平高望(高望王)

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(???-???)
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(???-???)
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(???-???)
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(???-???)
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(????-????)
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平高望 (???-911?)

御諱 高望
高茂王(『将門記』)
生没年 (1)正和6(839)年9月7日~延喜11(911)年5月24日(『千葉大系図』)
(2)嘉祥3(850)年2月18日~延喜17(917)年正月24日(『千馬家系図』)
元服 不明
高見王? 葛原親王?※高望王は桓武天皇の「孫」か?(『将門記』『今昔物語集』)
右京大夫藤原是緒女(『千葉大系図』)
武蔵守橘春成女(『千馬家系図』)
仲野親王女(『系図纂要』)
刑部卿茂世王女(『系図纂要』)
官位 従五位下
官職 上総介(『将門記』ほか諸系譜)

 高見王の王子。母は右京大夫藤原是緒女武蔵守橘春成女仲野親王女ともされ、正和6(839)年9月7日、京都に生まれたと伝えられる。いわゆる「桓武平氏」の祖。しかし、父とされる高見王は天長2(825)年9月以前に亡くなっていると思われることから、それ以前の誕生か。妻は茂世王女とも(『系図纂要』)

●高望王系図(『系図纂要』ほか)

 美努王――――橘為佐―――三笠錦裳――橘継成―――橘枝主――――橘春成――――娘
(大宰帥)  (侍従)  (安芸守) (安芸守) (安芸守)  (武蔵守)   ∥―?―高望王
                                        ∥  (上総介)
 藤原不比等――藤原房前――藤原鳥飼――小黒麻呂――葛野麻呂――藤原是緒―――娘∥
(右大臣)  (参議)  (大納言) (民部卿) (刑部卿) (右京大夫)  ∥――?―高望王
                                       ∥∥  (上総介)
                        桓武天皇――+―葛原親王―――高見王
                              |(式部卿)   ∥――?―高望王
                              |        ∥   (上総介)
                              +―仲野親王―+―娘     ∥
                               (上総太守)|       ∥――平国香
                                     |       ∥ (常陸大掾)
                                     +―茂世王―――娘 
                                      (刑部卿)

 高望王は、寛平元(889)年5月13日(12日とも)、時の天皇である宇多天皇の勅命によって、「平」姓を授けられて臣籍降下したと伝わる。

●寛平元(889)年5月12日(『神皇正統録』)

同五月十二日 桓武天皇四代孫高望王始而平姓賜而上総介任、…

●寛平元(889)年5月13日(『日本紀略』:『国史大系』所収)

五月
 十三日 賜平朝臣姓者五人

 『日本紀略』によれば、寛平元年五月十三日条に五名の王に平姓を与えられたことが記載されている。この五名の皇族の具体的な名は記されていないが、高望王もその一人か。

 なお、『平家勘文録』によれば、寛平元(889)年12月13日、「民部卿宗章(宗常?)の朝臣」なる人物が京都で謀反を企てた事件が発覚し、宣旨を蒙って追討した功績により、翌寛平2(890)年5月12日に「上総守」に任じられ、朝敵を「たひらくる(平ぐる)」という理由によって「平の姓」を賜ったと記載されているが(『平家勘文録』)、「民部卿宗章」なる人物は諸書に見られず、架空の人物であろう。平姓の「平」は実際は平安京の「平」に由来すると思われる。

 この当時、二十一歳を超えた王には従五位下が与えられる規定があった。王家は平安時代初期には奈良時代以来の家も含めるとかなりの数にのぼっており、朝廷にはすべての王に位階=位階相当額の給与を出す経済的な余裕はなく、二十一歳を超えても無位無官のままの王が多数あった。

 一方で、無位無官の王には朝廷から五位の大夫の年収の十六分の一が「時服料」として支払われていたが、朝廷も諸王すべてに時服料を与え続けていくことは経済的に困難であり、貞観12(870)年2月20日、時服料を与える諸王の数を最大四百二十九人と規定した。さらに2月25日には「勅減諸王季祿四分之一」とあるように、諸王の季禄は四分の一減とされた(『日本三代実録』)

