牧氏と牧の方

牧の方

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■牧氏と牧の方について

 北条時政の後妻、牧の方は北条義時や御台所(平政子)の継母に当たり、鎌倉時代前期の政争に大きく関わることになった女性である。その出自については、杉橋隆夫氏の「牧の方の出身と政治的位置~池禅尼と頼朝と~」(『古代・中世の政治と文化』所収 思文閣出版)において平忠盛後妻池禅尼の兄弟・諸陵助宗親=牧三郎宗親の娘として発表され、それがほぼ通説となっている。しかし、それは事実なのであろうか。

 結論から言えば、池禅尼の兄弟「諸陵助宗親」は「大舎人允宗親」及び「牧三郎宗親」と同一人物ではない。つまり、牧の方と池禅尼に血縁関係は存在しない北条時政と中央との関わりを、池禅尼、頼盛との「血縁関係」で論を展開することは、非常に危険である。以下にその理由を記す。

●牧氏のこと

 牧の方の出自については、当時の文書としては『愚管抄』に記載がある。あくまで天台座主慈円が伝聞に主観を交えて後年書き認めたものであるが、当時においては次のような風聞があったことは事実である。

時正、ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ、コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也、セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ、其宗親、頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ、駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ、武者ニモアラズ、カゝル物ノ中ニカゝル果報ノ出クルシギノ事也

 牧の方の周辺の親族として判明しているのは、「大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也、セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ、其宗親、頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ、駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ」から、

・父は姓不詳の大舎人允宗親
・兄(弟)は大岡時親

であったことがわかる。その他の親族としては、『吾妻鏡』には「北條殿室家、自京都下向給兄弟武者所宗親」(『吾妻鏡』建久二年十一月十二日条)と、「武者所宗親」が牧の方の兄弟であったことが記される。さらに、姉妹(おそらく姉だろう)の子「外甥越後介高成」がおり、彼は文治2(1186)年当時「越前国、北條殿眼代」であった(『吾妻鏡』文治二年六月十七日)。彼は「武者所宗親」とともに牧の方の京都からの鎌倉下向にも同伴している(『吾妻鏡』建久二年十一月十二日条)。彼らは「日来北條殿眼代也、然而彼家人異他」という威勢を振るっていた様子がうかがえる(『吾妻鏡』建久二年十二月一日条)。越後介高成とともに牧の方に従った「牧三郎宗親」はおそらく牧の方の「兄弟武者所宗親」と同一人物であろう。つまり『愚管抄』に見える「大舎人允宗親」の同名の子なのである(ただし「同名の子」ではなく、慈円の認識違いの可能性もある。つまり、「為北條殿御代官」として知られた牧の方の弟・牧三郎宗親と牧の方の父の名を混同している可能性がある。「宗親」の名については後述するが、牧三郎宗親はのちに改名していたと思われ、そこが混同の原因である可能性があろう)

 そのほか、奥州藤原氏との戦いで頼朝の不興を買って時政に預けられた「牧六郎政親」がみえる(『吾妻鏡』文治五年十一月二日条)。ここから系譜関係を起こすと、

 某氏――――+―姉
(大舎人允) | ∥――――――高成
       | 某     (越後介)
       |
       +―牧の方
       | ∥
       | 北条時政
       |
       +―大岡時親
       |(検非違使判官)
       |
       +―牧宗親
       |(三郎・武者所)
       |
       +―牧政親
        (六郎)

という関係が想定される。

 牧の方の父「大舎人允(『愚管抄』では宗親)」については、長く平頼盛に仕えた「大舎人允(六位か)」の京官人で武士ではなく、頼盛領駿河国大岡牧の牧司であったことが判明する。大岡牧(大岡庄)は、

(1)北条氏の所領・田方郡北条に隣接
(2)北条時政は頼朝を預かる立場の一人であった(国主源頼政、前伊豆守仲綱と繋がっていた可能性)
(3)頼朝の助命を平清盛に訴えた池禅尼の子・頼盛の所領であった

