東氏 東常慶

東氏
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東常慶(????-1555?)

 郡上東氏十一代。父は東下野守常和。官位は従五位下。官途は左近将監・下野守。妻は遠藤新兵衛好任娘か(『美濃明細記』遠藤氏系図)。号は素忠。東氏の家督を継ぐ前は祖父の東常縁、父の東常和と同様に、一門野田氏の家督を継ぎ、野田左近太夫と称した(『秘聞郡上古日記』)。同族の歌人・東素山と交流を持っていたことが『東素山消息』よりうかがえる。

■東氏想像系図■

 東益之─+─東氏数──────東元胤
(下野守)|(下総守)    (下総三郎)
     |          ∥───────東尚胤────東素山
     |          ∥      (下総守)  (寿昌院)
     |          慈永大姉
     |                
     |        +─東頼数─────東氏胤
     |        |(左近将監)  (宮内少輔)
     |        |
     +─東常縁────+─東常和───+─東常慶────東常堯
     |(下野守)   |(下野守)  |(下野守)  (七郎)
     |        |       |         
     +─正宗龍統   +─東胤氏   +─東素経
      (建仁寺住持) |(最勝院素純) (最勝院)
              |
              +─常庵龍崇
               (建仁寺住持)

 常慶の生年は不明だが、父・常和は文明18(1486)年から永正5(1508)年の約二十年間の所在が不明であり、この間に生まれていると思われる。具体的には、文亀元(1501)年頃に古今伝授を従弟にあたる宮内少輔氏胤(奉公衆)に行っていることから、この頃には在京しており、おそらくこの在京時期の生誕であろう。

 後年、高山照蓮寺に対して老臣の遠藤新兵衛入道胤秀とともに起請文を発給しているが、その署名が「野田左近大夫常慶」となっていることから、当初は野田姓を名乗っていたことがわかる。

 大永5(1525)年9月6日、常慶には叔父に当たる建仁寺の常庵龍崇が三条西実隆を訪れて、「東下野守」が逝去したことを伝えており、父・常和がこのころ亡くなったことがわかる。常和がどこで没したのかの記載はないが、小田原北条氏の文書や関東に郡上東氏の伝承がないことから、郡上東氏は武蔵国を離れて京都または郡上へ戻っていた可能性が高いだろう。美濃郡上であれば、常慶から常庵龍崇へ伝えられたことになる。

 その後、しばらくは常慶の伝はないが、天文9(1540)年8月25日、越前の大名・朝倉孝景が郡上郡に侵攻した。長滝寺に在陣した朝倉勢の一団は坊中を荒らし回り散々に濫妨狼藉を働いたという(『長滝寺文書』)。しかし、僧侶たちはことごとく講堂に籠もって公事を執り行ったという。さらに朝倉治部丞景遐は長滝寺と関わりの深い白山神主家の石徹白紀伊守胤弘に郡上郡の道案内を命じるが、石徹白紀伊守の正室は常慶の四女であり、さらに石徹白紀伊守の父・石徹白源阿弥の母は東常縁の娘という、二重の婚姻関係にあった。当然、石徹白紀伊守はこれを峻拒して姿をくらませた(『石徹白家文書』)。

 東常縁─+─東常和──東常慶───+─東常堯
(下野守)|(下野守)(下野守)  |(七郎)
     |            |
     |            +─娘
     |            | ∥───────遠藤慶隆
     |            | 遠藤盛数   (但馬守)
     |            |(六郎左衛門尉)
     |            |
     +─娘          +─四女
       ∥            ∥
       ∥───石徹白源阿弥───石徹白胤弘
       ∥           (紀伊守)
      石徹白某          

千人塚
朝倉勢の千人塚(左と右の土盛)

 朝倉勢は郡上に攻め入ると、そのまま東氏の居城である山田庄に下り、居城の「山田篠脇城」へ押し寄せたが、城は堅固であり籠城する者たちは分限に応じて石を持参し、朝倉勢が攻め寄せて城に取り付いたときには石を落として敵勢を混乱させたという。常慶は攻め寄せる朝倉勢を「悉切崩」して、ついに9月23日、「越前へ追越」た(『荘厳講記録』『郡上藩家中記録』)。

