千葉常重

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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平常重(1083?-1180?)

生没年 永保3(1083)年3月29日?~治承4(1180)年5月3日?
別名 経繁(『下総権介平朝臣経繁寄進状』)
千葉次郎大夫常兼
鳥海三郎大夫忠衡女
官位 正六位上⇒従五位下
荘官 千葉庄検非違所を継承?
官職(官人) 下総権介
官職(在庁) 相馬郡司:天治元(1124)年10月~保延2(1136)年7月?
所在 下総国千葉庄
法号 善応宥照院
墓所 阿毘廬山大日寺?

 千葉氏四代。通称は千葉大夫大権介(『桓武平氏諸流系図』『徳島本千葉系図』『源平闘諍録』)。父は千葉次郎大夫常兼。母は鳥海三郎大夫忠衡女(『桓武平氏諸流系図』)。官位は正六位上(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』)、のち従五位下(『吾妻鏡』建仁元年三月二十四日条)。官人としては下総権介、在庁としては相馬郡司。荘官としては千葉庄検非違所。永保3(1083)年3月29日誕生と伝えられる(『千葉大系図』)

 常重の「下総権介」が除目による本任か国司による任用かは不明だが、受領による任用は掾・目に限られていた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。ただし、祭祀や儀式、そして「辺境という特殊性を前提とする」場合等には、国司は「介」以下の任用国司を「推薦」することもできた(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。この際には、国司が「誰かによる口入を経たうえで、年給の枠を持つ、より地位の高い有力者に推薦を依頼する必要」があったとされる(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)。下総平氏が独占して代々「下総権介」に就いていた理由は、承平の乱や長元の乱といった大規模な騒乱のあった関東の治安の要として、当国に「一定の関係を持ち、地縁から現地において重要な役割を果たしうる存在として、歴代の受領から権介への就任を求められ続けた」(渡辺滋「平安時代における任用国司」-受領の推薦権を中心に-『続日本紀研究』第401号)可能性もあろう。

 ただ、常陸平氏の多気権守清幹も、久安4(1148)年正月28日の除目で「肥前権守従五位下平清幹 臨時内給、下名加(『本朝世紀』)と見えるように、地方の武士も大番等の功により除目による権守補任がみられることから、常重も除目による補任である可能性もある。

「大椎介」「大椎権介」は「大権介」の誤記

 千葉氏はもともと上総国大椎に本拠を構え、大治元(1126)年6月に千葉へと移ったという伝承がある。これは「伝承」という文化面で語られる上では問題ないが、「史実」として検討を要する面で語られるのは大変な問題を含む。

 常重はもともと上総国大椎を本拠として「大椎介」「大椎権介」を称したとされるが、大椎に平安期に遡る史跡はいまだ発見されず、中世城郭の大椎城は室町期以降のものであって、常重が住した痕跡は残されていない。千葉氏の記載がある系譜で比較的古いものとしては、鎌倉期成立とみられる『桓武平氏諸流系図』および鎌倉期に肥前国小城に渡った千葉家系譜の写本『徳島本千葉系図』があるが、常重の項目については、

 『桓武平氏諸流系図』:「大介」
 『徳島本千葉系図』 :「大介」

とある。「権」「椎」の行書体は非常に似通っており「大権介」「大椎介」は同じことを指していると考えられる。古い千葉家の伝をも取り込んでいる平家物語異本『源平闘諍録』にも「大権介」とみえることから、「大権介」が本来の記載であったと推測できる。また『桓武平氏諸流系図』には常重の子・常胤についても「大千葉介」(『源平闘諍録』では千葉大介)とあることから、これらの「大」は子孫が敬称として両者に対して「大」という敬称を捧げて尊んだと考えられよう。つまり、常重は「大椎介」ではなく、後世に系譜上「大権介」と記されたのであって、常重と上総国大椎とは何ら関係がない可能性が非常に高い

