千葉介邦胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?) 手白髮郎女(???-???)
欽明天皇(???-571) 石比賣命(???-???)
敏達天皇(???-585) 比呂比賣命(???-575)
押坂彦人大兄(???-???) 糠代比売王(???-664)
舒明天皇(593-641) 斉明天皇(594-661)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1583-1633)
千葉俊胤
(1588-1639)
千葉定胤
(1617-1649)
千葉知胤
(1622-1685)
千葉英胤
(1659-1730)
千葉紀胤
(1704-1770)
千葉宗胤
(????-1807)
千葉倚胤
(????-1841)
 
江戸期の千葉家
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千葉邦胤 (1557-1585)

生没年 弘治3(1557)年3月22日~天正13(1585)年5月7日
父 千葉介胤富
母 通性院芳泰(海上山城守常元妹)
妻 先妻:北条左京大夫氏直姉(芳桂院殿貞室隆祥大禅尼)
後妻:ひがし(新田岩松満治郎守純女子)
官位 不明
官職 不明
役職 不明
所在 下総国印旛郡佐倉
法号 傑心常俊大禅定門
法阿弥陀仏
墓所 不明
子 女子(千葉介直重室)
千葉新介重胤
千葉権之助俊胤
門井弥四郎正道

 千葉氏二十四代。千葉介胤富の三男。母は海上山城守常元娘(通性院芳泰)とされる。妻は北条左京大夫氏直姉(芳桂院殿貞室隆祥大禅尼)。弘治3(1557)年3月22日誕生(『千葉大系図』『千葉伝考記』)。千葉介良胤とは双子の兄弟とされているが、良胤については傍証となる文書や記録がない。邦胤は幼い頃、小見川粟飯原氏の名跡を継いでいたと伝えられているが不明。邦胤の死後は、千葉家は小田原北条氏の権力に完全に取り込まれるため、実質的に邦胤を以って「千葉介」の歴史は幕を閉じる。

 元亀2(1571)年11月、本佐倉城の妙見宮にて邦胤の元服式が執り行われた。先代の親胤の代までは千葉の金剛授寺(現在の千葉神社)で元服式が行われていたが、このころ千葉にほど近い小弓城に敵対する里見義弘の軍勢が入っていたため、千葉での元服式は見送られ、佐倉城内妙見宮で規模や格式はそのままに挙行されたという。なお、佐倉城の妙見宮は城主千葉介が居住する「主殿」の郭と木橋で繋がる一郭にあり、一辺十五メートルの基壇の上に建つ巨大な宮であった。妙見宮の参道を公的な通路としていたとみられ、外交使節や家人はこの巨大な妙見宮の威厳を感じたのち「主殿」へ至り、千葉介と面会するという計算のもと造られていた。

 邦胤元服に際しては、邦胤の二騎の供は弥富原氏と六崎の粟飯原氏が勤めた。神前への御使は木村左京亮、千葉中諸社への御使は安藤左衛門が務め、各神主に御布施が下された。

■千葉北条血縁図

 伊勢宗瑞―北条氏綱――北条氏康―+―北条氏政――+―北条氏直
(早雲庵)(左京大夫)(相模守) |(相模守)  |(左京大夫)
                 |       |
                 |       +―姉
                 |        (芳桂院殿)
                 |          ∥   
                 | +―千葉介胤富―千葉介邦胤
                 | |(千葉介) (千葉介)
                 | |
                 | +―千葉介親胤
                 |  (千葉介)
                 |   ∥
                 +―――尾崎殿

 天正元(1573)年10月、下総国関宿城主・簗田中務大輔晴助は北条氏と対立した。もともと簗田晴助は北条氏の強引な公方家への介入に反発しており、何度となく戦火を交えていた。ここに至り、北条氏政は弟・北条陸奥守氏照を関宿城に派遣して取り囲ませた。また、氏政は千葉介胤富に対して援軍を求め、これに応じた胤富は邦胤および原式部大輔胤栄、高城治部少輔胤辰、石出将監らを派遣した。これに対し、晴助は佐竹義重や上杉謙信に対して援軍を求めて北条勢と戦うが、佐竹勢、上杉勢の働きはあまり芳しいものではなく、一年以上に及ぶ合戦の末、晴助は佐竹義重を仲介として北条氏と和睦。晴助は城を立ち退き、佐竹義重を頼って水海城に入った。この戦いの中で千葉勢の石出将監が討死を遂げたという(『千葉伝考記』)。

