千葉胤正

千葉氏 千葉介の歴代
桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉胤正 (1141?-1203?)

生没年 永治元(1141)年4月1日?~建仁3(1203)年7月20日
下総権介平常胤
秩父太郎大夫重弘中女
官位 不明
官職 不明
所在 下総国千葉庄
法号 西岸慶宥院・常仙院殿観宥
墓所 下総国千葉郡千葉山(稲毛区園生町か)?

 千葉氏五代。父は三代・千葉介常胤。母は秩父重弘中娘。通称は太郎千葉新介のち千葉介

 永治元(1141)年4月1日生まれとされるが(『千葉大系図』)、弟・相馬師常は元久2(1205)年11月15日に六十七歳で「令端坐合掌、更不動揺」(『吾妻鏡』元久二年十一月十五日条)とあるので、師常は保延5(1139)年生まれとなる。師常が二歳の年長となるため、『千葉大系図』の記述は誤記であろう。

◎千葉・秩父・佐々木系図《■:千葉氏■:佐々木氏■:秩父氏

●平良文―忠頼―+―忠常――――常将――――常長――――常兼―――――――千葉常重――常胤    +―胤正(千葉介)
(五郎)(次郎)|(上総介) (上総権介)(上総権介)(上総権介)   (下総権介)(下総権介) |
        |                                  ∥―――――+―師常(相馬次郎)
        |                                  ∥     |
        +―秩父将常――武基――――武綱――+―重綱―――――+―重弘――+―     +―胤盛(武石三郎)
         (別当大夫)(別当)  (十郎) |(留守所惣検校)|(大夫) |       |
                          |        |     |       +―胤信(大須賀四郎)
                          |        |     |       |
                          |        |     |       +―胤通(国分五郎)
                          |        |     |       |
                          |        |     +―畠山重能  +―胤頼(東六郎大夫)
                          |        |     |(畠山庄司)
                          |        |     |  ∥      
                          |        |     |  ∥――――――重忠
                          |        |     |三浦義明娘   (次郎)
                          |        |     |         ∥    
                          |        |     |         ∥―――――重保
                          |        |     |北条時政―――+―娘      
                          |        |     |       |
                          |        |     |       +―北条義時
                          |        |     |       | 
                          |        |     |       +―娘
                          |        |     |         ∥―――――重政
                          |        |     +―小山田有重―+―稲毛重成      
                          |        |      (別当)   |   
                          |        |             +―榛谷重朝
                          |        |            
                          |        +―重隆――+―能隆――――――河越重頼―+―重房
                          |        |(惣検校)|(葛貫別当)  (惣検校) |
                          |        |     |              +―
                          |        |     +―娘            | ∥
                          |        |       ∥            |源義経
                          |        |      源義賢           |
                          |        |                    +―
                          |        |                      ∥
                          |        +―江戸重継――重長――――――忠重   下河辺政義
                          |               (太郎)    (太郎)
                          |                    
                          +―小机基家―――――河崎重家―+―中山重実 +―重助
                           (六郎)     (三大夫) |(次郎)  |
                                          |      |
                                          +―渋谷重国―+―
                                           (庄司)    ∥
                                                   ∥―――――義清
                                                   ∥    (五郎)
                                                 佐々木秀義
                                                (源三)

 頼朝には流人時代から胤正の弟・千葉六郎太夫胤頼三浦荒次郎義澄が交流を持っており、千葉介常胤と三浦大介義明は密かに頼朝に援助の手を差し伸べていたのだろう。

 治承4(1180)年8月、頼朝は平家に加担する大庭景親らと相模国足柄郡の石橋山で戦って敗れ(石橋山合戦)、真鶴より相模湾を小船で渡って安房国に逃れた。そして9月4日、頼朝は側近の藤九郎盛長を下総国千葉庄の千葉介常胤のもとに遣わした。

