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東胤頼(1155-1228)

 東氏初代当主。千葉介常胤の六男で、母は秩父太夫重弘の次女。通称は六郎。官位は上洛当初は六位、のち従五位下「千葉六郎大夫」と称し、のち下総国東庄を与えられて東六郎大夫を称す。晩年は上洛して法然上人の弟子となり法阿弥陀仏と号した。頼朝からの信頼は絶大で、兄弟中では最も高い位階を有した。

 胤頼は「平家執天下権之時、雖候京都」とあるように(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)、平家が政権を握っていた当時の京都に上洛したが、「更不諛其栄貴」という態度であったという(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)「東平太重胤上洛、是父胤頼、弱冠之当初、候本所、任其例、片時可級上日奉公名之由、致懇望之間、依被挙申也」と後年に子・重胤が申し述べているように、胤頼は「弱冠之当初、候本所」ていた事実があった(『吾妻鑑』承元二年閏四月廿七日条)。胤頼は二十歳頃に大番役で上洛して蔵人所に属し、六位に叙されて所衆に加わったと思われる。建久5(1194)年10月29日、「東六郎胤頼子息等令祗候本所瀧口事」については、「向後雖不申子細、進退可任意之旨」を頼朝から許可されており、重胤はこれを以って上洛を願い出たものと思われる。

 また、その後、上西門院(鳥羽院皇女統子)に出仕していた遠藤左近将監持遠「挙」によって「仕上西門院」え、その「御給」を以って「従五位下」に叙された(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)。どういった経緯で遠藤持遠と知り合ったかは定かではないが、ともに蔵人所に出仕して面識があったのかもしれない。遠藤持遠がどのような立場で上西門院に仕えていたのか記録はないが、治承元(1159)年10月、十三歳にして上西門院内蔵人に任じられた「右近将監」源頼朝の例と同様、遠藤持遠も上西門院蔵人であったのかもしれない。また、胤頼は持遠との縁によって、持遠の子・高尾神護寺の文覚上人(遠藤武者所盛遠)の弟子となっている。

 上西門院や八条院は反平家の拠点として機能していたといわれており、平家に対して挙兵した以仁王は八条院子の猶子であり、八条院蔵人として院に深く関わっていたのが頼朝の叔父・源義盛(新宮十郎行家)であった。

名前 役職 備考
源義清 上西門院判官代 足利義康の長子。木曾義仲に仕え、平家との戦いで討死を遂げる。
源頼朝 上西門院蔵人 源義朝の三男。兄には義朝の長男・義平、二男・朝長がいた。のち征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。
藤原季範 熱田大宮司 熱田大社の大宮司家。源頼朝の母の実家。熱田社領は上西門院を領主としていた。
源義長 上西門院蔵人 足利義康の二男。上西門院判官代義清の弟。
源義房 上西門院蔵人 新田義重の孫。
千葉胤頼 上西門院に仕える 千葉介常胤の六男。頼朝の挙兵に尽力し、頼朝から大変な信頼を受けた。東氏の祖。蔵人所の所衆、上西門院出仕。
遠藤持遠
(文覚の父親)
上西門院蔵人か 摂津渡邊党の一員。摂津源氏棟梁の源頼政と深い関わりを持っていたと思われる。
遠藤盛遠
(神護寺文覚上人)
院武者所(鳥羽院か) のちの高尾の文覚上人。頼朝に挙兵を勧める。その後も頼朝と深い関係を持つ。
源行家(新宮行家) 八条院蔵人 源為義の末子。伊豆の頼朝に以仁王の令旨を伝える。のち頼朝と対立し、討たれた。
源仲家(木曾義仲兄) 八条院蔵人 源義賢の長子。源頼政の養子となり、以仁王の乱では以仁王に属し、嫡男・仲光(蔵人太郎)とともに討死。
下河辺行平 八条院御領下総国下河辺庄司 源頼政の郎従。以仁王の挙兵を頼朝に伝える。弓の名手で、頼朝に仕えて平家との戦いに活躍する。

●『吾妻鏡』文治2(1186)年正月3日条

…而に胤頼、父常胤に相対して著す敢へて座の下方に寄ると云々、人、甘心せず、これ、仰せによりてかくの如しと云々、常胤は父たりといへども六位なり、胤頼は子たりといえども五品なり、官位は君の授く所なり、なんぞ賞せざらんやの由、仰くだされると云々、この胤頼は、平家天下の權を執るの時、京都に候ずといへども、更にその栄貴に諛はず、遠藤左近將監持遠の挙によりて上西門院に仕へ、御給にて従五位下に叙せらる、また持遠の好につき神護寺文学上人をもって師檀となす、文学、伊豆国に在るの時、同心せしめ、二品に示し申すの旨ありて、遂ひに義兵を挙げ給ふの比、常胤を勸めて最前に参向せしめ、兄弟六人中、殊に大功を抽んずる者なり