 「王」という地位は、朝廷からも皇室からも厄介な存在に思われていたようである。刑部卿茂世王(桓武天皇皇子仲野親王の長男)も朝廷の窮乏を憂い、自分の子の従五位下・好風王貞文王の二人に姓を賜ることを請うた。茂世王の上表は頑なであり、好風王と貞文王には平朝臣の姓が下賜され、王としての給禄は停止された(『日本三代実録』貞観十六年十一月廿一日条)。なお、この茂世王の娘が高望王の妻になったとも言われている。

 高望王も給禄が次々に削られていく中で、上総介に任じられた高望は、受領として上総国に下向したのだろう。上総国は天長3(826)年9月、常陸国・上野国とともに「親王任国」と規定され、国守はおかれずに親王が「太守」として国主とされた。しかし親王自身が下向することはないため、次官の「介」が事実上の筆頭国司であった。高望は上総国に絶対的な権限を持つ国司として赴任していった。

 この当時、受領国司は大変大きな力を持ち、経済的にも京都に比べて比較にならないほどの裕福な生活ができた。そのため、各国の国司は四年の期限が切れるとさらに四年の延長を申し出る例が多かった。また、任期切れになっても中央へ戻らない国司たちが多数現れてきたことを憂いた朝廷は、寛平7(895)年11月に「国司任期満了後の任国留住の禁止」令を発布した。しかし、あまり改善が見られなかったのか、翌12月、朝廷はさらに厳しい「五位以上の諸臣と孫王が畿外へ出ることを禁止する法令」を発布したが、高望はおそらく京都に戻ることはなかったのだろう。

 ただし、当時の上総国は、貞観9(867)年に「国検非違使」が置かれ、貞観12(870)年、元慶7(883)年の二度にわたる大規模な「俘囚」の反乱が起こっているほど治安の悪い国であった。元慶7(883)年には「諸郡」の千人もの兵士が市原郡に蜂起した俘囚鎮圧のために出陣したが、鎮圧することができなかったほど反乱軍は強力だった。国衙は武勇の人で大掾の文屋善友を派遣して鎮圧することに成功する。高望が赴任したのは、このような殺伐とした国だったのである。高望は下向する際に、京都近郊の「不善之輩」を雇用して「従類」として下向したともいう(『将門の乱の評価をめぐって』高橋昌明:『論集平将門研究』所収)

 延喜11(911)年5月24日、七十三歳で亡くなったとされている。延喜17(917)年正月24日に68歳で亡くなったとも(『千馬家系図』)。謚号等は不明。

高望王の平姓下賜の時期について

 高望王の父・高見王は、「兄」とされる高棟王・善棟王が平姓を下賜されているにもかかわらず、「平朝臣」姓を称した形跡がないことから、彼は王のまま亡くなった、つまり、高見王葛原親王の上表(一皆被賜姓平朝臣)がなされた天長2(825)年当時において、すでに亡くなっていた、または生まれていなかった、そもそも「実在の人物ではなかった」のいずれかであろう。

 天長2(825)年に三十九歳の葛原親王「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」「割愛子息庶捨王号」と自分の「男女」「子息」への賜姓を上表しており、「孫」についての言及がないことからも、この時点で孫(高望)がいたとは考えにくい

 父・高見王はいずれの系譜でも「無位無官」もしくは「早世」であるが、「令」によれば「廿一歳以上」の「諸王子」には「従五位下」が与えられる「令」の規定があった(『選叙令蔭皇親條』)。ただし、このころ「諸王子」は奈良時代以来かなりの人数にのぼっており、朝廷にはすべての王に位階=位階相当額の給与を出す余裕はなく、実際には二十一歳を超えても無位無官のままの王が多数あったことから、高見王がこのような無位無官の王だった可能性もあるが、高棟王・善棟王の二人の兄弟の叙爵がおそらく規定通り行われていることから、高見王も二十一歳まで生きていたとすれば、その規定に適ったであろう。つまり、高見王は「王」のまま二十歳前に亡くなったと推測される。王のままの薨去であるのは、子・高望王が「王」号を称していることからも想像されるが、天長2(825)年当時に高見王は存在せず、子・高望王も「平朝臣」姓の対象となっていないということは、高見王が実在の人物であれば、上表のあった天長2(825)年以降、葛原親王が薨じる仁寿3(853)年までの間に生まれ、元服して賜姓される以前に薨じ、遺児高望王が寛平元(889)年正月12日または13日に「賜平朝臣姓」り、上総介に任じられた(『神皇正統録』)。ただし、高望王『将門記(將門記)』によれば、「故上総介高茂王」と記載されており、興世王(武蔵権守)や経基王(武蔵介)のように「王」のまま上総介として下向していた可能性もあるか。