 元亀3(1572)年11月13日に邦胤発給の『邦胤署判(断簡)』(『千葉市史史料編3』)が見られることから、元服と同時期に邦胤が惣領家の家督を継いだと考えられる。当時の邦胤は十六歳である。天正2(1574)年9月18日、胤富の鶴丸黒印が捺された海上八幡宮の神事銭徴収を命じる黒印状が発給されているように、胤富自身も政治的に関わりを見せていることから、胤富は政治的判断で早々に邦胤に家督を継承した上で経験を積ませ、みずからは後見的な立場で大勢をみたものと推測される。

 天正元(1573)年10月、下総国関宿城主・簗田中務大輔晴助は北条氏と対立した。もともと簗田晴助は北条氏の強引な公方家への介入に反発しており、何度となく戦火を交えていた。ここに至り、北条氏政は弟・北条陸奥守氏照を関宿城に派遣して取り囲ませた。また、氏政は千葉介胤富に対して援軍を求め、これに応じた胤富は邦胤および原式部大輔胤栄、高城治部少輔胤辰、石出将監らを派遣した。これに対し、晴助は佐竹義重や上杉謙信に対して援軍を求めて北条勢と戦うが、佐竹勢、上杉勢の働きはあまり芳しいものではなく、一年以上に及ぶ合戦の末、晴助は佐竹義重を仲介として北条氏と和睦。晴助は城を立ち退き、佐竹義重を頼って水海城に入った。この戦いの中で千葉勢の石出将監が討死を遂げたという(『千葉伝考記』)。

 天正2(1574)年11月27日、邦胤は「押田与一郎(吉正)」に対して『元服状』を発給、さらに翌閏11月24日にも「椎名左馬允」に『官途状』を発給した。

●天正2(1574)年11月27日『邦胤元服状』

    元服
 天正
  十一月廿七日  邦胤(判)
 弐年
     押田与一郎殿

●天正2(1574)年閏11月24日『邦胤官途状』

   官途
天正
 閏十一月廿四日  邦胤(花押)
弐年
  椎名左馬允殿

 天正2年ごろは北条氏と里見・正木氏の戦いが頻発しており、原氏が小弓城主として対里見家の最前線にあった。原胤栄は天正2(1574)年3月25日、臼井城妙見堂に「金灯炉」を寄進しており、臼井城にも在城していたことがうかがえる。また、胤栄の父・原上総介胤貞は天正3(1575)年までに上総国小西城へ移ったとされており、まだ二十四歳の若い胤栄に代って、老練な胤貞が里見氏との最前線に赴いていたのかもしれない。

 天正3(1575)年3月13日、「兵部大輔家中十余人」が香取神領に居座っていたことに対して、東総の支配を任されていた森山城主・原若狭守親幹は、当初は神領と地頭領が混在する地域の紛争のために介入をしなかったが、騒動が長引くにあたり国分家臣十人の放逐と香取社への出入り禁止などを命じた。この「兵部大輔」は天正6(1578)年正月25日及びに天正8(1580)年2月10日に古河公方義氏に白鳥を進上した「國分左衛門太郎=國分兵部太輔」の父か。これに対して天正3年、国分兵部大輔は「対此方挿逆心之条、動干戈」して香取郡木内庄などに乱入し千葉家領を押領した。この叛逆に邦胤は森山城主の原若狭守親幹へ出陣を命じ、国分勢を追い払って同地を回復。天正10(1582)年5月、邦胤は親幹の功績を賞し、取り戻した所領のうちから木内庄小見郷内を親幹に与えた(『千葉介邦胤判物』)。

邦胤 龍の印 邦胤 花押1 邦胤 花押2
邦胤印「龍」 邦胤花押一 邦胤花押二

 邦胤の父・千葉介胤富は、千葉家と北条家との結びつきを深めるために、邦胤の妻に北条氏政の娘を迎えることを図っており、某年8月20日『胤富書状』によれば、「抑先年以遠山丹波守、小田原江縁辺之儀申入候キ」とあって、小田原北条家重臣・遠山丹波守(江戸城主)を通じて縁談を諮っていた。しかし「然ニ此頃ハ国無調故(この頃は国内が治まらなかったため)」縁談が滞り、「不及是非打過候、誠ニ背本意候(やむなく縁談を棚上げしてきたが、誠に本意に背くことであった)」と無念さがにじみ出ている。

 こののち邦胤と氏政娘(芳桂院殿)との縁談は成立し、邦胤は氏政の女婿となった。『千学集抜粋』によれば、天正13(1585)年に邦胤が亡くなった際には十二歳の娘と三歳の御曹司(のちの重胤。母は岩松守純女子)がいたという。逆算すると、邦胤長女が生まれたのは天正2(1574)年、「御曹司」が生まれたのは天正11(1583)年となり、氏政娘(芳桂院殿)が邦胤に嫁いだのは天正元(1573)年以前となる。邦胤の官途状初見は元亀3(1572)年11月のことで、邦胤は氏政娘との婚姻が成立したことをきっかけに家督を継いだのだろう。父胤富は十六歳の若当主の後見となったものだろう。邦胤は家臣たちに対して官途状などを盛んに発給しており、天正7(1579)年正月9日、海上蔵人(海上胤保)に「山城守」の受領名を許した。海上蔵人は先代・胤富の代から石毛大和守とともに東総を治めていた旗頭であった(『千葉介邦胤受領状』)。天正8(1580)年正月3日には「大須賀越中守(=幡谷越中守か)」への『受領状』が遺されている。また、被官の原若狭守親幹、原大蔵丞邦長、円城寺兵庫邦貞らの「邦」字は邦胤の偏諱を給わったものであろう。

