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【一】上総氏について |
【二】上総平氏は両総平氏の「族長」なのか |
【三】頼朝の挙兵と上総平氏 |
平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
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+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
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| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
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+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
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+―印東常茂
|(次郎)
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+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
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+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
(????~1247)
上総介常秀の嫡男。母は不明。通称は兵衛太郎、上総介太郎。妻は三浦駿河守義村娘。官途は従五位下、上総権介。
秀胤は自分の子に「胤」字を用いず「秀」字を用いており、秀胤は千葉惣領家とは別個の御家人であった。さらに幕府重鎮・三浦義村とも婚姻関係を結び、三浦氏、北条氏とも深くつながりを持つに至った。こうして、幕府の最高執政機関・評定衆の一員に名を連ねるが、三浦氏が安達氏・北条氏と対立する中で三浦氏との縁戚関係とその強大な勢力が危険視され、三浦氏滅亡とともに幕府軍に攻め滅ぼされた。
●上総千葉氏と千葉宗家
千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介胤綱――千葉介時胤
|(千葉介) (千葉介) (千葉介)
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+―千葉常秀―――千葉秀胤
(上総介) (上総権介)
秀胤が『吾妻鏡』にはじめて現れるのが、承久元(1219)年7月19日で、四代将軍・九条三寅(藤原頼経)の鎌倉下向に供奉した記述である。まだこのころは「堺兵衛太郎」と称しており、任官していない。
文暦2(1235)年2月9日、将軍・藤原頼経が後藤基綱の屋敷で行った笠懸の興のとき、三浦泰村とともに参加している。三浦氏と千葉惣領家の関係はあまりしっくりしていなかったようだが、常秀以来、上総千葉氏と三浦氏との関係は良好で、秀胤は泰村の妹を娶った。
嘉禎元(1235)年6月29日の頼経の明王院御出、翌年8月4日の若宮大路の新御所への移座では、大須賀次郎左衛門尉胤秀とともに供奉した。嘉禎4(1238)年2月17日の頼経の上洛にも「上総介太郎」の名が見え、その後も頼経のそばに仕えて、諸処に供奉している。
●北条得宗家と名越北条家の関係(■:得宗家、■:名越家)
北条義時―+―北条泰時―+―北条経時
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| +―北条時頼―北条時宗―北条貞時―北条高時
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+―名越朝時―――名越光時
仁治2(1241)年11月10日、父・常秀の跡を継いで「上総権介」に任じられ、寛元元(1243)年閏7月27日、従五位上に叙された。そして翌寛元2(1244)年正月23日、秀胤の嫡男・時秀も従五位上に叙され、秀胤は幕府の評定衆の一員に加わった。4月21日の藤原頼嗣(五代将軍。頼経の長子)元服式では、評定衆として着座している。
