと思われ、蘇我宗家滅亡後は、阿倍内家の倉梯麻呂とともに「大臣(オホマヘツキミ)」となる。「大臣」は蝦夷大臣の「大臣」と同様の地位を継いだもので、群臣を指揮して政務を行う職掌であったとみられるが、前述のとおり一人の人物による専制を防ぐためことが両職制とされた大きな要因であろう。

 ところが、この両人は「七色一十三階之冠」が定められて「罷古冠」が指示されたものの、「左右大臣、猶著古冠」と、旧体制の「大臣」の冠である「古冠(蝦夷の使用した紫冠とみられる)」を被り続けた。これは「大臣」が規定外の特権階級であるという自負によるものと思われる。こうした石川麻呂の考え方は、すべての群臣が例外なく中央集権体制に組み込まれるという新政権の考えとは相容れず、とくに天皇及び中大兄の外戚、蘇我氏嫡流という高貴な血統者で軍事力も持つ石川麻呂の思想は、中大兄からはとくに危険視されたであろう。

 このような中で、大化5(649)年3月17日、左大臣・倉梯麻呂が薨じた。これにより石川麻呂は単独の「大臣」となるが、これは天皇外戚たる蘇我蝦夷大臣が単独の首班となっていた体制そのものであった。こうした状況に対して、朝廷が取り得るものとして考えられるものは、

(1)石川麻呂を左大臣に陞らせて、右大臣に新任者を置く
(2)石川麻呂を単独の右大臣のままとする
(3)石川麻呂を右大臣に据え置きながら、群臣から左大臣を抜擢する
(4)石川麻呂を排除し、左右大臣を冠位制度の枠組内の群臣から登用する

であろう。しかし、(1)(2)はいずれも石川麻呂の権勢が強く残ってしまい、(3)は事実上不可能であろう。新政権が秩序を保つために行えることは、おそらく(4)の選択肢しかなかったのではあるまいか。

 こうして、中大兄は石川麻呂の排除を実行に移すが、おそらく計画は倉梯麻呂の病中からすでに練られていたと考えられよう。その策は、石川麻呂の弟・日向臣に石川麻呂が「伺皇太子遊於海浜而将害之、将反其不久」という密告をさせるものであった。

 中大兄からの奏上を受けた孝徳天皇は、石川麻呂邸に「反之虚実」を問う使者を派遣するが、石川麻呂の答申は「被問之報、僕面当陳天皇之所」というものであった。おそらく使者は、日向臣からの密告で中大兄が奏上した内容と伝えたと思われるが、「面当陳天皇之所」から、他者(とくに日向臣や中大兄)への強い警戒心が感じられる。この返答を受けた天皇は、さらに「審其反状」とより強い調子で問うが同じ返答であったことから、天皇は石川麻呂邸に兵を送ったという。

 ところが、石川麻呂臣は二人の子を連れて難波を脱出しており、飛鳥山田邸に居住していた長男・興志のもとへ逃れている。しかし、石川麻呂臣は興志の主張する防戦策を否定し、山田寺に入って經死した。なぜ難波宮での弁明をせずに逃亡した挙句に死を選んだのか。その後の石川麻呂臣の遺体の処置を見ても、自裁は無実への是ではなく非であったことがうかがえ、もし潔白であれば、勅使への返答または難波宮で天皇へ自ら弁明をすべき事案である。

 以上のことから考えられることは、実際に石川麻呂臣が中大兄の暗殺を企てたという事実があった、ということである。日向臣がこの計画の詳細を密告しているということは、日向臣も首謀者の一人であった可能性が高いが、その後、密告者に転じたということになる。事件の首謀者が密告者となるという例は、古人大兄の謀反事件とまったく同じ構図(後年の有間皇子の謀反の密告とも同じ)である。当然、この密告自体が誣告であって、中大兄が日向臣に示唆した可能性も否定できないが、石川麻呂の「面当陳天皇之所」という濁した発言および無断逃亡、その後の自死から考えて、石川麻呂は「潔白ではなかった」と推測できよう。なお、中大兄の殺害計画は中大兄が「遊於海浜」という一時のもので、それが不調に終わったため、計画自体はすでに解消されていたと推測されるが、過去の計画に対する密告でも有罪とされたようである。これは、のちの有間皇子謀反に対する赤兄臣の行動、ならびに過去の計画への処罰という状況に酷似している。

 ではなぜ石川麻呂臣は中大兄を殺害しようとしたのだろうか。もっとも考えられるのは、石川麻呂臣が「大臣」の主導する政体や既得権益の放棄という旧政治的思想から脱却できず、中大兄らが打ち出す革新的な制度に反発を抱いたため、ということであろうか。石川麻呂臣が新冠を拒否して旧「大臣」の冠を被り続けているところからも旧体制への拘りが如実に見て取れる。

 經死後の石川麻呂臣は追罰で「斬」に処されているが、これは『唐律』の「謀反」(新井勉「古代日本の謀反・謀叛について ―大逆罪・内乱罪研究の前提として―」『日本法学』第七十八巻第一号)に基づいた処断であろう。中大兄に対する殺害計画が「謂謀危社稷」という「謀反」に相当する可能性は非常に高く、徒党の田口臣筑紫、耳梨道徳、高田醜、額田部湯坐連、秦吾寺ら十四人が斬、九人が絞、十五人が流刑とされた。「唐律」の規定通りであれば、絞首された九人は斬十四人の子息たち、流刑は親類たちとなる。

 その後、石川麻呂臣を密告した異母弟・蘇我臣日向「筑紫大宰帥」に任じられて赴任することとなる。世の人はこれを「是隠流乎」と噂したという。なお、これを栄転と捉える説も存在する。当時の筑紫大宰は西国における防衛・外交施設の重要な拠点のひとつであって、そこを統率する官吏に抜擢されたことは栄転と考えてもおかしくはないが、日向臣は石川麻呂臣の地位を継承することはできず、蘇我氏の氏上の地位は日向臣の兄・連子臣が継承しており、結果的に日向臣はこの事件をきっかけに没落していくこととなった。

