馬加康胤

千葉氏 千葉介の歴代
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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馬加康胤 (1398?-1456)

生没年 嘉吉元(1441)年?~康正2(1456)年10月1日?
千葉介満胤
不明
不明
官位 不明
官職 陸奥守
役職 なし
所在 下総国千葉庄馬加
法号 常義、太相浄応、法阿弥陀仏
墓所 千葉山海隣寺

 馬加千葉家初代。十二代・千葉介満胤の子。官途は陸奥守。出家して陸奥守入道。号は常義千葉介入道常瑞(胤直)・千葉介胤宣らを討った時点ですでに出家しており「千葉介」への就任はなかったが、古河公方・足利成氏より千葉家惣領として認められた可能性も否定はできない。生年は応安7(1374)年2月9日(『千葉大系図』)、または応永5(1398)年(『千学集抜粋』)とも。

 康胤は満胤の庶長子ともされ、幼い頃は常陸大掾家の養子に入っていたが、のち千葉に帰って千葉庄馬加村(花見川区幕張)に館を構えて、馬加氏となった。父の満胤の頃は常陸の豪族との関係が密接になっていた傾向があり、この養子についてもそのような関係があったのかもしれない(『千学集抜粋』)

 応永22(1415)年10月の「上杉禅秀の乱」では、千葉大介満胤嫡子修理大夫兼胤、同陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下野守」ら八千余騎もの大軍を米町表に展開した(『鎌倉大草紙』)

海浜幕張の大通り
現在の幕張

 永享の乱(1438-40)、結城合戦(1440-41)が起こったときは甥の千葉介胤直とともに出陣して軍功を挙げたと伝わり、嘉吉元(1441)年の将軍・足利義教暗殺に伴なう戦乱では、暗殺の実行者・赤松満祐追討軍に参加したという。

 嘉吉元(1441)年の結城合戦によって関東公方を継ぐべき者がなくなると、千葉介胤直はじめ、関東の諸大将たちは京都の土岐家邸に保護されていた持氏の末子・永寿王を次の関東公方に望み、時の将軍家・足利義成(のちの義政)もこれをみとめ、彼に諱の一字「成」を授けて「成氏」と名乗らせ、文安6(1449)年正月、関東へと下向させた。

 成氏は鎌倉の御所に入るが、そのころ関東では、持氏に縁座して所領を失い、成氏の公方就任をきっかけに濫妨押領を始めた公方派と、これを抑えようとする関東管領上杉派が対立。当時の千葉家惣領は「千葉新助(千葉新介胤將)」であったが、彼は「父ハ持氏へ不忠ありしかども、同名陸奥守がすゝめにより成氏の味方と成」った。この「同名陸奥守」とは、「千葉陸奥守康胤」のことである。

 そこで幕府管領の細川勝元は、関東管領・上杉右京亮憲忠を通じて公方派の濫妨を抑えようと謀ったため、窮地に陥った公方派はまだ十七歳の若い成氏を煽り立て、成氏は亨徳3(1454)年12月27日、憲忠を西御門御所へ誘い出し、配下の結城成朝武田信長里見義實印東式部少輔ら三百騎を派遣して討取った。さらに、新田岩松持国を上杉憲忠邸へ派遣すると、留守を守っていた上杉家家宰・長尾実景父子を攻め殺した。

馬加城の遠景
馬加館跡遠景

 翌年正月5日、成氏による憲忠一党殺害の報が京都へ達し、関東と京都の関係は一気に険悪となった。こうして、上杉家と足利家の戦乱が正月6日からはじまり、関東は動乱の世に突入していくこととなった。

 享徳4(1455)年正月6日、上杉憲忠の家臣は相模国島河原(平塚市)へ出陣して相模国府に迫ったため、成氏は一色宮内大輔武田右馬助信長入道の両名を派遣してこれを破る。さらに正月21日、22日の両日にわたって上杉右馬助憲顕入道上杉大夫三郎持房長尾左衛門景仲入道が武蔵・上野の郎従数万騎を率いて武蔵国府へ攻め寄せたると、成氏はみずから武蔵国府付近の高幡分倍河原へ出陣し、上杉両将はじめ数名の主だったものを討ち取って鎮圧した。