●天正7(1579)年正月9日『邦胤受領状』(東京都立中央図書館蔵『下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書集』)

     受領
  天正
    正月九日 邦胤(花押)
  七年
     海上山城守殿

●天正8(1580)年正月3日『邦胤受領状』

    受領
  天正
   正月三日   邦胤(花押)
  八年
      大須賀越中守殿

 なお、邦胤が官途状などを発給しているのは東総に知行を有する被官(押田・椎名・海上・円城寺・大須賀氏など)であることや胤富・邦胤が被官へ宛てた書状の大部分は森山衆であることから、千葉惣領家の直接の支配領域は本佐倉周辺を西端とし東は太平洋までの東総地域に偏っていた。父・胤富の代に深まった森山城・海上氏との繋がりが影響しているのだろう。『千葉邦胤朱印状』は天正13(1585)年1月19日、森山衆の主だったもの「原若狭守親幹」「安藤備中守」「石毛金右衛門尉」に宛てた軍規状である。佐倉より西は千葉庄を含めて臼井原氏の勢力圏(臼井原氏は事実上独立勢力である)となっていた。

 天正7(1579)年10月、埴生庄龍角寺(印旛郡栄町龍角寺)に対して「麻生酒直之三郷」「埴生十五郷」を寺院修築費として寄進し、「何事も任天平度之例」とする寄進状を発給した(『千介邦胤寄進状』)。龍角寺は聖武天皇の勅願で建てられたとされ、下総の寺院でももっとも古い寺院の一つである。この五か月前に父胤富が亡くなっており、それとの関わりも想定される。

●天正7(1579)年10月『千葉介邦胤寄進状』

  総州埴生龍角寺
聖武天皇勅願古跡無□之霊窟也、于茲当郷麻生酒直之三郷者、備加監修理料殊ニ埴生十五郷可為舗地、何事も任天平度之例、永不可有相違者也、仍而證状如件
  天正七年己卯十月     邦胤
   本坊并衆徒中  

 天正8(1580)年5月30日、妻の北条氏が卒去する(髙橋健一氏『芳桂院』ー戦国期東国の一女性とその周辺ー)。法名は芳桂院殿貞室隆祥大禅定尼。この卒去の年については、佐倉の天桂山隆祥寺(佐倉市山崎)の過去帳に卒去年の記があり(髙橋健一氏『芳桂院』ー戦国期東国の一女性とその周辺ー)、本佐倉城下の勝胤寺に残る宝篋印塔にも「貞室隆祥大禅定尼」「于時天正八年庚辰黄梅晦日」が刻まれていることから間違いないだろう。そして「千葉新介平邦胤は、始めは北條相模守氏政の婿たり、北條の息女は、一女子を産みて、早世し、其後、岩松治部大夫姉を娶る、此腹に男子あり、新介重胤といふ」(『千葉伝考記』)とあるように、芳桂院殿卒去後に後妻として「岩松治部大夫姉」を娶っている。その岩松氏との間に男子「御曹司」が生まれたのは天正11(1583)年5月1日(『千葉伝考記』)とすると、婚姻の時期は芳桂院殿卒去の天正8(1580)年~天正10(1582)年となる。

■千葉北条血縁図

 伊勢宗瑞─北条氏綱──北条氏康─+─北条氏政───+─北条氏直
(早雲庵)(左京大夫)(相模守) |(相模守)   |(左京大夫)
                 |        |
                 |        +─────────千葉介直重
                 |        |        (千葉介)
                 |        +─姉       ∥
                 |         (芳桂院殿)   ∥
                 |          ∥───────女子
                 |          ∥
                 | +─千葉介胤富──千葉介邦胤
                 | |(千葉介)  (千葉介)
                 | |        ∥───────千葉重胤
                 | |        ∥      (千葉新介)
                 | | 岩松守純───東
                 | |(治部大輔)        
                 | |        
                 | +─千葉介親胤
                 |  (千葉介)
                 |   ∥
                 +───尾崎殿