 常胤の邸に到着した盛長は客殿に通されると、常胤はすでに座にあって、その傍らには胤正胤頼が座っていた。常胤は盛長の言を目をつぶって眠るがごとく聞いていたが、胤正胤頼の二人は、

「武衛、興虎牙跡鎮狼唳給、縡最初有其召、服応何及予儀哉、早可被献領状之奉書」

常胤に頼朝に協力すべきことを訴えた(『吾妻鏡』治承四年九月四日条)常胤も、

「常胤之心中、領状更無異儀、令興源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所覃也」

と協力を約束。盛長を招いた酒宴が行われ、常胤は、

「当時御居所、非指要害地、又非御曩跡、速可令出相模国鎌倉給」

と、源氏の故郷でもある鎌倉を本拠地とすることを勧め、常胤も一門を率いて出迎えのために参向することを約して盛長と別れた。

 9月17日、頼朝は遅れ気味の上総介八郎広常の参上を待たずに安房国を発して、下総国の国府に参着した。一方、常胤も胤正・師常胤盛胤信胤通胤頼の六人の子と胤正の嫡子・小太郎成胤を伴い、三百余騎を率いて千葉を発し、国府において頼朝と面会を果たした。

 10月3日、胤正は父・常胤の厳命を受けて、上総国に派遣された。上総国の伊北庄司常仲は、頼朝に敵対して滅ぼされた長狭六郎常伴の外甥だった関係で頼朝から追討の対象とされたようであるが、実は常仲は頼朝に味方した上総介八郎広常の兄・権介常景の嫡子であり、この追討には少なからず広常および常胤の意向が関係しているのだろう。

 平常長―――+―平常兼――――千葉介常重―――千葉介常胤――千葉介胤正
(上総権介?)|(下総権介?)(下総権介)  (下総権介) (下総権介)
       |
       |              +―長狭常伴
       |              |(六郎)
       |              |
       |              +―娘
       |【上総権介】          ∥――――――伊北常仲
       +―相馬常晴―――平常澄―――+―伊南常景  (伊北庄司)
        (上総権介) (上総権介) |(上総権介)
                      |
                      +―平広常
                       (上総権介)

 この戦いでは葛西三郎清重も上総国に出陣していたことが、文治6(1190)年正月13日の胤正の上申に「葛西三郎清重者、殊勇士也先年上総国合戦之時、相共遂合戦」とあることからわかるが、平安時代末期にはすでに千葉氏と葛西氏は下総国の有力官人の二頭であり、一宮香取社の造営を交替で行っており、互いに交流を持っていたと推測される。

●下総香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)

名前 被下宣旨 御遷宮
台風で破損し急造
(藤原親通)
  保延3(1137)年丁巳
――――――     久寿2(1155)年乙亥
葛西三郎清基    治承元(1177)年12月9日
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑11月5日 建久8(1197)年2月16日
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子6月7日 嘉禄3(1227)年丁亥12月

 12月12日、頼朝の鎌倉における新造の屋敷が落成し、それまで住んでいた上総介八郎広常の屋敷から移ることとなった。このとき胤正は父・常胤、弟・胤頼とともに頼朝に扈従した。

●治承4(1180)年12月12日条(『吾妻鏡』)

先陣 和田小太郎義盛
駕左 加々美次郎長清
駕右 毛呂冠者季光
扈従 北条四郎時政 江間小四郎義時 足利冠者義兼 山名冠者義範 千葉介常胤
千葉太郎胤正 千葉六郎大夫胤頼 藤九郎盛長 土肥次郎実平 岡崎四郎義実
工藤庄司景光 宇佐見三郎助茂 土屋三郎宗遠 佐々木太郎定綱 佐々木三郎盛綱
後陣 畠山次郎重忠

 治承5(1181)年4月7日、頼朝は御家人の中から、とくに弓術に優れ、なおかつ頼朝への忠節深い者を選び、毎晩寝所の近くに伺候すべきことが定められた。胤正もその一人に選ばれている。

●治承5(1181)年4月7日条(『吾妻鏡』)