 この戦いの直後、上杉家残党は常陸国小栗城(茨城県真壁郡協和町)へ集まり、城に立て籠もって抵抗したことから、成氏は結城御厨へ軍勢を進ませ、外様衆を差し向けて城を攻め落とした。そののち、小山下野守持政の館へ帰陣したが、上杉民部大輔房定上杉兵部少輔房顕の両将が越後・信濃の郎従を率い、長尾左衛門景仲入道は武蔵・上野の郎従を率いて、下野国天命只木山へ出陣し、成氏と対峙した。そして、彼らに呼応して挙兵したのが千葉介入道常瑞(胤直)」「舎弟中務入道了心(胤賢)」「宇都宮下野守等綱」だった。

多古城近辺
馬加城と多古城・志摩城の位置

 それまで千葉介胤直鎌倉府侍所所司として、鎌倉府を支えて成氏を支持していたが、戦乱を避けるために上杉氏との和睦を成氏に説いたが受け入れらなかったため、胤直は成氏を見限って上杉方に寝返った(『鎌倉大草子』)

 しかし、千葉陸奥入道常義父子」は成氏のもとへ残り、「相副諸軍於総州多胡志摩両城決雌雄」とあるように、「諸軍」を率いて胤直・胤宣・胤賢・「専一家人円城寺下野守一族」「総州多胡・志摩両城」で討取った『足利成氏書状』胤直との戦いには、胤直の重臣で鎌倉でも胤直の片腕として活躍していた原越後守胤房と共謀していた。

 亨徳4(1455)年、原胤房千葉介入道常瑞らを千葉の館に襲った。この「千葉合戦」は3月20日に行われたとされているが、『本土寺過去帳』の二日上段に記されている「曾谷浄忠 二月 千葉合戦打死」とある人物がこの合戦で討死しているとすれば、2月2日にはすでに交戦していることになる。

 2月の千葉合戦に敗れた胤直入道ら宗家一党は、原氏と対立関係にあった重臣・円城寺氏の本拠地である千田庄へと逃れた。そして、千葉介胤宣円城寺氏らとともに多古城(香取郡多古町多古)へ、胤直入道常瑞胤賢入道了心志摩城(香取郡多古町嶋)へと入っている。両城とも湿地に囲まれた天然の要害で、彼らは上杉家の援軍を待ちつつ、籠城を続けた。

 康胤入道は、千葉合戦自体には参加しておらず、胤直入道らが千田庄へ逃れたのち、馬加から千田庄に進軍して原越後守胤房と合流している。胤房康胤入道の出陣を喜び、康胤入道千葉介胤宣の籠もる多古城攻めの総大将とし、胤房胤直入道らが籠もる志摩城を攻めた(『鎌倉大草紙』)

多古城
康胤が攻め寄せた多古城跡

 胤直入道らのもとには原胤房からたびたび降伏が勧められていたが、胤直入道はこれをはねつけて籠城を続け、京都でこの報告を受けた将軍・足利義政は閏4月8日、胤直入道を賞して太刀一腰を遣わす御内書を発給している(『円覚寺文書』)。さらに将軍・義政は同日、今川上総介範忠(駿河守護職)に関東への出陣を命じている。これを受けた範忠は軍勢を関東へ差し向け、6月16日、相模国で成氏党の木戸・大森・印東氏らを破って鎌倉へ乱入し、御所はじめ中心街を焼き払った。こうして成氏は帰るべき所を失い、下総国古河へ落ちていった。これが古河公方の始まりである。

 同じころ、上杉兵部少輔房顕は千田庄で籠城を続ける胤直入道らを救うため、5月8日に常陸国信太庄(茨城県稲敷郡)の山内衆へ軍勢催促状を送り、下総国境に陣を張って円城寺氏と連絡を取り合い、その後に川を越えて下総へ攻め入るよう指示した(『臼田文書』)「常陸大掾父子」千葉介胤宣・円城寺下野守らとともに討死をしていることから(『本土寺過去帳』)、常陸大掾家が上杉家の援軍の一翼を担っていたことがうかがえる。