 『千学集抜粋』に見られる「大椎権介」は、おそらく鎌倉時代中期までに「権」が「椎」と誤写された系譜が作成され、室町期にその系統の系譜を引用した『(原)千学集』が成立。さらに、写本の際に校正者(写者)による「椎⇒権」字の註記が記載された系統を引く写本が、抄本『千学集抜粋』として残り、「大椎権介」の誤伝が遺されたのではなかろうか。

 そもそも、元永年中(1118-19)には千葉介成胤の祖である「千葉大夫」が千葉庄の荘官を務めており、承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」についての調査が行われた際に成胤は、

「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間」

と言っている(『吾妻鏡』承元三年十二月十五日条)。常重が大椎から移ったとされる大治元(1126)年6月の時点で、千葉郷はすでに鳥羽院に寄進されて「千葉庄」が立荘していたことになる。大治元年6月の千葉移住という具体的な年月は、常重が叔父・相馬五郎常晴から相馬郡を譲られた天治元年6月をもとにつくられた伝承であろう。

 この「千葉大夫」は『千葉大系図』をはじめ諸系譜で常兼の事とされており、時代的にも妥当である。つまり、常重の父・常兼の代にはすでに千葉郷を寄進地とするほど開発しており、おそらく本拠と定めていたと思われる。千葉郷は現在の千葉市中央区千葉寺付近を中心に池田郷(中央区院内から亥鼻町)を北限とする郷であった。そして、千葉寺が千葉郷の宗教的中心を担っていたことを考えると、千葉氏はこの千葉寺周辺に館を構えていた可能性が高いだろう。亥鼻はおそらく池田郷に含まれていることから、少なくとも初期千葉氏の館ではありえない。

 常重は千葉郷の開発を進め、その開発エリアは東は多部田(若葉区多部田町)、南は椎名(緑区おゆみ野)にまで広がっており、広大な私領開発を行ったことがわかる。

相馬郡司職への就任

 父で千葉庄の荘官であった千葉次郎大夫常兼は私領を配分した後に亡くなり、常重は叔父の五郎常晴の養子となり、天治元(1124)年6月に相馬郡を継承した。常兼のあと、下総権介となったのは、おそらく常兼の弟で常兼の子とされた「海上余一介常衡」であろう。

●『桓武平氏諸流系図』(中条家文書)

 千葉常永―+―千葉恒家
(千葉大夫)|
      |       
      +―千葉恒兼―――+―千葉常平
       (千葉次郎大夫)|(余一介)
               |
               +―千葉常重――千葉常胤
               |(大権介) (大千葉介
               |
               +―相馬常晴
                  恒兼為子実弟也

●『徳嶋本千葉系図』

 千葉常長――+―千葉常兼――+―海上常衡
(千葉介)  |(千葉介)  |(与一介)
       |       |
       +―千葉常房  +―千葉常重――千葉常胤
       |(鴨根三郎)  (大椎介) (千葉介)
       |
       +=常衡
       |(与一平、実常兼子)
       |
       +―相馬常晴
        (上総介)

 常重が継承した相馬郡は「先祖相伝領地」であり(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鏑矢伊勢宮方記』:『千葉県史料』中世編))、代々「地主職」として開発した地であった。相馬郡を譲った常晴は兄・千葉三郎常房(鴨根三郎常房)の旧領であった上総国夷隅郡内の私領を継承し、上総介平氏の礎を築くこととなる。

 相馬五郎常晴は父・千葉大夫常長より相馬郡を継承した際、相馬郡内の「布瀬墨埼」(柏市布施~我孫子市我孫子周辺か)両郷を別符の地として国司に訴えて「国役不輸之地」とした。このとき作成された「国司庁宣 布瀬墨埼為別符時免除雑公事案」(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))、大治5(1130)年に常重からの伊勢寄進時に提出されたものだろう。