 どのような理由で新田岩松氏が選ばれたのかは記されていないが、新田岩松氏の史料には「千葉、上杉、新田ノ三家因ミ深ク代々重縁ヲ結ヒ来ルト云伝フ」(『新田岩松之系図附録』)とあり、千葉介満胤と岩松治部太輔満純がともに上杉禅秀女婿という相聟関係にあったことから、それ以来深い関わりを持ったと推定している。

●『新田岩松之系図附録』(『群馬県立歴史博物館紀要 第41(2020)』)

第十七代
新田治部太輔守純童名満次郎母ハ梁田中務少輔カ女老後破瓢斎ト号ス、元和三年二月九日行年八十五ニシテ逝去、法名大空院殿乾泰元亨大居士
…
始如意山普門寺ニ葬ル、后良田山長楽寺ニ改葬、其一男新田靱負清純母ハ簗田中務少輔カ女早世、二ハ女子下総国佐倉ノ城主千葉新介邦胤ノ妻ニシテ一男子同新介重胤ヲ生ム、父邦胤ノ死後天正十八年小田原陳ノ時重胤纔ニ六歳、邦胤ノ後室、
私云後室ノ父守純六代ノ先キ治部太輔満純、上杉入道禅秀ノ娘ヲ娶リ千葉介満胤ト相聟三家一味シテ応永ノ大乱ニ及び鎌倉ニ於テ各滅亡、其后満純公ノ一子二郎孤トナリ世良田長楽寺ニ隠レテ出家比叡山ニ登リ青蓮院殿ニ随身后、青蓮院御還俗義教将軍ト申奉ルノ日、同還俗初メ新田二郎長純后三河守家純ト称ス程無ク永享十二年鎌倉持氏御退治ノ時上杉兵部太輔房顕、新田三河守家純両将ニハ汝等ガ親ノ敵ナリト普光院殿ノ命ヲ蒙リ関東エ下リ結城戦場ノ武功有テ再ヒ家ヲ興シ賜フ以来千葉、上杉、新田ノ三家因ミ深ク代々重縁ヲ結ヒ来ルト云伝フ
是ヲ携ヘ三千ノ兵ヲ曳テ、彼城ノ後詰トシテ湯ノ山ニ籠ル
私云、重胤此時浪人后佐倉ノ城主土井大炊頭ニ養レ死ス、母ハ后 崇源院殿ニ仕ヘテ東ノ局ト称ス

 新田氏史料に見える「其一男新田靱負清純母ハ簗田中務少輔カ女早世」の早世理由について新田氏側では詳細に記載をしていないが、『寛政重修諸家譜』の「岩松」(『寛政重修諸家譜』1520巻)の項には、「清純太郎 靱負」として「某年三月九日下総国佐倉にをいて千葉新介邦胤かために害せらる」とあるように邦胤に殺害されたことがわかる。おそらく姉に附いて佐倉に来たが何らかの理由で邦胤の勘気を受けて殺害されたのだろう。享年は十八という(『新田文書』)。

●『寛政重修諸家譜』

清純
太郎 靱負 某年三月九日下総国佐倉にをいて千葉新介邦胤かために害せらる

●『新田岩松系図』(『新田文書』)

清純
新田太郎 靱負 三月九日於下総国佐倉平邦胤為ニ被討十八歳 法名東岸久伯居士

 天正10(1582)年5月14日、邦胤は「先年国分兵部大輔」の謀反に対し軍勢を差し向けて打ち破り、その取り返した所領のうち「香取郡木内庄小見郷内」の土地を原親幹に知行せしめている。

●天正10(1582)年5月14日『千葉介邦胤判物』

先年国分兵部大輔、対此方挿逆心之条、動干戈、以其力、取返領分之中、当国香取郡木内庄小見郷之内、永領之給分田畠共所宛行実也者、早任先例、可致領知之状如件
  天正十年五月十四日    邦胤(花押)
   原若狭守殿

 天正10(1582)年3月23日、織田信長の重臣・滝川左近将監一益は上野国厩橋城へ派遣し、甲斐国には川尻肥後守秀隆を置いて統治に当たらせた。滝川一益の厩橋城派遣は小田原北条家とも調整の上での入部とみられる。織田家と小田原北条家は至極親密な関係となっており、この頃は「形式上」ではあろうが小田原北条家は織田家の従属下にあったのである。

