下総平氏 海上氏(常衡流)

海上氏

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海上氏

 海上(うなかみ)氏は千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を祖とする千葉一族である。平安時代から室町時代を通じて下総国海上庄を中心に繁栄し、東総地方の旗頭となった。

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3.千葉介常胤流海上氏

香取海の図
中世香取海と交易港(は港)

 東庄、三崎庄(香取郡東庄町、銚子市、旭市の一部)などの地頭職を受け継いだ千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼は、水運の便のよい椿海(千葉県旭市)に隣接する桜井(旭市桜井)に屋敷を構えたという。

 胤頼の嫡男・東太郎兵衛尉重胤は海上郡の地頭職を次男・二郎胤方、五男・五郎胤有、七男・七郎胤久にそれぞれ譲り渡したと思われる。

 胤方の孫・海上六郎胤泰は、兄・横根太郎左衛門尉教胤を差し置いて海上惣領家となり、その子・海上筑後守師胤(理性)は応安3(1370)年8月、鎌倉に在府中、名僧・義堂周信と接触している。おそらくそのころから海上氏は鎌倉公方と深く関わりを持ったと思われ、その子・海上八郎公胤(理慶)は鎌倉府奉公衆となった。

 公胤の子・海上筑後守憲胤とその子・海上信濃守頼胤は鎌倉公方・足利持氏奉公衆として鎌倉府に出仕し、「上杉禅秀の乱」では足利持氏のもと上杉氏憲入道禅秀と戦って武名を挙げる。この時、千葉介満胤は上杉禅秀の娘婿であった関係から禅秀方に属しており、禅秀敗北後、持氏と千葉氏の和解が図られたが、この調停には千葉氏所縁の鎌倉府奉公衆である竜崎氏・島崎氏・木内氏、海上氏らが関わっていたのかもしれない。

 しかし、この後におこった「永享の乱」(足利持氏と上杉憲実の紛争)で持氏は上杉氏に味方した京都の幕府軍に攻められて敗死した。海上憲胤はこの戦いの時点では持氏の奉公衆ではなかったのか持氏に加担した形跡が見られない。さらにその直後の「結城合戦」(結城氏朝と持氏遺児の安王・春王が幕府軍に抵抗)では、憲胤の子・頼胤が結城城攻めの一手を勤めて武名をあげた。

 その後、新たな鎌倉公方となった持氏の遺児・足利成氏は、父・持氏追討に加担した頼胤入道の所領であった下野国天命を没収し、奉公衆の印東下野守に与えている。この印東下野守の具体的な活躍は不明だが、持氏とともに戦死した印東伊豆守常貞入道の子であろうか? なお、印東氏も千葉氏と同族関係にあり、江戸期に下野喜連川へ移った足利氏(喜連川氏)の重臣として幕末にいたる。家紋は六曜を用いた。

 その後の海上氏は千葉宗家と密接な関わりを持ちながら東総を治め、室町時代後期には千葉介昌胤の子・胤富が養子として下総国香取郡森山城(香取郡小見川町岡飯田)へ入ったという。

 その後、胤富が千葉介として宗家を継ぐことになると、海上蔵人胤保が跡を継承し、天正18(1590)年の小田原合戦で北条氏が滅ぶと同時に海上氏も滅亡したようだ。

海上氏


海上胤方(????-????)

 海上氏初代。東兵衛尉重胤(東所)の次男。母は下河辺左衛門尉行綱娘、または宇都宮左衛門尉朝綱娘。通称は弥次郎。官途は左衛門尉。法名は道胤

 母方の祖父ともされる宇都宮左衛門尉朝綱は、父方の祖父・東六郎大夫胤頼(法阿)と同時期に平家政権のもと上洛しており、その際にすでに面識を持っていた可能性もあろう。源頼朝の挙兵以降、ともに頼朝の御家人として鎌倉に出仕した。ただし、朝綱は胤頼の父・千葉介常胤と同世代の人物であり、世代的に疑問がある。なお、重胤に嫁いだ宇都宮朝綱の娘(圓公院殿清鏡大禅定法尼)は仁治元(1240)年10月2日に没したという。