 このときの合戦では、東氏の追撃によって討たれた朝倉勢の遺体で、越前へ繋がる道が三日間にわたって不通になったという。この道を「三日坂」といい、討たれた朝倉勢の首塚が「千人塚」として遺されている。この「千人塚」がある一帯は、東氏菩提寺の木蛇寺や東林寺(尼寺)の寺域であることから、常慶は彼らの菩提を弔う意味で寺域に葬ったのであろう。

●『荘厳講記録』(『長滝寺文書』:「白鳥町史」)

于時天文九年八月廿五日、越前衆当郡へ乱入し、同日当寺に彼人数陣執、坊中悉懸荒、乱坊狼藉沙汰之限共候、雖然衆僧老若悉構堂閉籠仕、種々以公事相続云々、山田篠脇城堅固なるよつて、責候ヘ共悉切崩、九月廿三日ニ越前へ追越候也、 郡中譜代侍希代高名無比類者也

 この年、長滝寺の南、小駄良郷(郡上市白鳥町向小駄良)の領主・和田五郎左衛門がしばしば常慶の命に随わなかったため、常慶は天文9(1540)年、遠藤新兵衛胤縁、遠藤六郎左衛門尉盛数に謀り、篠脇城に呼び寄せて暗殺し平定したという(『郡上郡史』)。常慶は当時、「東」ではなく一門和田氏を継いでいた様子があり、小駄良の和田氏はその庶流で、対立関係にあったのかもしれない。また、朝倉氏の郡上侵入と時を同じくしていることから、和田氏が朝倉氏と示し合わせていた可能性もあろう。常慶はさらに阿千葉城主の鷲見氏も日置主計、餌取肥後を派遣して追捕している。この戦いでは日置主計が討死を遂げたが、餌取肥後が鷲見氏を降伏させたという。鷲見氏については飛騨国大野郡の内ヶ島氏と照蓮寺の働きかけが功を奏したようで、某年12月17日、「野田左近大夫常慶」「遠藤新兵衛入道胤秀」の両名は連署で高山の照蓮寺に対して、「今度一乱之儀仁付而、内嶋殿、照蓮寺以御扱属無事候、然間於末代、対鷲見殿互成水魚之思無別儀可申談候」という起請文を発給している(「野田常慶・遠藤胤秀連署起請文」『岐阜県史 史料編 古代・中世四』)。その後、常慶は名字を「東」と改めている。

 天文13(1544)年7月2日、「左近太夫常慶」は長滝寺経聞坊に対し、経聞坊が白鳥寺の別当を務めた際、「東下野守殿(東下野守常和か)」が「六貫文」の関銭を借用したので、何時なりとも長滝寺の造営があった際には返すという旨を長滝寺塔頭経聞坊に発給している。このころの常慶は「左近太夫」であったことがわかる。また、もし借用金の返済がなかった場合は「前谷鷲見さかみ名田」の年貢から二年にわたって三貫三百文を宛てて返済する旨を伝えている。前谷(郡上市白鳥町前谷)は長滝寺の北に位置し、「鷲見相模」の名田があったという。郡上郡北部に勢力を張っていた鷲見氏はこのとき東氏の支配下にあったのだろう。

東殿山(左)と赤谷山(右奥)
東殿山(左)と赤谷山(右奥)

 天文18(1549)年、嫡子・東七郎常堯が、大野郡帰雲城主・内ヶ島兵庫頭雅氏の女を娶ることとなった(『常慶ヨリ慶利迄縁家之図』:「郡上八幡町史」)。鷲見氏との一件をはじめ、朝倉氏や三木氏(姉小路氏)ら外寇を防ぐための布石として、内ヶ島氏との連携は重要な意味を持っていたのだろう。そして、永禄元(1555)年ごろ、常慶は家督を常堯に譲ったと思われる。

 しかし、のちに郡上遠藤氏の手を経た文書には、いずれも常堯は短慮で人望がなく、殊に戦国の世のこと、人望のない人物では相続もままならないため、常慶は娘(のち友順尼)聟の遠藤盛数へ家督を譲ったと記載されている。

