| 継体天皇(???-527?) | 手白髮郎女(???-???) |
| 欽明天皇(???-571) | 石比賣命(???-???) |
| 敏達天皇(???-585) | 比呂比賣命(???-575) |
| 押坂彦人大兄(???-???) | 糠代比売王(???-664) |
| 舒明天皇(593-641) | 斉明天皇(594-661) |
| 天智天皇(626-672) | 越道君伊羅都売(???-???) |
| 志貴親王(???-716) | 紀橡姫(???-709) |
| 光仁天皇(709-782) | 高野新笠(???-789) |
| 桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
| 平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
| 千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
| 千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
| 千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 千葉俊胤 (1578-1639) |
千葉定胤 (1617-1649) |
千葉知胤 (1622-1685) |
千葉英胤 (1659-1730) |
千葉紀胤 (1704-1770) |
千葉宗胤 (????-1807) |
千葉倚胤 (????-1841) |
|
| 江戸期の千葉家 | |||||||
| 鳥越社家鏑木家 | 第六天社家鏑木家 | 武田村千葉家 | 門井流千葉家 | 胤富流千葉家 | 庵原流千葉家 | ||
●鳥越神社社家(『浅草寺社書上』「鳥越明神社」)
平忠常──千葉介常将──千葉常兼──坂常家──常明───常隆──金田頼次──金田成常──鏑木胤泰──鏑木将明──鏑木常氏─+
(上総介)(千葉介) (千葉大夫)(坂太郎)(上総介) (小大夫) (八郎) (太郎) |
|
+─────────────────────────────────────────────────────────────+
|
+─鏑木常氏──鏑木氏胤──鏑木胤正──鏑木正常──鏑木常貞──鏑木泰重─+
(太郎) (太郎) (左衛門) (左衛門) (八郎) (太郎) |
|
+────────────────────────────────────+
|
|【鳥越神社神主】 【熱田明神神主】
+─鏑木式部─+─鏑木作兵衛─+─鏑木左内────女子
〔中興之祖〕|〔中興二代〕 |
| |【鳥越神社神主】
| +─鏑木式部────鏑木勝豊─+=鏑木弘豊==鏑木権三郎===鏑木盛弘===鏑木直方──+
| (対馬) (飛騨守) |(民部少輔)(対馬) (壱岐) (土佐) |
| | |
| +─鏑木権三郎 |
| (対馬) |
| |
| +───────────────────────────────────────────+
| |
| +─鏑木大内蔵===鏑木織衛=+─鏑木秀邦===鏑木久方─+─鏑木豊郷===鏑木豊喬===鏑木豊貞
| |(式部) (権守) |(求馬) (権頭) (靱負)
| | |
| +─鏑木久方 +─鏑木豊喬
| (権守) |(権頭)
| |
| +─鏑木豊貞
| (靱負)
|
|【第六天神主】
+─鏑木作十郎───鏑木正重────鏑木正義───鏑木慶寛───鏑木崇────鏑木栄