 阿部内麻呂―+―――小足媛
(左大臣)  |   ∥―――――――有間皇子
       |   ∥
       | +―軽王
       | |(孝徳天皇)
       | |
       | +―寶王
       |  (皇極天皇)
       |   ∥―――――――中大兄
       |   ∥      (天智天皇)
       |   ∥      ∥  ∥ ∥
       |   田村王    ∥――――――――新田部皇女
       |  (舒明天皇)  ∥  ∥ ∥
       |          ∥  ∥ ∥
       +――――――――――橘媛 ∥ ∥ +―大田皇女
                     ∥ ∥ |
                     ∥ ∥ |
                     ∥―――+―鸕野讚良
                     ∥ ∥  (持統天皇)
 蘇我倉山田石川麻呂―――――――+―遠智娘 ∥
(右大臣)            |     ∥―+―御名部皇女
                 |     ∥ |
                 |     ∥ |
                 +――――姪媛 +―阿閉皇女
                          (元明天皇)

●中大兄の離京について

 白雉4(653)年、中大兄は孝徳天皇に「欲冀遷于倭京」と奏した。その理由は不明だが、天皇は許さなかったことから、中大兄は「乃奉皇祖母尊、間人皇后幷率皇弟等、往居于倭飛鳥河辺行宮」したという。このとき、「公卿大夫百官人等皆隨而遷」とあり、群臣のみならず、間人皇后までも母に同行して飛鳥へ去ってしまった。天皇はこれらの仕打ちを恨んで「欲捨於国位」と言い捨てて「令造宮於山碕」と新たに山碕に新宮を造営させたとする。

 本来であれば、天皇の詔に背いて去る「謂謀背国従偽」の「謀叛」の大罪を中大兄自身が犯しており、中大兄は斬、それに従った群臣すべて同罪となりうる程の事件であるが、おそらく遷移の発案者は皇極先帝であったのだろう。いまだ皇位に流動性が見られた当時、儒教の観念上、天皇の義母たる皇極先帝の意見が尊重されて当然であることや、孝徳天皇自身「為人柔仁好儒」と儒教に傾倒していたことから、皇極先帝の意思に基づいて、先帝以下は飛鳥へと帰還することになったと思われる。ただ、間人皇后までもが飛鳥へ戻ったことは天皇の考えに反したことは確実であり、天皇は嘆きのあまり「欲捨於国位」て「山碕」に造宮して遷る計画を立てた。孝徳天皇が「国位」を捨てて誰人への譲位を考えていたのかは不明であるが、実子・有間皇子は年若く不適当であることから、先帝皇極への返し譲位が想定されるか。

 なお、皇極先帝らが遷った「飛鳥河辺行宮」は「行宮(仮宮・権宮)」であることから、政権が二分されたわけではなく、あくまで朝廷は難波宮にあり、天皇との決定的な決裂ではない。皇極先帝が遷った場所は、現在の「飛鳥稲淵宮殿跡」(明日香村稲渕)とされているが、「飛鳥稲淵宮殿跡」は飛鳥から飛鳥川を遡上した狭隘な山間部のわずかな平地に造営されていることや、そもそもこの地は「飛鳥」ではないことから「飛鳥河辺行宮」では有り得ない。おそらく後年、岡本宮造営の際に遷った権宮・飛鳥川原宮と同じ宮であろう。「飛鳥稲淵宮殿跡」については、皇極天皇2年に「南淵河上」へ行幸して「跪拜四方、仰天而祈」していることから、南淵邑に祈祷施設が造営されたと考えられることから、前述の通り、その施設こそが「飛鳥稲淵宮殿跡」であって、泰山に擬された「田身嶺(多武峰)」を遥拝する明堂であった可能性が高いのではないだろうか。

 こうした混乱の中、白雉5(654)年正月5日、「以紫冠授中臣鎌足連、増封若干戸」と、中大兄の信任厚い中臣鎌足連に「紫冠」が授けられ、若干の増封が行われた。この「紫冠」はかつての最上冠位で大臣位に就く人物が授けられていた。皇極先帝および中大兄らが飛鳥に戻ったのちも、鎌足連は「内臣」として孝徳天皇の側近く仕えていたと考えられ、天皇と飛鳥行宮との接点であったのかもしれない。

 このような中で同年秋、孝徳天皇は難波宮で病に倒れた。10月1日、中大兄は皇極先帝、間人皇后、皇弟(大海人皇子)ほか群臣とともに難波宮へ駆けつけて見舞うが、10月10日、天皇は難波宮の正寝で崩じた。宝算五十九。すぐに難波宮南庭に殯宮が造営され、小山上・百舌鳥土師連土徳が殯宮の監督に任じられた。そして二か月後の12月8日、天皇の棺は大坂磯長陵へ遷され、皇極先帝は中大兄らとともに飛鳥河辺行宮へと戻り、翌(655)年正月3日、皇極先帝(寶王)はかつて居宮としていた飛鳥板蓋宮で重祚した(斉明天皇)

●寶王の重祚(斉明天皇)と飛鳥宮の建設

 皇極先帝が再度皇位を践ぐ「重祚」を行った理由は定かになっていない。践祚はこれまでの慣習であれば、故天皇の兄弟がすべて鬼籍に入った場合は、その世代の故長兄天皇の皇子が即位する慣わしであった。つまり、孝徳天皇の崩御に伴って皇位は皇極天皇の長子である中大兄が継承するのが妥当であった。このとき中大兄はすでに三十歳であり、皇位継承には十分な年齢でもあった。ところが、中大兄は皇位を践がず、結果として母・皇極先帝の重祚となる。中大兄が敢えて即位をしなかった、その最も大きな原因として考えられることは、母・皇極先帝が「譲位」によって皇位を退いた存命の先帝であった、ということであろう。

 かつて皇極先帝が孝徳天皇の意向を無視して難波宮を去り、飛鳥河辺行宮へ遷り得たのは、儒教観念により、弟天皇よりも尊属に位置する「皇祖母」皇極先帝の権威が勝った結果に他ならず、のちの斉明天皇の積極的な内外治世を見る限り、たとえ中大兄が践祚したとしても、中大兄は孝徳天皇同様、皇極先帝の意向を無視することはできなかったと考えられ、中大兄は大いにこれを嫌った結果、践祚を固辞したのではなかろうか。その結果、皇極先帝は史上初の「重祚」という即位形態を取る他なかったと思われる。