という関係から、北条氏と牧氏は以前から交流があった可能性はあるが、伊豆国在庁であった北条時政と、頼盛の家人で「大舎人允」の位階を有する大舎人允某では、地位も年齢も大舎人允某が目上であったろう。こうした存在であった牧氏がどのようにして北条氏の家人に転じたのか。そのきっかけとなったのは治承4(1180)年10月の甲斐源氏による駿河国侵攻の可能性があろう。『吾妻鏡』によれば10月13日、「北条殿父子」は甲斐源氏一党とともに駿河国に入っており、牧氏は北条時政の口利きによって頼朝に降った可能性があろう。『吾妻鏡』では「大舎人允某」は登場せず、すでに卒去していたと思われ、当時の当主は子の「牧三郎宗親」であったろう。官途に就いていないことからも、彼はすでに大岡牧の代官ながら土着した存在だったのではなかろうか。そして、この頃には牧の方と北条時政は婚姻関係にあったと推測される。

 牧宗親が駿河侵攻によって頼朝に下ると、姻戚に当たる北条時政に預けられたのだろう。寿永元(1182)年11月10日、宗親は御台所(政子)の命を受けて、頼朝の寵女亀前が匿われていた伏見広綱の飯島邸(逗子市小坪)を襲撃しているが(『吾妻鏡』寿永元年十一月十日条)、そのきっかけは、宗親の姉と思われる「北条殿室家牧御方」が御台所への吹聴であったことからも、当時の牧の方は御台所に取り入るような立場にあり、宗親も御台所の一存で動かし得る存在であったことがうかがえ、このことからも彼らが高い門閥出身ではないことが想定できる。

 襲撃を受けた広綱は、亀前を伴って大多和義久鐙摺宅(逗子市)へと逃げた。おそらく広綱は頼朝にこの事件を頼朝へ伝えたのだろう。二日後、頼朝が大多和義久の鐙摺宅を訪れて宗親を呼び出し、広綱と論ぜよと命じた。ところが宗親も姉・牧の方からの通報を受けた御台所の命で起こした行動であって、私怨があったわけではない。しかし、御台所に責任を押し付けるわけにもいかず、宗親はただただ「陳謝巻舌垂面於泥沙」した。これを見た頼朝は怒りが爆発。宗親の髻を切り落とした。この処断に宗親は泣いて逃亡した。おそらく時政のもとに逃げ込んだと思われ、二日後の14日に頼朝が鎌倉に帰還した際、北条時政は断りもなく伊豆へと去った。これは頼朝に対する不満を表したものであったが、子の義時は父に従わず鎌倉に残っており、頼朝はこれを賞している。

 その後、牧宗親は『吾妻鏡』に数度に渡って名が見られ、元暦5(1185)年5月15日には、護送されてきた「前内府(平宗盛)」を酒匂宿に迎え取りに赴いた「北条殿為御使」の「武者所宗親」の名があることから(『吾妻鏡』元暦五年五月十五日条)、このときまでに「武者所」の経歴を持ったということになる。同年10月24日の勝長寿院供養の際には「御後五位六位」三十二人の一人に牧武者所宗親がおり、この時点で六位に陞爵していた。そして、建久6(1195)年3月10日、頼朝の東大寺供養の随兵に「牧武者所」(『吾妻鏡』建久六年三月十日条)として見えるのを最後に名前が消える。

 ところで、『愚管抄』第六巻に見られる「(牧の方の)セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ」とある人物も宗親同様に牧の方の「セウト(兄または弟)」であることがわかる。大岡時親は叙爵して右(左)衛門尉に任官しており、さらに検非違使判官でもあった。なお『吾妻鏡』では建仁3(1203)年9月3日の比企氏の乱での北条氏方の監察として突然「大岡判官時親」が出てくる。彼は「五位尉」であることから、検非違使判官の比企右衛門尉能員とまったく同等の官職であり、五位の検非違使判官として、幕府内でも相当目立つ存在であったことは間違いないだろう。しかし、彼はそれまで一度として頼朝の随兵など公的儀式に加わっておらず、これまでの経歴も一切不明という不思議な人物なのである。

 実は『吾妻鏡』において、大岡判官時親と牧武者所宗親が同時期に出てくることはなく、宗親と入れ替わるように時親が姿を現すのである。おそらく大岡時親は牧宗親その人であろう

