代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 | 備考 |
初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 | 相馬家の祖 |
2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? | 畠山重忠討伐軍に加わる |
3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? | |
―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? | 胤綱死後、継母に義絶される |
4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 | 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる |
5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? | 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う |
6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? | 濫訴の罪で所領三分の一を収公 |
―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) | 幕府に惣領職を主張するも認められず |
7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? | 奥州相馬氏の祖 |
8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 足利尊氏に従って活躍 |
―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死 |
9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 | 南朝の北畠顕信と戦う |
10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? | |
11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? | |
12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? | |
13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? | 標葉郡領主の標葉清隆と争う |
14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? | 標葉郡を手に入れる |
15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 | 伊達晴宗と領地を争う |
16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 | 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う |
17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 | 伊達政宗と激戦を繰り広げる |
◎中村藩主◎
代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■五代惣領家
(????-????)
<正室> | 不明 |
<通称> | 次郎 |
<父> | 相馬孫五郎左衛門尉胤村 |
<母> | 不明(胤村の前妻か) |
<官位> | 五位もしくは六位 |
<官職> | 左衛門尉 |
<法号> | 不明 |
相馬孫五郎左衛門尉胤村の嫡男。通称は次郎左衛門尉。胤村の前妻の嫡子であろう。胤氏は下総に所領が知られず、胤氏自身を「下総相馬氏」とするのは疑問が大きい。ただ、胤氏の子孫が下総国相馬郡に移り住んだ可能性もある(諸系譜に見える「氏胤」が「胤氏」と同一とすれば、系譜上では下総相馬氏の祖となる)。
●『奥相秘鑑』をもとにした系譜
相馬義胤―+―胤綱 +―胤村―+―氏胤
(五郎) |(次郎左衛門) |(次郎)|(太郎)
| | |
+―胤継―――胤経―――+ +―鷲谷胤定
(小次郎)(左衛門尉)| |(次郎)
| |
| +―根戸胤光
| |(三郎)
| |
| +―布施胤久
| |(四郎)
| |
| +―文間胤家
| (五郎)
|
+―胤忠―――…<下総相馬氏>
|(上野介)
|
+―高井胤行―…<相馬民部>
●『相馬之系図』をもとにした系譜(『相馬文書所収』)
+―胤綱――――――胤村――――――――+―胤氏―――――――――師胤
|(次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉) |(次郎左衛門尉) (五郎左衛門尉)
| |
| +―師胤