江間四郎義時 下河辺庄司行平 結城七郎朝光  和田次郎義茂 梶原源太景季  宇佐美平次実政
榛谷四郎重朝 葛西三郎清重 三浦十郎義連 千葉太郎胤正  八田太郎知重   

 胤正は武術と忠節とをあわせもった人物として、頼朝の信任も厚い人物だったことがうかがえる。

伊豆国 伊豆山権現 土肥弥太郎遠平
相模国 筥根権現 佐野太郎基綱
寒川神社 梶原平次景高
三浦十二天 佐原十郎義連
武蔵国 六所宮 葛西三郎清重
常陸国 鹿嶋神宮 小栗十郎重成
上総国 玉前神社 上総小権介良常
下総国 香取神宮 千葉小太郎胤正
安房国 東條寺 三浦平六義村
洲崎神社 安西三郎景益

 そして、政子の着帯のときには、嫡男の成胤とともに帯を持参、寿永元(1182)年7月12日、政子 が比企が谷の館まで移る際には弟・胤頼梶原源太景季とともに警護し、8月11日夜、政子の陣痛が始まると、頼朝は祈祷のために伊豆権現、箱根権現ならびに近国の宮に奉幣の使いを送った。このとき胤正香取神宮への使者となっている。

 頼家が生まれたのち、8月18日、父母や弟たちとともに武具を持って参上、これを祝った。

 文治元(1185)年10月24日に行われた勝長寿院供養に際しては、随兵十四人として、錚々たる御家人とともに先陣の随兵をつとめている。また、六郎胤頼は頼朝の傍近くに控えており、頼朝が勝長寿院の御堂へ昇る際にはその沓を取る役を務めている。

●文治元年勝長寿院供養に供奉した千葉一族(『吾妻鏡』文治元年十月廿四日条)

随兵(先陣) 一番 畠山次郎重忠 千葉太郎胤正
御後五位六位(布衣下括) 十三番 千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼
随兵(後陣) 七番 千葉平次常秀 梶原源太左衛門尉景季
随兵東方(弓馬達者、勝長寿院門外) 三番 千葉四郎(胤信)  三浦平六
十三番 大見平三 臼井六郎(有常)
随兵西方(弓馬達者、勝長寿院門外) 三番 比企藤次 天羽次郎(直常)

 その後、導師公顕への布施として馬三十疋が納められるが、そのうち十疋はセレモニー的に御家人が引いた。その際、千葉介常胤が足立右馬允遠元と組んで一之御馬を納め、九之御馬は千葉二郎師常が一族の印東四郎と組んで納めている。千葉一族のうちいわゆる六党の祖となった胤正・師常胤盛胤信胤通胤頼のほか、この当時では臼井太郎(常忠)、臼井六郎(有常)、臼井与一(景常)、天羽次郎(直常)、印東四郎(師胤)が独立した御家人として遇されつつも、特に千葉氏と密接に関係する存在としてたびたび名を見せている。

一之御馬 千葉介常胤 足立右馬允遠元
ニ之御馬 八田右衛門尉知家 比企藤四郎能員
三之御馬 土肥次郎実平 工藤一臈祐経
四之御馬 岡崎四郎義実 梶原平次景高
五之御馬 浅沼四郎広綱 足立十郎太郎親成
六之御馬 狩野介宗茂 中條藤次家長
七之御馬 工藤庄司景光 宇佐美三郎祐茂
八之御馬 安西三郎景益 曽我太郎祐信
九之御馬 千葉二郎師常 印東四郎(師常)
十之御馬 佐々木三郎盛綱 二宮小太郎

 勝長寿院より御所に帰還すると、頼朝は義盛・景時を召して、明日の上洛進発について軍士の着到を指示する。これは伊予守義経と備前守行家を追討するための軍勢催促であり、これに応じた群参の御家人は「常胤已下」主だったものは二千九十六人であった。このうち上洛に付き従うものは、小山朝政、結城朝光ら五十八人とされた。

