僧侶になった千葉一族 臨済宗

僧侶の千葉氏

トップページ > 僧侶になった千葉一族(臨済宗)


【臨済宗】

【基本的文献】

(1)井上宗雄、島津忠夫編『東常縁』和泉書院1995
(2)宮川葉子『三条西実隆と古典学』風間書房1995

龍山徳見 1284-1358 建仁寺三十五世
尼妙法 ????-???? 太平寺開山
江西龍派 1374-1446 南禅寺百四十四世
慕哲龍攀 ????-???? 京都建仁寺住持
南叟龍朔 ????-1455  
正宗龍統 1428-1498 建仁寺二百十七世
龍珠 ????-????  
東素純 ????-1530 最勝院
常庵龍崇 1470-1536 建仁寺二百六十二世
東素経 ????-???? 最勝院
東素山 ????-???? 寿昌院

トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 龍山徳見


龍山徳見(1284-1358)

 臨済宗黄龍(おうりょう)派の僧侶。京都建仁寺三十五世。建仁寺塔頭・知足院開山(現在の両足院)。眞源大照禅師。弘安7(1284)年11月23日、下総国香取郡に誕生した。父は千葉實為(『真源大照禅師龍山和尚行状』)。または橘道貞(『香取郡誌』)。初名は「利見」。故郷の香取郡内に「龍山」という山があったため、これを号とした。

 香取郡に関する資料には「総州之東、刀川之瀕、有一小岡…山上有龍神祠甚霊、祈雨必験、故以為名、或曰地勢遼曲、為龍蛇之状、故称龍山、及後世建祠、加神字云」とあり(『香取郡誌』)、龍山徳見はこの「龍山」を以って号とした可能性がある。「龍山(龍神山)」については、「笹川町の東方大字鹿戸に属し県道に接す」とあり、現在の香取郡笹川ろの高台と思われる。すでに周辺は住宅地として開発されてしまい、当時の面影は全くないが、住宅街の外れに「龍王神社」が残り、住宅地一帯は「龍神台」と称されている。この高台を望む地は、羽計、高部、平山、青馬あたりということになるが、この周辺は下総東氏の勢力下にあり、父の「千葉実為」についても系統は不明ながら下総東氏の一族と思われる。

 この父については平姓の「橘道貞」ともされる(『香取郡誌』)が、龍山徳見が生まれた地はかつては「橘庄」と呼ばれる荘園の中心地で、中世においては橘村があったことから、龍山徳見の父「橘道貞」の「橘」はこの郷村に因んだ通称と思われる。また、「道貞」(『香取郡誌』)と「千葉実為」(『真源大照禅師龍山和尚行状』)との関係ははっきりしないが、同一人物とすれば「道貞」は千葉実為の法号かもしれない。

寿福寺
寿福寺

 利見(のちの龍山徳見)は幼少から聡敏で儒学を学んだ。しかし俗世での生活を好まず、十二歳にして父母に連れられて鎌倉寿福寺へ入寺することとなり、寂庵上昭禅師に師事した。 

 入寺してからの学識の上達は目覚ましく、内外問わず法典を理解していった。これを見た寂庵禅師は名僧の生まれ変わりであると評した。正安2(1300)年、十七歳にして寂庵禅師のもとで受具。

円覚寺
円覚寺

 正安4(1302)年、名僧と名高かった一山一寧禅師円覚寺の正席に任じられると、利見は一山一寧の下で修行を希望したが、このとき利見とともに掛搭を望んだ者が四十余名にも及んだため、一山一寧は「縄牀」の題で希望者に偈頌をつくらせ、その出来の良い者に掛搭を許可した。その許された者の筆頭が利見だった。のち請客侍者に任じられている。

 その後、一山の故郷である南宋地方への渡海を志し、このことを本師の寂庵に告げた。すると寂庵は彼にある「秘訣」を授けた。それは臨済禅の印可に加えて明菴栄西以来の天台密教の伝授であったという。ときに利見二十二歳。商船に乗り込んで渡海し元の地を踏んだ利見は天童山を目指すこととし、密かに城中に入ると富豪の庭に転がり込んだ。しかし守衛に見つかり、富豪の当主に詰問されることになる。このとき利見が「我在日本、遠聞天童和尚道風、故来、求出生死道也」と日本からはるばる天童山を目指してきたことを告げると、この富豪夫婦はまさにその天童山の東巌和尚を尊敬していたことから喜び、東巌和尚のもとへ同行。東巌和尚もその志を喜び、利見を快く迎え入れた。このころ「利見」の上の字を改め「徳見」としている。

 しかし、元の大徳11(1307)年、明州慶元府の官吏と日本人商人との間で闘争があり、城が焼け落ちてしまうという事件が起こった。このため、元政府は国内の日本人僧を捕える措置に出、龍山徳見も逮捕されて大都(元の帝都。現在の北京)へ連行され、その後、洛陽の名刹・白馬寺に留置された。

 赦されたのち、再び天童山に戻ったが、師の東巌和尚はすでに亡く、その弟子で法灯を継いでいた竺西和尚のもとで焼香侍者となった。その後、虎丘山雲巌寺東州和尚の弟子であった古林清茂禅師のもとで偈頌を学び、大家となる。

 以降、中国各地の諸山の住持に招聘されるなど、徳見は中国での臨済宗の名知識の一人となっていた。そんな中で、臨済宗黄龍派の祖・黄龍慧南ゆかりの江南の兜率寺が廃寺になって久しかったが、兜率寺の東堂(前住)安初心が寧州官吏に徳見を新住持として推挙し、徳見も「固辞不可、遂出赴命」た。この地では「黄龍之宗断已久」かったため、黄龍派の法灯を継ぐ徳見を住持に戴き、「四方衲子皆謂悦禅師再来也」と非常な喜びで迎えられたようだ。

 しかし、「東帰=日本への帰国」を考え始めた徳見は、兜率寺の住持を辞して江東の集慶龍翔寺笑隠和尚のもとに寄寓した。だが、兜率寺から再住を要請する「専使」が来たため、徳見はやむなく再度兜率寺の住持となるが、「無幾帰心猶動、飄然而起」、実に四十四年の月日を中国に過ごした徳見和尚は、日暦の貞和5(1349)年、舟を買い入れて崑山より博多へ帰朝。六十六歳になっていた。

建仁寺 南禅寺 天龍寺
建仁寺 南禅寺 天龍寺

 その後、左兵衛督・足利直義に請われて同年8月5日、京都東山の建仁寺三十五世となり、文和3(1354)年3月28日、将軍・足利尊氏の奏上により、五山筆頭の南禅寺二十四世となる。さらに延文元(1356)年ごろには、、天龍寺六世の住持に任じられ、後光厳天皇より「眞源大照禅師」の号が与えられた。

両足院
建仁寺両足院

 義堂周信・絶海中津をはじめとする多くの名僧を育てた龍山徳見は、建仁寺護国院知足庵を草創しており、天龍寺住持を辞したのちはそこに入ることとしていたが、延文3(1358)年11月10日、天龍寺で病に倒れた。徳見は弟子を集めて後事を託して建仁寺知足庵に埋葬するよう指示すると、11月13日、天龍寺で亡くなった。七十五歳。

 死後、その遺言通り建仁寺知足庵に埋葬された(『真源大照禅師龍山和尚行状』『延宝伝灯録』)知足庵はのちに寮舎・也足軒と合併して「両足院」となり現代に伝わる。


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 太平尼妙法


太平尼妙法(????-????)

 臨済宗比丘尼。鎌倉尼五山第一の太平寺開山。父は「相模豪族」。夫は「千葉氏」である。千葉氏に嫁いだ相模豪族は北条氏が考えられるが、時代的には千葉介時胤の妻となった北条相模守時房娘があてはまる。

 北条時政―+―北条義時
(遠江守) |(陸奥守)
      |
      +―北条時房―+―北条時盛
       (相模守) |(越後守)
             |
             +―娘(=太平尼妙法?)
               ∥
               ∥―――――――千葉介頼胤
        千葉介成胤――千葉介時胤  (千葉介)
       (千葉介)  (千葉介)

 太平寺の開山として「太平寺尼妙法普化檀那、建立梵宇」とあり、弘安5(1282)年に「太平寺ノ供養」が行われており、この年に落慶法要が執り行われたと推測される(『念大休禅師語録』)

太平寺跡
太平寺跡

 尼妙法は出家前より「姿性温淑」で仏道に深く傾倒していた。そして、夫の「千葉氏」が上洛していたため、心配のあまり病に伏した。そのため、ある名のある僧侶を呼んで「妾憂心成疾、如何対治」と訴えたところ、僧侶は「憂底、是何者、若能知得其疾自除」と答えた。尼妙法(この時点では出家前)は「如何得知」と問うと、僧侶は「請勤参禅」と答えたという。尼妙法はこの言葉を聞いて「心頭軽安」なり、病気を克服。上洛して臨済禅の高僧・円爾禅師(聖一国師。東福寺開山)のもとを訪れて、その弟子となり、その後、鎌倉に戻って太平寺を開山したと思われ、鎌倉で亡くなったと思われる。

 尼妙法の葬儀を取り仕切ったのは、臨済禅の名僧で禅興寺や浄妙寺の住持を歴任していた約翁徳倹禅師であった。おそらく鎌倉で交流を持っていたのだろう。尼妙法は三十余年にわたって禅の向上に努めたという(『延宝伝灯録』『龍門夜話』)