 なお、常兼の後、弟の常晴が家督を継いだともされるが、その基礎となる『平朝臣常胤寄進状』の記述は、あくまで「相馬郡の継承」についてのものであり、両総平氏の相続についてではない。つまり常晴が「惣領」として常兼跡を継承した根拠とはならない。

■久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『鎌倉遺文』)

……其男常重、而経兼五良弟常晴、相承之当初為国役不輸之地、令進退(領)掌之時、立常重於養子、天治元年六月所譲与彼郡也、随即可令知行郡務之由、同年十月賜国判之後、……

 その後、常重「為仰神威、定永地」という祈念のもと、大治5(1130)年6月11日、「相馬郡布施郷(布瀬郷)」「貢進太神宮御領」した(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。この寄進時に「相馬郡布瀬郷証文等事」を都合五通注進している。常重によるこの寄進は三通目に記載のある「前大蔵卿」の死去に伴うものと思われる。

 一枚 布瀬郷内保村田畠在家海船等注文
 一枚 国司庁宣 布瀬墨埼為別符時、免除雑公事案
 一枚 前大蔵卿殿、布瀬墨崎御厨知時、下総守被仰下消息案、在并其返事等、
 二通 同大蔵殿仰書消息等

 四通目、「前大蔵卿殿」が「布瀬墨崎御厨」を「知時」とあることから、「前大蔵卿殿」は常重の養父となった相馬五郎常晴から「布瀬墨崎郷」の寄進を受けて領家となったと思われる。ただし、最終的に「布瀬墨崎御厨」であることから、「前大蔵卿殿」から神宮へ再寄進(神宮は本家)されたことになろう。「前大蔵卿殿」について具体的な名前はないが、承保2(1075)年から大治5(1130)年までの大蔵卿は、以下の通り。

■歴代の大蔵卿(『公卿補任』)

大蔵卿の姓名 就任期間 大蔵卿辞後
藤原長房 承保2(1075)年6月~寛治6(1092)年9月7日 播磨権守兼大宰大弐
藤原通俊 寛治6(1092)年9月7日~寛治8(1094)年 治部卿
源道良 寛治8(1094)年~天永2(1111)年4月24日 死亡
大江匡房 天永2(1111)年7月29日~天永2(1111)年11月5日 死亡
藤原為房 天永3(1112)年正月26日~永久3(1115)年4月2日(4月1日出家) 出家、翌日死亡
藤原長忠 永久3(1115)年8月13日~大治4(1129)年11月3日(10月5日出家) 出家、まもなく死亡
源師隆 大治4(1129)年~長承3(1134)年  

 常重が証文を提出した大治5(1130)年6月当時の大蔵卿は源師隆で、その前は藤原長忠である。長忠は永久3(1115)年から大蔵卿であり、相馬常晴が「布瀬墨崎郷」を寄進した時期と矛盾はない。また、常重が証文を提出した半年前の大治4(1129)年10月5日に大蔵卿を辞しており、常重の証文中に見える「前大蔵卿」は長忠で間違いないだろう。長忠は辞任の約一月後の11月3日に薨じた。

 おそらく常重は、領家・藤原長忠の薨去を知ると、散位源朝臣友定口入人として、大治5(1130)年6月11日、皇太神宮権禰宜荒木田神主延明(稲木大夫)をあらたな領家とし、布瀬(布施)郷の寄進を図ったのだろう。ただし、寄進についての『注進状』は「布瀬郷内保村」のみであって「墨埼郷」の注進はない。墨埼郷はこの再寄進時には対象にしなかったのだろう。

 寄進状と別添証文などの附嘱状は散位源友定を通じて口入神主・荒木田神主延明へと渡され、8月22日、延明から禰宜荒木田神主元親へ請文を提出。開発田数に任せて地利上分・土産物等の上納が示され、寄進が成立した。これにより常重とその子孫は「得分」として「加地子」を取る権利を得た。

