円城寺氏

円城寺

千葉氏】【相馬氏】【武石氏】【大須賀氏】【国分氏】【東氏

日胤-園城寺律静房-】【円城寺氏

千葉氏HP千葉宗家目次小城千葉氏千田庄千葉氏下総原氏

 

千葉一族トップ > 円城寺氏 > 円城寺貞政


円城寺貞政(????-????)

 千葉介貞胤被官。通称は図書右衛門入道。下総国目代か。

 建武元(1334)年5月3日、朝廷は検非違使庁の牒を諸国の国衙に発した。これに基づき5月6日頃には千葉介貞胤による国宣も出されたとみられる。

●建武元(1334)年5月3日『検非違使庁牒案』(『香取文書』)

検非違使庁牒諸国衙
 当国住人等申、負物并本物返、質権田畠事
右、於国任格制令計成敗、有子細者、可被注進之者、以牒
  建武元年五月三日     右衛門尉中原(在判)

●建武元(1334)年9月2日『国司庁宣』(『草野文書』)

庁宣
 草野孫次郎入道円真申、質券筑後国竹野東郷公文職事
右、就今年五月三日検非違使庁牒同六日国宣以使節八町嶋四郎入道道西尋下之処、如道西八月十五日請文者、宇土唯覚房女子不応催促云々起請詞略之者、此上令以外国命之条、其咎難遁、然則於彼職者、可被返付于円真之状如件、以宣

 建武元年九月二日   目代源(花押)

 8月上旬、在京の「下総守殿」千葉介貞胤は詳細について指示を受け、8月13日に使庁の法にのっとり「年紀沽却地事」と「負物事」の処分を行うよう「円城寺図書右衛門入道殿」へ下知した(『香取田所文書』)

●建武元(1334)年?8月13日『千葉介貞胤書下案』(『香取田所文書』)

年紀沽却地事如使庁之法、遂結解、買主及半倍令所務者、沽主返領不可有子細候、負物事、同以半倍可致其弁候、向後守此法、可有成敗候也、謹言

  八月十三日          氏胤(在判)
   円城寺図書右衛門入道殿

 すなわち「年紀沽却地」については年紀途中であっても現況で結解(決済)し、この時点で買主が本来額の150%を超えて代金を支払っていた場合は、もとの売主(沽主)へ返付するとされた。同様に「負物(借財)」についても同様の沙汰とされた。円城寺図書右衛門入道は目代であったと推測され、国司である千葉介貞胤から命じられ、執行したと思われる。

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 円城寺駿河守


円城寺駿河守(????-????)

 千葉家被官人。通称は駿河守

 文和2(1353)年9月29日、千葉介氏胤円城寺駿河権守へ発給した伊勢神宮領相馬御厨の濫妨を鎮圧すべきという施行状があるが、翌年の文和3(1354)年6月15日、足利義詮から戦功を賞された「円城寺駿河守」と同一人物であろうと推測される。

 正長元(1428)年12月、「国行事憲房」から香取神宮造替の奉行であった「円城寺駿河守・草ケ部兵部少輔入道」に対して、造替の不手際な部分を列挙した文書を発給している。この円城寺駿河守は、文和2(1353)年9月29日、文和3(1354)年6月15日に見える円城寺駿河権守、円城寺駿河守の子孫と考えられる。

 さらに後世に至っては小田原の陣に参陣していたという「円城寺駿河権守常親」「円城寺駿河守胤俊」らがあり、「円城寺駿河守」という円城寺家内の家柄があったことが考えられる。

●文和3(1354)年6月15日『足利義詮感状』(『円城寺文書』:『千葉県の歴史 資料編 中世』所収)

於関東致忠節之由、被聞食了、殊以神如弥可抽戦功之状、如件

   文和三年六月十五日    (花押:足利義詮)
    円城寺駿河守殿

●正長元(1428)年12月日『造替闕所注文』(『香取文書』)

 「香取社御造替闕所事   憲房」 
                     両奉行 円城寺駿河守
                         草ケ部兵部少輔入道
   付御造替闕所之事、
 一 依面間狭、御輿無出入、上なけし切事、
 一 御輿足一寸五分短候、
 一 鳳凰足きられ候事、
 一 御輿上ふき糸にて候を、糸をば用意ありなりらねりぬきにてふき候事、
 一 白木の御輿、金物なき事
 一 神宝物、多分無沙汰之事
   此後の御造営のひきかけになされましく候、
 
    正長元年戊申十二月 日     国行事憲房

 

千葉一族トップ > 円城寺氏 > 円城寺政氏


円城寺政氏(????-????)