 しかし、上杉家の援軍もむなしく多古城は康胤入道の軍勢に糧道を絶たれ、さらに康胤入道は囲みの一方を開けていたために城兵は次々に逃亡。籠城から四か月ほど経った8月12日、胤宣はついに乳兄弟円城寺藤四郎直時康胤入道のもとへ派遣して開城する旨を伝えた。そして、胤宣らは「むさ」の阿弥陀堂に移ることを望み、康胤入道はこれを受け入れた。こうして千葉介胤宣一党はその阿弥陀堂で自刃を遂げた(『鎌倉大草紙』)。 

 その三日後の8月15日、原胤房の猛攻によって志摩城も陥落。胤直入道は同日「妙光」において自刃した。この「妙光」とは「嶋村妙光寺」=「本覚山妙光寺」のこととされ、明治41(1908)年に長崎県へ移され、旧地には成等山正覚寺が建てられている。 

 一方、胤直入道の弟・胤賢入道了心は、子の七郎実胤自胤をともなって志摩城から逃れ出ており、志摩城が落城した22日後の9月7日、志摩城の南にある「ヲヽツミ」=「小堤(山武郡横芝光町小堤)」で自刃を遂げている(『本土寺過去帳』)。 

千葉介宣胤(胤宣) 五郎殿十三歳 享徳四乙亥八月
千葉介宣胤 法名 妙宣
『本土寺過去帳』十二日上段
千葉介胤直 千葉介胤直 相応寺浄瑞号日瑞 享徳四乙亥八月
大野小五郎御供申人妙光ニテ御腹被召
『本土寺過去帳』十五日上段
千葉中書(賢胤) 享徳四乙亥九月ヲツヽミニテ腹被切
千葉中書了心 改名奉号日了
『本土寺過去帳』 七日上段
+―円城寺下野妙城

+―壱岐守妙臺

+―日向守妙向
享徳四乙亥八月 其外多古嶋城ニテ打死諸人成仏得道 『本土寺過去帳』十二日上段
常陸大掾殿妙充
同子息
常陸大掾殿妙充
同子息
『本土寺過去帳』 十二日上段

 こうして、千葉介常胤以来の千葉介嫡流は三百年の歴史に幕を下ろしたが、胤賢入道了心は自刃の前に千葉実胤自胤の二人の子を上杉家の領国に近く、惣領家直臣・曾谷氏の本拠地でもある八幡庄へと逃れさせたのだろう。胤賢入道自刃の直後、千葉実胤自胤兄弟は八幡庄市川城に挙兵した。 

 千葉惣領家の滅亡後、成氏の活動は活発化し、康正元(1455)年12月3日と同6日、成氏は上杉八郎庁鼻和六郎憲信庁鼻和七郎長尾左衛門景仲入道らを武蔵国騎西城(埼玉県騎西郡)に破った。 

 一方、将軍・義政は関東で猛威を振るいはじめた成氏の反乱を鎮圧するため、側近で千葉一族・東左近将監常縁に関東鎮圧の命を下し、常縁浜式部少輔春利を副将として関東に急行した。東氏は美濃国郡上郡篠脇城主をつとめ、代々歌道の家として知られた家柄である。とくに常縁はのちに「東野州(下野守に任官後)」とよばれ、中院大納言為家の古今集の妙意解釈を伝える古今伝授の「切帋伝授」創始者として知られた歌人でもある。 

 常縁は下総国に入ると、まず本貫地の東庄に向かい、東大社へ和歌を捧げて勝利祈願をしたのち、大須賀左馬助国分五郎ら国内の有力一族の協力も得て原氏の本拠地・千田庄に馳せ向かい、康正元(1455)年11月13日、原氏の有力一族である「原左衛門朗珍」「原右京亮朗峯」を討ち取った。 

 胤房はその勢を支えきれずに、康胤入道の本拠地・馬加城(花見川区幕張)へ逃走。常縁はこれを追って11月24日には馬加で合戦し、一両日の戦いの後、原胤房は大敗して千葉へ逐電した『東野州聞書』。おそらく康胤入道も戦いに加わっていたと思われるが、彼の活躍はうかがえない。 

