武石氏

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月星 月九曜 十曜
月星 月に九曜 十曜

千葉氏

相馬氏】【武石氏(2)】【大須賀氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏ご協力・ご参考

胤重寺
光明山胤重寺

 千葉常胤の三男・武石三郎胤盛が、下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区武石)を領して「武石」を称した。

 千葉六党(千葉・相馬・武石・大須賀・国分・東氏)のうち、頼朝の挙兵以前に名字地を持っていたのは、武石三郎胤盛多部田四郎胤信(のち大須賀)・国分五郎胤通の三名である。このうち、国分胤通以外は、すべて千葉郡内の地名を称しており、千葉氏の権力は千葉郡内に限られていたと考えられる。国分胤通に限っては、父・下総権介常胤の代官的な立場で、八幡庄内国分を領し、国衙に出仕もしながら、官牧の支配を行っていたか。

 胤盛の具体的な活躍は『吾妻鑑』にはほとんど現れない。千葉庄内に本貫地を持っていたのは胤盛のほかに椎名胤光常胤の弟)もあるが、彼も『吾妻鑑』には出てきておらず、胤盛胤光はもっぱら千葉庄の留守をしていたのかもしれない。

 胤盛の父・千葉介常胤は、奥州藤原氏との戦いに東海道大将軍として出陣し、胤盛もほかの兄弟とともに参戦している。戦後の平泉で行われた論功行賞で常胤は頼朝から恩賞を賜るが、おそらく奥州藤原氏系の旧領および闕所地と思われる、胤盛にはのちに賜った所領のうち「伊具・亘理・宇多郡」内の地頭職が分与されたともされるが、定かではない。後年、武石氏が陸奥国へ下向するに至ったのは、武石肥前守宗胤が御内人となって亘理郡の得宗領代官として派遣された可能性が高いためである。ただ、建武2(1335)年6月3日、北畠顕家から「相馬孫五郎殿」とともに「武石上総権介胤顕」「奥州検断職」として「伊具、日理、宇多、行方等郡、金原保検断事」を沙汰すべしとの国宣を受けている(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬文書』)ことから、武石氏と相馬氏は鎌倉時代後期にそれぞれ亘理郡と行方郡に影響力を保つ代表的な御家人(御内人となっていた御家人か)であり、得宗領のあった伊具郡、宇多郡、金原保の検断権も与えられたものなのだろう。

●千葉介常胤が子供たちに分与した所領

千葉介常胤―+―千葉胤正――<陸奥国気仙・江刺・磐井・胆沢・栗原・登米・桃生・牡鹿・遠田郡内地頭職か?>
      |
      +―相馬師常――<陸奥国行方郡内地頭職>
      |
      +―武石胤盛――<不明>
      |
      +―大須賀胤信―<陸奥国好島庄預所職、岩城郡内地頭職>
      |
      +―国分胤通――<不明>
      |
      +―東胤頼―――<不明>

 胤盛は建保3(1215)年6月13日に70歳で亡くなったとされるが、『吾妻鏡』胤盛の名が最後にあらわれるのが建久2(1191)年正月1日の父・千葉介常胤の垸飯(おうばん。饗応のこと)で、胤盛が亡くなったとされる建保3年にも記録はない。さらに武石氏自体も建久2(1191)年から寛元3(1245)年まで50年もの間、『吾妻鏡』に記述がない。これは胤盛が隠居、もしくは亡くなったのち、嫡子・次郎左衛門尉胤重が病弱であったため、胤重の子が現れるまで記述がなされなかったのかもしれない。

真蔵院
三会寺真蔵院

 胤盛は観音菩薩を崇拝していた。武石氏の本城・武石城は現在の千葉市武石町権現腰にあり、ここには観音菩薩と胤盛の亡母を祀ったといわれる三会寺真蔵院がある。胤盛の母は秩父重弘の中娘で、千葉介胤正相馬師常武石胤盛大須賀四郎胤信国分胤通東胤頼の母である。この寺には胤盛母の菩提を弔うために作成したと伝えられる「武石の板碑」が残されている。ただ、この板碑は永仁2(1294)年、武石城と南に隣接する須賀原の愛宕山に造立された七枚の板碑(秩父緑泥岩)の一つであることがわかっている。時代的に胤盛の曾孫にあたる武石左衛門尉宗胤の建立であり、真蔵院に移されたのは、江戸時代の宝暦3(1753)年である。

 胤盛の嫡男・武石次郎左衛門尉胤重は実朝の側近として幕府に仕えていたが、その活躍はほとんどみられず、その子息たちの活躍がみられる。

 嫡男・武石小次郎広胤には主だった功績は見られないものの、三男・武石三郎左衛門尉朝胤左衛門尉に任じられて幕府に出仕し、その子・武石新左衛門長胤は武石氏の惣領として幕府に出仕している。

 胤重の四男・武石四郎左衛門尉胤氏千葉介胤綱の娘を妻としたとされ、その子・武石左衛門尉宗胤は得宗被官人(御内人)となって、陸奥国亘理郡内の得宗領地頭代になったとみられ、その後奥州武石氏の繁栄に繋がっていく。

●武石氏略系図

千葉介常胤 +―千葉介胤正         +―広胤――――――胤村
  ∥   |(太郎)           |(小次郎)   (次郎左衛門尉)
  ∥   |               |
  ∥―――+―相馬師常          +―朝胤――――――長胤――――――→下総武石氏か?
  ∥   |(次郎)           |(三郎左衛門尉)(新左衛門尉)
秩父重弘娘 |               |
      +―武石胤盛―――胤重―――――+―胤氏
      |(三郎)   (次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
      |                 ∥
      +―大須賀胤信           ∥―――――――宗胤――――――→陸奥国亘理郡へ下向
      |(四郎)             ∥      (弥四郎左衛門尉)
      |        千葉介胤綱――――娘
      +―国分胤通
      |(五郎)
      |
      +―東胤頼
       (六郎大夫)

月星紋「武石平胤盛」の碑
(臼井D-FF氏ご提供)

 武石氏は鎌倉時代から近江佐々木氏と縁戚にあり、神奈川県箱根町の法篋印塔には「佐々木氏女」とともに「武石宗胤」の名が見られる。武石宗胤の妻「佐々木近江守源氏信女」であり、彼ら夫婦の建立したものであろう。

 また、長野県上田市武石小沢根子壇峯神社境内にある笹焼明神社の小社「月星」紋を付し、その社殿後方には「岳石平胤盛」の名と「月星」紋がついた石塔が現存している。また、付近に武石山妙見寺があり、「妙見」と名のつく地名が検地帳に見る事ができる。この武石に隣接する長野県小県郡長和町大門の高台に現存する法篋印塔にも、武石宗胤と思われる「肥前太守」や佐々木氏とみられる「近江禅閤」がみられることから、この地一帯が武石氏による支配があったとみられる。武石地方を含む依田庄に得宗家からの支配が想定されていることや、隣接する塩田庄は塩田北条氏が地頭職をつとめていたことから考えると、武石宗胤は御内人として得宗領代官を担い、一族がこの地に入ったと考えられよう。

 また、奥州亘理郡を本拠に発展していった武石氏の子孫が亘理氏である。亘理氏は、奥州武石氏当主の武石広胤が足利尊氏に仕えて、同三郡を安堵された後に亘理と称した。子孫は伊達家から養子をむかえ、慶長年中に「伊達」の姓と「竹に雀」紋を拝領し、幕末まで八千石の涌谷領主として続いた。伊達騒動のときの伊達藩家老・伊達安芸宗重はこの子孫である。

 一方、下総国に残った武石氏もあり、武石日向守胤秀は鎌倉公方・足利持氏に従い「永享の乱」で幕府勢との戦いの中で討死した。その子孫・武石蔵人胤親は「国府台の戦い」で小弓公方・足利義明に従い、親北条派の千葉宗家とは対立。9月8日(天文7年か)の『源義明感状』には、「当国の侍は義がない中で、(北条方の)千葉一家に背いてきたその志は悦ばしい限りだ。来月20日には里見義尭が生実に参るから、その節にはこちらへ参られるように」とあり、胤親を快く思っている様子がわかる。しかしその10月20日を前にして、天文7(1538)年10月7日におこった国府台の戦いで北条軍によって胤親は討ち取られている。遺骸は武石郷に葬られたと伝えられ、塚の跡は武石神社となっている。

 胤親の嫡男・武石胤康は浪人して、稲毛浅間神社(千葉市稲毛区)神主・布施遠江守正基の婿養子となり、布施氏を継いだという。その子・布施修理正光は祖父の正基を烏帽子親として元服している。正光は永禄7(1564)年1月8日、第二次国府台合戦で北条家の武士・佐貫伊賀守を馬上から射落としたものの戦死したため、弟の武石弥三郎原式部大夫胤栄のとりなしで布施平三を称して兄の領地を継いだ。この布施氏の末裔は現在も続いている。

●安房武石氏

 下総武石氏の一族と思われる武石有胤は里見義堯の「四天王」として天文7(1538)年の国府台の戦いに従軍し、戦死した。有胤の子・山城は里見義康に仕え、天正19(1591)年に丸本郷(丸山町)の代官となった。その子・勝左衛門は、義康百人衆の一人で、里見氏改易後は帰農した。

→千葉介常胤-武石胤盛…11代…-有胤(里見四天王)-山城守(安房郡丸山丸代官)-勝三郎(里見百人衆)

●薩摩武石氏

 薩摩国に移り住んだ武石氏があった。文永5(1568)年、武石胤吉(左京亮)なる人物が大隅国へ移り住み、その後は島津家に仕えたという。このころ千葉新介宗胤は元寇への対応のために九州へ下向し、下総国からも数多くの郎従を引き連れていった。のち、肥前千葉家の家臣として活躍した岩部氏、仁戸田氏、円城寺氏らはこの時下総から下向した一族の末裔と思われる。この中に武石氏もあったのかもしれない。

 宗胤は幕府の奏請によって大隈守に任官し、大隈国の裁判などを取り扱っていることから、武石氏の大隈移住という伝承はこれに基づいているのかもしれない。武石氏は現在の志布志町、福山町に多く残っている。


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武石胤盛 (1146-1215)

 武石氏初代当主。父は千葉介常胤。母は秩父重弘中娘。通称は三郎、官途は胤頼を除く兄弟と同様に無位無官。

 千葉介常胤の子供のうち、平安時代末期にすでに在地領主として派遣されていた者は、三男・胤盛(武石)、四男・胤信(多部田)、五男・胤通(国分)で、嫡男・胤正、次男・師常、六男・胤頼は「千葉」を称していた。

・千葉太郎胤正
・千葉次郎師常
武石三郎胤盛……千葉庄武石郷(千葉市花見川区武石町)領主。
・多部田四郎胤信…千葉庄多部田郷(千葉市若葉区多部田)領主。 
・国分五郎胤通……八幡庄国分郷(市川市国分)領主。常胤の代官として国分寺領、官牧の支配をしていたと思われる。
・千葉六郎胤頼……このころ、三浦義澄(荒次郎)とともに上洛していて、下総に不在。
・園城寺律師日胤…近江国園城寺(三井寺)の律静房主。頼朝の祈祷師をつとめていたとされる。

