千葉重胤

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(????-????)
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千葉重胤
(1576-1633)
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千葉重胤 (1576-1633)

生没年 天正4(1576)年正月1日~寛永10(1633)年6月16日
幼名 千鶴丸
亀王丸
亀若丸
千葉介邦胤
ひがし(新田岩松満治郎守純姉)
 
官位 不明
官職 不明
役職 不明
所在 下総国印旛郡佐倉
法名 仁性院殿光常真覚大禅定門
墓所 日輪寺(位牌所。神田山日輪寺?)
海上山海隣寺(遺骨を埋葬)

 千葉氏二十六代。千葉介邦胤の嫡男で、母はひがし(新田岩松満治郎守純姉)。幼名は千鶴丸亀王丸、亀若丸。法名は長胤とされるが、これは鏑木権太郎長胤の名と混同していると伝わる。天正13(1585)年、父・邦胤が暗殺されたために、わずか10歳で千葉新介となった。重胤「重」はおそらく北条氏政の七男で千葉家を継いだ千葉七郎直重の一字を受けたものか。

 佐倉城には原豊前守胤長・原大蔵丞邦長父子が家老として宗家を支え、常陸との国境・森山城には、原若狭守親幹・原大炊助邦房父子が入ってそれぞれ守っていた。

所領
戦国末期の下総国

 天正14(1585)年、小田原北条氏の当主・北条氏直の舅である徳川家康が上洛して関白・豊臣秀吉に臣下の礼を取り、さらに秀吉が発布した「関東惣無事令」を受け、北条氏は秀吉への礼のために上洛をちらつかせながら、一方で領内の結束を固めるために支配下にある諸豪族たちから人質を強制した。

 千葉家内では、森山城主の原若狭守親幹が北条氏に人質を送ることを強硬に反対していたが、天正13年中についに屈服し、出家を遂げた。こうして事実上千葉家を家臣化した北条氏は、佐倉鹿島城千葉介邦胤の娘と北条七郎直重(北条氏政の七男)の婚姻をすすめて、直重を千葉家の家督を継承させる計画をたてた。

 天正16(1588)年、北条氏邦の部将・猪俣能登守邦範が豊臣秀吉の属将・真田安房守昌幸の支城である名胡桃城を攻略して秀吉の「惣無事令」を破ったことから、秀吉と北条氏の決裂は決定的なものとなった。しかし、北条氏政・氏直がたのみとしていた氏直の舅・徳川家康は、北条氏の行為を不埒千万とののしった上で北条氏直に嫁がせてあった娘・督姫を離縁させ、北条氏との関係を断絶してしまった。そればかりか、家康は豊臣勢の先鋒として関東に攻め入ってきた。

 家康は天正17(1589)年4月、重胤に宛てて「今四海悉く秀吉の麾下に帰せり、顧ふに夫れ、重胤は北條の姻家たりと雖も、時運を察して家を全うするの計略なくんばあるべからず」との密使を遣るものの、千葉家内の主導権は親北条派の原氏・木内氏らに握られており、千葉家は家康の誘いを断ってしまった。小田原に入っていた下総衆の主だった大将として伝わっている人物は、千葉刑部少輔清胤(千葉介胤富の子)、東下総守直胤(下総東氏当主)らで、小田原城の南側に位置する湯本口の守衛を任されていたという。

 そして8月には北条氏と千葉氏奏者の原大炊助邦房の協力によって亡き千葉介邦胤の娘婿となっていた北条七郎直重(北条氏政七男)が千葉家の家督を継承していた。名実ともに北条氏は千葉家を乗っ取ったことになる。

 このような中の天正17(1589)年12月5日、臼井城主で千葉宗家に重きをなしていた原式部太夫胤栄が三十九歳の若さで亡くなった(『本土寺過去帳』)。臼井城には胤栄の嫡男・原吉丸がいたが、わずか三歳の幼児であり、原大炊助邦房が管理して守ることとなった。おそらく邦房の手勢が入ったと思われる。千葉宗家も原宗家も幼児が当主という異常事態が発生したことになる。

 天正18(1590)年3月、北条氏政重胤実母(東殿。岩松守純の娘)を小田原に差し出すよう命じ、千葉家はこれを請け入れて差し出した。また重胤も小田原に出陣したが、まだ15歳の若年であったため、押田与一郎吉正押田庄吉胤友原能登守胤次原平四郎胤秋らが千葉勢八千人を実質的に指揮した。また、伯父の千葉刑部少輔清胤(御房上)が重胤に代わって軍を総括し、湯本口を守備したが、5月13日に討死を遂げた。