 一方で、千葉氏と同じく下総国の有力御家人で、千葉介常胤とともに京都守護を務めた経歴を持つ下河辺庄司行平の子・下河辺左衛門尉行綱の娘もまた重胤の妻であったという系譜が下河辺家に伝わっていた。

 下河辺行平―+―下河辺行綱―――+―下河辺幹光
(下河辺庄司)|(左衛門尉)   |(三郎左衛門尉)
       |         |
       +―下河辺朝行   +―幸島行時――――――…
        (小次郎)    |(四郎)
                 |
                 +―下河辺行重
                 |(弥五郎)
                 |
                 +―女子    +―海上胤方
                   ∥     |(次郎)
                   ∥     |
                   ∥―――?―+―東胤行
                   ∥      (六郎)
 千葉介常胤―――東胤頼―――――――東重胤
(千葉介)   (六郎大夫)    (兵衛尉)
                   ∥
                   ∥―――?―――海上胤方
         宇都宮朝綱―――+―女子     (次郎)
        (左衛門尉)   |
                 |
                 +―宇都宮業綱―――宇都宮頼綱―――女子
                  (左衛門尉)  (左衛門尉)   ∥
                                   ∥
                           藤原定家――――藤原為家
                          (権中納言)  (権大納言)

 胤方の具体的な活動は『吾妻鏡』では建長4(1252)年12月17日の将軍宗尊親王の鶴岡八幡宮寺参詣への供奉に「海上次郎胤方」と見えるのみである(『吾妻鏡』建長四年十二月十七日条)

 一方、弟の海上五郎胤有は、安貞2(1228)年7月23日の将軍・藤原頼経の三浦介義村「田村山庄」への渡御に随兵としてみられ、仁治元(1240)年8月2日、将軍頼経の二所詣の先陣随兵十二騎の一人となる。仁治4(1243)年7月17日、将軍家の「臨時御出供奉人」が決められた際には、下旬の供奉人となった。寛元2(1244)年8月15日の鶴岡八幡宮時放生会にも供奉している(『吾妻鏡』)

 このように胤有の御家人役は『吾妻鏡』に頻出するが、胤方については、前述の建長4(1252)年12月17日の鶴岡八幡宮寺参詣の供奉のみである(『吾妻鏡』建長四年十二月十七日条)。なおこの供奉には子の「海上弥次郎胤景」も加わり、その後は胤景が御家人役を果たしていることから、胤方は何らかの理由によって海上庄に常住し、弟の胤有が惣領代として鎌倉に出仕していた可能性があろう。

 仁治4(1243)年2月2日、「平胤方」は、親族と思われる「平行正」「平氏播磨」「平直忠」とともに常世田常燈寺に薬師如来像を寄進した。その胎内銘の「平胤方芳■藤原女」は、胤方とその妻か。

 建長4(1252)年2月5日、胤方は「悲母禅尼」のために等覚寺「如法経(法華経か)」を収めた金銅経筒を埋めており、その銘に「施主平胤方」とある。


海上胤景(????-????)

 海上弥次郎左衛門尉胤方の嫡子。通称は弥次郎。官途は左衛門尉香取郡阿玉郷を領し、阿玉氏の祖となった。

 貞応2(1223)年、妙幢院(東庄町鹿野戸)を開基したと伝えられている。

 建長4(1252)年7月8日、将軍・宗尊親王の方違えに供奉し、飛鳥井右兵衛督教定の泉谷邸に移った(『吾妻鏡』建長四年七月八日条)。飛鳥井教定は飛鳥井美作権守雅経の子で、秋田城介景盛の妻(城尼)のきょうだいとなる。その縁で鎌倉に招かれていて、御所の北方に屋敷を構えていた。その方違えの宗尊親王御出の際に「御剣役人」として「海上弥次郎胤景」が見える。