 10月28日、佐竹太郎と同調した片岡八郎常春から没収した下総国三崎庄が、常胤に与えられた(『吾妻鏡』文治元年十月廿八日条)。そして翌29日、「予州・備州等」の叛逆を追討すべく、延引していた上洛の途につき、先陣は土肥次郎実平、後陣は常胤が務めた。ただし、土肥実平ら追討使が入洛するより以前に伊予守義経・前備前守行家は京都から落ちたため、11月8日、頼朝は上洛を取りやめて黄瀬川宿から鎌倉へ戻っている。

 文治3(1187)年9月27日、畠山重忠が召し捕られ、従兄弟の胤正が預かることとなった。重忠が逮捕されたのは、「太神宮神人長家綱」重忠の代官・真正が不正を働いたと訴え出たためで、重忠は子細を知らなかったと謝したが、頼朝は重忠を胤正預けとし、所領四箇所を没収した。

●文治3(1187)年9月27日条(『吾妻鏡』)

九月廿七日
畠山二郎重忠、為囚人、被召預千葉新介胤正、是依代官真正之姦曲、太神宮神人長家綱、訴申故也、代官所行、不知子細之由、雖謝申之、可被収公所領四箇所云々、

 重忠は胤正邸に預けられると、寝食を絶って身の潔白を主張。これを見た胤正は10月4日、頼朝の御所に参じて重忠の様子を頼朝に陳情した。この説得が功を奏し、頼朝も心を動かされ、重忠を厚面した。

●文治3(1187)年10月4日条(『吾妻鏡』)

十月四日
千葉新介胤正、参申云、重忠被召籠已過七箇日也、此間寝食共絶畢終、又無発言語、今朝胤正、尽詞雖勧膳、不許容、顔色漸変、世上事終思切歟之由、所見及也、早可有免許歟云々、二品頗傾動給、則以被厚免、仍胤正奔帰、相具参上、重忠、著于里見冠者義成座上、談傍輩云、浴恩之時者、先可求眼代之器量、無其仁者、不可請其地、重忠存清潔、太越傍人之由、挿自慢意之処、依真正男不義、逢恥辱畢云々、其後起座、直令下向武藏国云々

 喜んだ胤正は屋敷に「奔帰」ると重忠を伴って御所に再度参上した。頼朝と面会した記録はないが、御所に参じている以上、胤正とともに頼朝と面会し、直々に許しを得たと推測される。その後、重忠は里見冠者義成の上座に座ると、朋輩に対し、「恩を浴すの時は、まずその目代の器量を求めるべきである。その人がいないとするならば、その地を請けるべきではない。重忠は常に清廉潔白を旨としていたにもかかわらず、真正のような不義な男を目代として用い、かかる恥辱を受けてしまった」と語っている。その後座を立ち、そのまま武蔵国へ下向した。

 文治5(1189)年6月9日、胤正は父の常胤のもと、弟の師常胤信胤頼らとともに鶴岡八幡宮寺の御塔供養に参列した。

●鶴岡八幡宮御塔供養列席者(『吾妻鏡』)

導師 法橋観性
呪願 法眼円暁(若宮別当)
行事 三善隼人佐康清、梶原平三景時
先陣
随兵
小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、北条小四郎義時、武田五郎信光
御徒 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲)
御後
参列
武蔵守義信、遠江守義定、駿河守広綱、三河守範頼、相模守惟義、越後守義資、因幡守広元、豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、橘右馬允公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長
後陣
随兵
小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景

 供養ののち、錦を奉納。その後、神馬を奉納する際の引き手は下記の通り。

●神馬の引き手

一ノ馬(葦毛馬) 畠山次郎重忠、小山田四郎重朝
二ノ馬(河原毛) 工藤庄司景光、宇佐見三郎祐茂
三ノ馬(葦毛) 藤九郎盛長、渋谷次郎高重
四ノ馬(黒毛) 千葉次郎師常、千葉四郎胤信
五ノ馬(栗毛) 小山五郎宗政、下河辺六郎

