平高望

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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平高望 (850?-917?)

高望
高茂王(『将門記』)
生没年 (1)正和6(839)年9月7日~延喜11(911)年5月24日(『千葉大系図』)
(2)嘉祥3(850)年2月18日~延喜17(917)年正月24日(『千馬家系図』)
元服 不明
高見王
右京大夫藤原是緒女(『千葉大系図』)
武蔵守橘春成女(『千馬家系図』)
仲野親王女(『系図纂要』)
刑部卿茂世王女(『系図纂要』)
官位 従五位下
官職 上総介(『将門記』ほか諸系譜)

 高見王の子。母は右京大夫藤原是緒女(『千葉大系図』)武蔵守橘春成女(『千馬家系図』)仲野親王女(『系図纂要』)と伝わる。妻は茂世王女(『系図纂要』)。正和6(839)年9月7日、京都に生まれたと伝えられる(『千葉大系図』)。いわゆる「桓武平氏」の祖。

●高望王系図(『系図纂要』ほか)

 美努王――――橘為佐―――三笠錦裳――橘継成―――橘枝主―――橘春成―――――
(大宰帥)  (侍従)  (安芸守) (安芸守) (安芸守) (武蔵守)    ∥―?―高望王
                                        ∥  (上総介)
 藤原不比等――藤原房前――藤原鳥飼――小黒麻呂――葛野麻呂――藤原是緒―――
(右大臣)  (参議)  (大納言) (民部卿) (刑部卿) (右京大夫)  ∥――?―高望王
                                       ∥∥  (上総介)
                        桓武天皇――+―葛原親王―――高見王
                              |(式部卿)   ∥――?―高望王
                              |        ∥   (上総介)
                              +―仲野親王―+―     ∥
                               (上総太守)|       ∥――平国香
                                     |       ∥ (常陸大掾)
                                     +―茂世王―――娘 
                                      (刑部卿)

父高見王について

 高望王の父・高見王は、葛原親王の子とされるが、諸系図に無位無官で早世したとあるように、その姿が記録されていない人物である。

 高見王の兄である高棟王・善棟王は、天長2(825)年の葛原親王の上表(一皆被賜姓平朝臣)によって平姓を下賜されているが、高見王は「平」姓を称した形跡がない。また、子の高望王「王」号を称していることから、高見王は「王のまま」亡くなったということになる。平姓を称した形跡のない高見王は、天長2(825)年7月6日時点には「この世に存在していない」ことになる。もし、天長2(825)年の賜姓の時点で当時二十二歳の高棟王、二十歳程の善棟王よりも若くして薨じている場合には、それ以前に高望王が生まれていることとなるが、年齢的にあり得ない事ではないが現実的ではない。また、その場合、高望王の子・平国香が没した承平5(935)年当時、国香は七十~八十歳相当と想定され、その岳父源護は百歳を超えると考えられる。つまり、高見王は天長2(825)年の葛原親王上表後に誕生したと考えるのが妥当である。

 高見王曽孫に伊勢平氏・常陸平氏などの祖となる平貞盛がいるが、彼は承平5(935)年2月当時、「守器之職」(『将門記』)にあり「左馬允」現任だった(『今昔物語集』巻二十五)こと、及び高望王の賜姓時期を考えると、高望王は嘉祥3(850)年頃の生誕(『千馬家系図』)、その子・平国香は寛平2(890)年あたりの生誕と推定すれば、高見王の生誕は天長3(826)年から天長7(830)年ごろが妥当か。高見王はいずれの系譜でも「無位無官」もしくは「早世」とあり、兄高棟(二十二歳)、善棟(二十歳程か)二人の叙任年齢を鑑みると「選叙令 蔭皇親條」の規定「二十一歳以上」に沿っており、高見王は二十歳に満たぬ前に薨じたと想定できる。

 つまり、高見王は天長2(825)年7月の葛原親王の子女賜姓上表後、天長7(830)年ごろに生まれ、嘉祥3(850)年頃に子息高望王を儲けたのち、賜姓及び蔭位を待たずして二十歳以前に薨去したのであろう。