 小田原北条家は岡崎の徳川家康を通じて天正8(1580)年3月9日に織田信長と接触した記録があり、「北条氏政より御鷹十三足」と「御馬五疋」が宿所とされた本能寺で進上された(『信長公記』天正八年三月九日条)。このときに「御取次」を務めたのが「滝川左近」である。翌3月10日、大殿氏政の使者笠原越前守(笠原康明)と氏直の使者間宮若狭守(間宮綱信)、原和泉守は「滝川左近将監」を「公儀御執奏」として信長と対面。氏政使者笠原越前守に「御太刀」や「白鳥」「熨斗」などの御礼が「佐久間右衛門」をして披露された。北条氏側からは「関東衆申し上げらるゝの趣これを承」っている(『信長公記』天正八年三月十日条)。北条方の交渉内容は「御縁辺相調へ」ることと「関東八州御分国に参る」ことの二点であった。つまり、北条氏直は信長の女婿となり、関東八州は信長へ献上することを申し出ているのである。当然ながらこの交渉に信長は大いにご機嫌で、彼らが本能寺を退出すると、信長は「相州衆へ仰せ出ださるゝ趣」として「幸の事に候、滝川左近案内にて、京都懇に見物申し、頓て安土へ罷り下り候へ」と述べている。おそらく天正8(1578)年当時、北条氏政は織田信長の勢力の強大さに驚愕し、氏政を信長女婿とし、関八州を形式上で織田家版図とすることで甲斐武田家や越後上杉家との戦いを有利に進めようとした可能性があろう。

 天正10(1582)年3月28日には、北条氏政は三嶋神社に「信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者」を願うほどに氏直と信長女との縁組を願っている。そして「御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間」とあるように、織田家と氏直の縁組が成立することで「関八州氏直本意暦然之間」としており、両家の深く重い関係が氏直の関八州の安定的統治につながるとしている。

●天正10(1582)年3月28日『北条氏政願文』(『小田原市史 史料編中世3』『高橋一雄氏所蔵文書』)

  願書
右意趣者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件
  
  天正十年三月廿八日     氏政(花押)
   三嶋
    神主殿

 こうした関係がある以上、関東御取次の滝川一益が、北条家から「御分国」として織田家に「参」られた「関東八州」を監督するために関東入部することは自然なことであり、織田家側の配慮で旧武田家勢力圏で北条家の勢力が及んでいない上野国厩橋へ入部したのは、織田家側と小田原北条家の間で相談して取決めされた部分であろう。さらに厩橋城に入った滝川一益は織田政権内で東国との交渉を担当する「関東御取次」であり、小田原北条氏とは旧知の間柄であることからも敵対し得る関係にはなかったと考えられる。

 また、以下は『千葉伝考記』の記述であるが、信長は関八州を北条氏からの申し出によって「御分国」化に成功すると、今度は邦胤に馬を贈り「其文詞甚だ驕」った書状で協力を迫ったという(『千葉伝考記』)。邦胤はこの書状を見て、

「信長、勝頼を討滅して北條を侮る、譬ひ氏政氏直父子は信長に屈伏せらるゝ事ありといふとも、我は何ぞ渠を畏れんや」

と激怒し、「其使者の士を辱しめ、使者の頭髪を剃り、且つ贈る所の馬の尻毛を剪つて進み返」したという。小田原北条氏が織田家と相当深いレベルで協調関係にあったことは、公然の事実であったとみられる。 

 ところが天正10(1582)年6月2日未明、織田信長は京都本能寺において惟任日向守光秀に襲撃され落命した(本能寺の変)。この事件は京都で起こったものであることもあり、瞬く間に全国に情報が波及する。小田原北条氏も織田信長落命の情報を6月11日に入手する(天正十年六月十一日『北条氏政書状』)。氏政はこの情報に驚愕し、即日厩橋城の滝川一益へ事の真相を尋ねる書状を送達した。

●天正10(1582)年6月11日『北条氏政書状』(『小田原市史 史料編中世3』『高橋一雄氏所蔵文書』)

今十一未刻、自深谷之台一庵書状被指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様二有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐々謹言、

    六月十一日           氏政(花押)
 瀧川左近将監殿
       進之候

 ただいま11日未刻に、深谷城の一庵より書状が送られてきました。そもそも京都の様子について、こちらからも確認しておりますが、事実でしょうか。遠州からも注進が相次いでおります。こちらからまず早飛脚をもって申し届ける趣旨は、このような状況なので、そちらをしっかりと守り固めておくことが何よりも肝要であるということです。当方に対しては毛頭も疑心を持ってはなりません。万が一、一途な思い込みや不審な様子などがあっては、今回の逆心を抱いた者たちに対し、貴殿の鬱憤を晴らす機会も到底実現せぬことになるでしょう。
 しかしながら、氏政父子にご相談いただければ、最初から最後まで心疎いことなく、大小の事柄に至るまで何でも相談し合えるはずです。
一、右の書状が届きましたので、ただちにお伝えいたしました。見合わせることなくよくご判断ください。追って使者を差し向けて申し伝えます。

