江戸時代の千葉氏(一)

江戸時代の千葉氏
継体天皇(???-527?)
欽明天皇(???-571)
敏達天皇(???-584?)
押坂彦人大兄(???-???)
舒明天皇(593-641)
天智天皇(626-672) 越道君伊羅都売(???-???)
志貴親王(???-716) 紀橡姫(???-709)
光仁天皇(709-782) 高野新笠(???-789)

桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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■臼井四郎末裔

鏑木胤次(1597-1653)

 臼井四郎の子とされる。「臼井四郎」は「臼井四郎胤吉(臼居久胤弟)」という(『鏑木城主系譜』)。一方、千葉介昌胤の次男に臼井四郎胤壽がおり、「臼井四郎」とはこの人物かもしれない。

 承応2(1653)年12月23日、古河において五十七歳で亡くなったという。法名は常英

鏑木長胤(1613-1636)

 鏑木胤次の子。通称は権太郎与兵衛(『寛政重修諸家譜』)。一説には千葉新介重胤の法名「長胤」はこの鏑木長胤と混同しているともされるが、「権太郎」は寛永16(1639)年10月6日に亡くなった「鏑木重胤」とされている(『寛政重修諸家譜』)

 伝によれば、千葉新介重胤が寛永10(1633)年に病死した際、重胤に子がなかったため、長胤が養子となり、系図ならびに千葉家に代々伝わってきた妙見不動二体などを継承したという。

 その後、長胤は古河において寛永13(1636)年正月26日に亡くなったという。二十四歳。法名は洞裡院雲高常無(『寛政重修諸家譜』)

鏑木胤利(1648-1662)

 鏑木胤幹の次男。通称は作之丞

 伯父の鏑木胤次の養嗣子となり、鏑木家を継ぐが、寛文2(1662)年9月7日、江戸において十五歳で亡くなった。法名は宗順

鏑木胤房(1642-1636)

 鏑木胤幹の長男。通称は十太夫

 弟で鏑木家の家督を継いだ鏑木胤利の跡を継ぐが、寛文5(1665)年8月26日に下総国香取郡鏑木村で亡くなった。二十四歳。法名は常正院仏光金性

鏑木胤幹(1608-1665)

 鏑木胤次の弟。通称は新右衛門鏑木作之丞胤利鏑木十太夫胤房の父である。

 胤利、胤房らが早くに亡くなったため、鏑木家を継ぐが、胤房の死後約一年後の寛文6(1666)年8月29日、下総国香取郡鏑木村で亡くなった。五十八歳。法名は常桂院殿雲州胤露大居士

鏑木氏胤(1613-1636)

 鏑木胤幹の子。母は某氏(出入院殿照月妙圓大姉)。通称は平内

 元千葉氏の客将で、館林藩主・松平右馬頭綱吉の御守役(のち御用人)として仕えていた押田三左衛門直勝に寄食し、 氏胤は押田直勝の推挙によって綱吉に仕えることとなり百五十俵を給わった。

 延宝8(1680)年5月、綱吉が将軍となって江戸城西ノ丸に入ると旗本に列し、小普請大久保玄蕃忠兼組となった。

 元禄16(1703)年8月12日に亡くなった。法名は常光院健安全勝

 養嗣子・鏑木十左衛門成胤が跡を継ぐ。成胤の実父は星野覚左衛門安休といった。成胤にも子はなく、神尾七郎左衛門の子・鏑木三五郎教胤を養嗣子に迎えた。しかし、教胤も子宝に恵まれず、天野甚左衛門宗閑の子・鏑木次郎吉近胤を養嗣子として鏑木家を継がせた。近胤は享保12(1727)年3月27日、小十人岡部伊右衛門組となり、享保14(1729)年閏9月2日、将軍・徳川吉宗の三男・小五郎(一橋刑部卿宗尹)の近習番として仕えた。

 近胤にも子がおらず、大河内源八郎正明の子・鏑木平内盛胤を養子として延享2(1745)年に家督を相続した。しかし宝暦3(1753)年3月5日、出奔して鏑木家は断絶となった。 


■千葉権之助俊胤系(一)

鏑木正胤(1614-1660)