 10月13日には、皇位継承の慣例通り新宮を造営することとなるが、当初はかつて権宮とした推古天皇の小墾田宮を改築しようとした。ところがなかなか良質の資材が集まらずに断念する。ところが、冬に入って、居宮の飛鳥板蓋宮までも火災で焼失してしまうという悲劇に見舞われたことから、いったん飛鳥川を挟んだ西隣の「飛鳥川原宮」へと遷り、焼失した板蓋宮を更地にして新宮の建設を開始。翌斉明天皇2(656)年に竣工して移り住んだ(後飛鳥岡本宮)。飛鳥川原宮は、板蓋宮が火災にあった直後に遷っていることから、すでに存在していたことがわかるが、おそらく「飛鳥河辺行宮」と同一のものであろう。

 ところが斉明天皇はこの宮造営を皮切りに、各所に「宮」を作ったり「大渠」を掘ったり石積みを築いたりと大規模な土木工事を繰り返し、諸人の批判を浴びてしまうこととなる。竣工なったばかりの岡本宮も火災に遭っており、不満を募らせた何者かによる放火の可能性も否定できないだろう。ただし斉明天皇が行ったこれらの工事は、いずれも唐や朝鮮諸国の使者に対する国家的な威厳を見せるために必要なものであったと推測され、決して「狂心」から出たものではない。外交施設や迎賓館、そこには儒教や道教の世界観を表現する建造物などが置かれた先進的な「東アジア文明都市」の建設が行われたのであった。

●有間皇子の謀反

 斉明天皇3(657)年9月、天皇の甥に当たる有間皇子紀国「牟婁温湯」から帰京するが、これは病気療養のためという名目であった。有間皇子は先帝・孝徳天皇の皇子であり、将来の有力な皇位継承権者であったが、これまで様々な人々が政争に巻き込まれて粛清されており、彼も身の危険を感じていたのだろう。本来は聡明な性質であるが「陽狂(愚かな様子を演じる)」していたという。帰京した有間皇子は、伯母の斉明天皇に「讚国体勢」して「纔観彼地、病自蠲消」と報告、斉明天皇は悦んで「思欲往観」と語っている。

 有間皇子は自身の宮家を「市経(高取町市尾)」に置いたが、これは市尾周辺を支配していた左大臣・巨勢徳太臣の支援を受けていたためであろうから、有間皇子が警戒されうる立場にあったことは否めない。こうした中で、支援者であった左大臣・巨勢徳太臣が斉明天皇4(658)年正月13日に薨じてしまった。巨勢氏は蘇我氏のような貴種ではないためか、巨勢徳太臣の子・巨勢臣黒麻呂らはさほどの高官とはなっておらず、有間皇子の後見とは成り得なかったのだろう。そのため、有間皇子は巨勢徳太臣の死後は蘇我倉家の庶子・蘇我赤兄臣(当時の蘇我氏上はおそらく赤兄の兄・連子臣で、巨勢徳太臣を次いで左大臣になっていたか)と結びついていたと考えられる。

 そのような中、斉明天皇4(658)年10月、斉明天皇は中大兄らを伴って、有間皇子の推薦した「紀温湯(牟婁温湯と思われる)」へと行幸するが、この天皇・中大兄の留守中に大事件が勃発することになる。

 斉明天皇4(658)年11月3日、「留守官蘇我赤兄臣」が有間皇子に、斉明天皇の「所治政事有三失矣」として、大きな倉庫に民財を積聚していること、長い渠を穿って公糧を損じたこと、舟で石を運び積んで丘にしたことを挙げ、有間皇子に対して斉明天皇を廃して皇位を践ぐべきことを語ったようである。有間皇子は赤兄臣の「善」意を知ると「欣然」として「吾年始可用兵時矣」と答えたという。赤兄臣とは蘇我倉家と父・孝徳天皇の関係から交流があったと思われ、これだけの計を謀る上では数度に渡る密談が行われたと考えるのが妥当だろう。

 ところが11月5日、有間皇子が赤兄臣邸の楼の上で「謀」を話し合ったが、そのとき座っていた「夾膝」が折れた有間皇子はこれを「不祥」であるとして、「倶盟而止」として宮家へ帰っていった。しかし、赤兄臣はその日の夜中に「物部朴井連鮪」造宮の丁(使役人)を率いさせて有間皇子の「市経」の宮家を取り囲んでこれを軟禁する。「物部朴井連鮪」は、かつて古人大兄謀反の首謀者であった「物部朴井連椎子」と同一人物とみられ、蘇我倉石川麻呂に仕えたのち、弟・赤兄臣の舎人になったものだろう。

 なお、赤兄臣の「留守官」の職掌については、天皇不在の朝廷の行政・司法の担当官で、複数名任じられたと思われるが、赤兄臣が造宮丁を有間皇子の捕縛に向かわせていることから、「留守官」に軍事指揮権は委任されていなかったことがうかがえる。造宮丁を動かせたのは、行政官として造宮・土木工事を司っていたためであろう。

 この「謀反」の一報は、赤兄臣が駅使を遣わして牟婁温湯の斉明天皇へ奏上し、11月9日、有間皇子は逮捕された。その後、有間皇子と資人の守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯯魚が牟婁温湯へ護送された。有間皇子には舎人の新田部米麻呂のみが付き従うことを許された。その後、牟婁温湯で中大兄と対面した有間皇子は、中大兄からの「何故謀反」との問いに対し、「天与赤兄知、吾全不解」と答えている。その後、有間皇子は飛鳥への道を護送されたと思われるが、その途上、「藤白坂(海南市藤白)」で11月11日、中大兄の指示を受けた丹比小沢連国襲によって尋問を受けることなく「絞」された。また、塩屋連鯯魚と舎人の新田部米麻呂は「斬」、守君大石は上毛野国へ、坂合部薬は尾張国への流刑とされた。塩屋連鯯魚は大化2(646)年3月19日に孝徳天皇から賛美された人物であり、有間皇子のとくに近い側近であったと思われ、謀反にも積極的に加担していたのだろう。

