継体天皇(???-527?) | |
欽明天皇(???-571) | |
敏達天皇(???-584?) | |
押坂彦人大兄(???-???) | |
舒明天皇(593-641) | |
天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
江戸時代の千葉宗家 |
御諱 | 高見王 | |
生没年 | 延暦5(786)年~仁寿3(853)年6月4日 天長元(824)年~嘉承元(848)年8月19日 弘仁8(817)年~斉衡2(855)年 弘仁元(810)年~天安元(857)年8月19日(『佐沼亘理家譜』) ?~仁和元(885)年4月27日(『系図纂要』) |
|
元服 | 不明 | |
父 | 葛原親王 | |
母 | 土佐大目秦福代女(『千馬家系図』) | |
室 | 仲野親王女(『系図纂要』) | |
位 | 無位 | |
官 | 無官 |
葛原親王の第三皇子とされ、天長元(824)年、京都で生まれたと伝えられている。桓武平氏の遠祖。一説には母は土佐大目秦福代女(『千馬家系図』)。弘仁8(817)年に誕生したという(『千馬家系図』)。比叡山にて元服したとされるが不明。妻については、桓武天皇皇子・上総太守仲野親王の娘ともされている(『系図纂要』)が、詳細は不明である。
母方の祖父とされる「秦福代」とは葛原親王家の家令だった人物で「外従五位下秦忌寸福代、為兼土左大目、一品葛原親王家令如故」(『続日本後紀』承和十五年正月十三日条)とあるように、承和15(848)年正月以前から葛原親王家の家令を務めていた人物で、千馬家系図以外に見えない。おそらく千馬家系図を製作する過程で、葛原親王由緒の人物として充てられ、系譜に組み込まれた可能性が高い。
●秦忌寸福代の官途(『続日本後紀』)
年 | 官位 | 官職 | その他 |
承和8(841)年11月20日 | 外従五位下 | 不明 | |
承和15(848)年正月13日 | 外従五位下 | 土左大目 | 一品葛原親王家令如故 |
嘉祥2(849)年正月7日 | 外従五位下 | 不明 |
「無位無官」のまま「早世」したとされる。
●高見王系図(『系図纂要』)
桓武天皇―+―葛原親王――高見王
|(式部卿) ∥――――高望王
| ∥ (上総介)
+―仲野親王―+―娘 ∥―――――平国香
(上総太守)| ∥ (常陸大掾)
| ∥ ∥
+―茂世王―――娘 ∥――――平貞盛
(刑部卿) ∥ (陸奥守)
∥
藤原村雄―+―娘
(下野大掾)|
|
+―藤原秀郷
(下野押領使)
高棟王ら兄弟姉妹は天長2(825)年7月6日に父・葛原親王の上奏によって「平」姓を賜ることが決まり、閏7月に臣籍降下した。従四位下高棟王は平高棟となり、のち正三位大納言に任じられて子孫は公卿となった。太政大臣平清盛の正妻である平時子(二位尼)は高棟王の子孫。時子の弟・平時忠は清盛政権の中で検非違使別当、大納言に任じられた人物として知られている。
嘉承元(848)年8月19日、二十五歳の若さで亡くなったといわれるが、一説には天安元(857)年秋に亡くなったとも、斉衡2(855)年に三十九歳で亡くなったとも(『千馬家系図』)。また別説では、天安元(857)年8月19日に四十八歳で亡くなったともされる(『佐沼亘理家譜』)。
高見王は系譜のみに名が見え、いわゆる『六国史』などにも一切その名が見えないため、謎の人物である。
平安時代末期成立の『日本紀略』によれば、高見王が生まれたという天長元(824)年の翌年、天長2(825)年7月6日には父・葛原親王が子女たちの王号を捨てて「平朝臣」の姓を与えてほしいと異母兄・淳和天皇に上表して聴されている。この勅許によって葛原親王の子たちは「平朝臣」姓を賜り、臣籍となった。高棟王はすでに弘仁14(823)年正月7日、二十歳の若さで従四位上に昇叙し(令の規定では親王の子は二十一歳を越えると従四位下に叙爵だが、高棟王は二十歳で叙爵か)、9月には侍従、天長元(824)年9月22日には大学頭へと着実な昇進を重ねていた。ちなみに、葛原親王の上表は天長2(825)年7月6日のことだが、高棟王が実際に「平朝臣」姓を賜ったのは翌月の閏7月であった(『公卿補任 承和10(843)年条』)。
