葛原親王

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葛原親王  (786-853)

御諱 高明
生没年 延暦5(786)年~仁寿3(853)年6月4日
元服 延暦17(798)年4月17日
桓武天皇(五十代)
多治比真人真宗
官位 延暦22(803)年正月:四品
大同4(809)年9月1日:三品
弘仁7(816)年正月:二品
天長8(831)年:一品
官職 延暦22(803)年正月:治部卿
大同元(806)年5月:大蔵卿
大同3(808)年正月:弾正尹
弘仁3(812)年正月:兼太宰帥
弘仁14(823)年10月:弾正尹再任
天長7(830)年正月:兼常陸太守
天長7(830)6月4日:式部卿

 桓武天皇の第五皇子。諱は高明。母は多治比真人真宗(参議・多治比長野の娘)。位は一品。官職は式部卿

 宣化天皇――上殖葉皇子――十市王――多治比王――多治比真人嶋―+―池守―――家主――――長野―+―真継
(二十八代)                  (左大臣)   |(大納言)(鋳銭長官)(参議)|(鋳銭司長官)
                                |               |
                                +―県守            +―真宗
                                 (中納言)           (桓武天皇夫人)

 延暦5(786)年、桓武天皇を父として長岡京に誕生。同年中に大伴親王、神野親王が誕生しているが、彼らは母親がいずれも当時権勢を振るっていた式家藤原氏の出身であることや、彼らがのちに即位していることから、彼らの弟と位置づけられた可能性がある。

 延暦17(798)年4月17日、十三歳のときに大伴親王(のちの淳和天皇)とともに冠を授けられて元服した『日本後紀』延暦17(798)年4月17日条

 幼いころから聡明で知られ、大陸の書物を歴覧して生活を律し、奢るところがなく人々から畏敬されていたという。式部卿に永く任じられていて、旧典に深く通じ、その知識は大変重んじられていた。輦車に乗って内裏に入ることを勅許されており、他の皇族たちとは一線を画していた親王であった。

 延暦22(803)年正月の叙任で四品に叙され、大同元(806)年5月9日、三品・伊豫親王が中務卿大宰帥に、三品・大伴親王が治部卿に、四品・葛原親王大藏卿に、三品・神野親王が弾正尹、左京大夫藤原朝臣大繼(従五位下)に典薬頭を兼ねさせ、大中臣朝臣諸人(従五位下)を伊勢介とした(『日本後紀』)

 大同3(808)年正月、弾正尹に任じられ、大同4(809)年4月24日、弾正尹四品・葛原親王と無品・仲野親王が天皇に献上品を献上し、朝廷から五位の衣を与えられ『日本後紀』大同4(809)年4月24日、同年9月1日、葛原親王は四品から三品へ昇爵した『日本後紀』大同4(809)年9月1日

 弘仁2(811)年10月5日、上野国利根郡長野牧を賜った『日本後紀』弘仁2(811)年10月6日

 弘仁3(812)年正月、太宰帥を兼ね、弘仁7(816)年正月7日、三品から二品にあげられた(『日本後紀』)

 弘仁14(823)年正月7日に長男の高棟王従四位下を授けられた。9月28日、親王は中務卿(大宰帥は兼職)に任じられた。同時に三品・萬多親王が式部卿に、三品・恒世親王が治部卿に任じられている。しかし翌29日には葛原親王中務卿を廃されて四品・佐味親王が中務卿となり、葛原親王弾正尹に再任された(太宰帥は兼任)。

 10月20日、午後十時ごろ、大蔵十四間長殿から火の手があがった。弾正尹・葛原親王も警察権の責任者ということか、現場にいち早く駆けつけた。また、右衛門督・紀朝臣百継、左大弁・直世王、右大弁・伴宿祢国道らも駆けつけて消火活動を始めた。また、左右衛府の士を東西に遣わして役人を集めて消火活動に参加させるも、なかなか消化することができずに次第に延焼し始めた。ここに勇士三十人ばかりが燃え盛る長殿の北側から屋根を昇り、湿らせた幔幕をかぶせるなどした結果、明朝にはようやく火の手は収まり、功績のあった者たちには天皇より錦が下賜された。