 7月17日、頼朝は奥州藤原氏を討つため、兵を奥州へ出立させることを決定。軍勢を東海道、北陸道、大手の三軍に分けて出立することとした。そのうち、東海道の大将軍として千葉介常胤八田右衛門尉知家が任じられ、一族とそれぞれの任国の御家人を率いて出陣を命じられた。

 千葉介常胤は当時は鎌倉にあり、翌18日に北陸道大将軍の比企藤四郎能員も奥州に進発していることから、常胤も翌日には鎌倉を発ったと推測される。6月9日の時点で胤正と弟の師常胤信胤頼は鎌倉にいるため、彼等は父・常胤とともに下総へいったん戻り、国府を管掌していた国分五郎胤通、千葉庄の留守を守っていたであろう武石三郎胤盛と孫の小太郎成胤ほか、国内の一族郎従、御家人に催促をかけたと思われる。

 7月19日、頼朝率いる大手勢が鎌倉を出立するが(『吾妻鏡』文治五年七月十九日条)、その中に常胤とともに海道大将軍に任じられていた八田右衛門尉知家がいることから、八田知家は途中で常陸国へ向かう道をとり、常胤と合流したと思われる。そして8月12日夜、頼朝の大手勢が多賀城に入ると、常胤・八田知家は「千葉太郎胤正・同次郎師常・同三郎胤盛・同四郎胤信・同五郎胤通・同六郎大夫胤頼・同小太郎成胤・同平次常秀・八田太郎朝重・多気太郎・鹿嶋六郎・真壁六郎等」を相い具して阿武隈川を渡って多賀城に参向し、頼朝に閲した(『吾妻鏡』文治五年八月十二日条)

 その後の奥州藤原氏勢との戦いは終始優勢に進み、8月9日夜から10日にかけて行われた阿津賀志山の戦いを経て8月22日平泉へ入った。すでに平泉を逐電していた奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は抵抗を試みるも敗れ、「夷狄嶋(北海道か)」を目指して糠部郡まで遁れるが、9月3日、数代の郎従・河田次郎に裏切られて殺害された。泰衡二十五歳。

 この奥州合戦の勲功によって常胤は奥州各所の地頭職を得たと思われ、のちの奥州千葉一族の基を築いたとみられる。また、「凡そ恩を施すごとに、常胤を以って初めとなすべし」という先例もつくられた。

 しかし、頼朝が鎌倉に帰った直後、奥州藤原氏の遺臣・大河兼任率いる軍勢が反乱を起こし、奥州の御家人を統括していた葛西三郎清重からの飛脚がたびたび鎌倉に到着した。清重は平泉に検非違使所を設けて奥州の治安安定に努めていたが、大河軍が蜂起して平泉に迫っていた。このため、文治6(1190)年正月8日、頼朝の命を受けて常胤が海道、山道が比企能員の大将軍として鎌倉を出立した。ところが、その五日後の正月13日、嫡子・新介胤正が「承一方大将軍」として鎌倉を発している。これは海道大将軍が常胤から新介胤正に変更されたことを意味するが、常胤の年齢と厳冬の奥州を鑑みての頼朝の判断だったのかもしれない。胤正はこのとき、頼朝に葛西三郎清重者殊勇士也、先年上総国合戦之時、相共遂合戦、今度又可相具之由被仰含云々と頼み、頼朝も葛西清重可相伴于胤正との書状を遣わしている(『吾妻鏡』文治六年正月十三日条)

 頼朝は、清重の派遣要請に急ぎ奥州派兵を行うものの、大河勢の攻勢は激しく、文治6(1190)年正月23日、「未無下著之軍兵」と鎌倉勢が奥州へ到着する以前に葛西清重は平泉を放棄して逃れた(『吾妻鏡』文治六年二月六日条)。実は、この清重のもとには胤正の嫡子・小太郎成胤が在陣していたとみられ、成胤はこの戦いでみずから先頭に進んで活躍。この報告を聞いた頼朝は賞しながらも、「但合戦不進于先登、兮可慎身之由」との書簡を送った(『吾妻鏡』文治六年正月十五日条)。つまり小太郎成胤がこの当時、すでに奥州に地頭職を得ていたということがうかがえる。

