千葉邦胤

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千葉邦胤 (1557-1585)

生没年 弘治3(1557)年3月22日~天正13(1585)年5月7日
千葉介胤富
通性院芳泰(海上山城守常元妹)
北条左京大夫氏直姉(芳林院殿貞至隆祥大禅定尼)
官位 不明
官職 不明
役職 不明
所在 下総国印旛郡佐倉
法号 傑心常俊大禅定門
法阿弥陀仏
墓所 不明

 千葉氏二十四代。千葉介胤富の三男。母は辺田山城守常元娘(通性院芳泰)とされる。妻は北条左京大夫氏直姉(芳林院殿貞至隆祥大禅定尼)千葉介良胤とは双子の兄弟とされているが、良胤については伝承が少ない。邦胤は幼い頃、小見川城主・粟飯原氏の名跡を継いでいたとも伝えられているが、不明。弘治3(1557)年3月22日に生まれたとされている(『千葉大系図』『千葉伝考記』)。邦胤の死後は、千葉家は小田原北条氏の権力に完全に取り込まれるため、実質的に邦胤を以って「千葉介」の歴史は幕を閉じる。

 元亀2(1571)年11月、佐倉妙見社にて邦胤の元服式が執り行われた。先代の親胤の代までは千葉の金剛授寺(千葉神社)で元服式が行われていたが、このころ千葉にほど近い小弓城に敵対する里見義弘が入城していたため、千葉での元服式は見送られることとなり、佐倉妙見社にて規模や格式はそのままに挙行された。

 邦胤の二騎の供は弥富原氏と六崎の粟飯原氏が勤めた。神前への御使は木村左京亮、千葉中諸社への御使は安藤左衛門が務め、各神主に御布施が下された。

■千葉北条血縁図

 伊勢宗瑞―北条氏綱――北条氏康―+―北条氏政――+―北条氏直
(早雲庵)(左京大夫)(相模守) |(相模守)  |(左京大夫)
                 |       |
                 |       +―姉
                 |        (芳林院殿)
                 |          ∥   
                 | +―千葉介胤富―千葉介邦胤
                 | |(千葉介) (千葉介)
                 | |
                 | +―千葉介親胤
                 |  (千葉介)
                 |    ∥
                 +―――尾崎殿

 天正元(1573)年10月、下総国関宿城主・簗田中務大輔晴助は北条氏と対立した。もともと簗田晴助は北条氏の強引な公方家への介入に反発しており、何度となく戦火を交えていた。ここに至り、北条氏政は弟・北条陸奥守氏照を関宿城に派遣して取り囲ませた。また、氏政は千葉介胤富に対して援軍を求め、これに応じた胤富邦胤および原式部大輔胤栄高城治部少輔胤辰石出将監らを派遣した。これに対し、晴助は佐竹義重や上杉謙信に対して援軍を求めて北条勢と戦うが、佐竹勢、上杉勢の働きはあまり芳しいものではなく、一年以上に及ぶ合戦の末、晴助は佐竹義重を仲介として北条氏と和睦。晴助は城を立ち退き、佐竹義重を頼って水海城に入った。この戦いの中で千葉勢の石出将監が討死を遂げたという(『千葉伝考記』)

 ただし、邦胤発給の『官途状(断簡)』が元亀3(1572)年11月13日に見られることから、この戦いのときにはすでに邦胤が家督を継いでいたと思われる。しかし、天正2(1574)年9月18日、胤富の名で海上八幡宮の神事銭徴収を命じた鶴丸黒印状が発給されているなど胤富の活躍も見られ、胤富はいわゆる「大御所」的な立場にあったのかもしれない。

 天正2(1574)年11月27日、邦胤は「押田与一郎(吉正)」に対して『元服状』を発給、さらに翌閏11月24日にも「椎名左馬允」『官途状』を発給した。

 天正2年ごろは北条氏と里見・正木氏の戦いが頻発しており、原氏が小弓城主として、対里見家の最前線にあった。原胤栄は天正2(1575)年3月25日、臼井城妙見堂「金灯炉」を寄進しており、臼井城にも在城していたことがうかがえる。また、胤栄の父・原上総介胤貞は天正3(1576)年までに上総国小西城へ移ったとされており、まだ二十四歳の若い胤栄に代って、老練な胤貞が里見氏との最前線に赴いていたのかもしれない。