 天長2(825)年3月24日、親王は「臣之男女、一皆賜姓平朝臣」と、子の高棟王ら子王一皆に「平朝臣」の姓を賜るよう上表するが許されず、7月6日、再び上表してようやく許可された『日本紀略』天長2(825)年3月24日条7月6日条。親王は平朝臣姓を賜るよう願った初の人物であるが、王の身分ではその後の生活が制限されることを見越しての上表か、皇室の負担を減らす意味での臣籍降下かは不明であるが、おそらく後者であろう。

 天長5(828)年、学問に優れていた清原真人有雄(天武天皇五代の孫)を、皇族の文書管理を司る正親司に推挙し、有雄は正親佑に任じられた。

 天長6(829)年6月22日、次男の従四位下・平朝臣善棟が亡くなった『類聚国史』天長6年6月22日条

 天長7(830)年正月、常陸太守を兼ね、6月4日、式部卿に任じられた『日本紀略』天長7(830)年6月4日条

 天長8(831)年正月、淳和天皇は御豊楽殿にて叙位を行い、葛原親王に一品を授けた。

 承和2(835)年4月、「甲斐国巨麻郡馬相野空閑地五百町賜一品式部卿葛原親王」とあり、甲斐国巨麻郡馬相野(山梨県中巨摩郡白根村有野)の空閑地五百町あまりが葛原親王の御領となった(『続日本後紀』夏四月条)

 承和5(838)年正月13日、三品・仲野親王を上総太守、四品・忠良親王を常陸太守とし、葛原親王上野太守とした(式部卿は兼職)。

 承和8(841)年6月1日、葛原親王には甥にあたる仁明天皇が紫宸殿で宴をひらき、葛原親王と右大臣・源常(嵯峨天皇の皇子で、葛原親王の甥。仁明天皇の従弟)に御衣が下賜された。

 承和10(843)年5月8日、葛原親王は子の従三位大蔵卿・平朝臣高棟を朝堂に遣わして、天皇に抗表して、

「私は年を取り、もはや元気にお仕えすることはできません。老馬は傷つき疲れましたので、税駕の日を送らせていただきたい。臣は才空しいにも関わらず鍾愛くださり、位も人臣に優り、その御恩を償うこともできずにいますが、日を経るごとに老いて病がちともなり、一日中臥せって手足は痩せ衰えてしまい、もはや出仕することもできません。願わくば賜った天職をお戻しいたしたい」

 と、官の辞退を願い出たが、許されなかった。

 承和15(848)年正月13日、紫宸殿において除目があったが、葛原親王家の令であった外従五位下秦忌寸福代土佐大目を兼任した。彼がいつから葛原親王家の令を務めていたのかはわからないが、「一品葛原親王家令如故」とあることから、以前から家政を担当していたことがうかがえる(『続日本後紀』)

 嘉祥3(850)年5月18日、任官が行われ、葛原親王大宰帥に任じられた。

●嘉祥3(850)年5月18日叙位任官(『日本文徳天皇実録』)

氏名 叙位・任官 略歴
時康親王(四品)
仲野親王(二品)
賀陽親王(三品)
人康親王(四品)
本康親王(四品)
葛原親王(一品)
中務卿
式部卿
弾正尹
上総太守
上野太守
大宰帥
仁明天皇皇子。文徳天皇弟皇子。のちの光孝天皇。
桓武天皇皇子。
桓武天皇皇子。
仁明天皇皇子。文徳天皇弟皇子。
仁明天皇皇子。文徳天皇弟皇子。
桓武天皇皇子。
藤原朝臣興世(正六位上)
石川朝臣豊河(正六位上)
布勢朝臣眞吉(正六位上)
伴宿祢須賀雄(正六位上)
従五位下 南家。叔母は北家冬嗣の妻・美都子。従兄弟に藤原良房。


