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千田氏とは
千田氏は下総国千田庄(香取郡多古町周辺)を本拠に、八幡庄(市川市周辺)、臼井庄神保郷(船橋市小室町周辺)などの地頭職を有する千葉一族で、千葉大隅守胤貞の三男・大隅守胤継を祖とする。血統上では千葉介常胤より続く千葉氏の長男家に属し、ゆえに次男家の千葉惣領家とは対立関係にあった。
千田庄は千葉介成胤の次男・千田次郎泰胤からその娘(千葉介頼胤室)を通して、嫡男の千葉太郎宗胤に伝えられた千葉惣領家に由緒の所領であった。宗胤より嫡子・千葉大隅守胤貞に継承され、三男・胤継がこれを継ぎ、千田千葉氏(千田氏)となる。
子孫と思われる千田中務胤嗣の子・千田善左衛門胤保は、下総国葛飾郡栗原郷(船橋市西船)の領主・成瀬家に召し出され、成瀬正成が尾張藩主徳川義直の御附家老として尾張国犬山へ移ると犬山城代に任じられ、以降幕末に至るまで犬山成瀬家の重臣として続いている。
■参考文献はこちら。
●千田氏略系図●
千葉介成胤―+―千葉介胤綱―+―千葉介時胤――千葉介頼胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | ∥――――――千葉宗胤――+
+―千田尼 +―千田泰胤―――娘 (太郎) |
(北条時頼妻) (次郎) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―千田胤貞――千田胤継――千田胤氏――+―千田義胤
(大隅守) (大隅守) (大隅守?) |
|
+―千田胤清―千田道胤
|(大隅次郎)
|
+―千田胤満―千田胤安―千田胤幸―千田胤仲―千田胤範―千田胤親―千田胤嗣―+
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
|【犬山藩家老千田家】
+―千田胤保―+―千田九兵衛
(善左衛門)|
|
+―千田十内――――千田勘兵衛
|
|
+―千田善左衛門――千田胤清―…―千葉善左衛門―千葉胤次―…―千葉将胤――千葉胤根――千葉胤虎――千葉眞青
(善左衛門) (善左衛門) (静遊) (善左衛門)(善左衛門)
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千田尼 (????-????)
千葉介成胤の娘。五代執権・北条相模守時頼の妻。
千葉介常胤――千葉介胤正――千葉介成胤―+―千葉介胤綱―+―千葉介時胤――千葉介頼胤
(千葉介) (千葉介) (千葉介) |(千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| |
+―千田尼 +―千葉泰胤
∥ (千田次郎)
∥
北条義時―+―北条泰時―――北条時氏――――北条時頼
(相模守) |(左京権大夫)(修理亮) (相模守)
| ∥―――――――北条時宗―――北条貞時―――北条高時―――北条時行
+―北条重時―+―――――――――娘 (相模守) (相模守) (相模守) (相模次郎)
(陸奥守) | (葛西殿)
|
+―北条長時――――北条義宗――――北条久時―+―北条守時
(武蔵守) (駿河守) (武蔵守) |(相模守)
|
+―平登子
∥――――――足利義詮
∥ (千寿王)
足利尊氏
(治部大輔)
房総平氏の臼井一族・神保氏が治めていた神保郷は、神保氏が上総権介広常の謀叛の疑いに連座して所領を没収されたのち、千葉介常胤へ与えられ、その後は代々千葉氏の所領となった。神保郷は下総国一宮・香取神宮にある勢至殿造営の負担をされる所領であり、宝治3(1249)年の遷宮式では「千葉介(頼胤)」が地頭をつとめ、文永8(1271)年の造営で、はじめて「千田尼」が公式文書で見える。
千田尼がいつごろ北条時頼に嫁いだかはっきりしないが、時頼は弘長3(1263)年11月に三十七歳で没しており、それ以前のこととなる。時頼の正室は極楽寺重時(父:北条義時・母:比企能員娘)の娘(葛西禅尼)で、建長3(1251)年に嫡男・北条時宗を生んでいるので、千田尼は側室としての立場にあったのだろう。千田尼の父・千葉介成胤が没したのが建保6(1218)年であり、千田尼がこの年に生まれたとしても時頼の十歳前後年上となる。
、文永8(1271)年・正応6(1293)年の香取社勢至殿の担当である、神保郷の地頭職として名が見え、各三十石を負担している。神保郷は建長元(1249)年の香取社造営の『造営所役注文』に「勢至殿社一宇 神保郷役 千葉介」とあることから(『香取文書』「造営諸役注文」)、神保郷は千葉介常胤が賜ったのち、千葉介成胤まで代々千葉宗家に受け継がれ、千田尼に継承されたと考えられる。そして、永正4(1345)年の香取社造営の『造営所役注文』に「一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隅守跡」とあり、千田尼から甥の千田次郎泰胤の手を経て、泰胤の所領・千田庄とともに娘(千葉介頼胤妻)から千葉宗胤に継承されたと思われる。その後、神保郷は多古千葉氏の所領となる。
千田尼の甥の千田次郎泰胤は北条氏との縁が深く、母は北条修理大夫時房娘(『般若院系図』)。その諱「泰胤」の「泰」は北条泰時からの偏諱かもしれない。千田尼が時頼の妻(側室か)になったことも、泰胤が北条氏と深い関係にあったことから実現したのかもしれない。
千田尼の没年は不明だが、「さた朝」という人物から「若狭国太良庄」についての諸文書を預かった「鎌倉いなせ川に、千田之後家尼御前と申候人」が千田尼だとすれば、正和2(1313)年6月26日以降ということになる(『当時百合文書』)。
●神保郷の継承
臼井常康(開発領主・荘園下司?)→神保常員(常康子・上総介広常に連座か)→千葉介常胤(頼朝より下賜か)→千葉介代々→千葉介成胤→千田尼(1249~1271年の間に継承)→千葉泰胤→娘(千葉介頼胤妻)→千葉宗胤→千葉胤貞→多古千田氏…
●文永8(1271)年の香取社遷宮についての『造宮記録』
●香取社殿の造営負担の交名(『市川市史 第二巻』)
所領名 | 人名 | 負担(石) |
不明 | 葛西経蓮 | 1,050 |
上野方郷 | 辛島地頭等 | 150 |
匝瑳北条 | 地頭等(飯高氏か) | 70 |
印西条 | 地頭越後守(金沢実時:北条一族) | 180 |
小見郷 | 地頭弥四郎胤直(小見胤直:東一族) | 170 |
匝瑳北条 | 地頭等 | 30 |
神保郷 | 地頭千田尼 | 30 |
大戸庄 神崎庄 |
地頭等(国分胤長?:国分一族) (神崎景胤?:千葉一族) |
100 |
猿俣郷 | 地頭葛西経蓮 | 60 |
平塚郷 | 地頭越後守実時(実時はすでに故人) | 60 |
風早郷 | 地頭左衛門尉康常(風早康常:東一族) | 70 |
矢木郷 | 地頭式部太夫胤家(矢木胤家:相馬一族) | 70 |
萱田郷 | 地頭千葉介頼胤 | 50 |
結城郡 | 地頭上野介広綱(結城広綱) | 120 |
埴生西条 | 地頭越後守実時 | 50 |
河栗遠山方 | 地頭等(遠山方信胤?:千葉一族) | 100 |
大須賀郷 | 地頭等(大須賀宗信?:大須賀嫡流) 行事所沙汰 行事所沙汰 |
100 30 30 |
遠山方二丁 葛東二丁 |
千葉介頼胤 | 30 |
下野方郷 | 地頭武藤長頼(?) | ? |
吉橋郷 | 地頭千葉介頼胤 | 30 |
埴生西条富谷郷 | 地頭越後守実時(実時はすでに故人) | 30 |
下野方郷 | 地頭武藤長頼(?) 行事所沙汰 行事所沙汰 |
30 30 30 |
印東庄 | 地頭千葉介頼胤 | 100 |
葛西郡 | 地頭葛西経蓮 | 100 |
大方郷 | 地頭諏訪真性 行事所沙汰 |
100 30 |
国分寺 | 地頭弥五郎時道女房(大戸国分時通の妻) | 60 |