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 江西龍派


江西龍派(1374-1446)

 臨済宗黄龍(おうりょう)派の僧侶。京都建仁寺霊泉院主三世。のち建仁寺百五十四世南禅寺百四十四世東下総守師氏の子。木蛇・続翠とも号した。永和元(1375)年生まれ。「こうせいりゅうは」と読む。

 建仁寺における師・天祥一麟の在住期から見て、幼少期に東氏の菩提寺である郡上の木蛇寺で出家したと思われる。号の「木蛇」もここから取ったものだろう。

建仁寺
建仁寺

 建仁寺の天祥一麟に師事して建仁寺へ入山。その卓越した学才は「資性俊逸にして梵漢博く記し文辞を以て社中に鳴る、衆僧席を望み公卿門を伺う」(『禿尾長柄箒』:『五山文学史稿』所収)とされ、「当代智徳高僧也、頂高額長、可云異相」(『建内記』嘉吉元年八月廿三日条)という評判であった。長じて建仁寺百五十四世を継承。続いて京五山筆頭の南禅寺百四十四世となった。

 『江西語録』『江湖集抄』『天馬玉津沫』『木蛇詩』『続翠詩集』『江西和尚駢儷』などの著書があり、漢詩についての解釈も残されている(『五山文学史稿』所収)

 六代将軍・足利義教に嫌われたことから才能を十分発揮できなかったが、嘉吉元(1441)年6月24日、赤松亭において将軍義教が横死すると登用され、わずか二か月後の8月23日五山筆頭「南禅寺入院」(『建内記』嘉吉元年八月廿三日条)百四十四世となった。建仁寺住持に任じられた「与江西比肩」という評判の「清播心田和尚」「普廣院殿薨御之後、諸五山正院、仍各被請新命、是先例」という(『建内記』嘉吉元年八月廿三日条)

 晩年に南禅寺を退いて東山続翠軒に隠居し、文安3(1446)年8月5日、73歳(72歳とも)で寂した。

『師郷記』(『史料纂集』 続群書類従完成会)

 文安三年
 八月五日辛丑 今日建仁寺江西和尚円寂之 七十三云々 名匠也

●臨済宗建仁寺派略法統

明庵栄西―釈圓栄朝―蔵叟朗誉―寂庵上昭―龍山徳見―天祥一麟―+―中建龍惺―正宗龍統―常庵龍崇
                              |
                              +―九淵龍深
                              |
                              +―江西龍派


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 慕哲龍攀


慕哲龍攀(????-????)

 臨済宗黄龍(おうりょう)派の僧侶。東下総守師氏の子。京都建仁寺住持。「ぼてつりゅうはん」と読む。兄・江西龍派とともに木蛇寺で出家したのち、京都へ上ったと思われる。

 漢詩に優れ、まだ幼い一休宗純に漢詩を教えたことで知られる。


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 南叟龍朔


南叟龍朔(????-1455)

 臨済宗黄龍(おうりょう)派の僧侶。東下野守益之の四男。母は藤原氏。「なんそうりゅうさく」と読む。朔蔵主。実兄に僧・宗祐なる人物があり、周防へ流される父・益之と対面した人物だが、具体的な伝承は伝わっていない。

伝木蛇寺跡
伝・木蛇寺跡

 叔父の江西龍派慕哲龍攀と同様、幼少期に郡上の菩提寺・木蛇寺で出家したものと思われる。その後、上洛して建仁寺または南禅寺に入ったものと思われ、「朔蔵主」と称された。

 「宝徳乙酉」の年、東山法観寺住持・九淵龍しん(叔父・江西龍派同門)の供をして国通使として明国へ渡った。このとき、弟の正宗龍統が見送りに来ており、「航巨海適遠、其所志凡有三焉云々」と餞の言葉を送っている。ここに見える宝徳元号は「己巳(1449)」「庚午(1450)」「辛未(1451)」「壬申(1452)」のみであって「乙酉」という年は存在しないが、弟・正宗が著した『長柄帚』に記された「送南叟賢兄行大明国」によれば、「辛未冬九淵師遊中華、兄南叟将従之」とあることから、南叟が九淵とともに明に渡ったのは宝徳3(1451)年であったことがわかる。

 明に渡った九淵・南叟の一行はひたすら歩いて北京に到着した。明は当時非常な繁栄を見せており、彼らは目的を達すると都下の名刹を廻り、大興隆寺に至って質庵老人に謁した。「景泰甲戌=享徳3(1454)年」の春に北京を辞して南京へ向かい、余州・杭州に到着。ここに半月とどまり、6月22日、寧波府を出港して日本へと向かった。

 帰国すると洛南の西寺に居を構え、翌年亡くなった。


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 正宗龍統


正宗龍統(1428-1498)

伝木蛇寺跡
木蛇寺跡

 京都建仁寺霊泉院主六世。のち建仁寺二百十七世東下野守益之の子。「しょうじゅうりゅうとう」と読む。母は東常縁母の妹であり、常縁の異母弟。その住居を蕭庵といった。

 永享5(1433)年、六歳のときに母親が亡くなり、十三歳の嘉吉元(1441)年4月3日には父・益之も亡くなったため、姉・東林寺月心宗雲に養育された。おそらく、このころ東氏菩提寺の木蛇寺に入って剃髪したと思われる。八歳にして「能詩」という天才肌の人物であった。

 その後は建仁寺の瑞岩龍惺のもとへ預けられて学問を修め、叔父・江西龍派慕哲龍攀らにもついて学問に励んだ。その後、父・益之を追憶した『先人故宅花石記』一篇を著している。

 +――姉   +―東常縁―――――常庵龍崇
 |  ∥   |(下野守)
 |  ∥   |
 |  ∥―――+―月心宗雲
 | 東益之   (東林寺二世)
 |(下野守)
 |  ∥―――――正宗龍統
 +――妹

 宝徳3(1451)年冬、兄の南叟龍朔が東山法観寺住持・九淵龍しん江西龍派同門)の供をして国通使として明国へ渡った。このとき、弟の正宗が見送りに来て、「航巨海適遠、其所志凡有三焉云々」と餞の言葉を送っている。

伝木蛇寺跡
東林寺跡遠景

 文明4(1472)年2月16日、母代わりの異母姉・東林寺月心宗雲が郡上東林寺において寂し、2月29日、「木蛇老弟比丘龍統」が訪れて辞を献じた。月心宗雲は東常縁の同母姉妹。

 文明5(1473)年、4歳の甥・常庵龍崇を弟子とし、翌年夏に出家させている。

 名知識として知られ、文明9(1477)年11月、種玉庵において三体絶句講釈を行った際には、まだ若き公家・三条西実隆が聴聞している。実隆は宗祇について歌の勉強をしており、宗祇の師・東常縁の弟である正宗の講釈を通じてまた学を深め、正宗の跡を継いだ常庵とも親密な関係を築いていく。

 文明8(1476)年8月、正宗は武蔵国江戸城の太田道灌のもとを訪れた。道灌は居城の江戸城内に、広野を望む静勝軒(南)、絶壁から海原を望む泊船軒(東)、雪を冠した秩父山系を望む含雪軒(西)という庵を設けており、正宗は静勝軒に詩序を寄題している(『五山文学史稿』所収)

 文明12(1480)年春、筑前国博多の聖福寺住持となったために筑前へ向かい、9月、建仁寺住持に就任。常に建仁寺内の霊泉院にあったために「霊泉」「霊泉院」「霊泉和尚」と称されている。長享2(1488)年2月まで在職した。長享元(1487)年12月14日、正宗龍統は蔭涼軒の亀泉集證(播磨後藤氏)を訪れて、美濃国下田郷について物語している『蔭涼軒日録』長享元(1487)年12月14日条

建仁寺霊源院
建仁寺霊泉院(現・霊源院)

 長享2(1488)年2月、正宗は叔父・江西龍派と同様、京都五山筆頭の南禅寺住持となった。3月18日、正宗は蔭涼軒の亀泉集證の周旋によって、鹿苑院において24歳の若き将軍・足利義尚と初めて対面した(『蔭涼軒日録』長享2(1488)年3月18日条正宗は亀泉集證とともに鹿苑院を訪れ、義尚が座に就くと亀泉より「正宗者江西和尚俗姪也、名字者東也」正宗の紹介がなされ、正宗が再三にわたって南禅寺住持を固辞したこと、自分もまた固辞したことの理由を述べると、義尚は一笑にとどめ、「澤東堂(天隠)」「統東堂(正宗)」はいずれが優れているかという問いかけをしている。この質問にはさすがの亀泉もおどろいたようで、「澤東堂者六十七歳、統東堂者六十一歳」と年齢の優劣を答えた。これに義尚は「非問其年齢、其才芸孰優孰劣」と聞き返し、これに亀泉は「於建仁如鳥両翼、依其事可有優劣」と答えた。さらに「(詩の)作者孰優」と聞く義尚に、「作亦依時依事、可相優劣、正宗者、自壮年之時分、能講義、成其人非凡人、行令森厳、不堕古風、能守法度、欲復旧規之心、一生有之、江湖可評之兄弟者、比仁一人耳」と答えた(『五山文学史稿』)

