志貴皇子

千葉氏 千葉介の歴代

天智天皇
(626-672)
志貴親王
(???-716)
光仁天皇
(709-782)
越道君伊羅都売
(???-???)
紀橡姫
(???-709)
高野新笠
(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平高望
(???-???)
平良文
(???-???)
平経明
(???-???)
平忠常
(975-1031)
平常将
(????-????)
平常長
(????-????)
平常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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志貴親王(???-716)

生没年 ?~霊亀2(716)年8月9日
天智天皇(三十九代)
越道君伊羅都売(越道君娘)
多紀皇女(天武天皇皇女)
紀朝臣橡姫(紀朝臣諸人娘)
冠位等 大宝3(703)年9月3日 近江鐵穴を賜わる
大宝3(703)年10月9日 持統太上天皇崩御につき、造御竈長官
慶雲元(704)年正月11日 益封百戸
慶雲4(708)年6月16日 文武天皇崩御につき、供奉殯宮
和銅元(708)年正月11日 三品
和銅7(715)年正月3日 益封二百戸
霊亀元(715)年正月10日 二品
霊亀2(716)年8月11日 薨去
諡号 御春日宮天皇
御陵 田原西陵

 天智天皇の第七皇子(『続日本紀』)。母は越道君伊羅都賣(名は不明)。はじめ施基皇子、芝基皇子。「大宝律令」で「親王」の称号が定められると志貴(志紀)親王と称された。志紀親王とも。正妃は多紀皇女(天武天皇皇女)。歌人であり、『万葉集』には七首載せられている。「シキ」の名は河内国磯城郡(志貴)に由来すると思われ、傅人が志貴首一族であったのかもしれない。

 天武天皇元(672)年、壬申の乱において、異母兄・大友皇子(弘文天皇)が叔父の大海人皇子に敗れて自殺。大海人皇子が践祚した(天武天皇)

 天武8(679)年5月5日、天武天皇と鵜野讃良皇后(施基皇子異母姉。のち持統天皇)が吉野に行幸。施基皇子は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子の五皇子とともにこれに随った。天皇はここで皇后、草壁皇子以下の諸皇子に対して、

「朕、今日与汝等倶盟于庭、而千歳之後欲無事、奈之何」

と仰せられた。これに対し、皇子等は「理実灼然」と応えている。さらに、天皇と皇后の第一皇子である草壁皇子が進み出て、

「天神地祗及天皇証也、吾兄弟長幼并十余王、各出于異腹、然不別同異、倶随天皇勅、而相扶無忤、若自今以後、不如此盟者、身命亡之、子孫絶之、非忘非失矣」

と応えた。これに続いて、ほかの五皇子も同様に宣言したという。

これを聞いた天皇は、

「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之」

と仰せられて、六皇子を抱きしめられた。そして、

「若違盟、忽亡朕身」

と仰せられ、皇后も同様に宣盟されたという。

 かつて壬申の乱という骨肉の争いを演じることとなった天武天皇は、大王家内の権力を巡る争いを未然に防ぐべく、こうした盟約を執り行った可能性もあろう。そして、この六皇子がこの時点で成人した皇子で、河嶋皇子と施基皇子の両皇子は天智天皇の皇子ながら、壬申の乱ののちの天武天皇による専制政治と皇親重用制の中で、天武天皇が猶子として養育したものと思われる。

甘橿丘から見た飛鳥川原宮
天武・持統朝の宮があった飛鳥の里

 天武10(681)年2月25日、天武天皇は皇后鵜野讃良との皇子・草壁皇子を皇太子と定めた。さらに、天皇は天武12(683)年2月1日、評判が高い大津皇子を朝政に参与させた。大津皇子は天武天皇と大田皇女(鵜野讃良の実姉)との皇子であり、草壁皇子とは血統でも引けを取らない人物であった。このことが皇后鵜野皇女を焦らせた可能性がある。のちに大津皇子は実の叔母鵜野皇女の謀略によって惨殺されることとなるが、天武天皇が生きている間は手を出せずにいる。