正神殿雑掌(葛西入道経蓮) 正神殿雑掌(葛西入道経蓮) 行事所沙汰 |
50 |
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千田泰胤 (????-1251)
千葉介胤綱の次男。通称は千田次郎(『神代本千葉系図』『中条文書』)、千田太次郎(『伊豆走湯山般若院系図』)。泰胤の「泰」字は北条泰時からの偏諱だろう。下総国香取郡千田庄(香取郡多古町周辺)を領し「千田」を称した。千葉介成胤の子ともされるが(『千葉大系図』)、鎌倉期の古系譜の系統をひく『神代本千葉系図』『中条文書』によれば、いずれも胤綱の子として記載されている。
生年については『般若院系図』(『続群書類従』巻第百四十四)も「建治元年八月一日生」とあり、建治元(1275)年の生まれとなるが、世代的にも『吾妻鏡』の記述にも矛盾する。また、古系譜に生年月日を記す例は見られず、法名等が続けて記されていることから「建治元年八月一日卒」の誤りだろう。
千田泰胤周辺系譜(『般若院系図』より)
千葉介 同介小太郎
胤政―+―成胤―――――胤綱――+―時胤―――頼胤
| |
| 上総介 |
+―常秀 +―泰胤 千田太二郎
| 母修理太夫時房女、建治元年八月一日生、法名常存、永安寺入道
| 三谷四郎
+―廣胤
|
|
+―秀次
|
| 田辺多号五郎
+―胤忠
ただし、『般若院系図』の記述は、千葉介頼胤の没年と同年同月であることや、母が頼胤と同じ「修理権太夫時房女」であることから、『続群書類従』筆耕時または活字化する際に、頼胤の記事を泰胤の記事としてしまったものであろう。北条氏の系譜においても、時房の娘として「千葉介時衡(ママ)室」の記述は見えるものの、泰胤の母については記載がない。『般若院系図』は伊豆国の伊豆山権現の別当寺般若院に伝わる系図だが、般若院の開山が相馬民部太夫泰胤(相馬師常の玄孫)の子・天谿だったことから、千葉氏の系譜を記載している。
仁治2(1241)年9月、千葉介時胤が二十四歳という若さで没したため、三歳で当主となった時胤嫡子・亀若丸(千葉介頼胤)の後見を務めた。
千葉介成胤―+―千葉介胤綱―+――――――――千葉介時胤
(千葉介) |(千葉介) | (千葉介)
| | ∥――――――千葉介頼胤 +―千葉宗胤
| | 北条時房―――娘 (千葉介) |(千葉新介)
| |(修理大夫) ∥ |
| | ∥――――――+―千葉介胤宗
| | ∥ (千葉介)
+―千田尼 +―千田泰胤――――――――――娘
∥ (次郎)
∥
北条時頼
(相模守)
泰胤の「泰」字は執権・北条泰時からの偏諱であると思われ、幕府からも千葉宗家当主並の扱いを受けていたことが想像される。それをうかがわせるのが『岩蔵寺過去帳』である。肥前国小城郡の雲海山岩蔵寺に所蔵されていた過去帳(焼失)には、小城郡の代々の地頭として「常胤、胤政、成胤、胤綱、時胤、泰胤、頼胤、宗胤、明恵後室尼、胤貞、高胤、胤平、直胤、胤直、胤継、胤泰…」と千葉氏の当主(宗胤以降は小城千葉氏か?)が名を連ねている。ここで注目されるのが、時胤のあとに「泰胤」の名が見え、胤綱・時胤のあとに小城郡の地頭職にあったこと、つまり幼少の亀若丸(千葉介頼胤)の後見人として地頭職を担っていたと推測される。
寛元3(1245)年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会に五代将軍・藤原頼嗣の行列に先陣の随兵として、上総権介秀胤の子・上総式部大夫時秀と並んで「千葉次郎泰胤」の名が見える。上総権介秀胤は千葉介成胤の甥にあたり、ともに幼主千葉亀若丸を支える両巨頭であった。
千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介胤綱―+―千葉介時胤――千葉介頼胤
(千葉介) |(千葉介) (千葉介) |(千葉介) (亀若丸)
| |
| +―千田泰胤
| (次郎)
|
+―千葉常秀―――千葉秀胤――――千葉時秀
(下総守) (上総権介) (式部丞)
寛元5(1247)年2月23日、将軍家の御浜出始の儀に犬追物が行われ、中手として「千葉次郎」が見える。宝治2(1248)年1月3日の北条相模守重時沙汰にて、北条左近将監時頼邸で行われた椀飯に、六位の供奉人として「千葉次郎」の名を見ることができる(『吾妻鏡』宝治二年正月三日条)。これまで幼い亀若丸(千葉介頼胤)の代理として幕府の諸行事に携わっていた人物として、千葉八郎胤時(鏑木氏の祖)が見えていたが、彼は千葉介胤正の八男であり、すでに老境の人物であったのだろう。宝治元(1247)年5月14日の将軍・頼嗣御台所(北条修理亮時氏娘:檜皮姫公)の葬送の儀に参列したのを最後に名が見えなくなる。
宝治2(1248)年8月15日、鶴岡八幡宮放生会に際し、将軍家御出の儀に、後陣の隨兵十一人の一人に「千葉次郎泰胤」の名が見える。
●鶴岡八幡宮放生会隨兵(『吾妻鏡』宝治二年八月十五日条)
先陣隨兵 | 北條六郎時定 | 武蔵太郎朝房 | 遠江新左衛門尉経光 | 式部六郎左衛門尉朝長 |
伯耆四郎左衛門尉光清 | 土肥四郎実綱 | 小笠原余一長経 | 出羽三郎行資 | |
越後五郎時員 | 三浦介盛時 | |||
御剣 | 武蔵守朝直 | |||
御調度 | 伊豆太郎左衛門尉実保 | |||
御輿 | 藤原頼嗣 | |||
後陣隨兵 | 相模三郎太郎時成 | 千葉次郎泰胤 | 上野三郎国氏 | 里見伊賀彌太郎義継 |
薩摩七郎左衛門尉祐能 | 常陸次郎兵衛尉行雄 | 肥後次郎左衛門尉景氏 | 豊前左衛門尉忠綱 | |
隠岐次郎左衛門尉泰清 | 加地太郎実綱 | 江戸七郎重保 |
建長2(1250)年8月15日、鶴岡八幡宮放生会の後陣の隨兵に「千葉次郎泰胤」の名が見える。
●鶴岡八幡宮放生会隨兵(『吾妻鏡』建長二年八月十五日条)
先陣隨兵 | 相模三郎太郎時成 | 武蔵四郎時仲 | 三浦介盛時 | 梶原左衛門尉景俊 | 上野五郎兵衛尉重光 |
常陸次郎兵衛尉行雄 | 足利三郎家氏 | 城九郎泰盛 | 北條六郎時定 | 遠江太郎清時 | |
後陣隨兵 | 越後五郎時家 | 相模八郎時隆 | 武田五郎三郎政綱 | 江戸七郎太郎重光 | 出羽三郎行資 |
大泉九郎長氏 | 橘薩摩余一公員 | 土肥次郎兵衛尉 | 葛西新左衛門尉清時 | 千葉次郎胤泰 |
二人の娘のうち、一人は弘安8(1285)年の霜月騒動に連座して、下総国埴生庄に流されていた北条一族・金沢越後守顕時(安達泰盛の聟)に嫁いだ。この娘は相模国六浦に嶺松寺を建立してその開基となったとされる(『千葉大系図』)。そして、顕時との間に生まれた娘が、千葉介胤宗に嫁ぎ、嫡男・千葉介貞胤を生んだ。
建武4(1337)年の「千葉貞胤亡母三十五日表白」(『拾珠抄』)には系譜が併記されていて、貞胤の母について、
とあり、貞胤の母親は逆算して文永11(1274)年生まれということになる。
千葉介胤綱―+―千葉介時胤――千葉介頼胤 +―千葉宗胤――千田胤貞―+―千田胤継
(千葉介) |(千葉介) (千葉介) |(太郎) (大隅守) |(大隅守)
| ∥ | |
| ∥ | +―千葉胤泰
| ∥ | (大隅次郎)
| ∥ |
| ∥――――――+―千葉介胤宗
| +―娘 (千葉介)
| | ∥―――――千葉介貞胤――千葉介氏胤
+―千葉泰胤―+―娘 ∥ (千葉介) (千葉介)
(次郎) ∥――――――――娘
∥
金沢実時―――金沢顕時
(越後守) (越後守)
彼女の父・金沢顕時が安達泰盛の乱(霜月騒動)に連座して、平頼綱(内管領)によって埴生庄に流されたのは弘安8(1285)年であり、それ以前から千葉泰胤と金沢顕時の間に交流がもたれていたことがわかる。顕時は下総国埴生庄地頭職であり、すぐ隣の千田庄の領主である泰胤とは交流があった可能性がある。顕時は正応6(1293)年4月、平頼綱が執権・北条貞時によって討たれたために鎌倉に戻っており、正応6(1293)年の「香取社殿造営負担交名」に見える「埴生西条」「埴生西条富谷郷」の「地頭」に「越後守」が記されていることから、赦免と同時に顕時が埴生庄の地頭職に復職したと思われる。