 頼朝は2月5日、雑色真親・常清・利定・里長らを奥州に遣わして各地で戦っている鎌倉勢の検見させ、胤正をはじめとする御家人へ頼朝の戦略を伝えてさせている(『吾妻鏡』文治六年二月五日条)

「合戦大体、至歩兵等者、踏山沢尋之有其便、然者求宗敵在所可襲之、凡於今度落人等者、至郎等皆可召進之、落人相論幷就下人等事、傍輩互不可」

衣川
平泉高舘より衣川を望む

 鎌倉勢が奥州に来た事を知った大河兼任は、一万騎を率いて平泉を発って泉田に向かった。一方、鎌倉方の上総介義兼小山宗政・朝光の兄弟、葛西清重などがこれを迎え撃とうと栗原郡一迫(栗原市一迫)に向かったが、夜になってしまったために山越えができず近くの農村に駐屯した。しかし、この間に兼任の大軍は彼らの横をすり抜けて泉田に迫った。これに気づいた胤正は一軍を率いて泉田を出陣し、一迫で兼任勢を討ち散らし、さらに散り散りになった兼任勢を追撃した。こうして、2月23日、胤正・葛西清重・堀親家らは奥州平定の旨を使者に託した(『吾妻鏡』文治六年二月廿三日条)

 敗走した兼任はなおも五百騎を率いて衣川を眼前に陣を張って対抗したが敗れ、北上川を北に逃走。外浜と糠部の間にある「多宇末井之梯」の城砦に籠もった。これを追ってきた足利上総前司義兼の猛攻の前に敗れて兼任は逐電。その後、栗原郡の栗原寺に隠れた際、出達を怪しんだ「樵夫等」数十人に囲まれ、ついに斧で打ち殺された。首は胤正のもとに運ばれて首実検が行われた(『吾妻鏡』文治六年三月十日条)。こうして大河兼任の乱は平定されることとなる。

 その後、胤正は鎌倉に帰還したが、その時期は不明。頼朝は戦後処理の一環として、3月15日、伊澤左近将監家景を新しい陸奥国留守職に任じ、民政を一任している(『吾妻鏡』建久元年三月十五日条)。また、古庄左近将監能直(大友能直)と宮六傔仗国平に陸奥・出羽「両州輩」のの「忠否」ならびに「兼任伴党所領等」の注進を命じている。この注進に基づき、9月9日、頼朝は平盛時を奉行として「両州輩」の賞罰について事書を作成し、古庄能直へと遣わしている(『吾妻鏡』建久元年九月九日条)。このときすでに葛西三郎清重は鎌倉へ帰還しており、古庄能直と宮道国平が葛西清重の奉行的地位を継承していた様子がうかがえる。なお、宮道国平は「傔仗」であることから古庄能直の副官的役割を担い、おもに出羽国を担当したと推測する。

 建久元(1190)年10月3日、頼朝は上洛の途についた(『吾妻鏡』建久元年十月三日条)。去る9月15日、畠山次郎重忠が供奉のために武蔵国より鎌倉に到着。先陣隨兵については和田小太郎義盛が奉行し、後陣隨兵の奉行は梶原平三景時が任じられた。そして御厩奉行として、八田前右衛門尉知家とともに胤正の弟千葉四郎胤信が任じられた。しかし、上洛にあたってその八田知家が遅参した。頼朝は供奉人らとの打ち合わせのため、重鎮・知家の参着をかなりの時間待っており、甚だ不機嫌であった。そして昼過ぎになってようやく知家が参上。彼は行縢を着けたまま供奉人の郎従らが居並ぶ南庭を通り過ぎて沓解にて行縢を解き、頼朝の御前に参じた。