 千葉惣領氏被官。通称は式部丞。香取社造替に伴う国行事職。千葉介貞胤が「下総守」として国衙を治めており、それ以来、国衙職の国行事職を執行したか。

 貞治~応永7(1374)年にかけて、千葉惣領家被官(香取神領地頭代)と香取社大禰宜長房率いる香取神宮との間で、神領や神官死亡逃亡地の押領問題が激しくなり、香取社が神輿の鎌倉動座が行われ、鎌倉から遵行使が遣わされるまでの騒動となっていた。

 応安7(1374)年5月26日、遵行の両使(安富道轍入道、山名智兼入道)は、惣領被官に押領されている土地(場所不明)で「沙汰付下地於神官等」しようとするが、路次に「満胤代官円城寺式部丞深志中務丞等」が出張っており、「曳橋塞路」して両使の遵行を妨害した。そしてその上で「被向御旗、被成治罰御教書輩事、猶以就歎申、被経御沙汰者傍例」と主張して譲らず、結局「不及打渡」こととなってしまう(応安七年五月廿七日「安富道轍等連署奉書写」『香取大禰宜家文書』103)。また、神輿の御帰座についても両使が「雖加催促候、神領等未道行候間、難成御帰座之由、社人等申候」として、香取社人も神輿の御帰座を承諾せず、安富道轍入道と山名智兼入道の両使は八方塞の状態となってしまった。

 なお、円城寺式部丞政氏は千葉惣領家の有していた香取社造替に関する義務を行うべく、国衙職の「国大行事職」に任じられており(応安七年十月十四日「円城寺政氏避状」『香取大禰宜家文書』121)、造替に際して彼は千葉惣領家の国衙権限を以て香取社領に介入していたと思われる。

 

千葉一族トップ > 円城寺氏 > 円城寺政氏


円城寺氏政(????-????)

 千葉惣領氏被官。通称は図書允。千葉介貞胤の被官人とし見える「円城寺図書右衛門入道(貞政)」の子か。

 貞治5(1366)年、千葉惣領家被官の中村胤幹(香取神領地頭代)と香取社大禰宜長房率いる香取神宮との間で、神領や神官死亡逃亡地の押領問題が激しくなり、武力行使も行われた。この紛争を重く見た鎌倉は、「去々年貞治五年之秋、依関東仰、竹寿丸幼稚之間、可補佐国務之旨、老父浄心承之、世以無其隠者也」貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書 』とあるように、貞治5(1366)年秋に、千葉一門の「浄心」を幼少の竹寿丸の補佐人と定めた

 浄心が補佐人に定められた理由は、延文4(1359)年10月の円覚寺大般若経開版への出資人として「為生阿 浄心」(貫達人「円覚寺大蔵大般若経官刊等について(二)」『金沢文庫研究』七六)と見えるように、浄心と胤幹の父「生阿故中村入道の深い関係からの可能性が考えられる。浄心の領有した千田庄田部郷香取市西田部以東と中村氏の中村郷は栗山川で繋がっており、地縁的な関係があったのかもしれない。

 香取郡千田庄に所領を有する浄心は、旧知の故中村入道子息・胤幹の香取郡内における神領押領などの狼藉に対処すべく、香取郡近郊の有力庶子家である国分氏、東氏、大須賀氏らに一揆の結成を指示したのであろう。そして「浄心(総州)を筆頭に「一族一揆」が結成され、「総州以下一揆(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)が香取大禰宜長房とともに中村氏の神領押領の解決に乗り出したとみられる。