もう一人の娘は、甥の千葉介頼胤に嫁ぎ、・千葉宗胤(肥前小城千葉氏の祖)と千葉介胤宗(下総千葉氏の祖)を生んでいる。小城千葉氏が千田庄をその所領とした理由は、おそらく泰胤から娘を通して宗胤に譲渡されたためと考えられる。
建長2(1250)年12月の「将軍近習結番交名注文」には千葉一族の中で「千葉次郎」「大須賀左衛門尉」の名を見ることができる。宝治元(1247)年の宝治合戦で、一門の有力者・上総権介秀胤が討たれたのち、もっとも千葉宗家に近く、なおかつ北条氏とも強い結びつきがあった泰胤が、幼少の頼胤の代理として幕府に出仕していたと考えられる。
泰胤の没年については、鎌倉時代後期に編纂された『中条家文書』の系譜に「建長三正卒」とあり、泰胤は建長3(1251)年正月に没したと思われる(『中条文書』)。
●泰胤周辺系図
北条義時―+―北条泰時―――北条時氏―――北条時頼
| (5代執権)
| ∥
| ∥――――――北条時宗―――――北条貞宗―――北条高時
| ∥ (8代執権)
+―北条重時―+――――――――娘
| |
| +―北条長時――――――――――赤橋久時―――+―北条守時
| (6代執権) |(16代執権)
| |
| 千葉胤綱――+―千葉時胤――千葉頼胤 +―赤橋登子(足利尊氏正妻)
| (千葉介) |(千葉介) (千葉介)
| | ∥―――――――千葉胤宗
| | ∥ (千葉介)
| | +―娘 ∥
| | | ∥
| | | ∥――――――千葉貞胤
+―北条政村―+―北条重村 +―千葉泰胤―+―娘 ∥ (千葉介)
|(7代執権)|(土佐守) ∥ ∥
| | ∥ ∥
| +―娘 +――――――――金沢顕時――――娘 +―金沢貞冬
| ∥ | (越後守) |(武蔵右馬助)
| ∥ | ∥∥ |
| ∥ | ∥∥―――――――――――+―金沢貞顕―+―金沢貞将
| ∥ | ∥∥ |(武蔵守) |(越後守)
+―北条実泰 ∥―――――+ 遠藤為俊――娘 | |
(蒲里谷殿) ∥ | ∥ +―忍禅尼 +―金沢貞匡
∥ ∥ | ∥ ∥
∥―――――金沢実時 +―金沢実政 ∥ ∥
∥ (越後守) (上総介) ∥ ∥――――――足利高義
天野政景―+―娘 ∥ ∥ (左馬助)
| 安達泰盛―――千代能 ∥
| (陸奥守) ∥
| ∥
+―娘 足利頼氏 ∥
(相馬尼) (治部権大輔) ∥
∥ ∥――――――足利家時―――足利貞氏
∥ ∥ (伊予守) (上総介)
∥ ∥ ∥
∥―――――相馬胤村 +―娘 ∥――――+―足利高氏(尊氏)
∥ | ∥ |(権大納言)
∥ | ∥ |
相馬義胤―――相馬胤綱 上杉重房――+―上杉頼重―――――――――上杉清子 +―足利高国(直義)
(五郎) (左衛門尉) (左衛門督) |(承安門院蔵人) (果証院) (左兵衛督)
|
+―娘
∥――――――山名時氏
∥ (伊豆守)
山名政氏
(弥二郎)
「千葉次郎泰胤」は奥州千葉氏の祖か?
奥州千葉氏の系譜の中に、祖として「千葉次郎泰胤」とあるものがある。この泰胤が、成胤の子の「千葉次郎泰胤」と同一人物かは不明だが、奥州千葉氏の祖の「千葉次郎泰胤」は「従五位下若狭守左衛門尉」に任じられ、江戸左衛門尉忠重の娘を娶ったという。生年は、奥州千葉氏の一族・薄衣氏の系図『薄衣系図』によれば1188年生まれとされているが、これは二十年ほど世代がずれる。
●『岩手県史』に西暦を挿入
千葉泰胤――――――――+―康胤(1214-1277/広胤とも)
従五位上若狭守左衛門尉 | 従五位下越前守
千葉次郎 | 建治3(1277)年卒 64歳
室江戸左衛門尉忠重女 |
+―女 千葉六郎秀顕室
|
+―女 江戸伊賀守重俊室
|
+―胤堅(1225-1283/胤純とも)
| 弘長元(1261)年薄衣城に住む
| 従五位下伊勢守(/伊賀守とも)
| 千葉弥四郎左衛門尉
| 弘安6(1283)年 59歳
| 室 伊藤(伊東?)藤左衛門尉祐兼女
|
+―胤冬(1231-1251)
| 千葉弥九郎
| 建長三卒二一
|
+―女 葛西兵庫助清見室
―『薄衣家代々位牌禄』―
嘉禄元(1225)年9月1日、「越前国大野郡島田城」で四男の胤堅が生まれているとあり、系譜に従えばこのころ越前にあった。なぜ泰胤が越前大野郡にいたのかは不明だが、承久元(1221)年の「承久の乱」の功績によって大野郡の地頭職を給わっていたのかもしれない。のちに泰胤と同じく千葉介頼胤の後見人になった東胤行(素暹入道)も、承久の乱の功績により美濃国郡上郡の地頭という、下総とは離れた場所を与えられている。
建長元(1249)年2月、泰胤は嫡男・千葉越前守広胤に家督を譲り、「若狭越前両国の奉行と為」した。なお、千葉氏の系譜には泰胤の養子として「胤廣(廣胤)」を充てるものもある。
千田泰胤周辺系譜1(『般若院系図』より)
千葉介 同介小太郎
胤政―+―成胤―――――胤綱――+―時胤―――頼胤
| |
| 上総介 |
+―常秀 +―泰胤 千田太二郎
| 母修理太夫時房女、建治元年八月一日生、法名常存、永安寺入道
| 三谷四郎
+―廣胤
|
|
+―秀次
|
| 田辺多号五郎
+―胤忠
千田泰胤周辺系譜1(『千葉大系図』より)
千葉介 千葉介 千葉介
胤政―+―成胤――――――――+―胤綱
| |
| | 千葉次郎 次郎太郎 孫次郎 中澤孫太郎
| +―泰胤――――――+―胤英―――――――――胤義―――――胤頼
| |
| | 越後太郎
| | 於鎌倉造立嶺松寺
| +―女
| |
| | 千葉介頼胤妻
| +―女
|
|
| 三谷四郎、或有由為
| 千葉次郎泰胤之子 立澤四郎太郎 平田左衛門尉 同次郎
+―胤廣――――――――+―胤義――――――――胤俊―――――――+―胤信
| |
| 三谷次郎 | 同四郎
+―通胤 +―資胤
|
| 三谷四郎 三谷四郎 四郎太郎
+―胤村――――――+―泰俊―――――――――胤継
| |
| 孫四郎 | 中澤弥太郎 彦太郎
+―重胤 +―胤直―――――――――胤興
|
| 立澤又太郎 平太
+―胤幹―――――――――信胤
すでに鎌倉に常駐して頼胤の後見ならびに、将軍頼嗣の近侍となっていた泰胤は、翌年の建長2(1250)年、下総国千田庄の地頭職となった。ようやく幕府政治も落ち着いてくると、執権・北条時頼は「将軍は飾り物で良い」という考え方により、頼朝の実姉の血をわずかに引く頼嗣を廃し、念願の天皇家から将軍を迎えようと謀った。
こうして幕府は建長4(1252)年、後嵯峨上皇の第一皇子・宗尊親王に白羽の矢を立て、その鎌倉下向に供奉するために鎌倉から有力御家人が上洛した。その供奉の中に四男の千葉弥四郎胤堅の姿があり、2月上洛。3月19日、宗尊親王に供奉して出京し、4月1日に鎌倉に到着した。そして14日の八幡宮参詣にも供奉し、その功績により陸奥国栗原郡に広大な所領を与えられ、従五位下伊勢守に任官した。一方、越前国の所領を継承していた千葉越前守広胤は、同地の荘園預所職としてしばらくとどまり、数代ののち、奥州和賀郡に下向したという。
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千田胤貞 (1288-1336)
千田氏初代。肥前小城千葉氏初代・千葉宗胤の嫡男。官途は大隅守。→【千葉胤貞】
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千田胤継 (????-????)
千田氏二代。肥前千葉氏二代・千葉大隅守胤貞の子。官途は大隅守。→【千葉胤継】
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千田胤氏 (????-????)