真間山弘法寺(国府周辺)

 『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月17日、胤盛は父・千葉介常胤や兄弟とともに下総国国府で頼朝に参会したとされており、これが胤盛の初見となる。

 寿永元(1182)年8月12日、頼朝嫡子・頼家の御七夜の儀は千葉介常胤が沙汰することとなり、胤盛は弟・胤信とともに御所南庭に馬を曳く役を務めた。このときの兄弟の様子は「兄弟皆容儀神妙の壮士なり。武衛殊に感ぜしめたまふ」『吾妻鏡』に記載されている。

 ところが、胤盛はその後の活躍がほとんど見られず、平家との戦いにも名が見えない。次に胤盛の名が見えるのは奥州平泉の藤原泰衡との戦いで、文治5(1189)年8月12日、父・常胤や兄弟たちとともに多賀城で頼朝と参会している。

 進軍した頼朝勢は、8月22日午後四時ごろ平泉に入ったが、泰衡はすでに逐電したあとだった。頼朝が見た平泉は、雨の中で燃え残った柱から煙をくすぶらせる家々、人の気配のない大路、奥州藤原氏四代が栄華を誇った伽羅の御所もその塁蹟を遺すのみのまさに死の街であった。夜に入っても荒野には霧雨が音もなく降り続き、秋風は飄々と陣幕をはためかせていた。 

 8月25日、衣河館で胤盛の弟・胤頼が泰衡の外祖父・藤原基成(前民部少輔)を捕らえた。基成は捕らわれたとき、鎧もつけずに悠々と碁を打っていたという。基成はかつての「平治の乱」の首謀者・藤原信頼(左衛門督)の実弟で、連座して陸奥国に流されていた人物である。赦免されたのちも京都に帰らずに平泉に残った。

 9月3日、頼朝のもとに泰衡の首が届けられた。彼を討ったのは泰衡の年来の郎党・河田次郎であり、頼朝は彼を主殺しの大罪人として斬首した。

 9月20日、平泉において「奥州羽州等事吉書始」が行われたのちに論功行賞が行われた。その行賞の地頭職につき御下文が諸御家人に与えられたが、とくに「而千葉介最拜領之、凡毎施恩以常胤可為功之由、蒙兼日之約者」と、千葉介常胤が行賞のはじめに御下文を与えられる栄誉に預かった。この行賞は畠山重忠が「葛岡郡」を賜っているように、新補地頭であれば奥州藤原氏の旧領が宛がわれたのだろう。とくに常胤は「東海道大将軍」として海道筋を攻め上っており、常胤に与えられた新補地頭職は陸奥国海道筋であろう。これは常胤の子息のうち、相馬氏と大須賀氏に伝えられた行方郡、岩城郡および葛西氏とともに江刺郡、胆沢郡、磐井郡、気仙郡、桃生郡、牡鹿郡などにも地頭職を与えられたと思われる。

 建久2(1191)年元旦、千葉介常胤はを勤仕した。実は、頼朝はこの前年11月に京都において大納言・右近衛大将に任じられたが、12月4日にこれら一切を辞して12月29日に鎌倉に戻ってきており、常胤「前右近衛大将家」初の埦飯を勤めることになったのは、頼朝の信任が大変篤かったことがうかがえる。このとき、胤盛砂金を献上している。

●健久2(1191)年正月1日:埦飯の献上 

・千葉介常胤 :剣 千葉氏の惣領家
・千葉太郎胤正 :弓箭 千葉介常胤の嫡男。常胤の跡を継いで千葉介となる。
・相馬二郎師常 :行騰・沓 千葉介常胤の二男。相馬氏の祖で相馬郡を支配する。
武石三郎胤盛 :砂金 千葉介常胤の三男。武石氏・亘理氏などの祖。
・東六郎大夫胤頼 :鷲羽 千葉介常胤の六男。京都の文化に通じていた。子孫は歌人として有名。
・大須賀四郎胤信 :馬 千葉介常胤の四男。大須賀氏の祖。
・国分五郎胤通 :馬 千葉介常胤の五男。早くから常胤に代わり国衙に詰めていたと思われる人物。
・境平次常秀 :馬 千葉介常胤の孫。胤正の二男で、兄の千葉介成胤とともに千葉氏の中心となる。
・臼井太郎常忠 :馬 上総氏の一族。臼井氏の二代目。
・天羽二郎直常 :馬 上総氏の一族。上総権介広常の甥で、広常の亡きあと、千葉氏に属した。
・寺尾大夫業遠 :馬 千葉介常胤の孫。胤正の子で寺尾氏の祖。

 埦飯に列席した人物のうち、境常秀・寺尾業遠常胤の孫だが、臼井常忠、天羽直常は上総氏系の武士であり、とくに天羽直常は上総介広常の甥である。彼らが常胤に従って埦飯に参じているのは、すでに彼ら旧上総平氏系豪族が常胤の支配下にあったことがうかがえる。

 胤盛は建保3(1215)年6月13日に七十歳で没したという。一説には六十一歳。

三会山真蔵院

 胤盛観音菩薩を崇拝しており、武石氏の館があったと伝わる武石館は現在の千葉市武石町権現腰にあり、ここには観音菩薩と胤盛の亡母を祀った「三会山真蔵院」がある。

 真蔵院には胤盛が母の菩提を弔って建立したと伝わる「武石の板碑」が残されている。この板碑は永仁2(1294)年9月30日に武石館の南に隣接する須賀原の愛宕山古墳に造立された七枚の板碑(秩父緑泥岩)の一つで、時代的には胤盛の曾孫・武石左衛門尉宗胤の代に当たる。なお、真蔵院に板碑が移されたのは、江戸時代の宝暦3(1752)年で、須賀原の開墾により、ゆかりの真蔵院へと移されたものである。

 この板碑が実際に胤盛の母を弔ったものかは碑文からは判断できず、さらにこの碑文は「右為先妣聖霊出離生死證大菩薩也」とあるのみであり、永仁2年当時の当主・武石宗胤の母である千葉介胤綱女(武石胤氏室)の菩提を弔うものだった可能性が高いだろう。


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武石胤重 (????-????)

 武石氏二代当主。武石三郎胤盛の子。通称は次郎。官途は左衛門尉

 建久6(1195)年5月20日の天王寺参詣には先陣の隨兵に「千葉三郎次郎」として名が見える。

●天王寺参詣供奉人交名(『吾妻鏡』建久六年五月廿日条) 

先陣隨兵
(騎馬)
畠山次郎重忠 村上判官代基国 安房判官代高重 武藤大蔵丞頼平 加藤次景廉 千葉三郎次郎
千葉次郎師常 新田蔵人義兼 所雑色基繁 野三刑部丞成綱 土肥先次郎惟平 小野寺太郎道綱
梶原刑部丞朝景 宇佐美三郎祐茂 狩野介宗茂 千葉兵衛尉常秀 後藤左衛門尉基清 三浦左衛門尉義連
糟屋藤太兵衛尉有季 和田五郎 佐々木中務丞経高 土屋兵衛尉義清 葛西兵衛尉清重 比企右衛門尉能員
下河辺庄司行平 榛谷四郎重朝        
御車 源頼朝
御後
(水干)
源蔵人大夫頼兼 相模守惟義 伊豆守義範 左衛門尉朝政 豊後守季光 左近将監能直
三浦介義澄 越後守頼房 上総介義兼 前掃部頭親能 右衛門尉知家 前因幡守広元
右京進季時 梶原平三景時        
後陣随兵 北条小四郎義時 修理亮義盛 里見太郎義成 武田兵衛尉有義 北條五郎時連 八田左衛門尉朝重
阿曽沼小次郎 小山七郎朝光 奈胡蔵人義行 浅利冠者長義 南部三郎光行 伊澤五郎信光
村山七郎能直 加々美次郎長清 佐々木三郎兵衛尉盛綱 小山五郎宗政 氏家太郎公頼 小山田三郎重成
千葉新介胤正 宇都宮所信房 梶原左衛門尉景季 和田三郎義実 大井兵三次郎実治 所六郎朝光
伊東四郎成親 足立左衛門尉遠元        
最末 和田左衛門尉義盛
(家子・郎等を相具す)
         

 嘉禄3(1227)年に鋳造された松島五大堂の鐘銘に「曰理郡地頭武石二郎胤重 嘉禄三年丁亥被鋳改畢」とあり、胤重は亘理郡の地頭職だったことがわかる。また、「武石入道胤盛」「同七郎胤重」が紀伊国の熊野神社の御師との間に「師壇」の契約を交わしていたことが見えるが(『紀伊国古文書』国文学資料館蔵:紀伊国和歌山本居家旧蔵紀伊続風土記編纂史料)、ここの「七郎胤重」は「二郎胤重」の誤りか。


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武石広胤 (????-????)

 武石氏三代当主。武石次郎左衛門尉胤重の長男。通称は小次郎。官途は左衛門尉

 建長2(1250)年3月1日、「造閑院殿雑掌事」について目録が作成され、「閑院殿造営雑掌」が決定するが、閑院殿の築地のうち「押小路面土平門西」三本の雑掌として「武石入道」が見える。「跡」が抜けていると思われ、氏祖・三郎胤盛の所領継承者を指すため、当時としては小次郎広胤、三郎朝胤、四郎胤氏の三名であろう。

 建長4(1252)年4月1日、片瀬川の宿に着御した関東下向の新将軍・宗尊親王(三品。嵯峨天皇二宮)の御迎えの御家人として、隨兵に弟・武石三郎朝胤と並んで「武石次郎」として名が見える。子には次郎胤村が伝わるが、彼の活躍は見られない。

 広胤は病弱であったのか、幕府出仕はおもに弟・三郎朝胤と四郎胤氏がつとめていた。


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武石朝胤(????-????)

 武石氏四代当主。武石次郎左衛門尉胤重の次男。通称は三郎。官途は左衛門尉

 実質的に父・次郎左衛門尉胤重の後継者であったと思われ、寛元3(1245)年8月15日の放生会を初出とする(『吾妻鏡』)。これは兄の次郎広胤よりも早い。

 建長6(1254)年正月1日の供奉人の一人として「三郎朝胤」がみえるが、二年後の建長8(1256)年6月29日、放生会の供奉人交名を決定する際には「三郎左衛門尉朝胤」と見えることから、この二年の間に任官していることがわかる。なお、奥州武石氏(亘理氏)の祖とされる弟・四郎胤氏はこの時点でまだ任官しておらず、正嘉2(1258)年12月29日、はじめて「四郎左衛門尉胤氏」と見えることから、亘理氏の祖とされる四郎胤氏は武石氏の惣領ではなかったことがわかる。

 朝胤はその後も子息の新左衛門尉長胤とともに武石氏の惣領的立場で幕府に出仕し、弘長3(1263)年8月9日の将軍家御上洛の供奉人交名に「武石三郎左衛門尉朝胤」として名を見せるのを最後に姿を消す(『吾妻鏡』)


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武石長胤 (????-????)