| (彦次郎)
|
+―胤継―――胤経――――胤村―――――+―氏胤――胤基―――+―胤忠
(小次郎)(左衛門尉)(次郎左衛門尉)|(太郎)(左衛門尉)|(上野介)
| |
+―鷲谷胤定 +―高井胤行
|(次郎) |
| |
+―根戸胤光 +―戸張胤重
|(三郎)
|
+―布施胤久
|(四郎)
|
+―文間胤家
(五郎)
●『千葉大系図』をもとにした系譜
相馬胤綱―――+―胤継――――――+―泰胤―――――――光胤
(次郎左衛門尉)|(二郎兵衛尉) |(小五郎・) (小平太)
| |(民部大夫入道)
| |
| +―頼泰―――――――左衛門三郎 +―胤長
| |(二郎左衛門尉) |(大炊助)
| | |
| +―胤盛―――――――胤国―――――――忠重――――――胤望――――――+―胤豊
| (四郎兵衛尉) (孫四郎左衛門尉)(四郎左衛門尉)(上野介、上野二郎)(小次郎)
|
+―胤村――――――+―胤氏―――――――胤忠―――――――胤経
|(孫五郎左衛門尉)|(孫太郎左衛門尉)(長門前司) (右衛門二郎)
| | ∥
| | 武石胤継――――+―娘
| |(孫四郎左衛門尉)|
| | +―高広――――――亘理広胤
| | (四郎) (左兵衛尉)
| |
| +―師胤――――――――胤重
| (五郎二郎)
|
+―胤景――――――――胤宗
|(六郎左衛門尉) (六郎太郎)
|
+―時綱
|(七郎)
|
+―忠胤
(九郎左衛門尉
●『松羅館本千葉系図』をもとにした系譜
相馬胤綱―胤継――+―泰胤 +―忠胤――――――――――→子二人
(小次郎)(小次郎)|(民部大夫入道)|(九郎左衛門尉、上野介)
| |
+―頼泰 +―時綱
|(次郎左衛門尉)|(七郎)
| |
+―胤盛 +―胤景――――――――胤宗 +―胤基――――胤忠―――――――――+―胤長
|(四郎左衛門尉)|(六郎左衛門尉) |(次郎兵衛)(次郎左衛門尉、上野介)|(小次郎左衛門尉)
| | | |
+―胤経―――――+―胤村――――――+―胤氏―――――+―胤重 +―忠重
(五郎左兵衛尉) (孫五郎左衛門尉)|(次郎左衛門尉) (四郎左衛門尉) (四郎左衛門尉)
法名:茂林 |
+―師胤―――――――重胤
(彦次郎) (孫五郎)
胤氏は胤村の嫡子であり、「左衛門尉」に任じられていた。しかし、父・胤村が所領配分を明確にしないまま文永9(1272)年頃に急死したため、「未処分」の所領が発生した。これについて、幕府は「平松若丸(相馬師胤)」「尼(相馬胤村後家)」「平■■丸(相馬胤実カ?)」「平鶴夜叉丸(相馬通胤)」に対し、文永9(1272)年10月29日に『関東下知状』を遣わして「為未処分所被配分」した。彼らはおそらく何れも後家尼(尼阿蓮)の子であろう。幕府は他の庶子へも下知状を下した可能性もあるが、胤氏と義母(尼阿蓮)との関係がよくなかったため、尼阿蓮は自分やまだ幼い子たちにもできる限り多くの利権をもたらすべく、後家尼の立場を存分に利用して幕府と折衝し、成人している義理の子たち(胤氏、胤顕、胤重、有胤)と対抗しようとしたのではないだろうか。
●文永9(1272)年10月29日『関東下知状』(『相馬文書』)より
名前 | 下総国相馬郡 | 陸奥国行方郡 |
平松若丸(相馬師胤) | 薩間、粟野 | 耳谷村 |
尼(相馬孫五郎左衛門尉胤村後家) | 増尾 | 盤崎、小高 |
平■■丸(相馬胤実?) | 高平、■■鷹倉狩倉 | |
平鶴夜叉丸(相馬通胤) | 大悲山 |
胤村の遺領はこのほかに相馬郡泉村、陸奥国行方郡岡田村などにあったが、こちらは胤氏の弟・五郎胤顕の系統が継いでおり、胤村が存生中に分与されていたのかもしれない。
おそらく文永9(1272)年中に松若丸は元服して「彦次郎師胤」を称し、母の尼阿蓮とともに「譲状(師胤側が作成した可能性もある)」を持ち出して幕府に提出したのだろう。「譲状」は伝わっていないが、『相馬胤村配分状案』に提出された記載がある。
しかし、その「譲状」について幕府から注文がついたのかなかなか裁許が下りなかったのだろう。師胤は相馬家庶子(嫡子は左衛門尉胤氏か)に過ぎないにも関わらず、配分が師胤に偏っていることに疑問の声が上がったのかもしれない。または胤氏からのクレームなどの可能性もある。そのため、師胤は自分が「当腹嫡子」として正当性を主張し、胤村遺領の大半を継承する旨の文書を再度幕府に提出し、「譲状」の通りに配分してもらうよう裁許を求めたと思われる。
その再度提出の文書の師胤の主張は『相馬胤村配分状案』に記載されている内容と思われる。
●『相馬胤村配分状案』(『相馬文書』)
この『配分案』は、師胤が「当腹嫡子」であることを理由に、兄である胤氏(九十余丁)はもちろん、他の兄より多くの所領を継承することを幕府に求めたものである。五郎胤顕は尼阿蓮の子ではないが(胤氏の同母兄弟かは不明)、弟の六郎胤重とともに尼阿蓮の側についたと推測され、師胤に次ぐ所領配分が記載されている。胤顕の子孫は師胤の子孫とともに奥州に下り、相馬一族の筆頭として活躍する岡田氏へ続く。胤顕の子孫が幕末に至るまで六百年にわたって厚遇されたのは、この一件にあったのかもしれない。