 延徳元(1489)年10月26日、正宗は蔭涼軒亀泉集證と清水寺にて茶話をしているが、このとき正宗(霊泉院先住)は「濃州知行」にあった「我俗姪東中務」が「国方(守護・土岐勢か)」から攻められ、ついに「生害」に及んだと話している『蔭涼軒日録』延徳元(1489)年10月26日条。おそらくこの「我俗姪東中務」『蔭涼軒日録』長享元(1487)年12月14日条「俗姪東之三郎」と同一人物と考えられ、彼は宝徳3(1451)年2月18日の常光院堯孝法印が開いた北野歌会に安東氏世東常縁らとともに出席した元胤であろう。

 元胤は正宗の異母兄・東下総守氏数の嫡男で、将軍家に供奉する形で京都にいた。彼が京都にあったころ、美濃国郡上郡の東家本領にいたのが、家督の東左近将監頼数で、元胤の従兄にあたる。文明18(1487)年2月19日、「東左近将監頼数」が年始御礼として「東山様」に太刀と馬一匹を送っている(『親郷日記』)

 頼数が年賀拝礼を行った同年9月、将軍・足利義尚(義煕に改名)が六角高頼を攻めるため、直々に出陣したが、これに「東三郎」が供奉していることが見える。

■東氏想像系図■

 東益之―+―東氏数――――――東元胤
(下野守)|(下総守)    (下総三郎)
     |          ∥―――――――東尚胤――――東素山
     |          ∥      (下総守)  (寿昌院)
     |          慈永大姉
     |                
     |        +―東頼数―――――東氏胤
     |        |(左近将監)  (宮内少輔)
     |        |
     +―東常縁――――+―東常和―――+―東常慶――――東常堯
     |(下野守)   |(下野守)  |(下野守)  (七郎)
     |        |       |         
     +―正宗龍統   +―東胤氏   +―東素経
      (建仁寺住持) |(最勝院素純) (最勝院)
              |
              +―常庵龍崇
               (建仁寺住持)

 長享3(1489)年正月15日、「東将監」が三条西実隆の邸を訪ねており(『実隆公記』)、頼数はこのとき上洛したと思われる。

 長享三年正月十五日条 

 常光院堯咸、高島、東将監等称礼来、・・・

 しかし、同年10月26日、美濃守護・土岐政房が郡上郡に攻め入り、「東中務」が生死不明になったことが、正宗龍統から語られている『蔭涼軒日録』延徳元(1489)年10月26日条。彼はおそらく元胤だが、この「東中務」は戦死しておらず、延徳3(1491)年8月6日、東中務は京都において遠藤但馬守ら4名を討ち取っている延徳3(1491)年8月6日条『蔭涼軒日録』

 延徳3(1491)年6月28日、正宗は蔭涼軒を訪れて庵主・亀泉と茶話をしている。また、同年11月7日、正宗は同じく建仁寺仁甫を連れ立って蔭涼軒を訪れ、茶話に時を移している。

 明応2(1494)年4月29日条に、正宗龍統の俗姪・龍珠のことについて語っている。延徳3(1491)年11月12日条に「龍珠軒」なる文言があるものの、関係は不明。

 明応二年四月廿九日条
 ・・・悩人云意者蓋正宗和尚俗姪龍珠美丈在座・・・

 同年8月11日、正宗が蔭涼軒を訪れ、建仁寺住持に再任されたことを報告した。

 しかし明応元(1492)年11月26日、秀峯和尚を建仁寺住持に再任するべく活動をしていた赤松出羽守のもとから太田中務が亀泉集證のもとへ遣わされ、秀峯の再任を果たすために、しかるべき方法を授けてほしいと告げた。これに亀泉は建仁寺には住持をすぐに変えることは先規あることで、さらに他の寺においてもその例はあり、鹿苑院に仰せ出だされれば事はなるであろうと告げた。そしてこの2日後、太田中務がふたたび蔭涼軒を訪れ、秀峯和尚の建仁寺再任の願いが上聞に達したことを報告した。しかし、これに亀泉は「難義」であると断じ、内々に上聞に達せられれば事は成ると話した。さらに赤松をもって上聞に達せられたのは宜しからずとも断じた。

●明応元(1492)年11月26日『蔭涼軒日録』(『大日本仏教全書』)

…自赤松出羽守以太田中務丞云、秀峯和尚建仁再住事可為如何哉、可然様預調法者珍重、返答云、於建仁寺有先規事也、又於他山亦有其例事也、為上意被仰出于鹿苑院者可事行也云々・・・

●明応元(1492)年11月28日『蔭涼軒日録』(『大日本仏教全書』)

…自出羽守殿以太田中書、秀峯和尚建仁再住事、達上聞者為本望云々、於予披露事難義也、以内儀被達上聞、為上意被仰出鹿苑院者、可事行也云々、又云、以赤松公可達上聞事如何、答云、不宜事乎云々、然者予一行所望也、答云、自大昌院被請予一行、雖然不出之、一行事難進云々… 

●明応元(1492)年11月29日『蔭涼軒日録』(『大日本仏教全書』)

…今昼、遣桂公於赤松出羽守殿謝両度使者、且建仁再住事加意見、返答丁寧… 

 赤松氏の勢力が秀峯和尚を建仁寺住持に再任させようとした結果、明応元(1492)年12月18日に秀峯和尚が建仁寺の住持となり、秀峯和尚は蔭涼軒へ礼に訪れたが亀泉は会わなかった。秀峯和尚もあまりこの政治的な意図が見え隠れする再住には乗り気ではなかった上に、住持職を奪ってしまった形の正宗との対立も避けたかったのだろう。翌明応2(1493)年正月17日、秀峯和尚と正宗龍統は「和睦」し、秀峯和尚は24日、建仁寺住持の「退院」を訴え、亀泉も「建仁当住秀峯事、件々承之、建仁寺事者退院御免有之者可然」とし、次の住持には了庵和尚が就任した。

 明応7(1498)年正月23日、正宗龍統は霊泉院において遷化した。七十一歳。甥で弟子の常庵龍崇の祭文はじめ、横川景三の序が残っている。

 正宗龍統は建仁寺霊泉院のかたわらに、壮大な文庫(図書館)を建造していた。その文庫は「秘密蔵」と称され、内外の名蔵書を収めていた。正宗と交流の深かった村庵霊彦和尚は寛正6(1465)年6月5日、「豈亦有賢如正宗者乎」と正宗を絶賛している。「秘密蔵」は三層の蔵で、四面上下すべて厚さ五、六寸(約15cm)の土壁で覆われ、「堅牢如鉄」であったという。世の中に戦乱の気配が漂いはじめていたころであり(「応仁の大乱」の二年前)、正宗は蔵書を兵火から救うべく、堅牢な文庫を建造した。またその規模や美しさは「実に金沢、足利の両文庫と共に鼎立して其美、挙を称するに足るなり」であったという(『五山文学史稿』)

 彼が記した著名な伝記として『故左金吾兼野州太守平公墳記』があり、自分の祖や父、兄弟について記している。

●『蔭涼軒日録』-長享元年12月14日条-(「白次」とは「もうしつぎ」)

・・・及帰霊泉正宗和尚来云、妙■■領美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣、彼代官職事、自寺家有契約者、自他可然事也如何、愚云、相尋寺家一左右可白云々、愚話正宗云、室町殿白次、安東右馬助勤之、桃井殿■■之云々如何、正宗云、我族東也、 与千葉同氏、平氏也、為伊勢守為敵流、以故於高倉御所、古伊勢真蓮入道択東為白次、時法体也、其子幼稚也、雖固辞不允、不能免、其弟為代為白次、其人会為安東被養、安東者藤氏也、名字姓氏、与東格別者也、為養子謂者、昔安東某為赤松伊予守被害、無正体之故不被立御子孫、九えん者其弟也、以故還俗而可続其家之由雖督之、九えん峻拒而不就也、其後九えん云、我一家已断絶了、願賜東之舎弟為我養子、可興安東家、於爰東之舎弟為安東其人為東之代為白次、興安東■各別也、然於安東右馬助、掠公儀相話伊勢守為白次、天下曲事也、雑話移剋、専為賛詩礼謝来也云々、建仁寺進上折紙銭之事話正宗・・・

●『蔭涼軒日録』-延徳元年10月26日条-

・・・午後詣清水寺、先住霊泉正宗和尚対面茶話移剋、和尚話云、我俗姪東中務在濃州知行、自国方攻之、終可及生害乎、無興無極云々・・・

『故左金吾兼野州太守平公墳記』(『続群書類従巻第百九十二』伝部四 続群書類従完成会)

