千葉胤将

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(????-????)
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(????-????)
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(????-????)
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(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
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(1443-1455)
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(????-1456)
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(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
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(1471-1532)
千葉昌胤
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千葉利胤
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(1557-1608)
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(1557-1583)
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(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉胤将 (1433?-1454)

生没年 永享5(1433)年~亨徳3(1454)年6月23日(『本土寺過去帳』)
千葉介兼胤?
千葉介胤直?
f不明
上杉氏憲入道禅秀女
官位 従五位下?
官職 下総権介?
役職 下総国守護職
上総国守護職
鎌倉府侍所
所在 下総国千葉庄
法号 高山常賢厳阿弥陀仏
蓮覚(改名)
墓所 千葉大日寺?

 千葉氏十六代。千葉介胤直の長子。母は不明。幼名・通称ともに不明。永享5(1433)年生まれ(『本土寺過去帳』)。一方、千葉介兼胤の実子であるという伝もあり、応永21(1414)年正月7日に誕生とも(『千葉大系図』)されている。

 胤将は嘉吉元(1441)年ごろの父・千葉介胤直(入道常瑞)の出家にともなって家督を継いだと思われるが、胤将の弟・胤宣の代にも先君・胤直の影響力は大きいことから、胤将の代にも胤直が大御所的な立場にあって千葉宗家の家政を見ていたか。しかし、胤将は軍事・政治両面で積極的に行動しており、優秀な人材を集めることに専念し、若くして領民・家臣たちに慕われたという。

 嘉吉2(1442)年5月28日、「兵庫頭清方(上杉清方)」「千葉次郎殿」に対して「地蔵院領上総国飫富庄之内、本納、加納、同国周西郡田中郷等事」について早々に沙汰するよう指示している(『上杉清方書状写』)。ここに見える「千葉次郎殿」とは胤直から家督を譲られたばかりの胤将か。

 文安元(1444)年8月なかば、武蔵江戸城の遠山氏や常陸の佐竹氏らが下総に攻めてきた際には撃退をしている。

 文安3(1446)年4月、大蔵卿法印海上郡飯沼円福寺の別当に任命した。常陸佐竹氏との関係上、香取海をのぞむ海上郡や香取郡は千葉氏にとって、大変重要視されていた地域であったと思われる。

 文安4(1447)年閏2月19日付けの文安4(1447)年閏2月19日『円覚寺文書』によれば、「円覚寺々領下総国印西両郷并上総国所々」で、胤将の代官が臨時に税を徴収してくるので困っていると円覚寺からの知らせを受け、胤将は「代官等、為臨時之課役違乱之条、驚存事」として関東管領・上杉右京亮憲忠に宛てて書状を送っている文安4(1447)年閏2月19日『平胤将書状』

【山内上杉家】
 上杉憲実―――――――上杉憲忠
(安房守入道長棟)  (右京亮)
             ∥
【扇谷上杉家】      ∥
 上杉持朝―――――+――娘
(修理太夫入道道朝)|
          +―上杉顕房――+―上杉政真
          |(弾正少弼) |(修理太夫)
          |       |
          +―三浦介高救 +―娘
          |(三浦介)    ∥
          |         ∥
          +―上杉定正   千葉実胤
           (修理太夫) (七郎)

 このころ、関東管領・山内上杉憲忠が若年であったため、家宰・長尾左衛門入道昌賢(長尾景仲)が諸事を代行していた。一方で扇谷上杉家も、当主の上杉弾正少弼顕房が若年であり、家宰・太田備中入道道真(太田資清)が権勢を拡大していた。

 公方・成氏は憲忠に対しては「別儀なし」として隔意なく付き合っていたが、成氏のそばに仕えていた「簗田、里見、結城、小山、小田、宇都宮」などは、憲忠の父・憲実に滅ぼされた者たちの子孫であった。このため、彼らは上杉家に対して反発しており「色々上杉を妨振権威ける」状態だった。

 長尾・太田両氏は、関東管領・上杉家の権勢を取り戻し、関東管領として卓越した手腕を持っていた上杉憲実の掟で関東を治めようとしていた。しかし、成氏に従う「簗田、里見、結城、小山、小田、宇都宮そのほか千葉新助」は成氏に加担して上杉家に反発していた。「千葉新助(胤将)」「父ハ持氏へ不忠ありしかども、同名陸奥守がすゝめにより成氏の味方と成」った。ここに見える「同名陸奥守」とは、のちの「千葉陸奥入道常義」こと馬加陸奥守康胤のことであろう。

 長尾・太田両氏は「両雄ハ必あらそふならひなれば、太田長尾と其間不和に成、此儘にてはいかさま上杉退治の事、程あるまじ」と相談し、「同心の大名を催し、事の大きにならざる前に此方より退治すべき」として、宝徳2(1450)年4月21日、五百騎の手勢を率いて成氏の御所に攻め寄せた。まさに謀反である。