 ところがこののち、滝川一益は北条氏と手切れしてしまう。北条氏は信長及び嫡子の城介信忠の死によって織田家自体の弱体化が避けられないであろうことは確実であると読み、氏直が自ら上野国へ向けて小田原を出陣をした。おなじく鉢形城の北条氏邦もこれにあわせて兵を進めた。これが滝川勢を狙ったものなのか、滝川勢との交渉の為なのかは定かではない。しかし、滝川一益は「関東瀧川無憑所被罷成候處」という状況下で「瀧川方不及了簡」だったのだろう。たとえ北条方に「心替」の気はなかったとしても、滝川はこの出兵を「北條氏政有全心替、既瀧左不義被構候」と捉えたとしても当然であろう。結局、滝川は「手切之働被懸成候」という悪手を選んでしまう。

 6月16日、氏直が倉賀野へ兵を進めたとき、滝川一益が兵を繰り出して初戦している。6月18日には金窪、本庄で両軍は合戦となり滝川勢は「氏直親邊之者共数多鉢形衆三百餘被討取」という大勝利を得る。そしてその翌日6月19日の合戦も滝川勢の勝利となるが、その後に「氏直家中有功者、京勢を陣城江近々与引掛、後陣之人数瀧川父子不及了簡合懸、遂一戦、忽京勢切崩」と、滝川勢は策略にはまって大敗を喫する(神流川の戦い)。その敗走は「京勢無残所悉被討捕」という壊滅的なものとなり、「瀧川父子不及了簡」まま「信州山奥江被引退候」した。これにより北条方は上野国西部、信州との境までその版図を一気に広げた。

●天正10(1582)年6月22日『書状案写』(『松平義行蔵文書』)

同六月二日、不思議ニ京都一乱、信長御父子洛中ニ而御切腹、御同名七兵衛殿、惟任両人之謀叛ニ而、安土京都失正体候、就之、関東瀧川無憑所被罷成候處、北條氏政有全心替、既瀧左不義被構候間、瀧川方不及了簡、手切之働被懸成候、同六月十六日ニ、氏直倉加野表へ被相働候之處、瀧左掛合、同十八日かなくほ、本庄之原ニ而被及一戦候之處、京勢存侭ニ被得利、既氏直親邊之者共数多鉢形衆三百餘被討取、得大利候、同十九日重而被及一戦、忽懸透切崩、京勢勝利之處、氏直家中有功者、京勢を陣城江近々与引掛、後陣之人数合懸、遂一戦、忽京勢切崩、倉加野を追越、惣社寺、箕輪之間迄追切ニ成し候、然は、京勢無残所悉被討捕、瀧川父子不及了簡、信州山奥江被引退候、重而自信州人数ヲ調、可討入之段、調落之由候、不可経数日由、味方中江被申越候、御同心可然候、少も御油断被心掛之所可然候也、
一 由良、長尾向此口手切働可成之由注進候、雖不珍候、掛合可途欝憤之條、無他事迄候、何も同心此刻候、恐々謹言、

 六月廿二日(以下闕)

 6月2日、思いがけないことに京都で異変が起こり、信長御公父子が洛中で御切腹されました。御同名の七兵衛殿と惟任の二人の謀叛によって、安土と京都は大混乱に陥りました。そのため、関東の滝川殿は頼るべき所を失う状況となりましたところ、北条氏政がすっかり心変わりし、すでに滝川左近に対して不義の構えを見せたため、滝川方も冷静な判断ができずに、滝川方から手切りの戦闘を仕掛けました。同6月16日、北条氏直が倉加野方面へ軍を進めたところ、滝川左近がこれを迎撃し、18日には金窪および本庄之原で合戦となりました。その戦いでは、京勢が思う存分に勝利を収め、すでに氏直の身辺の者どもが多数討ち取られ、鉢形衆も300余りが討ち取られて、京勢が大勝利を得ました。翌19日の再戦でも京勢は北条勢をたちまち攻め破り勝利しました。ところが氏直家中の功者が京勢を深追いさせ、そこへ後陣の人数と合流して京勢に総攻撃をかけ、一戦の末、京勢は切り崩され、倉加野を追い越して惣社寺と箕輪の間まで追い崩されました。 その結果、京勢は残らず討ち取られ、滝川父子は思案の余地なく信州の山奥へと落ち延びました。重ねて信州で人数を集め上州へ討ち入ろうとする計画も頓挫しましたとのことです。数日を経ずして行動を起こす旨は味方の陣中へ伝えられていますので、皆様にも御同心いただき、少しも油断しないようお心掛けいただくべきです。 一つ、由良氏や長尾氏がこの方面に向かって手切りの働きを起こす旨の注進が届いております。今更珍しいことではありませんが、交渉して鬱憤を晴らすことができるはずですので、ほかに申し上げることはありません。いずれにせよ、一同心を一つにして臨みましょう。