千田氏三代。千田大隅守胤継の嫡男。官途は大隅守か。
「応永卅三年丙午九月十七日」の妙光寺(多古町南中)から発見された板碑には、「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平胤満霊位」とある。
没年については不明だが、応安5(1372)年2月に円城寺胤朝が千田義胤の指示を受けて発給した書状によれば「亡父胤氏」とあることから、この年にはすでに亡くなっていることがわかる。
なお、『香取郡誌』には「千葉刑部大輔胤氏」の娘が木内下総介胤康へ嫁いだとあるが(『香取郡誌』)、「千葉刑部大輔」は正平14(1359)年7月、九州の少弐頼尚(肥前国守護)が大友氏時(豊後国守護)と語らって独立し、南朝勢力と筑後川で大激戦を繰り広げた戦い(筑後川の戦い)で、南朝の征西将軍宮懐良親王の麾下に見える「千葉刑部大輔」(『新田氏根本史料』)を仮託したものだろう。
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千田義胤 (????-????)
千田氏四代。千葉胤氏の子。
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妙光寺内妙見社 |
「応永卅三年丙午九月十七日」の妙光寺(多古町南中)から発見された板碑には、「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平胤満霊位」とある。
応安5(1372)年2月、「図書左衛門尉源胤朝(円城寺胤朝)」が「中山大輔法印御房(大輔僧都日祐)」に宛てた、かつて胤継や胤氏が寄進した八幡庄内谷中郷内の土地についての文書内で「義胤」という名前が見える。
●応安5(1372)年2月日『円城寺胤朝発給文書』(『中山法華経寺文書』)
この書状は「図書左衛門尉源胤朝」が「義胤」に命じられて中山本妙寺に進上した文書で、この時には義胤が千田氏の家督であり、千田庄多古周辺の「源姓」の円城寺氏が彼に仕えていたことがわかる。また、彼の母は平姓の家を出身としており、「大檀那平氏女図書悲母」が胤朝とともに多古妙光寺に日蓮坐像を寄進した一人として名を連ねている。円城寺氏は原氏と同族のため、平姓の円城寺氏と源姓の円城寺氏の二流が存在したことがわかる。
●円城寺家想像系図
〔千葉介満胤代官〕
…―円城寺政氏
(式部丞)
…―円城寺胤泰――円城寺胤藤
(隼人佑) (隼人佑)
〔千葉介貞胤目代〕 〔千葉介氏胤~満胤代官〕 〔千葉介満胤代官〕
円城寺貞政――――――円城寺氏政 …――円城寺満政【源朝臣】―――円城寺源氏女
(図書右衛門入道) (図書允) (兵衛三郎) (法名如幸)
∥
∥ 〔千田義胤代官〕
∥――――――――円城寺胤朝【源朝臣】
∥ (図書左衛門尉)
女子
【平氏女図書悲母】
貞治5(1366)年秋、「世以無其隠者」の「浄心(平長胤父)」が鎌倉より千葉竹壽丸(千葉介満胤)の「補佐国務」することを命じられたが、これは香取神宮が主張する、惣領家被官中村氏以下による「神官」領の「押領」問題を解決するために補任されたものと考えられる。
しかし、「氏政円城寺図書允」以下の惣領家被官層は押領されたとされる神領は重代の地頭職であることを主張して、鎌倉からの遵行使の介入に激しく抵抗する。当時幼少の竹寿丸は当然この状況を裁くことは不可能であり、竹寿丸の補佐人・浄心およびその子長胤が香取郡周辺の千葉一族をあつめて「一族一揆」を成し、被官層と香取神宮側、鎌倉との交渉を行った。しかし、中村胤幹ら被官層と神官の一部が香取神宮に乱入して社屋を灰燼とする武力衝突を起し、さらに「非蔑如上裁而已、対于一族并浄心、取弓箭動干戈」と、一族一揆とも戦闘状態となる(貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』)。
●貞治7(1368)年3月某日『平長胤寄進状』
貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』
応安7(1374)年8月9日、鎌倉は一族一揆に対し、千葉介満胤の香取神領「押領」を退けるよう命じている(『鎌倉府執事奉書』)。この一族一揆には十一名のメンバーが記されている。その中の「大隅次郎」は、義胤の次代「平胤清」であり、すでに義胤は亡くなっていたと考えられる。
応安7(1374)年8月9日『鎌倉府執事奉書』に見える一族一揆
名前 | 法名 | 実名 |
大隅次郎 | 千田大隅次郎胤清 | |
相馬上野次郎 | 茂林 | 相馬左衛門尉胤宗か? |
大須賀左馬助 | 大須賀左馬助憲宗 | |
国分三河入道 | 沙弥寿歓 | 国分三河守胤詮 |
国分六郎兵衛入道 | 国分小六郎胤任? | |
国分越前五郎 | 国分越前五郎時常 | |
国分与一 | 国分与一氏胤? | |
東次郎左衛門入道 | 沙弥宏覚 | 東次郎左衛門尉胤秀 |
木内七郎兵衛入道 | 沙弥禅広? | |
神崎左衛門五郎 | 神崎左衛門五郎秀尚 | |
那智左衛門蔵人入道 | ?(下総町の那智山に関係した大須賀・神崎・木内一族か?) |
+―千田義胤
|
|
+―千田胤清(一族一揆の代表者の一人)
|(大隅次郎)
|
千葉胤氏―+―娘
(大隅守) ∥
∥
木内胤康…(一族一揆の代表者の一人)
(沙弥誓阿)
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千田胤清 (????-????)
千田氏五代。千葉胤氏の子。通称は大隅次郎。
正平14(1359)年7月、征西将軍宮・懐良親王率いる南朝の大軍と太宰府で争った少弐頼尚の麾下に「千葉右京大夫胤清」という人物があるが、千田胤清はこのころ下総国千田庄または八幡庄にいたと思われることから別人である。
『千葉大系図』によれば「故あって肥前国から近江国に移り住み、天文7(1538)年、守護・佐々木氏の扶助を受けた」とあるが、「応永卅三年丙午九月十七日」の妙光寺(多古町南中)から発見された板碑には、「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平胤満霊位」とあり、応永33(1426)年には胤清はすでに没しているうえ、100年もの差があることから、『千葉大系図』のこの記述には信憑性はない。
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法華経寺法華堂(国重文) |
香取神宮と千葉惣領家被官との神領「押領」事件での対立につき、応安7(1374)年8月9日、鎌倉は一族一揆に対し、千葉介満胤の香取神領「押領」を退けるよう命じている(『鎌倉府執事奉書』)。この一族一揆には十一名のメンバーが記されているが、その中の「大隅次郎」が「平胤清」である。
また、康暦2(1380)年3月4日、胤清は中山本妙寺に対して臼井庄神保郷内小室村(船橋市小室町)一円を寄進した(『胤清寄進状①』)。神保郷西山大明神田畠、原郷多古村坊谷新田一反などを「民王丸」に譲った人物の花押と胤清の花押が一致するため(『日蓮宗の成立と展開』中尾尭氏著)、臼井庄神保郷、千田庄原郷などが代々千田氏に継承されていたことがわかる。
永徳2(1382)年後半と思われるが、中山本妙寺の弁法印日尊は鎌倉に守護からの寺領安堵状発給を希望し、鎌倉は当該寺領の地頭職を継承していた千田胤清にその証明を命じた。これを受けて、当時鎌倉に在住していた胤清は永徳2(1382)年12月30日、奉行所に「本主胤貞胤継等寄進之後相続之、当知行無相違候」ことの請文を提出(永徳2(1382)年12月晦日「平胤清請文」(『中山法華経寺文書』南北4122))。これを受けて鎌倉は同日、寺領安堵の御下文を千葉介満胤に下している。満胤はこの「永徳二年十二月卅日」の御下文の通り安堵する寺領安堵状を発給した(永徳三年十二月廿四日「平満胤安堵状」『中山法華経寺文書』南北4179)。
その約10年後の明徳5(1394)年、本妙寺の日尊法印は「平満胤(千葉介満胤)」に対して、日満が先師たちの置文に反したことを訴え、「平満胤」は明徳5(1394)年6月29日付けで「任去永徳二年十二月晦日御教書之旨、可沙汰付所持物所帯於本妙寺之状」とする返書(『平満胤文書』)を発給した。
満胤が日尊法印に対して書状を発給した翌日の6月30日、「右衛門尉胤家」が「宍倉十郎左衛門入道」とともに「中山本妙寺代」として真間山弘法寺に赴くという書状を発給した。この「右衛門尉胤家」が誰なのかは不明だが、宍倉十郎左衛門入道は千葉宗家の直臣であると思われることから、胤家も千葉宗家に仕える人物なのだろう。八幡庄は室町時代中期には千葉宗家の実質的支配下に置かれ、千田氏は千田庄、印旛郡の一部のみを領することになったのだろう。
胤清の没年は不明。
●康暦2(1380)年3月4日「平胤清寄進状」
●永徳2(1382)年12月晦日「平胤清請文」(『中山法華経寺文書』南北4122)
●永徳3(1383)年12月24日「平満胤安堵状」(『中山法華経寺文書』南北4179)
●明徳5(1394)年6月29日の千葉介満胤文書
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千田通胤 (????-????)