 10月、国衙から「随即可令知行郡務之由」の国判を受けて「相馬郡司」となった(大治五年六月十一日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))。同時に地主職も継承したのだろう。12月、「領使権守藤原朝臣」の「国司庁宣」によって「相馬郡司(常重)」の寄進は公式に認められた。寄進条件は、毎年「供祭料」として「地利上分(田:段別一斗五升、畠:段別五升)」と「土産物(雉佰鳥、鹽曳鮭佰尺)」を口入神主「権禰宜荒木田神主延明」と内宮の「一禰宜荒木田神主元親」に納めることであった。

■相馬御厨の寄進条件の貢納品

供祭料 地利上分 田:段別1斗5升
畠:段別5升
土産物   雉:100羽
塩曳鮭:100尾

■相馬郡布施郷=常重が寄進して成立した布施御厨:大治5(1130)年6月11日寄進

 1.限東…蚊虻境(取手市小文間)
 2.限南…志古多谷并手下水海(柏市篠籠田、手賀沼)
 3.限西…廻谷并東大路(野田市木野崎)
 4.限北…小阿高、衣河流(筑波郡伊奈町足高、小貝川)

■「布施御厨」の支配構造

【本家】      【領家】       【預所】    【下司・地主職】
一禰宜荒木田元親―――権禰宜荒木田延明―――散位源友定―――下総権介平常重
(皇太神宮)    (口入神主)     (口入人)

※荒木田元親には「供祭料」の半分が上納され、半分は荒木田延明が得る。
※常重は「加持子」を得る権利が設定。

 ところで、寄進状では「但至于田畠所当官物者、令進退当時領主給」としているように(大治五年六月十一日『正六位上行下総権介平朝臣経繁解申永奉附属所領地事』)、本来国衙に納めるべき得分以外の「田畠所当官物」を「当時領主」への給分と定めたことがわかる。この寄進時においては相馬御厨の「田畠所当官物」は「当時領主」の皇太神宮(実質的には一禰宜荒木田元親、権禰宜荒木田延明)の「進退」となり、「田畠所当官物」も「地利上分」に充当されたとみられる(村川幸三郎『古代末期の「村」と在地領主制』)

相馬御厨
布施郷(西)・立花郷(東)の大体の位置

 この常重の相馬御厨の「所当官物」を「地利上分」に含めることは、のち常胤が出した寄進状にも記載されていることから、国衙より認められていたものと思われるが、そのほかの国衙領など公領においても行われていたとみられ、保延2(1136)年にその未進が発覚し、7月15日「国司藤原朝臣親通」によって常重「有公田官物未進」の罪で拘束された(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。そして「旬月」ののち、追徴分として「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」が賦課されるが、常重はこれを納められないまま「妄企牢籠」させられ、国司親通は11月13日、庁目代・散位紀季経に指示をして「押書相馬立花両郷之新券恣責取署判」した(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)。これは「依官物屓累譲国司藤原親通」(永暦二年正月『正六位上前左兵衛少尉源義宗寄進状』)「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)とあることから官物未納の代償であったことがわかる。前年に常胤に譲った「地主職」を悔い返す形で弁済を明記した新券が作られ、署判させられたのだろう。

 国司親通が新券を作らせて署判を責め取ったのは、おそらく布施郷と推測されるが、常重が大治5(1130)年に寄進した「布施郷」は南端が「志古多谷并手下水海」、源義朝が康治2(1143)年に常重から「責取」り、天養2(1145)年に寄進した地域の「管相馬郡」の「相伝領知」の南端は「蘭沾上大路」であった。そのほかの寄進状に見られる「小野上大路」「坂東大路」も同一の官道(大路)を指しているとみられ、おそらくかつての「蘭沼」の南崖上(柏市布施)を東西に走り、古代には「於賦駅(我孫子市新木)が置かれ、相馬郡衙へも通じていた官道(現在の国道356号と一部重なるか)を南端とする一帯であろう。