〔兄作兵衛代〕 (織部正) (出羽守) (出羽守) (出羽守) (出羽守)
千葉胤正(????-1636)
二代鳥越神社宮司。千葉権之助俊胤の長男。通称は作兵衛、のち式部。
『千葉大系図』によれば、父・千葉権之助俊胤は水戸城主武田信吉(家康の五男)に仕えたが、信吉が亡くなると浪人。そののち武蔵国江戸浅草の鳥越神社(台東区鳥越)にまねかれて神主となり、氏を「鏑木」に改めたという。弟の鏑木作十郎正胤(式部)は第六天神の神主となったと伝わっている(『千葉大系図』)。胤正は元和7(1621)年正月6日、江戸城大広間に召されて年賀の儀を務めた。
寛永13(1636)年10月に亡くなった(『御府内備考続編巻之二十二』)。
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| 鳥越神社 |
鳥越神社は日本武尊を祀る鳥越山(河岸段丘の先端が川道の移動で独立した丘を形成したものか)の丘上に鎮座した古社で、西は熱田大明神が置かれた「三味線堀辺」(台東区二丁目)、東は第六天神社が置かれた「森田町旅籠町」(蔵前四丁目)まで広がる広大な境内神域を有し、三社(鳥越三社明神)として祀られていた。ところが、元和6(1620)年、墨田川に浅草御蔵を造営することとなり、用土の不足が生じたことから、鳥越山を御用土として徴用することに決定。さらに正保2(1645)年の矢之御倉を新たに造営する際にも御用土とされたため、鳥越山は完全に消滅する。これに伴い、正保2(1645)年6月、熱田大明神は鳥越村の北方・三谷村(清川一丁目)に移転し「新鳥越」「三谷明神」と称された。
熱田大明神は鳥越神主の鏑木式部(初名作兵衛)が嫡子・鏑木左内を神主とし神職を兼帯するが、寛文7(1667)年に早世により、弟・鏑木式部が兼帯し、以降四代鏑木豊後まで兼帯職となる。その後、鏑木豊後は鳥越神社と熱田大明神の両社が遠距離にあることから、明和元(1764)年より橋場明神の神主鈴木兵部へ社務職を譲渡する。
旅篭町に残った第六天神社も、享保3(1718)年に周辺一帯が浅草御蔵の火除地となったことから替地として与えられた浅草御門外(柳町一丁目)へ遷座し、昭和3(1928)年に再度現在の蔵前一丁目に遷座した。第六天神社は鏑木式部の次男・鏑木作十郎が分家して神主となっている。
鏑木対馬(1639-1708)
三代鳥越神社宮司。千葉作兵衛胤正の子。通称は式部、対馬と称した。
兄の鏑木左内は正保2(1645)年6月に、鳥越神社境内地の西端から鳥越村北方・三谷村(清川一丁目)に移転した熱田大明神(新鳥越、三谷明神)の神主を務めたが、寛文8(1668)年9月24日に早世したため(『鏑木系図』)、弟の式部が鳥越神社と熱田大明神の神主を兼帯する(『御府内備考続編巻之二十二』)。
式部以降、鳥越神社神主は代々、毎年正月6日の江戸城大広間にて行われる年賀惣礼の儀を勤めた。「嫡子無之」とあるように男子がなく、孫にあたる勝豊が延宝8(1680)年以前に跡を継いで鳥越神社神主となった。
宝永5(1708)年9月9日に亡くなる(『御府内備考続編巻之二十二』)。「行年七十歳ニテ歿」(『鏑木系図』)。
鏑木勝豊(1699-1728)
四代鳥越神社宮司。鏑木式部の孫。通称は右近、対馬、飛騨守と称し、正六位上に叙された。
「対馬孫ニ候得共、嫡子無之ニ付、養子ニ仕家督相続」とあるように、先代鏑木式部(対馬)の孫(式部の娘の子か)だが、式部には嫡男がなかったため、孫の勝豊が跡を継いで鳥越神社神主となった。
延宝8(1680)年には江戸神職触頭役に就任した。鳥越神社の神職触頭役は寛政4(1792)年まで代々受け継がれた。
