高見王

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高見王  (???-???)

御諱 高見王
生没年 延暦5(786)年~仁寿3(853)年6月4日
天長元(824)年~嘉承元(848)年8月19日
弘仁8(817)年~斉衡2(855)年
弘仁元(810)年~天安元(857)年8月19日(『佐沼亘理家譜』)
?~仁和元(885)年4月27日(『系図纂要』)
元服 不明
葛原親王
土佐大目秦福代女(『千馬家系図』)
仲野親王女(『系図纂要』)
官位 無位
官職 無官

 葛原親王の第三皇子とされ、天長元(824)年、京都で生まれたと伝えられている。桓武平氏の遠祖。一説には、母は土佐大目秦福代女。弘仁8(817)年に誕生したという(『千馬家系図』)

 母方の祖母とされる秦福代とは葛原親王家の家令だった人物で、葛原親王のもとで働いていたことがわかる唯一の実在人物であり、千馬家系図の製作過程で系譜に組み込まれた可能性がある。比叡山にて元服したとされるが不明。妻については、桓武天皇皇子・上総太守仲野親王の娘ともされている(『系図纂要』)が、詳細は不明である。

 「無位無官」のまま「早世」したとされる。

●高見王系図(『系図纂要』)

桓武天皇―+―葛原親王――高見王
     |(式部卿)   ∥――――高望王
     |        ∥   (上総介)
     +―仲野親王―+―娘     ∥―――――平国香
      (上総太守)|       ∥    (常陸大掾)
            |       ∥     ∥
            +―茂世王―――娘     ∥――――平貞盛
             (刑部卿)        ∥   (陸奥守)
                          ∥
                   藤原村雄―+―娘
                  (下野大掾)|
                        |
                        +―藤原秀郷
                         (下野押領使)

 高棟王ら兄弟姉妹は天長2(825)年7月6日に父・葛原親王の上奏によって「平」姓を賜ることが決まり、閏7月に臣籍降下した。高棟王は平高棟となり、正三位大納言に任じられて子孫は公卿となった。太政大臣平清盛の正妻である平時子(二位尼)は高棟王の子孫。時子の弟・平時忠は清盛政権の中で検非違使別当、大納言に任じられ、「平家に非ずんば人に非ず」と豪語した人物として知られている。

 嘉承元(848)年8月19日、二十五歳の若さで亡くなったといわれるが、一説には天安元(857)年秋に亡くなったとも、斉衡2(855)年に三十九歳で亡くなったとも(『千馬家系図』)。また別説では、天安元(857)年8月19日に四十八歳で亡くなったともされる(『佐沼亘理家譜』)

 高見王は系譜のみに名が見え、いわゆる『六国史』などにも一切その名が見えないため、謎の人物である。

高見王の謎と「善棟王」

 「高見王」は桓武天皇の皇子・一品式部卿葛原親王の子であるとされており、そのことは、もっとも信頼性が高いとされる『尊卑分脈』にも掲載されている。しかし、その『尊卑分脈』も南北朝時代に洞院家が諸系譜を集めて成立した系譜であり、やはり南北朝期以前の系譜については、各家々の伝承が多分に含まれていると考えられる。

 高見王の生没年については、諸系譜ともに記されておらず、その略歴についても「無官」とあるだけである。なお、江戸初期成立の『千葉大系図』には「天長元年甲辰誕(824年)」とされている。

 平安時代末期成立の『日本紀略』によれば、高見王が生まれたという天長元(824)年の翌年、天長2(825)年7月6日には父・葛原親王が子女たちの王号を捨てて「平朝臣」の姓を与えてほしいと異母兄・淳和天皇に上表して聴されている。この勅許によって葛原親王の子たちは「王」から「平朝臣」という臣籍の貴族となった。高棟王はすでに弘仁14(823)年正月7日、二十歳の若さで従四位上に昇叙し(令の規定では親王の子は二十一歳を越えると従四位下に叙爵だが、高棟王は二十歳で叙爵か)、9月には侍従、天長元(824)年9月22日には大学頭へと着実な昇進を重ねていた。ちなみに、葛原親王の上表は天長2(825)年7月6日のことだが、高棟王が実際に「平朝臣」姓を賜ったのは翌月の閏7月であった(『公卿補任 承和10(843)年条』)