 武石氏五代当主。武石三郎左衛門尉朝胤の子。通称は四郎。官途は左衛門尉。「新左衛門尉」と称される。

 正元2(1260)年正月20日の供奉人に「武石四郎左衛門尉長胤」として見えるのを初出とし、同年11月27日には「武石新左衛門尉長胤」と称され、以降長胤は「新左衛門尉」と呼ばれることとなる。

 『吾妻鏡』においては、文永2(1265)年6月23日の記事を最後に名が見えなくなるが、その後も武石惣領家として続いており、弘安3(1280)年5月9日、新日吉の小五月会における流鏑馬に、三番手として「武石新左衛門平長胤」の名が見える(『勘仲記』増補史料大成所収)。流鏑馬で武石長胤の射手となった「百間又四郎平信光」は御的始などで活躍した武蔵野与党の栢間氏の流れをくむ武士と思われ、武石長胤の郎等だったのだろう。

●新日吉小五月会の流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)

射手 的立
一番 陸奥守平時村 板垣弥六源頼親 伊丹四郎藤原親資
二番 後藤筑後前司基頼 後藤内左衛門尉基信
三番 武石新左衛門平長胤 百間又四郎平信光
四番 波多乃出雲五郎左衛門入道道覺 大場小次郎平忠茂
五番 小早川美作三郎平雅平 吉井左衛門大江親平
六番 大井次郎源朝氏 中條又四郎金刺光直
七番 越後左近大夫将監平時国 拓植六郎左衛門尉平親清

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武石胤氏 (????-????)

 奥州武石氏祖。武石次郎左衛門尉胤重の四男。通称は四郎。官途は左衛門尉。妻は千葉介胤綱

 建長2(1250)年8月18日、由比ヶ浜で行われた犬追物で御所からの行列中、将軍家の側に供奉した「武石四郎」の名が見える。これが胤氏の初見である。

●由比ヶ浜逍遥供奉(『吾妻鏡』建長二年八月十八日条)

先行 陸奥四郎 遠江六郎 相模三郎太郎
武蔵四郎 足利三郎 長井太郎
城九郎(一騎)
陸奥七郎 尾張次郎 越後五郎
騎馬 将軍家(御水干)
駕左右
徒歩
佐渡五郎左衛門尉 肥後次郎左衛門尉 土肥次郎兵衛尉
善太郎左衛門尉 摂津新左衛門尉 筑前四郎
江戸七郎太郎 武石四郎 出羽三郎
伯耆新左衛門尉 鎌田左衛門尉
御後 備前前司 遠江守 相模左近大夫将監
陸奥掃部助 宮内少輔 遠江左近大夫将監
北條六郎 遠江太郎 相模八郎
武蔵太郎 武蔵五郎 上野前司
那波左近大夫 小山出羽前司 佐々木壱岐前司
筑前前司 伊勢前司 佐渡大夫判官
遠江次郎左衛門尉 梶原左衛門尉 三浦介
上野十郎 阿曽沼小次郎 千葉次郎
城次郎 城三郎 城四郎
大曽禰左衛門尉 大曽禰次郎左衛門尉 隠岐次郎左衛門尉
遠江六郎左衛門尉 式部六郎左衛門尉 武藤左衛門尉
遠江新左衛門尉 小野寺三郎左衛門尉 出羽次郎左衛門尉
小野寺四郎左衛門尉 足立太郎左衛門尉 中條出羽四郎左衛門尉
信濃四郎左衛門尉 伯耆四郎左衛門尉 和泉次郎左衛門尉
三善右衛門尉 彌次郎左衛門尉 常陸次郎兵衛尉
土肥四郎 薩摩七郎左衛門尉 薩摩九郎
武田五郎三郎

 建長4(1252)年8月1日、宗尊親王の征夷大将軍宣下に対する鶴岡八幡宮に御拝賀の隨兵交名に「武石四郎胤氏」として名を見せる。

 建長8(1256)年6月29日、放生会の供奉人交名を決定する際には「武石四郎」と見え、その2年後の正嘉2(1258)年12月29日には「四郎左衛門尉胤氏」と見えることから、この二年余りの間に左衛門尉に任官したことがわかる。

 

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武石宗胤 (????-1307以前)

 武石氏二代。父は武石四郎左衛門尉胤氏。母は千葉介胤綱。通称は弥四郎。官途は左衛門尉肥前守。妻は佐々木四郎左衛門尉氏信女(佐々木道誉の大叔母)。

 永仁4(1296)年5月4日、「■円房祐禅」が大願主として相模国箱根山に石塔を奉納しているが、その「結縁衆」として「武石四郎左衛門尉宗胤」「月光源氏女」「源宗経」らが連署している。武石四郎左衛門尉宗胤の妻佐々木氏信の娘で、その兄弟に「源宗綱(佐々木宗綱)」がいた。宗経と宗綱は同一人物であろう。

 また、武石氏が入部した小県郡長和町大門の山上にある宝篋印塔は、応長元(1311)年8月上旬に「息女(宗胤息女か)」「日光(佐々木氏信娘で宗胤妻か)」が建立したものであるが、「宝篋印陀羅尼」の梵字と「宝篋印陀羅経」、ほかに「肥前太守阿弥陀」と「近江禅閤」の追善を期したとみられる銘文が彫られている(「仏岩宝篋印塔銘文」)。ここにみられる「肥前太守」は肥前守宗胤のこと、「近江禅閤」はおそらく日光の父に当たる佐々木氏信禅門であろう。この時点で宗胤はすでに亡くなっていることがわかる。

■箱根宝篋印塔()および長和町宝篋印塔()の人物系譜

 佐々木氏信 +―佐々木宗綱
近江禅閤) |(源宗経)
  ∥    |
  ∥――――+―源氏     +―武石胤継
  ∥     (日光)    |(弥四郎)
  ∥      ∥      |
  ∥      ∥――――――+―息女
  ∥      ∥
 某氏      武石宗胤
月光)    (肥前守

 宗胤は有力御家人ではないにもかかわらず、得宗時宗からの偏諱と思われる諱「宗胤」であることから、おそらく得宗被官人(御内人)になっていた可能性が高いだろう。武石氏がのちに勢力を持った陸奥国亘理郡はおそらく得宗領であったことや、徳治2(1307)年5月4日、鎌倉円覚寺での「大斎(北条時宗忌日)」の御内人による結番「五番」に子の弥四郎左衛門尉胤継と思われる「亘理四郎左衛門尉」が見えることから、武石氏の亘理郡入部は得宗領地頭代となったことがきっかけと考えるのが妥当である。

★千葉胤綱周辺の婚姻系図・2

  佐々木定綱―佐々木信綱―+―六角泰綱 +―京極満信―――――――京極宗氏――――京極高氏
              |      |            ∥      (佐々木道誉)
              +―京極氏信―+―京極宗綱―――――――娘
              |      |
              +―娘    +――――――娘
                ∥           ∥
                ∥――――――娘    ∥―――――武石胤継――――武石胤員―――…
                ∥      ∥    ∥    (弥四郎左衛門尉)
+―千葉介胤正―千葉介成胤―千葉介胤綱    ∥――――武石宗胤
|                      ∥   (肥前守)
|                      ∥
+―武石胤盛――武石胤重―――――――――+―武石胤氏
                     |(四郎左衛門尉)
                     |
                     +―武石朝胤―――――――武石長胤
                      (三郎左衛門尉)   (新左衛門尉)

 

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武石胤継 (1272-1331?)

 武石氏三代。父は武石弥四郎左衛門尉宗胤。母は不明。通称は弥四郎。官途は左衛門尉

 父と同様に御家人ながら御内人化しており、得宗領地頭代として陸奥国亘理郡内の得宗領の管理を行っていたと思われる。

 鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日)」の御内人による結番が徳治2(1307)年5月に定められたが、「五番」に「亘理四郎左衛門尉」が見える。父の武石四郎左衛門尉宗胤は応長元(1311)年8月上旬にはすでに没しており(「仏岩宝篋印塔銘文」)、おそらく弥四郎左衛門尉胤継のことであろう(「相模円覚寺毎月四日大斎番文」『鎌倉遺文』)。このころ、武石氏が亘理も姓として称していたことがうかがえる。

●徳治2(1307)年5月『相模円覚寺毎月四日大斎番文』(『鎌倉遺文』)

     (花押:北条貞時)   円覚寺毎月四日大斎結番事
 一 番
         泉谷

  長崎左衛門尉(高綱)   長崎木工左衛門尉
  周防前司         嶋田民部大夫入道(行兼)
  安東四郎右衛門入道    足立源左衛門入道
  諏方六郎左衛門尉     合田四郎左衛門尉

 二 番

  工藤次郎右衛門尉(貞祐) 粟飯原左衛門尉
  葛山左衛門尉       大瀬三郎左衛門尉(惟時)
  本間太郎左衛門尉     合田五郎左衛門尉(遠貞)
  吉岡四郎左衛門尉     高柳三郎兵衛尉

 三 番

  大蔵五郎入道       長崎宮内左衛門尉
  越中局          大森右衛門入道
  広沢弾正左衛門尉     大瀬次郎左衛門尉
  葛山六郎兵衛尉      岡村五郎左衛門尉(資行)

 四 番

  伊具三郎左衛門入道    小笠原孫次郎(宗長)
  佐介殿          長崎三郎左衛門入道(思元)
  土肥三郎左衛門尉     下山刑部左衛門入道
  塩飽三郎兵衛尉      佐野左衛門入道

 五 番

  武田伊豆守(時綱)    万年馬入道
  武田七郎五郎       渋谷十郎入道(宗重)
  粟飯原後家        亘理四郎左衛門尉(亘理胤継)
  但馬新左衛門尉      斎藤図書左衛門尉

 六 番

  工藤三郎右衛門尉     桑原新左衛門尉(高近)
  讃岐局          渋谷六郎左衛門尉
  荻野源内左衛門入道    浅羽三郎左衛門尉
  蛭川四郎左衛門尉     千田木工左衛門尉

 七 番

  安東左衛門尉(高貞)  工藤右近将監
  佐介越前守(貞房)   南條中務丞
  小笠原四郎       曾我次郎左衛門尉
  工藤左近将監      千竃六郎

 八 番

  諏方左衛門尉      塩飽右近入道
  主税頭         諏方三郎左衛門尉
  安保五郎兵衛入道    五大院太郎右衛門尉(高繁)
  本間五郎左衛門尉    岡田十郎

 九 番

  尾藤左衛門尉        長崎四郎左衛門尉(泰光)
  神四郎入道(了義)     渋川次郎左衛門入道
  安東平内右衛門入道(道常) 工藤治部右衛門尉
  内嶋四郎左衛門尉      諸岡民部五郎