享保13(1728)年7月13日卒去(『御府内備考続編巻之二十二』)。「行年三十歳」(『鏑木系図』)。
鏑木弘豊(1714-1753)
五代鳥越神社宮司。鏑木飛騨守勝豊の養嗣子。「廣豊」とも。通称は安次郎、右近、民部少輔、齋。正六位上。神職触頭役。
「鳥越明神の神職鏑木飛騨勝豊か養子」(『寛政重修諸家譜』)とあり、「飛騨守嫡子無之ニ付、御留守居支配竹内弥兵衛二男養子ニ仕」って、享保13(1728)年に家督相続する(『鏑木系図』)。ただし、のちに「飛騨守次男ニ付、民部少輔養子ニ仕家督」した鏑木権三郎(鏑木対馬)は、弘豊が勝豊の家督を継いだ寛延2(1749)年当時二十九歳であり、「飛騨守嫡子無之」とはならないが、結果として弘豊が家督相続する(『鏑木系図』)。
なお、弘豊の実家である旗本竹内家を相続した弘豊の兄・竹内小伝次之方(表御右筆)には男子がなく、寛延2(1749)年3月4日に亡くなると、養嗣子となっていた弘豊の子・市十郎(時に十四歳、廩米百五十俵)が6月2日に家督を継承し、慶次郎正親を名乗った(『寛政重修諸家譜』)。
竹内正顕──+─女子
(弥兵衛) |(月光院御方女房)
∥ |
∥ +─鏑木廣豊───竹内正親
∥ |(民部) (小伝次)
∥ |
∥ +─女子
∥ |(石川主殿頭家臣黒田牧仙宣吉妻)
∥ |
∥ +─女子
∥ (小笠原伊豫守家臣松井儀左衛門正儀妻)
∥
∥ 矢崎永䋝───女子 +─女子
∥ ∥ |
∥ ∥ |
∥───────竹内之方===竹内正親─+─女子
∥ (小伝次) (小伝次) |
∥ ∥ |
黒崎氏 ∥ +─竹内正慶
∥ (小太郎)
∥
∥────+─竹内正富
∥ |(安次郎)
∥ |
浅井教秀───女子 +─竹内正応
(伊助) (新之丞)
宝暦3(1753)年3月9日死去(『御府内備考続編巻之二十二』)。「行年四十歳」(『鏑木系図』)。
鏑木対馬守(1721-1754)
六代鳥越神社宮司。鏑木飛騨守勝豊の次男(『寛政重修諸家譜』)。前代鏑木民部少輔弘豊の義弟。通称は権三郎、右近。正六位上に叙せられた。神職触頭役。
「飛騨守次男ニ付、民部少輔養子ニ仕家督」とあるように、兄の鏑木民部少輔弘豊の養嗣子として家督を相続。通称を権三郎から右近に改めたのち、寛延3(1750)年に対馬守と改める(『鏑木系図』)。
宝暦4(1754)年2月死去(『御府内備考続編巻之二十二』)。「行年三十一歳」(『鏑木系図』)。
鏑木盛弘(????-1767)
七代鳥越神社宮司。鏑木対馬の養嗣子。通称は飛騨守、隼人正、豊後守、壱岐守。正六位上に叙せられた。神職触頭役。
東叡山寛永寺東照宮社家の渡辺伊織二男が鏑木対馬の養嗣子となり、宝暦4(1754)年2月、家督を継承した(『鏑木系図』)。宝暦5(1755)年6月、壱岐と改めた。
宝暦5(1755)年3月に飛騨と改め、宝暦11(1761)年6月に豊後と改めた(『鏑木系図』)。
橋場神明社神主鈴木兵庫の次男・直方を養嗣子とし、継嗣とした。
鏑木直方(????-1771)
八代鳥越神社宮司。鏑木壱岐守盛弘の養嗣子。橋場神明社神主鈴木兵庫の次男。通称は左内、土佐守。神職触頭役。
明和4(1767)年9月、鏑木壱岐守盛弘の養嗣子として鳥越神社神主となる(『御府内備考続編巻之二十二』)。
鏑木大内蔵(????-1773)
九代鳥越神社宮司。鏑木土佐守直方の子。
明和8(1771)年9月、家督を継承し、鳥越神社神主となる(『御府内備考続編巻之二十二』)。
三河島村稲荷社神主の岩井但馬の子・織衛を養嗣子とした(『御府内備考続編巻之二十二』)。
鏑木織衛(1761-????)