 ところが、浄心が補佐人に公認された直後氏政円城寺図書允以下名字之輩、非蔑如上裁而已、対于一族浄心、取弓箭動干戈、是又三ヶ年也」と、円城寺図書允氏政以下の惣領家被官が鎌倉評定の上裁(浄心の後見就任か)を無視するのみならず、「一族浄心」に対して「取弓箭、動干戈」貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書 』という実力行使に出たようである。貞治7(1368)年時点で「是又三ヶ年」とあるので、彼らが弓矢の事態となったのは貞治5(1366)年の事となる。

 この「取弓箭、動干戈」貞治七年三月十一日「平長胤寄進状」『香取大禰宜家文書 』がどのような結果に終わったのかは伝わらないものの、曖昧なまま収束したものと思われる。そしてその後、貞治7年までの間に宗家被官と香取社との対立に関して鎌倉から音沙汰はなかった。

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 円城寺胤朝


円城寺胤朝(????-????)

 千田千葉氏被官。通称は図書左衛門尉。母は平氏女(図書悲母)。千田千葉氏当主の千田大隅次郎義胤(千葉大隅守胤貞曾孫)の代官。

●胤朝発給文書(『中山法華経寺文書』)

 下総国八幡庄内谷中郷事、為中山本名寺之寺領、祖父胤継一円被譲申上、
 至永代不可有相違處也、但依為本知行分亡父胤氏譲之内被入之間、
 公方安堵之時伺被入之畢、雖然、任胤継之譲状、至子々孫々不可有違乱競望之義、
 若背此旨輩者、不可知行義胤跡之由、依仰如件、
 
                 円城寺図書左衛門尉源朝臣胤朝

 これらを見ると、円城寺胤朝は千田氏当主「義胤」の「仰によりて」書状を「中山大輔法印御房(日祐)」へ送っていることがわかる。

 円城寺氏は系譜上では原氏の一族と思われるため「平姓」であるはずだが、この書状をみると円城寺胤朝は「源姓」である。胤朝の母は「平氏女」であり、おそらく胤朝の父は源姓の人物で母方(おそらく円城寺氏)の養嗣子となったものだろう(氏の名である姓は原則として男系が引き継がれる)。

●妙印山妙光寺の永和2(1376)年文書に基づいた系図(『中山法華経寺文書』)

 平氏女:円城寺氏
(図書悲母)
 ∥
 ∥――――――――――円城寺胤朝
 ∥         (図書左衛門尉源朝臣)
 源某

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 円城寺満政


円城寺満政(????-????)

 千葉介満胤の被官。通称は兵衛三郎。彼も胤朝と同様に「源」姓の円城寺氏である。

 「円城寺ひやうへ三郎源満政」の「満」は千葉介満胤と通じるが、千葉介満胤の「満」は将軍足利義満からの偏諱であると思われることから、満政の「満」が満胤から与えられることは考えにくい。円城寺満政の初見である明徳元(1390)年10月15日当時はまた将軍義満が在職在世であることから、満胤から偏諱されることも考えにくいが、許可を得て「満」字を与えたものか。

●「紀伊金剛峯寺諸供料臈次番付書」(『高野山文書』)


       御影堂仏性寄進了 广永廿七 月日
三百七十九臈 政所下方丁町村字尻江水田一反定田八斗
       下総国千葉円城寺源氏女法名如幸寄進 本券六通在之

三百八十臈  名手庄江河村字力音垣内大片子 定田一石
       下総国千葉大中臣禅尼性孚寄進也 本券八通在之

 応永27(1420)年当時、「紀伊国伊都郡官省符内」の「下方丁町村字尻江」を高野山御影堂に寄進した「下総国千葉円城寺源氏女法名如幸」が見える(「紀伊金剛峯寺諸供領臈次番付書」『高野山文書又続宝簡集百三十七、百三十八』南北4527)。時代的にみると「円城寺ひやうへ三郎源満政」の女子となろう。

  

千葉一族トップ円城寺氏 > 円城寺邦貞


円城寺邦貞(????-????)

 千葉介邦胤の家老で、千葉新介重胤の代まで仕えた。通称は兵庫助。「邦」は千葉介邦胤の偏諱と思われる。

■某年8月13日『千葉介邦胤礼状』(『原文書』)

 尚々御用之儀候者、出仕可申候おほ鷹被下候之處、過分之由、
 若狭守一色持参悦入候、仍而中臺越後守、至于時奉公神妙ニ候、
 円城寺兵庫助
指南之儀者、内々之儀候、不限彼者、
 大途者其方可為奏者候間、別而加不便於懇切者、
 可為御喜悦候、謹言
 
     八月十三日         邦胤(花押)

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 円城寺道頓


円城寺道頓(????-????)