-千田庄藤原氏家系図-

 藤原師輔―+―兼家――+―道綱  +―伊周                 +―親頼――+―親長      +―親長――――+―宣親
(関白)  |(関白) |(右大将)|(内大臣)               |(右馬助)|(皇嘉門院判官代)|(皇太后宮亮)|(日向守)
      |     |     |                    |     |         |       |
      |     +―道隆――+―隆家                 |     +―親能――――――+―親光    +―忠能
      |     |(関白)  (太宰権帥)              |      (散位)              (律師)
      |     |                          |
      |     +―道長――――頼通―――師実―――…        +―親方(源?)―――――二条院内侍
      |      (関白)  (関白) (関白)           |(下総守)        |
      |                                |             ↓
      +―為光――――公信――――保家―――公基―――伊信―――親通――+―親盛―――+=====二条院内侍
       (太政大臣)(権中納言)(春宮亮)(周防守)(長門守)(下総守)|(下総大夫)|         ∥
                                       |      |         ∥
                                       |      |         ∥――――資盛
                                       |      |         ∥   (右少将)
                                       |      | +―平清盛―――重盛 
                                       |      | |(太政大臣)(内大臣)
                                       |      | |
                                       |      | +―娘     +―功徳院快雅
                                       |      |   ∥     |(功徳院僧正)
                                       |      |   ∥     |
                                       |      +―千田親雅――――+―聖円
                                       |      |(皇嘉門院判官代) (権律師)
                                       |      |
                                       |      +―盛光
                                       |      |(筑前権守)
                                       |      |
                                       |      +―盛保
                                       |      |(散位)
                                       |      |
                                       |      +―顕盛==日野邦俊――邦行―――種範―――俊基
                                       |      |    (彈正少弼)(大学頭)(治部卿)(少納言)
                                       |      |
                                       |      +―円玄
                                       |      |(法橋)
                                       |      |
                                       |      +―弁然
                                       |       
                                       |     
                                       +―承元―――+―承長
                                       |      |
                                       |      |
                                       +―円空   +―覚経
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                                       |
                                       +―忠顕
                                        (阿闍梨)

年月日 東端 南端 西端 北端 文書
前身 天治元(1124)年10月
~大治4(1129)年
不明 不明 不明 不明 布瀬墨埼御厨
『下総権介平経繁布瀬郷文書注進状写』
1 大治5(1130)年
6月11日
蚊虻境 志子多谷并手下水海 廻谷并東大路 小阿高并衣河流 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』
2 天養2(1145)年
3月
須渡河江口 藺沽上大路 繞谷并目吹岑 阿太加并絹河 『源義朝寄進状写』
3 久安2(1146)年
8月10日
逆川口・笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川・常陸国境 『平朝臣常胤寄進状写』
4 永暦2(1161)年
正月日
常陸国堺 坂東大路 葛餝・幸嶋両郡堺 絹河・常陸国境 『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』
5 永暦2(1161)年
2月27日
逆川口・笠貫江 小野上大路 下川辺境并木崎廻谷 衣川・常陸国境 『下総権介平常胤解案写』

 常重は拘禁させられたと同時に、おそらく国司親通から相馬郡司職も罷免されたのだろう。その事件を早くも察したのが、上総国夷隅郡に居たと思われる常澄」であった。上総権介常澄は常重を養子に迎えて相馬郡を譲った「相馬五郎常晴」の実子で常重への相馬郡継承に反発していたと見られる。常澄のもとで養育されていた「源義朝朝臣」「常時男常澄之浮言」を理由に相馬郡に介入しているが(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、常重が拘禁された保延2(1136)年当時、義朝はまだ十四歳であることから、実際は常澄が義朝を利用して相馬「郡」の奪取(=相馬郡司)を目論んだと思われる。常澄が相馬郡司になったという伝は残されていないが、常澄の九男・九郎常清は「相馬」姓であることから、常清が一時的にせよ国司親通から「相馬郡司」に任じられた可能性もあろう。