 天武天皇14(685)年1月21日、爵位の号が改められ、「諸王」と「諸臣」の位は明確に分けられることとなった。皇親を重んじる政治体制の確立を目指した制度といえる。

●諸皇子・皇女の爵位(『日本書紀』『続日本紀』)
【凡例】赤字は天武天皇子の爵位初出、青字は天智天皇子の爵位初出。(授)はこの日の授爵、無印はこの時点での爵位、(薨)はこの日薨去

爵位 浄位四階
浄大壱 浄広壱 浄大弐 浄広弐 浄大参 浄広参 浄大肆 浄広肆
685.1.21   草壁皇子(授) 大津皇子(授) 高市皇子(授) 川嶋皇子(授)
忍壁皇子(授)
     
686.10.3     大津皇子(薨)          
689.4.13   草壁皇子(薨)            
691.1.13       穂積皇子 川嶋皇子      
693.1.2   高市皇子(授)   長皇子(授)
弓削皇子(授)
       
699.7.21       弓削皇子(薨)        
699.9.9         川嶋皇子(薨)      
696.7.10   高市皇子(薨)            
695.1.5       舎人皇子(授)        
699.12.3       大江皇女(薨)        
700.1.7       新田部皇子(授)        
700.4.4               明日香皇女(薨)
700.6.17         刑部親王      

 このとき草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子の諸皇子に冠位が授けられているが、吉野盟約の六皇子のうち、なぜか施基皇子には冠位が授けられた形跡がない。彼はまだ年若く、爵位を与えられる年齢ではなかったのかもしれない。

 朱鳥元(686)年8月15日、天武天皇皇子・磯城皇子と同様に封二百戸を賜った。磯城皇子は天武天皇の皇子で忍壁皇子の弟にあたる。

 9月9日、天武天皇が崩御すると皇后の鵜野皇女は権限を実質的に握り、称制を行う。そして早くも10月2日、弟の河嶋皇子の密告をもとに、皇太子草壁皇子の最大のライバルである大津皇子を謀反人として検挙し処刑することに成功した。おそらく皇后の計画的な行動だったと思われる。こうして皇太子・草壁皇子の即位は揺るがないものとなったが、皇后は草壁皇子を天皇とせずにしばらく称制を続けた。

       +―河嶋皇子
       |
       +―施基皇子
       |                                     【元明天皇】
+―天智天皇―+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――阿閉皇女
|      |                               【持統天皇】  ∥    【文武天皇】
|      +――――――――――――――――――――――――――――――――鸕野皇女   ∥―――――軽皇子
|      |                                 ∥――――草壁皇子
|      +―――――――――――――――――――――大田皇女        ∥
|      |                       ∥――+―大来皇女 ∥
|      +――――――――――――新田部皇女      ∥  |      ∥
|      |             ∥         ∥  +―大津皇子 ∥
|      +―大江皇女 +―長皇子  ∥         ∥         ∥
|         ∥   |      ∥         ∥         ∥
|         ∥―――+―弓削皇子 ∥――――舎人親王 ∥         ∥
|         ∥          ∥         ∥         ∥
+―天               武               天               皇
       ∥          ∥           ∥       ∥       ∥
       ∥―――――但馬皇女 ∥――――新田部親王  ∥――十市皇女 ∥――高市皇子 ∥――+―忍壁皇子
藤原鎌足―+―氷上娘        ∥           ∥       ∥       ∥  |
     |            ∥          額田王      ∥       ∥  +―磯城皇子
     +―――――――――――五百重娘                 ∥       ∥  |
                             胸形君徳善―――尼子娘      ∥  +―泊瀬部皇女
                                              ∥  |
                             宍人臣大麻呂―――――――――――娘  +―多紀皇女