中臣朝臣逸志(従五位下)
藤原朝臣諸藤(従五位下)
春日臣雄繼(従五位下)
高階真人清上(従五位上)
丹治真人門成(従五位上)
丹治真人貞岑(従五位下)
坂上大宿祢淨野(正四位下)
伴宿祢成益(従四位下)
橘朝臣貞根(従五位上
源朝臣冷(従四位上)
清原真人長田(従四位下)
藤原朝臣氏宗(従四位下)
神祇大副
侍従
大学博士
弾正少弼
大和守
駿河守
相摸守(右兵衛督兼任)
丹波権守
安芸守
讃岐守
大宰大弐
右近衛中将(右中弁兼任)









仁明天皇皇子。文徳天皇弟。

 

 仁寿3(853)年6月4日、68歳で薨去『日本紀略』仁寿3(853)年6月4日条。葛原親王家は、親王の遺命に従って朝廷からの監喪・葬儀を辞退した。墓所は山城国乙訓郡円妙寺村丸山塚(乙訓郡大山崎町円明寺字葛原)と伝えられている。『日本文徳天皇実録』には薨去に際しその略歴等が詳しく掲載されており、葛原親王の人望の高さがうかがわれる『日本文徳天皇実録』

●延暦17(798)年4月17日(『日本後紀』)

四月丁卯
 
 諱淳和太上天皇及葛原親王、於殿上冠…

●大同4(809)年4月24日(『日本後紀』)

四月己亥
 
 弾正尹四品葛原親王、無品仲野親王奉献、五位已上賜衣被…

●大同4(809)年9月1日(『日本後紀』)

九月甲辰朔
 
 四品葛原親王、授三品…

●弘仁2(811)年10月5日(『日本後紀』)

十月丙寅
 
 上野国利根郡長野牧賜三品葛原親王…

●天長2(825)年3月24日(『日本紀略』)]

三月丁卯
 
 二品行弾正尹葛原親王上表、臣之男女、一皆被賜姓平朝臣不許…

●天長2(825)年7月6日(『日本紀略』)

七月丁未
 
 二品行弾正尹兼太宰帥葛原親王上表、割愛子息庶捨王号、許之…

●天長6(829)年6月22日(『類聚国史』)

六年六月庚午
 
 従四位下平朝臣善棟卒、一品葛原親王第二男也…

●天長7(830)年6月4日(『日本紀略』)

七年六月丁未
 
 任官、二品葛原親王為式部卿…

●仁寿3(853)年6月4日(『日本紀略』)

三年六月癸亥
 
 一品太宰帥葛原親王薨、桓武天皇之第三子、母夫人多治比氏、年六十八…

●仁寿3(853)年6月4日(『日本文徳天皇実録』)

三年六月癸亥

 一品大宰帥葛原親王薨、親王者、桓武天皇之第三子、嵯峨太上天皇之兄也、母夫人多治氏、延暦廿二年正月叙四品、ゝ月為治部卿、大同元年五月為大蔵卿、三年正月為弾正尹、四年九月叙三品、弘仁元年九月為式部卿、三年正月兼為大宰帥、七年正月叙二品、十四年十月更為弾正尹、天長七年正月兼為常陸太守、八月更為式部卿、八年正月叙一品、承和五年正月兼為上野太守、十一年正月兼復為常陸太守、嘉祥三年遷為大宰帥、親王少而恵了、歴覧史伝、常以古今成敗為戒、為人恭倹、不傲於物、久在式部、諳職務、凡在舊典、莫不達練、挙朝重之、勅賜輦車入宮、礼儀異諸親王、薨時年六十八、朝庭監喪、葬儀如常、王家推謝、専従倹薄、不敢違遺令也、

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