千田氏六代。千葉義胤の子か。「道胤」とも。幼名は「民王丸」か。
応永13(1406)年、千田氏が相伝していた「神保郷」が「千田道胤」という人物によって、一部が売却されており、このころ「道胤」が千田氏の家督だったと思われる(『千田道胤売券』)。この文書に出てくる「本銭かゑし」とは、所領を売ったときの代金を買い手側に返済すれば、売った所領を買い戻せるという売買形式で、道胤の売券では、5月中に本銭三十二貫文を返せなかった場合は買い手側に権利が移ることを契約している。
八日市場市の円静寺にのこる、応永26(1419)年2月の板本尊には「…□胤、胤貞、胤泰、胤継、胤氏、義胤、通胤、胤満、胤泰」と書かれている。「□胤」はおそらく「宗胤」であり、ここに記されている人物は多古庄を治めていた千田氏である。この本尊が奉納された時点では通胤はすでに没しており、六代当主の胤満とその子・胤泰が自らも含めて先祖の冥福を祈るために円静寺に奉納されたものであろう。
「神保郷小室村」は、応永27(1420)年12月21日の「兼胤安堵状」(『中山法華経寺文書』)によれば、千葉介兼胤から本妙寺の日暹上人へ安堵されている。つまり、八幡庄に続いて神保郷小室村も千葉宗家に支配されたことがうかがえる。小室村の「本銭かゑし」が失敗したのだろうか。道胤を最後に千田氏発給の文書はなくなる。
●応永13(1406)年5月7日の千田道胤書状
●応永26(1419)年2月日『円静寺板碑』
日胤尊霊 | 日暹聖人逆修 | 日祐聖人 | 日高聖人 | 法主大聖人 | 日常聖人 | 日頂聖人 | 日尊聖人 | 日尭尊霊 | 日貞尊霊 | 日英逆修 | ||
胤泰逆修 | 胤満逆修 | 通胤 | 義胤 | 胤氏 | 胤継 | 胤泰 | 胤貞 | ■胤 | 妙念聖霊 | 覚諭聖霊 | 常胤聖霊 | 日諭聖霊 |
高妙 | 法義 | 英賢 | 日敬 | 日礼 | 日運 | 日了 | 日賢 | ■性 | 妙■尼 | 妙■逆修 | 秀■逆修 | 日■逆修 |
太郎次郎 | 同妻女 | 彦五郎 | 同妻女 | 彦三郎 | 彦三郎 | 那須式部 | 法性尼 | 妙円尼 | 妙安尼 | 妙覚尼 | 妙胤尼 | |
妙教尼 | 妙円 | 廿二日契約衆 |
■解説
日英逆修 | 法宣院日貞の弟子。埴谷重継の弟。千葉氏を背景に中山門流を発展させた人物。応永30(1423)年示寂。 |
日貞尊霊 | 日高弟子。肥前国松尾山光勝寺の開山で西海総導師職。中山法宣院開祖。康安元(1361)年寂。 |
日尭尊霊 | 日暹弟(日尊弟とも)。中山本行院の開祖。応永3(1396)年寂。 |
日尊聖人 | 日祐の弟子で中山本妙寺4代貫主。弁法印。応永6(1399)年9月7日、77歳で示寂。 |
日頂聖人 | 伊予房阿闍梨。日常の子で真間弘法寺貫主。父と不和になって駿河の日興を頼った。 |
日常聖人 | 千葉新介宗胤の側近で、中山法華寺の開祖・富木常忍。正和3(1314)年3月20日、84歳で示寂。 |
法主大聖人 | 日蓮。 |
日高聖人 | 日常の弟子で中山本妙寺貫主。2代中山本妙寺。正和3(1314)年4月26日、58歳で示寂。 |
日祐聖人 | 千葉胤貞の猷子。3代本妙寺貫主。太輔房。肥前国小城郡光勝寺開祖。応安7(1374)年5月19日、77歳で示寂。 |
日暹聖人逆修 | 日尊の弟子で、5代本妙寺貫主。応永29(1422)年6月7日、74歳で示寂。石碑建立のときは生存であり、逆修。 |
日胤尊霊 | 若宮戸蓮経阿闍利御坊。日祐の代官を務め、千葉胤継より多古村内に知行を受けた。その後、日祐へ譲渡。 |
日諭聖霊 | |
常胤聖霊 | 千葉介常胤。 |
覚諭聖霊 | |
妙念聖霊 | |
■胤 | 千葉宗胤。 |
胤貞 | 千葉大隅守胤貞。 |
胤泰 | 千葉胤泰。 |
胤継 | 千葉胤継。千葉大隅守胤貞の子で、千田庄・八幡庄などを領した千田氏当主。 |
胤氏 | 千葉胤氏。胤継の子。 |
義胤 | 千葉義胤。胤氏の子。 |
通胤 | 千葉通胤。千葉胤氏の子・胤清の子「民王丸」か? |
胤満逆修 | 千葉胤満。胤氏の子。 |
胤泰逆修 | 千葉胤泰。胤満の子。 |
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千田胤満 (????-1426?)
千田氏七代。千葉胤氏の子。通称は三郎。
(1)八日市場市の円静寺に残る応永26(1419)年2月の板本尊には「□胤、胤貞、胤泰、胤継、胤氏、義胤、通胤、胤満、胤泰」と書かれている。
(2)多古町の妙光寺(多古町南中)の「応永卅三年丙午九月十七日」の板碑には「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平胤満霊位」とある。
千田氏は代々八幡庄・千田庄を支配しており、胤満の兄・胤清までは八幡庄中山寺に寄進状を発給している。しかし、永徳3(1383)年12月24日、「平満胤(千葉介満胤)」が本妙寺に対して八幡庄内の寺領安堵状(『平満胤寺領安堵状』)を発給しており、この一年の間に八幡庄の支配権は千田氏から千葉介宗家に移っていることがわかる。
満胤が発給した永徳3(1383)年の『平満胤寺領安堵状』の中では、「永徳二年十二月卅日任御下文之旨」とあり、明徳5(1394)年6月29日の中山本妙寺の日尊法印への返書内(『平満胤文書』)では「任去永徳二年十二月晦日御教書之旨」と永徳2(1382)年12月30日の「御下文」「御教書」を支配権の根拠と位置づけている。ちなみにこの日、「平胤満」が「御奉行所」へ本妙寺への寄進地について間違いないことを進上しており(『永徳二年十二月晦日平胤清文書』)、同日付で鎌倉府より御下文(御教書)が下されたものと考えられる。
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妙光寺板碑群 |
一方、千葉介満胤に八幡庄の支配権を譲った千田氏は、おそらく千田庄にあって同地の支配をしていたのだろう。胤満は、道胤の跡を継いで、応永13~26年(1406~1419)の間に家督を相続した。そして、応永26(1419)年には息子の「胤泰」とともに八日市場市の円静寺に板本尊を奉納し、先祖と自分たちの冥福を祈っている。
また、千田氏相伝の神保郷小室村(船橋市小室町)も、応永27(1420)年には千葉介兼胤によって八幡庄中山本妙寺の日暹上人に安堵されており、神保郷も千葉宗家によって支配されていたようだ。
多古町の竹林山妙光寺(多古町南中)の応永33(1426)年9月17日の板碑には、「平胤満霊位」とあり、『本土寺過去帳』では十七日上段に「多古殿胤満七月」(『本土寺大過去帳』十七日 上)とあることから、おそらく応永33(1426)年7月17日に亡くなり、二か月後の命日に板碑が奉納されたのだろう。
●永徳2(1382)年12月晦日の平胤清文書
●永徳3(1383)年12月24日の平満胤文書
●明徳5(1394)年6月29日の平満胤文書
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千田胤泰 (????-1438)
千田氏八代。千葉胤満の子。通称は三郎太郎。「胤安」とも。法名は道泰か。
八日市場市の円静寺に残る応永26(1419)年2月の板本尊には「□胤、胤貞、胤泰、胤継、胤氏、義胤、通胤、胤満、胤泰」と書かれている。この板本尊は父の胤満とともに、先祖と自らの冥福を祈るために円静寺に奉納したものであろう。
多古町の妙光寺(多古町南中)の応永33(1426)年9月17日の板碑には、「平胤貞霊位」「平胤継霊位」「平胤氏霊位」「平義胤霊位」「平胤清霊位」「平胤満霊位」とあることから、このときすでに父の千田胤満は没していることがわかり、奉納したのは胤泰なのだろう。
『本土寺過去帳』の「九日」中段に「多古殿道泰 永享十年 五月」とあり、これが胤泰のことと思われる。
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千田胤幸 (????-????)