十代鳥越神社宮司。鏑木大内蔵の子。三河島村稲荷社神主岩井但馬の子。織部とも。
安永2(1773)年正月、十三歳で鳥越神社神主を継承した(『御府内備考続編巻之二十二』)が、織衛は幼少であったため、実父の岩井但馬が後見して神事を執り行っていたが、「但馬病身相成、後見難相勤」くなり、鏑木家続縁の職弟子・鏑木秀邦が織衛に代わり、鳥越神社の神主を継承することとなった(『御府内備考続編巻之二十二』)。
鏑木秀邦(????-1783)
十一代鳥越神社宮司。父は不明だが鏑木家「続縁」の鳥越神社神職。通称は式部。神職触頭役。
先代鏑木織衛が幼少ながら前代鏑木大内蔵の養嗣子となって神職を継承していたが、後見していた織衛実父の岩井但馬(三河島稲荷社神主)が「但馬病身相成、後見難相勤」くなったことから、安永3(1774)年に鳥越神社神職の鏑木家「続縁」の鏑木秀邦が神主職を継承した(『御府内備考続編巻之二十二』)。
鏑木久方(????-1797)
十二代鳥越神社宮司。先代神主鏑木鏑木秀邦の弟。通称は権守。神職触頭役。
天明3(1783)年3月、兄の先代神主・鏑木秀邦の引退により鳥越神社神主を継承した(『御府内備考続編巻之二十二』)。
寛政9(1797)年7月26日死去(『鏑木系図』)。
鏑木豊郷(????-1805)
十三代鳥越神社宮司。父は鏑木権守久方。通称は求馬。
寛政9(1797)年7月に家督を相続した(『御府内備考続編巻之二十二』)。
鏑木豊喬(????-1828)
十四代鳥越神社宮司。父は鏑木権守久方。通称は一学、権頭。
先代神主鏑木求馬豊郷の弟で、兄豊郷が病身のため、享和2(1802)年5月に家督を相続した(『御府内備考続編巻之二十二』)。
文化6(1809)年、御連歌連衆として出仕した(『連歌乃史的研究 前編』)。
鏑木豊貞 (????-1864)
十五代鳥越神社宮司。父は鏑木権守久方か。鏑木権頭豊喬の弟。通称は靫負。
文政11(1828)年11月に鳥越神社の神主を相続した(『鏑木家譜』)。「勤於幕府御連歌衆、賜年々銀若干」という連歌の上手で、文化13(1830)年、御連歌連衆として臨時勤仕し、翌天保2(1831)年から常勤出仕となる(『連歌乃史的研究 前編』)。
元治元(1864)年11月11日卒去(『鏑木家譜』)。
鏑木豊秀(1833-1884)
十六代鳥越神社宮司(詞掌)。鏑木靱負豊貞の子。通称は求馬。
文久年中に幕府の御連歌衆に抜擢され出仕した(『連歌乃史的研究 前編』)。江戸城大広間で行われた新年の儀を勤めた最後の宮司。
天保12(1841)年2月から天保14(1843)年2月までの2年間、岩村田藩士「伊東玄之丞え従学」し(『家塾開業願』「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)、天保14(1843)2月年から弘化4(1848)年11月までの五年間を泉藩士「阿部傳え転学」し、「筆額」は「寺澤友幸え従学修行」して修めた(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。
元治元(1864)年7月、嫡男鏑木鏺麿が誕生する(『大日本人物誌』)。
明治元(1868)年8月10日、新政府から「諸社廻達頭」に任命され、翌明治2(1869)年、神仏分離令に則り、高野山金剛三昧院末寺の鳥越神社別当寺の長楽寺を神社から分離させた。
明治5(1873)年4月25日、「第五大区二ノ小区浅草元鳥越町四十六番拝借地」に「家塾(塾名 別段無御坐)」を開塾する(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。習字(幼童教草、古今集序、国名歌、新古今集序、世界国尽、庭訓往来)と素読(本朝三字経、玉鉾百首、大統歌、古事記、孝経、大学、論語、易経)を教える塾で、生徒は六歳から十九歳まで「男三十二人 女十一人」を定員としている(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。