…先公諱益之、京人、姓平、其先千葉之族、有諱胤頼者、食采下総州東庄、因氏焉、至公八世、曾祖考氏村、生而恵朗、長而凝静、耽美和歌之道、辱後醍醐皇帝寵命、於武者所、献歌章、而名聞四方矣、祖考常顕、野州刺史、武烈而威、暗お叱咤而河水為之起湧、亦善歌詞、考師氏、総州刺史、傾而長、鬚髯麗以人物称、其歌詞之工、与祖及考、足以差肩、同系素こう無子、養公為子、こう父貞常、貞常父時常時常行氏之長嫡、行氏氏村之兄也、公自幼有異質、こう訓之曰、以心副心、公終身以茲言銘、佩其冠、以源善忠為他姓父、割与濃之坪、為賀家兄泰村早卒、以玉洞禅庵為其仁祠、次兄江西派公、以沙門不継、便以公為後、こう欣然竊意、家宗返本、こう歿、公開琳蔵庵、俾禅侶時日尊之、師氏既耄、公代仕朝、自左金吾任野州守、凡武之備、以騎射為先、廼就小笠原浄元学騎習射、幾一百日、弗慳貨幣、日厚貺之、示其信也、僧玄心授兵書伝剣術、深臻精要、心乃神僧茲音之的伝也、率士大夫所可為者無不能也、信州賊乱、廷議命隣国討之、公出其軍、伊州国司反、諸将争征、公復張一営、攻比叡山、陣志賀山、幕下之士皆能戦軽鋭、由壮歳、以其先業、専嗜和歌、勲旭鑚粉、不知其勘、益厚益恢、公候之館、集嘉賓張盛席、則公必見招、席散還宅、師氏問其席上所賦、則百首或五十首、公暗誦無遺、弗差一字、行旅之間、朝発及夕、馬上言重歌、一日百句、其夜投駅舎下、呼筆志之、其頴敏可推而知矣、所其与友者、唯一時有名之徒而已、細川源悦道山、名源巨川、推弉非恒、燕飲曁講芸之日、倘不至則如人奪和璧、其以和歌遊接者、和歌宗正飛鳥井公、故九州大都督今川源了俊、和歌開闔常光院主堯仁、及堯孝、松月庵主僧正徹、及僧善説、皆謂当避公出一頭地、是時童謡曰、東野々常光院善説正徹飛鳥井殿、先是知教他有真伝、欲捨俗入真、扣江之山上霊仲之室、名以友周、粗得其旨、然師氏不許、遂再還俗、応永三十三年、公年五十、師氏卒、実八十四歳之冬也、兄江西、弟慕哲、苦海雨法船也、経紀喪事、共罄痛慟之誠、丁其十三回、長瀧寺将建塔婆、因需公助縁、輙命工雕大日像、施一百余緡、懿裁為孝、軽財固可尚矣、而後塔遂不成、今同州有一十三重塔、購以、為尊主是也、濃之郡上河水大出、山岳為之崩矣、村郭為之失矣、道路為之没矣、公自奮曰、禹何人也、駆聚治内万姓、畳山石築波堤者里許、新鑿溝洫、汨其道路、而遠挽河水於安光郷、変原野作水田者、凡一万六千余歩、歳貢倍前、民咸懽賀、永享四歳、公年五十六、以病乞骸於朝、乃去鬚髪著方外服、自號素明、蓋不墜素暹之緒也、霊仲既去久矣、親炙紫野春作興公、益咨其所未至者、字之以平田、自號以格物居士、又號鉄壁、宅中特搆延僧之堂、所昏冷坐、毎辰必飯二僧、高確之外無余事也、其左右常所用者、中華南蛮等古銅古甕之器、但適己者為要、至若或鏤金或彫紅、或倭工所製侈麗且俗者、蹙額而却焉、僉謂古人之風也、永享十二年庚申、公年六十五、為讒者所劾、相公不弁問其誣、遂黜公於周防州、公謂禍福前定、此昨邪今邪、皆所自作之報也、豈可遽驚乎、東華西海不二於懐、其中之所存者、人固能識之也、家童二人改形更服、不遠千里、逞問安否、仲子宗祐又往路上邂逅、相見互喜、竟同至州治之西寺、公流涕迎感曰、吾哺養撫安之伍、逮親朋幕官奴隷、走卒亡慮居多、嗚呼一子二童独臻茲極、不移一節而雖欲留共事、以其罪人、弗放相随、臨其別也、脱我所披垢衣壊絮付諸二童、二童径去住高野山、顓念仏三昧、號聖阿、聖阿公卒明年四月初三日、以微疾終于西瀧不動堂、公永和二年丙辰生、嘉吉元年辛酉卒、享年六十有六、二童聞訃、益祈冥福、長子氏数、遣使収骨東還、分之為二、其一埋于京之先壟霊泉、其一蔵于濃之古里木蛇、各刻石浮■以旌其所、公黜之時予歳甫十三、荒陬遼邈、再見無謀、必期年長必往而俄然永成異邦之土、予一生之恨在此、雖抵死無以休、雖然幽明不殊、存歿唯一、地角天末、眉毛廝結、則又何恨之・・・
   晩子木蛇小比丘龍統泣血謹記

トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 龍珠


龍珠(????-????)

 建仁寺喝食のち僧侶。東右馬助の子(『蔭涼軒日録』)正宗龍統の俗姪にあたる。「龍珠美丈」とあるが、「美丈」は尊称の可能性が高い。

 東右馬助は系譜上でみられないが、「正宗和尚俗姪」であるため、正宗の男兄弟の子、つまり東下野守益之の子であることがわかる。しかし、正宗龍統が著した『故左金吾兼野州太守平公墳記』「東右馬助」に該当する人物はみえない。ただし、正宗龍統の兄・安東遠江守氏世が継いだ安東家は「右馬助」を称する子孫があり、「東馬助」安東氏世(安東右馬助?)のことだろう。

 東益之―+―東氏数―――――東元胤―――+―東氏胤
(下野守)|(下総守)   (三郎)   |(宮内少輔)
     |               |
     +―安東氏世――――龍珠美丈  +―東尚胤―――東素山
     |(遠江守)           (下総守) (寿昌院)
     |
     +―宗祐
     |
     |
     +―南叟龍翔
     |(建仁寺住持)
     |
     +―素順
     |(東林寺三世)
     |
     +―宗雲    +―東頼数   +―東常慶―――東常堯
     |(東林寺二世)|(左近将監) |(下野守) (七郎)
     |       |       |
     +―東常縁―――+―東常和―――+―東素経
     |(下野守)  |(下野守)   (最勝院)
     |       | 
     +―素徳    +―東胤氏
     |       |(最勝院素純) 
     |       |
     +―壽休    +―常庵龍崇
     |(建仁寺住持) (建仁寺住持)
     |
     +―宗林
     |(野田氏光妻)
     |
     +―妙訓
     |(早世)
     |
     +―永昕
     |(早世)
     |
     +―正宗龍統
     |(建仁寺住持)
     | 
     +―真超

●東下野守益之の妻と子たち

益之妻
【1】初妣(源氏) 氏数(下総守)・安東氏世(遠江守)
【2】中妣(藤氏) 男:宗祐(僧)・南叟龍翔(僧)・常縁(下野守)・素徳
女:素順(東林寺三世)・宗雲(東林寺二世)・壽休(早世)・宗林(野田氏光妻)・
  妙訓(早世)・永昕(早世)
【3】継室(【2】の妹) 正宗龍統(建仁寺住持)・僧童真超(早世)

 寛正4(1463)年3月9日、建仁寺の御前給仕として「龍珠喝食」の名が見える(『蔭涼軒日録』)。「喝食」は前髪のある小僧であり、まだこの頃は子供であったと思われる。

…建仁寺御前給仕姓東左近大夫子龍珠喝食伺之… 

 3月9日条では「姓東左近大夫子」として見えるが、12日、これを否定し「東馬助子」としている(『蔭涼軒日録』)。 

…建仁寺御前給仕龍珠喝食、東馬助子也、誤云左近大夫子也、…

 寛正5(1464)年4月26日、龍珠喝食は僧侶となることが認められた(『蔭涼軒日録』)

…建仁寺御前給仕、龍種喝食度僧之事、以建仁寺長老之状伺之、御免許之由被仰出、仍命于寺家也、院庁東辺就敷地、而永安院進西堂難渋之、仍重命于津頭、可渡由被仰出、召被雑掌命之、薄浅黄御道服一領、渡于鎮書記也、七條小掛落可縫出也、度僧龍珠喝食珠誤記種、仍改之、…

 明応2(1494)年4月29日、正宗亀泉集證「正宗和尚俗姪龍珠美丈」のことについて語っている。延徳3(1491)年11月12日条に「龍珠軒」なる文言があるものの、関係は不明。

明応二年四月廿九日条  
・・・悩人云意者蓋正宗和尚俗姪龍珠美丈在座・・・

トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 東  素純


東 素純(1463?-1530)

 東下野守常縁の三男。諱は胤氏か。幼名は竹一丸とされる。最勝院住持で「最勝院」と号した。「最勝院」は駿河国または伊豆国にあった臨済宗系の寺院と思われるが、現在は伝わっていない。

 文明3(1471)年、父・東下野守常縁に同道して三島にいた当時おそらく九歳の「竹一丸」は風邪を患った。このとき、三島で東下野守常縁に付いて古今伝授の講義を受けていた連歌師・宗祇は、3月21日から23日の三日間で千句を独吟し、竹一丸の風邪の平癒と戦乱の収束を願い、千句を三島大社に奉納した(三島千句)。

 文明14(1482)年正月10日、兄の「頼常」から古今伝受し、和歌を授かった(1)

 授素純和哥

天能原思遍波賀波留色毛那志

 文明十四年正月十日     頼常

 頼常から素純へ授けた和歌は、藤原定家が養和元(1181)年、まだ二十歳の頃の歌集『初学百首』から撰ばれた「天の原思へば変わる色もなし秋こそ月の光なりけれ」の歌であった。この歌が授けられたのは、当時の素純がおそらく二十歳であり、上の句下の句の関係から、今後の和歌の研鑽を願ったものと考えられる。当時においてはすでに僧形になっていたと思われる。当時頼常は京都または郡上に在り、素純も上方にいたと思われる。