●天長2(825)年3月24日(『日本紀略』)
天長2(825)年3月24日の葛原親王の上表文には、『日本紀略』からうかがう限り、「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」であったわけで、男女を問わない子息達「一皆」に「平朝臣」姓を授けてほしい旨が記されていたと考えられる。なお、この上表は許されなかった。葛原親王の再上表は天長2(825)年7月6日に行われ、これは認可された。
●天長2(825)年7月6日(『日本紀略』)
また、高棟王には善棟王という弟がいたことが『続日本紀』及び菅原道真が撰した『類聚国史』によってうかがえる。善棟王は天長2(825)年正月7日、兄・高棟王から遅れること三年にして無位から従四位下に叙された。この時点ではまだ「善棟王」であったが(『類聚國史』)、7月6日の父葛原親王上表により賜姓を許され、閏7月に兄の高棟王とともに「平朝臣」姓を賜って「平善棟」となったと思われる。しかし、善棟はそれからわずか4年後の天長6(829)年6月22日に亡くなった。推定二十四歳。
●天長6(829)年6月22日(『類聚国史』)
●高棟王、善棟王の官途(六国史)
人物 | 年 | 月日 | 叙位 | 官職 | 年齢 | 備考 | 出典 |
高棟王 | 延暦23年 (804) |
1 | 一品葛原親王之長子 | 『日本三代実録』 平高棟薨伝より逆算 |
|||
弘仁14年 (823) |
正月7日 | (无位より) 従四位下 |
侍従 | 20 | 『類聚國史』 『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
||
天長元年 (824) |
― | 大学頭 (遷)中務大輔 (遷)兵部大輔 |
21 | 『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
|||
善棟王 | 天長2年 (825) |
正月7日 | (无位より) 従四位下 |
(侍従カ) | 不詳 (20?) |
『類聚國史』 | |
平高棟 平善棟 |
7月6日 | 22 不詳 |
葛原親王の子女への賜姓奏上により 「賜姓平朝臣」 ・3月24日葛原親王上表も不許。 ・7月6日に再上表して許される。 |
『日本紀略』 『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
|||
閏7月日 | 実際に平朝臣姓を下賜される | 『公卿補任』 承和十年条 |
|||||
平善棟 | 天長6年 (829) |
6月22日 | 不詳 (24?) |
従四位下平朝臣善棟卒。 一品葛原親王第二男也。 |
『類聚國史』 | ||
平高棟 | 天長7年 (830) |
正月7日 | 従四位上 | 27 | 『類聚國史』 | ||
承和7年 (840) |
(補)大蔵卿 | 37 | |||||
8月22日 | (遷)刑部卿 | 『続日本後紀』 |
|||||
承和9年 (842) |
正月7日 | 正四位下 | 39 | 『続日本後紀』 | |||
8月11日 | (補)大蔵卿 | 『続日本後紀』 『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
|||||
承和10年 (843) |
4月14日 | 従三位 | 40 | 『続日本後紀』 | |||
仁寿元年 (851) |
― | 参議 | 48 | 『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
|||
6月4日 | 父の一品大宰帥葛原親王が薨じる 平高棟、「親喪解、哀毀過礼」という |
『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
|||||