―東氏と遠藤氏の系譜―

 千葉介常胤――東胤頼
       (六郎大夫)
         ∥――――――重胤
         ∥     (平太兵衛)
 遠藤持遠――+―娘
(左近将監) |
       +―遠藤盛遠
        (文覚上人)

 治承4(1180)年5月15日、八条院子の猶子・高倉宮以仁王は従三位・源頼政入道と謀って平家打倒の計画を立てたが、計画は直前で発覚し、前太政大臣・平清盛入道浄海は子の平知盛重衡らに以仁王・頼政入道の追討を命じ、宇治平等院の戦いで以仁王・頼政一族は攻め滅ぼされた。この戦いでは以仁王の側近として三井寺から付き随っていた胤頼の兄・園城寺律静房日胤(頼朝の祈祷僧でもあった)が討死を遂げている。

●『吾妻鏡』治承5(1181)年5月8日条

園城寺律静房日胤弟子僧日慧号師公、鎌倉に参著す、彼の日胤は、千葉介常胤の子息、前武衛御祈祷師なり、仍りて去年五月、伊豆国より、遥に御願書を付けられ日胤これを給ひ、一千日、石清水宮寺に参籠せしめ、無言にして大般若経六百巻を見読せしむるの夜、眠りの内、宝殿より金甲を賜ふの由、霊夢を感じ、潜かに所願成就の思ひを成すの処、翌朝三井寺に高倉宮入御の由を聞き、武衛の御願書を日慧に誂へ参宮の御方へ奔る、遂に同月廿六日、光明山鳥居において、平氏の為に討取られおはんぬ、而るに日慧、先師の行業を相承り、千日の所願を果たし遺命を守り、参向せんと欲すの処、都鄙不静の間、今に延引の由、これを申すと云々

 九条兼実の『玉葉』には、朝廷から以仁王を引き渡すよう命じられた園城寺僧綱の房覚僧正と公顕僧正が後白河法皇の御所に報告した際、宮を支えている張本人は「律上房、尊上房」の両名である旨を院に奏上している(『玉葉』)

 以仁王の乱が鎮定されたのち、胤頼三浦次郎義澄は東国へ帰国を企てたが、両名は「依宇治懸合戦等事、為官兵被抑留之間」とある通り、叛乱に関わったとして身柄を拘束された。胤頼の兄・律静房日胤が乱の首謀者であり、胤頼は当然嫌疑をかけられただろうが、三浦義澄が拘束された理由は不明。その後、半月ほど拘留されたのち胤頼たちは釈放され、帰国の途についた。胤頼・義澄が具体的に宇治合戦に関わった証左はないが、胤頼の周辺を見ると乱に関わった人物が散見され、胤頼・義澄も関係していた可能性は高いだろう。

 胤頼・義澄は関東へと戻ると、まず伊豆の頼朝のもとへ参向して、数か月の無沙汰を詫びた。『吾妻鏡』によれば治承4(1180)年6月27日に、

三浦次郎義澄、千葉六郎大夫胤頼等、北条に参向す。日頃京都に伺候せしが、去月中旬の頃下向せんと欲するの刻、宇治合戦等に関わるによって、官兵のために抑留せらるるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ずるため、参入の由これを申す。日頃参役によって在京せるなり。武衛、件の両人に対面し給ふ。御閑談に時を移す。他人これを聞かず

 このなかの「御閑談に時を移す。他人これを聞かず」とある部分について、ここで頼政入道の挙兵について語られたと考えられ、胤頼は後白河院の逆鱗に触れて伊豆国にいた師・文覚(遠藤持遠子)とともに「令同心、有示申于二品之旨」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)と、頼朝に挙兵を促し、同年8月、頼朝は、三浦次郎義澄の父・三浦大介義明と連絡をとって挙兵した。

 このころ、平家方は「近曾為追討仲綱息、素住関東云々、武士等大庭三郎景親云々、是禅門私所遣也(『玉葉』治承四年九月十一日条)と、以仁王の乱に加担した伊豆守仲綱(源頼政子)の子息を追討するべく大庭三郎景親を関東に戻したが、この「仲綱息」「迯脱奥州方了」と、奥州へ逃れ去っている。しかし、これとほぼ時を同じくして頼朝による「逆乱出来」したため、大庭景親は頼朝追討へと目的を変更。頼朝は折からの秋雨前線によって川を渡れなかった三浦一族と合流できず、相模国石橋山で大庭景親勢に大敗。頼朝は乳母関係の豪族・土肥次郎実平などわずかな供とともに箱根山中へ逃げ込み、実平が用意した舟に乗って、伊豆国真鶴から安房へ落ち延びた。