 宗親は寿永元(1182)年に頼朝の勘気を受けたのちは、しばらく『吾妻鏡』に見えず、専ら時政代官として動いていたと思われる。その後、元暦5(1185)年までの間に赦されてからは、六位に推されて「武者所」に属したのだろう。その後は随兵中でも御後に列するまでに地位を上げたようである。

 右(左)衛門尉に任官した時期はわからないが、建久6(1195)年3月10日までは「武者所宗親」と見えることから、それ以降である。武者所の人物のなかに衛府出仕者がいることは「勤盃、武者所中、為衛府者勤之、布衣帯剣」(『中右記』寛治五年閏七月六日条)という記述からもうかがえることから、武者所に属しながら左(右)衛門尉に任官した可能性もあろう。

 いずれにせよ、宗親は頼朝の死後、建仁3(1203)年までに左(右)衛門少尉に任官し、従五位下に叙されて検非違使判官となったと思われる。「時親」の「時」はおそらく北条時政の偏諱であろうから、頼朝の死後に改名したのだろう。時政の子・義時の叙爵ならびに相模守の任官が元久元(1204)年3月のことであり、時親の叙爵は義時よりも早いことになり、時政と牧の方の引き立てが考えられよう。

 その後、時親は「備前守」に任じられたため、検非違使を辞した。その任官時期も不明だが、元久2(1205)年6月21日、牧の方と時政が重忠父子の誅殺を計画して子の義時、時房に諫められた際、牧の方の使者として「備前守時親」が義時邸を訪れている。その後、時政の専断によって畠山重忠が追討されるが、時政は義時・尼御台に糾弾されて鎌倉を追放され、出家。「大岡備前守時親」も「出家是依遠州、被落飾事」した。

 なお、 元久2(1205)年3月10日、後鳥羽院の八幡御精進が行われ、権大納言良輔、権中納言道家、侍従藤原広通、春宮少進棟基、左近少将源通時、右少将実時、備後守藤原教隆、対馬守源近重とともに「備前守藤時親」が院より「歌十五首」を進上することが命じられている(『明月記』元久二年三月十日条)。これは「備前守時親」が鎌倉で牧の方の使者として義時のもとへ行く三か月前のことであり、院に和歌を献じた「備前守藤時親」と同一人物であろうと考えられる。「藤時親」とあることから、牧氏は藤原氏であったことが判明する。

【平頼盛家人】
 藤原某―――+―姉
(大舎人允) | ∥―――――――高成
       | 某      (越後介)
       |
       +―牧の方
       | ∥―――――――北条政範
       | 北条時政
       |
       +―牧宗親(=大岡時親)
       |(三郎、武者所、検非違使判官、備前守 従五位下)
       |
       +―牧国親〔京都守護〕
       |(四郎)
       |
       +―牧政親
        (六郎)

 宗親の一族はいずれも有能であったとみられ、時政の「代官」「眼代」として活躍したが、その権勢はあくまで時政・牧の方に依存したものであり、彼らの失脚後は磊落し、子孫は一御家人としてわずかに命脈を保つ。

 牧氏の宗家か一族かは不明だが、弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会(五月延引)での流鏑馬で、二番の備後民部大夫三善政康の射手として「牧右衛門四郎藤原政能」が務めている。なお、五番は千葉介常胤六男・東六郎大夫胤頼の子孫である東六郎左衛門行氏入道(郡上東氏初代)が指名され、その射手として「遠藤左衛門三郎盛氏」が務めている。この遠藤氏は東氏の根本被官であり、これ以降も代々美濃の郡上東家に重臣として仕え、江戸時代の郡上藩主・遠藤家に繋がっていくと考えられる。

●弘安七年十二月九日 新日吉小五月会流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)

    射手 的立
一番 武蔵守平時村 伊賀右衛門六郎藤原光綱 福田寺太郎兵衛尉藤原行実
二番 備後民部大夫三善政康 牧右衛門四郎藤原政能  
三番 葛西三郎平宗清 富澤三郎平秀行  
四番 肥後民部大夫平行定法師 法名寂圓 宮地彦四郎清原行房  
五番 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 遠藤左衛門三郎盛氏  
六番 頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観 奥野二郎太郎源景忠  
七番 後藤筑後前司基頼法師 法名寂基 舎弟 壱岐十郎基長  