 千葉権介俊胤の次男とされ、通称は作十郎、式部。『千葉大系図』によれば、慶長19(1614)年6月13日生まれ。

第六天
第六榊神社

 寛永5(1628)年9月、浅草第六天神(現在の第六榊神社)の神主として氏子が迎えたという。兄・胤正浅草鳥越明神の神主になったと伝わる。万治3(1660)年3月22日、四十七歳で亡くなった(『千葉大系図』)

 正胤については、宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から千葉介正胤・尚胤の名を確認することができるが、ここに見える千葉介正胤と、俊胤の子とされる「鏑木正胤」は別人だろう。『千葉大系図』『千葉伝考記』の正胤に関する記述から見ると、俊胤が父親ということと、正胤両者の生年がまったく同じであることから、両者は同一人物としか考えられないが、その後の経歴・没年などがまったく異なっており、別人と考えざるを得ない。

史料名 正胤の生年 正胤の没年 正胤のその後 正胤の子
『千葉大系図』 慶長19(1614)年6月13日 万治3(1660)年3月22日 浅草第六明神神主 千葉正重(子孫神主)
『千葉伝考記』 慶長19(1614)年 延宝19(1677)年8月4日 厩橋藩士 千葉尚胤(子孫不明)

 千葉平祥胤という人物が香取郡の大須賀家菩提寺である宝応寺に納めた『大須賀家系図』のなかに、平介正胤の子に「平介政胤という人物が記載されている。その子孫も続いているように描かれているため、両者がともに「マサタネ」というところから混同されたのかもしれない。

 千葉邦胤―+―千葉新介重胤
(千葉介) |(千葉新介)  
      |        
      +―千葉俊胤――+―鏑木胤正――…(鳥越神社家)
      |(千葉権之助)|(作兵衛)
      |       |
      +―門井正道――+=正胤―+―尚胤―――祥胤    
       (弥四郎)   (平介)|(権之助)(権之助)     
                   |
                   +―政胤―?―正重――…(第六天榊神社家)
                    (平介)

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(1)千葉正胤・尚胤・祥胤について千葉正胤千葉尚胤

「千葉介正胤・尚胤」が連署した宝永4(1676)年11月30日の香取神宮へ宛てた書状から実在を確認することができる。

 正胤・尚胤父子の出自を裏づけるものとして、享保11(1726)年10月11日、「千葉権之助」が増上寺へ宛てたと思われる願書によれば、「高祖父長胤幼名重胤」「曽祖父権之助俊胤(長胤弟ニ御座候)」「祖父平助正胤」「私親権之助とある。

 千葉介邦胤―+―千葉新介重胤==権之助俊胤==平助正胤――権之助――権之助
       |(高祖父長胤) (曽祖父)  (祖父)  (親)  (私)
       |
       +―権之助俊胤

 おそらく「私親権之助」とは「尚胤」を指していると思われ、香取郡の宝応寺に伝わる『大須賀系図』の中に見える千葉権介尚胤と同一人物と思われる。

●元文7(1738)年『大須賀系図(千葉平祥胤筆)』(宝応寺蔵)

 新田満次郎――――娘
          ∥――――――千葉重胤
          ∥     (法名長胤)
 千葉介胤富―+―千葉介邦胤
(千葉介)  |(千葉介)
       |  ∥
       |  ∥―――――+―千葉俊胤=+―正胤――+―尚胤―――?―祥胤
       |  ∥     |(千葉権介)|(平介) |(千葉権介) 
       |常陸大掾幹定娘 |      |     |
       |        +―門井正道 |     +―政胤――――…
       +―娘       (弥四郎) |      (平介)
         ∥        ∥――――+    
         ∥        ∥      
         ∥―――――+==娘         
        白井宗幹   |(実ハ岡里和泉守道明娘) 
       (治部少輔)  |
               +―白井胤幹
               |(備後守)
               |
               ―白井幹時
               |(志摩守)
               |
               +―鶴牧信幹
                (茂右衛門)

 宝応寺に伝わる『大須賀系図』を記した千葉祥胤は、祖先が天正年中に所領を失い諸所を転々としたのち、元文2(1737)年5月、下総に戻って宝応寺に寄宿し、元文3(1738)年、大須賀家の系図をみずからの系譜と合わせて宝応寺に納めている。この祥胤は、おそらくそれまで江戸にあって、享保11(1726)年10月11日、増上寺へ宛てて千葉家再興の嘆願書を提出した千葉権之助」その人であると思われる。