 その後、素純は伊豆国へと下っている。これは兄の東常和が堀越公方・足利政知を支えるために伊豆へ下向した際に従ったものか。東常和は文明19(1487)年2月当時、相模国芦名(横須賀市芦名)にいて、5月末までの約三か月間、堯恵(堯孝の弟子で常縁とは同門)から古今伝受する(『北国紀行』)。堯恵は文明17(1485)年秋から常縁の子たちへの古今伝授のための旅に出ており、この旅を記した紀行文が『北国紀行』である。

 京都を発った堯恵は、まず美濃国郡上の常和・素純の兄である東頼数を訪れて十か月あまり逗留して古今伝授し、翌文明18(1486)年5月に美濃を発って東国の常和のもとへ向かった。なお、頼数(当時は頼常)は文明10(1478)年8月21日、父の東常縁から古今伝受しており、堯恵からは再伝受となる。

 延徳3(1491)年4月3日、堀越公方足利政知が堀越御所で死去すると、7月1日には政知の長子の茶々丸(一説には廃嫡)が対立していた義母と義弟・潤童子丸を殺して堀越公方の座についた。この混乱に乗じた今川氏の外戚・興国寺城の伊勢新九郎入道宗瑞が明応2(1493)年10月に堀越御所を攻めて足利茶々丸を追放する事件が勃発する。東素純は当時伊豆国にあり、大永3(1523)年10月6日『古今和歌集抄奥書』の中の「豆州思の外なる乱出来て爰かしことさすらひ行侭に」がこれにあたると推測される。

 素純は宗祇からたびたび古今伝授のために上洛を要望する手紙をもらっており、この「乱」を「是こそ能折節なれ」として、父・東常縁の門弟第一とされた宗祇からの伝受のため、明応4(1495)年4月上旬に上洛する。しかし、このころの宗祇は勅撰連歌集の『新撰菟玖波集』編纂のため、集中して古今集講義を行ういとまがなく、4月23日、素純は伊勢物語の詠歌の大概を読むことを始めた。その後、『新撰菟玖波集』へ採用の連歌の撰が終了したため、6月5日辰時より宗祇は素純への古今集の講義を始め、7月下旬に講義が終了した。テキストとして用いられた古今集には素純の注のほか、宗祇の注、さらに宗祇が師の常縁から聴いた注などを書き込まれている。こののち素純は駿河国へ戻り、明応8(1499)年には『かりねのすさみ』を著した。

 一方、兄の「東左近大夫常和」は文亀元(1501)年7月11日、一族の東氏胤「切帋(切紙)」によって古今伝授した(2)。常和は常縁の流れから伝受しておらず、堯孝門下の堯恵を経る形での古今伝受であった。素純はこれを聞いたのか、文亀2(1502)年、国府津に下ってきた宗祇を訪れて、宗祇から『古今集』の講義ならびに切紙伝受された。東氏胤は常縁流の古今集解釈を金言とし、宗祇系統の解釈を伝えられた素純に対抗意識があったという(3)

                       (十代末葉)
○常光院堯孝―+―堯恵――――+―東常和――――東氏胤
       |       |
       |       |       (十代末葉)
       |(八代末葉) +―東頼常――+―東素純
       +―東常縁―――+―(頼数) |
               |      |
               +―宗祇―――+

 永正12(1515)年8月3日ごろ、素純は今川氏親とともに和歌集『続五明題集』を撰した。この『続五明題集』『風雅和歌集』以降の勅撰五代集より三千七百首あまりを類題したもの。氏親は駿河守護・今川義忠の嫡子で、母は伊勢新九郎入道宗瑞の姉(北川殿)。妻には歌人・中御門宣胤の娘(寿慶尼)を迎えるなど、歌道に造詣が深く、連歌師の宗長や宗碩、そして東素純らとも親交を持っていた。

●『続五明題和哥集』-序文-

しき嶋のみちなにはづあさか山のふるきあとをしたひ、代々の勅撰をはじめとしておほやけわたくしにえらびをけるところ、すべて筑波山の陰よりもしげく、長浜の真砂よりも数つもり侍る中に、古今集より続後拾遺にいたる十六代集の哥しげいとの一ふしある題つのさふる岩の百のかど侍る哥どもを撰びいだして二八明題和哥集と称せるもの侍り、しかるに治部大輔源氏親といへるなん当家代々の門葉いちじるしく和哥の浦波にこヽろをかけちヾのもしほ草かきあつめ侍る中に、比抄出をもうつしとヾめ禍裏抱玉沙玉沙中得金侍らんおもひなせしかはあれどおなじくは彼集より以来の哥をもくはへたくおもへるこヽろざし懇切に侍り、こヽに素純法師といひ侍るこれも曩祖より下生として宿習なきにしもあらざるうへ、彼礼部沫膠のかたらひをなし侍れば心をあはせことばをかはして風雅より新続古今集にをよび五代の勅撰の中をえらびそへ、続五明題和哥集と名づけ侍り、尤枢機たるべきものなり、この風にこヽろをうごかし侍らんともがらは高砂の松の木だかくあふぎすみの江の波のよりヽヽ見はやさむもの哉、時に永正十二年南呂三日になんみじかき筆にまかせいさヽか心緒をのぶるところしかなり

 大永3(1523)年10月6日、素純は『古今和歌集抄』の奥書を著した。

●『古今和歌集抄奥書』

宗祇公は亡父に比道伝受の人也、第一之門弟たる由の支証有之、然而素純豆州に侍る比、伝受之分可相渡上洛急候へと度々雖有消息、兎角年月を送しに、豆州思の外なる乱出来て爰かしことさすらひ行侭に、是こそ能折節なれと、明応第四天乙卯卯月上旬之比、為比事云々、上洛畢、時しも新撰菟玖波集と云連哥の勅撰の比にて祇公いとまなかりければ、卯月廿三日より先伊勢物語詠歌大概を読れける也、其後は連哥撰之義斗にて、やうやう、いとまごとへて、六月五日辰時よりぞ古今集始之、七月下旬之比聞終畢、愚聞書之外祇公聞書所々書載、又亡父に一部之注祇公所望其分所々書加、又或説不違庭訓有奥義書加一部之説不可過之、於切紙口伝等者別帖注之、比内中院亜相より素暹法師直伝之説有之、切紙以下各別也、是は賢兄頼数伝受畢

  大永三年癸未十月六日    十代末葉素純在判

 享禄3(1530)年2月、近衛尚通から『古今集』を贈られた。2月15日、三条西実隆は素純の百番歌合に判を書いて建仁寺の常庵龍崇(素純弟)へ与え、3月23日、常庵から駿河の素純のもとへ届けられた。

 享禄3(1530)年6月5日、駿河において亡くなった。享年不明だが、六十八歳前後であったと思われる。

 享禄4(1531)年閏5月、「駿州可差下於人、素詢之遺跡素慶上洛事可申下」とあって、素詢(素純)の遺跡(最勝院)を素慶(素経)が継承したことがうかがえる。

 いにしへの跡をしたひて和歌の浦や かへる波にも鳴千鳥かな

素暹法師九代のあと、わかのうら波におもひを寄せられ侍る、老の袂左みきにしほれはてて、

   千鳥の雌雄をわきまへ侍るらん

■東氏想像系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤
(下野守)|(下総守)   (下総三郎)
     |
     |       +―頼数――――+―氏胤
     |       |(左近将監) |(宮内少輔)
     |       |       |
     |       |       +―尚胤――――素山
     |       |        (下総守) (寿昌院)
     |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―常慶――――常堯
     |(下野守)  |(下野守)  |(下野守) (七郎)
     |       |       | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    +―素経
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) (最勝院)
             |
             +―常庵龍崇
              (建仁寺住持)


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 常庵龍崇


常庵龍崇(1470-1536)

 京都建仁寺霊泉院主七世建仁寺二百六十二世東下野守常縁の四男。諱は不明。文明2(1470)年生まれ。文明5(1473)年、叔父・正宗龍統に弟子入りし、翌年夏に出家。薩摩国大願寺摂津国昭覚寺山城国真如寺を経て建仁寺霊泉院に入って建仁寺住持となった。

■東氏想像系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤
(下野守)|(下総守)   (下総三郎)
     |
     |       +―頼数――――+―氏胤
     |       |(左近将監) |(宮内少輔)
     |       |       |
     |       |       +―尚胤――――素山
     |       |        (下総守) (寿昌院)
     |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―常慶――――常堯
     |(下野守)  |(下野守)  |(下野守) (七郎)
     |       |       | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    +―素経
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) (最勝院)
             |
             +―常庵龍崇
              (建仁寺住持)

建仁寺霊源院
建仁寺霊泉院(現・霊源院)

 永正14(1517)年6月3日、京都真如寺より建仁寺二百六十二世として入山し、建仁寺塔頭霊泉院に住んだ。その後、塔頭護国院へ移った。霊泉院は建仁寺三十五世・龍山徳見禅師の弟子・一庵一麟を草創の祖とする名刹である。

 常庵は歌道や文学を通じて公家・朝廷と交わり、三条西実隆とはとくに深い親交を持っていた。そして駿河守護・今川氏親も三条西実隆と親密であり、永正4(1507)年、三条西実隆から今川氏親へ定家真蹟『伊勢物語』が与えられ、永正12(1515)年10月5日には実隆が今川氏親の歌百首を添削している。さらに12月には今川家「息」の添削が求められ、ここに「おさなき物の歌」とあることから、元服前の子息、つまりのちの氏輝の歌が送られたと考えられる。氏輝は大永5(1525)年11月20日に元服し、連歌師宗長から『古今聞集五冊』『口伝切紙八枚』が与えられている。