 十 番

  長崎左衛門尉      尾藤六郎左衛門尉
  長崎後家        権医博士
  狩野介         尾張権守
  矢野民部大夫      粟飯原右衛門四郎

 十一番

  南條左衛門尉      岡村太郎右衛門尉
  尾藤五郎左衛門尉    武藤後家
  中三中務入道      佐藤宮内左衛門尉
  万年新馬允       矢田四郎左衛門尉

 十二番

  工藤右衛門入道(景禅) 五大院左衛門入道
  出雲守         妙鑑房
  武田弥五郎       諏方兵衛尉
  内嶋後家        水原図書允

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
 
   徳治二年五月 日
 

 子とされる武石弥三郎胤員は文保2(1318)年3月12日、鎌倉の葛西ヶ谷にて郎従に討たれたとされる。享年二十七。

 

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武石高広 (1297-1339)

 武石氏四代。父は武石弥四郎左衛門尉胤継。母は不明。妻は国分盛胤娘。通称は四郎。官途は従五位下石見守。史料上での確認はできない。

 伝によれば南朝方の鎮守府将軍北畠顕家に随い、鎌倉の足利尊氏を討つべく鎮守府の多賀城から鎌倉へ向かい、さらに上洛の途についた顕家に供奉したが、暦応2(1339)年5月22日、和泉国石津の戦いで高師直の軍勢に敗れて四十三歳で討死を遂げたという。

 同時代、実在の「武石上総権介胤顕」がおり、彼は建武元(1334)年12月には津軽の旧御内人系の叛乱の降人二名を預かるなど、鎮守府側であった。さらに翌建武2(1335)年6月には北畠顕家から「相馬孫五郎殿」とともに「奥州検断職」として「伊具、日理、宇多、行方等郡、金原保検断事」を沙汰すべしとの国宣を受けており(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬文書』)、武石高広が実在したとすれば、胤顕の方が明らかに格が上である。しかし、建武2(1335)年12月には相馬重胤と武石胤顕はともに足利方の奥州惣大将・足利尾張三郎家長(斯波家長)と亘理郡川名宿で面会していることから胤顕はすでに新政府を見限っていることがわかり、新政権に属したという武石高広とは袂をわかっていることになる。

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武石胤顕 (????-????)

 奥州武石氏惣領家。通称は次郎か。官途は上総権介。父親・母親・兄弟など一切不明だが、世代的に父は武石弥四郎左衛門尉胤継の可能性もあろう。

 元弘3(1333)年5月22日、足利千寿王(足利高氏子)と一族・新田小太郎義貞の勢力によって鎌倉幕府が滅亡すると、6月に後醍醐院は隠岐から京都に戻り、大塔宮護良親王を征夷大将軍に任じた。これは足利高氏(尊氏)を警戒した措置ともされるが、征夷大将軍は建長4(1252)年以降八十年もの間、親王任官が通例となっていたので、特別なことではなかった。

 後醍醐天皇の復位にともなう親政は、おもに旧御家人らに対する配慮を大きなポイントとして進められることとなる。7月には旧御家人の所領を安堵する綸旨を発給。おそらく宗胤もこの恩恵にあずかったと思われる。10月には北畠顕家義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥守・鎮守府将軍として多賀城に入り、陸奥国府で式評定衆・引付・政所執事・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行・侍所といった小幕府的な行政府が作られた。引付衆三番に「武石次郎左衛門尉」が見えるが、おそらく胤顕とみられる。

●陸奥将軍府職制●

名前 説明
義良親王 後醍醐天皇の皇子。のちの後村上天皇。下向時六歳。
国司 北畠顕家 従三位・陸奥守・鎮守府将軍。北畠親房卿の嫡男で、下向時十六歳。
式評定衆 冷泉源少将家房
式部少輔英房
内蔵権頭入道元覚
結城上野入道
信濃入道行珍
三河前司親朝
山城左衛門大夫顕行
伊達左近蔵人行朝
近衛少将。北畠親房の又従兄弟。
式部少輔。
内蔵権頭。
白河結城宗広。元幕府吏寮。滅亡後は朝廷に忠実に服す。伊勢で没する。
二階堂行朝。元幕府吏寮。のち室町幕府最初の政所執事。
白河 結城親朝。結城宗広の嫡男。のち北畠氏と対立し、足利方に下る。
二階堂顕行。元幕府吏寮。二階堂行朝の嫡男。
伊達行朝。南朝の忠臣として活躍。
引付衆一番 信濃入道
長井左衛門大夫貞宗
近江二郎左衛門入道
安威左衛門入道
五大院兵衛太郎
安威弥太郎
椙原七郎入道
二階堂行朝。元幕府吏寮。
長井貞宗。 元幕府吏寮。
 
元幕府吏寮。
五大院兵衛入道玄照。 元幕府吏寮。
元幕府吏寮。
元幕府吏寮。
引付衆二番 三河前司
常陸前司
伊賀左衛門二郎
薩摩掃部大夫入道
肥前法橋入道
丹後四郎
豊前孫五郎
結城親朝。

元幕府吏寮。
 
 
 
 
引付衆三番 山城左衛門大夫
伊達左近蔵人
武石次郎左衛門尉
安威左衛門尉
下山修理亮
飯尾二郎
斎藤五郎
二階堂顕行。
伊達行朝。
武石胤顕か。
元幕府吏寮。
 
元幕府吏寮。
元幕府吏寮。
政所執事 山城左衛門大夫 二階堂顕行。
評定奉行 信濃入道 二階堂行朝。
寺社奉行 安威左衛門入道
薩摩掃部大夫入道
 
 
安堵奉行 肥前法橋
飯尾左衛門二郎
 
 
侍所 薩摩刑部左衛門入道 子息・五郎左衛門尉親宗が勤める。

 その後、胤顕は「上総権介」に任官したとみられ、建武元(1334)年12月14日付『津軽降人交名注進状』(『大日本史料』第六之二)「武石上総権介」として見え、津軽の工藤氏(御内人出身)を中心とする反乱に加わっていた「金平別当宗祐」「弟子智道」を胤顕の代官が預かった。

 さらに、建武2(1335)年6月3日、北畠顕家は「相馬孫五郎殿」「武石上総権介胤顕」とともに「奥州検断職」として「伊具、日理、宇多、行方等郡、金原保検断事」を沙汰すべしとの国宣を発している(建武二年六月三日「陸奥国宣」『相馬文書』)。胤顕とともに検断職を命じられた「相馬孫五郎重胤」が奥州相馬氏の惣領であることを考えると、同格である武石胤顕が奥州武石氏の惣領であったと考えるのが妥当であろう。伊具郡伊具荘にはもともと北条一門伊具氏が地頭職を持っておいた。また、金原保は御内人。工藤貞行が地頭代として納めており、いずれも北条家と密接にかかわっていた地であった。

■奥州検断職

地区:( )内は想像の検断任郡 検断 出典
(伊具郡、亘理郡)、宇多郡、行方郡、(金原保)
⇒重胤は同日、行方郡の奉行を拝命している。
相馬孫五郎重胤 建武二年六月三日「陸奥国宣」
伊具郡、亘理郡、(宇多郡、行方郡)、金原保 武石上総権介胤顕 建武二年六月三日「陸奥国宣」
岩城郡 岩城弾正左衛門尉隆胤 建武元年三月廿八日「沙弥某遵行状」
※『飯野八幡文書』の元亨四年文書の
岩崎弾正左衛門尉隆衡と同一か

 ところが翌7月、関東では北条時行(最後の得宗高時の遺児)が信濃国諏訪で挙兵し、足利直義(尊氏弟)が守る鎌倉を攻め落とすという事件が起こった(中先代の乱)。このとき直義は後醍醐天皇の勘気を受けて鎌倉に幽閉されていた大塔宮護良親王を預かっており、鎌倉陥落の際に宮を暗殺して鎌倉を脱出した。

 一方、京都で鎌倉危うしの一報を得た足利尊氏(高氏を改名)は、鎌倉を落とした中先代軍追討のために「直義朝臣、無勢にして禦き戦ふべき智略なきに依て、海道に引退よし其聞え有る上ハ、暇を賜り合力を加ふべき旨」を奏聞するが、勅許が下りることはなかった(『梅松論』)。尊氏は「所詮私にあらず。天下の御為」と称して、8月2日に独断で在京武士に呼びかけて鎌倉へ向かった。そして、8月19日の辻堂片瀬原合戦で中先代軍を追捕し、鎌倉奪還に成功する(『梅松論』、「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」:『神奈川県史』史料編中世』)

 8月28日、胤顕は岩城郡好島西庄の伊賀式部三郎盛光に、安達郡木幡山に立て籠った「小平輩与同散在凶徒」を追捕すべしという「国宣」を受けて、29日には一族を催して当地へ向かうよう指示している(建武二年八月廿八日「武石胤顕奉書」『飯野八幡宮所蔵文書』)。このことから、胤顕は岩城郡の検断権をも与えられていたと推測される。前年までは岩崎弾正左衛門尉隆衡が検断職であったことから、交代があったのだろう。

 尊氏による鎌倉奪還後、天皇は尊氏の功績を認めて帰洛を命じるが、尊氏はこれを無視する。さらに独断で「奥州総大将」として、若き十五歳の足利一門・尾張弥三郎家長(斯波家長)を奥州に派遣して陸奥国府に対抗させた。こうして10月、朝廷は尊氏を「逆賊」とし、足利一門・新田左衛門佐義貞を大将とする尊氏討伐軍を鎌倉へ派遣する。しかし、尊氏は箱根竹之下の戦いで朝廷軍を壊滅させ、その勢いのまま京都へ攻め上った。宗胤と同じく陸奥国検断職のひとりだった相馬五郎重胤はすでに足利尊氏に嫡子・孫次郎親胤を預けており、陸奥将軍府に否定的だった様子がうかがえる。

 12月20日、相馬重胤は亘理郡川名宿に奥州惣大将・斯波家長を出迎えており、明確に朝廷と決別している。そして重胤はこの川名宿で「武石上総権介胤■」と会っており(建武四年正月「氏家道誠奉書」『相馬文書』)、武石胤顕も重胤とともに陸奥将軍府に叛旗を翻したことがわかる。どのような経緯で「陸奥国検断職」という重責を担う武石胤顕や相馬重胤が足利勢に加担することになったのかは不明である。相馬重胤の軍勢には「武石左衛門五郎胤通」という人物が加わっており、上総権介胤顕の子や甥などかなり近い血縁にある人物であり、胤顕は胤通を重胤に託したと考えられよう。