斉衡元年 (854) |
8月28日 | (補) 春宮大夫 |
51 | 立坊により春宮惟仁親王の 春宮大夫となる。 |
『日本文徳天皇実録』 | ||
天安2年 (858) |
9月14日 | 権中納言 | 55 | 惟仁践祚により春宮大夫を止め、 中納言へ転じる。 「抗表固辞中納言、不許焉」という。 |
『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
||
11月7日 | 正三位 | 『日本三代実録』 | |||||
貞観元年 (859) |
正月10日 | 56 | 「別墅在山城国葛野郡」を「為道場」を奏請し 「賜額曰平等寺 詔許之」される。 |
『日本三代実録』 | |||
12月21日 | (兼) 陸奧出羽按察使 |
『日本三代実録』 | |||||
貞観7年 (865) |
正月25日 | 大納言 | 62 | 「以年老上譲、優詔不許」という。 「所食戸邑、多資仏事」という。 |
『日本三代実録』 | ||
貞観9年 (867) |
5月19日 | 薨去 | 64 | 高棟長六尺、美鬚髯、幼而聡悟、好読書伝、 高棟天性質厚、不事華飾、所歴官、政尚寛容 |
『日本三代実録』 (高棟薨伝) |
高棟王・善棟王の兄弟は「棟」という字を通字として用いている。平安時代初期、貴族などの一般的な習慣として、諱の一字を兄弟で用いる習わしがあった(絶対的なものではないが)。また、兄弟同士で途中から通字が変化するといった場合もあった。しかし、平安時代後期などからはじまる、親から子への一字伝承といった風習はまだ定着してはいない(例1、例2を参照)。
○葛原親王周辺系図
桓武天皇―+―平城天皇
|(774-824)
|
+―朝原内親王
|(779-817)
|
+―長岡岡成
|(???-848)
|
+―良峯安世 +―継枝王 +―平実範 +―珍材
|(785-830)| | |
| | | |
+―伊予親王―+―高枝王 +―平正範 +―時望―――+―直材
|(???-807) (788-???)| |(878-939) (900-968)
| | |
+―葛原親王―+―平高棟――+―平惟範―――+―伊望
|(786-853)|(806-867) (855-909) (881-939)
| |
| +―平善棟 +―国香―――――貞盛
| |(???-829) |(???-935) (???-989?)
| | |
| +―高見王――――平高望―――+―良兼―――――公雅
| (???-???) (???-???) |(???-939) (???-???)
| |
+―嵯峨天皇―――仁明天皇 +―良持―――――将門
|(786-842) |(???-???) (???-940)
| |
+―淳和天皇 +―良文―――――経明
|(786-840) (???-???) (???-???)
↓
【例1】北家藤原氏:甘露寺家
藤原高藤―+―定文―+―信臣―+―懐方
| | |
+―定数 +―経臣 +―成方
|
+―定国―+―有雅―+―兼時―+―定雅―+―雅房
| | | | |
| +―有述 +―嘉時 +―基宗 +―盛房
| | |
| +―有清 +―実時
| | |
| +―有基 +―定時
| | |
| +―有好 +―安時
| |
| +―有年
| |
| +―有逸
| |
| +―有用
| |
| +―有風 +―是高
| |
+―定方―+―佳節―――是藤―+―孝理
|
+―理実―――文貫
|
+―朝忠―――理兼―――致義
|
+―朝成 +―惟孝
| |
+―朝頼―――為輔―+―説孝
|
+―宣孝
【例2】坂上家
坂上大宿禰田村麻呂―+―大野
|
+―広野
|
+―浄野
|
+―正野
|
+―滋野
|
+―継野
|
+―継雄
|
+―広雄
|
+―高雄
|
+―高岡
|
+―高道
蔭位の条件は二十一歳以上という「選叙令 授位条」の規定及び、「親王子従四位下」という「選叙令 蔭皇親条」の規定があるが、この運用については「葛原親王之長子」の高棟王の叙位が二十歳、仲野親王の子・潔世王は四十一歳とかなりの振れ幅があった。