宝永4(1678)年11月30日『千葉介正胤・尚胤連署書状』

 
  香取長手神職、任例依太望而、号胤久許免之者也
 
   延宝                   千葉介
                          正胤(花押)
    霜月晦日  (花押影)(花押影)
                          
    二二年                    尚胤(花押)
             香取
               大長手雅

 江戸時代、千葉家の再興を目指した千葉宗家の末裔は俊胤の子孫だけではなく、慶安元(1648)年11月には千葉新介重胤の子・「千葉介定胤」が香取神社に願文を奉納し、千葉介邦胤の子といわれる「千葉介良胤」の子・「千葉源之介知胤」も増上寺へ願文を提出した。

 千葉知胤(源之介)が増上寺に宛てた千葉家再興に関する文書の中には千葉源之介祖父千葉介良胤、親千葉釆女正当胤候儀迄、増上寺住持御開山之系図ニ委細ニ書戴申候」とある。

●千葉家再興を願った宗家の末裔たち

⇒千葉介胤富―+―千葉介良胤―――釆女正当胤――源之介知胤
       |(祖父)    (親)
       |
       +―千葉介邦胤―+―千葉新介重胤―+―千葉介定胤―七之助完胤
               |(高祖父)   |(千葉介)
               |        |
               +―権之助俊胤  +=権之助俊胤=平助正胤―権之助(尚胤)―権之助(祥胤)
                          (曽祖父)(祖父) (私親)

(2)『千葉伝考記』

 正胤については『千葉伝考記』によれば、俊胤の子ではなく、俊胤の弟・門井正道(弥四郎)の子で、母は白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)。俊胤の娘と結婚して養嗣子として俊胤のあとを継いだという。正胤の初名は門井平助、のち千葉権介と称し、千葉家の家宝を譲り受けたとある。

 +―千葉新介重胤
 |
 +―千葉権介俊胤===正胤
 |          ↑
 +―門井正道―――――正胤―――尚胤
  (善兵衛)    (平助) (平助)
    ∥
   白井宗幹娘(実は岡里和泉守道明娘)

 俊胤から家督を継ぐ前、十四歳の時に重胤(入道長胤)・俊胤の意を受けて、上野国厩橋藩主・酒井雅楽頭忠世(老中筆頭)に仕えた。これは重胤・俊胤の「千葉家再興」の願いを伝えるという意図があった。正胤はこのときには「千葉」を名乗っておらず、実父・正道の「門井」を名乗り、重胤の甥であることを明らかにしていなかった。この後、俊胤より千葉宗家を継いだものの、この事を秘密にして仕えていたようである。

 その後、弘文院学士・春斎法印が4代将軍・徳川家綱(厳有院殿)の命を受けて『本朝通鑑』の編纂をはじめたが、正胤はこれを聞いて、

「私は千葉の嫡流を受け継ぐものとはいえ、なんの功績もない。何をもって祖先に酬いればよいのかわからない。千葉家累代の勲業も長く地に落ちて、後の世の者が我が家の偉業を知ることもなくなるだろう。ただ恨むばかりだ」

と、そのとき一大決心をして、家に伝わっている系図・家譜をうつしとって春斎法印に提出した。法印も系譜を見て「なんとすばらしい」と賞賛し、これを『本朝通鑑』に書き入れた。

 寛文10(1670)年の冬、忠世の孫・酒井雅楽頭忠清(大老)はこの事を聞いて系譜などを見たあと「千葉」を称するようにと正胤に伝えて時服を与え、亡き重胤・俊胤の念願もかなうと思ったのもつかの間、急病にかかってしまったため、酒井家を辞して閑居した。病は次第に篤くなり、子・尚胤(平助)を枕辺に呼び、先祖の志を継ぐべき由を遺言して、延宝5(1677)年8月4日、浅草の屋敷で亡くなった。享年は六十四歳。