 翌康正2(1456)年正月、古河公方・足利成氏は、市川城に挙兵した千葉実胤自胤兄弟を討つため、重臣の簗田出羽守南図書助らを派遣したことで、一転して成氏方の勢力が強まり、千葉に逃れていた原胤房も成氏勢に属して市川城に攻め寄せた。このころ常縁も市川城に詰めて実胤・自胤を支援していたが、正月19日の合戦で実胤自胤勢は成氏勢に敗れ、兄弟は上杉氏を頼って武蔵国石浜へ逃れていった。翌20日、成氏は「於下総市河致合戦、悉理運之由」という注進を受け取っている『足利成氏文書』『東野州聞書』。 

 2月7日、常縁は匝瑳郡の惣社・匝瑳老尾神社匝瑳市生尾)に阿玉郷香取市阿玉川)中から三十石を寄進して戦勝祈願をしていることから、常縁は市川城から東庄方面へ逃れていったと考えられる。 

●『東野州聞書』(『群書類従』第六輯所収) 

 …前略…
 
 一 元雅して富永駿河入道遣事、康正二七御旗の手を敵へ吹かくる事吉例なり、
   同く旗の面を敵に向也、祝等の時同前たるべきなり、
 一 康正元十一月廿四日馬加ノ合戦ノ時ハ、味方ニ旗の手を吹かくるといへども、
   得勝利、又同二年正月十九日敵に旗の手をかく、然共御方成敗軍易如何、
   若不定の事なり、原越後守御退治之時之事共なり、雖非和歌之類、為子孫加筆者也、 

 その後、常縁との戦いを続けていたようだが、6月12日、嫡男・胤持が上総国八幡(市原市八幡町)で討たれたことが『千学集抜粋』に記されている。

首塚
伝馬加康胤首塚(幕張堂ノ山)

 胤持の首は京都へ運ばれたとされるが、『松羅館本千葉系図』などでは康胤の首が京都へ運ばれたとされる。康胤入道も同年11月1日、上総国八幡(市原市八幡町)の村田川の戦いで常縁に討たれたという。享年五十九(八十三とも)。法名は大相常応。康胤の首塚と伝わるものが、千葉市花見川区幕張町一丁目にある堂ノ山とよばれる丘に残されている(実際は律宗僧の供養墓か4)。

 康胤・胤持二代は「千葉介」に就任した形跡も見受けられず、「千葉介」は血縁上、武蔵へ逃れた自胤が認められ、下総国内でも常縁が馬加勢を討つ際、「国分五郎」「大須賀相馬(=大須賀左馬)」常縁に荷担していることから、馬加陸奥守康胤入道は一族の支持を受けられず滅んだと思われる。

 『匝瑳市史』に、慶増小太郎の木積合戦に対する感状が紹介され、康胤が差出人とされており、「康正元年十二月頃と推定されている」とあるが、差出人は康胤の法名「常義」ではなく、千葉介孝胤の法号「常輝」であるため、『匝瑳市史』はあきらかな誤りである。

●文書に見える千葉宗家と戦史

書状の年号 人物名 内容 文書
康正2(1456)年
正月19日
足利成氏 この日、市川城陥落。 『新田岩松文書』
康正2(1456)年
4月4日
千葉陸奥入道常義父子 陸奥入道父子、
千葉介入道常瑞・舎弟中務入道了心を討つ
『武家事紀所収文書』
康正2(1456)年
6月12日
千葉胤持 胤持没する 『千学集抄』
享徳5(1456)年
6月14日
原 胤房 弘法寺領として八幡庄秋山村などを安堵する 『弘法寺文書』
享徳5(1456)年
6月20日
原 胤房         〃 『弘法寺文書』
享徳5(1456)年
10月25日
岩橋輔胤 弘法寺領として、
八幡庄真間法華堂根本寺領を安堵する
『弘法寺文書』
享徳5(1456)年
11月1日
馬加陸奥入道 馬加陸奥入道、上総国八幡庄で討死する 『松羅舘本千葉系図』他