 頼朝は怒りを抑えて「懈緩の致す所也」と咎めると、知家は所労であったことを告げて詫びるとともに、先陣後陣の人選を問うている。頼朝は、先陣は畠山重忠を起用したものの、後陣の人選に苦慮していることを告げると知家は、先陣は畠山次郎重忠で然るべし、後陣については「常胤為宿老、可奉之仁也」と、千葉介常胤を推薦した。このため、頼朝は常胤を召して、子の六郎太夫胤頼、孫の平次常秀を具して後陣の最末に供奉すべきこととした。そして11月7日、頼朝は上洛を果たす。

●建久元年十一月七日頼朝上洛時の千葉一族随兵(『吾妻鏡』)

先陣随兵 五十九番 千葉新介(胤正)、氏家太郎、千葉平次(常秀)
後陣随兵 十九番 沼田太郎、志村三郎、臼井六郎(有常)
二十四番 浅羽五郎、臼井余一(景常)、天羽次郎(直常)
三十五番 高橋太郎、印東四郎(師常)、須田小太郎
後陣 千葉介(常胤)
⇒「子息親類等以為随兵」とあることから、
 千葉次郎(師常)、四郎(胤信)、五郎(胤通)、三郎次郎(胤重)は同道していると思われる

 11月9日、頼朝は後白河院の仙洞御所へ院参し、その後参内する。このときの随兵七騎の一人として「千葉新介胤正」「葛西三郎清重がみえる。頼朝はこのとき権大納言に任じられている。

 11月11日、頼朝は六條若宮と石清水八幡宮へ参詣する。このときの先陣随兵に「千葉新介胤正」「葛西三郎清重がみえ、頼朝の車の後騎として、三河守範頼以下の源氏門葉、宇都宮左衛門尉朝綱・八田右衛門尉知家の兄弟などと並んで父・千葉介常胤が列する。後陣の随兵には弟・千葉次郎師常が名を連ねる。11月29日の院参、12月1日の右大将拝賀にも「千葉新介胤正」が列し、12月14日、離京する頼朝の先陣随兵として供奉した。

 建久2(1191)年正月1日、父・常胤が沙汰する埦飯が行われ、常胤の子息・一族たちによる進物では、胤正は「御弓箭」を献じている。

●建久二年正月一日献埦飯(『吾妻鏡』)

御劒 御弓箭 御行騰、沓 砂金 鷲羽(納櫃) 御馬
千葉介常胤 新介胤正 二郎師常 三郎胤盛 六郎大夫胤頼 一、千葉四郎胤信、平次兵衛尉常秀
二、臼井太郎常忠、天羽次郎直常
三、千葉五郎胤道 、(不明)
四、寺尾大夫業遠 、(不明)
五、(不明

 11月25日、永福寺供養が行われ、頼朝の先陣随兵として「千葉新介胤正」が供奉する。また御後供奉人として、弟の「千葉大夫胤頼」が列する。

 建久5(1194)年2月2日の「江間殿嫡男 童名金剛」の元服の儀が御所西侍で執り行われた。このとき、胤正は父・千葉介常胤大須賀四郎通信(胤信であろう)とともに参列している。8月8日、頼朝の相模国日向山参詣に、弟の千葉六郎大夫胤頼とともに「御後」として供奉した。

 建久6(1195)年2月2日、頼朝は上洛行の路地の沙汰を命じ、2月14日、畠山重忠を先陣に鎌倉を発した。今回の上洛は東大寺供養への参列が目的であった。3月4日、上洛を果たした頼朝は、六波羅邸に入御した。そして五日後の3月9日、奈良東大寺へ向けて出発した。このときの「先陣六騎」の二番に「千葉新介胤正」葛西兵衛尉清重と並んで列する。一行は翌日、奈良南東院へ到着。ここで参列にあたって再編が行われ、後陣に「千葉新介胤正」が数百騎の郎従を率いて列する。