明治6(1874)年1月17日からは鳥越神社以外に、「浅草南元町 松平福社」「浅草猿屋街鎮座 加賀美稲荷神社」「同所同町 祭森稲荷神社」の「兼勤」を東京府より付達されている(『家塾開業願』)。
明治18(1881)年1月、嫡子鏑木鏺麿に家督を譲って隠居する。
鏑木正胤 (1614-1660)
千葉権之助俊胤の次男とされ、通称は作十郎、式部。『千葉大系図』によれば、慶長19(1614)年6月13日生まれ。
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| 第六榊神社 |
寛永5(1628)年9月、浅草第六天神(台東区蔵前1-4-3 現在の第六榊神社)の神主として氏子が迎えたという。兄・胤正は浅草鳥越明神の神主になったと伝わる。万治3(1660)年3月22日、四十七歳で亡くなった(『千葉大系図』)。
正胤については、宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から「千葉介正胤・尚胤」の名を確認することができるが、ここに見える「千葉介正胤」と、俊胤の子とされる「鏑木正胤」は別人だろう。『千葉大系図』と『千葉伝考記』の正胤に関する記述から見ると、俊胤が父親ということと、正胤両者の生年がまったく同じであることから、両者は同一人物としか考えられないが、その後の経歴・没年などがまったく異なっており、別人と考えざるを得ない。
| 史料名 | 正胤の生年 | 正胤の没年 | 正胤のその後 | 正胤の子 |
| 『千葉大系図』 | 慶長19(1614)年6月13日 | 万治3(1660)年3月22日 | 浅草第六明神神主 | 千葉正重(子孫神主) |
| 『千葉伝考記』 | 慶長19(1614)年 | 延宝19(1677)年8月4日 | 厩橋藩士 | 千葉尚胤(子孫不明) |
「千葉平祥胤」という人物が香取郡の大須賀家菩提寺である宝応寺に納めた『大須賀家系図』のなかに、「平介正胤」の子に「平介政胤」という人物が記載されている。その子孫も続いているように描かれているため、両者がともに「マサタネ」というところから混同されたのかもしれない。
千葉邦胤─+─千葉重胤
(千葉介) |(千葉新介)
|
+─千葉俊胤──+─鏑木胤正──…(鳥越神社家)
|(千葉権之助)|(作兵衛)
| |
+─門井正道──+=千葉正胤─+─千葉尚胤───千葉祥胤
(弥四郎) (平介) |(権之助) (権之助)
|
+─千葉政胤─?─千葉正重
(平介)
「千葉介正胤・尚胤」が連署した宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から実在を確認することができる。
正胤・尚胤父子の出自を裏づけるものとして、享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」が増上寺へ宛てたと思われる『千葉権之助願書』によれば、「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤(長胤弟ニ御座候)」「祖父平助正胤」「私親権之助」とある。
千葉介邦胤─+─千葉新介重胤==権之助俊胤==平助正胤──権之助──権之助
|(高祖父長胤) (曽祖父) (祖父) (親) (私)
|
+─権之助俊胤(万千代様作倉城江御入部被為遊候砌り被召出御奉公仕候)
●享保11(1726)年10月11日『千葉権之助願書』
| 台徳院様 | 御代迄被後扶持米切米等迄被 下置候 |
| 大融院様 |
おそらく「私親権之助」とは「尚胤」を指していると思われ、香取郡の宝応寺に伝わる『大須賀系図』の中に見える「千葉権介尚胤」と同一人物と思われる。
●元文7(1738)年『大須賀系図(千葉平祥胤筆)』(宝応寺蔵)
新田満次郎───女子
∥─────────千葉重胤
∥ (法名長胤)
千葉介胤富─+─千葉介邦胤