 安房に上陸した頼朝は、乳兄弟の安西景益のもとに身を寄せ、9月4日、藤九郎盛長千葉介常胤に、和田義盛上総権介広常にそれぞれ遣わして挙兵を促した。おそらく約一月前の頼朝と胤頼・義澄の密談以前からすでに三浦・千葉両氏は頼朝と密接に連絡しあっていたと考えられる。和田氏(杉本氏)は以前より房総半島と関係を持っており、和田義盛が広常の使者に選ばれた一端はそこにあったかと推測される。

 藤九郎盛長は千葉館の門前に到着して案内を請うと、すぐに館の客邸に招待された。客邸にはすでに常胤が座し、子息の胤正、胤頼が脇に座して盛長を迎えた。常胤は盛長のいうことをつぶさに聞くが、しばらく目を瞑って黙り込んだ。すると、脇座の胤正・胤頼が、

武衛虎牙の跡を興し、狼唳を鎮め給う、ことの最初にその召し有り。服應何ぞ豫の儀に及ばんや、早く領状の奉書を献らるべし

と常胤に告げると、常胤も、

常胤の心中、領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興させしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり

として、頼朝に協力することを誓い、その後酒宴が催された。この酒宴で常胤は盛長に、

當時の御居所、指せるに要害の地に非ず、また御曩跡にも非ず、速やかに相摸國鎌倉に出でさしめ給うべし、常胤、門客等を相率ひて御迎への為参向すべし

 と忠告した。

さらに「遂挙義兵給之比、勧常胤最前令参向」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)と、常胤に参向を勧めたとされ、「兄弟六人之中、殊抽大功者也」(『吾妻鏡』文治二年正月三日条)と頼朝に評価されている。

 9月6日晩、上総権介広常のもと遣わされていた和田義盛が安西館に帰参し、広常は千葉介常胤と談じたのちに参上すると言上したという。そして続いて9日、千葉から盛長が参着して頼朝に次第を報告している。9月13日、常胤は子息親類らを率いて頼朝を迎えるために上総国へと向かおうとしていた。このとき「六郎大夫胤頼」は父・常胤に、

当国目代者、平家方人也、吾等一族悉出境、参源家、定可挿凶害、先可誅之歟云云

 と進言した(『吾妻鏡』治承四年九月十三日条)。これに対し、常胤

早行向、可追討之、

 と「胤頼并甥小太郎成胤」に指示。胤頼は成胤とともに目代館に馳せ向かい攻め立てた。この目代は「元自有勢者」であり、「令数千許輩防戦」したとある(『吾妻鏡』治承四年九月十三日条)。「元自有勢者」であるとすると、在地の豪族であった可能性が高いだろう。「数千」には誇張はあるが、かなりの勢力の持ち主だったことがわかる。また、下総国留守所がどこにあったのかは不明だが、翌日には成胤が千葉で親政と合戦していることから、千葉付近であったのかもしれない。

 攻め寄せた胤頼・成胤はこのとき「北風頻扇」と北風が強いことに気づき、成胤は胤頼と謀って「廻僕従等於館後、令放火家屋焼亡」させることに成功。目代は「為遁火難、已忘防戦」て逃げ惑っていた。そこに待ち構えていた胤頼が目代の首をとった。

 目代が殺害されたことを聞いた千田庄(香取郡多古町)の皇嘉門院判官代親政は、千葉介常胤を追捕すべく千田庄から千葉庄へと兵を進めた(『吾妻鏡』治承四年九月十四日条)。しかし、ここで小太郎成胤と合戦し、敢無く生捕とされている。

●『吾妻鏡』治承4(1180)年9月14日条

下総國千田庄の領家判官代親政は、刑部郷忠盛朝臣の聟なり。平相國禪閤にその志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。これに依って常胤孫子小太郎成胤相戰ひ、遂に親政を生虜りをはんぬ

 9月17日、頼朝は下総国府に入った。千葉介常胤も胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼ら子息と嫡孫・成胤、随兵三百名を相具して国府に入り、頼朝と面会をした。この時、常胤は長年の宿敵であり、さきの戦いで生け捕った藤原親政を曳き出して頼朝に見せたのち、駄餉を献じた。常胤はこの酒宴のときに頼朝から座右に招かれ、「須以司馬為父之由」と頼朝に言わしめている。

 9月19日、隅田川の河畔まで出陣していた頼朝のもとに、上総権介広常が上総一国の軍勢、二万人という大軍を率いて参陣した。その後、葛西清重、河越重頼、江戸重長、畠山重忠ら武蔵秩父党を揮下におさめると、そのままの勢いで治承4(1180)年10月6日、鎌倉に入った。頼朝の新館は12月12日に落成し、その落成式に常胤・胤正・胤頼が列席した。