 正胤は浅草寺塔中梅園院に葬られ、佐倉海隣寺に御影が安置された。法号は臨阿弥陀仏龍昌院殿井雲■門大居士

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史料名 正胤の生年 正胤の没年 正胤のその後 正胤の子
(1)『千葉大系図』 慶長19(1614)年6月13日 万治3(1660)年3月22日 浅草第六明神神主 千葉正重(子孫神主)
(2)『千葉伝考記』 慶長19(1614)年 延宝19(1677)年8月4日 厩橋藩士 千葉尚胤(子孫不明)

→(1)(2)の正胤は、生年が慶長19(1614)年と同じであり、同一人物とも思われるが、名前と生年だけが同じでほかはまったく生き方も子孫の経歴も違っていて、違う人物とも思えるほど。

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(3)千葉権之助(正胤)のことについて(『千葉伝考記』の一節)

 千葉権之助という者の由緒について、酒井雅楽頭の儒臣・古市兵庫(初名は南軒、のち藤之進)が、

「先年、酒井雅楽頭家に門井何某という者があるが、故あって千葉氏の文書・記録を得、時期を待ってから自分は千葉氏の嫡流ということを言って千葉嫡流の証書を提出し、門井から千葉への復姓を願っていたのだが、望みの通りに許された。その後、この人はあらかじめ用意していた『月に星』の紋のついた衣類・大小脇差をつけて翌日から出仕した。

 しかし、そののちに千葉氏の嫡流であることが偽りとわかったため勤仕し難くなって酒井家を辞し、浪人して下総国に来たのだが、『千葉権之助』という名を聞いて『千葉の殿様だ』と信じる者がいたのだが、地元には千葉氏をいまだに知る古老がいて、権之助にいろいろ質問をしてみると、答えにつまること多く、面目をなくして江戸に上って針灸などをして暮らして一生を終えた。子もいた」

と語っている。この千葉権之助とは門井正胤のことと思われる。(2)でみる酒井家退転の理由と(3)の退転理由がまったく異なっており、実際はどういうことなのか不明。

  人物 酒井家退転の理由 酒井家退転の理由(原文)
(2) 千葉権介 病にかかって辞す 偶々病患に罹り、酒井家を辞去して閑居す
(3) 千葉権之助 偽りが発覚して辞す 千葉の正統を偽ること顕はれて勤仕し難くなり同家を立ち退いて浪人せり

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(4)千葉新助(尚胤か)について

 松平摂津守(嵩岩院)の家臣・楠岡右衛門の談によると、

「今世の千葉権之助は本苗字を門井といって、千葉の一族で千葉の家来筋である。千葉重胤殿が浪人しておれらたのを、家来筋の者どもが敬って保護された。重胤が亡くなる時、千葉の家書と妙見尊像を門井という者がひったくったとか、看病の褒美にもらったとかいわれているが、門井という者がこれらを相伝した。

 門井は酒井雅楽頭に仕え、あるとき千葉権之助と改めた。門井はもともと常陸・下総両代官・関口作左衛門の妹婿である。作左衛門は厳有院様(家綱)の御代に、不始末があって切腹を仰せ付けられた。その弟・関口孫右衛門は甲府様(甲府宰相綱豊)に仕えていた。孫右衛門と権之助は一族であり、権之助は本所にすんでいた。その子は『千葉新介』と言ったが、子がないまま亡くなった。権之助は千葉相伝の家書の箱を笈にしていたが、新介が亡くなってしまったので、岩村八郎右衛門(もと水野隼人正家臣。隼人家が改易される前に浪人)の子・藤右衛門を養子として迎え、「千葉」姓を与えた。藤右衛門は元文年中(1736-1741)に神尾内記殿に仕えて千葉新助を称したという。」

                 岩村八郎右衛門――藤右衛門
       門井権之助    (水野隼人正旧臣)  |
        ∥                  ↓
        ∥――――――――千葉新介=====千葉新助
      +―娘                (神尾内記家臣)
      | 
      |
      +―関口作左衛門(作兵衛満継)
      |(常陸・下総御代官)
      |
 加瀬胤正―+―関口孫右衛門
(太左衛門) (徳川綱豊の家臣)