(千葉介) |(千葉介)
| ∥
| ∥───────+─千葉俊胤=+─千葉正胤──+─千葉尚胤───千葉祥胤
| ∥ |(千葉権介)|(平介) |(千葉権介)
| 常陸大掾幹定娘 | | |
| +─門井正道 | +─千葉政胤────…
+─娘 (弥四郎) | (平介)
∥ ∥────+
∥ ∥
∥───────+=娘
白井宗幹 |(実ハ岡里和泉守道明娘)
(治部少輔) |
+─白井胤幹
|(備後守)
|
+─白井幹時
|(志摩守)
|
+─鶴牧信幹
(茂右衛門)
宝応寺に伝わる『大須賀系図』を記した千葉祥胤は、祖先が天正年中に所領を失い諸所を転々としたのち、元文2(1737)年5月、下総に戻って宝応寺に寄宿し、元文3(1738)年、大須賀家の系図をみずからの系譜と合わせて宝応寺に納めている。この祥胤は、おそらくそれまで江戸にあって、享保11(1726)年10月11日、増上寺へ宛てて千葉家再興の嘆願書を提出した「千葉権之助」その人であると思われる。
●宝永4(1678)年11月30日『千葉介正胤・尚胤連署書状』
江戸時代、千葉家の再興を目指した千葉宗家の末裔は俊胤の子孫だけではなく、慶安元(1648)年11月には千葉新介重胤の子「千葉介定胤」が香取神社に願文を奉納し、千葉介邦胤の子といわれる「千葉介良胤」の子「千葉源之介知胤」も増上寺へ願文を提出した。
千葉知胤(源之介)が増上寺に宛てた千葉家再興に関する文書の中には「千葉源之介祖父千葉介良胤、親千葉釆女正当胤候儀迄、増上寺住持御開山之系図ニ委細ニ書戴申候」とある。
●千葉家再興を願った宗家の末裔たち
⇒千葉介胤富─+─千葉介良胤───釆女正当胤────源之介知胤
|(祖父) (親)
|
+─千葉介邦胤─+─千葉新介重胤─+─千葉介定胤──七之助完胤
|(高祖父) |(千葉介)
| |
+─権之助俊胤 +=権之助俊胤==平助正胤──権之助(尚胤)──権之助(祥胤)
(曽祖父) (祖父) (私親)
正胤については『千葉伝考記』によれば、俊胤の子ではなく、俊胤の弟・門井正道(弥四郎)の子で、母は白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)。俊胤の娘と結婚して養嗣子として俊胤のあとを継いだという。正胤の初名は門井平助、のち千葉権介と称し、千葉家の家宝を譲り受けたとある。
+─千葉新介重胤
|
+─千葉権介俊胤===正胤
| ↑
+─門井正道─────正胤───尚胤
(善兵衛) (平助) (平助)
∥
白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)
俊胤から家督を継ぐ前、十四歳の時に重胤(入道長胤)・俊胤の意を受けて、上野国厩橋藩主・酒井雅楽頭忠世(老中筆頭)に仕えた。これは重胤・俊胤の「千葉家再興」の願いを伝えるという意図があった。正胤はこのときには「千葉」を名乗っておらず、実父・正道の「門井」を名乗り、重胤の甥であることを明らかにしていなかった。この後、俊胤より千葉宗家を継いだものの、この事を秘密にして仕えていたようである。
その後、弘文院学士・春斎法印が4代将軍・徳川家綱(厳有院殿)の命を受けて『本朝通鑑』の編纂をはじめたが、正胤はこれを聞いて、
「私は千葉の嫡流を受け継ぐものとはいえ、なんの功績もない。何をもって祖先に酬いればよいのかわからない。千葉家累代の勲業も長く地に落ちて、後の世の者が我が家の偉業を知ることもなくなるだろう。ただ恨むばかりだ」
と、そのとき一大決心をして、家に伝わっている系図・家譜をうつしとって春斎法印に提出した。法印も系譜を見て「なんとすばらしい」と賞賛し、これを『本朝通鑑』に書き入れた。
寛文10(1670)年の冬、忠世の孫・酒井雅楽頭忠清(大老)はこの事を聞いて系譜などを見たあと「千葉」を称するようにと正胤に伝えて時服を与え、亡き重胤・俊胤の念願もかなうと思ったのもつかの間、急病にかかってしまったため、酒井家を辞して閑居した。病は次第に篤くなり、子・尚胤(平助)を枕辺に呼び、先祖の志を継ぐべき由を遺言して、延宝5(1677)年8月4日、浅草の屋敷で亡くなった。享年は六十四歳。