●建長4(1252)年7月8日の将軍方違えの供奉

御輿 宗尊親王      
御剣役人 北条相模右近大夫将監時定 結城上野十郎朝村 加藤三郎景経 武藤七郎兼頼
武田五郎七郎政平 伊賀式部兵衛太郎光政 南部又太郎時実 島津豊後三郎左衛門尉忠時
土肥四郎実綱 大泉九郎長氏 海上弥次郎胤景  
御輿御後 土御門宰相中将顕方卿 飛鳥井右兵衛督教定朝臣    
御輿御後 北条陸奥掃部助実時 安達城九郎泰盛    
御輿御後 北条遠江守時直 足利太郎家氏 北条陸奥弥四郎時茂 小山前出羽守長村
大蔵権少輔朝広 二階堂前和泉守行方 佐々木前壱岐守泰綱 足利前参河守頼氏
宇都宮前越中守頼業 二階堂前伊勢守行綱 三浦遠江六郎左衛門尉時連 武藤左衛門尉景頼
大曽弥左衛門尉長泰      
女房輿 東御方 一條局 別当局  

 11月11日、将軍・宗尊親王が新御所に移った際の供奉人に「海上弥次郎胤景」が見える(『吾妻鏡』建長四年十一月十一日条)。12月17日、宗尊親王のはじめての鶴岡八幡宮参詣では、父の「海上次郎胤方」とともに宗尊親王供奉人として「海上弥次郎胤景」が見える(『吾妻鏡』建長四年十二月十七日条)

 建長5(1253)年1月16日、来る21日の鶴岡八幡宮参詣の前の宗尊親王の御禊に供奉し(『吾妻鏡』建長五年正月十六日条)、8月15日の放生会にも名を見せている(『吾妻鏡』建長五年八月十五日条)。弘長3(1263)年8月9日、将軍上洛の随兵にも選ばれた(『吾妻鏡』弘長三年八月九日条)

 この数年後を以て『吾妻鏡』は途切れることから、胤景の引退時期等は不明である。


海上胤泰(????-????)

 海上次郎左衛門尉胤景の嫡男。通称は孫六郎。官途は左衛門尉。兄・横根太郎左衛門尉教胤を差し置いて海上惣領となった。娘は佐竹常陸介貞義に嫁いだ。

 海上胤景―――+―横根教胤―――+―海上胤忠――――海上胤顕――――海上胤広―――――海上胤幹
(次郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)|        (常陸介)   (常陸六郎)   (弥七)
        |        |
        |        +―長谷胤貞――――海上左衛門次郎
        |         (左衛門太郎)
        |
        +―海上胤泰―――+―海上師胤――――海上公胤
         (次郎左衛門尉)|(筑後守)   (八郎)
                 |
                 +―娘
                   ∥
                   佐竹貞義
                  (常陸介)


海上師胤(????-????)

 海上左衛門尉胤泰の嫡子。官途は筑後守。法名は理性

 建武2(1335)年7月、最後の得宗・北条高時入道崇鑑の二男・北条次郎時行が信濃国で挙兵して率いた「中先代軍」は、瞬く間に武蔵国府で小山下野守秀朝を討ち、岩松兵部大輔経家、今川次郎範満らを蹴散らすと、7月23日には足利直義率いる鎌倉勢を武蔵国井出沢(町田市本町田)にて壊滅させた。直義は這う這うの体で逃れていく。

 中先代軍は翌7月24日に鎌倉へ入るが、この中先代軍の中には千葉一族として「千葉二郎左衛門尉(神崎二郎左衛門尉胤朝か)」「大須賀四郎左衛門尉(大須賀四郎左衛門尉宗常か)」ととも師胤の名がみえ、鎌倉末にはおそらく北條家の御内人となっていた可能性が高い。しかし、翌8月に鎌倉へ攻め下った足利尊氏の軍勢と駿河国清見関で合戦して敗れ、師胤は千葉二郎左衛門尉や大菅四郎左衛門尉等の一族とともに足利家に降服している(『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)


海上公胤(????-????)