 『千葉家実記』に収められた「関口家文書『加瀬家由来書』」の記述によると、下総代官・関口作左衛門は、笹本村馬走加瀬太左衛門胤正の長男、加瀬作兵衛満継という人物で、母方の関口姓に改めるようにとの上意を受け、さらに総州御代官を仰せつかり、上総国小西に知行を与えられて居所としたという。また、代官所手代として疋田太左衛門(米倉村)、堀江権右衛門(八日市場村)、湯浅金左衛門(松山村)を召抱えたという。加瀬氏は千葉一族であり、その孫にあたる人物が「千葉新介」を称したということだろうか。

 関口作兵衛満継は元和元(1615)年4月、下総代官職を拝命し、翌元和2(1616)年に上総国小西陣屋に赴任した。正保2(1645)年8月10日には常陸国宍戸領二万石の代官も拝命し、承応元(1652)年8月25日、亡くなった。子息・関口作左衛門正満が跡を継ぎ、承応2(1653)年3月25日、代官職を拝命し小西陣屋に赴任するが、勘定方の不始末の廉で、延宝5(1677)年7月26日、代官を罷免され、切腹を命じられた(『江戸幕府郡代代官史料集』)

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(5)大久保源次郎の談

 大久保源次郎は岩松治部の次男。千葉介重胤の母は岩松治部少輔(新田満二郎)の娘であり、彼は治部少輔の子孫か。源次郎は彼の書のなかで、(4)の岩村藤右衛門(千葉新助)について

「岩村藤右衛門は源次郎が知る人である。ただし千葉旧記のなかに岩村の名を見ことはできない。この岩村という者はもともと千葉の庶流といって九曜紋をつけていたが、不審がある。私が思うに、岩村はいずれの代にか、縁のある家から紋をもらったものであろう。もしくは古くは千葉の家来で主君より賜ったものかもしれない」

とある。

 また、「増上寺の開山・酉譽上人(父は千葉介氏胤。母は新田義貞女)は千葉氏の出であるから、幔幕・什器にも十曜星を付けていた。その縁によってか、貞譽大僧正の時、千葉権之助は大僧正に頼んで、千葉氏の再興を桂昌院様(綱吉の母)まで願いあげたたのだが、桂昌院様が程なく亡くなってしまったので、結局千葉氏の再興はならなかった」とある。

鏑木正重(1647-1690)

 鏑木式部正胤の子。正保4(1647)年5月11日生まれ。幼名は千勝、通称は織部正。父が亡くなると家督を継ぎ、元禄3(1690)年3月13日亡くなった。

鏑木正義(1675-1736)

 鏑木織部正重の子。初名は正家。通称は大蔵丞・出羽守・下総守。延宝3(1675)年10月2日生まれ。元文元(1736)年12月16日没した。

鏑木慶寛(1718-1750)

 鏑木下総守正義の子。通称は長門掾、長門守、紀伊守、出羽守

 享保3(1718)年12月29日生まれ。享保17(1732)年に15歳で家督を相続し、寛延3(1750)年7月5日亡くなった。

鏑木 崇(1740-1806)

 鏑木出羽守慶寛の子。通称は兵庫頭出羽守

元文5(1740)年1月9日生まれ。寛延3(1750)年9月、11歳で家督を継いだ。文化3(1806)年6月22日亡くなった。

鏑木 栄(1765-1821)

 鏑木出羽守崇の子。諱は。通称は出羽介。弟は(兵庫助・隼人)。明和2(1765)年6月6日生まれ。


■千葉権之助俊胤系(ニ)

千葉胤正(????-1640)

鳥越神社
鳥越神社

 二代鳥越神社宮司千葉権介俊胤の長男。通称は作兵衛。父・俊胤は水戸城主・武田信吉(家康の五男)に仕えていたが、信吉が亡くなると浪人。そののち武蔵国江戸浅草の鳥越神社・第六天神にまねかれて神主となり、氏を「鏑木」に改めた。

 胤正(作兵衛)は鳥越神社神主となり、弟の正胤(式部)は第六天神の神主となったと伝わっている。胤正は元和7(1621)年1月6日、江戸城大広間に召されて年賀の儀を務めた。

鏑木式部(????-1673)