正胤は浅草寺塔中梅園院に葬られ、佐倉海隣寺に御影が安置された。法号は臨阿弥陀仏。龍昌院殿井雲■門大居士。
| 史料名 | 正胤の生年 | 正胤の没年 | 正胤のその後 | 正胤の子 |
| (1)『千葉大系図』 | 慶長19(1614)年6月13日 | 万治3(1660)年3月22日 | 浅草第六明神神主 | 千葉正重(子孫神主) |
| (2)『千葉伝考記』 | 慶長19(1614)年 | 延宝19(1677)年8月4日 | 厩橋藩士 | 千葉尚胤(子孫不明) |
→(1)(2)の正胤は、生年が慶長19(1614)年と同じであり、同一人物とも思われるが、名前と生年だけが同じでほかはまったく生き方も子孫の経歴も違っていて、違う人物とも思えるほど。
千葉権之助という者の由緒について、酒井雅楽頭の儒臣・古市兵庫(初名は南軒、のち藤之進)が、
「先年、酒井雅楽頭家に門井何某という者があるが、故あって千葉氏の文書・記録を得、時期を待ってから自分は千葉氏の嫡流ということを言って千葉嫡流の証書を提出し、門井から千葉への復姓を願っていたのだが、望みの通りに許された。その後、この人はあらかじめ用意していた『月に星』の紋のついた衣類・大小脇差をつけて翌日から出仕した。
しかし、そののちに千葉氏の嫡流であることが偽りとわかったため勤仕し難くなって酒井家を辞し、浪人して下総国に来たのだが、『千葉権之助』という名を聞いて『千葉の殿様だ』と信じる者がいたのだが、地元には千葉氏をいまだに知る古老がいて、権之助にいろいろ質問をしてみると、答えにつまること多く、面目をなくして江戸に上って針灸などをして暮らして一生を終えた。子もいた」
と語っている。この「千葉権之助」とは門井正胤のことと思われる。(2)でみる酒井家退転の理由と(3)の退転理由がまったく異なっており、実際はどういうことなのか不明。
| 人物 | 酒井家退転の理由 | 酒井家退転の理由(原文) | |
| (2) | 千葉権介 | 病にかかって辞す | 偶々病患に罹り、酒井家を辞去して閑居す |
| (3) | 千葉権之助 | 偽りが発覚して辞す | 千葉の正統を偽ること顕はれて勤仕し難くなり同家を立ち退いて浪人せり |
松平摂津守(嵩岩院)の家臣・楠岡右衛門の談によると、
「今世の千葉権之助は本苗字を門井といって、千葉の一族で千葉の家来筋である。千葉重胤殿が浪人しておれらたのを、家来筋の者どもが敬って保護された。重胤が亡くなる時、千葉の家書と妙見尊像を門井という者がひったくったとか、看病の褒美にもらったとかいわれているが、門井という者がこれらを相伝した。
門井は酒井雅楽頭に仕え、あるとき千葉権之助と改めた。門井はもともと常陸・下総両代官・関口作左衛門の妹婿である。作左衛門は厳有院様(家綱)の御代に、不始末があって切腹を仰せ付けられた。その弟・関口孫右衛門は甲府様(甲府宰相綱豊)に仕えていた。孫右衛門と権之助は一族であり、権之助は本所にすんでいた。その子は『千葉新介』と言ったが、子がないまま亡くなった。権之助は千葉相伝の家書の箱を笈にしていたが、新介が亡くなってしまったので、岩村八郎右衛門(もと水野隼人正家臣。隼人家が改易される前に浪人)の子・藤右衛門を養子として迎え、「千葉」姓を与えた。藤右衛門は元文年中(1736-1741)に神尾内記殿に仕えて千葉新助を称したという。」
岩村八郎右衛門──藤右衛門
門井権之助 (水野隼人正旧臣) |
∥ ↓
∥────────千葉新介=====千葉新助
+─娘 (神尾内記家臣)
|
|
+─関口作左衛門(作兵衛満継)
|(常陸・下総御代官)
|
加瀬胤正─+─関口孫右衛門
(太左衛門) (徳川綱豊の家臣)