 上記をみると、まだ康胤入道が生存中と思われる享徳5(1456)年10月25日の時点で、岩橋輔胤が弘法寺領を安堵している享徳5年10月25日『岩橋輔胤安堵状』ように、惣領家のような動きを見せている。

 馬加康胤入道には胤持と娘の二人の子があったとされるが(『千学集抜粋』)、胤持は前記の通り、父に先立つこと約半年前に討死しており、康胤の死とともに馬加千葉氏は滅んだと思われる。

●岩橋輔胤周辺系譜(『千学集抜粋』『松羅舘本千葉系図』中心)

 千葉介氏胤―+―千葉介満胤―――+―千葉介兼胤―+―千葉介胤直――千葉介胤宣
(千葉介)  |(千葉介)    |(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)
       |         |       |
       |         |       |       【武蔵千葉氏】
       |         |       +―千葉胤賢―――千葉介自胤―――千葉介守胤
       |         |        (中務大輔) (千葉介)   (千葉介)
       |         |
       |         +―馬加康胤――+―馬加胤持
       |         |(陸奥守)  |
       |         |       |
       |         |       +―女            +―千葉介勝胤―――千葉介昌胤
       |         |                      |(千葉介)   (千葉介)
       |         |【松羅舘本系図】              |
       |         +―岩橋輔胤――――千葉介孝胤――…     +―成戸胤家
       |                                |(成戸殿)
       |                                |
       +―馬場重胤――――――馬場胤依――+―金山殿  +―千葉介孝胤―+―少納言殿――――物井右馬助
        (八郎)             |      |(千葉介)           (物井殿)
                         |      |
                         +―公津殿  +―成身院源道―+―光言院源秀―?―養運斎
                         |      |(菊間御坊) |
                         |      |       |
                         +―岩橋輔胤―+―椎崎胤次  +―天生院源長
                          (岩橋殿)  (入道道甫)

※結城合戦(1440-1441)

 関東の大豪族・結城氏朝が足利持氏(鎌倉公方)の遺児を援けて幕府に対して挙兵した事件。もともと鎌倉公方と幕府の仲は良くなかったが、代々の鎌倉公方は形式的に将軍家の偏諱を受ける習わしがあった。足利持氏も元服の際は、将軍・足利義持の一字を受けて「持氏」を名乗っている。持氏は応永30(1423)年8月、義持に攻められて11月に降伏。翌年2月に和睦が成立した。

 応永32(1425)年2月、五代将軍・足利義量が十八歳の若さで亡くなると、その父・足利義持(前将軍)は落胆し、将軍位は空位のままとなった。このため11月、持氏は義持の猶子になることを請うて将軍位を狙ったものの、義持は持氏の使者にすら会おうとすることなく追い返している。このため、一度は修復された鎌倉と幕府の関係はふたたび悪化。応永35(1248)年正月、義持が四十三歳で亡くなった後、クジで将軍位についた足利義宣(義持弟。のち義教)と激しく対立し、永享2(1429)年2月には義教が持氏追討を命じて、諸将に諌められる事件が起こっている。

 このような中、永享10(1438)年6月、持氏は「将軍を烏帽子親にする」「将軍より一字を賜る」という先例を無視して嫡子・義久に自ら加冠したことから、上杉憲実(関東管領)がこれを諌めた。しかし持氏はこれを聞き入れず、8月には憲実は所領である上野国に戻ってしまった。このため持氏は憲実を謀叛人として追討令を発した。これを受けた憲実は幕府に援けを求めたことから、将軍・義教は持氏追討令を発して、今川範政(駿河守護)や三浦介時高、千葉介胤直らが鎌倉に攻め入り、11月に持氏は捕らえられて武蔵金沢称名寺に押し込められて出家した。これを「永享の乱」という。12月、憲実は持氏の助命を幕府に嘆願するが聞き入れられず、翌年2月、憲実率いる軍勢が称名寺に攻め入って持氏以下を自殺させた。このとき春王丸・安王丸・永寿王丸などといった持氏の子どもたちは下野国日光山に逃れている。