千田氏九代。千葉胤泰の子。通称は三郎。
具体的な事柄は伝わらない。父・千田胤泰が永享10(1438)年5月9日に没したと思われ、そのころ胤幸が家督を継承したと思われるが、亨徳3(1454)年3月20日、一族の馬加陸奥守入道と重臣の原胤房の軍勢に攻められた千葉介胤直入道・千葉介胤宣・千葉中務胤賢入道らが千田庄多古村へ逃れ、千葉介胤宣は多古城へ、胤直入道・胤賢入道は志摩城へ入った。
この千葉介と馬加氏・原氏の戦いに千田氏の名が出てきておらず、どのように関わっていたか不明。ただし、この戦いののちに、
(1)これまで千田氏が妙光寺に寄進してきた石碑が納められなくなっていること
(2)千田氏の伝えが消えていること
(3)子孫と思われる千田中務大輔は八幡庄曾谷郷(市川市曾谷)に住んでいたこと
などの点から、千田氏は千葉宗家に従って原氏と合戦に及び、千葉実胤・自胤(千葉介胤直入道の甥)らが千田庄から八幡庄市川城に逃れた際に従い、そのまま八幡庄に土着していったのかもしれない。
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千田胤仲 (????-????)
千田氏十代。千田三郎胤幸の子。通称は中務丞。法名は常仲。
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千田胤範 (????-????)
千田氏十一代。千田中務丞胤仲の子。法名は道範。
トップページ > 千田千葉氏(多古千田氏) > 千田胤親
千田胤親 (????-????)
千田氏十二代。千田胤範の子。通称は喜兵衛。
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千田胤嗣 (????-1589?)
千田氏十三代。千田喜兵衛胤親の子。法名は日嗣(『千葉大系図』)、日保? 通称は中務(中務太輔)か。
天正9(1581)年正月19日、「千葉中務太輔」は古河公方・足利義氏に対して年頭の挨拶を申し上げ、太刀と白鳥を進上した。古河公方家からは太刀が遣わされた。おそらくこの「千葉中務太輔」は胤嗣のことであろう。
年未詳ながら、某年10月28日と12月の2回にわたり、古河公方・足利義氏が「千葉中務太輔殿」に発給した官途状案が遺されている(『官途状案』1・『官途状案』2)。『官途状案』2の宛名「千葉中務太輔殿」の上部に、注として「今之千田事」とあることから、この「千葉中務太輔」は千田氏のことと考えられる。また、同日と思われるが、胤嗣の嫡子と思われる「千田之息 千葉又太郎殿」が古河公方より元服の祝辞を述べ られている(『義氏書状案』)。『本土寺過去帳』の十四日上段に「日昌 乙酉年十月 千田又太郎」とあることから、おそらく「乙酉年=1585年」に「千葉又太郎」は亡くなったと推測される。
「日保尊位 曾谷千田中務大輔 天正十七己丑四月」という項目が『本土寺過去帳』の二十七日上段に記されており、小田原城で豊臣家への警戒を強めていた天正17(1589)年4月27日に亡くなった。このころの千田氏は八幡庄曾谷郷(市川市曾谷)に移り住んでいたことがうかがえる。
慶長11(1606)年9月13日『中山法華経寺護代帳』には、曾谷の「千田善六」とその「妹」が梅本坊分の「護代」であったことが見えるが、千田善六と妹が千田千葉氏とどのような関係にあったのかはわからない。また、彼らのあとに見える「帯刀内方」は「日保ノ孫」であり、彼女はこの「曾谷千田中務大輔」の孫であったのかもしれない。
千田某
∥
∥――――千田中務太輔―+―千田又太郎
∥ (日保) |(日昌)
∥ |
∥ +―(?)千田善六(=善左衛門胤保?)
∥ |
妙教善尼 +―(?)祐忍禅尼――――――――娘
∥
■■帯刀(中相馬在)
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千田胤保 (????-????)
千田氏十四代。犬山千田氏初代。千田中務胤嗣の子。通称は善左衛門。法名は常閑。犬山藩家老職(『家中之者由緒書』)。
成瀬正成の伝記によれば、胤保は「千田善左衛門胤保 初北条家の臣中務胤嗣が男、後千葉に復す」(『成瀬正成公伝』)とある。また、「千田善左衛門胤保 初北条ノ臣中務千葉胤嗣カ男 犬山ノ城代トス」(『成瀬氏世譜国字伝巻第二』)ともある。
●『正成公御記』
慶長11(1606)年9月13日『中山法華経寺護代帳』には、曾谷の「千田善六」とその「妹」が梅本坊分の「護代」であったことが見えるが、千田善六が千田千葉氏とどのような関係にあったのかは不明。ただ、「千田中務大輔(日保)」が曾谷にいたことは『本土寺過去帳』に見えるため、この千田善六が千田中務太輔と近い血縁にあったことも推測できる。
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犬山城天守と旧松ノ丸 |
天正18(1590)年、徳川家康が関東に入部すると、その側近だった成瀬小吉正成は下総国栗原郷(船橋市西船)を中心に四千石を与えられて入部した。千田胤保は慶長4(1598)年に正成に召し出された。浪人していた胤保は、「心差義(仕官する志か)」があって上洛するつもりのところ、彼の噂を聞いた正成が召し出した。このとき正成は「其方呼寄申義、権現様御内意有之候て之義ニ候間、左様奉存候之様ニ」と言っており、家康が以前から胤保の存在を知っていた様子がうかがえる。その後も家康は正成に胤保のことを幾度も尋ねている(『家中之者由緒』)。
慶長15(1610)年、胤保は犬山城代を拝命し、知行三百石を下され、足軽二十一人を率いたという。ただ、慶長15(1610)年は成瀬正成が家康の九男・徳川義利の守役(御付家老)となった年で、正成が犬山城主となるのは、さらに後年の元和3(1617)年のことで、正成は犬山城主に命じられたとき、歳が若いからと断ろうとしたが、家康は「何者を差置候」と一蹴している(『成瀬氏世譜国字伝巻第二』)。
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千田千葉家の屋敷跡(奥の一角) |
胤保は「三光寺屋鋪」を屋敷として下し置かれ、正成が犬山在城のときには三光寺屋鋪を本邸とし、正成が城を空けているときには、妻子ともに城中南郭、松之丸御殿に常駐して城を守るように命じられた。また、菩提寺は中山法華経寺の末寺に定めている。
大坂の陣においては、正成に供奉して活躍。大坂落城のときにはいち早く城内に駆け入り、家康の上聞に達したという。
寛永13(1636)年、「成瀬隼人正代」として田村舟頭町に諸役御免状を発給した「千田善左衛門、都築市左衛門」の名が見える。
その後、正成の子で二代城主・成瀬隼人正正虎の代まで七十年、犬山城代としては五十年もの長きにわたって成瀬家に尽くし、明暦3(1657)年隠居願いを提出。隠居後も二百石の知行と屋敷を下し置かれ、十年余りののち亡くなった。
江戸時代中期に千田家は「千葉」に名を復し、代々犬山藩家老職を務めていく。
●参考文献:『家中之者由緒書』犬山白帝文庫蔵
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千田九兵衛 (????-????)
千田氏十五代。犬山千田氏二代。千田善左衛門胤保の嫡男。実名は不明。
明暦3(1657)年、父の隠居に伴って家督を相続し、役儀・足軽などを受け継ぎ、万治2(1659)年4月15日には、犬山湊の豪商・神戸家内の訴えを取り次いでいる。その後、病のため知行返上を申し出て、絶家となる。
次弟の千田十内は小姓として召し出されたが、こちらも病のため隠居。その嫡子・千田勘兵衛が三代城主・成瀬隼人正正親の小姓として召し出され、その後は御広間役に抜擢されたが、御暇下されており、何かの懲戒があったものと思われる。
三弟・千田善左衛門は寛文2(1662)年に百石で召し出され、さらに寛文7(1667)年には三代城主・成瀬隼人正正親の小姓頭役となっており、善左衛門家が幕末まで犬山成瀬家の重臣として続いていく。
●犬山成瀬家家老・千田千葉家系譜
千田胤保―+―千田九兵衛
(善左衛門)|
+―千田十内――――千田勘兵衛
|
+―千田善左衛門――千田胤清―…千葉善左衛門―千葉胤次―…―千葉将胤―――千葉胤根――千葉胤虎――千葉眞青
(善左衛門) (善左衛門) (善左衛門?)(善左衛門)(善左衛門)
●参考文献:『家中之者由緒書』犬山白帝文庫蔵
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千田善左衛門 (????-????)