 千葉介自胤らに従って武蔵へ赴いたと思われる人物。

 享徳4(1455)年8月、原越後守胤房・馬加康胤入道千葉大介胤直入道・千葉介胤宣との戦いで、胤直入道方として戦った円城寺下野守尚任(妙城)はじめ、円城寺壱岐守(妙壱)、円城寺日向守(妙向)が討死を遂げ、さらに康正2(1456)年正月、千葉実胤・自胤(胤直の甥)、東左近将監常縁らが籠る市川城が陥落し、円城寺若狭守(妙若)が戦死した(『本土寺過去帳』)。実胤・自胤らはその後、武蔵国へ逃れているが、道頓はこれに従ったのだろう。

 彼は永正11(1514)年に成立した衲叟馴窓の私家集『雲玉和歌集』にいくつか歌が載せられており、彼は歌人としての教養もあったことが伺える。

  円城寺道頓と申せし人、月前述懐を詠る

 かゝる身のなくさめ草のかけやとてや月のかつらの世におほふらん
  円城寺道頓と申人、三十余年のち下総に白地かへりきてよまれしとなり

 故郷にかへる我身はおきなさひ人もとかめぬ世こそ安けれ

 道頓の歌はどこか厭世の気がうかがえるが、彼が康正2(1456)年に武蔵へわたり、「三十余年」が過ぎたころ、下総国へ帰国したことが見える。時代的には延徳から明応初年中(1489~1493ごろ)と思われ、この時の下総千葉氏の当主は千葉介勝胤で、衲叟馴窓を庇護していた人物とされている。

●天文5(1536)年12月24日『長福寺聖観音菩薩像胎内銘』(『北区史』所収)

    旦那
      夏見
       豊島  勘解由左衛門尉平朝臣胤定
    彦三郎弟源五郎戒名道頓、子息彦三郎胤重    
                        丙申
                        天文五年
                           十二月廿四日
 夏見山長福寺本尊 聖行海小聖知順
             筆者慶仲正善■
                    主
      仏師成就坊秀印  正順

 船橋市にある長福寺の観音像銘には「彦三郎」弟「源五郎戒名道頓」の子息「彦三郎胤重」の名が見え、この「源五郎道頓」とは円城寺道頓の可能性もあるか? 旦那として見える「勘解由左衛門尉平朝臣胤定」は「夏見」を領した「豊島氏」の意味か? 「勘解由左衛門尉」は武蔵豊島氏がよく用いており、文明5(1473)年6月、山内上杉家に反旗を翻した長尾景春(四郎右衛門尉)に荷担した「豊島勘解由左衛門尉泰経・平衛門尉泰明兄弟」が見える。ただ、「夏見」「豊島」が並記されているのは、名字ではなく両者とも地名をあらわす可能性もある。

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 佐賀藩円城寺


佐賀藩円城寺家

 小城円城寺の末裔と思われる。小城円城寺氏に伝わる系譜(『諸家系図』:鍋島文庫)では、前期原氏の末裔である牛尾五郎泰親の甥の子・円城寺左衛門尉胤清が千葉大隈守胤貞に随い、肥前小城郡に下向して、晴気に住したことが記載されている。

小城円城寺氏略系図(『諸家系図』、『肥前諸家系図』)