 室町期においては、応永5(1398)年11月30日、武家政権は、山城守護結城満藤から「牧新左衛門入道殿(牧秀知入道)」へ、松尾社神主相通が沽却しようとした「山城国河原田新田事」につき、「松尾社三宮禰宜愛一丸」の訴えを是とした11月26日の御教書の通り、愛一丸に下地を沙汰付すべきことを指示している(応永五年十一月丗日『松尾神社文書』)

■牧の方について

 京官人・大舎人允藤原宗親の娘である牧の方が時政室となったのは、頼盛と牧氏の主従関係が解消された頼朝挙兵後の治承4(1180)年以降であろう。寿永元(1182)年11月の亀前襲撃事件の際には、すでに「北条殿室家牧御方、密々令申之給故」であったことから(『吾妻鏡』寿永元年十一月十日)、具体的には治承5(1181)年あたりと考えられる。『愚管抄』の「時正、ワカキ妻を設ケテ」とある部分の文意から、時政の年齢との比較で「ワカキ妻」と述べられており、世間からは特筆するほど若い妻女と捉えられていたと考えられる。

 その「ワカキ妻」たる牧の方の生年は、

(1)寿永元(1182)年11月には時政と婚姻していた
(2)婚姻時「ワカキ妻」であった
(3)父「大舎人允宗親」は頼盛に多年仕えた人物であった
(4)三女(宇都宮泰綱母)の生年は文治3(1187)年
(5)唯一の男子・北条政範の生年は文治5(1189)年
(6)政範には妹(坊門忠清妻)がいた
(7)孫の宇都宮泰綱の生年は建仁3(1203)年
(8)外甥の「越後介高成」は文治2(1186)年当時に越前国(北条時政が国地頭か)の目代

 という情報から推測すると、平治元(1160)年あたりが適当であろう。保延4(1138)年生まれの時政からみれば二十歳程度離れた「ワカキ妻」であったと考えられる。

■牧氏と池禅尼との関係について

 これまで見てきたように、牧氏は頼盛に仕官する藤原姓の京官人であった。

 杉橋隆夫氏の「牧の方の出身と政治的位置~池禅尼と頼朝と~」(『古代・中世の政治と文化』所収 思文閣出版)においては、頼盛の母・池禅尼の兄弟である「諸陵助宗親」と、頼盛家人「大舎人允宗親」と「牧三郎宗親」をすべて同一人物として説が展開されるが、『吾妻鏡』では「北條殿室家、自京都下向給兄弟武者所宗親」(『吾妻鏡』建久二年十一月十二日条)と明記されており、少なくとも「大舎人允宗親」と「牧三郎宗親(武者所宗親)」は同一人物とはなり得ない。

 では、「大舎人允宗親」と「諸陵助宗親」は同一人物なのだろうか。結論から言えば、「大舎人允宗親」と「諸陵助宗親」も同一人物とは成り得ない

 宗親の姉・牧の方の生誕は平治元(1160)年あたりと想定すると、牧の方の父「大舎人允宗親」の生誕は大治5(1130)年頃となろう。では、同一人物とされる「諸陵助宗親」の生誕はいつごろなのだろうか。諸陵助宗親の生誕年は記録にないが、当時の史料から父の宗兼、兄の宗長、宗親の任官記録等を調べてみると、

 修理権大夫宗兼―+―下野守宗長
         |(????-1153)
         |
         +―池禅尼――――+―平家盛
         |(1104-1164) |(1127-1149)
         |        |
         |        +―平頼盛
         |         (1133-1186)
         | 
         +―宗賢 
         | 
         |
         +―諸陵助宗親――?―牧の方――――北条政範
          (1115前後か)         (1189-1204)
           1136.12.21諸陵助

修理権大夫宗兼(諸陵助宗親、下野守宗長、池禅尼の父)
 永治元(1141)年12月に出家(『尊卑分脈』)