 その後の平家との戦いでは、胤頼は源範頼に属して活躍。寿永3(1184)年2月5日、一ノ谷の戦いには父の常胤や兄の相馬師常・国分胤通とともに活躍している。翌年の文治元(1185)年10月、常胤から海上郡三崎庄五十五郷が譲られて、椿海(旭市)に面した桜井(旭市桜井)に館を構えたと伝えられている。伝承では、こののち須賀山城(東庄町須賀山)へ移住したとも。

 文治元(1185)年10月24日、鎌倉の長勝寿院(南御堂)の供養が行われた。頼朝は午前九時ごろに御所から徒歩で長勝寿院へ向かい、多くの御家人が随兵として従った。胤頼はとくに「五位六位」の者として列している。

●長勝寿院供養に供奉した御家人

随兵十四人 畠山次郎重忠 千葉太郎胤正 三浦介義澄 佐貫四郎大夫広綱 葛西三郎清重 八田太郎朝重
榛谷四郎重朝 加藤次景廉 藤九郎盛長 大井兵三次郎実春 山名小太郎重国 武田五郎信光
北条小四郎義時 小山兵衛尉朝政        
調度懸 小山五郎宗政(剣) 佐々木四郎左衛門尉高綱(鎧) 愛甲三郎季隆(調度)
五位六位
三十二人
(布衣下括)
源蔵人大夫頼兼 大内武蔵守義信 三河守源範頼 安田遠江守義定 足利上総介義兼 狩野前対馬守親光
前上野介範信 宮内大輔重頼 皇后宮亮仲頼 大和守重弘 因幡守大江広元 村上右馬助経業
橘右馬助以広 関瀬修理亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重 藤判官代邦通 新田蔵人義兼
奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門尉朝綱 八田右衛門尉知家
梶原刑部丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛尉基清 足立右馬允遠元    
随兵十六人 下河辺庄司行平 稲毛三郎重成 小山七郎朝光 三浦十郎義連 長江太郎義景 天野藤内遠景
渋谷庄司重国 渋谷庄司重国 糟谷藤太有季 佐々木太郎左衛門尉定綱 廣澤三郎実高 千葉平次常秀
梶原源太左衛門尉景季 村上左衛門尉頼時 加賀美次郎長清      
随兵の長官 和田小太郎義盛 梶原平三景時        
随兵六十〔東〕
(弓馬達者)
⇒門外左右に
伺候
足利七郎太郎 佐貫六郎広義 大戸川太郎広行 皆川四郎 千葉四郎胤信 三浦平六義村
和田三郎宗実 和田五郎義長 長江太郎義景 多々良四郎明宗 沼田太郎 曾我小太郎祐綱
宇治蔵人三郎義定 江戸七郎重宗 中山五郎為重 山田太郎重澄 天野平内光家 工藤小次郎行光
新田四郎忠常 佐野又太郎 宇佐美平三 吉川二郎 岡部小次郎 岡村太郎
大見平三 臼井六郎 中禅寺平太 常陸平四郎 所六郎朝光 飯富源太
随兵六十〔西〕
(弓馬達者)
⇒門外左右に
伺候
豊嶋権守清光 丸太郎 堀藤太 武藤小次郎資頼 比企藤次 天野次郎直常
都築平太 熊谷小次郎直家 那古谷橘次頼時 多胡宗太 蓬七郎 中村右馬允時経
金子十郎家忠 春日三郎貞幸 小室太郎 河匂七郎政頼 阿保五郎 四方田三郎弘長
苔田太郎 横山野三刑部丞成綱 西太郎 小河小次郎祐義 戸崎右馬允国延 河原三郎
仙波次郎 中村五郎 原次郎 猪俣平六則綱 甘粕野次広忠 使河原三郎有直

 文治2(1186)年6月10日、丹後内侍が病気となり、安達家の甘縄邸で病床に伏した。丹後内侍は頼朝の側近だった藤九郎盛長(安達氏祖)の妻である。頼朝は彼女を見舞うため、結城朝光と東胤頼の二名のみを供とし、密かに屋敷を抜け出して甘縄邸を訪ねている。

 文治4(1188)年3月14日の鶴岡八幡宮大供養では、頼朝の隨兵として加わった。さらに翌 文治5(1189)年6月9日の鶴岡八幡宮御塔供養に参列した。

●鶴岡八幡宮御塔供養列席者(『吾妻鏡』)

導師 法橋観性
呪願 法眼円暁(若宮別当)
行事 三善隼人佐康清、梶原平三景時
先陣
随兵
小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、北条小四郎義時、武田五郎信光
御徒 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲)
御後
参列
大内武蔵守義信、安田遠江守義定、伏見駿河守広綱、三河守範頼、大内相模守惟義、安田越後守義資、大江因幡守広元、毛利豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、橘右馬允公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長
後陣
随兵
小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景

 