 12月22日、北畠顕家は逆賊尊氏の追討綸旨を奉じ、鎌倉攻めのため陸奥国の諸将を率いて陸奥将軍府を出立した。ところが京都から鎌倉に攻め上る予定だった新田義貞が足利尊氏に大敗を喫して敗走しており、翌建武3(1336)年正月2日、顕家は足利義詮を主将とする鎌倉をたちまち攻め落とすと、すぐさま新田勢を追捕する足利勢を追って上洛の途についた。斯波家長は義詮の執事であり、本来は顕家よりも先に鎌倉に入部する予定であったと思われるが、何らかの原因で遅延したものと見られる。斯波家長は顕家が去った鎌倉を攻め落とすと、そのまま守衛の任につく。

 重胤は鎌倉下向の際、二男・相馬弥次郎光胤を伴っていたが、重胤は相馬一族の存続のために2月18日、彼を小高城に戻すこととし、3月3日、光胤は四十五人の一族らを率いて小高城に着到した(建武三年三月三日「相馬光胤着到状」『相馬文書』)光胤に従って小高城に戻った中に「武石五郎胤通」が見えるが、胤顕から託された胤通も戻したとみられる。なお、この着到状には「今月八日令下国、成■■等押寄楯、令対治候畢」とあり、着到状の発給日「三月三日」との辻褄が合わない部分があるが、「三月十三日」の誤りか。

 光胤は小高城に下ると3月16日には「白川上野入道家人」が籠もる宇多庄熊野堂(相馬市中野)に馳せ向かってこれを退散させ、3月22日には小高城に攻め寄せた「広橋大将(広橋修理亮経泰)」を追捕。27日には標葉庄まで出兵して、陸奥国府軍を追い散らす活躍を見せた。この27日の合戦では、「武石左衛門五郎胤通」が「酒田孫五郎」を討ち取っている。

 しかしその後、4月16日に鎌倉を攻め落として帰国した北畠顕家の軍勢に小高城を囲まれ、防ぎきれないと悟った光胤は、5月20日、松鶴丸(兄・親胤の子)を養子として所領を譲って落ち延びさせ、24日に討死を遂げた。その際、武石胤通も松鶴丸とともに城を落ちたようで、建武4(1337)年正月の『相馬胤頼着到状』(建武四年正月「相馬松鶴丸着到状」『相馬文書』)に胤頼を支える人物として「武石五郎胤通」の名が見える。

●相馬氏略系図

⇒相馬重胤―+―相馬親胤――相馬胤頼
(孫五郎) |(孫次郎) (松鶴丸)
      |
      +―相馬光胤
       (弥次郎)

 その後、「武石上総権介胤顕」の名は見えなくなるが、翌2月6日には「武石四郎左衛門入道々倫」という人物が現れる(建武四年二月六日「氏家道誠奉書写」『相馬文書』)。その子息である「子息左衛門五郎」の軍忠がすばらしいということで、正和年(1312-1317)より武石氏の所領であった亘理郡坂本郷の所領権利を認められている。この「左衛門五郎」の名前は記載されていないが、「武石左衛門五郎胤通」である。

                        【伊具、日理、宇多、行方等郡、金原保検断事
 武石四郎左衛門尉宗胤――弥四郎郎左衛門尉胤継―+―上総権介胤顕――――…―→亘理氏か?
(肥前守)       (亘理四郎左衛門尉?) |(次郎左衛門尉?)
                        |             【康永2(1343)年8月3日、坂本郷半分】
                        +―四郎左衛門入道道倫――+―四郎左衛門尉
                                     |(新左衛門尉か)
                                     |
                                     |【観応2(1351)年10月25日、坂本郷半分】
                                     +―但馬守――――…?…―讃岐→相馬家被官
                                      (左衛門五郎胤通か)    (武山氏)

 武石氏のその後の活躍はしばらく見られなくなるが、陸奥国府方に属する岩城郡の国魂太郎兵衛尉行泰は、延元2(1337)年4月9日には小高城を攻め、さらに5月中には「馳向于渡城、致合戦之忠節畢」とあり、相馬氏の小高城ならびに武石氏の亘理郡を攻め立てていることがわかる。なお小高城には6月24日にも攻め寄せている(延元二年十二月「国魂行泰軍忠状」『国魂文書』)。相馬氏と武石氏はこのときも足利方としてともに連携を取っていたことが察せられる。

 康永2(1343)年8月3日、「沙弥(石堂義房入道)」は「武石新左衛門尉殿」に勲功の賞として「陸奥国曰理郡坂本郷半分長戸呂村」「同郡鵲谷郷之替」として宛がった(康永二年八月三日「石堂義房宛行状写」『相馬文書』)。この「武石新左衛門尉殿」とは観応2(1351)年10月22日の「船迫合戦」で討死を遂げた「四郎左衛門尉」と思われる。同年10月25日、吉良貞家から「武石但馬守」へ宛てて「舎兄四郎左衛門尉」の討死の功績により「曰理郡坂本郷」の半分の知行安堵状が発給されており(観応二年十月廿五日「吉良貞家書下写」『相馬文書』)「四郎左衛門尉」建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』にあらわれる「武石四郎左衛門入道々倫」の子だろう。したがって武石但馬守も武石道倫入道の子と思われ、武石左衛門五郎胤通の後身と考えられる。胤通の資料が相馬家に伝わっていることから、この胤通の子孫が相馬家被官の武山氏につながる武石讃岐の系統と考えられる。

 文和2(1353)年4月20日には「武石但馬守殿」「陸奥国曰理郡坂本郷内給所村、摩尼谷上下村、精進谷村等事」につき、知行が宛がわれた(文和二年四月廿日「吉良貞家書下写」『相馬文書』)。

 こののち、武石氏は十五世紀末期の亘理宗元の代まで百数十年間、系譜以外の資料から姿を消す。おそらく伊達家との抗争の中でその支配の中に組み込まれてしまったためと思われ、五郡一揆等に連判することもなくなっていることから、陸奥国の旗頭の一角としての独立性はなくなったとみられる。また、武石四郎高広が実在性の乏しい人物であるため、その子孫とされる亘理氏の系譜がどのあたりまで信憑性を持っているのか難しいところである。

 吉良貞家から武石但馬守亘理郡坂本郷内の所領を与えられる七か月ほど前の観応2(1351)年4月9日、幕府は小早川備後守貞平・平賀遠江兵衛蔵人貞宗に、「武石美作四郎胤泰」の領地である安芸国八野郷内に乱入した西條弥六左衛門入道大多和左衛門太郎を追放し、胤泰へ沙汰するよう命じている。この武石美作四郎胤泰は系譜に記載されていないため、どのような人物かは不明(『萩藩閥閲録』)

 

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亘理広胤 (1319-1381)

 武石氏六代。父は武石四郎高広?。母は国分盛胤娘。官途は左兵衛尉、因幡守。ただし、資料に見られないことから実在性に疑問がある。

 暦応2(1339)年8月、足利尊氏の召しに応じて上洛し、宇多・伊具・亘理の三郡内の所領を安堵されたと伝えられている。旗紋は「白地に黒丸」と定められた。

 永徳元(1381)年4月29日、六十三歳で亡くなった。

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亘理行胤 (1343-1393)

 武石氏七代。父は亘理因幡守広胤。母は佐竹右馬頭義盛娘。妻は岩城下総守清胤娘。通称は彦四郎。官途は肥前守。佐竹義盛の実子は、養嗣子の佐竹右京大夫義人(上杉憲定の子で上杉龍保丸、のち上杉七郎)に嫁いだ一人娘(天徳寺甚山妙幸)のみであることや、系譜上で義父にあたる佐竹義盛の生年は貞治4(1365)年であって、行胤よりも二十年以上も後に生まれているため、母を佐竹氏とする伝の信憑性は非常に乏しい。

 伝によれば、永徳元(1381)年秋、伊達弾正大弼宗遠と刈田において合戦して敗れ、伊達家の麾下に入ったという。

 明徳4(1393)年9月20日、五十一歳で亡くなったとされる。

 

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亘理重胤 (1369-1412)

 武石氏八代。父は亘理肥前守行胤。母は岩城下総守清胤娘。妻は不明。通称は彦五郎。官途は刑部少輔

 応永19(1412)年3月、国分右馬頭盛経と合戦して討死を遂げたという。享年四十四。

 

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亘理胤茂 (1384-1441)

 武石氏九代。父は亘理刑部少輔重胤。母は不明。妻は山内兵部大輔氏義娘。通称は不明。官途は兵部大輔

 応永23(1416)年9月、父・重胤を討った国分右馬助盛経の屋敷を急襲して、これを討ち取ったとされるが、ほかの伝に見られないことから不明。嘉吉元(1441)年12月8日、五十八歳で亡くなったとされる。

 

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亘理茂連 (1408-1446)

 武石氏十代。父は亘理兵部大輔胤茂。母は山内兵部大輔氏義娘。通称は彦四郎。官途は肥前守。実在は不明。系譜上母方の祖父とされる山内氏義は桃生郡または会津地方に盤踞した山内首藤氏の一族とも考えられるが、江戸期の軍記もの『鎌倉管領九代記』にみられる誤記「山内兵部大輔氏義(本来は山川)」を採用している可能性もあろう。

 文安3(1446)年4月13日、三十九歳で亡くなったという。

 

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亘理宗清 (1416-1463)

 武石氏十一代。父は亘理兵部大輔胤茂。母は山内兵部大輔氏義娘。通称は不明。官途は兵部大輔。先代・茂連の弟。実在は不明。

 文安3(1446)年4月、兄の茂連に男子がなかったため、弟の宗清が家督を継承したが、寛正4(1463)年正月21日、異母弟の亘理兵庫允茂元が攻め寄せ、防ぎきれずに自刃を遂げた。四十八歳。このとき、子の亘理左馬允清胤・亘理彦九郎孝胤もともに自刃を遂げている。

●亘理家略系譜

 山内氏義?――娘   +―茂連   +―清胤
(兵部大輔)  ∥   |(彦四郎) |(左馬允)
        ∥   |      |
        ∥―――+―宗清―――+―孝胤
⇒亘理重胤――胤茂    (兵部大輔) (彦九郎)
(刑部少輔)(兵部大輔)
        ∥―――――茂元―――――元胤
       葦名氏   (兵庫允)  (因幡守)

 

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亘理清胤 (1438-1463)

 父は亘理兵部大輔宗清。母は不明。通称は彦五郎。官途は左馬允

 寛正4(1463)年正月21日、叔父の亘理兵庫允茂元が父・亘理兵部大輔宗清の館を急襲したため、防ぎきれなかった宗清は自刃を遂げ、清胤も弟・亘理彦九郎孝胤とともに自害した。

 

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亘理茂元 (1421-1481)

 武石氏十二代当主。父は亘理兵部大輔胤茂。母は葦名氏娘。通称は彦五郎。官途は兵庫允

 寛正4(1463)年正月21日、義兄で亘理家当主だった亘理兵部大輔宗清の一族を攻め滅ぼし、家督を継いだ。

 文明13(1469)年9月20日、六十一歳で亡くなった。

 

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亘理元胤 (1446-1504)