 しかし、持統称制3(689)年4月13日、草壁皇子は二十八歳の若さで病死してしまう。草壁皇子を即位させなかったのは、天武天皇の崩御と大津皇子の処刑などによる朝廷内の混乱があったのかもしれないが、結果として皇后は草壁皇子を即位させることに失敗したことになる。

 6月2日、施基皇子は「撰善言司」に任じられた。この役職の具体的な職掌は全く伝わらないため、どのような役職かは不明だが、「善言」を選ぶということから昔人の善行を集めた書籍の作成を図ったと推測される。「撰善言司」には施基皇子のほか、佐味朝臣宿那麿、羽田朝臣斎、伊余部連馬飼。調忌寸老人、大伴宿祢手拍、巨勢朝臣多益須の六人が選ばれている。このうち、伊余部連馬飼、調忌寸老人は大宝律令の選定にも携わっている。まだ年若い施基皇子が選ばれた理由は定かではないが、まず皇親をトップに据えることと、学識豊かな施基皇子が適任とされたのかもしれない。また、草壁皇子の死の直後ということもあり、その遺児で七歳の軽皇子のための帝王学書物として作成が進められたのかもしれない。

 皇后は草壁皇子亡きあと、天武天皇のほかの皇子に皇位継承を認めず、持統4(690)年正月1日、みずから践祚した(持統天皇)。草壁皇子の子・軽皇子の成長までの中継ぎ的な即位だったと思われる。7月5日、高市皇子(生存する天武系皇子では最年長)を太政大臣とし、右大臣には丹比嶋真人を据えて政治基盤を固めると、9月1日には戸籍(庚寅年籍)の作成を指示した。10月29日には太政大臣・高市皇子が新たな都の候補地として、平城京のやや北にあたる大和国藤原を訪れ、天皇に報告。12月19日には持統天皇は藤原宮地に行幸してこの地に新都を造営することと決定。都造りが開始された。そして持統8(694)年12月6日、遷都した。「藤原京」である。これまでの都とは異なり、全体を城壁で囲み、区割りを明確とした条坊制の中国型の宮城であり、耳成山、畝傍山、天香具山の三山の間に営まれた。この三山は仙人が住むといわれた「方丈」「瀛洲」「蓬莱」の仙島を表す。

 志貴皇子はこの藤原京への遷都に際して詠んだ和歌が伝わっている。

従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌
 
采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く (『万葉集』巻一 五十五番)

 明日香の旧都に立つ志貴皇子は、寂れた宮殿の跡を吹く風を受け、かつて宮廷を彩っていた采女たちもいまや遠く旧都を離れてしまい、彼女たちの袖を吹き返していた明日香風も空しく吹くばかりだと嘆く。「明日香」るほど「遠」いという意味も含まれているかもしれない。二十代前半と思われる志貴皇子は叙情的な歌人に成長していた。

 持統11(697)年2月、持統天皇は草壁皇子の遺児・軽皇子「皇太子」とし、2月28日、当麻真人国見「東宮大傅」に、参路真人跡見「春宮大夫」巨勢朝臣粟持「亮」に任じた。そして8月1日、皇太子軽皇子へと譲位する(文武天皇)。しかし新天皇はいまだ十五歳の若さであり、持統太上天皇主導で政治が行われる。天武天皇からの悲願だった新たな律令制度の確立を目指し、忍壁皇子、藤原不比等(藤原鎌足の子)らに主導させて新たな律・令に関する法令の条文作成を開始。大宝元(701)年3月21日、「新令」によって「改制官名位号」され、これまでの冠位が改められた。親王諸王は「 浄位四階(明位二階は実績なし)」が「明冠四品」となり、「施基皇子」「四品」「志貴(志紀)親王」になったと思われる。そして8月3日、『大宝律令』が完成し、翌年にかけて諸国へ新律令が発布されることとなる。

志貴皇子懽御歌一首

石走る垂水の上の早蕨の萌え出る春になりにけるかも (『万葉集』巻八 一四一八番)