下野守藤原宗長(諸陵助宗親の兄)
 保延3(1137)年に和泉守から石見守へ遷任し、その後下野守へ遷る(『国司補任』)
 仁平2(1152)年8月14日当時「院殿上人」(『兵範記』仁平二年八月十四日条)
 仁平3(1153)年6月15日卒去(『国司補任』)

下野守藤原宗賢(諸陵助宗親の兄)
 久安3(1147)年8月17日当時「散位藤原宗賢」(『本朝世紀』)
 久安4(1148)年3月19日当時「散位藤朝臣宗賢」(『本朝世紀』)
 仁平3(1153)年3月18日当時「散位藤原朝臣宗賢」(『本朝世紀』)

諸陵助藤原宗親
 保延2(1136)年12月21日の小除目で諸陵助に任官(『中右記』保延二年十二月廿一日条)
 康治元(1142)年11月14日の大嘗会叙位で「従五位上(散位とみられる)(『本朝世紀』)

 『中右記』の記述から判断して、宗親が諸陵助に任官したのは、保延2(1136)年12月21日の小除目となる(『中右記』保延二年十二月廿一日条)。「参議従三位顕実卿」の子、資懐(後資信)は嘉保3(1096)年正月24日に15歳(当時六位)で「諸陵助」に任じられた例があるが、諸陵助宗親の父宗兼は公卿ではなく諸大夫層であることから、当然公卿子息より補任は年齢的にも遅かったであろうことを考えると、諸陵助宗親は永久3(1115)年以前には生誕していたと考えるのが妥当(実際はもっと早く生まれているだろう)である。姉妹の池禅尼(藤原宗子)と平忠盛との間に平家盛が生まれたのが大治2(1127)年(『平治物語』に久安5年家盛死去の記事に「廿三のとしうせさぶらひし也」とあり、逆算)と考えると、「諸陵助宗親」の生年に矛盾はない。

 これらから、「大舎人允宗親」と「諸陵助宗親」には二十年程の世代的矛盾が生じることとなる。もし、仮に諸陵助宗親に娘がいて、彼女が牧の方としても、保延4(1138)年生まれの北条時政よりも年上または同年代であった可能性が高く、とても「ワカキ妻」と特記する年齢とは考えられない。つまり、「大舎人允宗親」と「諸陵助宗親」も同一人物とは成り得ない。そして、『愚管抄』を信じれば、諸陵助宗親も牧の方の父親とは成り得ないのである。

 「諸陵助宗親」と「牧三郎宗親」が同一人物であるという考え方も残るが、『吾妻鏡』での「牧三郎宗親」の初出である寿永元(1182)年11月10日当時、「諸陵助宗親」は任官後46年を経ており、「三郎」などという通称で出仕するような年齢ではない。さらに「牧三郎宗親」はその三年後(つまり諸陵助宗親の任官から49年経過)の元暦2(1185)年の間に後白河院の「武者所」となっているのである(『吾妻鏡』元暦二年五月十五日条)。常識的に考えて両者を同一人物と想定できる範疇を優に超えているだろう。

 以上のことから「諸陵助宗親」と「牧三郎宗親」は明確に別人であると断定できる

 つまり、池禅尼兄弟の「諸陵助宗親」、牧の方の父「大舎人允宗親」、牧の方の兄弟「牧三郎宗親(大岡判官時親)」はすべて別人であることが確実であり、牧の方と池禅尼には血縁関係は認められないこととなる。北条時政と中央との関わりを、池禅尼、頼盛との「血縁関係」で論を展開することは、非常に危険である

 牧氏は頼盛被官であったことは『愚管抄』を信じる限り確かであり、牧氏と頼盛、北条氏の繋がりを血縁関係に求める必要はまったくない。血縁関係ではなくとも牧氏と北条氏の繋がりは頼盛と大岡牧の繋がりを論拠としてアプローチすることは十分可能であり、血縁関係とすることによって生じる不必要な想定が却って事実を曇らせる結果となってしまう。人的な関係、社会的な繋がりを想定して論を進める以前に、それが矛盾なく成立するかどうかが重要である。


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