■皇親の蔭位

 蔭位の条件は二十一歳以上という「選叙令 授位条」の規定及び、「親王子従四位下」という「選叙令 蔭皇親条」の規定があるが、この運用については「葛原親王之長子」高棟王の叙位が二十歳仲野親王の子・潔世王は四十一歳とかなりの振れ幅があった。

●『選叙令』授位条

凡授位者、皆限年廿五以上、唯以蔭出身、皆限年廿一以上

●『選叙令』蔭皇親条

凡蔭皇親者、親王子従四位下、諸王子従五位下、其五世王者従五位下、子降一階、庶子又降一階、唯別勅処分、不拘此令、

 「蔭皇親條」は延暦15(796)年12月9日、桓武天皇の詔として若干の修正がなされているが、親王の子についての規定は変わっていない(『日本後紀』延暦十五年十二月九日條)

詔曰 皇親之蔭、事具令條、而宗室之胤、枝族已衆、欲加栄班、難可周及、是以進仕無階、白首不調、眷言於此、実合矜恕、宜其四世五世王、及五世王嫡子年満廿一者叙正六位上、但庶子者降一階叙、自今而後、永以為例

    【一世】      【二世】    【三世】   【四世】    【五世/除皇親、王號は許可】
天皇―+―親王――――――+―王―――――――王――――――王――――――王―――――――――――――+―王
   |  品位     |  従四位下    従五位下   正六位上   正六位上         |  正六位上
   |         |                                     |
   |         +―二世源氏                                +―王(庶子)
   |         |  従五位上                                  正六位下
   |         |
   |         +―二世源氏(庶子)
   |            正六位上
   | 
   +―一世源氏――――+―一世源氏子―――一世源氏孫
       従四位上  |  従五位下    正六位上
             |
             +―一世源氏(庶子)
                正六位上

 当時にあっては、諸王は奈良・飛鳥時代に大王家から分かれた王氏も含めると相当数存在し、それは二世王ですら無位のまま相当の年月を経るケースもあり、二十一歳以上の無位の王は多数見られる