 さらに、永禄2(1559)年、常慶の長男・七郎常堯は家督を継ぐことができずに、赤谷山にあってなすことないままに過ごしていたが、突如、心のままに行動せんと、一族の遠藤新兵衛胤縁の娘を後妻に迎えたいと胤縁に申し入れた。しかし、胤縁は常堯の行状を快く思っておらず、東家重臣・畑佐備後守信胤の子である畑佐六郎右衛門信国に嫁がせた。これに怒った常堯は、8月1日、八朔の礼のために赤谷山城に登城した胤縁を、家臣・長瀬内膳に命じて鉄砲で射殺したという。胤縁の家臣・庵原懸之助は胤縁の弟で東常慶の聟・遠藤盛数に急使を派遣して、胤縁が常堯に討たれたことを知らせた。この報告を聞くや盛数は激怒し、甥の遠藤新右衛門胤俊(胤縁子)を伴って、赤谷城とは長良川をはさんだ対岸にある八幡山に陣を張って常堯と対峙したとされる。常慶も常堯とともに籠城し、赤谷山の天嶮を駆使して猛将・遠藤盛数の猛攻に約二十日間耐え抜いたが、8月24日についに陥落。常慶は自刃し、常堯は城を逃れて三百八十年に及ぶ郡上東氏はついに滅亡したという。

 常慶は赤谷山城落城で自刃したとされているが、安政7(1860)年8月24日に曹洞宗の北辰寺(郡上市美並町下田)において「素忠」の三百回忌が営まれており、これが正しいとすれば永禄4(1561)年に亡くなったことになる。常慶が開基とされている北辰寺に葬られたという。

 以上の事柄は、すべて郡上藩三代藩主・遠藤備前守常友の代に編纂された史料をもとにしたもので、勝者である遠藤氏の手により作成されたものである。とくに常友は藤姓から「平姓」へと改め、兄弟ともに通字「慶」を「常」字の名字へ変更。歌道を家業に据えて号も東氏の「素」字を用いるなど、郡上東氏の正当な継承者としての立場を鮮明にしている。この常友の「東氏化」への動きと連動して、東氏を継承する正当性を担保するため、系譜を含めて史実を改ざんした可能性が考えられ、それはすでに江戸中期の新井白石から指摘を受けている。系譜上では、遠藤氏の祖とされる「遠藤八右衛門盛胤」が東下野守常縁の子として掲載されているが、『美濃明細記』遠藤氏系図によれば、遠藤氏は東氏とはまったく別の氏族であり、遠藤新兵衛好任の娘が東常慶の妻とされている。

 某年8月7日『東常慶・東常堯連署状』によれば、長滝寺経聞坊の白鳥別当職の事につき、経聞坊執行が「悪党」と組んだ上、そのことを届け出なかったことは罰すべきこととしている。すでに詫びを入れたことから執行は許されたようであるが、常慶・常堯は郡上郡北部まで支配を固めていたことが窺える。また、跡を継げなかったという常堯自身も、経聞坊大蔵公に対して単独で書状を発給している(『某年8月2日『東常堯折紙』』)。これはおそらく常堯が家督を継いでいたことを示すものと考えられる。

 鎌倉時代以来東氏の根本被官として続き、東氏との血縁関係もあったであろう遠藤氏であったが、東氏家中において、その勢力は拡大していったのだろう。室町時代中期、危機感を抱いていたであろう常慶の父・東下野守常和が遠藤但馬守らを京都四条道場前で討ち果たすことになる。しかし、この事件以降、東氏と遠藤氏との間には対立関係が生まれており、遠藤氏はついに謀叛を起こして、常慶・常堯を居城の赤谷山城に攻め寄せて追放したということが真相ではなかろうか。