 天皇はこの事件のあとも温泉に滞在し、翌斉明天皇5(659)年正月3日に飛鳥へ帰京する。

■有間皇子の謀反について

 この事件は、有力皇位継承者である有間皇子を排除するために、中大兄が赤兄臣に命じて行った謀略であるという説がある。しかしながら、

(1)蘇我赤兄臣は謀反の計画が有間皇子の不祥により中止になった直後に、皇子を軟禁して護送している
  ⇒赤兄は自分が謀反に加担した事実が表に出る前に処置に出たと思われる
(2)蘇我赤兄臣の「留守官」に兵士指揮権はない(工事作業員に有間皇子捕縛を命じている)
  ⇒中大兄が赤兄臣に有間皇子謀反を唆させたとすれば、捕縛のための兵士指揮権を与えているはずである
(3)天皇や中大兄の赴いた先が交通の便が非常に悪い場所で、さらに遠方である
  ⇒中大兄が有間皇子に謀反を誘発させる計画としてはあまりに無防備かつ杜撰である

といった疑問点が挙げられ、この有間皇子の謀反劇は、実際に赤兄臣が有間皇子を奉じた謀反計画であった可能性が高いだろう。「或本」では「先燔宮室、以五百人一日両夜邀牟婁津、疾以船師断淡路国、使如牢圄」と、居宮を焼いて牟婁津に五百名の兵を配置した上で、船団で淡路国を封鎖して、天皇一行を孤立させる計画であったとされ、ある人に諌められて計画を断念したとする。

 なぜ有間皇子と赤兄臣が「謀反」を企てたのか、そしてなぜ赤兄臣が有間皇子を奉じたのか、そのあたりの事情については一切諸書に記載されず、また赤兄臣に対する記述がその後十年余り途絶えてしまうことから、詳細は不明であるが、

名前 謀反を企てた理由
有間皇子 (1)政争に巻き込まれる恐れ
(2)暗殺への恐れ
(3)後見の左大臣巨勢徳太臣の病?(徳太臣が病だった確証はない)
(4)皇位への憧憬?(十八~十九歳という年齢は、本来は群臣の理解は得られないと考えられるが、天皇に
   対する人々の怨嗟の声は高かったことから、可能性はあろう)
蘇我赤兄臣 (1)蘇我倉家の庶子としての不遇(後年左大臣になるも冠位は兄連子臣の二ランク下で停まっている)

 といった理由が考えられる。また、赤兄臣は蘇我倉家の一員として孝徳天皇との関わりが深い一方で、中大兄との直接的な関わりは見られない。そして、蘇我倉家の氏上は兄・左大臣連子臣であることから、そこからの脱却を模索していたのかもしれない。

 この謀反の計画は、実際はかなり早い段階から進められていた可能性がある。有間皇子が湯治と称して紀国「牟婁温湯」へ行っているが、この時点ですでに謀反の企てはかなり具体的に進んでいたと考えられ、斉明天皇3(657)年9月に帰京して、「牟婁温湯」の素晴らしさを斉明天皇へ報告して勧めたのは、交通手段の乏しい僻地に天皇と中大兄らを追放する壮大な謀計の初手であろう。「牟婁温湯」から飛鳥へ戻るには、牟婁津から出帆し、和歌浦、紀ノ川を経て巨勢氏の勢力範囲である高市郡と有間皇子の宮家のある市経を通過する必要があった。いったん紀国へ天皇一行を閉じ込めることができれば、彼らに事実上帰国の術はなくなるのである。

 ところが、この計画に齟齬が発生する。斉明天皇4(658)年正月13日の左大臣巨勢徳太臣の死去である。巨勢徳太臣がこの謀計に加担したとは思えないが、たとえ巨勢徳太臣が加担せずとも、左大臣巨勢徳太臣を後見人とする有間皇子の挙兵となれば、その影響力は大きなものであっただろう。ところが徳太臣の後継である巨勢黒麻呂臣や巨勢馬飼臣は奮わず、徳太臣の死後、巨勢氏の影響力はかなり低下したと考えられる。しかし、有間皇子と赤兄臣は謀計を止めることはなかった。

 そして斉明天皇4(658)年10月、斉明天皇は中大兄らを伴って「紀温湯」へ行幸する。それに伴い、飛鳥京には行政官として「留守官」が置かれ、その一人に蘇我赤兄臣が選ばれている。赤兄臣はおそらく自ら留守官に名乗りを上げたのだろう。「留守官」は持統天皇6(692)年3月3日条の例をみると「以浄広肆廣瀬王、直広参当麻真人智徳、直広肆紀朝臣弓張」(『日本書紀』)と、諸王では最下冠、諸臣も高位ではない人物が担当していることから、赤兄臣も蘇我倉家庶子として同様の処遇であったことがうかがわれる。

 赤兄臣が「留守官」に就くなど、着々と謀反の謀計が進められていくが、11月5日に有間皇子が赤兄臣邸の楼の上で「謀」を話し合った際に、有間皇子の「夾膝」が折れた。有間皇子はこれを「不祥」と感じ、謀計をすべて白紙とし(「倶盟而止」)、宮家へ帰ってしまった。赤兄臣はこれで有間皇子が事をともに語る人物ではなかったと感じたと同時に謀反発覚をおそれたと考えられる。「留守官」赤兄臣はただちに有間皇子を謀反人として捕縛することを考えたが、「留守官」には兵を動かす権限は与えられていなかった。そこで、造宮の丁(使役人)を俄仕立ての捕縛人とし、麾下の「物部朴井連鮪」に命じて有間皇子の「市経(高取町市尾)」の宮家に向かわせ、宮を取り囲んで軟禁したと思われる。

 赤兄臣は「留守官」が所有した「鈴印」を以て駅使を「紀温湯」の斉明天皇へ遣わして、有間皇子の謀反を奏上し、11月9日、有間皇子を「紀温湯」へ護送。有間皇子は中大兄からの「何故謀反」との問いに対して「天与赤兄知、吾全不解」と答えているが、その発言は採られることはなかったようで、11月11日、有間皇子は「藤白坂(海南市藤白)」で絞首された。

 なお、赤兄臣の罪は問われていないことから、おそらく赤兄臣の謀反は発覚することはなく、有間皇子の謀反を食い止めた功績が認められたのだろう。その後の冠位も昇進したと考えられる。なお、赤兄臣は娘の常陸娘を中大兄のキサキとし、天智称制2(663)年に山辺皇女が生まれていることから、兄・石川麻呂臣と同様に外戚の地位をうかがったものだろう。そして、天智称制3(664)年5月、兄の左大臣・蘇我連子臣(大紫)の薨去に伴い蘇我氏上となったとみられ、天智天皇8(669)年10月19日当時「大錦上」であった。そして天智天皇10(671)年正月5日、ついに左大臣を拝し、石川麻呂、連子に続く、蘇我倉家から三人目の大臣を輩出することとなった。ただし、連子臣に続く紫冠になることはできず、蘇我氏の地位の低下がみられる