 天正3(1582)年3月13日、「兵部大輔家中十余人」が香取神領に居座っていたことに対して、東総の支配を実質的に任されていたと思われる森山城主・原若狭守親幹は、はじめ神領と地頭領が混在していたため、一応そのままにしておくものの、ついに国分家臣十人の放逐と香取社への出入り禁止などを命じた。この「兵部大輔」は天正6(1578)年正月25日及びに天正8(1580)年2月10日に同じく白鳥を進上した「國分左衛門太郎=國分兵部太輔」の父か? 天正3年に「対此方挿逆心之条、動干戈」した国分兵部大輔は香取郡木内庄などに乱入して押領した。これに邦胤は森山城将・原若狭守親幹に出陣を命じ、国分勢を追い払って同地を回復すると、天正10(1582)年5月、親幹の功績を賞して取り戻した所領のうちから木内庄小見郷内の土地を親幹に与えた『千葉介邦胤判物』

邦胤 龍の印 邦胤 花押1 邦胤 花押2
邦胤印「龍」 邦胤花押一 邦胤花押二

 邦胤の父・千葉介胤富は、千葉家と北条家との結びつきを深めるために、邦胤の妻に北条氏政の娘を迎えることを図っており、某年8月20日『胤富書状』によれば、「抑先年以遠山丹波守、小田原江縁辺之儀申入候キ」とあって、北条氏の重臣・遠山丹波守(江戸城主)を通じて縁談をはかっていた。しかし、「然ニ此頃ハ国無調故(この頃は国内が治まらなかったため)」縁談が滞り、「不及是非打過候、誠ニ背本意候(やむなく縁談を棚上げしてきたが、誠に本意に背くことであった)」と無念さがにじみ出ている。

 こののち邦胤と氏政娘(芳桂院殿)との縁談はうまく成立し、邦胤は氏政の婿となった。『千学集抜粋』によれば、天正13(1585)年に邦胤が亡くなったあと、十二歳の娘と三歳の御曹司(のちの重胤。母は岩松守純姉)があった。逆算すると、邦胤娘が生まれたのは天正元(1573)年となるが、邦胤の官途状初見は元亀3(1572)年11月のことで、邦胤は氏政娘と婚姻が成立したことをきっかけに家督を継いだのだろう。

 邦胤は家臣たちに対して官途状などを盛んに発給しており、天正7(1579)年正月16日、海上胤保(海上蔵人カ)に「山城守」の受領名を許した。海上蔵人は邦胤の先代・千葉介胤富の代から石毛大和守とともに東総を治めていた旗頭であった『千葉介邦胤受領状』。天正8(1580)年正月3日には「大須賀越中守(=幡谷越中守?)」への『受領状』が遺されている。また原大炊助邦房・原大蔵丞邦長・円城寺兵庫邦貞ら重臣も邦胤から偏諱を受けていると思われ、「官途状」「加冠状」なども発給されていたのだろう。

 邦胤が官途状などを発給しているのは東総の豪族(押田・椎名・海上・円城寺・大須賀氏など)であることや胤富・邦胤が下総の豪族に宛てた書状の大部分は森山衆宛てであることなどから、このころの千葉宗家の支配圏は東総に偏っていたと考えられる。これは父・胤富の代から森山城・海上氏などと深い関わりを持っていたためだろう。また、原氏・高城氏らが千葉氏から半分独立したような形になっており、千葉宗家も東総から北総に確固たる地盤を築く必要があったのかもしれない。『千葉邦胤朱印状』は天正13(1585)年1月19日、森山衆の主だったもの「原若狭守親幹」「安藤備中守」「石毛金右衛門尉」に宛てた軍規状である。

 天正7(1579)年10月、埴生庄龍角寺(印旛郡栄町龍角寺)に対して「麻生酒直之三郷」「埴生十五郷」を寺院修築費として寄進し、「何事も任天平度之例」とする寄進状を発給した『千介邦胤寄進状』。龍角寺は聖武天皇の勅願で建てられたとされ、下総の寺院でももっとも古い寺院の一つである。