 志貴親王の春雑歌の「懽御歌」として『万葉集』に撰ばれた歌だが、早蕨の萌え出る頃の歌とすれば、この新律令制定や品位拝授の際の懽びの歌とも考えられる。

●諸王の品位(『日本書紀』『続日本紀』)
【凡例】赤は天武天皇子、青は天智天皇子、緑は草壁皇子子。(授)はこの日の授爵、無印はこの時点での爵位、(薨)はこの日薨去

品位 明冠四品
一品 二品 三品 四品
701.3.21
(改制官名位号)
  長親王(授)
舍人親王(授)
穂積親王(授)
刑部親王(授)
新田部親王(授)
志紀親王(授)
701.7.21     刑部親王  
702.12.23   穂積親王 刑部親王  
703.9.3       志紀親王
704.1.11   長親王
舍人親王
穂積親王
刑部親王
新田部親王
志紀親王
705.5.7     忍壁親王(薨)  
707.6.16     志紀親王  
707.10.3   新田部親王    
707.12.27     志貴親王(授)  
708.6.25     但馬内親王(薨)  
714.1.20   氷高内親王    
714.1.3   長親王
舍人親王
新田部親王
志貴親王  
715.1.10 穂積親王(授)
氷高内親王(授)
志紀親王(授)    
715.6.4 長親王(薨)      
715.7.27 知太政官事・穂積親王(薨)      
715.9.20 氷高内親王践祚(元正天皇)      
716.8.11   志貴親王(薨)    
718.1.5 舍人親王(授)      
721.9.11        
724.2.4 新田部親王(授) 田形内親王(授)
吉備内親王(授)
   
728.3.5   田形内親王(薨)    
728.7.21 大将軍・新田部親王(授)?      
729.2.12   吉備内親王(薨)    
734.2.8   泉内親王(薨)    
735.9.30 新田部親王(薨)      
735.11.14 知太政官事・舍人親王(薨)      
737.2.14     水主内親王(授)
長谷部内親王(授)
多紀内親王(授)
 
737.8.20     水主内親王(薨)  
741.3.28     長谷部内親王(薨)  
741~749   多紀内親王(授)    
749.4.14 多紀内親王(授)      
751.1.25 多紀内親王(薨)      

 朝廷主導による官と民の統治が法によって雛形が確立し、これを見届けた持統太上天皇は翌文武6(702)年12月22日、崩御した。

 大宝3(703)年9月3日、「四品志紀親王」「近江鉄穴」を賜わった。当時近江国には多くの鉄鉱石が産出しており、これらを製鉄して武器等が造られていた。これらは朝廷が運営する官営鉱床であり、志紀親王(志貴親王)がこの鉄鉱床をなぜ賜ったのかは不明。

 10月9日、殯の行われていた持統太上天皇の御葬司が定められ、「四品志紀親王」「造御竃長官」に任じられる。その下に「従四位上息長王、正五位上高橋朝臣笠間、正五位下土師宿祢馬手」「副」として付けられている。そして12月17日、持統太上天皇の葬儀が行われ、飛鳥岡において火葬され、遺灰は金銅製の壺に収められて夫・天武天皇が眠る陵(大内山陵)に合葬された。

 こののち、主だった活躍はみられない。慶雲元(704)年1月11日、三品新田部親王とともに封百戸を加えられる。

 慶雲3(706)年9月25日、文武天皇は難波宮に行幸した(『続日本紀』)

丙寅、行幸難波。(『続日本紀』巻三)

 このとき、志貴親王は文武天皇に供奉して難波宮を訪れ、和歌を詠んだ。

慶雲三年丙午幸于難波宮時 志貴皇子御作歌
 
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて 寒き夕は大和し思ほゆ  (『万葉集』巻一 六十四番)