 海上筑後守師胤の嫡男。通称は八郎。入道して八郎入道。法名は理慶

  延文3(1358)年12月から翌年5月までの間に円覚寺の大般若経の開版事業へ出資し、版木を寄進した人物名として「沙弥理慶」が見える(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)。彼に並んで「東遠江孫次郎平胤氏」「沙弥契道(国分胤氏)」が見られる。

 康安2(1362)年10月19日、飯沼観音堂(現・飯沼山圓福寺か)に合計三段の田地を寄進した康安2年10月19日『沙弥理慶寄進状』

 貞治4(1365)年12月26日、国分遠江守(胤氏か?)に宛てられた『鎌倉府下知状』によれば、「下総国東庄上代郷内土持、河嶋、原井渡野辺源内兵衛入道等跡香取郡東庄町窪谷野周辺」について、金沢称名寺雑掌・円爾の訴えが鎌倉府にもたらされた貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』。その内容は、下総国東庄上代郷内の称名寺領の土地が「東弥六(東胤義)」「海上八郎入道」によって押領されていることにつき、「大須賀越後守(大須賀宗信)」とともに「使節」として、観応元(1350)年5月19日の御下知・奉書・渡状の書面内容の通り、厳密に沙汰すべきことを命じた。この地は上代東氏の旧領であり、東弥六胤義の父・東六郎盛義の代に収公され、称名寺に与えられた土地だった。ここには海上公胤入道の所領もあったのかもしれない貞治4(1365)年12月26日『鎌倉府下知状』

 応安7(1374)年9月27日、鎌倉府より「海上筑後八郎入道」ら香取海の津を支配する千葉一族は「下総国津宮津他、浦々海夫」につき、奉行人である山名兵庫大夫入道智兼・安富大蔵入道道轍の名で催促を命じられている応安7年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』、公胤の所領としては、「かき祢の津(銚子市垣根町)、野志りの津(銚子市野尻町)、志不可わの津(銚子市内)が見える『香取社海夫注文』。公胤は津を支配し、そこから上がる関銭も収入源としていたのだろう。

 明徳元(1390)年7月4日、「理慶」「下総国三崎庄本庄郷三崎村」の田地合計、壱町七段六十歩を飯沼山圓福寺に寺領を寄進している明徳元年7月4日『沙弥理慶寄進状』。「坪付有別紙」とあるが、その別紙は伝わっていない。また、某年5月25日の「飯沼殿」宛ての寄進状添書も残されているが、何についての書状かは、断片のみの現存のため不明である某年5月25日『沙弥理慶寄進状添書』

 文安3(1446)年4月13日、千葉介胤将は「大蔵卿法印御房」へ宛てて、圓福寺別当職と寺領につき、永享7(1435)年3月27日の覚胤法印の自筆譲状などの通り認めた。その中で、「諸公事等」については「海上理慶禅門」の定めた掟を守ることを命じた文安3(1446)年4月13日『千葉介胤将寺領安堵状』。圓福寺は公胤が定めた掟を、公胤の死後数十年間奉っていたことがうかがえ、下総守護たる千葉介胤将もこれを公に認めている。公胤は東氏の分流という海上氏の力を大きく伸ばした当主なのかもしれない。

■千葉介竹壽丸後見人(一族)■

名前 法名 実名
粟飯原彈正左衛門   粟飯原彈正左衛門尉詮胤
大隅次郎   千田義胤?  大隈守の二男をあらわす。木内下総介胤康の義弟。
相馬上野次郎   相馬左衛門尉胤長
大須賀左馬助   大須賀左馬助憲宗
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
東次郎左衛門尉入道 沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀
木内七郎兵衛入道    
国分六郎兵衛入道   国分小六郎胤任?
国分与一   国分与一氏胤?
国分越前五郎   国分越前五郎時常
神崎左衛門五郎   神崎左衛門五郎秀尚(文和3年:1354の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?)
那智左衛門蔵人入道   ?(下総町の那智山に関係した大須賀・神崎・木内一族か?)