●無位から従四位下以上への直叙

直叙年月 叙位 父親王 年齢 典拠
大同5(810)年正月7日 従四位下 平野王   三十歳 『類聚国史』  
弘仁14(823)年正月7日 従四位下 高棟王 葛原親王 二十歳 『類聚国史』 
弘仁14(823)年4月27日 従四位下 継枝王 伊予親王   『類聚国史』  
天長2(825)年正月4日 従四位下 善棟王 葛原親王 二十歳前後(兄・高棟王の二年後) 『類聚国史』
天長3(826)年正月7日 従四位下 高枝王 伊予親王 二十五歳 『類聚国史』
天長6(829)年正月7日 従四位下 正躬王 萬多親王  三十一歳 『類聚国史』
天長9(832)年正月7日 従四位下 道野王 賀陽親王   『類聚国史』
天長10(833)年3月6日 従四位下 正行王 萬多親王  十八歳(仁明践祚時叙爵) 『続日本後紀』
承和3(836)年正月7日  従四位下 時宗王     『続日本後紀』
承和4(837)年8月26  従四位下 正道王 恒世親王 十六歳(元服時叙爵) 『続日本後紀』
承和6(839)年9月5日  従四位下 吉岡女王     『続日本後紀』
承和7(840)年正月7日  従四位下 世宗王     『続日本後紀』
承和8(841)年11月20  従四位下 茂世王 仲野親王   『続日本後紀』
承和11(844)年正月7日  従四位下 基枝王 葛井親王 二十一歳 『続日本後紀』
承和13(846)年正月7日  従四位下 房世王 仲野親王   『続日本後紀』
嘉祥2(849)年正月7日  従四位下 貞内王     『続日本後紀』
嘉祥3(850)年4月17日 従四位下 雄風王 萬多親王  三十六歳(文徳践祚時叙爵) 『日本文徳天皇実録』
嘉祥3(850)年4月17日 従四位下 利基王 賀陽親王 二十九歳 『日本文徳天皇実録』
嘉祥3(850)年7月26日  従四位下 望子女王     『日本文徳天皇実録』
仁寿3(853)年正月7日  従四位下 當世王 仲野親王   『日本文徳天皇実録』
齊衡2(855)年正月7日  従四位下 輔世王 仲野親王   『日本文徳天皇実録』
齊衡3(856)年正月7日  従四位下 棟貞王 葛井親王   『日本文徳天皇実録』
天安元(857)年正月7日  従四位下 時佐王     『日本文徳天皇実録』
天安2(858)年正月7日 従四位下 忠貞王 賀陽親王 三十九歳 『日本三代実録』
天安2(858)年11月7日 従四位下 秀世王 仲野親王   『日本三代実録』
天安2(858)年11月7日 従四位下 棟氏王 葛井親王   『日本三代実録』
貞観元(859)年11月19日 従四位下 棟良王 葛井親王   『日本三代実録』
貞観元(859)年11月20日 従四位下 為子女王 時康親王
(光孝天皇)
  『日本三代実録』
貞観元(859)年11月20日 従四位下 憙子女王     『日本三代実録』
貞観元(859)年11月20日 従四位下 異子女王     『日本三代実録』
貞観2年(860)年11月16日 従四位下 潔世王 仲野親王 四十一歳(文章生) 『日本三代実録』
貞観4(862)年正月7日  従四位下 良秀王     『日本三代実録』
貞観5(863)年正月7日  従四位下 元長王 時康親王
(光孝天皇)
  『日本三代実録』
貞観6(864)年正月7日  従四位下 忠範王 賀陽親王   『日本三代実録』
貞観6(864)年正月7日  従四位下 朝右王     『日本三代実録』
貞観8(866)年正月8日  従四位下 親子女王     『日本三代実録』
貞観8(866)年正月7日 従四位下 興基王 人康親王   『日本三代実録』
貞観9(867)年正月7日   従四位下 基世王 仲野親王   『日本三代実録』
貞観10(868)年正月7日 従四位下 有佐王     『日本三代実録』
貞観11(889)年正月7日  従四位下 兼善王 時康親王
(光孝天皇)
  『日本三代実録』
貞観18(876)年12月29日  従四位下 興範王 人康親王   『日本三代実録』
元慶元(877)年11月22日  正四位下 隆子女王     『日本三代実録』
元慶元(877)年11月22日 正四位下 兼子女王     『日本三代実録』
元慶元(877)年12月25日  従四位下 正内王 業良親王   『類聚国史』
元慶3(879)年正月7日  従四位下 和王     『日本三代実録』
元慶3(879)年11月25日  従四位下 輔相王     『日本三代実録』
元慶6(882)年正月7日  従四位下 興扶王 人康親王   『日本三代実録』
元慶7(883)年正月7日  従四位下 良末王     『日本三代実録』
元慶8(884)年2月23日 従四位下 十世王 仲野親王   『日本三代実録』
元慶8(884)年2月26日 従四位下 ■子女王     『日本三代実録』
元慶8(884)年2月26日 従四位下 正子女王     『日本三代実録』
元慶8(884)年11月25日 従四位下 直実王     『日本三代実録』
仁和2(886)年正月7日  従四位下 是行王     『日本三代実録』
仁和2(886)年正月7日  従四位下 兼覽王 惟高親王   『日本三代実録』
仁和2(886)年正月8日  従四位下 厳子女王     『日本三代実録』
仁和2(886)年5月18日  従四位下 在世王 仲野親王   『日本三代実録』
仁和3(887)年正月7日 従四位下 興統王     『日本三代実録』

 王氏が多数となることに伴うもっとも大きな問題は、朝廷は彼ら王氏に対して令に定められた俸給を支払う必要があったが、そのような経済的な余裕はなかったことである。令では無位の王にも五位の年収の十六分の一が「時服料」として支払われていたが、朝廷はこの時服料の削減のために、リストラを行うこととなる。

 まず貞観12(870)年2月20日、時服料を与える諸王の数を最大四百二十九人と規定した。続けて2月25日には「勅減諸王季祿四分之一」とあるように、諸王の季禄は四分の一減と定めた(『日本三代実録』貞観十二年二月廿五日條)。この流れが「賜姓」による臣籍降下へと進むこととなる。刑部卿茂世王(仲野親王の長子)も朝廷の窮乏を憂い、子の好風王貞文王の二人に姓を賜ることを請い、貞観16(874)年11月21日、二人に平姓が下賜され、王氏としての給禄は停止された(『日本三代実録』貞観十六年十一月廿一日条)。なお、この茂世王の娘が高望王の妻になったとも言われている(『系図纂要』)