衣川
平泉高舘より衣川を望む

 文治5(1189)年8月、奥州藤原氏との戦いがおこると、海道軍総大将であった父・常胤に従って出陣し、8月25日、衣川砦に急襲をかけて攻め落とした。衣川館には当主・藤原泰衡の外祖父である藤原基成が子息三人とともに籠もっていたが、胤頼が館に踏み込んだ時、父子は武具をまとわず、狩衣姿で静然と降人となった。

 なお、藤原基成は平治の乱のときに源義朝と組んで平清盛らと争った藤原信頼の弟にあたる人物。信頼は頼朝の烏帽子親でもあり、複雑な人物関係がうかがえる。

●『吾妻鏡』文治5(1189)年8月25日条

今日、千葉六郎大夫胤頼を衣川の館に遣はし、前民部少輔基成を召す。胤頼彼等を生け捕らんと欲するのところ、基成兵具を取るに及ばず、手を束ね降人となる。しかる間、これを相具して参上す。子息三人、同じく父に従ふと云々

●藤原基成と周辺の系図●

 藤原師輔――兼家――道隆―+―伊周  +―良頼―――――良基――――隆宗――――宗兼――――池禅尼
(関白)  (関白)(関白)|(左大臣)|(右衛門督) (太宰大弐)(近江守) (少納言) (平忠盛妻)
              |     |
              +―隆家――+―経輔―――+―家――――基隆――――忠隆――+―基成――――娘
               (大納言) (権大納言)|(右少将) (修理大夫)(大蔵卿)|(陸奥守)  ∥――――泰衡
                           |                 |       ∥
                           |                 |      藤原秀郷
                           |                 |
                           |                 +―信頼――――信親
                           |                 |(右衛門督)(侍従)
                           |                 |
                           |                 +―娘
                           |                  (藤原基実妻)
                           |
                           +―師信―――経忠―――忠能――――長成
                            (内蔵頭)(中納言)(修理大夫)(大蔵卿)
                                             ∥―――――能成
                                             ∥    (侍従)
                                            常盤御前
                                             ∥
                                             ∥―――+―阿野全成
                                             ∥   |(今若)
                                            源義朝  |
                                           (左馬頭) +―帥公義円
                                                 |(乙若)
                                                 |
                                                 +―義経
                                                  (牛若)

 胤頼は建久元(1190)年10月2日の頼朝の上洛に従い、常胤や甥・常秀とともに後陣を守衛した。建久5(1194)年8月8日には相模国の日向山薬師参詣に供奉し、翌年3月10日の大和国奈良の東大寺再建供養会にも供奉した。しかし『吾妻鏡』ではこの建久5(1194)年を最後に胤頼の記述は消える。

 12月26日、永福寺の境内に新造された薬師堂の供養が行なわれ、頼朝が参詣した。このとき、供奉人として父・常胤、甥・境兵衛尉常秀とともに「東大夫胤頼」が見える。随兵八騎には兄・千葉新介胤正が列した。

 建久5(1194)年10月29日、頼朝は「東六郎大夫胤頼子息等」が本所(蔵人所)や瀧口に伺候することについて、今後はその子細を告げることなく、進退をその意に任せる旨を示した。

 建久6(1195)年3月10日、頼朝は東大寺再建の供養のため、石清水から奈良の東南院に入った。千葉一族もこれに列し、胤頼は随兵として従った。

●建久6(1195)年3月10日『東大寺参詣供奉人交名』(『吾妻鏡』)