●『選叙令』授位条
●『選叙令』蔭皇親条
「蔭皇親條」は延暦15(796)年12月9日、桓武天皇の詔として若干の修正がなされているが、親王の子についての規定は変わっていない(『日本後紀』延暦十五年十二月九日條)。
【一世】 【二世】 【三世】 【四世】 【五世/除皇親、王號は許可】
天皇―+―親王――――――+―王―――――――王――――――王――――――王―――――――――――――+―王
| 品位 | 従四位下 従五位下 正六位上 正六位上 | 正六位上
| | |
| +―二世源氏 +―王(庶子)
| | 従五位上 正六位下
| |
| +―二世源氏(庶子)
| 正六位上
|
+―一世源氏――――+―一世源氏子―――一世源氏孫
従四位上 | 従五位下 正六位上
|
+―一世源氏(庶子)
正六位上
当時にあっては、諸王は奈良・飛鳥時代に大王家から分かれた王氏も含めると相当数存在し、それは二世王ですら無位のまま相当の年月を経るケースもあり、二十一歳以上の無位の王は多数見られる。
●無位から従四位下以上への直叙
直叙年月 | 叙位 | 名 | 父親王 | 年齢 | 典拠 |
大同5(810)年正月7日 | 従四位下 | 平野王 | 三十歳 | 『類聚国史』 | |
弘仁14(823)年正月7日 | 従四位下 | 高棟王 | 葛原親王 | 二十歳 | 『類聚国史』 |
弘仁14(823)年4月27日 | 従四位下 | 継枝王 | 伊予親王 | 『類聚国史』 | |
天長2(825)年正月4日 | 従四位下 | 善棟王 | 葛原親王 | 二十歳前後(兄・高棟王の二年後) | 『類聚国史』 |
天長3(826)年正月7日 | 従四位下 | 高枝王 | 伊予親王 | 二十五歳 | 『類聚国史』 |
天長6(829)年正月7日 | 従四位下 | 正躬王 | 萬多親王 | 三十一歳 | 『類聚国史』 |
天長9(832)年正月7日 | 従四位下 | 道野王 | 賀陽親王 | 『類聚国史』 | |
天長10(833)年3月6日 | 従四位下 | 正行王 | 萬多親王 | 十八歳(仁明践祚時叙爵) | 『続日本後紀』 |
承和3(836)年正月7日 | 従四位下 | 時宗王 | 『続日本後紀』 | ||
承和4(837)年8月26 | 従四位下 | 正道王 | 恒世親王 | 十六歳(元服時叙爵) | 『続日本後紀』 |
承和6(839)年9月5日 | 従四位下 | 吉岡女王 | 『続日本後紀』 | ||
承和7(840)年正月7日 | 従四位下 | 世宗王 | 『続日本後紀』 | ||
承和8(841)年11月20 | 従四位下 | 茂世王 | 仲野親王 | 『続日本後紀』 | |
承和11(844)年正月7日 | 従四位下 | 基枝王 | 葛井親王 | 二十一歳 | 『続日本後紀』 |
承和13(846)年正月7日 | 従四位下 | 房世王 | 仲野親王 | 『続日本後紀』 | |
嘉祥2(849)年正月7日 | 従四位下 | 貞内王 | 『続日本後紀』 | ||
嘉祥3(850)年4月17日 | 従四位下 | 雄風王 | 萬多親王 | 三十六歳(文徳践祚時叙爵) | 『日本文徳天皇実録』 |
嘉祥3(850)年4月17日 | 従四位下 | 利基王 | 賀陽親王 | 二十九歳 | 『日本文徳天皇実録』 |
嘉祥3(850)年7月26日 | 従四位下 | 望子女王 | 『日本文徳天皇実録』 | ||
仁寿3(853)年正月7日 | 従四位下 | 當世王 | 仲野親王 | 『日本文徳天皇実録』 | |
齊衡2(855)年正月7日 | 従四位下 | 輔世王 | 仲野親王 | 『日本文徳天皇実録』 | |
齊衡3(856)年正月7日 | 従四位下 | 棟貞王 | 葛井親王 | 『日本文徳天皇実録』 | |
天安元(857)年正月7日 | 従四位下 | 時佐王 | 『日本文徳天皇実録』 | ||
天安2(858)年正月7日 | 従四位下 | 忠貞王 | 賀陽親王 | 三十九歳 | 『日本三代実録』 |