 本能寺の変以降、甲斐を治めていた川尻秀隆も甲斐の民衆の恨みを買っていて討ち果たされ、代わって徳川家康の軍勢が甲斐国に進軍した。小田原北条家もまた7月には信濃国に進駐。小諸城の依田右衛門佐信蕃を追い落として宿老・大道寺駿河守政繁を城代とした。その後、北条勢は進軍して上杉景勝の川中島海野城代・香坂弾正を調略したが、香坂弾正は7月13日に上杉景勝によって誅殺されたため、軽井沢に退却して甲斐国を窺った。8月1日には氏直みずから甲斐に進軍し、徳川勢とにらみ合いが続いた(若御子陣)。なお、北条氏はこれら一連の進軍について邦胤にも出兵を要請しており、これに応じた邦胤は自ら出陣して氏直とともに甲斐国で徳川勢と対陣している。

 9月当時、下総千葉勢が伊豆国にも展開していた。伊豆国にも徳川勢が進軍しており、9月には国府三嶋や韮山付近で激しい戦闘が起こっており、千葉勢はこれらの援軍であるとみられる。邦胤は「従初秋于今」小田原に戻っていた北条陸奥守氏照に赤斑黄足の隼(稚児隼か)を贈って挨拶をし、これに対する返礼として9月23日に氏照から邦胤への書状が認められ、「当口無事之間、可為御大慶候」とあるように、小田原に異変はない事を伝えている。そして「就中、御人数于今豆州ニ在陣之由、遠国之長陣、寔無際限、御人数之陣労可申立様無之候、併以其意趣方々、如存分候之条、肝要存候」と辛労に対する労りを伝え、隼の御礼も「被懸御意候、自愛此事候」と述べている。

●天正10(1582)年9月23日『北条氏照書状』(『穴八幡神社文書』)

御札本望候、如仰其以来無題目、不申達候、背本意存候、従初秋于今御膝下ニ祇候、当口無事之間、可為御大慶候、就中御人数于今豆州ニ在陣之由、遠国之長陣、寔無際限、御人数之陣労可申立様無之候、併以其意趣方々、如存分候之条、肝要存候、次当秋之隼赤腑黄足被懸御意候、自愛此事候、何様自是可申達候間、令省略候、恐々謹言

  九月廿三日  陸奥守
           氏照(花押)
 千葉殿
    御報

 こうした中で北条方に付いていた木曾義昌や真田昌幸が突如離反して徳川方に付くと、上野国への退路を塞がれた北条氏直は孤立。小田原の北条氏政による追加派兵によって通路の確保が図られている。こうした情勢の中でおそらく北条氏政から徳川家康に対する和睦が提案された交渉が執り行われた。そして10月29日、氏直は「北条美濃守氏規をして家康に和を請」い、家康も「井伊兵部少輔直政に木俣土佐守守勝を副へて」互いに覚書を交わし「甲州若神子之原ニ而北條氏政と神君御和睦相調、直政公執筆之五ヶ條、氏政點頭御書壱通」、和睦が成立した。家康の次女・督姫を氏直室とする約束も交わされた。

●天正10(1582)年10月29日『井伊直政覚』(『木俣文書』『岡崎市史 別巻中巻』)

一 御ゐんきよ様御せいく之事
一 さたけ、ゆふきゑひきやく御通可被成之事
  これおおふしうへ御そうしやニ御馬入候て御としあるべき之事
一 みなかわ方、水之や両人、御通候て可給候事
一 しよのおりへさいし御渡可給候事
一 あしたかかたへのひきやく之事
   以上
 十月廿八日

 そして、北条方からも二条件が提示されている。

●『覚』(『木俣文書』『岡崎市史 別巻中巻』)

一 小田原へ御ひきやく之事
一 七郎右之儀、あわれ小田原まてさしこされ候はゞ、濃州一代御おんに可被請候由、被仰候事

 和睦の成立に伴い、氏直は小田原へ帰還。邦胤も佐倉へ引き揚げている。その後、邦胤のもとに氏直から使者・中條出羽守が到来し、長陣の苦労の謝礼として、礼状と左文字の短刀、酒肴が進上された。邦胤からも返礼の使者が送られた(『千葉伝考記』)。そして、天正11(1583)年8月15日、督姫は小田原に移り氏直との婚姻が成立した。

 天正12(1584)年1月と3月の2回にわたって、原若狭守親幹とともに香取郡の東大社に大般若経を寄進した。親幹は原豊前守胤長・原大蔵丞邦長父子とともに筆頭家老をつとめ、北条氏に対する「奏者」でもあった。親幹の子・原大炊助邦房も天正15(1587)年8月5日、「其方奏者方并同心以下、如邦胤時、不可有相違者也」という北条氏政からの書状を受け取っており、「邦胤の時の如く」奏者・同心以下を原邦房に命じたことがわかる。