源義朝と相馬御厨

 康治2(1143)年、二十一歳になった源義朝は「自常重之手」から「責取圧状之文」った。実は康治2(1143)年正月27日の除目で「従五位下源親方」「前司親通進衛料物功」「下総守」となり、「従五位下大江元重」「下総介」となっている(『本朝世紀』康治二年正月廿七日条)。義朝が常重から相馬郷に関する避状を圧し取ったのは、国司の交代がきっかけの可能性が高いだろう。なお、康治2(1143)年以降、常重は姿を消して子・常胤が現れており、圧状を責め取られた時点で隠退している可能性があろう。『吾妻鏡』では常重は「従五位下行下総介」とされており、この時期にはすでに叙爵していたとみられる。跡を継いだ常胤はその後しばらく「下総権介」ではないため、任官されなかったのであろう。

  親通の後継国司となった「源親方」は親通の子「従五位下下総守 親方」(『尊卑分脈』)と同一人物とされる。親通は保延4(1138)年11月6日、「守藤原朝臣親通募重任功、造進彼社(香取大神宮)」によって重任しており(「安芸国厳島社神主佐伯景弘解」『広島県市古代中世資料編Ⅱ』)、親通―親方という親子での継承だったことがわかる。親族で国司が継承される場合は姓を改めて記載される例があるという(野口実『中世東国武士団の研究』高科書店 1994年)。また、源姓の人物の猶子になっていた可能性はなかろうか。その源氏が永暦元(1160)年頃に親通の「次男親盛」(『尊卑分脈』では次男は親方で親盛は三男)から相馬郷の新券を継承したと主張した「前左兵衛少尉源義宗」の出身家なのかもしれない。源義宗は源頼清(源頼義弟)の子孫で、上野冠者宗信の子である(佐々木紀一「『平家物語』の中の佐竹氏関係記事について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』44))。宗信の曽祖父(頼清の子)源家宗は関白師実・師通に仕え、承暦2(1078)年に上野介となって任国に赴任し、応徳元(1084)年4月11日までの在任が確認できる(『後二条師通記』応徳元年四月十一日条)

 源頼信―+―源頼義――源義家――源為義―――源義朝――――源頼朝
(伊予守)|(陸奥守)(陸奥守)(検非違使)(下野守)  (右兵衛権佐)
     |                      
     |                      +=源義宗
     |                      |(判官代)
     |                      |
     +―源頼清――源家宗――源家俊―+―源重俊――+―源宗信―――源義宗〔恐與上文重俊子義宗同人〕
      (陸奥守)(美作守)(左馬助)|(左衛門尉) (上野冠者)(高松院判官代)
                     |
                     +―源俊宗――――源義宗〔為重俊子〕

 義朝は相馬郷を常重から「掠領」したが、常重が大治5(1130)年に布施郷を神宮へ寄進した際の口入神官・荒木田神官延明が「沙汰」したことで(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)、義朝は天養2(1145)年3月11日、「為募太神宮御威、限永代所寄進也」(天養二年三月十一日『源某寄進状』)「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)とある通り、神宮へ寄進することとなる。

烏森神社(鵠沼神明社)
鵠沼神明社(伊介神社)

 義朝が寄進した理由は「自神宮御勘発候之日、永可為太神宮御厨之由、被令進避文候畢者」(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)とあることから、義朝が神宮の怒りを買っていた様子がうかがわれる。これは、前年の天養元(1144)年9月、「上総曹司源義朝」らが相模国大庭御厨で濫妨を働いたたためだろう。この濫妨で御厨内「伊介神社」の祝であった荒木田彦松が殴殺されており、相馬御厨領主で彦松とは同族であろう内宮禰宜荒木田一族は怒り、荒木田神主延明が義朝に何らかの「沙汰」をしたと思われる。義朝は朝廷の譴責の対象となっており、翌天養2(1145)年3月4日に御厨に対する濫妨停止を相模国司に出したことを知らせる宣旨が「伊勢大神宮司」へ出されている(天養二年三月四日『宣旨案』:『天養記』)