高望王について

 嘉祥3(850)年頃(『千馬家系図』)、高望王は高見王の子として生を受けるも、その後、あまり時を経ずに高見王は薨じたと思われる。高望王は後ろ盾となるような外戚もなく、無位無官のまま逼塞していたと思われるが、何らかの京官を経たのちに上総介に補任されたと思われ、受領として下向する。下表のように上総介の相当位は従五位下であり(貞観~元慶年中の上総介)、高望王も上総介補任時には従五位下だった可能性が高いが、史料には伝わってはいない。

●貞観~元慶年中の上総介(上総太守)

任期 人名 前官
貞観元(859)年正月13日~2月13日 清原真人真貞 従五位下 内膳正
貞観元(859)年2月13日~3月22日 吉備朝臣全継 従五位下 散位
貞観元(859)年12月21日~貞観2(860)年正月16日 藤原朝臣貞庭 従五位下 散位
貞観2(860)年2月14日~? 伴宿祢龍男 従五位上 散位
貞観6(864)年6月28日現任 藤原朝臣万枝 従五位下 散位
元慶2(878)年正月11日現任 佐伯宿祢貞行 従五位下 散位
元慶5(881)年2月14日以降、
元慶7(883)年2月9日以前の任官
藤原朝臣正範 従五位下 右衛門大尉
仁和元(885)年正月16日現任
※2月3日時点で赴任していない
小野朝臣国梁 従五位下 散位頭
(参考:上総太守) 人名 官位 前官
貞観2(860)年2月14日~? 本康親王 (上総太守再任)  
貞観3(861)年正月13日~貞観5(863)年2月10日 仲野親王 (上総太守)  
貞観5(863)年2月10日? 本康親王 (上総太守)  
貞観11(869)年2月16日現任 本康親王 (上総太守) 
貞観16年8月21日現在在任
 
貞観17(875)年2月27日~貞観18(876)年2月15日 惟彦親王 (上総太守)  
元慶6(882)年5月11日現任 惟恒親王 (上総太守)  
 

 また、高望の上総介補任は平姓下賜の前なのか後なのか。前述のとおり、上総介は従五位下が相当位となっていた。『尊卑分脉』では「叙爵之後賜平朝臣」と明記されており、従五位下を賜ったのちに賜姓されたとする。これは、高望王が三世王の蔭位として、二十一歳以上で「従五位下」に叙される規定に合致しており、『尊卑分脉』の記述に矛盾はない。高望王と同世代の三世王は平姓下賜当時に無位だったケースも多く、この場合の初叙は、下賜前叙爵より一階低い「正六位上」となる。

平姓下賜日 位/官 初叙 その後官途 祖父
貞観4(862)年4月20日 従五位下
散位
住世 天安2(858)年正月7日
无位→従五位下
住世王
貞観4(862)年12月20日
従五位下(当時)
散位→正親正
正躬王 萬多親王
無位 継世     正躬王 萬多親王
無位 基世 初叙は平姓下賜後 元慶8(884)年5月26日
従五位下(当時)
散位→治部少輔
正躬王 萬多親王
無位 家世     正躬王 萬多親王
無位 益世     正躬王 萬多親王
無位 助世     正躬王 萬多親王
無位 是世     正躬王 萬多親王
無位 經世     正躬王 萬多親王
無位 並世     正躬王 萬多親王
無位 尚世     正躬王 萬多親王
無位 行世     正躬王 萬多親王
無位 保世     正躬王 萬多親王
無位 高蹈     正行王 萬多親王
無位 高居     正行王 萬多親王
無位 定相     雄風王 萬多親王
元慶元(877)年12月27日 无位 高平 初叙は平姓下賜後 元慶8(884)年7月5日当時
大宰大監
仁和元(885)年10月11日当時
正六位上
正行王 萬多親王
元慶2(878)年12月25日 无位 潔行     利基王 賀陽親王
元慶4(880)年正月26日 无位 有相     雄風王 萬多親王
元慶8(884)年3月8日 無位 遂良     潔世王 仲野親王
仁和元(885)年2月28日 無位 安典     輔世王 仲野親王