 武石氏十三代。父は亘理兵庫允茂元。母は不明。通称は彦五郎。官途は因幡守

 永正元(1504)年2月18日、五十九歳で亡くなった。

 

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亘理元実 (1468-1489)

 父は亘理因幡守元胤。母は不明。通称は彦五郎

 延徳元(1489)年3月20日、二十二歳で亡くなった。

  

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亘理宗元 (1472-1531)

 武石氏十四代。父は亘理因幡守元胤。母は不明。通称は彦七郎。官途は従五位下右近将監

 兄・亘理彦五郎元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。かつて一度、伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。そして、この宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。

 享禄4(1531)年11月4日、六十歳で亡くなった。

 

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亘理宗隆 (1493-1556)

 武石氏十五代。父は亘理右近大夫宗元。母は不明。初名は元重。通称は彦五郎。官途は従五位下右近将監兵庫頭

 宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎綱宗乙松丸(元宗)を養子に迎え、稙宗は涌澤弾正千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。

 しかし亘理彦四郎綱宗は、宗隆の家督を継ぐ前の天文13(1544)年3月25日、天文の大乱掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。

 弘治2(1556)年7月21日、64歳で亡くなった。法名は寛宥院殿仁翁全儀大居士

 

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亘理綱宗 (1526-1544)

 亘理兵庫頭宗隆養嗣子。父は伊達左京大夫稙宗。母は亘理宗隆。通称は彦四郎宗隆には男子がなかったことから、外孫にあたる彦四郎綱宗乙松丸(元宗)が宗隆の養子となった。

 亘理宗隆―+=綱宗
(兵庫頭) |(彦四郎)
      |
      +=元宗  
      |(兵庫頭)+―亘理綱宗
      |     |(彦四郎)
      +―娘   |
        ∥―――+―亘理元宗―――亘理重宗
        ∥    (兵庫頭)  (美濃守)
       伊達稙宗
      (左京大夫)
        ∥
        ∥―――――伊達晴宗―――伊達輝宗
 葦名盛高―――娘    (左京大夫) (左京大夫)
(修理太夫)

 綱宗は、父・伊達稙宗と兄・伊達晴宗の父子争いが発端である「天文の大乱」の動乱に巻き込まれ、天文13(1544)年3月25日の伊達郡穂原掛田の役において十八歳で討死を遂げた。法名は浄因清享信士。この合戦で重臣の菱沼弾正時久も討死を遂げた。

 母の亘理宗隆娘は天文22(1553)年6月13日に亡くなった。法名は天窓慶普信女

 

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亘理元宗 (1530-1594)

 武石氏十六代。父は伊達左京大夫稙宗。母は亘理兵庫頭宗隆。妻は国分能登守盛氏娘(月光院)。幼名は乙松丸。官途は従五位下・兵庫頭。入道して元安斎

■伊達家から亘理家へ■

 亘理宗隆―+=亘理綱宗
(兵庫頭) |(彦四郎)
      |
      +=亘理元宗
      |(兵庫頭)
      |
      +―娘   +―亘理綱宗
        ∥   |(彦四郎)
        ∥   |
        ∥―――+―亘理元宗―――亘理重宗
        ∥    (兵庫頭)  (美濃守)
       伊達稙宗
      (左京大夫)
        ∥
        ∥―――――伊達晴宗―――伊達輝宗
 葦名盛高―――娘    (左京大夫) (左京大夫)
(修理太夫) 

 実兄・彦四郎綱宗が天文12(1543)年に討死を遂げたため、乙松丸が亘理家を相続し、「亘理元宗」を名乗った。

 天文21(1552)年2月、二十三歳のときに上洛を果たして将軍・足利義輝に拝謁し、白銀五枚を献上。義輝の奏請によって従五位下の官位を賜り、兵庫頭に任じられた。そののち、紀州熊野社に詣でてから奥州に帰国した。蹴鞠が好きだった元宗は、京都に滞在している際に蹴鞠の家である飛鳥井雅教の屋敷にて蹴鞠の会を鑑賞している。

 ちょうど同じころ、武田信玄入道の父・武田信虎が京都に隠棲しており、元宗のもとを訪れた。文武に通じた人物と出会うことができて非常に嬉しいと、信虎は佩刀・綱広を元宗に譲ったという。また、京都の愛宕神社に詣でて感動した元宗は、領内に愛宕祠を建立した。この愛宕祠はのち涌谷伊達家の居城・涌谷城の城東にうつされた。

 天文22(1553)年4月15日、先年に京都で出会った飛鳥井雅教が奥州に下り、元宗のもとを訪ねた。この遠路からの賓客に対し、元宗は猩々緋の織物五端をもって饗応し、その帰途には馬二疋と黄金百両を餞別として捧げている。

 また、元宗は兄・伊達晴宗や甥・伊達輝宗をよく支え、所領のある宇多郡の統治を固めた。一方、永禄8(1565)年、名取郡沙留川における相馬家との戦いでは一方の大将として活躍し、相馬家侍大将・富田丹波を斬ってその佩刀・角柄生を手に入れたが、一族の坂本木工助俊常が討死を遂げた。

 この翌年の永禄9(1566)年、元宗の嫡男・天王丸が13歳にて元服。加冠は元宗の異母兄・伊達晴宗がおこない、亘理源五郎重宗の名乗りが与えられた。のちに伊達政宗の片腕となる亘理美濃守重宗である。

■竹ニ雀の紋を賜る■

 元亀元(1570)年4月4日、伊達家執政の新田遠江守景綱から伊達家先祖代々の宿老である中野常陸介宗時・牧野弾正忠久仲の謀反の報が輝宗のもとに届けられ、景綱はその謀反に荷担していた嫡子・新田四郎義直をからめとって輝宗に差し出した。輝宗はその忠義に感じ、すでに隠居していた景綱に、新田家居城・館山へ移って家中の指揮をとるよう指示した。

 一方、新田義直が捕らえられて謀反が露見したことを知った中野宗時・牧野久仲は、小松(山形県東置賜郡川西町小松)の屋敷を焼き払い、山上にある小松城に立てこもった。

●牧野・中野・新田家関係略図

      牧野宗興――景仲==+―久仲――――美濃――――盛仲
     (安芸守) (紀伊守)|(弾正忠)       (大蔵)
                |             →政宗に召し出される
 中野讃岐――□□―――宗時――+―大膳――――娘
           (常陸介)        ∥
                        ∥
     新田義貞―…―義親――――景綱――+―義直
           (下総守) (遠江守)|(四郎)
                      |
                      +―義綱――――中村成義
                       (左衛門尉)(日向)

 謀反発覚の翌5日、輝宗は自ら兵を率いて出陣。先陣の新田景綱小梁川安房守宗秀らの猛攻を支えきれずに、中野宗時・牧野久仲は相馬弾正大弼盛胤を頼って南へと遁れた。これを追って亘理元宗重宗父子の軍勢が刈田郡宮河原に出陣。相馬へ遁れようとする中野・牧野勢を散々に撃ち破ったが、中野・牧野両名は相馬領へ遁れ去って捕らえることはできなかった。この功績によって、元宗名取郡小川村・笠島村、伊具郡小田村、出羽国長井庄川原村の四村を与えられた。

 元亀2(1571)年、相馬家と信夫郡大仏浅川で合戦。元宗も参戦して大功を挙げ、輝宗から伊達家の紋「竹ニ雀」の紋を用いることを許された。この戦いで一族の村岡右近胤信亘理又七郎盛景が討死してしまった。村岡胤信は元宗の大叔父にあたり、亘理盛景は元宗の母の従兄弟という関係になる。

+―亘理宗元―+―宗隆―――+―娘―――――+―綱宗    相馬盛胤娘
|(右近太夫)|(兵庫頭) |(伊達稙宗妻)|(彦四郎)   ∥――――+―定宗
|      |      |       |        ∥    |(安芸)
|      +―重景   +=綱宗    +―元宗―――――重宗   |
|      |(紀伊守) |(彦四郎)   (兵庫頭)  (美濃守) +―娘
|      |      |                       ∥――――重俊
|      |      +=元宗                    ∥   (加賀)
|      |       (兵庫頭)                坂本定俊
|      |                           (伯耆守)
|      +―村岡胤信―+―実信    +―景信
|       (右近)  |(彦右衛門) |(蔵人)
|             |       |
|             +―景長――――+―村岡元信
|              (善七郎)   (伊予)

+―亘理胤重===重景―――+―景重
 (美作守)  (紀伊守) |(修理亮)
              |
              +―盛景======景長
               (又七郎)   (善七郎)

 天正年中の最上家との戦いにも留守政景らとともに頻繁に従軍しており、亘理家、留守家などの一族衆は大きく拡大した伊達家にはなくてはならない軍事的要になっていたことがわかる。

■小狭井・金山・丸森城奪還■

亘理周辺

 天正9(1581)年4月、伊達輝宗は相馬家に奪われていた小狭井・金山・丸森城を取り戻すべく、坂本に布陣。元宗重宗父子も従った。

 伊達家の出陣を聞いた相馬勢は菅谷に陣を張り、小深田で戦闘になった。これを「小深田合戦」というが、戦いは相馬軍の勝利に終わり、伊達軍は座流川を渡って矢野目城へと引き揚げていった。 

 しかし、輝宗は相馬家の小狭井城主・佐藤宮内為信を裏切らせることに成功。為信は相馬家の軍監・金沢美濃守以下三十騎をことごとく斬殺して、4月13日、伊達家に降伏した。勢いに乗った輝宗はさらに丸森城と金山城の奪還を目指し、軍勢を二手に分けて出陣した。

 一方、相馬側でも丸森城に相馬一門の堀内播磨守胤政とその父で名将の名が高い泉田甲斐守胤清入道雪斎を、金山城には佐藤将監を入れて堅く守ったため、伊達勢は矢野目城へと引き揚げた。

 丸森城・金山城が伊達家の手に戻ったのは2年後の天正11(1583)年正月のことであった。天正10(1582)年3月18日、輝宗は元宗を金山攻めの大将に任じ、元宗も金山城に猛攻をかけるが、城主・佐藤将監の強烈な反撃にあって散々に敗れ退却した。

 この戦いののち、伊達家・相馬家両者にゆかりの深い三春城主・田村右京大夫清顕が調停に乗り出し、田村一門の田村顕頼入道月斎相馬長門守義胤のもとに遣わされて伊達家に金山・丸森の二城を返すよう勧め、渋る義胤を説得するべく、天正11(1583)年正月、清顕自らが小高城に赴いて和睦を迫ったために、義胤も受け入れざるをえず、両家の和睦は整い、翌年の政宗家督と同時に丸森・金山城は伊達家へ返された。

■伊達輝宗の死と奥州諸豪族との戦い■

 天正11(1583)年、元宗の嫡孫・長松丸(のちの伊達定宗)が六歳で伊達家嫡子・伊達政宗に謁見した。政宗は手ずから扇を授け、扇に馬を書いてみよと筆をとらせた。長松丸は扇いっぱいに立派な馬を書き、政宗をして「真に将帥の種なり」と言わしめた。この翌年10月、政宗は輝宗から家督を継承して伊達家当主となる。