 この義朝の相馬郷寄進を知った(おそらく荒木田延明または明盛からの報告であろう)常胤は、父・常重が「弁済」として作成した相馬郷・立花郷の「新券」を取り戻すべく、久安2(1146)年4月、「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国庫に「進済」した。

●保延2(1136)年・常重未進の追徴分
(貢納されず)
①准白布:726段2丈5尺5寸
●久安2(1146)年・常胤進済の貢納分 ①上品八丈絹:30疋
②下品:70疋
③縫衣:12領
④砂金:32両
⑤藍摺布上品:30段
⑥中品:50段
⑦上馬:2疋
⑧鞍置駄:30疋

 これにより、久安2(1146)年4月、常胤は「国判」を以て正式に「相馬郡司職」に還任され、「可令知行郡務」とした。このとき「其中一紙先券之内、被拘留立花郷壱處許之故、所不被返与件新券也」(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収))とあることから、常重が保延2(1136)年に国司藤原親通に「相馬立花弐箇處私領辨進之由、押書新券」(永万二年六月十八日『荒木田明盛和与状写』)のうち、相馬郷の「新券」は返与されたことがわかる。なお、相馬郷と同じく親通に弁済された「立花郷壱處許」は国衙に留め置かれて「所不被返与件新券」とある通り返与されなかった。

伊勢内宮
伊勢内宮

 なお、この時点ですでに「御厨下司」とあるが、これは「常重契状」に「下司職者以経重子孫」(大治五年十二月『下総国司庁宣写』)などの一文が入っていたためと思われる。それに基づき、4月の「進済」と「相馬郡司」の補任から7月までの間に内宮との間で細かい取り決めが済んだとみられ、寄進日付で、加地子・下司職常胤の子孫に相伝され、「預所職」「本宮御牒使清尚」の子孫に相承されるべきこと寄進条件が追加された正式な寄進状が作成された(久安二年八月十日『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状写』)

 なお、常重は康治2(1143)年までの存命は確認できるが、久安2(1146)年には子・常胤が常重に代わって「相馬郡司」に任じられ、「親父常重」の契状に基づいて「(常重子孫が継承する)御厨下司」になっていることから、常重は康治2(1143)年以降に亡くなったと推測される。

 『千葉大系図』によれば、治承4(1180)年5月3日、千葉猪鼻城で九十八歳の長寿を全うしたとあるが、永暦2(1161)年4月1日の常胤の申状内に「仍親父当国介常重存日」とある(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)ことから、常重は永暦2(1161)年にはすでに亡くなっていることがわかる。法名は善応宥照院

■大治5(1130)年6月11日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)

 正六位上行下総権介平朝臣経繁解申寄進私領地壹處事

   在下総国相馬郡布施郷
   四至 限東蚊虻境 限南志子多谷并手下水海
      限西廻谷并東大路 限北小阿高衣川流

  右件地 経繁之相伝私領也 進退領掌敢無他妨 爰為募神威
  任傍例永所寄進於伊勢皇太神宮如件 但権禰宜荒木田神主延明為口入神主
  於供祭物者 毎年以田畠地利上分并土産鮭等 可令備進 至于下司之職者
  以経繁之子孫 無相違可令相伝也 仍勒事状以解

       大治五年六月十一日 正六位上行下総権介平朝臣経繁
   (経繁判)

   就寄文案内 以私地貢進神宮 致供祭之勤 先蹤多存
   然則任起請旨 為御厨 以毎年田畠地利上分并土産物等、
   可令備進供 祭御贄之件 如件
      寄文参通 内一通留宮庁 二通返領并口入神主等之

 禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 元親
 禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同経仲
 禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同元定
 禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同忠延
 禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同隆範
 禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同忠良


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