天安2(858)年11月7日 | 従四位下 | 秀世王 | 仲野親王 | 『日本三代実録』 | |
天安2(858)年11月7日 | 従四位下 | 棟氏王 | 葛井親王 | 『日本三代実録』 | |
貞観元(859)年11月19日 | 従四位下 | 棟良王 | 葛井親王 | 『日本三代実録』 | |
貞観元(859)年11月20日 | 従四位下 | 為子女王 | 時康親王 (光孝天皇) |
『日本三代実録』 | |
貞観元(859)年11月20日 | 従四位下 | 憙子女王 | 『日本三代実録』 | ||
貞観元(859)年11月20日 | 従四位下 | 異子女王 | 『日本三代実録』 | ||
貞観2年(860)年11月16日 | 従四位下 | 潔世王 | 仲野親王 | 四十一歳(文章生) | 『日本三代実録』 |
貞観4(862)年正月7日 | 従四位下 | 良秀王 | 『日本三代実録』 | ||
貞観5(863)年正月7日 | 従四位下 | 元長王 | 時康親王 (光孝天皇) |
『日本三代実録』 | |
貞観6(864)年正月7日 | 従四位下 | 忠範王 | 賀陽親王 | 『日本三代実録』 | |
貞観6(864)年正月7日 | 従四位下 | 朝右王 | 『日本三代実録』 | ||
貞観8(866)年正月8日 | 従四位下 | 親子女王 | 『日本三代実録』 | ||
貞観8(866)年正月7日 | 従四位下 | 興基王 | 人康親王 | 『日本三代実録』 | |
貞観9(867)年正月7日 | 従四位下 | 基世王 | 仲野親王 | 『日本三代実録』 | |
貞観10(868)年正月7日 | 従四位下 | 有佐王 | 『日本三代実録』 | ||
貞観11(889)年正月7日 | 従四位下 | 兼善王 | 時康親王 (光孝天皇) |
『日本三代実録』 | |
貞観18(876)年12月29日 | 従四位下 | 興範王 | 人康親王 | 『日本三代実録』 | |
元慶元(877)年11月22日 | 正四位下 | 隆子女王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶元(877)年11月22日 | 正四位下 | 兼子女王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶元(877)年12月25日 | 従四位下 | 正内王 | 業良親王 | 『類聚国史』 | |
元慶3(879)年正月7日 | 従四位下 | 和王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶3(879)年11月25日 | 従四位下 | 輔相王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶6(882)年正月7日 | 従四位下 | 興扶王 | 人康親王 | 『日本三代実録』 | |
元慶7(883)年正月7日 | 従四位下 | 良末王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶8(884)年2月23日 | 従四位下 | 十世王 | 仲野親王 | 『日本三代実録』 | |
元慶8(884)年2月26日 | 従四位下 | ■子女王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶8(884)年2月26日 | 従四位下 | 正子女王 | 『日本三代実録』 | ||
元慶8(884)年11月25日 | 従四位下 | 直実王 | 『日本三代実録』 | ||
仁和2(886)年正月7日 | 従四位下 | 是行王 | 『日本三代実録』 | ||
仁和2(886)年正月7日 | 従四位下 | 兼覽王 | 惟高親王 | 『日本三代実録』 | |
仁和2(886)年正月8日 | 従四位下 | 厳子女王 | 『日本三代実録』 | ||
仁和2(886)年5月18日 | 従四位下 | 在世王 | 仲野親王 | 『日本三代実録』 | |