 天正13(1585)年、政宗は葦名家と手を結んで政宗と対立していた二本松義継大内定綱片平親綱兄弟を降伏させたが、二本松義継は政宗へのとりなしのお礼参上と称して輝宗のもとを訪れ、そのまま輝宗を拉致して二本松へ帰ろうとした。これを知った政宗は軍勢を率いて二本松領との境・阿武隈川に義継一行を追い詰めた。数に劣る義継は逃れられないと悟り、輝宗を刺し殺して、みずからも伊達勢によって討ち取られた。この事件を地名・粟之巣(高田原)をとって「粟之巣の変事」という。

 政宗は義継の遺体を城下で磔にかけて見せしめとしたが、この行為が奥州諸将を敵に回してしまうことになる。

 天正13(1585)10月15日、輝宗の初七日がすんだ政宗は、弔合戦と称して一万五千人の大軍を率いて二本松城へ攻め寄せた。しかし、二本松城は堅固な要害であり、畠山氏の家臣たちは義継の嫡男・畠山国王丸を擁して奥州諸将に援軍を求め、相馬義胤・佐竹義重・葦名義広らが反伊達連合軍として政宗に敵対した。

◎反伊達連合に属した諸将

名前 人物 政宗との関係
畠山国王丸 陸奥二本松城主。畠山義継の子。義継は政宗妻・愛姫の従兄にあたる。
佐竹義重 常陸水戸城主。文武両道の名将。連合軍の盟主となる。相馬義胤の烏帽子親。 叔父(叔母夫)
蘆名義広 陸奥黒川城主。佐竹義重の子で輝宗の妹を母とする。 従兄弟(叔母が母)
岩城常隆 陸奥磐城平城主。伊達輝宗の弟・岩城親隆と佐竹義重の娘の子。 従兄弟(父の弟の子)
石川昭光 陸奥晴山城主。伊達輝宗の弟。石川晴光の養子となった。佐竹義重の婿。のち伊達家一門筆頭。 叔父(父の弟)
二階堂盛義 陸奥須賀川城主。伊達輝宗の従兄弟で蘆名盛隆の父。 又叔父
白河義親 陸奥白河城主。南朝の名将・結城宗広を祖とする。
相馬義胤 陸奥小高城主。父・盛胤は伊達輝宗と従兄弟。 又叔父

 盟主的な佐竹義重は、奥州南部の反伊達氏の大名を招集して政宗追討の兵を挙げ、安積郡の政宗の所領を攻略した。そして政宗が二本松城を囲んだ翌日の10月16日、奥州街道と会津街道の交わる前田沢城に3万の軍勢を送り込んだ。これを聞いた政宗は、二本松城周辺に白石宗実らを残し、8千人を率いて岩角城、本宮城へと進み、連合軍に対峙した。

武将名 行動 兵力 後記
伊達政宗
留守政景
原田宗時
茂庭左月斎
片倉景綱
亘理元安斎
亘理重宗
岩角城→本宮城→観音堂山 4,000名 仙台初代藩主となる。「独眼龍」とよばれた名将。
政宗の叔父で、一門の筆頭。政宗の名代。
伊達家累世の家臣で武断派で知られたが、朝鮮の役で対馬にて客死。
伊達家累世の家臣。人取橋の戦いでは政宗の危機を救うために戦死。73歳。
政宗の片腕的な存在で、智謀にあふれた武将。子孫は江戸時代に白石城代。
政宗の大叔父で、亘理氏の家督を継ぐ。対相馬家を担当する。
元安斎の子。相馬盛胤の女婿。相馬氏との戦いで、駒ケ嶺・新地城を攻略する。
伊達成実 瀬戸川館 1,000名 政宗の従弟。武勇の将で政宗の片腕的存在。徳川家光にも召し出される。
泉田重光 先鋒 伊達晴宗以来の世臣。政景とならぶ伊達家の重鎮。
国分盛重
天童頼澄
杉田城→政宗に合流。杉田城 政宗の叔父で、藤姓国分氏の家督を継承する。政宗の名代を勤める。奥州斯波氏の一族。
白石宗実 玉井城→最前線に出て戦う 500名 伊達氏の古い一族。成実と並んで伊達軍の主戦力。
高倉近江
富塚信綱
桑折宗長
伊東重信
高倉城 1,000名  
瀬上景康
中島求宗
浜田景隆
桜田元親
本宮城 500名 政宗が豊臣秀次に連座されようとしたとき、秀吉に訴えでてその疑いを解いた。
 
 
政宗の長子・秀宗が宇和島藩主として赴くと、従って家老となる。

 戦いは阿武隈川の支流・瀬戸川にかかる人取橋周辺でおこり、熾烈をきわめる激戦となった。伊達軍八千に対し、連合軍は三万。佐竹義重は主力一万を率いて政宗の本陣に攻め寄せ、人取橋周辺で激戦となった。政宗の本陣は四千名で固められていたが、佐竹勢の突撃の前に壊走。政宗は側近の茂庭左月斎の自殺的な突撃の間に本宮城まで退いた。茂庭左月は佐竹勢を食い止めたものの、重い甲冑もつけず、綿帽子をかぶっただけの軽装であり、六十騎の家臣とともに戦死を遂げた。七十三歳。

 連合軍の将・葦名義広は一万を率いて、伊達勢前衛に踊り出た白石宗実勢五百余と戦い、さらに伊達成実と激戦を繰り広げた。葦名勢は、突撃してくる一千名の伊達成実勢を取り囲んで破ると、本宮城まで退却させた。こうして初日の戦いは伊達勢の大敗で日暮れとともに終わり、伊達勢は本宮城に追い込まれた。

 しかしこの日の夜、佐竹義重の一族・佐竹義昌が下僕に殺されるという事件が起こり、さらに常陸国での江戸重通の挙兵、安房の里見義頼の常陸侵攻の報が佐竹陣営に齎されたため、義重は急遽軍勢をまとめて常陸に帰国した。盟主の佐竹義重が引き上げたことで、他の連合軍も引き上げたため、政宗も軍勢を引き上げた。これらの戦いを俗に「人取橋の戦い」という。政宗の大惨敗に終った戦いだった。

■相馬家との戦い■ 

 天正17(1589)年5月18日、政宗は相馬領の駒ケ嶺城・新地城を攻めるべく、元胤の嫡男・亘理重宗を先陣として出陣させた。駒ヶ嶺城には伊達勢の侵攻を知った相馬義胤が自ら出陣した上、義胤の父・相馬盛胤も援軍として出陣してきた。重宗にとっては盛胤は舅、義胤は義兄にあたる。

 重宗は駒ケ嶺城主を取り囲んで猛攻を仕掛けた。これに城主・藤崎治部丞久長村松薩摩・大浦雅楽らを指揮して必死に抵抗したが、力尽きて陥落。藤崎久長盛胤の陣へ逃れた。さらに翌19日、新地城も落城させ、新地城主・泉田雪斎入道は逃れて盛胤隊と合流した。しかし、城将・杉目三河は逃れきれず、伊達勢に斬り込んで戦死を遂げた。

 重宗の活躍によって伊達家は小狭井(小斎)・丸森・金山・駒ケ嶺・新地といった宇多郡の拠点の多くを奪還。重宗はこの功績によって、新たに新地を賜った。

☆藤崎・杉目家関係図☆

 岡田義胤―+―茂胤―→【一門筆頭岡田氏嫡流】
(安房守) |(治部大輔)
      |
      +―立野永房―+―豊房―――――藤崎久長【駒ヶ峰城代】
       (土佐守) |(太郎左衛門)(治部丞)
             |
             +―杉目右京進――杉目三河【新地城将】

 天正18(1590)年7月22日、夫人の国分氏(国分盛氏娘)が亡くなった。法名は月光院。謚は圓鑑普照

涌谷妙見社

 10月の大崎葛西一揆の際、伊達政宗蒲生氏郷にその追討が命じられたが、六十一歳の元宗は、重宗とともに出陣し、元宗は足に被弾しつつも奮戦した。この当時、元宗亘理郡内二十ヶ村、伊具郡内六ヶ村、名取郡内一ヶ村を知行していたが、天正19(1591)年の一揆鎮定直後、伊達家が豊臣秀吉の命によって岩出沢周辺へ転封になると、元宗も所領を召し上げられ、かわって遠田郡涌谷村に所領が与えられ、百々城へ入部した。

 亘理家はのち涌谷城へ移り、ここを本拠に江戸時代の涌谷伊達家がうまれる。転封時、元宗は妙見神を亘理から涌谷へ遷し、涌谷妙見社(涌谷町日向町)を建立。菩提寺・円同寺も建立している。

 文禄3(1594)年6月19日、涌谷大貫(遠田郡田尻町大貫)において六十五歳で病没。遺骸は大貫山王山の日枝神社の北麓に葬られたと伝わる。法名は洛浦院泰岳元安大居士入間田帯刀・大平壱岐の二名が殉死した。 

亘理重宗 (1552-1620)


 武石氏十七代。父は亘理兵庫頭元宗(元安斎)。母は国分能登守盛氏の娘(月光院円鑑普照)。妻は相馬弾正大弼盛胤娘(真如院殿光岳健果)。幼名は王天丸。通称は源五郎美濃守。官途は従五位下

 永禄9(1566)年、天王丸は13歳で元服。加冠は伯父の伊達晴宗が行い、亘理源五郎重宗と称した。

■亘理・伊達・相馬家略系図■

             +―――――――――伊達実元
             |        (兵部大輔)
             |         ∥――――――――――――――伊達成実
             |       +―娘             (安房守)
             |       |                ∥
+―伊達尚宗――伊達稙宗―+―伊達晴宗――+―伊達輝宗――――伊達政宗   ∥
|(左京大夫)(左京大夫) (左京大夫) |(左京大夫)  (侍従)    ∥
|       ∥            |                ∥
|       ∥――――+―亘理綱宗  +―国分盛重           ∥
| 亘理宗隆――娘    |(彦四郎)   (彦九郎)           ∥
|(兵庫頭)       |                        ∥
|            +―亘理元宗                   ∥
|             (兵庫頭)                   ∥
|              ∥―――――――――――――――亘理重宗 +―娘
|              ∥              (美濃守) |
|       国分盛氏―――娘               ∥    |
|      (能登守)                   ∥――――+―伊達定宗―+―伊達宗実
|                              ∥     (安芸)  |(牛松丸)
| 相馬高胤――相馬盛胤―――相馬顕胤――――相馬盛胤――+―      ∥    |
|(治部少輔)(大膳大夫) (讃岐守)   (弾正大弼) |        ∥    +―伊達宗重
|       ∥                    |        ∥     (安芸)
|       ∥――――+―堀内近胤――+―堀内俊胤  +―相馬義胤   ∥
|       ∥    |(次郎大夫) |(右兵衛)   (長門守)   ∥
| 蘆名盛高――娘    |       |                ∥
|            +―黒木胤乗  +―娘     +―黒木宗俊―――娘
|              (三郎)    ∥     |(中務丞)
|                      ∥     |
|       伊達稙宗―――娘       ∥―――――+―堀内宗和
|      (左京大夫)  ∥       ∥      (四郎)
|              ∥―――――+―藤田晴近
|              ∥     |(七郎)
|              ∥     |
+―掛田義宗――掛田元宗―――掛田俊宗  +―掛田義宗――――娘
 (兵庫頭) (兵庫頭)  (中務大輔)  (兵庫頭)   (相馬義胤母