●天長2(825)年3月24日(『日本紀略』)

三月丁卯

 二品行弾正尹葛原親王上表、臣之男女、一皆被賜姓平朝臣不許…

●天長2(825)年7月6日(『日本紀略』)

七月丁未

 二品行弾正尹兼太宰帥葛原親王上表、割愛子息庶捨王号、許之…

 天長2(825)年3月24日の葛原親王の上表文には、『日本紀略』からうかがう限り、「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」であったわけで、男女を問わない子息達「一皆」に「平朝臣」姓を授けてほしい旨が記されていたと考えられる。なお、この上表は許されなかった。

 また、高棟王には善棟王という弟がいたことが『続日本紀』及び菅原道真が撰した『類聚国史』によってうかがえる。善棟王は天長2(825)年正月7日、兄・高棟王から遅れること三年にして無位から従四位下に叙された。葛原親王の再度の上表は天長2(825)年7月6日であり、従四位下に除された正月7日時点ではまだ「善棟王」であり(『続日本紀』)、閏7月におそらく兄の高棟王とともに「平朝臣」を賜って「平善棟」となったのだろう。しかし、それからわずか4年後の天長6(829)年6月22日に亡くなった。

●天長6(829)年6月22日(『類聚国史』)

六年六月庚午
 
 従四位下平朝臣善棟卒、一品葛原親王第二男也…

 なお、高棟王・善棟王の兄弟は「棟」という字を通字として用いている。平安時代初期、貴族などの一般的な習慣として、諱の一字を兄弟で用いる習わしがあった(絶対的なものではないが)。また、兄弟同士で途中から通字が変化するといった場合もあった。しかし、平安時代後期などからはじまる、親から子への一字伝承といった風習はまだ定着してはいない(例1例2を参照)。

 高見王の実際の生年はわからないが、『千葉大系図』では天長元(824)年の生まれであったとする。父の葛原親王「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」を奏上したのは、その1年後の天長2(825)年7月6日のことであるから、葛原親王が「賜姓平朝臣」を奏上したとき、高見王はすでに誕生していたことになるが、この奏上によって「平朝臣」姓を給わった高棟王、善棟王とは対照的に、高見王がこの「賜姓平朝臣」に則って「平高見」になった形跡はない。つまり、この天長2(825)年当時、高見王は存在していなかったことになる。

 高見王はいずれの系譜でも「無位無官」もしくは「早世」であるが、この当時、二十一歳以上の親王の子は従四位下、諸王の子は従五位下に叙される蔭位の規定(「選叙令 蔭皇親條」)があった。

●『選叙令』授位条

凡授位者、皆限年廿五以上、唯以蔭出身、皆限年廿一以上、

●『選叙令』蔭皇親条

凡蔭皇親者、親王子従四位下、諸王子従五位下、其五世王者従五位下、子降一階、庶子又降一階、唯別勅処分、不拘此令、

 親王の子である二世王の蔭位(従四位下)の条件である二十一歳以上という規定は、「葛原親王之長子」の高棟王の叙位が二十歳、仲野親王の子・潔世王は四十一歳とかなりの振れ幅があったが、概ね二十一歳以上の王子に適用された。しかしながら、諸王家は平安時代初期には飛鳥・奈良時代以来分かれた王家も含めると相当数にのぼっており、朝廷にはすべての王に位階=位階相当額の給与を出す経済的な余裕はなく、二世王である諸王ですら無位のまま相当の年月を経ており、二十一歳以上の無位の王は多数見られた。高望王の父・高見王もこうした王の一人であった可能性がある。

●無位から従四位下への直叙(『類聚国史』)

直叙年月 父親王 年齢 典拠
弘仁14(823)年正月7日 高棟王 葛原親王 二十歳 『類聚国史』 
天長2(825)年正月4日 善棟王 葛原親王 二十歳前後
(兄・高棟王の二年後)
『類聚国史』
天長6(829)年正月7日 正躬王 万多親王 三十一歳 『類聚国史』
天長10(833)年3月6日 正行王 万多親王 十八歳(仁明践祚時叙爵) 『続日本後紀』
嘉祥3(850)年4月17日 雄風王 万多親王 三十六歳(文徳践祚時叙爵) 『日本文徳天皇実録』
貞観2年(860)年11月16日 潔世王 仲野親王 四十一歳 『日本三代実録』
嘉祥3(850)年4月17日 利基王 賀陽親王 二十九歳 『日本文徳天皇実録』
天安2(858)年正月7日 忠貞王 賀陽親王 三十九歳 『日本三代実録』