 常庵と今川家は、おそらく三条西実隆を通じて知己となったと思われ、大永4(1524)年9月10日、三条西実隆は宗長知己の駿河僧二名に対面するために、常庵の霊泉院を訪れた。実は、常庵には駿河出身の弟子僧が二人おり、一人は九英承菊と号し、後に駿河守護・今川氏親に招かれて駿河国善徳寺の住持となり、大永2(1522)年、氏親の子・芳菊丸を預かった人物である。このとき霊泉院を訪れて実隆と対面した二人は、九英と芳菊丸であるとされ(『三条西実隆と古典学』:宮川葉子氏著)、実隆へは「葛一端」「紙五帖」が贈られた。大永5(1525)年9月下旬には今川氏親・氏輝父子が三十首和歌の添削が実隆にもたらされており、常庵を通じた九英・芳菊丸の伝手によるものであろう。享禄3(1530)年、九英は芳菊丸を伴って常庵を訪れ、芳菊丸は常庵を師として得度し、栴岳承芳と号した。なお、九英は天文2(1533)年にさらなる禅を求めて妙心寺霊雲院の大休宗休について参禅し、妙心寺派の僧侶となって太原崇孚と号を改めた。

 この様な中、栴岳承芳の兄・今川氏輝は天文5(1536)年3月17日に急死する。氏輝には男子がなく、弟の玄広恵探栴岳承芳との間で今川家の家督継承をめぐる内紛が勃発することになる。この内紛で、栴岳承芳太原崇孚とともに戦って勝利し、還俗と共に将軍・足利義晴の偏諱を受けて「今川義元」を称した。一方、太原崇孚は善徳寺を氏輝の法号・臨済寺殿にちなんで臨済寺と改めて、師の大休宗休を開山とし、自らは二世住持となった。太原崇孚は当時の禅僧に見られる如く、軍略にも長じており、今川義元の軍師「太原雪斎」として、尾張の織田信秀との戦いや武田信玄への使者となるなど、今川家を内外で支える今川家の重鎮となった。当時、今川家の人質であった松平広忠(三河岡崎城主)の嫡子・竹千代(のちの徳川家康)はこの臨済寺で手習いをしたと伝わる。

◎今川家閨閥略系図

  今川義忠  
  ∥      
  ∥――――――――――――今川氏親 +―今川氏親
+―北川殿          ∥    |
|              ∥    |
+―伊勢宗瑞   中御門宣胤 ∥――――+―今川義元
           ∥   ∥
           ∥―――女子
           ∥  (寿桂尼)
+―甘露寺親長  +―朝子
|    ∥   |
|    ∥―――+―元長――――――娘 姉小路公朝――――――娘
|    ∥             ∥            ∥
| +―後広大寺殿          ∥            ∥――――実条
| |                ∥ 正親町三条公兄―娘  ∥
| +―庵室殿            ∥         ∥  ∥
|   ∥              ∥         ∥――公国
|   ∥――――――――貞景    ∥         ∥          +―永敦
|  朝倉氏景      ∥――孝景 ∥―――――――+―実枝         |       +―久世通為
|            ∥     ∥       |            |       |
|          +―娘     ∥       |       高倉永慶―+―娘     |
|          |       ∥       +―娘            ∥――通茂―+―野宮定基==定俊
| 斎藤利藤――利国―+―利綱    ∥         ∥            ∥             ∥
|(妙椿)              ∥         ∥――通勝―――通村―+―通純            ∥――――幾
|                  ∥         ∥          |       +―――――――娘
+―蓮光院              ∥         ∥          |       |
   ∥――――実隆―――――――――公条     +―中院通為        +―娘     | 
   ∥                      |               ∥――煕房―+―煕定
  三条西公保  中院通秀――娘          |               ∥     |
               ∥―――通胤―――――+               ∥     |
               ∥                         清閑寺共綱  +―大典侍
               ∥                                |  ∥
         久我通博--通世                               |  ∥
                                                | 徳川綱吉
                                                |
                                                +―娘
                                                  ∥―――――――定俊
                                                +―正親町公通
                                                |
                                                |
                                                +―町子
                                                  ∥
                                                  ∥
                                                  柳沢吉保
                                                  ∥
                                                  ∥―――――――吉里
                                                  染子

 弟の東素山や甥・東素経が駿河国に滞在していたことが知られ、常庵は素経の面倒も見ていることから、今川家は常庵を通じて素経を庇護していたことが察せられる。

 永正17(1520)年8月4日、千葉介守胤(武蔵千葉介)夫妻と東下野守常和の書状が関東から常庵を通じて三条西家へもたらされた(『再草抄』)千葉介守胤の書状は、和歌百首歌合点を三条西実隆へ添削をお願いするというもので、常庵はこれを三条西家へ届け、実隆もすぐに添削を行っている。

 大永7(1527)年8月、三条西実隆のもとに肖柏の影賛草案の依頼をしており、常庵作肖柏画に実隆が賛筆を加えた。その月、実隆より『杜史千家点本』二冊の借用の申し出があり、これを貸し出している。実隆はこれとみずからが持つ本との校合をした。

 享禄2(1529)年2月10日、常庵は三条西家本『白氏文集』に欠けていた同書一冊を持参して三条西家を訪れた。3月20日には、三条西家邸にて肖柏の法会が執り行われ、三条西実隆、公音、公頼、伊長、雅綱、重親、中院通胤、真光院、理覚院、周桂、宗牧、公条、実枝、範久、重吟(肖柏弟子)が集まり、常庵作(実隆筆)の肖柏画賛が床の間に懸けられた。

 6月中旬、常庵は兄・素純の歌二百首と黄金三枚を携えて、三条西家邸を訪問。素純の歌合判詞を所望している。翌年2月、実隆は二百首を百番として判詞をつけて一首を載せた。

 享禄4(1531)年5月、このころ常庵は禁裏に召されて古文真宝講釈を行っており、4月末には三条西家を訪れて禁裏に進上する『十牛図』を三条西実隆に見せている。

 閏5月5日、『実隆公記』によれば「駿州可差下於人、素詢之遺跡素慶上洛事可申下」とあって、「素詢=素純」「素慶=素経」であり、素純の遺跡を東素経が継承したと思われる。素純常庵の兄にあたり、さらに素経素純の甥であり、常庵は三条西実隆へ「古今相伝事不可有子細哉事被段之、予事老懶、更難叶、乍去如聞書校合之分不可有疎略之由報之」とあるように、古今伝授の依頼をしている。

 享禄5(1532)年4月24日、素経は先月17日から行っていた熊野・奈良参詣から帰京、建仁寺の常庵のもとに宿し、翌25日に三条西邸を訪れて対談したのち、夕方には「明日可来」と再び建仁寺へ帰っていった。27日、三条西邸に常庵と素経が訪れているが、素経が在京中に『源氏物語』の講釈を所望していることを常庵が口入している。

 6月18日、三条西邸に常庵が訪れた。このとき、人々の所望によって三体詩の講釈を行った。10月4日、実隆は素経への『源氏物語』の講釈を終了。5、6日で『源氏物語巻々和歌』を詠み、7日には実隆の子・公条(当代有数の学者)が、実隆が教えなかった部分について素経に講釈が行われ、ここで三条西家による『源氏物語』の講釈が完了したことになり、実隆は常庵を招いて、素経の帰国送別のために和歌・漢詩の贈呈が行われ、翌8日には素経が答礼の和歌会を催し、10日、実隆は素経に名香五色香(飯尾宗祇遺物)を袋に入れ餞別として贈った。こののち、素経幸顕法師(高源法師か。上総国へ)を伴って駿河へ下向していった。11月末、三条西邸において常庵による三体詩講釈がはじまり、素経も同席して講釈を聞いていた。このころ素経は三条西実隆からも古今集の講釈を受けている。

 天文2(1533)年12月30日、常庵は三条西邸を訪れている。

 天文5(1536)年9月、遷化。六十七歳。

◎三条家略系図◎

 三条実房―+―公房――――実親―――公親―――実重―――+―公茂
(左大臣) |(太政大臣)(右大臣)(内大臣)(太政大臣)|(内大臣)
      |                      |
      |                      +―実忠――――公忠―――実冬――――公冬―――実量―――公敦―――+
      |                       (中宮大夫)(内大臣)(太政大臣)(右大臣)(左大臣)(右大臣) |
      |                                                        |
      |                      +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
      |                      |
      |                      +―実香――+―公頼――――――――+=実綱=====公広
      |                       (左大臣)|(左大臣)      |(権中納言) (権大納言)
      |                            |           |
      |                            +―娘         +―娘
      |                              ∥――――邦輔親王 |(細川晴元妻)
      |                            +―貞敦親王      |
      |                            |(伏見宮)      +―娘
      |                            |           |(武田晴信妻)
      |                            +―娘         |
      |                             (土佐一条家妻)   +―娘
      |                                         (本願寺光佐妻)
      |【正親町三条】                            
      +―公氏――――実蔭――――実躬――――公秀―――実継――+―公豊――+―実豊――――公雅――――実雅―――公治―――+
       (権大納言)(備前権守)(権大納言)(内大臣)(内大臣)|(内大臣)|(権大納言)(権大納言)(内大臣)(権大納言)|
                                   |     |                       |
                                   |     +―公保                    |
                                   |      (内大臣)                  |
                                   |                             |
                                   |                             |
                                   | +―――――――――――――――――――――――――――+
                                   | |
                                   | +―実望―――公兄―――実福
                                   |  (内大臣)(内大臣)(権中納言)
                                   |
                                   |【三条西】
                                   +―公時――――実清====公保―――実隆―――+
                                    (権大納言)(権中納言)(内大臣)(内大臣) |
                                                           |
                                   +―――――――――――――――――――――――+
                                   |
                                   +―公条―――実枝――+―公国―――――+―実条
                                   |(右大臣)(内大臣)|(内大臣)   |(右大臣)
                                   |          |        |
                                   +―保子       +―実綱     +―公広
                                   |  ∥        (三条公頼継嗣) (三条実綱妻)
                                   | 九条尚経     
                                   |(関白)
                                   |  
                                   +―娘
                                     ∥
                                     ∥
                                    正親町実胤


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 東  素経


東 素経(????-????)