先陣
●各々相並ばず
畠山次郎重忠 和田左衛門尉義盛      
隨兵
●三騎相並ぶ
江戸太郎重長 豊嶋兵衛尉 岡部小三郎 勅使河原三郎有直 熊谷又次郎
大井次郎 足立太郎 小代八郎 浅見太郎 河匂七郎
品河太郎 江戸四郎 山口兵衛次郎 甘糟野次 平子左馬允
阿保五郎 阿保六郎 豊田兵衛尉 真壁小六 下嶋権守太郎
加治小次郎 鴨志田十郎 鹿嶋六郎 片穂五郎 中村五郎
高麗太郎 青木丹五 中郡太郎 常陸四郎 小宮五郎
奈良五郎 小林次郎 太胡太郎 渋河太郎 佐野七郎
三輪寺三郎 小林三郎 深栖太郎 吾妻太郎 小野寺太郎
浅羽三郎 倉賀野三郎 那波太郎 那波彌五郎 園田七郎
皆河四郎 小串右馬允 小室小太郎 春日三郎 小田切太郎
山上太郎 瀬下奥太郎 禰津次郎 中野五郎 志津田太郎
高田太郎 坂田三郎 禰津小次郎 笠原六郎 岩屋太郎
中野四郎 大河戸太郎 下河辺四郎 泉八郎 佐々木三郎兵衛尉盛綱
新田四郎忠常 大河戸次郎 下河辺藤三 宇都宮所 海野小太郎幸氏
新田六郎親範 大河戸三郎 伊佐三郎 天野右馬允 橘右馬次郎
大嶋八郎 藤澤次郎清親 工藤小次郎 糟屋藤太兵衛尉 臼井六郎
中澤兵衛尉 望月三郎 横溝六郎 梶原刑部兵衛尉景定 印東四郎
牧武者所 多胡宗太 土肥七郎 本間右馬允 天羽次郎直胤
千葉二郎師常 広澤与三 梶原刑部丞朝景 和田三郎義茂 河内五郎
千葉六郎太夫胤頼 波多野五郎 土屋兵衛尉義清 和田小次郎 曽祢太郎
境平二兵衛尉常秀 山内刑部丞 土肥先次郎 佐原太郎 里見小太郎義成
武田兵衛尉有義 佐竹別当 関瀬修理亮 下河辺庄司行平 懐嶋平権守景義入道
伊澤五郎信光 石河大炊助 村上左衛門尉 八田右衛門尉朝重 北条小四郎義時
新田蔵人義兼 澤井太郎 高梨次郎 三浦十郎左衛門尉義連 小山七郎朝光
御車 右近衛大将源頼朝        
(一門相並ぶ) 相模守惟義 源蔵人大夫頼兼 上総介義兼    
  伊豆守義範 源右馬助経業      
  因幡前司大江広元 三浦介義澄      
車後一列 豊後前司季光 土肥荒次郎 山名小太郎 那珂中左衛門尉 足立左衛門尉遠元
比企右衛門尉能員 藤九郎盛長 宮大夫 所六郎  
車後隨兵
●三騎相並ぶ
奈古蔵人 南部三郎 浅利冠者長義 後藤兵衛尉基清 稲毛三郎重成
徳河三郎 村山七郎 加々美次郎長清 葛西兵衛尉 梶原源太左衛門尉
毛呂太郎 毛利三郎 加々美三郎 比企藤次 加藤太
阿曽沼小次郎 小山五郎宗政 小山田四郎 波多野小次郎 河村三郎
佐貫四郎広綱 三浦平六兵衛尉 野三刑部丞成綱 波多野三郎 原宗三郎
足利五郎 佐々木左衛門尉定綱 佐々木中務丞経高 沼田太郎 原四郎
長江四郎明義 中山五郎 岡崎四郎 小山田五郎 野瀬判官代
岡崎与一太郎 渋谷四郎 和田五郎 中山四郎 安房判官代
梶原三郎兵衛尉 葛西十郎 加藤次景廉 那須太郎 伊達次郎
岡部小次郎 南条次郎 江戸七郎 横山権守 笠原十郎
佐野太郎 曽我小太郎 大井平三次郎 相模小山四郎 堀藤次
吉香小次郎 二宮小太郎 岡部右馬允 猿渡藤三郎 大野藤八
井伊介 吉良五郎 金子十郎家忠 安西三郎景益 小栗次郎
横地太郎 浅羽庄司三郎 志村三郎 平佐古太郎 渋谷次郎高重
勝田玄番助 新野太郎 中禅寺奥次 吉見次郎 武藤小次郎
天野藤内遠景 長尾五郎 筑井八郎 八田兵衛尉 宗左衛門尉
宇佐美三郎祐茂 多々良七郎 臼井与一 長門江七 金持次郎
海老名兵衛尉 馬場次郎 戸崎右馬允 中村兵衛尉 奴加田太郎
大友左近将監 渋谷弥五郎 猪俣平六範綱 仙波太郎 古郡次郎
中条右馬允 佐々木五郎義清 庄太郎 岡部六弥太忠澄 都築平太
伊澤左近将監 岡村太郎 四方田太郎 鴛三郎 筥田太郎
熊谷小次郎直家 平山右衛門尉 諸岡次郎 伊東三郎 千葉四郎胤信
志賀七郎 藤田小三郎 中条平六 天野六郎 千葉五郎胤通
加世次郎 大屋中三 井田次郎 工藤三郎 梶原平次左衛門尉景高
後陣
●各々相並ばず
●郎従数百騎
梶原平三景時 千葉新介胤正      
最末(相並ぶ) 前掃部頭中原親能 縫殿助      
伊賀前司 遠江権守      
最末(並ばず) 源民部大夫 伏見民部大夫 右京進中原仲業 三善隼人佐康清 三善兵衛尉
平民部丞盛時 越後守義資      