小田原城
近世小田原城

 秀吉率いる関東仕置軍は3月に京都を出発し、小田原城の傍らにある笠懸山の山上にたちまちのうちに巨城を築き、小田原城を望む形で対峙した。秀吉勢は全軍で二十万。その勢力は北条氏の想像をはるかに超えており、制海権もすでに豊臣勢が握っていた。こうしたなかで、秀吉は氏政に降伏勧告を突きつけるが、北条側ではこれを拒否して徹底抗戦の構えを見せたため、秀吉も長期戦の備えをし、付近の住民に笠懸山の一夜城内に店を出すことを許し、さらに諸将たちにも京都から妻子を連れてくることを許可し、自身も愛妾・淀の方を呼びよせた。

 しかし、秀吉は北条方の諸城攻略に手を抜くことはなく、関東各地の城は次々と陥落していった。4月23日には、北条氏の水軍の拠点だった伊豆下田城が陥落。同年5月22日、上野国の最後の拠点・上野館林城が陥ち、ついで武蔵国の要衝である武蔵河越城、松山城、岩槻城とつぎつぎに落城。千葉氏の居城・佐倉城も5月2日ごろに陥されたと伝わり家康の家臣・内藤弥次右衛門家長がこれを接収した。臼井城も降伏。千葉介常胤以来四百年、二十五代にわたって房総の大々名として君臨してきた千葉氏は、ついにその拠点を失って滅亡した。名族の誇りも権威も時代の流れには逆らえなかった。 

 7月5日、小田原城の降伏開城にともなって、重胤らは小田原城を退去して浪々の身となって十数年を過ごしたようである。その間は下総国の旧臣の扶助を得て生活をしていたのかもしれない。その後、重胤の母・岩松氏ひがしが将軍・徳川秀忠に仕え、その後、御台所於江与の方(崇源院)に仕えた。浪々の身であったひがしが召し出された理由としては、ひがしの実家である新田岩松家が新田家嫡流であったことによるものか。将軍徳川家も新田家の出身とされていたことから、当時、新田一門は優遇されていた。 

●新田岩松氏系図 

 岩松尚純――昌純====氏純―――+―守純―――――+―清純…千葉介邦胤に佐倉城内で討たれる。
(治部大輔)(治部少輔)(治部大輔)|(治部大輔)  |(靫負)
                  |        |
                  +―ひがし    +―豐純――――…【旗本・岩松兵庫家】
                           |(治部少輔)
                           |
                           +―脇屋純俊
                           |(主税介)
                           |
                           +―脇屋宗度
                           |(相馬長門守義胤の家臣)
                           |
                           +―脇屋重政――…【旗本・岩松一太郎家】 
                            (庄左衛門)

 重胤も母の縁で召し出され、常陸国宍戸郡内二百石を与えられたが、この地が殊のほかに荒地であり資金もないため難儀である旨を、おそらく御台所に仕えていた母の口から御台所に訴えたのだろう。御台所は替地を賜る代わりにまず拝領地を返上すべきことを本多佐渡守正信土井大炊頭利勝の両老職をもって重胤に伝えた。重胤もこれを了承して拝領地を返上した。しかし、その直後、御台所於江与の方は五十四歳で亡くなってしまった。おそらく将軍家直々のお墨付きをもらっていなかったのだろう。このため、宍戸の替地の話も立ち消えとなってしまい、千葉家再興の夢は断たれた

 重胤の母・東の局も御台所の逝去とともに暇を出され、江戸長谷川町中央区日本橋堀留町)に与えられた屋敷に住んで秀忠、家光両将軍から禄を給わって生活し、下総国から重胤を呼び寄せて暮らしたという。一方で、千葉家中の原氏、酒井氏、高城氏らは徳川氏旗本に列した。

 重胤はその後も徳川家に仕えることなく、寛永10(1633)年6月16日、江戸で亡くなった。享年五十八歳。法名は仁性院殿光常真覚大禅定門。遺骸は江戸の海善禅寺で荼毘に伏され、位牌は日輪寺(神田山日輪寺か。同寺は平将門に所縁の寺院で、千代田区大手町二丁目にある将門の首塚がある周辺が寺域だった。明暦の大火後に西浅草に移転したと伝わる)に納められた。遺骨は老臣・古川左兵衛が下総国佐倉に移設された海上山海隣寺に納めたという。

千葉新介重胤(千鶴丸)の相続問題

 北条氏政の七男・千葉七郎直重の家督相続は、千葉氏内での大きな内紛に発展し、北条氏当主・隠居が乗り出すほどの大事となっていた。北条氏にとって秀吉との関係悪化の中で下総衆の取り込みは必須条件であり、北条氏は千葉介邦胤の死にともなって千葉宗家の乗っ取りを考えたのだろう。下図は天正13(1585)年の千葉氏の家督相続にともなう一連の出来事を時系列にまとめたものである。