 蘇我馬子―+―蘇我蝦夷――蘇我入鹿
(大臣)  |(大臣)  (臣)
      |
      |【倉家】
      +―蘇我麻呂―+―蘇我麻呂―+―遠智娘
       (倉麻呂臣)|(右大臣) |   ∥――+―鸕野讚良
             |      |   ∥  |(持統天皇)
             |      |   ∥  | ∥
             |      |   ∥  | ∥―――――草壁皇子
             +―蘇我連子 +―姪媛∥  | 天武天皇  ∥――――文武天皇
             |(左大臣)   ∥ ∥  | ∥     ∥
             |        ∥ ∥  | ∥     ∥
             |        ∥―∥――――――――――阿閉皇女 
             +―蘇我日向   天智天皇 | ∥    (元明天皇)
             |(臣)    (中大兄) | ∥
             |        ∥    | ∥―――――大津皇子
             |        ∥    | ∥     ∥
             |        ∥    +―大田皇女  ∥
             |        ∥            ∥
             |        ∥            ∥    
             |        ∥――――――――――――山辺皇女
             +―蘇我赤兄―――常陸媛
             |(左大臣)
             |
             +―蘇我果安
              (御史大夫)

●百済滅亡と斉明天皇の崩御

 斉明天皇6(660)年7月、朝鮮半島の一角をなす百済国が、新羅と唐の連合軍に敗れて滅亡した。これを受けた天皇は「欲為百済将伐新羅」として、駿河国に「造船」の勅を下し、造った船を西へと曳航させたものの、「至績麻郊之時、其船夜中無故艫舳相反」と、伊勢国麻績郷のあたりで転覆。人々は敗戦を予想したという。

 10月には百済王一族の筆頭官(佐平)で、ゲリラ活動を展開していた鬼室福信が日本に使者を遣わして、日本で育っていた百済王子・余豊璋を奉じて再興を目指すことを志し、救援を求めてきた。これを受けた中大兄は天皇とともに12月24日、難波宮に移って武器を備えた。

 翌斉明天皇7(661)年正月6日、中大兄は天皇とともに征新羅の軍勢を起して瀬戸内海へ船出した。そして正月8日、船が「大伯海」へと至った際に、大海人皇子の妻「大田姫皇女」が女児を出産した。これにより、この女児には「大伯皇女」の名が付けられたという。臨月を迎える女性であっても長い船旅に同行していたことがわかる。なお、このとき中大兄は三十三歳であることから、大田皇女はまだ十代半ばであったとみられる。

   蘇我倉山田石川麻呂――遠智娘
  (大臣)        ∥――――+―――――大田皇女
              ∥    |      ∥
              ∥    |      ∥
   舒明天皇     +―中大兄  +―鸕野讃良 ∥
   ∥        |(天智天皇) (持統天皇)∥
   ∥――――――――+         ∥   ∥――+―大伯皇女
   ∥        |         ∥   ∥  |(斎宮)
   ∥        |         ∥   ∥  |
 +―斉明天皇     +―――――――――大海人皇子  +―大津皇子
 |          |        (天武天皇)
 |          +―間人皇女
 |            ∥
 +――――――――――――孝徳天皇

 その後、3月25日に「娜大津」に到着。「磐瀬行宮」に入り、5月には朝倉橘広庭宮に遷ったようである。「娜大津」はかつての奴国のあった福岡市博多区の砂洲に造営された官港であろう。

 7月には、唐の蘇将軍と突厥の王子・契苾加力らが水陸二路から高句麗王都平壌城に攻め込んでいる。この報告を長津宮(福岡市)で受けた中大兄は、水軍を召集し、8月、前将軍・阿曇比羅夫連(大花下)、河辺百枝臣(小花下)、後将軍・阿倍引田比羅夫臣(大花下)、物部連熊(大山上)、守君大石(大山上)らに軍勢と食料をつけて、百済へ派遣した。なお、守君大石はもともと石川麻呂の党類で三年前に上毛野国への流罪とされたが、この時点での冠位から推測すると、おそらく執行されなかったのであろう。

 このような緊迫する半島情勢の中、天皇は体調を崩し、斉明天皇7(661)年7月24日、朝倉橘広庭宮で崩じた。

 中大兄は8月1日、朝倉宮から天皇の遺骸に供奉して磐瀬宮へ移り、ここで仮の殯宮が営まれたと思われるが、緊迫の度を深める半島情勢への対応を行うため、天皇の遺骸を帰還させることも叶わぬままに政務・兵站に追われることとなった。

 9月、中大兄は長津宮で百済王子・余豊璋に最高位の「織冠」を授けて多臣蒋敷の妹を娶わせてその妻とし、狹井連檳榔(大山下)・秦造田来津(小山下)らに五千余の兵をつけて護衛させ、百済へ派遣した。おそらくその直後、豊璋はふたたび日本に戻ってきたのだろう。なお、将軍・秦造田来津は、古人大兄謀反の首謀者であるが罰せられずに復帰している。

 10月7日、中大兄はようやく天皇の遺骸を奉じて飛鳥へ向けて出航。10月23日、難波を経て11月7日、飛鳥川原宮で改めて殯が執り行われた。

■中大兄の称制と白村江の戦い

 斉明天皇の崩御後、皇嗣候補は中大兄以外に存在しなかったが、中大兄は即位することなくこれまでと同様に政務を聴た(称制)。ただし、中大兄はあくまで天皇代行者であって、象徴的に天皇に擬されたのは、おそらく孝徳天皇后・間人大后(中大兄妹)であったのだろう。中大兄はすでに三十六歳で即位に十分な年齢となっており、それでも即位しなかったのはそれだけの大きな理由が考えられ、それはおそらく唐や新羅との対外関係で緊迫感が増す中で、実質的な実務者としての立場があった可能性が高いだろう。

 称制元(662)年正月、中大兄は鬼室福信へ矢十万本、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、鞣革一千張、稲種三千石を賜り、5月には大将軍・安曇比羅夫連らに兵船百七十艘を指揮させ、余豊璋をふたたび半島へと送り届け、豊璋をして百済王の位を継ぐことを勅し、金を福信に賜わったという。