●建久六年東大寺参詣供奉人交名に見える千葉一族(『吾妻鏡』建久六年三月十日条)

車前隨兵(三騎相並ぶ) 二十七番 糟屋藤太兵衛尉 臼井六郎(有常) 中澤兵衛尉
二十九番 印東四郎(師常) 牧武者所 多胡宗太
三十番 土肥七郎 本間右馬允 天羽次郎(直胤)
三十一番 千葉次郎(師常) 広澤与三 梶原刑部丞
三十二番 和田三郎 河内五郎 千葉六郎大夫(胤頼)
三十四番 曽祢太郎 境平次兵衛尉(常秀) 山内刑部丞
車後隨兵(三騎相並ぶ) 二十八番 多々良七郎 臼井与一(景常) 長門江七
三十七番 伊東三郎 千葉四郎(胤信) 志賀七郎
三十九番 千葉五郎(胤通) 加世次郎 大屋中三
後陣(郎従数百騎)   梶原平三景時 千葉新介(胤正)  

 建久8(1197)年3月23日、頼朝が信濃国善光寺へ参詣した際、先陣の随兵に胤正の弟「千葉次郎(師常)」が加わり、後陣の隨兵として「千葉新介(胤正)」と次男の「千葉平次兵衛尉(常秀)」扈従した(『相良家文書』:「大日本古文書 家わけ五」)

●建久8(1197)年3月23日『右大将家善光寺御参隨兵日記』(『相良家文書』所収)

 
 (前略) 
 隨兵
    先陣
 
 佐原十郎左衛門尉(佐原義連) 長江四郎(長江明義)
 千葉次郎(相馬師常)     和田次郎(和田義茂)
 武田兵衛尉(武田有義)    平井四郎
 
 (中略)
 
    後陣
 千葉新介(千葉胤正)     葛西兵衛尉(葛西清重)
 北条五郎(北条時連、のち時房)佐々木五郎(佐々木義清)
 千葉平次兵衛尉(千葉常秀)  梶原刑部兵衛尉(梶原景定)
 八田太郎左衛門尉(八田朝重) 江戸太郎(江戸重長)
 
 (後略)

 建久10(1199)年10月27日、梶原景時の弾劾状には六十六名の宿老に名を連ね、正治2(1200)年2月26日に頼家の鶴岡八幡宮社参に供奉している。

●建久10(1199)年10月27日『梶原景時弾劾状署名宿老六十六名』(『吾妻鏡』:『全訳吾妻鏡』所収)

千葉介常胤 三浦介義澄 千葉太郎胤正 三浦兵衛尉義村 畠山次郎重忠 小山左衛門尉朝政 小山七郎朝光 足立左衛門尉遠元 和田左衛門尉義盛 和田兵衛尉常盛 比企右衛門尉能員 所右衛門尉朝光 二階堂民部丞行光 葛西兵衛尉清重 八田左衛門尉知重 波多野小次郎忠綱 大井次郎実久 若狭兵衛尉忠季 渋谷次郎高重 山内刑部丞経俊 宇都宮弥三郎頼綱 榛谷四郎重朝 安達九郎盛長入道 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道 稲毛三郎重成入道 足立藤九郎景盛 岡崎四郎義実入道 土屋次郎義清 東平太重胤 土肥先次郎惟光 河野四郎通信 曾我小太郎祐綱 二宮四郎 長江四郎明義 毛呂二郎季綱 天野民部丞遠景入道 工藤小次郎行光 中原右京進仲業 小山五郎宗政 他27名 

 建仁元(1201)年3月24日、父・常胤が八十四歳で世を去った(『吾妻鏡』建仁元年三月廿四日条)。胤正はこれ以前に家督を譲られていたかどうかは不明である。しかし、これ以前に「下総権介」は譲られており「千葉新介」を称していた。

 建仁3(1203)年7月20日に亡くなったという。享年六十三と伝わる。法名は西岸慶宥院・常仙院殿観宥


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