年代 出来事
5月3日 千葉介邦胤、29歳で死亡。
8月27日 氏政、原親幹に真意を糺す。
9月8日 氏直、原胤長に下総出兵を示唆。
11月10日 氏直、下総に出陣。
11月16日 氏邦・小幡縫殿助、松戸に着陣か。
11月下旬 親幹、山角紀伊守に帰順する書状を送る。
11月22日 北条氏、佐倉城南に鹿島城の築城着工。
11月25日 氏政、親幹(若狭入道殿)に宛て書状。
11月28日 氏直、中山法華経寺に寺領安堵状。
12月3日 鹿島城、普請成就。
12月10日 氏直、小幡兵衛尉に佐倉普請の終了の書状。
12月12日 鹿島城の普請、すべて終了。
12月15日 鹿島に邦胤娘・邦胤妻(北条氏康娘)入城。

 邦胤には十二歳になる娘と八歳の千鶴丸(重胤)の子があり、親北条派である原豊前守胤長原大蔵丞邦長海保丹波守らは幼少の千鶴丸ではなく、邦胤娘に北条七郎(氏政七男)を迎えて家督を継がせようとした。しかし、これは北条氏による千葉家の完全な併合となり、鎌倉以来四百年にわたって下総国主として続いてきた千葉家の血筋を絶やすことになる。千鶴丸を邦胤の後継者に推していたと思われる千葉家家老で森山城将の原若狭守親幹原大炊助邦房父子らが、北条七郎の家督相続に反抗した。

 原若狭守親幹は、佐倉城代になっていた原豊前守胤長となともに千鶴丸の祖父・千葉介胤富の代から家老職を務め、森山城将としておもに香取海沿いから東総方面の軍政を担当していた人物である。天正3(1582)年、香取郡の国分兵部大輔が香取郡木内庄内に乱入したときには、親幹は瞬く間に木内庄を制圧して国分勢を追い払い、その功績によって木内庄小見川郷内に所領を給わっている。天正12(1584)年には、千葉介邦胤とともに東庄の東大社に大般若経を納めるなど、東総の千葉家旗頭を務めていた実力者であった。

 親幹は千葉介邦胤亡きあとも、遺児・千葉千鶴丸を推して千葉氏の権力を復興させようと尽力し、北条氏の介入に反抗。天正13(1585)年8月27日には、北条氏政みずから親書を親幹に送って恭順を求め、さらに森山城将「海上孫四郎」の補佐を命じる一方で、親幹の真意を糺すと同時に「自分と親幹とは久しい知り合いの間柄ながら、一向に見限っている体は少なからず疑心を抱いているが、これまでも柔和に対応してきたので、今回もそのようにする。正直に返答されるよう、もはや過去にはとらわれない」と、なんとしても親幹を懐柔しようとする心がうかがえる書状を送っている。しかし、親幹はこれにも従わなかった様子で、当主・北条氏直は下総出陣を決定。9月8日には、佐倉城代の原豊前守胤長に対して、自分が出陣する以前に兵が必要であれば、一手も二手も送る用意があるので知らせるようにとの書状を送っている。

佐倉城遠景
本佐倉城の主郭部分

 11月10日、氏直は直々に下総へ出陣し、11月16日には叔父の北条氏邦の先鋒・小幡縫殿助が下総国松戸郷に入った。このころ、下総各所の下総衆たち(臼井原氏・高城氏・井田氏ら)には北条氏重臣の名で掟書が発給され、11月28日には中山法華経寺に氏直の名で寺領安堵状が発給されている。その後、氏直は本佐倉城に入城した。

 この時、親幹がどこにいたかを記載している書状は遺されていないが、天正13(1585)年(と思われる)正月19日、千葉介邦胤が亡くなる直前の書状には、森山城の「原大炊助・安藤備中守・石毛金右衛門」にあてた朱印状が遺されており、森山城には親幹の嫡男・原大炊助邦房があったことが確認でき、親幹も森山城にあったのかも知れない。

 親幹は氏直が佐倉城に入る前後に恭順したと思われ、佐倉領を担当している北条氏の重臣・山角紀伊守定勝に帰順の意を示した文書を送り、定勝はこれを氏政へ送って、11月25日、氏政は「懇意先以喜悦候」と歓迎する書状を親幹に宛てて送った。その中には「原豊前(胤長)」と協力することが指示され、氏直への取り成しもなされた。この書状の宛名は「原若狭入道殿」となっていることから、恭順にともなって出家したことが察せられる。こうして氏直が出陣するほどの下総最大の内紛は収束し、千葉家は北条家に吸収されてしまい、北条七郎直重が家督を継承して、下総国主たる千葉介家は事実上滅亡した。


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