 称制2(663)年3月、中大兄は前将軍・上毛野君稚子間人連大蓋、中将軍・巨勢神前臣譯語三輪君根麻呂、後将軍・阿倍引田臣比羅夫大宅臣鎌柄らに命じて二万七千の兵を百済へ派遣した。彼らは百済から新羅へ攻め込むと、前将軍・上毛野君稚子らは沙鼻岐城奴江城の二つの城を攻め落としたが、同盟軍の百済軍では内紛が起こっていた。百済豊璋王は福信に謀反の心があるとの噂を信じて彼を嫌いはじめ、彼を逮捕すると諸臣の前で裁判にかけた。斬るべきか赦すべきかの王の質問に、達率・徳執得は、「此悪逆人不合放捨」と彼の処刑を望んだ。これに福信は怒り、徳執得に唾を吐きかけて「腐狗癡奴」と罵った。しかし王は、徳執得の言葉を待っていたかのように、ただちに福信を斬首し塩漬けにしてしまった。百済再興のために命がけで戦ってきた忠臣・鬼室福信はその再興の珠玉であった豊璋と讒言者によって惨殺されてしまうという悲劇の主人公となってしまった。

 8月、新羅は百済王豊璋が宿敵・鬼室福信を葬り去ったことに喜び、たちまち百済に攻め込んできた。唐も百七十艘の水軍を率いて百済へ迫ったため、豊璋は白江で中大兄が派遣した将軍・廬原君臣と合流。8月27日、百済・日本連合軍と新羅・唐の連合軍は白村江において激戦を繰り広げた(白村江の戦い)

 緒戦においては日本の水師と唐の水師との争いとなり、百済・日本軍は不利となって退却。唐軍は陣所に籠もって守りを固めた。そのため、翌8月28日、日本諸将と百済王豊璋は作戦を練るが、それは「気象」を見ないままの軍議であり、机上の空論であったようだ。「我等争先彼応自退」という楽観的な考えのまま唐の堅陣の前に不用意に兵船を動かしたため、挟撃にあって兵士は次々と溺死。船を旋回させて退くことも叶わず、将軍・朴市田来津(古人大兄の謀反の首謀者の一人)は自ら数十人の兵を奮戦も空しく戦死した。この時、百済王豊璋は数人の供に守られて高句麗へ逃亡、日本軍も這々の体で帰国することとなる。こうして百済は完全に滅亡し、9月24日、百済の遺民は余自信(佐平)、木素貴子(達率)、谷那晋首(達率)、憶礼福留(達率)とともに弖礼城に集まり、翌25日、日本の軍船とともに日本へと逃れた。

 称制3(664)年2月9日、中大兄は「大皇弟(大海人皇子)」に「冠位階名」を増換と「氏上」および「民部、家部等」の改革について命じている。中大兄が政務の一端を弟・大海人皇子に担わせた様子がうかがえる。「冠位階名」については、それまでの十九階から二十六階へと増階されたほか、氏上へは刀や楯、弓矢などが下賜され、民部、家部についても定められた。

 3月には「百済王善光王」を難波に居住させた。善光(禅広)王は豊璋王の弟で、「高市岡本宮馭宇天皇御世、義慈王遣其子豊璋王及禅広王」と、舒明天皇の御世に百済義慈王によって飛鳥へ送られた百済王子であったことがわかる。その後、兄の豊璋王は百済再興の旗頭として新羅や唐との戦いに邁進するが、善光王はそのまま飛鳥へ残って帰国せず、舒明天皇から持統天皇までの七代の天皇に侍り、百済王の号を賜って百済王氏の祖となる。

 白村江の戦いで大敗を喫した中大兄は、その後の唐・新羅からの侵攻に備えるため、西国に対して防備の拡張を指示。対馬国、壱岐国、筑紫国などに烽火や防人を置き、大堤を築いて水を蓄えた「水城」を築かせている。

 このような緊迫感の中、5月17日に唐の百済鎮将・劉仁願朝散大夫・郭務悰を遣わし、貢進表と献物を進めた。これはおそらく休戦協定のようなものの取り決めだったか、郭務悰はしばらく逗留しており、10月1日、中大兄はようやく帰国を許す勅書を出し、その命を受けた中臣鎌子連内臣が「沙門智祥」を遣わして郭務悰に贈物を下賜。10月4日には送別の宴が開かれている。そして12月12日、郭務悰は唐へと帰国の途についた。これにより、唐との緊張関係は和らぐこととなったとみられる。

 天智称制4(665)年2月25日、故孝徳天皇の皇后であった間人大后が崩御した。中大兄の年齢から考えてまだ三十代半ばであったと推測される。十代半ばという若さで叔父の天皇に嫁したものの、夫天皇よりも母・斉明天皇との母娘の関係の方が強く、母が難波宮から飛鳥へ移住した際にも夫天皇ではなく母を選び、ともに飛鳥へと遷ってしまうほどであった。そして大后は遺詔で母天皇との合葬を遺勅していたと思われ、二年後の天智称制6(667)年2月27日、小市岡上陵に斉明天皇陵とともに合葬された。実際の埋葬まで崩御後二年の時が経過していることから、おそらく歴代天皇同様に殯が行われたと思われ、大后が天皇に準じた立場にあったことをうかがわせる。また同日、中大兄の娘で大海人皇子キサキであった大田皇女も小市岡上陵の前墓へ埋葬している。

 また同月、鬼室福信の子・鬼室集斯に、福信の功績を称えて小錦下の位を授けた。また、百済から逃れてきた男女四百余人近江国神前郡に集住させ、3月、彼らに田を与えた。内政の充実を図る政策であろう。

 8月には、百済の亡命官吏・答㶱春初(達率)を長門国に派遣して城を築かせ、同じく筑紫国には憶礼福留(達率)、四比福夫(達率)を派遣して大野城・基肄城といった朝鮮型山城を築かせた。すでに唐との緊張は緩和したものの、万が一に備えた築城であったのだろう。