 その後、胤頼は大番役として上洛した。そして元久元(1204)年冬、京都黒谷の法然房源空の弟子・西仙坊心寂の妹尼公が姉小路白川祓殿の辻子(東山区定法寺町辺りか)で示寂したとき、「大番の武士、千葉の六郎大夫胤頼」がこの端坐合掌した姿を見て、発心出家。法然の給仕の弟子となって「千葉六郎大夫入道法阿」と称した(『法然上人絵巻』)。三年前の建仁元(1201)年3月24日、父・常胤が八十四歳で亡くなっており、このことも出家の原因だったかもしれない。また、兄・相馬二郎師常も同じ頃に「念仏行者」となっており、元久2(1205)年11月15日、鎌倉屋敷で亡くなっている。

知恩院山門
知恩院山門

 嘉禄3(1227)年6月に胤頼の姿が京都において見られる(『法然上人絵巻』)。彼と同じく東国武者で法然の弟子となっていた宇都宮頼綱入道蓮生、塩谷朝業入道信生、渋谷七郎入道道遍らが見える。宇都宮氏と東氏は鎌倉時代半ばまで歌道を通した深い関わりが窺える。

 胤頼の師・法然は建暦2(1212)年に亡くなり、東山大谷に葬られた。現在の知恩院である。このとき、比叡山の門徒による法然の廟所破壊の動きがあることを知った法然の弟子たちは、嘉禄3(1228)年6月24日、廟所から石棺を取り出し、蓋を開いて法然の遺体を運び出したが、死去して十六年を経た法然の遺体はなお生けるごとくの容貌であったと伝えられている。弟子たちは遺体を西山粟生野へと運んで荼毘に伏し、その遺骨を粟生野の幸阿弥陀仏の庵室の塗籠に隠した(『法然上人絵巻』『百錬抄』)。法然の遺体を運ぶ道中、宇都宮頼綱入道蓮生、塩谷朝業入道信生、千葉六郎大夫入道法阿、渋谷七郎入道道遍、内藤兵衛入道西仏が僧衣の上に鎧を着し、家子郎従を従えて遺体を守護している姿が『法然上人絵伝』に描かれている。

芳泰寺の伝胤頼夫妻墓

 胤頼は安貞2(1228)年10月12日、73歳で亡くなったという。法然の遺体を西山に移してわずか四か月後である。法名は通性院殿真岩常源大居士。千葉県香取郡小見川町の芳泰寺に供養塔といわれる塔が建っている。

 なお、宇都宮頼綱、塩谷朝業は両名ともに勅撰和歌集に歌を撰された名歌人であり、藤原定家とも深く親交を持っていた。胤頼についても、彼が仕えていた上西門院は一大歌壇であり、和歌の風を受けていたであろうと推測される。宇都宮氏、東氏は代々歌道の家として伝えられていくこととなる。いわゆる『小倉百人一首』は定家が頼綱の依頼を受けて撰したふすま用の飾りがもととなっている(小倉山荘で撰した確証は無い)。頼綱の長女(実際は養女で、一族の益子左兵衛尉宗朝の娘)は定家の子・為家に嫁ぎ、二条為氏、源承、京極為教らを生み、次女は左大臣・三条実房に嫁いだ。

―東氏と宇都宮氏の系譜(東氏の伝系を含む)―

 千葉介常胤―――東胤頼――――重胤――――――――――胤行
(千葉介)   (六郎大夫) (平太兵衛尉)     (左衛門尉)
                            ∥
 宇都宮朝綱―――成綱―――+―頼綱―――+―泰綱   ∥
(左衛門尉)  (左衛門尉)|(左衛門尉)|(左衛門尉)∥
              |      |      ∥――――――行氏
              |      +=娘    ∥     (二郎左衛門尉)
              |      | ∥――?―娘
              |      | 中院為家
              |      |(民部卿)
              |      |
              |      +―娘
              |        ∥
              |        三条実房
              |       (左大臣)
              |
              +―塩谷朝業―――時朝
               (左衛門尉) (左衛門尉)

●以仁王の乱に加わった以仁王方(『覚一別本平家物語』)