 天正10(1582)年4月、織田信長は武田氏を滅ぼし、上野国厩橋滝川左近将監一益を派遣して「関東管領」と定め、甲斐国には川尻肥後守秀隆を置いて統治に当たらせた。信長はそのまま関東を平定するべく、邦胤に対して馬を贈った上で、高飛車な物言いの書状で協力を迫った。邦胤はこの書状を見て

「信長、勝頼を討滅して北條を侮る、譬ひ氏政氏直父子は信長に屈伏せらるゝ事ありといふとも、我は何ぞ渠を畏れんや」

 と激怒し、織田家の使者の髪を剃り、さらに贈られた馬の尻毛を切り落として突き返したという。

 天正10(1582)年6月、上野国厩橋城の滝川一益は、本能寺で主の織田信長明智光秀に討たれたことが伝えられると、ただちに麾下にあった関東の諸将を集めて「味方となるもよし。軍を率いて私に戦をしかけるもよい」と伝えた。すると彼らの多くが北条氏と戦うことを誓い、一益も信長暗殺が露見しないように、わざと挑発する文書を小田原へと送りつけた。氏政はこの書状を読んで激怒し、嫡男・氏直を総大将とした大軍を厩橋城に発向させた。一益はこれを迎え撃ち、6月18日の神流川の戦いで数で勝る滝川勢は北条勢を圧倒するも深入りしたために19日の戦いで大敗。あらかじめ上洛の意志を固めていた滝川一益はそのまま碓氷峠を通って上方へ退却していった。この戦いで邦胤は氏直のもとで戦っている。9月には、八王子城の北条陸奥守氏照に隼を贈った。

 甲斐を治めていた川尻秀隆も甲斐の民衆の恨みを買っていて討ち果たされ、代わって徳川家康の軍勢が甲斐を治めた。このとき氏直も甲斐を治めようと邦胤を伴って出陣していたが、徳川勢と遭遇して若御子にて対陣した。しかし、徳川勢との間ですぐに和睦がなり、家康の次女・督姫が氏直の妻となる約束を果たし、天正11(1583)年7月、婚約が成立した。11月、氏直は小田原へ引き上げ、邦胤も佐倉へと帰還した。

 その後、邦胤のもとに氏直の使者・中條出羽守が到来し、長陣の苦労の謝礼として、礼状と左文字の短刀、酒肴が進上された。邦胤からもその後、返礼の使者が送られた(『千葉伝考記』)

 天正12(1584)年1月と3月の2回にわたって、原若狭守親幹とともに香取郡の東大社に大般若経を寄進した。親幹は原豊前守胤長大蔵丞邦長父子とともに筆頭家老をつとめ、北条氏に対する「奏者」でもあった。親幹の子・原大炊助邦房も天正15(1587)年8月5日、「其方奏者方并同心以下、如邦胤時、不可有相違者也」という北条氏政からの書状を受け取っており、「邦胤の時の如く」奏者・同心以下を原邦房に命じたことがわかる。

佐倉城遠景
佐倉城

 天正13(1585)年5月7日、「一鍬田五郎狂乱シ御額ヲキリツケ逝去」した(『本土寺過去帳』『千学集抜粋』)。二十九歳。法名は傑心常俊大禅定門法阿弥陀仏。邦胤を殺害したという一鍬田氏香取郡千田庄一鍬田村(香取郡多古町一鍬田)の豪族と思われる。

 没年については『千葉伝考記』に天正16(1588)年7月4日という説がある。天正16(1588)年1月、佐倉城内の書院において、恒例の新年祝賀会が執り行われ、そこで十八歳の近習「桑田万五郎(一鍬田孫五郎か)」が配膳係を務めていたが、このとき二度にわたって放屁した。一度は許していた邦胤も、二度目になると我慢ならず、万五郎を叱りつけた。これに万五郎は書院の中央にひざまずき、