 9月20日、唐からの使者、朝散大夫・劉徳高(沂州司馬・上柱国)、右戎衞郎将・百済禰軍(上柱国)・朝散大夫郭務悰(柱国)ら二百五十四人の一行が筑紫に到着する。彼ら一行は7月28日には対馬についており、二月余り滞在している。日本側の様子を窺っていた可能性があろう。筑紫国に着いた一行はおそらく筑紫館(のちの鴻臚館)に留まったものと思われ、22日には国書が日本側の官吏に手渡された。一行は飛鳥まで赴くと、10月11日には「菟道」で行われた大規模な軍事演習を閲兵。11月13日に饗宴が行われた。彼らは約二か月間飛鳥に滞在しており、再度の和平朝議が行われたと考えられよう。そして12月14日、彼らに下賜品が下され、一行は唐へと帰国することとなる。その直後には、返礼の使者として小錦・守君大石、小山・坂合部連石積、大乙・吉士岐彌、大乙・吉士針間が唐に派遣されている。

 天智称制5(666)年冬、百済からの移民二千余人を東国へ移した。具体的な地名はないが、その他東国へ移った高麗人や新羅人らが東国に伝えた妙見信仰が秩父氏を通じて千葉氏に伝えられたと考えられている。

 天智称制6(667)年3月、中大兄近江国大津遷都し、さらに11月には倭国に高安城、讃吉国に屋島城、対馬に金田城など城を築き、九州から都に至るまでの防線を築き上げた。さらに翌天智称制7(668)年7月には筑紫大宰の長官である「筑紫率(筑紫帥)」「栗前王(栗隈王)」を任じて守衛させている。彼は敏達天皇の孫で中大兄とは比較的血統が近く、またその剛毅な性格が筑紫の防衛には適しているとみられたのかもしれない。

                           +――――姪媛
                           |    ∥――――――――元明天皇
                           |    ∥        ∥
 息長真手王――広姫            蘇我麻呂―+―遠智娘∥        ∥
        ∥            (右大臣)   ∥  ∥        ∥     
        ∥                    ∥―――――持統天皇  ∥―――――文武天皇
        ∥                    ∥  ∥  ∥     ∥     ∥
        ∥                    ∥  ∥  ∥     ∥     ∥
        ∥―――――押坂彦人大兄――舒明天皇―+―天智天皇  ∥―――――草壁皇子  ∥
        ∥                  |       ∥           ∥
        ∥                  |       ∥           ∥
        ∥                  +―――――――天武天皇        ∥―――――聖武天皇
        ∥                                      ∥     ∥
        ∥                                      ∥     ∥
        敏達天皇                 藤原不比等―――――――――――――藤原宮子  
        ∥                    ∥                       ∥
        ∥                    ∥―――――――――――――――――――――――藤原光明子
        ∥                    ∥                      (光明皇后)
        ∥                    県犬養三千代
        ∥                    ∥
        ∥                    ∥―――――葛城王――…【橘朝臣】
        ∥―――――難波皇子――――栗隈王――――美努王  (橘諸兄)
 春日臣仲君――老女子                

■即位(天智天皇)

 天智称制7(668)年正月3日、中大兄は践祚(天智天皇)し、2月、倭姫王(異母兄・古人大兄の娘)を皇后とした。天皇には八人のキサキがいたことが知られるが、宮廷貴族出身者が四人、宮人が四名だった。倭姫王が立后した理由の考察についてはこちら参照

+―蘇我蝦夷――――入鹿                越道君―――――――――――伊羅都売
|                                          ∥
+―蘇我倉麻呂―+―倉山田石川麻呂―+―――――――――――遠智娘 +―大田皇女   ∥―――施基皇子
        |         |            ∥  |        ∥
        |         +―姪娘 +―御名部皇女 ∥――+―鸕野讃良皇女 ∥
        |           ∥  |       ∥  |(持統天皇)  ∥
        |           ∥――+―阿陪皇女  ∥  |        ∥
        |           ∥   (元明天皇) ∥  +―建皇子    ∥
        |           ∥          ∥           ∥
        |       天          智          天         皇
        |        ∥         ∥        ∥     ∥      ∥
        |        ∥――+―飛鳥皇女 ∥――+―大江皇女∥―水主皇女∥―大友皇子 ∥―山辺皇女
        |        ∥  |      ∥  |     ∥     ∥(弘文天皇)∥
        | 阿倍内麻呂――橘娘 +―新田部皇女∥  +―川嶋皇子∥     ∥      ∥
        |                  ∥  |     ∥     ∥      ∥
        | 忍海造小龍――――――――――色夫古娘 +―泉皇女 ∥     ∥      ∥
        |                           ∥     ∥      ∥
        | 栗隈首徳萬――――――――――――――――――――黒媛娘    ∥      ∥
        |                                 ∥      ∥
        |                      伊賀の豪族――――采女宅子     ∥
        |                                        ∥
        +―赤兄――――――――――――――――――――――――――――――――――――常陸娘

 5月5日、天皇は大津宮の南、蒲生野にて狩を行い、大皇弟(大海人皇子)や諸王中臣鎌子連内臣はじめ、群臣たちがこれに扈従したという。

 天智天皇2(669)年正月、蘇我赤兄臣筑紫率とした。前年7月には敏達天皇孫王の栗隈王が任じられており、短期間での交代となる。しかし、同年5月の中臣鎌足連内臣(鎌子を改めたか。本来の姓名は中臣鎌連で、子や足は尊称に相当するか)の薨去に伴う使者として赤兄臣が遣わされていることから、赤兄臣が赴任したとすればその後のこととなり、翌天智天皇3(670)年中には帰京(翌々年正月に赤兄臣は左大臣となっている)するという慌しさとなっている。そして同年7月には再度栗隈王が筑紫帥に任じられて赴任している。

 5月5日、天皇は大津宮の西、山科野に狩を行い、大皇弟(大海人皇子)、中臣鎌足連内臣ほか群臣がこれに従った。しかし、その直後に鎌足連は病に倒れ、10月14日、天皇自ら鎌足邸に行幸してこれを見舞っている。天皇と鎌足連は言葉を交わしあい、翌15日、天皇は「東宮大皇弟(大海人皇子)」を鎌足邸へ遣わし、「授大織冠与大臣位仍賜姓為藤原氏」と、「大織冠」の冠位と「大臣位」ならびに新姓「藤原朝臣」の「賜姓」を行ったという。これより鎌足連は「藤原内大臣」と称されることとなった。そして翌16日に鎌足連は急死する。五十歳とも五十六歳ともいわれる。天皇は蘇我赤兄臣を勅使として鎌足邸に派遣し、恩詔と金を賜った。このとき、鎌足内大臣の子・史はわずか十一歳であったため、新家の藤原氏として官憲に就くことはできず、鎌足が除籍した中臣氏は鎌足の縁者(系譜上は従兄弟)とみられる中臣金連が継承している。