 高望王は初叙で従五位下とされたとすれば、上総介に補される位上の資格は満たしており、京官を経ることなく上総介に補任され下向した可能性がある。これは高望王の官・位について「上総介、従五位下」(『尊卑分脉』)「故上総介高茂王」(『将門記』)と見えるように「上総介」以外は見えないことから、高望王が就いた官は上総介のみであった可能性が高い。

 なお、高望王の上総介補任時期については、『神皇正統記』に寛平元(889)年5月12日に「始而平姓賜而上総介任」じられたとされている(『神皇正統記』)。これと同様の記述が『日本紀略』の寛平元年五月十三日条に「賜平朝臣姓者五人」としてみられるが(『日本紀略』)、こちらは五名の具体的な名は記されていない。

●寛平元(889)年5月12日(『神皇正統記』)

同五月十二日 桓武天皇四代孫高望王始而平姓賜而上総介任、…

●寛平元(889)年5月13日(『日本紀略』:『国史大系』所収)

五月
 十三日 賜平朝臣姓者五人

 『神皇正統記』の記述は『日本紀略』またはその原典に拠ったものと思われるが、南北朝期にあっては具体的な記録が残されていた可能性も否定できない。高望王が嘉祥3(850)年頃の生誕(『千馬家系図』)と推定すれば、「始而平姓賜」った寛平元(889)年は高望王は四十歳頃だったことになる。高望王の子である平国香、良兼、良持、良正、良文らはいずれも王号を称しておらず、高望王の賜姓後に誕生したことになる。長男の鎮守府将軍国香は承平5(935)年2月2日に甥・平将門(平良持の子)に討たれているが、国香が寛平2(890)年頃の誕生とすれば、討たれた際の年齢は四十五、六歳となり妥当である。この時点で国香の長子・平貞盛左馬允として在京しており、貞盛は延喜5(910)年前後の誕生となるか。

○葛原親王周辺系図

桓武天皇―+―葛原親王―+―平高棟――――平惟範―――――平時望――――平直材
     |(786-853)|(806-867) (855-909)  (878-939) (900-968)
     |      |
     |      +―平善棟          +―平国香――――平貞盛
     |      |(809?-829)        |(???-935) (???-989?)
     |      |              |
     |      +―高見王――――平高望―――+―平良兼――――平公雅
     |       (???-???) (???-???) |(???-939) (???-???)
     |                     |
     +―嵯峨天皇―――仁明天皇         +―平良持――――平将門
     |(786-842)               |(???-???) (???-940)
     |                     |
     +―淳和天皇                +―平良文――――平経明
     |(786-840)                (???-???) (???-???)
     ↓

●平朝臣賜姓一覧(『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)

賜姓年月 人名 賜姓時位 賜姓後位 備考
天長2(825)
閏7月
高棟王 従四位下 葛原親王  
天長2(825)
閏7月
善棟王 従四位下 葛原親王  
貞観4(862)年
4月20日以降
住世王 従五位下 正躬王 萬多親王 孫
継世王 無位 不明
基世王 正六位上か
賜姓22年後に従五位下
家世王 不明
益世王
助世王
是世王
経世王
並世王
尚世王
行世王
保世王
高蹈王 正行王
高居王
定相王 従五位下 雄風王
貞観5(863)年
8月8日か
房世王 従四位上 仲野親王 自ら賜姓を請う
貞観9(867)年
正月17日以前
平利世 無位 従五位下 仲野親王 賜姓平朝臣並為五位
貞観9(867)年
正月17日以前
平惟世 従五位下 賜姓平朝臣並為五位
貞観15(873)年
9月27日
幸身王 不明 不明 賀陽親王後裔
時身王 不明 不明 賀陽親王後裔
貞観16(876)年
11月21日
好風王 従五位下 従五位下 茂世王 仲野親王孫
貞文王 従五位下 不明 『尊卑分脈』好風の子
元慶元(877)年
12月27日
高平王 無位 正六位上 正行王 萬多親王 孫
元慶2(878)年
12月25日
潔行王 不明 利基王 賀陽親王孫
元慶4(880)年
正月26日
有相王 雄風王 萬多親王孫
従五位下行越中介平朝臣定相之弟
⇒兄が先に臣籍降下している例
元慶6(882)年
6月25日
景行王 実世王 仲野親王孫
秋雪王
申如王
廉住王
元慶8(884)年
3月8日
遂良王 潔世王 仲野親王孫
仁和元(885)年
2月28日
安典王 輔世王 仲野親王孫
仁和2(886)年
7月15日
安平王 興我王(光孝孫) 光孝天皇曾孫
篤行王
有本王
内行王
潔矩王
寛平元(889)年
5月13日
賜平朝臣姓者五人       『日本紀略』