 元亀・天正のはじめまでは、伊達家は最上家との戦いに終始する。天正元(1573)年5月23日、重宗は、最上家から攻め取った楢下に要害を築くために出陣した輝宗から、最上領に通じる篠谷口(宮城県川崎町篠谷)まで出陣するよう命じられ、軍勢を派遣した。

 天正2(1574)年8月26日、伊達・最上両家の重臣が対面して和睦についての会談が行われ、9月1日、亘理元安斎氏家尾張守が会談。さらに9月9日にも会談が行われ、閏11月19日、最上義光との和睦が成立し、今後、伊達家は相馬家との戦いに重点が置かれるようになる。

亘理周辺

 亘理元安斎重宗親子は、相馬家との宇多郡をめぐる争いで常に先頭に立って活躍したが、重宗は天正6(1578)年以前に相馬盛胤の娘を娶っていることから、天正4(1576)年の田村清顕による伊達・相馬両家の和睦斡旋によって、相馬家から重宗へ娘が嫁いだものかもしれない。亘理家は表向き独立した領主だが、実質的には伊達家の家臣となっており、相馬惣領家の姫君重宗へ嫁したことは、相馬家側から田村家へ和睦斡旋の打診があったためかもしれない。

 天正5(1577)年11月25日、重宗信夫郡杉目城で病に臥せっていた伊達晴宗入道道祐へ、重臣・坂本伊予を遣わして病気見舞いをしている。しかしこの直後、晴宗入道の容態は悪化し、12月5日、59歳で亡くなった。

 いったんは和睦した伊達家と相馬家だったが、その平和も長くは続かず、天正6(1578)年、輝宗は元安斎元宗重宗親子に相馬領への出陣を命じ、伊具郡で亘理勢・相馬勢が合戦した。

 天正9(1581)年の「人取橋の戦い」では父・元宗とともに出陣した。天正10(1582)年、輝宗は相馬家の重臣で、猛将として知られる小狭井城の佐藤宮内為信にたびたび密書を送って寝返りを促し、4月9日、為信は相馬家の軍監・金沢美濃守以下三十騎を斬殺。4月13日に輝宗は小狭井城を手中に収めた。

 天正11(1583)年、輝宗はさらに相馬家に奪われていた金山城・丸森城を取り戻すため、小狭井・金山城の間にある明護山に砦を築き、重宗を主将に、佐藤為信白石宗実田手宗実の四将を城将として入れた。

 天正17(1589)年の宇多郡駒ケ嶺城新地城をめぐる争いでは先鋒として城に攻めかかった。これに対して、相馬方の駒ヶ嶺城主・藤崎治部久長は家臣の村松薩摩・大浦雅楽らを指揮して必死に伊達勢を防いだが、重宗勢の猛攻によって陥落。久長は相馬盛胤の陣へ逃れた。また、同じく相馬方の新地城も泉田甲斐守胤清入道雪斎・杉目三河が必死に防いだが、内通者によって落城した。こうして、宇多郡北部は亘理家が治めることとなった。

■伊達家・亘理家略系図■

      +―黒川義康妻
      |
      | 伊達政宗――――茂庭宗根
      |        (又次郎)
      |         ∥
⇒亘理元宗―+―亘理重宗  +―娘
(兵庫頭)  (美濃守)  |
        ∥     |
        ∥―――――+―娘
        ∥     |(玄松院殿)
        ∥     | ∥
 相馬盛胤―+―娘     | 伊達成実
(弾正大弼)|(真如院殿) |(安房守) 
      |       |
      |       +―伊達定宗
      |        (安芸守)
      |
      +―相馬義胤――――相馬利胤
      |(長門守)   (大膳大夫)
      |
      +―平田隆胤
       (兵部大輔)

 天正18(1590)年5月14日、重宗は相馬家の宇多郡内の本拠地である中村城を攻めるため、相馬家から寝返っていた黒木宗俊(駒ケ峰城主)・佐藤藤右衛門(小狭井城主)を率いて相馬領に侵攻した。しかし、この時点ですでに伊達政宗・相馬義胤は豊臣秀吉の厳命に従って相模国小田原攻めに向かっており、相馬領侵入は5月9日に政宗が会津黒川城を発つ以前に重宗へ指示していたものか。このとき、中村城は相馬義胤の弟で剛勇無双の剛将として知られていた相馬兵部大輔隆胤が守っていた。

 5月18日、相馬隆胤はわずかな手勢を率いて中村城外に陣を張り、伊達勢を待ち構えた。そして石上村において、重宗率いる黒木宗俊国分右衛門尉の軍勢と激突。このとき、相馬家の重臣で黒木城代・門馬上総介貞経が黒木・国分勢を防いでいたが、貞経は伊達勢の矢田但馬の鉄砲に狙撃されて落馬したことから、門馬勢は壊走。貞経は水谷孫右衛門によって救出されたものの陣没した。

 隆胤も自ら大なぎなたを振るって奮戦したが、門馬勢が崩れたことによって背後にも敵を受けることとなり、さしもの剛将もやむなく中村城へ向って兵を引いた。しかし隆胤は逃げ回る味方に遮られ、誤って馬を水田に乗り入れて落馬してしまい、襲いかかる重宗の手勢によって討ち取られた。また、隆胤を救おうとした佐藤万七、泉藤六郎、荒藤八郎、佐藤文七郎、佐藤孫兵衛らもことごとく討死を遂げている。

 この戦いは亘理勢の手負いも多く、主だった部将31名が討死を遂げた。

●天正18(1590)年5月18日 石上村・小豆畠の戦いで討死した亘理家家臣

・山寺蔵人盛純・寺内丹後・小泉主膳繁・米谷下総延常・大塚蔵人・鷲足主水清久
・遠藤半内良知・宍戸刑部方則・星與三左衛門玄親・鈴木七郎左衛門義久・上野善九郎延命
・斎 源内胤行・粟野右近易意・糠田内膳・大塚甚助・砂金藤四郎・西山源兵衛
・安部善四郎 ・足立刑部・佐藤次郎右衛門・松浦助六郎・遠藤四郎左衛門
・猪俣彦右衛門濁清・鈴木九郎左衛門豊住 ・岡崎彦六郎・大村豊後・高野本太郎知久
・門間助九郎・萱野甚四郎・條又十郎友成

 6月24日、政宗は大崎・葛西氏の遺臣がおこした一揆を討つべく出陣。重宗もこれに従い、29日には佐沼城に猛攻撃をかけた。政宗は城内からの矢や弾丸が雨のように降り注ぐ中で指揮をとっていたため、重宗は政宗を諌めて退かせ、重宗が代わって先陣の指揮を執った。そのため左股に矢を受けて負傷している。

 7月23日、母の国分能登守盛氏の娘(月光院円鑑普照)が亡くなった。

 9月、豊臣秀吉の命によって伊達家の居城が出羽国米沢より、陸奥国玉造郡岩出山へ移されることとなった。そのため、亘理家も旧領召上げ、遠田郡大沢村百々城へ移ることとなり、天正19(1591)年には遠田郡涌谷邑へ入部した。

 文禄元(1592)年・慶長2(1597)年の二度の朝鮮の役に際しては、伊達家江戸屋敷の留守居役をつとめ、慶長5(1600)年7月からの関ヶ原の戦いなど一連の戦いでも戦いには参戦せず、実質的な人質として江戸屋敷留守居役を勤めた。

 文禄3(1594)年6月19日、父の元安斎元宗が亡くなり、12月、元安斎の遺物である太刀を政宗に献上。政宗は書を贈って元安斎の弔いとした。

 慶長5(1600)年、徳川家康は豊臣家に謀反の疑いがあるとして、会津の上杉景勝を討つべく奥州へと出陣した。この隙を突いて、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵。徳川家康の腹心・鳥居又右衛門元忠の守る京都の伏見城を攻め落とした。伊達政宗は徳川家康に味方しており、7月、政宗は上杉領である刈田郡白石城に侵攻した。このとき、白石城主・甘粕備後守景継は会津にいたため、城代の登坂式部が守っていたが、7月24日、重宗の嫡子・亘理源五郎定宗がまっさきに城中へなだれ込んで攻め落とした。重宗が江戸屋敷にあったために代理として定宗が出陣したのだが、この功績が家康の耳に入り、定宗は江戸に呼ばれて賞された。このとき定宗二十三歳。石田三成の挙兵は失敗に終わり、斬首された。

 慶長6(1601)年3月、いまだ大坂城に参じない上杉景勝を討つべく、政宗は重宗・伊達成実にそれぞれ二百騎を与えて出陣するよう命じたが、その間に景勝の使者は駿府の家康のもとを訪れて詫びを入れたことから、この出兵は見送りとなった。

 慶長9(1604)年、重宗栗原郡高清水村に千石の隠居料を与えられて引退。末娘に茂庭又次郎(実は伊達政宗の庶子)を娶わせて亘理家を継がせた。茂庭又次郎亘理宗根を称して栗原郡佐沼邑主となり、涌谷伊達家と親密な関係を築いていくこととなる。一方、重宗の実子である亘理源五郎定宗は、慶長11(1606)年、主君の伊達政宗より「伊達」の氏と「竹雀紋」「竪三引両紋」を下賜され、伊達一門に連なった。これより、涌谷伊達家は藤原姓を称するようになる。

 慶長16(1611)年4月7日、妻の相馬氏が亡くなった。伊達家宿敵の相馬長門守義胤の妹だったが、相馬家と亘理家がその後交流を持っていたのかは定かではない。

 重宗亘理宗根に所領を譲ったのち、遠田郡下郡村に移り、元和6(1620)年正月25日、69歳で没した。法名は大運院殿月津雪航大居士


=武石家略一族系図=

~ご協力・参考文献~

坂本氏 『佐沼亘理家御系図草案』(享和2年 目々澤新右衛門)
『涌谷伊達家関係資料集』
『平姓千葉一家武石亘理分流坂本氏関係系図並びに史料』
臼井D-FF氏 長野県武石村の武石氏宝塔フォト
『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』 監修/平重道 発行/宝文堂
『亘理家譜』 『仙台叢書 第九巻』(平重道 監修 宝文堂) 所収

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