 天智天皇4(671)年正月5日、「大錦上中臣金連」に命じて神事を宣じさせた。「大錦上」は大臣位の相当冠・紫冠のすぐ下位であることから、中臣金連も鎌足同様に天智天皇の深い信頼を得ていた人物と推測され、多くの中臣諸氏の中でも鎌足に次ぐ高官となっていることから、鎌足とともに行動していた可能性が高いだろう。この神事は即位以来行われていたであろう、唐同日行われた大規模な官制変更にともなう神事であろう。官制変更は、天智天皇第一皇子の大友皇子を太政大臣蘇我赤兄臣を左大臣中臣金連を右大臣蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣を管理官の「御史大夫」に任じるものであったが、これは唐官の模擬官制であろう。このほかにも諸官が定められたと思われるが、その記録は残されていない。

 太政大臣に相当する「尚書令」は、唐では太宗皇帝(李世民)が王公時代に就任した官であり、太宗が尚書令当時に兄の「太子」李建成を討って、父・高祖から帝位を譲られている。大友皇子の太政大臣就任が事実かは不明だが、天智天皇の事実上の皇嗣であった大海人皇子を廃して大友皇子を即位させようとするメタファーではなかろうか。

【皇帝】   【尚書令】    【左尚書僕射】
 天智天皇―+―大友皇子―――+―蘇我赤兄臣
      |(太政大臣)  |(左大臣)
      |        |
      |【太子】    |【右尚書僕射】
      +―大海人皇子  +―中臣金連
      |(皇太弟)    (右大臣)
      |
      |【御史台:行政府とは独立して存在】
      +――――――――+―蘇我果安臣
               |(御史大夫)
               |
               +―巨勢人臣
               |(御史大夫)
               |
               +―紀大人臣
                (御史大夫)

 翌6日、「東宮太皇弟(大海人皇子)」は「冠位法度之事」を奉宣して施行し、「大赦天下」を行った。なお、「或本」によれば「大友皇子宣命」によって行われたともされており、前日の新官制制定にともなうものと考えれば、実際には大友皇子が行ったとするのが妥当であろう。

 また1月中には、百済亡命貴族たちへの賜冠が行われており、佐平の余自信・沙宅紹明(法官大輔)へは大錦下、佐平の鬼室集斯(学職頭)には小錦下、達率の谷那晋首(閑兵法)・木素貴子(閑兵法)・憶礼福留(閑兵法)・答㶱春初(閑兵法)・㶱日比子賛波羅金羅金須(解薬)・鬼室集信(解薬)には大山下、達率の徳頂上(解薬)・吉大尚(解薬)・許率母(明五経)・角福牟(閑於陰陽)には小山上、そのほか五十余人あまりに小山下が授けられた。

■天智天皇崩御

 天智天皇10(672)年9月、天皇は病に臥した。病中の天皇は10月、袈裟や金鉢、象牙、沈水香、栴檀香などの諸宝を法興寺(飛鳥寺)に奉納した。回復祈願のためだったと想像されるが、病は重くなり、10月17日、「蘇賀臣安麻侶」「東宮(大海人皇子)」のもとへ遣わし、大殿へ呼んだ。実は「安麻侶」は「素東宮所好」と、大海人皇子が日ごろから交流のあった人物であり、安麻侶は「有意而言矣」と、大海人皇子に忠告したという。これにより大海人皇子は「於茲疑有陰謀而慎之」と、天皇の言葉には何か陰謀があることを察しながら、天皇のもとへ赴いた。なお、この「蘇賀臣安麻侶」も蘇我倉家の一員で、左大臣・故蘇我連子臣の子である。のち、壬申の乱によって蘇我赤兄臣が滅んだ後も蘇我氏の命脈を伝え、奈良朝における公卿・石川朝臣の祖となる。

 病床に現れた大海人皇子を見た天皇は、「朕疾甚、以後事属汝云々」と後事を託したという。しかし大海人皇子はこれこそが陰謀であると察し、自分は「疾」であり、「大后(倭姫王)」を天皇とし「大友王」に諸政を任せるべしと固辞し、自分は天皇のために出家することを請うた。古人大兄の王女で皇后たる「倭姫王」は、同様の先例として推古天皇や皇極天皇(斉明天皇)があることから、十分考えられるものである。天皇はこれを聴したため、大海人皇子は兄天皇の病床を後にすると、宮殿の仏殿の南に胡坐をかいてどっかりと座ると、剃刀で鬢髪を剃り落として仏門に入った。これを聞いた天皇は次田生磐を遣わして袈裟を賜った

 10月19日、大海人皇子はふたたび天皇に謁見すると、吉野山に仏道修行に出ることの許しを請い、天皇はこれを聴した。大海人皇子はただちに吉野に出立している。大海人皇子が天皇および大友皇子による謀殺を避けるための離京と考えられる。

 12月3日、天皇は近江国大津宮において崩御した。宝算四十六。12月11日、新宮での殯となり、童が謡を奉じている。

天智天皇山科陵
天智天皇山科陵

 一方、狩好きだったと思われる天皇は、「一云」として「天皇駕馬幸山階鄕、更無還御永交山林、不知崩所」と天皇が山林に入ったまま還御なく、崩御した場所も分からないとし、「只以履沓落處爲其山陵、以往諸皇不知因果、恒事殺害」、と、天皇が履いていた沓が落ちていた場所を山陵と定めたとされている(『扶桑略記』)。このように天皇は政争の中で暗殺されたとも思われる説話が平安時代後期に伝わっていたことがうかがえる。

 御陵は京都の東、山科の地にある山科御廟野古墳(京都市山科区御陵上御廟野町)。比叡山から続く山地の裾野に造られた八角墳である。

 こののち、朝廷(近江朝廷)は天皇の山陵造営のために美濃・尾張両国の国司に対して人夫の徴集を命じているが、これが大海人皇子を討つための徴兵とされ、大海人皇子大友皇子(弘文天皇)に対して兵を挙げ、近江の瀬田橋で近江朝廷軍を破り(壬申の乱)、あらたな天皇に即位した(天武天皇)。


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