■千葉介竹壽丸後見人(『千葉大系図』)■

名前 実名
円城寺式部丞 円城寺政氏。=図書丞氏政?応安7(1374)年5月27日、安富道轍の注進状に「満胤代官」として見える。
円城寺駿河守  
鏑木十郎  
多田平四郎 香取郡多田村の千葉一族。
中村式部丞 中村胤幹。香取神領地頭代。中村弥六入道生阿(聖阿)の子で満胤の寵臣。
深志中務丞 応安7(1374)年5月27日、安富道轍の注進状に「満胤代官」として見える。
内山中務丞 常陸国人か。
行方平四郎 常陸国人か。
麻生淡路守 常陸国人か。
島崎大炊助 常陸国人か。
龍崎尾張守 常陸国人か。
高城越前守 常陸国人?のちの小金大谷口城主・高城氏との関連もあるか?

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』に記されている一族■

名前 法名 実名
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分与一   国分与一氏胤?
海上筑後八郎入道   海上筑後八郎入道公胤
木内七郎兵衛入道     
東六郎   東胤光? 東亀寿丸?
東次郎左衛門尉入道   東次郎左衛門尉入道胤秀
神崎安芸次郎    
多田左衛門五郎   文和3(1354)年の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?
粟飯原彦次郎    
粟飯原虎王    

■『海夫注文』に見える、各氏族が支配した下総の海夫■

名前 実名 支配した津
飯沼   いひぬまかうやの津(飯沼:銚子市飯沼町)
海上筑後八郎入道 海上公胤入道 かき祢の津(垣根:銚子市垣根町)
野志りの津(野尻:銚子市野尻町)
志不可わの津(塩川:銚子市内)
森戸 森戸胤豊? も里との津(森戸:銚子市森戸町)
篠本    さゝもとの津(篠本:銚子市笹本町)
石出   いしての津(石出:香取郡東庄町石出)
今泉   いまいつミの津(今泉:香取郡東庄町東今泉)
東六郎   さつさ可わの津(笹川:香取郡東庄町笹川)
粟飯原彦次郎 粟飯原基胤の子? おみ可わの津(小見川:香取郡小見川町小見川)
大蔵(安富?)   たとかうやの津(??)
そ者多可の津(側高:香取郡小見川町脇鷹)
ゑちこうちの津(越後内?)
中村三郎左衛門尉   すくゐの津(須保居:佐原市内)
不つ可わの津(布津川?)
内山中務(中沢)   不つ可わの津(布津川?)
よこす可の津(横須賀:佐原市内)
中村式部 中村胤幹 つのミやの津(津宮:佐原市津宮)
さわらの津(佐原:佐原市佐原)
けつさわ   志の原津(篠原:佐原市篠原)
国分与一 国分氏胤? せきとの津(関戸:佐原市佐原イ)
木内 木内七郎兵衛入道 いわ可さきの津(岩ヶ崎:佐原市岩ヶ崎台)
知行人不明   いとにわの津(井土庭:佐原市内)
国分三河入道 国分胤詮 奈可すの津(中洲?)
神崎西■■ 神崎安芸次郎 かうさきの津(神崎:香取郡神崎町神崎本宿?)

●康安2(1362)年10月19日『沙弥理慶寄進状』(『円福寺文書』)

   奉寄進
    飯沼観音堂田地事
    合参段者 坪堀内

  右依有所存限永代所奉寄進也、仍状如件

   康安二年十月十九日   沙弥理慶(花押)

●貞治4(1365)年12月26日 『鎌倉府下知状』(『金沢文庫文書』)

      金沢称名寺雑掌円爾申、下総国東庄上代郷内土持、
    河嶋、原井
渡野辺源内兵衛入道等跡事、

  訴状如此、東弥六、海上八郎入道押領云々太無謂、所詮、大須賀越後守相共莅彼所、
  任観応元年五月十九日御下知并奉書、渡状等之旨、厳密沙汰付下知於寺家雑掌、
  可執進謂取之状。若不承引者載起請之詞可被注申、使節緩怠者可有其咎之状、
  依仰執達如件、