 高望の子、国香や良兼などの出生地については、京都説と上総下向後説など諸説があるが、承平5(935)年2月2日、国香が甥・平将門(平良持の子)に討たれたとき、国香の長子・平貞盛は上洛して「右馬允」の官についており、貞盛の活躍時期や良兼、良持らにも成人した子がいたことを考えれば、寛平元(889)年の高望下向後に国香らが生まれたと考えるのは現実的ではない。国香や良兼、良持らが誕生したのは高望がまだ在京時であり、おそらく高望が上総国へ下向した際に同行したものと思われる。

高望王は桓武天皇の曾孫?

 諸書に一切記載のない高見王の実在は疑問もあるが、『将門記』等にも記載されている「高望王」は実在の人物であろう。しかし、高望王が「平朝臣」を賜った史実を記録からはうかがい知る事はできない。『六国史』最後の『日本三代実録』は、高望王が臣籍降下したという寛平元(889)年を遡ること2年の仁和3(887)年8月26日で記載が終了してしまっているためである。

 高望王に関する記述は、10世紀中頃に成立した『将門記』と承暦元(1077)年に成立した『今昔物語集』にわずかに残っている。

 『将門記』の冒頭には、

「夫聞彼将門昔天国押撥御宇柏原天皇五代之苗裔三世高望王之孫也…」

とあり、諸系譜と一致する。これは諸系譜(の大本)が『将門記』の記述を参考にした可能性もあるか。

 一方、それより100年ほど後に成立した『今昔物語集』巻第二十五に納められている「平將門発謀反被誅語第一」の冒頭部に、

「…東国ニ平將門ト云兵有ケリ、此レハ柏原ノ天皇ノ御孫ニ高望親王ト申ケル人ノ子ニ鎮守府ノ将軍良持ト云ケル人ノ子也、…」

と、将門の出自が記されており、「柏原天皇(桓武天皇)」の「御孫」として「高望親王」とある。桓武天皇の「御孫」で「親王」を名乗った人物は、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇の皇子以外はいないので、この「高望親王」はあきらかな誤記だが、「御孫」という言葉から、高望王は桓武天皇の孫であった可能性もある。

 高望王は桓武天皇の曾孫なのか、孫なのかは現在のところ証明する手段はなさそうである。ただ、高見王と高望王の「見」「望」ともに「会う」という同義の字であり、高見王高望王同一人物だったとも考えることができる。

 また、平安時代初期、貴族などの一般的な習慣として、諱の一字を兄弟で用いる風習があった(絶対的なものではない。例を参照)。では高望がもし高見王の子ではなかったとすると誰の子だったのか、仮節を立てて高望王と同様に、「高」「望」を通字とする桓武天皇の子孫を探してみると、葛原親王の弟で、天長7(830)年4月21日に43歳で薨去した二品(贈一品)太宰帥・万多親王の王孫が挙げられる。

 万多親王の二男の従四位上・正行王(弾正大弼兼美作権守)の子には、高蹈王・高居王・高平王の三名あり、いずれも「高」を通字とする。この三名のうち、高蹈王・高居王は貞観4(862)年4月20日に「平朝臣」姓を賜って平高蹈・平高居となり、末弟の高平王も元慶元(877)年12月27日、同じく「平朝臣」姓を賜って、平高平となっている。

○葛原親王周辺系図

桓武天皇―+―葛原親王―+―平高棟――――平惟範―――――時望―――――直材
     |(786-853)|(806-867) (855-909) (878-939) (900-968)
     |      |
     |      +―平善棟          +―国香―――――貞盛
     |      |(809?-829)       |(???-935)(???-989?)
     |      |              |
     |      +―高見王――――平高望―――+―良兼―――――公雅
     |       (???-???) (???-???) |(???-939)(???-???)
     |                     |
     +―嵯峨天皇―――仁明天皇         +―良持―――――将門
     |(786-842)               |(???-???)(???-940)
     |                     |
     +―淳和天皇                +―良文―――――忠頼
     |(786-840)                (???-???)(???-???)
     ↓


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