「卒爾の失錯は庸常有之べき事なるに、かかる曠なる座中に於て形の如く顔面に辱を蒙る條、つれなき仕合なり」

 とはばかることなく反論したことで、邦胤はさらに激怒。座を立ち上がると万五郎を蹴り倒し、短刀に手をかけたところ、慌てた傍の者が万五郎を引き立てて行った。列座の諸将も邦胤を宥めたため、万五郎は椎津主水正へ召し預けとなり、閏5月中旬、勘気を赦されて万五郎は邦胤の側近としてふたたび働き出した。

 しかし万五郎は恨みを忘れておらず、折あらば邦胤を害して鬱憤を晴らすつもりであった。こうして邦胤の隙をうかがい続け、7月4日の夜半、万五郎は邦胤の寝所に忍び込むと、短刀を抜き、寝ている邦胤を二刺して逃走した。

 邦胤は重傷を負いつつ起き上がり「憎き小倅めが所為かな」と一声叫んだ。これを隣の宿直の者が聞きつけ、邦胤の寝所に入ってみると、邦胤は朱にまみれて倒れていた。邦胤にはまだ息があり、「鍬田面を脱さず討取れ」と言ってこと切れた 。享年三十九とされる(『千葉伝考記』)

 家臣たちは八方手を配って万五郎を追ったが見つけられなかった。そのころ万五郎は佐倉城の城門が閉じていたため逃れられず、さらに闇夜であったため城内の物陰に隠れ、明け方になって城壁を乗り越えて逃走。菊間村(市原市菊間)に潜伏していたところを討手に囲まれたため、自害したという(『千葉伝考記』)

 一方、邦胤は重傷を負いながらも重臣の中村雅楽亮設楽左衛門尉に万五郎を追わせ、菊間村に潜伏していた万五郎を逮捕。草刈村(市原市草)で処刑したともいう。中村雅楽亮常顕は佐倉城の南・鹿島館の管理を任されていた重臣で、設楽左衛門尉はのちに千葉千鶴丸(重胤)を補佐して小田原に入城したという。

●天正2(1574)年11月27日『邦胤元服状』

    元服
  天正
    十一月廿七日  邦胤(判)
  弐年

       押田与一郎殿

●天正2(1574)年閏11月24日『邦胤官途状』

    官途

  天正
    閏十一月廿四日  邦胤(花押)
  弐年

    椎名左馬允殿

●天正7(1579)年正月9日『邦胤受領状』(東京都立中央図書館蔵『下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書集』)

       領

     受領
  天正
    正月九日 邦胤(花押)
  七年

     海上山城守殿

●天正7(1579)年10月某日『千葉介邦胤寄進状』

      総州埴生龍角寺

  聖武天皇勅願古跡無□之霊窟也、于茲当郷麻生酒直之三郷者、
  備加監修理料殊ニ埴生十五郷可為舗地、何事も任天平度之例、
  永不可有相違者也、仍而證状如件

    天正七年己卯十月     邦胤
      本坊并衆徒中  

●天正8(1580)年正月3日『邦胤受領状』

    受領

  天正
   正月三日   邦胤(花押)
  八年

      大須賀越中守殿

●天正10(1582)年5月14日『千葉介邦胤判物』

  先年国分兵部大輔、対此方挿逆心之条、動干戈、以其力、取返領分之中
  当国香取郡木内庄小見郷之内、永領之給分田畠共所宛行実也者、早任先例、
  可致領知之状如件

      天正十年五月十四日    邦胤(花押)
           原若狭守殿

●天正13(1585)年5月14日『千葉介邦胤朱印状』

      条々
  一 鑓、小旗、鉄砲、騎数以下厳密ニ遂糺明、不足之所可申上事、
  一 打立之砌、指物さヽすして罷出候者并陣屋ニ鑓残置者、無思慮申付、
    及異儀者可遂披露事、付虚病之事、
  一 対他所、無喧嘩様之仕置専一候、若無料簡喧嘩於出来者、国衆一統ニ入精、
    無未様ニ可致之、聊見除申者有之者、速可遂披露事付、間々喧嘩於口論者、
    双方御追放之事、

    (龍字朱印)乙酉
           正月十九日
                    原大炊助 殿
                    安藤備中守 殿
                    石毛金右衛門尉 殿

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