平常長――鴨根常房―+―千田常益――金原常義 +―常朝  +―朝秀 +―常泰――+―如圓――――――胤春
    (三郎)  |(千田庄司)(金原庄司)|(平次郎)|(二郎)|(太郎) |(妙見座主)  (孫次郎)
          |            |     |    |     |        【神代本より】
          +=原常宗―――常継―――+―常次――+―朝房―+     +―泰次
           (四郎)  (十郎太夫) (平三)  (五郎)|      (三郎右衛門尉)
                                  |
                                  +―親朝――+―親胤――――+―牛尾泰親
                                  |(弥五郎)|(弥平次)  |(五郎)
                                  |     |       |
                                  |     +―舜吽    +―原胤春―+
                                  |      (肥前)    (孫二郎)|
                                  |          【円城寺系図より】|
                                  +―乗月――――快弁          |
                                         (伊賀)         |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―胤重―――――勇圓―+―円城寺胤清――+―胤直―――――胤安――――+―信胤
 (平右衛門尉)(式部)|(左衛門尉)  |(大和守)  (大和守)  |(式部丞)
            |        |              |
            +―円城寺孫太郎 +―常春―――――胤政    +―胤次――――――――――――――+
                      (平左衛門尉)(左衛門太夫)|(平次)             |
                                    |                 |
                                    |           +―左馬丞 |
                                    |           |     |
                                    |           +―内蔵丞 |
                                    |           |     |
                                    +―西原胤光――胤員――+―又七郎 |
                                     (修理亮) (修理亮)      |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―源左衛門―+―良連―――+=氏英――――+=政純―――――伝八
|      |(八兵衛) |(勘左衛門) |(三郎左衛門)
|      |      |       | ∥
+―憲察   +―氏賢   +―宣英    +―娘
        (勘左衛門)|(住江戸上野)
              |
              +―武田正真――――文左衛門
              |(文左衛門)
              |
              +―宗三――――+―娘
                      |(石井九郎左衛門妻)
                      |
                      +―宗三

 胤清の子孫と思われる「円城寺壽左衛門尉」は千葉胤泰の命のもと、山田弾正忠とともに建武4(1337)年5月15日、河上社座主権律師増慶代増勝への「小城郡田地二町」について、下地の打渡を命じている(『河上神社文書』)

 また、その子孫とも思われる「円城寺甲斐守胤政」『岩蔵寺過去帳』に記載がある。その没年は不明だが、記述が文安5(1448)年と宝徳元(1449)年10月12日に挟まれていることから、この一年の間に没したと考えられる。系譜に見える「円城寺左衛門太夫胤政」が甲斐守と同一人物かもしれない。室町時代末期に龍造寺隆信に仕えた「円城寺山城守信胤」はこれら小城円城寺氏の子孫と思われる。

 信胤は武勇にあふれた武士で、龍造寺隆信の重臣として活躍したが、天正12(1584)年、島原での島津氏との戦いで討死を遂げた。信胤の討死について隆信の嫡男・龍造寺政家は、円城寺家の家督を継いだ次男・円城寺吉三郎へ感状を発給している。

 信胤の長男は杉本坊真慶という山伏になっており、次男・吉三郎の子孫が佐賀藩士となった。ただ、吉三郎の子・円城寺久右衛門手明槍として出仕しており、正式な藩士ではなかった。久右衛門の子・円城寺権兵衛も手明槍だったが、その子・円城寺権兵衛実清は宝永元(1704)年、正式に藩士として登用され、切米二十石が給され、のち二十五石となる。元文5(1740)年2月に六十八歳で亡くなった。実清の五代の孫・円城寺権兵衛信吉は五石加増された。その跡は円城寺権助信久が継いでいる。

 また、信胤の系とは別に、河上の徳善院住持の系からも円城寺氏へ養子が入っている。

                          鹿江兼明―――娘
                         (遠江守)   ∥
                                 ∥
                     大乗坊長勝       ∥
                      ∥――――娘     ∥
                鍋島清久――娘    ∥     ∥
                           ∥―――+―増誾
                           ∥   |(蓮乗院)
藤原康長――孝純―――増純―――明純―――賢遵―――政純   |
     (徳善院)(徳善院)(徳善院)(徳善院)(徳善院) +―幸遵
                               |(徳善院)
                               |
                               +―円城寺伊予守
                               |
                               +―増純
                                (河上住居)

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 会津円城寺氏


会津藩円城寺家

 小城円城寺の一族か。「おんじょうじ」と読む。本国は肥前。姓は。家紋は丸ニ石畳円城寺対馬守吉基が祖という。小城円城寺氏との関係は不明ながら、同じく肥前を本国としていることから何らかの関係があったと思われる。