   貞治四年十二月廿六日   沙弥(花押)

     国分遠江守

●明徳元(1390)年7月4日『沙弥理慶寄進状』(『円福寺文書』)

   奉寄附
    下総国三崎庄本庄郷三崎村田地事、合壱町七段六十歩 坪付有別紙

  右為此田地者、不断燈明同香日仏供、法師壱人分衣食共永代所奉寄附也、
  永不可有退転候、仍寄附状如件、

   明徳元年七月四日   理慶(花押)

●某年5月25日『沙弥理慶寄進状添書』(『円福寺文書』)

   ……<前欠失>……
  後々年■可有候、又可有御請取候、自明年は置付にも自作にもさせられ候へく候、
  尚々無懈怠け被仰付候、此状之旨副寄進状、能々可被置候、恐々謹言、

   五月廿五日   理慶

    飯沼殿

●文安3(1446)年4月13日『千葉介胤将寺領安堵状』(『円福寺文書』)

   下総国海上郡三崎庄円福寺別当職并寺領等

  右任去永享七 三 廿七覚胤法印自筆譲状、同八年九月九日御判之旨、為御祈祷所、
  至于末代無尊光院綺、知行不可有相違也、於諸公事等者、守海上理慶禅門掟、
  一切令停止之訖、努々不可有他人之希望也、仍勤行造営等無退転、
  可被致精誠之懇棘之状、如件

   文安三年四月十三日   胤将(花押)

    大蔵卿法印御房

―文書に見える海上氏―

年代 名前 内容など
安貞2(1228)年7月23日 海上五郎
東六郎
森戸系 将軍・藤原頼経の遊覧の供奉。海上五郎胤有と東六郎行胤のこと。胤有は東重胤の五男で、行胤は胤有の甥・行胤(のち船木六郎)。
文暦2(1235)年正月26日 東六郎行胤   庚申会の歌会に参列。東六郎胤行(のち東素暹)の誤字か
延応2(1240)年8月2日 海上五郎 森戸系 将軍・藤原頼経の鶴岡八幡宮参詣の供奉。
仁治4(1243)年2月2日 平胤方
平行正
平氏播磨
平直忠
中島系
不明
不明(女性)
不明
常燈寺薬師像修理銘。「平胤方」は海上胤方のことか。
仁治4(1243)年7月17日 海上五郎
東中務丞
森戸系
東氏嫡流
将軍の供奉。海上五郎胤有。
東重胤の嫡男・東中務丞胤行。胤有の兄にあたる。
寛元2(1244)年8月15日 海上五郎胤有 森戸系 鶴岡八幡宮での放生会に供奉。
建長4(1252)年2月5日 平胤方 中島系 慈母の追善菩提のために等覚寺に経筒を埋める。
建長4(1252)年7月8日 海上弥次郎胤景 中島系 将軍の右兵衛督教定亭への入御の供奉。胤景は胤方の嫡子。
建長4(1252)年11月11日 海上弥次郎胤景 中島系 将軍の新御所御移住に供奉。
建長4(1252)年12月17日 海上次郎胤方
海上弥次郎胤景
中島系 将軍の鶴岡八幡宮御参詣に供奉。
建長5(1253)年正月16日 海上弥次郎胤景 中島系 将軍の鶴岡八幡宮御参詣に供奉。
建長5(1253)年8月15日 海上弥次郎胤景 中島系 鶴岡八幡宮の放生会に供奉。
弘長3(1263)年8月9日 海上弥次郎胤景 中島系 将軍の上洛の随兵。
正和2(1313)年4月25日 亡父左衛門尉盛胤 闕沼東氏 盛胤は海上次郎胤方の子。執権・北条相模守時煕の名によって、「橘庄粟野郷内の田廿町、三崎庄本庄内の田六十町」が「正安元年七月日 連券状」に基づいて盛胤の嫡子・胤世に所領安堵されたと思われる。(『円福寺文書』)
建武元(1334)年 孫犬丸
良胤
本庄殿
辺田殿
高上殿