千田氏十六代。犬山千田氏三代。千田善左衛門胤保の三男。実名は不明。
寛文2(1662)年、犬山二代城主・成瀬隼人正正虎の代に召し出され、百石を下された。その後、程なくして三代城主・成瀬隼人正正親に仕えた。
寛文7(1667)年、小姓頭役を仰せ付けられて百五十石加増され、延宝4(1676)年に家老職に就任。足軽二十一人を預けられ、百五十石加増された。このとき都合四百石を知行することとなり、三万五千石に過ぎない犬山領においては超大身の家柄であった。
天和2(1682)年11月28日、河田ケ窪より出火した火災は、その後延焼し、尾張藩市谷藩邸の御長屋まで類焼したことから、千代姫君(徳川家光娘、徳川光友正室)が外山藩邸に移った際、犬山城主・成瀬正親がこれに供奉した。ただ、このとき姫に随う女中守護人が少なかったことから、正親は善左衛門に彼女たちの守衛を命じている。このとき善左衛門は正親に随って江戸にいたことがわかる。
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千葉善左衛門が寛文年中に建立した妙見宮 |
元禄4(1691)年9月15日夕刻、名古屋藩祖徳川義直の「御尊母」である「相応院殿」の「五十年忌」の「相応院殿御法事」の最中、「閭巷大に騒侍」という事件が発生する。相応寺方面で「炎光乾方に騰り、火煙隠星河」という。これは「千田善左衛門相応寺上ノ町北かわ、成瀬隼人正陪臣也の厩焼たり」(「鸚鵡籠中記1」『名古屋叢書』続編第9巻 名古屋市教育委員会編)という。千田善左衛門は名古屋城下にも屋敷及び厩を持っていた様子がうかがえる。善左衛門はこの事件を成瀬正親に伝えるべく、二宮弥四郎を江戸へ向けて発遣したが、二宮弥四郎は「二川にて隼人正に追付」き、「善左衛門閉門」となる。その後、12月2日に「千田善左衛門、逼塞後免許」されたが、翌元禄5(1692)年、嫡男の善左衛門が千田家知行中から二百五十石を下し置かれて御側役とされており、このころ隠居したと思われる。法名は入香。
千田千葉氏は寛文年中に犬山城下に妙見宮を寄進しており、寄進した人物は時期からして三代千田善左衛門とみられる。千田千葉氏は千葉介常胤の「甲の前指」を妙見と崇めていたとされるが、この妙見宮には初め木造の妙見菩薩が祀られ、一翁山妙感寺の開山・日栄上人が鎮座の開眼師を務めた。
元文4(1739)年冬の火災によって隣接する寺が燃えるが、妙見堂は恙なく保たれた。しかし天明年中の火災では妙見菩薩像とともに焼失。再建されたのちは、長さ三寸の宝剣が神体とされる様になった。
●参考文献:『家中之者由緒書』犬山白帝文庫蔵
『犬山市史』犬山市史編さん委員会
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千田胤清 (????-1740)
千田氏十七代。犬山千田氏四代。千田善左衛門の嫡子。通称は善左衛門。
元禄5(1692)年、父・善左衛門知行中から二百五十石を下し置かれて御側役となり、宝永2(1705)年7月、御小姓頭役を仰せ付けられたが、正徳2(1712)年10月、病のため御小姓頭役の辞任を願い出て認められた。
その後、再出仕し、享保5(1720)年2月、御家老役を仰せ付けられ、五十石の加増と足軽二十人の寄親となる。翌享保6(1721)年4月、明組之内御足軽五人を増やされ、都合で二十五人の足軽を預かる。7月には百石が加増されているが、足軽五人の養分ということか。
元文5(1740)年7月27日に亡くなった。法号は常種院本耀日受居士。
●参考文献:『家中之者由緒書』犬山白帝文庫蔵
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千葉胤次 (????-????)
犬山千田氏当主。通称は善左衛門尉。
菩提寺には千葉善左衛門尉胤次による「法昌院殿常玄日種」の供養碑が遺されている。常玄日種の実名は不明だが、おそらく先代の千葉善左衛門だろう。
●参考文献:千葉善左衛門尉胤次敬白供養碑文
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千葉将胤 (????-1848)
犬山千田氏当主。通称は善左衛門か。号は静遊。
嘉永元(1848)年5月25日に亡くなった。法名は善種院静遊日香居士。
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千葉胤根 (????-1848)
犬山千田家当主。父は千葉静遊将胤か。尾張名古屋藩付家老成瀬家家老。成瀬隼人正正典、正寿、正住の三代にわたり成瀬家に仕えた重臣。
天保9(1840)年10月27日に亡くなった七代犬山城主・成瀬正寿の跡を継いだ成瀬正住は、天保10(1841)年5月に犬山から江戸の正住のもとに奔った家臣・村木仙五右衛門の言上を聞いて家政取締りの不備を知り、領内財政不如意の折柄、家政改革の断行を決意。7月、病気療養と家政取締りを理由として犬山への帰国を幕府に申請して認められ、8月2日に江戸を経って8月13日に犬山へ到着した(『成瀬正寿の天保家政改革』篠田壽夫:「研究紀要4」犬山白帝文庫)。村木は江戸へ赴くにあたり、家老の許可を得られなかったことから無許可のまま江戸へ走っており、7月23日、正住は村木を隠居処分とした(ただし、事実上形式だけの処罰であった様子)。この一連の騒動につき、9月4日、家老の千田善左衛門は賞罰人事を発令するも、正住は古格派重役の退任を暗に示唆した。
10月27日の先代成瀬正寿(舜徳院殿)の一周忌法要が営まれた際、家老として列しているが(『成瀬正寿の天保家政改革』篠田壽夫:「研究紀要4」犬山白帝文庫)、直後の12月5日、水野藤兵衛、神尾源六郎とともに家老職を罷免される。しかし、彼らは名古屋本藩に伝手を求め、尾張藩主徳川斉荘の内命を得ることに成功。天保12(1841)年閏正月26日、斉荘の内命により善左衛門ら罷免されていた重役達は謹慎が解かれ、2月22日には、古格派重役から正住に対して「古来の御仕来の家政を続けられ、家老どもへ全て任せられるよう」にとする訴状が提出されるに至った。
これに対し、正住も謹慎は解いたものの出殿差控の処分を下し、事実上の謹慎処分を続けた。しかし、古格派重役は尾張藩重臣の「御同姓様」こと成瀬三家に訴え出てこの処分をも解除させ、2月12日、善左衛門は出殿差控の処分が解かれることとなる。
このような古格重臣たちの尾張藩家中を通じての行動に、ついに正住は「御用召」を行うことを決意したようで、11月晦日にはその噂が名古屋の古格派の重臣たちの間に流れた。慌てた重臣たちは「御同姓様」のひとり、成瀬豊前の屋敷に泣きついた。この報告を受けた成瀬豊前は藩御年寄の渡辺半蔵寧綱に相談し、成瀬豊前より正住に古格派重臣たちの処断を中止するよう説得が行われ、正住もこれを受け容れる形となった。しかし、正住もこのままで終わらせるつもりはなく、重臣たちには隠居や謹慎、知行召上などの厳罰を下す。善左衛門も隠居・急度慎が命じられた。
しかし、尾張藩側もこうした付家老成瀬家の内紛の収束を願っており、天保13(1842)年3月、尾張藩主・徳川斉荘は「御同姓様」に対して、処分を下された古格派を主家・成瀬正住に協力させるよう命じる御内書を下し、これを受けて正住も御内書を古格派連に披見させ、請書を取った。この結果、処分を受けた古格派はそれぞれ御免となり、善左衛門も隠居・謹慎を免じられたと思われる。
弘化5(1848)年正月11日、善左衛門は家老本役に復帰し、五十石が加増され、家政に加わることとなり、嘉永元(1848)年5月18日の犬山城竣工(天保13年の火災の復興)に際しては、城代として成瀬金兵衛とともに棟上を行い、祝儀を言上、御酒を賜った。しかしそのわずか八日後の5月26日に亡くなった。法名は善根院種脱日悟居士。