 円城寺常忠の代に筑後柳川城主・田中兵部大輔吉政に仕え、常忠は関が原の戦いに敗れ、近江国伊香郡小橋村に潜伏中の石田三成を、田中伝左衛門の手に属して捕縛した。

 常忠の子・甚九郎吉武は元和6(1620)年に田中家が無嗣改易となると、肥前島原藩主・松倉勝家の叔父・松倉重次に仕え、寛永14(1637)年、島原の乱が勃発すると出陣。討死を遂げた。

 吉武の子・彦九郎義忠(のち豊貞)ははじめ高橋家の養子となって高橋市郎左衛門を称していたが、円城寺家に戻る。弓の上手であり、松平信綱に見出され、名君とうたわれる会津藩主・保科正之(徳川秀忠の庶子)に二百石で召し抱えられた。その後も正之の信頼をうけて弓術の書物の編さんを命じられ、自身も大いに研究を重ね、弓術新流派「円城寺派」を創った。この流派は後世「日置豊秀派」となる。豊貞は4代藩主・正容の代まで仕え、四百石を賜った。元禄14(1701)年4月14日、81歳で亡くなり、会津城下の天寧寺に葬られた。号は古暦。法名は元心院殿英岳道雄居士

 義忠の長男・仁右衛門忠房は日置豊秀派を継ぎ、享保7(1722)年11月、五十七歳で亡くなった。その跡は子の忠吉忠頼が継ぐが、彼らには子がおらず、叔父の彦九郎忠英が継ぎ、その子・彦九郎忠良が継いだ。忠良は祖父の彦九郎義忠以来の名人であったためか「円城寺後ノ彦九郎」と称されていたようである。明和6(1769)年11月、六十歳で亡くなった。法名は普明院泰岳得祐居士。菩提寺の天寧寺に葬られた。

●円城寺家略系図

円城寺常忠――吉武―――吉忠――+―忠房―――+―忠吉
      (甚九郎)(彦九郎)|(仁右衛門)|
                |      +―忠頼
                |
                +―忠英―――+―忠春        忠溝
                 (彦九郎) |(彦九郎)     (主税)
                       |           ∥――――忠寛――――忠安
                       +―忠良―――忠巨―――女   (仁右衛門)(彦次郎)
                        (彦九郎)(甚太夫)

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 小田原円城寺氏


小田原藩円城寺家

 下総円城寺氏の末裔。小田原藩中興の大久保加賀守忠朝の父・大久保教隆(大久保忠隣の三男)が佐倉にあったころに召し出されたか。

 円城寺助作は文政9(1826)年3月15日に召し出されている。その後、江戸詰めや芸術師範などを歴任し、天保6(1835)年10月28日、隠居が認められた。隠居の後は、円城寺空斎と称し、小幡流の軍学を修めて免許を取った。これを聞いた藩主・大久保加賀守忠真は喜び、金三百疋を下賜された。天保12(1842)年12月14日、小田原にて亡くなった。

 助作の養嗣子・数右衛門は文化2(1805)年6月10日に谷川六三郎の弟として小田原に生まれた。天保5(1834)年正月11日、養父・助作の願いによってはじめて登城し、見習奉公をはじめた。天保6(1835)年10月28日、父・助作が隠居したことから円城寺家を継ぎ、その後は浦賀の外国船の防衛出役などを歴任する。