 三代鳥越神社宮司千葉作兵衛胤正の子。通称は式部対馬と称した。子孫は代々、毎年1月6日の江戸城大広間にて行われる年賀惣礼の儀を勤めた。

鏑木勝豊(????-1708)

 四代鳥越神社宮司。式部の子。通称を対馬・飛騨守と称し、正六位上に叙された。

 延宝8(1680)年には江戸神職触頭役に就任した。寺社奉行支配の神職触頭役は寛政4(1792)年まで代々受け継がれた。

鏑木弘豊(????-1728)

 五代鳥越神社宮司勝豊の子。右近・民部少輔を称し、正六位上に叙された。神職触頭役。

鏑木対馬(????-1754)

 六代鳥越神社宮司。通称は左内・対馬正六位上に叙せられた。神職触頭役。

鏑木盛弘(????-1767)

 七代鳥越神社宮司。通称は飛騨・隼人正六位上に叙せられた。神職触頭役。

鏑木直方(????-1771)

 八代鳥越神社宮司。盛弘の跡を継いで宮司となった。通称は左門・土佐守。神職触頭役。

鏑木大内蔵(????-1773)

 九代鳥越神社宮司

鏑木織部(????-1774)

 十代鳥越神社宮司

鏑木秀邦(????-1783)

 十一代鳥越神社宮司。通称は式部。神職触頭役。

鏑木久方(????-1797)

 十二代鳥越神社宮司。通称は権守。神職触頭役。

鏑木豊郷(????-1805)

 十三代鳥越神社宮司。通称は求馬

鏑木豊喬(????-1828)

 十四代鳥越神社宮司。通称は一学

鏑木豊貞(????-1864)

 十五代鳥越神社宮司。通称は靫負。幕府の御連歌衆に抜擢された。

鏑木豊秀(1833-1884)

 十六代鳥越神社宮司(詞掌)。通称は求馬。幕府の御連歌衆に抜擢された。江戸城大広間で行われた新年の儀を勤めた最後の宮司。

 天保12(1841)年2月から天保14(1843)年2月までの2年間、岩村田藩士「伊東玄之丞え従学」し(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)、天保14(1843)2月年から弘化4(1848)年11月までの五年間を泉藩士「阿部傳え転学」し、「筆額」は「寺澤友幸え従学修行」して学問を修めた(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)

 元治元(1864)年7月、嫡男鏑木鏺麿が誕生する(『大日本人物誌』)

 明治元(1868)年8月10日、新政府から「諸社廻達頭」に任命され、翌明治2(1869)年、高野山金剛三昧院末寺の長楽寺を分離させた。

 明治5(1873)年4月25日、「第五大区二ノ小区浅草元鳥越町四十六番拝借地」「家塾(塾名 別段無御坐)」を開塾する(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)。習字(幼童教草、古今集序、国名歌、新古今集序、世界国尽、庭訓往来)と素読(本朝三字経、玉鉾百首、大統歌、古事記、孝経、大学、論語、易経)を教える塾で、生徒は六歳から十九歳まで「男三十二人 女十一人」を定員としている(「家塾明細表」『明治六年一月開塾明細表』)

 明治18(1881)年1月、嫡子鏑木鏺麿に家督を譲って隠居する。


■千葉介胤富系

千葉繁胤(1552-1634)

 千葉介胤富の四男と伝わる。通称は但馬守

 千葉介邦胤は天文21(1557)年生まれであり、彼の兄ということになる。事歴は不明。寛永11(1634)年4月13日に亡くなった。法号は法阿弥陀仏。ただし、この法号は千葉権介俊胤と同様であり、繁胤の実在も含めて違和感がある。

千葉総胤(1575-1650)

 千葉但馬守繁胤の子。通称は新介。慶安3(1650)年3月13日66歳で亡くなった。

千葉征胤(1599-1680)

 千葉新介総胤の子。通称は但馬。延宝8(1680)年11月13日、82歳で亡くなった。法号は常阿弥陀仏

千葉叙胤(1621-1680)

 千葉但馬征胤の子。通称は新介。延宝8(1680)年3月3日、60歳で亡くなった。

千葉貴胤(1647-1733)

 千葉新介叙胤の子。通称は新介。享保18(1733)年8月9日、87歳で亡くなった。法号は長阿弥陀仏


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