 平高望(上総国赴任は賜姓後)が赴任した上総国は、天長3(826)年9月、常陸国・上野国とともに「親王任国」と規定され、国守はおかれずに親王が「太守」として国主とされた。しかし親王自身が下向することはないため、次官の「介」が下向すれば受領となる。

 当時の上総国は、貞観9(867)年に国衙職として「国検非違使」が置かれ、たびたび「俘囚」の反乱が起こる国であった。元慶7(883)年正月頃には「市原郡俘囚卅余人四十余人叛乱」があり、「盗取官物、数殺掠人民」という状況だった。この叛乱は、上総介藤原正範や大掾文屋善友が「諸郡人兵千人」を派遣して鎮圧している(『日本三代実録』元慶七年二月九日條、二月十八日條)高望は下向に際し京都近郊の「不善之輩」を雇用して「従類」として下向した可能性もあったとされるが妥当だろう(『将門の乱の評価をめぐって』高橋昌明:『論集平将門研究』所収)

 こうした叛乱の原因の一つとも考えられるのが、受領の絶大な権限であろう。任国に赴任した国司(受領や雑任)はその権力によって人民から資源を搾取する者も多かった。そのため、人民の怨嗟の声は拡大し、上総国における叛乱もまたこうした公権力への怨恨だった可能性があろう。一方で秩満後に京都での立身を諦めて帰洛しない国司もみられ、受領時代に培った財や私営田を頼りに留住するケースもあった。こうした規定違反に対処するため、朝廷は寛平7(895)年11月7日、「応禁断五位以上前司留住本任国并輙出畿外事」の官符(『類聚三代格』)を下している。

 当然高望もこの対象だが、高望は帰洛せずに留まったとみられる。ただし、高望が上総国に権益を持った跡は認められず、子孫は下総国に多くの私営田を有したことから、高望は上総国から下総国へ移ったのではあるまいか。そして、嵯峨源氏とみられる常陸大掾源護(又従兄弟程の関係となろう)の女子達と子息ら(平国香、平良兼、平良正)を婚姻関係として、地縁・血縁的な関係を強化したのではなかろうか。

桓武天皇―+―葛原親王――高見王――高望王―+―――――――――平国香――平貞盛
     |                |         ∥    ∥     
     |                |         ∥    ∥
     |                +―――――平良兼 ∥    ∥
     |                |     ∥   ∥    ∥
     |                |     ∥   ∥    ∥
     |                +―平良正 ∥   ∥    ∥
     |                  ∥   ∥   ∥    ∥
     |                  ∥   ∥   ∥    ∥
     +―嵯峨天皇――源■―――源護――+―女子  ∥   ∥    ∥
                      |     ∥   ∥    ∥
                      +―――――女子  ∥    ∥
                      |         ∥    ∥
                      +―――――――――女子   ∥
                      |              ∥
                      +――――――――――――――女子                      

 なお、『平家勘文録』によれば、寛平元(889)年12月13日、「民部卿宗章(宗常?)の朝臣」なる人物が京都で謀反を企てた事件が発覚し、宣旨を蒙って追討した功績により、翌寛平2(890)年5月12日に「上総守」に任じられ、朝敵を「たひらくる(平ぐる)」という理由によって「平の姓」を賜ったと記載されているが(『平家勘文録』)、「民部卿宗章」なる人物は諸書に見られず、架空の人物であろう。平姓の「平」は実際は平安京の「平」に由来すると思われる。

 延喜11(911)年5月24日、七十三歳で薨じたとされるが(『千葉大系図』)、定かではない。延喜17(917)年正月24日に六十八歳で薨じたとも(『千馬家系図』)。承平7(937)年8月6日時点では「故上総介高茂王」(『将門記』)とある。謚号等は不明。


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