 この持氏の子たちが永享12(1440)年3月、常陸国茂木にて幕府に対して挙兵し、これに上杉家と敵対していた結城氏朝ら結城・小山一族が荷担して一大反乱に発展した。これを「結城合戦」という。幕府は上杉憲実・上杉清方をはじめとし、小笠原政康(信濃守護)・武田信栄(若狭守護)ら守護大名を投入するが結城城は落ちず、翌年4月、結城城内の内紛によってようやく城は落ちた。遠征に士気が落ちていた守護大名混成軍が東国の実力者・結城家に翻弄された結果と思われるが、氏朝ら結城家の面々は力尽きて自害し、春王丸・安王丸は小笠原政康に捕らえられ、京都へ護送中、美濃において斬られた。末子の永寿王も捕らえられたが、彼は殺されることなく上洛し、土岐邸に預けられることとなる。おそらく、春王・安王らが斬られた直後の6月、義教が赤松満祐(播磨守護)に殺されたために命令が発せられなかったのだろう。

 この永寿王丸は九年にわたって京都にあり、文安6(1449)年正月、土岐邸から関東へ新しい鎌倉公方として下されるにあたり、八代将軍・足利義成(のち義政)より偏諱を受けて「成氏」と称した。この成氏も歴代の鎌倉公方と同様、幕府と対立して関東を暴れまわり、鎌倉を逃れて下総国古河に本拠を定めて初代古河公方となった。

●康正2(1456)年正月19日『足利成氏書状写』(『新田岩松文書』)

 其方時宜具被申上候、簡要者一両日内在御動座、可有御勢仕候、
 次於下総国市河致合戦、悉理運之由、只今注進到来、定目出可被存候間、
 被仰遣候、恐々謹言
 
   正月廿日 
               成氏
  岩松左京大夫殿
 

●康正2(1456)年4月4日『足利成氏書状写』(『武家事紀所収文書』)

  …略…
 
 千葉介入道常瑞舎弟中務入道了心、宇都宮下野守等綱等、如合符所々江令蜂起處、
 千葉陸奥入道常義父子存貞節、属御方間、相副諸軍於総州多胡、志摩両城決雌雄、
 千葉介入道兄弟、同専一家人円城寺下野守一族以下千餘人討取候、餘党等尚以同国
 市川ニ構城郭候間、今年正月十九日不残令討罰、然間両総州討候了、
 
  …略…
 
 庶幾者速預無為御返事候者、誠以可為都鄙安泰基候、此趣具被懸尊意候者、所仰候、
 恐々謹言
 
   四月四日
                      成氏
    三條殿

●享徳5(1456)年6月14日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)

 下総国葛飾郡八幡庄■■屋中村并秋山村等事、
 如■本御知行不可有相違、仍状如件、
 
   享徳五年六月十四日    胤房(花押)
 
  真間山根本寺
 

●享徳5(1456)年6月20日『原胤房安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)

 下総国八幡之庄真間弘法寺御門前之田畠并屋中村、
 秋山村如前々御知行不可有相違之状、仍如件、
 
   享徳五年六月廿日     胤房(花押)
 
  真間山弘法寺
 

●享徳5(1456)年10月25日『岩橋輔胤安堵状』(『弘法寺文書』:『市川市史』所収)

 下総国八幡庄真間法華堂根本寺領之事等、縦雖有方々之
 異義任寄進状之旨、於向後不可有知行相違之状、如件、
 
   享徳五年十月廿五日   平輔胤(花押)
 

●『東野州聞書』(『群書類従』第六輯所収)

 …前略…
 
 一 元雅して富永駿河入道遣事、康正二七御旗の手を敵へ吹かくる事吉例なり、
   同く旗の面を敵に向也、祝等の時同前たるべきなり、
 
 一 康正元十一月廿四日於馬加ノ合戦ノ時ハ、味方ニ旗の手を吹かくるといへども、
   得勝利、又同二年正月十九日敵に旗の手をかく、然共御方成敗軍易如何、
   若不定の事なり、原越後守御退治之時之事共なり、雖非和歌之類、為子孫加筆者也、
  

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