『千葉家実記』に収められた「関口家文書『加瀬家由来書』」の記述によると、下総代官・関口作左衛門は、笹本村馬走の加瀬太左衛門胤正の長男、加瀬作兵衛満継という人物で、母方の関口姓に改めるようにとの上意を受け、さらに総州御代官を仰せつかり、上総国小西に知行を与えられて居所としたという。また、代官所手代として疋田太左衛門(米倉村)、堀江権右衛門(八日市場村)、湯浅金左衛門(松山村)を召抱えたという。加瀬氏は千葉一族であり、その孫にあたる人物が「千葉新介」を称したということだろうか。
関口作兵衛満継は元和元(1615)年4月、下総代官職を拝命し、翌元和2(1616)年に上総国小西陣屋に赴任した。正保2(1645)年8月10日には常陸国宍戸領二万石の代官も拝命し、承応元(1652)年8月25日、亡くなった。子息・関口作左衛門正満が跡を継ぎ、承応2(1653)年3月25日、代官職を拝命し小西陣屋に赴任するが、勘定方の不始末の廉で、延宝5(1677)年7月26日、代官を罷免され、切腹を命じられた(『江戸幕府郡代代官史料集』)。
大久保源次郎は岩松治部の次男。千葉新介重胤の母は岩松治部少輔(新田満二郎)の娘であり、彼は治部少輔の子孫か。源次郎は彼の書のなかで、(4)の岩村藤右衛門(千葉新助)について
「岩村藤右衛門は源次郎が知る人である。ただし千葉旧記のなかに岩村の名を見ことはできない。この岩村という者はもともと千葉の庶流といって九曜紋をつけていたが、不審がある。私が思うに、岩村はいずれの代にか、縁のある家から紋をもらったものであろう。もしくは古くは千葉の家来で主君より賜ったものかもしれない」
とある。
また、「増上寺の開山・酉譽上人(父は千葉介氏胤。母は新田義貞女)は千葉氏の出であるから、幔幕・什器にも十曜星を付けていた。その縁によってか、貞譽大僧正の時、千葉権之助は大僧正に頼んで、千葉氏の再興を桂昌院様(綱吉の母)まで願いあげたたのだが、桂昌院様が程なく亡くなってしまったので、結局千葉氏の再興はならなかった」とある。
鏑木正重(1647-1690)
鏑木式部正胤の子。正保4(1647)年5月11日生まれ。幼名は千勝、通称は織部正。父が亡くなると家督を継いだ。
「鏑木式部、織部二代者 上様江年頭之御礼申上候節、独御礼申上候、御奉行方より御直状被下置、御奉行所江罷出候節者、別席江罷出候家格」(『寺社書上』)に定められた。
元禄3(1690)年3月13日に病死した(『寺社書上』)。
鏑木正義(1675-1736)
鏑木織部正重の子。初名は正家。通称は大蔵丞・出羽守・下総守。延宝3(1675)年10月2日生まれ。
父織部正が元禄3(1690)年3月13日に亡くなると家督を継承するが、当時「忰大蔵若年ニ付」とあるように大蔵正義は十六歳という若年だったことから、父正重の「独御礼」「別席江罷出候」という待遇は停止され、「惣御礼、惣席之同職を相頼、御用之節御奉行惣席江罷出候」と改められた(『寺社書上』)。
8月24日、「日光御普請御造営出来ニ付、御祝儀御能拝見被仰付候」、9月2日に江戸城へ招かれて「御能拝見仕」った上「御能中入之節御料理被下置」ている(『寺社書上』)。
元文元(1736)年12月16日没した。
鏑木慶寛(1718-1750)
鏑木下総守正義の子。通称は長門掾、長門守、紀伊守、出羽守。
享保3(1718)年12月29日生まれ。享保17(1732)年に15歳で家督を相続する。
寛延3(1750)年7月5日亡くなった。
弟には鏑木右近(麟庵)がいる。
鏑木 崇(1740-1806)
鏑木出羽守慶寛の子。通称は兵庫頭、出羽守(『千葉大系図』)。
元文5(1740)年正月9日生まれ。寛延3(1750)年9月、11歳で家督を継いだ(『千葉大系図』)。
文化3(1806)年6月22日亡くなった(『千葉大系図』)。
鏑木 栄(1765-1821)
鏑木出羽守崇の子。通称は出羽介、のち隼人(『千葉大系図』)。
明和2(1765)年6月6日生まれ。弟に泰(兵庫助のち甲斐守で家督継承者)と敬明(富松のち宗助)がいる(『千葉大系図』)。伝はこの隼人栄で終わるが、その跡は甲斐守泰が継承したとみられる。