 また、無位の王にも朝廷から五位の大夫の年収の十六分の一が「時服料」として支払われていたことから、朝廷はこの時服料についても削減を行い、貞観12(870)年2月20日、時服料を与える諸王の数を最大四百二十九人と規定した。さらに2月25日には「勅減諸王季祿四分之一」とあるように、諸王の季禄も四分の一減と定めた(『日本三代実録』)

 このように「王」という地位は、朝廷からも皇室からもやや厄介な存在に思われていたようで、一例では、刑部卿茂世王(仲野親王の長子)も朝廷の窮乏を憂い、子の好風王と貞文王の二人に姓を賜ることを請い、貞観16(874)年11月21日、二人に平朝臣姓が下賜され、王としての給禄は停止された(『日本三代実録』貞観十六年十一月廿一日条)。なお、この茂世王の娘が高望王の妻になったとも言われている。

 高見王については、平姓を下賜されていないので、仮に葛原親王の賜姓奏上の天長2(825)年当時、すでに薨去していたとすると、当時二十二歳の高棟王、二十歳程の善棟王よりも若かったことになり、子の高望王を相当若くして生したということになるが、これはあまり現実的ではない。さらに、天長2(825)年の葛原親王の上表は「臣之男女、一皆被賜姓平朝臣」「割愛子息庶捨王号」と自分の「男女」「子息」への賜姓であって「孫」についての言及がないため、この時点で孫(高望)がいたとは考えにくい。これらを総合的に考えると、高見王の生誕は、天長2(825)年の葛原親王の上表以降、仁寿3(853)年6月4日の葛原親王の薨去(『日本文徳天皇実録』)までの間となり、孫の平国香らの活躍時期とも鑑みると、天長7(830)年ごろか。薨去は「早世」とあるのみなので想像するほかないが、二十歳から三十歳前後と推測される。

○葛原親王周辺系図

桓武天皇―+―平城天皇
     |(774-824)
     |
     +―朝原内親王
     |(779-817)
     |
     +―長岡岡成
     |(???-848)
     |
     +―良峯安世 +―継王  +―平実          +―珍
     |(785-830)|      |              |
     |      |      |              | 
     +―伊予親王―+―高王  +―平正   +―時―――+―直
     |(???-807) (788-???)|       |(878-939) (900-968)
     |             |       |
     +―葛原親王―+―平――+―平惟―――+―伊
     |(786-853)|(806-867) (855-909)  (881-939)  
     |      |
     |      +―平善          +―国香―――――貞盛
     |      |(???-829)        |(???-935) (???-989?)
     |      |              |
     |      +―見王――――平望―――+―兼―――――公雅
     |       (???-???) (???-???) |(???-939) (???-???)
     |                     |
     +―嵯峨天皇―――仁明天皇         +―持―――――将門
     |(786-842)               |(???-???) (???-940)
     |                     |
     +―淳和天皇                +―文―――――経明
     |(786-840)                (???-???) (???-???)
     ↓

【例1】北家藤原氏:甘露寺家

 藤原高藤―+―文―+―信―+―懐
      |    |    |
      +―数 +―経 +―成
      |
      +―国―+―雅―+―兼―+―定雅―+―雅
      |    |    |    |    |
      |    +―述 +―嘉 +―基宗 +―盛
      |    |    |
      |    +―清 +―実
      |    |    |
      |    +―基 +―定
      |    |    |
      |    +―好 +―安
      |    |
      |    +―
      |    |
      |    +―
      |    |
      |    +―
      |    |
      |    +―風      +―是高
      |              |
      +―方―+―佳節―――是藤―+―孝理
           |
           +―理実―――文貫
           |
           +―忠―――理兼―――致義
           |
           +―成      +―惟
           |         |
           +―頼―――為輔―+―説
                     |
                     +―宣

【例2】坂上家

 坂上大宿禰田村麻呂―+―大
           |
           +―広
           |
           +―浄
           |
           +―正
           |
           +―滋
           |
           +―
           |
           +―
           |
           +―広
           |
           +―
           |
           +―
           |
           +―


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