 一方、成氏は長尾・太田勢が攻め寄せる報告を前日の4月20日に密かに察知したが、防戦するにも兵は少なく、夜陰にまぎれて江ノ島に逃れた。これはもし合戦となり、防戦が難しいとなれば、船で房総半島へ逃れるためであった。

 長尾・太田の手勢が御所に攻め寄せたとき、すでに御所はもぬけの殻であった。長尾・太田勢は成氏を追って江ノ島に差し向けた。しかし、その途中の腰越において「小山下野守(小山持政)」と合戦して敗れ、由比ヶ浜まで退いた。さらにそこに千葉新助(胤将)、小田讃岐守(持家)、宇都宮右馬頭(等綱)」らが成氏に味方して、長尾・太田勢を追討したため、彼らは糟谷庄まで退いた。

 こののち、駿河国にいた憲忠の父・上杉安房入道長棟(上杉憲実)とその弟の入道道悦が江ノ島の成氏のもとに馳せ参じて家臣の非礼を詫びた事から、上杉家は咎め無しとされたが、兵を挙げた長尾・太田両氏には速やかに誅罰するよう命が下った。

【山内上杉家】
 上杉憲基=+―憲実――――――憲忠
(安房守) |(安房入道長棟)(右京亮)
      |
      +―道悦

 しかし、当事者の憲忠はじめ太田道真入道・長尾昌賢入道は逃亡して姿を見せず、結局、成氏は幕府に上杉安房入道長棟をふたたび「関東可執行政務之由、可被仰下候」とするように願い、さらに憲忠には罪はないとしてたびたび帰参する様に申し付けているものの、帰参して来ない事を「尤不便至候」と批判している。ただ、その間にも長尾姓の人物数名、羽続、小幡、小宮山といった長尾・太田方の武士が鎌倉に降伏している。

 8月、成氏は鎌倉に帰参し、10月11日、伊豆国狩野に滞在中の上杉安房入道長棟は、ようやく「帰参」した「愚息右京亮」「令義絶」た。家中を掌握もできず、老臣をのさばらせた息子の憲忠を快く思っていなかったのかもしれない。

 結局、憲忠は鎌倉府の政務を見ることとなるが、享徳3(1454)年12月27日、成氏によって殺害された。この事件がもとで成氏は幕府と全面的に対立することとなり、ついに鎌倉を追われて下総国古河へと逃れていくこととなる。この成氏の子孫が「古河公方」として室町時代・戦国時代・安土桃山時代の関東の戦乱の中心となり、やがて小田原北条氏によって併呑されていく。しかし、江戸時代には喜連川氏を称し、五千石の石高ながら十万石格の諸侯とされ、喜連川の領主として幕末を迎えた。

 亨徳3(1454)年6月23日(6月15日とも)病死したと伝わる(『本土寺過去帳』廿三日条)。享年二十二。法名は高山常賢厳阿弥陀仏。享徳4(1455)年6月15日、42歳とも(『千葉大系図』)

 胤将が病を患い、その平癒を香取神社に祈願した文書が『平胤将宛行状』として残されている。この文書が出された年は不明なのだが、6月6日ということで、胤将が亡くなった月と一致する。この文書は、病がいよいよ篤くなった胤将が、平癒を祈願して発給したと思われるが、その甲斐なく文書を発給し直後に亡くなったのだろう。

●文安4(1447)年閏2月19日『平胤将書状』(『円覚寺文書』:『群馬県史』史料編所収)

 就円覚寺寺領下総国印西両郷上総国所々事、先度来迎寺帰寺之時、
 具承候儀、重而委曲示給候、仍而代官等、為臨時之課役違乱之條、
 驚存候、堅致折檻候訖、曾以彼寺領才事、無疎略之儀候、此趣、
 定寺家之代官可被申候乎、恐々謹言、
 
    壬二月十九日       平胤将(花押)
 
  謹上 山内殿御宿所

●某年6月6日『平胤将宛行状』(『香取文書』所収)

 当国香取小野織綿両村事、今度為当病平癒宿願、渡進之候、
 先規祭礼臨時祭無退転、精誠祈祷候者、目出候、
 但神事至于無沙汰者、直可有成敗候也、恐々謹言、
 
   六月六日       平 胤将(花押)
 
  謹上 香取大禰宜殿

千葉介胤将の家臣★

家老

原 円城寺 木内 鏑木

族臣

大須賀左衛門尉 国分右衛門尉 成東越中守

侍大將

海保大隅守 馬場伊賀守 土屋左兵衛尉 府馬長門守 高木遠江守 山室但馬守 牛長因幡守 平山大学 三谷隼人 猪俣監物 押田將監


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