仁和3(887)年正月7日 | 従四位下 | 興統王 | 『日本三代実録』 |
王氏が多数となることに伴うもっとも大きな問題は、朝廷は彼ら王氏に対して令に定められた俸給を支払う必要があったが、そのような経済的な余裕はなかったことである。令では無位の王にも五位の年収の十六分の一が「時服料」として支払われていたが、朝廷はこの時服料の削減のために、リストラを行うこととなる。
まず貞観12(870)年2月20日、時服料を与える諸王の数を最大四百二十九人と規定した。続けて2月25日には「勅減諸王季祿四分之一」とあるように、諸王の季禄は四分の一減と定めた(『日本三代実録』貞観十二年二月廿五日條)。この流れが「賜姓」による臣籍降下へと進むこととなる。刑部卿茂世王(仲野親王の長子)も朝廷の窮乏を憂い、子の好風王と貞文王の二人に姓を賜ることを請い、貞観16(874)年11月21日、二人に平姓が下賜され、王氏としての給禄は停止された(『日本三代実録』貞観十六年十一月廿一日条)。
「高見王」は桓武天皇の皇子・一品式部卿葛原親王の子であるとされており、そのことは、もっとも信頼性が高いとされる『尊卑分脈』にも掲載されている。ただし、高見王の生没年については、諸系譜ともに記されておらず、略歴も「無官」とあるだけである。
高見王の生年は『千葉大系図』には天長元(824)年の生まれであったとするが、史料的傍証はない。父の葛原親王が「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」を奏上したのは、翌年天長2(825)年7月6日のことであるため、『千葉大系図』の情報が正しいとすれば、葛原親王が子女への「賜姓平朝臣」を奏上したときには高見王は誕生していたことになるが、この奏上で高見王が「賜姓平朝臣」に則って「平高見」になった形跡はない。しかし、葛原親王の奏上文は「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」である限り例外はない。つまり、天長2(825)年当時、高見王は「存在していなかった」ことになることから、『千葉大系図』説は不可である。
高見王は「平朝臣姓」を下賜されていないことから、二つの仮説が導き出される。
【仮説1】葛原親王の賜姓奏上の天長2(825)年当時、すでに薨じていた。 |
この場合、天長2(825)年の賜姓の時点で当時二十二歳の高棟王、二十歳程の善棟王よりも若くして薨じていることになるが、その時点で高望王が生まれていることとなる。想定できない事ではないが、現実的ではない。
【仮説2】葛原親王の賜姓奏上の天長2(825)年後に誕生した。 |
高見王が天長2(825)年の葛原親王の上表以降に誕生しているとすると、その生誕は天長2(825)年から仁寿3(853)年6月4日の葛原親王の薨去(『日本文徳天皇実録』)までの間となる。二度目の奏上が7月であるため、具体的には高見王母の妊娠兆候から考えて天長3(826)年から親王薨去翌年の斉衡元(854)年までの間となろう。
高見王曽孫に伊勢平氏・常陸平氏などの祖となる平貞盛がいるが、彼は承平5(935)年2月当時、「守器之職」(『将門記』)にあり「左馬允」現任だった(『今昔物語集』巻二十五)こと、及び高望王の賜姓時期を考えると、高望王は嘉祥3(850)年頃の生誕(『千馬家系図』)、その子・平国香は寛平2(890)年あたりの生誕と推定すれば、高見王の生誕は天長3(826)年から天長7(830)年ごろが妥当か。高見王はいずれの系譜でも「無位無官」もしくは「早世」とあり、兄高棟(二十二歳)、善棟(二十歳程か)二人の叙任年齢を鑑みると「選叙令 蔭皇親條」の規定「二十一歳以上」に沿っており、高見王は二十歳に満たぬ前に薨じたと想定できる。
つまり、高見王は天長2(825)年7月の葛原親王の子女賜姓上表後、天長7(830)年ごろに生まれ、嘉祥3(850)年頃に子息高望王を儲けたのち、賜姓及び蔭位を待たずして二十歳以前に薨去したのであろう。