師胤は「駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡」は「亡素意に任せて御成敗」してもらっていることを主し、「限胤村之跡」はこれらの先例とはいささか異なるが、「譲状」に記載の分限の通りに配分に預からんことを願った。師胤の場合と「駿河入道殿御跡、印東四郎太郎跡」がどのような「爭可被違」であったかは不明だが、師胤は胤村の跡に関わる「譲状」を持っていて、すでに幕府に提出していたと思われる。なお、この文書に見える「駿河入道」は「印東四郎太郎」とは身分に差があり、相馬家よりも目上の人物である。仁治元(1240)年に亡くなった評定衆・二階堂駿河入道行阿か、三浦駿河前司義村入道のことだろう。
佐津間城址 |
「後家(尼阿蓮)分」としての配分については、「箕勾、薩摩粟野■■、増尾、盤崎、小高」の五か村内に給わったことがわかる。「二ヶ村被給」については、闕所となっていた盤崎村、小高村のことか。後家尼は文永9(1272)年10月29日『関東下知状』おいて、未処分地であった増尾村、盤崎村、小高村を「亡夫胤村跡、為未処分所」として給わっているが、給わった直後に「件二ヶ所(盤崎村、小高村か)」の替地として北田村、高村を給わることになっている旨が記載されているものと思われる。
ただ、北田村、高村の両村は、胤氏の所領ならびに所有権を主張していた土地であったことが、その後の胤氏の行動と『長崎思元代良信申状』からうかがうことができる。『相馬胤村配分状案』は、胤氏との所領争いの過程で作成されたものかもしれない。
北田村については胤氏が所領として保つことになるが、高村はその後も「胤村未(処)分跡」として残されたようである。誰が管理していたのかは不分明ながら、永仁2(1294)年8月22日の『関東下知状』によって、相馬胤門が「亡父左衛門尉跡」の安堵(陸奥国高村、萩迫)が認められている。こうして未処分の胤村跡として残っていた最後の所領が下知状によって成敗された。
胤門はおそらくこの年、師胤の子・孫五郎重胤(松鶴丸)を養子としたと思われ、「嫡子に立」てた。師胤と胤門はとくに仲が良かったようで(契約深かり)、譲状に「…舎弟(彦五郎)胤門於無子息令死去者、松鶴可知行…松鶴無子息令死去者、(舎弟)彦五郎胤門可知行…」とある。そして、養子と定め、胤門・重胤の手によって『永仁二年御配分系図』が作成されて、幕府に提出されたか。
『永仁二年御配分系図』によると、胤氏は最も多い「六十二町三段三百歩 追赤沼六町」が配分されたことが記載されている。また、師胤の嫡子・重胤には「十三町九段八合」、さらに、胤門の養子となったことで「九町九段一合」が分与されている。この『永仁二年御配分系図』は胤門から重胤への譲状の内容、胤氏・胤顕への「追赤沼六町」という部分を見ると、おそらく奥州の所領の配分系図であろう。
●永仁2(1294)年8月22日『関東下知状』(『相馬文書』)
●永仁2(1294)年『永仁二年御配分系図』(『相馬文書』)
結局、胤氏は幕府からは相馬家嫡男という扱いを受けてはいたものの、胤村の死後、逸早く動いた後家尼一派との論争に敗れ、下総国の胤村遺領は譲られることなく、所有権を強く主張していたと思われる高村についても一部のみ(高川北)しか認められず、行方郡太田村、吉名村(『相馬一族闕所地置文案』)、北田村、赤沼の分与で妥協をさせられたのだろう。
●胤氏の相伝所領
陸奥国行方郡 | 大田村(南相馬市原町区下太田)? |
吉名村(南相馬市小高区吉名) | |
北田村(南相馬市原町区北原)? | |
高村(南相馬市原町区高)の一部 | |
陸奥国宮城郡 | 赤沼村(宮城県宮城郡利府町赤沼) |
しかし、胤氏はその後も納得せず、永仁4(1296)年秋、大田村、北田村に隣接する高村堰澤の稲を刈り取る乱暴をはたらいた。胤氏はすでに下総国に所領はなかったため、この頃には奥州行方郡に下っていたのだろう。この高村堰澤は、前年の8月24日に胤門から重胤へ譲られた所領であり、高村にいた重胤代官頼俊は胤氏の押領について幕府へ訴え出た。
重胤代頼俊の訴えを受けた幕府はたびたび胤氏を召喚したが、胤氏はこれを無視。重胤はさらに訴え出て裁許を求めたが胤氏はこれをも無視した。その結果、永仁5(1297)年6月7日、幕府は「此上不及異儀」として、重胤の高村堰沢の知行を認めた。
胤氏の活動はその後見られなくなるが、その子・五郎左衛門尉師胤が「罪科」によって「所領三分一」を収公されており、そのうち「奥州行方郡内北田村」が元亨元(1321)年12月17日、得宗御内人・長崎思元入道へ与えられた。師胤がなぜ所領三分一を没収されたかについては明確な資料が遺されていないため不明だが、幕府の法である『御成敗式目』ではその三十一条に、「依無其理不関裁許之輩、為奉行人偏頗之由構申之条、甚以濫吹也、自今以後、構不実企濫訴者、可被収公所領三分一」とある。理由もなく裁許に従わない輩や奉行人を偏頗と言う者が、不実を構えて濫訴した場合は、所領三分の一を収公するという規定があり、師胤はこれに抵触したのだろう。
●胤氏・師胤略系譜
娘(先妻?)
∥
∥――――胤氏――――――師胤
∥ (次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉)
相馬胤村
∥
∥――+―師胤――――――重胤
尼阿蓮 |(彦次郎) (彦五郎)
|
+―胤実
|(孫四郎)
|
+―胤門――――――彦犬
(彦五郎)