寛元3(1245)年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会に参列している。これには千葉惣領家の代行人と思われる千葉次郎泰胤(千葉介時胤弟)、秀胤の子・上総式部大夫時秀が列し、将軍・頼経の車脇に武石三郎朝胤、上総六郎秀景、その後ろに五位大夫として、上総五郎左衛門尉泰秀、上総権介秀胤が列した。
翌8月16日、八幡宮の馬場でとり行なわれた流鏑馬では、四番を差配した「上総介(秀胤)」が見え、射手は「子息六郎(秀景)」が行った。
寛元4(1246)年3月、執権の北条修理亮経時が病のために弟・左近将監時頼に執権職を譲ったが、北条一族の名門・名越越後守光時(北条義時の孫)が時頼の執権就任に反対して、大御所・藤原頼経を擁して兵を集めたが、事前に発覚して光時ら一党は捕らえられ、寛元4(1246)年6月7日に後藤佐渡前司基綱・狩野前太宰少貳為佐・上総権介秀胤・町野加賀前司康持が事件の関係者として評定衆をはずされた。町野康持に至っては、問注所執事をも解任されている。秀胤は13日に鎌倉を追放され、主犯格の北条光時も伊豆北条へ追放された。これら一連の事件を「寛元政変」という。
ただし、公家の葉室定嗣の日記『黄葉記』によれば、寛元4(1246)年6月6日、京都に関東からの飛脚が到来し、
と伝えた。『吾妻鏡』によれば、秀胤が評定衆を解職されたのは6月7日とされ、13日に鎌倉を追放されたとある。『黄葉記』の記述はこれよりも前となるため、実際に秀胤らが解職されたのはこれよりも前ということになる。『吾妻鏡』の記述の誤りだろうまた、前将軍・藤原頼経入道も京都へ送還されることが決した。このことについて、頼経の実父・九条道家入道行慧(源頼朝の姪子)は6月10日にはすでに伝えられているが、頼経送還の理由については「不知其由来」とあって、幕府より一切聞かされておらず、同意もしていないとし、「修調伏法、被呪詛武州経時」ともあることについても、頼経は一切行なっていないと神に誓っている(『九条家文書』)。
●寛元4(1246)年の評定衆(年号:在職期間、■:寛元政変で免職、■:宝治合戦で免職)
・中原師員 (1225-1251) | ・二階堂行盛 (1225-1253) | ・後藤基綱 (1225-1246) | ・太田康連 (1225-1256) |
・毛利季光 (1232-1247) | ・狩野為佐 (1234-1246) | ・北条資時 (1237-1251) | ・三浦泰村 (1238-1247) |
・二階堂行義 (1238-1268) | ・町野康持 (1238-1246) | ・大佛朝直 (1239-1264) | ・安達義景 (1239-1253) |
・北条政村 (1239-1256) | ・二階堂基行 (1239-1240) | ・清原満定 (1239-1263) | ・長井泰秀 (1241-1253) |
・宇都宮泰綱 (1243-1261) | ・伊賀光宗 (1244-1257) | ・三浦光村 (1244-1247) | ・上総秀胤 (1244-1246) |
・矢野倫長 (1244-1273) | ・毛利忠成 (1245-1247) |
その後、秀胤は8月15日の放生会に「上総式部大夫」とともに供奉していることから、鎌倉に召し返されたものの、翌宝治元(1247)年6月6日、執権・北条時頼は、大須賀左衛門尉胤氏・東胤行入道素暹に秀胤の追討を命じた。秀胤はこのころ上総国一宮大柳館に籠もり、屋敷の周りに薪を積み重ね、おそらくすでに自害の決意を固めていたのだろう。
胤氏、素暹は秀胤とは交誼のある一族であり、とくに素暹は秀胤一族と血縁関係があり、幕命によってやむなく進軍してきたものであった。このとき、埴生庄の領有をめぐって仲たがいしていた弟・埴生次郎時常も大柳城に駆けつけ、秀胤とともに自害して果てた。ひとびとはこれを聞いて「勇士の美談」とたたえた。この騒乱は、秀胤の子五人のほか一族郎党、あわせて163人が自害するという惨劇となった。
胤氏、素暹ら寄手は一気に燃え上がった炎のために館に近づけず、「敢へてかの首を獲る能わずと云々」と、彼らの首をとることはしなかった。素暹の娘は、秀胤の子・上総五郎左衛門泰秀に嫁いでおり、一歳の幼い男子があった。素暹から見れば外孫にあたる。この後、鎌倉へ帰還した素暹は幕府に赴き、時頼に懇願して秀胤の子や孫たちのために助命嘆願を行っている。この嘆願は受け入れられ、素暹には外孫にあたる1歳の男子(泰秀の子)のほか、秀胤の末子(1歳)、修理亮政秀の子息二人(5歳、3歳)、秀胤の弟・埴生次郎時常の子(4歳)が助けられ、胤行に預けられた。