 東下野守常和の子か。号は最勝院。「最勝院」は金光明最勝王経にちなむ駿河国または伊豆国の寺院と思われるが、比定される寺院は不明。金光明四天王護国寺である国分寺が「最勝院」と号する例があり、伊豆国分寺は三島に、駿河国分寺は駿河府中に存在した。伊豆三島は素経の父祖である下野守常縁下野守常和、宗祇ら所縁の場所であり、国分寺に拠っていた可能性もあろう。南禅寺塔頭にも最勝院があるが関係はないだろう。

■東氏想像系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤
(下野守)|(下総守)   (下総三郎)
     |
     |       +―頼数――――+―氏胤
     |       |(左近将監) |(宮内少輔)
     |       |       |
     |       |       +―尚胤――――素山
     |       |        (下総守) (寿昌院)
     |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―常慶――――常堯
     |(下野守)  |(下野守)  |(下野守) (七郎)
     |       |       | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    +―素経
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) (最勝院)
             |
             +―常庵龍崇
              (建仁寺住持)

南禅寺最勝院
南禅寺最勝院

 享禄3(1530)年10月、伯父の常庵龍崇(建仁寺霊泉院)が駿府へ下向。その後、常庵は帰洛し、翌享禄4(1531)年5月、常庵は三条西邸を訪れて、当主・三条西実隆に素経への古今伝授を請うた。このとき素経は駿河にいたが、閏5月「駿州可差下於人、素詢之遺跡素慶上洛事可申下」と三条西実隆の文書にあることから、素詢(素純)の遺跡を素慶(素経)が継承したことがうかがえる。素経は9月9日に上洛を果たし、伯父・常庵の建仁寺に宿したのだろう。

 伯父・常庵の依頼によって、享禄4(1531)年より三条西実隆によって源氏物語の講釈、ならびに古今伝授がなされた。東常縁の弟子・飯尾宗祇より古今伝授を受けた三条西実隆は、ふたたび東常縁の流れに講釈を与えることになり、広義の意味での返し伝授であった(『中世歌壇史の研究 室町後期』井上宗雄氏著、明治書院)

 上洛した素経は、おそらく常庵に伴われて三条西実隆を訪れ、古今伝授の講義が始められたと思われる。ただし、『実隆公記』は天文元(1531)年7月から10月までの3か月間、記録がないため、素経に講義を始めた時期は不明。11月2日午後、「恋一」の講義が始められた。(→古今集の構成

 順調に進められていった古今集の講義は同年12月15日に修了。実隆はこれを喜び、「人丸影賛宸筆、光茂筆、梅花多、信実筆写之」「圭章盆室町殿所賜也」が届けられた。18日、素純から遣わし置かれた「切紙(古今伝授の際に用いられる重要な部分の歌)」を三条西家へ持参、「裏説」について申すことがあり、20日晩に三条西邸を訪れた。

 天文元(1532)年3月2日から翌年10月6日にかけて、実隆は老いの身ながら素経に古今集講義などを行っている。

 天文元(1532)年10月17日、実隆の館で行われた歌会に出席。二十首を披講(『再昌草』1136)

   河上落葉
 龍田川水のさかりの秋の色を 梢にかへす山かせもかな

 11月12日、三条西邸にて十首張行(『再昌草』1141)。26日の初雪にて、素経と三条西実隆が歌の贈答をしている(『再昌草』1145~1148)。27日には、素経と実隆の間をとった建仁寺の常庵龍崇(素経伯父)が三条西邸を訪れて、漢詩を詠んだ。12月5日、素経が訪れて十首張行。18日、実隆の古今伝授の一部が終了したことを受けて、素経が歌を詠んだ(『再昌草』1168・1169)

 古の道をたつぬとこし船の よるへうれしきわかのうらなみ 

 つたへしをいま吹かへす松のはの 塵につくへき家の風かも

 29日、素経と実隆の間で贈答歌(『再昌草』1174)。年が明けて天文2(1533)年1月7日、素経と実隆の間で贈答歌(『再昌草』1177)。12日、実隆は「くすすこし(葛少し)」「くしかき(串柿)」という美濃の名物に歌をつけて素経へ贈った。

      (みな雲隠し かき曇る)
四方の山みな雲かくしかきくもる 春のなかめをいかヽくらさん  
        (串柿)

      (心を尽くす 過ごしてし)
なにかその心をつくすすこしてし 昔はしのふ身にもかへらし
       (葛少し)

 これに素経が返歌。

ことの葉の花をもよほす春雨に けふなかき日はくらすともなし  

かひもなく過し昔はかへらしを しゐても忍ふ心はかなさ

 翌13日、素経も鮒(近江琵琶湖の鮒か)を三条西邸へ歌とともに届け、

                    (巡り逢ふ身の船出)
和歌のうらや時まちえたるをひ風に めくりあふみのふなてうれしも 
                      (近江の鮒)

 実隆もこれに返歌した。

えもいはぬ色にそ有けるなへて世の 花にさきたつ山吹のはな 

 大永5(1525)年天文13(1544)年閏11月、駿河から上洛していた最勝院勧進和哥を人々に執達し、23日、最勝院張行和漢会三条西邸で行っている。


トップページ僧侶になった千葉一族(臨済宗)> 東  素山


東 素山(????-????)

 寿昌院。東下総守尚胤の子か(『東家資料』)

 東尚胤の子が素山とされる系譜が幾流かあるが、いずれも郡上藩三代藩主・遠藤備前守常友の命により、桜井玄登・餌取八郎右衛門・伊藤玄伯が東家と遠藤家に伝わる文書や系譜をまとめた際に、東家と遠藤家の系譜をひとつにつなげた形跡があり、遠藤家が東家の所領を奪ったことを正当化するための改ざんが多く見られる。この矛盾に気づいた新井白石は、『藩翰譜』「不心得」としている。

●『遠藤家御先祖書』(慈恩寺蔵)

 常慶 東下野守 初名野田左近太夫
 尚胤 東下総守 初御名乗守胤―――素山 寿昌院

●『遠藤記』(慈恩寺蔵:『郡上八幡町史』所収)

     野田左近大夫 東下野守
+―常慶――――――――――――――…
| 
|    幼名守胤 東下野守
+―尚胤―――――――――――――素山 壽昌院

●『郡上古日記』(岐阜県立図書館蔵:『郡上八幡町史』所収)

   東下野守 歌人又野田左近大夫    東下野守法名素忠歌人
元胤――――――――――――――+―常慶――――――――――――――…
                |
                |    又野田左近大夫
                |    東下総           寿昌庵歌人
                +―尚胤――――――――――――――素山法師

 素山は永禄9(1566)年の時点で「無甲斐存命諸国流浪既ニ及七旬」とあり(『東素山消息』)「七旬=七十歳」もの間、旅をしていたとする。これをそのまま受け取ると、素山はすでに百歳に近い年齢となり、「七旬」は「とても長い間」という意味合い、または「旬=十月」として六年余り、十年ほどという意味合いとして捉えたほうが妥当か。

 東素山が遠藤大隅守に送った手紙『東素山消息』は、『群書類従』『東家史料』『郡上藩家中記録』にそれぞれ記載されているが、『群書類従』本については、誤字脱字が大変多いため史料的価値は低い。『郡上藩家中記録』本は逆に人物名等が具体的すぎており、桜井玄登らによる編集が明らかである。『東家史料』がおそらく原本に近い形であると思われる。

栗巣川
篠脇城前を流れる栗巣川

 永禄2(1559)年8月1日、宗家居城の赤谷山を一族の遠藤六郎左衛門盛数遠藤新右衛門胤俊が攻め、8月24日に落城。東下野守常慶は捕らえられ、嫡子・東七郎常堯は舅の内ヶ島氏理を頼って北の帰雲城に落ち延びた。このとき、素山は常慶方に属し、落城とともに落ち延びたともいわれ、永禄9(1566)年7月23日に素山が遠藤大隅守胤俊へ宛てた『東素山消息』(『東家資料』)の序文(後世の追記)よれば「東下総守尚胤の子息素山ハ、八ヶ年以前赤谷山没落の後越中ニ在国して被居けるが…」とある。