 永禄8(1565)年7月23日、東素山が「遠藤大隅守(胤俊か)」へ宛てた書状『東素山消息』の中に、

先年常慶一札古新兵衛状なども、なつかしさのまゝ不計求便候、皆々家中能懇可相続候事、尤専一候、恐々

という一文があり、混乱なく相続をすることが大事であると遠藤大隅守胤俊へ伝えた。この「相続」とは東氏滅亡による遠藤氏への領主交代を指すものか。

 また、この永禄2(1559)年8月の混乱は郡上郡の北、長滝寺にまで及んでおり、遠藤氏か東氏かどちらかの勢力かはわからないが、長滝寺が攻められて僧侶たちのほとんどは山を降りて落ち延びた。ただし「道雅、良松、良定、堯盛其外衆分十人余相残寺役以下如形務申候也」と、阿名院権大僧都道雅や宝光坊良松、真蔵坊良定、明堯坊堯盛ら十名余の坊主は寺に残って、寺役を務めたという(『荘厳講執事帳』)。

●天文13(1544)年7月2日『東左近太夫常慶状』(『経聞坊文書』:「長滝寺真鏡」)

同年経聞坊白鳥別当の節、東下野守殿へ関銭今度六貫文借用申候、何時成共御そうえいの時返進可申候、若ふさたニおいては前谷鷲見さかみ名田年貢賃銭三貫三百文を以両年ニめしおかるへし、この段、惣寺へも御心得候て可被下、為其一筆申候、恐惶謹言
 
  天文十三年七月二日
     左近太夫常慶 花押
  
     経聞坊
     同御中

●某年?6月17日『東常慶安堵状』(『宝幢坊文書』:岐阜県史 史料編 古代・中世一所収)

明光房譲渡所之道者并田地、坊内等之義、彼証跡披見上、無紛相見候、然上者、違乱輩不可有之候、任証文之旨、可被申付事専要候也、仍如件、
 
  六月十七日            常慶(花押)

   筑前
     進之候、

●永禄元(1558)年? 3月21日『東常慶書状』(『宝幢坊文書』:岐阜県史 史料編 古代・中世一所収)

態以折紙申入候、仍而宝幢坊々跡之儀相続之事、少将ニ大弐娘了妙被相談、可被相続之由候哉、尤候、然者何も坊領買地方之儀、無相違様、御指南肝要候、殊彼坊主ニ可成者之儀者、貴坊可為同宿候間、田地等之儀、違乱之方候共、不相紛様、可被仰付候、少将ニも、大弐娘相語、可相続儀、一札我等遣候、自然大弐娘ニ少将相離儀候者、彼坊跡之儀者、女房可為覚悟次第候、其時ニ、可令異見候、重而可申入候、恐惶謹言、
 
 「永禄元年」(異筆)          下野守
  三月廿一日               常慶(花押)
 
   経聞坊 
     御同宿中
 

●某年8月7日『東常慶・東常堯連署状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

執行進退之儀、今度悪党同意其上不相届子細重々之儀ニ候条、彼一類於末代雖立置間敷候、詫言段達而蒙仰候間難去貴坊、免申候、然間被官之儀可申付之由、存分之分是又種々承候、然者治部卿殿へ為被官進之置候、於永代子々孫々不可有相違候、万一悪逆之分忌存於令違輩ハ則彼跡職之義可被仰付候、仍為後日状如件
 
                 七郎
     八月七日         常堯(花押)
                 下野守
                  常慶(花押)
   経 聞 坊
        御同宿中
 