 
闕沼東氏
 〃
本庄系
辺田系
高上系







 
飯沼寺の別当職とされた。良胤(良円胤世)の子か。
「良胤」は盛胤の子「胤世(良円)」か?
叔父の本庄四郎長胤?
次弟の辺田六郎朝胤?(法名:慶胤)
三弟の高上弥七資胤?(法名:理慶)      

海上胤方―+―本庄盛胤―+―胤世:良胤―高胤==有胤―+―胤俊
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     +―本庄長胤 +―辺田朝胤――胤茂――直胤 +―胤家
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            +―高上資胤――有胤

「本庄殿」「辺田殿」「高上殿」という順序から見て、本庄殿がもっとも上位に位置していたものか?
建武2(1335)年8月 海上筑後前司 中島系 中先代軍(北条時行勢)に属し、京都から鎌倉に下ってきた足利尊氏と駿河清見関の戦いに敗れ、「千葉二郎左衛門尉」「大須賀四郎左衛門尉」とともに降服した。(『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)
康安2(1362)年10月19日 沙弥理慶 中島系 『円福寺文書』。「理慶」は「海上筑後八郎公胤」の法名。
貞治4(1365)年12月26日 海上八郎入道
東弥六
中島系
上代東氏
金沢称名寺領の東庄上代郷に東弥六胤長と海上八郎入道が乱入したので、称名寺は観応元(1350)年5月19日の「御下知并奉書、渡状等」に基づいて大須賀越後守・国分遠江守に対して執行を命じた。使節怠慢であれば咎に処する旨を通達。
応安7(1374)年9月27日 海上筑後八郎入道 中島系 『香取文書』
明徳元(1390)年7月4日 理慶 中島系 『円福寺文書』
  某   年5月25日 理慶 中島系 「飯沼殿」宛ての『理慶書状断簡』(『円福寺文書』)
応永23(1416)年 平憲胤
東左馬助胤家
中島系
闕沼東氏
香取大社末社玉子大明神の社殿修理。
応永23(1416)年4月18日 平憲胤
東左馬助胤家
宏照
秀範
中島系
闕沼東氏
 〃
不明
東大社に対する宮殿新築。神体函銘に記される。「宏照」は「宏」という一字から見て、左馬助胤家の近親と思われる。胤家の法名は「宏郡」。
応永33(1426)年8月 平憲胤
国分三河守
中島系
矢作城主
香取郡大慈恩寺文書亡失のため、鎌倉府の命を受けて現地調査。
永享8(1436)年5月26日 前信濃守頼胤 中島系 鶴岡八幡宮に下野国佐野庄内の所領を寄進。
文安3(1446)年4月13日 「守海上理慶禅門掟」 中島系 円福寺別当職と寺領などについての『千葉介胤将寺領安堵状』
文安3(1446)年 海上殿平胤栄
胤義
胤春
中島系か?
沼闕東氏?
円福寺銅塔に刻まれる。「海上胤栄」は不明だが、「前信濃守頼胤」と同一人物?「胤義」についても詳細不明だが、東左馬助胤家の婿となった「原左馬助胤義」のことか(『続群書類従』)? 子孫は鹿島神社禰宜となったとされる。
明応9(1500)年6月28日 大檀那前和泉守助秀 中島系 海上郡堀内妙見御造営を再興(『藤井家文書』)
大永3(1523)年1月14日 筑後守持秀 中島系 (『円福寺文書』)
大永5(1525)年10月吉日 宗秀 中島系 宮内新四郎の元服についての文書(『下総旧事』)
大永6(1526)年11月8日 海上殿平持秀
東殿勝繁
宮内少輔久繁
蔵人佑■秀
中島系
森山東氏?
 〃
海上氏?
常燈寺棟札(常燈寺蔵)