千葉一族トップ円城寺氏 > 諸書の円城寺氏


●諸書に見える円城寺氏
【肥前(小城)円城寺氏は
紫色源姓円城寺氏は

名前 事歴
日胤 園城寺律静房。千葉常胤の末子で頼朝の祈祷僧。以仁王の乱で戦死した。円城寺氏の祖という。
円城寺胤清 左衛門尉。千葉胤貞の代官のような立場にあったか? 肥前(小城)円城寺氏の祖か?
円城寺寿左衛門尉 千葉胤泰の命のもと、山田弾正忠とともに建武4(1337)年5月15日、河上社座主権律師増慶代増勝への「小城郡田地二町」について、下地の打渡を命じている(『河上神社文書』)。
円城寺図書右衛門入道 図書允。千葉介貞胤の被官人(『香取田所文書』)。
円城寺氏政 図書允。千葉氏胤被官人。貞和5(1349)年3月22日の発給文書が残る。永和2(1376)年6月6日に中山法華経寺に対して発給された寺領安堵状の発給人「氏政」も円城寺氏政かも。
円城寺胤朝 図書左衛門尉。応安5(1372)年2月の発給文書が残る。「源」姓の円城寺氏。
円城寺満政 兵衛三郎。千葉満胤被官人。明徳元(1390)年10月15日の発給文書が残る。「源」姓の円城寺氏。
円城寺胤定 肥前守。千葉胤直被官人。嘉吉2(1442)年2月の上総国山辺郷観音教寺と11月の下総国印西庄龍腹寺の宝塔寄進の棟札に、大檀那として「平胤直」「平胤賢」に並んで家臣中筆頭として名を連ねる。
円城寺胤政 甲斐守。『岩蔵寺過去帳』によれば文安5(1448)年~宝徳元(1449)年に没したと考えられる。
円城寺尚任 下野守。千葉胤直被官人。康正元(1455)年、馬加康胤の乱で討たれた。
円城寺直時 尚任の嫡男。父と同じく討たれる。
円城寺吉基 対馬守。肥前円城寺氏の一族と思われる。子孫は田中吉政、松倉重政に仕えている。
円城寺常親 駿河権守。千葉氏の侍大将をつとめた。
円城寺信胤 山城守。九州肥前国の戦国大名・竜造寺隆信の重臣。妻は鹿江氏。
円城寺邦貞 兵庫助。千葉介邦胤の家老で、千葉新介重胤の代まで仕えた。「邦」は偏諱か。…『千葉介邦胤書状』
円城寺胤尹 左近。戦国末期の千葉氏の侍大将にいる。
円城寺胤俊 駿河(権)守。父は円城寺常親。秀吉の小田原征伐のときには小田原城に籠って湯本口を守っていた。
円城寺吉蔵 鍋島直茂の重臣・鍋島茂里の家臣。
円城寺弾正 仙台藩士。もともとは千葉氏に仕えていたが、小田原城が陥落すると伊達政宗に見出されて5貫文を与えられた。
円城寺常忠 筑後の田中吉政の家臣で、先祖は円城寺対馬守吉基。関ヶ原の戦いののち、石田三成をからめとった。
円城寺吉武 円城寺常忠の子。肥前島原藩主の松倉勝家の叔父・重次に仕えたが、島原の乱で戦死する。
円城寺豊貞 円城寺吉武の子。弓の名手で、松平信綱を通じて名君とうたわれる会津藩主・保科正之(徳川秀忠の庶子)に見出され、200石で召し抱えられた。その後も正之の信頼をうけて弓術の書物の編さんを命じられ、自身も大いに研究を重ね、弓術新流派「円城寺派」を創った。この流派は後世、「日置豊秀派」となった。豊貞は4代藩主・正容の代まで仕え、400石を賜った。元禄14年4月14日、81歳で亡くなり、会津城下の天寧寺に葬られた。
円城寺内蔵進 佐賀藩諫早鍋島家臣。万延2(1861)年『座居帳』掲載。平侍。早田三左衛門組与力。定米5石。
円城寺助作 文政年中の小田原藩士。奥御番役で四十五石。(『文政八年小田原御家中知行高覚』)

 しかし、全体的な円城寺氏の系譜や歴史、人物など詳しい事ははっきり分からないのが現状である。

●『本土寺過去帳』に基づいた系図(『本土寺過去帳』)

 円城寺道金
(円城寺能登殿親父)
   ∥
   ∥―――――――――円城寺能登
   ∥
 ①教阿弥 (妙教・円城寺能登殿母儀)
 ②中殿 (円城寺能登守 母儀)

●鍋島氏から養子に入った肥前円城寺氏

 鍋島清久―+―鍋島清泰――鍋島清虎―――鍋島宣範――円城寺千左衛門(円城寺二郎養子)
(道済入道)| 
      |      【佐嘉藩主】
      +―鍋島清房――鍋島直茂―――鍋島勝茂
             (加賀守)  (信濃守)


千葉氏】【相馬氏】【武石氏】【大須賀氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏の人々

Copyright©1997-2009 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。