   白鳥別当職之事

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◎東頼数・元胤・氏胤・常和・尚胤の時系列

元号 月日 名前 事柄 出典
宝徳3(1451)年 2月18日 元胤 ・・・二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世、元胤同道申て、罷て一座有・・・
・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・ 
『東野州聞書』
~17年~  
応仁2(1468)年 11月~12月 平縁数 足利義視が義政と不和になって坂本へ落ちた際、剃髪して詠んだ歌の署名。 『東家大々集』
応仁3(1469)年 4月 東縁数 下総の父・東常縁のもとへ駆けつける。 『鎌倉大草子』
応仁4(1470)年 4月21日 東縁数 「下総の国には子息縁数をとヾめ、四月廿一日東野州は上洛して・・・」 『鎌倉大草子』
~15年~  
文明17(1485)年 6月17日 右近将監平頼数 東家伝来の藤原俊成女筆『古今和歌集』を「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進。 『長瀧寺文書』
文明17(1485)年 秋~5月 平頼数 「みのの国平頼数しる所の山亭」に常縁同門の常光院堯恵が訪れ、堯恵に古今伝授を受ける。 『北国紀行』
文明18(1486)年 2月~5月 平常和 堯恵、相模国芦名の平常和(東下野守常縁二男)と出逢い、古今伝授を始める。 『北国紀行』
〃 2月19日 東左近将監頼数 年始御礼として「東山様」に太刀と馬一匹を送る。 『親郷日記』
〃 9月12日 東三郎 足利義尚の近江出陣に供奉。(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』)  
長享元(1487)年 12月14日 東之三郎 正宗龍統が蔭涼軒に語った言葉の中に、「美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣」 『蔭涼軒日録』
長享3(1489)年 正月15日 東将監 三条西実隆を訪問。この「東将監」は「東左近大夫常和」か。 『実隆公記』
〃 10月26日 東中務 正宗龍統が蔭涼軒と語った中に、「我俗姪東中務在濃州知行、自国方攻之、終可及生害乎」 『蔭涼軒日録』
延徳3(1491)年 8月6日 東中務 「東中務被官遠藤但馬守、同名者二人、厩者一人、以上四員、於四条道場前白日討之、蓋以中務命也」 『蔭涼軒日録』
~10年~  
文亀元(1501)年 7月11日 東左近大夫常
氏胤
「東左近大夫常和」から「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」 『京大本古今集』
永正3(1506)年 2月 東下総守尚胤 「長空慈永大姉卒於栗城北萱之堂、転盻問生七云臨、孝子総州刺史平公尚胤虔就墳院…」 『祭慈永大姉文』
永正5(1508)年 3月11日 東下野守常和 「東下野守常和自相模国上洛、以民部卿挙達来携一桶、対面賜盃、談曩祖事等…」 『実隆公記』
〃 4月30日 東下野守常和 「東下野守平常和、百首歌みせ侍し、合点して返しつかはす奥に書付侍し」
「東下野守平常和来、明後日可下向云々、短冊所望、予書遣之由報了、百首合点遣之…」
『再昌草』
『実隆公記』
〃 5月2日 東下野守常和 「東下野守常和来、勧一盞、遣愚詠、今日可下向之所より」 『実隆公記』
〃 7月27日 東宮内少輔氏胤 三条西実隆の邸にて行われた宗祇七回忌の追善和歌披講の最終日に実隆邸を初訪問。 『実隆公記』
〃 8月3日 東宮内少輔 実隆邸を訪れて「新古今真名序授之了」 『実隆公記』
永正6(1509)年 2月29日 東宮内少輔師胤 師胤から贈られた梅の花と歌一首が三条西家へ届けられる。 『再昌草』
〃 3月8日 東宮内少輔師胤 三条西実隆から師胤に歌が届けられる。 『再昌草』
~8年~  
永正14(1517)年 10月 東下野守 実隆と和歌の贈答。 氏数は「千葉介」の妻の熱心な働きかけが見える。 『実隆公記』
永正16(1519)年 9月2日 千葉介守胤
同妻
東下野守常和
「千葉介守胤」「同妻」「常和」の百首歌合点の依頼が三条西実隆のもとへもたらされる。 『再章草』
永正17(1520)年 9月3日 東下野守 関東東氏内の一般代の隠居。ひゃくにんいっしゅお  
大永3(1523)年 9月 東下総守■胤 武蔵国淵江から「東下総守胤?」から三条西実隆のもとへ和歌を記した書状が届く。 『再章草』
大永4(1524)年?   求浄斎素安 9月状の返事を実隆は12月10日に関東に遣わし、それに対する返書。 『再章草』
大永5(1525)年 9月6日 東下野守 「東下野守逝去由被語、不便々々・・・」  『実隆公記』
永禄元(1558)年? 6月17日 常慶   『宝幢坊文書』
永禄元(1558)年 8月7日 東下野守常慶
東七郎常堯
  『郡上藩家中記録』

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