 この難波宮行幸に供奉した長皇子も志貴親王同様、歌をのこしている。

慶雲三年丙午幸于難波宮時 長皇子御歌
 
霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘女と見れど飽かぬかも (『万葉集』巻一 六十五番)

 慶雲4(707)年6月15日、文武天皇が崩御。翌16日には殯宮についての責任者となり、遺詔に基づき、「三品志紀親王」犬上王(正四位下)、小野朝臣毛野(正四位上)、佐伯宿祢百足(従五位上)、黄文連本実(従五位下)を以て、初七日より四十九日まで大安寺・元興寺・弘福寺、薬師寺(四大寺)において斎を設けている(『続日本紀』)

 和銅元(708)年正月11日、「四品志貴親王」が三品を授けられた(『続日本紀』)。前年の文武天皇殯宮の行司となった「三品志紀親王」との記述があり、矛盾が見られるが、授位の記事に二重に誤りがあるとは思われず、これは「三品志紀親王」の誤記と思われる。

 和銅7(714)年1月3日、「志貴親王」封二百戸が加えられた。このとき、長親王、舍人親王、新田部親王、長屋王が封租を加えられているが、「食封田租」を封主に全給される初例となった。

春日宮天皇(志貴親王)陵
田原西陵(志貴親王陵墓)

 和銅8(715)年正月10日、「三品志紀親王」は二品を授けられた。

 霊亀2(716)年8月9日、「二品志貴親王」薨去(『類聚三代格』『続日本紀』)。姪にあたる元正天皇六人部王(従四位下)、縣犬養宿祢筑紫(正五位下)を「監護喪事」として葬儀を執り行わせた。墓所は奈良の東方山中に営まれ、のち天皇を追贈されると陵(田原西陵)とされた。

 なお、『万葉集』には志貴親王の「薨」時に歌人・笠朝臣金村が詠んだ歌が遺されているが、その時期については「霊亀元年歳次乙卯秋九月」とされており、『続日本紀』の凡そ一年前となっている。和銅8(715)年9月2日には元正天皇が即位しており、喪事を遅らせた可能性もある。

霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王時作歌一首
 
梓弓 手に取り持ちて 大夫の 得物矢手挟み 立ち向ふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燎ゆる火を 何如と問へば 玉鉾の 道来る人の 泣く涙 こさめに落れば 白妙の 衣ひづちて 立ち留まり 我れに語く 何鴨 本名言ふ 聞かば 哭のみし泣かゆ 語らば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の 御駕の 手火の光りぞ 幾許照りたる  (『万葉集』巻二 二百三十番)
高円の野辺の秋芽子徒にさきか散るらむ見る人なしに(『万葉集』巻二 二百三十一番)
御笠山野辺徃く道はこきだくも 繁く荒れたるか久にあらなくに(『万葉集』巻二 二百三十二番)
高円の野辺の秋芽子な散りそね 君が形見に見つつしぬはむ(『万葉集』巻二 二百三十三番)

 神亀元(770)年11月6日、「御春日宮皇子(志貴親王)」「称天皇」を奉った。これは、子の白壁王が践祚した(光仁天皇)ことにより、志貴親王に天皇の尊号が追贈されたものである。また、光仁天皇の「兄弟姉妹諸王子」は「親王弖冠位上給治給」とされた。改めて、光仁天皇妃の井上内親王は「皇后」を賜り、光仁天皇皇子の山部王(従四位下)山部親王となり、親王の品位である「四品」を給わった。皇女の酒人内親王(母が聖武天皇女井上内親王であるため、すでに内親王だった可能性も)は三品に、光仁天皇の妹(御春日宮天皇女となった)の従四位下衣縫女王、難波女王、坂合部女王、能登女王、弥努摩女王「内親王」とされ「四品」に陞った。従五位下桑原王、鴨王、神王と、无位浄橋女王、飽波女王、尾張女王従四位下に陞った。親王となっていない王や女王は志貴親王(御春日宮天皇)の皇孫扱い(二世王)のためである。


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