 序文は江戸時代に入り、東家史料編集の過程で素山が東家方についていたという伝承を記載したものと考えられるが、文章の内容を見ると、素山と東家を滅ぼした側の胤俊との間に敵対関係は見られず、親しみをこめた内容すらうかがえる。素山が東氏滅亡の際にどこにいたのかは不明だが、東常慶「古新兵衛(遠藤新兵衛胤縁か)」と手紙のやり取りをしていた形跡もあり、美濃国ではなかったのだろう。同書によれば、素山は「越中ニ在国して被居けるが…」とあり、また、素山の歌の前文に「越州松倉山の城にこもりし時、九月十三夜初時雨ふりけれは」というものがあるため、越中松倉城の千葉一族・椎名右衛門大夫康胤を頼っていたことが推測される。

 『東素山消息』によれば、「甲斐無く存命し諸国流浪し既に七旬に及」び、何の望みもなくなっていたとはいえ、「家風」たる歌道の心は残り、昔を思って、

 春の花秋の月にもかへらしと おもひしものを和歌のうら波

 と詠み、さらに毎年正月二日に三社法楽にて、

 住吉
 波風の音さへたへてさうむ也 けふ行春のすみよしのはま
 玉津嶋
 暮て行 春のひかりのかけともに うつしもとめよ玉津嶋山
 北野
 をのつから夢もむすはてあかせとや 春も一夜の松のしたふし

と詠んだところ、この詠草がどのような過程でかは不明だが京都で披露された。時の将軍・足利義輝は歌道修行を願っていたが、公家も武家もすでに廃れて将軍の師範となるべき人物がいなかった。これに三好長慶らは、幸いにも東家ではまだ歌道を伝えていることを将軍に申し上げた。

 三好長慶らは、八代将軍・足利義政のころ、公家の間でも歌道が廃れていたため、朝廷は二条流歌道を受け継いでいた東下野守常縁に上洛すべしとの勅定を賜り、常縁は近衛関白三条内大臣、右大将・足利義尚の師範となって歌道を復興させたことは隠れなきことで、東家を規範とするべきであると言上したところ、義輝は素山に京上すべしとの御内書を永禄7(1564)年10月5日付で竹内三位からの手紙を添えて届けた。

 素山は大変な面目と、翌永禄8(1565)年、早々上洛している途上、将軍家が「不慮之横難御他界」されたことを歎き、

  光源院殿御代に和歌の師範たるへきよし仰ありて都へのほらんとせしに、
  義輝公不慮の御事おはせしか
                              素山
 大かたの袖たにしほる五月雨に 雲ゐのほかもくれかたの世や

と詠んだ。そして今回の上洛を仰出されたことは老後の面目、思い出であるとして心に秘め、国々が戦乱で騒がしいことを感じて、

 しハしたによるへとたのむわかの浦や 海士の苫屋も波はあれつヽ

と詠んだ。素山が頼るべき和歌の道も戦乱という荒波にもまれてしまっている、という嘆きも含んだ歌である。将軍家の横死によって、将軍家の師範となって歌道を大成させた常縁の跡すら踏めず、歌道の衰えと同じように自分もいよいよ衰え、念仏を昼夜なく称えつづける毎日であることを遠藤大隅守胤俊に送った。

 そして最後に「皆々家中能懇可被相続候事、尤専一候」とあり、東家の家督相続について、家中穏便にすますことが最も大事なことであると諭している。永禄9(1566)年7月当時、すでに東家は遠藤六郎左衛門盛数によって滅ぼされており、その遠藤盛数織田信長の美濃攻めによって永禄5(1562)年10月14日、稲葉山城下町・井ノ口(岐阜県岐阜市)で戦死しており、その嫡男・遠藤新六郎慶隆もまだ十六歳の若さであった。素山が手紙を出した「遠藤大隅守」とは、おそらく盛数の甥・遠藤大隅守胤俊であろう。このとき遠藤大隅守胤俊は二十歳の若武者で、十六歳の慶隆とともに東氏の旧領を東西に二分して知行しており、年長の大隅守胤俊に宛てて、所領相続について家中穏便に行うように諭したのだろう。

 素山はその後も越中国松倉の同族・椎名右衛門大夫康胤とともにあり、松倉八幡宮の法楽に歌会を催し、その発句を詠んだ(『東家史料』)

 同じ比、松倉八幡宮法楽の発句
 紅葉々のかつ色はやき宮ゐかな 朝日てりそふ露の瑞籬

 そして、永禄12(1569)年8月からはじまった上杉謙信と椎名康胤の松倉城の戦いでは、素山も松倉城に籠城している(『東家史料』)

 越州松倉山の城にこもりし時、九月十三夜初時雨ふりけれハ

 長月の月の今宵のはつしくれ おなし尾上にやとりをそかる

 その後の素山の動向は不明である。

 旗本遠藤家の伝承によれば、三代将軍家光のときに徒歩に召し出され、組頭となった遠藤新左衛門信吉が素山の末裔と伝わる(『寛政重修諸家譜』遠藤の項)。信吉は家光の死後、正室本理院(鷹司氏)に仕えて中丸火番、中丸広敷番頭まで進んだ。嫡流は罪を得て絶えるが、庶流が代々伝えた。

■遠藤盛胤の想像周辺系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤
(下野守)|(下総守)   (下総三郎)
     |
     |       +―頼数――――+―氏胤
     |       |(左近将監) |(宮内少輔)
     |       |       |
     |       |       +―尚胤―――――素山
     |       |        (下総守)  (寿昌院)
     |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―常慶―――+―常堯
     |(下野守)  |(下野守)  |(下野守) |(七郎)
     |       |       |      | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    +―素経   +―友順尼
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) (最勝院)   ∥―――+―慶隆――→【郡上藩遠藤氏】
             |                ∥   |(左馬助)
             +―常庵龍崇           ∥   |
              (建仁寺住持)         ∥   |
                              ∥   |
                            +―盛数  +―――――――慶胤
                            |(六郎)        (助二郎)
                            |             ∥
               遠藤盛胤――――胤好―――+―胤縁――+―胤俊――+―娘
              (八左衛門尉) (新兵衛)  (新兵衛)|(大隅守)|
                                  |     |
                                  +―胤基  +=胤基――――胤直
                                  |(大隅守) (大隅守) (小八郎)
                                  |
                                  +―胤重――――加兵衛
                                   (彦右衛門)

●永禄9(1566)年7月23日「東素山消息」(『東家史料』)

態令啓達候、其以後隣国共ニ錯乱故絶音間所存之外候、名中悉散失候処、其方以覚悟其地堅固被相踏候事、外聞実儀奇特候、東家は以歌道天下得名事諸家無其隠候処、五十年已来此道断絶候故歟、両社北野之御罰候哉、如此末々名字族迄か様成行候事、誠以歎敷儀に候、
 
 一 拙子為其類身無甲斐存命、諸国流浪及七旬、何之望絶果候へ共、さすが家の風心を残候事、
    輪廻をおもふて、
  春の花秋の月にもかへらしとおもひし物を和歌の浦波

 一 毎年正月二日三社法楽、
    住吉
  波風の音さへたえてかすむ也けふ行春のすみよしのはま

    玉津嶋
  暮れて行春のひかりのかけともにうつしもとめよ玉津嶋山

    北野
  をのつから夢もむすはてあかせとや春も一夜の松のしたふし

此詠草如何成便にや洛中有披露、当時上意様、歌道御稽古有度雖被思召候、公武之歌道退転之折候キ、幸東家于今相続由、三好ヲ初諸家一同被申上候、初当東山殿御代、公武之歌道断絶之處、依勅定東下野守平常縁朝臣上洛、関白殿近衛、内大臣殿三条、右大将義尚常徳院殿、常縁為師範、天下歌道再興之事、日本国無其隠候、是東家之為規模處也、任先例可致京上旨、去々年十月五日被成御内書、并竹内三位殿御書被相添訖、是継絶家之可為面目候歟、已テニ上洛催處、将軍様不慮之横難御他界、及天下之乱事、一身之歎愁涙之沈餘に、

   大かたの袖たにしほる五月雨に雲井の外もくれかたの世や

 今般上洛之儀被仰出候事、老後面目思出と存候處、国々閙身上にあてゝ覚しかば、

   しばしだに寄る辺と頼む和歌の浦や 海士の芦屋も波は荒れつつ

 彼様に思ひつヾけてより後ハ常縁朝臣法名素傳九十餘歳、其跡添難踏、此道ニモ退屈之様候、弥老をとろへて、一向今は念仏つぶつぶと、夜の明日の暮れを不弁仕、立不敢之為體に候、先年常慶一札古新兵衛状なども、なつかしさのまゝ不計求便候、皆々家中能懇可相続候事尤専一候、恐々、

                         壽昌院
   七月廿三日                   素山
    遠藤大隅守殿
          御宿所 

【参考文献】

(1)『古今秘伝集』宮内庁書陵部蔵
(2)『京大本古今集の奥書に「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」とある。下記『東常縁』より。
(3)青木賜鶴子「『古今涇渭鈔』の成立とその性格」/『女子大文学 国文篇』35
→氏胤の古今集関連の思想等、『古今涇渭鈔』の成立に関する詳細・綿密な考察をされている。東常縁系統の伝授を受けついだ東氏胤(常縁ー大坪基清ー氏胤)が、宗祇系統の伝授を受けついだ素純に対抗意識を持っていたとする。


ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

僧侶編(真言宗)僧侶編(天台宗)僧侶編(浄土宗)僧侶編(臨済宗)僧侶編(日蓮宗)

Copyright©1997-2011 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。