●『吾妻鏡』宝治元年六月十一日条
●『吾妻鏡』宝治元年六月十七日条
●上総権介秀胤周辺系図
千葉介常胤―+―胤正――+―成胤――――胤綱―――+―時胤――――――頼胤
(千葉介) |(千葉介)|(千葉介) (千葉介) |(千葉介) (千葉介)
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| | +―泰胤
| | (次郎)
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| | +―埴生時常―――男子
(四歳)
| | |(次郎)
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| +―常秀――+―秀胤―――+―時秀
| (兵衛尉) (上総権介)|(式部丞)
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| +―政秀―――――+―男子
(五歳)
| |(修理亮) |
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| +―末子(一歳) +―男子
(三歳)
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| +―泰秀
| (五郎左衛門尉)
| ∥――――――――男子
(一歳)
| ∥
+―東胤頼―――重胤――――胤行―――+―娘
(六郎大夫)(兵衛尉) (左衛門尉)|
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+―泰行
|(図書助)
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+―行氏
|(左衛門尉)
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+―氏村
(左衛門尉)
また、秀胤の子・式部丞時秀の子という「豊田五郎秀重」「左衛門尉常員」両名の名が薩摩国の系譜に見える(『山門文書』)。時秀の子については『吾妻鏡』には伝えられていないが、遺されていた可能性も否定できない。
千葉秀胤――時秀―――+―豊田秀重―+―秀持 +―秀徳―――橋本秀助――秀房
(上総権介)(式部大夫)|(五郎) |(源六) |(太郎)
| | |
+―常員 +―秀遠――秀村――秀高――秀行―――秀光――+―堤秀朝――朝篤
(左衛門尉) (五郎)(平三)(平六)(伊豆守)(美濃守)|(次郎) (安房守)
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+―澤田秀明
|(三郎)
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+―文殊寺秀棟
(四郎)
秀胤は現在の長柄町胎蔵寺に葬られたともいわれ、同寺には「損館長柄山殿別賀秀胤居士」「胎蔵寺殿花渓大姉」の位牌が伝わっている。「損館」である「別賀(別駕=介)秀胤」と記されていることから、自刃を遂げた秀胤一族の菩提を弔ったと思われる。裏には「当年開基胎長万寿四丁卯歳七月廿四日」「長元三庚午七月七日」と記されているが、「万寿四年」「長元三年」はそれぞれ西暦1027年、1030年であり、秀胤の時代とは200年ほどのずれが生じている。位牌には裏に記された「当年開基胎長万寿四丁卯歳七月廿四日」は開基の胎長に関する記述だろう。「長柄山胎蔵寺」(『上総国誌稿』)は「境内千八百七坪、臨済宗ナリ、寺伝ニ云フ、長和二年癸丑、上総権介秀胤、父祖ノ冥福ヲ祈リ、七堂伽藍ヲ建造シテ鳴瀧寺ト号ス、尋テ胎蔵界ノ曼荼羅ニ擬シテ、今ノ名ニ改ム」(『上総国誌稿』)という自伝を持つ。
秀胤一族滅亡の直前、鎌倉では三浦泰村一族が、北条氏に対して兵を挙げ、和田義盛の乱以来、30年ぶりに鎌倉が火に包まれた。結局三浦一族はやぶれ、泰村・光村父子は頼朝の墓前に逃れ、持仏堂に籠って自害して果てた。三浦泰村の挙兵と上総秀胤の滅亡を「宝治合戦」という。
●宝治合戦で戦死した人物
(■:三浦党、■:千葉一族、■:秩父一族、■:下野の宇都宮・小山氏系統)