源三位頼政 正三位。摂津源氏の棟梁。搦手の主将。
乗円房阿闍梨慶秀 園城寺乗円房の阿闍梨。80を過ぎた老僧のために泣く泣く宮と別れ、弟子の刑部俊秀を供奉させた。
律成房阿闍梨日胤 園城寺律静房の阿闍梨。千葉介常胤の子。
帥法印禅智 太宰帥藤原俊忠の子。公卿の出ながら、剛僧として知られた。名歌人・藤原俊成の弟で藤原定家の叔父。
義宝 帥法印禅智の弟子。
禅房 帥法印禅智の弟子。
伊豆守仲綱 頼政の嫡男。大手の主将。以仁王の令旨を諸国の源氏に送るよう指示した人物。宇治で戦死。
源大夫判官兼綱 頼政の養子。検非違使として以仁王邸を囲むが、その後、頼政に応じて宇治川で戦死。
六条蔵人仲家 源義賢の嫡男。木曽義仲の異母兄である。八条院蔵人。宇治で戦死。
蔵人太郎仲光 八条蔵人仲家の子。宇治で戦死した。
円満院大輔源覺 園城寺円満院の大衆。
成喜院荒土佐 園城寺常喜院の大衆。常喜院は民部卿藤原泰憲が建立した寺院。
律成房伊賀公 律静房阿闍梨日胤の弟子。日慧と号す。頼朝の帰依をうけ、養和元(1181)年12月11日鎌倉で卒。
法輪院鬼佐渡 園城寺法輪院の大衆。
因幡竪者荒大夫 園城寺平等院の大衆。平等院は村上天皇の皇子・致平親王が出家して建立した園城寺中院の寺。
角六郎房 園城寺平等院の大衆。
島ノ阿闍梨 園城寺平等院の大衆。
卿ノ阿闍梨 園城寺南院三谷の一つ、筒井の阿闍梨。
悪少納言 筒井の大衆。
光金院ノ六天狗 園城寺光金院の剛僧六人。式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後。光金院は源義光が建立した寺院。
松井ノ肥後 園城寺北院の大衆。
証南院筑後 園城寺北院の大衆。
賀屋ノ筑前 園城寺北院の大衆。
大矢ノ俊長 園城寺北院の大衆。
五智院ノ但馬 園城寺北院の大衆。
加賀ノ光乗 乗円房の大衆。乗円房人60名のうちもっとも勇猛な僧兵とある。
刑部俊秀 乗円房の大衆。首藤刑部丞俊通の子。育親の乗円房阿闍梨慶秀に言われて以仁王の供奉をする。
一来法師 乗円房の大衆。法師たちのうちでもっとも勇猛とされた僧兵。
筒井ノ浄妙明秀 筒井の堂衆。堂衆は各堂に属して雑務にあたる僧侶。
小蔵尊月 堂衆。
尊永 堂衆。
慈慶 堂衆。
楽住 堂衆。
かなこぶしの玄永 堂衆。
渡邊省 摂津武士団・渡邊党の武士。嵯峨源氏の嫡流である。摂津源氏に代々仕えていた。省は「はぶく」。
授薩摩兵衛 渡邊授(さずく)。省の子。
長七唱 渡邊唱(となう)。省の従兄弟の子。
競滝口 渡邊競(きそう)。省の従兄弟。
与右馬允 渡邊与(あたう)。省の子。
続源太 渡邊続(つづく)。唱の兄弟。
渡邊清(きよし)。省の従兄弟。
渡邊勧(すすむ)。省の父・満の従兄弟。

●以仁王の乱の平家方追手(『覚一別本平家物語』)

左兵衛督知盛 平知盛。清盛の三男。知勇兼備の将として知られた。
頭中将重衡 平重衡。清盛の五男。猛将で、東大寺を誤って焼失させてしまう。
左馬頭行盛 平行盛。清盛の次男・基盛の子。
薩摩守忠度 平忠度。清盛の末弟。剛力の大将で、藤原俊成に歌を学び、勅撰和歌集『千載集』に選定される。
上総守忠清 侍大将。伊藤武者藤原忠清。治承3年11月18日、上総介の叙任。
上総太郎判官忠綱 藤原忠綱。忠清の子。治承3年11月18日、左衛門少尉・検非違使に任じられる。
飛騨守景家 藤原景家。忠清の弟。
飛騨太郎判官景高 藤原景高。景家の子。従兄弟の忠綱と同じく、左衛門少尉・検非違使に任じられる。
高橋判官長綱 平長綱。伊賀平内左衛門平家長の弟。
河内判官秀国 伝未詳。木曽義仲との戦いで倶利伽羅峠に戦死した。
武蔵三郎左衛門有国 伝未詳。木曽義仲との戦いで加賀篠原で戦死。
越中次郎兵衛尉盛継 平盛継。平家一門・越中守平盛俊の子。父子ともども猛将で知られる。
上総五郎兵衛忠光 藤原忠光。忠清の子。治承4年5月30日、左兵衛尉に叙任。
悪七兵衛景清 藤原景清。忠清の子。平家きっての猛将。数々の武勇談を残し、一門滅亡後、鎌倉で病死か。
足利又太郎忠綱 藤原忠綱。下野国足利庄を本拠とする藤原秀郷の末裔。
大胡  
大室  
深須  
山上  
那波太郎 下野国那波郡の住人。
佐貫広綱四郎大輔 藤原広綱。下野国佐貫郷発祥の足利忠綱の一族。
小野寺禅師太郎 藤原道綱。下野国小野寺郷発祥の足利忠綱の一族。
辺屋子ノ四郎 下野国部屋子発祥の足利忠綱の一族。

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東氏惣領家沼闕東氏上代東氏郡上東氏諸国の東氏

郡上藩主遠藤家三上藩主遠藤家旗本乙原遠藤家旗本和良遠藤家

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