天文4(1535)1月13日 筑後守持秀 中島系 『筑後守持秀文書』(『円福寺文書』)
天文10(1541)3月21日 大檀那前筑後守持秀
海上蔵人尉宗秀
海上大炊頭信秀
中島系 下総国三崎庄海上堀内妙見社を再興(『下総旧事』)
天文11(1542)2月1日 大檀那前筑後守平持秀 中島系 三崎庄海上堀内妙見社を再興(『藤井家文書』)
天文11(1542)3月7日 持秀 中島系 『持秀寄進状』(『円福寺文書』)
天文16(1547)年10月16日 大檀那平胤富 辺田系 本佐倉の文珠堂華鬘銘(『千葉県史料』金石文篇II) 。胤富は千葉介昌胤の子で、母方の辺田海上氏の養子となっていた。このときの胤富は海上氏家督。
弘治3(1557)年8月7日 この日、千葉介親胤暗殺される。弟・海上胤富が続いて千葉介となる。
永禄3(1560)年以前5月17日 海上中務少輔
石毛大和守
中島系か 長尾景虎が上田庄塩沢に出陣したものの、越後国に不穏の動きがあり、引き返して行ったことを伝えている。(『原文書』)
永禄8(1565)年5月?1日 海上中務少輔
石毛大和守
中島系か 『原文書』
永禄8(1565)年?9月6日 海上中務少輔
石毛大和守
中島系か 森山城の新曲輪へ野平外記・木村大膳亮を移したことにつき、その功績をもって、今年から来年にいたる普請を赦免するとの胤富からの書状(『原文書』)
永禄8(1565)年 胤富 辺田系 『海上八幡文書』
永禄年中9月23日 海上蔵人
石毛大和守
中島系か
船の徴発を命じる。船については厳しい審査がなされた。
「海上蔵人」は海上宗家の中島城主・海上筑後守系の海上氏と思われ、千葉介胤富が母方の辺田海上山城守系を重用したことから、辺田海上氏が宗家を上回り、海上宗家は森山城主となったか?
永禄年中12月23日 海上蔵人丞
石毛大和守
中島系か 一、海上藤太郎・桜井太郎左衛門らの所領のことについて
一、常陸鹿島ののことについては、海上宮内大輔が断ったことが届けられ、常陸へ移り住んだものの三庄(三崎、東、海上庄?)の出入を禁じた。
弘治2(1556)年
 ~天正10(1582)年
千葉能化丸 辺田系 千葉介胤富から足利義氏に対して遣わされた、「千葉能化丸」を海上氏の名跡とした文書の返書。
天正7(1579)年正月9日 海上山城守 中島系か 千葉介邦胤より「海上某」に「山城守」の受領名が与えられた。
天正7(1579)年正月9日以降 海上山城守胤保 中島系か 大須賀右馬助へ宛てて、「孫次郎」が「屋形様(=千葉介邦胤)」の勘気を蒙っていることについて。(『大須賀文書』)
天正13(1585)年8月27日 海上孫四郎 辺田系 北条氏政、原若狭守親幹に「若輩」海上孫四郎の補佐を指示。この海上孫四郎は海上山城守とは別人か?
天正13(1585)年12月12日 海上山城守 中島系か 「番衆以下厳重ニ可有之事肝要候、内々此度打越、地形可順見由、雖覚悟候、当地之仕置、昨今追申付候、為来春候、近日諸軍勢可相返候、明春二三月之時分、重而此表可見廻候」(『下総旧事』)
天正13(1585)年12月28日 [原親幹] 辺田系 眼病がひどいと聞いているが、来正月十日には必ず森山城へうつり、海上山城守と相談すること。
天正17(1589)年8月24日 [原親幹] 辺田系 「城山之事、前々伐木儀、対海上山城守證文披見畢、於自今以後何時も、海上原若狭父子へ用所之時者、印判を可出候、向後無印判而一本も不可剪候、至于妄者、可處越度者也」(『原文書』)

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