・三浦泰村・三浦景村・三浦駒石丸・三浦光村・三浦駒王丸・三浦式部三郎・三浦實村・三浦重村・三浦朝村・三浦氏村・三浦朝氏・三浦員村・三浦忠氏・三浦景泰・三浦駒孫丸・三浦駒鶴丸・三浦駒在丸・三浦有駒丸・三浦駒若丸・三浦駒増丸 ・三浦皆駒丸・毛利季光・毛利光広・毛利泰光・毛利経光・毛利吉祥丸・大戸川重澄・大戸川重村・大戸川家康・三浦義有 ・三浦高義・三浦胤泰・三浦二郎・高井実重・高井実泰・高井実村・佐原泰連・佐原信連・佐原秀連・佐原光連・佐原政連 ・佐原光兼・佐原頼連・佐原胤家・佐原光連・佐原泰家・佐原泰連・長井義重・佐原家経・下総三郎・佐貫経景 ・稲毛左衛門尉・稲毛十郎・臼井太郎・臼井二郎・波多野六郎左衛門尉・波多野七郎・宇都宮時綱・宇都宮時村・宇都宮五郎 ・春日部実景・春日部太郎・春日部二郎・春日部三郎・関政泰・関四郎・関五郎左衛門尉・能登仲氏・宮内公重・宮内太郎 ・弾正左衛門尉・十郎・多々良二郎左衛門尉・石田大炊亮・印東太郎・印東二郎・印東三郎・平塚小次郎・平塚光広 ・平塚太郎・平塚三郎・土用左兵衛尉・平塚五郎・遠藤太郎左衛門尉・遠藤二郎左衛門尉・佐野左衛門尉・榛谷四郎 ・榛谷弥四郎・榛谷五郎・榛谷六郎・白河判官代・白河七郎・白河八郎・白河式部丞・武左衛門尉・上総権介秀胤 ・上総時秀・上総政秀・上総泰秀・上総秀景・埴生時常・岡本次郎兵衛尉・岡本次郎・長尾景茂・長尾定村・長尾為村 ・長尾胤景・長尾光景・長尾為景・長尾新左衛門四郎・秋庭信村・橘惟広・橘左近大夫・橘蔵人
●宝治合戦で生け捕りの人物(■:三浦党、■:千葉一族)
・三浦胤村・金持次郎左衛門尉・毛利文殊丸・豊田太郎兵衛尉・豊田次郎兵衛尉・長尾次郎兵衛尉・長井時秀・大須賀範胤
●宝治合戦で逐電した人物(■:千葉一族)
・小笠原七郎・大須賀重信・土方右衛門次郎
宝治合戦では「臼井太郎・次郎」が秀胤に荷担し、ほかに「下総三郎」「印東太郎・次郎・三郎」の千葉氏系の武士の名を見ることができる。
また、建長3(1251)年12月、三浦・千葉の残党が先の将軍家・九条頼経を擁立して挙兵を企てる事件が起こるが、首謀者の「了行法師」、千葉介近親「矢作左衛門尉」「長次郎左衛門尉久連」らが生け捕られている。
矢作左衛門尉 | 矢作胤氏(左衛門尉) 矢作常氏(六郎左衛門尉) | 常胤の従兄弟にあたる海上常幹の孫。 常胤の子・国分胤通の六男。国分矢作氏の祖である。 |
臼井太郎・二郎 | 臼井胤常・親常 臼井則胤・則常 | 山無流臼井氏の子。 友部流臼井氏の子。父・友部秀常の諱「秀」は秀胤からの偏諱か? |
下総三郎 | 上代胤忠?(下総三郎?) | 東胤頼の子・木内胤朝の子は「下総」を称しているが、そのなかに「三郎」だけがなく、「二郎」胤家の次は「四郎」胤時である。なんらかの意図があって三郎は除かれたものか。 |
●矢作・臼井・下総系図
平常兼―+―千葉常重―千葉常胤―+―千葉胤正―+―千葉成胤 +―上総秀胤
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| | +―上総常秀――+―埴生時常
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| +―国分胤通―――矢作常氏
| |(五郎) (六郎左衛門尉)
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| +―東 胤頼―――木内胤朝――――下総三郎(?)
| (六郎大夫) (下総前司)
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+―海上常衡―海上重常―――矢作惟胤―――矢作胤茂――――矢作胤氏
| (左衛門尉) (新左衛門尉) (左衛門尉)
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+―臼井常康―臼井常忠―+―友部宗常―――友部秀常――+―臼井則胤
(六郎) (三郎) |(二郎) (宰相) |(太郎)
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| +―臼井則常 +―臼井胤常
| (次郎) |(太郎)
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+―臼井成常―――臼井盛常――――山無常清――+―臼井常親
(四郎) (九郎) (五郎) (次郎)
宝治元(1247)年7月14日、宝治合戦の恩賞として、足利義氏入道正義(左馬頭)が上総権介秀胤の遺跡を賜り、伊勢皇太神宮へと寄進している。