佐倉城遠景
本佐倉城(南方より)

 天正13(1585)年正月19日、邦胤は森山城の原邦房以下三名へ、足りない軍事備品は直ちに届け出ること、出陣に際しての準備を怠りないように努めること、支配下の人々を外部の国衆と喧嘩をさせないようにしっかり取り締まるように、という三ヶ条を送っている。これは小田原北条氏や古河公方との関わりが強化される中で、千葉国主としての威厳や体面をしっかり保つことが求められたのであろう。さらに今後は他国人との交わり、同陣宿営の機会も発生することが十分想定されることから、これらにしっかりと対応することを求めたものであろう。

●天正13(1585)年正月19日『千葉介邦胤朱印状』

   条々
一 鑓、小旗、鉄砲、騎数以下厳密ニ遂糺明、不足之所可申上事、
一 打立之砌、指物さヽすして罷出候者并陣屋ニ鑓残置者、無思慮申付、
  及異儀者可遂披露事、付虚病之事、
一 対他所、無喧嘩様之仕置専一候、若無料簡喧嘩於出来者、国衆一統ニ入精、
  無未様ニ可致之、聊見除申者有之者、速可遂披露事付、間々喧嘩於口論者、
  双方御追放之事、

(龍字朱印)乙酉
       正月十九日
                原大炊助 殿
                安藤備中守 殿
                石毛金右衛門尉 殿

 ところが、この矢先の同天正13(1585)年5月7日、邦胤は「一鍬田五郎狂乱シ御額ヲキリツケ逝去」した(『本土寺過去帳』『千学集抜粋』)。二十九歳。法名は傑心常俊大禅定門、法阿弥陀仏。邦胤を殺害したという一鍬田五郎は香取郡千田庄一鍬田村(香取郡多古町一鍬田)の国人と思われる。供養塔は大佐倉城下の勝胤寺の千葉家供養塔群に遺っており、「傑心常林大禅定門」「天正十三年己酉五月七日」と刻まれている。なお、妻の芳桂院殿の宝篋印塔も並んで建っている。

千葉介邦胤の暗殺(『千葉伝考記』)

 没年については『千葉伝考記』に天正16(1588)年7月4日という説がある。以下はその記である。

 天正16(1588)年1月、佐倉城内の書院において、恒例の新年祝賀会が執り行われ、そこで十八歳の邦胤近習「桑田万五郎(一鍬田孫五郎か)」が配膳役を務めていたが、このとき一度ならず二度にわたって放屁した。一度目は許した邦胤も、二度目になると我慢ならず、ついに万五郎を叱りつけたという。これに万五郎は書院の中央にひざまずき、

「卒爾の失錯は庸常有之べき事なるに、かかる曠なる座中に於て形の如く顔面に辱を蒙る條、つれなき仕合なり」

 とはばかることなく反論したことで、邦胤はさらに激怒。座を立ち上がると万五郎を蹴り倒し、短刀に手をかけたところ、慌てた傍の者が万五郎を引き立てて行った。列座の諸将も邦胤を宥めたためその場は収まり、万五郎は椎津主水正へ召し預けとなった。その後、閏5月中旬に赦され、万五郎はふたたび邦胤の側近として働き出した。しかし万五郎は恨みを忘れておらず、折あらば邦胤を害して鬱憤を晴らすつもりであった。こうして邦胤の隙をうかがい続け、7月4日の夜半、万五郎は邦胤の寝所に忍び込むと、短刀を抜き、寝ている邦胤を二刺して逃走した。

 邦胤は重傷を負いつつ起き上がり「憎き小倅めが所為かな」と一声叫んだ。これを隣の宿直の者が聞きつけ、邦胤の寝所に入ってみると、邦胤は朱にまみれて倒れていた。邦胤にはまだ息があり、「鍬田面を脱さず討取れ」と言ってこと切れた 。享年三十九とされる(『千葉伝考記』)。

 家臣たちは八方手を配って万五郎を追ったが見つけられなかった。そのころ万五郎は城の城門が閉じていたため逃れられず、さらに闇夜であったため城内の物陰に隠れ、明け方になって城壁を乗り越えて逃走。菊間村(市原市菊間)に潜伏していたところを討手に囲まれたため、自害したという(『千葉伝考記』)。

 一方、邦胤は重傷を負いながらも重臣の中村雅楽亮と設楽左衛門尉に万五郎を追わせ、菊間村に潜伏していた万五郎を逮捕。草刈村(市原市草)で処刑したともいう。中村雅楽亮常顕は佐倉城の南・鹿島館の管理を任されていた重臣で、設楽左衛門尉はのちに千葉千鶴丸(重胤)を補佐して小田原に入城したという。


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