●参考文献:『成瀬正寿の天保家政改革』篠田壽夫(「研究紀要4」犬山白帝文庫)
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千葉胤虎(1828-1907)
幕末の犬山成瀬家家老。父は千田(千葉)善左衛門胤根。通称は慶五郎、善左衛門。維新後は猛と改めた。犬山藩公議人。
文政11(1828)年2月8日、犬山に生まれた(『愛知県勤王家伝』)。
天保14(1843)年11月21日から23日まで尾張藩主・徳川大納言斉荘が犬山城を訪れた。このとき、家中を挙げての接待となったが、馬場藤右衛門、成瀬金兵衛、水野瀬兵衛、小池奥右衛門、千田善左衛門の五人の重役が、縁側へ召されて披露を受けた。この善左衛門は胤虎の父と思われ、さらにその後、十四名の藩士が縁側へ列したが、その中に千田慶五郎が見える。
嘉永元(1848)年、番頭へ昇進。嘉永5(1852)年のペリー来航時には、江戸の主君・成瀬隼人正正肥に召されて江戸へ上った。そして、安政2(1855)年、犬山成瀬家の執政となる。成瀬正肥の母は千葉氏(千葉茂。映松院殿景福寿昌大姉。明治9年6月8日卒)だが、彼女は丹波国篠山藩主・青山忠良の側室であるため、犬山千葉家とはおそらく関わりはないだろう。
千葉某――千葉茂 +―青山忠敏
(映松院殿) |(左京大夫)
∥ |
∥―――――+―成瀬正肥
青山忠良 (隼人正)
(下野守) ∥
∥
成瀬正住――――女
(隼人正)
安政3(1856)年6月4日、城主・成瀬正肥が行った甲冑調練に、家中を取り締まる武者奉行として出陣した。旗指物は上部に日月紋を染め出した裾黒段(黒ガンギ)、箙を背負い、弓持一名、鉄砲持一名、槍持一名という体裁であった。
万延元(1860)年の『惣帳』によれば「御家老 三百石 千葉善左衛門」とある。
慶応元(1865)年の征長の役に際しては、「御家老千葉善左衛門、小池奥左衛門、高田治右衛門」らが城主・成瀬正肥の乗船・観光丸に同乗して出兵している。
慶応2(1866)年当時、犬山城下の学校「敬道館」の「惣裁」として「千葉善左衛門」が見える(『敬道館惣帳』慶応二年調寅四月廿二日改:『犬山こぼれ話』所収)。
明治2(1869)年、これまでの功績に対し、尾張老公・徳川慶勝より短刀を賜った。その後、犬山藩権大参事に選ばれた四人の筆頭として、千葉猛の名が見える。他の権大参事は小池雅人、本多彦三郎、吉田秀の各氏(『藩制一覧』)。また、明治政府の御親兵として徴集(一万石につき三人)された犬山藩士の筆頭として、胤虎の嫡子「千葉眞青 十八歳」が見える(『犬山市資料 第3集』犬山市教育委員会、犬山市史編さん委員会編)。
明治3(1870)年12月、吉田秀に代わって犬山藩より公議人に任命され、東京へ出府するが、翌明治4(1871)年11月、辞官する(『愛知県勤王家伝』)。
明治33(1900)年、成瀬子爵家(旧犬山藩主家)の家令となり、明治39(1906)年に辞任。翌明治40(1907)年1月20日に亡くなった。享年八十(『愛知県勤王家伝』)。法名は善行院顕翁日慶居士。
胤虎嫡子・千葉眞青は、犬山城東の妙感寺近く(犬山市犬山)、手島薮の南に屋敷を構えている。妙感寺周辺から犬山城にかけては小池雅人、本多雪堂、水野要人、大竹昇、飯田一馬、福島湊、成瀬猛虎、高田大次郎ら犬山藩重臣の屋敷が並んでいる。明治12(1879)年5月20日現在で武儀郡書記に奉職している(「岐阜県職員」『明治期岐阜県職員録 その1』岐阜県郷土資料研究協議会)。
妹(かな子)は刈谷藩執政の黒田浜右衛門昌福の正妻となり、のちの刈谷の教育者・黒田銕之丞定衞を生んだ(「黒田先生の事歴」『亀城同窓会雑誌 黒田先生記念号』亀城同窓会)。銕之丞誕生時、刈谷藩土井家は佐幕派と勤王党で割れており、慶応4(1868)年2月8日、名古屋に出張して名古屋藩の勤王意向を請け、刈谷藩もまた勤王となることを表明した刈谷藩執政・多米新左衛門は帰国し、銕之丞父の黒田浜右衛門と津田新十郎ら家老職や諸職とともに藩侯利教と評定を行い、藩論を勤王と決定する。ただし、評定が夜半に及んだことから一旦解散となり、黒田浜右衛門は多米新左衛門、津田新十郎とともに大手門を出たところ、評定治定を知らない勤王急進派の倉田珪太郎宗之を筆頭に、石川良造、日高浩蔵、伊藤捨男、市川勝三郎、岡嶋斧吉、服部政之丞、天野銈吾、杉浦鎌市、毛受清兵衛、山田録之丞、酒井倉七、内藤九左衛門、鈴木鉈吉、河目源吾、市川宗平、福代鉞太郎、鈴木隆次郎の十八名の勤王党藩士・脱藩士に襲われ、同職二名とともに暗殺された。これにより黒田家は改易され、銕之丞は犬山の伯父千葉善左衛門(胤虎)へ預けられることになった(『刈谷町誌』)。善左衛門は銕之丞をみずからが「惣裁」を務めている(または務めていた)藩校敬道館に入学させて、約三年にわたって学ばせている。
●参考文献
『成瀬正寿の天保家政改革』篠田壽夫(「研究紀要4」犬山白帝文庫)
『犬山市史』
●『本土寺過去帳』に記されている千田氏
年月 | 過去帳の名前 | 俗名について | 関係 | 足利義氏書状 |
天文13(1544)年4月4日 | 妙教善尼 千田殿御老母 | 曾谷千田中務太輔の母か | ||
天正13(1585)年10月14日 | 千田又太郎 日昌 | 千田又太郎 | 千田又太郎殿の元服祝儀 | |
天正17(1589)年4月27日 | 曾谷千田中務太輔 日保 | 千田中務太輔 | 千田中務太輔殿の官途状 | |
某 年10月10日 | 祐妙 千田殿御内 | |||
某 年12月19日 | 妙金尼 千田殿息女 | |||
某 年11月24日 | 千田大隅守 道信 | 千田大隅守 |
●慶長11(1606)年9月13日『中山法華経寺護代帳』(中山法華経寺文書)
●『本土寺過去帳』や書状、石碑、系譜、法名に見る千田氏
名前 | 妙光寺板碑 | 円静寺板碑 | 応安5(1372)年 | 永徳2(1382)年 | 応永13(1406)年 | 本土寺過去帳 | 足利義氏書状 |
千葉宗胤 | □胤 | ||||||
千葉大隅守胤貞 | 平胤貞 | 胤貞 | |||||
千葉刑部大輔胤泰 | 胤泰 | ||||||
千田大隅守胤継 | 平胤継 | 胤継 | |||||
千田胤氏 | 平胤氏 | 胤氏 | |||||
千田義胤 | 平義胤 | 義胤 | 義胤 | ||||
千田胤清 | 平胤清 | 平 胤清 | |||||
千田通胤 | 通胤 | 千田道胤 | |||||
千田胤満 | 平胤満 | 胤満 | |||||
千田胤泰 | 胤泰 | 多古殿道泰 (????-1438) |
|||||
千田三郎胤幸 | |||||||
千田中務丞胤仲 | 常仲 | ||||||
千田胤範 | 道範 | ||||||
千田喜兵衛胤親 | |||||||
千田胤嗣 | 日嗣 | ||||||
… | |||||||
千田殿御老母 | 妙教善尼 (????-1544) |
||||||
曾谷千田中務大輔 | 日保尊位 (????-1589) |
千田中務太輔 | |||||
千田又太郎 | 日昌 (????-1585) |
千田又太郎 |
◆某年10月28日『足利義氏官途状案』
◆某年12月『足利義氏官途状案』
◆某年12月『足利義氏書状案』
■参考文献■
『本土寺過去帳』
『成瀬正成公伝』犬山白帝文庫
『成瀬氏世譜国字伝巻第二』犬山白帝文庫
『成瀬正寿の天保家政改革』篠田壽夫:「研究紀要4」犬山白帝文庫
『藩制一覧』
『家中之者由緒書』犬山白帝文庫